カテゴリー「ドイツ」の32件の記事

2021年4月23日 (金)

コンサートの記(712) 広上淳一指揮京都市交響楽団西宮公演2021

2021年4月25日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、広上淳一指揮京都市交響楽団の西宮公演を聴く。

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新型コロナの感染は留まるところを知らず、大阪府内では1日の最多記録を更新する1220名の新規感染者が出た。昨日は梅田とその北の茶屋町に行ったのだが、梅田駅構内と茶屋町はそれなりに人がいたが(それでも平時の半分程度)梅田芸術劇場の入る茶屋町アプローズの前は本当に人がいなかった。大阪市民が手をこまねいているというわけでも、感染拡大防止のための努力を怠っているというわけでもないと思われるのだが、変異によって感染力が強まったのだろうか。

今日の京都市交響楽団の西宮公演に関しても、「大阪から兵庫に行くわけにはいかない」という自粛コメントをTwitterなどでしている人が多い。兵庫県立芸術文化センターもホームページにおいて今日付で、「症状が無くても自粛したいという人に関してはチケット料金払い戻しに応じる」という旨の発表を行った。

 

今回の京都市交響楽団の西宮公演は、本来なら1年前に行われているはずだったのだが、コロナ禍により開催が見送られ、同一プログラムによる演奏会が組まれることになった。状況的に再度中止もしくは延期になってもおかしくなかったが、開催されることになった。
本来なら緊急事態宣言が出されてもおかしくないのだが、東京オリンピックが関係しているのかそうでないのか、「まん延防止等重点措置」に留められている。それにしても略称「まん防」ではユーモラスで深刻さが感じられないが、そんなレベルの人が作っているという証でもある。

行きの阪急電車でも淡路駅では、「不急不要の外出はお控え下さい」とのアナウンスがあった。
コンサートホールの入り口に置かれたチラシの束(コロナの感染を考慮してスタッフからの手渡しでなく、積み置かれたものを聴衆が自分で取るというシステムになっている)の中にも、井戸敏三兵庫県知事からの「座席配置の工夫又はアクリル板の設置、消毒液の設置等の感染対策を行っていない飲食店、カラオケ店など、リスクのある場所への出入りを自粛してください」という要請が記された紙が含まれている。

そんな中でのコンサート。曲目は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:金川真弓)とマーラーの交響曲第5番。共に指揮者としても大活躍した作曲家、というよりもマーラーに関しては当代一の指揮者として評価されたが、作曲家としての名声が高まったのは死後であり、生前は指揮者としてのみ評価されていた。マーラーも自身の交響曲が聴衆から容易に受け入れられないということは心得ており、指揮者としての名声が下がるのを避けるため、自作の初演は本拠地であるウィーン以外で行っている。

偶然ではあるが、先週、広上と京響が行った「スプリング・コンサート」のメインが「死」を描いたチャイコフスキーの「悲愴」交響曲で、その次となる今回の演奏会のメインが「死からの復活」を描いたマーラーの交響曲第5番という並びになった。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。第2ヴァイオリンの客演首席には神戸室内管弦楽団の西尾恵子が入る。テューバも武貞茂夫の後任が決まらず客演奏者を招くことが続いているが、今日は仙台フィルハーモニー管弦楽団のピーター・リンクが初めて入った。
今日はクラリネット首席の小谷口直子が全編に出演する。フルート首席の上野博昭、ホルン首席の垣本昌芳、トランペット首席のハラルド・ナエスなどはマーラーのみの出演である。

今日もドイツ式の現代配置だが、ティンパニが指揮者の真正面に置かれ、金管奏者はその前に横一列(向かって左側がホルン、向かって右側にトランペット)に並ぶという布陣である。マーラーの交響曲第5番で活躍するハープの松村衣里はチェロの第1プルトの後ろという指揮者に近い場所で演奏した。

 

今日は3階席3列目のほぼ正面。チケット発売時は収容最大観客数の半分までという基準だったため、発売日の午後にはもう通常の手段ではチケットは手に入らず、いつもとは異なる手段でチケットを買った(勿論、正規のルートである)。その後、満員でもOKとなったため追加発売が行われたが、自重した人も多く、空席も比較的多めである。

 

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(通称:メンコン)。ソリストの金川真弓(かながわ・まゆみ)は、2019年のチャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で4位入賞、2018年のロン=ティボー国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門では第2位&最優秀協奏曲賞を受賞というコンサート歴を誇る若手。それほど知名度の高くないコンクールでは1位も獲得している。1994年、ドイツ生まれ。幼時に日本に戻り、4歳でヴァイオリンを開始。その後、ニューヨーク、ロサンゼルスでの生活を経てドイツに戻り、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学でコリヤ・ブラッハーに師事。現在もベルリンを拠点に活動している。

金川のヴァイオリンを聴くのは初めてだが、美音でスケールも大きい。それだけのヴァイオリニストなら数多いが、音の強弱の付け方がきめ細やかで、名古屋で聴いた諏訪内晶子独奏のメンコンを想起させる。時折見せる弱音の抜き方は諏訪内同様、日本人的な感性による演奏と取ることも出来るだろう。
一方で、高貴な印象の諏訪内のヴァイオリンに対して金川はかなりエモーショナルであり、第1楽章のカデンツァなどでは情熱全開の演奏を聴かせる。
富豪の家に生まれたメンデルスゾーン。育ちの良さと同時に、指揮者としてJ・S・バッハの「マタイ受難曲」を復活初演させるなど、意欲的な音楽活動を行った。そうした彼の多面性が、様々な演奏を聴くことで明らかになっていくようだ。
広上指揮の京都市交響楽団も表現力豊かな伴奏を聴かせる。

金川のアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。美音とスケールの大きさはそのままに、確かな構築力も感じさせる優れた出来であった。今後がかなり期待出来そうなヴァイオリニストである。

 

マーラーの交響曲第5番。トランペットの独奏で始まる曲だが、広上は出だしだけ示して、後は首席トランペットのハラルド・ナエスに任せる。余談だが、兵庫県立芸術文化センターのポッケと呼ばれる展示スペースでは現在、兵庫芸術文化センター管弦楽団(通称:PACオーケストラ)の卒団生からのメッセージが展示されているのだが、その中にハラルド・ナエスのものもあった。ナエスにとっては凱旋公演ということでもある。

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マーラーも得意レパートリーとする広上淳一。第1楽章前半などは、これまで聴いてきたマーラーの演奏に比べると今回はややタイトな印象を受けたが、第2楽章や第3楽章、第5楽章のいずれも終盤においてはスケールを拡大し、師であるレナード・バーンスタイン指揮のマーラーを念頭に置いたような巨大な音像を構築する。日本人指揮者と日本のオーケストラで、ここまでスケールを拡げても高密度であるため大風呂敷にならないというのは大したものという他ない。
広上の指揮姿は今日もユーモラスで、指揮台の上でステップを踏んだり、右から左へと両手を素早く振ったりする。肩で指揮をすることが多いのも広上の最近の特徴である。

有名な第4楽章のアダージェットも、ユダヤ系のマーラー指揮者によるものとは違って濃厚さはないが、ノスタルジアや儚さ、淡い憧れなどが浮かび上がる出来で、これも一つの解釈として納得のいくものである。アダージェットについては、マーラーと親交のあったウィレム・メンゲルベルクによる、「妻であるアルマに向けてマーラーが書いた音楽によるラブレター」という解釈がよく知られており、またレナード・バーンスタインがジョン・F・ケネディ大統領追悼演奏の一つに加えたことから「死」に繋がるというイメージも生まれたが、それらとはまた違った味わいである。ちなみにアダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」で使われて有名となったが、主人公のアッシェンバッハ(トーマス・マンの原作では作家、映画ではマーラーをモデルとした作曲家となっている)は疫病で死ぬということになっており、今と重なる。
第5楽章もスケール雄大で、響きも磨き抜かれており、全てのパートが雄弁。マーラーの交響曲の重層性も明らかになっていく。

金川がアンコールで演奏したバッハの時代の音楽がどちらかというと抒景詩寄りで「神からの恩寵」的であったのに比べ、メンデルスゾーンの時代には人間の内面が音楽の主題となり、マーラーに至ると無意識にまで視点が向けられるようになる。実際にマーラーはジークムント・フロイトから精神分析を受けたことがあり、グスタフ・クリムトに代表されるウィーン分離派など、世紀末芸術の深層心理重視の作風にも近いものが感じられる。
結果として演奏だけでなく、ドイツ語圏の音楽や文化の歴史の流れを確認するという点でも興味深い演奏会となった。

演奏終了後、広上はまず冒頭のトランペット独奏などを吹いたハラルド・ナエスを立たせ、次いで第3楽章で活躍したホルン首席の垣本昌芳を立たせる。その後、各パートの首席奏者を立たせた後で、パート全員に起立を指示するが、打楽器はティンパニの中山航介(打楽器首席)を除くメンバーを立ち上がらせたため、中山が左右の手で自分を指さして、「僕も! 僕も! 僕も立たせて! 今立たせて!」というようにアピール。事情を知っている人達からの笑い声が起こる。広上は「後でね」という風に手で制して、今日も中山をトリとして立たせ、指揮台の上から拍手を送った。最近、このショートコント(?)が定番となりつつある。

 

広上は、「このような状況の中、このように沢山の方にお越し下り、『感謝!』です。感染にお気を付けて、でも演奏会には来て下さい」と言って、アンコール楽曲、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から月光の音楽の演奏が始まる。美演であった。

ちなみに広上さんは、YouTubeで「週刊かんべぇ」という企画を始めるようである。

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2021年4月 1日 (木)

観劇感想精選(389) 燐光群+グッドフェローズプロデュース公演「ローゼ・ベルント」

2008年7月16日 尼崎市塚口の兵庫県立ピッコロシアターにて観劇

午後7時から、尼崎市の兵庫県立ピッコロシアターで、燐光群+グッドフェローズプロデュース公演「ローゼ・ベルント」を観る。原作:ゲアハルト・ハウプトマン(底本 番匠谷英一訳『枯葉』)、上演台本&演出:坂手洋二。タイトルロールを演じるのは占部房子。出演はほかに、大鷹明良、猪熊恒和、鴨川てんし、大西孝洋、西山水木、嚴樫佑介、中山マリ、川中健次郎など。

ドイツの劇作家、ゲアハルト・ハウプトマン(1862-1946)の戯曲を、坂手洋二が比較的自由に翻案した本が用いられている。役名もドイツ人のもので、場所もドイツなのだが、官庁の名前が「文部科学省」だったり、結婚の日に大安か友引を選んだり、「地球の裏側のブラジルに移民しよう」というセリフがあるなど、実質的には日本が舞台となっている。遠い異国の出来事ではないということだ。

牛肉偽装事件が出てきたり、「現代の『蟹工船』諸君!」というセリフがあったり、時事問題を扱っているのがいかにも坂手洋二らしい。


「ローゼ・ベルント」という題名で、主人公もローゼ・ベルント。そしてローゼ・ベルントを巡る劇であるにも関わらず、(ここが逆説的であるが)実はローゼ・ベルントを描いた劇ではない。

ローゼ・ベルントは一個人でありながら、単なる一個人ではなく女性の歴史を体現しており、一方でローゼ・ベルントは一個人ですらなく、ある種の視座に過ぎないと見ることも出来る。私がこの劇の真相に迫れたのは現時点ではここまでである。記憶を辿りながら考える作業を進めれば、もっと深部まで行き着けるかも知れない。

ストーリー的には難解ではないのだが、背景に隠された巨大なものを読み解くのはなかなか容易ではない舞台である。


ローゼ・ベルントを演じた占部房子が大変な熱演。また、燐光群メンバー最古参ということもあって普段は落ち着いた紳士やリーダー格を演じることの多い猪熊恒和が、今回は頭は切れるが乱暴で残忍な悪役(シュトレックマン役)を演じているというのも面白かった。

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ロームシアター京都 ハンブルク・バレエ団 「ベートーヴェン・プロジェクト」映像上映会

2021年3月21日 ロームシアター京都サウスホールにて

午後1時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、ハンブルク・バレエ団の映像上映会、「ベートーヴェン・プロジェクト」を観る。

本来は、この3月にハンブルク・バレエ団の来日公演として「ベートーヴェン・プロジェクト」の日本初演がロームシアター京都メインホールで行われるはずだったのだが、コロナ禍によって来日不可となり、代わりに「ベートーヴェン・プロジェクト」とコロナ下に制作された新作「ゴースト・ライト」の上映会が行われることになった。昨日と今日、「ベートーヴェン・プロジェクト」が午後1時から、「ゴースト・ライト」が午後5時から上映される。ということで今日2本とも観ることが可能なのだが、バレエの映像を1日2回観たいと思うほどバレエ好きではない。

「ベートーヴェン・プロジェクト」は、2018年に初演された作品。映像は2019年10月にバーデン=バーデン祝祭劇場で行われた上演を収めたものである。この映像はBSプレミアムの「プレミアムシアター」で放送されており、またDVDやBlu-rayも発売されていて、家庭でも観ることが出来る。振付:ジョン・ノイマイヤー。第1部のピアノ演奏:ミカル・ビアウク。第2部と第3部の演奏は、サイモン・ヒューイット指揮のドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団。映像監督はミリアム・ホイヤー。

第1部「ベートーヴェン・フラグメント」、第2部「プロメテウスの創造物」、第3部「エロイカ(英雄)」の3部からなる。

 

第1部「ベートーヴェン・フラグメント」。プロメテウス主題が登場する「エロイカ変奏曲」が演奏される。3部ともプロメテウス主題が登場する作品が演奏され、人類に叡智を与えたプロメテウスと人類そのものへの讃歌が奏でられる。

ベートーヴェン自身を演じているのは、アレイズ・マルティネス。ベートーヴェン本人も推定身長165センチと、当時の西洋人としてもやや小柄だったようだが、マルティネスも他の男性バレエダンサーと比較して明らかに背が低いダンサーである。女性ダンサーよりも小さいかも知れない。

マルティネスが演じているベートーヴェンは、おそらくまだ若い頃、ハイリゲンシュタットの遺書を書いた時代だと思われる。
ピアノの足に絡みついていたマルティネスは、プロメテウス主題に合わせて踊る。やがて高貴な身分を表すと思われるマントを羽織った男性ダンサーが登場するが相手にされない(貴族に憧れつつも果たせないベートーヴェンの心情を表現したようである)。男性ダンサー二人組と楽しく踊った後で、男女のペアが現れる(女性ダンサーはアジア系である)。男女のペアとも楽しく踊るベートーヴェンだが、結局、ペアはペアのまま去り、先程現れた男性ダンサー二人組も、新たに現れた女性ダンサーに夢中になり、ベートーヴェンに構ってくれず、最後にはベートーヴェンは突き飛ばされて横転してしまう。その後、花嫁衣装のダンサーが現れるが、彼女はピアニストにご執心というわけで、作曲家の孤独が描かれている。やがてベートーヴェンは芸術そのものを恋人とし、人生を捧げることを誓う(セリフがないので「ように見える」というだけで、ノイマイヤーの実際の意図は不明である)。すると、それまですげなくしていたダンサー達が音楽の精として生まれ変わったように快活なダンスを披露し、最後はベートーヴェンを掲げて礼賛する。

続いて演奏されるのは、ピアノ三重奏曲「幽霊」である。不協和音が印象的な作品として知られている。赤いドレスの女性ダンサーが登場し、ベートーヴェンとパ・ド・ドゥを行うのだが、やがて彼女はすでに亡き人となっていることがうつ伏せに横たわることで示される。赤いドレスの女性ダンサーはその後に一度起き上がるのだが、それはベートーヴェンに喪服を着せるためであり、その後、男性ダンサー二人に仰向きに掲げられて退場する。恋人のように見えたのだが、実際はベートーヴェンの母親であるマリアであったようだ。赤い服を着た女性ダンサーはもう一人現れ、こちらが「不滅の恋人」のようである。

突然、金属音が混じり、録音によるピアノの演奏が奏でられる。宿痾となった難聴の始まりである。やがてピアニストのミカル・ビアウクもベートーヴェン役のマルティネスと視線を交わして退場する。悲劇の予兆だが、ベートーヴェンはそれを乗り越えていく。

第2部「プロメテウスの創造物」では、ベートーヴェンの母親役だと思われる女性ダンサーがこれから演奏される曲目について解説を行う。ドイツ語で、日本語字幕もないため何を言っているのかよく分からないが、ベートーヴェン作曲の「プロメテウスの創造物」からの2曲が演奏されると言っていることだけはなんとなく分かる。
第2部は第1部と異なり物語性は低め。天上の描写があり、アポロ神を始めとする多くの神々がベートーヴェンを祝福する。

 

第3部の「エロイカ(英雄)」。こちらも第2部同様、エネルギッシュでバリエーションに富んだ表現が中心だが、第2楽章の葬送行進曲だけは人一人の死というよりも何らかの崩壊が描かれているようであり、強い悲劇性を帯びている。

ハンブルク・バレエ団であるが、東アジア人のダンサーがかなり多い。特にアジア人女性ダンサーは重要な役割を担っている。エンドクレジットで確認したところ、日本人、中国人、韓国人の全てが含まれていることが分かった。日本人女性ダンサーは二人いて、有井舞耀(ありい・まよ)と菅井円加であることが確認出来た。

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2021年3月12日 (金)

コンサートの記(701) びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー作曲 歌劇「ローエングリン」 2021.3.7 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか

2021年3月7日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホールプロデュースオペラ ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。ワーグナー作品を積極に演奏して、近年では「日本のバイロイト」とも呼ばれるようになっているびわ湖ホール。楽劇「ローエングリンの指輪」に4年がかりで挑み、昨年は最終作である楽劇「神々の黄昏」が新型コロナによって公開上演こそ中止になったものの無観客上演を行い、同時配信された映像が世界各国45万人以上の視聴を記録するなど、話題になった。そして今年は人気作の「ローエングリン」。コロナ第3波が心配であったが上演に漕ぎ着けた。だが、昨日今日と2回公演のうち、今日の公演は、当初は外国人キャスト2名が出演する予定だったのだが、入国制限による来日不可ということで日本人キャストに変更になり、更にエルザ役の横山恵子が体調不良のため降板し、元々カバーキャストとして入っていた木下美穗子が出演することになった。関西は緊急事態宣言が解除され、街に人も多くなったが、余波はまだ続いている。

今回はステージ前方の2ヵ所に台を築いてのセミ・ステージ形式での上演である。映像と照明を駆使し、演技と衣装も凝っていて、セミ・ステージではあるが十分にドラマを楽しめるようになっている。

指揮は、びわ湖ホール芸術監督である沼尻竜典。演奏は京都市交響楽団。演出は粟國淳(あぐに・じゅん)。出演は、斉木健詞(ドイツ王ハインリヒ)、小原啓楼(おはら・けいろう。ローエングリン)、木下美穗子(エルザ・フォン・ブラバント)、黒田博(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、八木寿子(やぎ・ひさこ。オルトルート)、大西宇宙(おおにし・たかおき。王の伝令)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーと客演歌手による混成である。

パンフレットは無料ながらボリューム十分で読み応えがあり、びわ湖ホール プロデュースオペラの良心が窺える。

 

京都市交響楽団はステージ前方を歌手達に譲り、舞台の中央部で演奏。舞台奥部にはひな壇が設けられていて、そこに合唱が陣取る。合唱とオーケストラの間には、ビニールを張り巡らした柵が設けられており、飛沫対策が取られている。なお、合唱は全員不織布マスクをしながらの歌唱である。合唱スペースの後ろにスクリーンが下りていて、ここに様々な映像が投影される。

オルトルート役の八木寿子は真っ赤なドレスを纏っており、オルトルートが主役となる場面では照明も赤に支配される。一方、エルザが主役の場面では神秘的な青系の照明が用いられる。

びわ湖ホール大ホールの前から3列目までは飛沫対策のため空席となっているが、ここにモニターが4台ほど設置されており、歌手達はモニターで沼尻の指揮を確認しながら歌うことになる。更に第2幕や第3幕では、金管のバンダが、空席になっている前方席の両側で壁を背にしながらの演奏を行う。

今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田尚泰。泉原隆志がフォアシュピーラーに入る。弦楽器の配置はドイツ式の現代配置がベースだが、コントラバスは最後列、合唱スペースの前に横一線に並ぶ。管楽器はコンサートの時とは違い、下手側のヴァイオリン奏者の背後に木管楽器群やハープが並び、上手側のチェロ奏者やヴィオラ奏者の後ろにティンパニなどの打楽器や金管楽器が入る。
バンダが多用されるため、トランペットの客演奏者が多い。またオルガンの演奏を桑山彩子が務める。

それまで歌手達が主役で、管弦楽は伴奏だったオペラだが、ワーグナーはオーケストラと歌手が一体となった一大交響楽を構想し、実現していった。その後、総合的なスタイルは更に追求され、楽劇というジャンルを生むことになる。

ワーグナーは子どもの頃は音楽よりも文学を好んでおり、シェイクスピア作品などを愛読。音楽家よりも文学者を夢見る少年であった。ということもあって、ワーグナーは自身の歌劇や楽劇の台本のほとんどを自ら執筆しており、「ローエングリン」もまたワーグナーが台本から音楽に至るまでを一人で手掛けた作品である。

ワーグナーはかなりハチャメチャな人生を送った人物であり、作曲家としては遅咲き。もっとも早い時期から優れた音楽の才を示していたのだが、人間関係の形成が下手だったり、倫理面で問題があったりしたため、人から受け入れられにくかった。「音楽史上最も性格が悪かった有名作曲家は誰か」というアンケートを行ったら、おそらく1位になるのはワーグナーであろう。その後、革命運動に参加したことで指名手配され、スイスでの亡命生活を余儀なくされる。革命運動参加の直前に完成した「ローエングリン」だが、上演の機会はドイツ国内に限られたため、ワーグナーは自作でありながら長きに渡って「ローエングリン」を観る機会を得ることが出来なかったという。初演は、1850年。フランツ・リストの指揮によりワイマール宮廷劇場で行われた。

 

事件や進行、感情などは全て歌われるため、筋の把握自体はそれほど困難ではない作品である。
先日、NHKオンデマンドで観た2018年のバイロイト音楽祭での「ローエングリン」について書いた際にもあらすじは記したが、もう一度確認しておく。

舞台となっているのは、現在のベルギー北部にあったブラバント公国である。先のブラバント大公が亡くなり、エルザとジークフリートという大公の子が残される。だが、ある日、森に出掛けたエルザとジークフリートは迷子になり、エルザは戻ったが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントを訪れたドイツ王ハインリヒは、ブラバントの貴族、フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵から、「エルザがジークフリートを殺害し、継承権を独り占めにしようとしている」との告発を受け、裁判を行うことにする。
被疑者であるエルザであるが、申し開きをするよう言われても、「白鳥の曳く小舟に乗って騎士がやって来る」といった、否認とは全く関係のない話をし始める。なんとも妙なのだが、実際に白鳥の曳く小舟に乗った騎士(ローエングリンである)がやって来る。そしてエルザの窮地を救うことになる。
フリードリヒは、ブラバントに貢献する数々の人材を生んだ名家出身のオルトルートと結婚した。実はオルトルートは魔女であり、フリードリヒは妻となったオルトルートの助力を得ていて、そのことで自信満々であったが、騎士と決闘してあえなく敗れ去る。

余り触れられていないことだが、エルザもまた予知能力のようなもの、あるいは思い描いた通りの騎士を呼び寄せる力を持っており、明らかに異能者である。「ローエングリン」は実は異能者である女性二人の対決という側面を持っているように思われる。

騎士は名を明かさず、正体を問うてもいけないと人々に誓わせるのだが、エルザにだけは正体を明かす可能性を話す。これがその後の悲劇への第一歩となる。オルトルートはエルザに、「後ろ暗いところがあるから正体を明かせないのではないか」「本当に彼の身分は貴族なのか」と疑問をぶつけ、エルザの心を揺るがす。

結婚式が終わり、二人きりとなった騎士とエルザだが、エルザは騎士に正体を明かすよう迫る。騎士は、「信じる力があれば名など知らなくてもいい」という意味の言葉を繰り返す(「ロミオとジュリエット」のバリエーションのように見えなくもない)。知られたなら全てが終わることを知っているからだ。だが、エルザは騎士を信じることが出来ず、破滅へと向かう。

絶対的な信仰の時代であった中世(それゆえ進歩も滞り、「暗黒の中世」などと呼ばれることになる)が終わり、科学の発展により信仰の屋台骨がきしむ時代が訪れていた。「神」の存在そのものへの疑問である。その代表格であるニーチェはワーグナーのシンパだった。
ニーチェはワーグナーに対して信仰に近い心酔を示していた。おそらくニーチェにとってはワーグナーこそが神に成り代わって世界を再生させる存在でもあったのだろうが、やはりこの関係もニーチェのワーグナーに対する不信により終わりを告げている。

自己を神格化するような性格であったワーグナーは、音楽に多大なる影響を与えたが、それが調性音楽の崩壊という一種のバッドエンドを招いている。

神の時代が終わり、人間の時代が来る。これは政治や宗教のみならず文化でもそうであり、音楽にも当然ながら反映される。そしてその人間の欲望の肥大化が、二つの世界大戦など20世紀の悲劇を招き、音楽も時の政権によって利用されることになるのだが、それはまだ先の話である

 

私個人の話をすれば、――興味がある人は余りいないと思われるが――、京都に移住後、真宗大谷派の門徒としての信仰生活に入るようになった。宗教色の余り強くない関東で育った人間にとって京都で生きるためにはそれは必須であるように思われた。どの宗教や宗派を選ぶかから始まり、最終的には父方の家の宗派である真宗大谷派を選ぶ。人間としての軸の創造である。高村光太郎的に言えば、地理的な意味ではないが「ここを世界のメトロポオルとひとり思」うことにしたのだ。ただ実感するのは、今の時代に宗教色の弱い地域に生まれ育った人間が絶対の信仰を得るのは難しいということだ。親鸞ですら弥陀の本願を信じ切れずに苦悩した、況んや~をやである。
絶対的な信仰は、心のみならずあらゆるものの安寧へと結びつく。最近では唯識思想を学ぶなど、知識が広がることへの喜びも覚える。だがそれは、基本的には知的満足においてである。理論体系に納得することは出来ても信じることは難しい。それが私のみならず現代に生きる人間の宿命である。信じることが出来たなら楽になれることはわかるのだが、それは不可能なのだ。

 

一方で、信念は狂信へと繋がる歴史を生んだ。石原莞爾が構想に関与した満州国は傀儡国家なのは間違いないが、日蓮宗国柱会の人間であった石原は本気で日蓮聖人が説いた理想郷を満州の地に生むつもりだったよう思われる。そしてその信念は、結局、悲劇で終わる。

ワーグナーを愛好したヒトラーはゲルマン民族の優越を信仰した。客観的に見れば異様にしか見えない彼の盲信は、世界的な災禍を招くことになった。

彼らは本気でユートピアの到来を信じており、それが破局へと繋がった。

そうした歴史を知った上で、まだ絶対的な何かを信じることが出来るかということだが、21世紀に入ってから、別の形での「信仰」が顕在化するようになった。従来からあったがそれが強化された形である。それを呼び寄せた者達が破滅へと向かうのは歴史的にも明らかなのだが、人々は宗教とはまた違った形の「信仰」を止めようとはしない。今回の演出では、呼び寄せた者であるエルザの最後は明確には描かれていないが、本来の筋にある彼女の破滅は、呼び寄せながら不信に陥る人間の弱さと罪業の結果であるようにも思う。信じることも信じないことも悲劇である。

 

ローエングリンとエルザのこの世界からの退場と共に、絶対的な神のいなくなった世界が始まる。おそらくそれは絶対王政の終わりとリンクしている。ワーグナーも参加した社会主義革命、それは絶対的な存在を否定する行為でもあり(この時点では却って独裁を招く形態であるとの認識を持っている人はほとんどいなかったはずである)、同時に絶対的な孤独を招く行いでもある。自由を目指す行為は、絶対的な存在の前での平等を崩してしまう。歴史を辿れば、絶対的な神のいなくなった世界では、神に成り代わろうとする英雄気取りの者達が次から次へと現れ、新たな「信仰」を生み、別の形での犠牲者を生んでいった。

 

劇の内容に関する考察はここまで。演奏であるが、なめらかな響きと輝きと神秘感を合わせ持った京都市交響楽団の演奏が見事である。
関西では、びわ湖ホール以外でも演奏を聴く機会の多い沼尻竜典。キビキビとした音運びが印象的であるのと同時に、コンサートレパートリーではややスケールの小ささも感じられる指揮者であるが、オペラの演奏に関してはドラマティックな音楽作りといい、語り口の上手さといい、優れた適性を示している。スケールも雄大であり、彼には絶対音楽よりもこうした物語性のある音楽の方が向いているようだ。沼尻も十八番がなんなのかよく分からない指揮者なのだが(マーラーやショスタコーヴィチは良い)、オペラの指揮に関しては全幅の信頼を置いてもいいように思う。

歌唱も充実。オーケストラよりも前で歌うということもあるが、凄絶なうねりを生むワーグナーの音楽と、それを見事に具現化する沼尻と京響と共に壮大な音の伽藍を築き上げる。
来日経験も豊富な某有名指揮者から、「日本人にワーグナーなど歌えるわけがない」と見下されてもそれを受け入れざるを得なかった時代が、遠い過去のことになったように思える。

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2021年3月 7日 (日)

コンサートの記(700) 下野竜也指揮 NHK交響楽団西宮公演2021

2021年3月3日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後7時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、NHK交響楽団演奏会西宮公演を聴く。指揮は下野竜也。下野とN響のコンビの実演に接するのは二度目である。

下野竜也は、NHKの顔となる大河ドラマのオープニングテーマの指揮を手掛けることが多く、NHKとNHK交響楽団から高く評価されていることが分かる。

少し早めに兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)に着いたので、いったんHPAC前の高松公園に下り、コンビニで飲料などを買って(新型コロナ対策として、ビュッフェは稼働せず、ウォーターサーバも停止されているため、飲み物はHPACの1階にある自動販売機か、劇場の外で買う必要がある)高松公園で飲み、高松公園からHPACのデッキ通路へと上がる階段を昇っている時に、眼鏡を掛け、髪を後ろで一つに束ねて(ポニーテールとは少し異なり、巫女さんがしているような「垂髪」に近い)、ヴァイオリンケースを背負った女性が折り返し階段を巡って目の前に現れたのに気がついた。マスクをしていたが、「あ、大林(修子。「のぶこ」と読む。NHK交響楽団第2ヴァイオリン首席奏者)さんだ」とすぐに気づいたが、それは表に出さずにすれ違った。大ベテランと呼んでもいい年齢のはずなのに、今なお女学生のような可愛らしい雰囲気を漂わせていることに驚いた。
NHK交響楽団も世代交代が進み、私が1990年代後半に学生定期会員をしていた頃とは顔触れが大きく異なる。歴代のN響団員全ての名前を覚えているわけではないのだが、学生定期会員をしていた頃から変わらず活動しているのは、大林修子、第1コンサートマスターの「マロ」こと篠崎史紀や首席チェロ奏者の「大統領」こと藤森亮一(共に今回のツアーでは降り番)など一桁しかいないはずである。首席オーボエ奏者であった茂木大輔は2019年に定年退職。5年間のオーボエ奏者としてのN響との再雇用を選ぶか指揮者の道に進むかで悩んだそうだが、指揮法の師である広上淳一の助言を受けて、指揮者として独立して活動することに決めたことが、茂木の最新刊である『交響録 N響で出会った名指揮者たち』(音楽之友社)に記されている。クラリネット首席の磯部周平、コンサートマスターとしてN響の顔も務めた堀正文などは、いずれもN響を定年退職している。

 

今回の、NHK交響楽団演奏会西宮公演は、入場前にチケットの半券の裏側に氏名と電話番号を記しておく必要がある。またAndroidのアプリが全く機能していなかったことで悪名高くなってしまったCOCOAのインストールや、兵庫県独自の追跡サービスに登録することが推奨されている。

 

今日のコンサートマスターは伊藤亮太郎。N響が日本に広めたとされるドイツ式の現代配置での演奏である。下野はステージに上がる前にコンサートマスターとフォアシュピーラーの二人と右手を少し挙げるだけのエア握手を行う。

 

曲目は、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調(ヴァイオリン独奏:三浦文彰)、ブラームスの交響曲第4番。N響が得意とするドイツものが並ぶ。

 

今日も客席は前後左右1席ずつ空けるソーシャル・ディスタンス対応シフトであるが、席によっては隣り合っていても問題なしとされているようである(家族や友人、知人などの場合が多いようである)。1階席の前列は、1列目と2列目は飛沫が掛からないよう席自体を販売しておらず、2階サイド席のステージに近い部分も客を入れずに飛沫対策を優先させている。

 

ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲。弦楽器奏者はビブラートをほとんど用いないというピリオド的な演奏が行われる。古楽器での演奏のマイナス点として現代のコンサートホールという広大な空間にあっては音が小さ過ぎるということが挙げられると思うのだが、モダン楽器によるピリオド・アプローチならその差は僅かで、今回もN響の音の強度と密度と硬度にまず魅せられる。結晶化されつつボリュームも満点であり、音の輝きも素晴らしい。下野の怖ろしいほど精緻に形作られた音の輪郭が聴く者を圧倒する。
N響の奏者も今日は技術的に完璧とはいかなかったようだが、楽団としては90年代からは考えられないほどに進歩していることを実感させられる。90年代に渋谷のNHKホールで聴いていた時も「良いオーケストラだ」と思っていたが、近年になってEテレで再放送された当時の演奏や、リリースされた音盤を聴くと、「あれ? N響ってこんなに下手だったっけ?」と思うことが度々ある。それ故に長足の進歩を遂げたことが実感されるのであるが。特にエッジのキリリと立った各楽器の音は関西のオーケストラからは余り聴かれない種類のものであり、名刀を自由自在に操る剣豪集団が、刀を楽器に変えて、音で斬りかかって来るかのような凄みを放っている。

 

ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調。売れっ子ヴァイオリニストである三浦文彰がソリストを務める。下野とN響、三浦文彰という組み合わせは、2016年の大河ドラマである「真田丸」のオープニングテーマを想起させられるが、今回は残念ながらアンコール演奏自体がなし。考えてみれば「真田丸」も5年前のドラマであり、劇伴ということで賞味期限切れと見なされている可能性もある。

「真田丸」は過去のこととして、ブラームスのヴァイオリン協奏曲で三浦は純度の高いヴァイオリンを奏でる。淀みがなく、この世の穢れと思えるものを全て払いのけた後に残った至高の精神が、音楽として姿を現したかのようである。「純度が高い」と書くと綺麗なだけの音に取られかねないが、そうした形而下の美を超越した段階が何度も訪れる。スケールも大きい。
下野指揮するN響も熟した伴奏を聴かせる。第2楽章のオーボエソロを担った首席オーボエ奏者の吉村結実(だと思われる。今日は4階席の1列目で、転落防止のための手すりが、丁度目の高さに来るということもあり、ステージ全体を見合わすことが出来ないという視覚的ハンディがある)の演奏も神々しさが感じられ、この曲の天国的一面を可憐に謳い上げる。
渋さと輝きを合わせ持つ下野指揮のN響は、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のような演奏を行える可能性を宿しているように感じられた。

 

ブラームスの交響曲第4番。ブラームス作品2作ではベートーヴェンとは違ってビブラートも盛大に用いられており、ピリオドの影響は感じられない。
下野の音楽性の高さは、苦味の中に甘さを湛えた表現を繰り出すことで明らかになっていく。感傷的だが自己憐憫には陥らない冒頭を始め、濃厚なロマンティシズムを感じさせつつ古典的造形美をきちんと踏まえた表現の的確さが印象的である。
第4楽章のシャコンヌ(パッサカリア)では、尊敬する大バッハへの憧憬を示しつつ、激流の中へと巻き込まれ、呻吟しているブラームスの自画像のようでもある。

N響の音は威力満点であるが、それに溺れることなく、バランスを保ちながら細部まで丁寧に詰めることで、濃厚にして情熱的なブラームス像が立ち上がる。

 

演奏終了後、指揮台に戻った下野は、右手の人差し指を立てて、「あともう1曲だけ」とジェスチャーで示し、「ベートーヴェンの『フィデリオ』の行進曲を演奏します。またお目にかかれますように」と語り(語尾の部分は客席からの拍手ではっきりとは聞き取れなかったので、聞こえた音に一番近い表現を記した)演奏が始まる。やはり音の輝きと堅固さが最大の特徴である。短い曲であり、あっさり終わってしまうため、下野は客席を振り返って、「終わり」と曲が終わったことを宣言して指揮台を後にした。

下野竜也はおそらく完璧主義者(師である広上淳一によると「音楽オタク」らしい)で、曲の細部に至るまでメスを入れて、表現を徹底させようとしているところがある。そのため、聴いている最中は彼が生み出す音楽の生命力に感心させられることしきりなのであるが、ほぼ全ての部分や場面を完璧に仕上げようとしているため、聞き終わった後の曲全体の印象が茫洋としてしまうところがある。余り重要でない部分を流せる技術や心情を得られるかどうか、そこが下野が今後克服すべき課題のように思われる。

ともあれ、N響と下野の力を再確認させられた演奏会であり、あるいは今後何十年にも渡って共演を重ねていくであろう同コンビの、まだまだ初期の局面に接することの出来た幸せを噛みしめたい。

 

ブラームスの交響曲第4番を聴くと、たまに村上春樹の小説『ノルウェイの森』を思い出す。主人公の「僕(ワタナベトオル)」が、この作品の二人いるヒロインの一人である直子を誘ったコンサートのメインの曲目がブラームスの交響曲第4番であった。「僕」はブラームスの交響曲第4番が「直子の好きな」曲であることを知っており、演奏会を選び、チケットも2枚取ったのだ。ブラームスが好きな女性は昔も今も珍しい。
当日、直子はコンサート会場には現れなかった。直子のいない空間で一人、ブラームスの交響曲第4番を聴くことになった「僕」の気持ちを時折想像してみる。おそらくそれはブラームスのクララ・シューマンに対する慕情に似たものであるように思われる。だからこそ村上春樹はこの曲を選んだのだ。報われぬ恋の一過程として。

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2021年3月 4日 (木)

NHKオンデマンド プレミアムシアター バイロイト音楽祭2018 クリスティアン・ティーレマン指揮 歌劇「ローエングリン」

2011年3月2日

NHKオンデマンドで、2018年のバイロイト音楽祭でのワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。7月25日、バイロイト祝祭劇場での上演と収録である。BSプレミアムシアターで放送されたものだが、NHKオンデマンドでも観ることが出来る。同一内容と思われるBlu-rayとDVDも出ているが、日本語字幕は付いていないため、ドイツ語やその他の主要外国語が分からない場合は、ディスクではなく配信で観るかプレミアムシアターを録画していたならそれで観るしかない。

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏。演出はユーヴァル・シャロン。シャロンは、「ローエングリン」をドイツ建国神話の一部ではなく、中世のフェアリーテイルと捉えており(本当かどうかは不明)、そのため、出演者は昆虫の羽根を付けている。一部、効果的な場面もあるが、いらない演出であるようにも思える。以前、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を、蝶々だというので、出演者を昆虫に見立て、それらしい衣装で出演させるという酷い演出をDVDで観たことがあるのだが(ステファノ・モンティの演出)、それを思い出した。

ティーレマンは「ローエングリン」を十八番の一つとしているが、この上演でバイロイトでのワーグナーの歌劇や楽劇全作品の指揮を成し遂げたそうである。押しの強い指揮が持ち味であり、私は苦手なタイプだが、ワーグナー指揮者としてはやはり現役最高峰であると思われる。うねるようなワーグナーの音楽を的確に音にする才能に長けている。

出演は、ゲオルク・ツェッペンフェルト(バス。ドイツ国王ハインリヒ)、ピョートル・ペチャワ(テノール。ローエングリン)、アニヤ・ハルテロス(ソプラノ。エルザ・フォン・ブラバント)、トマシュ・コニェチュニ(バリトン。フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵)、ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ。オルトルート)、エギルス・シリンス(バリトン。ハインリヒ王の伝令)ほか。

シャロンの演出は、映像や電飾の多様が特徴。セットも発電所を意識したもののようだ。ローエングリンは、雷の剣を持っているのだが、そのためか電気技師の格好をしている。そしてエルザは最後の場面ではレスキュー隊を想起させるオレンジ色の衣装ということで、原子力発電所がモチーフとなっていることが想像される。電気関連であることの分かる演出はその他の場面にも鏤められている。原発への信頼を問う演出であり、脱原発へと舵を切ったドイツらしい演出であるとも言える(ユーヴァル・シャロン自身はアメリカ人である)。勿論、日本も他人事ではない、というよりも張本人のような立場に残念ながら立ってしまっている。そして日本は原発をまだ続ける予定である。

テーマは置くとして(本来は置いてはいけないのだが)、決闘の場面では、吹き替えのキャストが宙乗りになり、中空で闘うなど、外連に富んだ演出が目立つが、どことなく歌舞伎っぽい。そして第3幕には本来ないはずの地震のシーンが加えられている。その直後に、エルザが騎士ローエングリンの正体を知ったことが表情で分かり、騎士は頭を抱える。ラストもドイツの未来を描いたものと思われるが、日本絡みのように見えなくもない。ちなみにエルザもオルトルートも死なない。

「ローエングリン」は、アリアよりも、第1幕への前奏曲と、第3幕への前奏曲が有名で、コンサートでもよくプログラムに載る人気曲目である。また、コンサートでは演奏されることは少ないが、第3幕で演奏される「婚礼の合唱」は、「結婚行進曲」としてメンデルスゾーン作品と共に、ウエディングの定番となっている。

白鳥が重要なモチーフとなっているが(今回の演出では白鳥は具体的な形では出てこない)、白鳥を表す主題は、後に書かれたチャイコフスキーの「白鳥の湖」に用いられたメロディーに酷似しており、チャイコフスキーがワーグナーの白鳥の主題をモチーフとして取り入れたことが想像される。


「ローエングリン」は、現在のベルギーに当たるブラバントのアントワープ(アントウェルペン)を舞台とした歌劇である。聖杯伝説などのドイツの神話を下敷きとしており、ワーグナーの他の歌劇や楽劇などとも関連が深い。
先の大公が亡くなり、その娘であるエルザと息子のジークフリートが行方不明となる。エルザは戻ってくるが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントで名声を得ているフリードリヒが、「継承権を奪うために、エルザがジークフリートを殺したのだ」として告発し、裁判が行われる。エルザは自己弁護は特にせず弟の境遇を嘆き始め、「夢の中で白鳥が曳く小舟に乗った騎士を見た。彼が現れる」という不思議なことを語る。そうこうしているうちに本当に夢の中で見た騎士が白鳥が曳く小舟に乗って現れる(この辺はリアリティがないが、そもそもこれはリアルな物語ではない)。ハンガリーとの戦いにそなえてブラバントにやって来ていたドイツ国王ハインリヒは、両者が決闘を行い、騎士(観客は歌劇のタイトルからその名がローエングリンであることは知っている)が勝てばエルザは無罪、フリードリヒが勝てばエルザが有罪と決める。それが神の御意志であるとする。デンマーク制圧などに貢献した傑出した武人であったフリードリヒだが、謎の騎士の前に完敗。騎士はエルザを妻に迎えることにするが、自身の正体を問うてはならないと全員に誓わせる。だが、魔女のオルトルートの話術に乗せられたエルザは騎士の正体に疑念を抱いて……というストーリーである。今回の演出では、第3幕でそれまで各国が行っていた原発広報の危険性と暴力性を問うシーンが出てくる。

なお、調べてみたところ、2017年から2018年に掛けて、新たな発電方式が話題になったことが確認出来た。あるいは最新の情報を取り入れたラストと見ることも可能であるように思われる。もっとも、ワーグナーとも「ローエングリン」とも直接関係のない演出だけに、カーテンコールで結構な数のブーイングが飛んでいることも確認出来る。

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2020年12月29日 (火)

2346月日(26) 東京芸術劇場オンライン「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦――芸術と矯正の融合を目指して――」

2020年12月21日

東京芸術劇場のオンラインイベント、「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦 ――芸術と矯正の融合を目指して――」を視聴。約3時間の長丁場である。事前申し込み制で、当初定員は先着100名であったが、申し込みが多かったため、150名に増えている。

事前に、稽古やワークショップの様子や、本番のダイジェスト映像、資料などにアクセスするURLが書かれたメールが送られて来ており、それに目を通すことで、内容がわかりやすくなるようになっている。

ドイツで刑務所の受刑者に演技指導をして上演するという活動を続けているアウフブルッフ(ドイツ語で「出発」という意味)の芸術監督で舞台美術家のホルガー・ズィルベによるレクチャーと、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」にも出演していた毛利真弓(同志社大学心理学部准教授、元官民協働刑務所民間臨床心理士)による日本の刑務所で矯正のために行われている治療共同体(Therapeutic Community。頭文字を取ってTCと呼ばれる)の活動報告、そしてホルガー・ズィルベと毛利真弓の対談「矯正教育による芸術の可能性」からなるオンラインイベントである。モデレーターは、明治大学国際日本学部教授の萩原健(専門はドイツの演劇及びパフォーマンスと日本の演劇及びパフォーマンス)。

アウフブルッフは、刑務所演劇を専門に行っている団体ではなく、フリーのプロ演劇カンパニーだそうで、1996年に結成。翌1997年から刑務所演劇に取り組みようになったという。

アウフブルッフが本拠地を置くベルリン都市州は大都市ということもあって犯罪率も高めだが、「移民が多い」「教育水準の低い人が多い」「再犯率が高い」という特徴があるそうで、刑務所演劇によって再犯率が低くなればという狙いもあったようだが、演劇を行ったことで再犯率に変化があったかどうかの立証は不可能であるため、統計も取られていないようである。
「移民で教育水準が低い」と悪条件が重なった場合はドイツ語も喋れないため、犯罪に手を出す確率は高くなることは容易に想像される。また職業訓練も上手く受けられない場合も多いようだ。そうした状態にある人に芸術でのアプローチを試みたのが、ズィルベ率いるアウフブルッフである。アウフブルッフは、ドイツの他にもロシアやチリの刑務所での上演も行っているようだ。

刑務所演劇の意義として、刑務所のマイナスイメージに歯止めをかけることが挙げられる。受刑者以外で刑務所に入ったことのある人は余り多くないため、その中やそこから出てきた人に対するイメージはとにかく悪い。ただ、刑務所で受刑者が演じる演劇を観て貰うことで、両者を隔てる壁が少しだけ低くなるような効果は生まれる。少なくとも「断固拒絶すべきスティグマ」ではなくなるようである。
1997年にドイツ最大の男性刑務所であるテーゲル司法行刑施設での、「石と肉」という作品で上演が始まり、今に到るまでベルリンの全ての刑務所で公演を行ったほか、外部プロジェクトとして元受刑者で今は社会に出ている人などをキャスティングし、プロの俳優や市民と共同で上演を行う混成アンサンブルによる上演が、博物館、裁判所、教会、ベルリンの壁記念碑の前などで行われているそうである。

ちなみに小さい刑務所の場合は上演を行うスペースがないため、代わりに演劇のワークショップなどを行っているという。

キャストであるが、刑務所側が止めた場合(暴行罪や暴力癖のある人)を除くと希望者がトレーニングを受けて本番に臨むというスタイルのようである。アウフブルッフ側は敢えて受刑者の知識は入れないようにしており、罪状なども一切知らないで稽古を進めるようだ。最初は1回4時間の稽古を4~6回行い、その先に行きたい希望者向けに計300時間ほどの稽古を行うという。刑務作業以外の自由時間は全て稽古に費やす必要がある。無断欠席を3回行った場合は脱落者と見做されるそうである。

ラップや合唱など、コーラスを使った演出も特徴で(演出は全てペーター・アタナソフが行っている)、その他にもセリフの稽古、書き方のワークショップなどが音楽の練習と並行して行われる。本番は6回から14回ほど、キャパは75人から250人までだそうである。受刑者には芸術に触れた経験も興味もない人も多いため、最初は暇つぶしのために参加したり、人から勧められて参加したりと、前向きな理由で加わる人はほとんどいないそうだが、稽古を重ねるうちに社会性が高まる人もおり、更に本番では観客からの拍手を受けるのだが、それが生まれて初めての称賛だったという人も多いそうで、「人生で初めて何かを最後までやり遂げた」と感激の表情を浮かべる受刑者もかなりの数に上るそうである。これにより自信を付け、自己肯定感を得て再犯率も減り……、だといいのだが先に書いたとおり、再犯率低下に演劇が貢献しているのかどうかまではわからないようである。
ただ、刑務所に入るまでに抱き続けていた劣等感は、仮にたった一時であったとしても振り払えるため、何らかの形での再生に繋がっている可能性は否定出来ないように思う。
稽古の終わりに、毎回、キャスト全員で反省会を行い、各々の意見を述べるのだが、これも受刑者がそれまでの人生で余りやってこなかったことであり、人間関係と他者の存在とその視点を知るという意味では有意義なように思われる。

ズィルベによると犯罪者はいずれ社会復帰することになるため、社会の側も刑務所演劇を観ることで受刑者に対する新たな見方を得て彼らを受け入れるための準備をすることが出来る。そうした意味での刑務所演劇の可能性も語られた。

 

毛利真弓による刑務所の報告。「プリズン・サークル」の舞台となった島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の刑務所で臨床心理士をしていた毛利だが、島根あさひ社会復帰促進センターでTCを受けた人の再犯率は9.5%と、TCを受けていない人達の19.6%より優位に低かったそうである。
日本の刑務所は、あくまで収監し、懲役を行うのが主目的で、社会復帰のための教育は遅れているのが現状であり、職業訓練などはあるが、再犯防止のための教育策は基本、取られてこなかった。それでも2006年から少しだけ風向きが変わっているという。

島根あさひ社会復帰促進センターでは、アミティという海外で考え出されたプログラムを使い、イメージトレーニングや加害者と被害者を一人二役で演じる自己内対話を経て他者の視点を得る訓練、また受刑者が受刑者に教えるというシステムもあり、他者と接する機会を多く設けている。これまでの日本の刑務所は他者と触れ合うこと自体が禁じられていることも多かったため、画期的なことであったといえる。

島根あさひ社会復帰促進センターは、初犯の男性受刑者のみが収監されるが、それまでの人生で他者と向き合う機会がほとんどなかったという人も少なくなく、「他者を通して自己と向き合う」「生身の人間のリアルに触れる」ことを目標としたトレーニングが組まれているようである。

ホルガー・ズィルベが島根あさひ社会復帰促進センターの情報を得て、「社会と繋がっていないように感じる」と述べたが、やはり日本の場合、受刑者が社会と直接的な繋がりを持つのは難しいだろう。刑務所演劇の場合は、目の前で受刑者が演技を行い、終演後に観客と受刑者が会話を交わすことも許されているようだが、日本の場合は受刑者という存在に対するスティグマがかなり強いため、少なくともドイツと同様というわけにはいかないように思う。

「犯罪の加害者と上演をしているが、被害者とはどうなんだ?」という視聴者からの質問が来ていたが、被害者とは接点が持てないそうで、まず被害者同士で纏まるということもなく、接触も禁じられているため、手を打とうにも打てないようである。加害者が出演している芝居を観た被害者から一度連絡が来たことがあったそうだが、その一例だけのようである。

刑務所演劇も稽古や上演に到るまで、何ヶ月にも渡って行政と話し合いを持ったそうだが、最終的には「やってやる!」というズィルベの意志が勝ったそうで、毛利も「日本では(刑務所演劇は)難しい」ということを認めながら、「違いを超える」必要性を説いていた。

折しも、日本では第九の季節である。シラーとベートーヴェンが唱えたように「引き裂かれていたものが再び結び合わされる」力にもし演劇がなれるとしたのなら、それに携わる者としてはこの上ない喜びである。

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2020年8月 2日 (日)

これまでに観た映画より(194) ヴィム・ヴェンダース監督作品「東京画」

2005年8月9日

ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー映画「東京画」をビデオで観る。敬愛する小津安二郎監督が描く東京への憧憬からこの街にやって来たヴェンダース監督の目に映る1983年の東京の風景が切り取られている。冒頭とラストは小津監督の「東京物語」のそれをそのまま用いている。

ヴェンダース監督が興味を持つ対象はパチンコ店や、飲食店の前のショーケースに並ぶ定食のサンプルを作る工場など。特にサンプル工場のシーンは見ているこちらが奇妙に感じるほど長い。
ゴルフの打ちっ放しに対する見方は誤解だらけで、おもわず「それは違うだろう」と突っ込みたくなる。

ヴェンダースは東京ディズニーランドに行こうとしたが、「アメリカのコピーだと思うと急に興味が冷めて」引き返してしまう。そして、「アメリカの影響を受けた若者達を見た」として紹介されるのが、当時、原宿に出没していた竹の子族。この辺りは作為を感じてしまって余り面白くない。竹の子族だけで当時の東京を語らないで欲しい。

1983年の東京の風景を見たい人にはやや物足りない作品である。しかし小津安二郎の映画が好きな人は絶対観た方がいい映画だ。
笠智衆や、小津の下で撮影監督を務めた厚田雄春らのインタビューが収められているためで、これを観ると小津という男が俳優やスタッフからいかに敬愛され、神のように崇拝されていたかがわかる。小津の思い出を語っていた厚田が突然、感極まって泣き出してしまうのも印象的。

小津安二郎とは改めて偉大な映画監督、いやそれ以前に偉大な人間だったのだと確認することが出来る。

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2020年1月19日 (日)

観劇感想精選(338) 草彅剛主演「アルトゥロ・ウイの興隆」

2020年1月13日 横浜・山下町のKAAT 神奈川芸術劇場にて観劇

午後2時から、KAAT 神奈川芸術劇場で、「アルトゥロ・ウイの興隆」を観る。ベルトルト・ブレヒトが1941年にアメリカの地で書き上げた戯曲。当時、ブレヒトはナチスの台頭したドイツから亡命し、西欧やアメリカを転々とする生活を送っていた。アドルフ・ヒトラーやナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)がバリバリの現役だった時代に揶揄と告発を展開しており、チャップリンの「独裁者」と並んでファシズム興隆期にリアルタイムで語られた貴重な記録である。もっとも、チャップリンの「独裁者」は戦中に上映されているが、「アルトゥロ・ウイの興隆」は危険視されたため上演は延び延びになり、1958年になってようやくアメリカ初演に漕ぎ着けている。だが、危険視されたという事実自体がブレヒトのナチスとヒトラーに対する極めて正確にして的確な分析を物語っている。先日、兵庫県立芸術文化センターで永井愛作・演出の「私たちは何も知らない」を観ているが、「アルトゥロ・ウイの興隆」もまた恐怖演劇の先駆ともいうべき作品である。

「アルトゥロ・ウイの興隆」は残念ながら横浜だけでの上演である。横浜での上演なら普通は諦めるところだが、昨年、大阪・周防町のウイングフィールドで「アルトゥロ・ウイの興隆」に関する勉強会のようなものに参加しており、更に今回、アルトゥロ・ウイを演じるのが私と同い年である草彅剛ということで、チケットの先行予約に申し込み、取ることが出来たため、出掛けることにした。新しい地図のメンバーの出演作は人気で、チケットはなかなか取れなかっただけに、今回はついていた。

作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、演出はKAAT 神奈川芸術劇場芸術監督でもある白井晃。出演は、草彅剛、松尾諭、渡部豪太、中山祐一郎、細見大輔、粟野史浩、関秀人、有川マコト、深沢敦、那須佐夜子、春海四方、小川ゲン、古木将也、小椋毅、チョウヨンホ、林浩太郎、神保悟志、小林勝也、古谷一行。
演奏は、オーサカ=モノレール。

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KAAT(KAnagawa Art Theatre)神奈川芸術劇場に来るのは初めてである。NHK横浜放送局の庁舎内5階にホールがあり、エスカレーターとエレベーターで繋がっているが、帰りは混雑するし、危険な印象も受ける。池袋の東京芸術劇場と同じような感じである。内装は渋谷のオーチャードホールに少し似ているかも知れない。今日は右側サイド席(バルコニー席)の1列目であったが、通路はかなり狭い。中央の座席は足元にまだ余裕があるが、サイド席はそうではない。ただ、サイド席であったため、開演直前に白井晃が客席後方の扉から入ってきて、関係者席に着くのを確認することが出来た。今日の客層は圧倒的に元を含めたジャニーズファンの女性が多いため、白井晃に注目していた人はほぼ皆無。白井さんは上演終了後もしばらく座席に残って隣のスタッフの女性と話していたが、すぐ横を通り過ぎても白井さんに気づく人はいなかった。男性客はブレヒト好きが多かったと思われるが、今日は男性客自体が超少数派である。

客層を予想していたからというわけでもないだろうが、今日は要所要所で上から黒いスクリーンが下りてきて、これがナチスの歴史の何と繋がるかが白い文字で投影されるという、ブレヒトの原案通りの解体した形での上演である。そもそもヒトラーの劇だと知らないで来た人も結構いたと思われる。

舞台は1920年代のシカゴに置き換えられている。禁酒法が施行され、ジャズエイジとも呼ばれたアメリカ青春の時代であるが、同時にシカゴではアル・カポネ(この劇でも名前だけ登場する)が酒の密輸や密造で財産を築くなど、裏社会の人間が暗躍した時期でもある。

シカゴのカリフラワーのトラストは勢力拡大と資金獲得のため、シカゴ市議会議員のドッグズバロー(古谷一行)を買収する計画を立てる。ドッグズバローはシート水運の食堂の主から転身して見事議員に当選した人物であり、「正直者」「清廉潔白」の噂があるが、シート水運の株の半分以上を譲渡し、シート水運の実質的な経営者になる話を持ちかけるとこれに乗ってくる。更にカリフラワー協会からは別宅も譲り受けたドッグズバローだったが、これには後に激しく後悔することになる。トラストは港湾工事の名目による公金を手に入れる。

シカゴの弱小ギャング団のボスであるアルトゥロ・ウイ(草彅剛)もシカゴの街を手に入れるため、八百屋に「用心棒をする」と言ってみかじめ料を取ったりしていたが、更なる権力獲得のためにカリフラワートラストに取り入ろうとするも難航していた。そんな中、ドッグズバローがトラストに便宜を図ることで収賄を行っている証拠を手に入れる。かくて、恐喝によってドッグズバローから権力を譲渡されたウイは、部下のエルネスト・ローマ(後に「長いナイフの夜事件」で粛正されることになるエルンスト・レームに相当。演じるのは松尾諭)、ジュゼッペ・ジヴォラ(ヨーゼフ・ゲッペルスに相当し、ゲッペルス同様、足を引きずって歩く。演じるのは渡部豪太)、マヌエル・ジーリ(ヘルマン・ゲーリングに相当。演じるのは粟野史浩)らと共にシカゴの街を掌握し、更に隣接するシセロの街(オーストリアのメタファー)をも手中に収めようとしていた……。

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赤の仮設プロセニアム、更に舞台の上に同じく赤い色のステージがあり、ここで演奏と歌が行われる。アルトゥロ・ウイとその部下達は赤いスーツを着ている。3人の女性ダンサー(Ruu、Nami Monroe、FUMI)も赤の衣装だ。ドッグズバロー(パウル・フォン・ヒンデルブルク大統領に相当)やカリフラワートラスト(ユンカーと呼ばれるドイツの地方貴族達がモデルである。「貴公子」に由来する「ユンカー」という言葉には馴染みがない人でも、別の読み方である「ユンケル」なら意味は知らなくても言葉自体は目にしたり耳にしたりしたことは確実にあるはずである)のメンバーは他の色の衣装であるが、ある時を境に、赤の衣装へと切り替わる。

客席ステージをフルに使った演出であるが、民衆役の俳優も客席にいる時に上着を脱ぎ、下に来ていた赤い背広を露わにする。草彅剛も何度も客席通路に降りるが、ラストの演説の前では客席上手入り口から登場し、客席通路を通ってステージに上がる。ナンバー2にのし上がったジヴォラもその少し前に同じ様に客席下手入り口から登場してステージに上がっており、流石は白井晃、よくわかっている演出である。

ジェームス・ブラウンの曲が草彅やオーサカ=モノレールのヴォーカルである中田亮によって次々に歌われ(1曲目から「ゲロッパ!」でお馴染みの「セックス・マシーン」で聴き手の心を鷲掴みにする)、アメリカンソウルが高揚して客席も熱狂するが(ナチス時代ならワーグナーやベートーヴェンが流れるであろう)、それが凄惨な悪夢へと転じていく様が鮮やかである。アルトゥロ・ウイの一党が着ている赤いスーツはナチスのハーケンクロイツの旗に用いられていた赤が由来だと思われるが、同時に流血をイメージする色でもある。あるいはKAATの座席の色だったり「朱に交われば」という言葉も掛かっているのか知れないが、全ての登場人物の衣装が赤に変わっていく過程は、フランク・パヴロフとヴィンセント・ギャロの『茶色の朝』を想起させる。白井晃なら当然、『茶色の朝』ぐらいは知っているだろうし、意識したとしても当然のように思われる。

SMAPのメンバーの中で、演技力ならナンバーワンだと思われる草彅剛。芝居の開始当初はセリフのノリが今ひとつに感じられたが、これはシェイクスピア俳優(小林勝也)から「ジュリアス・シーザー」の一節を用いた演技指導を受けて以降のアルトゥロ・ウイと対比させるために敢えて抑えていた可能性もある。第2幕冒頭では、「横浜KAATでアルトゥロ・ウイ!」を連呼して客席に熱狂と一体感を呼び起こし、終盤に至るとアルトゥロ・ウイの狂気を爆発させて、燃えさかる紅蓮の炎のような激しさで見る物を引きずり込んでいく。シェイクスピア俳優が演技指導をするということで、ブレヒトもシェイクスピアの「リチャード三世」を意識していたのかも知れないが(実際に亡霊が主人公を苛むというシーンがある)、アルトゥロ・ウイもリチャード三世同様、実に魅力的で危うく、草彅剛は自らの風貌を生かした狡猾にして人を惹きつける男を舞台上に現出させる。
「リチャード三世」と違ってリッチモンドは登場しないが、それはまだヒトラー政権が続いていた時代に書かれたものであるためで、ブレヒトはたやすく救済を用意したりはしない。ただ、ラストで告発は行われている。現に今起こっていることに対する告発である。音楽の高揚感の中での告発であり、その後の沈黙が強烈に響くことになった。

 

終演後、KAATの外に出た時、向かいのビルにアルトゥロ・ウイの亡霊がいるのを発見する。KAATの外壁にはアルトゥロ・ウイを演じる草彅剛の巨大パネルが掲げられていたのだが、それが向かいのビルの窓に写っていたのである。

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2019年12月 6日 (金)

2346月日(19) 「カルチャートーク Creator@Kamogawa」 第1部「場所の記憶」&第2部「ラ・長い息」 2019.11.30

2019年11月30日 荒神橋のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川にて

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で午後3時から「カルチャートーク Creator@Kamogawa」を聴くことする。
始まる前にゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川内にあるカフェ・ミュラーで食事。本格的な食事は2種類だけで、鳥料理のものを選ぶ。

 

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川での「カルチャートーク Creator@Kamogawa」は1階のホール(ザール)での開催。ドイツの建築家・美術家であるミヒャエル・ヒルシュビヒラーと宗教人類学者の植島啓司の対談による第1部「場所の記憶」と、ドイツの美術家であるレニ・ホフマンと美術家の今井祝雄(いまい・のりお)との対談である第2部「ラ・長い息」の二本立てである。いずれも司会進行役は小崎哲哉が務める。イヤホン付きの機械を使うことで日独同時通訳音声を聞くことが出来る。

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第1部「場所の記憶」。ミヒャエル・ヒルシュビヒラーは、1983年生まれ。哲学と建築をベルリンとチューリッヒで学び、現在はミュンヘンとチューリッヒを拠点に美術と建築の境界領域で活動。パプアニューギニアでの調査や教育活動も行っている。

ヒルシュビヒラーは、「ナラティブな考古学」と称した調査探索をパプアニューギニアで行っており、パプアニューギニアに伝わる怪談話や口語伝承を現地の人から聞き取っているそうである。
また、アゼルバイジャンの首都バクーの油田では、石油を使って絵を描き、組み上げポンプの音を録音して音楽を作るという試みも行っている。実は、石油を使って絵を描いている時に、立ち入り禁止のところに入ってしまって逮捕されたこともあるそうだ。
石油で描いた絵をギャラリー内に再現するということも行っているそうだが、これらをアゼルバイジャンの外に持ち出すのは許可がいり、下りていないため、ヨーロッパでの再現はまだ果たされていないそうである。おそらくバクー市内のギャラリーでの再現に留まっているのだろう。

一方の植島啓司は、1947年東京生まれ。東京大学と同大学院博士課程修了。ニューヨーク・ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授などを歴任し、現在は京都造形芸術大学空間演出デザイン学科教授を務めている。熊野の民俗学や聖地の研究などを行っている。

植島は「聖地は自然発生的に出来るもので、個人が聖地を作り出すことは出来ない」と主張しており、全く反対の考え方をしている荒川修作と共に聖地調査を行ったこともあるそうだ。
植島は、世界的な聖地としてアルメニアに注目しているという。アルメニアのアララト山は、エデンの園のモデルとなったところだそうで、またアルメニア国内にはノアの箱舟伝説の最初期の形態が残っているという。
熊野に伝わる小栗判官の話などもする。地獄に落とされた小栗判官が蘇るという物語だが、このように非業の死を遂げた人を神様として祀るという習慣が日本にはある。京都での例として北野天満宮が挙げられていたが、京都にはそれ以外にも上御霊神社、下御霊神社、白峯神宮、崇道神社など、怨霊を神様として味方にするという風習がある。これは世界的に見ても珍しい習慣であることは間違いない。小崎によると、他の国では地獄に落ちた人が罰せられるという救いのない話になることが多いそうだ。ヒルシュビヒラーによると、パプアニューギニアにもそんな話はないそうである。パプアニューギニアに伝わるナラティブには、例えば、母親が留守の時に父親が息子を殺してバラバラにし、庭に撒くと草木や花が生えてきて、戻ってきた母親がそれを見て喜ぶという、論理も倫理道徳もない不思議な話が多いそうである。

ヒルシュビヒラーも、「個人で聖地を作ることは出来ない」という植島の意見には賛成するが、「聖地から影響を受けて新たなものを作り出すことは可能」という考えを持っているそうだ。京都に来て、様々な妖怪の話や怪談を集めて回っているが、文学からのアプローチでは、まず日本の古典を読むことを始めたそうで、上田秋成の『雨月物語』を読むことにした。それもドイツ語訳されたものではなく、日本語の文章をGoogle翻訳機にかけたもので読もうとしたそうだが、翻訳機能がまだ正確ではないので、わけのわからないものになったそうだ。ただその滅茶苦茶さが面白いという。これはパプアニューギニアで採取した物語のわけのわからなさにも繋がっているのだろう。
京都について、ヒルシュビヒラーは、「古いものと新しいものがこれほど渾然一体となっている都市は世界中を探しても存在しない」ということで、京都という場所の歴史的重層性を芸術作品にしようと、妖怪が描かれた絵巻物を、幽霊が出るという噂のあるトンネルの中に置き、一晩寝かせた状態のものを作品とするという試みなどを紹介する。トンネルというのは近年になってから出来たもので、絵巻物の上にはタイヤの跡などがついているが、自動車も古くからあったものではない。時代の異なるものが合わさったものを重層性のある芸術作品として捉えるというあり方である。

植島は曼荼羅が土地の代わりになるという日本の考え方を紹介する。これもある意味、土地が芸術作品を生み出す例と見ることも出来る。また記号の中に物語が展開される例があるとして、中央オーストラリアのワルビリ族のイコノグラフィーを紹介する。不思議な絵のようなものが並んでいるが、全てに意味があるそうで、見て感じる物語のようなものとなっているようである。また、蛇の物語が最初に置かれているのだが、この蛇の物語は世界中の至る所で見られるそうで、例としてメソポタミアの英雄マルドゥクと大地の精霊ティアマトの絵が資料に印刷されていたが、考えてみればエデンの園の物語で悪役となっているのは蛇であり、日本でも箸墓伝説など蛇が重要な役割を果たすものは枚挙にいとまがない。

あるいは、聖なる意識というものは人類の奥底で繋がっていて、それが特別な場所や手段を経て、人類の意識上において再結合するものなのかも知れない。

 

第2部「ラ・長い息」。タイトルは、レニ・ホフマンが決めたそうだが、ドイツ語で「LA LANGER」という語感で決めたそうである。レニ・ホフマンは、自らを「アナーキスト」と語っており、前衛芸術を生み出す人であるようだ。

レニ・ホフマンは、1962年生まれ。デュッセルドルフとカールスルーエを拠点に、サイトスペシフィック(場所に帰属する芸術)な創作活動を行っているそうである。2002年よりカールスルーエ芸術アカデミーの教授を務めている。レニ・ホフマンの芸術を捉えるには「パンク」や「遊び」が重要なワードとなるようだ。

対談相手の今井祝雄は、1946年生まれ。1965年に吉原治良が率いる具体美術協会の最年少会員となる。その後、大津市にある成安造形大学教授を経て現在は同大学の名誉教授の称号を得ている。
具体美術協会では、展覧会に出展する作品などは全て吉原治良が選定していたそうだが、評価に関しては「ええで」か「あかん」の二つだけだったそうで、「ええで」と言われた時はいいが、「あかん」と言われたときは理由がわからず、悶々とすることもあったという。自分が教育者や選定者として活動する立場となった時は、流石に「ええで」と「あかん」の二つで決めるというわけにはいかず、駄目なときでもその理由を説明するようにはしているそうである。
吉原には、「これまでにないものを作れ」と何度も言われたそうで、それが作家としての指針となってきたようだ。ただ小崎によると現代芸術は新しいものを求める一方で、その根拠や歴史的な文脈を求めるところがあるそうで、真逆のことをやらねばならない難しさがあるようである。

レニ・ホフマンは、サイトスペシフィックとはいうが、デジタルな思考として「昨日」「今日」「明日」が一度に見えるような作品を指向するなど、重層性ということに関してはヒルシュビヒラーと繋がる部分があるように感じられる。
レニ・ホフマンの芸術観は、日本の観念だと「無常」と相性が良く、その日、その場所、その人でなければ味わえないアートを理想としているようである。第2部開始前に聴衆全員に粘土をこねたボールが配られたが、粘土は誰でも手軽に形を変えることの出来る芸術という意味があるようだった。私も色々と押しつぶして形を変えてみた。結局のところありきたりの形にしかならなかったわけだが。他の人も色々と試していたが、飛び抜けて創造的な作品を作ることは難しいようだった。

ある意味、「個」としての体験を重要な芸術感覚と捉えているようで、第2部終了後、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の裏庭に設けられたレニの作品を皆で鑑賞したのだが、様々な角度を向いたミラーに人々が映り込むことで、1回きりの芸術体験が出来るようなものであった。1回きりではあるがそれは瞬間瞬間においてはということで、形を変え続ける作品をずっと見続けることは出来る。ただ、写真とは相性は悪く、私もスマホで何枚か撮影したが、「写真には写らない美しさがある」作品だと確認した。

レニは芸術の幅を広げることを重要視してるようだが、今井によるとメンターの問題として美術系芸術系大学が増えて、売り出し方までも教えるようになった結果、アカデミズムから抜け出ることが難しくなっているという。
都市芸術にも話は及ぶ。都市芸術というと、私などは名古屋市立美術館で観たハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川源平、中西夏彦による前衛芸術グループ。東京の路上で過激なパフォーマンスを行うことで都市における芸術を提唱した)を思い浮かべるが、今井も御堂筋の3階建てのビルの最上階のネオンを使った都市芸術作品を作ったことがあるそうである。レニも都市は市民にとって重要な表現の場という考えを抱いているようであった。

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