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2022年8月 8日 (月)

コンサートの記(796) 大阪交響楽団・千葉交響楽団・愛知室内オーケストラ合同演奏会「3つのオーケストラが奏でる山下一史の世界」

2022年7月28日 東大阪市文化創造館 Dream House 大ホールにて

午後7時から、東大阪市文化創造館 Dream House 大ホールで、大阪交響楽団・千葉交響楽団・愛知室内オーケストラ合同演奏会「3つのオーケストラが奏でる山下一史の世界」を聴く。オーケストラ・キャラバンの一つとして企画されたもの。山下一史が手兵としている3つのオーケストラの個々の演奏と合同演奏が行われる。

堅実な手腕が評価されている山下一史(かずふみ)。大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の常任指揮者だったこともあり、関西でもお馴染みの存在である。広島生まれ。桐朋学園大学を卒業後、ベルリン芸術大学に留学。1985年から89年まで、ヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務める。病気になったカラヤンの代役として、ジーンズ姿でベルリン・フィルのコンサートで第九を振ったことでも知られる。
国内では、オーケストラ・アンサンブル金沢のプリンシパル・ゲスト・コンダクター、九州交響楽団常任指揮者、前述の大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の常任指揮者、仙台フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務め、2016年から千葉交響楽団の音楽監督に就任。今年の4月から大阪交響楽団の常任指揮者と愛知室内オーケストラの音楽監督の座についている。

大阪交響楽団(略称は大響)は、大阪に4つあるプロのコンサートオーケストラの一つで、歴史は一番浅い。当初は、ドイツ語で交響楽団を意味する大阪シンフォニカーを名乗っていたが、シンフォニカーという言葉が根付いていない日本では営業面で苦戦。カーが付くだけに車関係の団体だと思われたこともあったという。その後、大阪シンフォニカー交響楽団という重複になる名前の時代を経て、大阪交響楽団という名称に落ち着いている。

千葉交響楽団(略称は千葉響)は、以前はニューフィルハーモニーオーケストラ千葉というアマチュアオーケストラのような名前で活動していたが、山下が音楽監督になって千葉交響楽団という重みのある名称に変わった。
1985年に、伴有雄が結成したニューフィルハーモニーオーケストラをプロ化。しかし直後に伴が他界するという悲劇に見舞われ、その後は日本のプロオーケストラの中でも最も恵まれない団体の一つとして低空飛行をせざるを得なかった。現在は正楽団員も20名を超えているが、私が初めてニューフィルハーモニーオーケストラ千葉を聴いた時には正式な楽団員は1桁で、後は全てエキストラという状態であった。
私は千葉市出身であるため、生まれて初めて聴いたプロオーケストラは当然ながらニューフィルハーモニーオーケストラ千葉である。千葉県東総文化会館でのコンサート。石丸寛の指揮で、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲、同じくピアノ協奏曲第23番(ピアノ独奏:深沢亮子)、ブラームスの交響曲第1番というプログラムで、アンコールとしてハンガリー舞曲第5番が演奏された。
高校3年の時には、高校の「芸術鑑賞会」として千葉市中央区亥鼻の千葉県文化会館で行われたニューフィルハーモニーオーケストラ千葉の演奏を聴いている。指揮は誰だか忘れてしまったが(ひょっとしたら山岡重信だったかも知れない)、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章と第4楽章などを聴いた。アンコール演奏はマスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲で良い演奏だったのを覚えている。普段はクラシック音楽を聴かない子達からの評判も上々であった。
しかし経済的基盤は弱く、定期演奏は年5回だけ。そのうち2回が千葉市の千葉県文化会館での演奏で、他は、習志野市、船橋市、市川市で行われた。という状況で本拠地が安定しておらず、結果としてファンも付かず学校を巡る演奏会を繰り返すことになった。千葉市は政令指定都市であり、千葉県も東京に隣接する重要な地位を占める県だが、文化面はかなり弱く、あるとしたら長嶋茂雄の出身地故の野球や強豪校の多いサッカーなどのスポーツ分野で、千葉ロッテマリーンズにジェフユナイテッド千葉に柏レイソルと充実している。ただ音楽面は恵まれているとはいえない。

愛知室内オーケストラ(略称はACO)は、愛知県立芸術大学音楽学部出身者を中心に2002年に結成された室内管弦楽団で、今年が創立20周年に当たる。私は新田ユリが指揮した演奏会を名古屋の電気文化会館ザ・コンサートホールで聴いたことがある。

ということで、いずれも実演に接したことのあるオーケストラの競演を耳にすることになる。


曲目は、グリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲(大阪交響楽団の演奏)、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」(千葉交響楽団の演奏)、ニーノ・ロータのトロンボーン協奏曲(トロンボーン独奏:マッシモ・ラ・ローサ。愛知室内オーケストラの演奏)、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」(3楽団合同演奏)。


東大阪市文化創造館に入るのは初めて。そもそも東大阪市に降り立つこと自体が初めてかも知れない。これまで私にとって東大阪市は通過する街でしかなかった。
花園ラグビー場があることで知られる東大阪市。東大阪市文化創造館の中にもラグビー少年をイメージしたゆるキャラ(トライくん)が展示されている。
近鉄八戸ノ里(やえのさと)という駅で降りたのだが、周辺案内図を見て大学が多いことに気づく。行きの近鉄電車から見えた大阪樟蔭女子大学(田辺聖子の母校として知られ、彼女の記念館がある)、そして東大阪市文化創造館の近くには野球部やサッカー部が強いことで知られる大阪商業大学とその付属校などがある。少し歩いた小若江には、今や受験生から最も人気のある大学の一つになった近畿大学の本部キャンパスがある。
八戸ノ里は、司馬遼太郎記念館の最寄り駅でもあるようだが、残念ながら閉館時間はとうに過ぎていた。

Dream House 大ホールであるが、客席の形状は馬蹄形をしており、よこすか芸術劇場に似ている。ステージ上は天井が高く、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールが一番近い。ステージの天井が高いため、モヤモヤとした響きなのが最初は気になった。


大阪交響楽団によるグリンカの歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲。コンサートマスターは森下幸路。
先に書いた通り、大阪交響楽団は、大阪に4つあるプロのコンサートオーケストラの中で最も若いため、他の伝統ある楽団の影に隠れがちだが、そこはやはり大都会のオーケストラ。音は洗練され、華やかで艶がある。大阪のプロオーケストラはどこも全国的に見てレベルは高く、大阪市民と府民はもっと誇っていい事柄である。
今日は前から4列目という前の方の席だったので、残響や音の通りを含めたホールの響きは残念ながら把握出来なかったが、天井が高いため直接音がなかなか降りてこないことが気になる。


千葉交響楽団によるワーグナーの「ジークフリート牧歌」。コンサートマスターは神谷未穂。高さ調整の出来る椅子の座席を一番高いところまで跳ね上げて弾くのが好きなようである。
出身地のオーケストラであるが、大学に入ってからはNHK交響楽団の学生定期会員になり、その後に京都に移住ということで(聴くのが義務になるのが苦痛だったため、こちらに来てからは定期会員などにはなっていない)、聴くのは久しぶり。千葉交響楽団になってから聴くのも初めてである。
大阪交響楽団の華やかさとは違った渋くて優しい音色が特徴。昔はこうした個性のオーケストラではなかったはずだが、山下の下、個性に磨きを掛けているのかも知れない。ワーグナーのマジカルな音響も巧みに捌いていた。


愛知室内オーケストラによるニーノ・ロータのトロンボーン協奏曲。トロンボーン独奏のマッシモ・ラ・ローサは、シチリアのパレルモ音楽院でフィリッポ・ボナンノに師事。1996年から2007年までフェニーチェ歌劇場で第1トロンボーン奏者、2007年から2018年まではクリーヴランド管弦楽団の首席トロンボーン奏者を務めている。

映画音楽の大家として知られるニーノ・ロータのトロンボーン協奏曲であるが、出だしがショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番に似ている。その後もショスタコーヴィチを思わせる鋭い響きは続くため、意図してショスタコーヴィチに似せているのかも知れない。愛知室内オーケストラは北欧ものを得意とする新田ユリに鍛えられたからか、透明度の高い合奏を披露。ここまでの3曲、全て山下一史一人の指揮による演奏であるが、まさに三者三様であり、曲が異なるという条件を差し引いても楽団の個性がはっきり現れていた。

マッシモ・ラ・ローサのアンコール演奏の前に、ラ・ローサが山下に耳打ち。山下は客席に向かって、「彼はシシリーのオーケストラにいたそうです」と語る。
演奏されたのは、マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲のトロンボーン独奏版。シチリアを舞台としたオペラの間奏曲である。伸びやかで美しい演奏であった。


大響、千葉響、ACOの合同演奏によるストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。コンサートマスターは大阪交響楽団の森下幸路。フォアシュピーラーに千葉交響楽団の神谷未穂が入る。

前の方の席だったため、「春の祭典」を聴くには適した環境ではなかったが、3つのオーケストラのメンバーと山下一史の音楽性の高さを実感出来る演奏となった。

合同演奏というと聞こえはいいが、寄せ集めの演奏となるため、それぞれの団体の良さが相殺されてしまいやすくなるのは致し方のないことである。一方で、山下の実力を量るには良い機会となる。
3つのオーケストラの長所がブレンドされると良いのだが、なかなかそう上手くはいかない。ただ機能美に関しては十分に合格点。力強くも細部まで神経の行き渡った好演となる。山下の美質である全体を通しての設計力の高さ、棒の上手さ、盛り上げ上手な演出力などが3オーケストラ合同の演奏でも発揮される。これらの点に関してはむしろ、既成の団体を振ったときよりも明瞭に捉えやすかったかも知れない。
迫力も満点であり、3つのオーケストラのメンバーの山下の棒に対する反応も俊敏である。
良い意味で燃焼力の高い演奏であり、演奏終了後、聴衆も万雷の拍手で山下と3楽団のメンバーの熱演を称えた。

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2022年8月 5日 (金)

コンサートの記(795) 飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団いずみ定期演奏会№27 ハイドンマラソン第1回“夜が明け「朝」が来る”

2015年6月5日 大阪・京橋のいずみホールにて

午後7時から、大阪・京橋のいずみホールで、日本センチュリー交響楽団いずみ定期演奏会 №27を聴く。指揮は日本センチュリー響首席指揮者の飯森範親。ハイドンの交響曲全曲を演奏し、レコーディングも行うというハイドンマラソンの第1回演奏会である。今日の演奏会のサブタイトルは“夜が明け「朝」が来る”

ハイドンマラソンは8年掛かりという長期プロジェクトである。ハイドンは104曲の交響曲を書いているが、「ハイドン交響曲全集」はレコーディング史上数えるほど。クリストファー・ホグウッドが「ハイドン交響曲全集」に挑む予定だったが、クラシック音楽界の不況のために未完に終わっている。そのため、8年に渡ってレコーディングを行うということが可能なのかは飯森にも分からないとのこと。

飯森は音楽監督を務めている山形交響楽団とモーツァルトが書いた交響曲を番号のないものも含めて50曲を演奏会で取り上げてレコーディングするというプロジェクトを行い、今度は日本センチュリー響とハイドンの企画をスタートさせる。日本センチュリー響は中編成のオーケストラであるため、ハイドンを演奏するには最適の楽団である。かつて橋下徹が大阪府知事だった時代にセンチュリー響への補助金カットを明言した時に、センチュリー響の音楽監督だった小泉和裕や首席客演指揮者だった沼尻竜典はブルックナーなどの大曲路線を何故か選んだ。確かにブルックナーの交響曲は人気の曲目であるが、大阪フィルの十八番であり、演奏しても大阪フィルには勝てないし客も呼べないということで、「なんでハイドンをやらないんだ?」と歯がゆく思ったものである。飯森はアイデアマンだけに、就任してすぐにハイドンの交響曲連続演奏を決定。再評価が進むハイドンを演奏することで、大阪以外からの客も取り込もうという作戦である。

オール・ハイドン・プログラム。交響曲第35番、チェロ協奏曲第2番(チェロ独奏:アントニオ・メネセス)、交響曲第17番、交響曲第6番「朝」。サブタイトルの通り、ラストに「朝」が来る。

ライブレコーディングというとデッカツリーと呼ばれるマイクの釣り方が王道であるが、今日は天井から下がっているのは常設のセンターマイクだけ。代わりにステージ上に確認出来るだけで8本のマイクがある。最前列のマイク、左右1本ずつは高さ推定3mほどの細い柱の上に乗っており、これがデッカツリーの左右のマイクの代わりになるようだ。


古典配置での演奏。通奏低音であるチェンバロが、奏者が指揮者と向き合う形になるよう中央に据えられている(チェンバロ独奏:パブロ・エスカンデ)。交響曲は第1第2ヴァイオリン共に8人の編成。協奏曲の時は共に6人と一回り編成が小さくなる。

今日は女性奏者達が各々カラフルなドレスを纏って舞台上に登場する。日本クラシック界の宿命、というほど大袈裟ではないが、音大や音楽学部、音楽専攻に在籍している学生の8割が女子という事情もあり、オーケストラの楽団員も当然の結果として女性の方がずっと多い。今日は舞台上がかなり華やかである。


交響曲第35番。中編成でピリオド奏法を採用ということで、冒頭は音がかなり小さく聞こえるが、そのうちに耳が自然に補正される。第3楽章ではコンサートミストレスの松浦奈々と首席第2ヴァイオリン奏者の池原衣美が、ソロパートで対話するような場面があり、視覚的にも聴覚的にも楽しい。また第4楽章はラストがラストらしくなく、すっと音を抜くようにして終わりとなる。


チェロ協奏曲のための配置転換の間に、飯森がマイクを持ってスピーチ。昨日セッション録音を行い、今日のゲネプロでもレコーディングが行われたそうで、今日の演奏会も含めて最低でも3回の録音を行うことになる。そのためか、ノンタクトで指揮した今日の飯森は神経質な指示はほとんど出さず、センチュリー響の自発性に委ねるところも多かった。何度も本番のつもりで演奏して来たので、事細かに指で指示を出さなくても緻密なアンサンブルが可能になったのであろう。
飯森は、「ハイドンの時代にはビブラートという観念がなかった」と語る。一応、「指を揺らす」という技法はあったようだが、感情が高ぶって左手が自然に揺れるということ、もしくは感情の昂ぶりを左手の揺れで音にするという考えで、20世紀に入ってからのように「音を大きくするためにビブラートを掛ける」ということはなかった。そのため音を大きくするのは当時は弓を持った右手の役割だったという。
ちなみにドイツの音楽大学では、モダン楽器専攻の学生であってもピリオド奏法などの古典的な演奏法(Historicaly Informed Performance。略して「HIP」と呼ばれる)を学ぶことは当たり前のようで、日本の音大とは大分事情が異なるようである。
ハイドンマラソン参会者には首から提げるタイプのパスカードが配られる。これにシールを貼り、ハイドンマラソン演奏会全てに参加した方には豪華景品が贈呈されるという。私は残念ながら全部聴きたいほどハイドンが好きではないので完走することはないと思うが。


チェロ協奏曲第2番。チェロ独奏のアントニオ・メネセスは、1957年、ブラジル生まれのチェリスト。16歳の時にヨーロッパに渡り、1977年にはミュンヘン国際コンクール・チェロ部門で優勝。1982年にはチャイコフスキー国際コンクール・チェロ部門でも覇者となる。ソリストとしての活動の他に、1998年から2008年までボザール・トリオのメンバーとしても活躍した。現在はスイスのバーゼルに住み、ベルン音楽院で後進の指導にも当たっている。

メネセスのチェロは典雅な音色を奏で、センチュリー響もそれに負けじと明るい音色を出す。
ハイドンは人生の大半をハンガリーのニコラウス・エステルハージ候の宮廷楽長として過ごした。当時の音楽家の身分は召使いと同程度であり、音楽そのものも明るく分かりやすいものが好まれた。ということで、ハイドンは貴族のお気に召す音楽を書く必要があり、そのことでモーツァルトやベートーヴェンのような毒に乏しく、「浅薄」と後世から評価されかねない音楽を書いた。それは現在、ハイドンが人気の面においてモーツァルトやベートーヴェンに大きく水をあけられている一因となっているだろう。一方でハイドンはハンガリーという、当時は音楽の中心地からは離れた場所にいたため、他の音楽を知る機会が余りなく、自然と自分で工夫を凝らして作曲をするようになっていったという。居眠りしている聴衆を叩き起こす「驚愕」交響曲や、曲が終わったと聴衆に勘違いさせる仕掛けが何度もある交響曲第90番、ティンパニがやたらと活躍する「太鼓連打」、楽団人が一人ずつ去って行く「告別」など個性豊かな交響曲も多い。

メネセスはアンコールとしてJ・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第1番から「サラバンド」を弾く。スケールが大きく、渋みもあり、大バッハとハイドンの実力の差を聴いてしまったような気分にもなった。


交響曲第17番は3楽章の交響曲。第2楽章は短調であり、痛切ではないがメランコリックな旋律が奏でられる。第2楽章があることで、次の第3楽章が更に明るく聞こえる。


交響曲第6番「朝」。今日演奏される曲の中では最も有名な作品である。ちなみに交響曲第7番のタイトルは「昼」、交響曲第8番のタイトルは「晩」という冗談音楽のようなシリーズになっている。

第2楽章と第4楽章ではコンサートマスターがヴァイオリンソロ奏者並みの役割を担う。センチュリー響のコンサートミストレス、松浦奈々が巧みな演奏を聴かせる。第2楽章と第3楽章ではチェロにもソリストのような場面があり、第3楽章ではコントラバスとファゴットにソロパートがある。チェロの北口大輔、コントラバスの村田和幸、ファゴットの宮本謙二が優れた演奏を聴かせた。

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2022年8月 2日 (火)

コンサートの記(794) びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」

2022年7月18日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」を観る。

ヴェルディ最後のオペラとなった「ファルスタッフ」。シェイクスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作に、作曲家としても名高いアッリーゴ・ボーイトが台本を手掛け、一度は引退を決意していたヴェルディが最後の情熱を燃やして作曲した作品としても知られる。ボーイトの台本にヴェルディはかなり魅了されたようだ。
ヴェルディは、悲劇作家であり、喜劇オペラ(オペラ・ブッファ)は、2作品しか残さなかった。そのうちの1つが「ファルスタッフ」である。


園田隆一郎指揮大阪交響楽団(コンサートマスター:林七奈)の演奏。演出は、国立音楽大学を経てミラノ・ヴェルディ音楽院に学び、多くの著名演出家の演出助手として活躍した経験を持つ田口道子。出演はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーを中心としたWキャストで、今日はB組の出演。青山貴(ファルスタッフ)、市川敏雅(フォード)、清水徹太郎(フェントン。本来出演予定だった有本康人が体調不良で降板したため、A組の清水が出演)、古屋彰久(カイウス)、奥本凱哉(おくもと・ときや。バルドルフォ)、林隆史(はやし・たかし。ピストーラ)、山岸裕梨(やまぎし・ゆり。アリーチェ。インスペクター兼任)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。ナンネッタ)、藤居知佳子(クイックリー夫人)、坂田日生(さかた・ひなせ。メグ・ペイジ)。合唱も、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが出演する。


上演の前にまず、演出家の田口道子によるお話がある。新型コロナがまた勢いを増しているということでマスクを付けてのトークである。
ヴェルディが「ファルスタッフ」を作曲しようと思い立ったきっかけ(ボーイトの台本の存在感)、ヴェルディが初めて手掛けた喜劇オペラが上演最中に打ち切りになったこと、ヴェルディのその時の心境(妻と娘を亡くした中で喜劇オペラを作曲していた)などが語られる。
またオペラが総合芸術であり、あらゆる芸術が詰め込まれた豪華なものであること。一方で、初めて観る人にも分かりやすい演出を心がけたことなどが語られた(後方のスクリーンに映像を投影させる(「紙芝居のような」演出であった)。


実は、原作となったシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房達たち」は、シェイクスピア作品のワースト争いの戯曲として知られている。偽作説まであるほどだが、エリザベス女王の御前上演会のために短期間で書かれたこと、そもそも本格上演用ではなく余興用の台本だったことなどがマイナスに作用したという説が有力である。猥語の頻用、奇妙なフランスなまりの英語、子どもだましのような展開など、「偽作」と言われるだけの要素が多いが、この作品のオペラ化を試みた作曲家もヴェルディのみに留まらず、ファルスタッフという人物が多くの人々を魅了してきたことも窺える。
ボーイトは、オペラ用台本ということで、当然ながら筋や登場人物をカットしたものを書いているのだが、それが上手くいったようである(同じような場面をカットした効果は大きい)。初演時から好評を得ており、今に至るまでヴェルディ屈指の人気作となっている。


ガーター亭で過ごしているファルスタッフが、金策のためにアリーチェ・フォードとメグ・ペイジという金持ちの夫人二人に恋文を送ろうとするところから始まる(シェイクスピアの原作はそれよりも前に色々な展開があるのだがカットされている)。バルドルフォとピストーラという使用人になぜか拒否されるが、恋文はアリーチェとメグに届く。
ところが文面が全く同一のものであったため、アリーチェとメグは激怒。ファルスタッフを懲らしめてやることにする。一方、アリーチェの娘であるナンネッタはフェントンに恋しているのだが、父親のフォードは、金持ちの医者であるカイウスと娘の結婚を画策していて……。


恋と嫉妬、復讐を果たすまでの頭脳戦と予期せぬドタバタ、道ならぬ恋など、オペラで受けそうな要素が満載である。やはり演劇と歌劇とでは客受けの良いものが微妙に異なっている、というよりも客に受けそうな要素だけでボーイトが脚本を編んだのが良かったようだ。常識的に考えて変な場面も実は多いのだが、そこは音楽の力で増強増補していく。

田口道子の演出は、滑稽な動きを強調したものであり、特にファルスタッフ役の青山貴とクイックリー夫人役の藤居知佳子の演技は、チャーミングでもあり、コメディの要素も生かし切っていた。
アリーチェ役の山岸裕梨とメグ・ペイジ役の坂田日生の安定感、またナンネッタ役の熊谷綾乃の可憐さを強調した演技も説得力があった。

園田隆一郎指揮大阪交響楽団も活きの良い演奏を聴かせる。大阪交響楽団は、大阪府内に本拠地を置くコンサートオーケストラの中で最も歴史が浅く、演奏会ではたまに非力さを感じさせたりもするのだが、びわ湖ホール中ホールは空間がそれほど広くないということもあって、迫力も万全である。
イタリアオペラを指揮することの多い園田隆一郎の絶妙のカンタービレも流石であった。

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2022年7月30日 (土)

コンサートの記(793) 夏川りみコンサートツアー2022「たびぐくる」京都公演

2022年7月24日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後3時から、ロームシアター京都サウスホールで、夏川りみコンサートツアー2022「たびぐくる」京都公演に接する。沖縄の本土復帰50年を記念してのツアーである。夏川りみのコンサートはこれまで、伊丹、大阪、宇治、城陽、なぜか岐阜羽島でも聴いているが(しかもなぜか京都フィルハーモニー室内合奏団との共演)、京都市内で聴くのは実は初めてとなる。

6月にニューアルバム「会いたい~かなさんどぉ~」をリリースした夏川りみ。これまでは他人が提供した曲を歌い上げるというスタイルで、自分で作詞・作曲したのはライブのみで歌われる「タイガービーチ」ぐらいだったが、この新譜では作詞・作曲も手掛けており、ライブでも自作曲が披露された。

今日が祇園祭の後の祭りの山鉾巡行ということで、「山鉾巡業、巡業じゃなかった巡行か。それを見た後でこっちに来た? あるいはそちらを捨ててこっちに来た?」と聞いていた。山鉾巡行を見るのは、山や鉾を出す町以外は、市外や府外から来る人の方が多い。

「てぃんさぐぬ花」をウチナーグチで歌った夏川りみ。「初めて夏川りみの声を生で聴いたという人は拍手」「ほぼ全員だねえ」(実際には3分の1程度だろうか。夏川りみは京都市内でのライブはたまにしか行わない)ということで、「静かな歌が多いです。で、方言なので歌詞の意味が分からない。意味の分からない静かな歌を聴いていると眠くなる」「でも起こしたりはしません」「起きる歌もあるからさあ」ということで、「起きる歌」としては、「知ってる歌の方がいいでしょう」として、THE BOOMが30年前に発表した「島唄」が歌われた。前半がヤマトグチ、後半はウチナーグチでの歌唱である(THE BOOMが両バージョンをリリースしている)。

沖縄の民謡としては、「月ぬ美しゃ(かいしゃ)」「東里真中」などの子守唄が歌われ、夏川は歌う前に「おやすみなさい」と言っていた。

代表曲の一つ、「童神(ワラビガミ)」をヤマトグチで歌うことを発表して、お客さんの一人が拍手し、夏川も「中途半端な拍手ありがとうございます」と冗談を言うが、誤解されるといけないので、「嘘! 嘘! 嘘ですよ!」とフォローしていた。その後、今年12歳になるという息子さんの話をする。この間生まれたばかりかと思っていたらもう12歳と時の流れは速いが、考えてみれば私が夏川りみのライブに接するのも2017年12月以来と久しぶりである。息子さんはまだ母親と遊んでくれているそうだが、来年は中学校に上がるため、もう遊んでくれないかもと少し寂しそうに語った。

「涙そうそう」を歌う前には、「今の私があるのもこの歌のおかげさあ」「なに歌うか分かったさあね」とお約束の語りを入れる。余り関係ないが、私は最近は「涙そうそう」はシンガポールのシンガーである蔡淳佳による北京語の新訳バージョンで歌っている。

自作曲3曲、「愛(かな)さ生(う)まり島(じま)」、「波照間ブルー」、「会いたい(想你)」は全て披露される。このうち、「波照間ブルー」と「会いたい(想你)」は、今日はキーボード奏者として参加していた醍醐弘美との共作である。夏川は、「沖縄本島行ったことある人?」「私が生まれた石垣島行ったことある人?」「竹富島行ったことある人?」と聞いていき、「波照間島行ったことある人?」と最後に聞くが、実は夏川りみも深めて今日の出演者4人は全員、波照間島には行ったことがないそうである。「波照間ブルー」は、夏川が醍醐と共作する過程で、「パラダイスのような感じがする」ということで、イメージだけで作り上げたようだ。
また、「会いたい(想你)」は副題に中国語が入っているが、テレサ・テンが残した音声と夏川が架空デュエットをして曲を作ったことを思い出して、テレサ・テンへの思いを歌に込めたものだと明かしていた。一部に北京語の歌詞あり。

アンコールでは沖縄民謡「芭蕉布」が歌われる。

今日は白い旗袍のような衣装に紫色の羽織を纏って登場した夏川りみ。文様のデザインは夏川のオリジナルで、「ムカデ」を表したものであり、ムカデはその足の多さから「よく通う」という意味があるそうで、「お客さんにたくさん足を運んで欲しい」という願いを込めたものだという。
今日も声の情報量が多く。歌声で繰り広げられる絵のない映画を存分に楽しんだ。

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2022年7月27日 (水)

コンサートの記(792) ユベール・スダーン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第560回定期演奏会

2022年7月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第560回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、日本でもお馴染みの存在であるユベール・スダーン。

オランダ出身のスダーン。東京交響楽団の音楽監督時代に注目を集め、現在は同楽団の桂冠指揮者。オーケストラ・アンサンブル金沢の首席客演指揮者でもある。安定感抜群のイメージがあるが、オランダ出身ということで古楽にも強く、2019年の京響の第九ではピリオド・アプローチ(HIP)を援用したノリの良い演奏を築いていた。
今日は指揮台を使わず、ノンタクトでの指揮。


曲目は、ロベルト・シューマンの「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」(いずれもマーラー編曲)、ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏第1番ト短調で、編曲もの3連発という意欲的な試みが行われる。

ドイツ・ロマン派を代表する作曲家であるシューマンであるが、本格的に作曲家を目指すのが遅かったということもあり、「オーケストレーションに難がある」というのが定説であった。くすんだ音色で鳴りが余り良くないのである。20世紀初頭までは、オーケストレーションに難ありとされた楽曲は指揮者がアレンジするのが一般的であり、当代一の指揮者でオーケストラの響きを知悉していたグスタフ・マーラーがアレンジした「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」の譜面が残っていて、今回はそれを使用した演奏となる。スダーン自身がシューマンのオーケストレーションに疑問を持っており、それを氷解させてくれたのがマーラーによるアレンジ版だったようだ。

ブラームスのピアノ四重奏曲第1番ト短調に関しては、シェーンベルク自身が疑問を抱いていたようである。シェーンベルクはこの曲が大好きだったが、「ピアノが響きすぎて他の楽器が聞こえない」という不満を持っていた。そこで理想的なピアノ四重奏曲第1番ト短調の響きを求めて、アメリカ時代に編曲したのが今日演奏される管弦楽バージョンである。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置の演奏である。
だが、「マンフレッド」序曲では、舞台下手端にバロックティンパニが据えられており、視覚的にも異様な感じだったが、演奏するとバロックティンパニの響きは異物と捉えられる。

さて、その「マンフレッド」序曲であるが、すっきりとした響きになっている。シューマンのオーケストレーションについては擁護者もいて、例えば黛敏郎は、[あの音色はあのオーケストレーションでないと出ない」とシューマンの望んだ響きを誰より知っているのはシューマンという立場を鮮明にしている。マーラー編曲版は毒気が抜けた感じだが、それを補う形で、スダーンはバロックティンパニを舞台下手端で叩かせたのかも知れない。「マンフレッド」という話自体が異様な内容だけに、それを示唆する要素があるのも良いだろう。


交響曲第1番「春」。冒頭のトランペットの響きが明らかに低いのが一聴して分かる。実はシューマンは当初は今日演奏された音程でトランペットの旋律を書いたのだが、当時のナチュラルトランペットでは上手く吹くことが出来なかったため、改訂する際に音を3つ上げている。現在演奏されるシューマンの「春」はほぼ全てこの改訂版の譜面を採用しており、モダントランペットが華々しく鳴るのだが、ヨーロッパの長い冬が終わって春となった直後を描いていると考えた場合、明るすぎるとシューマンは考えたのかも知れない。マーラーはシューマンの初稿を尊重して音程を元に戻している。
やはり見通しが良くなり、音のパレットが豊富である。非常に情熱的で、シューマンの一面をよく表してもいる。主旋律でない部分の音の動きが分かりやすくなったのもプラスである。第2楽章の冒頭の弦楽の響きなどは、マーラーのアダージェットを思わせ、マーラーの個性も刻印されている。
一方で、やはりシューマンの渦巻くような怨念は一歩後退したような印象を受ける。音の動きがはっきり捉えられる分、原曲の響きが伝えていた不安定感や毒が薄れるのである。シューマンよりは大分年下(丁度50歳差)のマーラーであるが、指揮者だったということもあって旋律や構築はシューマンよりもあるいは古典的。「響かないことで伝わるもの」に関しては、やはり指揮者だけに注意が及ばなかったと思われる。
ともあれ、マーラーの編曲もやはり面白いものであることには間違いない。スダーンと大フィルの造形美も見事である。


ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番ト短調。スダーンの設計の巧みさと、大フィルの上手さが光る演奏となった。

オーケストラの団員が揃い、チューニングが行われ、会場の誰もがスダーンを待つことになったが、そのスダーンがなかなか現れない。舞台下手側の入り口は開け放たれているのだが、誰かが現れる気配もない。そうしている内に舞台上手側の入り口が開いて、ここからスダーン登場。どういう意図なのか理由なのか、あるいは意図も理由もないのかは不明だが、取り敢えずスダーンは、上手から舞台の中央へと進む。

シェーンベルクの編曲であるが、自身の個性を出すのは勿論、やはりブラームスを崇拝していたエルガーのような高貴さ、フランス印象派のような浮遊感など、同時代の音楽技法を意図的にかどうかは分からないが取り入れている形になっているのが面白い。民族的な旋律は、ブラームスが採集して編曲した「ハンガリー舞曲」との繋がりも感じられるが、シェーンベルクの編曲は、ドヴォルザークやバルトークといった国民楽派の作曲家からの影響もおそらく濃厚である。特に第4楽章は民族音楽的、舞曲的で痛快である。安定感抜群の音楽を作るスダーンであるが、京響との第九同様、熱く高揚感のある音作りで大フィルの機能を目一杯使う。興奮を誘う音楽で、演奏終了後の拍手も一際大きかった。

大フィルのメンバーもスダーンに敬意を払って立たず、スダーン一人が喝采を浴びる。
最後はスダーンが客席に投げキッスを送って、演奏会はお開きとなった。

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2022年7月23日 (土)

コンサートの記(791) ナプア・グレイグ with ハワイアン・フラ・ダンサーズ

2019年7月23日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後6時30分から、ロームシアター京都メインホールで、ナプア・グレイグ with ハワイアン・フラ・ダンサーズの公演に接する。

ナプア・グレイグ with ハワイアン・フラ・ダンサーズは、文字通り、ハワイアンの歌とダンスのコンサートである。
ハワイアンというと、スチールギターが鳴って、ゆったりとしたテンポの音楽が流れてというイメージがあり、実際にそういう楽曲もあるのだが、まず冒頭ではハワイのペレやマクアといった神々に捧げる民族音楽とフラが行われる。これらはテンポも速くキビキビと進み、「のどかなハワイアン」という先入観とは異なっている。

ナプア・グレイグは、英語でトークを行う。「てぃんさぐぬ花」を歌う前に、「Okinawa is my father's country」と言ったため、沖縄とハワイのハーフであることがわかるが、聴衆には余り伝わっていないようで、「おじいさんとおばあさん、沖縄の人」と日本語で言ったときに「あー」という声が上がっていた。ちなみにお父さんの名前は、ナカソネ・キヨシだそうである。

セットリストは、「ホロ マレ ペレ」、「オケ アヒ ア ロノマクア」、「アカ ウク」、「ノウ ペハ エ カイアノ」、「カワヒネ オ カ ルア」、「ライエカワイ」、「ノールナ」、「ポリアフ」、「アイア ラオペレ」、「ワイアウ」、「ケ アオ ナニ」、メドレー「I'll wave a lei of stars~マヒナ オ ホク~マウイムーン」、「ナ アレ オ ニイハウ」、「カ マカニ カイリ アロハ」、「ナーウイ オ カウアイ」、「てぃんさぐぬ花」、「プア イリアヒ」、「カ マラナイ ソング」

フラダンスというと女性が踊っているイメージで、今回ももちろん女性ダンサーが多いのだが、男性ダンサーも6名ほど参加。その中にサッカーの長友佑都によく似た男性ダンサーがいて、妙に気になったりした。

ダンサーとして、ナプア・グレイグの19歳になる長女と5歳の長男が登場。「ケ アオ ナニ」に合わせて二人で踊る。長女は10代に入った頃から踊りを始めていたらしいが、長男は今回の来日公演に合わせて1ヶ月練習しただけだそうで、姉の踊りを見ながら動きを真似していた。

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2022年7月22日 (金)

コンサートの記(790) 大友直人指揮京都市交響楽団第669回定期演奏会

2022年7月16日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第669回定期演奏会を聴く。指揮は、京都市交響楽団桂冠指揮者の大友直人。

曲目は、シベリウスの交響曲第6番とヴォーン・ウィリアムズの交響曲第2番「ロンドン交響曲」。大友は全編ノンタクトでの指揮を行った。


午後2時頃から大友直人によるプレトークがある。まずシベリウスに関しては、交響詩「フィンランディア」や交響曲第2番、あるいは最も演奏されるのはヴァイオリン協奏曲かも知れないが、最も得意としたのは交響曲の作曲であること、ただ第3番以降の交響曲はあまり演奏されないことなどを述べる。京都市交響楽団がシベリウスの交響曲第6番を演奏するのも久しぶり。大友自身も20年ほど前に京響を指揮して交響曲第6番を演奏したことがあるが、もうどんな演奏だったかも覚えていないという。

ヴォーン・ウィリアムズはシベリウス以上に演奏されない作曲家で、「作曲家のいない国」といわれたイギリスの出身であるが、イギリスが音楽的に不毛な国だったかというとそうではなく、ドイツ出身のヘンデルがイギリスに帰化していたり、モーツァルトやベートーヴェンもイギリスを訪れて影響を受けたりと、やはり大英帝国ということで、音楽の分野でも影響力は大きかったことを明かす。
また、シベリウスもヴォーン・ウィリアムズも同時代人であり、シベリウスの交響曲第6番もヴォーン・ウィリアムズのロンドン交響曲も静かに始まり静かに終わるという共通点を持つと語っていた。


今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(あいだ・りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏である。ロンドン交響曲ではヴィオラ独奏が活躍するということで、ソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積(たなむら・まづみ)が全編に出演する。
ロンドン交響曲が演奏時間約50分という大作であるため、シベリウスの交響曲第6番に参加した管楽器の首席奏者はトロンボーンの岡本哲とホルンの垣本昌芳のみ。垣本はロンドン交響曲には参加しなかったため、全編に出た首席奏者は岡本哲のみであった。


シベリウスの交響曲第6番。大友は京響から神秘的で透明感溢れる音を引き出す。21世紀に入ってから力技の演奏も目立つ大友だが、この曲の演奏は丁寧で見通しが良くハイレベルである。第3楽章のラストや第4楽章では音が濁ることがあり、万全の出来とはいかなかったが、潤いと憂いと美と救済とそのほかあらゆるものを描き出した「神品」交響曲第6番の美質を巧みに浮かび上がらせた秀演となっていた。
先に書いたとおり、この曲では、管楽器に首席奏者が少なかったが、「首席だったらもっと」と思うパートがあったのは事実である。


ヴィーン・ウィリアムズのロンドン交響曲(交響曲第2番)。シベリウスの交響曲全集はフィンランド出身の指揮者が音楽界を席巻しているということもあり、リリースラッシュだが、イギリスの指揮者も台頭が目立つため、当然ながら母国の偉大な交響曲作曲家であるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集を作成する人は多い。サー・アンドリュー・デイヴィスのように早くから世界的な知名度を築いた指揮者から、サー・マーク・エルダーのように日本では知名度はそれほど高くないが英国では尊敬を集めている実力派の指揮者まで、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集を作成しており、シベリウスやショスタコーヴィチにようにヴォーン・ウィリアムズも今後ブレイクが必至の作曲家となっている。なんだかんだで名指揮者が多い国の音楽は演奏される機会も多くなるし、多く聴かれることでファンも増えていく。
ドイツやフランスといったかつての音楽大国は、最近、指揮者が才能払底気味であり、比較的新しい時代の自国の作曲家の作品が思ったよりも演奏されないという現象も起きている。

イギリスの交響曲作曲家というとエルガーが有名であるが、彼は交響曲を3曲、完成したものに限ると2曲書いただけで、交響曲第2番は余り人気がない。一方、ヴィーン・ウィリアムズは9曲の交響曲を残しており、曲調もバラエティーに富んでいるということで、今後、日本でも取り上げられる回数が増えていくことだろう。

大友直人は元々、ヴォーン・ウィリアムズなどのイギリス音楽を得意としており、今回も引き締まった良い演奏を展開する。得意曲を振らせると、大友は若返ったように生き生きしている。

ロンドン交響曲は、大英帝国の首都時代のロンドンの様々な光景を描いたもので、趣としては同時代に作曲されたエルガーの交響曲第2番に近い。第1楽章では2台のハープがウエストミンスターの鐘(「キンコンカンコン」という学校のチャイムでよく使われる響き)を奏で、第4楽章の終盤でもウエストミンスターの鐘が1台のハープで奏でられて、幕開けと終幕の役割を担っている。活気に満ちていたり、異国情調溢れる場面があったりと、多彩な表情を持つ曲であり、師であるラヴェルからの影響も窺える。たまに雑然としたアンサンブルになるところもあったが、総体的には高く評価出来る演奏だと思う。大友の指揮も冴え、京響も力強い演奏で応えていた。

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2022年7月21日 (木)

コンサートの記(789) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」 2022.7.17

2022年7月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。

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モーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」と共に、音楽雑誌などの好きなオペラランキング1位争いの常連である「ラ・ボエーム」。パリを舞台に、芸術家に憧れる若者とお針子との悲恋を描いた作品である。それまでは芸術というと、例外は案外多いが上流階級が行うものであり、たしなみでもあったのだが、プッチーニの時代になると市民階級が台頭。芸術を楽しんだり、あるいは自分で芸術作品を生み出そうとする市民が現れる。たまたますぐに認められる人もいたが、大半は長い下積みを経験し、芽が出ないまま諦めたり、貧困の内に他界する者も多かった。そんな新しい「種族」であるボヘミアン(フランス語で「ボエーム」)は、人々の目を驚かし、あるいは唾棄され、あるいは憧れられる存在となっていった。

今回、演出・装置・衣装を手掛けるのは、1943年、イタリア・マルチェラータ生まれのダンテ・フェレッティ。多くの映画監督やオペラ演出家と仕事をしてきた巨匠である。フランコ・ゼフィレッリのオペラ映画で美術を手掛け、その後にピエル・パオロ・パゾリーニ作品5本に美術担当として参加。近年はマーティン・スコセッシ監督と多く仕事をこなしている。

フェレッティは、ボヘミアン達の住み処をアパルトマンの屋根裏部屋から、セーヌ川に浮かぶ船に変更。垂直の移動をなくすことで、パリの地上に近づける工夫を施している。個人的にはアパルトマンの屋根裏から見えるパリの光景が、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』で語られる最後のセリフ、「パリよ今度はお前が相手だ」に繋がるようで気に入っているのだが、船上で暮らすボヘミアン達というのはそれはそれで面白いように思う。ただ船上に住むとした場合、隣の部屋に人知れず住んでいるミミという女性のキャラクターは余り生きないように思う。今回のミミは、船のセットの前を歩いて後方に回り、船内の部屋のドアの向こうに立って人を呼ぶという設定になる。元々は火が消えたから分けて欲しいという設定なのだが、船の家までわざわざやって来て、火を分けて欲しいというのは変である。ミミはおそらく舞台上手側にある部屋に住んでいて、船の家まで来たと思われるのだが、その場合は、ロドルフォが男前なので、近づきたいがために無理な設定をでっち上げたということなのだろうか。他に理由があるのかも知れないが、思いつかない。


指揮はいうまでもなく佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。ゲストコンサートマスターはステファノ・ヴァニヤレッリ(トリノ王立歌劇場管弦楽団コンサートマスター)、第2ヴァイオリントップはペーター・ヴェヒター(元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席)、チェロ客演首席はレリヤ・ルキッチ(トリノ王立歌劇場管弦楽団首席)。第2幕のカフェ・モミュスの場に現れる軍楽隊のメンバーの中に、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明の名が見える。
プロデューサーは小栗哲家(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主役を張っている小栗旬の実父)。

ダブルキャストによる上演で、今回はヨーロッパの若手歌手を中心としたA組の出番である。出演は、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)、エヴァ・トラーチュ(ムゼッタ)、リッカルド・デッラ・シュッカ(ロドルフォ)、グスターボ・カスティーリョ(マルチェッロ)、パオロ・イングラショッタ(ショナール)、エウジェニオ・ディ・リエート(コッリーネ)、清原邦仁(パルピニョール)、ロッコ・カヴァッルッツイ(ベノア/アルチンドーロ)、島影聖人(物売り)、時宗努(軍曹)、下林一也(税官吏)。合唱は、ひょうごプロデュースオペラ合唱団、ひょうご「ボエーム」合唱団、ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団。
ひょうごプロデュースオペラ合唱団のメンバーには関西では比較的有名な若手歌手も含まれている。

第2幕のカフェ・モミュスの場では、ステージ上がかなり密になるということで、吉田友昭(医学博士/感染制御医)と浮村聡(医学博士/大阪医科薬科大学大学院感染対策室長)という二人の医学関係者が感染対策の監修を手掛けている。


舞台設定は大きく変えたが、演技面などに関してはいくつかの場面を除いてオーソドックスな手法が目立つ。セットではやはりカフェ・モミュスのテラス席と屋内を一瞬で転換させる技法が鮮やかである。

オーディションを勝ち抜いた若手歌手達の歌と演技も楽しめる水準にあり、特にムゼッタを演じたエヴァ・トラーチュのコケティッシュな演技と歌声が魅力的であった。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏も潤いと艶と勢いがあり、私が座った席の関係か、たまに鳴り過ぎに聞こえる場面があったが、生命力に満ちている。在籍期間が最長3年で、常に楽団員が入れ替わる育成型オーケストラであるため、他のプロオーケストラに比べると独自の個性は発揮出来ないが、一瞬一瞬の価値を大事にしたフレッシュな演奏が可能ともなっている。


第3幕の「ダダン!」という音による始まりと終わりについてであるが、個人的には、アンフェール関門(インフェルノ関門)という場所が舞台になっているため、地獄の扉が開く音として捉えている。第2幕であれほど生き生きしていたボエーム達とミミが、第3幕では、ミミの病気やロドルフォのミミに対するDV、マルチェッロとムゼッタの喧嘩などで、地獄への道へと落ちていくことになる。

立場はそれぞれ違えども、ステージにいる人、客席にいる人の多くが、ボエーム達の生活に憧れたか、実際にそういう暮らしを送った人達であり、己の姿を投影することの可能な作品である。

一方で、この時代は女性にとっては残酷であり、地方からパリに出てきてお針子になる女性が多かったが、パリの家賃や物価は高く、多くは仕事をしているだけでは生活出来ず、売春などで小金を稼ぐ必要があった。ムゼッタのように金持ちに囲われ、歌の教師などの職を得るものもあれば、ミミのように売春をしても暮らしは楽にならず、若くして命を散らすことも決して珍しくなかった。女性でも芸術方面で活躍している人もいるにはいたが、彼女達は基本的に上流階級の出身であり、そうでない多くの女性は芸術家(ボエーム)になることも許されず、地獄のような生活を送る人も少なくはなかった。

ミミというのは俗称で(売春をする女性は、ミミのように同じ音が続く俗称で呼ばれることが多かった。ムゼッタの俗称はルルである)本名はルチア。「Lux」に由来する「光」という名の名前である。この作品でもロドルフォの戯曲を燃やす暖炉の明かり、ミミが借りに来る「火」の灯り、カフェ・モミュスの輝き、第3幕での春の陽の光に抱く恐れや、最後の場面での日光に関するやり取りなど、「光」が重要な鍵となっている。

ロドルフォは最後までミミのことを本名のルチアで呼ばない。結婚相手とは考えられないのだ。本名で呼ぶような関係の夫婦となるのに多くの障壁がある。まず金銭面、身分の問題(ロドルフォは売れない詩人、ミミは売春も行うお針子)、そして価値観の違い。ミミはボエーム達のように芸術に関して深く理解する力はなかっただろう。ロドルフォはミミを愛しい人とは思っても結婚相手とは見ておらず、芸術上の同士とも考えていないため、「ルチア」とは呼ばないのである。すれ違いといえばすれ違いであるが、新しい階級を築きつつある一方で、旧弊から抜け出せない端境期(あるいは今も端境期のままなのかも知れないが)の「自由な」「わかり合えない」若者達の悲しさと愚かしさを描く、痛切な作品でもある。

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2022年7月16日 (土)

コンサートの記(788) 「日曜の午後のクラシック 歌とピアノ&ピアノ三重奏」@ムラマツリサイタルホール新大阪 2022.7.10

2022年7月10日 ムラマツリサイタルホール新大阪にて

大阪へ。午後2時30分から、ムラマツリサイタルホール新大阪で歌曲と室内楽のコンサートを聴く。

京阪電車で終点の淀屋橋まで向かい、Osaka Metroで新大阪駅に向かう。
新大阪駅を利用したことは何度かあるが、新大阪駅から外に出たことは、ひょっとしたら一度もないかも知れない。外に出て、北へと延びる歩道橋を歩き、その後に地上に下りて西へと進む。新大阪は新幹線が停まる駅で高層ビルも多いが、街の規模としては梅田や難波に負ける。「新○○駅は本家より劣るの法則」は日本のほとんどの都市で有効である。

ムラマツリサイタルホール新大阪は、ビルの1階にあるが、他に入っているテナントは飲食店、それも大衆向けの店が多い。クラシック音楽専用ホールに大衆向けの飲食店という組み合わせが面白い。京都にはこうしたビルは存在しないであろう。


ムラマツリサイタルホール新大阪で行われる「日曜の午後のクラシック 歌とピアノ&ピアノ三重奏」であるが、新型コロナにより二度の延期を経ての開催である。今回もスムーズにことは運ばず、ピアノ奏者二人が体調不良を訴えたため、代役を起用しての公演となる。

出演は、木村真理子(ヴァイオリン)、エドアルド・デルリオ・ロブレス(チェロ)、今井彩香(ピアノ)、川床綾子(ソプラノ)、蜷川千佳(ピアノ)。

曲目は、ハイドンのピアノ三重奏曲第39番「ジプシー」、トゥリーナのピアノ三重奏曲第2番、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の「このみち」、武満徹作詞・作曲の「小さな空」、ドヴォルザークの歌劇『ルサルカ』より「月に寄せる歌」、オスカー・ハマースタインⅡ世作詞・リチャード・ロジャース作曲のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』より「すべての山に登れ」、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番。

ピアノ三重奏の出演者の紹介をすると、ヴァイオリンの木村真理子は、同志社女子大学学芸学部音楽学科を卒業後、同大学音楽学会《頌啓会》特別専修生修了。第6回秋篠音楽堂室内楽フェスタにて聴衆賞を受賞。プラハで行われた4th Ameropa International Concertante Competition 2014にて第2位(1位なし)及び聴衆賞を受賞している。

チェロのエドアルド・デルリオ・ロブレスは、スペインの名チェリストであるペドロ・コロストーラに師事。マドリード音楽院で名誉賞を得る。2008年からプラハ国際音楽祭 Ameproにてチェロと室内楽の教授を務めている。

ピアノの今井彩香は、京都市立芸術大学を卒業。ヤマハヤングピアニスト推薦演奏会金賞。宝塚ベガ学生ピアノコンクール第2位を獲得。その他のコンクールでも入賞を果たしている。


ハイドンのピアノ三重奏曲第39番(新版では25番)「ジプシー」は、最終楽章にハンガリー風の曲調が採用されていることからこの名がある。
全体的には典雅な雰囲気に溢れ、ハイドンがモーツァルトに与えた影響までもが分かるような洗練された作風である。

ムラマツリサイタルホール新大阪に来るのは初めてだが、満員になった場合には、室内楽、器楽、声楽に最適の音響となりそうなホールである。今日は来場者が少なめなので残響が長めだが、それでも聞きやすい。演奏も曲調を的確に捉えている。


トゥリーナのピアノ三重奏曲第2番。トゥリーナはスペイン出身の作曲家。パリのスコラ・カントルム(エリック・サティが中年になってから通ったことでも知られる)に留学し、ヴァンサン・ダンディ(サティの師でもある)に作曲を師事。ドビュッシーやラヴェルとも親交を結んでいる。出身地のアンダルシア地方の音楽を追究した作曲家でもある。

演奏前に木村真理子がマイクを手に、トゥリーナと楽曲の紹介を行った。

旋律がスペイン風であること、和音、特にピアノの響きがドビュッシーからの影響を受けていることがすぐに分かる。スペイン系の音楽は情熱的かつ個性的で聴いていて楽しい。ナポレオンが「ピレネー山脈の向こう(スペイン)はアフリカである」と語ったが、フランスやドイツ・オーストリア、イタリアといったクラシック音楽のメインストリームとは明らかに異なる良さがある。


演奏終了後に、木村とソプラノの川床綾子が登場し、マイクを手にトークを行う。二人が出会ったのは、チェコのプラハであること、プラハでの夏の講習会に参加したのだが、多くの学生が集う中で日本人は木村と川床の二人だけであり、共に関西出身ということもあって親しくなったことなどが語られ、川床が歌う「この道」や「小さな空」、チェコ語で歌われる歌劇『ルサルカ』より「月に寄せる歌」のちょっとした解説や、歌劇『ルサルカ』の内容などが紹介された。

ソプラノの川床綾子は、大阪音楽大学短期大学部声楽科を卒業後に同大学専攻科を修了。イタリアやチェコに留学してディプロマを獲得している。関西二期会準会員。

ピアノ伴奏の蜷川千佳は、神戸女学院大学音楽学部ピアノ専攻卒業。同大学大学院音楽研究科を修了。第33回摂津音楽祭にて伴奏賞を受賞している。神戸女学院大学、四條畷学園高校非常勤講師。酒井シティオペラと関西二期会のアンサンブルピアニストを務めている。


北原白秋作詞・山田耕筰作曲の「この道」。北原白秋の歌詞は札幌を舞台に書かれており、白い時計台など、札幌の名所も登場する。北原白秋が何歳ぐらいの主人公にいつの頃の思い出を歌わせているのか、設定を把握する必要のある楽曲でもある。設定年齢によって曲のイメージがかなり変わってくる。白秋自身が「少年」との設定を書き込んでいるが、十代半ばの少年が10年ほど前、一番最初に「この道」に来た時のことを思い出して歌っているというのが最も適切だと思われる。「お母様」という言葉を使っている(山田耕筰が歌詞を変えているのであるが)ことでもそれほど年長ではないことが窺える。白秋自身は「母さんと」という言葉を選んでいるが、「少年」という設定を考えた場合は、「お母様と」の方が誤解を確実に防げる。これらの技巧により、痛切なノスタルジアと幼年期からの脱出が浮かび上がるのがこの曲の歌詞の魅力である。

解釈は唯一絶対のものではないのだが、川床の歌唱は言葉を丁寧に追ったものだったように思う。


武満徹作詞・作曲の「小さな空」。武満の歌曲の中でも人気の高い作品であり、実演で聴く機会も多い。
この曲も幼年時代を回顧している歌である。
川床は、ラストを転調して歌っていたが、これまでそうしたバージョンを聴いたことはないため、そうした譜面が存在するのか、個人的に改変したのかどうかは分からない。武満は歌曲に関しては、「自由に歌えるように」と歌声の単旋律のみ書き、基本的には伴奏などは作曲しなかった。


休憩を挟んで、ドヴォルザークの歌劇『ルサルカ』より「月に寄せる歌」。淀みない歌声が印象的である。


オスカー・ハマースタインⅡ世作詞・リチャード・ロジャース作曲のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージカル』から「すべての山に登れ」。川床によると、コロナ禍を乗り越えるメッセージを込めて選曲されたものだという。
以前にも書いたことがあるが、私はこの曲に思い出がある。高校1年生の音楽の授業で、映画「サウンド・オブ・ミュージック」からいくつかの場面を選んで演技と合唱を行うことになり、私は「すべての山に登れ」班に入り、セリフを語った後で皆で英語詞を合唱した。私は一般的な男性よりも高めの声も出せるので、受けが良かったような記憶もあるが、詳しくは覚えていない。ちなみに演技の方は「渋い」と言われた。

川床は日本語訳詞と英語詞を混ぜたテキストを採用。サビに当たる部分はやはり英語で歌っていたが、この方がしっくりくる、というよりもサビを日本語詞にするのは難しいだろう。少なくとも英語詞のようにドラマティックにするのは困難である。


メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番。演奏前に木村真理子が曲目の解説を行う。この曲はメンデルスゾーンが30歳の時に書かれたもので、当時、メンデルスゾーンはシューマンから「19世紀のモーツァルト」(本物のモーツァルトは18世紀の人である)と評されており、ピアノ三重奏曲第1番も「ベートーヴェン以降、最も偉大なピアノ三重奏曲」と絶賛されていた。今でこそシューマンは作曲家というイメージしかないが、生前は音楽批評を音楽の一ジャンルにまで高めた批評家として知られていた。シューマンは音楽家を志したのが二十歳前後と遅かったため、楽器の演奏や管弦楽法などには苦手意識を持っており、元文学者志望という自己の資質が生かせる批評に力を入れていた。ドビュッシーも作曲家としてより批評家としての評価が生前は高かったが、シューマンにしてもドビュッシーにしても生前の姿が伝わっていないのは残念である。なお、ドビュッシーが行った批評に関しては、今も日本語訳されたものを手軽に読むことが出来るが、かなり偏った辛辣なものである。

さて、シューマンに絶賛され、その後も作曲のみならず多方面で才能を発揮したメンデルスゾーンであるが、38歳の若さで他界することになる。モーツァルトよりは3歳長生きしたが、才能があり過ぎると余り長生きは出来ないのかも知れない。

初演時はメンデルスゾーン自身がピアノを弾いたと伝わるピアノ三重奏曲第1番。ロマンティシズムに溢れた第1楽章と第2楽章、愉悦感に富んだ第3楽章、高度な作曲技術が駆使された第4楽章など、いずれも魅力的であり、演奏も曲調を丁寧に描き分けていたように思う。


アンコールとして全員による島崎藤村の詩に大中寅二が曲を付けた「椰子の実」が演奏された(ピアノは連弾版であった)。

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2022年7月13日 (水)

コンサートの記(787) 日本オペラ「藤戸」@兵庫県立芸術文化センター 2015.3.21

2015年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、日本オペラ「藤戸」を観る。兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)では、日本人作曲家による日本オペラの上演を毎年行っており、今回で3回目になるが、私がHPACで日本オペラを観るのは今日が初めてになる。

「藤戸」は、源平合戦(治承・寿永の乱)、藤戸の浦の戦いを題材にしたオペラである。原作:有吉佐和子(小説ではなく舞踏浄瑠璃のための台本とのこと)、台本&作曲:尾上和彦、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。初演時のタイトルは「藤戸の浦」であったが、後に「藤戸」に改題されている。

1日2回公演であり、午後2時開演の回の主演は、井上美和と迎肇聡(むかい・ただとし)。午後6時開演の公演の主演は、小濱妙美(こはま・たえみ)、晴雅彦(はれ・まさひこ)。他の出演は2回とも一緒で、古瀬まきを、松原友(まつばら・とも)、以降は波の精としてコーラス(コロス)としての出演で、柏原保典、谷幸一郎、水口健次(以上、テノール)、神田行雄、木村孝夫、砂田麗央(すなだ・れお)、下林一也(以上はバスと表記されているが、日本人に正真正銘のバス歌手はいないといわれているのでバリトンということになるのだと思う)。

今日はダブルキャストを共に観てみたいため、2回ともチケットを取った。

オーケストラピットが設けられているが、小編成での演奏。大江浩志(フルート)、奥野敏文(パーカッション)、日野俊介(チェロ)、武知朋子(たけち・ともこ。ピアノ)によるアンサンブルである。指揮は奥村哲也。奥村哲也は尾上和彦のオペラの指揮を何度も手掛けているが、元々はギタリストであり、高校生の時に日本ギターコンクールで2位に入るなど輝かしい経歴の持ち主である。高校卒業後、ロンドンに渡り、同地の音楽院でクラシックギターの他に指揮法や作曲も学んでいる。帰国後は主にオペラの指揮者として活動しており、関西、名古屋、四国の二期会と共演を重ねている。


『平家物語』に描かれ、伝世阿弥作(偽作の可能性が高く、最近は作者不明とされることが多いが)の謡曲などで知られる「藤戸」。一ノ谷の戦いに勝利した源氏が、源範頼を総大将として児島(現在の岡山県倉敷市児島。かつては倉敷市一帯は入江であり、児島は本当に島であった)を攻めようと対岸の藤戸に陣を張るが船がない。そもそも坂東武者を多く集めた源氏は陸戦は得意だが舟戦は得手とはしていない。宇多源氏佐々木三郎盛綱は何とかして先陣の功を上げたいと思っていたが、手段がない。そこにある漁師が、浅瀬を渡って児島に渡る方法を知っていると聞く。藤戸の浦には浅瀬があり、そこを通れば徒歩でも馬でも渡れるという。盛綱は喜ぶが、この事がよそに漏れてはいけないと、漁師を殺してしまう。能では漁師が幽霊となって現れるのであるが、有吉佐和子は、児島への行き方を知っている人物を漁師ではなく、少年に変えているという。そして佐々木盛綱と少年は二人だけの冒険のように児島への秘密のルートを辿るのだ。ただ、有吉版「藤戸」でも案内役である少年はやはり盛綱に殺されてしまう。そして殺された当人ではなく、母親がその様を聞いて発狂するという展開になる。


尾上和彦は、1942年、奈良市生まれの作曲家。京都市立堀川高校音楽コース作曲科(現・京都市立京都堀川音楽高校)在学中に主任講師に認められて放送用音楽の作曲助手として活動を開始(音楽の仕事が忙しすぎて出席数が足りず、高校は中退したそうである)、17歳にして舞台音楽の作曲家として自立し、オラトリオを始めとする声楽作品やオペラ、器楽などその他のジャンルの作曲を多く手掛けてる。放送禁止歌になった「竹田の子守唄」を発掘したり、小オラトリオ「私は広島を証言する」など、シビアな題材を取り上げていることでも知られる。オペラ「藤戸」は「藤戸の浦」という題で、1992年に米国サンフランシスコで初演。大劇場と中劇場で公演を行っている文化施設での初演であり、大劇場ではヴェルディの歌劇「オテロ(オセロ)」上演時間約4時間、中劇場で「藤戸の浦」上演時間約1時間という同時上演が行われたが、「藤戸の浦」は、「1時間で4時間分の密度のあるオペラ」と激賞されたという。


午後2時開演の回、午後6時開演の回共に、日本オペラプロジェクト総合プロデューサーである日下部吉彦、作曲の尾上和彦、演出の岩田達宗によるプレトーク20分、途中休憩15分、オペラ上演60分という変わったスタイルでの上演。


開演前に、演出の岩田さんに挨拶をし、少しお話を伺う。午後6時開演の前にはオペラ上演に適した日本のホールはどこか伺ったのだが、古典派までだったら大阪府豊中市にある大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス。大規模なものだと何だかんだで東京・上野の東京文化会館が最適とのこと。東京文化会館は東京初の音楽専用施設であり、都が威信を懸けただけあって入念の音響だそうである。


音楽、ストーリー共に分かり易いものである。音楽は比較的シンプルであり、特に女が歌うときにはミニマル・ミュージックのような同じ音型のピアノ伴奏が繰り返される(歌自体はミニマルミュージックではない)。

岩田達宗の演出であるが、まず中央に白い壁。左右に白く細い紗幕が数本降りている。幕が上がると、女がすでにおり、後ろを向き、正座をして屈み額を膝に付けている。
紗幕にライトが当たると、水色なのか浅葱色なのか(浅葱色だと別の意味が足されるが)とにかく青系の衣装を着た波の精達が見える。地唄に当たる部分は、彼ら波の精と、千鳥という女装をした着物姿の歌手(今回が松原友が務める)が歌う。ちなみに、「藤戸」はこれまでに90回以上上演されているが、いずれも波の精は女声アンサンブルが務めており、尾上の構想にあった男声による波の精が実現するのは今回が初めてだそうである。女声による波の精を聴いたことがないので何とも言えないが、男声による波の精の方が「リアル」だという想像は付く。
白い壁には「戦争」、「平和」といった文字や、源平の武者達の名前などが浮かぶ。

「白」は勿論、源氏の白旗であるが、平氏の赤旗も「赤=血=殺戮」というイメージの重なりを伴い、藤戸の浦の合戦の場面で登場する(赤い布が上から吊され、バックライトで佐々木盛綱の殺陣が浮かび上がった後で、布が天井から落とされ、波の精達がそれを纏って後ずさりし、平氏の退却を表す)。

日本語歌唱、日本語字幕スーパー付きの上演であるが、時折、歌手が字幕と違う言葉を歌ったのはアドリブなのか、或いは言い間違えたのか。意味は通じるので瑕疵にはならないが。

ちなみに、午後2時開演の回では、佐々木盛綱役の迎肇聡が太刀の刃を上にした形で握っているように見える場面が長く、ちょっと気になった。太刀の場合は刃を上にして握るという発想がなく、抜くときは横にして抜くので、刃は下か横を向いているはずだが、ちょっと力が入ったのかも知れない。抜くときは横にして抜いていたので、日本刀と勘違いしたというわけではないようである。

ダブルキャストの出来であるが、午後6時開演の小濱妙美と晴雅彦の方がメリハリを付けた演技となっていた。佐々木盛綱はある意味歌舞伎的わかりやすさが出て晴雅彦の方が迎肇聡よりも面白かったが、女は井上美和の方が伸びやかさにおいて優っていたように思う。


さて、女の歌と、盛綱の歌の歌詞を比較すると、女のものは素朴で情緒豊か(反戦のメッセージも入っているが)、盛綱の歌詞は理屈っぽい傾向がある(言い逃れをしているのだから当然である)。また盛綱は経文を唱えたり「徳義」という言葉を用いるなど、文字としてもお堅い。旋律も女のものは流れが良いが、盛綱の歌は角がある。女にとっては親子の日常こそが大切なのであって、武士道だの勝つだの負けるだの出世だのはどうでもいいのである。

「情」と「理」などと分けてあれこれ言うのは理の仕事なので書くだけ野暮になるわけだが、武士の世の戦は大将が戦場にいるという点においてまだ情の入り込む余地がある。こうして、戦の中にも涙を誘うような物語も生まれる。ただ近現代の戦争は極めて「非情」である。大将が戦場にいない。映像を見ながら指示している。兵隊はいるが、それに対する情もあるのかないのか。
1990年の湾岸戦争で、初めて我々はそれを目にした。不気味なほど綺麗な風景。コンピューターゲームのワンシーンのような映像。そこでは血が流れているはずだ。だが我々にはそれは見えなかった。

あたかも人間がその場にいないかのような不気味で洗練されすぎた戦争。そうしたあらゆる戦争が今もリアルタイムで行われているのが「現在」だ。


勿論、「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は生きにくい」という夏目漱石の言葉通り、情に棹させば解決するものでもないが、理屈と理屈で格闘し、気にくわないなら殺傷ではなく、「個と個で向き合うこと」、それしか戦争を防ぐ方法はないように思える。

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