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2022年7月27日 (水)

コンサートの記(792) ユベール・スダーン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第560回定期演奏会

2022年7月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第560回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、日本でもお馴染みの存在であるユベール・スダーン。

オランダ出身のスダーン。東京交響楽団の音楽監督時代に注目を集め、現在は同楽団の桂冠指揮者。オーケストラ・アンサンブル金沢の首席客演指揮者でもある。安定感抜群のイメージがあるが、オランダ出身ということで古楽にも強く、2019年の京響の第九ではピリオド・アプローチ(HIP)を援用したノリの良い演奏を築いていた。
今日は指揮台を使わず、ノンタクトでの指揮。


曲目は、ロベルト・シューマンの「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」(いずれもマーラー編曲)、ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏第1番ト短調で、編曲もの3連発という意欲的な試みが行われる。

ドイツ・ロマン派を代表する作曲家であるシューマンであるが、本格的に作曲家を目指すのが遅かったということもあり、「オーケストレーションに難がある」というのが定説であった。くすんだ音色で鳴りが余り良くないのである。20世紀初頭までは、オーケストレーションに難ありとされた楽曲は指揮者がアレンジするのが一般的であり、当代一の指揮者でオーケストラの響きを知悉していたグスタフ・マーラーがアレンジした「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」の譜面が残っていて、今回はそれを使用した演奏となる。スダーン自身がシューマンのオーケストレーションに疑問を持っており、それを氷解させてくれたのがマーラーによるアレンジ版だったようだ。

ブラームスのピアノ四重奏曲第1番ト短調に関しては、シェーンベルク自身が疑問を抱いていたようである。シェーンベルクはこの曲が大好きだったが、「ピアノが響きすぎて他の楽器が聞こえない」という不満を持っていた。そこで理想的なピアノ四重奏曲第1番ト短調の響きを求めて、アメリカ時代に編曲したのが今日演奏される管弦楽バージョンである。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置の演奏である。
だが、「マンフレッド」序曲では、舞台下手端にバロックティンパニが据えられており、視覚的にも異様な感じだったが、演奏するとバロックティンパニの響きは異物と捉えられる。

さて、その「マンフレッド」序曲であるが、すっきりとした響きになっている。シューマンのオーケストレーションについては擁護者もいて、例えば黛敏郎は、[あの音色はあのオーケストレーションでないと出ない」とシューマンの望んだ響きを誰より知っているのはシューマンという立場を鮮明にしている。マーラー編曲版は毒気が抜けた感じだが、それを補う形で、スダーンはバロックティンパニを舞台下手端で叩かせたのかも知れない。「マンフレッド」という話自体が異様な内容だけに、それを示唆する要素があるのも良いだろう。


交響曲第1番「春」。冒頭のトランペットの響きが明らかに低いのが一聴して分かる。実はシューマンは当初は今日演奏された音程でトランペットの旋律を書いたのだが、当時のナチュラルトランペットでは上手く吹くことが出来なかったため、改訂する際に音を3つ上げている。現在演奏されるシューマンの「春」はほぼ全てこの改訂版の譜面を採用しており、モダントランペットが華々しく鳴るのだが、ヨーロッパの長い冬が終わって春となった直後を描いていると考えた場合、明るすぎるとシューマンは考えたのかも知れない。マーラーはシューマンの初稿を尊重して音程を元に戻している。
やはり見通しが良くなり、音のパレットが豊富である。非常に情熱的で、シューマンの一面をよく表してもいる。主旋律でない部分の音の動きが分かりやすくなったのもプラスである。第2楽章の冒頭の弦楽の響きなどは、マーラーのアダージェットを思わせ、マーラーの個性も刻印されている。
一方で、やはりシューマンの渦巻くような怨念は一歩後退したような印象を受ける。音の動きがはっきり捉えられる分、原曲の響きが伝えていた不安定感や毒が薄れるのである。シューマンよりは大分年下(丁度50歳差)のマーラーであるが、指揮者だったということもあって旋律や構築はシューマンよりもあるいは古典的。「響かないことで伝わるもの」に関しては、やはり指揮者だけに注意が及ばなかったと思われる。
ともあれ、マーラーの編曲もやはり面白いものであることには間違いない。スダーンと大フィルの造形美も見事である。


ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番ト短調。スダーンの設計の巧みさと、大フィルの上手さが光る演奏となった。

オーケストラの団員が揃い、チューニングが行われ、会場の誰もがスダーンを待つことになったが、そのスダーンがなかなか現れない。舞台下手側の入り口は開け放たれているのだが、誰かが現れる気配もない。そうしている内に舞台上手側の入り口が開いて、ここからスダーン登場。どういう意図なのか理由なのか、あるいは意図も理由もないのかは不明だが、取り敢えずスダーンは、上手から舞台の中央へと進む。

シェーンベルクの編曲であるが、自身の個性を出すのは勿論、やはりブラームスを崇拝していたエルガーのような高貴さ、フランス印象派のような浮遊感など、同時代の音楽技法を意図的にかどうかは分からないが取り入れている形になっているのが面白い。民族的な旋律は、ブラームスが採集して編曲した「ハンガリー舞曲」との繋がりも感じられるが、シェーンベルクの編曲は、ドヴォルザークやバルトークといった国民楽派の作曲家からの影響もおそらく濃厚である。特に第4楽章は民族音楽的、舞曲的で痛快である。安定感抜群の音楽を作るスダーンであるが、京響との第九同様、熱く高揚感のある音作りで大フィルの機能を目一杯使う。興奮を誘う音楽で、演奏終了後の拍手も一際大きかった。

大フィルのメンバーもスダーンに敬意を払って立たず、スダーン一人が喝采を浴びる。
最後はスダーンが客席に投げキッスを送って、演奏会はお開きとなった。

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2022年3月18日 (金)

コンサートの記(767) 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー 舞台神聖祝典劇「パルジファル」

2022年3月6日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後1時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」を観る。ワーグナー最後の舞台音楽作品となっており、ワーグナー自身はバイロイト祝祭劇場以外での上演を認めなかった。

中世ドイツ詩人のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩「パルチヴァール」が現代語訳(当時)が出版されたのが1842年。ワーグナーはその3年後にこの本を手に入れているが、これを原作とした舞台神聖祝典劇という仰々しい名のオペラ作品として完成させるのは、1882年。40年近い歳月が流れている。

セミ・ステージ形式での演奏。指揮は沼尻竜典、演奏は京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)。演出は伊香修吾。出演は、青山貴(アムフォルタス)、妻屋秀和(ティトゥレル)、斉木建詞(グルネマンツ)、福井敬(パルジファル)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、西村悟、的場正剛(ともに聖杯の騎士)、森季子(第1の小姓)、八木寿子(第2の小姓、アルトの声)、谷口耕平(第3の小姓)、古屋彰久(第4の小姓)、岩川亮子、佐藤路子、山際きみ佳、黒澤明子、谷村由美子、船越亜弥(以上、クリングゾルの魔法の乙女たち)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。合唱はマスクを付けての歌唱である。

ステージ前方に白色のエプロンステージが設けられており、同じ色の椅子が並んでいる。出演者達はここで歌い、演技する。客席の1列目と2列目に客は入れておらず、プロンプターボックスの他にモニターが数台並んでいて、これで指揮を確認しながら歌うことになる。
ステージ後方には階段状の二重舞台が設けられており、短冊状の白色の壁が何本も立っていて、ここに映像などが投影される。
小道具は一切使用されず、槍なども背後の短冊状の壁に映像として映し出される。

びわ湖ホールで何度も印象的な演出を行っている伊香修吾だが、セミ・ステージ形式での上演ということで思い切った演出は出来なかったようで、複雑な工夫はしていない。


「パルジファル」に先だって、ワーグナーは当時傾倒していた仏教と輪廻転生をテーマにした「勝利者たち」という楽劇を書く予定であった。実現はしなかったが、「勝利者たち」のヒロインがその後に、「パルジファル」のクンドリの原型となっている。


ワーグナー最後のオペラとなった「パルジファル」であるが、何とも謎めいた作品となっている。聖杯伝説が基になっており、キリストが亡くなった時にその血を受けた聖杯と十字架上のキリストを刺したといわれる聖槍(「エヴァンゲリオン」シリーズでお馴染みのロンギヌスの槍である)が重要なモチーフとなっている。モンサルヴァートの城の王であるアムフォルタスは、キリストをなぞったような性質の人物であり、聖槍を受けて、その傷が治らないという状態は、危殆に瀕したキリスト教という当時の世相が反映されている。
中世には絶対的な権威を誇ったキリスト教であるが、19世紀も末になると無神論が台頭するなど、キリスト教の権威は失墜の一途を辿っていた。

「アムフォルタスの傷を治す」と予言された「苦しみを共に出来る聖なる愚か者」に当たる人物がパルジファルである。モンサルヴァートの森で白鳥を射落として取り押さえられた男こそパルジファルであるが、彼は自分の名前も、出自も何一つ知らないという奇妙な人物である。白鳥が神の化身であることは「ローエングリン」で描かれているが、パルジファルは特に理由もなく白鳥を射落としている。

「これこそ救済を行う聖なる愚か者なのではないか」と思い当たった騎士長のグルネマンツは、パルジファルに聖杯の儀式を見せる。だがパルジファルは儀式の意味を理解出来ず、グルネマンツによって城から追い出される。

モンサルヴァートの城にはクンドリという不思議な女性がいる。最初は聖槍によって傷つけられたアムフォルタスのために薬を手に入れたりしているのだが、クンドリにはもう一つの顔があり、第2幕では魔術師のクリングゾルに仕えてモンサルヴァートの騎士達の破滅を狙う魔女として登場する。クリングゾルも元々は騎士団に入ることを希望する青年だったのだが、先王ティトゥレルに拒絶され、妖術使いへと身を堕としていた。ただ妖術の力は確かなようであり、魔の園に迷い込んだパルジファルの正体を最初から見抜いている。第2幕ではクリングゾルに命じられたクンドリがパルジファルに言い寄って破滅させようとするのだが、逆にパルジファルは覚醒してしまい、アムフォルタスに共苦する。パルジファルはクリングゾルが放った聖槍を奪い、魔の園を後にする。
そして長くさすらった後で、モンサルヴァート城に戻り、救済者となる。最後の歌は、合唱によるもので「救済者に救済を!」という意味の言葉で終わる。


かなり複雑で不可解な進行を見せる劇であり、最後に歌われる「救済者」というのがイエス・キリストなのかパルジファルなのかもはっきり分かるようには書かれておらず、様々な説がある。

分かるのは、旧来のキリスト教に代わり、あるいはキリスト教を補助する形で新たなる信仰が生まれるということである。少なくとも誰もが疑いを持たずにキリストを信仰出来る時代は終わっている。新たなる何かが必要で、それを象徴するのがパルジファルである。最初は無垢で無知だったのに、突如目覚めて賢人となり、キリストの後を継ぐもの。それは何か。おそらく「音楽」が無関係ということはないだろう。この時代、音楽はすで文学や政治と絡むようになっており、ただの音楽ではなくなっている。
新たなる信仰の誕生、そこに音楽や芸術が関わってくるというのは、決して突飛な発想ではないように思う。
クンドリの原型が仏教を題材にしているということで、仏教がキリスト教を補完するという、おそらく正統的な形についても考えてみる。四門出遊前のゴータマ・シッダールタは、シャカ族の王子として何も知らぬよう育てられた。父王が聖者から「出家したらブッダになる」と預言され、国のことを考えた場合、王ではなくブッダになると困るので、世間を知らせぬようにとの措置だった。だが、四門出遊(ゴータマが王城の4つの門から出て、この世の現実を知るという出来事)により「生病老死」の「四苦」を知り、出家。「抜苦与楽(慈悲)」へと行き着く。そうしたゴータマからブッダになる過程をパルジファルが担い、イエスの化身ともいうべきアムフォルタスの苦を除く。ストーリーとしてはあり得なくもないが、木に竹を接ぐ感は否めない。当時のヨーロッパにおける仏教理解はかなりの誤解を含んでいたと思われる。


沼尻の音楽作りは、いつもながらのシャープでキレのあるもので、スケールをいたずらに拡げず、細部まで神経を通わせている。おどろおどろしさは余りないが、その方が彼らしい。

京都市交響楽団も音色に華があり、威力も十分であった。沸き続ける泉のように音に生命力がある。

歌手達も充実。動き自体は余り多くなかったが、その分、声の表情が豊かであり、神秘的なこの劇の雰囲気を的確に表現していた。

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2022年2月 6日 (日)

コンサートの記(763) 高関健指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2014「VIVA!オーケストラ」第3回「オーケストラってなぁに?」

2014年11月30日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2014『VIVA!オーケストラ』第3回「オーケストラってなぁに?」を聴く。
「~こどものためのオーケストラ入門~」という副題の付いているコンサートであるが指揮者も曲目も本格的であり、大人でも十二分に楽しめる。というより、正直、このプログラムは子供には理解出来ないと思う。
今日の指揮者は京都市交響楽団首席常任客演指揮者の高関健。ナビゲーターは「ぐっさん」こと山口智充。

曲目は、前半がハイドンの交響曲第90番より第4楽章、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」より第4楽章、ブラームスの交響曲第4番より第1楽章、後半がベートーヴェンの交響曲第1番より第2楽章、マーラーの交響曲第5番より第4楽章&第5楽章。オーケストラの弦楽の配置は前半と後半で変わり、前半はドイツ式の現代配置、後半は古典配置による演奏が行われる。

今日のコンサートマスターは渡邊穣。泉原隆志は降り番でフォアシュピーラーは尾﨑平。オーボエ首席奏者の髙山郁子は今日は全ての演目に登場。定期演奏会で前半にオーボエトップの位置に座ることの多いフロラン・シャレールは今日は後半のみの登場で次席として吹いた。小谷口直子はクラリネットが編成に加わるブラームスの曲から登場。フルート首席の清水信貴は後半のみの出演である。

開演前に京都コンサートホールのホワイエで、金管五重奏によるミニコンサートが行われる。出演者は、トランペットの早坂宏明(次席奏者)と稲垣路子、トロンボーンの岡本哲(首席指揮者)、ホルンの澤嶋秀昌、テューバの武貞茂夫。

曲は、ジョン・アイヴソンの編曲による「クリスマス・クラッカーズ」(「ジングルベル」、「Deck the halls(ひいらぎ飾ろう)」、「A Carol Fantasy」、「We wish a merry Christmas」)、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」の金管合奏編曲版、ルロイ・アンダーソンの「そりすべり」金管五重奏版という、いずれもクリスマスを意識した曲目であった。


午後2時開演。

まず、ハイドンの交響曲第90番より第4楽章の演奏。今日の高関はマーラーの交響曲第5番第5楽章のみ指揮棒を用い、他は全てノンタクトで指揮した。
ピリオド・アプローチを取り入れた快活な演奏。今日は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンはピリオドによる演奏である。
曲が終了して、拍手が起こる、と、高関は客席の方を振り向いて指を振り、「まだ終わりじゃない」と告げる。演奏再開。そして終わって拍手、と思いきや曲はまだ終わっておらず、高関が再び客席を振り向いて人差し指を左右に振る。3度目でやって演奏は終了した。実はこの曲はハイドンが聴衆に「演奏が終わった」と勘違いさせるためにわざと疑似ラストを書いたという冗談音楽なのである。疑似ラストというとチャイコフスキーの交響曲第5番の第4楽章が有名だがチャイコフスキーは勘違いさせようとして書いたわけではない。だが、ハイドンはわざとやっているのである。ハイドンは「驚愕」交響曲を書いていたりと、ユーモア好きでも知られている。


ここで、ぐっさん登場。グレーの背広に同じ色の帽子姿である。ぐっさんは、クラシック音楽を聴く習慣もないし、オーケストラの演奏をコンサートホールで聴くのも初めてだという。
京都コンサートホールはステージの後方にも客席があるのだが、それがぐっさんは不思議だという。高関が「あれは合唱の席なんです。合唱が入る時はあそこに合唱が入るんです。今日は合唱は入らないので客席になっています」と説明する。京都コンサートホールのいわゆるP席(ポディウム席)は基本的に合唱が入ることを想定して設計されたものであり、合唱が大勢入れるように客席は可動式になっている。3席で1ユニットで、そのまま取り外し可能である。というわけで少し薄くて背もたれも低く、たまに軋むという欠点もある。
P席のあるホールでも、ザ・シンフォニーホールやサントリーホールなどは席は固定式である(合唱が入ることを想定して作られたものではない)。
元々は、P席は、ベルリン・フィルハーモニーが再建される際に、当時のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督であったヘルベルト・フォン・カラヤンが、「カラヤンがホールの中心にいるようにする」というプランを取り入れて建設した際に生まれたものであり、合唱用に特別にあつらえられたものではない。

高関は、「あそこの席(P席)は(私から)良く見えるんです。あ、あそこのお客さん寝てるな、とか」と言う。ぐっさんが「逆にノリノリのお客さんなんかもいるわけですか?」と聞くと、高関は「それは迷惑です」と答える。ぐっさんは「ほどほどということで」とこの話題を締める。

ぐっさんは、オーケストラというものの成り立ちについて高関に聞く。高関は「昔、芝居などの時に、ステージの前の方にで歌ったり踊ったりする声を掛けたりする(その人達のことをコロスといってこれはコーラスの元となった言葉である)場所があったそうで、そこをオルケーストラと呼んだのが始まりだそうです。昔は下で演奏していましたが、ステージに上がって演奏を始めたのが大体、1700年頃といわれています(日本でいうと元禄時代である。1701年に浅野内匠頭と吉良上野介の松の廊下刃傷事件が起こり、翌1702年に赤穂浪士達の吉良邸討ち入りがあった)」と述べた。

ぐっさんは、「高関さんも、京都市交響楽団の方々も凄い方なんです。プロフィールに凄い経歴が書いてある。ですが、私のプロフィールはたった3行ってこれなんですか? 吉本興業、もっと良い情報持ち合わせていなかったんでしょうか? 『趣味は、散歩、ものまね、ギター』ってこれどうでもいい情報ですよね」と言う。


モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。緻密な演奏である。弦楽のビブラートはハイドンや、この後に演奏されるベートーヴェンに比べると多めだった。
この曲が始まる前に高関はフーガについての説明を行った。


ブラームスの交響曲第4番第1楽章の演奏の前に、高関はソナタ形式についての説明を行う。第一主題、第二主題、展開部、再現部、終結部からなるのだが、これを高関はプレートを使って説明する。第一主題は「A」、第二主題は「B」、展開部は「サビ」と書かれたプレートである。「A」のプレートは黄色、「B」のプレートは緑、「サビ」のプレートはピンク色をしている。展開部はサビとは違うのだが、わかりやすくサビと呼ぶことにしたらしい。まず予行として高関は「A」のプレートを掲げながら、第一主題を指揮し、いったん指揮を終えて、第二主題に入るちょっと前から演奏を始め、チェロが第二主題を奏でたときに「B」のプレートを掲げる。それからプレートはないのだが、もう一つの主題を演奏する。

本番の演奏でも、高関は「A」のプレートを掲げてから指揮を始め、第二主題に入ると「B」のプレートを取り出す。展開部では「サビ」と出し、その後、再現部でも「A」と「B」のプレートを掲げた。
なかなか白熱した演奏である。
今日は1階席の18列18番目の席で聴いたのだが、良い音で聞くことが出来る。京都コンサートホールの1階席は音響が今一つなのだが、高関はオーケストラを鳴らすのは得意なので問題はない。


後半、弦楽は配置を変えてヴァイオリン両翼の古典配置となる。ぐっさんは、配置が変わったことについて高関に聞く。高関は「元々は今のような配置で演奏していたようですが、第二次大戦後に前半のような配置も生まれたようです」と答える。現代配置が生まれたことについて高関は「諸説あるのですが、録音の際に前半のような配置にした方が良かったのではないかとも言われています。ステレオで録音する際に、こちら側(下手側)からは高い音、こちら側(上手側)から低い音と分けて聞こえるのが効果的だったのではないかと」と推測した。
現代配置の生みの親は実はわかっている。イギリスの指揮者であるレオポルド・ストコフスキーである。現代配置と呼ばれているのは彼がフィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者だった時代に始めたものだ(そのため、アメリカ式の現代配置は「ストコフスキー・シフト」とも呼ばれる)。ただ配置を変えた理由については明確になっていないようだ。また、チェロが指揮者の正面に来るドイツ式の現代配置は誰が始めたのか正確には不明のようである。

配置換えを担当したステージマネージャーの日高成樹がステージ上に呼ばれるが、日高は内気な性格のようで、高関からもぐっさんからもマイクを向けられたが、結局、一言も発することなくステージを後にした。

ぐっさんは、配置が正反対に変わったコントラバス奏者の石丸美佳にインタビューするが、ぐっさんの「どちらが弾きやすいですか?」という質問に石丸は「どちらでも同じぐらい」という無難な返答をした。


ベートーヴェンの交響曲第1番より第2楽章。フレッシュな演奏である。聴覚的にもそうだが、視覚的にも音の受け渡し方がよりわかりやすくなる。


ラストの曲目であるマーラーの交響曲第5番より第4楽章&第5楽章。大編成での演奏。高関によると「83名か84名による演奏」だそうである。ぐっさんが「一番編成の大きい曲は何人ぐらいで演奏するんですか?」と聞くと高関は「実はマーラーの曲でして、交響曲第8番『千人の交響曲』という曲で、合唱を含めて全1033名で演奏したという記録があります。実は朝比奈隆先生が、フェスティバルホールで同じ人数で再現されたことがあります」と答えた。高関も「千人の交響曲」は指揮したことがあるが、流石に千人には到達せず、850人編成での演奏を3回指揮したことがあるという。

ぐっさんは客席で聴いてみたいということで、ステージを降りて、空いている前の方の席に座る。

有名な第4楽章アダージェットは京響の弦楽が艶やかであり、第5楽章はスケールが大きい(先に書いた通り、第5楽章だけは高関は指揮棒を手にして指揮した。指揮棒を使った方が大編成のオーケストラを操りやすいからだと思われる)。ただ、京都コンサートホールの音響は第5楽章を聴くには余り効果的ではない。この楽章では、管楽器奏者が朝顔を上げて、下ではなく真横に向けて音を出すようマーラーが楽譜に書き込んでいるのだが、トランペットの直接音などは強すぎて全体のバランスが悪くなってしまうのである。弦楽の音がもっと前に飛ぶホールだと良かったのだが。

とはいえ、充実した演奏を楽しむことが出来た。

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2022年1月 1日 (土)

観劇感想精選(419) 草彅剛主演「アルトゥロ・ウイの興隆」2021@ロームシアター京都

2021年12月23日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「アルトゥロ・ウイの興隆」を観る。2020年1月に、KAAT 神奈川芸術劇場で行われた草彅剛主演版の再演である(初演時の感想はこちら)。前回はKAATでしか上演が行われなかったが、今回は横浜、京都、東京の3カ所のみではあるが全国ツアーが組まれ、ロームシアター京都メインホールでも公演が行われることになった。ちなみにKAATもロームシアター京都メインホールも座席の色は赤だが、この演出では赤が重要なモチーフとなっているため、赤いシートを持つ会場が優先的に選ばれている可能性もある。アルトゥロ・ウイ(草彅剛)が率いるギャング団は全員赤色の背広を身に纏っているが、仮設のプロセニアムも真っ赤であり、3人の女性ダンサーも赤いドレス。演奏を担当するオーサカ=モノレールのメンバーもギャング団と同じ赤いスーツを着ている。

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アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)を皮肉る内容を持った「アルトゥロ・ウイの興隆」。元々のタイトルは、「アルトゥロ・ウイのあるいは防げたかも知れない興隆」という意味のもので、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)がアメリカ亡命中の1941年に書かれている。ナチスもヒトラーも現役バリバリの頃だ。ヒトラー存命中にその危険性を告発したものとしては、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者」と双璧をなすと見なしてもよいものだが、すぐに封切りとなった「独裁者」に対し、「アルトゥロ・ウイの興隆」はその内容が危険視されたため初演は遅れに遅れ、ブレヒト没後の1958年にようやくアメリカ初演が行われている。ブレヒトの母国でナチスが跋扈したドイツで初演されるのはもっと後だ。

ブレヒトの戯曲は、今がナチスの歴史上の場面のどこに当たるのか一々説明が入るものであるが(ブレヒト演劇の代名詞である「異化効果」を狙っている)、今回の演出ではブレヒトの意図そのままに、黒い紗幕に白抜きの文字が投影されて、場面の内容が観客に知らされるようになっている。

作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、演出:白井晃。
出演は、草彅剛、松尾諭(まつお・さとる)、渡部豪太、中山祐一朗、細見大輔、粟野史浩、関秀人、有川マコト、深沢敦、七瀬なつみ、春海四方(はるみ・しほう)、中田亮(オーサカ=モノレール)、神保悟志、小林勝也、榎木孝明ほか。


禁酒法時代のシカゴが舞台。酒の密売などで儲けたアル・カポネが権力を握っていた時代であるが、アル・カポネの存在は、セリフに一度登場するだけに留められる。
この時代が、ナチス台頭以前のドイツになぞらえられるのであるが、当時のドイツは深刻な不況下であり、ユンカーと呼ばれる地方貴族(ドイツ語では「ユンケル」という音に近い。「貴公子」という意味であり、ユンケル黄帝液の由来となっている。「アルトゥロ・ウイの興隆」では、カリフラワー・トラストがユンカーに相当する)が勢力を拡大しており、贈収賄なども盛んに行われていた。
清廉潔白とされるシカゴ市長、ドッグズバロー(榎木孝明)は、当時のドイツの大統領であったハンス・フォン・ヒンデンブルクをモデルにしている。ヒンデンブルクはヒトラーを首相に指名した人物であり、ナチスの台頭を招いた張本人だが、この作品でもドッグズバローはアルトゥロ・ウイの興隆を最初に招いた人物として描かれる。

小さなギャング団のボスに過ぎなかったアルトゥロ・ウイは、ドッグズバローが収賄に手を染めており、カリフラワー・トラストに便宜を図っていることを突き止め、揺する。それを足がかりにウイの一団は、放火、脅迫、殺人などを繰り返して目の前に立ち塞がる敵を容赦なく打ち倒し、暴力を使って頂点にまで上り詰める。
ぱっと見だと現実感に欠けるようにも見えるのだが、欠けるも何もこれは現実に起こった出来事をなぞる形で描かれているのであり、我々の捉えている「現実」を激しく揺さぶる。

途中、客席に向かって募金を求めるシーンがあり、何人かがコインなどを投げる真似をしていたのだが、今日は前から6列目にいた私も二度、スナップスローでコインを投げる振りをした。役者も達者なので、「わー! 速い速い!」と驚いた表情を浮かべて後退してくれた。こういう遊びも面白い。

クライマックスで、ヨーゼフ・ゲッペルスに相当するジュゼッペ・ジヴォラ(渡部豪太)とアドルフ・ヒトラーがモデルであるアルトゥロ・ウイは、客席中央通路左右の入り口から現れ、客席通路を通って舞台に上がるという演出が採られる。ナチス・ドイツは公正な民主主義選挙によって第一党に選ばれている。市民が彼らを選んだのである。市民に見送られてジヴォラとウイはステージに上がるという構図になる。

アメリカン・ソウルの代名詞であるジェイムズ・ブラウンのナンバーが歌われ、ステージ上の人物全員が赤い色の服装に変わり、ウイが演説を行って自分達を支持するよう客席に求める。ほとんどの観客が挙手して支持していたが、私は最後まで手を挙げなかった。お芝居なので挙手して熱狂に加わるという見方もあるのだが、やはり挙手ははばかられた。ただ、フィクションの中とはいえ、疎外感はかなりのものである。ナチスも熱狂的に支持されたというよりも、人々が疎外感を怖れてなんとなく支持してしまったのではないか。そんな気にもなる。流れに棹さした方がずっと楽なのだ。

アルトゥロ・ウイがヒトラーの化身として告発された後でも、音楽とダンスは乗りよく繰り広げられる。その流れに身を任せても良かったのだが、私はやはり乗り切ることは出来なかった。熱狂の中で、草彅剛演じるアルトゥロ・ウイだけが身じろぎもせずに寂しげな表情で佇んでいる。ふと、草彅剛と孤独を分かち合えたような錯覚に陥る。

こうやって浸ってみると孤独を分かち合うということも決して悪いことではない、むしろ世界で最も良いことの一つに思えてくる。誰かと孤独を分かち合えたなら、世界はもっと良くなるのではないか、あるいは「こうしたことでしか良くならないのではないか」という考えも浮かぶ。

ヒトラーが告発され、葬られても人々のうねりは止まらない。そのうねりはまた別の誰かを支持し攻撃する。正しい正しくない、良い悪い、そうした基準はうねりにとってはどうでもいいことである。善とも悪ともつかない感情が真に世界を動かしているような気がする。


大河ドラマ「青天を衝け」で準主役である徳川慶喜を演じて好評を得た草彅剛。私と同じ1974年生まれの俳優としては間違いなくトップにいる人である。横浜で観た時も前半は演技を抑え、シェイクスピア俳優(小林勝也。ヒトラーは俳優から人前に出るための演技を学んだとされるが、ヒトラーに演技を教えたのはパウル・デフリーントというオペラ歌手であると言われている。「アルトゥロ・ウイの興隆」でシェイクスピア俳優に置き換えられているのは、この作品がシェイクスピアの「リチャード三世」を下敷きにしているからだと思われる)に演技を学んでから生き生きし出したことに気づいたのだが、注意深く観察してみると、登場してからしばらくは滑舌を敢えて悪くし、動きにも無駄な要素を加えているのが分かる。意図的に下手に演じるという演技力である。


演説には乗れなかったが、スタンディングオベーションは誰よりも早く行った。良い芝居だった。

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2021年4月23日 (金)

コンサートの記(712) 広上淳一指揮京都市交響楽団西宮公演2021

2021年4月25日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、広上淳一指揮京都市交響楽団の西宮公演を聴く。

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新型コロナの感染は留まるところを知らず、大阪府内では1日の最多記録を更新する1220名の新規感染者が出た。昨日は梅田とその北の茶屋町に行ったのだが、梅田駅構内と茶屋町はそれなりに人がいたが(それでも平時の半分程度)梅田芸術劇場の入る茶屋町アプローズの前は本当に人がいなかった。大阪市民が手をこまねいているというわけでも、感染拡大防止のための努力を怠っているというわけでもないと思われるのだが、変異によって感染力が強まったのだろうか。

今日の京都市交響楽団の西宮公演に関しても、「大阪から兵庫に行くわけにはいかない」という自粛コメントをTwitterなどでしている人が多い。兵庫県立芸術文化センターもホームページにおいて今日付で、「症状が無くても自粛したいという人に関してはチケット料金払い戻しに応じる」という旨の発表を行った。

 

今回の京都市交響楽団の西宮公演は、本来なら1年前に行われているはずだったのだが、コロナ禍により開催が見送られ、同一プログラムによる演奏会が組まれることになった。状況的に再度中止もしくは延期になってもおかしくなかったが、開催されることになった。
本来なら緊急事態宣言が出されてもおかしくないのだが、東京オリンピックが関係しているのかそうでないのか、「まん延防止等重点措置」に留められている。それにしても略称「まん防」ではユーモラスで深刻さが感じられないが、そんなレベルの人が作っているという証でもある。

行きの阪急電車でも淡路駅では、「不急不要の外出はお控え下さい」とのアナウンスがあった。
コンサートホールの入り口に置かれたチラシの束(コロナの感染を考慮してスタッフからの手渡しでなく、積み置かれたものを聴衆が自分で取るというシステムになっている)の中にも、井戸敏三兵庫県知事からの「座席配置の工夫又はアクリル板の設置、消毒液の設置等の感染対策を行っていない飲食店、カラオケ店など、リスクのある場所への出入りを自粛してください」という要請が記された紙が含まれている。

そんな中でのコンサート。曲目は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:金川真弓)とマーラーの交響曲第5番。共に指揮者としても大活躍した作曲家、というよりもマーラーに関しては当代一の指揮者として評価されたが、作曲家としての名声が高まったのは死後であり、生前は指揮者としてのみ評価されていた。マーラーも自身の交響曲が聴衆から容易に受け入れられないということは心得ており、指揮者としての名声が下がるのを避けるため、自作の初演は本拠地であるウィーン以外で行っている。

偶然ではあるが、先週、広上と京響が行った「スプリング・コンサート」のメインが「死」を描いたチャイコフスキーの「悲愴」交響曲で、その次となる今回の演奏会のメインが「死からの復活」を描いたマーラーの交響曲第5番という並びになった。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。第2ヴァイオリンの客演首席には神戸室内管弦楽団の西尾恵子が入る。テューバも武貞茂夫の後任が決まらず客演奏者を招くことが続いているが、今日は仙台フィルハーモニー管弦楽団のピーター・リンクが初めて入った。
今日はクラリネット首席の小谷口直子が全編に出演する。フルート首席の上野博昭、ホルン首席の垣本昌芳、トランペット首席のハラルド・ナエスなどはマーラーのみの出演である。

今日もドイツ式の現代配置だが、ティンパニが指揮者の真正面に置かれ、金管奏者はその前に横一列(向かって左側がホルン、向かって右側にトランペット)に並ぶという布陣である。マーラーの交響曲第5番で活躍するハープの松村衣里はチェロの第1プルトの後ろという指揮者に近い場所で演奏した。

 

今日は3階席3列目のほぼ正面。チケット発売時は収容最大観客数の半分までという基準だったため、発売日の午後にはもう通常の手段ではチケットは手に入らず、いつもとは異なる手段でチケットを買った(勿論、正規のルートである)。その後、満員でもOKとなったため追加発売が行われたが、自重した人も多く、空席も比較的多めである。

 

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(通称:メンコン)。ソリストの金川真弓(かながわ・まゆみ)は、2019年のチャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で4位入賞、2018年のロン=ティボー国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門では第2位&最優秀協奏曲賞を受賞というコンサート歴を誇る若手。それほど知名度の高くないコンクールでは1位も獲得している。1994年、ドイツ生まれ。幼時に日本に戻り、4歳でヴァイオリンを開始。その後、ニューヨーク、ロサンゼルスでの生活を経てドイツに戻り、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学でコリヤ・ブラッハーに師事。現在もベルリンを拠点に活動している。

金川のヴァイオリンを聴くのは初めてだが、美音でスケールも大きい。それだけのヴァイオリニストなら数多いが、音の強弱の付け方がきめ細やかで、名古屋で聴いた諏訪内晶子独奏のメンコンを想起させる。時折見せる弱音の抜き方は諏訪内同様、日本人的な感性による演奏と取ることも出来るだろう。
一方で、高貴な印象の諏訪内のヴァイオリンに対して金川はかなりエモーショナルであり、第1楽章のカデンツァなどでは情熱全開の演奏を聴かせる。
富豪の家に生まれたメンデルスゾーン。育ちの良さと同時に、指揮者としてJ・S・バッハの「マタイ受難曲」を復活初演させるなど、意欲的な音楽活動を行った。そうした彼の多面性が、様々な演奏を聴くことで明らかになっていくようだ。
広上指揮の京都市交響楽団も表現力豊かな伴奏を聴かせる。

金川のアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。美音とスケールの大きさはそのままに、確かな構築力も感じさせる優れた出来であった。今後がかなり期待出来そうなヴァイオリニストである。

 

マーラーの交響曲第5番。トランペットの独奏で始まる曲だが、広上は出だしだけ示して、後は首席トランペットのハラルド・ナエスに任せる。余談だが、兵庫県立芸術文化センターのポッケと呼ばれる展示スペースでは現在、兵庫芸術文化センター管弦楽団(通称:PACオーケストラ)の卒団生からのメッセージが展示されているのだが、その中にハラルド・ナエスのものもあった。ナエスにとっては凱旋公演ということでもある。

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マーラーも得意レパートリーとする広上淳一。第1楽章前半などは、これまで聴いてきたマーラーの演奏に比べると今回はややタイトな印象を受けたが、第2楽章や第3楽章、第5楽章のいずれも終盤においてはスケールを拡大し、師であるレナード・バーンスタイン指揮のマーラーを念頭に置いたような巨大な音像を構築する。日本人指揮者と日本のオーケストラで、ここまでスケールを拡げても高密度であるため大風呂敷にならないというのは大したものという他ない。
広上の指揮姿は今日もユーモラスで、指揮台の上でステップを踏んだり、右から左へと両手を素早く振ったりする。肩で指揮をすることが多いのも広上の最近の特徴である。

有名な第4楽章のアダージェットも、ユダヤ系のマーラー指揮者によるものとは違って濃厚さはないが、ノスタルジアや儚さ、淡い憧れなどが浮かび上がる出来で、これも一つの解釈として納得のいくものである。アダージェットについては、マーラーと親交のあったウィレム・メンゲルベルクによる、「妻であるアルマに向けてマーラーが書いた音楽によるラブレター」という解釈がよく知られており、またレナード・バーンスタインがジョン・F・ケネディ大統領追悼演奏の一つに加えたことから「死」に繋がるというイメージも生まれたが、それらとはまた違った味わいである。ちなみにアダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」で使われて有名となったが、主人公のアッシェンバッハ(トーマス・マンの原作では作家、映画ではマーラーをモデルとした作曲家となっている)は疫病で死ぬということになっており、今と重なる。
第5楽章もスケール雄大で、響きも磨き抜かれており、全てのパートが雄弁。マーラーの交響曲の重層性も明らかになっていく。

金川がアンコールで演奏したバッハの時代の音楽がどちらかというと抒景詩寄りで「神からの恩寵」的であったのに比べ、メンデルスゾーンの時代には人間の内面が音楽の主題となり、マーラーに至ると無意識にまで視点が向けられるようになる。実際にマーラーはジークムント・フロイトから精神分析を受けたことがあり、グスタフ・クリムトに代表されるウィーン分離派など、世紀末芸術の深層心理重視の作風にも近いものが感じられる。
結果として演奏だけでなく、ドイツ語圏の音楽や文化の歴史の流れを確認するという点でも興味深い演奏会となった。

演奏終了後、広上はまず冒頭のトランペット独奏などを吹いたハラルド・ナエスを立たせ、次いで第3楽章で活躍したホルン首席の垣本昌芳を立たせる。その後、各パートの首席奏者を立たせた後で、パート全員に起立を指示するが、打楽器はティンパニの中山航介(打楽器首席)を除くメンバーを立ち上がらせたため、中山が左右の手で自分を指さして、「僕も! 僕も! 僕も立たせて! 今立たせて!」というようにアピール。事情を知っている人達からの笑い声が起こる。広上は「後でね」という風に手で制して、今日も中山をトリとして立たせ、指揮台の上から拍手を送った。最近、このショートコント(?)が定番となりつつある。

 

広上は、「このような状況の中、このように沢山の方にお越し下り、『感謝!』です。感染にお気を付けて、でも演奏会には来て下さい」と言って、アンコール楽曲、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から月光の音楽の演奏が始まる。美演であった。

ちなみに広上さんは、YouTubeで「週刊かんべぇ」という企画を始めるようである。

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2021年4月 1日 (木)

観劇感想精選(389) 燐光群+グッドフェローズプロデュース公演「ローゼ・ベルント」

2008年7月16日 尼崎市塚口の兵庫県立ピッコロシアターにて観劇

午後7時から、尼崎市の兵庫県立ピッコロシアターで、燐光群+グッドフェローズプロデュース公演「ローゼ・ベルント」を観る。原作:ゲアハルト・ハウプトマン(底本 番匠谷英一訳『枯葉』)、上演台本&演出:坂手洋二。タイトルロールを演じるのは占部房子。出演はほかに、大鷹明良、猪熊恒和、鴨川てんし、大西孝洋、西山水木、嚴樫佑介、中山マリ、川中健次郎など。

ドイツの劇作家、ゲアハルト・ハウプトマン(1862-1946)の戯曲を、坂手洋二が比較的自由に翻案した本が用いられている。役名もドイツ人のもので、場所もドイツなのだが、官庁の名前が「文部科学省」だったり、結婚の日に大安か友引を選んだり、「地球の裏側のブラジルに移民しよう」というセリフがあるなど、実質的には日本が舞台となっている。遠い異国の出来事ではないということだ。

牛肉偽装事件が出てきたり、「現代の『蟹工船』諸君!」というセリフがあったり、時事問題を扱っているのがいかにも坂手洋二らしい。


「ローゼ・ベルント」という題名で、主人公もローゼ・ベルント。そしてローゼ・ベルントを巡る劇であるにも関わらず、(ここが逆説的であるが)実はローゼ・ベルントを描いた劇ではない。

ローゼ・ベルントは一個人でありながら、単なる一個人ではなく女性の歴史を体現しており、一方でローゼ・ベルントは一個人ですらなく、ある種の視座に過ぎないと見ることも出来る。私がこの劇の真相に迫れたのは現時点ではここまでである。記憶を辿りながら考える作業を進めれば、もっと深部まで行き着けるかも知れない。

ストーリー的には難解ではないのだが、背景に隠された巨大なものを読み解くのはなかなか容易ではない舞台である。


ローゼ・ベルントを演じた占部房子が大変な熱演。また、燐光群メンバー最古参ということもあって普段は落ち着いた紳士やリーダー格を演じることの多い猪熊恒和が、今回は頭は切れるが乱暴で残忍な悪役(シュトレックマン役)を演じているというのも面白かった。

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ロームシアター京都 ハンブルク・バレエ団 「ベートーヴェン・プロジェクト」映像上映会

2021年3月21日 ロームシアター京都サウスホールにて

午後1時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、ハンブルク・バレエ団の映像上映会、「ベートーヴェン・プロジェクト」を観る。

本来は、この3月にハンブルク・バレエ団の来日公演として「ベートーヴェン・プロジェクト」の日本初演がロームシアター京都メインホールで行われるはずだったのだが、コロナ禍によって来日不可となり、代わりに「ベートーヴェン・プロジェクト」とコロナ下に制作された新作「ゴースト・ライト」の上映会が行われることになった。昨日と今日、「ベートーヴェン・プロジェクト」が午後1時から、「ゴースト・ライト」が午後5時から上映される。ということで今日2本とも観ることが可能なのだが、バレエの映像を1日2回観たいと思うほどバレエ好きではない。

「ベートーヴェン・プロジェクト」は、2018年に初演された作品。映像は2019年10月にバーデン=バーデン祝祭劇場で行われた上演を収めたものである。この映像はBSプレミアムの「プレミアムシアター」で放送されており、またDVDやBlu-rayも発売されていて、家庭でも観ることが出来る。振付:ジョン・ノイマイヤー。第1部のピアノ演奏:ミカル・ビアウク。第2部と第3部の演奏は、サイモン・ヒューイット指揮のドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団。映像監督はミリアム・ホイヤー。

第1部「ベートーヴェン・フラグメント」、第2部「プロメテウスの創造物」、第3部「エロイカ(英雄)」の3部からなる。

 

第1部「ベートーヴェン・フラグメント」。プロメテウス主題が登場する「エロイカ変奏曲」が演奏される。3部ともプロメテウス主題が登場する作品が演奏され、人類に叡智を与えたプロメテウスと人類そのものへの讃歌が奏でられる。

ベートーヴェン自身を演じているのは、アレイズ・マルティネス。ベートーヴェン本人も推定身長165センチと、当時の西洋人としてもやや小柄だったようだが、マルティネスも他の男性バレエダンサーと比較して明らかに背が低いダンサーである。女性ダンサーよりも小さいかも知れない。

マルティネスが演じているベートーヴェンは、おそらくまだ若い頃、ハイリゲンシュタットの遺書を書いた時代だと思われる。
ピアノの足に絡みついていたマルティネスは、プロメテウス主題に合わせて踊る。やがて高貴な身分を表すと思われるマントを羽織った男性ダンサーが登場するが相手にされない(貴族に憧れつつも果たせないベートーヴェンの心情を表現したようである)。男性ダンサー二人組と楽しく踊った後で、男女のペアが現れる(女性ダンサーはアジア系である)。男女のペアとも楽しく踊るベートーヴェンだが、結局、ペアはペアのまま去り、先程現れた男性ダンサー二人組も、新たに現れた女性ダンサーに夢中になり、ベートーヴェンに構ってくれず、最後にはベートーヴェンは突き飛ばされて横転してしまう。その後、花嫁衣装のダンサーが現れるが、彼女はピアニストにご執心というわけで、作曲家の孤独が描かれている。やがてベートーヴェンは芸術そのものを恋人とし、人生を捧げることを誓う(セリフがないので「ように見える」というだけで、ノイマイヤーの実際の意図は不明である)。すると、それまですげなくしていたダンサー達が音楽の精として生まれ変わったように快活なダンスを披露し、最後はベートーヴェンを掲げて礼賛する。

続いて演奏されるのは、ピアノ三重奏曲「幽霊」である。不協和音が印象的な作品として知られている。赤いドレスの女性ダンサーが登場し、ベートーヴェンとパ・ド・ドゥを行うのだが、やがて彼女はすでに亡き人となっていることがうつ伏せに横たわることで示される。赤いドレスの女性ダンサーはその後に一度起き上がるのだが、それはベートーヴェンに喪服を着せるためであり、その後、男性ダンサー二人に仰向きに掲げられて退場する。恋人のように見えたのだが、実際はベートーヴェンの母親であるマリアであったようだ。赤い服を着た女性ダンサーはもう一人現れ、こちらが「不滅の恋人」のようである。

突然、金属音が混じり、録音によるピアノの演奏が奏でられる。宿痾となった難聴の始まりである。やがてピアニストのミカル・ビアウクもベートーヴェン役のマルティネスと視線を交わして退場する。悲劇の予兆だが、ベートーヴェンはそれを乗り越えていく。

第2部「プロメテウスの創造物」では、ベートーヴェンの母親役だと思われる女性ダンサーがこれから演奏される曲目について解説を行う。ドイツ語で、日本語字幕もないため何を言っているのかよく分からないが、ベートーヴェン作曲の「プロメテウスの創造物」からの2曲が演奏されると言っていることだけはなんとなく分かる。
第2部は第1部と異なり物語性は低め。天上の描写があり、アポロ神を始めとする多くの神々がベートーヴェンを祝福する。

 

第3部の「エロイカ(英雄)」。こちらも第2部同様、エネルギッシュでバリエーションに富んだ表現が中心だが、第2楽章の葬送行進曲だけは人一人の死というよりも何らかの崩壊が描かれているようであり、強い悲劇性を帯びている。

ハンブルク・バレエ団であるが、東アジア人のダンサーがかなり多い。特にアジア人女性ダンサーは重要な役割を担っている。エンドクレジットで確認したところ、日本人、中国人、韓国人の全てが含まれていることが分かった。日本人女性ダンサーは二人いて、有井舞耀(ありい・まよ)と菅井円加であることが確認出来た。

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2021年3月12日 (金)

コンサートの記(701) びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー作曲 歌劇「ローエングリン」 2021.3.7 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか

2021年3月7日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホールプロデュースオペラ ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。ワーグナー作品を積極に演奏して、近年では「日本のバイロイト」とも呼ばれるようになっているびわ湖ホール。楽劇「ローエングリンの指輪」に4年がかりで挑み、昨年は最終作である楽劇「神々の黄昏」が新型コロナによって公開上演こそ中止になったものの無観客上演を行い、同時配信された映像が世界各国45万人以上の視聴を記録するなど、話題になった。そして今年は人気作の「ローエングリン」。コロナ第3波が心配であったが上演に漕ぎ着けた。だが、昨日今日と2回公演のうち、今日の公演は、当初は外国人キャスト2名が出演する予定だったのだが、入国制限による来日不可ということで日本人キャストに変更になり、更にエルザ役の横山恵子が体調不良のため降板し、元々カバーキャストとして入っていた木下美穗子が出演することになった。関西は緊急事態宣言が解除され、街に人も多くなったが、余波はまだ続いている。

今回はステージ前方の2ヵ所に台を築いてのセミ・ステージ形式での上演である。映像と照明を駆使し、演技と衣装も凝っていて、セミ・ステージではあるが十分にドラマを楽しめるようになっている。

指揮は、びわ湖ホール芸術監督である沼尻竜典。演奏は京都市交響楽団。演出は粟國淳(あぐに・じゅん)。出演は、斉木健詞(ドイツ王ハインリヒ)、小原啓楼(おはら・けいろう。ローエングリン)、木下美穗子(エルザ・フォン・ブラバント)、黒田博(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、八木寿子(やぎ・ひさこ。オルトルート)、大西宇宙(おおにし・たかおき。王の伝令)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーと客演歌手による混成である。

パンフレットは無料ながらボリューム十分で読み応えがあり、びわ湖ホール プロデュースオペラの良心が窺える。

 

京都市交響楽団はステージ前方を歌手達に譲り、舞台の中央部で演奏。舞台奥部にはひな壇が設けられていて、そこに合唱が陣取る。合唱とオーケストラの間には、ビニールを張り巡らした柵が設けられており、飛沫対策が取られている。なお、合唱は全員不織布マスクをしながらの歌唱である。合唱スペースの後ろにスクリーンが下りていて、ここに様々な映像が投影される。

オルトルート役の八木寿子は真っ赤なドレスを纏っており、オルトルートが主役となる場面では照明も赤に支配される。一方、エルザが主役の場面では神秘的な青系の照明が用いられる。

びわ湖ホール大ホールの前から3列目までは飛沫対策のため空席となっているが、ここにモニターが4台ほど設置されており、歌手達はモニターで沼尻の指揮を確認しながら歌うことになる。更に第2幕や第3幕では、金管のバンダが、空席になっている前方席の両側で壁を背にしながらの演奏を行う。

今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田尚泰。泉原隆志がフォアシュピーラーに入る。弦楽器の配置はドイツ式の現代配置がベースだが、コントラバスは最後列、合唱スペースの前に横一線に並ぶ。管楽器はコンサートの時とは違い、下手側のヴァイオリン奏者の背後に木管楽器群やハープが並び、上手側のチェロ奏者やヴィオラ奏者の後ろにティンパニなどの打楽器や金管楽器が入る。
バンダが多用されるため、トランペットの客演奏者が多い。またオルガンの演奏を桑山彩子が務める。

それまで歌手達が主役で、管弦楽は伴奏だったオペラだが、ワーグナーはオーケストラと歌手が一体となった一大交響楽を構想し、実現していった。その後、総合的なスタイルは更に追求され、楽劇というジャンルを生むことになる。

ワーグナーは子どもの頃は音楽よりも文学を好んでおり、シェイクスピア作品などを愛読。音楽家よりも文学者を夢見る少年であった。ということもあって、ワーグナーは自身の歌劇や楽劇の台本のほとんどを自ら執筆しており、「ローエングリン」もまたワーグナーが台本から音楽に至るまでを一人で手掛けた作品である。

ワーグナーはかなりハチャメチャな人生を送った人物であり、作曲家としては遅咲き。もっとも早い時期から優れた音楽の才を示していたのだが、人間関係の形成が下手だったり、倫理面で問題があったりしたため、人から受け入れられにくかった。「音楽史上最も性格が悪かった有名作曲家は誰か」というアンケートを行ったら、おそらく1位になるのはワーグナーであろう。その後、革命運動に参加したことで指名手配され、スイスでの亡命生活を余儀なくされる。革命運動参加の直前に完成した「ローエングリン」だが、上演の機会はドイツ国内に限られたため、ワーグナーは自作でありながら長きに渡って「ローエングリン」を観る機会を得ることが出来なかったという。初演は、1850年。フランツ・リストの指揮によりワイマール宮廷劇場で行われた。

 

事件や進行、感情などは全て歌われるため、筋の把握自体はそれほど困難ではない作品である。
先日、NHKオンデマンドで観た2018年のバイロイト音楽祭での「ローエングリン」について書いた際にもあらすじは記したが、もう一度確認しておく。

舞台となっているのは、現在のベルギー北部にあったブラバント公国である。先のブラバント大公が亡くなり、エルザとジークフリートという大公の子が残される。だが、ある日、森に出掛けたエルザとジークフリートは迷子になり、エルザは戻ったが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントを訪れたドイツ王ハインリヒは、ブラバントの貴族、フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵から、「エルザがジークフリートを殺害し、継承権を独り占めにしようとしている」との告発を受け、裁判を行うことにする。
被疑者であるエルザであるが、申し開きをするよう言われても、「白鳥の曳く小舟に乗って騎士がやって来る」といった、否認とは全く関係のない話をし始める。なんとも妙なのだが、実際に白鳥の曳く小舟に乗った騎士(ローエングリンである)がやって来る。そしてエルザの窮地を救うことになる。
フリードリヒは、ブラバントに貢献する数々の人材を生んだ名家出身のオルトルートと結婚した。実はオルトルートは魔女であり、フリードリヒは妻となったオルトルートの助力を得ていて、そのことで自信満々であったが、騎士と決闘してあえなく敗れ去る。

余り触れられていないことだが、エルザもまた予知能力のようなもの、あるいは思い描いた通りの騎士を呼び寄せる力を持っており、明らかに異能者である。「ローエングリン」は実は異能者である女性二人の対決という側面を持っているように思われる。

騎士は名を明かさず、正体を問うてもいけないと人々に誓わせるのだが、エルザにだけは正体を明かす可能性を話す。これがその後の悲劇への第一歩となる。オルトルートはエルザに、「後ろ暗いところがあるから正体を明かせないのではないか」「本当に彼の身分は貴族なのか」と疑問をぶつけ、エルザの心を揺るがす。

結婚式が終わり、二人きりとなった騎士とエルザだが、エルザは騎士に正体を明かすよう迫る。騎士は、「信じる力があれば名など知らなくてもいい」という意味の言葉を繰り返す(「ロミオとジュリエット」のバリエーションのように見えなくもない)。知られたなら全てが終わることを知っているからだ。だが、エルザは騎士を信じることが出来ず、破滅へと向かう。

絶対的な信仰の時代であった中世(それゆえ進歩も滞り、「暗黒の中世」などと呼ばれることになる)が終わり、科学の発展により信仰の屋台骨がきしむ時代が訪れていた。「神」の存在そのものへの疑問である。その代表格であるニーチェはワーグナーのシンパだった。
ニーチェはワーグナーに対して信仰に近い心酔を示していた。おそらくニーチェにとってはワーグナーこそが神に成り代わって世界を再生させる存在でもあったのだろうが、やはりこの関係もニーチェのワーグナーに対する不信により終わりを告げている。

自己を神格化するような性格であったワーグナーは、音楽に多大なる影響を与えたが、それが調性音楽の崩壊という一種のバッドエンドを招いている。

神の時代が終わり、人間の時代が来る。これは政治や宗教のみならず文化でもそうであり、音楽にも当然ながら反映される。そしてその人間の欲望の肥大化が、二つの世界大戦など20世紀の悲劇を招き、音楽も時の政権によって利用されることになるのだが、それはまだ先の話である

 

私個人の話をすれば、――興味がある人は余りいないと思われるが――、京都に移住後、真宗大谷派の門徒としての信仰生活に入るようになった。宗教色の余り強くない関東で育った人間にとって京都で生きるためにはそれは必須であるように思われた。どの宗教や宗派を選ぶかから始まり、最終的には父方の家の宗派である真宗大谷派を選ぶ。人間としての軸の創造である。高村光太郎的に言えば、地理的な意味ではないが「ここを世界のメトロポオルとひとり思」うことにしたのだ。ただ実感するのは、今の時代に宗教色の弱い地域に生まれ育った人間が絶対の信仰を得るのは難しいということだ。親鸞ですら弥陀の本願を信じ切れずに苦悩した、況んや~をやである。
絶対的な信仰は、心のみならずあらゆるものの安寧へと結びつく。最近では唯識思想を学ぶなど、知識が広がることへの喜びも覚える。だがそれは、基本的には知的満足においてである。理論体系に納得することは出来ても信じることは難しい。それが私のみならず現代に生きる人間の宿命である。信じることが出来たなら楽になれることはわかるのだが、それは不可能なのだ。

 

一方で、信念は狂信へと繋がる歴史を生んだ。石原莞爾が構想に関与した満州国は傀儡国家なのは間違いないが、日蓮宗国柱会の人間であった石原は本気で日蓮聖人が説いた理想郷を満州の地に生むつもりだったよう思われる。そしてその信念は、結局、悲劇で終わる。

ワーグナーを愛好したヒトラーはゲルマン民族の優越を信仰した。客観的に見れば異様にしか見えない彼の盲信は、世界的な災禍を招くことになった。

彼らは本気でユートピアの到来を信じており、それが破局へと繋がった。

そうした歴史を知った上で、まだ絶対的な何かを信じることが出来るかということだが、21世紀に入ってから、別の形での「信仰」が顕在化するようになった。従来からあったがそれが強化された形である。それを呼び寄せた者達が破滅へと向かうのは歴史的にも明らかなのだが、人々は宗教とはまた違った形の「信仰」を止めようとはしない。今回の演出では、呼び寄せた者であるエルザの最後は明確には描かれていないが、本来の筋にある彼女の破滅は、呼び寄せながら不信に陥る人間の弱さと罪業の結果であるようにも思う。信じることも信じないことも悲劇である。

 

ローエングリンとエルザのこの世界からの退場と共に、絶対的な神のいなくなった世界が始まる。おそらくそれは絶対王政の終わりとリンクしている。ワーグナーも参加した社会主義革命、それは絶対的な存在を否定する行為でもあり(この時点では却って独裁を招く形態であるとの認識を持っている人はほとんどいなかったはずである)、同時に絶対的な孤独を招く行いでもある。自由を目指す行為は、絶対的な存在の前での平等を崩してしまう。歴史を辿れば、絶対的な神のいなくなった世界では、神に成り代わろうとする英雄気取りの者達が次から次へと現れ、新たな「信仰」を生み、別の形での犠牲者を生んでいった。

 

劇の内容に関する考察はここまで。演奏であるが、なめらかな響きと輝きと神秘感を合わせ持った京都市交響楽団の演奏が見事である。
関西では、びわ湖ホール以外でも演奏を聴く機会の多い沼尻竜典。キビキビとした音運びが印象的であるのと同時に、コンサートレパートリーではややスケールの小ささも感じられる指揮者であるが、オペラの演奏に関してはドラマティックな音楽作りといい、語り口の上手さといい、優れた適性を示している。スケールも雄大であり、彼には絶対音楽よりもこうした物語性のある音楽の方が向いているようだ。沼尻も十八番がなんなのかよく分からない指揮者なのだが(マーラーやショスタコーヴィチは良い)、オペラの指揮に関しては全幅の信頼を置いてもいいように思う。

歌唱も充実。オーケストラよりも前で歌うということもあるが、凄絶なうねりを生むワーグナーの音楽と、それを見事に具現化する沼尻と京響と共に壮大な音の伽藍を築き上げる。
来日経験も豊富な某有名指揮者から、「日本人にワーグナーなど歌えるわけがない」と見下されてもそれを受け入れざるを得なかった時代が、遠い過去のことになったように思える。

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2021年3月 7日 (日)

コンサートの記(700) 下野竜也指揮 NHK交響楽団西宮公演2021

2021年3月3日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後7時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、NHK交響楽団演奏会西宮公演を聴く。指揮は下野竜也。下野とN響のコンビの実演に接するのは二度目である。

下野竜也は、NHKの顔となる大河ドラマのオープニングテーマの指揮を手掛けることが多く、NHKとNHK交響楽団から高く評価されていることが分かる。

少し早めに兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)に着いたので、いったんHPAC前の高松公園に下り、コンビニで飲料などを買って(新型コロナ対策として、ビュッフェは稼働せず、ウォーターサーバも停止されているため、飲み物はHPACの1階にある自動販売機か、劇場の外で買う必要がある)高松公園で飲み、高松公園からHPACのデッキ通路へと上がる階段を昇っている時に、眼鏡を掛け、髪を後ろで一つに束ねて(ポニーテールとは少し異なり、巫女さんがしているような「垂髪」に近い)、ヴァイオリンケースを背負った女性が折り返し階段を巡って目の前に現れたのに気がついた。マスクをしていたが、「あ、大林(修子。「のぶこ」と読む。NHK交響楽団第2ヴァイオリン首席奏者)さんだ」とすぐに気づいたが、それは表に出さずにすれ違った。大ベテランと呼んでもいい年齢のはずなのに、今なお女学生のような可愛らしい雰囲気を漂わせていることに驚いた。
NHK交響楽団も世代交代が進み、私が1990年代後半に学生定期会員をしていた頃とは顔触れが大きく異なる。歴代のN響団員全ての名前を覚えているわけではないのだが、学生定期会員をしていた頃から変わらず活動しているのは、大林修子、第1コンサートマスターの「マロ」こと篠崎史紀や首席チェロ奏者の「大統領」こと藤森亮一(共に今回のツアーでは降り番)など一桁しかいないはずである。首席オーボエ奏者であった茂木大輔は2019年に定年退職。5年間のオーボエ奏者としてのN響との再雇用を選ぶか指揮者の道に進むかで悩んだそうだが、指揮法の師である広上淳一の助言を受けて、指揮者として独立して活動することに決めたことが、茂木の最新刊である『交響録 N響で出会った名指揮者たち』(音楽之友社)に記されている。クラリネット首席の磯部周平、コンサートマスターとしてN響の顔も務めた堀正文などは、いずれもN響を定年退職している。

 

今回の、NHK交響楽団演奏会西宮公演は、入場前にチケットの半券の裏側に氏名と電話番号を記しておく必要がある。またAndroidのアプリが全く機能していなかったことで悪名高くなってしまったCOCOAのインストールや、兵庫県独自の追跡サービスに登録することが推奨されている。

 

今日のコンサートマスターは伊藤亮太郎。N響が日本に広めたとされるドイツ式の現代配置での演奏である。下野はステージに上がる前にコンサートマスターとフォアシュピーラーの二人と右手を少し挙げるだけのエア握手を行う。

 

曲目は、ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調(ヴァイオリン独奏:三浦文彰)、ブラームスの交響曲第4番。N響が得意とするドイツものが並ぶ。

 

今日も客席は前後左右1席ずつ空けるソーシャル・ディスタンス対応シフトであるが、席によっては隣り合っていても問題なしとされているようである(家族や友人、知人などの場合が多いようである)。1階席の前列は、1列目と2列目は飛沫が掛からないよう席自体を販売しておらず、2階サイド席のステージに近い部分も客を入れずに飛沫対策を優先させている。

 

ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」序曲。弦楽器奏者はビブラートをほとんど用いないというピリオド的な演奏が行われる。古楽器での演奏のマイナス点として現代のコンサートホールという広大な空間にあっては音が小さ過ぎるということが挙げられると思うのだが、モダン楽器によるピリオド・アプローチならその差は僅かで、今回もN響の音の強度と密度と硬度にまず魅せられる。結晶化されつつボリュームも満点であり、音の輝きも素晴らしい。下野の怖ろしいほど精緻に形作られた音の輪郭が聴く者を圧倒する。
N響の奏者も今日は技術的に完璧とはいかなかったようだが、楽団としては90年代からは考えられないほどに進歩していることを実感させられる。90年代に渋谷のNHKホールで聴いていた時も「良いオーケストラだ」と思っていたが、近年になってEテレで再放送された当時の演奏や、リリースされた音盤を聴くと、「あれ? N響ってこんなに下手だったっけ?」と思うことが度々ある。それ故に長足の進歩を遂げたことが実感されるのであるが。特にエッジのキリリと立った各楽器の音は関西のオーケストラからは余り聴かれない種類のものであり、名刀を自由自在に操る剣豪集団が、刀を楽器に変えて、音で斬りかかって来るかのような凄みを放っている。

 

ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調。売れっ子ヴァイオリニストである三浦文彰がソリストを務める。下野とN響、三浦文彰という組み合わせは、2016年の大河ドラマである「真田丸」のオープニングテーマを想起させられるが、今回は残念ながらアンコール演奏自体がなし。考えてみれば「真田丸」も5年前のドラマであり、劇伴ということで賞味期限切れと見なされている可能性もある。

「真田丸」は過去のこととして、ブラームスのヴァイオリン協奏曲で三浦は純度の高いヴァイオリンを奏でる。淀みがなく、この世の穢れと思えるものを全て払いのけた後に残った至高の精神が、音楽として姿を現したかのようである。「純度が高い」と書くと綺麗なだけの音に取られかねないが、そうした形而下の美を超越した段階が何度も訪れる。スケールも大きい。
下野指揮するN響も熟した伴奏を聴かせる。第2楽章のオーボエソロを担った首席オーボエ奏者の吉村結実(だと思われる。今日は4階席の1列目で、転落防止のための手すりが、丁度目の高さに来るということもあり、ステージ全体を見合わすことが出来ないという視覚的ハンディがある)の演奏も神々しさが感じられ、この曲の天国的一面を可憐に謳い上げる。
渋さと輝きを合わせ持つ下野指揮のN響は、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のような演奏を行える可能性を宿しているように感じられた。

 

ブラームスの交響曲第4番。ブラームス作品2作ではベートーヴェンとは違ってビブラートも盛大に用いられており、ピリオドの影響は感じられない。
下野の音楽性の高さは、苦味の中に甘さを湛えた表現を繰り出すことで明らかになっていく。感傷的だが自己憐憫には陥らない冒頭を始め、濃厚なロマンティシズムを感じさせつつ古典的造形美をきちんと踏まえた表現の的確さが印象的である。
第4楽章のシャコンヌ(パッサカリア)では、尊敬する大バッハへの憧憬を示しつつ、激流の中へと巻き込まれ、呻吟しているブラームスの自画像のようでもある。

N響の音は威力満点であるが、それに溺れることなく、バランスを保ちながら細部まで丁寧に詰めることで、濃厚にして情熱的なブラームス像が立ち上がる。

 

演奏終了後、指揮台に戻った下野は、右手の人差し指を立てて、「あともう1曲だけ」とジェスチャーで示し、「ベートーヴェンの『フィデリオ』の行進曲を演奏します。またお目にかかれますように」と語り(語尾の部分は客席からの拍手ではっきりとは聞き取れなかったので、聞こえた音に一番近い表現を記した)演奏が始まる。やはり音の輝きと堅固さが最大の特徴である。短い曲であり、あっさり終わってしまうため、下野は客席を振り返って、「終わり」と曲が終わったことを宣言して指揮台を後にした。

下野竜也はおそらく完璧主義者(師である広上淳一によると「音楽オタク」らしい)で、曲の細部に至るまでメスを入れて、表現を徹底させようとしているところがある。そのため、聴いている最中は彼が生み出す音楽の生命力に感心させられることしきりなのであるが、ほぼ全ての部分や場面を完璧に仕上げようとしているため、聞き終わった後の曲全体の印象が茫洋としてしまうところがある。余り重要でない部分を流せる技術や心情を得られるかどうか、そこが下野が今後克服すべき課題のように思われる。

ともあれ、N響と下野の力を再確認させられた演奏会であり、あるいは今後何十年にも渡って共演を重ねていくであろう同コンビの、まだまだ初期の局面に接することの出来た幸せを噛みしめたい。

 

ブラームスの交響曲第4番を聴くと、たまに村上春樹の小説『ノルウェイの森』を思い出す。主人公の「僕(ワタナベトオル)」が、この作品の二人いるヒロインの一人である直子を誘ったコンサートのメインの曲目がブラームスの交響曲第4番であった。「僕」はブラームスの交響曲第4番が「直子の好きな」曲であることを知っており、演奏会を選び、チケットも2枚取ったのだ。ブラームスが好きな女性は昔も今も珍しい。
当日、直子はコンサート会場には現れなかった。直子のいない空間で一人、ブラームスの交響曲第4番を聴くことになった「僕」の気持ちを時折想像してみる。おそらくそれはブラームスのクララ・シューマンに対する慕情に似たものであるように思われる。だからこそ村上春樹はこの曲を選んだのだ。報われぬ恋の一過程として。

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2021年3月 4日 (木)

NHKオンデマンド プレミアムシアター バイロイト音楽祭2018 クリスティアン・ティーレマン指揮 歌劇「ローエングリン」

2011年3月2日

NHKオンデマンドで、2018年のバイロイト音楽祭でのワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。7月25日、バイロイト祝祭劇場での上演と収録である。BSプレミアムシアターで放送されたものだが、NHKオンデマンドでも観ることが出来る。同一内容と思われるBlu-rayとDVDも出ているが、日本語字幕は付いていないため、ドイツ語やその他の主要外国語が分からない場合は、ディスクではなく配信で観るかプレミアムシアターを録画していたならそれで観るしかない。

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏。演出はユーヴァル・シャロン。シャロンは、「ローエングリン」をドイツ建国神話の一部ではなく、中世のフェアリーテイルと捉えており(本当かどうかは不明)、そのため、出演者は昆虫の羽根を付けている。一部、効果的な場面もあるが、いらない演出であるようにも思える。以前、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を、蝶々だというので、出演者を昆虫に見立て、それらしい衣装で出演させるという酷い演出をDVDで観たことがあるのだが(ステファノ・モンティの演出)、それを思い出した。

ティーレマンは「ローエングリン」を十八番の一つとしているが、この上演でバイロイトでのワーグナーの歌劇や楽劇全作品の指揮を成し遂げたそうである。押しの強い指揮が持ち味であり、私は苦手なタイプだが、ワーグナー指揮者としてはやはり現役最高峰であると思われる。うねるようなワーグナーの音楽を的確に音にする才能に長けている。

出演は、ゲオルク・ツェッペンフェルト(バス。ドイツ国王ハインリヒ)、ピョートル・ペチャワ(テノール。ローエングリン)、アニヤ・ハルテロス(ソプラノ。エルザ・フォン・ブラバント)、トマシュ・コニェチュニ(バリトン。フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵)、ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ。オルトルート)、エギルス・シリンス(バリトン。ハインリヒ王の伝令)ほか。

シャロンの演出は、映像や電飾の多様が特徴。セットも発電所を意識したもののようだ。ローエングリンは、雷の剣を持っているのだが、そのためか電気技師の格好をしている。そしてエルザは最後の場面ではレスキュー隊を想起させるオレンジ色の衣装ということで、原子力発電所がモチーフとなっていることが想像される。電気関連であることの分かる演出はその他の場面にも鏤められている。原発への信頼を問う演出であり、脱原発へと舵を切ったドイツらしい演出であるとも言える(ユーヴァル・シャロン自身はアメリカ人である)。勿論、日本も他人事ではない、というよりも張本人のような立場に残念ながら立ってしまっている。そして日本は原発をまだ続ける予定である。

テーマは置くとして(本来は置いてはいけないのだが)、決闘の場面では、吹き替えのキャストが宙乗りになり、中空で闘うなど、外連に富んだ演出が目立つが、どことなく歌舞伎っぽい。そして第3幕には本来ないはずの地震のシーンが加えられている。その直後に、エルザが騎士ローエングリンの正体を知ったことが表情で分かり、騎士は頭を抱える。ラストもドイツの未来を描いたものと思われるが、日本絡みのように見えなくもない。ちなみにエルザもオルトルートも死なない。

「ローエングリン」は、アリアよりも、第1幕への前奏曲と、第3幕への前奏曲が有名で、コンサートでもよくプログラムに載る人気曲目である。また、コンサートでは演奏されることは少ないが、第3幕で演奏される「婚礼の合唱」は、「結婚行進曲」としてメンデルスゾーン作品と共に、ウエディングの定番となっている。

白鳥が重要なモチーフとなっているが(今回の演出では白鳥は具体的な形では出てこない)、白鳥を表す主題は、後に書かれたチャイコフスキーの「白鳥の湖」に用いられたメロディーに酷似しており、チャイコフスキーがワーグナーの白鳥の主題をモチーフとして取り入れたことが想像される。


「ローエングリン」は、現在のベルギーに当たるブラバントのアントワープ(アントウェルペン)を舞台とした歌劇である。聖杯伝説などのドイツの神話を下敷きとしており、ワーグナーの他の歌劇や楽劇などとも関連が深い。
先の大公が亡くなり、その娘であるエルザと息子のジークフリートが行方不明となる。エルザは戻ってくるが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントで名声を得ているフリードリヒが、「継承権を奪うために、エルザがジークフリートを殺したのだ」として告発し、裁判が行われる。エルザは自己弁護は特にせず弟の境遇を嘆き始め、「夢の中で白鳥が曳く小舟に乗った騎士を見た。彼が現れる」という不思議なことを語る。そうこうしているうちに本当に夢の中で見た騎士が白鳥が曳く小舟に乗って現れる(この辺はリアリティがないが、そもそもこれはリアルな物語ではない)。ハンガリーとの戦いにそなえてブラバントにやって来ていたドイツ国王ハインリヒは、両者が決闘を行い、騎士(観客は歌劇のタイトルからその名がローエングリンであることは知っている)が勝てばエルザは無罪、フリードリヒが勝てばエルザが有罪と決める。それが神の御意志であるとする。デンマーク制圧などに貢献した傑出した武人であったフリードリヒだが、謎の騎士の前に完敗。騎士はエルザを妻に迎えることにするが、自身の正体を問うてはならないと全員に誓わせる。だが、魔女のオルトルートの話術に乗せられたエルザは騎士の正体に疑念を抱いて……というストーリーである。今回の演出では、第3幕でそれまで各国が行っていた原発広報の危険性と暴力性を問うシーンが出てくる。

なお、調べてみたところ、2017年から2018年に掛けて、新たな発電方式が話題になったことが確認出来た。あるいは最新の情報を取り入れたラストと見ることも可能であるように思われる。もっとも、ワーグナーとも「ローエングリン」とも直接関係のない演出だけに、カーテンコールで結構な数のブーイングが飛んでいることも確認出来る。

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