カテゴリー「コンサートの記」の893件の記事

2025年3月15日 (土)

コンサートの記(895) 京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2025年2月17日 京都市立芸術大学・堀場信吉記念ホールにて

京都市立芸術大学崇仁新キャンパス A棟3階にある堀場信吉記念ホールで、京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。堀場信吉記念ホールで行われる初のオペラ公演である。「ドン・ジョヴァンニ」が京都市の姉妹都市であるプラハで初演され、大成功したことからこの演目が選ばれたようだ。

日本最古の公立絵画専門学校を前身とする京都市立芸術大学。京都市内を何度も移転している。美術学部は京都御苑内から左京区吉田の地を経て東山区今熊野にあり、京都市立音楽短期大学は左京区出雲路で誕生して左京区聖護院にあったが、京都市立音楽短期大学は京都市立芸術大学の音楽学部に昇格。その後、美術学部、音楽学部共に西京区大枝沓掛という街外れに移転した(沓掛キャンパス)。当時は近くに洛西ニュータウンが広がり、京都市営地下鉄の延伸で一帯が栄えると予想されていたのだが、地下鉄の延伸計画が白紙に戻り、ニュータウンも転出超過で、寂しい場所となっていった。美術学部は、自然豊かな方が風景画の題材が豊富ということで、多摩美や武蔵美などの例を挙げるまでもなく、郊外にあった方が有利な点もあるのだが(上野の東京芸術大学など、開けた街にある場合もあるが)、音楽学部は、例えば学内公演を行おうとした際、交通が不便な場合、よっぽど親しい人でない限り聴きに来てくれない。沓掛キャンパスはバスしか交通手段がなかったため、とにかく人が呼べないのがネックだった。だが、新しいキャンパスは京阪七条駅からもJR京都駅からも徒歩圏内であり(両方の駅の丁度中間地点にある)、集客の心配はしないで済むようになったと思われる。

堀部信吉記念ホールに名を冠する堀部信吉(ほりべ・しんきち)は、京都帝国大学出身の物理学者であり、京都では名の知れた企業である堀部製作所の創業者、堀部雅夫の父親でもあるのだが、京都市立音楽短期大学の初代学長であった。

移転した京都市立芸術大学のキャンパスであるが、敷地がそれほど広くないということもあって、完全なビルキャンパスである。京都市内が建物の高さ規制があるのでビルというほどの高さもない建物によって形成されている。庭のようなスペースがほとんどないため、専門学校の校舎のようでもあり、大学のキャンパスと聞いて思い浮かべるような広大な敷地とお洒落な建物を期待する人には合わないような気がする。周囲には自然はないので、美術学部の学生は東山などに写生に出掛ける必要があるだろう。幸い、遠くはない。

堀部信吉記念ホールであるが、敷地が余り広くないところに建てたということもあってか、客席がかなりの急傾斜である。これまで入ったことのあるホールの中で客席の傾斜が最もきついホールと見て間違いないだろう。そのため、天上の高さはある程度あるが、客席の奥行きはそれほどなく、全ての席に音が届きやすくなっている。音響設計などは十分いされているようには思えないが、音に不満を持つ人は余りいないだろう。一方、そのために犠牲になっている部分もあり、ホワイエが狭く、また興行用のホールではなく、あくまでも大学の講堂メインで建てられているため、トイレが少なく、休憩時間には長蛇の列が出来る。使い勝手が良いホールとは言えないようである(その後、解決法が考案されたようである)。外部貸し出しについてだが、ロームシアター京都や京都コンサートホールがあるのに、わざわざ堀部信吉記念ホールを借りたいという団体がそう多いとも思えないため、基本的には京都市立芸術大学専属ホールとして機能していくものと思われる。

 

今回のモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、タイトル通り、京都市立芸術大学大学院声楽専攻の学生の発表の場をして設けられたものである。おそらく声楽専攻の全学生が出演すると思われるのだが、役が足りないため、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは3人が交代で演じるという荒技が用いられていた。逆に男声歌手は数が足りないので、客演の歌手が3名招かれている。基本的に修士課程在学者が出演。博士課程1回生で騎士長役の大西凌は客演扱いとなっている。アンサンブルキャストは大学院声楽専攻の学生では数が足りないので、全員、学部の学生である。
オーケストラも京都市立芸術大学の在学生によって組織されているが、学部と修士学生の混成団体である。中には客演の人もいるが、どういう経緯で客演の話が回ってきたのかは不明である。
レチタティーボを支えるチェンバロは、学生ではなく、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師の越知晴子が務めている。

スタッフには指導教員の名前も記されているのだが、阪哲朗の名が目を引く。

今回の指揮者は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの指揮者として知られる大川修司。京都市立芸術大学非常勤講師でもある。

演出は、久恒秀典。国際基督教大学で西洋音楽史を専攻し、東宝演劇部を経て1994年にイタリア政府奨学生としてボローニャ大学、ヴェネツィア大学、マルチェッロ音楽院でオペラについて学び、ヴェネト州ゴルドーニ劇場演劇学校でディプロマを取得。同劇場やフェニーチェ劇場、ミラノ・カルカノ劇場などの公演に参加。2004年にも文化庁芸術家在外研究員に選ばれている。
現在は、新国立劇場オペラ研究所、東京藝術大学、東京音楽大学、京都市立芸術大学の非常勤講師を務める。

バロックティンパニを使用しており、ピリオドを意識した演奏であるが、弦楽はビブラートを控えめにしているのが確認出来たものの、「ザ・ピリオド」という音色にはなっておらず、演奏スタイルの違いにはそれほどこだわっていないように感じられた。
冒頭の序曲にもおどろおどろしさは余り感じられず、音楽による心理描写よりも音そのものの響きを重視したような演奏。個人的にはもっとドラマティックなものが好きであるが、これが普段は声楽の指揮者である大川のスタイルであり、限界なのかも知れない。

 

公立大学による公演で、セットにお金は余り掛けられないという事情もあると思われるが、舞台装置は比較的簡素で、照明なども大仰になりすぎるなど、余り効果的とはいえないようである。騎士長の顔色については、明らかに色をなくしていると歌っているはずだが、衝撃度を増すための赤い照明を使ったため、歌詞の意味が分かりにくくなっていた。

この芝居は、ドン・ジョヴァンニがドンナ・アンナを強姦しようとしたところから始まるのだが、ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナが初めて舞台に現れた時は、二人は離れており、たまたまドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニを見つけて腕を掴むという展開になっていたが、おそらくだが、ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニはもっと近くにいたはずである。でないと、自分を犯そうとした人物がドン・ジョヴァンニだと分からないはずだからである。細かいことだが、理屈が通らないところは気になる。

女たらしのドン・ジョヴァンニ。ドンナ・アンナに関しては力尽くであったが、それ以外は魅力でベッドに持ち込んだらしいことがエルヴィーラの話によって分かる。ドン・ジョヴァンニに捨てられ、精神のバランスを崩したエルヴィーラ。復讐のためにドン・ジョヴァンニを追っているが、再び彼に魅せられることになる。エルヴィーラだけが特別なのではなく、基本的にはドン・ジョヴァンニは、少なくとも表面上は紳士的に振る舞い、優しいのであろう。ドン・ジョヴァンニは博愛の精神を信奉しており、スカートをはいている人物なら、老いも若きも、美醜も一切差別しないという人物である。男が女装している場合はどうなのか分からないが(歴史的には男性の一番の魅力が脚線美であり、男がスカートをはく文化を持つ時代なども存在した)。やっていることは外道でも、それ自体が100%悪とも断言は出来ない。騎士長殺しは別として。
一方で、ドン・ジョヴァンニが憎まれるのは、「愛する愛する」言っておきながら、相手からの愛を一向に受け入れないからではないのか。エルヴィーラに対する態度を見るとそんな気がしてならない。一方的な愛など罪以外のなにものでもない。というわけで地獄落ちも納得である。

まだ若い大学院生による演技と歌唱であるが、難関をくぐり抜けてきた実力者であるためか、プロと比べず、純粋に作品の登場人物として見れば、十分にリアルな存在として舞台上に立つことが出来ていたように思う。ただ、現時点では、「オペラ歌手はあくまで歌手なのだから、どんな場面でも歌う体勢を優先させるのが基本」であるが、今後はもっと舞台俳優の演技に近づいていきそうな予感もある。例えば、オペラ歌手と舞台俳優が「共演しよう」となった時に、オペラ歌手が舞台俳優のようなナチュラルな演技が出来ないため浮くという可能性も考えられる。それでも「オペラ歌手はオペラ歌手」で行くのか、「ミュージカル俳優は舞台俳優と遜色ない演技が出来るのだから」オペラ歌手にも相当のものが求められるのか。これは日本語のオペラが増えてきたために明らかになった問題でもある。

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2025年3月 8日 (土)

コンサートの記(894) アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)&坂本龍一 「insen」2006@大阪厚生年金会館芸術ホール

2006年10月25日 新町の大阪厚生年金会館芸術ホールにて

大阪へ。午後7時から、新町にある大阪厚生年金会館芸術ホール(2025年時点では現存せず)で、ドイツの映像作家・電子音楽家のアルヴァ・ノトことカールステン・ニコライと坂本龍一のセッション「insen」を鑑賞。アルヴァ・ノトのコンピューターが作る和音に坂本龍一がピアノで即興的に音楽をつけていくという試み。すでに同名アルバムのレコーディングは終了していて、即興といってもある程度のフォルムは出来ているようだ。

開演20分ほど前から下手袖に白髪に黒服の男性がそっと現れ、会場の様子を窺ってはスッと消えていくというのが何度か見られた。坂本龍一である。即興によるセッションということもあり、客の入りが気になるのだろうか。

坂本が心配するまでもなく客席は満員。大きな拍手に迎えられて坂本とアルヴァ・ノトが登場する。 

坂本のピアノにはセンサーが取り付けられており、坂本が音を出す毎にバックモニターに光や映像が現れたり変化したりする仕組みになっている。ピアノの蓋は取り払われていて、坂本はピアノの弦をメスのような金属片で奏でたりノイズを出したりという特殊奏法を見せたりもした。
アルヴァ・ノトの作るノイジーな不協和音に坂本のリリカルなピアノが絡む。音楽によって変化する映像も興味深いが、目に悪そうでもある。 

ラストの曲はコンピューターノイズに「戦場のメリークリスマス」のメロディーをピアノで乗せるというもの。客席からは大きな拍手。 

基本的には実験音楽であり、音楽の面白さよりは可能性を追求したものだが、たまにはこうしたライヴも楽しい。 

坂本はアンコールには余り乗り気ではなかったようだが、アルヴァ・ノトことニコライが「もっとやろうよ」という風に促したので、特別に演奏が行われる。予定外だったので映像はなし。音のみのアンコールとなった。

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2025年3月 7日 (金)

コンサートの記(893) 大阪フィル×神戸市混声合唱団「祈りのコンサート」阪神・淡路大震災30年メモリアル@神戸国際会館こくさいホール 大植英次指揮

2025年2月27日 三宮の神戸国際会館こくさいホールにて

午後7時から、三宮の神戸国際会館こくさいホールで、大阪フィル×神戸市混声合唱団「祈りのコンサート」阪神・淡路大震災30年メモリアルに接する。大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団と神戸市混声合唱団による演奏会。

神戸国際会館こくさいホールに来るのは、13年ぶりのようである。干支が一周している。
神戸一の繁華街である三宮に位置し、多目的ホールではあるが、多目的ホールの中ではクラシック音楽とも相性が良い方の神戸国際会館こくさいホール。だが、クラシックコンサートが行われることは比較的少なく、ポピュラー音楽のコンサートを開催する回数の方がずっと多い。阪急電車を使えばすぐ行ける西宮北口に兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールというクラシック音楽専用ホールが2005年に出来たため、そちらの方が優先されるのであろう。ここで聴いたクラシックのコンサートはいずれも京都市交響楽団のもので、佐渡裕指揮の「VIVA!バーンスタイン」と、広上淳一指揮の「大河ドラマのヒロイン」として大河ドラマのテーマ曲を前半に据えたプログラムで、いずれもいわゆるクラシックのコンサートとは趣向がやや異なっている。ポピュラー音楽では柴田淳のコンサートを聴いている。

構造にはやや難があり、地上から建物内に上がるにはエスカレーターがあるだけなので、帰りはかなり混む。というわけで、聴衆にとっては使い勝手は余り良くないように思われる。客席は馬蹄形に近く、びわ湖ホールやよこすか芸術劇場を思わせるが、ステージには簡易花道があるなど、公会堂から現代のホールへと移る中間地点に位置するホールと言える。三宮には大倉山の神戸文化ホールに代わる新たなホールが出来る予定で、その後も国際会館こくさいホールでクラシックの演奏会が行われるのかは分からない。

 

曲目は、白井真の「しあわせ運べるように」(神戸市歌)、フォーレの「レクイエム」(ソプラノ独唱:隠岐彩夏、バリトン独唱:原田圭)、マーラーの交響曲第1番「巨人」

 

今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置の演奏。ホルン首席の高橋将純はマーラーのみに登場する。
フォーレの「レクイエム」ではオルガンが使用される。神戸国際会館こくさいホールにはパイプオルガンはないので、電子オルガンが使われるが、パンフレットが簡易なものなので、誰がオルガンを弾いているのかは分からなかった。

 

白井真の「しあわせ運べるように」(神戸市歌)。神戸出身で、阪神・淡路大震災発生時は小学校の音楽教師であり、東灘区に住んでいたという白井真。神戸の変わり果てた姿に衝撃を受けつつ、震災発生から2週間後にわずか10分でこの曲を書き上げたという。
神戸市混声合唱団は、1989年に神戸市が創設した、日本では数少ないプロの合唱団。神戸文化ホールの専属団体であるが、今日は神戸国際会館こくさいホールで歌う。
ステージの後方に階段状となった横長の台があり、その上に並んでの歌唱。
聴く前は、「知らない曲だろう」と思っていた「しあわせ運べるように」であるが、実際に聴くと、「あ、あの曲だ」と分かる。映画「港に灯がともる」(富田望生主演。安達もじり監督)のノエビアスタジアム神戸での成人式の場面で流れていた曲である。
「震災に負けない」という心意気を謳ったものであり、30年に渡って歌い継がれているという。
ホールの音響もあると思うが、神戸市混声合唱団は発声がかなり明瞭である。

 

フォーレの「レクイエム」。大きめのホールということで、編成の大きな第3稿を使用。パリ万博のために編曲されたものだが、フォーレ自身は気が乗らず、弟子が中心になって改変を行っている。そのため、「フォーレが望んだ響きではない」として、近年では編成の小さな初稿や第2稿(自筆譜が散逸してしまったため、ジョン・ラターが譜面を再現したラター版を使うことが多い)を演奏する機会も増えている。

実は、大植英次の指揮するフォーレの「レクイエム」は、2007年6月の大阪フィルの定期演奏で聴けるはずだったのだが、開演直前に大植英次がドクターストップにより指揮台に上がることが出来なくなったことが発表され、フォーレの「レクイエム」は当時、大阪フィルハーモニー合唱団の指揮者であった三浦宣明(みうら・のりあき)が代理で指揮し、後半のブラームスの交響曲第4番は指揮者なしのオーケストラのみでの演奏となっている。ちなみにチケットの払い戻しには応じていた。
それから18年を経て、ようやく大植指揮のフォーレの「レクイエム」を聴くことが叶った。

マーラーなどを得意とする大植であるが、フランスものも得意としており、レコーディングを行っているほか、京都市交響楽団の定期演奏会に代役として登場した時にはフランスもののプログラムを変更なしで指揮している。
フォーレに相応しい、温かで慈愛に満ちた響きを大植は大フィルから引き出す。高雅にして上品で特上の香水のような芳しい音である。
神戸市混声合唱団の発音のはっきりしたコーラスも良い。やはりホールの音響が影響しているだろうが。

フォーレの「レクイエム」で最も有名なのは、ソプラノ独唱による「ピエ・イエス」であるが、実はソプラノ独唱が歌う曲はこの「ピエ・イエス」のみである。
ソプラノ独唱の隠岐彩夏は、岩手大学教育学部卒業後、東京藝術大学大学院修士および博士課程を修了。文化庁新進芸術家海外研修生としてニューヨークで研鑽を積んでいる。
岩手大学教育学部出身ということと、欧州ではなくニューヨークに留学というのが珍しいが、岩手県内での進学しか認められない場合は、岩手大学の教育学部の音楽専攻を選ぶしかないし、元々教師志望だったということも考えられる。真相は分からないが。ニューヨークに留学ということはメトロポリタンオペラだろうか、ジュリアード音楽院だろうか。Eテレの「クラシックTV」にも何度か出演している。
この曲に相応しい清澄な声による歌唱であった。

バリトン独唱の原田圭も貫禄のある歌声。東京藝術大学および同大学院出身で博士号を取得。現在では千葉大学教育学部音楽学科および日本大学藝術学部で講師も務めているという。

フォーレの「レクイエム」は「怒りの日」が存在しないなど激しい曲が少なく、「イン・パラディズム(楽園へ)」で終わるため、阪神・淡路大震災の犠牲者追悼に合った曲である。

 

後半、マーラーの交響曲第1番「巨人」。この曲も死と再生を描いた作品であり、メモリアルコンサートに相応しい。
マーラー指揮者である大植英次。「巨人」の演奏には何度か接しているが、今日も期待は高まる。譜面台なしの暗譜での指揮。
冒頭から雰囲気作りは最高レベル。青春の歌を溌剌と奏でる。チェロのポルタメントがあるため、新全集版のスコアを用いての演奏だと思われるが、譜面とは関係ないと思われるアゴーギクの処理も上手い。
第2楽章のややグロテスクな曲調の表現も優れており、大自然の響きがそこかしこから聞こえる。
マーラーの交響曲第1番は、実は交響詩「巨人」として作曲され、各楽章に表題が付いていた。当時は標題音楽の価値は絶対音楽より低かったため、表題を削除して交響曲に再編。その際、「巨人」のタイトルも削ったが、実際には現在も残っている。「巨人」は、ジャン・パウルの長編教養小説に由来しており、私も若い頃に、東京・神田すずらん通りの東京堂書店で見かけたことがあるが、読む気がなくなるほど分厚い小説であった。ただ、マーラーの「巨人」は、ジャン・パウルの小説の内容とはほとんど関係がなく、タイトルだけ借りたらしい。そしてこの曲は、民謡などを取り入れているのも特徴で、第3楽章では、「フレール・ジャック」(長調にしたものが日本では「グーチョキパーの歌」として知られる)が奏でられる。これも当時の常識から行くと「下品だ」「ふざけている」ということになったようで、マーラーの作曲家としての名声はなかなか上がらなかった。
大植と大フィルはこの楽章の陰鬱にして鄙びた味わいを巧みに表出してみせる。夢の場面も初春の日差しのように淡く美しい。
この葬送行進曲で打ち倒された英雄が復活するのが第4楽章である。そしてこのテーマは交響曲第2番「復活」へも続く。
第4楽章は大フィルの鳴りが良く、大植の音運びも抜群である。特に金管が輝かしくも力強く、この曲に必要とされるパワーを満たしている。
若々しさに満ちた再生の旋律は、これからの神戸の街の発展を祈念しているかのようだった。

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2025年3月 4日 (火)

コンサートの記(892) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 宇治演奏会2025

2025年2月21日 宇治市文化センター大ホールにて

午後7時から、宇治市文化センター大ホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団宇治演奏会を聴く。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団桂冠指揮者の大植英次。
大植と大阪フィルは今後、奈良県の大和高田さざんかホール大ホールで同一プログラムによる演奏を行った後、神戸国際会館こくさいホールで、阪神・淡路大震災30年メモリアルとなるコンサートを行う。その後、大阪フィルは、指揮者を音楽監督の尾高忠明に替えて、和歌山、彦根、姫路という3つの城下町での特別演奏会を行う予定である。城下町でのコンサートを企画するということは、大フィルのスタッフの中に城好きがいるのだと思われる(日本人でお城が嫌いという人は余りいないが)。

宇治市文化センター大ホールであるが、厳密に言うと、宇治市文化センターという複合文化施設の中にある宇治市文化会館の大ホールということになるようだが、長くなるので宇治市文化センター大ホールという表記に統一しているようだ。宇治市を主舞台とした武田綾乃の小説及び宇治市に本社を置く京都アニメーションによってアニメ化された「響け!ユーフォニアム」の聖地の一つとしても知られているようである。
以前にも、夏川りみのコンサートで訪れたことがあるのだが、とにかく交通が不便なところにある。駅からは遠く、公共の交通手段はバスしかないが、本数が少ない。私は歩くのは得意なので、京阪宇治駅から歩いて行くことにした。なお、駐車場はあるのでマイカーがある人は来られるようである。

延々と歩く。高さ制限があるため、目に付く大きな建物は宇治市役所のみである。京都府内2位となる人口を誇る宇治市。誇るとはいえ18万程度で、140万を超える京都市とは比べものにならない。その割には市役所は立派である。

宇治市文化センターは、登り坂の上、折居台という場所にある。周りは一戸建ての住宅が並んでいる。おそらく住民は皆、自家用車を使って移動しているのだろう。
大ホールは、約1300席で、音響設計などはなされておらず、残響は全くといっていいほどない。首席奏者には立派な椅子があてがわれているが、他の奏者はパイプ椅子に座っての演奏で、いつもとは勝手が違うようである。

入りであるが、かなり悪い。大植と大フィルのコンビはブランドであるが、宇治市文化センターは交通の便が余りに悪く、来たくても来られない人が多数いたと思われる。私のように足に自信があれば別だが、普通の人はあの坂を歩いて上りたいとは思わないだろう。
帰りであるが、バスがないので特別にJRおよび京阪宇治駅行きのシャトルバスが運行されるようであった(ちなみに有料である)。大フィルメンバーは駅までは送迎があったのか、帰りの京阪宇治線で楽器を背負った人々を何人か見かけた。

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曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:阪田知樹)とチャイコフスキーの交響曲第4番。

コンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。指揮台は高めのものが用いられていたが、おそらく大フィル所有のものの持ち込みだと思われる。

 

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
宇治市文化センター大ホールは響きが良くないが、その分、阪田の輪郭のはっきりとした清冽なピアニズムははっきりと分かる。華麗にして的確な表現である。
冒頭がゴージャスなことで知られるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番であるが、大植と大フィルは壮麗さは生かしながら外連味は抑えた伴奏。ただ響きが良くないので派手さが抑えられた可能性もある。
第2楽章のリリシズムなども印象的であった。
第3楽章のラストでは阪田が強靱にしてスケールの大きい、巌のような演奏を展開。大フィルも負けじと大柄な伴奏を行った。

阪田のアンコール演奏は、ラフマニノフ作曲・阪田知樹編曲の「ここは素晴らしいところ」。吹き抜ける風のようにリリカルで涼やかな曲と演奏である。
アンコール演奏の間、大植は下手袖に立って、演奏に耳を傾けていた。

 

チャイコフスキーの交響曲第4番。大植は譜面台を置かず、暗譜での指揮である。要所要所で指揮棒を持っていない左手を効果的に用いる指揮。
21世紀に入ってから、解釈がガラリと変わったチャイコフスキー。「ロシアの巨人」「愛らしいバレエ音楽と交響曲の作曲家」から、「時代の犠牲となった悲劇の天才作曲家」へとイメージが変わりつつある。昨年は、ロシア映画「チャイコフスキーの妻」が日本でも公開され、実生活では英雄とは呼べなかったチャイコフスキー像を目にした人も多かったと思われる。ソ連時代は「聖人君子」的存在であったのが、ロシア本国でも次第に「人間チャイコフスキー」へと変化しているのが分かる。

大植は、冒頭の運命の主題を力強く吹かせた後で、弦楽などを暗めに弾かせて、最初から悲劇的色彩を濃くする。強弱もかなり細かく付けている印象である。
孤独なつぶやきのような第2楽章。同じテーマが何度か繰り返されるが、大植はテンポを落とすなど、次第に寂寥感が増すように演奏していた。
第3楽章は、弦楽がピッチカートのみで演奏するという特異な楽章であるが、音響の面白さと同時に、明るいはずの管の響きもどことなく皮肉や絵空事に聞こえるようである。
盛大に奏でられる第4楽章。「小さな白樺」のメロディーが何度か登場するが、やはり次第に精神のバランスを欠いていくような印象を受ける。そして最後はやけになったとしか思えない馬鹿騒ぎ。チャイコフスキーは、交響曲第3番「ポーランド」までは叙景詩的な曲調を旨としていたのだが、交響曲第4番からいきなり趣向を変えて、以後、最後の交響曲となった第6番「悲愴」まで、苦悩を題材とした人間ドラマを曲に込めるようになる。その第1弾である交響曲第4番は、「第5番や第6番『悲愴』に比べると粗い」などと言われてきたが、実際にはチャイコフスキーが自身の煩悶が最もダイレクトに出した曲であるようにも思われ、評価が上がりそうな予感がある。本当に粗いならチャイコフスキーなら直しただろうが、それをしていないということは本音の吐露なのだろう。

 

大植は、「宇治の皆さんありがとうございました。アンコール演奏を行っていいですか?」と客席に聞き、「チャイコフスキーの『くるみ割り人形』よりマーチ。(コンサートマスターの須山に)なんていうんだっけ? 行進曲」と言って演奏開始。安定した演奏であった。

 

大和高田さざんかホール大ホールでも同一演目による演奏家が行われる訳だが、大和高田さざんかホールは、小ホールで萩原麻未のピアノリサイタルを聴いたことがある。傾斜なし完全平面の客席のシューボックス型ホールで、ピアノ演奏などを主とするホールとしては、これまで聴いた中で最高の音響であった。大ホールはまた勝手が違うかも知れないが、おそらく音響は良いのだろう。宇治で聴くより良いかもしれないが、大和高田はやはり少し遠い。

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2025年2月27日 (木)

コンサートの記(891) 準・メルクル指揮 京都市交響楽団第697回定期演奏会

2025年2月15日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第697回定期演奏会を聴く。指揮は、日独ハーフの準・メルクル。

NHK交響楽団との共演で名を挙げた準・メルクル。1959年生まれ。ファーストネームの漢字は自分で選んだものである。N響とはレコーディングなども行っていたが、最近はご無沙汰気味。昨年、久しぶりの共演を果たした。近年は日本の地方オーケストラとの共演の機会も多く、京響、大フィル、広響、九響、仙台フィルなどを指揮している。また非常設の水戸室内管弦楽団の常連でもあり、水戸室内管弦楽団の総監督であった小澤征爾の弟子でもある。
現在は、台湾国家交響楽団音楽監督、インディアナポリス交響楽団音楽監督、オレゴン交響楽団首席客演指揮者と、アジアとアメリカを中心に活動。今後は、ハーグ・レジデエンティ管弦楽団の首席指揮者に就任する予定で、ヨーロッパにも再び拠点を持つことになる。これまでリヨン国立管弦楽団音楽監督、ライプツィッヒのMDR(中部ドイツ放送)交響楽団(旧ライプツィッヒ放送交響楽団)首席指揮者、バスク国立管弦楽団首席指揮者、マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督(広上淳一の前任)などを務め、リヨン国立管弦楽団時代にはNAXOSレーベルに「ドビュッシー管弦楽曲全集」を録音。ラヴェルも「ダフニスとクロエ」全曲を録れている。2012年にはフランス芸術文化勲章シュヴァリエ賞を受賞。国立(くにたち)音楽大学の客員教授も務め、また台湾ユース交響楽団を設立するなど教育にも力を入れている。

 

曲目は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲(ピアノ独奏:アレクサンドラ・ドヴガン)とラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲(合唱:京響コーラス)。
「ダフニスとクロエ」は、組曲版は聴くことが多いが(特に第2組曲)全曲を聴くのは久しぶりである。
今日はポディウムを合唱席として使うので、いつもより客席数が少なめではあるが、チケット完売である。

 

午後2時頃から、準・メルクルによるプレトークがある。英語によるスピーチで通訳は小松みゆき。日独ハーフだが、日本語の能力については未知数。少なくとも日本語で流暢に喋っている姿は見たことはない。同じ日独ハーフでもアリス=紗良・オットなどは日本語で普通に話しているが。ともかく今日は英語で話す。
ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲だが、パガニーニの24のカプリースより第24番の旋律(メルクルがピアノで弾いてみせる)を自由に変奏するが、変奏曲ではなく狂詩曲なので、必ずしも忠実な変奏ではなく他の要素も沢山入れており、有名な第18変奏はパガニーニから離れて、「世界で最も美しい旋律の一つ」としていると語る。私が高校生ぐらいの頃、というと1990年代初頭であるが、KENWOODのCMで「ピーナッツ」のシュローダーがこの第18変奏を弾くというものがあった。おそらく、それがこの曲を聴いた最初の機会であったと思う。
「ダフニスとクロエ」についてであるが、19世紀末のフランスでバレエが盛んになったが、音楽的にはどちらかというと昔ならではのバレエ音楽が作曲されていた。そこにディアギレフがロシア・バレエ団(バレエ・リュス)と率いて現れ、ドビュッシーやサティ、ストラヴィンスキーなどに新しいバレエ音楽の作曲を依頼する。ラヴェルの「ダフニスとクロエ」もディアギレフの依頼によって書かれたバレエ曲である。演奏時間50分強とラヴェルが残した作品の中で最も長く(バレエ音楽としては長い方ではないが)、特別な作品である。バレエ音楽としては珍しく合唱付きで、また歌詞がなく、「声を音として扱っているのが特徴」とメルクルは述べた。またモチーフライトに関しては「愛の主題」をピアノで奏でてみせた。
また笛を吹く牧神のパンに関しては、元々は竹(日本語で「タケ」と発音)で出来ていたフルートが自然の象徴として表しているとした。

往々にしてありがちなことだが、バレエの場合、音楽が立派すぎると踊りが負けてしまうため、敬遠される傾向にある。「ダフニスとクロエ」も初演は成功したが、ディアギレフが音楽がバレエ向きでないと考えたこともあって、この曲を取り上げるバレエ団は続かず、長らく上演されなかった。
現在もラヴェルの音楽自体は高く評価されているが、基本的にはコンサート曲目としてで、バレエの音楽として上演されることは極めて少ない。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏。フルート首席の上野博昭はラヴェル作品のみの登場である。今日のヴィオラの客演首席は佐々木亮、チェロの客演首席には元オーケストラ・アンサンブル金沢のルドヴィート・カンタが入る。チェレスタにはお馴染みの佐竹裕介、ジュ・ドゥ・タンブルは山口珠奈(やまぐち・じゅな)。

 

ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲。ピアノ独奏のアレクサンドラ・ドヴガンは、2007年生まれという、非常に若いピアニストである。モスクワ音楽院附属中央音楽学校で幼時から学び、2015年以降、世界各地のピアノコンクールに入賞。2018年には、10歳で第2回若いピアニストのための「グランド・ピアノ国際コンクール」で優勝している。ヒンヤリとしたタッチが特徴。その上で華麗なテクニックを武器とするピアニストである。
メルクルは敢えてスケールを抑え、京響の輝かしい音色と瞬発力の高さを生かした演奏を繰り広げる。ロシアのピアニストをソリストに迎えたラフマニノフであるが、アメリカ的な洗練の方を強く感じる。ドヴガンもジャズのソロのように奏でる部分があった。

ドヴガンのアンコール演奏は、ショパンのワルツ第7番であったが、かなり自在な演奏を行う。溜めたかと思うと流し、テンポや表情を度々変えるなどかなり即興的な演奏である。クラシックの演奏のみならず、演技でも即興性を重視する人が増えているが(第十三代目市川團十郎白猿、草彅剛、伊藤沙莉など。草彅剛と伊藤沙莉はインタビューでほぼ同じことを言っていたりする。二人は共演経験はあるが、別に示し合わせた訳ではないだろう)、今後は表現芸術のスタイルが変わっていくのかも知れない。
今まさにこの瞬間に生まれた音楽を味わうような心地がした。

 

ラヴェルの音楽「ダフニスとクロエ」全曲。舞台上に譜面台はなく、準・メルクルは暗譜しての指揮である。
パガニーニの主題による狂詩曲の時とは対照的に、メルクルはスケールを拡げる。京都コンサートホールは音が左右に散りやすいので、最初のうちは風呂敷を広げすぎた気もしたが次第に調整。京響の美音を生かした演奏が展開される。純音楽的な解釈で、あくまで音として聞かせることに徹しているような気がした。その意味ではコンサート的な演奏である。
京響の技術は高く、音は輝かしい。メルクルの巧みなオーケストラ捌きに乗って、密度の濃い演奏を展開する。リズム感も冴え、打楽器の強打も効果を上げる。

ラストに更に狂騒的な感じが加わると良かったのだが(ラヴェルはラストでおかしなことを要求することが多い)、「純音楽的」ということを考えれば、避けたのは賢明だったかも知れない。オーケストラに乱れがない方が良い。
ポディウムに陣取った京響コーラスも優れた歌唱を示した。

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2025年2月24日 (月)

コンサートの記(890) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第585回定期演奏会

2025年2月14日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第585回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。
尾高はヘルニアの悪化により、1月4日の大フィルのニューイヤーコンサートの指揮をキャンセル。丁度、1月の大フィル定期演奏会が行われた日に手術を受けたようだが、間に合った。体調が戻らないところがあるのではないかと懸念されたがそんなことはなく、元気に指揮していた。

今回は、チケットを取るのが遅れたので、少し料金が高めの席、それも最前列である。上手端の席だったので、ヴィオラ奏者の背中とコントラバス奏者とトロンボーン奏者の全身、そしてティンパニ奏者は顔だけが見える。指揮者の尾高は頭が見えるだけ。コンサートマスターの崔文洙の姿は比較的良く見える。

 

曲目は、松村禎三の管弦楽のための前奏曲と、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」
尾高と大フィルは、尾高の音楽監督就任以降、積極的にブルックナー作品を取り上げてきたが、今回の「ロマンティック」の演奏で、習作扱いされる第00番を除く全てのブルックナーの交響曲を取り上げることになった。レコーディングも行われるはずだが、今日は少なくともステージ上に本格的なマイクセッティングはなし。天井から吊り下げられたマイクだけでレコーディング出来るのかも知れないが、詳しいことは分からず。

 

今回の定期演奏会では、先月26日に逝去された秋山和慶氏のために、エルガーの「エニグマ変奏曲」より“ニムロッド”が献奏される。曲目から、秋山の華麗な生涯への賛歌と見て取れるだろう。
エルガーを得意とする尾高の指揮だけに、輝かしくもノーブルな献奏となった。

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松村禎三の管弦楽のための前奏曲。演奏時間約17分の作品である。ピッコロを6本必要とする特殊な編成。ということで、フルート奏者が客演として多数呼ばれているが、その中に若林かをりの名もある。
「竹林」の中を進むような音楽である。オーボエのソロに、複数のピッコロのソロが絡んでいくのであるが、あたかも竹林の間を抜ける風のようである。やがて編成が厚みを増していくが、茂みなど景色が増える林の奥へ奥へと進んでいくような心地がする。

 

ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。版はノヴァーク版1878/80年 第2稿を使用。
交響曲第4番「ロマンティック」は、ブルックナーの交響曲の中では異色の存在である。他の交響曲が叙景詩的であるのに対し、「ロマンティック」だけは叙事詩的。そのため、ブルックナー指揮者の中でも「ロマンティック」だけは不出来という指揮者もいる。
「ロマンティック」というのは別に男と女がうんたらかんたらではなく、中世のロマン語時代の騎士道精神といった意味で、第3楽章などは狩りに出る騎士達の描写とも言われる。
ブルックナー指揮者でもある尾高であるが、きちんと「ロマンティック」らしいアプローチ。大フィルも躍動感のある演奏を聴かせる。
最前列なので、「ブルックナー開始」であるトレモロがリアルに響きすぎるなど、席にはやや問題があったが、演奏自体は楽しめる。
この曲は、ホルンが肝となるが、大フィルのホルン陣は優れた演奏を聴かせる。以前はホルンは大フィルのアキレス腱であったが、メンバーも替わり、今では精度が高くなっている。
きちんと形作られたフォルム。その中で朗々と響く楽器達。ブルックナーの長所を指揮者とオーケストラが高める理想的な展開である。
第2楽章の寂寥感の表出力も高く、心象風景などが適切に描き出されていた。
「ロマンティック」は朝比奈隆もどちらかといえば不得手としていた曲で、録音もこれはというものは残っていない。一応、サントリーホールでのライブ録音盤(大宮ソニックシティなどでの録音を加えた別バージョンもある)がベストだと思われるが、「ロマンティック」に関しては、朝比奈よりも尾高の方が適性が高いと言える。
尾高と大フィルのブルックナーはライブ録音によるものが毎年リリースされていて、来月には初期交響曲集がリリースされるが、今回の「ロマンティック」の録音により「ブルックナー交響曲全集」としても完成したものと思われる。

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2025年2月22日 (土)

コンサートの記(889) 柴田真郁指揮大阪交響楽団第277回定期演奏会「オペラ・演奏会形式シリーズ Vol.3 “運命の力”」 ヴェルディ 歌劇「運命の力」全曲

2025年2月9日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後3時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大阪交響楽団の第277回定期演奏会「オペラ・演奏会形式シリーズ Vol.3 “運命の力”」を聴く。ヴェルディの歌劇「運命の力」の演奏会形式での全曲上演。
序曲や第4幕のアリア「神よ平和を与えたまえ」で知られる「運命の力」であるが、全曲が上演されることは滅多にない。

指揮は、大阪交響楽団ミュージックパートナーの柴田真郁(まいく)。大阪府内のオペラ上演ではお馴染みの存在になりつつある指揮者である。1978年生まれ。東京の国立(くにたち)音楽大学の声楽科を卒業。合唱指揮者やアシスタント指揮者として藤原歌劇団や東京室内歌劇場でオペラ指揮者としての研鑽を積み、2003年に渡欧。ウィーン国立音楽大学のマスターコースでディプロマを獲得した後は、ヨーロッパ各地でオペラとコンサートの両方で活動を行い、帰国後は主にオペラ指揮者として活躍している。2010年五島記念文化財団オペラ新人賞受賞。

出演は、並河寿美(なみかわ・ひさみ。ソプラノ。ドンナ・レオノーラ役)、笛田博昭(ふえだ・ひろあき。テノール。ドン・アルヴァーロ役)、青山貴(バリトン。ドン・カルロ・ディ・ヴァルガス役)、山下裕賀(やました・ひろか。メゾソプラノ。プレツィオジッラ役)、松森治(バス。カラトラーヴァ侯爵役)、片桐直樹(バス・バリトン。グァルディアーノ神父役)、晴雅彦(はれ・まさひこ。バリトン。フラ・メリトーネ役)、水野智絵(みずの・ちえ。ソプラノ。クーラ役)、湯浅貴斗(ゆあさ・たくと。バス・バリトン。村長役)、水口健次(テノール。トラブーコ役)、西尾岳史(バリトン。スペインの軍医役)。関西で活躍することも多い顔ぶれが集まる。
合唱は、大阪響コーラス(合唱指揮:中村貴志)。

午後2時45分頃から、指揮者の柴田真郁によるプレトークが行われる予定だったのだが、柴田が「演奏に集中したい」ということで、大阪響コーラスの合唱指揮者である中村貴志がプレトークを行うことになった。中村は、ヴェルディがイタリアの小さな村に生まれてミラノで活躍したこと、最盛期には毎年のように新作を世に送り出していたことなどを語る。農場経営などについても語った。農場の広さは、「関西なので甲子園球場で例えますが、136個分」と明かした。そして「運命の力」の成立過程について語り、ヴェルディが農園に引っ込んだ後に書かれたものであること、オペラ制作のペースが落ちてきた時期の作品であることを紹介し、「運命の力」の後は、「ドン・カルロ」、「アイーダ」、「シモン・ボッカネグラ」、「オテロ」、「ファルスタッフ」などが作曲されているのみだと語った。
そして、ヴェルディのオペラの中でも充実した作品の一つであるが、「運命の力」全曲が関西で演奏されるのは約40年ぶりであり、更に原語(イタリア語)上演となると関西初演になる可能性があることを示唆し(約40年前の上演は日本語訳詞によるものだったことが窺える)、歴史的な公演に立ち会うことになるだろうと述べる。

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柴田真郁は、高めの指揮台を使用して指揮する。ザ・シンフォニーホールには大植英次が特注で作られた高めの指揮台があるが、それが使われた可能性がある。歌手が真横にいる状態で指揮棒を振るうため、普通の高さの指揮台だと歌手の目に指揮棒の先端が入る危険性を考えたのだろうか。詳しい事情は分からないが。
歌手は全員が常にステージ上にいるわけではなく、出番がある時だけ登場する。レオノーラ役の並河寿美は、第1幕では紫系のドレスを着ていたが、第2幕からは修道院に入るということで黒の地味な衣装に変わって下手花道での歌唱、第4幕では黒のドレスで登場した。

今日のコンサートマスターは、大阪交響楽団ソロコンサートマスターの林七奈(はやし・なな)。フォアシュピーラーは、アシスタントコンサートマスターの里屋幸。ドイツ式の現代配置での演奏。第1ヴァイオリン12サイズであるが、12人中10人が女性。第2ヴァイオリンに至っては10人全員が女性奏者である。日本のオーケストラはN響以外は女性団員の方が多いところが多いが、大響は特に多いようである。ステージ最後列に大阪響コーラスが3列ほどで並び、視覚面からティンパニはステージ中央よりやや下手寄りに置かれる。打楽器は下手端。ハープ2台は上手奥に陣取る。第2幕で弾かれるパイプオルガンは原田仁子が受け持つ。

日本語字幕は、パイプオルガンの左右両サイドの壁に白い文字で投影される。ポディウムの席に座った人は字幕が見えないはずだが、どうしていたのかは分からない。

ヴェルディは、「オテロ(オセロ)」や「アイーダ」などで国籍や人種の違う登場人物を描いているが、「運命の力」に登場するドン・アルヴァーロもインカ帝国王家の血を引くムラート(白人とラテンアメリカ系の両方の血を引く者)という設定である。「ムラート」という言葉は実際に訳詞に出てくる。
18世紀半ばのスペイン、セビリア。カストラーヴァ侯爵の娘であるドン・レオノーラは、ドン・アルヴァーロと恋に落ちるが、アルヴァーロがインカ帝国の血を引くムラートであるため、カストラーヴァ侯爵は結婚を許さず、二人は駆け落ちを選ぼうとする。侍女のクーラに父を裏切る罪の意識を告白するレオノーラ。
だが、レオノーラとアルヴァーロが二人でいるところをカストラーヴァ侯爵に見つかる。アルヴァーロは敵意がないことを示すために拳銃を投げ捨てるが、あろうことが暴発してカストラーヴァ侯爵は命を落とすことに。
セビリアから逃げた二人だったが、やがてはぐれてしまう。一方、レオノーラの兄であるドン・カルロは、父の復讐のため、アルヴァーロを追っていた。
レオノーラはアルヴァーロが南米の祖国(ペルーだろうか)に逃げて、もう会えないと思い込んでおり、修道院に入ることに決める。
第3幕では、舞台はイタリアに移る。外国人部隊の宿営地でスペイン部隊に入ったアルヴァーロがレオノーラへの思いを歌う。彼はレオノーラが亡くなったと思い込んでいた。アルヴァーロは変名を使っている。アルヴァーロは同郷の将校を助けるが、実はその将校の正体は変名を使うカルロであった。親しくなる二人だったが、ふとしたことからカルロがアルヴァーロの正体に気づき、決闘を行うことになるのだった。アルヴァーロは決闘には乗り気ではなかったが、カルロにインカの血を侮辱され、剣を抜くことになる。
第4幕では、それから5年後のことが描かれている。アルヴァーロは日本でいう出家をしてラファエッロという名の神父となっていた。カルロはラファエッロとなったアルヴァーロを見つけ出し、再び決闘を挑む。決闘はアルヴァーロが勝つのだが、カルロは意外な復讐方法を選ぶのだった。

「戦争万歳!」など、戦争を賛美する歌詞を持つ曲がいくつもあるため、今の時代には相応しくないところもあるが、時代背景が異なるということは考慮に入れないといけないだろう。当時はヨーロッパ中が戦場となっていた。アルヴァーロとカルロが参加したのは各国が入り乱れて戦うことになったオーストリア継承戦争である。戦争と身内の不和が重ねられ、レオノーラのアリアである「神よ平和を与えたまえ」が効いてくることになる。

 

ヴェルディのドラマティックな音楽を大阪交響楽団はよく消化した音楽を聴かせる。1980年創設と歴史がまだ浅いということもあって、淡泊な演奏を聴かせることもあるオーケストラだが、音の威力や輝きなど、十分な領域に達している。関西の老舗楽団に比べると弱いところもあるかも知れないが、「運命の力」の再現としては「優れている」と称してもいいだろう。

ほとんど上演されないオペラということで、歌手達はみな譜面を見ながらの歌唱。各々のキャラクターが良く捉えられており、フラ・メリトーネ役の晴雅彦などはコミカルな演技で笑わせる。
単独で歌われることもある「神よ平和を与えたまえ」のみは並河寿美が譜面なしで歌い(これまで何度も歌った経験があるはずである)、感動的な歌唱となっていた。

演出家はいないが、歌手達がおのおの仕草を付けた歌唱を行っており、共演経験も多い人達ということでまとまりもある。柴田真郁もイタリアオペラらしいカンタービレと重層性ある構築感を意識した音楽作りを行い、演奏会形式としては理想的な舞台を描き出していた。セットやリアリスティックな演技こそないが、音像と想像によって楽しむことの出来る優れたイマジネーションオペラであった。ザ・シンフォニーホールの響きも大いにプラスに働いたと思う。

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2025年2月17日 (月)

コンサートの記(888) 金子鈴太郎(チェロ) ブリテン 無伴奏チェロ組曲全曲演奏会@カフェ・モンタージュ

2025年1月29日 京都御苑の南のカフェ・モンタージュにて

午後8時から、京都御苑の南にあるカフェ・モンタージュで、金子鈴太郎(りんたろう)によるベンジャミン・ブリテンの無伴奏チェロ組曲全曲演奏会に接する。ブリテンの無伴奏チェロ組曲は1番から3番まである。
「作曲家のいない国」といわれたイギリスが久しぶりに生んだ天才作曲家であるベンジャミン・ブリテン。今でも有名作曲家であるが、今後さらに評価が高まりそうな予感がある。イギリスも指揮者大国になってきており、当然、お国ものの演奏も増えるので将来有望である。

ブリテンの無伴奏チェロ組曲の全曲盤は、ラフェエル・ウォルフィッシュのものがNAXOSから出ていて、千葉にいる頃はよく聴いたのだが、京都にはそのCDは持ってこなかったので、聴くのは久しぶりになる。昔はウォルフィッシュ盤以外は手に入りにくかったが、現在は、YouTubeなどにもいくつかの音源がアップされており、聴きやすくなっている。

昨年(2024年)末に、石上真由子率いるEnsemble Amoibeにも参加していた金子鈴太郎。桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコース(座学などの授業はなしで、ソリストを目指して音楽に集中する課程)を経て、ハンガリー国立リスト音楽院に学んでいる。コンクールでも優勝歴多数。2000年代には大阪シンフォニカー交響楽団(現在の大阪交響楽団)の首席チェロ奏者、その後に特別首席チェロ奏者を務めている。
トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ首席チェロ奏者とあるが、この楽団は現在はトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア(ホームページに楽団員の紹介なし)と名前を変えているはずなので、現在も在籍しているのかどうかは不明。森悠子率いる長岡京室内アンサンブルのメンバーでもあり、2022年からは北九州市の響ホール室内合奏団の特別契約首席チェリストも務めている(ここのホームページには名前と紹介が載っている)。

金子は一昨年に、レーガーの無伴奏チェロ作品をカフェ・モンタージュで演奏し、「これ以上しんどいことはないだろう」と考えていたが、それ以上となるブリテンの無伴奏チェロ組曲に挑むことになったと語って聴衆を笑わせていた。

無伴奏チェロ作品は、どうしてもJ・S・バッハのものを意識することになるが、ブリテンは第1番ではイギリス音楽的な、第2番ではショスタコーヴィチなどを思わせる先鋭的な音楽を書き、第3番でようやくバッハを意識した作風を見せることになる。

以前はよく聴いた曲だが、久しぶりなので内容を覚えておらず、「こんな音楽だったっけ?」と思う箇所がいくつもある。二十代の頃で今に比べると音楽の知識にも乏しく、分析などはせずに感覚で聴いていたからでもあろう。ただ面白く聴くことは出来た。

アンコール演奏であるが、「皆さん、もうお腹いっぱいですよね。短いものを」ということで、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第1番よりサラバンドが奏でられた。

 

ブリテンはカミングアウトした同性愛者でもあり、偏見を持たれることもあったが、現在ではそうした意識も薄らぎつつあるため、ブリテンの作品が受け入れられやすくなってきているようにも思う。

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2025年2月15日 (土)

コンサートの記(887) 下野竜也指揮 第20回 京都市ジュニアオーケストラコンサート

2025年1月25日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、第20回 京都市ジュニアオーケストラコンサートを聴く。今回の指揮者は下野竜也。

ジュニアオーケストラとしては日本屈指の実力を誇る京都市ジュニアオーケストラ。2005年に創設され、2008年から2021年までは広上淳一がスーパーヴァイザーを務めたが、現在はそれに相当する肩書きを持つ人物は存在しない。10歳から22歳までの京都市在住また通学の青少年の中からオーディションで選ばれたメンバーによって結成されているが、全員が必ずしも音楽家志望という訳ではないようである。今年は小学生のメンバーは6年生が一人いるだけ。一番上なのは大学院1回生であると思われるが、「大卒」という肩書きのメンバーも何人かいて、同年代である可能性が高い。専攻科在籍者も院在籍者と同年代であろう。また「高卒」となっている団員もいるが、大学浪人中なのか、正社員として働いているのかフリーターなどをしているのか、あるいはすでに音楽の仕事に就いているのかは不明である。またOBやOGが何人か参加。彼らは少し年上のはずである。パート指導は京都市交響楽団のメンバーが行っている。

 

曲目は、前半が、バッハ=エルガーの「幻想曲とフーガ」ハ短調 BWV537、アルチュニアンのトランペット協奏曲(トランペット独奏:ハラルド・ナエス)。後半がフランクの交響曲ニ短調。アルチュニアンのトランペット協奏曲もフランクの交響曲も主題が回帰するという同じ特性を持っているため、プログラムに選ばれたのだと思われる。

今回のコンサートマスターは、前半が森川光、後半が嶋元葵。共に男女共用の名前の二人だが、森川光は男性、嶋元葵は女性である。嶋元葵は前半に、森川光は後半にそれぞれ第2ヴァイオリン首席奏者を務める。

 

ここ数年は毎年のようにNHK大河ドラマのテーマ曲の指揮を手掛けている下野竜也。今年の「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のテーマ音楽も指揮している(昨年の大河である「光る君へ」のテーマ音楽は広上淳一が指揮)。現在は、NHK交響楽団正指揮者、札幌交響楽団首席客演指揮者、広島ウインドオーケストラ音楽監督の地位にあり、音楽総監督を務めていた広島交響楽団からは桂冠指揮者の称号を得ている。京都市交響楽団でも師の一人である広上淳一の時代に常任客演指揮者を経て常任首席客演指揮者として活躍していた。京都市立芸術大学音楽学部の教授を経て、現在は東京藝術大学音楽学部と東京音楽大学で後進の指導に当たっている。

 

午後1時10分頃からロビーコンサートがあり、ジョルジュ・オーリックやヘンデル、モーツァルトなどの曲が演奏された。

 

バッハ=エルガーの「幻想曲とフーガ」ハ短調 BWV。J・S・バッハの曲をエルガーが20世紀風に編曲したものである。
京都市ジュニアオーケストラは、音の厚みこそないが、輝きや透明感に溢れ、アンサンブルの精度も高い。バッハの格調高さとエルガーのノーブルさが合わさったこの曲を巧みに聴かせた。

 

アルチュニアンのトランペット協奏曲。
アレクサンドル・アルチュニアン(1920-2012)は、アルメニアの作曲家。自国の民族音楽を取り入れた親しみやすい作風で知られているという。
トランペット独奏のハラルド・ナエスは、ノルウェー出身。ノルウェー国立音楽院を卒業し、母国や北欧のオーケストラ、軍楽隊などで活躍した後に兵庫芸術文化センター管弦楽団に入団。京都市交響楽団のオーディションに合格して、現在は同楽団の首席トランペット奏者を務めている。日本に長く滞在しているため、日本語も達者で、自己紹介の時は「ナエス・ハラルド」と日本風に姓・名の順で名乗っている。
アルメニア出身のアルチュニアンであるが、作風はアルメニアを代表する作曲家であるハチャトゥリアンよりもショスタコーヴィチに似ている。諧謔性と才気に満ちた音楽である。ハラルド・ナエスは、輝かしい音によるソロを披露した。
下野指揮する京都市ジュニアオーケストラの伴奏もしっかりしたものである。

 

後半。フランクの交響曲ニ短調。ベルギーを代表する作曲家であるセザール・フランク。ベルギー・フランス語圏の中心都市であるリエージュに生まれ、パリに出てオルガニストとして活躍。オルガンの特性をオーケストラで生かしたのが交響曲ニ短調である。初演時にはこの曲の特徴である循環形式などが不評で、失敗とされたが、フランクはよそからの評判を余り気にしない人で、「自分が思うような音が鳴っていた」と満足げであったという話が伝わっている。その後、この曲の評判は高まり、フランスを代表する交響曲との評価を勝ち得るまでになっている。
下野の指揮する京都市ジュニアオーケストラは、この曲に必要とされる音の潤沢さと色彩感を見事に表す。音の厚みもプロオーケストラほどではないが生み出す。下野の音楽設計もしっかりしたもので、フォルムをきっちりと築き上げる。フランス音楽の肝であるエスプリ・クルトワも十分に感じられた。

 

演奏終了後、拍手を受けてから何度か引っ込んだ後で、下野はマイクを片手に登場。「本日はご来場ありがとうございます」とスピーチを行う。「ジュニアオーケストラのものとは思えない曲目が並びましたが、敢えて挑ませました」「京都市ジュニアオーケストラからは、多くの人材が、それこそ数えられないくらい輩出しているのですが」とこのオーケストラの意義を讃えた上で、合奏指導を行った二人を紹介することにする。
下野「指導は人に任せて私はいいとこ取り。極悪指揮者なので」

一人目は、井出奏(いで・かな)。彼女も漢字だけ見ると男性なのか女性なのか分からない名前である。東京都出身で、現在は東京藝術大学指揮科に在学中であり、下野の指導も受けている。なお、藝大に入る前には桐朋学園大学でヴァイオリンを専攻しており、藝大には学士入学となるようである。
井出奏の指揮によるアンコール演奏、ビゼーの「アルルの女」より“ファランドール”。メンバーを増やしての演奏である。
やや遅めのテンポによる堂々とした音楽作りなのだが、京都コンサートホールは天井が高く、残響が留まりやすい上に音が広がる傾向があり、スケールが野放図になって音が飽和し、全体像のぼやけた演奏になってしまっていた。やはりホールの音響特性を事前に把握しておくことは重要なようである。東京の人なので、十分に下調べを行うことが出来なかったのだろう。

二人目は、東尾多聞。京都市立芸術大学指揮専攻の学生である。奈良県出身。下野も京都市立芸大を退任するまでの2年間だけ直接指導したことがあるという。
演奏するのはヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」。
東尾はおそらく京都コンサートホールでの演奏経験が何度かあり、厄介な音響だということを知っていたため、音を抑えめにして輪郭を形作っていた。
演奏途中に下野と井出がステージ上に現れ、聴衆の手拍子の誘導などを行っていた。

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2025年2月11日 (火)

コンサートの記(886) 日本シベリウス協会創立40周年記念 シベリウス オペラ「塔の乙女」(日本初演。コンサート形式)ほか 新田ユリ指揮

2024年11月29日 東京都江東区の豊洲シビックセンターホールにて

東京へ。豊洲シビックセンターホールで、シベリウス唯一のオペラ「塔の乙女」の日本初演を聴くためである・
劇附随音楽などはいくつも書いているシベリウスであるが、オペラを手掛けているというイメージを持つ人はかなり少ないと思われる。「塔の乙女」はシベリウスがまだ若い頃に書かれたもので、初演後長い間封印されていた。1981年にようやく再演が行われたという。
実は、シベリウス同様にほとんどオペラのイメージのない指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ(実際には、「フィデリオ」やミュージカルになるが「ウエスト・サイド・ストーリー」などを指揮している)が「塔の乙女」を録音しており、これが最も手に入りやすい「塔の乙女」のCDとなっている。

 

豊洲シビックセンターは、江東区役所の特別出張所や文化センター、図書館などからなる複合施設で、2015年にオープン。ホールは5階にある。音楽イベントの開催なども多いようだが、音楽専用ではなく多目的ホールである。それほど大きくない空間なので、おそらく音響設計などもされていないだろう。ステージの背景はガラス張りになっていて、豊洲の街のビルディングが見えるが、遮蔽することも出来るようになっている。本番中は閉じて屋外の景色は見えにくくなっていた。

 

今回の演奏会は、日本シベリウス協会の創立40周年を記念して行われるものである。
オペラ「塔の乙女」は、上演時間40分弱であり、それだけでは有料公演としては短いので、前半に他のシベリウス作品も演奏される。

曲目は、第1部が、コンサート序曲、鈴木啓之のバリトンで「フリッガに」と「タイスへの賛歌」(いずれも小沼竜之編曲)、駒ヶ嶺ゆかりのメゾソプラノで「海辺のバルコニーで」(山田美穂編曲)と「アリオーソ」。第2部がオペラ「塔の乙女」(コンサート形式)である。スウェーデン語の歌唱であるが日本語字幕表示はなく、聴衆は無料パンフレットに掲載された歌詞対訳を見ながら聴くことになる(客席は暗くはならない)。

日本初演作品ということでチケットは完売御礼である。

 

指揮は、北欧音楽のスペシャリストで、日本シベリウス協会第3代会長の新田ユリ。彼女は日本・フィンランド新音楽協会の代表も務めている。

管弦楽団は創立40周年記念オーケストラという臨時編成のもの(コンサートミストレス・佐藤まどか)。第1ヴァイオリン4、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがいずれも3、コントラバス2という小さい編成の楽団だが、「塔の乙女」初演時のオーケストラ編成はこれよりも1人少ないものだったそうである。

 

午後6時30分頃より、新田ユリによるプレトークがある。
シベリウスとオペラについてだが、シベリウスはベルリンやウィーンに留学していた時代にワーグナーにかぶれたことがあるそうで、「自分もあのようなオペラを書いてみたい」と思い立ち、「船の建造」という歌劇作品に取り組むことになったのだが、結局、筆が止まってしまい、未完。その素材を生かして「レンミンカイネン」組曲 が作曲された。「レンミンカイネン」組曲の中で最も有名な交響詩「トゥオネラの白鳥」は、元々は歌劇「船の建造」の序曲として書かれたものだという。
その後、ヘルシンキ・フィルハーモニー・ソサエティーからチャリティーコンサートの依頼を行けたシベリウスは、オペラ「塔の乙女」を完成させる。初演は、1896年11月7日。この時点ではシベリウスは「クレルヴォ」以外の交響曲を1曲も書いていない。指揮はシベリウス本人が行った。演奏会形式であったという。しかし、このオペラはシベリウスが半ば取り下げる形で封印してしまい、その後、1世紀近く知られざる曲となっていた。オペラにしては短いということと、シンプルなストーリー展開が作品の完成度を下げているということもあったのだろう。なお、台本はラファエル・ヘルツベリという人が書いており、先にも書いたとおりスウェーデン語作品である。これ以降、シベリウスは交響曲の作曲に本格的に取り組むようになり、オペラを書くことはなかった。
シベリウスはスウェーデン系フィンランド人で、母語はスウェーデン語である。当時のフィンランドはロシアの支配下にあったが、ロシア以前にはスウェーデンの領地であったことからスウェーデン系が上流階層を占めていた。ただ時代的には国民がフィンランド人としてのアイデンティティーを高めていた時期であり、シベリウスもフィンランド語の学校で学んでいる(ただ彼は夢想家で勉強は余り好きではなく、フィンランド語をスウェーデン語並みに操ることは終生出来なかった)。シベリウスの歌曲は多いが、大半はスウェーデン語の詩に旋律を付けたものであり、フィンランド語、英語、ドイツ語の歌曲などが少しずつある。

今日の1曲目として演奏されるコンサート序曲は、フィンランドの指揮者兼作曲家のトゥオマス・ハンニカイネンが、2018年に「塔の乙女」のスコアを研究しているうちに、矢印など意味ありげな記号を辿り、それが一つの楽曲になることを発見したもので、2021年に現代初演がなされている。1900年4月7日に、コンサート序曲が初演され、それが「塔の乙女」由来のものであることが分かっているのだが、総譜などは見つかっておらず、幻の楽曲となっていた。
一応、制約があり、2025年いっぱいまでは、トゥオマス・ハンニカイネンにのみ指揮する権利があるのだが、今回、日本シベリウス協会が「塔の乙女」の日本初演に合わせて演奏したいと申し出たところ特別に許可が下りたそうで、世界で2番目に演奏することが決まったという。

世界レベルで見るとシベリウス人気が高い国に分類される日本だが、それでも北欧音楽はドイツやフランスの音楽に比べるとマイナーである。ただ日本シベリウス協会の会員にはシベリウスや北欧の作品に熱心に取り組んでいる人が何人もいるため、オペラ作品なども上演可能になったそうである。

 

1曲目のコンサート序曲。日本初演である。創立40周年記念オーケストラは、チェロが客席寄りに来るアメリカ式の現代配置をベースにしている。楽団員のプロフィールが無料パンフレットに載っているが、日本シベリウス協会の会員も含まれている。現役のプロオーケストラの奏者や元プロのオーケストラ団員だった人もいれば、フリーの人もいる。有名奏者としては舘野泉の息子であるヤンネ舘野(山形交響楽団第2ヴァイオリン首席、ヘルシンキのラ・テンペスタ室内管弦楽団コンサートマスター兼音楽監督)が第2ヴァイオリン首席として入っている。
コンサートミストレスの佐藤まどかは、東京藝術大学大学院博士後期課程を修了。シベリウスの研究で博士号を取得している。シベリウス国際ヴァイオリンコンクールでは3位に入っている。上野学園短期大学准教授(上野学園大学は廃校になったが短大は存続している)。日本シベリウス協会理事。
シベリウスがまだ自身の作風を確立する前の作品であり、グリーグに代表される他の北欧の作曲家などに似た雰囲気を湛えている。この頃のシベリウスはチャイコフスキーにも影響を受けているはずだが、この曲に関してはチャイコフスキー的要素はほとんど感じられない。後年のシベリウス作品に比べるとメロディー勝負という印象を受ける。

 

バリトンの鈴木啓之による「フリッガに」と「タイスへの賛歌」。神秘的な作風である。
鈴木啓之は、真宗大谷派の名古屋音楽大学声楽科および同大学大学院を修了。フィンランド・ヨーチェノ成人大学でディプロマを取得している。第8回大阪国際音楽コンクール声楽部門第3位(1位、2位該当なしで最高位)を得た。

 

駒ヶ嶺ゆかりによる「海辺のバルコニーで」と「アリオーソ」。神秘性や悲劇性を感じさせる歌詞で、メロディーも哀切である。
駒ヶ嶺ゆかりも、真宗大谷派の札幌大谷短期大学(音楽専攻がある)を卒業。同学研究科を修了。1998年から2001年までフィンランドに留学し、舘野泉らに師事した。東京でシベリウスの歌曲全曲演奏会を達成している。北海道二期会会員。

 

オペラ「塔の乙女」。合唱は東京混声合唱団が務める。
配役は、乙女に前川朋子(ソプラノ)、恋人に北嶋信也(テノール)、代官に鈴木啓之(バリトン)、城の奥方に駒ヶ嶺ゆかり(メゾソプラノ)。

前川朋子は、国立(くにたち)音楽大学声楽科卒業後、ドイツとイタリアに留学。フィンランドの歌曲に積極的に取り組んでいる。東京二期会、日本・フィンランド新音楽協会、日本シベリウス協会会員。

北嶋信也は、東海大学教養学部芸術学科音楽学課程卒業、同大学大学院芸術学研究科音響芸術専攻修了。二期会オペラ研修所マスタークラス修了時に優秀賞及び奨励賞を受賞。東海大学非常勤講師、二期会会員。
東海大学出身のクラシック音楽家は比較的珍しい。東海大学には北欧学科があり(元々は文学部北欧学科だったが、現在は文化社会学部北欧学科に改組されている)、言語以外の北欧を学べる日本唯一の大学となっている。ただ、そのことと今回の演奏会に出演していることに関係があるのかは分からない。

 

「塔の乙女」のあらすじ。
乙女が岸辺で花を摘んでいると、代官が現れ、娘をさらって塔に閉じ込めてしまう。乙女は嘆き、歌う。乙女が姿を消したことで彷徨っている恋人は乙女の歌声を耳にし、乙女が塔に閉じ込められていることを知る。代官と恋人の一騎打ちになろうとしたところで城の奥方が現れ(代官は偉そうに見えるが、身分としては城の奥方の方が上である)、乙女を解放した上で代官を捕縛するよう家臣に命じる。かくて乙女と恋人はハッピーエンド、という余りにも単純なストーリーである。一種のメルヘンであるが、代官がなぜそれほど乙女に惚れ込むのか、恋人と乙女はそれまでどういう関係だったのかなど、細部についてはよく分からないことになっている。
本格的なオペラというよりも余興のような作品として台本が書かれ、作曲が行われたということもあるだろう。
このテキストだと確かに受けないだろうなとは思う。見方を変えて、これは若き芸術の内面を描いたものであり、芸術家の中に眠っている才能を葛藤を経ながら自らの手で発掘していく話として見ると多少は面白く感じられるかも知れない。演奏会形式でしか上演されたことはないようだが、いわゆるオペラとして上演する時には演出を工夫してそういう見方が出来ても良いようにするのも一つの手だろう。
出来れば字幕付きでの上演が良かったのだが、それでも楽しむことは出来た。
シベリウスの音楽は抒情美があり、ピッチカートが心の高鳴りを表すなど、心理描写にも秀でている。ストーリーに弱さがあるため、今後も単独での上演は難しいかも知れないが、他の短編もしくは中編オペラと組み合わせての上演なら行える可能性はある。

今日は前から2番目の席ということもあり、歌手達の声量ある歌声を存分に楽しむことが出来た。

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