カテゴリー「2346月日」の32件の記事

2021年9月27日 (月)

2346月日(34) 生誕120周年「杉原千畝展 命のビザに刻まれた想い」@京都髙島屋

2021年9月21日 四条河原町の京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、生誕120周年「杉原千畝展 命のビザに刻まれた想い」を観る。

リトアニアの駐在大使時代に、ナチスドイツに追われたユダヤ人に多くの日本経由のビザを発給し、命を救ったことで知られる杉原千畝(ちうね。愛称は有職読みした「せんぽ」)。スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」が公開された際にも、「日本のシンドラー」として注目を浴びている。

杉原千畝は、1900年1月1日、岐阜県生まれ。父親が税務官で転勤が多かったため、福井県、石川県、三重県などに移り住む。小学校もいくつか変わっているが、名古屋古渡尋常小学校を卒業。成績優秀で表彰されており、その時の表彰状の実物が展示されている。中学校は愛知県立第五中学校(旧制。愛知県立瑞穂高等学校の前身)に進む。この学校からは江戸川乱歩こと平井太郎も出ており、後年、杉原千畝と江戸川乱歩がOB会で一緒に写った写真があって見ることが出来るが、学年としては乱歩こと平井の方が5つ上であり、旧制中学校は5年制であったので、丁度入れ替わりとなるようだ。

当時、日本領であった朝鮮の京城(ソウル)に単身赴任していた父親は、千畝が医師になることを望んでおり、京城医学専門学校を受けるよう勧めるが、千畝自身は得意だった外国語を生かせる仕事に就くことを望んでいたため、京城医学専門学校の入試を受けるには受けたが、白紙答案を出して帰り、父親を激怒させた。事実上の勘当となった千畝は、単身東京に移り、早稲田大学高等師範部(現在の教育学部の前身)英語科予科に入学。その後、本科に上がるが、勘当同然であったため仕送りもなく、アルバイトで学費を稼いでいたが、それも限界。「卒業まで資金が持たない」と思っていたところで、大学の図書館に張り出されていた「英語独語仏語以外の官費留学生募集」の広告を目にして受験。試験勉強は1ヶ月ほどしか出来なかったが、元来天才肌だった千畝は見事に合格。早大を中退し、ロシア語を学ぶためハルピンに渡ってハルビン学院で給料を貰いながら勉学に励む。
千畝はロシア語学習能力にも秀でており、ほどなく「ロシア人の話すロシア語と遜色ない」と呼ばれるまでになる。
その後、そのまま満州勤務となり、ロシア人の女性と結婚するが、この最初の結婚は10年持たず、また千畝が白系ロシア人(反ソビエト共産党のロシア人)と親しく付き合っていたため、ソビエトの人々からは「危険人物」と見られていたようである。

ということで、ロシア語を学んだ千畝だが、ロシア本国に派遣されることはなく、まずはロシアとの関係が深かった、というよりはロシアの支配が長かったフィンランドの日本公使館に赴任することになる。
その後、バルト三国の一番南にあるリトアニアの日本総領事代行として移る。リトアニアの首都はヴィリニュスであるが、当時はポーランドとの国境争いでポーランド領となっていたため、臨時首都がカウナスに置かれていて、千畝もここで勤務している。

1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。ポーランドに隣接したリトアニアは、一時はヴィリニュスを取り返すも、その後にリトアニアはソビエト連邦の一国として吸収される。

そんな中、危機感を抱いたユダヤ人達が、カウナスの日本領事館を訪ねてくる。亡命のために、シベリア鉄道に乗り、日本の敦賀港まで出て日本国内を通り、オランダ領キュラソー、上海、オーストラリアなどへ逃げることを目指していた人達だ。名簿が展示されているが、ポーランド人が最も多く、リトアニア人、ドイツ人、チェコスロヴァキア人(現在はチェコとスロヴァキアに分離)などが続く。カナダ国籍やアメリカ国籍、イギリス国籍の人もいた。

千畝は自身では判断せず、まず日本の外務省に電報を打っている。時の外務大臣は有名な松岡洋右だが、松岡の指示は、「亡命先の受け入れが確実な者には速やかにビザを発給すること」で、これではビザを発給出来る者はかなり限られてくる。何度か電信でのやり取りがあったことが分かるが(実物が展示されている)、千畝は一晩中考えた末、「人道、博愛精神第一」の立場から独断でビザを発給することを決意する。千畝は亡命者全員に、「お幸せに、お気を付けて」との言葉を掛けたそうである(何語で掛けたのかは不明)。その後、プラハに異動になった千畝はそこでもビザを発給。外務省からは、「ビザを発給しすぎではないか」「チェコスロヴァキアという国は(ドイツに併合されて)もうないのだから、チェコスロヴァキア人にはビザを発給しないように」との苦情も来たようである。リトアニアを支配したソ連側からも、「リトアニアはもう独立国ではないのだから退去するように」との命令を受けたが、ギリギリまで粘ってビザを発給し続けた。
その後、ヨーロッパを転々とし、ルーマニアのブカレストで収容所生活を送った後で日本に戻った千畝と家族であるが、結果的には外務省をクビになり、連合国側のPXの東京支配人、ロシア語講師、NHK国際局など職を転々とすることになる。彼が就職活動の際に書いた履歴書(今のような専用用紙ではなく、白い紙に横書きで書き付けたもの)も展示されている。

その間、実は千畝に命を助けられたユダヤ人達は恩人である千畝の消息を探していた。一説には、彼らが「すぎはら・ちうね」ではなく、愛称の「すぎはら・せんぽ」で記憶していたため、千畝を見つけるのが遅れたとも言われるが、外務省が千畝の存在を黙殺した可能性もあるようだ。
1968年にイスラエル大使館から電話を受けた千畝は、ビザを発給したユダヤ人の代表、ニシェリ氏と再会することになり、功績が讃えられることになる。だが日本において杉原千畝の名誉が回復されるのは彼の死後を待たねばならなかった。

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2021年6月16日 (水)

2346月日(33) 京都文化博物館 京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」&「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」

2021年6月11日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」と「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」を観る。

「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」は、修復された寺町・誓願寺の門前町を描いた屏風絵の展示が中心となる。豊臣秀吉によって築かれた寺町。その中でも本能寺などと並んでひときわ巨大な伽藍を誇っていたのが誓願寺である。

落語発祥の地としても名高い浄土宗西山深草派総本山誓願寺。明治時代初期に槇村正直が新京極通を通したために寺地が半分以下になってしまったが、往時は北面が三条通に面するなど、京都を代表する大寺院であった。
この「誓願寺門前図屏風」作成の中心となった人物である岩佐又兵衛は、実は織田信長に反旗を翻したことで知られる荒木村重の子である(母親は美女として知られた、だしといわれるがはっきりとはしていないようである)。荒木村重が突然、信長を裏切り、伊丹有岡城に籠城したのが、岩佐又兵衛2歳頃のこととされる。使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉するなど、徹底抗戦の姿勢を見せた荒木村重であるが、その後、妻子を残したまま有岡城を抜け出し、尼崎城(江戸時代以降の尼崎城とは別の場所にあった)に移るという、太田牛一の『信長公記』に「前代未聞のこと」と書かれた所業に出たため、有岡城は開城、村重の妻子は皆殺しとなったが、又兵衛は乳母によってなんとか有岡城を抜け出し、石山本願寺で育った。その後、暗君として知られる織田信雄に仕えるが、暗君故に信雄が改易となった後は京都で浪人として暮らし、絵師としての活動に入ったといわれる。

誓願寺門前図屏風は、1615年頃の完成といわれる。大坂夏の陣のあった年である。翌1616年頃に又兵衛は越前福井藩主・松平忠直に招かれて、福井に移っているため、京都時代最後の大作となる。又兵衛一人で描いたものではなく、弟子達との共作とされる。又兵衛は福井で20年を過ごした後、今度は二代将軍・徳川秀忠の招きによって江戸に移り、その地で生涯を終えた。又兵衛は福井から江戸に移る途中、京都に立ち寄ったといわれている。

岩佐又兵衛について研究している京都大学文学研究科准教授の筒井忠仁出演の13分ちょっとの映像が、「誓願寺門前図屏風」の横で流されており、「誓願寺門前図屏風」に描かれた京の風俗や修復の過程で判明したことなどが語られる。

経年劣化により、かなり見にくくなっていた「誓願寺門前図屏風」。修復の過程で、二カ所に引き手の跡が見つかり、一時期は屏風ではなく襖絵として用いられたことが確認されたという。

『醒睡笑』の著者で落語の祖とされる安楽庵策伝が出たことで、芸能の寺という側面を持つ誓願寺には今も境内に扇塚があるが、「誓願寺門前図屏風」にも誓願寺のそばに扇を顔の横にかざした女性が描かれている。

また、三条通と寺町通の交差する北東角、現在は交番のある付近には、扇子を売る女性が描かれているが、彼女達は夜は遊女として働いていたそうである。また、今は狂言で女性役を表すときに使う美男鬘を思わせるかづきを被った女性などが描かれている。

誓願寺は和泉式部が帰依した寺ということで、和泉式部の塚も以前は誓願寺にあったようだ(現在は少し南に位置する誠心院に所在)。誓願寺は女人往生の寺であるため、女性の姿も目立つ。
一方、三条寺町では馬が暴れて人が投げ出されていたり、喧嘩というよりも決闘が行われていたり、物乞いがいたりと、当時の京都の様々な世相が描かれている。

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その他には、茶屋氏、角倉氏と並ぶ京の豪商だった後藤氏関係の資料が展示されている。後藤氏の邸宅は現在、新風館が建つ場所にあった。かなり広大な面積を持つ屋敷だったようで、往時の後藤氏の勢力が窺える。
作庭家や茶人としても有名な小堀遠州(小堀遠江守政一)や、豊臣家家老でありながら大坂を追われることになった片桐且元、加賀金沢藩2代目の前田利光(後の前田利常)、熊本城主・加藤清正らが後藤家の当主に宛てた手紙が残されており、後藤家の人脈の広さも分かる。虎狩りで知られる加藤清正だが、清正から後藤氏に出された手紙には、虎の毛皮を送られたことへの感謝が綴られており、清正が虎狩りをしたのではなく虎皮を貰った側ということになるようだ。


元々、下京の中心は四条室町であったが、江戸時代には町衆の中心地は、それよりやや東の四条烏丸から四条河原町に至る辺りへと移っていく。
出雲阿国の一座が歌舞伎踊りを披露した四条河原は、京都を代表する歓楽地となり、紀広成と横山華渓がそれぞれに描いた「四条河原納涼図」が展示されている。紀広成は水墨画の影響を受けたおぼろな作風であり、一方の横山華渓は横山華山の弟子で華山の養子に入ったという経歴からも分かる通り描写的で、描かれた人々の声や賑わいの音が聞こえてきそうな生命力溢れる画風を示している。

後半には四条河原町付近の住所である真町(しんちょう)の文書も展示されている。面白いのは、四条小橋西詰の桝屋(枡屋)喜右衛門の名が登場することである。万延元年(1860)の文書で、灰屋という家の息子である源郎が、桝屋喜右衛門の家に移るという内容の文書と、転居したため宗門人別改にも変更があり、河原町塩谷町にあった了徳寺という寺院の宗門人別改帳への転籍が済んだことが記載されている。

実はこの翌年、または2年後に、桝屋の主であった湯浅喜右衛門に子がなかったため、近江国出身で山科毘沙門堂に仕えていた古高俊太郎が湯浅家に養子として入り、桝屋喜右衛門の名を継いでいる。古高俊太郎は毘沙門堂に仕えていた頃に梅田雲浜に師事しており、古高俊太郎が継いで以降の桝屋は尊皇討幕派の隠れアジトとなって、後の池田屋事件の発端へと繋がっていくことになる。ということで、灰屋源郎なる人物も古高俊太郎と会っていた可能性があるのだが、詳細はこれだけでは分からない。

 

3階では、「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催されている。
シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎が独立美術協会を立ち上げたのが1930年。その後、四条河原町の雑居ビルの2階に独立美術京都研究所のアトリエが設置され、京都でも新しい美術の可能性が模索されるようになる。だが戦時色が濃くなるにつれてシュルレアリスムなどの前衛芸術などは弾圧されていく。そんな中で現在の京都府京丹後市出身である小牧源太郎は、仏画を題材とした絵画を制作することで土俗性や精神性を追求していったようである。

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2021年5月17日 (月)

2346月日(32) 凝然国師没後七百年「特別展 鑑真和上と戒律のあゆみ」(後期展示)

2021年5月12日 東山七条の京都国立博物館にて

本来なら今日(5月12日)が緊急事態宣言の開ける日だったのだが、今月31日まで延長となっている。一方で、京都国立博物館は今日から営業再開となる。特別展「鑑真和上と戒律のあゆみ」は開催期間の延長はなされず、予定通り16日までであり、今日以外は他の用事が入っているため、行けるのは今日だけ、ということで行く。前期の展示は観たが、後期のみの展示物も比較的多い。国宝の鑑真和上坐像と、籔内佐斗司の新作・凝然国師像にももっとじっくり向かい合いたいという思いもある。前回も両像は頭に焼き付けた、つもりが後で確認すると鑑真和上像の衣の色を覚え間違えるというイージーミスがあり、やはり期間中に鑑真和上坐像と再会して頭に入れる必要がある。

最初の展示からしてまず違う。4月20日から展示が始まった「三国祖師影」である。大谷大学博物館の所蔵品で、日本からは行基、そして聖徳太子の絵が描かれている。聖徳太子に関しては、「観音ノ後身」と記されているのがわかる。インドからは鳩摩羅什(くまらじゅう)、唐からは玄奘三蔵などが選ばれている。

『懐風藻』の選者とされる淡海三船が編纂した『唐大和上東夷伝』の見開き1頁目も後期のみの展示である。

聖武天皇の像は前期に展示されていた単独のものではなく、行基、インド出身で大仏開眼供養の導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)、東大寺の開山で歌舞伎などでもお馴染みの良弁(ろうべん)を加えた「四聖御影」となっている。

上座部仏教の最大勢力であった説一切有部の史料も展示されている。隆盛を極めた説一切有部であるが、今では説一切有部自体もその後継宗派も一切残っていないということに無常を感じる。

余りじっくり見る時間はないが、前期のように部分的でもパッと見て意味が分かる文章は少ない。
凝然筆の文書も新しいものがいくつ展示されている。内容は分からないが、文字の丸さが特徴となっている。純粋な個性なのか、梵字を真似た書体を好んだといったような理由があるのかは不明だが、かなり不思議な字を書く人であるということは分かる。

戒律から離れた宗派の祖として法然上人と親鸞聖人の絵も展示されている。「親鸞聖人像」は前期と一緒だが、知恩院版「法然上人絵伝」は前期が巻五、後期が巻十の展示である。
くずし字が読めないのだが、冒頭に「後鳥羽院」とあるようなので、承元の法難絡みだろうか。絵からはどういう状況なのかは分からない。門から僧兵の格好をした人物が嘲るような態度で逃げていくのが確認出来るため、念仏停止の場面なのかも知れない。
図録には説明が載っているはずだが、そこまで仏教に詳しくなる必要はないと個人的には思っている。

絵による「鑑真和上像」。前期は東大寺のものだったが、後期は大阪の久米田寺に伝わるものが展示されている。共に鑑真和上坐像を基に書いたものだけに、顔はよく似たものだが、布などの描き方に個性が表れている。

その鑑真和上坐像。弘法大師坐像、興正菩薩(叡尊)坐像と共に、前期と展示が変わっていない。鑑真和上坐像などはよく見ると、睫毛なども描かれていることが確認出来る。大和の西大寺を復興した叡尊は、眉毛がかなり特徴的である。眉のみならず表情も村山富市に似ているが、村山富市は社会党の存在意義をなくし、現在に至るまでの政界の混乱を招いた罪な人なので、生まれ変わりだとかそういったことはないだろう。

前期もあった展示ながら、記憶に残っていなかった朝鮮半島伝来の「梵網経」を見る。「梵網経」は鑑真が受戒の際に用いた大乗経典である。
展示されている「梵網経」は、朝鮮の裴氏から伝わったとあるが、朝鮮系の裴という苗字は今では日本でも有名なものとなっている。「裴」は「ペ」と読む。ペ・ヨンジュンやペ・ドゥナのペである。

新作である籔内佐斗司の凝然国師像は、余り話題になっていないが、やはり大変な傑作であると思われる。出来たばかりの傑作に接する機会は、そうそうあるものではない。

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2021年4月30日 (金)

2346月日(31) 「-人生旅的途上(じんせいたびのとじょう)- 没後20年 河島英五展」@京都文化博物館別館

2021年4月21日 三条高倉の京都文化博物館別館にて

京都文化博物館別館で、「-人生旅的途上(じんせいたびのとじょう)- 没後20年 河島英五展」を観る。

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「酒と泪と男と女」、「時代おくれ」、「野風増」などのヒット曲を生み、多くの人から愛されながら、2001年に48歳の若さで旅立った河島英五の回顧展。愛用の楽器、創作ノート、円空画などの絵画を中心とした展示で、写真撮影可である。

創作ノートには歌詞の他にコードが記されており、また旅先から夫人などに贈った絵葉書の裏にはびっしりと文字が書き付けられており、筆まめな性格がうかがえる。

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生前、交流のあった人からのメッセージボードもあり、関西出身者を中心とした多くの著名人の肉筆を見ることが出来る。

河島英五は、1952年4月23日、大阪府東大阪市生まれ。大阪府立花園高校在学中にバスケットボール仲間4人で、フォークグループ「ホモサピエンス」を結成。その2年後、まだ高校在学中に、大阪毎日ホールで初ステージを踏み、更に中之島のフェスティバルホールで行われた岡林信康の公演の前座として出演する機会を得る。音楽の聖地、フェスでの第一歩だったが、客席から「帰れ!」コールを浴びたため、演奏を中止して引っ込まざるを得なかったようだ。この頃に初期の代表曲となる「酒と泪と男と女」を作詞・作曲。フェスでの出来事と、この曲の内容はリンクしそうだが、実際の相関関係については不明のようである。ただ河島はこの時まだ十代で、しかも実際は体質的に酒がほとんど飲めなかった。ということで「酒と泪と男と女」で描かれた内容は実体験に基づいたわけではないフィクションである。

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その後、拠点を京都に移して歌手活動を開始。京都レコードからデビューした。

22歳の時の「何かいいことないかな」でワーナーパイオニアからメジャーデビュー。翌年にリリースした「酒と泪と男を女」がヒットし、以後、日本音楽界の重要な一角を占める存在として走り続けた。

活動の合間に世界各地を放浪。俳優活動も行うようになり、1987年にはNHKドラマ「まんが道」に寺田ヒロオ役という重要な役で出演。晩年にはNHKの朝の連続テレビ小説「ぴあの」や「ふたりっ子」などにも出演した。晩年には大阪の法善寺横町でライブハウスやイタリアンレストランなどの経営も手掛けている。

2001年に体調を崩し、4月16日にC型肺炎のために死去した。

江戸時代の修業僧、円空が彫った仏像を描くことを好み、北海道から東北地方を回ってもいる。

一番奥の展示(京都文化博物館本館への通用口のそば)ではステージが組まれ、河島英五が1994年に淡路島の南淡町(現・南あわじ市)で行ったライブの映像が流れている。
デビュー曲である「何かいいことないかな」を聴衆との掛け合いで続けた後で、「酒と泪と男と女」、「伝達」が歌われた。

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2021年4月20日 (火)

2346月日(30) 凝然国師没後七百年「特別展 鑑真和上と戒律のあゆみ」

2021年4月14日 京都国立博物館にて

東山七条の京都国立博物館へ。凝然国師没後七百年「特別展 鑑真和上と戒律のあゆみ」を観る。

日本に戒壇院を築くべく、何度も渡航を試みては失敗した鑑真和上。天平勝宝5年(754)に6度目の渡海でようやく日本にたどり着き、東大寺に戒壇院を築いて授戒を行い、その後に唐招提寺を築いて、日本における律宗の拠点としている。

今回の特別展の最大の目玉は、唐招提寺の鑑真和上坐像である。国宝に指定されており、教科書などにも必ず載っている。

その前に、戒律が日本に伝わるまでの歴史が文書などで示されている。元の時代にインドや東南アジアを訪れた中国僧の記録である「法顕伝」の展示などもあるが、「皆悉小乗學」という記述があり、東アジアで主流となった大乗仏教が廃れてしまっていることが分かる。

聖武天皇妃で光明皇后の名で知られる藤原光明子が編纂させた文書も数点あり、光明子に関しては、藤原朝臣正一位太政大臣(不比等)の娘で母親は橘氏の出身(県犬養橘三千代のこと)という記述がある。
中には冒頭付近に、「比丘患男根膿」 という記述のある文書もあり、反応に困る。

鑑真和上にまつわる展示としては、坐像以外に「唐大和上東征伝」と「東征伝絵巻」などがあり、日本経済新聞社制作の約5分の映像展示もある。

鑑真和上坐像は、現在は、弘法大師坐像と興正菩薩(叡尊)坐像と同じスペースに展示されているが、弘法大師坐像と興正菩薩坐像は共に元寇の二回目である弘安の役があった弘安年間に作られている。

日本における仏教の戒律の転換点として、伝教大師・最澄の像と弘法大師・空海の遺品、寺門派・園城寺の円珍が残した文書などが展示されるが、平安時代末期から鎌倉時代に掛けては、戒律を離れた浄土宗や浄土真宗の興隆があり、法然上人絵伝や親鸞聖人像(江戸時代、宝暦9年に描かれたもの)なども展示されている。

最後にあたる第五章では、「近世における律の復興」というタイトルでの展示が行われており、明忍、元政(日政)、湛海などの像が並んでいる。

凝然没後七百年ということで行われた展示会であるが、凝然(ぎょうねん。1240-1321)は、東大寺戒壇院で講じた華厳宗の僧であり、南都六宗に天台宗と真言宗を加えた「八宗綱要」を著している。
この凝然の没後七百年を記念した凝然国師坐像を「せんとくん」の作者としても知られる籔内佐斗司(この4月から奈良県立美術館館長に就任)が手掛けており、迫真性に溢れる優れた出来となっている。今回が初公開となるが、今にも動き出しそうであり、語り出しそうである。歴史的展示も素晴らしいが、凝然国師坐像も事故に遭わなければ今後数百年に渡って伝わっていくはずで、歴史の始まりに接したような感慨に浸った。それにしても、こんなところで籔内佐斗司の作品に出会うとは思わなかった。もっと宣伝しても良いのではないだろうか。

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2021年2月14日 (日)

2346月日(28) 神奈川近代文学館「井上靖展」ほか、横浜市イギリス館、ゲーテ座 2007.7.21

2007年7月21日

港の見える丘公園のある、通称フランス山に登り、神奈川近代文学館へ向かう。
神奈川近代文学館では、今年が生誕100年に当たり、大河ドラマ「風林火山」の原作者でもある井上靖展が開かれていた。常設展も充実していて、夏目漱石、芥川龍之介、吉川英治、大佛次郎(おさらぎ・じろう)、中島敦、島崎藤村、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、北村透谷、谷崎潤一郎、三島由紀夫、岡本かの子、泉鏡花といった神奈川県に縁の深い作家の直筆原稿が展示されており、面白いことこの上ない。直筆原稿の字を読みながら、原稿用紙に字を書いていく文豪の姿を思い浮かべると頬がゆるむ。
作家によって使う筆記用具が違い、字の読みやすさも違う。明治時代前期に執筆活動を始めた人は毛筆書きが多く、時代が下がると万年筆で書く人が多くなる。中には鉛筆書きの作家もいる。字も非常に読みやすい人から何が書いてあるのかほとんどわからないほど悪筆の人まで様々である。推敲の頻度も当然ながら異なり、ほとんど推敲の跡が見られない人もいれば、数行ごとに文章を黒く塗りつぶして、横に新しい文を小さく書き記す人もいる。

井上靖展も井上の直筆原稿と、金沢四高(現・金沢大学教養課程)時代から始まる詩作のノート、京都帝国大学在学中(といってもすでに28歳であった)に“就職難を吹き飛ばして”大学生でありながらキネマ社の脚本部に入るという“快挙”を成し遂げた井上靖青年を取り上げた新聞記事(井上の顔写真入り)なども展示されている。


港の見える丘公園内にある横浜市イギリス館を見学。かつてのイギリス総領事館公邸である。1937年完成の木造建築。2004年から内部が一般公開されている。入館無料。1階のホールはサークル活動などの稽古場として、2階の集会所はミーティングルームとしても使用されており、私が訪れた時は両方とも使用中で、その2つの部屋だけは見ることが出来なかった。

ついで、岩崎ミュージアムを訪れる。地下は山手ゲーテ座というホール、2階が服飾関係のミュージアム、1階がミュージアムショップと喫茶店となっている。
山手ゲーテ座は、明治時代に建てられた「ゲーテ座」という西洋劇場の跡地であることを記念して作られたホール。ゲーテは、文豪のゲーテではなく、英語のGaiety(陽気な)に由来するとのことである。
かつてのゲーテ座では、居留西洋人のための居留西洋人による演劇上演や音楽会が催されており、西洋文化に直接触れることの出来る日本でほとんど唯一の場所であった。西洋文化を学ぶために、坪内逍遙、北村透谷、瀧廉太郎、芥川龍之介などが足繁く通っていたという。

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2021年2月 2日 (火)

2346月日(27) 立原道造記念館(2011年閉館)にて 2007年5月18日

2007年5月18日

東京大学工学部の弥生門の前にある立原道造記念館を訪れる。東京帝国大学工学部建築学科出身で、天才詩人と呼ばれながら、わずか24歳で他界した立原道造(1914-1939)のために1997年に建てられた小さな記念館だ。弥生時代の由来となった東京大学弥生キャンパスもすぐそばである。

立原道造の直筆原稿などを見ることが出来る。

立原道造の詩を私が好んで読んだのは、ちょうど24歳の頃。立原が亡くなったのと同じ年齢の頃だ。

立原は西洋趣味が強く、同じく西洋志向の持ち主であった堀辰雄と仲が良かった。堀辰雄の小説『菜穂子』に出てくる建築学科出身の青年・都築のモデルが立原道造だと言われている。

立原の本当に若い頃(20歳前後)の文字は丸みがあって可愛らしいが、最晩年(それでも20代前半だ)、死期が近いこと悟った頃に書いた文字からは凜とした寂しさのようなものが漂ってくる。

記念館には、立原の婚約者であった水戸部アサイさんの若い頃の写真も展示されている。アサイさんは今見てもかなりの美人である。
せっかくこれまで人生順調に来て、綺麗な人をお嫁さんに貰おうかという時にこの世を旅立たねばならないとは、立原もさぞや無念だったろう。

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2020年9月29日 (火)

2346月日(25) 「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」 2020年9月20日 厳選プログラムB・井伊直岳「彦根城の近代」

2020年9月20日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時40分からの講演(厳選プログラムB)「彦根城の近代」。担当者である井伊直岳は彦根井伊家(井伊掃部頭家)の18代目であるが、血の繋がりはない。三重県生まれ、京都大学大学院博士後期課程単位取得退学。彦根井伊家17代目・井伊直豪の長女である井伊裕子と結婚して井伊家に入り、18代目当主となる。元々の名前は岳夫であったが、井伊家を継いだということで、通字である「直」を付けて直岳と改めている(戸籍上は変わっていないようである)。

彦根城が取り上げられるということで、人気のゆるキャラ、ひこにゃんも登場した。

国宝に指定されている彦根城。私も何度も訪れているが、天守を始めとする建物の保存状態も良く、人気の高い城郭である。

関ヶ原の戦いの後、石田三成の居城であった佐和山城の城主となった井伊直政であるが、三成は善政を敷いていたため慕う人も多く、このままでは領民を味方に出来ないということで新たなる拠点を築く必要があった。直政は、佐和山城よりも北にある磯山への築城を目指すが、関ヶ原で受けた手傷の悪化により死去。磯山に城を築くとなるとかなり巨大な城郭となるため、政庁の性格が強い近代城郭を築くに相応しい金亀山(こんきやま。別名・彦根山)に場所を改めて建てられたのが彦根城である。佐和山城や長浜城、大津城に使われていた木材が再利用され、優雅な桃山風の天守は大津城からの移築とされる。

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内堀、中堀、外堀の三重の堀を持ち、湖上交通の要衝でもあった彦根は近江国の中心地として栄えることになる。

江戸時代には当然ながら井伊家の本拠地として中堀より内側は厳しい入場規制が行われていた彦根城だが、維新後の廃藩置県によって多くの大名が華族として東京に移ると、城郭は兵部省の管轄となり、更に陸軍省に所管を変える。

明治6年(1873)1月には全国の城郭は「存城」か「廃城」かに分けられ、ほとんどの城は廃城となったが、彦根城は城内が兵舎として利用されており、存城となった。同年5月には管理者が陸軍省から滋賀県に移る。

多くの城の天守がこの時に取り壊しとなっており、彦根城の天守も解体される予定だったが、一説によると井伊直憲の娘を妻としていた佐賀鍋島氏の家臣の出である大隈重信による明治天皇への奏上もあり、明治天皇の特旨により彦根城の保存が決まる。明確に「保存」であり、管理が行われることになった。

彦根城はその後、表御殿に彦根県の県庁が入り、その後、県が拡大して長浜県となるとその県庁ともなった。内堀の内側に官庁が置かれたのはこの時までで、県が更に拡大して犬上県となると県庁は中堀に面した西郷・庵原屋敷跡に置かれた。その直後に滋賀県が発足し、県庁は彦根市ではなく大津市に置かれることになる。

彦根の藩校・弘道館の跡には明治9年(1876)に金亀教校という浄土真宗本願寺派の学校が建つ。この学校は、金亀仏教中学、第三仏教中学と名前を変え、明治42年(1900)に京都市下京区に移転。高校野球でお馴染みの平安高校(現・龍谷大平安高校)の前身となった。
第三仏教中学の跡地には彦根町立尋常小学校付設工業学校などを経て、現在、彦根市立西中学校が建っている。

彦根城の内堀と中堀の間にはその他にも多くの学校が建ち、文教地区となった。滋賀県立尋常中学校は、その後、滋賀県内屈指の進学校となる滋賀県立彦根東高校となり、彦根高等商業学校は滋賀大学経済学部(滋賀大学の本部は、教育学部のある大津キャンパスではなくここにある)へと発展する。近江実修工業学校は、野球が強いことで有名な近江高校となった。

その他にも招魂社が築かれ、明治43年(1910)には、皇太子(春宮)嘉仁親王(後の大正天皇)が彦根に行啓した時には、宿舎として迎春館が作られた(昭和22年解体)。
大正4年には初の本格的文化施設である彦根公会堂が完成する。

彦根城内では、明治9年(1876)に地方都市としては初となる博覧会が開催されるなどしたが、明治27年に、彦根城は井伊氏の所有に戻る。大正3年(1914)に彦根町長から彦根城の貸与願いが井伊家に出され、翌大正4年から彦根城内は一般に開放され、彦根観光の目玉となった。その後、内堀沿いに桜の木が植えられ、名所としての強化がなされる。

戦時下において彦根城は井伊直弼と共に彦根市民の愛国・愛郷精神の象徴とされ、市民精神の高揚のために彦根市長が井伊家に貸与ではなく寄付願いを出し、昭和19年(1944)2月13日付けで彦根城は彦根市に無償で寄付され、今と同じ形態での管理が始まることになる。

なお、彦根城は世界遺産への登録を目指しており、何度も見送りが続いているが(「日本の城郭文化としてすでに姫路城が登録されているため」とされる)、最近もまた彦根城はユネスコへの推薦状作成に取りかかっているそうで、最後はまたひこにゃんが登場して、アピールのための撮影会も行われた。残念ながらスマホの起動に時間が掛かったために私は写真は撮れなかったのだが、色々なところに今日のひこにゃんの写真が載るはずである。

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2346月日(24) 「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」2020年9月20日 厳選プログラムA・中井均「守護・戦国大名の居城」

2020年9月20日 びわ湖ホール中ホールにて

びわ湖ホールで今日と明日行われる「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」に参加する。
毎年、横浜で行われているお城好きのためのイベント、「お城EXPO」。今年初めて出張として大津でも行われることになった。本当は8月に行われるはずだったのだが、新型コロナの影響で1月遅れの開催となった。

今日は中ホールで講演が3つ行われる。そのうちの第1回目(厳選プログラムA)の中井均滋賀県立大学教授と、2回目(厳選プログラムB)の彦根井伊家の現在のご当主で、彦根博物館館長の井伊直岳の講演を聴く。

新型コロナによる公演の中止や延期もあり、びわ湖ホールに来るのは実に1年2ヶ月ぶりとなった。
京阪びわ湖浜大津駅から、びわ湖ホールまで、久しぶりにゆっくりと湖畔を歩く。

今回の「出張!お城EXPO」の公演は、オンラインでも有料で配信されるのだが、配信された映像の転載は禁止であり、また詳しく内容を乗せることも禁じられている。何回も再生することで一字一句間違いなく書き起こすことも可能になるのだが、その場合、より高い値段で講演を聴いた人が損をする可能性があるためだと思われる。

私自身は有料でびわ湖ホール中ホール内に入って聴講したのだが、詳しい内容を紹介するのもどうかを思うので、ほどほどに留める。

 

まず、三日月大造滋賀県知事による挨拶がある。「三日月という変わった名前でありますが、本名であります。一生、満月にはなれません」と冗談を言うが、客席は無反応。大阪の人が余り来ていないのか、そもそも城郭好きに真面目な人が多いのかのどちらかであると思われる。「滋賀県には1300もの城館跡がある。琵琶湖があるから城館が多いのか、城館が多いから琵琶湖が……、それはありませんね」と再び冗談を言うも、客席から反応はなく、三日月知事も「冗談を言ったら笑って欲しい」と述べていた。関西といっても大阪府以外の人はお笑いに特別興味があるというわけではないのだが、考えてみれば笑いによるコミュニケーションというのはかなり高度なものであると思われる。笑いによって話が順調に進むこともあるため、ある程度の笑う姿勢というものは大事になってくる。

 

中井均による講演「守護・戦国大名の居城」。
彦根市にある滋賀県立大学人間文化学部の教授である中井均。大阪府枚方市に生まれ、龍谷大学文学部史学科を卒業。米原市や滋賀県の教育委員会、長浜城歴史博物館館長などを経て、滋賀県立大学の准教授に就任し、教授に昇格している。専攻は中近世の城館遺跡。

現在では「お城」というと、石垣が聳え、櫓や天守が威容を誇る巨大城郭を連想することが多いが、室町時代中期までは平地にそれほど広くない堀を掘り、塀で囲んだだけの「館(たち、たて)」と呼ばれるものが、武士の居館であった。土木技術の問題もあったと思われるが、それで十分であったということでもあろう。しかし戦国時代に入ると、館では戦に耐えられなくなり、山に築く山城が現れるようになる。初期の山城は多くの場合、山上の郭は詰めの城として平時は使わず、麓の居館で過ごして、いざ戦となると山に登って籠城というのが基本パターンであった。だが、実はそうでない城もあったということである。

取り上げるのは近江八幡市にある観音寺城である。近江国守護、六角氏の居城であり、織田信長がすぐそばに安土城を築いた際、石垣の多くを移したことでも知られている。観音寺城の石垣は今も残っており、近くを通るJRの車窓からも見ることが出来る。

近江国は佐々木源氏が代々守護を務めている。佐々木氏の発祥の地は安土(平成の合併により近江八幡市安土となった)であり、安土には沙沙貴神社という佐々木氏の氏神を祀る神社が今もある。その佐々木氏が時代を経て4つに分かれる。湖西の大原氏と高島氏という2つの家はそれほど有名ではないが、琵琶湖の東側の南半分を支配した六角氏と北半分の領主となった京極氏は共に名が知られている。六角氏は京都の六角通東洞院に、京極氏は同じく京極通(今の寺町通)高辻に館を構えていたことからその名がある。

六角氏の居城である観音寺城は、実は最初に築いた時は居城としてではなかった。築かれたのは南北朝時代であり、楠木正成の千早城や赤坂城のように、当時の山城というのは籠城するための臨時のものであった。

その後、六角氏は観音寺城を居城とするのだが、観音寺城は城の名に「寺」が入っていることからも分かる通り、観音寺という寺院があったところに築かれている。石垣を使った初の本格的な城であったが、これも寺院と関連がある。実はこの時代にはまだ武士は石垣を築く技術を持っておらず、せいぜい簡素な石積みがなせる程度。一方、寺院は石垣の技術を保有していた。観音寺城は寺院勢力に石垣の技術を教わることで完成した城だったのだ。戦国時代の城郭の石垣というと、石をそのまま積み上げた「野面積み」が一般的だが、観音寺城は石を砕いて積み上げており、寺院の石垣の技術は武士よりも大分先行していたと思われる。

観音寺城は、本丸は山頂にはない。山頂は観音寺のための聖地であり、城郭は意図的に山頂より下に築かれている。昔から「城郭は交通や防衛の要地に築かれる」といわれてきたが、実際はそうした場所にはすでに寺院や仏教の聖地がある場合が多く、寺院で暮らす人々は山内に建造物を築いて山で生活することに長けていたため、武士達はそれを参考に出来たのであろう。近江の城の中で最も有名なのは彦根城であるが、彦根城が建つ金亀山(彦根山)も以前は仏教や神道の聖地であった。

観音寺城に見られる面白い点は、山麓に館(御屋形)はあるが、近江国守護のものとしては小さいということである。一辺の長さは70m程度しかない。一般的な守護の屋形は最低でも一辺100mは超えるため、かなり小さいということになるが、観音寺城は発掘調査によって山内の郭に巨大な建造物のあった可能性が高いことが明らかになったそうで、山城を詰めの城としてではなく居住空間としており、客人などを迎える時に山麓の館を使用していた可能性が高いことがわかったそうである。

 

一方、近江の北で権勢を誇った京極氏。六角氏の同族にして六角氏を凌ぐだけの力を持っていたが、近江国守護は佐々木源氏嫡流の六角氏であり、京極氏は近江ではなく、飛騨、出雲、隠岐の守護を務めている。山名、一色、赤松氏らと共に室町幕府の四職に数えられた名門だ。浅井長政の娘である初が嫁ぎ、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城籠城戦で活躍した京極高次が出たことで知られ、後には日本の名城の一つ讃岐丸亀城を居城としたことでも知られる。
京極氏の居城は、上平寺城である。

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観音寺城に比べると知名度が低いが、米原市内、伊吹山の南腹に建てられた上平寺を利用した堅固な城である。ただ滋賀県の北の方は熊が出る、更にヒルやダニが害をなすというので中々近寄ることが出来ず、そのため知名度が上がらなかったそうである。今では米原市の職員によって雑草が刈られるなど整備され、かなり上りやすい城となったそうだ。
上平寺城には室町時代からの居館庭園が残っているが、これは日本に3つしか残っていない室町以来の居館庭園の1つとなるそうだ。足利将軍家の花の御所(室町第)でもそうだが、室町時代の居館では庭園が重要視されていたそうである。

 

最後は、京極氏の家臣から戦国大名へとのし上がった浅井氏の居城、小谷城。難攻不落の名城としてその名も高い。
京極氏を江北から追い出し、新たな支配者となった浅井亮政が築いたのが小谷城である。浅井氏はそれまでは丁野(ようの)という場所に居館を構えていたが、領地を見渡せる場所に小谷城を築いて移っている。自身が北近江の支配者となったことを示すためのデモストレーションも兼ねていたようだ。

小谷城は本丸の更に奥に京極丸、山王丸などが並ぶ巨大な山城であり、背後には大嶽(おおずく)と呼ばれる詰めの城があった。
とにかく巨大な城であるため、織田信長も落とすまでに3年を要している。落城後は羽柴秀吉の居城となるが、秀吉は巨大な山城は時代に合わないと思ったのか今浜に新たな城を築き、地名も織田信長の「長」を取って長浜に変えている。だが、長浜城が完成するまでは秀吉は小谷城で過ごしている。

小谷城からは36000点もの陶磁器が出土しているが、どれだけ調べても焼けた跡は見つからず、小谷城は落城こそしたものの炎上はしなかったと見られている。そもそも「落城=炎上」は後世のステレオタイプの産物のようだ。
なお、彦根城に小谷城の天守の移築と伝わる西の丸三重櫓が建っているが、江戸時代に老朽化のために破却され、新たに建て直された可能性が高く、外観も戦国時代の城を反映しているとは思えないものである。

小谷城も遺物から人々が山上で暮らしていたことは確かなようで、茶々、初、江の浅井三姉妹も小谷城の主郭で暮らしていた。麓の清水谷に浅井屋敷といわれる館があったが、これは饗応の場所だったようである。

三姉妹の三女である江こと、お江与(えど)の方は徳川秀忠の正室となって家光を生み、浅井氏の血は徳川将軍家に流れることになった。
ということで、小谷城には徳川将軍家16代目の徳川家達(幼名:田安亀之助)の揮毫による顕彰碑が建っている。


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2020年9月23日 (水)

2346月日(23) KYOTO CMEX第1回コンテンツクロスメディアセミナー 戸田奈津子「世界の映画俳優が愛した京都」

2020年9月18日 烏丸六角のホテルモントレ京都大宴会場「ケンジントン」にて

午後4時30分から、烏丸六角にあるホテルモントレ京都2階大宴会場「ケンジントン」で、KYOTO CMEX 第1回コンテンツクロスメディアセミナー「世界の映画俳優が愛した京都」に参加する。映画字幕翻訳者として著名な戸田奈津子の講演である。

予約先着順無料で行われる講演会。本来ならもっと大勢の方に来て貰いたかった講演会であるが、コロナのためソーシャルディスタンスを保つ必要があり、90名限定となった。

異国情緒を売りとするホテルモントレグループ。7月に泊まったホテルモントレ京都はスコットランドの首都エディンバラをイメージした内装であり、「ケンジントン」もお洒落である。クラシック音楽の演奏なども似合いそうな空間であるが、お高いのだろうか。

 

映画の字幕翻訳家の代名詞的な存在である戸田奈津子であるが、若い頃に映画と英語に憧れ、津田塾大学学芸学部英文科在学中に映画の字幕翻訳を志すのであるが、当時は映画の字幕翻訳家は日本中で10人いるかいないかという専門性の強い仕事であり、全員男性でそれぞれ得意分野を持っていた。大学を出たばかりの女性が割り込む余地はなく、戸田奈津子も短期間のOL(秘書)やフリーの翻訳業をしながら清水俊二に師事するなどして機会を窺っていたが、最初の映画の字幕の仕事を貰った時にはもうすでに40歳を過ぎていたそうで、20年越しの夢の達成となったそうである。
ただ、今回話すのは字幕翻訳家としての仕事ではなく、その中で出会ったハリウッドスタートの思い出話である。字幕翻訳家を目指しながら仕事に全く恵まれなかった時代にその物語は始まる。1980年以降、ハリウッドスターが続々と来日するようになるのだが、ハリウッドスターは英語しか話さないので通訳が必要ということになった。ということで字幕翻訳家希望の英語が出来る女性がいる、英語にも映画にも詳しいので大丈夫だろうというので、その話が戸田奈津子に回ってきたのである。だが、戸田は英文科出身なので英語の読み書きは得意であるが、今の若い人達とは違って学校でリスニングもスピーキングも習っていない。いわば「文字専門」の人だったわけである。というわけで断ろうとしたのであるが、実際に会ったロバート・レッドフォードの美しさに胸がときめいたということもあって、ハリウッドスターとの通訳としての交流が始まっていく。ちなみに若き日のロバート・レッドフォードの美しさは今の若手ハリウッドスターとは「格が違う」そうである。

スクリーンに写真を投影しながらのトーク。映るのはロバート・レッドフォード、リチャード・ギア、シルヴェスター・スタローン(大河内山荘で撮影)、ロバート・デ・ニーロ、アーノルド・シュワルツェネッガー(新幹線内で)、シガニー・ウィーバー(嶋原の角屋で撮影)、ロビン・ウィリアムズ、トム・クルーズである。ハリソン・フォードとも京都を旅したことがあるが、残念ながらハリソン・フォードとの写真は残っていないそうだ。

リチャード・ギアは、千家(どこの千家かは不明)の茶室、苔寺(西芳寺)、そして余り人がいない寺院での写真に写っている。リチャード・ギアはダライ・ラマを崇拝する仏教徒であるが、若い頃はまだ何を信仰しようか迷っており、写真に写っているのは仏教を志し始めた頃の姿だそうである。ギアがカメラを構えた姿を捉えた写真もあるが、当時からモノクロームの写真を撮ること趣味で、毎年誕生日プレゼント代わりに自身が撮ったモノクロームの写真を伸ばしたものを送ってくれるそうである。
「アメリカン・ジゴロ」(1980)がヒットして、初めての来日。リチャード・ギアは大学で哲学を専攻したということもあって、思索を好む若者だったそうだ。人混みが嫌いであるリチャード・ギアは、清水寺や金閣寺といった観光寺には興味を示さず、「寂」が支配するような無名の寺院を好んだという。

1980年代初頭、来日したハリウッドスターはまず東京で会見を行い、更に大阪に移って再び会見を行って、その後、1週間ほど京都で遊ぶというのがスタンダードだったそうである。今のハリウッドスターは忙しすぎて、来日して会見してすぐ帰らなければいけないそうで、若いハリウッドの俳優達は往時の映画スターの来日スタイルをうらやましがっているそうである。一方、残念ながら映画のマーケット的にはもう日本は重要拠点ではなく、中国に取って代わられてしまったそうである。人口が多いところには勝てない、のであるが、実は日本の映画人口の減少も関係していると思われる。平均的な日本人が1年のうちに映画館で観る映画はわずかに2本。映画は「観る人は滅茶苦茶観る」というものであるため、実際は1本も観ないという人が圧倒的多数であると思われる。一方、中国や韓国では映画は国策の一つであるため、観ることを習慣としている人が多い。実は日本はクラシック音楽のマーケットとしても中国は勿論、韓国にすら負けてしまっており、オペラのDVDやBlu-rayの輸入盤に中国語や韓国語の字幕は入っていても日本語の字幕が入っていないというケースが散見される。韓国の人口は日本の半分にも満たないが、韓国の方がマーケットとして重視されているということである。私の周りにもオペラを観たことがないのにオペラを馬鹿にする人が普通にいる。かなりまずいことだと思われるのだが、危機意識を持っている日本人は少ない。中国にはいつの間にか座付きオーケストラを持つオペラハウスまで建つようになっており、かつて文化大革命を推進していた国とは思えないほどだ。

リチャード・ギアは、禅寺を回っている時に、“I was here.”と言ったことがあるそうだ。当然ながら輪廻の考えを知っており、昔、日本人だった時にこの寺院で修行していたことを思い出したという。本当かどうかはわからない。
京都から奈良に向かう途中、京田辺の一休寺(酬恩庵)に寄ったことがあるのだが、一休宗純の人物像や一休が詠んだ和歌(「有漏路より無漏路へ帰る一休み雨降らば降れ風吹かば吹け」だろうか?)にもリチャード・ギアは詳しかったそうだ。また桂離宮も愛したそうである。懐石料理なども好み、またなぜか「ひじき」が大好きだそうだ。

 

ロバート・デ・ニーロは、二条城の唐門で家族と共に撮った写真に収まっている。2006年に撮影されたものだという。
「レイジングブル」で、体重を20キロ増やし、20キロ落としたという伝説で知られるデ・ニーロ。戸田奈津子には、「体に悪いのでもう二度とやらない」と話していたそうだが、普通の人は一度だってそんなことはしない、と書きつつ、私も2003年に半年で17キロ体重を落としたことがあるのだが、みんなに心配され、病気説が流れ、重病説に変わるという経験をしたため、今では体重は「自然のまま」に任せている。

なんにでもなれる俳優として尊敬を集めるデ・ニーロ。ハリウッドでは売れない俳優や女優がウエイターやウエイトレスをやっていることが多いのだが、ウエイターに「憧れの俳優」を聞くと、10人中9人が「ロバート・デ・ニーロ」と答え、ウエイトレスに「憧れの女優」を聞くと、10人中9人が「メリル・ストリープ」と答えるそうで、この二人は神様扱いだそうである。

デ・ニーロが家族を連れて二条城に来たとき、息子達が「チャンバラが見たい」と言ったため、太秦の東映映画村で大部屋の俳優がチャンバラショーをやっているということを知り、息子達は太秦に向かうことになった。デ・ニーロも「見たい」と言ったのだが、大部屋の俳優のショーをロバート・デ・ニーロが見るとなると演じる方も困惑するということで、子ども達が映画村に行っている間、車の中で本を読んでいたそうである。物静かで「Sweetな」性格の人だそうだ。初来日前は、「気難しいらしいよ」などと聞かされていたそうだが、会ってみたら話とは別人であり、以降、戸田奈津子は「自分の目で判断したこと」以外は信じなくなったそうだ。

 

双極性障害(躁鬱病)に苦しみ、6年前に自殺したロビン・ウィリアムズ。戸田奈津子とツーショットの写真がスクリーンに映る。戸田奈津子は「東山の寺」とした覚えていなかったが、おそらく法然院だと思われる。
彼は本物の「天才」だそうで、コメディー出身ということもあり、人を笑わせるのが得意だった。記者会見でも即興による芸でその場を爆笑の渦に巻き込むことが得意だったそうである。アメリカのコメディーは作家が書いたものをコメディアンが演じるというケースが多いのだが、ロビン・ウィリアムは作家を使わず、全て自分で考えて演じていたという。
彼もロバート・デ・ニーロ同様、素顔は物静かな人で、それが人を前にするとサービス精神に火が付き、楽しませることに夢中になっていたという。
その二面性が、個人的には双極性障害に繋がっているようにも見える。悲劇的な死は天才であったことの代償なのか。

 

トム・クルーズもエンターテインメント精神に関しては誰にも負けないという。ディスレクシア(読字障害)を持ち、人一倍苦労して育ったトム・クルーズ。新宗教に入れあげていて、それで批判されることも多いが、現役としては最高の映画スターであることは間違いなく、戸田奈津子はトム・クルーズのことを「映画のために生まれてきた人」と評している。二条城での「ラスト サムライ」公開時の記者会見の写真がスクリーンに映る。
トム・クルーズは、「ラスト サムライ」出演に当たって、武士道や剣術などを徹底して研究したそうで、プロ意識も高く、日本など諸外国へのリスペクトも忘れないという。

危険なシーンにもスタントマンなしで挑むことでも知られるトム・クルーズであるが、他の映画を観た時に、あきらかに別人が吹き替えているとわかるものがあり、自分がそうなるのはみっともないという考えがあるそうだ。そのためトム・クルーズが危険なシーンに挑んでいる時は、必ず自身の顔が映るようにして貰っているそうである。「ファンが僕がやってるんだとわかると喜んでくれるから」だそうである。

トム・クルーズは笑顔が印象的な俳優であるが、朝起きた瞬間から笑顔というような人だそうで、「ちょっと気持ち悪いかも知れないんですけど」と戸田もいうが、とにかく人を喜ばせることを生き甲斐としているそうである。

 

ハリウッドスターの共通点は、「ビッグになればなるほど謙虚」だそうである。残念ながら写真はないが、最後はハリソン・フォードの話になる。ハリソン・フォードは30代になってから売れ始めた遅咲きの俳優であるが、売れ始めた頃から今に到るまで、内面は全く変わらないそうである。
ハリソン・フォードは20代の頃は丸々売れず、「大工をしていた」という話があるが、正確にいうとしていたのは大工というよりも「家具職人」に近いそうである。
アメリカの場合、売れない俳優にはポルノ映画からの声が掛かることがあるそうで、有名俳優にも若い頃はそうやって日銭を稼いでいた人はいるそうだが、ハリソン・フォードはポルノ映画から声が掛かっても、「それをやってしまうと俳優の仕事への誇りを失ってしまいそうだ」という理由で断り、職人仕事を行いながら映画俳優への道を模索し続けていたそうである。

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