カテゴリー「ロシア」の24件の記事

2021年5月 6日 (木)

コンサートの記(716) 川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団第446回定期演奏会「サンクトペテルブルク/ロシア革命100年」

2017年6月2日 名古屋・栄の愛知県芸術劇場コンサートホールにて

午後6時45分から、愛知県芸術劇場コンサートホールで、名古屋フィルハーモニー交響楽団の第446回定期演奏会を聴く。今日の指揮は名古屋フィルハーモニー交響楽団指揮者の川瀬賢太郎。

「サンクトペテルブルク/ロシア革命100年」と題されたコンサートで、曲目は、吉松隆の「鳥は静かに...」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:ノア・ベンディックス=バルグリー)、ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」

神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者としても活躍する川瀬賢太郎。1984年生まれであり、主要な日本人指揮者の中では最年少である(2017年当時)。私立八王子高校音楽科を卒業後、広上淳一に師事するために東京音楽大学指揮科に進学。広上の東京音大における一番弟子的存在でもある。

吉松隆の「鳥は静かに...」。1998年に藤岡幸夫指揮マンチェスター・カメラータによって初演された作品である。この作品は最小編成では弦楽12名、最大編成では弦楽37名によって演奏されるよう指定されているが、今回は最大編成が採用されている。
吉松らしい繊細な曲であるが、ミニマルの要素を取り入れており、内容はわかりやすい。

チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリンソロのノア・ベンディックス=バルグリー(男性)は、2009年のエリザベート王妃国際コンクール・ヴァイオリン部門でファイナリストに入り、2014年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターに就任している。
とにかく美音家である。歌い回しなどにも個性があるが、音の美しさが何より印象的だ。
名古屋フィルであるが、弦楽は「渋い」といえば聞こえはいいが、東京や関西のオーケストラに比べると音の輝きが十分に出ていないように思う。
木管は音の通りも良く、堅調。金管はトランペットが第1楽章では不安的であった。

ベンディックス=バルグリーのアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタより“ラルゴ”。これも美演であった。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」。今日はこれを聴くために名古屋に来たのである。
21世紀に入ってからショスタコーヴィチの交響曲がオーケストラコンサートのプログラムに載ることが増えたが、交響曲第12番「1917年」は、「駄作」という評価もあり、プログラムに載ることはまだ少ない。
今年(2017年)2月に井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の第505回定期演奏会で同曲が取り上げられ、ちょっとした仮説が浮かんだのでそれを確認する意味もある。

第1楽章冒頭の暗く力強い響きと旋律に続き、ブラームスの交響曲第1番第4楽章の凱歌や、第九の「歓喜の歌」のパロディーのような旋律が現れる。この旋律は全楽章を通して登場するのだが、このメロディーだけ場違いなほど砕けた印象を受ける。やはりこの妙なメロディーがこの曲を読み解く鍵だと思われる。
ただ、川瀬自身はそうした解釈は行っていないようで、皮相にすることなく音を運ぶ。
川瀬の指揮は若さを生かした勢いのあるもので、ジャンプも飛び出すなどダイナミックである。
名古屋フィルはこの曲では音の煌めき十分の演奏を行った。弦も管も安定している。
ただ、ショスタコーヴィチの交響曲第12番を演奏するには愛知県芸術劇場コンサートホールは空間が狭いようで、フォルテシモで音が飽和するところもあった。

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2021年4月15日 (木)

コンサートの記(710) 広上淳一指揮「京都市交響楽団 スプリング・コンサート」2021

2021年4月11日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、「京都市交響楽団 スプリング・コンサート」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼音楽顧問で、京都コンサートホールの館長も務める広上淳一。

オール・ロシア・プログラムで、しかも春だというのに全て短調という曲目が並ぶ。
ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:小曽根真)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。
チケットは完売である。1階席の第1列だけは発売されていないが、それ以外はほぼ埋まっている。なお、新型コロナウイルスに感染して隔離中だったり、当日の体調不良者にはチケット料金払い戻しに応じるという形での開催である。

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーには尾﨑平。フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も降り番。オーボエ首席の髙山郁子は全編に出演し、トロンボーン首席の岡本哲はトロンボーンが編成に加わるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番からの登場。それ以外の管楽器首席は「悲愴」のみの出演である。

 

ラフマニノフの「ヴォカリーズ」。冒頭部分はやや音がかすれ気味でバランスなども不安定な印象を受けるが、会田莉凡がソロを奏でるあたりから抒情的な美しさが増していく。広上自身は曲にのめり込むことはせず、旋律美を自然に出すことを心がけているように見えた。

 

日本を代表するジャズピアニストである小曽根真をソリストの迎えてのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。小曽根はジャズのピアニストであるが、クラシックの演奏会に登場する機会も多い。

小曽根のピアノは、ラフマニノフを得意とするクラシックのピアニストのような堅牢さはないが、音は澄み切っており、第2楽章や第3楽章のカデンツァでジャズピアニストならではの即興演奏を繰り広げ、第3楽章の他の部分でも音を足して弾くなど、自在なピアニズムを発揮する。広上指揮の京都市交響楽団も雰囲気豊かな伴奏を奏でるが、第2楽章の木管のソロなどは首席奏者でないだけにやや情感不足。ここは勿体なかった。

小曽根のアンコール演奏は、自作の「Gotta Be Happy」うねりの中から繰り出される力強い響きが印象的で、小曽根の本領が発揮される。

 

メインであるチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。ここでは「ヴォカリーズ」とは対照的に、広上が思い入れたっぷりの演奏を行う。小柄な体を目一杯伸ばし、足音を響かせ、体を揺らしながら指揮する。

低弦とファゴットで形作られる第1楽章冒頭の陰鬱から雰囲気満点だが、ヴァイオリンが加わると不思議な清明さが音楽の中に満ち、彼岸の世界への道が眼前に開けたかのような、不吉な見通しの良さが生まれる。
第2主題の弦も透明感はそのままで、過去の良き時代を回想するような趣が生まれている。

第2楽章の5拍子のワルツも美しい演奏だが、華やかさとは違った澄んだような美しさであり、チャイコフスキーの別世界への視線が伝わってくるかのようだ。

第3楽章も力強い演奏だが、押し続けるような印象はなく、作曲者による弦と管のニュアンスの微妙なずれも感じ取れるような、明快さも持つ。胸を高鳴らせることで破滅の予感(ベートーヴェンの運命主題の音型が鳴り続ける)から目を逸らしているような曲調であるが、ラストのピッコロの悲鳴により、精神的な破綻が訪れたかのように聞こえて、第4楽章を待つことなく一途に悲しくなってしまった。

そして第4楽章。広上は旋律を大袈裟に歌うことはないが、唸り声を上げつつ思い入れたっぷりの演奏が行われる。音自体はクールなのだが、その背後ではマグマが吹き上がりそうになっている。再び過去の良き日々が回想され、ノスタルジアが聴く者の胸をかき乱す。だが銅鑼が鳴らされて、この世界との絆も絶たれ、従容と死へと赴くかのようなラストが訪れる。止みゆく鼓動を描いたとされるコントラバスのピッチカートも全ての音がはっきり聞き取れるよう鳴らされた。

演奏終了後、広上は、弦楽最前列の奏者とグータッチやエルボータッチ、リストタッチを行い、各楽器をパートごとに立たせるが、今日もティンパニの中山航介は素通りして、コントラバス奏者達に立つよう促す。中山は、「えー、今日も?」という感じでうなだれ、トリとして盛大な拍手を受けた。

広上は、「本日はお越し下さり、ありがとうございます。コロナで大変ですが、なんとかやっております。感染しないよう十分にお気を付け下さい。ただ、演奏会にはお越し下さい」というようなことを言って(正確に記憶出来た訳ではないが、ほぼこのようなことだったと思う)、「しんみり終わりましたので、明るい曲を」ということで、ビゼーの小組曲「こどもの遊び」から第5曲“ギャロップ(舞踏会)”が演奏される。立体的な音響と推進力が魅力的な佳演であった。

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2021年2月 1日 (月)

コンサートの記(689) エリアフ・インバル指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第544回定期演奏会

2021年1月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第544回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、エリアフ・インバル。外国人指揮者による演奏を聴くのは久しぶりである。

1936年生まれのエリアフ・インバル。この年は指揮者の当たり年で、シャルル・デュトワやズービン・メータが同い年である。小澤征爾が一つ年上、ネーメ・ヤルヴィが一つ年下という世代だ。インバルというのは芸名で、本姓はヨーゼフという平凡なものであるため芸名を用いたのだが、息子で指揮者のダニエルもインバルという芸名を継いでいる。

エリアフ・インバルは、マーラーとブルックナーの両方で名演を行うことの出来る、史上ほぼ唯一の指揮者として名高い。マーラー指揮者はブルックナーを不得手とする場合が多く、逆も同様なのだが、インバルだけは両方の交響曲全集を作成し、共に高い評価を得ている。
日本への客演も多いが、私はまず90年代にN響の指揮台に立った際の実演に接している。N響との相性は実際のところ今ひとつのように思えたが、その後、インバルは東京都交響楽団と親密な関係を築くようになり、特別客演指揮者やプリンシパル・コンダクター(一般的には「常任指揮者」と訳されるが、この時は横文字のままの肩書きとなった)として大評判を得ている。近年、大阪フィルにも度々客演するようになっているが、相性はかなり良い。

 

曲目は、プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」とショスタコーヴィチの交響曲第10番。

インバルはショスタコーヴィチも得意としており、ウィーン交響楽団を指揮してDENONに入れた録音の評価も高いが、ショスタコーヴィチを得意とする指揮者は基本的にプロコフィエフも得意である場合が多いため、期待が高まる。
なお、プロコフィエフとショスタコーヴィチが犬猿の仲であったことは有名で、共通の友人であったムスティスラフ・ロストロポーヴィチは、それぞれの家に招かれて遊ぶことも多かったが、プロコフィエフの前では「ショスタコーヴィチ」という名は禁句であり、ショスタコーヴィチの家でも「プロコフィエフ」の名を出すことすら出来なかったと回想している。プロコフィエフもショスタコーヴィチも初期の頃は一緒に音楽活動もしていたのだが、いつからか疎遠になっている。性格の不一致というよりも互いの実力を怖れたのではないかと思われる。音楽史上屈指の天才が同じ時代の同じ国、しかもすぐ間近にいるという例は余りないように思う。

今日はチェロが舞台上手客席寄りに来るアメリカ式の現代配置(ストコフスキー・シフト)での演奏である。コンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。トランペットに京都市交響楽団の西馬健史が客演しており、2曲とも出演した。

新型コロナの流行により、外国人入国制限が続いているが、エリアフ・インバルは東京都交響楽団と親密な関係にあるということで、2週間の隔離とPCR検査を受け入れて、まず都響と演奏会を行い、次いで事前の予定通り、大フィルの指揮台へとやって来た。久しぶりの外国人指揮者の登場だが、大阪ではコロナの感染拡大が進んでいるため、来場を避けた人も多いようで、入りは良いとは言えない。インバルクラスなら満員御礼で当たり前なので、危機感を持つ人もかなり多いようだ。

 

プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」。プロコフィエフが「ハイドンが今の時代に交響曲を書いたなら」という想定の下に書き上げた、諧謔精神に溢れる個性的な交響曲である。ハイドンが頭にあるため、編成も小さめで演奏時間も15分ほどという小型の交響曲である。最初の交響曲にこうした題材を選ぶのだから、プロコフィエフはやはりただ者ではない。単純に古典的な交響曲を書いたのではなく、プロコフィエフの生きた今とハイドンの時代をオーバーラップさせる効果も狙っている。

曲調的に、フランス系の指揮者に名演が多いのだが、イスラエル出身のインバルも洗練とキレを兼ね備えた洒脱な演奏を聴かせる。弦も管も音に浮遊感があるが、瞬発力にも優れ、若きプロコフィエフの才気と一種の悪童ぶりを見事に表してみせる。インバルらしい溜めがあるのも個性的だ。

実は、私が最初に読んだ作曲家の本格的な伝記は、プロコフィエフのものであった。高校1年生の時に、昼休みに図書室に通って読み終えている。プロコフィエフが斬新さに取り憑かれたような作曲家だったことがわかる本であった。そしてプロコフィエフが、1891年生まれであり、これはモーツァルトの没後100年目であるため、メモリアルイヤーはモーツァルトの陰に隠れてしまい、亡くなった日が1953年3月5日と、スターリンの死と完全に同じ日であるため、命日もまたスターリンの陰に隠れる宿命にあるという悲劇性も著されていた。

 

ショスタコーヴィチの交響曲第10番。ヘルベルト・フォン・カラヤンが唯一、レパートリーとしたショスタコーヴィチの交響曲として知られる。ライバルであったレナード・バーンスタインはモスクワでショスタコーヴィチの交響曲第5番を作曲者の前で演奏し、絶賛されているが、カラヤンは交響曲第10番をモスクワで演奏して壇上で作曲者と握手を交わしている。カラヤンはバーンスタインに対抗意識を抱いており、ポピュラーな第5番ではなく敢えて第10番に取り組み続けたと言われている。

非常にミステリアスな楽曲としても知られている。純音楽ではあるが、他のショスタコーヴィチの交響曲同様、背後に何か別の意図を宿している。
一昨年に、フェニーチェ堺で、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による名演に接しているが、大阪フィルも流石にコンセルトヘボウ管には音の輝きでもパワーでも敵わない。だが、大フィルのヴィオラの音色もなかなか雄弁であり、時折、人間の慟哭に近い音を出すなど、インバルの指揮に触発されて別次元の演奏を聴かせる瞬間もある。

インバルは第1楽章と第2楽章、第3楽章と第4楽章をアタッカで繋ぐ。

第1楽章のラスト、ピッコロ2本がユニゾンを奏でるという珍しい場面があるが、やがてピッコロ1本となり、孤独の内に楽章は閉ざされる。
「スターリンの肖像」ともいわれる第2楽章の凶暴な表情の描き方も優れているが、この演奏を聴くとどことなく、回想の中での凶暴さという印象も受ける。現在と過去のパースペクティブが行われているような感じと書くと分かりやすいだろうか。

第3楽章のホルンの、強弱による印象の変化も、恐怖の絶頂を振り返るかのような趣があるように聞こえる。
第4楽章は、諧謔、というよりもどことなく人を食ったような旋律が登場し、ここがプロコフィエフの「古典交響曲」と繋がるような気もする。ショスタコーヴィチは本音を明かさないまま自らの署名入りによる「歓喜への予感」を抱かせる終わり方を選んでいるが、大フィルの打楽器陣も冴えまくっており、インバルの開放感に満ちた音楽作りもラストに説得力を持たせていたように思う。
これで音に更なる洗練が加われば、世界レベルが見えてくるかも知れない。

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2020年8月21日 (金)

コンサートの記(649) シャルル・デュトワ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団来日演奏会2005大阪

2005年11月12日 大阪・中之島の(旧)フェスティバルホールにて

大阪のフェスティバルホールで、シャルル・デュトワ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。曲目はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」より抜粋と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。ロシアのバレエ音楽を並べたプログラムだ。

フェスティバルホールに行くのは久しぶり。3年半近く行っていなかった。しかも前回は演劇の公演(三谷幸喜の「オケピ!」の再演版)だったので、フェスティバルホールでコンサートを聴くのは初めてである。

フェスティバルホールはかっては大阪を代表するホールとして、大阪フィルを始め、多くのオーケストラがここで定期公演を行い、海外の演奏家やオーケストラも大阪で公演するときは必ずここを使った。

今は、大阪のクラシック音楽シーンの中心は、ザ・シンフォニーホールに移っているが(2005年当時)、観客が多数詰めかけることが予想されるコンサート、例えばウィーン・フィルの演奏会などは、よりキャパの広いフェスティバルホールを使うことが多い。
今回のコンサートもチェコ・フィルとデュトワという珍しい顔合わせなのでフェスティバルホールを選んだのだろう。

フェスティバルホールの内装は古ぼけてはいるが、ちょっと昔にタイムスリップしたようで雰囲気はいい。ただ、古いホールだけに、残響がほとんどなく、音には不満がある。

プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、フェスティバルホールのマイナス面が出てしまった。チェコ・フィルのメンバーもホールの空間の大きさを気にしたのか、本来の力を出せていないようである。弦楽は艶やかに鳴る「場面もあった」が、管、特に金管は低調である。
弦が艶やかに鳴る場面もあった、と書いたがこれは異例のことで、チェコ・フィルといえば、弦楽合奏の美しさで有名なのだ。その弦の力をそれほど感じなかったということは、ホールもそうだが、曲との相性も良くないのだろうか。

後半はデュトワの十八番、「春の祭典」。フェスティバルホールの乾いた音もこの曲には向いている。金管は思ったほど良くならなかったが、弦はプロコフィエフの時とは打って変わって生き生きしている。フェスティバルホールの天井桟敷で聴いたので、真の迫力が私の席まで届かなかったのは残念だが、名演であることは間違いない。ちなみに曲の最後の最後、フルートの後の一撃の時に、デュトワが勢い余って指揮棒を取り落とし、床を「カタカタン」と鳴らすというハプニングがあった。デュトワもチェコ・フィルのメンバーも聴衆も苦笑いという珍しい場面であった。

今回、チェコ・フィルを聴いて、「やはり中欧ナンバーワンオーケストラだけのことはある。凄い」という印象と、「こんな程度のものなのか?」という感想を同時に持った。音に厚みと温もりがある。密度も濃い。輝きもある。ただ、メカニックや、曲への適応力は、日本のオーケストラと大差ない。むしろデュトワが指揮するならNHK交響楽団の方が良い演奏をしたのではないか? と思える箇所もあった。

アンコールはチャイコフスキーの「白鳥の湖」よりワルツ。この曲にはトランペットの長く優雅なソロがあるが、どういうわけか、チェコ・フィルのトランペットソロは音程が怪しい上に、曲への共感が乏しいように見えた。デュトワは、ソロの聴かせどころではいつもするように他の楽器の音を抑えて、トランペットソロを浮かび上がらせていたが、このソロには不満だっただろう。

デュトワは日本でもお馴染みの名指揮者であり、私が最も好きな音楽家の一人である。チェコ・フィルも中欧、東欧含めて間違いなくトップオーケストラである。それだけに期待していたのだが、この組み合わせは思ったほど良くはなかった。チェコ・フィルはロシアものはあまり得意ではないのかも知れないし、ホールも影響していただろう。

ただ、一流の指揮者と一流のオーケストラが組めば即ち名演というわけではないことも確認出来た。いいものは自分で探さなくてはならない。ブランドに目をくらませることなく虚心坦懐になって。何事においてもそうだ。

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2020年6月17日 (水)

これまでに観た映画より(183) ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品「ひまわり」

2020年6月15日 京都シネマにて

京都シネマで、「ひまわり」を観る。イタリア、フランス、ソ連合作映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。出演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベーリエワほか。音楽:ヘンリー・マンシーニ。製作:カルロ・ポンティ。

ちなみに映画プロデューサーであったカルロ・ポンティは既婚者であったが、この映画の撮影時にはすでにソフィア・ローレンと交際中であり、1972年にはローレンと再婚している。カルロ・ポンティとソフィア・ローレンの長男であるカルロ・ポンティ・ジュニアは、劇中に赤ちゃんとして登場するが、現在は指揮者として活躍しており、私も彼がロシア・ナショナル管弦楽団を指揮したCDを持っている。

映画音楽の大家、ヘンリー・マンシーニが手掛けた音楽も素晴らしく、メインテーマは彼の代表作となっている。

 

1970年に公開された映画で、今回は公開50周年を記念しての特別上映。最新のデジタル修復技術を用いたHDレストア版での上映である。

 

冒頭、中盤、ラストに登場する一面のひまわり畑が印象的である。ソ連時代のウクライナで撮影されたものだそうだ。ひまわりというと日本では華やかな陽性の花の代表格であるが、イタリアでは太陽に片想いしている寂しい花というイメージもあるようである。

 

第二次大戦中と戦後のイタリアとソ連が舞台である。
ファッションの街としても名高いイタリア・ミラノ。ロシア戦線に送られたまま生死不明となっている夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の行方を妻のジョバンナ(ソフィア・ローレン)が担当職員に問い詰める場面から始まる。

イタリア北部の田舎町出身のアントニオと南部の大都市ナポリ出身のジョバンナは恋に落ち、出征延期を目論んで結婚する。だが猶予はわずか12日。そこでアントニオはジョバンナと示し合わせて佯狂による一芝居を打つことで精神病院への隔離を狙うがすぐにばれ、ロシア戦線に送られることになる。
「ロシアの毛皮を土産として持って帰るよ」と約束してミラノ駅から旅立ったアントニオだったが、戦争が終わってからも行方はようとして知れない。
ロシア戦線から帰った一人の兵士が、アントニオのことを知っていた。彼によるとアントニオは真冬のロシア戦線、ドン河付近でソビエト軍からの奇襲攻撃を受け、逃走する途中で多くのイタリア兵と共に脱落したという。

それでもアントニオの生存を信じて疑わないジョバンナは、単身、ロシアに乗り込む。1953年にスターリンが亡くなり、雪解けの時代が始まっていて、ジョバンナもモスクワにたどり着くことが出来た。モスクワにある外務省で紹介された案内の男性と共にアントニオが脱落した場所付近に広がる一面のひまわり畑の中をジョバンナは進む。かつての激戦地に咲く鎮魂のひまわりに囲まれた空き地にイタリア兵とロシア人犠牲者のための供養塔があった。更にイタリア人戦没者墓地も訪ねるジョバンナだったが、「アントニオは生きている」という確信を棄てることはない。

そしてついにジョバンナは、アントニオの現在の夫人となっているマーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)と出会う。アントニオとマーシャの間には娘のカチューシャがいた。ショックを受けるジョバンナ。すると汽笛が鳴り、働きに出ていたアントニオが自宅の最寄り駅に戻ってくる時間であることが示される。午後6時15分、以前、アントニオとジョバンナが約束の時間としていた6時よりも15分ほど先だ。

マーシャと共に駅に向かったジョバンナは今のアントニオの姿を見る。アントニオもジョバンナに気づき、歩み寄ろうとするが、もう以前のアントニオではないと悟ったジョバンナは走り出した汽車に飛び乗って去り、人目もはばからず泣き続ける。出会えさえすればたちどころに寄りを戻せると信じていたのだろうが、それは余りにも楽観的に過ぎた。

アントニオを諦めたジョバンナはミラノのマネキン工場で働く金髪の男性と新たにカップルとなり、子どもも設ける。

ジョバンナのことが忘れられないアントニオはマーシャと相談した上で、単身モスクワからミラノにたどり着き、紆余曲折を経てジョバンナと再び巡り会うのだが、ジョバンナにはすでに息子のアントニオ(カルロ・ポンティ・ジュニア)がいることを知り、関係修復が不可能なことを悟る。ジョバンナは息子にアントニオと名付けることで、かつての夫のアントニオを思い出の中の人物としていた。時計はすでに進んでしまっており、互いが互いにとって最愛の人物であることはわかっていても、時を取り戻すことは最早不可能である。報われぬ両片想いのラストが訪れる。

戦争により、本来の人生から外れてしまった男女の悲恋劇である。そしてこの物語もまた戦地に咲く片想いの花、ひまわりの一本一本が象徴する報われなかった数多の夢の一つでしかないのだということが暗示されてもいる。

 

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2020年6月 6日 (土)

配信公演 浅草九劇オンライン 柄本明ひとり芝居「煙草の害について」(劇評。文字のみ。関連リンクはあり)

2020年6月5日 東京の浅草九劇からの配信

午後7時30分から、オンライン型劇場に模様替えした浅草九劇の配信公演、柄本明ひとり芝居「煙草の害について」を観る。事前申込制の有料公演である。配信はVimeoを使って行われる。

配信公演への入り口となるURLは開演1時間ほど前に送られて来たのだが、メールソフトの調子が今日もおかしく、HTML形式のメールの画像がダウンロード出来ないので、返信やら転送やらのボタンを押して、無理矢理別の形式に置き換えて見る。返信を押した場合、更に「返信をやめる」を押すのだが、それでも返信されてしまう場合がある。

 

午後7時開場で、その直後に配信画面に入ったのだが、ずっと暗闇が続く。「LIVE」と視聴者数の文字は出ているので動いていることは確かだが、午後7時30分丁度になっても暗闇のままなのでブラウザの更新ボタンを押す。そのためか、あるいはそれとは関係なく配信の時間が来たからなのか、画面に舞台の背景が映る。臨場感を増すため、フルスクリーンにして視聴する。

 

「煙草の害について」は、アントン・チェーホフが書いた一人芝居である。オリジナルに近い形での上演は、MONOが京都芸術センターで行った「チェーホフは笑いを教えてくれる」というチェーホフの短編を連作にした作品の中で水沼健(みずぬま・たけし)が演じたものを観たことがあるのだが、上演時間が20分弱という短いものであるため、今回はチェーホフが書いた他の戯曲のセリフや歌などを加えて、上演時間1時間前後に延ばしたテキストを使用しての上演である。柄本版「煙草の害について」は、1993年初演で、書き直しを行いながら何度も上演を重ねているが、私は観るのは今日が初めてである。

柄本明が演じるのは、妻が経営する全寮制女子音楽学校の会計係兼教師であるが、恐妻家であり、今いちパッとしない男である。着ているベストも継ぎ接ぎだらけだ。

妻に命令されて、無理矢理「煙草の害について」というタイトルの健康に関する講演をすることになったのだが、彼自身は喫煙者であり、煙草の害に関する知識は辞書などで得たもの以外にはさほどない。当然ながらやる気もない。

音楽学校の生徒全員分のホットケーキを焼くよう妻に命じられて作ったのだが、体調不良で5人が食事をキャンセルしたため、妻から5人分を一人で食えと命じられ、食べ過ぎで体調不良である。妻からは「かかしんぼ」と呼ばれることがあり、かなり侮られている。

 

本編に入る前に、柄本明はアコーディオンを弾きながら榎本健一の楽曲「プカドンドン」(もしくは歌詞違いの「ベアトリ姉ちゃん」。サビの歌詞が一緒なので判別出来ず)を歌う。伴奏と歌がかなりずれることもあるが、あるいは浅草での上演ということでエノケンへのリスペクトも込めて歌われたのかも知れない。

体調が悪いので、持ってきた原稿の1枚目に向かってくしゃみをしたり、もうちょっと汚いものが出たため、それを丸めて棄てたのだが、実はそれが「煙草について調べた内容を書き記したメモ」だったため、それに気づいて、汚いのを承知で拾い、広げて読み上げるのだが、出したものでインクが滲んでしまい、上手く読めない。「イタリえば」と読んだが、実は「例えば」だったり、「中洲」という博多の繁華街ネタが始まるが、実際は「中枢神経」と書かれたものだったことが直後に判明したりする。男は「学がない」と自己紹介をしていたが、最後の辺りで「若い頃は大学で学問に励んだ」という話をしたり、音楽学校で理系から文系までの教養科目を幅広く教える能力があるため、謙遜しただけで、今は冴えないが少なくとも若い頃はかなり優秀と見られた人物であるらしいことがわかる。ちなみに彼の奥さん(「三人姉妹」に登場する怪女・ナターリヤの要素を入れている)は友人とフランス語で話すが、男の悪口を言うときはロシア語になるということが語られる場面があるのだが、帝政ロシア時代はかなり徹底したフランス指向の影響で上流階級はロシア語でなくフランス語を話していたという事実があり、奥さんもフランス語が話せて音楽がわかるということからハイクラスの出身であることがわかり、そうした女性と結婚出来た男も同等の階級出身である可能性が高い。あるいは彼も優れた才能と身分に恵まれながら時代の壁に阻まれて上手く生きられなかった「余計者」の系譜に入るのかも知れない。

「いざ鎌倉。鎌倉はどっち? ここは浅草だから」という話が出てきたり、「休憩」と称して下手隅にある椅子に腰掛けてバナナを食べた後で、ぶら下がっている紐に首を入れて揺らし、縊死するかのように見せた後で「ゴンドラの唄」を歌い、黒澤映画の「生きる」をモチーフにした演技を見せるなど、日本的な要素もちりばめられている。

とにかく妻や娘から軽視されているというので愚痴が多く、「誰でも出来る」結婚しか出来なかった(ただ今の人にとっては、結婚自体が高望みになりつつある。私も結婚していない。「私にも妻がいればいいのに」)不甲斐なさを述べるのだが、柄本明自身が奥さんである角替和枝を亡くしているということが透けて見えるような愛情吐露の場面もあり、妙に切なかったりする。

途中で後ろの方に座っていた学生風の若者が勝手に退出しようとしたのを見とがめたり、女子音楽学校の校則などの紹介が載っている本を客席に向かってロシア通貨で販売しようとする場面があったり(今回は無観客上演なので誰もいない)とステージ上だけでない空間の広がりを生む演技もある。

ラスト付近ではラヴェルの「ボレロ」が流れ、妻の影絵が浮かび、転調を伴う狂乱の内に芝居は終わる。

 

上演終了後、柄本は無人の劇場で演じるのは初めてだと語り、文化は生きることと同等であり、なくてはならないもの。なくなったら死んでしまうと熱いメッセージを語った。

 

初の配信ということもあってか、映像が時折途切れたりする。こちらの回線が悪い時もあったかも知れないが、スローモーションになった時には視聴者数が一気に20人ほど減ったため、観るのを諦めたかいったんログアウトしたかで、他の人が観ている映像にも問題が生じていることが察せられた。その後、観客数が一気に増え、ほどなくして画面も動き出した。

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2020年4月19日 (日)

コンサートの記(635) 高関健指揮京都市交響楽団第588回定期演奏会

2015年3月29日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から京都コンサートホールで京都市交響楽団の第588回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団常任首席客演指揮者の高関健。

プログラムは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」(ヴァイオリン独奏:滝千春)、ショスタコーヴィチの交響曲第8番。

開演20分前から高関によるプレトークがある。高関はモーツァルトのヴァイオリンのための作品がザルツブルク時代に集中しているのは、モーツァルトがザルツブルクの宮廷楽団でコンサートマスターとして活躍するなど、ヴァイオリンに接する機会が多かったためだと説明する。モーツァルトはその後、ザルツブルクのコロラド大司教と喧嘩してウィーンに飛び出すのだが、ウィーンでは主に自分で演奏するためのピアノ協奏曲やピアノ・ソナタなどを作曲したため、ヴァイオリン協奏曲などが書かれることはなくなったのだろうと推理する。

ショスタコーヴィチの交響曲第8番については、交響曲第7番「レニングラード」と対になる曲として知られるし、「レニングラード」が凱歌(とされるが本当の意図は不明)であるのに比べて陰鬱な曲調であると紹介し、交響曲第5番に似ていることに気付かれるとも思うと述べる。第1楽章ではかなり長く美しいイングリッシュホルンのソロがあるということにも触れる。

今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは渡邊穣。フォアシュピーラーは泉原隆志。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」の編成にはフルートもクラリネットも登場しないが、オーボエトップの位置に座ったのは首席奏者である高山郁子ではなくフロラン・シャレールであった。高山郁子はショスタコーヴィチのみの参加。フルート首席の清水信貴、クラリネット首席の小谷口直子もショスタコーヴィチのみに加わる。

今日は古典配置での演奏。ヴァイオリン両翼で、コントラバスは最後部に横一列に並ぶ。


モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」。ヴァイオリン独奏の滝千春は、2001年にノヴォシビルスク国際ヴァイオリンコンクール・ジュニア部門で優勝、2002年にメニューイン国際ヴァイオリンコンクール・ジュニア部門第1位、2006年にオイストラフ国際ヴァイオリンコンクール第3位などの経歴を持つ若手ヴァイオリニスト。桐朋女子高校音楽科、チューリッヒ音楽大学を経て、現在はベルリンのハンス・アイスラー芸術大学在学中である。

滝のヴァイオリンであるが、独特の甘美な音色を持ち味とし、今の季節や彼女の名前とは関係がないが春風のように爽やかなヴァイオリンを奏でる。

高関はこの曲はノンタクトで指揮。きっちりとした指揮であるが、彩り豊かでノリの良い演奏を京響から弾き出す。なお、モーツァルトの時代には弦楽5部の曲であっても、当時の弦楽器は今ほど大きな音が出なかったことから、楽譜には記されていなくてもファゴットで低音を形作るのが通例、というよりファゴットが加わるのが当たり前だったためファゴットのパートが書かれなかったという解釈に基づき、ファゴットを加えての伴奏となった。


ショスタコーヴィチの交響曲第8番。演奏される機会の比較的少ない曲だが、京響は数年前に沼尻竜典の指揮で演奏している。

第1楽章から、弦楽の透明感に驚かされる。透明なだけでなくボリュームもある。京響の弦楽は絶好調であり、管もそれに負けていない。

第3楽章の疾走感のある阿鼻叫喚の世界から沈鬱な葬送行進曲(第4楽章)、諧謔的な旋律が登場し、爆発を経て、交響曲第7番「レニングラード」第1楽章のおどけた旋律を連想させる音の進行で静かに終わる第5楽章。この3つの楽章は連続して演奏されるのだが、高関と京響はショスタコーヴィチがこの曲に込めたメッセージを詳らかにしていく。

高関は第4楽章のみノンタクトで振ったが、ソヴィエト共産党によって粛正された人々へのレクイエムのような哀切なメロディーを切々と歌い上げていた。

第5楽章の爆発力も凄まじく、その後もスターリン独裁下で粛正された人々への鎮魂と祈りのような旋律が続き、曲は静かに閉じられる。
ちなみにこの曲は1943年に初演されており、スターリンはまだ存命中である。交響曲第8番は一応は赤軍の闘争と勝利を描いたものだと作曲者は述べているが、スターリン圧制下で率直な発言をしたとは考えられない。以前は交響曲第7番のタイトルである「レニングラード」(ただし忠実にはレニングラード攻防戦を描いたからではなくレニングラード市に献呈されたためにこの名がある)に対して交響曲第8番は「スターリングラード」というタイトルで呼ばれたこともあった。だた、今はこの曲を「スターリングラード」と呼ぶ人はほとんどいない。

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2020年3月28日 (土)

コンサートの記(629) 尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第496回定期演奏会

2016年3月11日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第496回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は尾高忠明。

大阪フィル首席指揮者の井上道義とは長年に渡る友人である尾高忠明。二人とも学生時代は腕白で、二人合わせて「悪ガキ・イノチュウ」と呼ばれていた。井上道義は今もいたずら小僧の面影があるが、尾高さんは大分ジェントルになった。

1947年に指揮者・作曲家の尾高尚忠の次男として生まれ、桐朋学園大学を卒業。東京フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団の常任を経て、昨年の3月まで札幌交響楽団の音楽監督を務めた。札響との音楽監督としてのラストステージは東京のサントリーホールでの演奏会であり、私はその演奏会を聴いている。
海外ではイギリスのBBSウェールズ・ナショナル管弦楽団(ウェールズは厳密にいうとイギリス=イングランドではないが)の首席指揮者を務めており、現在は桂冠指揮者の称号を贈られている。BBCウェールズ・ナショナル管とはレコーディングでも高く評価されている。
2010年よりNHK交響楽団の正指揮者に就任(現在は外山雄三との二人体制)。

今日の大阪フィルのコンサートマスターは首席客演コンサートマスターの崔文洙。ドイツ式の現代配置での演奏である。


曲目は、リャードフの交響詩「魔法にかけられた湖」、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン独奏:諏訪内晶子)、ラフマニノフの交響曲第2番。


リャードフの交響詩「魔法にかけられた湖」。ホワイエでプレトークを行った大阪フィルハーモニー交響楽団事務局次長の福山修氏によると「大阪フィルがこの曲を演奏するのはおそらく初めて」だそうであるが、私もこの曲を生で聴くのは初めてである。
ペテルブルク音楽院の教師としてプロコフィエフなどを教えたことで知られるリャードフであるが、作曲家としてはかなりの遅筆であり、ディアギレフが新作バレエの作曲をリャードフに依頼するも出来上がる気配がまるでないので、作曲家をストラヴィンスキーに変更。出来上がったバレエが「火の鳥」である。
そんな調子だったため、寡作というほどではないが残された作品は余り多くなく、またピアノ曲など小品が占めるパーセンテージが高いのも特徴である。

幻想的な絵画を描くのを好んだというリャードフ。「魔法にかけられた湖」は、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」やドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を思わせるような神韻縹渺とした雰囲気を持つ佳編である。
全曲ノンタクトで振った尾高と、大阪フィルの演奏もこの曲が持つ独自の趣をよく表していたように思う。


プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番。真っ赤なドレスで現れた諏訪内晶子。どちらかというと曲調に合わせて機械的に弾かれることの多いこの曲を丁寧且つ繊細に、儚げな美しささえ感じさせる独特のヴァイオリンで弾き切る。諏訪内の持ち味は他の国のヴァイオリニストからは余り聴かれないものであり、彼女が良い意味でとても日本的なヴァイオリニストであることが再確認出来る。諏訪内も若い頃は美音の技巧派だったが、その後、徐々に日本的な個性を持つヴァイオリニストへと変貌してきている。名古屋でパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンと共演し、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いた際、演奏終了後にパーヴォがFacebookに「諏訪内晶子とのスペシャルなメンデルスゾーン」というメッセージをアップしていたが、おそらく「もののあわれ」的な諏訪内のメンデルスゾーンはパーヴォには新鮮だったのであろう。

諏訪内はアンコールとして、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタより“アンダンテ”を弾く。諏訪内の奏でるバッハは「高貴」の一言だ。


ラフマニノフの交響曲第2番。尾高はこの曲をBBCウェールズ・ナショナル管弦楽団やメルボルン交響楽団とレコーディングしており、十八番としている。
大阪フィルもメカニックは十分なのだが、長年ドイツものをレパートリーの柱にしてきたため、どちらかというと渋い響きを出しており、ラフマニノフとの相性は必ずしも良いとはいえないようだ。本来なら音のパレットはもっと豊富であった方が良い(曲が長く感じられてしまう)。ただ、こうした黒光りするようなラフマニノフもたまには悪くない。
大フィルというとホルンがネックだったのだが、今日の演奏ではホルンを始め金管群が充実。オーケストラとしての確かな成長を感じさせてくれる。


演奏終了後、尾高はマイクを手に登場。「こういう日(3・11)なので黙祷をなさった方、祈りを捧げられた方もいらっしゃると思います。もう5年経ってしまいましたが、先日、仙台で演奏会を行い、泊まっていたホテルから海の方を見てみたのですが、何も変わっていませんでした。復興はまだされていません。大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会ではアンコール演奏はしませんし、私もラフマニノフの交響曲第2番を演奏した後でアンコール演奏をするのは嫌なのですが、こういう日なので」
ということで、エルガーの「エニグマ変奏曲」より第9変奏“ニムロッド”がアンコールとして捧げられる。やはり尾高指揮のイギリスものは良い。崇高にして力強い演奏であった。

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2020年3月 1日 (日)

コンサートの記(627) 秋山和慶指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第535回定期演奏会

2020年2月21日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第535回定期演奏会を聴く。今日の指揮はベテランの秋山和慶。

コロナウィルスの感染が警戒されるため、今日の演奏会はいつもと異なる。午後6時半頃からホワイエで行われる大フィル事務局次長の福山修氏のプレトークが中止となり、スタッフはほぼ全員マスクをつけている。
チケットは購入していても感染を怖れて自重したのか、あるいは勤めている会社から外出禁止令を言い渡されたりした人が多いのか(知り合いにも18日から在宅勤務で外出禁止を命じられた人がいる)空席がかなり目立ち、話し声なども余り聞こえない。ということで今日は音がかなり響く。フェスティバルホールでクラシックの演奏会が行われる時は、開演5分前を告げる鳥の鳴き声を重ねた音が鳴り響くのだが、客席で音が吸収されないためか今日はかなりうるさく聞こえた。

 

曲目は、ハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)、チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」

 

来年傘寿を迎える秋山和慶。大阪フィルの定期演奏会への登場は5年ぶり59回目。この59回というのは朝比奈隆に次ぐ記録だという。桐朋学園大学などで指揮を齋藤秀雄に師事。東京交響楽団を指揮してデビューし、その後、同楽団の音楽監督や常任指揮者として40年に渡って活躍。ストコフスキーに見いだされてアメリカ交響楽団の音楽監督に抜擢されたのを始め、バンクーバー交響楽団の音楽監督、シラキュース交響楽団の音楽監督など北米でのキャリアを築くが、海外での活躍よりも日本国内でのオーケストラの育成や教育活動に力を入れており、近年では広島交響楽団の性能向上に貢献したほか、2000年発足の若いオーケストラである中部フィルハーモニー交響楽団の芸術監督・常任指揮者、洗足学園音楽大学の芸術監督兼特任教授、京都市立芸術大学の客員教授などを務めており、今年の4月からは日本センチュリー交響楽団のミュージックアドバイザーに就任する予定である。

 

今日のコンサートマスターは崔文洙、フォアシュピーラーは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。

 

ハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」。第1曲の“ワルツ”が浅田真央のプログラムの曲として採用されたことで知名度が上がった曲である。一応、今日はオール・ロシア・プログラムということになるのだが、ハチャトゥリアンはロシアで活躍したが、ジョージア生まれのアルメニア人である。
ショスタコーヴィチにも繋がる皮肉の効いた悲劇的でメランコリック且つおどけたような要素を持つ音楽が連なっている。大フィルはパワーがあり、今日のフェスティバルホールでは飽和してしまうほどであるが、秋山のテキパキとした音運びに乗せられてメリハリの利いた演奏を繰り広げる。時代の違いを考慮に入れなければの話だが、三島由紀夫の「鹿鳴館」で流れる音楽はハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」が最も良いだろう。馬鹿馬鹿しいと分かっているが踊らなければならない時の音楽。今の日本もそんな感じだが、いつの間にか日本はこの音楽が良く似合うような状況へと足を踏み込んでしまったような気もする。

 

プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。個人的に大好きな曲であり、チョン・キョンファのヴァイオリン、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団の伴奏によるCDを何度も聴いている。第2楽章の暖炉を囲んでの家族団欒の姿が目に浮かぶような旋律は、数あるヴァイオリン協奏曲の中でも最美であると思われる。

ソリストの辻彩奈は、将来が最も期待される若手ヴァイオリニストの一人。1997年岐阜県生まれ。現在は特別招待奨学生として東京音楽大学に籍を置いている(3月に卒業し、パリに向かう予定だそうである)。2016年のモントリオール国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門で1位を獲得し、同時に5つの特別賞も受賞して注目を浴びている。

昨年、ジョナサン・ノット指揮スイス・ロマンド管弦楽団と共演した時は、曲全体としての音楽設計が弱いようにも感じられたが、今日は独特の温かみと艶と切れを持つヴァイオリンで大いに聴かせる。空席が多いためヴァイオリンの音も大きめに響いたが、それが思いがけず幸いしたようにも思う。
第2楽章のメロディーをたっぷり歌い、第3楽章の終盤では急加速を見せてスリルを演出した。

 

チャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」。チャイコフスキーは交響曲を6つ書いているが、演奏会で取り上げられるのは、第4番、第5番、第6番「悲愴」の後期三大交響曲に限られる。後期三大交響曲と初期の三つの交響曲では完成度に大きな隔たりがあるのも事実であるが、後期三大交響曲がいずれも「運命」をテーマに置き、ストーリー展開やドラマがあるのに対して初期の三曲はどちらかというと叙景詩的であり、わかりにくいということも不人気の一因であると思われる。
今年(来年度になるが)、大阪フィルは、音楽監督の尾高忠明の指揮でチャイコフスキーの交響曲チクルスを行うが、小林研一郎の傘寿記念チャイコフスキー交響曲チクルスにも参加(交響曲第4番と第5番を演奏する予定)、更にトレヴィーノ指揮のマンフレッド交響曲に今日の「冬の日の幻想」とチャイコフスキー尽くしの一年となる。

第1楽章には「冬の旅の夢想」、第2楽章には「陰気な土地、霧の土地」という標題がついており、ロシア民謡風の旋律も取り入れた交響詩的な要素も強い音楽である。秋山の的確な指揮棒に導かれ、大フィルもスケール豊かで輝かしい演奏を行う。ロシアの光景は映像でしか見たことがないが、それらしい風景が次々と頭の中で浮かんでいく叙情的な音楽である。ラストなどは前途洋々たる未来を確信しているような音楽であるが、一方で時折、濃厚な影が浮かぶのがチャイコフスキーらしさといえる。
秋山和慶というと、まず齋藤メソッドの体現者ともいわれる指揮棒のコントロールが浮かぶが、実際はそれ以上にリズムの処理の巧みさが武器になっているように感じられる。今日は打楽器が活躍するため、抜群のリズム感に感心したわけであるが、これは指揮棒の動きを見ていると逆に感じにくくなる要素でもあるように思われた。

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2020年2月 2日 (日)

コンサートの記(623) 京都府-レニングラード州友好提携25周年記念事業 日露地域・姉妹都市交流年認定イベント ロシア民族楽器楽団「メテリッツア」友好提携25周年記念コンサート「レニングラードの夕べ」

2020年1月24日 京都府立府民ホールアルティにて

午後7時から、御所の西にある京都府立府民ホールアルティで、京都府-レニングラード州友好提携25周年記念事業 日露地域・姉妹都市交流年認定イベント ロシア民族楽器楽団「メテリッツア」友好提携25周年記念コンサート「レニングラードの夕べ」を聴く。無料、事前申し込み不要である。そのためか、開場の15分前にアルティに着いたのであるが、すでに長蛇の列が出来上がっていた。結局、列がロビーの中に収まらないということもあって、開場は6時30分から20分に繰り上がった。

京都府はレニングラード州と平成6年(1994)11月4日に友好提携を締結している。レニングラード州の州都はレニングラードからサンクトペテルブルクに名前が変わって久しいが、州の名前は現在に至るまで変更はない。ちなみに共に古都である京都市とサンクトペテルブルク市であるが姉妹都市ではない。「北方のベネチア」とも呼ばれるサンクトペテルブルク市と姉妹都市なのは「水の都」大阪市である。

 

ロシア民族楽器楽団「メテリッツア」は、1988年にイーゴリ・トニンがサンクトペテルブルクで結成した楽団。現在もイーゴリ・トニンが率いている。イーゴリ・トニンはレニングラード州立リムスキー=コルサコフ音楽学校の出身であり、「メテリッツア」も同校の卒業生や若手教員で構成されている。

 

曲目は、第1部が、「ペドラーズ」、「コチョウザメ」(ロシアの婚礼式典曲。歌:エレナ・クスカヤ)、ツィガンコフの「ツーステップ」(ドムラ独奏:レイラ・アフメドヴァ)、クリコフ作曲の「古い菩提樹」(ロシア民族曲をテーマにした幻想曲)、テムノフの「モスクワ カドリール」(歌:エレナ・クスカヤ)、アファナシエフの「碧い湖を見つめて」(歌:エレナ・クスカヤ)、「私は蚊と踊る」(ロシア民謡道化歌。歌:エレナ・クスカヤ)、ロシア民謡「カリンカ」(ゴロドフスカヤ編曲。バラライカ独奏:アンドレイ・カシャノフ)、シャハノフの「3つの民話をテーマにした幻想曲」(グスリ独奏:エレナ・ヴェサロヴァ)、ジェリンスキーの「ジャズ・ピッチカート」、グリディンの「ラシプーハ」(クロマティックアコーディオン:アンドレイ・クズミノフ&ミハイル・シュスタロフ)、「私は丘に登ったの」(歌:エレナ・クスカヤ)。第2部が、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」、ダウトフの「ファティマ」(ドムラ独奏:レイラ・アフメドヴァ)、フィンランド・カレリア地方の民謡(クロマティックアコーディオン:アンドレイ・クズミノフ&ミハイル・シュスタロフ)、「ワーレンキ」(ロシア民謡変奏曲)、日本民謡「桜(さくらさくら)」(ソプラノ:天野加代子)、ヴァカレイニコフの「スレイベル(小鈴)」(ソプラノ:天野加代子)、シャハノフの「グスリと管楽団の演奏会パート2」(グスリ独奏:エレナ・ヴェサロヴァ)、グレボフの「ユーモレスク」(バラライカ独奏:セルゲイ・クラスノクツキー)、「ほら、郵便トロイカが駆けてくる」(ロシア民謡「トロイカ」。歌:エレナ・クスカヤ)、「牧草のアヒル」(ロシア民謡。歌:エレナ・クスカヤ)。

 

背後のスクリーンに映像を投影しながらの演奏である。マイクとスピーカを使用。

使われている民族楽器は、ドムラ、バラライカ、グスリの3種類。ドムラは胴体が丸い、ロシアの民族楽器の代表格であるバラライカは三角形の胴体を持つ弦楽器である。グスリは平面に弦が張られているが、平行ではなく翼型のボディに合わせて放射状に広がっている。ドラムは全員女性奏者、バラライカは全員男性が演奏を受け持つが、性別によって担当する楽器が違うというわけではおそらくないだろう。
その他の楽器として、ドラムス&パーカッション、クロマティックアコーディオン、キーボードが加わる。

イーゴリ・トニンは、ビートルズも来ていたような服装で登場。全曲で指揮を受け持つ。

歌を担当するエレナ・クスカヤは伸びやかで澄んだ歌声の持ち主で、ノリも良い。

「私は蚊と踊る」では、演奏前に蚊の羽音がスピーカーから聞こえ、民族楽器がリムスキー=コルサコフの「熊ん蜂の飛行」を前奏として演奏するなど、編曲も凝っている。

バラライカの独奏もあるが、速弾きによる超絶技巧であり、ロシア民謡の背後で物憂げに鳴っているというバラライカのイメージが覆る。

 

第2部冒頭の、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」では、アゴーギクを多用し、クラシックの演奏との違いを打ち出す。

天野加代子にソプラノによる「桜」では、ロシアの楽器らしいもの悲しい音色が曲調に合う。これは、エレナ・クスカヤに歌による「ほら、郵便トロイカが駆けてくる」においても同様である。日本でもよく知られている「トロイカ」であるが、本来の歌詞に内容は、日本語詞とは大きく異なるものである。

 

アンコールは3曲。全てエレン・クスカヤと天野加代子による歌唱入りである。1曲目は、イーゴリ・トニンが「一緒に歌ってください」と言うも全然知らない曲である。2曲目は「モスクワ郊外の夕べ」。演奏終了後、天野加代子が、「実はこの歌は元々は『レニングラードの夕べ』というタイトルだったが、映画で用いられて以降、『モスクワ郊外の夕べ』というタイトルに変わった」という話をする。

最後はお馴染みのロシア民謡「カチューシャ」。エレナ・クスカヤがロシア語で歌い(「輪になって来い」と聞こえる部分が存在する)、天野加代子が、「林檎の花ほころび」で始まる日本語詞を歌う。有名曲ということで、客席も大いに盛り上がった。

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