カテゴリー「ハイテクノロジー」の17件の記事

2020年6月21日 (日)

配信公演 浅草九劇オンライン 大鶴佐助×大鶴美仁音 別役実「いかけしごむ」(劇評。文字のみ。音楽紹介のリンクはあり)

2020年6月18日 東京の浅草九劇より配信

午後7時30分から、浅草九劇オンラインで、別役実作の二人芝居「いかけしごむ」を観る。出演は、大鶴美仁音(みにょん)と大鶴佐助の姉弟。構成・演出も二人で手掛ける。無観客での上演。

開演前は、前回の柄本明ひとり芝居「煙草の害について」よりも準備が行き届いており、女優の福地桃子(哀川翔のお嬢さん)によるアナウンス映像も流れた。

「いかけしごむ」は、京都で別役実作品上演をライフワークとしている広田ゆうみと二口大学によって何度も上演されており、当然ながら私もこの二人によるバージョンを観ている。

大鶴佐助と大鶴美仁音は、唐十郎(本名・大靏義英)の実子である。大鶴義丹とは異母兄妹となる。

 

暗い夜、街の外れの行き止まりのような場所が舞台である。ベンチがあるが、「ココニスワラナイデクダサイ」と片仮名による拒絶の注意書きがある(女の推理によると、話し掛けるきっかけをつくるためにわざと書かれている)。舞台中央には受話器が降りている。いのちの電話に繋がっているようだ。その上手には手相見の机。

 

時代はかなり意識されており、大鶴美仁音はサザエさんのような髪型(今でこそ奇異に見えるが、「サザエさん」の連載が始まった当初は典型的な女性の髪型の一つであった)、大鶴佐助も戦後すぐのサラリーマンのような格好をしている。顔の表情などはかなり大仰で、映像で見るには辛いものがあるが、これも昭和を意識した演技なのかも知れない。

女(大鶴美仁音)による一人語りで始まる。「信頼できない語り手」として捉えた方がいいだろう。そこかしこから人生に行き詰まったような風情が伝わってくる。そこにサラリーマン風の男(大鶴佐助)が黒いビニール袋を抱えて現れる。男は追われているということを女に告げる。いかを使って作る「いかけしごむ」を発明したのだが、そのためブルガリア暗殺団に追われているのだという。男は誰か目撃者となる人間がいればブルガリア暗殺団も手出し出来ないだろうと、この場に留まる。

女は、男が1歳になったばかりの娘を殺し、バラバラにして黒いビニール袋に入れて逃げている最中なのだろうという推理を語る。女は男の住んでいる部屋を知っているというのだが……。

 

不条理劇と呼ばれる別役実の芝居であるが、ベケットの作品もそうであるように、そこでは人生の不可解さというよりも人生の本質が言い当てられているように思う。少なくとも私にとってはこれらは視点をずらしてはいるが人生そのものに見える。

女は女自身が語るように、女のリアリズムを生きている。自身の視点しか持たず、思考しかなし得ず、何が本当なのか知るよしもない。そしてそこに他者のリアリズムは相容れない。怖ろしく孤独であるが、多くの人間はこのようにしか生きられない。二人でいても一人であり、二人で演じられても一人芝居である。
誰かと出会い、話し、あるいは勘違いし、本当にはわかり合えず、別れていく。そしてその意味もすぐに判然としない。いや永遠の謎となることも多いだろうし、おそらくは意味すらない可能性も高いのだろう。
「本当のことなど果たしてあるのだろうか」

ラストでは屋台崩しではないが、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番第2楽章が流れる中、背後の幕が落とされると、台所を模したスペースで二人の父親である唐十郎が酒を飲んでいる姿が目に入る。そう大した意味があるわけではないだろうが、唐十郎が二人の実の父親であり、父親であるからこそこの場にいるということは揺るぎようもなくリアルであるともいえる。不確かな物語であるが、それだけは確かだ。

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2020年6月16日 (火)

ステージナタリーZoom対談 白井晃×谷賢一 2020年4月(文字のみ)

ステージナタリーにアップされた白井晃と谷賢一のZoom対談を見る。4月18日に行われたもので、24日に公開されている。

まず、演劇に関わるようになったきっかけを述べた後で(白井さんは高校までは演劇に関心がないというより嫌いだったようだ。この点は私と一緒である。松田正隆も高校時代は演劇部をうさんくさい存在だと思っていたという話をしていた)。映画に関しては二人とも撮りたいと思ったことがないという話をする。実は私も映画を撮りたいだとか映画監督になりたいと思ったことはただの一度もない。谷賢一も語っていたが、演劇と映画はストーリーがあるということだけが共通点としてあるだけの全く別の表現形態である。勿論、映画を舞台化したり、場転や暗転を多くして映像作品のように見せる演劇も少なくないが、本来は三一致の法則を遵守するとまではいかないが、三一致の法則に従ってリアルタイムで行われるものが最高の演劇作品なのではないかと思っている。大学でも映画・演劇科などといったように(私も映像・舞台芸術学科出身だ)一緒くたにされることが多いが、映画は小説などに近く、舞台はむしろボードゲームなどと親和性があるように思われる。舞台は空間の芸術なのだ。ストーリーは空間に対しては従でしかあり得ない。映画は全く逆である。鑑賞する立場ならその差は余り気にならないだろうし、批評も同じスタイルでこなせる。ただやる側としては全くの別物と考えて行った方が少なくとも利口ではあるだろう。

劇場はその場に演者がいて、観客がそれを固唾をのんで見守っているという特殊な表現スタイルである。演者が一人欠けていても成り立たない。音楽もそうだが、音楽は今は録音物がライブ以上の価値を持つこともある。トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、レナード・バーンスタイン、ピアノならラフマニノフやホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタインの録音を聴くことにライブ同等以上の価値を見いだす人もいる。グレン・グールドのように録音しか行わないピアニストすら存在したほどだ。だが、演劇の場合は映像に収められたものが劇場での体験と同一視されることは今後もないだろう。私自身は映画でない映像のための演劇があってもいいとは思っている。矢口史靖と鈴木卓爾のショートフィルム作品集である「ONE PEACE」のような作品が生まれたなら、今のような窮地もしばらくはしのげるだろうとも思う。だがやはり演劇は劇場に通って観るものだと思う。チケットが手に入らなかっただとか、その日体調が悪かったり別用があったりで行けなかった場合は映像が手に入ればありがたいが、それはあくまで補足であって、本来の演劇を観たことにはならないだろうと感じている。映画館通いもそうだが、そこに至るまでの過程にも良さがある。例えば梅田芸術劇場(メインホールとシアター・ドラマシティ)ならば、阪急電鉄大阪梅田駅で降りてから茶屋町に向かうまでの道のり、たまに参拝する綱敷天神御旅社、これまた時折立ち寄るMBS本社やロフト、NU茶屋町や終演後に乗ったエスカレーターから見える宝塚大学看護学部の高層校舎(安藤忠雄設計)、カッパ横丁や阪急三番街、京都までの帰路、全てが観劇という行為に含まれている。以前にそこで観た別の芝居との差違を帰りの阪急電車の中で味わったりもする。初めて行く劇場なら、例えば青山のスパイラルホールなら、開場前に寄った岡本太郎記念館の内装や表参道の街並みによって、その日その時でしかあり得ない自分だけの空間とその場の空気を、劇を観る前も観ている間も観た後も纏うことになる。それは人生の中で今でしかあり得ない瞬間の連続でもある。

その時間と空間の共有を白井さんは「共犯」という言葉で語っていたが、人生の中でこの一度しか巡って来ない時間の流れを共に味わうということは、生きているということのまさに本質である。そこにいたことが重要且つ幸福なことなのだ。少なくともその限られた時間においては。

白井さんが、スポーツはテレビ観戦が当たり前になっているという話もする。白井さんも谷さんもスポーツ観戦はテレビで済ませていて、最後に競技場や野球場に通ったのは小学生時代が最後ではないかという話もする。これは私とは大違いで、私は出来るなら毎日でも神宮球場に通いたいが、現実的に無理。かといって神宮球場に通うためだけに東京に住みたいとは思わない。京都という、それほどスポーツ文化が発達していない場所にあっても、2月にサンガスタジアム by KYOCERAのオープニングに行ったばかりだし、わかさスタジアム京都(西京極球場)には女子プロ野球やNPBを観に出掛ける。京セラドーム大阪には阪神対ヤクルトの開幕戦を観に行ったことがあるし、バファローズとスワローズの交流戦もよく観に行く。今年も交流戦のチケットを2日分取ったが、コロナ禍によって試合自体が流れてしまった。

私事が長くなったが、白井さんも谷さんも余りスポーツ好きには見えないので実感はないのだと思われるが、NPBなどは毎年観客動員数は増加している。地上波で試合が流れなくなったということもあるが、野球場に行って、お気に入りの食べ物や飲み物を買って、早めに着いたなら練習を眺めて、周りの面白い観客などをそれとなく見て、歓声に包まれて、たまに他のお客さんと話したりすることもあって、というボールパーク的喜びは多分、二人ともご存じないと思われる。だから演劇がスポーツのテレビ中継のようになることはないと個人的には思っている。テレビでのスポーツ中継はスタジアムに行けないので仕方なく見るものなのだ本来は。

谷さんは、4月は小説を書く予定が入っていたのだが、公演が出来ないということでそれどころではなく、白井さんは基本的に演出メインなので、「本でも読むか」と思って小説を読むと、「あれ、これ、舞台にしたらどうなるだろう」と考える職業病のようなものが出てしまい、ではあるが今は上演自体が出来ないというので胸が苦しくなってしまうそうだ。

もしコロナ禍が早めに収束したらという仮定の話を白井さんは行う。通常はリハーサルに最低1ヶ月は掛かるのだが、2週間しかなかったら2週間の稽古期間で出来るものを探してやればいいという考えを示す。今の段階では最も実現性の高い路線であると思われる。

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2020年6月15日 (月)

チャット型インプロ演劇の発案

 演劇を上演する上でネックとなっているのが、舞台上でセリフを話すと飛沫感染の怖れがあるということである。ソーシャル・ディスタンスを保っての演劇も試みとして始まっているが、2メートル以上離れたまま会話をするという状況を設定することは難しい。離れたまま会話を交わすということは日常的な場面ではほとんどないため、嘘くさくなってしまうのである。電話での会話ならあり得る。ジャン・コクトーの「声(人間の声)」の二人バージョンである。電話なら二人芝居以上は難しいが、スカイプやZoomを使っているという設定にすれば複数人での会話が可能になる。ただその場合はわざわざ舞台でやらなくてもZoom劇でいいだろうということに落ち着きそうであるが。

 セリフを発することが問題ならば無言劇もいいし、ギリシャ悲劇のようにパフォーマーと話者を切り離すのもいいかも知れないが、これまで散々演じられてきたスタイルであり、新しさはない。せっかくなのだから新しい表現方法を取り入れてみたいものである。ならば、巨大スクリーンに各々のパソコンから打ち込んだ文字を投影出来るようにして、チャット形式で進める劇はどうだろう。舞台上に複数のパソコンを用意して、役者がセリフを打ち込んでいくのである。折角なので台本はなくして配役のみの完全インプロ(インプロヴィゼーション=即興)で続けていく。難しいかも知れないが、役者の腕の見せどころともなる。
 人数制限は必要だが、客を入れれば反応もあるし、劇の展開も随時変わっていく。良いセリフが書ければ拍手も貰えるだろう。上手くいけばかなり面白いものになるはずである。

 これは劇ではないのだが、以前、某SNSで私と「トリック」(仲間由紀恵&阿部寛主演)ファンのネット上の知り合いの二人で、「トリック」を題材にした二次創作的セリフ劇を延々と続けたことがある。残念ながら公表は出来ないが、かなり笑える面白い仕上がりになっていた。文字の力、文章の力を劇場において発揮するというのも良い試みであると思う。

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2020年6月14日 (日)

配信公演 阪哲朗&村川千秋指揮山形交響楽団「山響ライブ第1弾」(文字のみ)

2020年6月13日 山形テルサより配信

午後7時から、クラシック専門ストリーミング配信サービス「カーテンコール」で、山形交響楽団の「山響ライブ第1弾」を視聴。金管パート、木管パート、弦楽パートに分かれての三部構成による演奏である。

曲目は、ジョン・ウィリアムズの「オリンピック・ファンファーレ」、ブルックナーの「正しき者の唇は知恵を語る」、リンドバーガー編曲の「悪魔のギャロップ」と「セルからモースへの結婚行進曲」(以上、金管パート)、リヒャルト・シュトラウスのセレナード変ホ長調(木管パート)、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」とシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」(以上、弦楽パート)。弦楽パートの選曲は、3日前に行われた広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団の配信公演と完全に同じである。

指揮は山形交響楽団首席指揮者の阪哲朗。シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」のみ山形交響楽団創立名誉指揮者である87歳の村川千秋(男性)がタクトを執る。

3月にも山形交響楽団の配信を行ったカーテンコールであるが、3ヶ月の間に配信のための基盤がかなり整ってきているようで(そもそも本格的なサービス開始は今年の秋からであり、今はまだ試験段階である)、音声はハイレゾ配信となり、カメラも3台から6台に増えたそうである。


飯森範親による改革が成功して、「田舎のオーケストラ」というイメージを脱却し、日本を代表するアンサンブルへと成長した山形交響楽団。財政的には厳しいが、新たなる本拠地ホールが完成するなど、更なる飛躍のための足がかりが構築されつある。


まず、山形交響楽団が日本で初めて始めたというプレトークが、指揮者の阪哲朗と山形交響楽団専務理事の西濱秀樹によって行われる。


阪は全編ノンタクトでの指揮、キビキビとした推進力に富む音運びである。山形交響楽団も揃っての演奏は久しぶりのはずで、万全とはいえない部分もあるが、ある程度の精度の高さを維持していることが感じ取れる。

金管の音は輝かしく、ブルックナーの楽曲ではオルガン的な響きを見事に再現してみせる。リヒャルト・シュトラウスが17歳で完成させるという早熟振りを示したセレナード変ホ長調の木管による洒落っ気に飛んだ表現も優れている。


転換を兼ねた20分の休憩時間中に、阪哲朗と西濱秀樹が客席中央通路に出てのトークを行い、更に今日のための撮影された山形の名所案内映像が流れる。阪と女優の永池南津子が、天童市内の温泉旅館やさくらんぼ農園、山寺こと立石寺を訪ねるという内容(麓から立石寺を眺めるだけで上ることはなかった)である。


チャイコフスキーの「弦楽セレナード」。チェロ以外の弦楽奏者はオールスタンディングでの演奏である。ハイレゾであるためか、弦の人数が日フィルよりも多いためか、奏者間をさほど空けていないからか、もしくはその全てか、弦の表情の細やかさや音の広がりは山形交響楽団の方が優れているように感じられる。


村川千秋が指揮するシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」(ティンパニありのバージョン)。村川は指揮棒を持って指揮する。チェロとティンパニ奏者以外はやはり起立しての演奏。清澄な弦の音色が印象的な佳演であった。

演奏終了後、客席に山形交響楽団の管楽器メンバーが現れ、村川を拍手で讃えた。

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2020年6月11日 (木)

配信公演 広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル 「日本フィル&サントリーホール とっておきアフタヌーン オンラインスペシャル」(文字のみ)

2020年6月10日 東京・溜池山王のサントリーホールからの配信

今日は、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル(弦楽合奏)によるサントリーホールからの配信公演「日本フィル&サントリーホール とっておきアフタヌーン オンラインスペシャル」が午後2時からある。休憩なし、上演時間約1時間のコンサート。

e+でのストリーミング配信。事前にチケットを購入し、メールで送られてきたURLで配信画面に飛んで視聴するというシステムである。

今日はテレワークなので、画面を見ながらはまずいが、音を聴きながら仕事は出来るため、午後2時からまず音だけを聴き、その後、アーカイブの映像を確認することにする。配信画像視聴には2種類の券があり、安い方は11日の午後2時まで映像を観ることが出来る。高い券だと比較的長い期間観られるのだが、私は安い券を買う。ちなみにアーカイブ映像視聴のためだけの券もある。


配信公演ということで、事前のアナウンスもホールに流れるが、いつもとは違ったものになっている。


今日の日本フィルハーモニー交響楽団は、ソーシャル・ディスタンス・アンサンブルという名で弦楽のみの編成、それも奏者間を広く空けての演奏である。コンサートマスターは田野倉雅秋。握手などが難しいというので、広上と田野倉は、何度もエアーハイタッチを行う。
管楽器は飛沫感染の危険性の高さを現時点では否定出来ないため、全ての楽器が揃っての演奏はまだ先になるかも知れない。


曲目は、グリーグの「ホルベアの時代から(ホルベルク組曲)」より第1曲“前奏曲”、エルガーの「愛の挨拶」(ヴァイオリン独奏:田野倉雅秋)、ドヴォルザークの「ユーモレスク」(弦楽合奏版)、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」

広上淳一はマスクをしての指揮。司会進行役である音楽ライターの高坂はる香もマスクを付けて登場し、コンサートマスターの田野倉雅秋もトークの際はマスクを装着していた。


距離感を空けての演奏であり、通常のプルトでの合奏ではない。フォアシュピーラーは存在せず、その他の楽器も首席が一人だけ前に出て弾き、すぐ横に人がいないよう配慮しての演奏となる。

ということでアンサンブルとして万全とはいかないかも知れないが、久しぶりに日本のオーケストラの演奏を配信で聴けるということで嬉しくなる。


グリーグの「ホルベアの時代から(ホルベルク組曲)」より第1曲“前奏曲”はスプリングの効いた演奏で、躍動感と推進力に富む。日フィルは昔から音の洗練度に関しては東京の他のオーケストラに比べると不足しがちであり、今後も課題となってくるだろう。

演奏終了後に広上と高坂とのトーク。高坂が日本フィルハーモニー交響楽団が演奏を行うのは3ヶ月半ぶり、サントリーホールで演奏会が行われることも約2ヶ月ぶりだと説明。広上は、「ホールがもし言葉を喋ることが出来たら、『久しぶり、よく来たね!』と喜んでくれるだろう」と語る。
「ホルベアの時代から」に関して広上は、ホルベアというのはノルウェー文学の父とも呼ばれる人物で、グリーグにとってはベルゲンの街の先輩でもあった。この曲は元々はピアノ曲で、ヴァイオリンとピアノのための編曲が行われたり、歌詞が付けられて歌曲になったこともあったが、現在では弦楽合奏曲として知られていると語る。


「愛の挨拶」は、エルガーが奥さんとなるキャロラインに求婚した時に送った曲で、広上はキャロライン夫人の内助の功を、「今の大河(広上がメインテーマを指揮している「麒麟がくる」)でいうと、帰蝶のような、お濃さんのような」と例える(エルガーは遅咲きの作曲家である)。

「愛の挨拶」は、田野倉雅秋のヴァイオリンソロと弦楽アンサンブルの伴奏による演奏。少し速めのテンポを取り、愛らしさよりも流麗さを重視する。日本人なのでチャーミングな演奏は照れくさいということもあるのだろう。


ドヴォルザークの「ユーモレスク」は、クライスラー編曲によるヴァイオリンとピアノのデュオ版でも有名だが、今回はソリストを置かずに弦楽合奏版での演奏を行う。ユーモラスな曲想が広上の音楽性にも合っている。
トークで広上は、「ドヴォルザーク先生はヴィオラが得意、ヴィオラ奏者だった。ピアノはあんまり好きじゃなかった」と語るが、ロベルト・シューマンの影響でピアノ組曲を書こうと思い立ち、その7曲目が「ユーモレスク」で、様々な編曲による演奏で親しまれていると語る。


チャイコフスキーの「弦楽セレナード」。西欧ではロマン派全盛の時代となっており、装飾の多い雄弁な音楽が流行っていたが、遙か東方のロシアにいたチャイコフスキーはそれに疑問を感じ、モーツァルトを範とした「虚飾を排し、本質を突く」という意気込みで書いたのがこの「弦楽セレナード」だと語る。実際にパトロンであったフォン・メック夫人にそうした内容の手紙を送っているそうだ。

通常の「弦楽セレナード」よりも小さめの編成での演奏ということもあって、「虚飾を排し、本質を突く」というチャイコフスキーの意図がより鮮明になっているように感じられる。アレクサンドル・ラザレフやピエタリ・インキネンに鍛えられて性能が向上した日フィルであるが、更なる典雅さと優美さも欲しくなる。ただ広上の巧みな棒捌きに導かれて、フル編成でないにも関わらずスケールの豊かさとシャープさを兼ね備えた演奏で聴かせた。


アンコール演奏の前に広上は、「文化はAIやITのような科学文明の進歩とは違った、心を解き明かすもの」と語り、学校教育においては文化が大上段から語られるため誤解されやすいが、人間を人間たらしめている「心」を大切にし、描くものとしてその重要性を説いた。


アンコール演奏は、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ(祝祭アンダンテ)」(弦楽合奏版)。広上は、日本フィルハーモニー交響楽団の初代常任指揮者で、現在も創立指揮者として頌えられている渡邉暁雄(わたなべ・あけお)が得意としたのがシベリウスだと語り、日フィルの創立記念日が渡邉暁雄の命日(6月22日)であるという因縁も述べる。

音楽が出来るという喜びと、ここから新しい演奏史が始まるのだという高揚感溢れる熱い演奏であった。

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2020年6月 6日 (土)

配信公演 浅草九劇オンライン 柄本明ひとり芝居「煙草の害について」(劇評。文字のみ。関連リンクはあり)

2020年6月5日 東京の浅草九劇からの配信

午後7時30分から、オンライン型劇場に模様替えした浅草九劇の配信公演、柄本明ひとり芝居「煙草の害について」を観る。事前申込制の有料公演である。配信はVimeoを使って行われる。

配信公演への入り口となるURLは開演1時間ほど前に送られて来たのだが、メールソフトの調子が今日もおかしく、HTML形式のメールの画像がダウンロード出来ないので、返信やら転送やらのボタンを押して、無理矢理別の形式に置き換えて見る。返信を押した場合、更に「返信をやめる」を押すのだが、それでも返信されてしまう場合がある。

 

午後7時開場で、その直後に配信画面に入ったのだが、ずっと暗闇が続く。「LIVE」と視聴者数の文字は出ているので動いていることは確かだが、午後7時30分丁度になっても暗闇のままなのでブラウザの更新ボタンを押す。そのためか、あるいはそれとは関係なく配信の時間が来たからなのか、画面に舞台の背景が映る。臨場感を増すため、フルスクリーンにして視聴する。

 

「煙草の害について」は、アントン・チェーホフが書いた一人芝居である。オリジナルに近い形での上演は、MONOが京都芸術センターで行った「チェーホフは笑いを教えてくれる」というチェーホフの短編を連作にした作品の中で水沼健(みずぬま・たけし)が演じたものを観たことがあるのだが、上演時間が20分弱という短いものであるため、今回はチェーホフが書いた他の戯曲のセリフや歌などを加えて、上演時間1時間前後に延ばしたテキストを使用しての上演である。柄本版「煙草の害について」は、1993年初演で、書き直しを行いながら何度も上演を重ねているが、私は観るのは今日が初めてである。

柄本明が演じるのは、妻が経営する全寮制女子音楽学校の会計係兼教師であるが、恐妻家であり、今いちパッとしない男である。着ているベストも継ぎ接ぎだらけだ。

妻に命令されて、無理矢理「煙草の害について」というタイトルの健康に関する講演をすることになったのだが、彼自身は喫煙者であり、煙草の害に関する知識は辞書などで得たもの以外にはさほどない。当然ながらやる気もない。

音楽学校の生徒全員分のホットケーキを焼くよう妻に命じられて作ったのだが、体調不良で5人が食事をキャンセルしたため、妻から5人分を一人で食えと命じられ、食べ過ぎで体調不良である。妻からは「かかしんぼ」と呼ばれることがあり、かなり侮られている。

 

本編に入る前に、柄本明はアコーディオンを弾きながら榎本健一の楽曲「プカドンドン」(もしくは歌詞違いの「ベアトリ姉ちゃん」。サビの歌詞が一緒なので判別出来ず)を歌う。伴奏と歌がかなりずれることもあるが、あるいは浅草での上演ということでエノケンへのリスペクトも込めて歌われたのかも知れない。

体調が悪いので、持ってきた原稿の1枚目に向かってくしゃみをしたり、もうちょっと汚いものが出たため、それを丸めて棄てたのだが、実はそれが「煙草について調べた内容を書き記したメモ」だったため、それに気づいて、汚いのを承知で拾い、広げて読み上げるのだが、出したものでインクが滲んでしまい、上手く読めない。「イタリえば」と読んだが、実は「例えば」だったり、「中洲」という博多の繁華街ネタが始まるが、実際は「中枢神経」と書かれたものだったことが直後に判明したりする。男は「学がない」と自己紹介をしていたが、最後の辺りで「若い頃は大学で学問に励んだ」という話をしたり、音楽学校で理系から文系までの教養科目を幅広く教える能力があるため、謙遜しただけで、今は冴えないが少なくとも若い頃はかなり優秀と見られた人物であるらしいことがわかる。ちなみに彼の奥さん(「三人姉妹」に登場する怪女・ナターリヤの要素を入れている)は友人とフランス語で話すが、男の悪口を言うときはロシア語になるということが語られる場面があるのだが、帝政ロシア時代はかなり徹底したフランス指向の影響で上流階級はロシア語でなくフランス語を話していたという事実があり、奥さんもフランス語が話せて音楽がわかるということからハイクラスの出身であることがわかり、そうした女性と結婚出来た男も同等の階級出身である可能性が高い。あるいは彼も優れた才能と身分に恵まれながら時代の壁に阻まれて上手く生きられなかった「余計者」の系譜に入るのかも知れない。

「いざ鎌倉。鎌倉はどっち? ここは浅草だから」という話が出てきたり、「休憩」と称して下手隅にある椅子に腰掛けてバナナを食べた後で、ぶら下がっている紐に首を入れて揺らし、縊死するかのように見せた後で「ゴンドラの唄」を歌い、黒澤映画の「生きる」をモチーフにした演技を見せるなど、日本的な要素もちりばめられている。

とにかく妻や娘から軽視されているというので愚痴が多く、「誰でも出来る」結婚しか出来なかった(ただ今の人にとっては、結婚自体が高望みになりつつある。私も結婚していない。「私にも妻がいればいいのに」)不甲斐なさを述べるのだが、柄本明自身が奥さんである角替和枝を亡くしているということが透けて見えるような愛情吐露の場面もあり、妙に切なかったりする。

途中で後ろの方に座っていた学生風の若者が勝手に退出しようとしたのを見とがめたり、女子音楽学校の校則などの紹介が載っている本を客席に向かってロシア通貨で販売しようとする場面があったり(今回は無観客上演なので誰もいない)とステージ上だけでない空間の広がりを生む演技もある。

ラスト付近ではラヴェルの「ボレロ」が流れ、妻の影絵が浮かび、転調を伴う狂乱の内に芝居は終わる。

 

上演終了後、柄本は無人の劇場で演じるのは初めてだと語り、文化は生きることと同等であり、なくてはならないもの。なくなったら死んでしまうと熱いメッセージを語った。

 

初の配信ということもあってか、映像が時折途切れたりする。こちらの回線が悪い時もあったかも知れないが、スローモーションになった時には視聴者数が一気に20人ほど減ったため、観るのを諦めたかいったんログアウトしたかで、他の人が観ている映像にも問題が生じていることが察せられた。その後、観客数が一気に増え、ほどなくして画面も動き出した。

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2020年5月26日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part9」(文字のみ。アーカイブへのリンクはあり)

2020年5月24日

午後2時から、茂山千五郎家による「YouTubeで逢いましょう! part9」を視聴。今回は今や梨園を代表する女形となった中村壱太郎(かずたろう)。以前、京都芸術センターで行われた壱太郎のトークイベントを見に出掛けたことがあるが、壱太郎自身は女形よりも女方表記を好んでいるようである。

若手人気歌舞伎俳優が出演するということで、視聴者はいつもの倍となる。そのためかどうかはわからないが今日は回線が不安定であり、茂山千五郎家の科学技術庁長官こと茂山茂は大忙しとなる。茂山茂は京都コンピュータ学院出身で、IT関係のスペシャリストであるが、茂山千五郎家には茂以外にその手の分野に詳しい人は皆無であるため、茂におんぶに抱っことならざるを得ない。


動きがカクカクして見えるが、狂言「茶壺」が上演される。出演:茂山茂(すっぱ)、茂山宗彦(もとひこ。中国方の者)、鈴木実(目代)。
中国方の者(中国地方出身の者という意味だと思われる)が栂尾まで買い物に出掛けた帰り、酒にしたたか酔って、茶壺を背負ったまま道の真ん中で眠ってしまう。そこに現れたすっぱは、茶壺をものにすべく、肩紐を掛けて眠る。中国方の者が目覚めたところですっぱは、茶壺は自分のものだと主張、中国方の者を盗人だと決めつける。そこで目代に茶壺が誰のものか判定して貰うことにするのだが……。

歌舞伎でも「茶壺」は演目に入っているのだが、結末が異なるようである。
すっぱは、とにかく記憶力が良く、舞なども巧みで、すっぱなどやらずともあらゆる分野で活躍出来そうではある。

映像は最初からコマ送りのようであり、古い時代の映画を観ているようで、これはこれで趣があるものだったのだが、すっぱと中国方の者と目代とでやり合っている間に映像が完全に止まってしまう。直すことが唯一出来る茂は舞台の上、ということで、いったん演目を中断し、茂が色々と工夫して直す。その間、茂山千五郎家の人々がトークで繋ぐ。ちなみに京都府は緊急事態が解除になったため、今日は至近距離で会話を交わすことが出来る。

その後、再開し、無事やり遂げる。ちなみに茂は映像が止まったということには気づいていて、演じている間もどうやったら再開出来るか考え続けていたそうだ。

ということで予定時間より15分ほど押すことになる。

 

続く狂言の演目は、有名作「棒縛」。出演、茂山千五郎(太郎冠者)、島田洋海(ひろみ。次郎冠者)、井口竜也(主人)。

島田洋海が「是非、次郎冠者をやってみたい」というので行われる演目である。チャットでは茂山千之丞(童司)が「棒縛」の裏話などを教えてくれる。

 

中村壱太郎へは、狂言にまつわるクイズが千之丞から出題される。同じ演目を行うこともある狂言と歌舞伎だが、中村壱太郎はかなりの苦戦。能舞台の背後にある松の絵が描かれたものをなんというか(正解は「鏡板」)、今ある狂言の流派は大蔵流と何流?(正解は「和泉流」)という比較的簡単な問題にも正解出来ず、「やっちまった」状態。和泉流でなく「井上流」と答えたときにはコメントが総ツッコミ状態となる。「関係者が見てるんで、もう狂言(が元)の奴(歌舞伎の演目)させて貰えないと思います」と語っていた。

洒落にならないかも。

慶應ボーイなのでクイズ番組から出演のオファーがあってもおかしくないが、絶対に断った方がいいレベルである。

 

アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=zPRYN5WUleg&t=7264s

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2020年5月19日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part8 リモート狂言Ⅲ」(文字のみ。アーカイブへのリンクあり)

2020年5月17日

午後2時から茂山千五郎家によるWebLive配信「YouTubeで逢いましょう! part8 リモート狂言Ⅲ」を観る。
今日は冒頭から進行役を務める茂山逸平のパソコンに配信動画が映らないため視聴者からのコメントも読めないというハプニングがあり、茂山千五郎家のIT担当である茂山茂が直すという場面が見られた。ちなみに茂山茂は「長官」と呼ばれている様である。

今回は、清水寺の大西英玄執事補がゲストとして参加。ちなみに清水寺は前年に比べると参拝者が95%減となっているそうである。この大西英玄氏の法話というほど本格的ではないが、清水寺の歴史や、自身の得度の体験、北観音と呼ばれた清水寺に対する南観音(観世音)こと長谷寺が、能の観世流の由来となっているといったお話が面白くてためになるというので、茂山千五郎家からもチャットのコメントからも大好評であった。ちなみに大西氏は清水寺のIT関係も受け持っているようで、検索すると、「清水寺のホームページのアクセス解析を行ったところ、アクセスや拝観時間などのページしか見られていないことがわかった」ため、これではいけないということでインスタグラムを開設して画像や映像の配信を行い、好評であるという。

 

演目は、清水寺ゆかりの「吹取(ふきとり)」が演じられる。清水寺参詣の場が加わった特別編での上演である。

いい年だが独身の男性が、清水寺の観音に妻乞いを行う。通夜(夜通し念じること)をしていると、五条の橋で月に向かって笛を吹けば妻を与えようと観音からの託宣(でいいのかな?)を受けることになる。しかし、男は笛が吹けず……。
出演:茂山千五郎、島田洋海(ひろみ)、山下守之。

笛が吹けない男(茂山千五郎)は、笛の上手(島田洋海)が知り合いにいるので代わりに笛を吹いて貰うことにする。五条の橋(今の五条大橋ではなく、松原大橋である)で笛を吹いて貰うと、果たして妻(山下守之)が現れるのだが、妻は笛の上手を夫と見做してしまう。妻乞いをした男はなんとか妻に振り向いて貰うのだが……。
なんで今まで妻がいなかったのか、なんとなく察せられる内容となっている。

 

太郎冠者と次郎冠者が顔を合わせない演目が一つだけあるという。「樋の酒」という演目であるが、今では廃曲になっているという。だが、茂山逸平が、これはリモート狂言にピッタリだと思いついたということで演じられることになる。

太郎冠者の茂山宗彦(もとひこ)が茂山家の稽古場の能舞台で演じ、次郎冠者の茂山千之丞(茂山童司)と主人役の井口竜也がぞれぞれZoomを使って自室から演目に加わるというリモート上演。

「棒縛」と同じ趣向であるが、「樋の酒」では太郎冠者と次郎冠者がそれぞれ別の蔵に監禁される。次郎冠者は酒蔵に閉じ込められるのだが、これは主人から下戸だと思い込まれているためで、太郎冠者が留守の間に酒を飲んでしまわないようにとの措置である。だが、次郎冠者は実際は「酒豪」と呼んでいいほどの酒好き。ということでガブガブ飲み始め、樋を使って太郎冠者にも酒を与える。上機嫌の二人は舞い始め、という内容である。「Zoom飲み会に見えてきた」というコメントもあった。
実際に隔離されての上演であるため、舞台で演じられるよりもリアリティがある。片方を酒蔵に閉じ込めてしまう必要性が感じられないなど、論理的に破綻しているため廃曲になったのだと思われるが、リモート上演という、ついこの間まで存在すらしなかった上演形態にピタリと填まる。ちなみに宗彦にちなみに宗彦が持つ杯に見立てられた扇に酒を注ぐ樋は茂山逸平が持ち続け、上演後の配役紹介で自ら、「壁:茂山逸平」と読み上げた。

 

狂言と人類愛を結びつけた大西英玄氏のお話の面白さもあり、「今回は神回だった」という言葉がコメント欄に浮かぶが、逸平は清水寺なので「仏さんですよ!」と突っ込み、コメント欄にも「仏回」という言葉が並んだ。


アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=S20nfDl9Nm0&t=329s

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2020年5月10日 (日)

配信公演 12人の優しい日本人を読む回「12人の優しい日本人」(文字のみ)

2020年5月6日

YouTubeLiveで、「12人の優しい日本人を読む会」の公演、「12人の優しい日本人」を観る。近藤芳正の呼びかけで、東京サンシャインボーズの代表作である「12人の優しい日本人」をZoomを使った朗読公演として再現するという試み。作・三谷幸喜、演出・冨坂友(アガリスクエンターテイメント)。出演:甲本雅裕(陪審員1号)、相島一之(陪審員2号)、小林隆(陪審員3号)、阿南健治(陪審員4号)、吉田羊(陪審員5号)、近藤芳正(陪審員6号)、梶原善(陪審員7号)、妻鹿ありか(Prayers Studio。陪審員8号)、西村まさ彦(陪審員9号)、宮地雅子(陪審員10号)、野仲イサオ(陪審員11号)、渡部朋彦(Prayers Studio。陪審員12号)、小原雅人(守衛)。

このうち、甲本雅裕、相島一之、小林隆、阿南健治、近藤芳正、梶原善、西村まさ彦(旧芸名および本名:西村雅彦)、宮地雅子、野仲イサオ、小原雅人が再々演時と同じ役である。野仲イサオは客演。そして呼びかけ人である近藤芳正も、最後の方の作品には毎回出ていたが、実は東京サンシャインボーイズ団員だったことは実は一度もなく、ずっと客演であった。94年頃に発行された演劇雑誌に、「あれ、でも近藤さん、この前、オーディションで『東京サンシャインボーイズの近藤芳正です』って言ってましたよ」なんて証言が載っていたが(誰の証言だったかは忘れた。東京サンシャインボーイズのメンバーだったと思うのだが、正確には記憶していない)、真偽は不明である。団員でなかったことは確かである。ぱっと見でわかるが、東京サンシャインボーイズの団員は、名前に「雅」という字の入るメンバーが多いことも特徴であった。


「12人の優しい日本人」は、「12人の怒れる男」を念頭に置いて書かれた作品である。12人の陪審員と守衛、ピザの配達員の14人で上演される「密」室劇であり、推理劇であり、会話劇であり、人間ドラマである。

私が「12人の優しい日本人」という作品を知ったのは、実は映画のシナリオにおいてである。「シナリオ」誌が年間の優秀シナリオを纏めて本として販売していたのだが、そこに映画化された「12人の優しい日本人」のシナリオが載っていたのである。作者の名義は三谷幸喜と東京サンシャインボーイズであった。当時、私は高校生だったが、「変なタイトルの映画だなあ」を思いながら読んだのを覚えている。その次に接した「12人の優しい日本人」は実は原作戯曲なのである。三谷幸喜は戯曲は表に出さないことで有名だが、「12人の優しい日本人」と「ショウ・マスト・ゴー・オン」だけは雑誌に掲載されたことがあるのである。これも複数分の雑誌を纏めて書籍にしたものを明治大学の図書館で発見して、「ショウ・マスト・ゴー・オン」と共に読んでいる。
次は映画版「12人の優しい日本人」である。演劇版の「12人の優しい日本人」を観たのは2005年になってから、大阪・梅田のシアター・ドラマシティでの公演においてだった。


「12人の優しい日本人」は、シアターサンモールで初演された後、東京サンシャインボーイズの本拠地ともいうべきTHEATER/TOPSでの再演を経て、今回と同一キャストが多い再々演(三演)がパルコ劇場の上にあったパルコスペースパート3といった小さな空間で上演されている。パルコスペースパート3には私も1994年の5月だったか、1度だけ行ったことがある。「SWEET HOME」という芝居で、作者の柳美里と演出の鈴木勝秀が町田町蔵(現・町田康)が演じるはずだった役を巡って対立、町田町蔵は降板し、柳と鈴木による訴訟にまで発展した曰く付きの作品であるが、本当に小さなスペースで、篠井英介、椎名桔平、松重豊(実は東京サンシャインボーイズの元メンバーである)ら後に大物俳優になる人が無名時代に出演していたが、本当に客席の最前列の目の前に役者がいるような場所である。私は隅の方だったが最前列だったため、たまに俳優と目が合って、互いに気恥ずかしいので逸らすというそんな場所で上演されていた。「12人の優しい日本人」も少ないお客さんを前にして行うことが前提の芝居だったのである。

だが、2005年の再演時には三谷幸喜はメジャーになっていたため、会場も東京は(旧)パルコ劇場、大阪ではシアター・ドラマシティという大きめの劇場を使用した。ただ、問題が発生。私はキャパ800のシアター・ドラマシディで観たのだが、この劇を上演するには観客が多すぎるのである。陪審員9号を演じていた小日向文世のセリフで(どのセリフだったか)客席から一斉に爆笑が起こったためセリフが聞こえなくなり、小日向さんはセリフを止めて、笑い声が収まるのを待ってから続けていた。つまり大劇場で上演するには不向きであり、パルコスペースパート3のような小スペースでしか本来の上演は出来ないのだが、三谷幸喜の作品を豪華キャストで小劇場でというのはもう無理な話である。例え小さな劇場で行われる機会があったとしてもチケットが手に入るとは思えない。もう上演を観ることはないだろなと思っていたのだが、新型コロナウイルスの影響で俳優が一斉に仕事を失うという状況が発生し、それなら、というので近藤芳正が企画したのが今回の上演である。客席からの笑い声も空気も一体感も得られない上演であり、本当の意味での演劇作品とはいえないと思うが、オリジナルキャストが何人も揃う公演が突如予告された。


「12人の優しい日本人」は、1幕1場場転なし上演時間約2時間半弱である。12人の陪審員は出ずっぱりであるため、役者には酷である。2005年公演の有料パンフレットには、やはりリハーサルの時などは途中でトイレに行きたくなる人も出てしまったということが書かれていた。
今回はそれに加えてリーディングの公演。しかも画面には全員映ったままなので表情の演技は続けなければならず、しかも体は余り動かせないということで役者への負担は更に多くなるため、2部構成での上演となった。第1部が午後2時スタートで約1時間半、第2部が午後6時スタートの1時間弱の上演となる。


ちなみに映画版にも東京サンシャインボーイズの団員が何人か出演しているが、西村まさ彦も当然キャスティングされるつもりでいたがされず、酷く落ち込んでいたということを後に三谷幸喜がエッセイに書いている。ちなみに映画版には休憩のシーンがあったはずである。

 

三谷幸喜作品と久々の真剣勝負ということで、私は午後1時過ぎから体操を始め、神経を集中させる時に行うシャドウピッチングも繰り返すなど、万全の体制を整える。

 

午後2時、YouTubeの画面が作動する。まずは提案者の近藤芳正の挨拶である。リハーサルの時には、そもそもZoomに入るのに手間取る人が多く、全員が画面上に揃ったのはリハーサル初日は開始から1時間、2日目が20分経った頃だそうで、全員の顔が映った時には拍手が起こったそうである。自宅からZoomに参加しているので、宅配便のチャイムが鳴ったり、「石焼き芋」の声が響いたりということもあったそうである。本番では救急車のサイレンが聞こえただけで、特に障害になる物音は鳴らなかった。


近藤芳正は、「芝居の質とか、そういうことはもう期待しないで下さい。何があってもどんなことがあってもみんなで繋いでいく、最後まで終える(ショウ・マスト・ゴー・オン)、グダグダになってもやっていく」と言っていたが、ここで作者の三谷幸喜が別画面で割り込む。長い間自宅から出ていないそうで、口髭顎髭頬髭が伸び放題。しかも染めていないので髪も含めて白いものが目立つ。「よくこんな面倒くさいことやろうと思ったよね」「でもね、大体面白いものって面倒くさいからね」「グダグダって言ってましたけども僕はそんなの認めないですから。『12人の優しい日本人』といえば僕らの劇団(東京サンシャインボーズ)の代表作ですから」といういつもの調子である。その後、三谷は「12人の優しい日本人」について説明する。初演から30年、2005年の上演から数えても15年が経過しているわけで、そもそも「12人の優しい日本人」という作品を知らないという若い人も多いと思われる。

初演時のテキストを使用していると思われ、若い人には何のことかわからないこともそのまま読み上げられる。大手結婚相談所と思われるものは、2005年時には婚活サイトのようなものに置き換わっていたはずだが、今回は置き換えはない。若花田、貴花田(共に今では一発変換不可)という四股名も当時のままで、「わく」から始まる名前の女優として和久井映見の話が出るが、今だと「わく」から思い浮かぶ女性は、女優ではないがNHKの和久田麻由子アナウンサーだと思われる。そう思うと時の経過を実感せずにはいられない。


Zoomを使ってのWeb上演であるため、タイムラグが生じたり、音響に問題のある場面があったり、間が開きすぎたりという難点は当然ながら発生するが、上演形態としては面白い。「12人の優しい日本人」は本来は俳優が円卓を囲って座る形で行われる上演であり、顔が見えない人が結構いるということになる。シアター・ドラマシティでの上演はアリーナではなくステージと客席という一般的なスタイルでの上演であったため、顔が見えない場面の多い人が3分の1ぐらいはいたと記憶している。だが、今回はZoomでの上演であるため全員の顔が見える。小日向さんと温水さんは客席に背を向ける配置であった(「ハイチで会った」と変換されたのだが、なんか楽しそうだな)。常に表情の演技を続けなければならない俳優には酷な上演形態であるが、観る側としては純粋に興味深かったりはする。

 

初演時には日本には裁判員制度はなく、陪審員制度のある架空の日本という設定であったが、2005年の上演は裁判員制度開始が目前に迫っていたため、有料パンフレットには裁判員制度に関する紹介と説明が載っていた。


第1部上演終了後から第2部開始までの間が長いが、ネットで他のページを見ると集中力が途切れるため、読書のみを行って待つ。


12人の個性を生かす形で書かれた本である。「こういう人っているよなあ」という人が何人も登場し、それぞれの立場からのセリフを話す。「数学は出来ないけど理系」を自称する三谷らしいセリフの配置術が巧みに行われる。どのタイミングでどのセリフを振るのがベストかという計算が万全になされている。
こちらはおおよその内容は知っているので、セリフでないパスを受ける人がどういう表情をするのかも確認して楽しんだ。やはりみんな上手い。


東京サンシャインボーイズの全メンバーが揃う最後の公演として行った、1994年の「ショウ・マスト・ゴー・オン」(紀伊國屋ホール)が、私が観た初めての本格的な芝居だったが、その際に購入したパンフレットに、三谷が「良い芝居の作り方」というようなエッセイを載せていた。パンフレット自体は京都にも持ってきているので探せばあると思うが、記憶を紐解くと、おおよそ以下のような内容であった。劇作法に関しては一切書かれておらず、東京サンシャインボーイズとその時の客演のメンバーの人柄に触れたもので、「この人はこうこうこういう性格だが、こういうセリフや役を振ってあげると喜ぶ」だとか「この人はセリフの数が少ないと落ち込むので、なるべくセリフの数を多くしてあげる」といった内容で、役者の個性の尊重は徹底されている。だからこの芝居でも全員が主役になれる場面がある。いい加減な役が存在しないということである。論理が立つ人間から見下される役も、その人がいたからこその展開が後になされるのである。


吉田羊が演じる陪審員5号は、得た知識や情報を意見として語ってしまうタイプの人で、自分で考えた意見は余り持っていないのだが、この役は観る者に議題の内容を提示するという重要な役割を果たしている。基本的に美形女優が演じる役で、2005年の上演では石田ゆり子が演じていた。

野仲イサオが演じる陪審員11号は、一番美味しい役であり、男前俳優が演じる。映画では豊川悦司、2005年の上演ではこれが初舞台となる江口洋介という配役であった。

一番難しい役だと思われるのは、気弱なスタイルを通し続けねばならない陪審員10号。オリジナルキャストである宮地雅子はずっと泣きそうな顔で演じており、見事だった。
2005年の上演でこの役を演じていたのは、劇団四季出身の堀内敬子。彼女は私より4つ上なので、2005年にはまだ30代半ばだったはずだが、50代に見えるおばちゃんを好演。三谷幸喜によると観客や関係者には、本当に50代ぐらいのおばちゃんだと思い込んでいる人が多かったそうで、その演技力に惚れた三谷は彼女を主役とした「コンフィダント・絆」を書き、同作で堀内敬子は数々の演劇賞を受賞することになる。

最重要人物だと思われるのは相島一之が演じる陪審員2号である。相島一之は映画でもこの役を演じているが、三谷が常に当て書きということもあり、填まり役である。人間の悲しさを背負っている役でもあり、上演が終わった時に漂う切ない感じは、相島の好演に負っている部分も多いと思われる。


ちなみに三谷幸喜はドミソピザの配達員役で出演。ただ持ってきたのが少なくともピザではない何か(ドミソピザということで、五線紙上のド・ミ・ソの部分に音符の入った帽子を被っていたため、持ってきたものも譜面のように見える)で、出演者からも「これピザ?」という声が上がり、三谷も「何だこの空気は?」という言葉を発していた。


見終わって心地よい疲れを感じる。実に良い。ただ休憩のないバージョンも観たかったので、アーカイブ化された映像を、午後8時過ぎからもう一度観た。


この芝居は、小さなスペースで、俳優と観客が密集してこそ生きるものである。いわば小演劇の王道作品である。今回はWebでの上演ということで観客がおらず、やはり本当の意味での演劇にはならない。空間の共有がここにはない。それ故に、劇場での演劇という他では味わえないものの良さを真に確認出来たともいえる。
吉本ばなな風に書くと、「私がこの世で一番好きな場所は劇場である」ということも。


「僕の書く劇は誰かが嘘をついていることが多い」という事を三谷は以前にテレビ番組で語っていたと思うが、この芝居でも進行上重要な役割を担う人物が大きな嘘をついている。そしてその嘘と嘘の経験が鍵を握っている。

フィクションの重要性、俳優という存在の素晴らしさがここに提示されているように思う。


12人の優しい日本人を読む会 https://12nin-online.jimdofree.com/

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2020年5月 5日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part6 リモート狂言」(文字のみ)

2020年5月3日 午後2時からはYouTubeで茂山千五郎家の「YouTubeで逢いましょう! part6 リモート狂言」を観る。Zoomを使っての中継。茂山逸平が司会を務める。 まず茂山千五郎が、先日、新型コロナウィルスを原因とする敗血症のために40歳の若さで亡くなった善竹富太郎への弔辞を述べる。 最初の狂言は「文荷(ふみにない)」。出演は、茂山千五郎、茂山茂、山下守之。 主(山下守之)が恋文を太郎冠者(茂山千五郎)と次郎冠者(茂山茂)に恋人に届けるよう託すという話である。二人で交互に恋文を手に持って主の恋人の下に向かうのだが、途中で、垣を見つけ、竹竿の両端を太郎冠者と次郎冠者とで持って中央に文を吊して担うようにして運び始める。そのうちに、主がどんな無粋な文を書いたが気になった二人は文を開封して読み始め、散々に嘲笑するが、どちらが読むかで揉めた際、文を二つに裂いてしまう。このままでは開封したこともばれてしまって届けることも出来ないと悟った二人であったが、「風の便り」という言葉もあるので、扇子で扇いで届けようと図るという話である。 その後、自宅からZoom出演している狂言方の方々や、落語家の桂よね吉なども出演したトークを行う。Zoomはあくまで会議用のツールなので、時間がずれることがあるようだ。 リモート小舞「京童(きょうわらんべ)」が行われる。小舞をリモートで行うのは史上初である。「京童」は茂山千五郎家のみに伝わる舞だそうである。井口竜也の謡で茂山千五郎が舞う。Zoomの音響では謡の声が大きすぎて、声と動きとが分離された感じを受ける。 そして、史上初となるリモート狂言も行われる。演目は「柿山伏」。演じるのは茂山宗彦(もとひこ。「モッピー」というあだ名が定着しているらしい)と鈴木実。茂山宗彦演じる山伏のセリフを担当するのは島田洋海。鈴木実のセリフを受け持つのは茂山千之丞。やはりちょっとずれて見えるところがあるが、超長台詞を切れ味鋭く言う場面は演じながらでは難しいため、動きと語りを分けた面白さも生まれていた。 宮城聰主宰のクナウカがこうした上演を行っているが、滋賀県住みます芸人であるファミリーレストランもハラダの喋くりとしもばやしの動きとで笑わすネタを得意としているため、そのことをチャットで書いたところ、「ここでファミレス?ひょっとして滋賀県住み?」という書き込みがあったので、「京都在住吉本好きです」と答えておいた。

「活動写真のようだ」という意見があり、茂山千之丞は「そういう劇団ありますよ。ギリシャ悲劇とかやる」と語っていたが、やはりクナウカのことであると思われる。もっともギリシャ悲劇自体は元々はクナウカと同じスタイルで、動きと語りは別人が行っており、クナウカはそれを再現しているのである。

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