カテゴリー「2346月日」の27件の記事

2021年2月14日 (日)

2346月日(28) 神奈川近代文学館「井上靖展」ほか、横浜市イギリス館、ゲーテ座 2007.7.21

2007年7月21日

港の見える丘公園のある、通称フランス山に登り、神奈川近代文学館へ向かう。
神奈川近代文学館では、今年が生誕100年に当たり、大河ドラマ「風林火山」の原作者でもある井上靖展が開かれていた。常設展も充実していて、夏目漱石、芥川龍之介、吉川英治、大佛次郎(おさらぎ・じろう)、中島敦、島崎藤村、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、北村透谷、谷崎潤一郎、三島由紀夫、岡本かの子、泉鏡花といった神奈川県に縁の深い作家の直筆原稿が展示されており、面白いことこの上ない。直筆原稿の字を読みながら、原稿用紙に字を書いていく文豪の姿を思い浮かべると頬がゆるむ。
作家によって使う筆記用具が違い、字の読みやすさも違う。明治時代前期に執筆活動を始めた人は毛筆書きが多く、時代が下がると万年筆で書く人が多くなる。中には鉛筆書きの作家もいる。字も非常に読みやすい人から何が書いてあるのかほとんどわからないほど悪筆の人まで様々である。推敲の頻度も当然ながら異なり、ほとんど推敲の跡が見られない人もいれば、数行ごとに文章を黒く塗りつぶして、横に新しい文を小さく書き記す人もいる。

井上靖展も井上の直筆原稿と、金沢四高(現・金沢大学教養課程)時代から始まる詩作のノート、京都帝国大学在学中(といってもすでに28歳であった)に“就職難を吹き飛ばして”大学生でありながらキネマ社の脚本部に入るという“快挙”を成し遂げた井上靖青年を取り上げた新聞記事(井上の顔写真入り)なども展示されている。


港の見える丘公園内にある横浜市イギリス館を見学。かつてのイギリス総領事館公邸である。1937年完成の木造建築。2004年から内部が一般公開されている。入館無料。1階のホールはサークル活動などの稽古場として、2階の集会所はミーティングルームとしても使用されており、私が訪れた時は両方とも使用中で、その2つの部屋だけは見ることが出来なかった。

ついで、岩崎ミュージアムを訪れる。地下は山手ゲーテ座というホール、2階が服飾関係のミュージアム、1階がミュージアムショップと喫茶店となっている。
山手ゲーテ座は、明治時代に建てられた「ゲーテ座」という西洋劇場の跡地であることを記念して作られたホール。ゲーテは、文豪のゲーテではなく、英語のGaiety(陽気な)に由来するとのことである。
かつてのゲーテ座では、居留西洋人のための居留西洋人による演劇上演や音楽会が催されており、西洋文化に直接触れることの出来る日本でほとんど唯一の場所であった。西洋文化を学ぶために、坪内逍遙、北村透谷、瀧廉太郎、芥川龍之介などが足繁く通っていたという。

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2021年2月 2日 (火)

2346月日(27) 立原道造記念館(2011年閉館)にて 2007年5月18日

2007年5月18日

東京大学工学部の弥生門の前にある立原道造記念館を訪れる。東京帝国大学工学部建築学科出身で、天才詩人と呼ばれながら、わずか24歳で他界した立原道造(1914-1939)のために1997年に建てられた小さな記念館だ。弥生時代の由来となった東京大学弥生キャンパスもすぐそばである。

立原道造の直筆原稿などを見ることが出来る。

立原道造の詩を私が好んで読んだのは、ちょうど24歳の頃。立原が亡くなったのと同じ年齢の頃だ。

立原は西洋趣味が強く、同じく西洋志向の持ち主であった堀辰雄と仲が良かった。堀辰雄の小説『菜穂子』に出てくる建築学科出身の青年・都築のモデルが立原道造だと言われている。

立原の本当に若い頃(20歳前後)の文字は丸みがあって可愛らしいが、最晩年(それでも20代前半だ)、死期が近いこと悟った頃に書いた文字からは凜とした寂しさのようなものが漂ってくる。

記念館には、立原の婚約者であった水戸部アサイさんの若い頃の写真も展示されている。アサイさんは今見てもかなりの美人である。
せっかくこれまで人生順調に来て、綺麗な人をお嫁さんに貰おうかという時にこの世を旅立たねばならないとは、立原もさぞや無念だったろう。

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2020年9月29日 (火)

2346月日(25) 「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」 2020年9月20日 厳選プログラムB・井伊直岳「彦根城の近代」

2020年9月20日 びわ湖ホール中ホールにて

午後2時40分からの講演(厳選プログラムB)「彦根城の近代」。担当者である井伊直岳は彦根井伊家(井伊掃部頭家)の18代目であるが、血の繋がりはない。三重県生まれ、京都大学大学院博士後期課程単位取得退学。彦根井伊家17代目・井伊直豪の長女である井伊裕子と結婚して井伊家に入り、18代目当主となる。元々の名前は岳夫であったが、井伊家を継いだということで、通字である「直」を付けて直岳と改めている(戸籍上は変わっていないようである)。

彦根城が取り上げられるということで、人気のゆるキャラ、ひこにゃんも登場した。

国宝に指定されている彦根城。私も何度も訪れているが、天守を始めとする建物の保存状態も良く、人気の高い城郭である。

関ヶ原の戦いの後、石田三成の居城であった佐和山城の城主となった井伊直政であるが、三成は善政を敷いていたため慕う人も多く、このままでは領民を味方に出来ないということで新たなる拠点を築く必要があった。直政は、佐和山城よりも北にある磯山への築城を目指すが、関ヶ原で受けた手傷の悪化により死去。磯山に城を築くとなるとかなり巨大な城郭となるため、政庁の性格が強い近代城郭を築くに相応しい金亀山(こんきやま。別名・彦根山)に場所を改めて建てられたのが彦根城である。佐和山城や長浜城、大津城に使われていた木材が再利用され、優雅な桃山風の天守は大津城からの移築とされる。

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内堀、中堀、外堀の三重の堀を持ち、湖上交通の要衝でもあった彦根は近江国の中心地として栄えることになる。

江戸時代には当然ながら井伊家の本拠地として中堀より内側は厳しい入場規制が行われていた彦根城だが、維新後の廃藩置県によって多くの大名が華族として東京に移ると、城郭は兵部省の管轄となり、更に陸軍省に所管を変える。

明治6年(1873)1月には全国の城郭は「存城」か「廃城」かに分けられ、ほとんどの城は廃城となったが、彦根城は城内が兵舎として利用されており、存城となった。同年5月には管理者が陸軍省から滋賀県に移る。

多くの城の天守がこの時に取り壊しとなっており、彦根城の天守も解体される予定だったが、一説によると井伊直憲の娘を妻としていた佐賀鍋島氏の家臣の出である大隈重信による明治天皇への奏上もあり、明治天皇の特旨により彦根城の保存が決まる。明確に「保存」であり、管理が行われることになった。

彦根城はその後、表御殿に彦根県の県庁が入り、その後、県が拡大して長浜県となるとその県庁ともなった。内堀の内側に官庁が置かれたのはこの時までで、県が更に拡大して犬上県となると県庁は中堀に面した西郷・庵原屋敷跡に置かれた。その直後に滋賀県が発足し、県庁は彦根市ではなく大津市に置かれることになる。

彦根の藩校・弘道館の跡には明治9年(1876)に金亀教校という浄土真宗本願寺派の学校が建つ。この学校は、金亀仏教中学、第三仏教中学と名前を変え、明治42年(1900)に京都市下京区に移転。高校野球でお馴染みの平安高校(現・龍谷大平安高校)の前身となった。
第三仏教中学の跡地には彦根町立尋常小学校付設工業学校などを経て、現在、彦根市立西中学校が建っている。

彦根城の内堀と中堀の間にはその他にも多くの学校が建ち、文教地区となった。滋賀県立尋常中学校は、その後、滋賀県内屈指の進学校となる滋賀県立彦根東高校となり、彦根高等商業学校は滋賀大学経済学部(滋賀大学の本部は、教育学部のある大津キャンパスではなくここにある)へと発展する。近江実修工業学校は、野球が強いことで有名な近江高校となった。

その他にも招魂社が築かれ、明治43年(1910)には、皇太子(春宮)嘉仁親王(後の大正天皇)が彦根に行啓した時には、宿舎として迎春館が作られた(昭和22年解体)。
大正4年には初の本格的文化施設である彦根公会堂が完成する。

彦根城内では、明治9年(1876)に地方都市としては初となる博覧会が開催されるなどしたが、明治27年に、彦根城は井伊氏の所有に戻る。大正3年(1914)に彦根町長から彦根城の貸与願いが井伊家に出され、翌大正4年から彦根城内は一般に開放され、彦根観光の目玉となった。その後、内堀沿いに桜の木が植えられ、名所としての強化がなされる。

戦時下において彦根城は井伊直弼と共に彦根市民の愛国・愛郷精神の象徴とされ、市民精神の高揚のために彦根市長が井伊家に貸与ではなく寄付願いを出し、昭和19年(1944)2月13日付けで彦根城は彦根市に無償で寄付され、今と同じ形態での管理が始まることになる。

なお、彦根城は世界遺産への登録を目指しており、何度も見送りが続いているが(「日本の城郭文化としてすでに姫路城が登録されているため」とされる)、最近もまた彦根城はユネスコへの推薦状作成に取りかかっているそうで、最後はまたひこにゃんが登場して、アピールのための撮影会も行われた。残念ながらスマホの起動に時間が掛かったために私は写真は撮れなかったのだが、色々なところに今日のひこにゃんの写真が載るはずである。

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2346月日(24) 「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」2020年9月20日 厳選プログラムA・中井均「守護・戦国大名の居城」

2020年9月20日 びわ湖ホール中ホールにて

びわ湖ホールで今日と明日行われる「出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖」に参加する。
毎年、横浜で行われているお城好きのためのイベント、「お城EXPO」。今年初めて出張として大津でも行われることになった。本当は8月に行われるはずだったのだが、新型コロナの影響で1月遅れの開催となった。

今日は中ホールで講演が3つ行われる。そのうちの第1回目(厳選プログラムA)の中井均滋賀県立大学教授と、2回目(厳選プログラムB)の彦根井伊家の現在のご当主で、彦根博物館館長の井伊直岳の講演を聴く。

新型コロナによる公演の中止や延期もあり、びわ湖ホールに来るのは実に1年2ヶ月ぶりとなった。
京阪びわ湖浜大津駅から、びわ湖ホールまで、久しぶりにゆっくりと湖畔を歩く。

今回の「出張!お城EXPO」の公演は、オンラインでも有料で配信されるのだが、配信された映像の転載は禁止であり、また詳しく内容を乗せることも禁じられている。何回も再生することで一字一句間違いなく書き起こすことも可能になるのだが、その場合、より高い値段で講演を聴いた人が損をする可能性があるためだと思われる。

私自身は有料でびわ湖ホール中ホール内に入って聴講したのだが、詳しい内容を紹介するのもどうかを思うので、ほどほどに留める。

 

まず、三日月大造滋賀県知事による挨拶がある。「三日月という変わった名前でありますが、本名であります。一生、満月にはなれません」と冗談を言うが、客席は無反応。大阪の人が余り来ていないのか、そもそも城郭好きに真面目な人が多いのかのどちらかであると思われる。「滋賀県には1300もの城館跡がある。琵琶湖があるから城館が多いのか、城館が多いから琵琶湖が……、それはありませんね」と再び冗談を言うも、客席から反応はなく、三日月知事も「冗談を言ったら笑って欲しい」と述べていた。関西といっても大阪府以外の人はお笑いに特別興味があるというわけではないのだが、考えてみれば笑いによるコミュニケーションというのはかなり高度なものであると思われる。笑いによって話が順調に進むこともあるため、ある程度の笑う姿勢というものは大事になってくる。

 

中井均による講演「守護・戦国大名の居城」。
彦根市にある滋賀県立大学人間文化学部の教授である中井均。大阪府枚方市に生まれ、龍谷大学文学部史学科を卒業。米原市や滋賀県の教育委員会、長浜城歴史博物館館長などを経て、滋賀県立大学の准教授に就任し、教授に昇格している。専攻は中近世の城館遺跡。

現在では「お城」というと、石垣が聳え、櫓や天守が威容を誇る巨大城郭を連想することが多いが、室町時代中期までは平地にそれほど広くない堀を掘り、塀で囲んだだけの「館(たち、たて)」と呼ばれるものが、武士の居館であった。土木技術の問題もあったと思われるが、それで十分であったということでもあろう。しかし戦国時代に入ると、館では戦に耐えられなくなり、山に築く山城が現れるようになる。初期の山城は多くの場合、山上の郭は詰めの城として平時は使わず、麓の居館で過ごして、いざ戦となると山に登って籠城というのが基本パターンであった。だが、実はそうでない城もあったということである。

取り上げるのは近江八幡市にある観音寺城である。近江国守護、六角氏の居城であり、織田信長がすぐそばに安土城を築いた際、石垣の多くを移したことでも知られている。観音寺城の石垣は今も残っており、近くを通るJRの車窓からも見ることが出来る。

近江国は佐々木源氏が代々守護を務めている。佐々木氏の発祥の地は安土(平成の合併により近江八幡市安土となった)であり、安土には沙沙貴神社という佐々木氏の氏神を祀る神社が今もある。その佐々木氏が時代を経て4つに分かれる。湖西の大原氏と高島氏という2つの家はそれほど有名ではないが、琵琶湖の東側の南半分を支配した六角氏と北半分の領主となった京極氏は共に名が知られている。六角氏は京都の六角通東洞院に、京極氏は同じく京極通(今の寺町通)高辻に館を構えていたことからその名がある。

六角氏の居城である観音寺城は、実は最初に築いた時は居城としてではなかった。築かれたのは南北朝時代であり、楠木正成の千早城や赤坂城のように、当時の山城というのは籠城するための臨時のものであった。

その後、六角氏は観音寺城を居城とするのだが、観音寺城は城の名に「寺」が入っていることからも分かる通り、観音寺という寺院があったところに築かれている。石垣を使った初の本格的な城であったが、これも寺院と関連がある。実はこの時代にはまだ武士は石垣を築く技術を持っておらず、せいぜい簡素な石積みがなせる程度。一方、寺院は石垣の技術を保有していた。観音寺城は寺院勢力に石垣の技術を教わることで完成した城だったのだ。戦国時代の城郭の石垣というと、石をそのまま積み上げた「野面積み」が一般的だが、観音寺城は石を砕いて積み上げており、寺院の石垣の技術は武士よりも大分先行していたと思われる。

観音寺城は、本丸は山頂にはない。山頂は観音寺のための聖地であり、城郭は意図的に山頂より下に築かれている。昔から「城郭は交通や防衛の要地に築かれる」といわれてきたが、実際はそうした場所にはすでに寺院や仏教の聖地がある場合が多く、寺院で暮らす人々は山内に建造物を築いて山で生活することに長けていたため、武士達はそれを参考に出来たのであろう。近江の城の中で最も有名なのは彦根城であるが、彦根城が建つ金亀山(彦根山)も以前は仏教や神道の聖地であった。

観音寺城に見られる面白い点は、山麓に館(御屋形)はあるが、近江国守護のものとしては小さいということである。一辺の長さは70m程度しかない。一般的な守護の屋形は最低でも一辺100mは超えるため、かなり小さいということになるが、観音寺城は発掘調査によって山内の郭に巨大な建造物のあった可能性が高いことが明らかになったそうで、山城を詰めの城としてではなく居住空間としており、客人などを迎える時に山麓の館を使用していた可能性が高いことがわかったそうである。

 

一方、近江の北で権勢を誇った京極氏。六角氏の同族にして六角氏を凌ぐだけの力を持っていたが、近江国守護は佐々木源氏嫡流の六角氏であり、京極氏は近江ではなく、飛騨、出雲、隠岐の守護を務めている。山名、一色、赤松氏らと共に室町幕府の四職に数えられた名門だ。浅井長政の娘である初が嫁ぎ、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城籠城戦で活躍した京極高次が出たことで知られ、後には日本の名城の一つ讃岐丸亀城を居城としたことでも知られる。
京極氏の居城は、上平寺城である。

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観音寺城に比べると知名度が低いが、米原市内、伊吹山の南腹に建てられた上平寺を利用した堅固な城である。ただ滋賀県の北の方は熊が出る、更にヒルやダニが害をなすというので中々近寄ることが出来ず、そのため知名度が上がらなかったそうである。今では米原市の職員によって雑草が刈られるなど整備され、かなり上りやすい城となったそうだ。
上平寺城には室町時代からの居館庭園が残っているが、これは日本に3つしか残っていない室町以来の居館庭園の1つとなるそうだ。足利将軍家の花の御所(室町第)でもそうだが、室町時代の居館では庭園が重要視されていたそうである。

 

最後は、京極氏の家臣から戦国大名へとのし上がった浅井氏の居城、小谷城。難攻不落の名城としてその名も高い。
京極氏を江北から追い出し、新たな支配者となった浅井亮政が築いたのが小谷城である。浅井氏はそれまでは丁野(ようの)という場所に居館を構えていたが、領地を見渡せる場所に小谷城を築いて移っている。自身が北近江の支配者となったことを示すためのデモストレーションも兼ねていたようだ。

小谷城は本丸の更に奥に京極丸、山王丸などが並ぶ巨大な山城であり、背後には大嶽(おおずく)と呼ばれる詰めの城があった。
とにかく巨大な城であるため、織田信長も落とすまでに3年を要している。落城後は羽柴秀吉の居城となるが、秀吉は巨大な山城は時代に合わないと思ったのか今浜に新たな城を築き、地名も織田信長の「長」を取って長浜に変えている。だが、長浜城が完成するまでは秀吉は小谷城で過ごしている。

小谷城からは36000点もの陶磁器が出土しているが、どれだけ調べても焼けた跡は見つからず、小谷城は落城こそしたものの炎上はしなかったと見られている。そもそも「落城=炎上」は後世のステレオタイプの産物のようだ。
なお、彦根城に小谷城の天守の移築と伝わる西の丸三重櫓が建っているが、江戸時代に老朽化のために破却され、新たに建て直された可能性が高く、外観も戦国時代の城を反映しているとは思えないものである。

小谷城も遺物から人々が山上で暮らしていたことは確かなようで、茶々、初、江の浅井三姉妹も小谷城の主郭で暮らしていた。麓の清水谷に浅井屋敷といわれる館があったが、これは饗応の場所だったようである。

三姉妹の三女である江こと、お江与(えど)の方は徳川秀忠の正室となって家光を生み、浅井氏の血は徳川将軍家に流れることになった。
ということで、小谷城には徳川将軍家16代目の徳川家達(幼名:田安亀之助)の揮毫による顕彰碑が建っている。


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2020年9月23日 (水)

2346月日(23) KYOTO CMEX第1回コンテンツクロスメディアセミナー 戸田奈津子「世界の映画俳優が愛した京都」

2020年9月18日 烏丸六角のホテルモントレ京都大宴会場「ケンジントン」にて

午後4時30分から、烏丸六角にあるホテルモントレ京都2階大宴会場「ケンジントン」で、KYOTO CMEX 第1回コンテンツクロスメディアセミナー「世界の映画俳優が愛した京都」に参加する。映画字幕翻訳者として著名な戸田奈津子の講演である。

予約先着順無料で行われる講演会。本来ならもっと大勢の方に来て貰いたかった講演会であるが、コロナのためソーシャルディスタンスを保つ必要があり、90名限定となった。

異国情緒を売りとするホテルモントレグループ。7月に泊まったホテルモントレ京都はスコットランドの首都エディンバラをイメージした内装であり、「ケンジントン」もお洒落である。クラシック音楽の演奏なども似合いそうな空間であるが、お高いのだろうか。

 

映画の字幕翻訳家の代名詞的な存在である戸田奈津子であるが、若い頃に映画と英語に憧れ、津田塾大学学芸学部英文科在学中に映画の字幕翻訳を志すのであるが、当時は映画の字幕翻訳家は日本中で10人いるかいないかという専門性の強い仕事であり、全員男性でそれぞれ得意分野を持っていた。大学を出たばかりの女性が割り込む余地はなく、戸田奈津子も短期間のOL(秘書)やフリーの翻訳業をしながら清水俊二に師事するなどして機会を窺っていたが、最初の映画の字幕の仕事を貰った時にはもうすでに40歳を過ぎていたそうで、20年越しの夢の達成となったそうである。
ただ、今回話すのは字幕翻訳家としての仕事ではなく、その中で出会ったハリウッドスタートの思い出話である。字幕翻訳家を目指しながら仕事に全く恵まれなかった時代にその物語は始まる。1980年以降、ハリウッドスターが続々と来日するようになるのだが、ハリウッドスターは英語しか話さないので通訳が必要ということになった。ということで字幕翻訳家希望の英語が出来る女性がいる、英語にも映画にも詳しいので大丈夫だろうというので、その話が戸田奈津子に回ってきたのである。だが、戸田は英文科出身なので英語の読み書きは得意であるが、今の若い人達とは違って学校でリスニングもスピーキングも習っていない。いわば「文字専門」の人だったわけである。というわけで断ろうとしたのであるが、実際に会ったロバート・レッドフォードの美しさに胸がときめいたということもあって、ハリウッドスターとの通訳としての交流が始まっていく。ちなみに若き日のロバート・レッドフォードの美しさは今の若手ハリウッドスターとは「格が違う」そうである。

スクリーンに写真を投影しながらのトーク。映るのはロバート・レッドフォード、リチャード・ギア、シルヴェスター・スタローン(大河内山荘で撮影)、ロバート・デ・ニーロ、アーノルド・シュワルツェネッガー(新幹線内で)、シガニー・ウィーバー(嶋原の角屋で撮影)、ロビン・ウィリアムズ、トム・クルーズである。ハリソン・フォードとも京都を旅したことがあるが、残念ながらハリソン・フォードとの写真は残っていないそうだ。

リチャード・ギアは、千家(どこの千家かは不明)の茶室、苔寺(西芳寺)、そして余り人がいない寺院での写真に写っている。リチャード・ギアはダライ・ラマを崇拝する仏教徒であるが、若い頃はまだ何を信仰しようか迷っており、写真に写っているのは仏教を志し始めた頃の姿だそうである。ギアがカメラを構えた姿を捉えた写真もあるが、当時からモノクロームの写真を撮ること趣味で、毎年誕生日プレゼント代わりに自身が撮ったモノクロームの写真を伸ばしたものを送ってくれるそうである。
「アメリカン・ジゴロ」(1980)がヒットして、初めての来日。リチャード・ギアは大学で哲学を専攻したということもあって、思索を好む若者だったそうだ。人混みが嫌いであるリチャード・ギアは、清水寺や金閣寺といった観光寺には興味を示さず、「寂」が支配するような無名の寺院を好んだという。

1980年代初頭、来日したハリウッドスターはまず東京で会見を行い、更に大阪に移って再び会見を行って、その後、1週間ほど京都で遊ぶというのがスタンダードだったそうである。今のハリウッドスターは忙しすぎて、来日して会見してすぐ帰らなければいけないそうで、若いハリウッドの俳優達は往時の映画スターの来日スタイルをうらやましがっているそうである。一方、残念ながら映画のマーケット的にはもう日本は重要拠点ではなく、中国に取って代わられてしまったそうである。人口が多いところには勝てない、のであるが、実は日本の映画人口の減少も関係していると思われる。平均的な日本人が1年のうちに映画館で観る映画はわずかに2本。映画は「観る人は滅茶苦茶観る」というものであるため、実際は1本も観ないという人が圧倒的多数であると思われる。一方、中国や韓国では映画は国策の一つであるため、観ることを習慣としている人が多い。実は日本はクラシック音楽のマーケットとしても中国は勿論、韓国にすら負けてしまっており、オペラのDVDやBlu-rayの輸入盤に中国語や韓国語の字幕は入っていても日本語の字幕が入っていないというケースが散見される。韓国の人口は日本の半分にも満たないが、韓国の方がマーケットとして重視されているということである。私の周りにもオペラを観たことがないのにオペラを馬鹿にする人が普通にいる。かなりまずいことだと思われるのだが、危機意識を持っている日本人は少ない。中国にはいつの間にか座付きオーケストラを持つオペラハウスまで建つようになっており、かつて文化大革命を推進していた国とは思えないほどだ。

リチャード・ギアは、禅寺を回っている時に、“I was here.”と言ったことがあるそうだ。当然ながら輪廻の考えを知っており、昔、日本人だった時にこの寺院で修行していたことを思い出したという。本当かどうかはわからない。
京都から奈良に向かう途中、京田辺の一休寺(酬恩庵)に寄ったことがあるのだが、一休宗純の人物像や一休が詠んだ和歌(「有漏路より無漏路へ帰る一休み雨降らば降れ風吹かば吹け」だろうか?)にもリチャード・ギアは詳しかったそうだ。また桂離宮も愛したそうである。懐石料理なども好み、またなぜか「ひじき」が大好きだそうだ。

 

ロバート・デ・ニーロは、二条城の唐門で家族と共に撮った写真に収まっている。2006年に撮影されたものだという。
「レイジングブル」で、体重を20キロ増やし、20キロ落としたという伝説で知られるデ・ニーロ。戸田奈津子には、「体に悪いのでもう二度とやらない」と話していたそうだが、普通の人は一度だってそんなことはしない、と書きつつ、私も2003年に半年で17キロ体重を落としたことがあるのだが、みんなに心配され、病気説が流れ、重病説に変わるという経験をしたため、今では体重は「自然のまま」に任せている。

なんにでもなれる俳優として尊敬を集めるデ・ニーロ。ハリウッドでは売れない俳優や女優がウエイターやウエイトレスをやっていることが多いのだが、ウエイターに「憧れの俳優」を聞くと、10人中9人が「ロバート・デ・ニーロ」と答え、ウエイトレスに「憧れの女優」を聞くと、10人中9人が「メリル・ストリープ」と答えるそうで、この二人は神様扱いだそうである。

デ・ニーロが家族を連れて二条城に来たとき、息子達が「チャンバラが見たい」と言ったため、太秦の東映映画村で大部屋の俳優がチャンバラショーをやっているということを知り、息子達は太秦に向かうことになった。デ・ニーロも「見たい」と言ったのだが、大部屋の俳優のショーをロバート・デ・ニーロが見るとなると演じる方も困惑するということで、子ども達が映画村に行っている間、車の中で本を読んでいたそうである。物静かで「Sweetな」性格の人だそうだ。初来日前は、「気難しいらしいよ」などと聞かされていたそうだが、会ってみたら話とは別人であり、以降、戸田奈津子は「自分の目で判断したこと」以外は信じなくなったそうだ。

 

双極性障害(躁鬱病)に苦しみ、6年前に自殺したロビン・ウィリアムズ。戸田奈津子とツーショットの写真がスクリーンに映る。戸田奈津子は「東山の寺」とした覚えていなかったが、おそらく法然院だと思われる。
彼は本物の「天才」だそうで、コメディー出身ということもあり、人を笑わせるのが得意だった。記者会見でも即興による芸でその場を爆笑の渦に巻き込むことが得意だったそうである。アメリカのコメディーは作家が書いたものをコメディアンが演じるというケースが多いのだが、ロビン・ウィリアムは作家を使わず、全て自分で考えて演じていたという。
彼もロバート・デ・ニーロ同様、素顔は物静かな人で、それが人を前にするとサービス精神に火が付き、楽しませることに夢中になっていたという。
その二面性が、個人的には双極性障害に繋がっているようにも見える。悲劇的な死は天才であったことの代償なのか。

 

トム・クルーズもエンターテインメント精神に関しては誰にも負けないという。ディスレクシア(読字障害)を持ち、人一倍苦労して育ったトム・クルーズ。新宗教に入れあげていて、それで批判されることも多いが、現役としては最高の映画スターであることは間違いなく、戸田奈津子はトム・クルーズのことを「映画のために生まれてきた人」と評している。二条城での「ラスト サムライ」公開時の記者会見の写真がスクリーンに映る。
トム・クルーズは、「ラスト サムライ」出演に当たって、武士道や剣術などを徹底して研究したそうで、プロ意識も高く、日本など諸外国へのリスペクトも忘れないという。

危険なシーンにもスタントマンなしで挑むことでも知られるトム・クルーズであるが、他の映画を観た時に、あきらかに別人が吹き替えているとわかるものがあり、自分がそうなるのはみっともないという考えがあるそうだ。そのためトム・クルーズが危険なシーンに挑んでいる時は、必ず自身の顔が映るようにして貰っているそうである。「ファンが僕がやってるんだとわかると喜んでくれるから」だそうである。

トム・クルーズは笑顔が印象的な俳優であるが、朝起きた瞬間から笑顔というような人だそうで、「ちょっと気持ち悪いかも知れないんですけど」と戸田もいうが、とにかく人を喜ばせることを生き甲斐としているそうである。

 

ハリウッドスターの共通点は、「ビッグになればなるほど謙虚」だそうである。残念ながら写真はないが、最後はハリソン・フォードの話になる。ハリソン・フォードは30代になってから売れ始めた遅咲きの俳優であるが、売れ始めた頃から今に到るまで、内面は全く変わらないそうである。
ハリソン・フォードは20代の頃は丸々売れず、「大工をしていた」という話があるが、正確にいうとしていたのは大工というよりも「家具職人」に近いそうである。
アメリカの場合、売れない俳優にはポルノ映画からの声が掛かることがあるそうで、有名俳優にも若い頃はそうやって日銭を稼いでいた人はいるそうだが、ハリソン・フォードはポルノ映画から声が掛かっても、「それをやってしまうと俳優の仕事への誇りを失ってしまいそうだ」という理由で断り、職人仕事を行いながら映画俳優への道を模索し続けていたそうである。

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2020年7月 5日 (日)

2346月日(22) 直七大学 横山紘一 「唯識入門講座」

2020年6月28日

直七大学のオンライン受講をハシゴ。まずは唯識研究の大家である横山紘一(よこやま・こういつ)による「唯識入門講座」。

横山紘一は、1940年生まれなので、齢80を迎える。東京大学農学部水産学科と同文学部印度哲学科を卒業したダブルディグリーであり、その後は東大大学院の博士課程まで印度哲学を専攻している。1997年には唯識の総本山的存在である興福寺で得度。唯識塾の塾長としても活躍している。
高齢なのでZoomには慣れておらず、もたつくところもあったが、講義自体は比較的順調に進んでいく。

今日は横山紘一の弟子が何人も視聴しており、普段とは雰囲気が異なる。
まず宗教は科学や哲学と異なるとした上で、仏教が宗教と見做されるようになったのは明治以降で、それ以前は仏道と呼ばれていたことなどを紹介する。

唯識は、識のみをよりどころとするのだが、心には色も形も大きさもなく、一切は錯覚であるとする。皆、人の姿を見ていると認識しているが、思い込みであり、識の中に作られたいわば影のようなものを実体と認識しているということである。

また学問をしたければ人からの又聞きや、他人による解説書ではなく原典に当たることの重要さも述べていた。確かに他者によって咀嚼されたものはわかりやすいが、核の部分が抜け落ちていたり、自己流のアレンジがなされていることは「ある」と思った方が適当である。「わかる」には己自身で向き合うことが何よりも重要である。他者に溺れてはならない。

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2020年6月28日 (日)

2346月日(21) 直七大学第84講「SDGsと仏教」

2020年5月31日

午後8時から、直七大学第84講「SDGsと仏教」をネット受講。SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)の先進順位において、京都市は日本の市町村の中で第1位に輝いており、京都市内の映画館ではそのことが京都市出身の漫才コンビであるブラックマヨネーズ出演のCMが予告編で流れて紹介されている。講師は浄土真宗本願寺派僧侶で、SDGsおてらネットワーク代表の西永亜紀子氏。冒頭は見ることが出来なかったため、自己紹介などは聞けなかったが、東京の築地本願寺所属だと思われる。

午後7時45分頃からパソコンの前で準備していたが、メールソフトのメール受信が遅いため、10分ほど遅れて参加することになる。メールソフトが頼りないのは知っていたので、事前にメールのダウンロード作業をしておくべきだったと思う。

最初は聞くだけにしようと思っていたのだが、ノートも取ることにする。

まず「エシカル」「エシカル消費」の紹介。自然環境や社会貢献に配慮した消費のことで、貢献を第一に考えて行われる。

バナナペーパーが紹介されたが、バナナの繊維を使用した紙であり、パルプを使用した普通の紙とは違って樹木を伐採しないため森林保護に役立ち、アフリカのザンビアではバナナペーパーが雇用の創出にも繋がっているという。

坂本龍一の、「買い物は投票行為だ」という言葉も紹介される。利便性などではなく環境第一という考えで購入するものを選ぶという意味で、自然や環境保護に以前から積極的だった坂本龍一らしい言葉である。西永氏も坂本龍一のファンであるようだ。

一般社団法人四方僧伽(サンガ)によるバングラデシュ難民のための仏陀バンクも紹介される。バングラデシュは国旗が日本に似ていることで有名だが、地の部分が緑であることから分かる通り、イスラム教の国である。ただ小さいながらも仏教を信仰している組織があるそうで、そこと協力して善意の融資を行い、返済はお布施という形で行われているそうである。

僧侶が作った新電力会社、TERA Enegyの紹介も行われる。再生可能エネルギーによる発電で、原子力によって発電されたものは用いない。電機代は一部がソーシャルグッド活動への寄付に回されるといった特徴があるようである。


レジ袋削減の問題。この4月からレジ袋有料化が始まっている店舗があり、私は東京ヤクルトスワローズのオフィシャルショップで購入したエコバッグをすでに愛用している。値段は1100円。有料レジ袋は1枚5円なので、元を取るには200回以上買い物に出掛けないといけなくなるが、7月1日からはコンビニでもレジ袋が有料化されるため、出番もかなり増えると思われる。ちなみにレジ袋が広まる前は、みんな風呂敷を下げるなどして買い物行っていた。「サザエさん」を見ると、サザエさんの時代には買い物かごを下げて買い物に出掛けるのが当たり前だったことがわかる。入れ物はこちら側で用意していたのだ。ただ新型コロナが流行ってからは、エコバッグにはコロナウィルスが付着する可能性が高いということでアメリカで使用禁止になるなど、逆行した動きも出始めている。


ジェンダーの問題。日本のジェンダーの先進度は、調査に協力した150ほどの国と地域の中で121位とかなりの下位。先進国の中では最下位である。仏教界でも女性の役割は、お茶くみ、掃除、雑用など、バブル期の一般職OL(お茶をくむことだけが仕事の「お茶くみOL」というものが実在した。今から振り返ると嘘のようだが)や現在の派遣社員の一部の仕事と同じようなものに限られており、また女性自身がそれを望む傾向にもあるという。

仏教の声明も男声の音程に合わせて行われるのが基本であるが、真宗興正寺派は次期門主が女性(真慶。俗名:華園沙弥香)になることが決定しているため、女声に合わせた声明も考案されようとしているようだ。

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2020年3月18日 (水)

2346月日(20) 茨木市立川端康成文学館

2020年2月23日 大阪府茨木市の茨木市立川端康成文学館にて

茨木市立川端康成文学館に向かう。入館無料である。
川端康成は、生まれは大阪市内の天満だが、両親が共に病弱であり、2歳の誕生日を迎える前に開業医であった父親が、3歳の誕生日を迎える前に母親が他界したため、以降、茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)を卒業する18歳まで茨木にある祖父母の家で育っている。

川端も未熟児として生まれ、病弱であったため、小学校に入っても同い年の子などと遊ぶことは難しく、読書をして過ごす時間が長かった。川端の家は、元を辿ると北条平氏に繋がる名家であり、江戸時代には茨木一帯の庄屋を務めていた。祖父の代に没落するが、庄屋ということで父も祖父も教養があり、漢詩や文人画などに通じていた。というわけで祖父は蔵書家でもあり、川端は読む本に困らなかったようである。小学校に上がる前にある程度の読み書きが出来るようになっていた川端にとって学校での授業は退屈であり、授業中にも本を読んで過ごすことがあったようである。
茨木中学校へは片道6キロを歩いて通学。体も次第に丈夫になっていった。祖父は目が不自由であったが、川端に将来画家か小説家になるよう勧めたという。

茨木中学からは第三高等学校(今の京都大学の教養課程)に進む生徒が多いのだが、川端は第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学。東京で寄宿舎生活を送る。「ダルビッシュ有に似ている、もしくはダルビッシュ有が似ている」という写真が撮られたのがこの一高時代である。
一高を卒業すればそのまま東京帝国大学に進めるシステムもあり、川端は文学部英文科に進学。その後、国文科に転科して卒業している。一高から東大という過程が大阪人らしくないため(三高から東大という人は結構いる)、川端が大阪人だと知らない人も結構多そうである。
小説家としての川端は鎌倉市二階堂に居を構え活動を行っている。あるいは先祖の北条氏が治めていた場所だからなのかも知れない。

小さな文学館であり、展示などもそれほど充実しているわけではないが、川端の直筆原稿などを読むことが出来る。映像コーナーもあり、川端康成の生涯を辿るドキュメンタリーや少年時代の川端を描いたアニメーションなどを楽しめるようになっている。
川端の鎌倉二階堂の書斎を再現したコーナーもあり、希望する場合は職員に申し出て執筆体験が出来るようである。川端の小説などを原稿用紙などに模写することになるようだが、私はそれなりの文章を書ける自信はあるので、わざわざ川端になる必要はない。

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2019年12月 6日 (金)

2346月日(19) 「カルチャートーク Creator@Kamogawa」 第1部「場所の記憶」&第2部「ラ・長い息」 2019.11.30

2019年11月30日 荒神橋のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川にて

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で午後3時から「カルチャートーク Creator@Kamogawa」を聴くことする。
始まる前にゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川内にあるカフェ・ミュラーで食事。本格的な食事は2種類だけで、鳥料理のものを選ぶ。

 

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川での「カルチャートーク Creator@Kamogawa」は1階のホール(ザール)での開催。ドイツの建築家・美術家であるミヒャエル・ヒルシュビヒラーと宗教人類学者の植島啓司の対談による第1部「場所の記憶」と、ドイツの美術家であるレニ・ホフマンと美術家の今井祝雄(いまい・のりお)との対談である第2部「ラ・長い息」の二本立てである。いずれも司会進行役は小崎哲哉が務める。イヤホン付きの機械を使うことで日独同時通訳音声を聞くことが出来る。

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第1部「場所の記憶」。ミヒャエル・ヒルシュビヒラーは、1983年生まれ。哲学と建築をベルリンとチューリッヒで学び、現在はミュンヘンとチューリッヒを拠点に美術と建築の境界領域で活動。パプアニューギニアでの調査や教育活動も行っている。

ヒルシュビヒラーは、「ナラティブな考古学」と称した調査探索をパプアニューギニアで行っており、パプアニューギニアに伝わる怪談話や口語伝承を現地の人から聞き取っているそうである。
また、アゼルバイジャンの首都バクーの油田では、石油を使って絵を描き、組み上げポンプの音を録音して音楽を作るという試みも行っている。実は、石油を使って絵を描いている時に、立ち入り禁止のところに入ってしまって逮捕されたこともあるそうだ。
石油で描いた絵をギャラリー内に再現するということも行っているそうだが、これらをアゼルバイジャンの外に持ち出すのは許可がいり、下りていないため、ヨーロッパでの再現はまだ果たされていないそうである。おそらくバクー市内のギャラリーでの再現に留まっているのだろう。

一方の植島啓司は、1947年東京生まれ。東京大学と同大学院博士課程修了。ニューヨーク・ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授などを歴任し、現在は京都造形芸術大学空間演出デザイン学科教授を務めている。熊野の民俗学や聖地の研究などを行っている。

植島は「聖地は自然発生的に出来るもので、個人が聖地を作り出すことは出来ない」と主張しており、全く反対の考え方をしている荒川修作と共に聖地調査を行ったこともあるそうだ。
植島は、世界的な聖地としてアルメニアに注目しているという。アルメニアのアララト山は、エデンの園のモデルとなったところだそうで、またアルメニア国内にはノアの箱舟伝説の最初期の形態が残っているという。
熊野に伝わる小栗判官の話などもする。地獄に落とされた小栗判官が蘇るという物語だが、このように非業の死を遂げた人を神様として祀るという習慣が日本にはある。京都での例として北野天満宮が挙げられていたが、京都にはそれ以外にも上御霊神社、下御霊神社、白峯神宮、崇道神社など、怨霊を神様として味方にするという風習がある。これは世界的に見ても珍しい習慣であることは間違いない。小崎によると、他の国では地獄に落ちた人が罰せられるという救いのない話になることが多いそうだ。ヒルシュビヒラーによると、パプアニューギニアにもそんな話はないそうである。パプアニューギニアに伝わるナラティブには、例えば、母親が留守の時に父親が息子を殺してバラバラにし、庭に撒くと草木や花が生えてきて、戻ってきた母親がそれを見て喜ぶという、論理も倫理道徳もない不思議な話が多いそうである。

ヒルシュビヒラーも、「個人で聖地を作ることは出来ない」という植島の意見には賛成するが、「聖地から影響を受けて新たなものを作り出すことは可能」という考えを持っているそうだ。京都に来て、様々な妖怪の話や怪談を集めて回っているが、文学からのアプローチでは、まず日本の古典を読むことを始めたそうで、上田秋成の『雨月物語』を読むことにした。それもドイツ語訳されたものではなく、日本語の文章をGoogle翻訳機にかけたもので読もうとしたそうだが、翻訳機能がまだ正確ではないので、わけのわからないものになったそうだ。ただその滅茶苦茶さが面白いという。これはパプアニューギニアで採取した物語のわけのわからなさにも繋がっているのだろう。
京都について、ヒルシュビヒラーは、「古いものと新しいものがこれほど渾然一体となっている都市は世界中を探しても存在しない」ということで、京都という場所の歴史的重層性を芸術作品にしようと、妖怪が描かれた絵巻物を、幽霊が出るという噂のあるトンネルの中に置き、一晩寝かせた状態のものを作品とするという試みなどを紹介する。トンネルというのは近年になってから出来たもので、絵巻物の上にはタイヤの跡などがついているが、自動車も古くからあったものではない。時代の異なるものが合わさったものを重層性のある芸術作品として捉えるというあり方である。

植島は曼荼羅が土地の代わりになるという日本の考え方を紹介する。これもある意味、土地が芸術作品を生み出す例と見ることも出来る。また記号の中に物語が展開される例があるとして、中央オーストラリアのワルビリ族のイコノグラフィーを紹介する。不思議な絵のようなものが並んでいるが、全てに意味があるそうで、見て感じる物語のようなものとなっているようである。また、蛇の物語が最初に置かれているのだが、この蛇の物語は世界中の至る所で見られるそうで、例としてメソポタミアの英雄マルドゥクと大地の精霊ティアマトの絵が資料に印刷されていたが、考えてみればエデンの園の物語で悪役となっているのは蛇であり、日本でも箸墓伝説など蛇が重要な役割を果たすものは枚挙にいとまがない。

あるいは、聖なる意識というものは人類の奥底で繋がっていて、それが特別な場所や手段を経て、人類の意識上において再結合するものなのかも知れない。

 

第2部「ラ・長い息」。タイトルは、レニ・ホフマンが決めたそうだが、ドイツ語で「LA LANGER」という語感で決めたそうである。レニ・ホフマンは、自らを「アナーキスト」と語っており、前衛芸術を生み出す人であるようだ。

レニ・ホフマンは、1962年生まれ。デュッセルドルフとカールスルーエを拠点に、サイトスペシフィック(場所に帰属する芸術)な創作活動を行っているそうである。2002年よりカールスルーエ芸術アカデミーの教授を務めている。レニ・ホフマンの芸術を捉えるには「パンク」や「遊び」が重要なワードとなるようだ。

対談相手の今井祝雄は、1946年生まれ。1965年に吉原治良が率いる具体美術協会の最年少会員となる。その後、大津市にある成安造形大学教授を経て現在は同大学の名誉教授の称号を得ている。
具体美術協会では、展覧会に出展する作品などは全て吉原治良が選定していたそうだが、評価に関しては「ええで」か「あかん」の二つだけだったそうで、「ええで」と言われた時はいいが、「あかん」と言われたときは理由がわからず、悶々とすることもあったという。自分が教育者や選定者として活動する立場となった時は、流石に「ええで」と「あかん」の二つで決めるというわけにはいかず、駄目なときでもその理由を説明するようにはしているそうである。
吉原には、「これまでにないものを作れ」と何度も言われたそうで、それが作家としての指針となってきたようだ。ただ小崎によると現代芸術は新しいものを求める一方で、その根拠や歴史的な文脈を求めるところがあるそうで、真逆のことをやらねばならない難しさがあるようである。

レニ・ホフマンは、サイトスペシフィックとはいうが、デジタルな思考として「昨日」「今日」「明日」が一度に見えるような作品を指向するなど、重層性ということに関してはヒルシュビヒラーと繋がる部分があるように感じられる。
レニ・ホフマンの芸術観は、日本の観念だと「無常」と相性が良く、その日、その場所、その人でなければ味わえないアートを理想としているようである。第2部開始前に聴衆全員に粘土をこねたボールが配られたが、粘土は誰でも手軽に形を変えることの出来る芸術という意味があるようだった。私も色々と押しつぶして形を変えてみた。結局のところありきたりの形にしかならなかったわけだが。他の人も色々と試していたが、飛び抜けて創造的な作品を作ることは難しいようだった。

ある意味、「個」としての体験を重要な芸術感覚と捉えているようで、第2部終了後、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の裏庭に設けられたレニの作品を皆で鑑賞したのだが、様々な角度を向いたミラーに人々が映り込むことで、1回きりの芸術体験が出来るようなものであった。1回きりではあるがそれは瞬間瞬間においてはということで、形を変え続ける作品をずっと見続けることは出来る。ただ、写真とは相性は悪く、私もスマホで何枚か撮影したが、「写真には写らない美しさがある」作品だと確認した。

レニは芸術の幅を広げることを重要視してるようだが、今井によるとメンターの問題として美術系芸術系大学が増えて、売り出し方までも教えるようになった結果、アカデミズムから抜け出ることが難しくなっているという。
都市芸術にも話は及ぶ。都市芸術というと、私などは名古屋市立美術館で観たハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川源平、中西夏彦による前衛芸術グループ。東京の路上で過激なパフォーマンスを行うことで都市における芸術を提唱した)を思い浮かべるが、今井も御堂筋の3階建てのビルの最上階のネオンを使った都市芸術作品を作ったことがあるそうである。レニも都市は市民にとって重要な表現の場という考えを抱いているようであった。

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2019年11月23日 (土)

2346月日(18) 兵庫県立美術館 日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ショパン―200年の肖像」

2019年11月9日 兵庫県立美術館ギャラリー棟3階にて

神戸へ。岩屋の兵庫県立美術館ギャラリー棟3階で日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ショパン―200年の肖像」を観る。

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兵庫県立美術館は京都から行くには遠い。以前に1回行ったことがあるのだが、その時は神戸に泊まっての帰りかなにかであり、京都から向かったわけではない。

午後1時過ぎに出て、阪急大阪梅田駅で降り、阪神大阪梅田駅から岩屋に向かうという道筋を採ったのだが、阪神の普通電車に乗ってしまい、思ったよりも進まないということで、尼崎駅で特急に乗り換えて御影駅まで行き、そこから普通で岩谷駅に向かうというルートを辿る。尼崎駅のホームからは、尼崎上の模擬天守が見えた。

 

兵庫県立美術館ギャラリー棟3階の「ショパン―200年の肖像」展入り口に着いたのだが午後4時少し前。1時間で回れるだろうと踏んでいたのだが、想像していたよりも展示品がずっと多く、最後の方は駆け足で見てまわることになった。

まずは、ヴワディスワフ・ヤールが描いた、ショパン作品にインスパイアされた絵画作品(エッチング)が並ぶ。ポロネーズ、前奏曲、ノクターン、バラード、即興曲などが並ぶが、必ずしも楽曲から受けるイメージ通りのものを描いたわけではない。

その後は、ショパンの肖像画が並ぶ。本格的なものからマンガ風のものまであるが、中には本来は抽象的な作風を特徴としていたヘンリク・スタジェフスキが、共産主義的リアリズムを強制されて描かれたショパンの肖像画などもあり、ポーランドが辿った歴史を確認することも出来る。

ショパンの肖像画として有名なものに、ドラクロアが描いたものがあるが、実はドラクロアによる肖像画は元々は「ショパンのジョルジュ・サンド」という二人を描いた作品として発表されたものが、いつの間にか二つに分けられて別々に展示されるようになったものである。今回の展覧会では、ルドヴィク・ヴァヴリンキェーヴィチが復刻した「ショパンとジョルジュ・サンド」が展示されていた。

ローベルト・シュピースがショパンの24の前奏曲全曲のイメージ画連作も展示されている。元々一般的なイメージは避けて描かれたものが多いといわれているそうだが、確かになぜこうなったのかよくわからないものもある。ただ、イメージ通りの絵を描いたとしたらそれはそれで面白くないだろう。絵は音楽の従者ではないのであるから。エウゲニウシュ・ピヘルやズィグムント・パドフスキなども同様の仕事を行っており、それぞれの個性がある。

 

壁一面に、ドゥシュニキ=ズドルイ・ショパン音楽祭や、アントニン「秋色のショパン」国際音楽祭、マリアーンスケー・ラズーニェ・ショパン音楽祭のポスターが並ぶ。ポーランドはポスター芸術も盛んだそうである。フォルマリズム的な、いかにも東側の芸術といった感じのポスターもあるが、少女マンガ風のものがあったり、アンディ・ウォーホルの影響が見られる作品があったり、ルネ・マグリット風の絵があったりとバラエティに富んでおり、また近年のものはポップでお洒落である。
スピーカーからは、ピリオド楽器で弾かれたショパンの曲が流れていた。

日本におけるショパン受容のコーナーもある。日本で最初にショパンの曲を弾いたのは、音楽取調掛(東京音楽学校と東京芸術大学の前身)の学生であった遠山甲子という女性である。また日本人でショパン弾きとして最初に評価されたのが、澤田柳吉(1886-1936)であり、澤田の紹介として、澤田が作・編曲をした「セノオ楽譜 お江戸日本橋」が展示されている。日本人で最初にショパン作品の録音を行ったのも澤田だそうで、SPに「ポロネーズ」作品40-1と「ワルツ」作品64-2を吹き込んでいるという。

 

ショパンが見たであろう、ワルシャワの風景を描いた絵画の展示が続く。描かれたいくつかの建物の中では、ショパンがピアノ演奏を行った記録が残っているそうだ。ショパンもショパン自身の演奏を聴いた人も、確実にこの景色を見ていたということになる。

余り有名ではない、ショパンの父親に関する展示もある。フリデリク(ポーランドの発音により近い表記ではこうなるらしい)・ショパンの父親であるニコラはフランスのロレーヌ地方の生まれなのだが、ニコラが生まれる5年前まで、ロレーヌは独立国だったそうで、しかも大公はポーランド人だったそうである。そのこともあってニコラもポーランド人に仕えており、主のポーランド移住に伴ってニコラもポーランドに移ったようである。ポーランドに移住後は、ニコラはポーランド風のミコワイを名乗るようになる。

続いて、パリでのショパンとその周辺の人々の肖像画並ぶ。ニロラ=ウスタシュ・モランの「著名なピアニスト達」には、ショパンに加えて、フランツ・リストやジーギスムント・タールベルクらが勢揃いした像が描かれている。ショパンの肖像として最も有名なものは、アリ・シェフェールのものだと思われるが、アリ・シェエールの筆によるフランツ・リストの肖像や、画家としてのシェフェールの代表作なども同時に展示されている。

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若き日のショパンを描いたものとして有名なマリア・ヴィジスカのものや、ショパンのデスマスク、ショパンの左手像などを経て、いよいよショパンの自筆譜の展示がある。紙と筆跡を守るため、セパレーションで区切られた暗室の中に、ショパンの自筆の手紙と譜面が展示されている。近づくとケースの灯りがともる仕掛けとなっている。エチュードヘ長調作品10-8と、ポロネーズヘ短調71-3。閉館時間が迫っていたのでじっくりと見ることは出来なかったが、長い時間見たからといって感動が増すわけでもない。とりあえず、「見たぞ」という記憶と瞬間の映像を脳に刻む込む。

最後は、ショパン国際ピアノコンクール関連の展示である。コンクールのポスターが展示され、優勝者であるマウリツォ・ポリーニやクリスティアン・ツィマーマン、入賞者の中村紘子らの写真を確認することが出来る。映像の展示もあるが、残念ながら見ている時間はなかった。

会場を出てすぐの壁にショパンの手紙の翻訳が貼られている。ショパンは日記や手記などを残さなかった人であり、直接残された言葉は手紙に記されたもののみであるようだ。

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