カテゴリー「ロシア」の32件の記事

2023年2月 1日 (水)

コンサートの記(824) 鈴木優人指揮 京都市交響楽団第674回定期演奏会

2023年1月21日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第674回定期演奏会を聴く。指揮は古楽界のサラブレッドでもある鈴木優人。

バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の首席指揮者としてもお馴染みの鈴木優人だが、今回は20世紀に書かれたロシアの作品が並ぶ。プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」、ストラヴィンスキーの弦楽のための協奏曲ニ調、ラフマニノフの交響曲第2番。全員、亡命経験がある。


午後2時頃より、ステージ上で鈴木優人によるプレトークがある。鈴木は、今日の作曲家を若い順に並べたこと、また年の差が9歳ずつであることなどを述べ、プロコフィエフやストラヴィンスキーの一筋縄ではいかない諧謔性、そしてラフマニノフの交響曲第2番の美しさ、特に第3楽章の美しさについて語った。


今日のコンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターである会田莉凡。フォアシュピーラーに泉原隆志が入る。ドイツ式の現代配置をベースにしているが、ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄りに入り、その横に打楽器群が来る。
フルート首席奏者の上野博昭は、プロコフィエフとラフマニノフの両方に出演。クラリネット首席の小谷口直子は、美しいソロのあるラフマニノフのみの参加である。


プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」。鈴木の才能が飛び散る様が見えるような、生気に満ちた演奏となる。弦は軽みがあり煌びやか、管も軽快で、プロコフィエフがこの交響曲に込めた才気がダイレクトに伝わってくるような演奏である。


ストラヴィンスキーの弦楽のための協奏曲ニ調。
迷宮を進んでいくような第1楽章、華やかで祝典的だがどことなく陰りもある第2楽章。再び迷宮へと迷い込んだような第3楽章が緻密に演奏された。


ラフマニノフの交響曲第2番。鈴木らしい「気品」をもって演奏されるが、時に「荒ぶる」と書いてもいいほどの盛り上がりを見せる。「上品」と「豪快」の二項対立を止揚したようなラフマニノフであり、単に美しいだけでないパワフルさが示される。
第3楽章の小谷口直子のソロも理想的。こぼれそうな美音が憂いを込めて演奏される。無常観を砂糖でくるんだような甘悲しさが耳を満たす。
第4楽章の爆発力も素晴らしく、この曲が20世紀の大交響曲(良い意味でも悪い意味でも)であることが如実に示された。優れたラフマニノフ演奏であった。

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2022年11月25日 (金)

コンサートの記(815) パスカル・ロフェ指揮 「京都コンサートホール×京都市交響楽団プロジェクト vol.3 セルゲイ・ディアギレフ生誕150年記念公演『天才が見つけた天才たち』」

2022年11月6日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、「京都コンサートホール×京都市交響楽団プロジェクト vol.3 セルゲイ・ディアギレフ生誕150年記念公演『天才が見つけた天才たち』」を聴く。京都市交響楽団をパスカル・ロフェが指揮したコンサート。定期演奏会などに比べるとチケット料金が高めで、客層も微妙に異なるような気がする。

バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の興行主として多くの名作に関わったことで知られるセルゲイ・ディアギレフ。リムスキー=コルサコフらに作曲を師事し、絵画などの芸術の擁護者として名を広めた後で音楽プロデュースを手掛けるようになり、バレエ・リュスを旗揚げすることになる。ストラヴィンスキーの「春の祭典」の騒動が有名だが、ドビュッシーやラヴェルなどフランスの作曲家を起用した有名バレエ作品を生み出してもいる。生み出すと書いたが、芸術家としては彼は自らの才能に早々に見切りをつけており、「生み出す」天才ではなく、本物の実力者を「見出す」天才であった。


今日の演奏曲目は、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲(1919年版)、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏:アレクセイ・ヴォロディン)、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」

今日のコンサートマスターは、「組長」こと石田泰尚。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。今日はコントラバスに客演が多く、そのことが関係したのか低音の鳴りが今ひとつに感じられた。フルート首席の上野博昭、オーボエ首席の髙山郁子、クラリネット首席の小谷口直子は全編に出演。ホルン首席の垣本昌芳、トランペット首席のハラルド・ナエス、ファゴット首席の中野陽一郎らは降り番であった(ハラルド・ナエスは無料パンフレットに名前は載っていたが姿は見せず)。チェロ首席にはルドヴィート・カンタが客演で入る。


ストラヴィンスキーの「火の鳥」。パスカル・ロフェらしい明晰で分離の優れた演奏である。迫力よりも構造重視であり、こうした演奏をさせるとロフェは抜群の適性を見せる。


プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。「蜜蜂と遠雷」でも知名度を上げた曲だが、元々、超絶技巧のかっこいい曲としてピアニストに人気であり、コンクールなどではかなり取り上げられることが多いようである。

ソリストのアレクセイ・ヴォロディンは、モスクワ音楽院に学び、ゲザ・アンダ国際コンクールに優勝。協奏曲のソリストとしても多くの名指揮者と共演を重ねている。

名手のヴォロディンであるが、緩やかな部分でのリリシズムが魅力的。高音の冴えも素晴らしい。速い部分が団子になって聞こえたのだが、ペダリングにも問題はなく、おそらくホールの音響と今日の私の席(2階席のサイド、といっても2階席はサイドとポディウムしかない訳だが、いずれにせよピアノを聴くのに適した席ではない)の問題であると思われる。2階席のレフトサイドで聴いたが、あるいは同じ2階席ならライトサイドの方が音は良かったかも知れない。

アンコール演奏は、ショパンの12のエチュード作品25-1。リリカルな演奏であった。


リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」。ロフェは京響から立体的な音響を引き出し、コンサートマスターの石田泰尚のソロも見た目とは裏腹に美麗にして優しげで、「美演」として高く評価したい演奏となった。ロフェはこれらの曲目を手掛けると本当に上手い。

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2022年8月 4日 (木)

観劇感想精選(440) 兵庫県立ピッコロ劇団 「三人姉妹」

2022年7月20日 尼崎・塚口の兵庫県立ピッコロシアター中ホールにて観劇

午後6時30分から、尼崎・塚口のピッコロシアター中ホールで、兵庫県立ピッコロ劇団の「三人姉妹」を観る。ピッコロ劇団の島守辰明の翻訳と演出での上演である。島守はロシア国立モスクワ・マールイ劇場(「マールイ」は「小さい」という意味で、「大きい」を意味する「ボリショイ」の対義語)及びマールイ劇場附属シェープキン演劇学校で学んでおり、ピッコロ劇団でもチェーホフ作品を手掛けている。

チェーホフの四大戯曲の一つである「三人姉妹」。日本語訳テキストの上演のほかに翻案作品も数多く作られていることで知られている。私も「三人姉妹」はいくつか観ているのだが、納得のいく出来のものにはまだ出会えていない。チェーホフの上演は想像よりも難しく、そのまま上演するとあらすじを流したようになってしまい、下手に手を加えるともうチェーホフ作品にならない。かなり繊細な本で、これまでは無理に「面白くしてやろう」と手を加えて、全体が捉えられなくなり、結果としてとっちらかったような印象ばかりが残ってしまうことが多かった。


出演は、吉江麻樹(オリガ)、樫村千晶(マーシャ)、有川理沙(イリーナ)、谷口遼(アンドレイ)、山田裕(ヴェルシーニン)、今仲ひろし(クルイギン)、鈴木あぐり(ナターリヤ=ナターシャ)、堀江勇気(ソリョーヌイ)、三坂賢次郎(トゥーゼンバフ)、杏華(アンフィーサ/母)、風太郎(フェラポント/父)、チェブトゥイキン(森好文)。

「三人姉妹」に通じた方の中には、「あれ?」と思われる役名が存在すると思われるが、「生と死」「在と不在」を強調するために、幽霊役も演じる俳優がいるのである。


ロシアの田舎。チェーホフの指定によると県庁所在地の街が舞台である。ただ、三人姉妹が暮らす屋敷は、駅や街の中心地からも遠い。

三人姉妹の長女であるオリガは教師として働き、次女であるマーシャ(マリア)は、教師であるクルイギンと結婚。二十歳で世間知らずのイリーナは働くことに夢と希望を持っているが、実際に電信局で働き始めると、夢も詩も思想もない生活に辟易し始める。

三人の憧れの地として、11年前に離れた故郷であるモスクワの名が何度も語られるが、結局はその街は、行くことのままならない理想郷としてのみ語られる。人類がたどり着くべき未来などもモスクワという言葉に仮託されている。良いことなどなにも起こらぬままの人生を働くことなどでなんとか乗り切ろうとする人生の悲しい姿がそこにある。

この作品の最大の謎の一つが、ナターシャ(ナターリヤ。ロシア語には愛称の種類がたくさんあり、一人の人間に対して多くの愛称が語られるため、ロシア語圏以外の観客を戸惑わせる元となっている。ロシアの小説には、愛称の注釈なども載っていることが多いので、読んで慣れるしかない)という女性である。最初は恥ずかしがり屋で頼りない印象を与える(今日はそれほどではなかったが)が、冒頭から4年ほどが経過した第2幕では、アンドレイとの間に生まれた子どもの環境を良くするために、イリーナの部屋を明け渡すよう要求するなど、かなり図々しい性格に変化しており、最終的には当家の女主のように振る舞う。この女性は一体何なのか? ただの悪女として登場しただけではないはずである。
ロシア文学を読んでいると、当初は大人しく世間知らずだった若い女性が、いつしか相手の男をしのぐ強い女性に変身しているというケースがままあることに気づく。チェーホフの「かもめ」のニーナもその一人だし、プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」のタチヤーナもそうだ。いずれも「余計者」の相手役であるが、ナターシャの相手となるアンドレイも「余計者」とまではいかないが、大学教授や市井の研究家となることを期待されるも果たせず、片田舎の市会議員で満足するしかなく、子どもをあやして生活するような、ナターシャの尻に敷かれている男である。
単純に時が経過したということなのかも知れないが、ナターシャの場合は、ニーナやタチヤーナに比べてはるかに化け物じみており、実際に「怪物」と形容するセリフがある。なにかのメタファーだと考えてよいと思われるが、すぐに思い浮かぶもの、例えばロシアという国家などはおそらく正解ではない。目の前の人生を生きやすくし、一方で誰かに迷惑を掛けるような指向性のメタファーである。そうなると現在の世界を覆う多くの主義主張はナターシャのような怪物になってしまう訳だが。あるいは「現実主義」という言葉が彼女の性格をより的確に表しているのかも知れない。
見方を変えれば、ロシアがヨーロッパに対して抱く恐れをあるいは体現しているのかも知れないが。

街は駐屯している軍隊の恩恵を受けており、実際にマーシャはヴェルシーキンと、イリーナはトゥーゼンバフやソリョーヌイという軍人と恋愛関係になるが、軍隊が去るのと同時に彼らも目の前から消えていく。トゥーゼンバフに至ってはこの世から去る。太宰治がとある有名小説にその影響を記したと思われる言葉は果たされることなく終わる。

神も希望もなにもない世界を、ゴドーが来るまで立ち去ることが出来ないジジとゴゴのようにただ生きなければならないという寂寥。今回のラストでは、三人姉妹とアンドレイの父と母、ヴェルシーキン、トゥーゼンバフとソリョーヌイら去る人、去った人が竹林をイメージした茂みの向こうに立ち、上手へと去って行くという演出が施されていた。皆、「希望」でもあった人である。そうした何の望みもない場所で、生きていかねばならないという不条理がカタルシスを呼ぶよう工夫されていた。

「生と死」「在と不在」と描くため、青や緑といった寒色系の照明の多用が特徴。音楽も、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章以外は、アンビエント系のものが用いられており、生きる希望が沸くようなドラマに欠けた現実世界を照射しているかのようであった。

これが正解という訳では勿論ないが、「三人姉妹」の再現として良い点を突いた演出であることは間違いない。大手プロダクションが手掛ける「三人姉妹」は、どうしても大物女優がキャスティングされやすくなるが、「三人姉妹」に関しては、有名女優であることが却ってマイナスに働くであろうことは容易に察せられる。必要なのは三人の特別な姉妹ではなく、群像劇に溶け込める平凡な三人の姉妹である。その点でも今日の上演は理想に近いものであったといえる。

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2022年7月21日 (木)

これまでに観た映画より(301) ドキュメンタリー映画「ナワリヌイ」

2022年7月15日 京都シネマにて

京都シネマで、ドキュメンタリー映画「ナワリヌイ」を観る。ロシアのプーチン大統領の唯一の対抗馬的存在であるアレクセイ・ナワリヌイに密着したCNNのドキュメンタリーである。監督はダニエル・ロアー。

プーチンの事実上の独裁が続くロシア。数少ない反プーチンの実力者がアレクセイ・ナワリヌイであるが、そのナワリヌイがノヴォシヴィルスクからモスクワに向かう飛行機に搭乗中に毒殺されかかるという衝撃的な出来事が起こる。飛行機は途中の空港で緊急着陸、ナワリヌイは入院するが、ユリア夫人はロシアの病院は信用出来ないと各方面に訴え、ドイツのメルケル首相が受け入れを表明。ナワリヌイはベルリンの病院に入院し、快復することになる。暗殺未遂に使われたのはノビチョクという毒物であり、モスクワにある研究所がノビチョクを使った劇物の製造を行っていたことが分かる。この研究所と手を組んだプロの暗殺集団がノヴォシビルスクからモスクワに向かう飛行機に搭乗していたことも判明。ナワリヌイ達は、支援者である情報解読のスペシャリスト達と共に、毒殺未遂事件の真相を追うことになる。

研究所の化学者の一人が、電話の向こうのナワリヌイ達を味方と信じて概要を漏らしてしまうシーンなどは、一級のサスペンスやスパイ映画を観ているようであるが、これはフィクションではなく(編集でブラッシュアップされているだろうが)ドキュメンタリー映画で、実際に起こっていることがカメラに収められているのだと思うと底知れぬ恐怖を覚える。極めて面白いドキュメンタリー映画であるが、これほど面白いドキュメンタリー映画は実は制作されないのが最上というアイロニーも感じる

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2022年3月25日 (金)

Eテレ 「ドキュランド 『プーチン大統領と闘う女性たち』」

2022年2月25日

Eテレでドキュランド「プーチン大統領と闘う女性たち」を見る。2021年製作のイギリスのドキュメンタリー。プーチン大統領独裁下のロシアで、反プーチンのナワリヌイを支持しようとしたり、自ら立候補しようとする女性達に迫っているが、ロシアのやり方はかなり強引且つ滅茶苦茶で、立候補の完全阻止が行われている。「新型コロナウイルスを広めようとした」「新型コロナウイルスに感染した」として刑務所化している病院に閉じ込めるという政策である。「『よし、パンデミックだ、これを利用しよう』。こんなことをしている国は世界でロシアだけ」と彼女達も揃って苦笑するが、ここには民主主義も公正な選挙もなく、20世紀のソ連となんら変わりのない警察国家が続いている。

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2022年2月21日 (月)

観劇感想精選(427) 文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」@びわ湖ホール

2022年2月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」を観る。作:アントン・チェーホフ、台本・演出:松本修(MODE)。

滋賀県が、令和2年3月に作成した「滋賀県障害者文化芸術活動推進計画」に基づいて行われる、「障害のある人やない人、年齢のちがう人、話す言葉がちがう人など、さまざまな人が支えあうことで、だれもが自分らしく活躍できる滋賀県をつくる」ために発足した「文化芸術×共生社会プロジェクト」の一つとして行われる公演である。

出演者は、数人のプロフェッショナルや演技経験者を除き、オーディションで選ばれたキャストによって行われる。オーディションは、演技経験や障害の有無を問わずに行われ、約3ヶ月の稽古を経て本番を迎える。一つの役に複数の俳優(読み手)が扮し、幕ごとに役が交代となる。朗読劇であるが、座ったまま読むだけでなく、立ち上がって動きを付けたり、経験豊富な俳優は一般上演さながらの演技も行う。

出演は、花房勇人、吉田優、保井陽高、山下佐和子(以上、トレープレフ)、木下菜穂子(元俳優座)、齋藤佳津子、住田玲子(以上、アルカージナ)、廣田誠一、江嶋純吉、山口和也(以上、トリゴーリン)、平川美夏、高木帆乃花、服部千笑、西田聖(以上、ニーナ)、大辻凜、西山あずさ、飯田梨夏子、伊東瑛留(以上、マーシャ)、大田新子、梅下節瑠、横田明子、藤野夏子(以上、ポリーナ)、孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)、小田実(以上、シャムラーエフ)、布浦真(ドールン)、清水亮輔、佐藤海斗(以上、メドヴェージェンコ)、HERO、森川稔(以上、ソーリン)。
ナレーター:孫高宏&清水洋子。ピアノ演奏:松園洋二。松園は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」などのロシア音楽を中心に演奏。第4幕のトレープレフが舞台裏でピアノを弾くという設定の場面では、ショパンの夜想曲第20番(遺作)を奏でた。

聴覚障害者のため、舞台下手側で手話通訳があり、背後のスクリーンにもセリフが字幕で浮かぶ。また視覚障害者のためには、点字によるパンフレットが配布された。

湖のほとりを舞台とした芝居であるチェーホフの「かもめ」。それに相応しい湖畔の劇場であるびわ湖ホール中ホールでの上演である。
また、スクリーンには、滋賀県内各地で撮られた琵琶湖の写真が投影され、雰囲気豊かである。

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新劇の王道作品の一つである「かもめ」であるが、接する機会は思いのほか少なく、論外である地点の公演を除けば、新国立劇場小劇場で観たマキノノゾミ演出の公演(北村有起哉のトレープレフ、田中美里のニーナ)、今はなきシアターBRAVA!で観た蜷川幸雄演出の公演(藤原竜也のトレープレフ、美波のニーナ)の2回だけ。マキノノゾミ演出版はそれなりに良かったが、蜷川幸雄演出版は主役の藤原竜也が文学青年にはどうしても見えないということもあり、あらすじをなぞっただけの公演となっていて、失敗であった。蜷川は文芸ものをかなり苦手としていたが、「かもめ」も省略が多いだけに、表現意欲が大き過ぎると空回りすることになる。

今回の「かもめ」であるが、演技経験を問わずに選ばれたキャストだけに、発声などの弱さはあったが(字幕があったためになんと言ったか分かったことが何度もあった)、きちんとテキストと向き合ったことで、セリフそのものが持つ良さがダイレクトに届きやすいという点はかなり評価されるべきだと思う。テキストそのものに力があるだけに、余計なことをしなければ、「かもめ」は「かもめ」らしい上演になる。第4幕などはかなり感動的である。涙が出たが、人前で泣くのは嫌いなので指で拭って誤魔化した。


「かもめ」は、「余計者」の系譜に入る作品である。主人公のコンスタンチン・トレープレフは、有名舞台女優のアルカージナの息子であり、教養も高く、天分にもそれなりに恵まれた青年であるが、これといってやることがなく、日々を無為に過ごしている。彼が湖畔の仮設舞台で、ニーナを出演者として上演した演劇作品は、生き物が全くいなくなった世界で、それまでの生物の魂が一つになるという、先端的な思想を取り入れたものであり、観念的であるが、注意深く内容を探ってみると、トレープレフ本人が他の多くの人間よりも優れているという自負を持って書いたものであることが分かる。トレープレフが凡人を見下したセリフは実際に第3幕で吐かれる。トレープレフは、恋人であるニーナも当然ながら見下している。大した才能もないのに女優を夢見る世間知らずのお嬢ちゃん。おそらくそう受け止めていただろう。

「かもめ」でよく指摘されるのが、片思いの連鎖である。トレープレフはニーナと恋人関係にあるが、ニーナはトレープレフよりも売れっ子作家であるトリゴーリンへと傾いていく。管理人であるシャムラーエフとポリーナの娘であるマーシャはトレープレフのことが好きだが、トレープレフはマーシャの行為を受け容れないどころか迷惑がっている。そんなマーシャを愛しているのが、目の前の事柄にしか注意が向かない、教師のメドヴェージェンコである。マーシャはトレープレフの芸術気質に惚れているので、当然ながら給料が足りないだの煙草代が必要だのとシミ垂れたことをいうメドヴェージェンコのことは好みではない。

通常は、「片思いの連鎖」という状況の理解だけで終わってしまう人が多いのだが、それが生み出すのは壮絶なまでの孤独である。分かって欲しい人、その人だけ分かってくれれば十分な人から、分かっては貰えないのである。
トレープレフは、女優である母親から自作を理解されず(トレープレフがエディプスコンプレックスの持ち主であることは、直接的には関係のない場面でさりげなく示唆される)、ニーナもトリゴーリンの下へと走る。ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに出たはいいが、トリゴーリンは文学には関心があるものの演劇は見下しており、あっけなく捨てられる。マーシャは結局はメドヴェージェンコと結婚するのだが、その後もメドヴェージェンコを完全に受け容れてはおらず、トレープレフに未練がある。

そうした状況の中で、トレープレフは作家としてデビューすることになるのだが、評価は決して高くなく、中島敦の小説の主人公達のように「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にさいなまれている。作家にはなったが成長出来ていない。相変わらず他人を見下しているが、その根拠がないことに自身でも気付いている。
そこにニーナがふらりと訪ねてくる。同じ町に宿泊していたのだが、会いたくてなんどもトレープレフの家に足を運んでいたのだ(かつて自身がトレープレフの台本で演じた仮説舞台で泣いていたのをメドヴェージェンコに見られていたが、メドヴェージェンコはそれを幽霊か何かだと勘違いしていた)。
一時、追っかけのようなことをしていたため、ニーナの演技力について知っていたトレープレフは、相変わらずの何も分からない女の子だと、ニーナのことを見なしていた。それは一種の、そして真の愛情でもある。少なくとも劇の始まりから終わりに至るまで、彼がニーナを愛していない時間などただの1秒もないのであるが、至らない女性であるニーナは自分の下に戻ってくると高をくくっていたかも知れない。
だが、目の前に現れたニーナは、精神的に追い詰められていたが、自立した女性へと変身していた。トレープレフはいつの間にか追い抜かれていたのである。そして自分より上になったニーナはもう自分のものにはならない。こうなると小説家になったのもなんのためだったのか分からなくなる。

ロシアの「余計者」文学の系譜、例えばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン(私が読んだ岩波文庫版のタイトルは『オネーギン』)』などでもそうだが、当初は見下してた女性が、気がついたら手の届かない存在になっており、絶望するというパターンが何度も見られる。余計者であるが故の鬱屈とプライドの高さが生む悲惨な結末が、男女関係という形で現れるからだろうか。他の国の文学には余り見られないパターンであるため不思議に感じる(相手にしなかった男が出世しているという逆のパターンは良くあるのだが)。
ただ言えるのは、それが遠のいた青春の象徴であるということある。あらゆる夢が詰まっていた青春時代。多くの選択肢に溢れていたように「見えた」季節の終わりを、観る者に突きつける。その胸をえぐられるような感覚は、多くの人が感じてきたはずのことである。

庶民を主人公としたために初演が大失敗に終わった「かもめ」。だが、我々現代人は登場人物達の中に自身の姿を発見する。そうした劇であるだけに、「かもめ」は不滅の命を与えられているといえる。

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2022年2月 5日 (土)

コンサートの記(762) 広上淳一指揮 第17回京都市ジュニアオーケストラコンサート

2022年1月30日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、第17回京都市ジュニアオーケストラコンサートを聴く。指揮は京都市ジュニアオーケストラのスーパーヴァイザーを務める広上淳一。広上は今年の3月をもって京都市交響楽団の第13代常任指揮者兼音楽顧問を離任し、オーケストラ・アンサンブル金沢のアーティスティック・リーダーに転じる。京都コンサートホールの館長は続けるが、京都で広上を聴く機会は減ることになる。

京都市在住もしくは在学の10歳から22歳まで(2021年4月時点で)の選抜メンバーからなる京都市ジュニアオーケストラ。奏者の育成のみならず、出身者がよき聴衆、よき音楽人となるための足掛かり的な意図も持って結成されている。

今回の曲目は、サン=サーンスの歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール、チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」、ラフマニノフの交響曲第2番。

サン=サーンスとチャイコフスキー作品のコンサートミストレスは神千春が、ラフマニノフの交響曲第2番のコンサートミストレスは田村紗矢香が務める。紗矢香という字は、有名ヴァイオリニストの庄司紗矢香と同じだが、あるいはご両親が庄司紗矢香にあやかって名付けたのかも知れない。


サン=サーンスの歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール。音の厚みや密度は不足気味だが、そもそもそんなものはこちらも求めていない。オーケストラメンバーの広上の指揮棒への反応も良く、終盤は大いに盛り上がる。広上の音楽設計も見事である。


チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」。ドラマティックな演奏が展開される。サン=サーンスもそうだったが、この曲でもティンパニの強打が効果的である。個人的にはコントラバスの音型に注目して聴いたが、理由は教えない。ともあれ、切れ味の鋭さも印象的な好演であった。


ラフマニノフの交響曲第2番。大曲である。
ラフマニノフの交響曲第2番は、20世紀も終盤になってから人気が急速に高まった曲である。「遅れてきたロマン派」ともいうべきラフマニノフの大作であるが、初演以降、長きに渡って音楽関係者からは不評で、「ジャムとマーマレードでベタベタの曲」などと酷評され、そうしたマイナスの評価が支持されてきた。ラフマニノフ自身も「曲が長すぎることが不成功の一因」と考えて、カットした版も作成している。
この曲の評価上昇に一役買ったのがアンドレ・プレヴィンである。プレヴィンはこの交響曲を高く評価し、カット版での上演が普通だった時代に完全版をたびたび演奏。レコーディングも行ってベストセラーとなっている。その後にウラディーミル・アシュケナージなどがこの曲を演奏会やレコーディングで取り上げて好評を博した。日本では1990年代に「妹よ」という連続ドラマで取り上げられ、知名度が急上昇している。
今回の演奏も完全版によるものだが、カット版も今でも演奏されており、「のだめカンタービレ」のマンガとドラマに登場したことでも知られる故ジェイムズ・デプリーストが当時の手兵である東京都交響楽団を指揮したライブ録音でカット版を聴くことが出来る。

広上がヨーロッパで修行し、当初はヨーロッパでキャリアを築いたということも影響しているのだと思われるが、今回の京都市ジュニアオーケストラもギラギラしたアメリカ的な輝きではなく上品なヨーロピアンテイストの響きを紡ぎ出す。光度も十分だが、ビターな憂いを秘めていることがアメリカのオーケストラとは異なる。
京都市交響楽団ともこの曲でベストの出来を示した広上。今回もテンポ設定、スケール共に抜群で、この曲を指揮させたら日本一だと思われる。
この曲を演奏するには京都市ジュニアオーケストラのメンバーはまだ若いと思われるが、メカニックのみならず、細やかな表情付けなど内面から湧き上がる音楽を生み出せていたように思う。


広上は何度かカーテンコールに応えた後で、マイクを持って登場。「いかがでしたでしょうか? 私はもう疲れました」と言った後で、「ジュニアオーケストラとしては、私は普段はこんなこと言わないんですが、本当にこんなこと言わないんですが、日本一でしょう」と京都市ジュニアオーケストラを讃えた。また京都市ジュニアオーケストラのメンバーが音楽だけでなく、医学や化学や教育学を学んでいることに触れ、様々なバックグラウンドを持った人々が一緒に音楽をやるという教育法を「オーストリー(オーストリア)のウィーンにも似ている」と語った。ウィーンと京都は、その閉鎖性というマイナス面も含めてよく似ていると音楽家から言われることがあるが、姉妹都市にはなっていない(京都市の姉妹都市となっているのはヨーロッパではパリ市とプラハ市、ケルン市にフィレンツェ市にザグレブ市である。今注目のウクライナの首都、キエフ市とも姉妹都市になっている)。

最後に、京都市ジュニアオーケストラの合奏指導に当たった、大谷麻由美、岡本陸、小林雄太の3人の若手指揮者が登場し、広上から自己紹介するよう求められる。

大谷麻由美は、「私は30歳で京都市立芸術大学に再入学して」指揮を学んだことを語る(近畿大学を卒業後、会社員をしていた)。広上に、「大谷翔平選手のご親戚?」と聞かれて、「全く違います」と答える。

岡本陸は京都市ジュニアオーケストラの出身で、その時も指導に当たっていた広上に師事したいと思い立ち、広上が教授を務める東京音楽大学の指揮科に入学。昨年の3月に卒業したという。
広上が、「広上先生は怖かったですか?」と聞き、岡本は「怖いときも多かったです」と答えていた。

小林雄太は新潟県長岡市の出身。余り関係ないが、司馬遼太郎原作で長岡藩家老の河井継之助を主人公とした映画「峠」(役所広司主演)が近く公開される予定なので、長岡も注目を浴びそうである。
小林は岡本陸と東京音楽大学で同期であり、やはり広上に師事している。京都に来るのは中学校時の修学旅行以来久々だそうである。


アンコール曲はこの3人がリレー形式で指揮することになるのだが、大谷が作曲家名のドリーヴをドリップと言い間違い、広上に「ドリーヴね。フランスの作曲家。ドリップだとコーヒーになる」と突っ込まれていた。アンコール曲はドリーヴのバレエ音楽「コッペリア」から前奏曲とマズルカであるが、3人とも「コッペリア」についてよく知らないようで、広上に「なんだか恥ずかしいことになって来ました」と突っ込まれていた。純音楽ではなくバレエ音楽なので、少なくとも大体の意味と内容は知らないと本来なら指揮出来ないのである。
指揮者の世界には、「40、50は洟垂れ小僧」という言葉があり、指揮者として成長する道の長さと厳しさが知られている。40歳にも満たない場合は「赤ちゃん」扱いである。
ということで、アンサンブルの精度や細部までの詰めや表情付けなど、「指揮者でここまで変わるか」というほどの雑さが感じられたが、それが指揮者として成功するまでの困難さを表してもいた。

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2022年1月 8日 (土)

コンサートの記(757) 沼尻竜典指揮 「オーケストラ・キャラバン~オーケストラと心に響くひとときを~」 九州交響楽団西宮公演

2021年12月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後7時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、「オーケストラ・キャラバン~オーケストラと心に響くひとときを~」九州交響楽団西宮公演を聴く。指揮は沼尻竜典。

福岡を本拠地とする九州交響楽団。九州唯一のプロオーケストラである。人口からいえば政令指定都市である熊本市や中核市である鹿児島市にもフルサイズでなくても良いのでプロオーケストラがあっても良さそうだが、やはり難しいようである。


オール・チャイコフスキー・プログラムで、バレエ組曲「くるみ割り人形」より“小序曲”~“行進曲”、ヴァイオリン協奏曲ニ長調(ヴァイオリン独奏:神尾真由子)、交響曲第4番が演奏される。


九州交響楽団を聴くのは初めて。東京の有力オーケストラが関西で公演を行うことは比較的多いが、それ以外の地方のオーケストラは本拠内以外で公演を行うこと自体が余りない。東京での公演ならある程度集客が見込めるが、国内第2位の経済規模を誇る関西地方においても集客面で勝算があるとは言えない状況である。コロナ禍の最中ということもあるが、今日の公演も入りがいいとは言い難い。

九州交響楽団の響きは、これまでに聴いたことのある日本のオーケストラの中では日本フィルハーモニー交響楽団の音に比較的近いように思える。ただ音自体は日フィルより渋めである。

ドイツ式の現代配置での演奏。クラリネット首席に京都市交響楽団の小谷口直子が客演で入っている。


バレエ組曲「くるみ割り人形」より“小序曲”~“行進曲”。沼尻らしい明晰でシャープな音作りで、愉悦感もよく出ている。スケールはやや小さめであるが、この曲に関してはそれで一向に構わない。
チャイコフスキーのオーケストレーションは視覚面でも楽しい。


ヴァイオリン協奏曲ニ長調。ソリストである神尾真由子の十八番の一つである。
白いドレスで登場した神尾は、万全の演奏を聴かせる。メカニックが抜群なだけではなく、タメや細やかな表情付けに由来する彼女ならでは味わいが耳に心地よい。本当に良い曲であり、良い演奏だと思える。沼尻指揮の九州交響楽団も巧みな伴奏を聴かせる。


神尾のアンコール演奏は、シューベルトの「魔王」(おそらくエルンスト編曲版)。ゲーテの詩に作曲した「魔王」は語り手、父親、子供、魔王の4役を一人で歌い分ける楽曲であるが、ヴァイオリン独奏版も同様の一種の演技力が必要となってくる。高度な技術が要求される曲だが、子供が歌う部分の痛切さが印象的な演奏となっていた。


チャイコフスキーの交響曲第4番。解釈面での見直しが進むチャイコフスキーの楽曲。それまでに完成させた3つの交響曲がいずれも抒景詩的であったのに対し、交響曲第4番から第6番「悲愴」に至るまでの後期3大交響曲ではいずれも私小説のような趣を醸し出しており、作曲者の心境の変化が感じられる。

衝撃的に演奏されることが多い第1楽章の冒頭だが、沼尻は悲劇性を抑え、純音楽的な美音で奏でる。のどかに感じられるほどだが、これはその後の展開への伏線だった。
第1楽章も中盤に入ってから、沼尻は大きなギアチェンジを見せ、聴いていて胸が苦しくなるほどの慟哭を歌い上げる。前半との対比により、この曲の異様さがクッキリと浮かび上がる。あたかも地獄を見続けながら必死で正気を保っているような陰惨さが波濤のように押し寄せる。見事な設計である。

第2楽章の孤独に満ちた表情も痛烈。リアルな響きである。私にとっての「リアル」とは「切実である」ということだ。

チャイコフスキーはこの曲を完成させた後、交響曲作曲家としてはスランプに陥る。バレエ音楽などの劇音楽は作曲しており、また憧れの作曲家であったモーツァルトの楽曲研究を行うなど、それなりに有意義には過ごしていたようだが、自身の本領である交響曲が書けないという焦りは常にチャイコフスキーの中にあった。それまでの感情を全て吐露してしまったのが交響曲第4番であり、作曲を終えて空っぽになってしまったのかも知れない。

第3楽章での徹底したピッチカート演奏など、アイデアに溢れているが、どうも音楽の方から勝手にチャイコフスキーの下にやって来たような印象もあり、作曲家自身が制御し切れていない部分も多いように感じる。
交響曲第5番や第6番「悲愴」も同傾向にあるが、この2曲は第4番に比べればまだ抑制が効いているように感じられる。交響曲第4番の荒れっぷりはやはり尋常ではない。

沼尻はスケールや輪郭をきっちりと決めて、その範囲内で音楽の密度や精度を高めていくことの多い指揮者であるが、交響曲第4番においては、そうした自身の得意とするスタイルではなく、この楽曲が持つ異常性を炙り出すことに腐心しているように感じられた。ラストは本当に「狂気のパレード」という印象である。


アンコール演奏は、チャイコフスキーの弦楽セレナードから第2曲「ワルツ」。爽やかな演奏で、交響曲第4番の後で心のざわめきが少しだけ穏やかになったように感じられた。

九州交響楽団。また聴いてみたいオーケストラである。

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2021年5月 6日 (木)

コンサートの記(716) 川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団第446回定期演奏会「サンクトペテルブルク/ロシア革命100年」

2017年6月2日 名古屋・栄の愛知県芸術劇場コンサートホールにて

午後6時45分から、愛知県芸術劇場コンサートホールで、名古屋フィルハーモニー交響楽団の第446回定期演奏会を聴く。今日の指揮は名古屋フィルハーモニー交響楽団指揮者の川瀬賢太郎。

「サンクトペテルブルク/ロシア革命100年」と題されたコンサートで、曲目は、吉松隆の「鳥は静かに...」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:ノア・ベンディックス=バルグリー)、ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」

神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者としても活躍する川瀬賢太郎。1984年生まれであり、主要な日本人指揮者の中では最年少である(2017年当時)。私立八王子高校音楽科を卒業後、広上淳一に師事するために東京音楽大学指揮科に進学。広上の東京音大における一番弟子的存在でもある。

吉松隆の「鳥は静かに...」。1998年に藤岡幸夫指揮マンチェスター・カメラータによって初演された作品である。この作品は最小編成では弦楽12名、最大編成では弦楽37名によって演奏されるよう指定されているが、今回は最大編成が採用されている。
吉松らしい繊細な曲であるが、ミニマルの要素を取り入れており、内容はわかりやすい。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリンソロのノア・ベンディックス=バルグリー(男性)は、2009年のエリザベート王妃国際コンクール・ヴァイオリン部門でファイナリストに入り、2014年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターに就任している。
とにかく美音家である。歌い回しなどにも個性があるが、音の美しさが何より印象的だ。
名古屋フィルであるが、弦楽は「渋い」といえば聞こえはいいが、東京や関西のオーケストラに比べると音の輝きが十分に出ていないように思う。
木管は音の通りも良く、堅調。金管はトランペットが第1楽章では不安的であった。

ベンディックス=バルグリーのアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタより“ラルゴ”。これも美演であった。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。今日はこれを聴くために名古屋に来たのである。
21世紀に入ってからショスタコーヴィチの交響曲がオーケストラコンサートのプログラムに載ることが増えたが、交響曲第12番「1917年」は、「駄作」という評価もあり、プログラムに載ることはまだ少ない。
今年(2017年)2月に井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の第505回定期演奏会で同曲が取り上げられ、ちょっとした仮説が浮かんだのでそれを確認する意味もある。

第1楽章冒頭の暗く力強い響きと旋律に続き、ブラームスの交響曲第1番第4楽章の凱歌や、第九の「歓喜の歌」のパロディーのような旋律が現れる。この旋律は全楽章を通して登場するのだが、このメロディーだけ場違いなほど砕けた印象を受ける。やはりこの妙なメロディーがこの曲を読み解く鍵だと思われる。
ただ、川瀬自身はそうした解釈は行っていないようで、皮相にすることなく音を運ぶ。
川瀬の指揮は若さを生かした勢いのあるもので、ジャンプも飛び出すなどダイナミックである。
名古屋フィルはこの曲では音の煌めき十分の演奏を行った。弦も管も安定している。
ただ、ショスタコーヴィチの交響曲第12番を演奏するには愛知県芸術劇場コンサートホールは空間が狭いようで、フォルテシモで音が飽和するところもあった。

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2021年4月15日 (木)

コンサートの記(710) 広上淳一指揮「京都市交響楽団 スプリング・コンサート」2021

2021年4月11日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、「京都市交響楽団 スプリング・コンサート」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼音楽顧問で、京都コンサートホールの館長も務める広上淳一。

オール・ロシア・プログラムで、しかも春だというのに全て短調という曲目が並ぶ。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:小曽根真)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。
チケットは完売である。1階席の第1列だけは発売されていないが、それ以外はほぼ埋まっている。なお、新型コロナウイルスに感染して隔離中だったり、当日の体調不良者にはチケット料金払い戻しに応じるという形での開催である。

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーには尾﨑平。フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も降り番。オーボエ首席の髙山郁子は全編に出演し、トロンボーン首席の岡本哲はトロンボーンが編成に加わるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番からの登場。それ以外の管楽器首席は「悲愴」のみの出演である。

 

ラフマニノフの「ヴォカリーズ」。冒頭部分はやや音がかすれ気味でバランスなども不安定な印象を受けるが、会田莉凡がソロを奏でるあたりから抒情的な美しさが増していく。広上自身は曲にのめり込むことはせず、旋律美を自然に出すことを心がけているように見えた。

 

日本を代表するジャズピアニストである小曽根真をソリストの迎えてのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。小曽根はジャズのピアニストであるが、クラシックの演奏会に登場する機会も多い。

小曽根のピアノは、ラフマニノフを得意とするクラシックのピアニストのような堅牢さはないが、音は澄み切っており、第2楽章や第3楽章のカデンツァでジャズピアニストならではの即興演奏を繰り広げ、第3楽章の他の部分でも音を足して弾くなど、自在なピアニズムを発揮する。広上指揮の京都市交響楽団も雰囲気豊かな伴奏を奏でるが、第2楽章の木管のソロなどは首席奏者でないだけにやや情感不足。ここは勿体なかった。

小曽根のアンコール演奏は、自作の「Gotta Be Happy」うねりの中から繰り出される力強い響きが印象的で、小曽根の本領が発揮される。

 

メインであるチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。ここでは「ヴォカリーズ」とは対照的に、広上が思い入れたっぷりの演奏を行う。小柄な体を目一杯伸ばし、足音を響かせ、体を揺らしながら指揮する。

低弦とファゴットで形作られる第1楽章冒頭の陰鬱から雰囲気満点だが、ヴァイオリンが加わると不思議な清明さが音楽の中に満ち、彼岸の世界への道が眼前に開けたかのような、不吉な見通しの良さが生まれる。
第2主題の弦も透明感はそのままで、過去の良き時代を回想するような趣が生まれている。

第2楽章の5拍子のワルツも美しい演奏だが、華やかさとは違った澄んだような美しさであり、チャイコフスキーの別世界への視線が伝わってくるかのようだ。

第3楽章も力強い演奏だが、押し続けるような印象はなく、作曲者による弦と管のニュアンスの微妙なずれも感じ取れるような、明快さも持つ。胸を高鳴らせることで破滅の予感(ベートーヴェンの運命主題の音型が鳴り続ける)から目を逸らしているような曲調であるが、ラストのピッコロの悲鳴により、精神的な破綻が訪れたかのように聞こえて、第4楽章を待つことなく一途に悲しくなってしまった。

そして第4楽章。広上は旋律を大袈裟に歌うことはないが、唸り声を上げつつ思い入れたっぷりの演奏が行われる。音自体はクールなのだが、その背後ではマグマが吹き上がりそうになっている。再び過去の良き日々が回想され、ノスタルジアが聴く者の胸をかき乱す。だが銅鑼が鳴らされて、この世界との絆も絶たれ、従容と死へと赴くかのようなラストが訪れる。止みゆく鼓動を描いたとされるコントラバスのピッチカートも全ての音がはっきり聞き取れるよう鳴らされた。

演奏終了後、広上は、弦楽最前列の奏者とグータッチやエルボータッチ、リストタッチを行い、各楽器をパートごとに立たせるが、今日もティンパニの中山航介は素通りして、コントラバス奏者達に立つよう促す。中山は、「えー、今日も?」という感じでうなだれ、トリとして盛大な拍手を受けた。

広上は、「本日はお越し下さり、ありがとうございます。コロナで大変ですが、なんとかやっております。感染しないよう十分にお気を付け下さい。ただ、演奏会にはお越し下さい」というようなことを言って(正確に記憶出来た訳ではないが、ほぼこのようなことだったと思う)、「しんみり終わりましたので、明るい曲を」ということで、ビゼーの小組曲「こどもの遊び」から第5曲“ギャロップ(舞踏会)”が演奏される。立体的な音響と推進力が魅力的な佳演であった。

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