カテゴリー「2346月日」の43件の記事

2024年12月29日 (日)

2346月日(42) ナカノシマ大学2024年12月講座「大阪にオーケストラを! 江戸っ子・朝比奈隆の冒険」

2024年12月19日 大阪の中之島図書館にて

午後6時から、大阪・中之島の中之島図書館で、ナカノシマ大学2024年12月講座「大阪にオーケストラを! 江戸っ子・朝比奈隆の冒険」を受講。講師は、実業之日本社代表取締役社長で、編集者・音楽ジャーナリストの岩野裕一(いわの・ゆういち)。
岩野裕一は1964年東京生まれ。上智大学卒業後、実業之日本社に入社。社業の傍ら、満州国時代の朝比奈隆に興味を持ち、国立国会図書館に通い詰め、研究を重ねた。著書に『王道楽土の交響楽 満州-知られざる音楽史』(音楽之友社。第10回出光音楽賞受賞)、『朝比奈隆 すべては交響楽のために』(春秋社)。朝比奈隆の著書『この響きの中に 私の音楽・酒・人生』の編集も担当している。


日本を代表する指揮者であった朝比奈隆(1908-2001)。東京・牛込の生まれ。正式な音楽教育を受けたことはないが、幼い頃からヴァイオリンを弾いており、音楽には興味があった。旧制東京高校に進学(現在の私立東京高校とは無関係)。サッカーが得意で国体にも出ている。京都帝国大学法学部に進学。京都帝国大学交響楽団にヴァイオリン奏者として入る。当時の京大にはウクライナ出身の音楽家であるエマヌエル・メッテルがおり、朝比奈はメッテルに師事した。メッテルは服部良一の師でもあり、NHK連続テレビ小説「ブギウギ」に登場した服部良一をモデルにした音楽家、羽鳥善一(草彅剛)の自宅の仕事場に置かれたピアノの上にはメッテルの写真が置かれていた。
メッテルの個人レッスンは、神戸のメッテルの自宅で行われている。曜日が異なるので、朝比奈と服部が顔を合わせることはなかったが、服部良一の自伝によると、メッテルは朝比奈には「服部の方が上だ」と言い、服部には「朝比奈はそれくらいもう出来ているよ」と言ってライバル心を掻き立てる作戦を取っていたようだ。
京都帝大を出た朝比奈は、阪急に就職し、運転士の訓練を受けたり阪急百貨店の販売の仕事をしたりしたが(阪急百貨店時代には、NHK大阪放送局がお昼に行っていた室内楽の生放送番組に演奏家として出演するためにさりげなく職場を抜け出すことが何度もあったという)、2年で阪急を退社。退社する際には小林一三から、「どうしても音楽をやりたいなら宝塚に来ないか」と誘われている。宝塚歌劇団には専属のオーケストラがあった。それを断り、京都帝国大学文学部哲学科に学士入学する。しかし、授業には1回も出ず、音楽漬けだったそうだ。丁度同期に、やはり全く授業に出ない学生がおり、二人は卒業式の日に初めて顔を合わせるのだが、その人物は井上靖だそうで、井上は後年の随筆で、第一声が「あなたが朝比奈さんでしたか」だったことを記している。

京都帝国大学文学部哲学科在学中に大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)に奉職。3年後には教授になっている。なお、大阪音楽大学には指揮の専攻がないため、ドイツ語などの一般教養を受け持つことが多かったようだ。後に大阪音楽大学の優れた学生を大阪フィルハーモニー交響楽団にスカウトするということもやっている。
大阪音楽学校のオーケストラを振って指揮者としての活動を開始。京都大学交響楽団の指揮者にもなっている。1940年には新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮して東京デビュー。翌年には東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)出身のピアニスト、田辺町子と結婚し、居を神戸市灘区に構える。町子夫人とは一度共演しているが、結婚後は「指揮者の妻が人前でピアノを弾くな」と朝比奈が厳命。町子夫人は大阪音楽大学の教員となり、ピアニストとしての活動はしなくなった。この町子夫人は101歳と長命だったそうだが、大阪フィルの演奏会を聴きに行き、「私より下手なピアニストが主人と共演しているのが許せない」と語るなど、気の強い人であったようだ。

その後、外務省の委嘱により上海交響楽団の常任指揮者となる。上海交響楽団はアジア最古のオーケストラとして知られているが、この当時の上海交響楽団は現在の上海交響楽団とは異なり、租界に住む白人中心のオーケストラであった。
その後、満州国に移住しハルビン交響楽団と新京交響楽団の指揮者として活躍。ハルビン交響楽団は白人中心のオーケストラ、新京交響楽団は日本人、中国人、朝鮮人の混交の楽団だったようである。町子夫人は満州に行くことに文句を言っていたようだ。

終戦はハルビンで迎える。「日本人は殺せ!」という雰囲気であり、朝比奈も命からがら日本へと帰る。

朝比奈隆は朝比奈家の生まれではない。小島家に生まれ、名前も付けられないうちに子どものいなかった朝比奈家に養子に入っている。本人はずっと朝比奈家の子どもだと思っていたようだが、両親が相次いで亡くなると、近所に住む小島家のおばさんから、「あなたは家の子だから」と告げられ、小島家で暮らすようになる。朝比奈家では一人っ子だと思っていたが、兄弟がいたことが嬉しかったようである。朝比奈の養父である朝比奈林之助は「春の海」で知られる宮城道雄と親しく、宮城は弟子への稽古を朝比奈家の2階で付けていたそうで、朝比奈隆は宮城道雄の音楽を聴いて育ったことになる。宮城道雄は朝比奈林之助のために「蒯露調」という曲を書いている。

さて、朝比奈の実父であるが、小島家の人間ではない。日本を代表する大実業家である渡邊嘉一(わたなべ・かいち)が実父である。小島家は渡邊の妾の家だったのである。
渡邊は京阪電鉄の初代専務取締役であった。朝比奈隆というと阪急のイメージが強いが、バックにあったのは実は京阪だったようだ。朝比奈が阪急に入ったのもコネ入社で、渡邊嘉一が小林一三に「預かってくれないか」と頼んだようである。
後に朝比奈は大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮するのみでなく経営にも携わるのだが、それには渡邊の実業家としての血が影響している可能性があるとのことだ。

さて、終戦後、関西の楽壇では「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」という雰囲気であり、実際に朝比奈が1946年に帰国すると、翌47年に関西交響楽団が組織され、朝日会館で第1回の定期演奏会を行っている。「朝比奈が帰ってくればなんとかなる」は朝比奈の音楽性もさることながら、京都帝国大学を二度出ているため、同級生は大手企業に就職。その人脈も期待されていた。
1949年には関西オペラグループ(現・関西歌劇団)を発足させ、オペラでの活躍も開始。当初は演出なども手掛けていたようだ。
ちなみに朝比奈は大阪フィルを、関西交響楽団時代も含めて4063回指揮しているそうだが、「楽団員を食わすため」とにかく指揮しまくったようである。
当時、東京にはオーケストラが複数あったが、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団(文化放送・フジテレビ)、東京交響楽団(元は東宝交響楽団で、東宝とTBSが出資)と全てメディア系のオーケストラであった。そうでないオーケストラを作るには「大阪しかない」と朝比奈も思ったそうである。京都帝国大学を出て阪急に入った経験があり、関西に土地勘があるというだけではなかったようだ。

二度目の京都帝国大学時代、上田寿蔵という哲学者に師事しているのだが、上田は、「音楽は聴衆の耳の中で響くもの」とし、「西洋音楽だから日本人に分からないなんてことはない」という考えを聞かされていた。
東京では、齋藤秀雄とその弟子の小澤征爾が、「日本人にどこまでクラシックが出来るのか実験だ」という考えを持っていた訳だが、朝比奈は真逆で、その後にヘルシンキ市立管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っているが、「自分がやって来たことが間違っていないか確認する」ために行っており、本場西洋の楽壇への挑戦という感じでは全くなかったらしい。朝比奈的な考えをする日本人は今ではある程度いそうだが、当時としては異色の存在だったと思われる。

朝比奈と大阪フィルハーモニー交響楽団は、関西交響楽団時代も含めて、朝比奈が亡くなるまでの53年間コンビを組んだが、これも異例。オーケストラ創設者は創設したオーケストラから追い出される運命にあり、山田耕筰や近衛文麿も新交響楽団を追われているが、朝比奈は近衛からそうならないように、「自分たちで稼ぐこと」「間断なく仕事を入れること」などのアドバイスを受けて大フィルと一心同体となって活動した。更に日本の他のオーケストラに客演した時のギャラは全て大阪フィルに入れ、レコーディングなどの印税も大フィルに入れて、自身は大阪フィルからの給料だけを受け取っていた。神戸の自宅も戦前に建てられたものをリフォームし、しかもずっと借家だった。朝比奈の没後の話だが、町子夫人によると、税務署が、「朝比奈はもっと金を儲けているはずだ」というので、朝比奈の自宅を訪れ、床を剥がして金を探したことがあったという。


最後には大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長の福山修氏が登場し、朝比奈との思い出(外の人には優しかったが、身内には厳しかった)のほか、来年度の大阪フィルの定期演奏会の宣伝と、音楽監督である尾高忠明との二度目のベートーヴェン交響曲チクルスの紹介などを行っていた。

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2024年5月12日 (日)

2346月日(41) 京都文化博物館 「松尾大社(まつのおたいしゃ)展 みやこの西の守護神(まもりがみ)」

2024年5月1日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、「松尾大社(まつのおたいしゃ)展 みやこの西の守護神(まもりがみ)」を観る。王城の西の護りを担った松尾大社(まつのおたいしゃ/まつおたいしゃ)が所蔵する史料や絵図、木像などを集めた展覧会。

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松尾山山上の磐座を祀ったのが始まりとされる松尾大社。祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)は、「古事記」にも登場する古い神で、近江国の日吉大社にも祀られている。別名は「山王」。大山咋神は素戔嗚尊の孫とされる。松尾山山麓に社殿が造営されたのは701年(大宝元)で、飛鳥時代のことである。ちなみに、松尾大社の「松尾」は「まつのお」が古来からの正式な読み方であるが、「まつおたいしゃ」も慣例的に使われており、最寄り駅の阪急松尾大社駅は「まつおたいしゃ」を採用している。
社名も変化しており、最初は松尾社、その後に松尾神社に社名変更。松尾大社となるのは戦後になってからである。

神の系統を記した「神祇譜伝図記」がまず展示されているが、これは松尾大社と神道系の大学である三重県伊勢市の皇學館大学にしか伝わっていないものだという。


松尾大社があるのは、四条通の西の外れ。かつて葛野郡と呼ばれた場所である。渡来系の秦氏が治める土地で、松尾大社も秦氏の氏神であり、神官も代々秦氏が務めている。神官の秦氏の通字は「相」。秦氏は後に東家と南家に分かれるようになり、諍いなども起こったようである。
対して愛宕郡を治めたのが鴨氏で、上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)の賀茂神社は鴨氏の神社である。両社には深い関係があるようで共に葵を社紋とし、賀茂神社は「東の厳神」、松尾大社は「西の猛神」と並び称され、王城の守護とされた。

秦氏は醸造技術に長けていたようで、松尾大社は酒の神とされ、全国の酒造会社から信仰を集めていて、神輿庫には普段は酒樽が集められている。今回の展覧会の音声ガイドも、上京区の佐々木酒造の息子である俳優の佐々木蔵之介が務めている(使わなかったけど)。

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「名所絵巻」や「洛外図屏風」、「洛中洛外図」屏風が展示され、松尾大社も描かれているが、都の西の外れということもあって描写は比較的地味である。「洛中洛外図」屏風ではむしろ天守があった時代の二条城や方広寺大仏殿の方がずっと目立っている。建物のスケールが違うので仕方ないことではあるが。

松尾大社が酒の神として広く知られるようになったのは、狂言「福の神」に酒の場が出てくるようになってからのようで、福の神の面も展示されている。松尾大社の所蔵だが、面自体は比較的新しく昭和51年に打たれたもののようだ。

松尾大社で刃傷沙汰があったらしく、以後、神官による刃傷沙汰を禁ずる命令書が出されている。当時は神仏習合の時代なので、刃傷沙汰は「仏縁を絶つ」行為だと記されている。松尾大社の境内には以前は比較的大きな神宮寺や三重塔があったことが図で分かるが、現在は神宮寺も三重塔も消滅している。

PlayStationのコントローラーのようなものを使って、山上の磐座や松風苑という庭園をバーチャル移動出来るコーナーもある。

徳川家康から徳川家茂まで、14人中12人の将軍が松尾大社の税金免除と国家の安全を守るよう命じた朱印状が並んでいる。流石に慶喜はこういったものを出す余裕はなかったであろう。家康から秀忠、家光、館林出身の綱吉までは同じような重厚な筆致で、徳川将軍家が範とした書体が分かるが、8代吉宗から字体が一気にシャープなものに変わる。紀伊徳川家出身の吉宗。江戸から遠く離れた場所の出身だけに、書道の流派も違ったのであろう。以降、紀州系の将軍が続くが、みな吉宗に似た字を書いている。知的に障害があったのではないかとされる13代家定も書体は立派である。
豊臣秀吉も徳川将軍家と同じ内容の朱印状を出しており、織田信長も徳川や豊臣とは違った内容であるが、松尾大社に宛てた朱印状を出している。
細川藤孝(のちの号・幽斎)が年貢を安堵した書状も展示されている。

松尾大社は摂津国山本(今の兵庫県宝塚市)など遠く離れた場所にも所領を持っていた。伯耆国河村郡東郷(現在の鳥取県湯梨浜町。合併前には日本のハワイこと羽合町〈はわいちょう〉があったことで有名である)の荘園が一番大きかったようだ。東郷庄の図は現在は個人所蔵となっているもので、展示されていたのは東京大学史料編纂所が持っている写本である。描かれた土地全てが松尾大社のものなのかは分からないが、広大な土地を所有していたことが分かり、往事の神社の勢力が垣間見える。

その他に、社殿が傾きそうなので援助を頼むとの書状があったり、苔寺として知られる西芳寺との間にトラブルがあったことを訴えたりと、窮状を告げる文も存在している。

映像展示のスペースでは、松尾祭の様子が20分以上に渡って映されている。神輿が桂川を小船に乗せられて渡り、西大路七条の御旅所を経て、西寺跡まで行く様子が描かれる。実は西寺跡まで行くことには重要な意味合いが隠されているようで、松尾大社は御霊会を行わないが、実は御霊会の発祥の地が今はなき西寺で、往事は松尾大社も御霊会を行っていたのではないかという根拠になっているようだ。

室町時代に造られた松尾大社の社殿は重要文化財に指定されているが(松尾大社クラスでも重要文化財にしかならないというのが基準の厳しさを示している)、その他に木像が3体、重要文化財に指定されている。いずれも平安時代に作られたもので、女神像(市杵島姫命か)、男神像(老年。大山咋神か)、男神像(壮年。月読尊か)である。仏像を見る機会は多いが、神像を見ることは滅多にないので貴重である。いずれも当時の公家の格好に似せたものだと思われる。老年の男神は厳しい表情だが、壮年の男神像は穏やかな表情をしている。時代を考えれば保存状態は良さそうである。

神仏習合の時代ということで、松尾社一切経の展示もある。平安時代のもので重要文化財指定である。往事は神官も仏道に励んでいたことがこれで分かる。松尾社一切経は、1993年に日蓮宗の大学で史学科が有名な立正大学の調査によって上京区にある本門法華宗(日蓮宗系)の妙蓮寺で大量に発見されているが、調査が進んで幕末に移されたことが分かった。移したのは妙蓮寺の檀家の男で、姓名も判明しているという。


松尾大社は、摂社に月読神社を持つことで知られている。月読神(月読尊)は、天照大神、素戔嗚尊と共に生まれてきた姉弟神であるが、性別不詳で、生まれたことが分かるだけで特に何もしない神様である。だが、松尾大社の月読神はそれとは性格が異なり、壱岐島の月読神社からの勧請説や朝鮮系の神説があり、桂、桂川や葛野など「月」に掛かる地名と関連があるのではないかと見られている。

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2022年9月15日 (木)

2346月日(40) 京都国立博物館 特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺ー真言密教と南朝の遺産」

2022年9月7日 京都国立博物館にて

東山七条の京都国立博物館で、特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺-真言密教と南朝の遺産」を観る。3階建ての平成知新館の2階と1階が「観心寺と金剛寺」の展示となっている。

観心寺と金剛寺は、南朝2代目・後村上天皇の仮の御所となっており(南朝というと吉野のイメージが強いが、実際は転々としている)、南朝や河内長野市の隣にある千早赤阪村出身である楠木正成との関係が深い。

共に奈良時代からある寺院であるが、平安時代に興隆し、国宝の「観心寺勘録縁起資材帳」には藤原北家台頭のきっかけを作った藤原朝臣良房の名が記されている。

観心寺や金剛寺は歴史ある寺院であるが、そのためか、黒ずんでよく見えない絵画などもある。一方で、非常に保存状態が良く、クッキリとした像を見せている画もあった。

1回展示には、ずらりと鎧が並んだコーナーもあり、この地方における楠木正成と南朝との結びつきがよりはっきりと示されている。

明治時代から大正時代に掛けて、小堀鞆音が描いた楠木正成・正行(まさつら)親子の像があるが、楠木正成には大山巌の、楠木正行には東郷平八郎の自筆による署名が記されている。楠木正成・正行親子は、明治時代に和気清麻呂と共に「忠臣の鑑」とされ、人気が高まった。今も皇居外苑には楠木正成の、毎日新聞の本社に近い竹橋には和気清麻呂の像が建っている。

河内長野近辺は、昔から名酒の産地として知られたそうで、織田信長や豊臣秀吉が酒に纏わる書状を発している。

観心寺や金剛寺の再興に尽力したのは例によって豊臣秀頼である。背後には徳川家康がいる。家康は秀頼に多くの寺社の再興を進め、結果として豊臣家は資産を減らすこととなり、大坂の陣敗北の遠因となっているが、そのために豊臣秀頼の名を多くの寺院で目にすることとなり、秀頼を身近に感じる一因となっている。木材に記された銘には、結果として豊臣家を裏切る、というよりも裏切らざるを得ない立場に追い込まれた片桐且元の名も奉行(現場の指揮官)として記されている。

最期の展示室には、上野守吉国が万治三年八月に打った刀剣が飾られている。陸奥国相馬地方中村の出身である上野守吉国(森下孫兵衛)は、実は坂本龍馬の愛刀の作者として知られる陸奥守吉行(森下平助。坂本龍馬の愛刀は京都国立博物館所蔵)の実兄だそうで、共に大坂に出て大和守吉道に着いて修行し、吉国は土佐山内家御抱藩工、吉行も鍛冶奉行となっている。価値としては吉国の方が上のようである。

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2022年8月10日 (水)

2346月日(39) 文化庁京都移転記念 北区「WAのこころ」創生講座-文化のWA-「京の盆行事と他界観」

2022年8月2日 佛教大学15号館1階「妙響庵」にて

午後6時30分から、佛教大学15号館1階「妙響庵」で、文化庁京都移転記念 北区「WAのこころ」創生講座-文化のWA-「京の盆行事と他界観」という公開講座を聴く。
講師は佛教大学歴史学部教授で京都民俗学会会長、公益財団法人祇園祭綾傘鉾保存会理事でもある八木透。コーディネーターは、能楽観世流シテ方の河村晴久。

8月ということで、お盆と、8月16日に行われる五山送り火の由来について語られていく講座。
お盆は諸説あるが、サンスクリット語の「ウラバンナ」に「盂蘭盆」の字を当てたというのが定説とされている。

京のお盆の謎としては、六道珍皇寺や引接寺(千本えんま堂)で行われる「六道まいり」の六道の辻とはどこかという話がなされる。
六道珍皇寺は、小野篁が夜に閻魔大王に仕えるために地獄へと向かったと伝わる井戸があるのだが、道の辻ではなく、この井戸こそが「六道の辻なのではないか」というのが八木の見解のようである。

五山の送り火であるが、最初に始まったのが「大文字(だいもんじ)」であることは間違いない。ただ、いつ始まったのかについては諸説ある。
最も古いのは、空海が9世紀の初めに始めたとするものだが、これは伝説の領域を出ない。大文字が行われたという記録が空海存命中になく、その後も何世紀にも渡って大文字が行われたという記録は発見されていない。
最も有力とされるのが、足利八代将軍である義政が、九代将軍で24歳で早世した息子の義尚の菩提を弔うために始めたとされるもので、これは一つだけ文書に残っており、「偽文書」説もあるそうだが、八木自身は有力と見ているようである。ただ、大文字は1度行われただけで、その後に復活するまで100年以上の歳月を必要としている。
きちんとした記録に現れるのは、1603年の「慶長日件禄」においてである。1603年以降は毎年行われるようになり、恒例行事化したようだが、民間で起こった行事であるため、朝廷も幕府も重要視しておらず、記録はかなり少ないようである。1603年は江戸幕府が興った年だが、これもたまたまらしい。
その後、送り火は、松ヶ崎「妙法」、「舟形」、「左大文字」、「鳥居形」と増え、5つあるので五山送り火となる。五山十刹にちなんでいるのかも知れないが、臨済宗と繋がりがあるのは左大文字だけであるため、たまたま五山になったと考えた方が適当であろう。なお、昔はそれ以外にも、市原の「い」や、鳴滝の「一」、「竿に鈴」、「蛇」などもあったようだが、これらは数年に一度しか行わなかったため、存在自体が風化してしまい、具体的にどこで行われたのかも分かっていないようである。

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2022年7月 8日 (金)

2346月日(38) 佛教大学オープンラーニングセンター(O.L.C.) 特別無料講座「七夕×和歌文学 ~31文字に想いを込めて~」

2022年7月7日 佛教大学15号館1階「妙響庵(みょうこうあん)」にて

午後5時から、佛教大学オープンラーニングセンター(O.L.C.)「七夕×和歌文学 ~31文字に想いを込めて~」を受講。無料講座である。担当は佛教大学文学部日本文学科教授の土佐朋子。専門は日本上代文学である。

先月、日本のポピュラー音楽を扱う講座に参加した際に貰ったチラシに今日の講演の宣伝が入っていたので出掛けてみる。個人的には大学の公開講座には大いに興味があるのだが、平日の昼間に行われることが多いので参加してはこなかった。ただ佛教大学のO.L.C.のラインナップは面白く、会場となる佛教大学15号館1階「妙響庵」の雰囲気も良く、行く価値は大いにあるように思われる。

五節句の一つである七夕。元々は中国の習慣で、針仕事をする女性が上達を願う祭(でいいのかな?)であったのだが、後に諸芸上達、特に芸術方面の能力発達を願う乞巧奠という儀式になり、日本へと入ってきた。七夕に和歌を取り上げるのは似つかわしいということになる。京都に唯一残った公家である下冷泉家は、七夕に和歌を詠む習慣がある。

「万葉集」に載せられた和歌が中心になるが、「万葉集」には和歌のみでなく、漢詩や漢文も載せられていて、まずは中国で書かれた七夕に関する漢詩が取り上げられる。ちなみに、中国の代名詞でもある「漢」は元々は「天の川」を意味する言葉であり、織姫=織女は、「河漢の女(天の川の女)」と表現されている。
ちなみに可漢(天の川)というのは、清流だが浅く、幅も狭いそうで、相手のことがよく見えるが手は届かない距離ということなのか、もどかしく思える設定を取っているようである。

実は、中国では織女から牽牛の方へ向かうのだが、日本では牽牛が船を漕いで織女の下へ向かうという設定に変わっている。日本では上代から中古に掛けては通い婚が一般的であり、向かうのは常に男の方だったので、牽牛と織女=彦星と織姫も男の方が会いに出掛けるのが当時の常識と照らし合わせても自然なことであったと思われる。
川幅が狭いのに船を使うのが不自然という指摘もあるようだが、多分、川幅が狭くてはドラマティックにならないので意識的にそうした情報は無視したのであろう。

「万葉集」に載っている七夕を題材にした和歌は約130首。かなり多い。
今回はその中から31首を採り上げて、設定や背景などが述べられている。

私も専門の一つが日本文学なのであるが、主に研究したのが近現代、それも作者が存命の作品に多く取り組んだので、上代の文学についてはいうほど詳しくはない。和歌を詠むこと自体は特技の一つなのであるが。

七夕には酒宴が催され、その席で歌われたと思われる和歌も多い。だが、七夕を詠んだ歌、約130首の内、作者が分かっているのは大伴家持だけで、他の作品は全て詠み人知らずとされている。

大友家持の歌は、彼が二十歳前後とかなり若い頃に詠んだ作品で、織女の船出と月を掛け合わせて詠んでいる。織女の方が出掛けるという唐土の習慣を家持は知っていたようである。
勿論、唐土の習慣を知っていたのは家持だけではなく、織女の方から牽牛の下へと出掛ける様を詠った和歌はいくつも存在している。

子どもの頃に受けたイメージで、男の方から女の方へ出向いたり、男と女が鵲の渡せる橋の真ん中で出会うような情景を思い描いていたが、女の方から男の下へと出向くという発想は、実は抱いたことがなかった。今の日本でも女の方から押し掛けるということは余りないため、イメージの埒外にあったのだと思われる。

ちなみに、織女はかなり豪奢な乗り物に乗り、華やかな衣装で出掛けていることが分かる。

上代にあっては、恋というのは、恋人同士が会ってなすことを指すのではなく、会えない時に相手を求める気持ちのことを表す言葉のようで、郷ひろみの「よろしく哀愁」的な発想がなされていたようである。

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2022年5月25日 (水)

2346月日(37) 京都国立博物館 伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」

2022年5月20日 東山七条の京都国立博物館で

京都国立博物館平成知新館で、伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」を観る。前期と後期の展示に分かれているが、前期は訪れる機会を作れず、後期のみの観覧となった。

2021年が、伝教大師最澄の1200年大遠忌(没後1200年)に当たるということで開催された特別展。最澄の他に、中国で天台宗を確立した天台大師・智顗や、最澄の弟子である円仁と円珍に関する史料、延暦寺や園城寺(三井寺)所蔵の史料や仏像、平泉の中尊寺や姫路の書写山圓教寺などに伝わる仏典や高僧の座像、恵心僧都源信が著した「往生要集」、六道絵より阿修羅道と地獄の絵、延暦寺の鎮守である日吉大社の神輿や曼荼羅図、そして江戸(東京)の東叡山寛永寺にまつわる南光坊天海僧正像、江戸時代の寛永寺の全体を描いた「東叡山之図」、寛永寺を江戸の鬼門除けとなる東の比叡山として開いた東照大権現(徳川家康)の像、更に江戸で一番の賑わいを見せた浅草寺の絵巻などが展示されている。

今の大津に生まれ、近江国分寺に学び、東大寺で受戒した最澄。生まれ故郷に近い比叡山に一乗止観院を設け、これが後に延暦寺へと発展する。一乗止観院は、一乗思想(誰もが往生することが出来るとする思想)に基づくもので、その後、会津の徳一が支持する三乗思想(菩薩のみが往生が可能で、声聞や縁覚、そして無性は悟りを開けないとする)との三一権実争論が繰り広げられることになる。

最澄は、延暦寺にも戒壇院を築きたいと願っていたのだが、なかなか許可が下りず、嵯峨天皇からの勅許が降りたのは、最澄の死後1週間経ってからであった。

ということで、日本の天台宗の歴史においては、最澄よりもその後継者達の方がより任が重くなる。最澄に次ぐ天台宗の大物が、円仁と円珍であった。
最澄の弟子達の中で最も優秀であったとされる円仁は、唐に渡り、9年6ヶ月に渡って彼の地で学んで、「入唐求法巡礼行記」を記す。
一方、空海の親族である円珍も唐に渡り、帰国後は天台座主となるが、園城寺を新たに天台の道場とする。
延暦寺は山門派、園城寺は寺門派を名乗り、抗争が起こるのは後の世のことである。

天台思想は、奥州に伝わり、浄土を模したといわれる藤原三代の都・平泉で花開いた。金堂で有名な中尊寺には金文字で記された一切経が伝わっている。

良源と性空の像が並んでいる。命日が正月三日であるため元三大師の名で知られる良源、書写山圓教寺の開山となった性空は、共に異相であり、常人でないことが見た目からも伝わってくる。

また、空也上人立像も展示されている。空也上人立像は、六波羅蜜寺のものが有名だが、今回は愛媛県松山市の浄土寺に伝わるものの展示である。六波羅蜜寺の空也上人立像同様、口から「南無阿弥陀仏」を表す6つの阿弥陀像が吐き出されている。

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2022年1月 5日 (水)

2346月日(36) 京都市京セラ美術館 「モダン建築の京都」

2021年11月10日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館東山キューブにて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、「モダン建築の京都」展を観る。新館である東山キューブでの展示である。

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京都というと寺院などの伝統建築や和の町並みを思い浮かべる人も多いと思うが、明治以降、西洋建築の受け入れに寛容であり、第二次世界大戦でも空襲は局地的に留まったということもあって、明治以降のお洒落な建物が市内の各所に残っている。

ポスターに載っている建築を挙げていくと、会場である京都市京セラ美術館(京都市美術館、大礼記念京都美術館)、平安神宮、京都大学楽友会館、旧外務省東方文化学院京都研究所(現京都大学人文科学研究所)、駒井家住宅(現駒井卓・駒井静枝記念館)、進々堂京大北門前、京都大学総合体育館、国立京都国際会館、同志社大学クラーク記念館、同志社アーモスト館、同志社礼拝堂、新島旧邸、京都市庁舎本館、大丸ヴィラ、平安女学院明治館、京都府庁旧本館、京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店社屋)、京都芸術センター(旧明倫小学校)、本願寺伝道院、東華彩館、フランソア喫茶室、富士ラビット、国立京都博物館(旧帝国京都博物館)、京都大学花山天文台、長楽館、無鄰庵など。
市民に開放されてい施設も多く、明治維新、大正ロマン、昭和モダンなどに触れる機会も多いのが京都市の特徴であるといえる。

一部の展示品は撮影可であり、国立京都国際会館の模型などを撮影した。また、長楽館の宿泊者名簿には、早稲田大学(当初の名前は東京専門学校)の創設者である大隈重信と早稲田大学総長を務めた髙田早苗の名が並んでいることが確認出来る。

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京都の建築家というとまず名前が挙がるのが武田五一。京都市庁舎などの作品があるが、当時としては未来志向の建築家であり、時代を考えると、かなり新しい試みを行っていることが分かる。前川國男設計の京都会館(現ロームシアター京都。ロームによるネーミングライツで、正式名称は今も京都会館である)なども、1960年の竣工とは思えないほどの斬新さ(私が訪れた頃には経年劣化でオンボロ建築となっていたが)が感じられる。大野幸夫の国立京都国際会館も近未来的な要素を日本古来の建築様式と融合させた新しさを感じさせる。京都人からの評判は芳しくないが、京都という街のカオス性をそのままに表現したJR京都駅ビルなども近い将来にこうした評価を受ける建築群の仲間入りをしそうである。
斬新な作風の建築がある一方で、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)など、古典的な造形美を生かした建築家の活躍も目覚ましく、そうした多様な作風が渾然一体となって形作られた京都という街の特異性を感じることが可能となっている。
アメリカ生まれのヴォーリズは、近江八幡市を中心に多くの作品を残しているが、同志社大学今出川校地の建物もいくつか設計している。映像展示では、同志社でハモンドオルガンを弾いていたり、近江兄弟社で仕事をするヴォーリズの姿を見ることが出来る。

「新しさ」が提示されても、それを呑み込み、咀嚼して、単なる目新しさではなく独自のアイデンティティの領域にまで高めてしまうのが京都の奥深さである。

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2021年11月 1日 (月)

2346月日(35) 京都府立京都学・歴彩館 「吉川観方と風俗史考証の世界―コレクションの写真を中心に―」

2021年10月18日

下鴨にある京都府立京都学・歴彩館(京都府立大学の校舎と併用されている)の展示室で、「吉川観方と風俗史考証の世界―コレクションの写真を中心に―」を観る。

京都市に生まれ、幼時に大津で暮らした他は京都で生涯を過ごした日本画家、吉川観方(よしかわ・かんぽう。1894-1979)。京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高校の前身。今は下鴨にあるが、往時は京大に隣接した吉田近衛町にあった)卒業後、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)予科に進み、同時期に江馬務主催の風俗研究会に参加している。京都市立絵画専門学校本科に進み、卒業後は松竹合名会社に入社して、南座で舞台意匠顧問として主に衣装などを手掛けるようになる。松竹退社後も業務提携を結び、映画などで衣装の監修を手掛けた。京都市立絵画専門学校はその後も研究科に通い、卒業後は大阪・道頓堀の劇場街で衣装考証なども手掛けている。京都の画家としては初めて大錦判の役者絵の版画を制作したとされ、今回の展覧会でも初代中村鴈治郎、二代市川左團次、十二代片岡我童の役者絵が展示されている。

有職故実の研究に始まり、江戸時代の小道具(鏡箱、鼻紙台などには丸に十字の島津の家紋が入っているが、大名の島津家のものなのかどうかは不明)などの収集に興味を持った観方は、江戸時代の習慣や装束などを復活させて写真に収めるという活動を行うようになる。1932年制作のペリー来航を描いた映画「黒船」の撮影に参加している写真が展示されているが、監督の名前がジョン・ヒューストンとジョージ・ヒューストンとに分かれている。ジョン・ヒューストン(「アフリカの女王」や「許されざる者」の監督のようである)が正解で、ジョージ・ヒューストンは誤記のようであった。ちなみにジョージ・ヒューストンという有名人物も実在していて、1930年代に西部劇の映画俳優として活躍していたようである。

先日、NHKアーカイブのFacebookが「島原おいらん道中復活」というモノクロの映像を配信していたが(島原にいるのは太夫であり、花魁はいないので誤りだが、当時の東京ではそうした情報は正確には把握出来ていなかったのだろう)、1947年に太夫道中を復活させたのも吉川観方であるようだ。

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2021年9月27日 (月)

2346月日(34) 生誕120周年「杉原千畝展 命のビザに刻まれた想い」@京都髙島屋

2021年9月21日 四条河原町の京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、生誕120周年「杉原千畝展 命のビザに刻まれた想い」を観る。

リトアニアの駐在大使時代に、ナチスドイツに追われたユダヤ人に多くの日本経由のビザを発給し、命を救ったことで知られる杉原千畝(ちうね。愛称は有職読みした「せんぽ」)。スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」が公開された際にも、「日本のシンドラー」として注目を浴びている。

杉原千畝は、1900年1月1日、岐阜県生まれ。父親が税務官で転勤が多かったため、福井県、石川県、三重県などに移り住む。小学校もいくつか変わっているが、名古屋古渡尋常小学校を卒業。成績優秀で表彰されており、その時の表彰状の実物が展示されている。中学校は愛知県立第五中学校(旧制。愛知県立瑞穂高等学校の前身)に進む。この学校からは江戸川乱歩こと平井太郎も出ており、後年、杉原千畝と江戸川乱歩がOB会で一緒に写った写真があって見ることが出来るが、学年としては乱歩こと平井の方が5つ上であり、旧制中学校は5年制であったので、丁度入れ替わりとなるようだ。

当時、日本領であった朝鮮の京城(ソウル)に単身赴任していた父親は、千畝が医師になることを望んでおり、京城医学専門学校を受けるよう勧めるが、千畝自身は得意だった外国語を生かせる仕事に就くことを望んでいたため、京城医学専門学校の入試を受けるには受けたが、白紙答案を出して帰り、父親を激怒させた。事実上の勘当となった千畝は、単身東京に移り、早稲田大学高等師範部(現在の教育学部の前身)英語科予科に入学。その後、本科に上がるが、勘当同然であったため仕送りもなく、アルバイトで学費を稼いでいたが、それも限界。「卒業まで資金が持たない」と思っていたところで、大学の図書館に張り出されていた「英語独語仏語以外の官費留学生募集」の広告を目にして受験。試験勉強は1ヶ月ほどしか出来なかったが、元来天才肌だった千畝は見事に合格。早大を中退し、ロシア語を学ぶためハルピンに渡ってハルビン学院で給料を貰いながら勉学に励む。
千畝はロシア語学習能力にも秀でており、ほどなく「ロシア人の話すロシア語と遜色ない」と呼ばれるまでになる。
その後、そのまま満州勤務となり、ロシア人の女性と結婚するが、この最初の結婚は10年持たず、また千畝が白系ロシア人(反ソビエト共産党のロシア人)と親しく付き合っていたため、ソビエトの人々からは「危険人物」と見られていたようである。

ということで、ロシア語を学んだ千畝だが、ロシア本国に派遣されることはなく、まずはロシアとの関係が深かった、というよりはロシアの支配が長かったフィンランドの日本公使館に赴任することになる。
その後、バルト三国の一番南にあるリトアニアの日本総領事代行として移る。リトアニアの首都はヴィリニュスであるが、当時はポーランドとの国境争いでポーランド領となっていたため、臨時首都がカウナスに置かれていて、千畝もここで勤務している。

1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。ポーランドに隣接したリトアニアは、一時はヴィリニュスを取り返すも、その後にリトアニアはソビエト連邦の一国として吸収される。

そんな中、危機感を抱いたユダヤ人達が、カウナスの日本領事館を訪ねてくる。亡命のために、シベリア鉄道に乗り、日本の敦賀港まで出て日本国内を通り、オランダ領キュラソー、上海、オーストラリアなどへ逃げることを目指していた人達だ。名簿が展示されているが、ポーランド人が最も多く、リトアニア人、ドイツ人、チェコスロヴァキア人(現在はチェコとスロヴァキアに分離)などが続く。カナダ国籍やアメリカ国籍、イギリス国籍の人もいた。

千畝は自身では判断せず、まず日本の外務省に電報を打っている。時の外務大臣は有名な松岡洋右だが、松岡の指示は、「亡命先の受け入れが確実な者には速やかにビザを発給すること」で、これではビザを発給出来る者はかなり限られてくる。何度か電信でのやり取りがあったことが分かるが(実物が展示されている)、千畝は一晩中考えた末、「人道、博愛精神第一」の立場から独断でビザを発給することを決意する。千畝は亡命者全員に、「お幸せに、お気を付けて」との言葉を掛けたそうである(何語で掛けたのかは不明)。その後、プラハに異動になった千畝はそこでもビザを発給。外務省からは、「ビザを発給しすぎではないか」「チェコスロヴァキアという国は(ドイツに併合されて)もうないのだから、チェコスロヴァキア人にはビザを発給しないように」との苦情も来たようである。リトアニアを支配したソ連側からも、「リトアニアはもう独立国ではないのだから退去するように」との命令を受けたが、ギリギリまで粘ってビザを発給し続けた。
その後、ヨーロッパを転々とし、ルーマニアのブカレストで収容所生活を送った後で日本に戻った千畝と家族であるが、結果的には外務省をクビになり、連合国側のPXの東京支配人、ロシア語講師、NHK国際局など職を転々とすることになる。彼が就職活動の際に書いた履歴書(今のような専用用紙ではなく、白い紙に横書きで書き付けたもの)も展示されている。

その間、実は千畝に命を助けられたユダヤ人達は恩人である千畝の消息を探していた。一説には、彼らが「すぎはら・ちうね」ではなく、愛称の「すぎはら・せんぽ」で記憶していたため、千畝を見つけるのが遅れたとも言われるが、外務省が千畝の存在を黙殺した可能性もあるようだ。
1968年にイスラエル大使館から電話を受けた千畝は、ビザを発給したユダヤ人の代表、ニシェリ氏と再会することになり、功績が讃えられることになる。だが日本において杉原千畝の名誉が回復されるのは彼の死後を待たねばならなかった。

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2021年6月16日 (水)

2346月日(33) 京都文化博物館 京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」&「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」

2021年6月11日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」と「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」を観る。

「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」は、修復された寺町・誓願寺の門前町を描いた屏風絵の展示が中心となる。豊臣秀吉によって築かれた寺町。その中でも本能寺などと並んでひときわ巨大な伽藍を誇っていたのが誓願寺である。

落語発祥の地としても名高い浄土宗西山深草派総本山誓願寺。明治時代初期に槇村正直が新京極通を通したために寺地が半分以下になってしまったが、往時は北面が三条通に面するなど、京都を代表する大寺院であった。
この「誓願寺門前図屏風」作成の中心となった人物である岩佐又兵衛は、実は織田信長に反旗を翻したことで知られる荒木村重の子である(母親は美女として知られた、だしといわれるがはっきりとはしていないようである)。荒木村重が突然、信長を裏切り、伊丹有岡城に籠城したのが、岩佐又兵衛2歳頃のこととされる。使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉するなど、徹底抗戦の姿勢を見せた荒木村重であるが、その後、妻子を残したまま有岡城を抜け出し、尼崎城(江戸時代以降の尼崎城とは別の場所にあった)に移るという、太田牛一の『信長公記』に「前代未聞のこと」と書かれた所業に出たため、有岡城は開城、村重の妻子は皆殺しとなったが、又兵衛は乳母によってなんとか有岡城を抜け出し、石山本願寺で育った。その後、暗君として知られる織田信雄に仕えるが、暗君故に信雄が改易となった後は京都で浪人として暮らし、絵師としての活動に入ったといわれる。

誓願寺門前図屏風は、1615年頃の完成といわれる。大坂夏の陣のあった年である。翌1616年頃に又兵衛は越前福井藩主・松平忠直に招かれて、福井に移っているため、京都時代最後の大作となる。又兵衛一人で描いたものではなく、弟子達との共作とされる。又兵衛は福井で20年を過ごした後、今度は二代将軍・徳川秀忠の招きによって江戸に移り、その地で生涯を終えた。又兵衛は福井から江戸に移る途中、京都に立ち寄ったといわれている。

岩佐又兵衛について研究している京都大学文学研究科准教授の筒井忠仁出演の13分ちょっとの映像が、「誓願寺門前図屏風」の横で流されており、「誓願寺門前図屏風」に描かれた京の風俗や修復の過程で判明したことなどが語られる。

経年劣化により、かなり見にくくなっていた「誓願寺門前図屏風」。修復の過程で、二カ所に引き手の跡が見つかり、一時期は屏風ではなく襖絵として用いられたことが確認されたという。

『醒睡笑』の著者で落語の祖とされる安楽庵策伝が出たことで、芸能の寺という側面を持つ誓願寺には今も境内に扇塚があるが、「誓願寺門前図屏風」にも誓願寺のそばに扇を顔の横にかざした女性が描かれている。

また、三条通と寺町通の交差する北東角、現在は交番のある付近には、扇子を売る女性が描かれているが、彼女達は夜は遊女として働いていたそうである。また、今は狂言で女性役を表すときに使う美男鬘を思わせるかづきを被った女性などが描かれている。

誓願寺は和泉式部が帰依した寺ということで、和泉式部の塚も以前は誓願寺にあったようだ(現在は少し南に位置する誠心院に所在)。誓願寺は女人往生の寺であるため、女性の姿も目立つ。
一方、三条寺町では馬が暴れて人が投げ出されていたり、喧嘩というよりも決闘が行われていたり、物乞いがいたりと、当時の京都の様々な世相が描かれている。

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その他には、茶屋氏、角倉氏と並ぶ京の豪商だった後藤氏関係の資料が展示されている。後藤氏の邸宅は現在、新風館が建つ場所にあった。かなり広大な面積を持つ屋敷だったようで、往時の後藤氏の勢力が窺える。
作庭家や茶人としても有名な小堀遠州(小堀遠江守政一)や、豊臣家家老でありながら大坂を追われることになった片桐且元、加賀金沢藩2代目の前田利光(後の前田利常)、熊本城主・加藤清正らが後藤家の当主に宛てた手紙が残されており、後藤家の人脈の広さも分かる。虎狩りで知られる加藤清正だが、清正から後藤氏に出された手紙には、虎の毛皮を送られたことへの感謝が綴られており、清正が虎狩りをしたのではなく虎皮を貰った側ということになるようだ。


元々、下京の中心は四条室町であったが、江戸時代には町衆の中心地は、それよりやや東の四条烏丸から四条河原町に至る辺りへと移っていく。
出雲阿国の一座が歌舞伎踊りを披露した四条河原は、京都を代表する歓楽地となり、紀広成と横山華渓がそれぞれに描いた「四条河原納涼図」が展示されている。紀広成は水墨画の影響を受けたおぼろな作風であり、一方の横山華渓は横山華山の弟子で華山の養子に入ったという経歴からも分かる通り描写的で、描かれた人々の声や賑わいの音が聞こえてきそうな生命力溢れる画風を示している。

後半には四条河原町付近の住所である真町(しんちょう)の文書も展示されている。面白いのは、四条小橋西詰の桝屋(枡屋)喜右衛門の名が登場することである。万延元年(1860)の文書で、灰屋という家の息子である源郎が、桝屋喜右衛門の家に移るという内容の文書と、転居したため宗門人別改にも変更があり、河原町塩谷町にあった了徳寺という寺院の宗門人別改帳への転籍が済んだことが記載されている。

実はこの翌年、または2年後に、桝屋の主であった湯浅喜右衛門に子がなかったため、近江国出身で山科毘沙門堂に仕えていた古高俊太郎が湯浅家に養子として入り、桝屋喜右衛門の名を継いでいる。古高俊太郎は毘沙門堂に仕えていた頃に梅田雲浜に師事しており、古高俊太郎が継いで以降の桝屋は尊皇討幕派の隠れアジトとなって、後の池田屋事件の発端へと繋がっていくことになる。ということで、灰屋源郎なる人物も古高俊太郎と会っていた可能性があるのだが、詳細はこれだけでは分からない。

 

3階では、「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催されている。
シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎が独立美術協会を立ち上げたのが1930年。その後、四条河原町の雑居ビルの2階に独立美術京都研究所のアトリエが設置され、京都でも新しい美術の可能性が模索されるようになる。だが戦時色が濃くなるにつれてシュルレアリスムなどの前衛芸術などは弾圧されていく。そんな中で現在の京都府京丹後市出身である小牧源太郎は、仏画を題材とした絵画を制作することで土俗性や精神性を追求していったようである。

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