カテゴリー「ドイツ」の45件の記事

2025年3月15日 (土)

コンサートの記(895) 京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2025年2月17日 京都市立芸術大学・堀場信吉記念ホールにて

京都市立芸術大学崇仁新キャンパス A棟3階にある堀場信吉記念ホールで、京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。堀場信吉記念ホールで行われる初のオペラ公演である。「ドン・ジョヴァンニ」が京都市の姉妹都市であるプラハで初演され、大成功したことからこの演目が選ばれたようだ。

日本最古の公立絵画専門学校を前身とする京都市立芸術大学。京都市内を何度も移転している。美術学部は京都御苑内から左京区吉田の地を経て東山区今熊野にあり、京都市立音楽短期大学は左京区出雲路で誕生して左京区聖護院にあったが、京都市立音楽短期大学は京都市立芸術大学の音楽学部に昇格。その後、美術学部、音楽学部共に西京区大枝沓掛という街外れに移転した(沓掛キャンパス)。当時は近くに洛西ニュータウンが広がり、京都市営地下鉄の延伸で一帯が栄えると予想されていたのだが、地下鉄の延伸計画が白紙に戻り、ニュータウンも転出超過で、寂しい場所となっていった。美術学部は、自然豊かな方が風景画の題材が豊富ということで、多摩美や武蔵美などの例を挙げるまでもなく、郊外にあった方が有利な点もあるのだが(上野の東京芸術大学など、開けた街にある場合もあるが)、音楽学部は、例えば学内公演を行おうとした際、交通が不便な場合、よっぽど親しい人でない限り聴きに来てくれない。沓掛キャンパスはバスしか交通手段がなかったため、とにかく人が呼べないのがネックだった。だが、新しいキャンパスは京阪七条駅からもJR京都駅からも徒歩圏内であり(両方の駅の丁度中間地点にある)、集客の心配はしないで済むようになったと思われる。

堀部信吉記念ホールに名を冠する堀部信吉(ほりべ・しんきち)は、京都帝国大学出身の物理学者であり、京都では名の知れた企業である堀部製作所の創業者、堀部雅夫の父親でもあるのだが、京都市立音楽短期大学の初代学長であった。

移転した京都市立芸術大学のキャンパスであるが、敷地がそれほど広くないということもあって、完全なビルキャンパスである。京都市内が建物の高さ規制があるのでビルというほどの高さもない建物によって形成されている。庭のようなスペースがほとんどないため、専門学校の校舎のようでもあり、大学のキャンパスと聞いて思い浮かべるような広大な敷地とお洒落な建物を期待する人には合わないような気がする。周囲には自然はないので、美術学部の学生は東山などに写生に出掛ける必要があるだろう。幸い、遠くはない。

堀部信吉記念ホールであるが、敷地が余り広くないところに建てたということもあってか、客席がかなりの急傾斜である。これまで入ったことのあるホールの中で客席の傾斜が最もきついホールと見て間違いないだろう。そのため、天上の高さはある程度あるが、客席の奥行きはそれほどなく、全ての席に音が届きやすくなっている。音響設計などは十分いされているようには思えないが、音に不満を持つ人は余りいないだろう。一方、そのために犠牲になっている部分もあり、ホワイエが狭く、また興行用のホールではなく、あくまでも大学の講堂メインで建てられているため、トイレが少なく、休憩時間には長蛇の列が出来る。使い勝手が良いホールとは言えないようである(その後、解決法が考案されたようである)。外部貸し出しについてだが、ロームシアター京都や京都コンサートホールがあるのに、わざわざ堀部信吉記念ホールを借りたいという団体がそう多いとも思えないため、基本的には京都市立芸術大学専属ホールとして機能していくものと思われる。

 

今回のモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、タイトル通り、京都市立芸術大学大学院声楽専攻の学生の発表の場をして設けられたものである。おそらく声楽専攻の全学生が出演すると思われるのだが、役が足りないため、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは3人が交代で演じるという荒技が用いられていた。逆に男声歌手は数が足りないので、客演の歌手が3名招かれている。基本的に修士課程在学者が出演。博士課程1回生で騎士長役の大西凌は客演扱いとなっている。アンサンブルキャストは大学院声楽専攻の学生では数が足りないので、全員、学部の学生である。
オーケストラも京都市立芸術大学の在学生によって組織されているが、学部と修士学生の混成団体である。中には客演の人もいるが、どういう経緯で客演の話が回ってきたのかは不明である。
レチタティーボを支えるチェンバロは、学生ではなく、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師の越知晴子が務めている。

スタッフには指導教員の名前も記されているのだが、阪哲朗の名が目を引く。

今回の指揮者は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの指揮者として知られる大川修司。京都市立芸術大学非常勤講師でもある。

演出は、久恒秀典。国際基督教大学で西洋音楽史を専攻し、東宝演劇部を経て1994年にイタリア政府奨学生としてボローニャ大学、ヴェネツィア大学、マルチェッロ音楽院でオペラについて学び、ヴェネト州ゴルドーニ劇場演劇学校でディプロマを取得。同劇場やフェニーチェ劇場、ミラノ・カルカノ劇場などの公演に参加。2004年にも文化庁芸術家在外研究員に選ばれている。
現在は、新国立劇場オペラ研究所、東京藝術大学、東京音楽大学、京都市立芸術大学の非常勤講師を務める。

バロックティンパニを使用しており、ピリオドを意識した演奏であるが、弦楽はビブラートを控えめにしているのが確認出来たものの、「ザ・ピリオド」という音色にはなっておらず、演奏スタイルの違いにはそれほどこだわっていないように感じられた。
冒頭の序曲にもおどろおどろしさは余り感じられず、音楽による心理描写よりも音そのものの響きを重視したような演奏。個人的にはもっとドラマティックなものが好きであるが、これが普段は声楽の指揮者である大川のスタイルであり、限界なのかも知れない。

 

公立大学による公演で、セットにお金は余り掛けられないという事情もあると思われるが、舞台装置は比較的簡素で、照明なども大仰になりすぎるなど、余り効果的とはいえないようである。騎士長の顔色については、明らかに色をなくしていると歌っているはずだが、衝撃度を増すための赤い照明を使ったため、歌詞の意味が分かりにくくなっていた。

この芝居は、ドン・ジョヴァンニがドンナ・アンナを強姦しようとしたところから始まるのだが、ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナが初めて舞台に現れた時は、二人は離れており、たまたまドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニを見つけて腕を掴むという展開になっていたが、おそらくだが、ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニはもっと近くにいたはずである。でないと、自分を犯そうとした人物がドン・ジョヴァンニだと分からないはずだからである。細かいことだが、理屈が通らないところは気になる。

女たらしのドン・ジョヴァンニ。ドンナ・アンナに関しては力尽くであったが、それ以外は魅力でベッドに持ち込んだらしいことがエルヴィーラの話によって分かる。ドン・ジョヴァンニに捨てられ、精神のバランスを崩したエルヴィーラ。復讐のためにドン・ジョヴァンニを追っているが、再び彼に魅せられることになる。エルヴィーラだけが特別なのではなく、基本的にはドン・ジョヴァンニは、少なくとも表面上は紳士的に振る舞い、優しいのであろう。ドン・ジョヴァンニは博愛の精神を信奉しており、スカートをはいている人物なら、老いも若きも、美醜も一切差別しないという人物である。男が女装している場合はどうなのか分からないが(歴史的には男性の一番の魅力が脚線美であり、男がスカートをはく文化を持つ時代なども存在した)。やっていることは外道でも、それ自体が100%悪とも断言は出来ない。騎士長殺しは別として。
一方で、ドン・ジョヴァンニが憎まれるのは、「愛する愛する」言っておきながら、相手からの愛を一向に受け入れないからではないのか。エルヴィーラに対する態度を見るとそんな気がしてならない。一方的な愛など罪以外のなにものでもない。というわけで地獄落ちも納得である。

まだ若い大学院生による演技と歌唱であるが、難関をくぐり抜けてきた実力者であるためか、プロと比べず、純粋に作品の登場人物として見れば、十分にリアルな存在として舞台上に立つことが出来ていたように思う。ただ、現時点では、「オペラ歌手はあくまで歌手なのだから、どんな場面でも歌う体勢を優先させるのが基本」であるが、今後はもっと舞台俳優の演技に近づいていきそうな予感もある。例えば、オペラ歌手と舞台俳優が「共演しよう」となった時に、オペラ歌手が舞台俳優のようなナチュラルな演技が出来ないため浮くという可能性も考えられる。それでも「オペラ歌手はオペラ歌手」で行くのか、「ミュージカル俳優は舞台俳優と遜色ない演技が出来るのだから」オペラ歌手にも相当のものが求められるのか。これは日本語のオペラが増えてきたために明らかになった問題でもある。

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2025年3月 8日 (土)

コンサートの記(894) アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)&坂本龍一 「insen」2006@大阪厚生年金会館芸術ホール

2006年10月25日 新町の大阪厚生年金会館芸術ホールにて

大阪へ。午後7時から、新町にある大阪厚生年金会館芸術ホール(2025年時点では現存せず)で、ドイツの映像作家・電子音楽家のアルヴァ・ノトことカールステン・ニコライと坂本龍一のセッション「insen」を鑑賞。アルヴァ・ノトのコンピューターが作る和音に坂本龍一がピアノで即興的に音楽をつけていくという試み。すでに同名アルバムのレコーディングは終了していて、即興といってもある程度のフォルムは出来ているようだ。

開演20分ほど前から下手袖に白髪に黒服の男性がそっと現れ、会場の様子を窺ってはスッと消えていくというのが何度か見られた。坂本龍一である。即興によるセッションということもあり、客の入りが気になるのだろうか。

坂本が心配するまでもなく客席は満員。大きな拍手に迎えられて坂本とアルヴァ・ノトが登場する。 

坂本のピアノにはセンサーが取り付けられており、坂本が音を出す毎にバックモニターに光や映像が現れたり変化したりする仕組みになっている。ピアノの蓋は取り払われていて、坂本はピアノの弦をメスのような金属片で奏でたりノイズを出したりという特殊奏法を見せたりもした。
アルヴァ・ノトの作るノイジーな不協和音に坂本のリリカルなピアノが絡む。音楽によって変化する映像も興味深いが、目に悪そうでもある。 

ラストの曲はコンピューターノイズに「戦場のメリークリスマス」のメロディーをピアノで乗せるというもの。客席からは大きな拍手。 

基本的には実験音楽であり、音楽の面白さよりは可能性を追求したものだが、たまにはこうしたライヴも楽しい。 

坂本はアンコールには余り乗り気ではなかったようだが、アルヴァ・ノトことニコライが「もっとやろうよ」という風に促したので、特別に演奏が行われる。予定外だったので映像はなし。音のみのアンコールとなった。

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2025年2月 7日 (金)

コンサートの記(885) びわ湖ホール オペラへの招待 クルト・ヴァイル作曲「三文オペラ」2025

2025年1月26日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 クルト・ヴァイル作曲「三文オペラ」を観る。ジョン・ゲイの戯曲「ベガーズ・オペラ(乞食オペラ)」をベルトルト・ブレヒトがリライトした作品で、ブレヒトの代表作となっている。ブレヒトは東ベルリンを拠点に活動した人だが、「三文オペラ」の舞台は原作通り、ロンドンのソーホーとなっている。

セリフの多い「三文オペラ」が純粋なオペラに含まれるのかどうかは疑問だが(ジャンル的には音楽劇に一番近いような気がする)、「マック・ザ・ナイフ」などのスタンダードナンバーがあり、クラシックの音楽家達が上演するということで、オペラと見ても良いのだろう。
ちなみに有名俳優が多数出演するミュージカル版は、白井晃演出のもの(兵庫県立芸術文化センター阪急中ホール)と宮本亞門演出のもの(今はなき大阪厚生年金会館芸術ホール)の2つを観ている。

実は私が初めて買ったオペラのCDが「三文オペラ」である。高校生の時だった。ジョン・マウチュリ(当時の表記は、ジョン・モーセリ)の指揮、RIASベルリン・シンフォニエッタの演奏、ウテ・レンパーほかの歌唱。当時かなり話題になっており、CD1枚きりで、オペラのCDとしては安いので購入したのだが、高校生が理解出来る内容ではなかった。

 

栗山晶良が生前に手掛けたオペラ演出を復元するプロジェクトの中の1本。演出:栗山晶良、再演演出:奥野浩子となっている。

振付は、小井戸秀宅。

 

園田隆一郎指揮ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団の演奏。今日は前から2列目での鑑賞だったので、オーケストラの音が生々しく聞こえる。オルガン(シンセサイザーを使用)やバンドネオンなど様々な楽器を使用した独特の響き。

出演はWキャストで、今日は、市川敏雅(メッキー・メッサー)、西田昂平(にしだ・こうへい。ピーチャム)、山内由香(やまうち・ゆか。ピーチャム夫人)、高田瑞希(たかだ・みずき。ポリー)、有ヶ谷友輝(ありがや・ともき。ブラウン)、小林由佳(ルーシー)、岩石智華子(ジェニー)、林隆史(はやし・たかし。大道歌手/キンボール牧師)、有本康人(フィルチ)、島影聖人(しまかげ・きよひと)、五島真澄(男性)、谷口耕平、奥本凱哉(おくもと・ときや)、古屋彰久、藤村江李子、白根亜紀、栗原未知、溝越美詩(みぞこし・みう)、上木愛李(うえき・あいり)。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが基本である。
オーケストラピットの下手端に橋状になった部分があり、ここを渡って客席通路に出入り出来るようになっている。有効に利用された。

ロンドンの乞食ビジネスを束ねているピーチャム(今回は左利き。演じる西田昂平が左利きなのだと思われる)。いわゆる悪徳業者であるが、悪党の親玉であるメッキー・メッサーが自身の娘であるポリーと結婚しようとしていることを知る。メッキー・メッサーは、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)の警視総監ブラウンと懇意であり、そのために逮捕されないのだが、ピーチャムは娘を取り戻すためにブラウンにメッサーとの関係を知っていることを明かして脅す。
追われる身となったメッセーは、部下達に別れを告げ、ロンドンから出ることにするが、娼館に立ち寄った際に逮捕されてしまう。牢獄の横でメッサーに面会に来たポリーとブラウンの娘ルーシーは口論に。その後、上手く逃げおおせたメッサーであるが、再び逮捕されて投獄。遂には絞首刑になることが決まるのだが……。

クルト・ヴァイル(ワイル)は、いかにも20世紀初頭を思わせるようなジャンルごちゃ混ぜ風の音楽を書く人だが、「マック・ザ・ナイフ(殺しのナイフ)」はジャズのスタンダードナンバーにもなっていて有名である。今回の上演でもエピローグ部分も含めて計4度歌われる。エピローグ的な歌唱では、びわ湖ホールを宣伝する歌詞も特別に含まれていた。
また「海賊ジェニーの歌」も比較的有名である。

ブレヒトというと、「異化効果」といって、観客が登場人物に共感や没入をするのではなく、突き放して見るよう仕向ける作劇法を取っていることで知られるが、今回は特別に「異化効果」を狙ったものはない。ただ、オペラ歌手による日本語上演であるため、セリフが強く、一音一音はっきり発音するため、感情を込めにくい話し方となっており、そこがプロの俳優とは異なっていて、「異化効果」に繋がっていると見ることも出来る。
白井晃がミュージカル版「三文オペラ」を演出した際には、ポリー役に篠原ともえを起用。篠原ともえは今はいい女風だが、当時はまだ不思議ちゃんのイメージがあった頃、ということでヒロインっぽさゼロでそこが異化効果となっていた。今日、ポリーを演じたのは歌劇「竹取物語」で主役のかぐや姫を1公演だけ歌った高田瑞希。彼女はセリフも歌も身のこなしも自然で、いかにもオペラのヒロインといった感じであった。6年前に初めて見た時は、京都市立芸術大学声楽科に通うまだ二十歳の学生で、幼い感じも残っていたが、立派に成長している。

園田隆一郎指揮するザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団も、ヴァイルのキッチュな音楽を消化して表現しており、面白い演奏となっていた。

「セツアン(四川)の善人」などでもそうだが、ブレヒトは、ギリシャ悲劇の「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」を再現しており、それまでのストーリーをぶち破るように強引にハッピーエンドに持って行く。これも一種の異化効果である。

 

「三文オペラ」は、オペラ対訳プロジェクトの一作に選ばれており、クルト・ヴァイルの奥さんであったロッテ・レーニャなどの歌唱による音源を日本語字幕付きで観ることが出来る。

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2025年1月25日 (土)

コンサートの記(881) ヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮京都市交響楽団第696回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル

2025年1月17日 京都コンサートホールにて

午後7時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第696回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。指揮は京都市交響楽団首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーント。

曲目であるが、当初の発表より変更があり、モーツァルトのセレナード第10番「グラン・パルティータ」とロベルト・シューマンの交響曲第2番となった。モーツァルトの「グラン・パルティータ」は編成こそ小さめだが、全7楽章で演奏時間約50分と長い。シューマンの交響曲第2番も通常の演奏時間は40分ほどある。休憩時間なし演奏時間約1時間が売りのフライデー・ナイト・スペシャルであるが、今回は長さに関しては休憩ありの普通の演奏会と同等の規模となった。なお、来年度はフライデー・ナイト・スペシャルは実施されず、3月の沖澤のどか指揮のものが最後のフライデー・ナイト・スペシャルとなる予定である。

 

午後7時頃よりデ・フリーントによるプレトークがある(通訳:小松みゆき)。
デ・フリーントは、「セレナーデは屋内ではなく野外で演奏されることが多かった」と話し始めるが、まずはシューマンの交響曲第2番についての解説となる。この曲はシューマンが精神を病んでいた時期に書かれたもので、彼の中に二つの人格があってせめぎ合っていたという。落ち着いていることが出来ず、常に動き回っている時もあったそうだが、J・S・バッハの音楽を聴くと落ち着いたそうだ。
交響曲第2番の初演時の評価は真っ二つに分かれたそうで、「ベートーヴェン以降最高の交響曲」と絶賛する向きもあれば、「複雑すぎてよく分からない」と評する人もいたようである。現在もシューマンの4つの交響曲の中では第2番が最も難解とされており、演奏会のプログラムに載る回数も録音も少なめである。

シューマンの精神病については梅毒由来のものとする説が有力で、後に彼はライン川への入水自殺を図っている(未遂に終わった)。

モーツァルトの時代には、音楽は黙って静かに聴くものではなく、お喋りをしながら聴かれることも多かったという話もフリーントはする。
モーツァルトは当時は新しい楽器であったクラリネットを愛したことで知られるが、クラリネットからの派生楽器であるバセットホルンが使われていることにも注目して欲しいとフリーントは述べていた。

 

モーツァルトのセレナード第10番「グラン・パルティータ」。オーボエ2、クラリネット2、バセットホルン2、ホルン4、ファゴット2、コントラバス1という編成である。
下手端のオーボエの髙山郁子と上手端のクラリネットの小谷口直子が向かい合う形になる。デ・フリーントは椅子に腰掛けてノンタクトでの指揮。
創設当初は編成が小さかったことから、小さくても聴かせられるモーツァルトの演奏に力を入れ、「モーツァルトの京響」と呼ばれた京都市交響楽団。その伝統は今も生きていて、典雅にして柔らかなモーツァルトが奏でられる。奏者達の技術も高い。デ・フリーントの各奏者の捌き方も巧みである。
クラリネットに美しい旋律が振られることが比較的多く、このことからもモーツァルトがクラリネットという楽器を愛していたことが分かる。
演奏終了後のコタさんこと小谷口直子は今日はハイテンション。ステージ上でデ・フリーントとハグし、客席に手を振り、一人で拍手したりしていた。管楽器奏者の多くはシューマンにも出演する。

 

シューマンの交響曲第2番。今日のコンサートマスターは京響特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。
ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏である。ヴィオラの首席にはソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積が入る。チェロの客演首席は森田啓介。トランペットは副首席の稲垣路子は降り番で、ハラルド・ナエスと西馬健史の二人が吹く。
デ・フリーントは指揮台を用いず、ノンタクトでの指揮である。

序奏こそ中庸かやや速めのテンポであったが、主部に入ると快速で飛ばす。かなり徹底したピリオド・アプローチによる演奏であり、弦楽器の奏者達はビブラートを最小限に抑えている。中山航介が叩くのはモダンティンパニであるが、時折、音だけだとバロックティンパニと勘違いするような硬い響きによる強打が見られた。
速めのテンポによる演奏だが、単に速いわけではなく、自在さにも溢れていて、滝を上る鯉のように活きのいい音楽となっていた。
こうした演奏で聴くとシューマンが鍵盤で音楽を考えていたということもよく分かる。
第3楽章のため息のような主題も、美しくも涙に濡れたような独特の音色によって弾かれ、悲嘆に暮れるシューマンの姿が見えるかのようである。H.I.P.の弦楽の奏法が効果的。
この主題は第4楽章で長調に変わって奏でられるのだが、今回の演奏では上手く浮かび上がっていた。
これまでの陰鬱なだけのシューマン像が吹き飛ぶかのような情熱に満ちた演奏であり、シューマンがこの曲に込めた希望がはっきりと示されていた。

デ・フリーントは今は知名度は低めだが、今後、名声が高まっていきそうな予感がする。

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2024年10月21日 (月)

コンサートの記(863) 安達真理(ヴィオラ)&江崎萌子(ピアノ) 「月の引用」@カフェ・モンタージュ

2024年10月4日 京都市中京区 柳馬場通夷川東入ルのカフェ・モンタージュにて

午後8時から、柳馬場(やなぎのばんば)通夷川(えびすがわ)東入ルにあるカフェ・モンタージュで、ヴィオラの安達真理とピアノの江崎萌子によるコンサート「月の引用」を聴く。

曲目は、ブラームスのヴィオラ・ソナタ第1番とショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ。ブラームスのヴィオラ・ソナタ第1番は、ブラームス最後の室内楽曲。ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタは、ショスタコーヴィチの最後の作品で、死の5日前に完成している。


人気ヴィオリストの安達真理。関西で実演に接する機会も多い。国内ではソリストや室内楽での活動が多かったが、2021年に日本フィルハーモニー交響楽団の客演首席ヴィオラ奏者に就任している。
桐朋学園大学、ウィーン国立音楽大学室内楽科、ローザンヌ高等音楽院ソリスト修士課程を修了。若手奏者との共演の他、坂本龍一との共演経験もあり、6月に行われた日本フィルの坂本龍一追悼演奏会でも客演首席ヴィオラ奏者として乗り番であった。指揮者のパーヴォ・ヤルヴィとはエストニア・フェスティバル管弦楽団のメンバーとして、ヨーロッパ各地で共演を重ねている。コロナの時期にはインスタライブなども行っていて、私も見たことがあるのだが、かなり性格が良さそうで、彼女のことを嫌いという人は余りいないのではないだろか。笑顔がとてもチャーミングな人である。
ロングヘアがトレードマークであるが、今日はポニーテールで登場した。

ピアノの江崎萌子は、東京出身。桐朋女子高校音楽科を首席で卒業後、パリのスコラ・カントルム(エリック・サティが年を取ってから入学し、優秀な成績で卒業したことでも知られる音楽院である)とパリ国立高等音楽院修士課程に学び、ライプツィッヒ・メンデルスゾーン音楽大学演奏家課程で国家演奏家資格を取得している(日本と違って資格がないとプロの演奏家として活動出来ない)。ヴェローナ国際コンクールで2位獲得、東京ピアノコンクールでも2位に入っている。


ブラームスのヴィオラ・ソナタ第1番。カフェ・モンタージュは空間が小さいので音がダイレクトに届く。ブラームスらしい仄暗い憂いの中に渋さと甘さの感じられる曲だが、憧れを求める第2楽章、そして第3楽章などは清澄な趣で、穏やかな魂の流れのようなものが感じられる。
間近で聴いているので迫力が感じられ、二人のしなやかな音楽性も伝わってくる。

演奏終了後に安達真理のトーク。マイクがないので、地声で話す。空間が小さいので十分に聞こえる。ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタが彼の最後の作品であり、もう右手が使えず左で記譜したこと、死の直前まで奥さんにチェーホフの小説「グーセフ」を読み聞かせて貰っていたことなどを話す。
今回のタイトルは、「月の引用」であるが、ショスタコーヴィチはヴィオラ・ソナタの第3楽章でベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番「月光」第1楽章の旋律を引用しており、そこからタイトルがつけられたことを明かす。第1楽章には「ノベル(小説)」、第2楽章には「スケルツォ」、第3楽章には「偉大な作曲家の思い出に」という副題が付いていたようだ。

休憩後に演奏開始。ヴィオラはピッチカートで始まる。深遠さと諧謔の精神を合わせ持ついつものショスタコーヴィチであるが、背後に何か得体の知れないものが感じられる。
第2楽章は、流麗な舞曲風の曲調。再びピッチカートの歩みが始まり、悲歌のようなものが歌い上げられて、再びピッチカートが姿を現す。

第3楽章には、「月光」ソナタからの引用と共に、自身の交響曲全15曲からの引用がさりげなくちりばめられてるのだが、それが発見されたのは、作曲者が亡くなってから大分経ってからであった。それほど巧妙に隠されていたということになる。ベートーヴェンをカモフラージュにして意識をそちらに向かわせるよう仕向けたのであろう。
「月光」からの引用はまずピアノに現れ、すぐにヴィオラが歌い交わす。
次第にピアノが叩きつけるような音に変わり、その上をヴィオラの月光の旋律が滑る。
ベートーヴェンの「月光」は、「神の歩み」「十字架」「ゴルゴダの丘」などを描写しているという説があるが、ショスタコーヴィチがそうしたことを知っていたのかどうかは不明である。

二人ともショスタコーヴィチの鋭さの中に優しさを含ませたかのような演奏。


アンコール演奏は1曲。聴いたことのない曲だったが、安達真理は、「なんの曲かは私のXをご覧下さい」と告げていた。確認すると、平野一郎の「あまねうた」という曲だったようだ。

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2024年7月22日 (月)

これまでに観た映画より(341) 「関心領域 THE ZONE OF INTEREST」

2024年5月27日 京都シネマにて

京都シネマで、アメリカ・イギリス・ポーランド合作映画「関心領域 THE ZONE OF INTEREST」を観る。監督・脚本:ジョナサン・グレイザー。出演:クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラーほか。音楽:ミカ・レヴィ。原作:マーティン・エイミス。音響:ジョニー・バーン&ターン・ウィラーズ。ドイツ語作品である。
第76回カンヌ国際映画祭グランプリ、英国アカデミー賞非英語作品賞、ロサンゼルス映画評論家協会賞作品賞・監督賞・主演賞・音響賞、トロント映画批評家協会賞作品賞・監督賞、米アカデミー賞国際長編映画賞(元・外国語映画賞)・音響賞などを受賞している。

ドイツ占領下のポーランド領アウシュヴィッツにあった強制収容所の隣に住んでいたナチス親衛隊中尉一家、ヘス家の日常を描いた作品である。アウシュヴィッツ強制収容所の直接的な描写は一切ないが、遠くからなんとも言えない声や音がヘス家の中まで響いてきて、目に見えない惨劇を連想させる。音響のための映画とも言えるだろう。
アウシュヴィッツ強制収容所との対比を出すために、意図的に何気ない日常が中心に描かれており、隣で何が起こっているのかについては、登場人物の多くが関心を持たない。ドラマとしては面白いものとは言えないだろうが(実際、いびきが響いていた)、それが狙いであると思われる。実際にアウシュヴィッツで撮られた映像は理想郷をカメラに収めたかのように美しい。

主人公のルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)は、アウシュヴィッツ強制収容所の隣に住み、収容所の所長をしているが、近く異動になる予定である。出世であるが、単身赴任する必要があり、妻子がアウシュヴィッツの家で暮らすことが出来るよう取り計らってくれるように頼んでいる。ヒムラー、アイヒマン、ヒトラーなどのナチスを代表する人物達の名前が登場するが、彼らが画面に登場することはない。なお、ルドルフ・ヘスは実在の人物で、アウシュヴィッツ強制収容所の所長をしていた頃の告白遺録『アウシュヴィッツ収容所』を遺しており貴重な史料となっているようである。

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2024年5月21日 (火)

観劇感想精選(461) 佐藤隆太主演「『GOOD』 -善き人-」

2024年4月28日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「『GOOD』-善き人-」を観る。イギリスの劇作家、C・P テイラーの戯曲を長塚圭史の演出で上演。テキスト日本語訳は浦辺千鶴が務めている。原作のタイトルは「GOOD」で、2008年にイギリス・ドイツ合作で映画化、日本では2012年に「善き人」のタイトルで公開されているようである。また、英国での舞台版がナショナル・シアター・ライブとして映画館で上映されている。
主演:佐藤隆太。出演:萩原聖人、野波麻帆、藤野涼子、北川拓実(男性)、那須佐代子、佐々木春香、金子岳憲、片岡正二郞、大堀こういち。ミュージシャン:秦コータロー、大石俊太郎、吉岡満則、渡辺庸介。出演はしないが、音楽進行に三谷幸喜の演劇でお馴染みの荻野清子が名を連ねている。

専任のミュージシャンを配していることからも分かる通り、音楽が重要な位置を占める作品で、出演者も歌唱を披露する(歌唱指導:河合篤子)など、音楽劇と言ってもいい構成になっている。

イギリスの演劇であるが、舞台になっているのはナチス政権下のドイツの経済都市、フランクフルト・アム・マインである(紛らわしいことにドイツにはフランクフルトという名の都市が二つあり、知名度の高い所謂フランクフルトがフランクフルト・アム・マインである)。ただ一瞬にしてハンブルクやベルリンに飛ぶ場面もある。

佐藤隆太の一人語りから舞台は始まる。大学でドイツ文学を教えるジョン・ハルダー教授(愛称は「ジョニー」。演じるのは佐藤隆太)は、1933年から音楽の幻聴や音楽付きの幻覚を見るようになる。1933年はナチス政権が発足した年だが、そのことと幻聴や幻覚は関係ないという。妻のヘレン(野波麻帆)は30歳になるが、脳傷害の後遺症からか、部屋の片付けや料理や子どもの世話などが一切出来なくなっており(そもそも発達障害の傾向があるようにも見える)、家事や3人の子どもの面倒は全てジョンが見ることになっていた。母親(那須佐代子)は存命中だが痴呆が始まっており、目も見えなくなって入院中。だが、「病院を出て家に帰りたい」と言ってジョンを困らせている。二幕では母親は家に帰っているのだが、帰ったら帰ったで、今度は「病院に戻りたい」とわがままを言う。
友人の少ないジョンだったが、たった一人、心を許せる友達がいた。ユダヤ人の精神科医、モーリス(萩原聖人)である。ジョンは幻聴についてモーリスに聞くが、原因ははっきりしない。幻聴はジャズバンドの演奏の時もあれば(舞台上で生演奏が行われる。「虹を追って」の演奏で、ジョンはショパンの「幻想即興曲」の盗用であると述べる)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏の時もある(流石にこれは再現は無理である)。音楽付きの幻覚として、ジョンはマレーネ・ディートリヒや、ヴァイオリンで「ライムライト」を弾くチャップリン(実際はアドルフ・ヒトラーである)の姿を見る。バンド編成によるワーグナーの「タンホイザー」序曲が演奏される珍しい場面もある。

ナチスが政権を取ったばかりであったが、ジョンもモーリスも「ユダヤ人の頭脳や商売に依存しているドイツはユダヤ人を排斥出来ない」「ユダヤ人差別ももうやめるに違いない」「政権は短期で終わる」と楽観視していた。

ある日、ジョンの研究室にゼミでジョンに教わっている女子学生のアン(藤野涼子)が訪ねてくる。19歳と若いアンは授業について行けず、このままでは単位を落としそうだというのでジョンに教えを請いに来たのだった(まるで二人芝居「オレアナ」のような展開である)。
その夜、アンを家に呼んだジョンは、雨でずぶ濡れになったアンを愛おしく思う。アンは明らかにジョンに好意を持っており、後はジョンがそれを受け入れるかどうかという問題。結果的に二人は結婚し、新居を構えることになる。

小説家や評論家としても活躍しているジョンは、ある日、ナチスの高官、フィリップ・ボウラーからジョンの書いた小説が宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルス(元小説家志望)に絶賛されていることを知らされる。母親の病状を見て思いついた安楽死をテーマにした小説で、後のT4作戦に繋がる内容だった。ジョンの小説はゲッベルスからヒトラーに推薦され、ヒトラーも大絶賛しているという。ジョンは安楽死に関して、「人道的」立場から、安心させるためにバスルームのような施設にするいう案も編み出しており、更にユダヤ人の個人中心主義がドイツ第三帝国の「全体の利益を優先する」という主義に反しており、文化を乱すという論文も発表していた。
大学の教員もナチ党員であることを求められた時代。ジョンもナチ党員となり、親衛隊に加わる。ジョンは、「水晶の夜」事件が起こることを知りながらそれを黙認し、ナチスの焚書に関しても協力した。

ユダヤ人であるモーリスはフランクフルト・アム・マインを愛するがために当地に留まっていたが、身の危険を感じ、出国を申請するも叶えられない。モーリスは、永世中立国であるスイス行きの汽車の切符を手配するようにジョンに頼む。往復切符にすれば出国と捉えられないとの考えも披露するがジョンはその要望に応えることが出来ない。

アンは、「私がユダヤ人だったらヒトラーが政権を取った最初の年に逃げ出している」と語り、「今残っているのはどうしようもないバカか、財産に必死にしがみついている人」と決めつける。

やがてジョンは、アイヒマンの命により、新たな収容施設が出来た街に視察に赴くことになる。アウシュヴィッツという土地だった。
アウシュヴィッツの強制収容所に着いたジョンは、シューベルトの「軍隊行進曲」の演奏を聴く。それは幻聴ではなく、強制収容所に入れられたユダヤ人が奏でている現実の音楽だった。


アンが親衛隊の隊服を着たジョンに「私たちは善人」と言い聞かせる場面がある。実際にジョンに悪人の要素は見られない。T4作戦に繋がる発想もたまたま思いついて小説にしたものだ。ジョンは二元論を嫌い、モーリスにもあるがままの状態を受け入れることの重要性を説くが、後世から見るとジョンは、T4作戦の発案者で、障害のある妻を捨てて教え子と再婚、文学者でありながら焚書に協力、反ユダヤ的で親友のユダヤ人を見殺しにし、アウシュヴィッツ強制収容所に関与した親衛隊員で、ガス室の発案者という極悪人と見做されてしまうだろう。実際のジョンは根っからの悪人どころか、アンの言う通り「善人」にしか見えないのだが、時代の流れの中で善き人であることの難しさが問われている。

ジョンに幻聴があるということで、音楽も多く奏でられるのだが、シューベルトの「セレナーデ」やエノケンこと榎本健一の歌唱で知られる「私の青空」が新訳で歌われたのが興味深かった。今日の出演者に「歌う」イメージのある人はいなかったが、歌唱力に関しては普通で、特に上手い人はいなかったように思う。ソロも取った佐藤隆太の歌声は思ったよりも低めであった。

親衛隊の同僚であるフランツが、SP盤のタイトルを改竄する場面がある。フランツはジャズが好きなのだが、ナチス・ドイツではジャズは敵性音楽であり、黒人が生んだ退廃音楽として演奏が禁じられていた。それを隠すためにフランツはタイトルを改竄し、軍隊行進曲としたのだが、日本でもジャズは敵性音楽として演奏を禁じられ、笠置シヅ子や灰田勝彦は歌手廃業に追い込まれそうになっている。同盟国側で同じことが起こっていた。

佐藤隆太は途中休憩は入るもの約3時間出ずっぱりという熱演。宣伝用写真だとW主演のように見える萩原聖人は思ったよりも出番は少なかったが、出演者中唯一のユダヤ人役として重要な役割を果たした。
結果として略奪婚を行うことになるアン役の藤野涼子であるが、小悪魔的といった印象は全く受けず、ジョンならヘレンよりもアンを選ぶだろうという説得力のある魅力を振りまいていた。


今日が大千秋楽である。座長で主演の佐藤隆太は、公演中一人の怪我人も病人も出ず完走出来たことを喜び、見守ってくれた観客への感謝を述べた。
佐藤によって演出の長塚圭史が客席から舞台上に呼ばれ、長塚は「この劇場は日本の劇場の中でも特に好き」で、その劇場で大千秋楽を迎えられた喜びを語った。

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2022年10月23日 (日)

コンサートの記(810) 齋藤友香理指揮 京都市交響楽団第672回定期演奏会

2022年10月14日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第672回定期演奏会を聴く。今日の指揮は若手の齋藤友香理。

東京生まれの齋藤友香理。桐朋女子高校音楽科を経て、桐朋学園大学ではピアノを専攻する。「一人だけで練習するのは寂しい」という理由から副専攻では指揮クラスを受講していた。卒業後に同大学の科目履修生『指揮』に在籍して指揮者としての第一歩を踏み出している。2010年から1年間、公益財団法人新日鉄住友文化財団「指揮研究員」として紀尾井ホール室内管弦楽団(旧紀尾井シンフォニエッタ東京)や東京フィルハーモニー交響楽団で研鑽を積み、2013年からはドレスデン音楽大学(カール・マリア・フォン・ウェーバー音楽大学)大学院に進み、修了後には、ハインリッヒ・シフやキリル・ペトレンコのアシスタントなどを務めている。第54回ブザンソン国際指揮者コンクールでは、聴衆賞とオーケストラ賞を受賞。


曲目は、ワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲、ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番(クラリネット独奏:小谷口直子)、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」


午後6時30分頃から、ステージ上で齋藤友香理によるプレトークがある。女性としては低めの落ち着いた声である。
齋藤は、「私は東京生まれなのですが、京都コンサートホールには縁がありまして」と語り、2009年の小澤征爾音楽塾のコンサートで京都コンサートホールの指揮台に立ち、生まれて初めてに近い形でオーケストラ相手の指揮を行ったという。その後、ローム ミュージック ファンデーションのセミナーに参加した際には、京都コンサートホールで京都市交響楽団相手にブラームスの交響曲第1番を指揮したことがあるそうである。

その後の楽曲解説では、ワーグナーの「リエンチ」がヒトラーに影響を与えたことや、ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番のソリストである小谷口直子(京都市交響楽団首席クラリネット奏者)とミュンヘンで会ったことがあるという話や、渡独する際にはメンデルスゾーンのことは余り頭になかったが、受講した音楽セミナーの会場がライプツィッヒのメンデルスゾーンハウス(その名の通りメンデルスゾーンが過ごした家。その天才ぶりから「進めど進めど薔薇また薔薇」と称されるほど順風満帆だったメンデルスゾーンであったが、この家において38歳の若さで亡くなっている)であったという縁から興味を持ち始めたという。


今日はヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。コンサートマスターは京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。今日は客演首席チェロ奏者としてNHK交響楽団首席の「藤森大統領」こと藤森亮一が入る。フルート首席の上野博昭、ホルン首席の垣本昌芳らはメンデルスゾーンのみの出演である。


ワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲。しっかりとした「ドイツ」の「ワーグナー」の音が出ていることに感心する。ドイツ在住なのでドイツの空気とドイツ音楽を常に肌で感じているということもあるだろうが、そもそもドイツ音楽に適性がありそうである。細部の彫刻も見事で、その分全体像がぼやけているような気がしないでもなかったが、若手でこれだけのワーグナーが振れるのは見事である。
日本の若手指揮者、女性指揮者共に充実しているようだ。


ウェーバーのクラリネット協奏曲第1番。個人的な思い出を語ると、生まれて初めて買ったクラリネット協奏曲のCDは、モーツァルトではなくウェーバーのものであった。ベルリン・フィル入団を巡るゴタゴタで話題になったザビーネ・マイヤーのクラリネットソロによるEMIのCDで(伴奏はヘルベルト・ブロムシュテット指揮のシュターツカペレ・ドレスデン)、私もザビーネ・マイヤー事件(ザビーネ・マイヤーのベルリン・フィル入団辞退のみならず、ヘルベルト・フォン・カラヤンの芸術監督辞任にまで発展した)を知っていたため、彼女のCDを購入したのであった。

小谷口直子は、深紅のドレスで登場。オーケストラのメンバーが協奏曲のソロを務めた場合、かっちりしすぎたりスケールが小さくなったりしがちなのだが(ソリストとオーケストラプレーヤーではそもそも求められるものが違う)、小谷口の場合はそういったことはなく甘く伸びやかな音色で天を翔る。
齋藤指揮の京都市交響楽団も陰影に富んだ優れた伴奏を聴かせる。

アンコール演奏は、ベールマンのクラリネットと弦楽五重奏のためのアダージョ。典雅な演奏であった。
本編終了後とアンコール演奏終了後に、齋藤と小谷口は抱き合って互いを称え合う。


メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。メンデルスゾーンの交響曲は第5番まであるが、番号は出版順であり、実際には「スコットランド」が彼の最後の交響曲である。
「スコットランド」交響曲は、高校生の時に定番のひとつであるオットー・クレンペラー指揮のCDで初めて聴き、その後にペーター・マークの2種類のCD(定番のDECCA盤ではなくいずれもデジタル録音の輸入盤)で繰り返し楽しんだが、ひょっとしたら今は手元にCDがないかも知れない。なくても今はYouTubeでそれなりに楽しめる時代であるが。

齋藤は中庸からやや速めのテンポを採用。濃厚なロマンティシズムよりも古典的な造形美を優先させたような演奏であるが、時折、馥郁としたロマンが立ち上る。若手指揮者らしい颯爽とした味わいもあり、京響共々豊かな音像を構築。「スコットランド」交響曲はメンデルスゾーンの最高傑作に挙げられることも多いが、実際はコンサートでプログラムに載ることは比較的少ない。今日のコンビはたまにしか聴けない名曲を存分に味わわせてくれた。

最後に齋藤はオーケストラメンバーに立つよう指示を送るが、京響の団員は指揮者に敬意を示して立たず、齋藤が一人で喝采を浴びた。

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2022年9月25日 (日)

コンサートの記(805) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第561回定期演奏会

2022年9月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第561回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

オール・ワーグナー・プログラムで、歌劇「リエンツィ」序曲、ヴェーゼンドンク歌曲集(メゾ・ソプラノ独唱:池田香織)、楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲。ブリュンヒルデの自己犠牲のメゾ・ソプラノ独唱は池田香織)


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。


歌劇「リエンツィ」序曲。トランペットのソロ(信号ラッパを表している)に続く弦楽の典雅な響きは、尾高の指揮ということもあってエルガーの音楽のように聞こえる。「ノーブル」という言葉が最も似合う音だ。ただ、ワーグナーの音楽の特徴は聖と俗の混交にあるため、「上品すぎるかな」とも思ったのだが、金管などには俗な要素も振っており、尾高の解釈の確かさが感じられる。


ヴェーゼンドンク歌曲集。「天使」「とどまれ」「温室にて」「苦しみ」「夢」の5曲からなる歌曲である。チューリッヒでワーグナーと出会い、愛人関係となったマティルデ・ヴェーゼンドンクという絹織物商人の夫人のために書かれた歌曲で、歌詞はマティルデが書いたものである。
ワーグナーは「夢」のみに小規模オーケストラのための編曲を施しており、残りの4曲はフェリックス・モットルによる編曲で演奏されるのが一般的であるが、今回は全5曲をハンス・ヴェルナー・ヘンツェが1976年に編曲したものが採用されている。ヘンツェの編曲も小規模オーケストラのために行われたもので、今日は第1ヴァイオリン6、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが各4、コントラバスが2という弦楽編成。管楽器はフルートとホルンが2管編成である。

日本を代表するワーグナー歌手の一人である池田香織。喉の調子が絶好調という訳ではなかったようだが、落ち着いた声による情感豊かな歌声を聞かせていた。


楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲)。
朝比奈隆以来のワーグナー演奏の伝統を持つ大阪フィルハーモニー交響楽団。「大フィルサウンド」と呼ばれる重厚な響きもワーグナーには似つかわしい。

尾高はスケール雄大で厚みと輝きのあるワーグナーサウンドを大フィルから弾き出すが、この音は尾高と今の大フィルが出したというよりも、これまでドイツ音楽に徹底して取り組んできた大フィルの長い歴史が生んだものであり、大フィルの歴史が背景のようにそそり立つのが見えるかのようだ。伝統によってもたらされた重層的な響きである。
大フィルの歴史が生んだ音を生かしつつ、尾高は彼らしい見通しの良い演奏を行う。毒こそ控えめだが、堅牢なフォルムと煌びやかな音色がワーグナーそのものの山脈を築き上げていく。
ブリュンヒルデの自己犠牲で独唱を務めた池田香織。池田はブリュンヒルデを当たり役としている。ヴェーゼンドンク歌曲集の時よりもずっと生き生きして見えるのは決して偶然ではないだろう。声に中にブリュンヒルデの命が息づいている。
歌い終えてすっくと佇む池田の姿はまるで慈母のような格好良さであった。

ワーグナーの良さを堪能出来る夜となった。

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2022年7月27日 (水)

コンサートの記(792) ユベール・スダーン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第560回定期演奏会

2022年7月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第560回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、日本でもお馴染みの存在であるユベール・スダーン。

オランダ出身のスダーン。東京交響楽団の音楽監督時代に注目を集め、現在は同楽団の桂冠指揮者。オーケストラ・アンサンブル金沢の首席客演指揮者でもある。安定感抜群のイメージがあるが、オランダ出身ということで古楽にも強く、2019年の京響の第九ではピリオド・アプローチ(HIP)を援用したノリの良い演奏を築いていた。
今日は指揮台を使わず、ノンタクトでの指揮。


曲目は、ロベルト・シューマンの「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」(いずれもマーラー編曲)、ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏第1番ト短調で、編曲もの3連発という意欲的な試みが行われる。

ドイツ・ロマン派を代表する作曲家であるシューマンであるが、本格的に作曲家を目指すのが遅かったということもあり、「オーケストレーションに難がある」というのが定説であった。くすんだ音色で鳴りが余り良くないのである。20世紀初頭までは、オーケストレーションに難ありとされた楽曲は指揮者がアレンジするのが一般的であり、当代一の指揮者でオーケストラの響きを知悉していたグスタフ・マーラーがアレンジした「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」の譜面が残っていて、今回はそれを使用した演奏となる。スダーン自身がシューマンのオーケストレーションに疑問を持っており、それを氷解させてくれたのがマーラーによるアレンジ版だったようだ。

ブラームスのピアノ四重奏曲第1番ト短調に関しては、シェーンベルク自身が疑問を抱いていたようである。シェーンベルクはこの曲が大好きだったが、「ピアノが響きすぎて他の楽器が聞こえない」という不満を持っていた。そこで理想的なピアノ四重奏曲第1番ト短調の響きを求めて、アメリカ時代に編曲したのが今日演奏される管弦楽バージョンである。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置の演奏である。
だが、「マンフレッド」序曲では、舞台下手端にバロックティンパニが据えられており、視覚的にも異様な感じだったが、演奏するとバロックティンパニの響きは異物と捉えられる。

さて、その「マンフレッド」序曲であるが、すっきりとした響きになっている。シューマンのオーケストレーションについては擁護者もいて、例えば黛敏郎は、[あの音色はあのオーケストレーションでないと出ない」とシューマンの望んだ響きを誰より知っているのはシューマンという立場を鮮明にしている。マーラー編曲版は毒気が抜けた感じだが、それを補う形で、スダーンはバロックティンパニを舞台下手端で叩かせたのかも知れない。「マンフレッド」という話自体が異様な内容だけに、それを示唆する要素があるのも良いだろう。


交響曲第1番「春」。冒頭のトランペットの響きが明らかに低いのが一聴して分かる。実はシューマンは当初は今日演奏された音程でトランペットの旋律を書いたのだが、当時のナチュラルトランペットでは上手く吹くことが出来なかったため、改訂する際に音を3つ上げている。現在演奏されるシューマンの「春」はほぼ全てこの改訂版の譜面を採用しており、モダントランペットが華々しく鳴るのだが、ヨーロッパの長い冬が終わって春となった直後を描いていると考えた場合、明るすぎるとシューマンは考えたのかも知れない。マーラーはシューマンの初稿を尊重して音程を元に戻している。
やはり見通しが良くなり、音のパレットが豊富である。非常に情熱的で、シューマンの一面をよく表してもいる。主旋律でない部分の音の動きが分かりやすくなったのもプラスである。第2楽章の冒頭の弦楽の響きなどは、マーラーのアダージェットを思わせ、マーラーの個性も刻印されている。
一方で、やはりシューマンの渦巻くような怨念は一歩後退したような印象を受ける。音の動きがはっきり捉えられる分、原曲の響きが伝えていた不安定感や毒が薄れるのである。シューマンよりは大分年下(丁度50歳差)のマーラーであるが、指揮者だったということもあって旋律や構築はシューマンよりもあるいは古典的。「響かないことで伝わるもの」に関しては、やはり指揮者だけに注意が及ばなかったと思われる。
ともあれ、マーラーの編曲もやはり面白いものであることには間違いない。スダーンと大フィルの造形美も見事である。


ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番ト短調。スダーンの設計の巧みさと、大フィルの上手さが光る演奏となった。

オーケストラの団員が揃い、チューニングが行われ、会場の誰もがスダーンを待つことになったが、そのスダーンがなかなか現れない。舞台下手側の入り口は開け放たれているのだが、誰かが現れる気配もない。そうしている内に舞台上手側の入り口が開いて、ここからスダーン登場。どういう意図なのか理由なのか、あるいは意図も理由もないのかは不明だが、取り敢えずスダーンは、上手から舞台の中央へと進む。

シェーンベルクの編曲であるが、自身の個性を出すのは勿論、やはりブラームスを崇拝していたエルガーのような高貴さ、フランス印象派のような浮遊感など、同時代の音楽技法を意図的にかどうかは分からないが取り入れている形になっているのが面白い。民族的な旋律は、ブラームスが採集して編曲した「ハンガリー舞曲」との繋がりも感じられるが、シェーンベルクの編曲は、ドヴォルザークやバルトークといった国民楽派の作曲家からの影響もおそらく濃厚である。特に第4楽章は民族音楽的、舞曲的で痛快である。安定感抜群の音楽を作るスダーンであるが、京響との第九同様、熱く高揚感のある音作りで大フィルの機能を目一杯使う。興奮を誘う音楽で、演奏終了後の拍手も一際大きかった。

大フィルのメンバーもスダーンに敬意を払って立たず、スダーン一人が喝采を浴びる。
最後はスダーンが客席に投げキッスを送って、演奏会はお開きとなった。

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