カテゴリー「広上淳一」の87件の記事

2019年10月28日 (月)

コンサートの記(600) 「時の響」2019 「金色に魅せられた日本とオーストリア 琳派からクリムト、そして現代への継承」 広上淳一指揮京都市交響楽団 第1部「オーストリア×日本 琳派 ゴールド」ウィーンの景色&第2部「古都京都の文化財世界遺産登録25周年」京都今昔物語

2019年10月20日 京都コンサートホールにて

午後1時から、京都コンサートホールで「時の響」2019を聴く。一昨年から始まった音楽文化祭典「時の響」。昨年は規模が拡大されて音楽祭となっていたが、今年は第1部第2部とも上演時間1時間ほどのコンサート2つ、更にアンサンブルホールムラタで西村由紀江らによるスペシャルコンサートがあるが、スペシャルコンサートには参加しない。

「時の響」本編「金色に魅せられた日本とオーストリア 琳派からクリムト、そして現代への継承」は、広上淳一指揮京都市交響楽団によるコンサートである。第1部は「オーストリア×日本 琳派 ゴールド」ウィーンの景色と称したコンサート。日本とオーストリアの国交150周年を記念し、オーストリアの首都ウィーンを題材にした曲目が並ぶ。ウィーンを代表する画家のクリムトと、日本の琳派が共に金を使った絵を残しているということで、ホワイエでは作品のレプリカの展示などがある。またホール内ポディウムには「豊国祭礼図屏風」の高精度複製が立てかけられている。余談だが、この「豊国祭礼図屏風」には嘘がある。豊臣秀吉七回忌として慶長9年(1604)に行われた豊国大明神臨時祭礼であるが、その2年前に方広寺の大仏殿は火災で焼失しており、「豊国祭礼図屏風」に描かれている大仏殿は焼失前のものを仏画などによく見られる異時同図で描いたもので、実際には祭礼が行われた時には大仏殿はなかったのだ。大仏殿の再建が始まるのは慶長13年に入ってからである。

曲目は、前半が「音楽の都『ウィーン』を想う」と題して、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章という曲が並ぶ。後半は「岸田繁『ウィーン』の景色」という題で、岸田繁が作曲した「心の中のウィーン」と「ジュビリー」が演奏される。「ジュビリー」は岸田のギター弾き語り入りである。ナビゲーターは栗山千明。

今日は客演のコンサートミストレス。顔に見覚えがあるような気もするが思い出せない。フォアシュピーラーに尾﨑平。

席であるが、最前列の指揮者のほぼ真後ろという、先日観た映画「レディ・マエストロ」のような状態。最前列は直接音が強すぎて音は余り良くない。管楽器のメンバーの顔も弦楽奏者の影になって窺えず、フルート首席の上野博昭が前半のみ、クラリネット首席の小谷口直子は前後半共に出演ということぐらいしかわからない。トランペットは第1部ではハラルド・ナエスの、第2部では稲垣路子と早坂宏明の顔が確認出来たが、全体としてどういう布陣だったのかは不明である。
栗山千明を間近で見られるのは嬉しかったけれど。

開演前に、「時の響」実行委員会に名を連ねている公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団と大日本印刷株式会社の代表者からの挨拶があった。

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」。ニューイヤーコンサートで演奏される類いのものとは違い、がっしりとしたシンフォニックな演奏で来たのが意外だった。中間部でテンポを落としてからアッチェレランドし、ステップを踏みながら踊るのが広上らしい。

演奏終了後に、ナビゲーターである栗山千明が登場。今回の演奏会は京都を前面に押し出しており、また公益財団法人京都和装産業振興財団による「きもの文化をユネスコ無形文化遺産に!」という推進運動もあって、着物着用の聴衆にはキャッシュバックがある。栗山千明もプログラムにわざわざ「きもの着用」と書かれており、その通りの格好で現れる(現れないとまずいが)。クリムトと尾形光琳の絵には金箔が用いられているということで、栗山千明の着物にも金が用いられているのだが、ぱっと見はよく分からない。広上が「金(きん)あるの?」と聞き、栗山が「あります」と答えていた。このやり取りは台本にはないそうである。
栗山千明で京都というと、まずフジテレビ系の深夜に放送されていた「0-daiba.com」の京都特別編「京都慕情」が思い浮かぶ。栗山千明演じる成瀬一美は、京都芸術センターや百万遍交差点などを訪れている。
また映画「鴨川ホルモー」では、オタクっぽい京大リケジョの「凡ちゃん」こと楠木ふみを演じている。

広上による楽曲解説。「美しく青きドナウ」はオーストリア(広上はオーストリーという呼び方をしていた)第2の国歌と呼ばれており、広上は「日本でいう『故郷』のようなもの」と語る。またウィーンは京都に似ているということで、京都に例えて「美しく青き桂川のような」と表現する。ドナウ川はウィーン市の郊外を流れているため、京都の町中を流れている鴨川はやはりちょっと違うだろうと思われる。東京だと隅田川ではなくて多摩川、大阪だと淀川じゃなくて……、大阪市の郊外には綺麗な川はあったかな? 大和川は絶対に違う。
ウィーンはハプスブルク家の都で魅力的な場所であり、昔から様々な人がそこをものにしようと狙って来た。そこも京都に似ていると広上は述べる。
またヨハン・シュトラウスⅡ世とⅠ世は親子で同じ名前だと紹介し、ヨハン・シュトラウスⅠ世は放蕩者だったため、Ⅱ世が15歳ぐらいの時によそに女を作って出て行ってしまったという話をする。Ⅱ世はそれまで本格的に音楽に取り組む気はなかったのだが、生活費を稼ぐために音楽を学んで成功。父とはライバル関係になって勘当されたりもしている。実はⅡ世も弟2人に作曲をするよう強要して兄弟仲まで悪くなってしまうのだが、それはまた別の話である。

栗山千明は、「ラデツキー行進曲」を「デラツキー行進曲」と間違えて紹介。広上がすぐ「ラデツキー行進曲は」と言い直して、ウィーンのニューイヤーコンサートでお客さんが手拍子を入れるという話をしたのだが、結局、その後も栗山千明は「デラツキー行進曲」と何度も間違え続けていた。「ラデツキー行進曲」も知らないという事は、クラシック音楽に関してほとんど何の知識もないということであり、ちょっとがっかりする。

「ラデツキー行進曲」では、広上はオーケストラよりも聴衆の拍手を中心に指揮した。カットありの版での演奏。

 

ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。喜歌劇「こうもり」はウィーンでは年末に上演されることが恒例となっている。
華やかさとスケールの大きさ、ウイットを兼ね備えた演奏で、京響の響きも充実している。

演奏終了後に登場した栗山千明は、「先程は大変失礼いたしました。『ラデツキー行進曲』」と詫びていた。

モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章。この曲では栗山はなぜか「ジュピター」というタイトルは一度も告げなかった。
広上が栗山に、「モーツァルトがどういう人だったかご存じ?」と聞き、「ごめんね、台本にないことばかり言って」と続ける。「実際に会ったわけじゃないんですが」と広上は前置きして、「ハリウッド映画で『アマデウス』という作品がありましたが、あれに出てくるモーツァルトはフィクションです。ただ書き残したものから、あれに近い人だったんじゃないかと言われています。人前では言えないようなことを書いていたり、女の子が『キャー!』とか『わあ!』とか言うと、『うひひひひ』と喜ぶような。小学生がそのまま大きくなったような、こういう人ってどう?」
栗山「仲良くなりやすいとは思います」(若干引き気味に見えたが気のせいだろうか)
広上「そういう人を喜ばせるのが好きな人だったと思います」

「ジュピター」を得意とする広上。澄んだ弦楽の響きを生かした純度の高い演奏を繰り広げる。弦のビブラートは各々で異なり、ピリオドを徹底させた演奏ではないが、途中で現れる音を切りながらの演奏は古楽を意識したものだろう。
モーツァルト本人はあるいは全く意識していなかったかも知れないが、今日のような演奏で聴くと本当に宇宙的な音楽に聞こえる。

 

くるりの岸田繁が登場しての後半。栗山千明が、くるりがウィーンでレコーディングを行った経験があることなどを紹介する。ウィーンについて岸田は「京都に似ている」と言い、広上は意見が合ったと喜ぶ。「人口も180万くらいで(京都市は147万人ほどだが昼間人口は増える)。まあ同じぐらい」「中心部は昔ながらの建物が残されていて(第二次大戦の戦災で焼失したものもあるが元通りに復元されている)、郊外には意外に工業地帯があったりする」。ドイツ語圏ではあるが言葉も違い、「おはよう」も「グーテンモルゲン」ではなく、「グリュースゴット」と言うと紹介する。ウィーンで初めて聞いた時は岸田は意味が分からず、「なにそれ?」と聞き、「いや、ウィーンではこうやって言うんだ」と主張された(?)そうである。「グリュースゴッド」は、「神があなたに挨拶しますように」という意味で、広上は「キザ」と形容する。
岸田は自身の事を述べる際には「僕はキザではないんですが」と断りを入れていた。

「心の中のウィーン」はワルツと4拍子を取り入れた曲であり、ウィンナコーヒーのような甘さを意図的に出している。

岸田繁のギター弾き語り入りの「ジュビリー」はウィーンで作曲されたというだけで、特にウィーン情緒を出した感じは受けなかった。

 

1時間ほどの休憩を入れて第2部スタート。休憩の間、私は一度外に出て自販機でカフェラテを買って飲んだ。特にウィーンを意識したわけではない。

 

第2部は、「古都京都の文化財世界遺産登録25周年」京都今昔物語と題したコンサートで、新作の世界初演2曲が続く。

開演前に門川大作京都市長の挨拶があり、文化庁の京都移転や京都駅東南地区を共生の街にするプランなどが話された。どちらもちょっと前までは明るい話題であったが、そこは京都ということか、何やら暗雲が垂れ込み始めている。
門川市長は、「日本が世界に誇れるもの、それは文化」と語っていたが、現状ではこれも疑問である。クラシック音楽の分野における日本の未来は明るいかも知れないが、その他は厳しいかも知れない。

 

まずは母校の京都市立芸術大学作曲科講師でもある酒井健治のヴィオラ協奏曲「ヒストリア」。ヴィオラ独奏は、京都市交響楽団首席ヴィオラ奏者の小峰航一が務める。
疾走するヴィオラをオーケストラが盛り立てていくような曲調である。メシアンにも近いがノーノ的にも聞こえる。ヴィオラ協奏曲ということで、ヴィオラ独奏がオーケストラのヴィオラパートと歌い交わす場面もあり、意欲的な作風だ。
緊迫感もあり、面白い楽曲である。ヴィオラ独奏はかなり難度が高そうであったが。

 

今日最後の曲は、岸田繁の作・編曲(共同編曲:足本憲治)による「朗読とオーケストラ 京のわらべうた変奏曲による『徒然草』」~京都生まれの日本哲学~。吉田兼好の「徒然草」を現代語訳したものを栗山千明が朗読し、背後のスクリーンには武蔵野美術大学出身の文字×映像ユニット宇野由希子+藤田すずかによる文字アニメーションが投映される。

岸田繁の音楽はタイトルの通り、「丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦」という京の通り名を挙げる「京のわらべうた」を変奏していくもので、オーケストラのパレットも次々変わる。酒井健治の作品とは対照的であるともいえる。
素朴で愛らしいメロディーを奏でるのだが、広上の指揮ということもあってか響きは意外に重厚で輝かしく、さながらベンジャミン・ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」の日本版のような趣である。
栗山千明が読み上げるテキストは、「人生の短さ」「物事を先延ばしにすることの愚かしさ」「想像力の大切さ」「先入観を捨てることの有効性(虚であるべきこと)」などを抜粋したもの。葵祭が終わった夕暮れの寂しさなども採用されている。
栗山千明は茨城県出身なので標準語とは少し異なるイントネーションである。明るめの声を生かし、「流石は国際派女優」のしっかりした朗読を披露した。

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2019年7月15日 (月)

コンサートの記(573) 広上淳一指揮京都市交響楽団大阪特別公演2019

2019年7月7日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで京都市交響楽団大阪特別公演を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一。

曲目は、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」、ヴェルディの歌劇「運命の力」序曲、ヴェルディの歌劇「仮面舞踏会」序曲、レスピーギの交響詩「ローマの松」という重量級プログラムである。

コンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーは尾﨑平。今日はヴィオラ首席に店村眞積が入る。第2ヴァイオリンの首席は客演の山崎千晶。首席フルート奏者の上野博昭は「英雄」のみの出演である。

 

ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。広上はベートーヴェンを得意としているが、「英雄」を京響で取り上げる機会はこれまでほとんどなかったはずである。
広上の指揮なので最初から飛ばすかと思われたが、最初の二つの和音からして穏やかであり、勢いでなく優美さを優先させるという意外な「英雄」となる。
バロックティンパニを使用しており、思い切った強打が見られるが、それ以外に特段ピリオド的な要素はなし。ただ、リズムの刻み方が独特であり、モダンスタイルともまた異なる個性的な「英雄」である。考えてみれば、モダンオーケストラによるピリオド奏法が本格的に取り入れられてからすで20年以上が経過しており、異なった傾向の演奏が現れたとしても不思議ではない。
第2楽章の葬送行進曲も燃焼度は高いがフォルムの美しさは保たれており、アポロ的な芸術が指向されているようである。
広上は肩を上下させるなど、今日もユニークな指揮姿である。

 

ヴェルディの歌劇「運命の力」序曲ではドラマティックに盛り上げ、歌劇「仮面舞踏会」序曲ではこぼれるような抒情美が目立つ。

 

レスピーギの交響詩「ローマの松」。オルガンの桑山彩子、ピアノの佐竹裕介、チェレスタの塩見亮が加わっての演奏である。
ボルゲーゼ荘の松から、はち切れんばかりの勢いと匂うようなエレガンスが同居しているという独自の演奏となる。
カタコンブ付近の松のほの暗さの描き方と袖から聞こえるハラルド・ナエスのトランペットソロも優れている。ジャニコロの松では、小谷口直子のクラリネットソロが雅趣満点である。
パイプオルガンの両サイドに金管のバンダを配したアッピア街道の松も迫力十分であるが、ザ・シンフォニーホールの空間が小さめであるため、スケールがややオーバー気味でもある。とはいえ、かなり優れた部類に入る「ローマの松」であることは間違いないだろう。浮遊感など、レスピーギが印象派から受けた影響を感じ取れるところも素晴らしい。

 

アンコール演奏は、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3集からイタリアーナ。今日のスタイルの締めくくりに相応しい典雅な演奏であった。

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2019年4月 8日 (月)

コンサートの記(542) 広上淳一指揮京都市交響楽団第574回定期演奏会

2013年11月30日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第574回定期演奏会を聴く。今日の指揮は京響常任指揮者の広上淳一。
来シーズンから、京響は、常任指揮者の広上淳一に加えて、首席常任客演指揮者に高関健を、常任客演指揮者に下野竜也を迎えるのだが、偶然であるが、私は今日は広上、昨日は下野、一昨日は高関と来シーズンからの京響指揮者陣の演奏を3日連続で聴くことになった。

曲目は、ショスタコーヴィチの「祝典序曲」、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番(チェロ独奏:エンリコ・ディンド)、ロベルト・シューマンの交響曲第2番。ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番とシューマンの交響曲第2番の、第2番コンビはいずれも暗い作風であり、楽しい音楽が好きな人からは避けられがちである。

唯一の明るい曲であるショスタコーヴィチの「祝典序曲」であるが、ショスタコーヴィチが無理して笑っているような印象を受ける曲である。薬で目一杯テンションを上げたような出だしであるが、次第に「祝典」というタイトルの割りには鋭い音楽となり、ベートーヴェンの俗に言う「運命動機」のようなものも聞こえる。
広上の指揮する京都市交響楽団だが、非常にクリアで、気品溢れる音を出す。

 

ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番。明るくなる場面がほとんどない曲である。ソリストのテクニックは極めて高度なものが求められる。初演が行われたのは1966年、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのチェロ、エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団によってである。ロストロポーヴィチもスヴェトラーノフも私はよく知っている音楽家であり、スヴェトラーノフは実演にも接している。初演者が知っている人だと不思議と親しみもわく。
3楽章全てがエレジーのような曲であり、ソリストであるディンゴも漆器の輝きのような渋い音を出す。広上の指揮する京響も沈痛な音を奏でる。

ディエゴはアンコールとして、J・S・バッハの「無伴奏チェロ組曲」第6番より“アルマンド”を弾く。今度は明るく、滑らかな音による演奏であった。

 

メインであるシューマンの交響曲第2番。難解とされる曲である。私自身は難解だと思ったことはないのであるが、この曲はシューマンが梅毒が原因で精神を病んでいたときに作曲した作品であり、症状が重く、作業を途中で中断せざるを得ないなど深刻な状況で作曲された。そのため、そういう心理状態を無意識のうちに避けたい人もいるのかも知れない。

第1楽章。広上は通常の演奏よりも更に弱い音でスタート。そして徐々に音の大きさとスケールを膨らましていく。ヴァイオリンが普段より透明な音を出しているので確認すると、やはりビブラートを普段より抑えめにしているのがわかった。

広上の指揮であるが、実に多彩である。普通はある適度型は決まっているものなのだが、広上は同じ旋律がもう一度登場したときも違う振り方をしていることが多い。指揮棒でティンパニに指示を出していたかと思うと、主旋律が他の楽器に移ったために、今度は視線をティンパニに送って目で指揮したりする。指揮の意図が極めて明確な指揮者である。ただ今日はいつもよりオーバーアクション。これにはわけがあることが後にわかる。

第2楽章では、本来は楽譜にないはずのリタルダンドをかけたり、猛烈な加速を見せたりと、即興性溢れる仕上がりとなった。

悲しみと憧れの第3楽章であるが、広上は悲しみを強調する。旋律が憧れに行こうとすると、短調を奏でている楽器を強調して、再び涙色の響きへと戻してしまう。これもまた伏線である。

最終楽章。第3楽章では悲哀を奏でた旋律を長調に変えたものをヴィオラが弾くのだが、それがこれほどわかりやすく浮かび上がる演奏は聴いたことがない。ということで、第3楽章を悲しみ一色にしても良かったのである。広上はダイナミックな指揮で快活な演奏を展開する。シューマンの交響曲第2番が決して暗い曲ではないということを実証してみせたのだ。

 

定期演奏会は普通はアンコールがないのだが(そもそもアンコール曲を用意していない)、今日はヴェルディとワーグナーが今年で生誕200年を迎えるということもあり、ヴェルディの歌劇「椿姫」より第3幕への前奏曲が演奏される。リリカルで哀感に溢れる音楽が時間を刻む。

発見の多い演奏会であった。

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2019年4月 1日 (月)

コンサートの記(538) 広上淳一指揮京都市交響楽団 モーツァルト連続演奏会 「未来へ飛翔する精神 克服 ザルツブルク[1776-1781]」第1回「溢れ出る管弦楽の力」@いずみホール

2013年10月31日 大阪・京橋のいずみホールにて

午後7時から、いずみホールで、モーツァルト連続演奏会「未来へ飛翔する精神 克服 ザルツブルク[1776-1781]」第1回「溢れ出る管弦楽の力」という演奏会を聴く。いずみホールで今日から来年1月まで5回に渡って行われるオール・モーツァルト・プログラムによる演奏会の第1回である。トップバッターを務めるのは、広上淳一指揮の京都市交響楽団。

京都市交響楽団は、結成直後は今と違って中編成であり、初代常任指揮者であるカール・チェリウスによりアンサンブルが鍛えられ、緻密なモーツァルト演奏を売りとして、「モーツァルトの京響」と呼ばれたこともある。今は大編成のオーケストラとなり、「モーツァルトの京響」という言葉も半ば死語となりつつあるが、今も京響はオール・モーツァルト・プログラムによるコンサートを京都コンサートホール小ホール「アンサンブルホール・ムラタ」で連続して行っている。

曲目は、ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364(ヴァイオリン独奏:泉原隆志、ヴィオラ独奏:店村眞積)と、セレナード第9番「ポストホルン」K.320。

いずみホールは大阪を本拠地とする住友(屋号は泉屋)グループのホールである。住友生命保険相互会社の創立60周年を記念して1990年にオープンした中規模ホール。室内オーケストラや室内楽、ピアノリサイタルに適したホールである。内装は住友のホールらしく豪華。ただ音響はオーケストラ演奏を行うには今一つである。

 

今日は最前列上手寄りの席。演劇なら最前列は良い席なのだが、クラシック音楽の場合、音のバランスが悪くなるため、最前列はホールや演目によってはチケット料金が安くなることもある。

 

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲のソリストは共に京都市交響楽団の首席奏者。若い泉原隆志(いずはら・たかし)が輝かしく軽やかなヴァイオリンを奏でるのに対し、店村眞積(たなむら・まづみ)は重厚で渋い音色を出す。好対照である。ヴァイオリンとヴィオラ、それぞれの楽器の個性が奏者によってより鮮明になった格好である。
指揮者の広上淳一は、指揮棒を持って登場したが、指揮棒は譜面台に置いたまま取り上げることはなく、結局、この曲はノンタクトで指揮した。
ワイパーのように両手を挙げて左右に振ったり、脇をクッと上げたり、ピョンピョン跳んだりする個性溢れる指揮だが、出てくる音楽はユーモラスな指揮姿とは全く異なる本格化。瑞々しくも力強い音楽が作られ、モーツァルトの音楽を聴く醍醐味を存分に味わわせてくれる。

 

後半のセレナード第9番「ポストホルン」。7つの楽章からなるセレナードであり、第6楽章で駅馬車のポストホルン(小型ホルン)が鳴らされることからタイトルが付いた。
広上はやはり指揮棒を手に登場するが、第1楽章はノンタクトで指揮する。豪華で生命力に満ちたサウンド。広上と京響の真骨頂発揮である。
広上は、第2楽章と第3楽章の冒頭では指揮棒を手に指揮を開始するが、合わせやすくするために指揮棒を使っただけのようで、合奏が軌道に乗ると、すぐに指揮棒を譜面台に置いてしまい、やはりノンタクトで指揮する。楽章全編に渡って指揮棒を使ったのは第5楽章だけで、メランコリックな曲調を潤んだような音色で表現したが、指揮棒を逆手に持って、ほぼノンタクトと同じ状態で指揮する時間も長かった。その前の第4楽章は快活でチャーミング。広上と京響の特性が最も生きたのは、この第4楽章であったように思う。
第6楽章では、ポストホルン奏者が指揮者の横に立ち、ポストホルン協奏曲のような形で演奏される。広上と京響はゴージャスな響きを作り出すが、ポストホルン奏者(ノンクレジットであるが、京響トランペットの紅一点である稲垣路子だと思われる)も負けじと輝かしい音を出す。
最終楽章となる第7楽章は堂々たる威容を誇る快演。非常に聴き応えのある「ポストホルン」セレナードであった。

 

アンコールとして、広上と京響は、「ポストホルン」セレナードの第6楽章を再度演奏した。

 

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2019年3月31日 (日)

コンサートの記(537) 広上淳一指揮京都市交響楽団 「八幡市文化センター開館30周年記念京都市交響楽団特別演奏会」

2013年10月26日 京都府八幡市の八幡市文化センター大ホールにて

午後2時30分から、京都府八幡市にある八幡市文化センター大ホールで、「八幡市文化センター開館30周年記念京都市交響楽団特別演奏会」を聴く。指揮は京都市交響楽団常任指揮者の広上淳一。

京都市の南にある八幡市(やわたし)。石清水八幡宮のある街である。京阪特急で中書島まで行き、そこから各駅停車に乗り換えて二つ目の駅が八幡市駅である。八幡市文化センターは八幡市駅から放生川(ほうじょうがわ)沿いに南下、約1・5キロほどのところ、八幡市役所と同じ敷地内にある。

30周年ということは、1983年の開館ということになり、1973年オープンのNHKホールは勿論、1982年開館のザ・シンフォニーホールよりも新しいホールである。ただエントランスやホワイエ、舞台などは立派であるが、椅子などはすでに木製の肘掛けの黒い塗装がはげてしまっていたり、赤い座席カバーが破れているなど、老朽化が目立つ。稼働率も低そうであり、メンテナンスを十分に行うだけの費用がないのかも知れない。空気もいささかほこりっぽく、家と同じでホールも常に人が入っていないと活性化されず、古びるのが早いのかも知れない。

演目は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲(チェロ独奏:宮田大)とブラームスの交響曲第1番であるが、京響の演奏が行われる前に、邦楽の演奏がある。
山本千絵(箏)、川崎貴久(尺八)、山本三千代(三絃)による宮城道雄の「比良」と、山本三千代を除いた二人による沢井忠夫の「上弦の月」である。山本千絵(八幡市在住で、本名は川向千絵とある)と山本三千代は親子ほど年が離れているが、あるいは本当の親子なのかも知れない。同じ邦楽サークルに属しているが、師範が「山本」を名乗るという習慣もないようである。
邦楽も内容自体はそれほど難しくはないのだが、私が普段邦楽を聴き慣れていないということもあって、演奏のレベルも面白さも今一つ伝わってこない。クラシック音楽に接することの少ない人がクラシックコンサートで曲を聴いたときも同じような感想を抱くのかも知れない。

京都市交響楽団の今日のコンサートマスターは渡邊穣。泉原隆志は降り番である。フルート首席奏者の清水信貴も今日は降り番であったが、クラリネット首席奏者の小谷口直子、オーボエ首席奏者の高山郁子は、今日は前後半共に出演する。
広上淳一は、今日も全編ノンタクトで指揮した。

ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストの宮田大は、1986年、栃木県宇都宮市生まれの若手チェリスト。両親共に音楽教師という家庭に生まれ、3歳からチェロを学び始め、9歳で初めてコンクールに参加して優勝。その後も参加した全てのコンクールで優勝を果たすという神童系演奏家である。2009年には第9日ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールで日本人として初めての優勝に輝いている。桐朋学園音楽大学ソリスト・ディプロマコースとジュネーブ音楽院を卒業。今年、クロンベルク・アカデミーを修了したばかりである。
その宮田のチェロであるが、テクニックは滑らか、音はまろやかである。
伴奏を務める広上淳一指揮の京都市交響楽団であるが、京都コンサートホールで聴く時よりも音の密度が薄い印象を受ける。八幡市文化センター大ホールは多目的ホールであり、残響可動システムがあって、残響2秒までを確保出来るのであるが、やはり音響設計をして残響が2秒あるのと、可動システムで残響2秒を作り出すのとでは違い、響きの評判は今一つではあっても京都市交響楽団が京都コンサートホールの音響から恩恵を受けているのは間違いなさそうである。またこうしたホールで聴くことにより、京都コンサートホールの響きが巷間言われているよりも良いものであることがわかる。
ホールの音響にスポイルされたとはいえ、広上指揮の京都市交響楽団も力強い伴奏で、宮田のソロに応えた。

宮田はアンコールとして、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第1番より「ブーレ」を弾く。ドヴォルザークではあれほど達者であったのに、バッハの演奏になると奥行きと造形美がいささか不足勝ちに聞こえる。やはりバッハの曲を十分に聴かせられるようになるには、ある程度年齢を重ねる必要があるのかも知れない。
とはいえ技術は達者であり、演奏終了後、宮田は喝采を浴びた。


後半、ブラームスの交響曲第1番。
冒頭は悲劇性を強調することはなく、音の美しさと確かな構築感を優先させた演奏である。音も明るめだ。だが、曲が進むに従って、演奏は緊迫感を増していく。広上がスロースターターなのではなく、そういう解釈なのであろう。広上はいつも以上に強い音を要求したようで、特に弦楽器奏者は体を揺らしながら激しいボウイングで力強い音を生む。
第1楽章後半の切迫感は聴いていて胸が締め付けられるようであった。
第2楽章の抒情美、第3楽章の機能美ともに優れている。広上の身振り手振りはかなり大きいが、徒に大袈裟に指揮しているわけではなく、それら全てが音楽に反映されているのは流石である。
最終楽章も入りを深々と歌い、主部に入ってからは緩急自在。凱歌は堂々として聴く者の気分を高揚させる。
独自の解釈による秀演であった。

広上と京響はアンコールとして、モーツァルトのディヴェルティメントK.126から第2楽章を演奏する。「典雅」という言葉がピッタリくる出来であった。

クラシックのコンサートは定期演奏なら通常は2時間ほど、特別演奏会でもアンコールを含めて2時間半以内に収まるが、今日は邦楽の演奏もあり、ソリスト、オーケストラともにアンコール演奏があったため、上演時間は20分間の休憩を含めて3時間に達した。

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2019年3月 6日 (水)

コンサートの記(529) 広上淳一指揮京都市交響楽団大阪特別公演2013

2013年9月21日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて


午後2時から、ザ・シンフォニーホールで、京都市交響楽団大阪特別公演に接する。指揮するのは京響常任指揮者の広上淳一。今日も全曲ノンタクトでの指揮である。


デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」(ピアノ独奏:山本貴志)、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」、ラヴェルの「ボレロ」というプログラム。フランスものがロシア音楽を挟むという格好になっている。


今日の京響コンサートマスターは泉原隆志。渡邊穣がフォアシュピーラーに回るという形である。今日も首席フルート奏者の清水信貴と首席クラリネット奏者の小谷口直子は後半のみの登場。首席オーボエ奏者の高山郁子は今日は降り番のようで、「ボレロ」では実質的な京響次席オーボエ奏者扱いのフロラン・シャレールが首席の位置に陣取った。


 


デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。ゲーテのユーモア溢れる詩をモチーフにした交響詩で、ディズニー映画「ファンタジア」ではミッキーマウスがこの曲をバックに魔法使いの弟子役を務めたことでも有名である。


比較的遅めのテンポで入る。ザ・シンフォニーホールの音響を考慮に入れたためか、広上は「魔法使いの弟子」と「スペイン奇想曲」ではゆったりとした演奏をした。神秘感の強調こそないが、丁寧な仕上げが印象的であり、弦楽の透明感溢れる響きも心地よい。ただ、京都コンサートでも響く演奏になれてしまったためか、「ザ・シンフォニーホールなら素晴らしく響くに違いない」と考えていたほどには音は鳴らず、そこは拍子抜けであった。


 


ピアニストの山本貴志をソリストに迎えての、ラフマニノフ「パガニーニのための変奏曲」。山本貴志のピアノを聴くのは二度目。前回は山田和樹指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏会で、山本はラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾く予定だったが、体調不良のため、超絶技巧が必要とされるラフマニノフを弾くだけの余裕がないとして、急遽、曲目を変更し、モーツァルトのピアノ・コンチェルトを弾いている。


 


今日こそは得意のラフマニノフを決めてみせると、山本も気合い十分なはずだ。


山本の演奏は独特で、グレン・グールドに影響を受けたのかどうかは知らないが、猫背になり、鍵盤に顔を近づけてピアノを弾く。超絶技巧が必要とされる場面では背を伸ばして力強く弾くが、抒情的な部分ではペダルを駆使して、淡いトーンのピアノを奏でる。音の引き出しは多い。


広上指揮する京響の伴奏は彩り豊か。変幻自在の伴奏であり、特にラストの浮遊感は奇術か何かのようだった。


 


後半。リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」。前述通り、遅めのテンポで堂々と且つ華やかに始まる。


ソロを弾く場面もあるコンサートマスターの泉原隆志の技巧は優れており、クラリネットの小谷口直子やフルートの清水信貴もやはり上手い。二人の演奏を後半だけにしか聴けないというのは惜しい。


情熱的でパワフルな演奏に、聴衆も沸く。


 


ラヴェルの「ボレロ」。クラシックファンには大人気の曲であるが、演奏する側は「出来れば避けたい」と思っている曲の筆頭でもある。二つのメロディーを繰り返す曲であり、ちょっとでも失敗すれば目立ってしまうため、奏者達は怖れるのである。「スペイン狂詩曲」でもスネアドラムは使われたが、「ボレロ」ではより指揮者に近い位置にスネアドラム奏者は陣取る。


平均的は演奏時間は約15分であるが、広上が採ったのはそれよりやや遅めのテンポである。作曲家の指示通りインテンポであり、後半にアッチェレランドをかけるというようなことはしなかった。この曲では、最初のうちは広上は手を使わず、体をくねらせたり頭を振ったりして指揮をする。トロンボーン奏者がソロを取るときには、広上はトロンボーンとは正反対の方向を見て頭で指揮していた。オーケストラ奏者は指揮者と正対すると自然に大きな音を出す傾向があるようなので(NHK交響楽団首席オーボエ奏者の茂木大輔の証言による)、トロンボーンに強く吹かせないために敢えて視線をそらしたのだと思われる。


ヴァイオリンが主題を奏でるところから、広上は本格的に腕を振って指揮するようになり、トランペットが朗々と第1主題を演奏する部分で広上は大きく手を広げ、これまで溜めてきたエネルギーを一気に放出する。作為的ではあるが、そうした印象を上回る程の快感と開放感と興奮とが私の胸に押し寄せ、巻き込んでいく。広上は優れた指揮者であると同時に最高のエンターテイナーであり、千両役者である。


演奏終了後、興奮した多くの聴衆から「ブラボー!」の賞賛を受けた広上。広上はまずスネア奏者を讃えた後で、演奏順に奏者を立たせ、拍手を送る。いったん退場してから再度現れた広上はオーケストラメンバーを立たせようとしたが、奏者達も拍手をして立とうとしない。広上は一人、指揮台に上がり、喝采を浴びた。


 


広上は、「『半沢直樹』は明日が最終回です」と、今日もまたお気に入りのドラマである「半沢直樹」の話をした後で、「拍手への10倍返しということで」と、アンコール曲を演奏する。15日にも京都コンサートホールでアンコールとして取り上げた、ブラームスの「ハンガリー舞曲」第6番である。同一曲を同一コンビが違う場所で演奏するため、ホールの音響の違いがよくわかるのだが、ザ・シンフォニーホールは全ての楽器の音が京都コンサートホールよりも明らかに良く通る。流石は全世界のアーティストが憧れる名ホールである。

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2019年3月 4日 (月)

コンサートの記(528) 広上淳一指揮 読売日本交響楽団 読響サマーフェスティバル「三大交響曲」2013

2013年8月21日 池袋の東京芸術劇場コンサートホールにて


東京へ。池袋にある東京芸術劇場コンサートホールで、広上淳一指揮読売日本交響楽団の演奏会を聴くためだ。


今回のコンサートの曲目は、シューベルトの交響曲第7番(旧番号では第8番)「未完成」、ベートーヴェンの交響曲第5番、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」である。


広上の指揮するベートーヴェンの交響曲第5番は、彼が常任指揮者を務める京都市交響楽団の演奏会で二度聴いているが、他の曲目を広上の指揮で聴くのは初めてである。そもそも「未完成」交響曲は生で聴くことをも初めてなのではないだろうか。かつてはクラシックといえばベートーヴェンの第5交響曲とシューベルトの「未完成」交響曲が二大人気曲であったが、現在ではシューベルトの交響曲というと、第8番(旧番号では第9番)「ザ・グレイト」の方がコンサートでは人気である。


 


開演は午後6時30分。


 


京都芸術劇場は京都造形芸術大学内にある私営のホールであるが、東京芸術劇場は東京都の施設である。ということで、やはり都営である東京文化会館と共に東京都交響楽団の本拠地となっている。


音響であるが、東京の音楽専用ホールとしては良い方である。サントリーホールほどではないが、少なくともNHKホールよりはかなり上である(NHKホールも広さを考えれば良く聞こえると思うが「広さを考えれば」である)。今日は前から2列目の席。京都コンサートホールの2列目だと、音が上に行ってしまって直接音が余り届かず、歯がゆい思いをするのだが、東京芸術劇場コンサートホールの場合は音も良い。


 


広上は今日は3曲ともノンタクトで指揮した。京都市交響楽団とのベートーヴェンは指揮棒を振っていたので、ノンタクトによる広上のベートーヴェン交響曲第5番の演奏を聴くのは初めてとなる。


 


シューベルトの交響曲第7番「未完成」。広上は冒頭こそおどろおどろしい雰囲気は作らなかったが、第1楽章は曲が進むにつれてシューベルトの秘められた狂気が露わになっていく。弦楽器群の出す音などは聴いていて胸が苦しくなるほどだ。


夢見るような第2楽章。広上の指揮する読響は実に美しい音色を奏でる。だが、中間部ではやはり聴く者を戦慄させるような迫力があった。


 


ベートーヴェンの交響曲第5番。京都市交響楽団の演奏と比べるとホールの影響もあるだろうが(初めて聴いたのは兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール。二度目は京都コンサートホールである)まろやかな音による演奏であった。極めてドラマティックであり、広上とベートーヴェンの相性の良さが感じられる。


第3楽章から最終楽章までの切れ目なく繋がる場面で、広上さんは右手の肘を下げて、そこから砲丸投げのように上方に上を突き出す。外連味はあるが効果的な指揮法だと思う。


読売日本交響楽団は、最近では、シルヴァン・カンブルラン、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、下野竜也という、偶然かどうかはわからないが、いずれも渋めの音色を引き出す指揮者にポストを与えており、そのせいか、今日の読響も京響のような燦々とした音色ではないが、最終楽章に突入するところではパッと光が差したかのような神々しい音で広上の指揮に応えた。


 


休憩を挟み、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。


 


広上は序奏こそ平均的なテンポで開始するが(音色はやはり渋めである)、徐々にリタルダンドして行き、展開部に入ることにはかなり遅くなる。だが、管楽器の一斉合奏の所でテンポを上げ、ドラマティックな演奏が展開される。管楽器群であるが、立体的な音を奏でており、オーケストラの力と共に広上の統率力および表現力の巧みさが感じられる。


 


第2楽章は実に抒情的。ノスタルジックな雰囲気を味わうことが出来た。


 


第3楽章は管だけでなく全ての楽器が立体的な音を奏でる。まさに広上マジックである。


そして最終楽章。推進力に富んだ演奏であり、力強いが、金管の咆吼の際も弦楽器などとのバランスは最良に保たれており、力任せの演奏にはなっていない。


これまで、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(ザ・シンフォニーホール)やパーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団(兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール)による「新世界」交響曲の名演を聴いているが、広上淳一指揮読売日本交響楽団による「新世界」交響曲は、総合力ではそういった猛者をも凌ぎ、実演で聴いた「新世界」の中では文句なしにナンバー1である。

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2019年3月 1日 (金)

コンサートの記(527) 広上淳一指揮京都市交響楽団第571回定期演奏会 ドヴォルザーク 「スターバト・マーテル」

2013年8月11日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第571回定期演奏会に接する。今日の指揮者は京都市交響楽団常任指揮者の広上淳一。

プログラムは1曲のみ。ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」である。総演奏時間が約1時間半という大作である。途中休憩は勿論なし。終演後にはレセプションが行われる。

4人の独唱者と、合唱を伴う宗教音楽。

独唱者は、石橋栄実(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、高橋淳(テノール。当初は大槻孝志が歌う予定だったが、大槻が声帯疲労のため出演することが出来ず、急遽、高橋が代役に立つことになった。高橋は東京音楽大学の出身であり、現在は同大学の講師を務めている。東京音楽大学の出身で、今は同大学の教授である広上は師であり、先輩であり、同僚でもある)、久保和範(バスバリトン)。
合唱は京響コーラス(アマチュアの団体であるが、井上道義や広上淳一の指導も受けており、よく鍛えられている)。

開演20分前から、広上淳一によるプレトーク。京響は今年の1月からこの8月までの定期公演全てが完売御礼だそうである。今の京響は世界的に見ても高い水準にあり、これほど高いレベルに達している文化団体は京都市には他にないので、当然といえば当然ではあるのだが、京響のレベルをここまで高めた広上淳一の功績は大きいだろう。
それから、京響コーラスの合唱指揮者(たまに勘違いされるが、合唱指揮者とは、合唱のトレーナーのことであり、練習の際に指揮者も務める人のことで、本番でオーケストラとは別に合唱専門の指揮者がいるということではない)である小玉晃が呼ばれ、京響コーラスの歴史などについて語る。京響コーラスは、前身は井上道義が1995年秋に組織した京響第九合唱団であり、第九以外も歌うので京都市合唱団となった。昨年、京響との連結を強めるために京響コーラスと改名。現在、井上道義が創設カペルマイスター、広上淳一がスーパーヴァイザーとしてレベルアップのために尽力している。

ドヴォルザークの最高傑作といわれることもあるが、滅多に演奏されず、CDの数も少ないという「スターバト・マーテル」。生で聴けるだけでも貴重なことである。なお、ライヴ録音が行われ、演奏は後日、NHK-FMで放送されるという。

弦楽による出だし。広上の指揮する京響の弦は清澄を極めており、これほど透明で美しい音色というものはそうそう聴けるものではない。管もまろやかな音を出すが、京都コンサートホールでまろやかな音を出すのは極めて難しいことである。
4人の独唱者の出来も良く、京響コーラスもアマチュアとは思えないほど優れた合唱を聴かせる。
今日の広上は全編ノンタクトで指揮。非常にわかりやすい指揮である。

予習のために、フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮ロイヤル・フランダース・フィルハーモニー管弦楽団&コレギウム・ヴォーカレ・ヘントほかのCDを聴いたが、もし、広上淳一指揮京都市交響楽団&京響コーラスほかの演奏がCDとして発売されたなら、ヘレヴェッヘ盤はもう用なしになる。それほど高水準の演奏であった。広上淳一は音楽の神様に祝福された男である。

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2019年2月11日 (月)

コンサートの記(522) 広上淳一指揮京都市交響楽団第566回定期演奏会

2013年3月24日 京都コンサートホールにて

午後2時30分より、京都市交響楽団の第566回定期演奏会に接する。今日の指揮者は常任指揮者の広上淳一。

プレトークでは坊主頭にした広上が司会を担当し、京響の女性ヴァイオリン奏者二人にヴァイオリンについて語って貰うという形式を取っていた。広上によるとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団はコンサートマスター以外の奏者は、その日によってバラバラであり、昨日前列で弾いていた奏者が今日は後列で弾くということもあるらしい。ただ普通のオーケストラは座る位置は大体決まっていて、京響もそうだという。
ヴァイオリンというと前列の前の方が腕利きというイメージがあるが、ヴァイオリン奏者によると、後列の方が音を合わせるのが難しいため、腕利きが後列になることも多いという。


ハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲ニ長調(ヴァイオリン独奏:クララ=ジュミ・カン、プロコフィエフの交響曲第7番というプログラム。


ハチャトゥリアンの組曲「仮面舞踏会」では、諧謔と歪んだエスプリに満ちた音楽を広上は存分に引き出す。変拍子を2回トントンと跳ねることで処理するなど指揮姿は今日も独特だ。フォルテシモは京都コンサートを揺るがさんばかりに響き渡る。


コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。コルンゴルトがアメリカに渡り、映画音楽を手掛けるようになってからの作品で、映画音楽からの引用が各所に散りばめられているという。

ヴァイオリン独奏のクララ=ジュミ・カンは韓国系ドイツ人。わずか4歳でマンハイム音楽院に入学し、5歳でハンブルグ交響楽団と共演したという神童系ヴァイオリニストである。
カンのヴァイオリンの音色は太からず細からず中道を行く。技術は非常に優れている。
ハリウッド風のやや大袈裟な伴奏を広上と京響はスケール豊かに奏でる。

アンコール。カンはバッハの無伴奏パルティータ第2番よりサラバンドでしっとりとした演奏を聴かせ、パガニーニの24の奇想曲より第17番で超絶技巧を披露する。


メインの交響曲第7番。冒頭の抒情的なヴァイオリンの歌の美しさから惹き付けられる。その後もプロコフィエフ特有のユニークでパワフルな音楽を広上と京響はクッキリとした輪郭で奏で続けた。文句なしの名演である。

定期演奏が9月から始まるのは日本ではNHK交響楽団などいくつかの団体だけで、大抵のオーケストラは3月でシーズンが終了する。ということで、今年も卒団者を送り出す。37年間、ヴィオラ奏者として在籍した北村英樹の退団式があり、北村は花束を受け取った。

その後、プロコフィエフの交響曲第7番のラストをアンコール演奏してコンサートはお開きとなった。

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2019年2月 6日 (水)

コンサートの記(518) 広上淳一指揮京都市ジュニアオーケストラ第8回演奏会

2013年1月27日 京都コンサートホールにて

午後2時から京都コンサートホールで京都市ジュニアオーケストラの第8回演奏会を聴く。指揮は京都市交響楽団常任指揮者で京都市ジュニアオーケストラのスーパーバイザーである広上淳一。

京都市ジュニアオーケストラは、京都市在住、若しくは京都市内通学でオーディションを勝ち抜いた11歳から23歳までの奏者によって編成された若い人のための非常設オーケストラである。京都市交響楽団のメンバーの指導を受け、更に京都市立芸術大学4回生の大谷麻由美と東京音楽大学大学院2年生の水戸博之によって合奏指導を受けて、広上の指導によるリハーサルを行い公演に臨む。


曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ソリスト:金子三勇士)とショスタコーヴィチの交響曲第5番。いずれも若い人が挑むには難しい曲である。

ピアノ独奏の金子三勇士(かねこ・みゅうじ)は、1989年、日本人の父とハンガリー人の母の間に生まれたハーフ。すでにソリストやピアノ伴奏者として活躍しているが、東京音楽大学大学院に在学中の学生でもある。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ソリストの金子三勇士は、高い技術で表情豊かな演奏を展開。ただ、技術に寄りかかりすぎのきらいがあり、「もっとゆっくり弾いた方が味わいが出るのではないか」と思える箇所がいくつかあった。また自慢の技術であるが、一カ所、明らかなミスタッチがあり、こちらも完璧とはいかなかった。

広上淳一の指揮する京都市ジュニアオーケストラは、憂いを帯びた響きを出し、感心させられる。明らかに技術不足のパートがあったり(どのパートかは内緒。プロでない人にああだこうだ言っても何の得にもならない)、音が薄手の箇所があったりしたが、若さ故にこれは仕方ないだろう。

金子三勇士はアンコールとしてリストの「コンソレーション第3番」を弾く。ロマンティックな曲調に対する金子の感性と高度なテクニックがピタリとはまり、ラフマニノフ以上の出来であった。


ショスタコーヴィチの交響曲第5番。速めのテンポを基調とした新たな発見の多い演奏であった。まず、第1楽章からソビエト当局をおちょくるような仕掛けが隠されていることがわかる。第2楽章は更に露骨である。広上の譜読みの鋭さが窺える。

第3楽章の美しさも特筆事項。これはまさにレクイエムである。

「皮相な凱歌」と「押しつけられた歓喜」という解釈もされる第4楽章であるが、広上も速めのテンポで皮相さを表出した上で更に、「これは凱歌どころか、クールな怒りを表しているのではないか」と聞こえるようなど個性的な演奏が続く。トランペットの華麗なソロは権力者への異議申し立てのように聞こえるし、重苦しい場面はソビエト人民の内面の苦悩を代弁しているように受け取ることが出来る。

この曲の新たな一面を見せつけられたかのような、刺激的な演奏であった。


アンコールでは広上はピアニカ演奏に回り、大谷麻由美と水戸博之のローテーションによる指揮で、ルロイ・アンダーソンの「フィドル・ファドル」が演奏される。時折聞こえる広上のピアニカソロがユーモラスであった。

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