カテゴリー「広上淳一」の119件の記事

2024年12月25日 (水)

コンサートの記(873) 広上淳一指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団ほか 「躍動の第九」2024

2024年12月15日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後2時から、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団 広上淳一指揮「躍動の第九」を聴く。
日本の師走の風物詩となっているベートーヴェンの第九演奏会。日本のプロオーケストラのほとんどが第九演奏会を行い、複数の第九を演奏するオーケストラもある。大フィルこと大阪フィルハーモニー交響楽団もその一つで、本番ともいえる第九は、今月29日と30日に本拠地のフェスティバルホールでユベール・スダーンを指揮台に迎えて行うが、その前に、ザ・シンフォニーホールでの第九演奏会も行い、今年は広上淳一が招聘された。広上は以前には大フィルの定期演奏会や特別演奏会によく客演していたが、京都市交響楽団の常任指揮者となってからは、「オーケストラのシェフは同一地区にあるプロオーケストラの演奏会には客演しない」という暗黙の了解があるため、大フィルの指揮台に立つことはなかった。京都市交響楽団の常任指揮者を辞し、一応、「京都市交響楽団 広上淳一」という珍しい称号を得ているが(「名誉指揮者」などの称号を広上は辞退したが、京響としては何も贈らないという訳にはいかないので、折衷案としてこの称号になった)、シェフではないため、関西の他のオーケストラへの客演も再開しつつある。
広上は以前にも大フィルを指揮して第九の演奏会を行っているが、もう20年以上も前のこととなるようだ。

なお、無料パンフレットは、ABCテレビ(朝日放送)が主催する3つの第九演奏会(広上指揮大フィルほか、ケン・シェ指揮日本センチュリー交響楽団ほか、延原武春指揮テレマン室内オーケストラほか)を一つにまとめた特殊なものである。

さて、広上と大フィルの「躍動の第九」。曲目は、ベートーヴェンの序曲「献堂式」と交響曲第9番「合唱付き」。独唱は、中川郁文(なかがわ・いくみ。ソプラノ)、山下裕賀(やました・ひろか。アルト)、工藤和真(テノール)、高橋宏典(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指導:福島章恭)。

今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏。合唱団は最初から舞台後方の階段状に組まれた台の上の席に座って待機。独唱者は第2楽章演奏終了後に、大太鼓、シンバル、トライアングル奏者と共に下手から登場する。

重厚な「大フィルサウンド」が売りの大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、広上が振るとやはり音が違う。透明感があり、抜けが良い。広上はベテランだが若々しさも加わった第九となった。

まず序曲「献堂式」であるが、立体感があり、重厚で音の密度が濃く、広上と大フィルのコンビに相応しい演奏となっていた。金管の輝きも鮮やかである。

広上の第九であるが、冒頭から深遠なる別世界からの響きのよう。ベートーヴェンの苦悩とそそり立つ壁の峻険さが想像され、悪魔的に聞こえる部分もある。
第2楽章はあたかも宇宙が鳴動する様を描いたかのような演奏だが(広上自身の解釈は異なるようである)、京響との演奏に比べると緻密さにおいては及ばないように思う。手兵と客演の違いである。それでも思い切ったティンパニの強打などは効果的だ。チェロの浮かび上がらせ方なども独特である(ベーレンライター版使用だと思われ、特別なスコアを使っている訳ではないはずである)。

第3楽章はかなり遅めのテンポでスタート。丁寧にロマンティシズムを織り上げていく。麗らかな日の花園を歩むかのようだ。

第4楽章冒頭は音が立体的であり、大フィル自慢の低弦が力強く雄弁である。独唱者や大フィル合唱団も充実した歌唱を聴かせ、フェスティバルホールで行われるであろう第九とは異なると思われる溌剌として爽やかな演奏に仕上げていた。スダーンの指揮の第九は京都市交響楽団とのものを聴いているが、古楽が盛んなオランダの指揮者だけあって、結構、ロックな出来であり、また聴くのが楽しみである。

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2024年9月 4日 (水)

コンサートの記(855) 広上淳一指揮京都市交響楽団第692回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル マーラー 交響曲第3番

2024年8月23日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第692回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。
通常のフライデー・ナイト・スペシャルは、土曜のマチネーの短縮版プログラムを午後7時30分から上演するのだが、今回は演奏曲目がマーラーの大作、交響曲第3番1曲ということで、フライデー・ナイト・スペシャルも土曜日と同一内容で、開演時間も午後7時30分ではなく午後7時となっている。
今日の指揮者は、京都市交響楽団の第12代および第13代常任指揮者であった広上淳一。
現在は、京都市交響楽団 広上淳一という変わった肩書きを持っている。

午後6時30分頃より、広上淳一と音楽評論家の奥田佳道によるプレトークがある。広上はピンクのジャケットを着て登場。
広上淳一と京都市交響楽団によるマーラーの交響曲第3番の演奏は、広上淳一の京都市交響楽団常任指揮者退任記念となる2022年3月の定期演奏会で取り上げられる予定だったのだが、コロナ禍で「少年合唱団が入るので十分に練習できない」ということでプログラムが変更になり、広上の師である尾高惇忠(おたか・あつただ。指揮者の尾高忠明の実兄で、共に新1万円札の肖像になった渋沢栄一の子孫)の女声合唱曲集「春の岬に来て」より2曲とマーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子)、マーラーの交響曲第1番「巨人」に変わった。広上はその時のプレトークでマーラーの交響曲第3番について、「2、3年後にやります」と語っていたが、ついに実現することになった。
プログラムが変更になったことについては、「災い転じて、じゃないですが」と語り始め、「マーラーの交響曲第3番は曲は長いんですが、歌の部分は短い(メゾ・ソプラノ独唱の部分は)7分ぐらいしかない」ということで、藤村の歌唱をより長く楽しめる曲になったことを肯定的に捉えていた。
奥田が、「『京都市交響楽団 広上淳一』というのはこれが称号ですか?」と聞き、広上が「そうです」と答えて、「名誉とか桂冠とか、そういうのは気恥ずかしい」ということで、風変わりな称号となったようである。奥田は、「個人名が称号になるのは異例」と話す(おそらく世界初ではないだろうか)。
広上はマーラーの交響曲第3番について、「神を意識した」と述べ、奥田が補足で、「当初は全ての楽章に表題がついていた。ただ当時は標題音楽は絶対音楽より格下だと思われていた。そのため、表題を削除した」という話をする。
奥田は、「こういうことを言うと評論家っぽいんですが、第1楽章だけで35分。ベートーヴェンなどの交響曲1曲分の長さ」とこの曲の長大さを語る。
この曲では、トロンボーンのソロと、ポストホルンのソロが活躍する。トロンボーンは戸澤淳が(現在、京響は首席トロンボーン奏者を欠いている)、ポストホルンソロは副首席トランペット奏者の稲垣路子が吹く。稲垣路子がどこでポストホルンを吹くのかを広上はばらしそうになって慌ててやめていた。
マーラーは作曲は指揮活動以外の時間、特に夏の休暇を使って行っていた。交響曲第3番は、1895年と1896年の夏の休暇に書かれている。作曲を行ったのは、オーストリアのアッター湖畔、シュタインバッハの作曲小屋においてであった。奥田はシュタインバッハに行ったことがあるそうで、広上に羨ましがられていた。マーラーの弟子で、後にマーラー作品の普及に尽力することになる指揮者のブルーノ・ワルターが1896年にマーラーの作曲小屋を訪れ、豊かな自然に見とれていると、マーラーが、「見る必要はない、全部ここに書いたから」と交響曲第3番の譜面の見せたという話が伝わっている。

奥田は、京都市交響楽団の成長について聞くが、広上は、「何もしてません。私を超えちゃいました」と答える。奥田は、「いや今のは謙遜で」とフォロー。
オーケストラと指揮者の関係についてだが、広上は、長年に渡ってアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)の首席指揮者を務めたベルナルト・ハイティンクから、「いつか育てたオーケストラに感謝する日が来るよ」と言われたことを思い出していた。


今日のコンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。尾﨑平は降り番である。ヴィオラの客演首席奏者として大野若菜が入る。
メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子。女声合唱:京響コーラス。少年合唱:京都市少年合唱団。

広上が指揮したときの京響はやはり音が違う。音の透明度が高く、抜けが良く、程よく磨かれ、金管はパワフルで立体的で輝かしい。
これまで無意識に広上指揮する京響の演奏をロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に例えて来たが、考えてみると、広上の指揮者としてのキャリアは、アムステルダム・コンセルトヘボウ(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地。当時はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という名称だった)で、レナード・バーンスタインに師事したことから始まっており、原体験が広上の無意識に刻まれてベースとなっているのではないかという仮説も立ててみたくなる。

史上最高のマーラー指揮者とみて間違いないレナード・バーンスタイン。1960年代に「マーラー交響曲全集」を完成させ、マーラー指揮者としての名声を確立。その過程を見守っていたのが小澤征爾であり、小澤も後年、世界的なマーラー指揮者と見做されるようになる。
1980年代にも2度目の「マーラー交響曲全集」を完成させるべくライブ録音を開始したバーンスタイン。ウィーン国立歌劇場音楽監督であるマーラーが事実上の常任指揮者であったウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、晩年のマーラーが海を渡って音楽監督に就任し、バーンスタインも手兵としていたニューヨーク・フィルハーモニック、当時「不気味な音楽」として評価されていなかったマーラーの音楽を世界に先駆けて取り上げていたヴィレム・メンゲルベルクが率いていたアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)の3つを振り分ける形で録音は進められたが、バーンスタインの死によって全集は未完となり、交響曲第8番「千人の交響曲」は映像用の音源を使ってリリースされたが、交響曲「大地の歌」は全集に収録されなかった(バーンスタインは「大地の歌」を生前2度録音しており、それが代用される場合がある)。

私も新旧のレナード・バーンスタインが指揮する「マーラー交響曲全集」を持っており、交響曲第3番はバーンスタインの新盤がベストだと思っている。ただ、余り好きな曲ではないため、その他にはエサ=ペッカ・サロネン盤など数種を所持しているだけである。

そんなレナード・バーンスタインに師事した広上のマーラー。「巨人」は京響で聴いたほか、広島まで遠征して広島交響楽団との演奏を聴いている。交響曲第5番は京響との演奏を2度ほど聴いている。ただ第3番を聴くのは、京都で取り上げるのは初ということもあってこれが一度目となる。他にホールで聴いた記憶もないので、実演に接するのも初めてのはずである。

チケットは完売。京都のみならず、日本中からの遠征組も存在すると思われる中でのコンサート。

広上はいつも通り個性的な指揮。時折、指揮台の端まで歩み寄って指揮するため、「落ちるのではないか」とハラハラさせられる。
バーンスタインのマーラーは、異様なまでに肥大化したスケールを最大の特徴とするが、広上は確固としたフォルムを築きつつ、大言壮語はしないスタイル。それでも、うなるようなパワーと緻密さを止揚させた説得力のあるマーラー像を築き上げる。

マーラーは、生前は指揮者として評価されていた人であり、オーケストラの性能を熟知していた。そのため、コル・レーニョ奏法の使用やベルアップの指示など、オーケストラの機能を極限まで追求する曲を書いているのだが、京響はマーラーの指示を巧みに捌いていく。

稲垣路子のポストホルンソロはステージの外で吹かれる。私の席からは死角になって姿は見えないのだが、朗々として純度の高い響きが天から降り注ぐかのようである。

藤村実穂子のメゾ・ソプラノは深みと奥行きを持った歌唱としてホール内の空気を伝っていく。テキストはニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』から取られたものである。
その後、京響コーラスの女声合唱と京都市少年合唱団による汚れのない歌声とのやり取りが、現世と彼岸とを対比させる。

そして最終楽章。哀切、清明、現在、過去、自己の内と外など、様々な要素が複雑に絡み合い、浄化へと向かっていく。
現在の日本人指揮者と日本のオーケストラによる最上級の演奏になったと見做しても間違いないだろう。贔屓目なしでそう思う。

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2024年3月20日 (水)

コンサートの記(834) 広上淳一指揮京都市交響楽団第687回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル

2024年3月15日 京都コンサートホールにて

午後7時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第687回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、京都コンサートホール館長でもある広上淳一。
現在、京都市営地下鉄烏丸線では最寄り駅である北山駅に近づくと、広上淳一の声による京都コンサートホールの案内が車内に流れるようになっている。
広上は現在は、オーケストラ・アンサンブル金沢のアーティスティック・リーダー(事実上の音楽監督)を務めるほか、日本フィルハーモニー交響楽団の「フレンド・オブ・JPO(芸術顧問)」、札幌交響楽団の友情指揮者の称号を得ている。京都市交響楽団の第12代、第13代常任指揮者を務めたが、名誉称号は辞退。ただオーケストラもそれでは困るのか、「京都市交響楽団 広上淳一」という謎の称号を贈られている。
東京音楽大学の指揮科教授を長年に渡って務めており、弟子も多い。現在、TBS系列で放送されている西島秀俊主演の連続ドラマ「さよならマエストロ」の音楽監修も手掛けている(東京音楽大学も全面協力を行っている)。また今年は大河ドラマ「光る君へ」のオープニングテーマの指揮も行っている。

今日は午後7時30分から上演時間約1時間、休憩なしで行われる「フライデー・ナイト・スペシャル」としての上演。明日も定期演奏会が行われるがプログラムが一部異なっている。

今日の演目は、まずジャン・エフラム・バヴゼのピアノ独奏によるラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」と「道化師の朝の歌」が弾かれ、その後に、広上指揮の京響によるラフマニノフの交響曲第3番が演奏されるという運びになっている。


午後7時頃から広上と、今年の1月から京都市交響楽団のチーフプロデューサーに着任した高尾浩一によるプレトークがある。広上は1月から髭を伸ばし始めたが、能登半島地震の復興祈願として験を担いだものだそうで、京響のチーフプロデューサーに就く前はオーケストラ・アンサンブル金沢にいたという高尾と共に能登半島地震復興のための募金を行うことを表明した。
ソリストのジャン・エフラム・バヴゼの紹介。ピアノ大好き人間だそうで、朝から晩までピアノを弾いているピアノ少年のような人だそうだが、今年62歳だそうで、66歳の広上と余り変わらないという話をする。フランス人であるが、奥さんはハンガリー人だそうで、ハンガリーが生んだ名指揮者のサー・ゲオルグ・ショルティに見出され、「ショルティが最後に発掘した逸材」とも呼ばれているそうだ。

ラフマニノフの交響曲というと、第2番がとにかく有名であり、この曲は20世紀後半に最も評価と知名度を上げた交響曲の一つだが、残る二つの交響曲、交響曲第1番と第3番は知名度も上演機会にもそれほど恵まれていない。高尾は、これまでに外山雄三と秋山和慶が指揮したラフマニノフの交響曲第3番を聴いたことがあるという。
広上は、何度も聴くと好きになる曲だと、ラフマニノフの交響曲第3番を紹介する。


ジャン・エフラム・バヴゼのピアノ独奏によるラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。フランス人らしくやや速めのテンポで演奏される。典雅な趣と豊かな色彩に満ちた演奏で、鍵盤の上に虹が架かったかのよう。「エスプリ・クルトワ」としかいいようのないものだが、敢えて日本語に訳すと京言葉になるが「はんなり」に近いものがあるように感じられる。

「道化師の朝の歌」。活気に満ち、リズム感が良く、程よい熱さと諧謔精神の感じられる演奏であった。


バヴゼのアンコール演奏は、マスネの「トッカータ」。初めて聴く曲だが、メカニックの高さと豊かな表現力が感じられた。


ラフマニノフの交響曲第3番。今日のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。今日はヴィオラ首席の位置にソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積が入る。
私はこの曲は、シャルル・デュトワ指揮フィラデルフィア管弦楽団の「ラフマニノフ交響曲全集」(DECCA)でしか聴いたことがないが、今日の広上と京響の演奏を聴くと、この曲がフィラデルフィア管弦楽団の響きを意識して書かれたものであることが分かる。ラフマニノフはフィラデルフィア管弦楽団を愛し、自身で何度もピアニストとして共演したり指揮台に立ったりもしているが、いかにもフィラデルフィア管弦楽団に似合いそうな楽曲である。
第1楽章に何度も登場するメロディーは甘美で、フィラデルフィア管弦楽団の輝かしい弦の響きにピッタリである。
広上指揮する京響は音の抜けが良く、立体感や瞬発力も抜群で、流石にフィラデルフィア管弦楽団ほどではないが、メロウで都会的で活気に満ちた曲想を描き出していく。アメリカ的な曲調が顕著なのもこの曲の特徴であろう。
各奏者の技量も高く、現時点では有名からほど遠いこの曲の魅力を見事に炙り出してみせていた。
第1楽章の甘美なメロディーも印象的であり、将来的に人気が徐々に上がっていきそうな交響曲である。ラフマニノフの交響曲第2番も初演は成功したものの、以前は「ジャムとマーマレードでベタベタの曲」などと酷評され、評価は低かったが、アンドレ・プレヴィンがこの曲を積極的に取り上げ、ウラディーミル・アシュケナージやシャルル・デュトワ、日本では尾高忠明がそれに続いたことで人気曲の仲間入りをしている。ラフマニノフの交響曲第3番も「熱心な擁護者がいたら」あるいはと思わせてくれるところのある交響曲である。

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2022年12月11日 (日)

コンサートの記(819) 広上淳一指揮 京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第169回定期演奏会

2022年12月2日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の第169回定期演奏会を聴く。指揮は京都市立芸術大学客員教授の広上淳一。

曲目は、ベートーヴェンの「コリオラン」序曲、ブルックナーのモテット「この場所は神によって造られた」と「見よ、大いなる司祭を」、ベートーヴェンの合唱幻想曲(ピアノ独奏:三舩優子、ソプラノ:佐藤もなみ&伊吹日向子、アルト:柚木玲衣加、テノール:向井洋輔&井上弘也、バス:池野辰海、合唱;京都市立芸術大学音楽学部合唱団)、ベルリオーズの幻想交響曲。

京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会には何度が接しているが、広上淳一の指揮で聴くのは初めてだと思われる。


ベートーヴェンの「コリオラン」序曲。音色が洗練に欠けるのは学生団体故仕方ないであろう。なかなか熱い演奏を展開する。


ブルックナーのモテット「この場所は神によって造られた」と「見よ、大いなる司祭を」。合唱はポディウムに陣取り、マスクなしで歌う。パイプオルガンは客演の三森尚子が演奏する。
ブルックナーは現在では交響曲作曲家として認知されているが、元々はパイプオルガンの名手として知られ、宗教音楽の作曲も得意としていた。
「この場所は神によって造られた」の楚々とした感じ、「見よ、大いなる司祭を」の雄渾さ、いずれもブルックナー節も利いていて曲としても面白い。
日本に限らないかも知れないが、音楽のみならず芸術関係の大学は女子の方が圧倒的に多い。京芸も例外ではなく、合唱の人数も目視で確認して男女比は1:3ぐらいあるのではないかと思われる。男声が少なくても良い曲を選んだのであろうか。


ベートーヴェンの合唱幻想曲。交響曲第5番「運命」、交響曲第6番「田園」と同じ日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されたことで有名である(ちなみに「田園」の番号は初演時には交響曲第5番、日本では「運命」して知られる曲が交響曲第6番として発表されている)。この初演は演奏会自体が失敗している。ひどく寒い日だった上に演奏家や声楽家のコンディションが悪く、しかも約4時間の長丁場ということで聴衆の集中力が保たなかったのだと思われる。
合唱幻想曲であるが、個人的には「クサい」感じがして余り好きな曲ではない。やけに芝居がかっているところが気に掛かる。
ということで、今回も聴いていて「良い曲だ」とは思えなかったのだが、三舩優子の温かな響きのするピアノ、また学生ソリスト達の優れた歌唱など、思った以上に聴き応えはあった。


後半、ベルリオーズの幻想交響曲。
冒頭から前半とは打って変わって弦が洗練された音を出す。単に洗練されているだけではなく、妖しげな光を放っているのが特徴である。
広上淳一はロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してDENONにこの曲をレコーディングしており、出来も上々であるが、やはりこの曲は向いているようだ。
音型のデザインもきっちりなされた上で生命力豊かな演奏を展開。第2楽章はコルネット入りのバージョンである。
第3楽章のコーラングレとオーボエの掛け合いでは、オーボエ奏者はパイプオルガンの横のボックス席のようなところで演奏を行う。楽章全体を通して瑞々しい音色が印象的である。
第4楽章「断頭台への行進」では、おどろおどろしさと推進力が掛け合わされた優れた演奏。ラストを一気呵成に駆け抜けるのも容赦がない印象で効果的である。
第5楽章「サバトの夜の夢」では、鐘はパイプオルガンの横のポディウム最上段に置かれ、視覚的な効果も上げていた。奇っ怪な夢の描写も優れており、迫力と華麗な音の彩りが発揮されて、広上と京都市立芸術大学音楽学部の結束力の強さも確認出来た。

最後に広上は、「ワールドカップ、日本、スペインに勝ちました。そして京都市芸の若者が素晴らしい演奏を行う。日本もまだまだ捨てたもんじゃないですね」「長友選手の言葉を皆さんにお届けします。『ブラボー!』」と語り、コンサートはお開きとなった。

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2022年3月19日 (土)

コンサートの記(768) 広上淳一指揮京都市交響楽団第665回定期演奏会 広上淳一退任コンサート

2022年3月13日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第665回定期演奏会を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。広上淳一の常任指揮者兼芸術顧問の退任公演となる。

曲目は、マーラーの交響曲第3番が予定されていたが、出演予定であった京都市少年合唱団のメンバーにコロナ陽性者が出たため少年合唱の練習が出来なくなり、曲目変更となった。

新たなる曲目は、尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「甃(いし)のうへ」(詩:三好達治)と「子守唄」(詩:立原道造。2曲とも合唱は京響コーラス)、マーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子)、マーラーの交響曲第1番「巨人」


プレトークでは広上と門川大作京都市長が登場し、門川市長から広上に花束の贈呈があった。門川市長が退場した後は、音楽評論家で広上の友人である奥田佳道と、京都市交響楽団演奏事業部長の川本伸治、そして広上の3人でトークは進む。90年代だったか、広上が指揮したマーラーの「復活」について書いた演奏批評を後に広上が絶賛するということがあったが、その批評の書き手が奥田だったような気がする。かなり昔のことなので、正確には覚えていない。奥田は当初は客席で聴くだけの予定だったようだが、広上から「プレトークに出てよ」と言われたため、東京からの新幹線を早いものに変えて京都に来たそうである。
奥田は、広上と京響について、「日本音楽史に残るコンビ」と語り、サントリー音楽賞という通常は、個人か団体に贈られる賞を、「広上淳一と京都市交響楽団」というコンビでの異例の受賞となったことなどを紹介する。「ラジオで話すよりも緊張する」そうだが、音楽評論家というのは基本的には人前に出ない仕事なので、当然ながら聴衆を前に話すことには慣れていないようである。

川本は新日本フィルハーモニー交響楽団からの転身であるが、その前はボストン交響楽団と仕事をしていたそうで、「ヨーロッパテイストの響き」や「前半と後半で管楽器奏者が変わる」ことなどが京響とボストン響の共通点だと語っていた。

広上が京響を離れることについては、広上自身が「今生のお別れではありません」「また遊びに来ます」と語る。

曲目変更についてだが、前半の曲目については、「キザな言い方になりますが、我々の絆の温かで一番しっとりとした部分」が感じられるようになったのではないかと広上は述べる。

今日も尾高惇忠の作品が1曲目に演奏されるが、広上は最近、プロフィールの変更を行い、まず最初に尾高惇忠に師事したことを記すようにしたようである。湘南学園高校音楽科時代に尾高に師事しており、最初のレッスンで広上が弾いたのモーツァルトのソナタの印象を尾高が「バリバリに上手い訳じゃないけど、この年でこれほど味のあるピアノを弾く奴はそうそういないと感じた」と奥田に語ったことが紹介される。ただ広上によると続きがあったそうで、「でも来週も聴きたいとは思わない」というものだったそうである。
尾高惇忠の女声コーラス曲「春の岬に来て」は、元々はピアノ伴奏の曲だったようだが、「オーケストラ伴奏の曲にしたら面白いんじゃない」と進言したのが広上であることも奥田から紹介された。

また、ヨーロッパで通用する唯一の日本人声楽家といっていい、藤村実穂子が今回の京都市交響楽団の定期演奏会に出演するためだけにドイツから帰国したことが奥田によって語られる。


今日のコンサートマスターは、「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。
ドイツ式の現代配置での演奏だが、ピアノやチェレスタが舞台下手に来るため、ハープは舞台上手側に置かれている。


尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「甃のうへ」と「子守唄」。女声合唱はポディウムに陣取り、左右1席空け、前後1列空けでの配置となって、マスクをしたまま歌う。
叙情的で分かりやすい歌曲であるが、入りが難しそうな上に、技術的にも高度なものが要求されているようである。


藤村実穂子の独唱による、マーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲。
藤村の深みと渋みを兼ね備えた歌声による表現が見事である。ノンシュガーのコーヒーの豆そのものの旨味を味わうような心地に例えれば良いだろうか。広上指揮の京響も巧みな伴奏で、第4曲「真夜中に」の金管の鮮やかさ、第5曲「私はこの世から姿を消した」における弦の不気味な不協和音など、マーラーならではの音楽を巧みに奏でる。


マーラーの交響曲第1番「巨人」。マーラーの青春の歌である「巨人」だが、冒頭の弦の響きから明るめで、第1楽章では強奏の部分でも爽やかな風が吹き抜けるような見通しの良さなど、濃密系が多い他の「巨人」とは異なる演奏となっていた。

広上の指揮はいつもよりオーバーアクションであり、縦の線がずれたところもあったが、生命力豊かな音楽作りとなる。
低弦や打楽器の威力と金管の輝きという京響の長所が引き出されており、「これが常任指揮者としては最後」とは思えないほどのフレッシュな演奏となっていた。

1956年創設の京都市交響楽団であるが、これからのことを思えばまだまだ青春期である。未来に向かって歩み出すような軽やかさと半世紀以上の歴史が生む濃密が上手く掛け合わされていたように思う。


演奏終了後に広上はマイクを手にして再登場し、スピーチを行う。京都市交響楽団の潜在能力に高さに気付いたのは自分(「不肖、私であります」と発言)であるが、それを伸ばすにはどうしたらいいか、急いでも駄目出し、そのままだと変わらないと思いつつやっていたら急に良くなったことなども述べたが、国内に二つ三つ優れたオーケストラがあるだけでは駄目で、ヨーロッパの名門オーケストラを上げながら、日本各地のオーケストラを個性ある団体に育てる必要を感じていることなどが語られた。

今月一杯で対談する廣瀬加世子(第1ヴァイオリン)と古川真差男(チェロ)への花束贈呈、広上に肖像画が贈られるという話(京都市立芸術大学学長である赤松玉女の推薦により、同大学及び大学院出身の城愛音によってこれから描かれる予定である)があった後で、アンコール曲として尾高惇忠の「春の岬に来て」から「子守唄」がもう一度演奏された。

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2022年2月 5日 (土)

コンサートの記(762) 広上淳一指揮 第17回京都市ジュニアオーケストラコンサート

2022年1月30日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、第17回京都市ジュニアオーケストラコンサートを聴く。指揮は京都市ジュニアオーケストラのスーパーヴァイザーを務める広上淳一。広上は今年の3月をもって京都市交響楽団の第13代常任指揮者兼音楽顧問を離任し、オーケストラ・アンサンブル金沢のアーティスティック・リーダーに転じる。京都コンサートホールの館長は続けるが、京都で広上を聴く機会は減ることになる。

京都市在住もしくは在学の10歳から22歳まで(2021年4月時点で)の選抜メンバーからなる京都市ジュニアオーケストラ。奏者の育成のみならず、出身者がよき聴衆、よき音楽人となるための足掛かり的な意図も持って結成されている。

今回の曲目は、サン=サーンスの歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール、チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」、ラフマニノフの交響曲第2番。

サン=サーンスとチャイコフスキー作品のコンサートミストレスは神千春が、ラフマニノフの交響曲第2番のコンサートミストレスは田村紗矢香が務める。紗矢香という字は、有名ヴァイオリニストの庄司紗矢香と同じだが、あるいはご両親が庄司紗矢香にあやかって名付けたのかも知れない。


サン=サーンスの歌劇「サムソンとデリラ」からバッカナール。音の厚みや密度は不足気味だが、そもそもそんなものはこちらも求めていない。オーケストラメンバーの広上の指揮棒への反応も良く、終盤は大いに盛り上がる。広上の音楽設計も見事である。


チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」。ドラマティックな演奏が展開される。サン=サーンスもそうだったが、この曲でもティンパニの強打が効果的である。個人的にはコントラバスの音型に注目して聴いたが、理由は教えない。ともあれ、切れ味の鋭さも印象的な好演であった。


ラフマニノフの交響曲第2番。大曲である。
ラフマニノフの交響曲第2番は、20世紀も終盤になってから人気が急速に高まった曲である。「遅れてきたロマン派」ともいうべきラフマニノフの大作であるが、初演以降、長きに渡って音楽関係者からは不評で、「ジャムとマーマレードでベタベタの曲」などと酷評され、そうしたマイナスの評価が支持されてきた。ラフマニノフ自身も「曲が長すぎることが不成功の一因」と考えて、カットした版も作成している。
この曲の評価上昇に一役買ったのがアンドレ・プレヴィンである。プレヴィンはこの交響曲を高く評価し、カット版での上演が普通だった時代に完全版をたびたび演奏。レコーディングも行ってベストセラーとなっている。その後にウラディーミル・アシュケナージなどがこの曲を演奏会やレコーディングで取り上げて好評を博した。日本では1990年代に「妹よ」という連続ドラマで取り上げられ、知名度が急上昇している。
今回の演奏も完全版によるものだが、カット版も今でも演奏されており、「のだめカンタービレ」のマンガとドラマに登場したことでも知られる故ジェイムズ・デプリーストが当時の手兵である東京都交響楽団を指揮したライブ録音でカット版を聴くことが出来る。

広上がヨーロッパで修行し、当初はヨーロッパでキャリアを築いたということも影響しているのだと思われるが、今回の京都市ジュニアオーケストラもギラギラしたアメリカ的な輝きではなく上品なヨーロピアンテイストの響きを紡ぎ出す。光度も十分だが、ビターな憂いを秘めていることがアメリカのオーケストラとは異なる。
京都市交響楽団ともこの曲でベストの出来を示した広上。今回もテンポ設定、スケール共に抜群で、この曲を指揮させたら日本一だと思われる。
この曲を演奏するには京都市ジュニアオーケストラのメンバーはまだ若いと思われるが、メカニックのみならず、細やかな表情付けなど内面から湧き上がる音楽を生み出せていたように思う。


広上は何度かカーテンコールに応えた後で、マイクを持って登場。「いかがでしたでしょうか? 私はもう疲れました」と言った後で、「ジュニアオーケストラとしては、私は普段はこんなこと言わないんですが、本当にこんなこと言わないんですが、日本一でしょう」と京都市ジュニアオーケストラを讃えた。また京都市ジュニアオーケストラのメンバーが音楽だけでなく、医学や化学や教育学を学んでいることに触れ、様々なバックグラウンドを持った人々が一緒に音楽をやるという教育法を「オーストリー(オーストリア)のウィーンにも似ている」と語った。ウィーンと京都は、その閉鎖性というマイナス面も含めてよく似ていると音楽家から言われることがあるが、姉妹都市にはなっていない(京都市の姉妹都市となっているのはヨーロッパではパリ市とプラハ市、ケルン市にフィレンツェ市にザグレブ市である。今注目のウクライナの首都、キエフ市とも姉妹都市になっている)。

最後に、京都市ジュニアオーケストラの合奏指導に当たった、大谷麻由美、岡本陸、小林雄太の3人の若手指揮者が登場し、広上から自己紹介するよう求められる。

大谷麻由美は、「私は30歳で京都市立芸術大学に再入学して」指揮を学んだことを語る(近畿大学を卒業後、会社員をしていた)。広上に、「大谷翔平選手のご親戚?」と聞かれて、「全く違います」と答える。

岡本陸は京都市ジュニアオーケストラの出身で、その時も指導に当たっていた広上に師事したいと思い立ち、広上が教授を務める東京音楽大学の指揮科に入学。昨年の3月に卒業したという。
広上が、「広上先生は怖かったですか?」と聞き、岡本は「怖いときも多かったです」と答えていた。

小林雄太は新潟県長岡市の出身。余り関係ないが、司馬遼太郎原作で長岡藩家老の河井継之助を主人公とした映画「峠」(役所広司主演)が近く公開される予定なので、長岡も注目を浴びそうである。
小林は岡本陸と東京音楽大学で同期であり、やはり広上に師事している。京都に来るのは中学校時の修学旅行以来久々だそうである。


アンコール曲はこの3人がリレー形式で指揮することになるのだが、大谷が作曲家名のドリーヴをドリップと言い間違い、広上に「ドリーヴね。フランスの作曲家。ドリップだとコーヒーになる」と突っ込まれていた。アンコール曲はドリーヴのバレエ音楽「コッペリア」から前奏曲とマズルカであるが、3人とも「コッペリア」についてよく知らないようで、広上に「なんだか恥ずかしいことになって来ました」と突っ込まれていた。純音楽ではなくバレエ音楽なので、少なくとも大体の意味と内容は知らないと本来なら指揮出来ないのである。
指揮者の世界には、「40、50は洟垂れ小僧」という言葉があり、指揮者として成長する道の長さと厳しさが知られている。40歳にも満たない場合は「赤ちゃん」扱いである。
ということで、アンサンブルの精度や細部までの詰めや表情付けなど、「指揮者でここまで変わるか」というほどの雑さが感じられたが、それが指揮者として成功するまでの困難さを表してもいた。

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2021年12月30日 (木)

コンサートの記(754) 広上淳一指揮 京都市交響楽団特別演奏会「第九コンサート」2021

2021年12月26日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「第九コンサート」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」がメインの曲目だが、その前に同じくベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番が演奏される。

今日のコンサートマスターは京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーは尾﨑平。ドイツ式現代配置での演奏で、管楽器の首席奏者はほぼ揃っている。

第九の独唱は、砂川涼子(ソプラノ)、谷口睦美(メゾ・ソプラノ)、ジョン・健・ヌッツォ(テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。合唱は京響コーラス。


序曲「レオノーレ」第3番。ベートーヴェンが書いた序曲の中では最も演奏される回数の多い楽曲だと思われるが、暗闇の中を手探りで進むような冒頭から、ティンパニが強打されて活気づく中間部、熱狂的なフィナーレなど、第九に通じるところのある構成を持っている。
広上と京響は生命力豊かで密度の濃い演奏を行う。トランペット首席のハラルド・ナエスがバンダ(一人でもバンダというのか不明だが)として、二階席裏のサイド通路とポディウムでの独奏を行った。


ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」。
第1楽章と第2楽章は、クッキリした輪郭が印象的なノリの良い演奏で、ピリオドを意識したテンポ設定とビブラートを抑えた弦楽の響きが特徴。時折きしみのようなものもあり、整ったフォルムの裏に荒ぶる魂が宿っているかのようで、バロックタイプでこそないが硬い音を出すティンパニが強打される。

第3楽章は、第1楽章と第2楽章とは対照的に遅めのテンポでスタート。途中からテンポが変わるが、旋律の美しさをじっくりと歌い上げており、第九が持つ多様性と多面性を浮かび上がらせる。最近では全ての楽章が速めのテンポで演奏されることが多い第九だが、こうした対比やメリハリを付けた演奏も魅力的である。

第4楽章は再びエッジの効いた演奏。京響コーラスはマスクを付け、一部の例外を除いて前後左右1席空けての歌唱で、やはり声量も合唱としても密度もコロナ前に比べると劣るが、かなり健闘しているように思えた。

広上は跳んだりはねたり、指揮棒を上げたり下げたりを繰り返すなど、いつもながらのユニークな指揮姿。また全編に渡ってティンパニを強打させるのが特徴である。
第九におけるティンパニは、ベートーヴェン自身のメタファーだという説を広上も語ったことがあるが、打楽器首席奏者の中山航介が豪快にして精密なティンパニの強打を繰り出し、ベートーヴェンの化身としてコロナと闘う全人類を鼓舞しているように聞こえた。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年8月16日 (月)

コンサートの記(739) 広上淳一×京響コーラス 「フォーレ:レクイエム」

2021年8月9日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

ロームシアター京都サウスホールでの「広上淳一×京響コーラス フォーレ:レクイエム」を聴く。午後6時開演。ロームシアターへはバスで向かったが、ロームシアター前に並ぶ木々の枝がいくつか強風によって落下していた。

京都市交響楽団は、世界的にも珍しいと思われるが8月にも定期演奏会を行っており、宗教音楽を演奏するのが恒例となっている。だが、今年はデイヴィッド・レイランドの指揮でモーツァルトの交響曲と協奏曲を演奏するプログラムが組まれたため、ロームシアター京都でフォーレの「レクイエム」が演奏されることになった、のかフォーレの「レクイエム」が演奏されるために8月定期が宗教音楽でなくなったのか、どちらかは不明だが、とにかく定期演奏会以外で広上淳一の指揮によるフォーレの「レクイエム」が演奏される。
広上と京響は、昨日一昨日とベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」のオーケストラ付レクチャー・コンサートを行っており、三連投となる。


フォーレの「レクイエム」の前に、京都市少年合唱団の指導者としてもお馴染みのソプラノ歌手、津幡泰子(つばた・やすこ)の指揮、小林千恵のピアノによる廣瀬量平の混声合唱組曲「海鳥の詩」が京響コーラスによって歌われる。京響コーラスは全員、「歌えるマスク」を付けての歌唱である。

北海道出身の廣瀬量平であるが、京都市立芸術大学の教授として作曲を教えており、京都コンサートホールの館長を2005年から2008年に亡くなるまで務めている。広上と京響は2009年に「廣瀬量平の遺産」という演奏会も行っている。

「海鳥の詩」は、“オロロン鳥”、“エトピリカ”、“海鵜”、“北の海鳥”の4曲からなる組曲で、詩人でアイヌ文化研究家の更科源蔵の詩に旋律を付けたものである。おそらくアイヌ民族の孤独と悲劇が海鳥たちの姿に託されている。
廣瀬の旋律は洒落た感じも抱かせるが、その寸前で敢えて王道の展開を避けて、北海道の冬の空のような暗さが出るよう設計されているようにも思われる。


広上淳一指揮京都市交響楽団と京響コーラスによるフォーレの「レクイエム」は、第3稿と呼ばれる一般的なものや、フォーレ自身が決定版としていたと思われる第2稿ではなく、信長貴富が2020年に編曲した弦楽アンサンブルとオルガンによる版での演奏である。初演は三ツ橋敬子の指揮によって、ヴァイオリンとチェロとコントラバスが1、ヴィオラが2という編成で行われたが、今日はヴァイオリン3、ヴィオラ4(第1ヴィオラ、第2ヴィオラとも2人ずつ)、チェロ2、コントラバス1という編成である。今日のコンサートマスターは、昨日一昨日と降り番であった泉原隆志。ヴァイオリンは泉原の他に、木下知子、田村安祐美。ヴィオラは、第1ヴィオラが小峰航一と丸山緑、第2ヴィオラが小田拓也と山田麻紀子。チェロが佐藤禎と佐々木堅二(客演)。コントラバスは石丸美佳。電子オルガン演奏は桑山彩子が務める。ソプラノ独唱は小玉洋子。バルトン独唱は小玉晃。流石に独唱者が「歌えるマスク」を付けて歌唱という訳にはいかないが、フォーレの「レクイエム」は、独唱者による歌唱が少ないのが特徴である。

ロームシアター京都サウスホールは、旧京都会館第2ホールを改修した中規模ホールだが、多目的であり、残響はほとんどない。クラシックではピアノや室内楽の演奏が行われているが、声楽を伴う宗教音楽が演奏されるのはあるいは初めてかも知れない。残響のないホールで聴くとやはり神聖さを感じにくくなるため、宗教曲に関しては音響がより重要になるのは間違いないようだ。残響のないホールでグレゴリオ聖歌を聴いたことがあるが、予想と異なって平板な印象に終わっている。京響コーラスも独唱者二人も良かったが、声の輪郭がはっきりし過ぎる音響だったため、音響設計のなされたホールでもう一度聴いてみたくなる。
信長貴富が編曲した弦楽合奏は、金管の迫力なども弦楽でノーブルに置き換えるなど、温かな響きを重視したもので、小編成の京響弦楽アンサンブルも精緻にして多彩な演奏を披露した。
広上淳一は合唱メインの曲ということで今日はノンタクトで指揮したが、手の動き、指の動きなどが音楽的で、「やはりこの人は指揮者になるために生まれてきた人なんだろうな」と感心させられた。

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2021年8月11日 (水)

コンサートの記(736) 広上淳一指揮 京都市交響楽団 みんなのコンサート2021「オーケストラ付レクチャー・コンサート」 ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

2021年8月7日 伏見区丹波橋駅前の京都市呉竹文化センターにて

午後2時から、伏見区丹波橋駅前の京都市呉竹文化センターで、京都市交響楽団 みんなのコンサート2021「オーケストラ付レクチャー・コンサート」を聴く。指揮は京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」のレクチャーと全曲演奏が行われる。ベートーヴェンの演奏に定評のある広上の指揮ということで呉竹文化センターは満員の盛況となった。2回のワクチン接種を済ませたお年寄りが増えたということも影響しているかも知れない。

先日、ミューザ川崎コンサートホールで行われたフェスタサマーミューザKAWASAKI2021でも「英雄」を演奏して好評を博した広上と京響。今日もミューザ川崎での演奏とほぼ同じメンバーによる演奏と思われ、管楽器の首席奏者もほぼ全員顔を揃えていた。

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置による演奏である。

まずは広上と、京都市交響楽団シニアプロデューサーの上野喜浩によるレクチャーが行われる。広上はアドリブ飛ばしまくりで、「英雄」について、
「俗に英雄(ひでお)と呼ばれたりしますが」とボケ、
上野「ひでお?」
広上「そこは笑わないと! (広上が)台本にないことばかり言うから(上野は)顔が真っ青になってない?」
というようなやり取りがあったりする。

広上が大作曲家を「ベートーヴェン先生」というように「先生」付けで呼ぶことについては、「先に生まれたから先生、というのは冗談ですが(「先に生まれたから先生と呼ぶ」というのは、夏目漱石の『こゝろ』に出てくる話でもある)、偉大な作曲家なので、亡くなった方には、基本、先生を付けます」と語った。

ベートーヴェンが肖像画などで気難しそうな顔をしていることについて(肖像画を描く直前に食べた料理が不味かったからという説が有力だったりする)広上は、「耳が聞こえない、最近で言う基礎疾患があったということで。作曲家でありながら耳が聞こえないというのは、指揮者なのに手足がないようなもので、信用して貰えない」「元々は社交的な性格で、人と一緒にいるのが好きな人だったと思うのですが」作曲家として致命的な障害を抱えているということを悟られないよう人を遠ざけて、性格も内向的に、顔も不機嫌になっていったのではないか、という解釈を述べた。

第九を書いている頃に、ジャーナリストから、「自身の交響曲の中で一番出来がいいと思うのは?」と聞かれ、「英雄!」と即答したという話については、上野に「なぜ一番良いと思ったんでしょうか?」と聞かれ、「そんなこと知りませんよ! 先生じゃないんだから!」と言って笑いを取るも、前例のないことを色々やっているというので、自信があったのかも知れないという見解を述べていた。「英雄」の第1楽章は4分の3拍子で始まるが、第1楽章が4分の3拍子で始まる交響曲はそれまでほとんど存在しなかったそうである。最も新しい部分については、「冒頭」と答え、「NHKではビンタと語ったのですが」と2つの和音の衝撃について口にする。

その後、「英雄」の冒頭部分を演奏し、更にチェロが奏でる第1主題をチェロ副首席の中西雅音(まさお)に弾いて貰う。今回は語られなかったが、第1楽章の第1主題をチェロが奏でるという発想もそれ以前にはほとんど存在していなかったと思われる。第1主題を奏でる弦楽器は大抵は花形であるヴァイオリンで、オーケストラにおけるチェロはまだ「低音を築くための楽器」という認識である。

「英雄」は第1楽章だけで、それまでの交響曲1曲分の長さがあるという大作であり、ミューザー川崎コンサートホールでは、広上と京響は全曲を約55分掛けて演奏したそうであるが、広上曰く「うるさがたの聴衆から、『遅い! お前の「英雄」には流れがないんだ! 55分も掛けやがって、今の「英雄」の平均的な演奏は40分から45分』」という言葉に逆に「速すぎるよ!」と思ったという話をする。

第2楽章が葬送行進曲であることについては、「ハイリゲンシュタットの遺書」との関係がよく語られるが、「ハイリゲンシュタットの遺書」自体はベートーヴェンの死後に発見されたものであるため、推測することしか出来ないようである。

第3楽章をこれまでのメヌエットではなくスケルツォとしたことについては、広上は社交好きだった頃の性格が反映されているのではないかと考えているようだ。事情により表向きは気難しさを気取る必要があったが、本音は音楽に託したと見ているようである。

コーヒー豆を毎朝60粒選んで挽いたという話については、広上は、「稲垣吾郎ちゃんの『歓喜の歌』だったかな?(稲垣吾郎がベートーヴェンを演じた舞台「No.9 -不滅の旋律-」のこと)剛力彩芽ちゃんがやってた役(初演時は大島優子が演じており、剛力彩芽が演じたのは再演以降である)が、コーヒー豆を59粒にしたらベートーヴェンが気づいて怒った」という話をしていた。
上野は、「広上先生も、京響と共演なさる時には必ず召し上がるものがあるそうで」と聞くも、広上は「興味ある人いるんですか?」と乗り気でなかった。リハーサルの時にはいつも鍋焼きうどんを出前で取るそうで、餅と海老と玉子入りの「広上スペシャル」と呼ばれているものだそうである。

なお、トリオのホルンについて、ベートーヴェンの時代のホルンにはバルブが付いておらず、口だけで音を出していたという話に、広上は「ガッキーちゃんに聞いて」と振るも、ホルン首席のガッキーちゃんこと垣本昌芳は、「マスクを持ってくるの忘れました」ということで、隣にいた「澤さん」こと澤嶋秀昌が代わりに答え、実際にホルンを吹いて音を出していた。
ちなみに広上は、「ガッキーちゃんとはシュークリーム仲間」と話していたが、以前、広上がラジオで「四条のリプトンのシュークリームがお気に入りと話したら、演奏会前に差し入れをしてくれるようになった」と話していたため、本番前に一緒にシュークリームを食べる習慣があるのかも知れない。

その後も随所を演奏。上野は演奏が始まるたびに舞台から降りて聴いていたが、広上が「降りなくていいよ」と言ったため、以後はステージ上で聴いていた。

第4楽章に出てくる「プロメテウス主題」については、上野が「生涯の作品の中で4度用いられている」という話をする。広上が前日にどんな作品で何回使われているか調べるよう上野に言ったようで、上野が使われている作品全てを挙げると、広上は「よく調べてきたね」と感心していた。ちなみに「英雄」はプロメテウス主題が用いられた最後の作品となるようである。

第4楽章は変奏曲形式で書かれているが、ベートーヴェンが最も得意とした作曲形式が他ならぬ変奏曲であることを広上が告げる。ちなみに、ベートーヴェンはフーガの作曲を大の苦手としていたそうだが、「全ての交響曲でフーガを書いている。第九なんかが有名ですが。苦手だからといって逃げない」という姿勢を評価したところで上野が、「もうそろそろお時間で」と言ったため、「え? 逃げるの?」と冗談を飛ばしていた。


20分の休憩を挟んで、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」全編の演奏が行われる。広上はノンタクトで指揮する。

日本で最良のコンサートホールの一つとされるミューザ川崎コンサートホールは残響も長いと思われるが(行ったことがないのでどの程度かは不明だが)、呉竹文化センターは多目的ホールであるため残響はほとんどない。ということでテンポはミューザ川崎の時よりも必然的に速くなったと思われる。
時折、弦楽のノンビブラートの音も聞こえるが、基本的にはモダンスタイルの演奏であり、第1楽章のクライマックスではトランペットが最後まで旋律を吹いた。

音響の問題か、空調が影響したのか(余り冷房は効いていなかった)、いつもより細かなミスが目立つが、スケールの大きい堂々とした「英雄」像を築き上げる。生命力豊かであるが強引さを感じさせない。

ナポレオン・ボナパルトに献呈するつもりで書かれたという真偽不明の説を持つ「英雄」交響曲。だが、最終楽章にプロメテウス主題(天界から火を盗み、人類に与えたプロメテウスは、「智」の象徴とされることが多いが、ベートーヴェンが書いたバレエ音楽「プロメテウスの創造物」は「智」そのものというより「智」が生み出した芸術作品を讃える内容となっている)が用いられていることを考えると、政治・戦略の英雄であるナポレオンよりも音楽が優位であることが示されているように捉えることも出来る。表面的な英雄性は一度死に絶え、芸術神として再生するということなのかも知れない。その象徴を文学の才にも秀でていたといわれるナポレオンに求めたために、皇帝に自ら即位したという情報が、より一層、ベートーヴェンを憤らせたのかも知れない。

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