NHK名古屋放送局制作「1942年のプレイボール」
2026年2月12日
NHKオンデマンドで、「1942年のプレイボール」を見る。戦前を代表する野球兄弟、野口4兄弟を描いたドラマ。フィクションの部分も多いとされる。野口4兄弟は、全員が中京商業(現在の中京大中京高校)の出身であるため、NHK名古屋放送局が制作している。脚本は、「半沢直樹」「豊臣兄弟!」の八津弘幸。演出は、桑野智宏(NHK名古屋放送局)。出演:太賀(現・仲野太賀)、勝地涼、忽那汐里、宮崎美子、でんでん、斎藤嘉樹、福山康平ほか。
4兄弟の中で最も活躍したのが、次男の野口二郎(太賀)である。沢村栄治、景浦將らと共に戦前を代表する野球選手であり、戦前は投手として、戦争で肩を痛めてからは野手として、傑出した成績を残している。
なお、「エースナンバーは何故18か?」という諸説ある疑問があるが、戦前にすでに野口明と野口二郎がエースとして背番号18を付けていることから、「ジャイアンツで、藤田元司と堀内恒夫という背番号18のエースが続いたから」説は根拠が薄いようである。ちなみに藤田元司も堀内恒夫も入団時は背番号21で、そこから18に変わっており、藤田がジャイアンツに入団した時には、「エースナンバーは18」だったことが分かる。藤田の前にもジャイアンツには背番号18のエースピッチャーはいたが、左腕の中尾硯志であり、「右の本格派」というイメージとは異なる。スタルヒンも短期間18を着けたが本当に短期間である。タイガースのエースである若林忠志が背番号18、また後に阪急ブレーブスに入団する米田哲也が、「背番号18を貰えるので阪急に入団した」と証言しているため、かなり早くから「エースナンバーは18」という認識はあったのだろう。ドラゴンズ、スワローズ、ファイターズなどには独自のエースナンバーがあるが、背番号18は、ファイターズ時代の岡大海などを除けばどこもエース級またはエースになることが期待されるピッチャーが背負っている。
おいちょかぶ説や、歌舞伎の十八番、阿弥陀如来の十八番の御誓願、足すと「9」になる数字が良い説などがあるが、単純に背番号18が格好いいからかも知れない。
野口家の長男である野口明(勝地涼)は、明治大学を中退して、東京セネタースで活躍。野口家は貧しいため、家計を支えている。当時は、甲子園(全国中等学校優勝野球大会)を沸かせて、東京六大学野球リーグで活躍というのが野球選手の王道だった。東京六大学野球、就中早慶戦が野球の華で、出来たばかりの職業野球(後のプロ野球、NPB)は、「野球で金を稼ぐなんて」と白い目で見る人も多かった。プロ野球は勃興期も賛同する企業が集まらず、読売新聞が中心となり、早稲田大学の三原脩、慶應義塾大学の水原茂というスター選手と契約して信用を得ようとしたが、本当にプロ野球が人気になるのは、長嶋茂雄の入団以降とされる。
明は、東京六大学野球で活躍していたので、職業野球入りは都落ちであった。
そんな兄を追い、次男の野口二郎も法政大学を中退して東京セネタースに入団。エースピッチャーとして活躍する。
しかし、明が出征することになる。まだ太平洋戦争は始まっていないが、中国との戦いが泥沼化していた。日本政府が公式な戦争と認めていなかったため、日華事変、日支事変、支那事変などと呼ばれていたが実際は戦争状態であった(戦後に公式な戦争と認められ、日中戦争となった)。明は職業野球のピッチャーであることが知れ渡っていたため、手榴弾投げのデモストレーションを毎日何度もやらされ、肩を痛めて、復員後は、満足にボールが投げられなくなっていた。明には許婚の喜美子(忽那汐里)がいたが、金を稼ぐ手段が野球しかないため、別れを告げざるを得なかった。
野球はアメリカで生まれたスポーツだけに統制も厳しくなる。横文字が禁止され、セネタースは翼軍を名乗るが、直後に名古屋金鯱(きんこ)軍と合併して大洋軍となる(横浜大洋ホエールズとは無関係)。
明は、ファースト(一塁手)、更にキャッチャー(捕手)として出場。三男で阪神軍に入った野口昇(斎藤嘉樹)と対戦もする。
そんな中、二郎は9回1死までノーヒットノーラン(無安打無得点試合)のピッチング(投球)、惜しくも達成は逃すが、翌日の試合にも先発。これが日本プロ野球史上に残る一戦となる。後楽園球場での対名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)戦。西沢道夫(背番号15はドラゴンズの永久欠番となった)と投げ合い、延長28回両投手完投引き分けとなる。ナイター設備のない時代なので日没による引き分けであった。二郎は344球を投げている。
キャッチャーとしても頭角を現した明は、喜美子にプロポーズすることになる。
野球の才能に恵まれた兄達と比較してコンプレックスを抱いていた野口渉(福山康平)も素振りを繰り返すなど野球熱が戻り、近畿日本(現在の福岡ソフトバンクホークス)に入団し、プロとしてのプレー期間は短かったが、4兄弟全てがプロ入りすることとなった。
三男の野口昇は、阪神軍で3年間プレーした後に出征。フィリピン沖で消息を絶ち、兄弟4人全員でプロのグラウンドに立つという夢は叶わなかった。
戦後、明と二郎は阪急に入団。二郎は招集により体力が低下し、最初のうちでは投手であったが、段階的に野手に転向。31試合連続安打という当時の日本記録を作り、「二刀流」として活躍した。引退後は、パ・リーグ各球団のコーチや監督を務めている。
明は後に、地元球団である中日に移籍。同球団を初の日本一に導き、引退後は同球団の監督も務めている。
太賀は、肩が回っていないので、おそらくほとんど野球経験はないと思われるが、演技面では兄弟間の支点的役割を上手く出している。
勝地涼はフォームが綺麗なので、太賀よりは野球のセンスがありそうである。
最近見かけない忽那汐里。オーストラリア生まれであるため英語はペラペラ。ということで英語圏での活動に重きを置いているようである。
手榴弾投げは、沢村栄治のエピソードでも知られている。手榴弾投げのデモストレーションに駆り出された沢村は、一時復員した際には、腕が肩より上に上がらなくなっていた。それでもサイドスロー(横手投げ)の技巧派投手として巨人軍に復帰。3度目となるノーヒットノーランも達成している。しかし更に招集の声が掛かり、東シナ海で乗っていた船が撃沈され、海底に眠ることとなった。
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