カテゴリー「ドイツ」の59件の記事

2026年1月25日 (日)

コンサートの記(942) 阪哲朗指揮 紀尾井ホール室内管弦楽団第144回定期演奏会大阪公演

2025年9月16日

午後7時から、住友生命いずみホールで、紀尾井ホール室内管弦楽団第144回定期演奏会大阪公演を聴く。指揮は京都市出身で、今は大津市に住み、びわ湖ホールの芸術監督を務めるという阪哲朗。

紀尾井ホール室内管弦楽団は、以前は紀尾井シンフォニエッタ東京を名乗っていた団体で、紀尾井坂上の日本製鉄紀尾井ホールを本拠地としている。常設の団体ではなく、普段は別のプロオーケストラの楽団員やソリストとして活躍してるメンバーが集まって演奏会を作り上げる。紀尾井シンフォニエッタ東京時代の演奏を紀尾井ホールで聴いたことがあるが、紀尾井町・四ツ谷、上智大学のすぐそばという土地だからか、見るからに「私、良家の娘です」というタイプの若い女性の聴衆が多いのが印象的であった。

会場の住友生命いずみホールに来るのは久しぶり。来る前に大阪城公園内にある豊國(ほうこく)神社に参拝。豊臣秀吉公の像は完成したばかりの頃から見ているが、経年により細かな傷なども目立ち、色も以前より薄めになった。「お互い年を取りましたなあ」と心の中で呟く。
大阪城公園内は外国人観光客が目立つが、国旗をモチーフにしたものを着たり持ったりしている人も多く、「トルコか」、「ベトナムか」と分かる。

日本人の女性二人が、「中国では少し残す」という話をしていたのが耳に入るが、すぐにピンとくる。中国では出された食事を全部食べずに残すのがマナーである。全部食べてしまうと、「量が足りなかった」という意味になる。京都が生んだ女優である中村玉緒さんの著書を読むと、昔は京都でも少し残すのが礼儀という時代があったようである。

 

さて、住友生命いずみホールでの紀尾井ホール室内管弦楽団のコンサートであるが、入りは余り良くない。全て横向きの席である2階のバルコニー席はほぼ埋まっているが、1階席は6割行くか行かないかといったところ。いずみホールでは、いずみシンフォニエッタ大阪というこれも非常設の団体が定期演奏会を行っており、新鮮味がなかったのかも知れない。1階席には数人分丸ごと空いている席があるが、おそらく招待客が来てくれなかったのだと思われる。

 

曲目は、ヴェーバーの歌劇「オベロン」序曲、コルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:阪田知樹)、メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」(ナレーションなしで、一部を割愛してのほぼ全曲演奏。ソプラノ独唱:三宅理恵&山下裕賀。合唱:大阪すみよし少年少女合唱団)

「夏の夜の夢」だけ聴きたい人もいたようで、後半には1階席の後ろの方の聴衆が少し増えていた。
聴衆が少ない理由としては、「コルンゴルトって誰?」という人が多いのと、「関西なら阪さんはいつでも聴ける」という2つが考えられる。

コンサートマスターは玉井菜摘。玉井さんのお母さんは京都市交響楽団の第2ヴァイオリン奏者であったようだ。
ヴァイオリン両翼の古典配置を採用しているが、演奏スタイルは全てモダンである。

 

いずみホールも京都コンサートホール同様、反響板がないので、1階席は音が降りてこないように感じることがある。今日の2階バルコニー席で聴いた。

 

ヴェーバーの歌劇「オベロン」序曲。比較的、演奏会の第1曲に選ばれやすい曲である。今日プログラムされた3曲には盛り上げ方が似ているという共通点がある。

紀尾井ホール室内管弦楽団は、腕利きが揃っているだけに常設ではないのにアンサンブルも緻密で、音も輝かしい。室内管弦楽団としては、オーケストラ・アンサンブル金沢と日本のトップを争う力を持っているように感じた。ただ、紀尾井ホール室内管弦楽団は非常設故メンバーが入れ替わるので、演奏会ごとに出来が違うということもあり得るかも知れない。前に聴いた演奏も今日の演奏も優れたものだったが。

 

コルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲。戦場で右手を負傷したピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン(哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの実兄)が、多くの作曲家に依頼して書いて貰った左手のためのピアノ作品の一つである。
コルンゴルトは、幼時から楽才を発揮し、ミドルネームがヴォルフガングということもあって、「モーツァルトの再来」と絶賛された。23歳で書いた歌劇「死の都」は大ヒットしている。ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」をミュージカル化したり、メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」を編曲したりと、舞台劇方面でも活躍。しかしコルンゴルトはユダヤ系であったため、ナチスから逃れるためのアメリカに渡る。
アメリカでは映画音楽の作曲を数多くこなし、現代では「映画音楽の礎を築いたコルンゴルト」と讃えられることもあるが、当時は劇伴はクラシックよりも下と見なされており、また彼のクラシック音楽のロマンティックな作風がウィーンでも「時代遅れ」と受け取られるようになり、晩年は不遇だった。死後はその名が一度、消えかかったが、1990年代半ばにアンドレ・プレヴィンやフランツ・ヴェルザー=メストらが指揮したコルンゴルト作品のCDが立て続けに発売され、「コルンゴルトブームが起こるか」と思った矢先に世界的なピアソラブームが起こってしまい、コルンゴルトの名は吹き飛ばされてしまった。
それでも近年は「死の都」が日本でも上演されるなど、再評価の動きはある。

コルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲は、弦楽器のロマンティシズムに鋭さを隠した音色をバックに、個性的な旋律が展開される。今でも新しく聞こえる部分があるなど、コルンゴルトの確かな才気が感じる。そして盛り上げ方は「オベロン」序曲や「夏の夜の夢」序曲などにも通じるものがある。
ソリストの阪田知樹は技巧派ピアニストとして名声を高めており、大阪フィルハーモニー交響楽団の宇治公演で聴いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のシャープなピアノが記憶に新しいが、今日は音楽の大枠をガッシリと捉えた男性的なピアニズムを示す。高音がトイピアノのように聞こえる場面もあり、ハッとさせられる。
珍しい曲ということで譜面を用意し、自分でめくりながらの演奏であった。
以前は男性ピアニストというと、遊び人やボヘミアンも多かったが、聞くところによると、阪田知樹はアスリートのようにストイックな生活を送っているそうである。

アンコール演奏は、メンデルスゾーンの「無言歌」より“紡ぎ歌”。私はメンデルスゾーンの「無言歌」の全曲盤を持っているのだが、余り耳に残らなかった曲。ただコルンゴルトの後で聴くと、メンデルスゾーンの革新性を聴き取ることが出来る。
メンデルスゾーンが38歳の若さで亡くならなかったら、もっと音楽を推し進めていたかも知れない。

 

メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」。短い曲とナレーションをカットしたバージョンである。メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」は人気が高まる傾向にあり、檀ふみのナレーション、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団の演奏、幸田浩子と林美智子の独唱で聴いたことがある。この演奏はライブ録音され、CDとなってリリースされている。
もう大分経ったので書いてもいいと思うが、泉鏡花の「夜叉ヶ池」がオペラ化され、演出が岩田達宗さんで、主役の百合を歌うのが幸田さんということで、東京・初台の新国立劇場中劇場まで観に出掛けたのだが、檀ふみさんがいらしていた。無闇に話しかけられないようにだと思うが、お付きの男性とずっと話していて、「有名人も大変だな」と思ったものである。
京都市交響楽団も昨年、オーケストラ・ディスカバリーの曲目として、鈴木優人の指揮、ウエンツ瑛士のナレーションほかで、劇附随音楽「夏の夜の夢」を演奏する予定だったのだが、「台風接近」との予報により公演中止となっている。

前半は指揮棒を使っていた阪哲朗であるが、「夏の夜の夢」はノンタクトでの指揮。総譜は譜面台の上に開かれているが、ほぼ暗譜の指揮で、譜面をめくらずに立て続けに指揮した時には、数ページまとめてめくっていた。
演奏は活力に富み、メカニックの高さもあって、大変優れた出来であった。阪のキビキビとした音運びがこの曲に相応しいということもあるが、メンデルスゾーンの実力にも改めて感服することになり、充実した演奏会となった、三宅理恵と山下裕賀(ひろか)の独唱者二人と、大阪すみよし少年少女合唱団も澄んだ声で演奏に彩りを施した。

 

プログラムが長めであるが、更にアンコール演奏がある。ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。アンコールとしては長めの曲だが、賑やかさと仄かな哀愁が印象的な演奏であった。この曲も終盤は盛り上がる。

Dsc_8692_20260125214301

| | | コメント (0)

2026年1月12日 (月)

これまでに観た映画より(425) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「新ドイツ零年」

2025年1月9日 京都シネマにて

京都シネマで、ジャン=リュック・ゴダール監督作品「新ドイツ零年」を観る。ロベルト・ロッセリーニ監督作品「ドイツ零年」を意識した作品だが共通点はほとんどない。
1990年10月3日の東西ドイツ再統一を意識し、東ドイツから西ドイツへと向かった男の話となっている。1991年制作。20時台からの遅い上映である。

主演俳優は、アメリカ出身のエディ・コンスタンティーヌが務めている。FBI捜査官などを当たり役としたコンスタンティーヌがこの作品で演じるのはスパイである。
東ドイツに潜伏していた元ナチス諜報員、レミー・コーション(エディ・コンスタンティーヌ)。30年ほど潜伏生活を送っていたが、金のために旧東ドイツ側での諜報活動を行いつつ西ドイツに向かうことになる。
いきなり、ニーチェの『善悪の彼岸』が朗読されるなど、ドイツ文化があちこちに配されている。若い女性ドラ(クラウディア・ミヒェンゼン)からは、「明日からはシャルロッテ。ゲーテと仕事するの」と、『若きウェルテルの悩み』にちなんだ冗談を言われる。
「今年はモーツァルトイヤーだ」というセリフもある。1991年は、モーツァルト没後200年だった。
字幕とセリフが別々のことを述べるなど、かなりせわしない印象を受ける。「カール・マルクス通り」(東ベルリン)の道標が倒れているのは、共産主義の終焉のメタファーだと思われるが、余り上手くないように思う。仮に1991年当時に観ていたら感想は異なったと思われるが。
今はもう時代が進んでしまって、カール・マルクスがロシア人だと本気で思っていたりする人もいる。「カールだよ。典型的なドイツ人男性の名前だよ」と思うが、外国の文化に興味がない人にはピンとこないのかも知れない。一番有名な「カール」であるカール・ルイスはアメリカ人だし。

音楽はクラシックが断片的に用いられている。ドイツ語圏に限らず様々な国の作曲家の作品が流れる。モーツァルト以外に名前が出てくるのは(フランツ・)リストであるが、リストによるピアノ編曲版と思われるベートーヴェンの第九の第2楽章が流れたりする。

「孤独」をテーマにした変奏曲であることが冒頭で示される。
哲学的な言葉が次々に流れてくるが、どれもみな借用という印象を受ける。コラージュのようだ。ゴダールは、「気狂いピエロ」でもすでにコラージュのようなことをやっていた。ゴダールは本の最初のページと最後のページを読むことで読了とし、多くの本に目を通していた。だがコラージュが重なると、自身の核や言葉が、他者にハイジャックされるような気分になる。
そもそもエディは、長く潜伏生活を送っており、孤独な存在である。時間の流れに取り残された存在である東ドイツの中で更に取り残された存在であるエディが西ドイツに行く意味は。
あるいは圧倒的な喪失が今後待ち受けているのかも知れない。

Dsc_9452_20260112223101

| | | コメント (0)

2026年1月11日 (日)

これまでに観た映画より(424) ロベルト・ロッセリーニ監督作品「ドイツ零年」

2026年1月7日 京都シネマにて

京都シネマで、ロベルト・ロッセリーニ監督作品「ドイツ零年」を観る。1948年の作品。第二次世界大戦に敗れた1945年をドイツ零年として描いた作品である。上映時間74分の中編。出演:エドムント・メシュケ、エルンスト・ピットシャウ、インゲトラウト・ヒンツェ、フランツ・クリューガーほか。

焼け跡の残るベルリンでロケが行われている。ロベルト・ロッセリーニというと、「無防備都市」などで素人を大量に使った演出で、「戦艦ポチョムキン」(これらも素人を大量に動員)に匹敵する生々しさを生み、「無防備都市」を観たイングリッド・バーグマンは、全てを投げ出してロッセリーニの下へと走る。結婚した二人は、映画および演劇「火刑台のジャンヌ・ダルク」を上演。大ヒットを記録するが、これに味を占めたロッセリーニは、何度も何度も舞台「火刑台のジャンヌ・ダルク」を上演。何度も焼かれては死ぬ乙女を演じなければならなかったバーグマンは、やがてロッセリーニの下を去る。
その後のロッセリーニの情報は少ない。再婚しており、映画も監督したが、日本で上映された作品はほとんどないようだ。

「ドイツ零年」は、連合国軍によって分割統治されているベルリンが舞台である。ドイツ語の他に、英語やフランス語などが統治を行っている兵士の口から話される。イタリア語も用いられているようだが、確認は出来なかった。

この映画でも、大量動員されているのはエキストラではなく素人の可能性が高い。動きが整然としていないため、生々しさがある。端役俳優にも素人が抜擢され、主役のエドムントを演じるエドムント・メシュケも子役ではなく、家族が運営するサーカスで芸を行っていた11歳の少年である。

主人公は、12歳の少年、エドムントである。家族と、更に別の家族とも暮らしているようである。父親は病気で働くことが出来ず、兄のカールハインツは、最後までナチス兵として戦ったが、そのことが災いして強制収容所に入れられるのではないかと怖れ、引きこもり状態になっている。働き手が足りないので、姉のエヴァと共にエドムントも年齢を15歳と偽って、市場に出るが、見た目がどう見ても12歳であるため、「15歳未満は働いてはいけない」という法律によって追い返される。

一家の物語でありながら、ドイツの近年の歴史を辿るような展開が起こる。
エドムントは、戦後もナチを信奉している元教師のエニングと再会する。エニングは、「強い者が勝ち、弱い者は滅ぼされる」「弱肉強食」といったナチスの発想を今も抱いている。エドムントは次第にエニングに感化されていく。

エドムントは、父親を毒殺し、ラストは飛び降りて死ぬ。
ヒトラーのヒンデンブルクの死による政権奪取と、ベルリン陥落により二度負けたドイツそのものである。こうした描写は比較的分かり易いと思われる。

ヒトラーの演説が入ったレコードをエドムントが売りに行く場面があり、ヒトラーの演説も流れる。ヒトラーは簡単なことを何度も何度も繰り返し述べているが、洗脳にはこれが最も有効とされている。今生きる私たちに言えるのは、こういう人物がいたら注意しなさいということだけだ。真理が分かり易い言葉で語られることは余りない。それが分かるように我々は、子どもの時から何年も学校に通っているのである。

問題があるとしたら音楽。ロベルト・ロッセリーニの弟であるレンツォ・ロッセリーニが担当しているのだが、余りにも大袈裟で、この映画に関しては正直、神経に障る。

 

今回は、ジャン=リュック・ゴダール監督の「新ドイツ零年」と合わせての上映である。第二次世界大戦での敗北をドイツ零年としてロッセリーニに対し、ロッセリーニから影響を受けたゴダールは、東西ドイツ統一を新ドイツ零年としている。

Dsc_9439

| | | コメント (0)

2026年1月 2日 (金)

コンサートの記(938) 2025年度大阪音楽大学4年生 オペラ研究Ⅱ モーツァルト 歌劇「魔笛」

2025年12月25日 大阪府豊中市庄内の大阪音楽大学ミレニアムホールにて

午後5時から、大阪府豊中市庄内の大阪音楽大学第2キャンパスP棟ミレニアムホールで、2025年度大阪音楽大学4年生 オペラ研究Ⅱ モーツァルトの歌劇「魔笛」を観る。
授業公演であり、入場無料である(要予約)。昨年末は学生オーケストラによる「魔笛」の上演もあったようだが、今年はピアノ(連弾)、キーボード(三人まとめてピアノ演奏として紹介。關口康祐、竹村美和子、辻未帆)、フルート(早川奈那。大学4年)、バロックティンパニ(東寿樹。大学4年)という編成である。演出は昨年同様、中村敬一。ディクション指導:三々尻正、声楽指導は、石橋栄実(えみ)と晴雅彦(はれ・まさひこ)が受け持つ。指揮は瀬山智博。下手端の客席通路ステージ寄りに楽器を並べ、そこをピット代わりとしている

大阪音楽大学は特に声楽科において評価が高いが、在籍者も多い。男性は多くないが、女性が多いということで、一つの役を数人で演じ分けることになる。
「魔笛」というと、女性歌手からはパミーナ役の人気が高い。マンガ「のだめカンタービレ」おまけ的続編(オペラ編)でも、容姿は良くないが歌は上手く、実家が太いソプラノ歌手が自らがパミーナを演じる「魔笛」の上演を企画し、千秋真一が指揮を手掛けるという展開になっていた。「魔笛」の場合、夜の女王のアリア「復讐の心は炎と燃え」が最も印象的なアリアだが、高難度である上に、夜の女王は良い役とは言えない。三人の童子や三人の侍女も脇役である。それに比べればパミーナは出番も比較的多い。
ということで、パミーナはなんと5人体制(岸野羽衣、大島彩夢、宮本黎花、芝山聖玲南、田口華蓮)。パパゲーナ(吉田薫穂)、夜の女王(槇楓子)は1人ずつである。夜の女王は喉を痛めやすいので2日続けて歌えなかったりするが、公演は今日の1回だけなので問題なしである。三人の侍女も第二の侍女だけ2人体制である(三盃瑠奈子と長瀬いつき)。三人の少年も第二の少年は共にパミーナ役も歌う大島彩夢と岸野羽衣が入れ替わりで歌う。第1幕前半で第二の侍女を歌う三盃瑠奈子は、その後は第三の少年に回る。ということで、人気のある役とそうでない役がはっきりしていそうだ。
男性は、タミーノは野勢真稔が一人で歌うが、パパゲーノは、島羽槻と塚原波音で第1幕と第2幕を分ける。ザラストロは船本洸、モノスタトスに山澤奏仁。
その他の配役であるが、全部書くと時間が掛かりすぎるため、割愛とする。
合唱は、オペラ研究Ⅱの受講生が受け持つ。大学院生2年生から学部の1年生までいるが、4年生は全員役が付いているため、合唱には入っていない。

 

久しぶりの豊中市、久しぶりの庄内、久しぶりの大阪音楽大学、ザ・カレッジ・オペラハウスでなく、ミレニアムホールまで来たのは初めてである。
ミレニアムホールはその名の通り、西暦2000年に完成。9月の竣工である。外観も内装もどう見ても音楽ホールなのであるが、区分としては教室としているようである。P棟という校舎の一教室という位置づけである。「ミレニアムホール」も正式名称ではなく愛称としているようだ。

フリーメイスンの影響を受けているとされる「魔笛」(台本を書き、出演もしたシカネーダーとモーツァルトは共にフリーメイスンの会員だった)。フリーメイスンでは、「3」が重要な数字とされ、序曲で3つの音が鳴らされる他、三拍子の曲も思いのほか多い。
ただフリーメイスンの思想を広めるための作品ではない。

今回は、字幕で、物語が始まる前のストーリーが語られる。世界は絶対的な王によって支配されており、幸せに満ちていたが、王が亡くなる直前に、後継者を夜の女王からザラストロに変えたことで、世界の均衡を揺らぐ。王はまた、夜の女王の娘であるパミーナを高く評価していたが、甘やかされすぎているため、彼女をザラストロの下に送ることにする。

タミーノが蛇に追いかけられている(客席通路を使った演出あり。客席通路を使った演出はその後も繰り返し行われる)。ステージに上がったタミーノは気絶するが、三人の侍女によって助けられる。その後、現れた鳥刺し男のパパゲーノは、「助けたのは俺だ」と嘘をつくが、三人の侍女によってとっちめられる。
タミーノは美しきパミーナの肖像を見て一目惚れ。パミーナが夜の女王の下からザラストロの神殿へとさらわれたと聞き、救出へと向かう。
RPGによく似ているといわれる筋書きで、宮本亞門は実際にRPG内での出来事として「魔笛」を演出している。

夜の女王から娘を誘拐したザラストロが悪役なのではないかと言われることもあるが、基本的には陰を受け持つ夜の女王より、陽を抱くザラストロの方が善として終わる。ザラストロの神殿には、モノスタトスという黒人の奴隷頭がいるのだが、今日は肌を黒く塗っての出演であった。黒人を演じる際、肌を黒く塗るのは良くないとされるようになって来ているが、結局の所、塗らないと黒人なのかどうか分からないのが現状であり、他に良い方法も見つからない(「黒人です」という札を下げたりしたら、余計に嘲笑的である)。
ザラストロの宮殿は異国調(ゾロアスター教由来である)であるが、黒人も雇って面倒を見ているようだ。悪いことをしたら77回の鞭打ちの刑に処されるようだが。ザラストロ自身は人種には余り関心を持っていないようである。

タミーノもパミーナも王子であり王女である。つまり世間のことは余り知らずに育ってしまっている。そこでタミーノはパパゲーノを共にイニシエーションを受け、深く広い世界を知ることになる。仏教の「二河白道」に似たシーンが出てくるが、「二河白道」はゾロアスター教由来とされるため、同じようなシチュエーションになるのだろう。
この作品の特徴として、すぐ死のうとする人が出てくることが挙げられる。パミーナもパパゲーノもちょっとのことで死のうとする。傍から見るとちょっとのことでも本人にとっては深刻なのだろうが、やはり大人の悩みではないように思う。口を利いてくれなくなった(実際は、タミーノは「沈黙のイニシエーション」と受けている最中で話すことが出来なかった)、孤独になった(多分、世界中に孤独な人は数億単位でいる)というだけで死ぬ死ぬ言うのは、「魔笛」が最後に行き着いた境地から見れば子どもなのだろう。
なお、多くの人と交流することで自殺願望が弱まることを「パパゲーノ効果」と呼び、NHKがパパゲーノのサイトを開いていて、自殺防止に努めている。

夜の女王や三人の侍女、モノスタトスらは、ザラストロによってやっつけられるのだが、今回は最後に勢揃いし、和解があったことが示される。以前、びわ湖ホールで、佐藤美晴の演出で観た「魔笛」は夜の女王や三人の侍女の亡骸をそのままにして神殿へと戻ろうとするザラストロを描き、ザラストロの残忍さを明らかにしていたが、では本当のところザラストロは善なのか悪なのか。答えとしては、そんな簡単に善悪二元論で捉えるべきではないというのが今のところの答えである。

ザラストロがいなかったら、タミーノとパミーナは真の意味では結びつかなかったかも知れないが、同時にそのために夜の女王らが犠牲になるのは仕方ないと思っているようだ。そもそも夜の女王はパミーナにザラストロ殺害を命じている。これまではともかくとしてこれ以降は毒親である。パミーナの前に障壁として立ちはだかったのは実母であった。
これまでのことは深くは分からない。しかし夜が終わり朝が来る。
夜の女王という存在はまだ何かを隠していそうだ。

そして「善」という概念も危うい。ヒトラーもスターリンも「善」として登場した。ロシアもウクライナもイスラエルもパレスチナも皆自分が「善」だと信じているはずだ。「善」のような絶対的なものはとにかく脆く危うい。心して掛からねばならない。

 

瀬山智博指揮のアンサンブルは少人数ながら活気に満ちた音楽を奏でる。特にバロックティンパニを採用したのが成功で、強打が豪奢であると同時に、どこか戦時色を帯びているように聞こえた。従来の柔らかい音のティンパニだったらそうした印象は受けなかっただろう。

演技面ではもう一つの人もいたが、歌唱は一定のレベルをクリアしている。ただ、これでオペラ歌手になれるというほど甘いものでもない。大学4年生の発表としてはなかなかだったということである。

艱難辛苦をくぐり抜けたタミーノとパミーナに対し、イニシエーションを途中で止めてしまったパパゲーノであるが、パパゲーナというピッタリの相手が見つかる。聖道門に対する易行門。
誰もが聖人になってしまっては、世界はもたない。パパゲーノとパパゲーナのように子どもを増やしてこそ人類は繁栄する。

Dsc_9372

| | | コメント (0)

2025年12月30日 (火)

コンサートの記(935) 沖澤のどか指揮 京都市交響楽団特別演奏会 第九コンサート 2025

2025年12月28日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会 第九コンサートを聴く。指揮者は京都市交響楽団第14代常任指揮者の沖澤のどか。沖澤が京響の第九に登場するのは今回が初めてである。

ドイツ式の現代配置をベースにした配置だが、中央(第2ヴァイオリンとチェロの背後)に木管楽器が陣取り、その後ろの階段状の台に合唱団が乗る(合唱は京響コーラス。上手側が男声、下手側が女声である)。金管楽器が下手寄りに斜めに並び、下手奥隅に中山航介が叩くティンパニがある。ティンパニは見た目では分からなかったが、音を聴いてバロックティンパニだと確認出来た。木のバチ、先端に毛糸を巻いたマレット、両方を使用。上手寄り、チェロの奥にはファゴット群が布陣する。
ステージを擂り鉢状にしての演奏である。

コンサートマスターは京響ソロコンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。客演首席ヴィオラに笠川恵(かさかわ・めぐみ)、客演首席トロンボーンには吉田英恵(はなえ)。
今年は第九1曲勝負である。ソプラノ:嘉目真木子(よしめ・まきこ)、メゾ・ソプラノ:小泉詠子(えいこ)、テノール:小原啓楼(おはら・けいろう)、バリトン:山本悠尋(ゆきひろ)。今年は読みにくい名前の人が揃う。

沖澤のどかの指揮であるが、各楽章の冒頭は中庸でも自然にスピードアップしていくのが特徴。第3楽章では特にこの傾向が顕著であった。
第1楽章であるが、スケールを拡げずスマートなフォルム。転調の時のティンパニも抑え気味だったが、ティンパニも徐々に強打させることが多くなっていく。
第2楽章も適度に揃えたアンサンブル。アンサンブルを徹底して磨くと宇宙の鳴動のように聞こえる音楽だが、沖澤はそこまでせず、人間ドラマの側に立った第九を描き出す.
第2楽章の終わりを、沖澤は、広上淳一や川瀬賢太郎が行ったように柔らかな音で締める。

音色であるが、やはりいつもの京響とは違い、旧東独のオーケストラのような燻し銀の響きを出していた。ベルリン・フィル・カラヤン・アカデミーで学び、ベルリン・フィルの芸術監督であるキリル・ペトレンコのアシスタントを務めた沖澤だが、インターナショナル化したベルリン・フィルの響きよりも、よりドイツ的な響きを理想としているのかも知れない。ドイツの東西分裂は悲劇だったかも知れないが、結果として旧東独の地域にはドイツのローカルな響きが残ることになった。
広上淳一が指揮する京都市交響楽団は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のような響きだが、沖澤のどかが紡ぎ出す京響の響きはライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に近くなる。指揮者が変わるだけで、音色がここまで変わるというのも興味深い。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のCDで何度も聴き、横浜で耳にしたあの音を今ここで聴いているような気分。

京響コーラスは板付き。独唱者とフルートのサード(ピッコロ)、ティンパニ以外の打楽器は、第2楽章終了後にステージに登場する。

第3楽章もロマンティシズムより見通し重視の美演。ドラマよりも音にものを言わせる演奏である。
第4楽章。沖澤は第3楽章が終わるとアタッカで突入する。低弦のエッジが立っているのが特徴である。8分の6拍子のクライマックスの部分は4つ振りと2振りで処理する。
ここでもスケールよりは造形美重視。テンポは速いが勢いで突き進むタイプの第九ではない。神がベートーヴェンを通して書いたような第九の演奏もあるが、今日はあくまでもベートーヴェンという人間による人間讃歌だ。

ヴァイオリン、ヴィオラ、ティンパニにこれまで聴いた第九とは異なる部分があったので、「ブライトコプフ新版かな?」とも思ったが、沖澤が最後に掲げた総譜の表紙は茶色だったため、ベーレンライター版であった可能性が高い(オーケストラのライブラリアンなどが表紙にカバーを掛けてしまう場合があるので実際には分からない)。他の指揮者が採用しないベーレンライター版の部分を採用したのだろうか。付け加えたという部分はヴィオラを除いてはないと思う。なお、ラストのピッコロは一般的なベーレンライター版での演奏と比べて控えめであった。


今日の京響の響きをライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に例えたが、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団といえば年末の第九の元祖。擬似ライプツィッヒ気分である。

Dsc_9395

| | | コメント (0)

2025年12月14日 (日)

コンサートの記(932) ジャン=クリストフ・スピノジ指揮 京都市交響楽団第706回定期演奏会

2025年11月29日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第706回定期演奏会を聴く。指揮は、ジャン=クリストフ・スピノジ。

ジャン=クリストフ・スピノジ。いかにもベートーヴェン好きになりそうな名前であり、フランス・コルシカ島出身ということでナポレオンと同郷である。ベートーヴェンは「ウェリントンの勝利」を書いているけれども。
詳しい経歴などは無料パンフレットには載っていないが、クラシック音楽における「アンファン・テリブル(恐るべき子ども)」と呼ばれていたり、「並外れたリズム感と身体能力を持ち合わせた。音楽家=振付師」と称されてもいるようだ。

2007年に自ら組織したアンサンブル・マテウスと共にシャトレ劇場で珍しいものも含むオペラをいくつも上演。客演指揮者として、ベルリン・ドイツ交響楽団、パリ管弦楽団、hr交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、ウィーン交響楽団などと定期的に共演し、2021年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っている。

開演30分前からプレトークがあるが、スピノジは、フランス語で比較的長めのトークを行っていた。事前に打ち合わせはしていたと思うが、通訳泣かせではある。内容は楽曲の解説が中心。「田園」交響曲については、日本人の独自の自然観についても述べていた(私の認識とは多少異なっていたが)。

 

曲目は、ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」、ハイドンの交響曲第82番「熊」、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」

 

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の町田琴和(まちだ・ことわ。女性)が客演コンサートマスターとして入る。町田姓は圧倒的に鹿児島県出身者が多いのだが、彼女は東京生まれのようである。ちなみに私には京都出身の町田姓の友人が二人いる。
フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に石橋直子、チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。管の首席奏者の大半はベートーヴェンのみの出演である。クラリネット首席の小谷口直子は、老眼鏡をかけて出演した。私も近頃は老眼に悩むようになっている。

チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置での演奏。実のところ、ドイツ式の現代配置でもアメリカ式の現代配置でも大した違いはないとこれまでは思ってきたが、「田園」交響曲を聴いてその認識が誤りであることが分かった。

 

指揮台の前に譜面台はなく、スピノジは全て暗譜によるノンタクトでの指揮を行う。拍を刻むことは稀で、基本的には音型を両手で示してみせる。

 

ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」。ピリオドによる弦楽の響きの透明さがプラスに働き、管も快活で楽しい演奏になる。

問題はここからである。
ハイドンの交響曲第82番「熊」。最近、熊が日本のあちこちに出没しているが、「タイムリー」などとは言えないタイトルである(後記:令和7年の今年の漢字は「熊」に決まった)。タイトルの由来はよく分かっていないが、第4楽章の音型が熊の鳴き声に聞こえた説などがある。ハイドンによる命名ではない。

ロッシーニにはティンパニのパートがなく、この曲から中山航介がバロックティンパニを担当するが、ティンパニは指揮者の真正面ではなく、後列の中で一番上手寄りに陣する。

交響曲第82番「熊」は、ロヴロ・フォン・マタチッチがNHK交響楽団の定期演奏で取り上げたときの放送用音源がCD化されているので、それで親しんだ人も多いかも知れない。
だが、スピノジの「熊」は一般的な「熊」交響曲とは別物。緩急、強弱の幅が著しく、「これが俺の考える『熊』だ!」と思い切り提示してみせる。常日頃の京響では追いつけない解釈で、そこでスピノジと共演経験のある町田琴和が客演コンサートマスターとして呼ばれたのだろう。

かなり即興的であり、再創造的であるが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどは「音楽は即興的でなければならない」と考えており、同じ演奏は二度としなかったし、朝比奈隆もその時々によって演奏を変えていた。だからスピノジが前例のないことをした訳でもない。

良い演奏かどうかは人によって意見が分かれると思うが、私は、「遊んでるな」と微笑ましく見ていた。

ハイドンは交響曲第90番で、「全曲終わったと見せかけてまだ終わってない」を繰り返すのだが、スピノジは「熊」で同じことをやる。勿論、スピノジが切ったところで曲が終わるわけはないのだが、客席からは、「クレイジー!」という言葉が飛び(演奏中に言葉が飛ぶのはかなり珍しい)、演奏が終わってからはブーイングも響いた。

ハイドンは古典派なので、格調高く演奏すべきという考えは分かる。ただそうした考えがハイドンの人気を下落させ、ピリオド・アプローチが盛んになってから復活したということを考えると、「べき」演奏は作曲家の魅力を下げることに繋がらないと言い切れるだろうか。

 

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。

第1楽章はやはり緩急を付けた演奏。同じフレーズでも急に遅くなったり速くなったりアゴーギクを多用する。ゲネラルパウゼも長め。この楽章ではそうする必要を強くは感じなかったが、第2楽章ではほぼインテンポによる細やかな演奏を聴かせる。小川のせせらぎを描いているのでそんなに急に遅くなったり速くなったりする訳はない。
第3楽章は「風景」よりも「心情」を表出。沸き立つ気分が描かれる。そして「嵐」であるが、ここで客席側に配置されたチェロがエッジの立った音を聴かせる。チェロは音が前に飛ぶ楽器なので、ドイツ式の現代配置のようにオーケストラの内側にあった方が有利なような気がするのだが、アメリカ式の現代配置のように指揮者のすぐ横にあった方が操りやすい。ストコフスキーも単に録音用に配置をした訳ではないようである。
第1ヴァイオリンの響きも電光を表していることがいつも以上によく分かる。
そして「嵐」のラストの方は引き延ばされ、嵐が去って行く様が描かれる(実際、第5楽章に入る直前までチェロは雷鳴の響きを奏で続けている)。
第5楽章は非常に明るい演奏であるが、最後の方で、「ここから去りたくない」というメッセージをスピノジは見つけていた。

 

老年になると穏健派になってしまう指揮者も多いが、スピノジにはこれからも暴れまくって欲しいものである。

Dsc_9195

| | | コメント (0)

2025年11月14日 (金)

Eテレ「伝説のマエストロ カラヤンの日本公演再び」

2025年11月5日

NHKONEで、「伝説のマエストロ カラヤンの日本公演再び」を視聴。11月1日にEテレで放送されたもの。
20世紀後半最大の指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)。最大という形容に反して、身長は155㎝と白人男性としてはかなり小柄であった。ただレナード・バーンスタインも160㎝、広上淳一、下野竜也、大植英次という日本を代表する指揮者も軒並み小柄。女性指揮者も三ツ橋敬子は151㎝と女性としてもかなり小さい部類に入る。ただ考えてみれば、体が小さいと手も小さい。手が小さいと楽器を弾くには不利であり、ソリストよりも指揮者を目指す傾向はあるように思う。

カラヤンは計11回来日。ベルリン・フィルとの来日公演、ウィーン・フィルの来日公演、そして単身NHK交響楽団に客演している。
NHK交響楽団を指揮したのは1954年。日本での知名度は高くなかった。とても有能だったが、傲慢な性格に辟易したという話も伝わっている。
カラヤンがベルリン・フィルのシェフになった時代は、他にライバルとなり得るドイツ系指揮者がおらず(ベームはすでに高齢。ヨッフムは出世よりも楽団を育てることに喜びを見出すタイプ)、ベルリン・フィルのアメリカツアーに指揮者として帯同させて貰えれば、芸術監督の座を受けても良いとベルリン・フィル側に伝えていた。カラヤンの前にベルリン・フィルの首席指揮者となっていたのは、ルーマニア出身のセルジウ・チェリビダッケであったが、チェリビダッケはカラヤン以上に厳しい性格で、ベルリン・フィルの団員を平気で「下手くそ!」となじっていた。指揮者としては極めて有能だったが、ベルリン・フィルの団員はチェリビダッケにはこりごりだった。ということでカラヤン政権が誕生する。ナチ党員であったカラヤンは、戦後、「公的な演奏活動」を全て止められたが、録音活動は「公的な演奏活動」に含まれていなかったため、EMIのプロデューサーであるウォルター・レッグと組み、ロンドンに録音のために結成されたフィルハーモニア管弦楽団を指揮してレコーディングを行い、名声を高めていた。そんなこともあり、録音に関しては誰よりも積極的だった。
映像の制作にも熱心であったが、通常の配置では撮れないアングルから撮りたいというので、演奏する真似だけをさせることも多く、楽団員からは不評であった。

まず、東京・内幸町(愛宕山と表記されることもある)の旧NHKホール(現存せず)で行われたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との来日演奏会。1957年、ベルリン・フィルとの初来日時の映像である。演奏されるのはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲である。
カラヤンの指揮であるが、不思議な印象を受ける。この頃は「カラヤンは指揮するときに目を閉じる」は徹底されておらず、閉じたり開けたりしながらの指揮だが、動きが必ずしも流麗とはいえず、指揮棒も分かりにくいということはないが、予想外の動きをするため、オーソドックスタイプの指揮者に見えない。1957年のモノクロ映像であるが、ステレオでの収録である。カラヤンはすでにフィルハーモニア管弦楽団とステレオでの録音を行っていたが、映像としてはカラヤンとしても初のステレオ収録かも知れない。演奏としては録音が古いということもあってややまとまりに欠ける感じ。そもそもカラヤンはワーグナーはよく取り上げたが得意ではなかった。

続いてベートーヴェンの交響曲第5番。冒頭付近は映像がなく静止画、面白いのは、ハープが指揮者よりも前に位置するという配置。日本指揮者協会(というものがある。岩城宏之が外国人指揮者に、「日本には指揮者協会というのがあってね」と話したところ、「指揮者は二人いたらもうライバルなのに、お前の国は何やってんだ?」と呆れられたそうである)の演奏会で、山田一雄がハープを受け持ったのだが、「山田先生のような偉い方を奥に置くわけにはいかない」ということで、指揮者より前に出したことがあったそうだが、そんな感じである。
カラヤンは生涯に4度、「ベートーヴェン交響曲全集」を録音している。50年代、60年代、70年代、80年代だからほぼ10年おきだ。更に東京の普門館で行われたベートーヴェン交響曲チクルスを録音した放送音源の全集もリリースされている。個人的には70年代盤が好みである。
今回の映像であるが、貴重なものであることには間違いないが、指揮者がまだ熟していない気がする。この年、カラヤンは49歳。「40、50は洟垂れ小僧」ならまだ洟垂れ小僧である。この時点では、カラヤンがこの後、ベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場(ウィーン・フィルの母体でもある)の芸術監督を兼任して帝王と呼ばれるようになるとは思えない。それほど若さが先行した演奏である。

格好いいとされた指揮姿も、今の指揮者達に比べると地味だ。やはり真正面を向いたまま指揮することが多く、左右に体を向けることはほとんどない。他の指揮者もそうなので、これがこの時代の正統的な指揮のスタイルだったのだろう。

カラヤンとウィーン・フィルの演奏。カラヤンはウィーン国立歌劇場芸術監督時代にはウィーンに家を持っているが、その後、田舎に居を構え、ベルリンではホテル暮らしだった。ベルリン・フィルのメンバーにはそのことを不満に思う人もいたようである。
1959年11月6日に、日比谷公会堂で行われたブラームスの交響曲第4番の演奏である。モノラルでの収録。カラヤンのブラームスには定評があったが、ベルリン・フィルを振った交響曲全集などは、私にとっては音で押してくる感じがして苦手である。
ここでは構造重視の演奏。センチメンタリズムなどは表に出さない。その方がカラヤンらしいと言える。
部分的には指揮棒を抑えてオーケストラに任せるところもある。一部は映像が存在しないようで、やはり写真などで乗り切っている。

最後は、1957年10月27日の、旧NHKホールで行われたブラームスの交響曲第1番第4楽章のベルリン・フィルとの映像。熱い演奏だが、カラヤンの若々しさの方が勝っているように思う。指揮姿も巨匠というより若武者といった感じ。旧NHKホールは収用人数600人程度とかなり手狭だったが、音響の良さは今にも伝わっており、この日訪れた聴衆も期待の若手指揮者と世界最高峰のアンサンブルに満足したのではないかと思われる。

| | | コメント (0)

2025年11月10日 (月)

観劇感想精選(500) 森田剛主演「ヴォイツェック」(ジャック・ソーン版)

2025年10月25日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「ヴォイツェック」を観る。チフスのため23歳の若さで早逝した小説家、劇作家のゲオルク・ビューヒナーの未完にして代表作となる戯曲の上演。「ヴォイツェック」であるが、未完の上に原稿に通し番号などが振られていない状態で発見されたため、ビューヒナーがどこをどのようにどの順番で上演するつもりだったか今になっても分かっておらず、演出家が原稿の順番を選ぶため、同じ「ヴォイツェック」でも印象が大きく異なる。
ただ、アルバン・ベルクが作曲した歌劇「ヴォツェック」という、オペラ史上1、2を争うほどの傑作があり、このオペラが基準になるとは思われる。タイトルが「ヴォツェック」なのは、ベルクに送られた台本のタイトルに不備があり、「Woyzeck」であるべきところが「Wozzeck」となっていたためである。ヴォイツェックは実在の殺人犯であるため、ベルクはすぐにタイトルを変更しようとしたが、ゲオルク・ビューヒナーの「ヴォイツェック」と自身の歌劇「ヴォツェック」はもはや別物と考え、タイトルの変更を行わなかった。
ベルクの歌劇「ヴォツェック」の完成度が高いため、演劇の「ヴォイツェック」で満足の行く出来に持って行くことは至難の業である。

歌劇「ヴォツェック」は、東京・初台の新国立劇場オペラパレスで聴いている。今に至るまで唯一のオペラパレス体験である。指揮のギュンター・ノイホルトが優れた音像を生み出していたが、演出が余計なことをしまくったため、全く感動も納得も出来ないという残念な結果に終わっている。

ストレートプレーではなく。音楽劇とした「ヴォイツェク」は、大阪の京橋にあったシアターBRAVA!で、山本耕史のタイトルロールで観ており、そこそこ良い印象であった。
今回はストレートプレーでの上演であるが、ビューヒナーのテキストそのままではなく、ジャック・ソーンが翻案したテキストを使用しており、舞台を1981年の西ベルリンに変更。登場人物は、主にイギリス系とアイルランド系で、IRAが起こした闘争などを避けて、西ベルリンに渡っているという設定である。上演台本と演出は、新国立劇場演劇芸術監督の小川絵梨子が行っている。小川はプロデュース作品に演出家として参加するのは初となるようだ。

 

出演:森田剛、伊原六花、伊勢佳世、浜田信也、中上サツキ(なかがみ・さつき)、須藤瑞己(みずき)、冨家ノリマサ、栗原英雄。
冨家(ふけ)ノリマサの姿を見るのは久しぶりである。バブル期にはテレビによく出ていた気がするのだが。中上サツキは、「なかがみ」と読む苗字。中上姓の人物として、若くして亡くなった中上健次が有名であるが、彼の本姓は「なかうえ」と読む苗字である。ただ、「なかがみ・けんじ」はペンネームとしての読み方ではなく、中上自身、自分の苗字の読み方を終生勘違いしていたというのが本当のところのようである。中上は被差別部落出身を売りにしていたが、実際は被差別部落のそばの結構良い家出身だったりと、妙な話が多い。

中上健次の話は置くとして、「ヴォイツェック」である。タイトルロールを演じるのは森田剛だが、北アイルランドのベルファスト出身の「フランク」に設定が変わっている。妻のマリー(伊原六花)は、アイルランドの出身。この時点で上手く行きそうにない。
その他の登場人物では、医師(名前はマーティンとイギリス風だがドイツ人。栗原英雄)、東ドイツ市民(中上さつき)と東ドイツ市民とアパートの大家(須藤瑞己が二役で演じる)以外の全員がイギリス人という設定である。

イギリスとアイルランドは、大英帝国の時代はイギリスがアイルランドを飲み込む形で同じ国家であったが、アイルランドはケルト系が多く、第二次大戦後は独立。国教はカトリックである。ただ北部の一部はプロテスタントが多く、そのままイギリスに残り、イギリスの日本語による正式名称は、「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」となっている。だが、当然ながら、「アイルランド全島がアイルランドだ」考える人も多く、宗教紛争、それも命に関わるものが絶えない。
イギリスも元々はカトリックの国だったが、カトリックでは離婚が出来ないため、国王が離婚したいがためにプロテスタントに改宗し、国教(英国国教会)としている。
ここに宗教の壁の問題がある。

更に舞台となる1981年のドイツは東西に分断されている。ベルリン市は東西に分かれ、西ベルリンから西ドイツに渡るには、空路か東ドイツが運営する鉄道を利用するしかなかった。東ベルリンは東ドイツの首都だが、西ベルリンは西ドイツの首都ではなく、西ドイツの首都はベートーヴェンの生まれ故郷として知られる中規模都市、ボンに置かれた。
東ドイツは事実上、ソビエト連邦の属国である。
ただ、陸の孤島状態とはいえ、西ベルリンは西ドイツの文化の中心。東ベルリンとの繁栄の差は明らかで、東ドイツでは人権も制限されるため、東ベルリンから西ベルリンに移る人が後を絶たず、ある日突然、東ベルリン当局によってベルリンの壁が築かれた。
兵士であるヴォイツェックは、同僚のアンドリュース(浜田信也)と共に、ベルリンの壁を見張っている。元の「ヴォイツェック」では、赤い空の幻影をヴォイツェックが見ておびえる印象的なシーンがあるが、それは今回はない。代わりに東ベルリンの街を見続け、マリーと二人で、アパートの6階から寂れた東ベルリンの街を見るシーンもある。東ベルリンから西ベルリンに入ろうとして失敗した女性(中上サツキ)が、東ドイツの兵士(須藤瑞己)に連れ戻される場面もある。

アンドリューズは、医師の妻であるマギー(伊勢佳世)と不倫しており、更にマリーとも不倫しているようである。マリーは、男と寝てお金を貰っていることを、マギーにさも当たり前でもあるかのように話しており、歌劇「ヴォツェック」の貞操感に悩むマリーとは大きく異なる。19世紀から1981年に舞台が移っているので、感覚がまるで違うのである。19世紀には、姦通罪のある国も多く(日本も含まれる)、不倫は本当に犯罪だったのだが、1981年時点の西ドイツには姦通罪はない。カトリックには、「汝姦淫するなかれ」など、厳格な規律があるが、20世紀には宗教の力も落ちている。ただ、マリーは寄付を募っている。カトリックは、信者から寄付を集めるのだが、マリーはカトリックの教会のために寄付を集めているのである。マリーの主な仕事は子育てと寄付集めになる。カトリックは集まった寄付で立派な教会を建てたりする。一方、プロテスタントは、そもそもそうした金集めの制度を疑問視しているので、基本、寄付は募らない。京都市内にもキリスト教の教会は多いが、綺麗で立派なのがカトリックの教会、なんだかオンボロなのがプロテスタントの教会という見分け方がある。
イギリスからの移民とアイルランドからの移民とでは宗教が異なることが最大の問題であり、イギリス出身のジャック・ソーンも宗教の違いを重要なテーマとしている。

ヴォイツェクとマリーの間には赤子が一人おり、なぜか子育てを「携わる」という堅い言葉で呼んでいるのだが、マリーは赤子の性別についても嘘をつく。「女の子」とヴォイツェックには告げるが実際には男の子である。

「ヴォツェック」と言えば、ヴォツェックに金を与える代わりに人体実験を施し、やたらと偉そうに命令する医師との場面が有名なのだが、オペラとは異なり、医師の登場は余り早くない。ヴォイツェックには立ち小便をする癖があり、医師から「立ち小便を止めろと言っただろう!」と叱責される場面があるのだが、オペラの台本では、「下品だ」という理由で、「咳を止めろと言っただろう!」という無茶苦茶な要求に変わっている。止めるに止められない生理現象に口出しするところが頭のおかしさの強調にもなっているのだが、いくらなんでも「咳を止めろ」という人は余りいない。最晩年のショルティが、演奏開始直前に最前列で咳が止まらなくなった老人を「うるさい」と叱りつけたという話はあるけれども。
今回は「立ち小便」になっている。ヴォイツェックは4歳で孤児になり、12歳の時に母と永遠に別れ(ヴォイツェクの母親とその幻影は、伊勢佳世が二役もしくは三役で演じている)、満足な教育を受けていないため読み書きは出来ず、礼儀作法なども教わっていない。袋小路という感じの悲惨な設定である。医師に「頭がおかしい」と断言される場面もある。そういう医師もおかしく、ドイツ語が出来ないヴォイツェクに延々とドイツ語で話して屈辱を与える。
マナーが悪いから立ち小便をするのを禁じるというのではなく、与えた薬の効き目を知りたいので「無闇に小便をするな!」という意味で言っていることが時間が経つに連れて明らかになる。

マリーは西ベルリンを諦め、アイルランドに帰ることを決意。先にアイルランドに帰るが、その後にヴォイツェックにも来て貰うつもりだった。だがヴォイツェックはトラウマのあるアイルランドに行くつもりはない。IRAについては多くの作品で描かれているが、最近の作品としては、ケネス・ブラナー監督の「ベルファスト」などが詳しい。

最終的には、マリーの不貞に気付くヴォイツェックだったが、マリーは断固否定。しかしマリーを信じられないヴォイツェックは彼女を絞め殺し、銃で自殺する。

歌劇「ヴォツェック」のラストは、ヴォツェックとマリーの息子が、子どもたちの遊びの輪に加わろうとするも、殺人者の子どもなので入れて貰えず退場するという、救いのないものだが、今回はベルリンの壁を表していると思われる落書き(ヴォイツェックの息子が冒頭で書き殴った)のある壁の下に座り込んでいる。2025年からの視点で見れば、1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西両ドイツは併合。一時は旧西ドイツが旧東ドイツに経済面で足を引っ張られるものの回復。EUのリーダー格となり、GDPも日本を抜いて世界3位に浮上、というのは日本人としては悲しいが。
時代的には、ヴォイツェックの息子の未来は、ヴォイツェックよりは明るいと思われる。

森田剛は背が低いが、比較的背の高い俳優を何人も起用することで、見下された立場を表している。森田剛がタイトルロールに選ばれた一つの理由と考えられる。森田剛は演技のバリエーションは余り多く持っていない人で、5年前に観た「FORTUNE(フォーチュン)」の時と余り変わっていない気がするが、熱演ではあった。
マリー役の伊原六花。大阪府立登美丘高校の林キャプテンとして「バブリーダンス」のセンターを務めて注目された人だが、舞台で観るのは二度目。前回は安部公房原作の「友達」で、一番最初にセリフを発する役だったが、それほど良い役という訳でもなく、余り印象に残っていない。今回はナチュラルな演技で、熱演タイプの森田剛を上手く受け止めていたように思う。大阪出身なので、表に届いていた花も彼女宛のものだけだった。
この人は明るい性格だが、かなりの負けず嫌いだと思われるため、今後伸びそうである。NHK連続テレビ小説「ブギウギ」でも誰にも負けたくない女性・秋山美月を演じていたが、ある程度、伊原の性格に合わせた部分もあるのだろう。

Dsc_9009

| | | コメント (0)

2025年11月 3日 (月)

コンサートの記(929) パスカル・ロフェ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会2025

2025年10月19日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールまで、大阪フィルハーモニー交響楽団の京都特別演奏会を聴きに出掛ける。午後3時開演。

まず事務局長の福山修さんにトーマス・ダウスゴーがピリオドを習ったのはノーマン・デル・マーとフランコ・フェラーラの二人からである可能性が高いことを伝える。

今回の指揮者は、お馴染みのパスカル・ロフェ。音楽に没入するレナード・バーンスタインの対極に位置する、作品をいったん突き放して解析するタイプの指揮者である。2022年からはクロアチア放送交響楽団の音楽監督を務めている。
アンサンブル・アンテルコンタンポランを指揮していた時代にピエール・ブーレーズの指揮に影響を受けたことは明白で、指揮棒は持たず、総譜を読みながら指揮する。ブーレーズは指揮棒否定派で、記者から「オペラの際は、白い指揮棒が光って歌手から見やすいという声がありますが」との問いかけに、「そんなことはありませんよ」と一笑に付し、総譜を短時間で記憶出来る能力がありながら、「暗譜は時間の無駄。その時間があるならレパートリーを増やしますよ」と話している。

フランスも指揮者不足だが、ベルトラン・ド・ビリーに次ぐ才能があるのがパスカル・ロフェであると思われる。ただ現状ではメジャーオーケストラのポストは得ていない。

 

オール・ブラームス・プログラムで、ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)と交響曲第4番が演奏される。

人気若手ヴァイオリニストの辻彩奈が出演するということもあってか中々の入りである。コンサートマスターは崔文洙。大フィルの基本であるドイツ式の現代配置での演奏である。なお、天井からデッカツリーが下がり、舞台上にも前半はマイクが何本も立っていたことから、ブラームスのヴァイオリン協奏曲のみ何らかの形で収録が行われることが分かる。京都コンサートホールは録音が難しく、広上と京響ほかのヴェルディ「レクイエム」や井上と京響のブルックナー交響曲第9番など、失敗録音が多いが大丈夫だろうか。辻彩奈は演奏終了後にSNSを更新し、CD用の録音であることを明かしている。

定期演奏会ではないということで、男性楽団員は背広にネクタイと燕尾服よりもラフな格好。女性奏者は普段通りのドレスで、指揮者のパスカル・ロフェはジャケットにノーネクタイでの指揮である。

 

今や若手のみならず、全世代を通して最も高い評価を受けているヴァイオリニストの一人となった辻彩奈。昨年、アクロス福岡シンフォニーホールでの九州交響楽団の定期演奏会でも聴いたが、オーケストラからも室内楽からも共演引く手あまたのようである。
1997年、岐阜県生まれ。YouTube番組での質問コーナーで、「岐阜の良いところはどこですか?」との質問に、「良いところかどうか分からないですけれど、夏は暑いです」と答えていて、「それ良いところじゃない」と突っ込みたくなった。昨年も同じことを書いたが、そんな子である。
2016年にモントリオール国際音楽コンクール・ヴァオリン部門で1位になり、他にも複数の賞を獲得。学費全額免除の特別奨学生として東京音楽大学付属高校と東京音楽大学を卒業。大学冬の時代にあって伸び盛りの東京音楽大学の象徴の一人ともなっている。

 

純白のドレスで登場した辻彩奈。体も小さめで華奢に見えるが、ヴァイオリンはスケール豊かで逞しい。
辻の良さはまず音の美しさ。音が結晶化されており、ちょっとした経過句であっても美音を保つ。力強いというほどではないが、ブラームスが書いた音楽の大きさも示してみせる。

ロフェは、ヴァイオリン協奏曲ではポケットスコアを見ながらの指揮。ロフェは眼鏡を掛けているので、「あんな小さい譜面で見えるのだろうか?」と疑問を覚えたが、普通に見ながら指揮をして、ページを繰っていた。

ドイツものに強い大フィル。音の密度も濃く、優れた伴奏である。

第2楽章の冒頭付近でオーボエソロが吹くメロディーをソリストは変奏された形で弾くのだが、その後のオーボエとヴァイオリンのやり取りも印象的である。
辻彩奈はロフェと再三アイコンタクトを行っての演奏。独奏だからということで自由に弾くのではなく、オーケストラと一体になった演奏を心がけているのだろう。

第3楽章は、辻とロフェ、大フィルの掛け合いでノリの良い演奏になった。
演奏終了後、辻はロフェと、コンサートマスターの崔とハグを行う。

 

辻のアンコール演奏は、スコット・ウィラーノの「アイソレーション・ラグ ~ギル・シャハムのために~」。昨年の福岡でのアンコールと同一曲目である。ジャジーな甘いメロディーも出てくるが、基本的には超絶技巧てんこ盛りの難曲で、左手ピッチカート、両手ピッチカート、左手でピッチカートしながら右手で弾いてすぐに右手ピッチカートなど恐ろしいほど高度な技術が立て続けに出てくる。
それでも見た目は楽しそうに演奏してみせた辻彩奈。これからも伸びていきそうだ。

 

ブラームスの交響曲第4番。人気曲だが、曲調が暗いことでも知られる。ブラームスはブルックナー同様、女性ファンが少ないことで知られるが、暗い作風の作品が多いのもその一因だろう。
脱線するが、村上春樹の『ノルウェイの森』のヒロインである直子が好きなのが、このブラームスの交響曲第4番で、書き手の僕(ワタナベトオル)は、ブラームスの交響曲第4番をメインにしたコンサートに直子を誘うのだが、当日、直子は会場に現れなかった。この曲を聴くたびにそれが思い起こされ、今日は「君の来ぬホールに響くブラームス第4番の音の夕暮れ」という短歌が浮かんだ。

ため息のように始まる第1楽章であるが、ロフェは冷静を保ち、感傷的にさせない。こうすることで主題が戻った時により寂寥感が増して聞こえる。
この楽章に限らず、ロフェが作る音楽には、終結部に明るさが感じられるものである。
虚ろな第2楽章もリアルな陰鬱さを感じるが同じ旋律でも明るさを感じさせるものもあり、大きな流れの中で一体となっていく。
やるせなさ漲るような第4楽章「パッサカリア(シャコンヌ)」も、葛藤を持って進む中に古典音楽への憧憬を忍ばせ、古典とロマン的な音楽の結合を企てているような趣がある。ロフェが突き放した解釈をするからこそ分かることだ。
ラストは「どうだ!」と見得を切るかのよう。単なる感傷に陥らない良いブラームスだ。

 

アンコール演奏は、ブラームスのハンガリー舞曲第1番。昔はブラームスの「ハンガリー舞曲」といえば第5番が定番だったが、ブラームス自身のオーケストレーションではないため、他の曲が演奏される機会の方が増えているように思う。第1番は、正真正銘、ブラームス本人による編曲だ。
ロフェと大フィルのハンガリー舞曲第1番は、ジプシー的なスウィング感こそなかったが、スマートで大フィルの機能美が生きた演奏となっていた。

Dsc_8964

| | | コメント (0)

2025年10月 5日 (日)

コンサートの記(922) 広上淳一指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 2025年9月定期公演 大阪公演

2025年9月23日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、OEKことオーケストラ・アンサンブル金沢の2025年9月定期公演 大阪公演を聴く。指揮はアーティスティック・リーダーの広上淳一。アーティスティック・リーダーはどんなポストなのか分かりにくい横文字だが、広上によると「音楽監督」だという。広上は京響のシェフ時代も音楽監督並みの仕事をしながら、肩書きは常任指揮者+αであった。京響は井上道義を音楽監督に据えて活動したことがあるが、広上は井上と同じ肩書きを望まなかったのだろう。金沢でも同様だと思われる。井上と広上は仲が良く、金沢で井上が指揮の講習会を行うときは広上も付いていくことが多かった。

広上は、京都市交響楽団第12代・第13代常任指揮者を辞任後、「これからは客演指揮者としてやりたいときにやりたいような指揮をする」 つもりだったのだが、夢枕にオーケストラ・アンサンブル金沢創設者の岩城宏之が立ち、「おい、お前、金沢をどうにかしないといかんだろう」と言われたため、OEKのポストを受けたと語っている。本当かどうかは分からない。だが、かつて井上が君臨し、師の一人である岩城宏之が創設したオーケストラということで、シェフの座を受けるのは自然のような気がする。

金沢に専念するかに思われた広上だが、マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に招聘され、今後は東南アジアや南アジアでの指揮活動も増えるかも知れない。ベトナム国立交響楽団の音楽監督である本名徹次、ミャンマー国立交響楽団の音楽監督である山本祐ノ介(山本直純の次男)など先陣もいる。再編集版がNHKで放送された「ベトナムのひびき」の主人公、佐倉一男(濱田岳が演じた)のモデルである福村芳一も入れても良いかも知れない。

Dsc_87222


曲目であるが、広上の得意なオール・ベートーヴェン・プログラム。ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ独奏:トム・ボロー)と交響曲第6番「田園」

広上のベートーヴェンには定評があるため、ザ・シンフォニーホールは満員に近い盛況である。

オーケストラの配置であるが、パッと見はドイツ式の現代配置に見えるのだが、実際は第1ヴァイオリンの隣のパートの楽器はヴァイオリンより一回り大きく、3人しかいない。つまりヴィオラである。ドイツ式の現代配置ではヴィオラが陣取る場所に第2ヴァイオリンが回る。つまり変則ヴァイオリン対向配置である。昨年の、井上道義の大阪でのラストコンサートで、井上が大阪フィルハーモニー交響楽団をこの配置で並べたが、同じ並びが今日も採用されている。コントラバスはチェロの奥に陣取る。
演奏会終了後に、OEKのスタッフに伺ったが、井上は金沢ではこの配置を採用しており(京響や大フィルの少なくとも定期演奏会では採用していない)、ミンコフスキの時代を経てOEKのシェフとなった広上も井上が行った配置を踏襲しているようである。他でこうした配置を見たことはほとんどない。
OEKは室内管弦楽団なので、低音の奏者が少ない。今日はヴィオラが3(所属楽団員は4人)、チェロが4(フルメンバー)、コントラバスが3(フルメンバー)である。人数が少ないのでベースを築くヴィオラとチェロを中央に置き、低い音を前に出そうとしたとも考えられるが、真意は不明である。単なる思いつきによる配置かも知れないし。

コンサートミストレスは、アビゲイル・ヤング。ピリオド奏法に通じており、ピリオドを採用したときの大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会で客演コンサートマスターを務めたこともある。

そのヤングがコンサートミストレスなので、ピリオドを前面に押し出すかと思ったが、ビブラートを多く掛ける部分と全く掛けない部分が混在し、ヴァイオリンのボウイングなどはピリオドであったが、スタイルよりも音楽性重視の演奏であった。

 

ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。独奏者のトム・ボローは、2000年、イスラエルの中心都市であるテルアビブに生まれたピアニスト。イスラエルは首都と中心都市が異なるが、国連はエルサレムを首都とは認めず、最大都市で政治・経済の中心あるテルアビブを首都としている。日本はエルサレムが首都であることを認めている。
5歳でピアノを始め、テルアビブ大学ブッフマン=メータ音楽院で学び、その後、マレイ・ペライアにレッスンを受け、クリストフ・エッシェンバッハや、リチャード・グード、サー・アンドラーシュ・シフといったの多くの著名ピアニストのマスタークラスで腕を磨いている。イスラエル国内の数々のピアノコンクールで優勝に輝いているが、海外のコンクール歴がないのか成績が良くなかったのか、今のところ名声はイスラエル国内に留まっている。イスラエルがとんでもない情勢になっているので、海外のコンクールなどは受けられないのかも知れない。

ボローのピアノであるが一音一音の明晰さが最大の特徴。音楽性も爽やかで、「皇帝」協奏曲というより「皇太子(プリンス)」協奏曲といった趣である。
ペダリングにも注目していたが、左足を後ろに引いたまま演奏していることが多く、ソフトペダルは稀にしか踏まなかった。力強い場面ではダンパーペダルを何度も踏み換えるが、音を濁らせないための技法だと思える。

広上指揮のOEKもボローに合わせた清々しい伴奏を聞かせる。今日はティンパニはモダンタイプを使用し、強打させる場面も余りなかった。

ボローのアンコール演奏は、クライスラーの「愛の哀しみ」ピアノ独奏版。編曲者は分からなかったが、後で掲示を確認したところ、ラフマニノフであった。確かにラフマニノフが好みそうな曲調ではある。

 

後半、交響曲第6番「田園」。一拍目が休符の曲であるため、広上は指揮棒の先をくるりと一回転させてから本編に入った。日本フィルハーモニー交響楽団を指揮したライブ録音盤でも好演を示していた広上の「田園」。今日も木々の葉ずれの音が聞こえてきそうな情報量の多い演奏である。広上は第2ヴァイオリンを強調したようで、何度も右を向いて指示を行っていた。
第2楽章も瑞々しく、第3楽章も草原がどこまでも広がっていくような、突き抜けた明るさが感じられる。
第4楽章は室内管弦楽団ということもあって、京響を振るときなどとは違い、迫力よりも描写に力点が置かれているように思われた。
そして大いなる自然に祝福され、感謝を送り返すような最終楽章。

ベートーヴェンは、この曲が自然の描写だということは否定し、「田園に着いたときの気分を音楽にした」と語っている。描写でなく心象ということなのだろうが、発想的にはその後にフランスで生まれる「印象派」と呼ばれる画家達に近い。ベートーヴェンの画才については不明だが、自信があったら絵の一枚も残っているはずで、文字の汚さなどを見ても絵画方面は不向きだったと推測される。だが、もし優れた画才があったら、絵画の印象派を生んだのは、クロード・モネやマネやゴッホではなくベートーヴェンだったかも知れない。そんなはずはないのだが、広上の指揮で聴くとそんな夢想をしてしまうのだ。これからも広上は私にとって特別な指揮者であり続けるだろう。

 

アンコールでは、まずビゼーの「アルルの女」組曲よりアダージェットの繊細な演奏を経て、阪神タイガース、セ・リーグ優勝記念ということで、「六甲おろし」が華やかに演奏された。広上は振り向いて手拍子を促し、多くの人が乗ったが、東京ヤクルトスワローズファンとしては叩けないということで音楽だけを楽しんだ。この歌は、作曲の古関裕而本人は良い出来だと思っていなかったようだが、個人的はとても良い歌だと思う。ちなみにリリース時も、タイガースは兵庫県西宮市の甲子園球場を本拠地としていたが、チーム名は大阪タイガースであり、「六甲おろし」の「オオ オオ オオオオ」の部分は大阪の「大」の字に掛けられている。タイガース保護地域である兵庫県よりも、大阪市内もしくは大阪府内で聴いた方がいい曲なのかも知れない。

今回のツアーは北陸中心でそれ以外での公演が行われるのは大阪と岐阜だけである。また能登のある石川県のプロオーケストラということで、ホワイエでは「能登応援Tシャツ」が売られていた。

Dsc_8729

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 AI DVD MOVIX京都 NHK交響楽団 THEATRE E9 KYOTO YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール よしもと祇園花月 アップリンク京都 アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オムニバス映画 オンライン公演 カナダ ギリシャ悲劇 グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コント コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント トーク番組 ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ポーランド映画 ミステリー ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロシア映画 ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都シネマ 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇場 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都市京セラ美術館 京都府立府民ホールアルティ 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 写真 劇評 動画 千葉 南米 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 宗教音楽 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本フィルハーモニー交響楽団 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画リバイバル上映 映画音楽 映画館 時代劇 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 柳月堂にて 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 浮世絵 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 講談 趣味 追悼 連続テレビ小説 邦楽 配信ドラマ 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 音楽番組 食品 飲料 香港映画