カテゴリー「第九」の29件の記事

2022年12月31日 (土)

コンサートの記(821) デニス・ラッセル・デイヴィス指揮 京都市交響楽団特別演奏会「第九コンサート」2022

2022年12月28日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「第九コンサート」を聴く。今年の指揮者は、デニス・ラッセル・デイヴィス。

アメリカ出身のデニス・ラッセル・デイヴィス。現代音楽の優れた解釈者として知られる一方で、ハイドンの交響曲全集を録音するなど幅広いレパートリーの持ち主である。宮本亞門が演出した東京文化会館でのモーツァルトの歌劇「魔笛」で生き生きとした演奏に接しているが、おそらくそれ以来のデニス・ラッセル・デイヴィス指揮の演奏会である。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏であるが、ステージ奥の指揮者の正面に来る場所には独唱者のための席が設けられており、ティンパニは舞台下手奥に据えられている。

独唱は、安井陽子(ソプラノ)、中島郁子(メゾ・ソプラノ)、望月哲也(テノール)、山下浩司(バス・バリトン)。合唱は京響コーラスで、ポディウムに陣取り、歌えるマスクを付けて歌う。

冒頭のヴァイオリンの音に圭角があり、「現代音楽的な解釈なのかな」と思ったが、実際はそうした予想とは大きく異なる演奏に仕上がった。しなやかで潤いに満ちた音楽であり、再現部ではヴァイオリンもなだらかな音型へと変わる。第九は第2楽章が演奏によっては宇宙の鳴動のように響くことがあるが、デニス・ラッセル・デイヴィスと京響の第九は、第1楽章が宇宙をかたどった音楽のように聞こえた。こうした経験は初めてである。

第2楽章。構築の把握の巧みさと計算の上手さが印象的な演奏である。迫力を出そうと思えばいくらでも出せる部分でも、滑らかに美しく奏でる。

第3楽章のテンポは速めで開始するが、途中で速度を落としてロマンティックに歌う。「美しさ」が印象的な楽章であるが、デイヴィスと京響は、「愛」と「優しさ」が両手を拡げて抱きしめてくれるような温かな演奏である。

第4楽章も、迫力ではなく「愛」と「優しさ」を重視。人間賛歌を歌い上げるような、ぬくもりに満ちた第九となった。

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2021年12月31日 (金)

コンサートの記(755) ガエタノ・デスピノーサ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2021

2021年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。昨年の「第9シンフォニーの夕べ」では、指揮台に立つ予定だったラルフ・ワイケルトがコロナ禍で来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代役を務めた。今年の「第9シンフォニーの夕べ」の指揮者にもワイケルトは再び指名されたが、オミクロン株の流行などによる外国人の入国規制強化によってまたも来日不可となり、入国規制が強化される前に来日して、日本滞在を続けているガエタノ・デスピノーサが代役として指揮台に立つことになった。なお、来年の大フィル「第9シンフォニーの夕べ」は尾高忠明の登壇が決まっており、ワイケルトの第九は流れてしまったようである


1978年生まれと、指揮者としてはまだ若いガエタノ・デスピノーサ。イタリア・パレルモに生まれ、2003年から2008年まで、名門・ドレスデン国立歌劇場のコンサートマスターを務めた、同時代にドレスレデン国立歌劇場の総監督であったファビオ・ルイージの影響を受けて指揮者に転向。2013年から2017年までミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の首席客演指揮者を務めている。

独唱は、三宅理恵(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、福井敬(テノール)、山下浩司(やました・こうじ。バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。フォアシュピーラーにはアシスタント・コンサートマスターの肩書きで客演の蓑田真理が入る。ドイツ式の現代配置での演奏だが、通常とは異なり、昨年同様ホルンが上手奥に位置し、通常ホルンが陣取ることが多い下手奥には打楽器群が入る。独唱者4人はステージ下手端に置かれた平台の上で歌うというスタイルである。


デスピノーサはフォルムを大切にするタイプのようで、先日聴いた広上淳一指揮京都市交響楽団の第九とは大きく異なり、古典的造形美の目立つスッキリとして見通しの良い演奏が行われる。
朝比奈隆時代に築かれた豊かな低弦の響き、俗に言う「大フィルサウンド」を特徴とする大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、デスピノーサがイタリア人指揮者ということもあって音の重心は高め。通常のピラミッド型とは異なる摩天楼型に近いバランスでの演奏が行われる。大フィルならではの演奏とはやや異なるが、こうしたスタイルによる第九も耳に心地よい。
全編を通して軽やかな印象を受け、ラストなども軽快な足取りで楽園へと進んでいく人々の姿が目に見えるようであった。

大阪フィルハーモニー合唱団は、今年も「歌えるマスク」を付けての歌唱。ザ・シンフォニーホールでの大フィル第九では、指揮台に立つ予定だった井上道義が「歌えるマスク」での歌唱に反発して降板したが(井上さんはコロナでの音楽活動縮小やマスクを付けての歌唱に元々反対だった上に、「歌えるマスク」がKKKことクー・クラックス・クランに見えるということで、降板している。KKKは、白人至上主義暴力肯定団体で、映画「国民の創生」や、シャーロック・ホームズ・シリーズの「5つのオレンジの種」などに描かれている。現在も活動中であり、先日、公園で集会を開いて周囲の住民と揉み合いになった)、マスクを付けていても歌唱は充実。フェスティバルホールの響きも相俟って堂々たる歌声を響かせていた。

演奏終了後に照明が絞られ、福島章恭指揮によるキャンドルサービスでの「蛍の光」が歌われる。再三に渡るリモートワークを強いられるなど、去年以上に大変であった今年の様々な光景が脳裏をよぎった。

日本語詞の「蛍の光」は別れを歌ったものであり、寂しいが、第九同様に明日へと進む人々の幸せを願う内容であり、目の前に迫った来年への活力となるようにも感じられた。

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2021年12月30日 (木)

コンサートの記(754) 広上淳一指揮 京都市交響楽団特別演奏会「第九コンサート」2021

2021年12月26日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「第九コンサート」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」がメインの曲目だが、その前に同じくベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番が演奏される。

今日のコンサートマスターは京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーは尾﨑平。ドイツ式現代配置での演奏で、管楽器の首席奏者はほぼ揃っている。

第九の独唱は、砂川涼子(ソプラノ)、谷口睦美(メゾ・ソプラノ)、ジョン・健・ヌッツォ(テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。合唱は京響コーラス。


序曲「レオノーレ」第3番。ベートーヴェンが書いた序曲の中では最も演奏される回数の多い楽曲だと思われるが、暗闇の中を手探りで進むような冒頭から、ティンパニが強打されて活気づく中間部、熱狂的なフィナーレなど、第九に通じるところのある構成を持っている。
広上と京響は生命力豊かで密度の濃い演奏を行う。トランペット首席のハラルド・ナエスがバンダ(一人でもバンダというのか不明だが)として、二階席裏のサイド通路とポディウムでの独奏を行った。


ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」。
第1楽章と第2楽章は、クッキリした輪郭が印象的なノリの良い演奏で、ピリオドを意識したテンポ設定とビブラートを抑えた弦楽の響きが特徴。時折きしみのようなものもあり、整ったフォルムの裏に荒ぶる魂が宿っているかのようで、バロックタイプでこそないが硬い音を出すティンパニが強打される。

第3楽章は、第1楽章と第2楽章とは対照的に遅めのテンポでスタート。途中からテンポが変わるが、旋律の美しさをじっくりと歌い上げており、第九が持つ多様性と多面性を浮かび上がらせる。最近では全ての楽章が速めのテンポで演奏されることが多い第九だが、こうした対比やメリハリを付けた演奏も魅力的である。

第4楽章は再びエッジの効いた演奏。京響コーラスはマスクを付け、一部の例外を除いて前後左右1席空けての歌唱で、やはり声量も合唱としても密度もコロナ前に比べると劣るが、かなり健闘しているように思えた。

広上は跳んだりはねたり、指揮棒を上げたり下げたりを繰り返すなど、いつもながらのユニークな指揮姿。また全編に渡ってティンパニを強打させるのが特徴である。
第九におけるティンパニは、ベートーヴェン自身のメタファーだという説を広上も語ったことがあるが、打楽器首席奏者の中山航介が豪快にして精密なティンパニの強打を繰り出し、ベートーヴェンの化身としてコロナと闘う全人類を鼓舞しているように聞こえた。

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2021年1月 2日 (土)

Eテレ「クラシック音楽館」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー ベートーヴェン交響曲全曲演奏2020

録画してまだ見ていなかったEテレ「クラシック音楽館」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー第一夜を見る。ベートーヴェンの交響曲を日本全国のオーケストラが1曲ずつ演奏していくという企画で、通常の演奏会ではなく、この企画のために特別に収録されたものが演奏される。

交響曲第1番は、広上淳一指揮京都市交響楽団が京都コンサートホールで行ったものが、第2番は飯守泰次郎指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団が名取市文化会館で行ったものが放送される。

共にリハーサルの様子が収められており、広上はピアニカ(鍵盤ハーモニカ)吹きながら音楽を示し、飯守はオーケストラ奏者からの質問に真摯に答えている様子を見ることが出来る。

 

広上淳一指揮京都市交響楽団は、交響曲第1番の前に、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第16番より第3楽章の弦楽オーケストラ編曲版も演奏する。

交響曲第1番は、バロックティンパニを用い、ピリオドを意識した演奏になっている。ただ弦楽のビブラートは要所要所での使い分けとなっており、ベートーヴェンの生きていた時代の演奏の再現を目指しているわけではない。
ヴァイオリンやフルートといった高音の楽器を浮かび上がらせており、それがフレッシュな印象を生んでいる。京響の持つ力強さを生かし、広上らしい流れの良さとエネルギー放出力が印象的な演奏を築き上げた。

ちなみに、広上のベートーヴェン解釈は独特で、元NHK交響楽団首席オーボエ奏者で、広上淳一に指揮を師事し、現在では指揮者として活躍する茂木大輔の著書『交響録 N響で出会った名指揮者たち』(音楽之友社)に、茂木がベートーヴェンの交響曲第1番フィナーレ(第4楽章)序奏部の解釈を広上に聞いた時のことが描かれているのだが、
広上(話し手の名前表示は引用者による)「あ、あれはね、花園があって。まず」
茂木(同上)「は、はい、花園……(メモ)」
広上「そこにね」
茂木「はい、そこに?」
広上「桜田淳子ちゃんが(引用者注:広上は桜田淳子の大ファンである)」
茂木「じゅ、淳子ちゃん……(メモ……)」
広上「遠くに、楽しそうに立っているのを、目指して、だんだん近寄って行くわけね。するとその花園がね……(どんどん続く)」
というものだそうである。

 

交響曲第2番を演奏する仙台フィルハーモニー管弦楽団。東北にある二つあるプロオーケストラの一つである。山形交響楽団の方が先に出来たが、仙台フィルの前身である宮城フィルハーモニー管弦楽団が生まれる際に、山形交響楽団から移籍した人も結構いた。仙台市と山形市は隣接する都市となっており関係は密である
山形交響楽団は飯森範親をシェフに迎え、関西フィルハーモニー管弦楽団の理事長であった西濱秀樹が移籍してからは、大阪でも毎年「さくらんぼコンサート」を行うようになったが、仙台フィルは関西での公演に関して積極的ではない。山形交響楽団がクラシック音楽対応のコンサートホール二つを本拠地としているのに対し、仙台にはまだクラシック音楽用のホールは存在しない。
ただ、録音や配信で聴く仙台フィルハーモニー管弦楽団はかなりハイレベルのオーケストラであり、かつて東京に次ぐ第二都市とまで言われた仙台の文化水準の高さを示している。

飯守も広上も関西に拠点を持っているが、タイプは正反対で、流れを重視する広上に対し、飯守は堅固な構築力を武器とする。
飯守は日本におけるワーグナー演奏の泰斗であり、ワーグナーに心酔していたブルックナーの演奏に関しても日本屈指の実力を持つ。

仙台フィルの音色の瑞々しい音色と、飯守の渋めの歌が独特の味となったベートーヴェン演奏である。

 

ベートーヴェン愛好家の多い日本に生まれるというのは、実に幸運なことである。生誕250周年記念の演奏会の多くが新型コロナによって中止となってしまっても、こうして放送のための演奏を味わうことが出来るのだから。第九の演奏を毎年のように生で聴けるということを考えれば、ドイツやオーストリアといった本場を上回る環境にあるのかも知れない。

 

 

録画してまだ見ていなかった、Eテレ「クラシック音楽館」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー第二夜と第三夜を続けてみる。

ベートーヴェンの交響曲を日本各地のプロオーケストラが1曲ずつ演奏し、収録を行うという企画。
交響曲第3番「英雄」は高関健指揮群馬交響楽団、交響曲第4番は小泉和裕指揮九州交響楽団、第5番は阪哲朗指揮山形交響楽団、第6番「田園」は尾高忠明指揮大阪フィルハーモニーが演奏を行う。基本的に本拠地での収録であるが、大阪フィルはフェスティバルホールでもザ・シンフォニーホールでもなく、NHK大阪ホールでの無観客収録が行われた。

 

建築としては第一級だが音響の評判は悪かった群馬音楽センターから高崎芸術劇場へと本拠地を移した群馬交響楽団。談合問題によるゴタゴタもあったようだが、クラシック音楽対応の大劇場や室内楽用の音楽ホール、演劇用のスタジオシアターなどを備え、評判も上々のようである。

日本の地方オーケストラとしては最古の歴史を誇る群馬交響楽団。学校を回る移動コンサートが名物となっており、小学生以来のファンが多いのも特徴である。コロナによって活動を停止せざるを得なかった時期にも、ファンからの激励のメッセージが数多く届いたそうだ。

Twitterで「高崎で高関が振るベートーヴェン」と駄洒落を書いたが、高関健は、1993年から2008年までの長きに渡って群馬交響楽団の音楽監督を務め、退任後は同交響楽団の名誉指揮者の称号を得ている。

古典配置での演奏。高関はノンタクトでの指揮。速めのテンポで颯爽と進むベートーヴェンであり、第1ヴァイオリンに指示するために左手を多用するのも特徴である。

「英雄」の演奏終了後には、プロメテウス繋がりで、「プロメテウスの創造物」からの音楽が演奏された。

 

交響曲第4番を演奏する小泉和裕指揮の九州交響楽団。アクロス福岡 福岡シンフォニーホールでの収録である。

九州も比較的音楽の盛んな場所だが、プロオーケストラは福岡市に本拠地を置く九州交響楽団のみである。人口や都市規模でいえば熊本市や鹿児島市にあってもおかしくないのだが、運営が難しいのかも知れない。

小泉和裕は徒にスケールを拡げず、内容の濃さで勝負するタイプだが、この交響曲第4番は渋めではあるが情報量の多い演奏となっており、なかなかの好演である。

演奏終了後に、序曲「レオノーレ」第3番の演奏がある。ドラマティックな仕上がりで盛り上げも上手く、交響曲第4番よりも序曲「レオノーレ」第3番の演奏の方が上かも知れない。

 

交響曲第5番を演奏するのは、阪哲朗指揮の山形交響楽団。長く一地方オーケストラの地位から脱することが出来なかったが、飯森範親を音楽監督に迎えてから攻めの戦略により、一躍日本で最も意欲的な活動を行うオーケストラとしてブランド化に成功した。キャッチフレーズは、「食と温泉の国のオーケストラ」。山形テルサ・テルサホールという音響は良いがキャパ800の中規模ホールを本拠地とするのが弱点だったが、今年、オペラやバレエ対応のやまぎん県民ホールがオープン。更なる飛躍が期待されている。
今回はそのやまぎん県民ホールでの演奏。
山形交響楽団はピリオドアプローチや、弦楽器をガット弦に張り替えての古楽器オーケストラとしての演奏に早くから取り組んでおり、今回の演奏でもトランペットやホルンはナチュラルタイプのものが用いられている。

阪哲朗はノンタクトで振ることも多いのだが、今回は指揮棒を使用。
冒頭の運命動機を強調せず、フェルマータも比較的短め。流れ重視の演奏である。速めのテンポで駆け抜ける若々しくも理知的な演奏であり、中編成の山形交響楽団とのスタイルにも合っている。

演奏終了後には、「トルコ行進曲」が演奏された。


尾高忠明と大阪フィルハーモニー交響楽団は、一昨年にフェスティバルホールでベートーヴェン交響曲チクルスを行っているが、「田園」だけが平凡な出来であった。「田園」はベートーヴェンの交響曲の中でも異色作であり、生演奏で名演に接することも少ない。

まず「プロメテウスの創造物」序曲でスタート。生き生きとした躍動感溢れる演奏である。

「田園」も瑞々しい音色と清々しい歌に満ちた満足のいく演奏になっていた。

 

 

録画しておいた、Eテレ「クラシック音楽」オーケストラでつなぐ希望のシンフォニー第四夜を視聴。川瀬賢太郎指揮名古屋フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第7番、秋山和慶指揮札幌交響楽団による交響曲第8番、下野竜也指揮広島交響楽団による劇音楽「エグモント」の演奏が放送される。

今年36歳の若手、川瀬賢太郎。広上淳一の弟子である。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者は契約を更新しないことを表明しているが、名古屋フィルハーモニー交響楽団の正指揮者としても活躍している。
神奈川フィル退任の時期や広上で弟子であることから、あるいは京都市交響楽団の次期常任指揮者就任があるのかも知れないが、今のところ広上の後任は発表になっていない。

「のだめカンタービレ」で有名になった交響曲第7番だが、曲調から若手指揮者が振ることが多く、佐渡裕のプロデビューも新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した第7をメインとしたコンサートだった。川瀬もやはり第7を振る機会は多く、今までで一番指揮したベートーヴェンの交響曲だそうである。
リハーサルでも単調になることを嫌う様子が見て取れたが、しなやかにして爽快な第7を演奏する。

愛知県芸術劇場コンサートホールで何度か実演に接したことのある名古屋フィルハーモニー交響楽団。意欲的なプログラミングでも知られており、今年もベートーヴェン生誕250年特別演奏会シリーズが予定されていたようだが、そちらは残念ながら流れてしまったようである。

第7の後に、「英雄」の第3楽章が演奏された。

 

第8番を演奏する秋山和慶指揮札幌交響楽団。日本屈指の音響との評判を誇る札幌コンサートホールKitaraでの演奏である。
秋山はレパートリーが広く、何を振っても一定の水準に達する器用な指揮者であり、外国人指揮者が新型コロナウイルス流行による入国制限で来日出来ないというケースが相次いだ今年は、各地のオーケストラから引っ張りだことなった。
岩城宏之が、「日本のクリーヴランド管弦楽団にする」と宣言して育てた札幌交響楽団。尾高忠明の時代に「シベリウス交響曲全集」や「ベートーヴェン交響曲全集」を作成し、好評を得ている。
秋山の適切な棒に導かれ、透明感のある音色を生かした活気ある演奏を示した。

 

下野竜也指揮広島交響楽団による劇音楽「エグモント」。序曲が有名な「エグモント」だが、劇音楽全曲が演奏されることは珍しい。

NHKの顔となる大河ドラマのオープニングテーマを何度も指揮している下野竜也。NHKとN響からの評価が高く、来年もN響の地方公演を振る予定がある。
下野は広島交響楽団に音楽総監督という肩書きで迎えられており、期待の大きさがわかる。
語りをバリトン歌手である宮本益光(歌手の他に語りなどをこなす器用な人であり、寺山修司ばりに、職業・宮本益光を名乗っている)が務め、ソプラノは石橋栄実(いしばし・えみ)が担当する。
下野らしいドラマティックな演奏であり、広島交響楽団の実力の高さも窺える。
人口で仙台市とほぼ同規模である広島市。両都市とも地方の中心都市でありながら音楽専用ホールがないという共通点があったが、広島は、旧広島市民球場跡地隣接地に音楽専用ホールを建設する予定がある。

 

 

午後8時から、オーケストラでつなぐ希望のシンフォニーのダイジェストを含む今年のクラシックシーン(例年に比べると寂しいものである)を振り返った後で、12月23日に東京・渋谷のNHKホールで収録されたNHK交響楽団の第九演奏会の模様が放送される。指揮は、スペイン出身のパブロ・エラス・カサド。フライブルク・バロック・オーケストラを第九と合唱幻想曲で本年度のレコード・アカデミー大賞を受賞した指揮者である。ノンタクトで汗をほとばしらせながらの熱演。

新型コロナ流行下での第九演奏であるため、合唱を務める新国立劇場合唱団は人数を抑え、前後左右に距離を空けての配置。歌唱時以外はマスクを付けていた。

HIPを援用した快速テンポによる演奏であるが、音が磨き抜かれており、N響の技術も高く、耽美的な演奏となる。
N響も本当に上手く、真のヴィルトゥオーゾオーケストラといった感じである。90年代にN響の学生定期会員をしていた時にも、「不器用だが上手い」という印象を受けていたが、今、90年代に収録された映像やCD化された音源を聴くと、「あれ? N響ってこんなに下手だったっけ?」と面食らうこともある。それほど長足の進歩を遂げたという証でもある。
カサドがスペイン出身ということも影響していると思われるが、音の重心が高めであり、フルートやヴァイオリン、ピッコロといった高音を出す楽器の音が冴えているのも特徴である。全体的に明るめの第九であり、アバド、シャイー、ムーティといったイタリア人指揮者の振った第九との共通点も見出すことが出来る。
第3楽章もかなり速めのテンポを取りながら溢れるような甘さを湛えているのが特徴である。
合唱も例年に比べると編成がかなり小さいが、収録されたものということで音のバランスは調整されており、迫力面でも不満はない。ライブではどんな感じだったのであろうか。

見通しの良い第九であり、甘美なのもこうした年の最後を締めくくる第九としては良かったように思う。

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2020年12月31日 (木)

コンサートの記(677) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか 「第9シンフォニーの夕べ」2020

2020年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の「第9シンフォニーの夕べ」に接する。

本来は今年の大阪フィルの第九は、ラルフ・ワイケルトが指揮する予定だったが、新型コロナウイルスの流行による外国人入国規制により来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代わって指揮台に立つことになった。
ワイケルトが京都市交響楽団の定期演奏会に客演した時に、大阪フィルの事務局次長(事務方トップ)の福山修氏がいらしていて、私も挨拶したのだが、その後に大阪フィルの定期演奏会のプレトーク(フェスティバルホールのホワイエで福山さんが行っている)で、やはり京響の定期で福山さんを見かけた方から、「なんで京響の定期にいらしてたんですか?」と質問があり、福山さんは「実はワイケルトさんを大フィルにお呼びしたいと思っておりまして」と明かしていた。それが今回の第九への客演依頼だったのだが、残念ながら今回は流れてしまった。

コロナ禍にあって、第九の演奏会が中止になるところも少なくなかったが、大フィルはなんとか6月以降は定期演奏会も含めて本拠地のフェスティバルホールでの演奏会はほぼ行うことが出来た。ただ、それ以外のコンサートは中止になったものも多く、クラウドファンディングが始まっている。年末の第九も本来は2回公演になるはずだったが、今日1回きりに減っている。

 

今日のコンサートマスターは、須山暢大。第1ヴァイオリン16という大編成での演奏である。ドイツ式の現代配置をベースにしているが、コロナ対策のため、通常とは布陣が異なる。
オーケストラと背後の合唱のためのひな壇の間には、平台と同じ大きさと思われる透明のボードが横に18枚、ずらりと並んでいる。ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄り、第3楽章以降にステージに登場する打楽器奏者がその更に下手に並ぶ。下手にいることが多いホルンは上手側奥、チェロの背後に配置される。ステージ下手端に平台が斜めに並べられており、そこが独唱者が歌うスペースになる。独唱者は、髙橋絵理(ソプラノ)、富岡明子(アルト)、福井敬(テノール)、青山貴(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
ソリストと合唱、シンバルやトライアングルなどの打楽器奏者は第2楽章が終わってからの登場。合唱団員は各々前後左右にスペースを取り、口の前に布を垂らしている。おそらくあれが東京混声合唱団が開発した「歌えるマスク」なのだろう。

2700席のフェスティバルホールに、今日は約2300人が来場の予定だそうで、コロナ下にあってはまずまずの入りである。1階席の前の方の席は飛沫を考慮して発売されていない。

 

中庸かやや速めのテンポでスタート。弦楽器はかなりビブラートを抑えての演奏であり、冒頭などは音型がクッキリしているため、第2ヴァイオリンの音などはかなり不吉に響く。ティンパニはバロックタイプのものではないが、時折、硬い音を出し、ピリオドの響きを意識しているようである。
尾高さんもこのところはフォルム重視というより内容を抉り出すような音楽を好むようになってきているように思われるが、今回も音を磨くよりもベートーヴェンの先鋭性を的確に浮かび上がらせるような演奏を行う。以前だったら第3楽章などはテンポを落としてじっくり歌ったと思うが、今日はスッキリした運びで、音の動きの特異性などを明らかにしていたように思う。同じくNHK交響楽団正指揮者で、同じように関西にポジションを持つ外山雄三も最近はそうしたスタイルに変えているようで、ベテランであっても最新の研究成果を取り入れることに熱心であるようだ。スッキリしているといっても旋律美自体は大事にしており、ベートーヴェンを一面だけから語るということは避けている。

第4楽章も巧みな音運びで、独唱者も充実。尾高さんには珍しくアゴーギクなども行う。ソーシャルディスタンス配置による合唱であるが、例年よりは歌声に隙間が生じた感じになってしまうのは致し方ないところである。周りの声が聞こえにくい配置とマスクというハンデを考えればかなり充実した歌唱であり、世界で唯一、年末が第九一色に染まる国、日本の合唱団のレベルの高さを示していた。

今年は世界史上に永久に残るほどの「大変な年」であり、来年が今年よりも良くなるという保障もどこにもない。人類は大きな危機に直面しているといえる。ただそんな年であっても日本では第九が演奏され、「歓喜の歌」が歌われる。
人類は未だ楽園には到達していないが、そこに到る歩みを止めてはいない。ベートーヴェンとシラーの吶喊を受けて、来年と、楽園へ辿り着くいつかに思いをはせながら、「歓喜の歌」に身を浸した。ラストの未来へと続く行進に私も加わっている思いだった。

 

今年も第九の後に、福島章恭(ふくしま・あきやす)指揮大阪フィルハーモニー合唱団によるキャンドルサービスの「蛍の光」が歌われ、「大変な年」にひとまずの句点が打たれたことを感じる。生きているだけで幸運という年になったが、2021年が今年よりは良い年になることを願わずにはいられない。


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2020年12月16日 (水)

コンサートの記(672) 兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」

2020年12月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」を聴く。タイトルが長いが、要するに第九の演奏会である。

合唱は飛沫が危険ということで、今年の第九演奏会は取りやめになるところが多く、例えば京都市交響楽団は第九の演奏会を中止し、代わりにチャイコフスキー・ガラを行うことが決まっている。PACオーケストラこと兵庫芸術文化センター管弦楽団は、今年から来年に掛けてベートーヴェン交響曲全曲演奏会を予定しており、第九は例年どおり年末に合わせている。公演自体は行われるが、新型コロナ感染者が増えているということもあり、希望者にはチケット料金払い戻しにも応じるという形態が取られている。

演奏の前に指揮者の佐渡裕が現れて、マイクを手にトークを行う。昨日、兵庫県立芸術文化センターの開館15周年記念コンサートがあり、第九の第4楽章とオペラの前奏曲やアリアなどが演奏され、今日明日は第九全曲の演奏となるが、全てチケット完売であり、沢山の拍手をいただけることを幸せに思うという話から入る。春先から演奏会の中止とチケットの払い戻しが続いたが、7月には歌入りのコンサートも行えて嬉しかったこと、それに先駆けて、オンライン参加型で宝塚歌劇の「すみれの花咲くころ」の演奏を佐渡とPACオーケストラで行い、好評を得たことなどを話す。
佐渡は、今月6日に行われた大阪城ホールでの「サントリー1万人の第九コンサート」の指揮者も務めたが、1万人は流石に無理だというので、千人に絞り、無観客公演とすることにしたものの、それでも厳しいというので、最終的には抽選による500人限定の参加とし、他は動画での投稿を募ることになったという。投稿者は音声をイヤホンで聴きながら歌ったものを録画して送るシステムだったようだが、佐渡はそれに合わせて予め決まったテンポで現場の合唱やオーケストラを誘導する必要があったようで、「リモートに合わせるのは大変だった」と語った(予め決まったテンポに合わせて指揮する大変さについては、フィルムコンサートなどを多く指揮しているジョン・マウチェリの著書『指揮者は何を考えているか』が参考になる)。
兵庫県立芸術文化センター大ホールの杮落としとPACオーケストラのデビューが佐渡の指揮する第九であり私も聴きに行ったが、佐渡はPACの年末の第九のうち、5周年と10周年を指揮、そして5年おきということで今年指揮台に立つことになったと語った。
「歓喜の歌」については、「歓喜の歌とはいっても、初演された当時は社会全体が厳しい状態で、そういう時代を喜ぶ歌ではなかった」と語り、合唱の合間やラストにシンバルや太鼓が叩かれる場面があるが、あれは「人類への応援歌」であり、人類への信頼とその先にある歓喜を歌ったものとの解釈を示した。

今日のコンサートマスターは、元大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターで、2019年9月からは日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務める田野倉雅秋。チェロが上手手前側に来るアメリカ式の現代配置での演奏である。ゲスト・プレーヤーとして水島愛子(元バイエルン放送交響楽団ヴァイオイリン奏者、兵庫芸術文化センター管弦楽団ミュージック・アドヴァイザー)、中野陽一朗(京都市交響楽団首席ファゴット奏者)、五十畑勉(東京都交響楽団ホルン奏者)らが参加している。
合唱はひょうごプロデュースオペラ合唱団(マウスシールドを付けての歌唱)。独唱は、並河寿美(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、行天祥晃(ぎょうてん・よしあき。テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。バリトンは当初、キュウ・ウォン・ハンが務める予定だったが、新型コロナ流行による外国人入国規制によって参加出来ず、甲斐が代役を務めることになった。
合唱と独唱者、そしてピッコロ奏者は、第2楽章終了後にステージに登場する。

9月にアルプス交響曲を演奏した時と同様、反響板を後ろに下げることでステージを広くし、ひな壇を設けて、管楽器奏者や独唱者、合唱はかなり高い場所で演奏に加わることになる。

字幕付きの演奏会であり、ステージの左右両側、ステージからの高さ4メートル程のところに字幕表示装置が設置されている。なお、兵庫芸術文化センター管弦楽団の字幕を一人で担当してきた藤野明子が11月に急逝したそうで、おそらくこの第九の字幕が最後の仕事になったと思われる。

若い頃はエネルギッシュな演奏を持ち味とした佐渡裕だが、ここ数年は細部まで神経を行き届かせた丁寧な音楽作りへと変わりつつある。佐渡も還暦間近であり、成熟へと向かっているということなのであろうが、長年に渡って海外と日本を往復する生活が続いているためか、表情が疲れているように見えるのが気になるところである。

第1楽章は、悲劇性というよりもこの楽章が持っている鬱々とした曲調に焦点を当てたような演奏である。ドラマ性を強調せずにむしろ均したような印象を受けるが、おそらく第4楽章に頂点が来るように計算もしているのだと思われる。PACオーケストラは育成型であり、そのためどうしても個性には欠ける。音色の輝かしさはあるのだが、渋みは育成型オーケストラで生むのは難しいだろう。
佐渡もHIPを取り入れており、ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団)と行った第九のツアーでは速めのテンポを採用していたように記憶しているが、今回はテンポは中庸である。低音部をしっかり築くことで安定感を増す手法は、手兵であるトーンキュンストラー管弦楽団を始めとするドイツ語圏のオーケストラとの共演で身につけたものだろう。
第4楽章ではヴィオラ奏者に完全ノンビブラートで演奏させることでハーディ・ガーディのような音色を生むなど、面白い工夫が施されていた。

第2楽章も緻密なアンサンブルが特徴で、宇宙の鳴動を描いたかのような神秘的な音の運動を鮮やかに示している。

第3楽章も自然体の演奏で、音楽が持つ美しさをそのままに引き出す。各楽器が美音を競う。

第3楽章からほぼ間を置かずに突入した第4楽章。第1楽章から第3楽章までの旋律が否定された後で、歓喜の歌のメロディーが登場するのだが、ドラマの描き方や盛り上げ方は最上とはいえないものの優れた出来である。
佐渡は最初の合唱の部分を締めくくる音をかなり長く伸ばす。
新型コロナ対策として、合唱も前後左右を開けた市松配置ということでステージに上がるのは40人であり、日本の年末の第九としては少なめであるため、迫力面では例年に比べると物足りないが、合唱の精度自体は高い。
最後の追い込みは佐渡はかなり速めのテンポを採るのが常だが、PACオーケストラの技術は高く、余裕すら感じさせるアンサンブルであった。

疫病の蔓延した年に第九を演奏する意義についてだが、シラーが書いた詩に出てくる「薔薇」というのは、華やかな薔薇ではなく、どうやら茨のことのようで、ここで描かれているのはバラ色の道を行くのではなく、皆で試練の道を乗り越える過程のようである。確かにシラーがお花畑な詩を書くとは思えない。そして自然が与えた茨とのことなので、今の状況下にも当てはまる。
天使も出てくるが、ここでいう天使とはエンジェルではなく、半獣半人の智天使ケルビムであり、楽園の前に立ちはだかる存在である。ただ、ケルビムに会えているということは、人類が楽園の一歩手前まで来ていることを示してもおり、理想社会実現の可能性がこの先にあるということでもある。ただそれは試練の時でもあり、救済はまだ訪れていない。
21世紀も序盤から中盤に入りつつあるが、ここに来て人類は全て平等で自由な社会から大きく遠ざかってしまったように思う。日本に関しては希望に乏しく、暗い未来を描くのは容易いが明るい未来は現実味がないというのが現状ではある。だが、コロナ禍という茨の道を全世界で乗り越えた暁には、可能性は低くとも新たな地平が待ち受けているような、そんな希望をシラーとベートーヴェンは照らし続けてくれているよう思う。

アンコールとして、ヴェルディの歌劇「椿姫」より“乾杯の歌”が演奏される。「楽園」繋がりである。ベートーヴェンの楽園とヴェルディの楽園とでは言葉は同じであっても意味するものは異なるが、音楽という美しくも儚い楽園に浸る喜びとして私は楽しんだ。

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2020年12月 5日 (土)

観劇感想精選(373) 『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』

2020年11月28日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』を観る。原案:小熊節子Schedlbauer(シュードゥルバウアー)、脚本:木内宏昌、演出:栗山民也、音楽・ピアノ演奏:新垣隆。出演は、一路真輝、田代万里生、神尾佑(かみお・ゆう)、前田亜季、安藤瞳、万里紗(まりさ)、春海四方(はるみ・しほう)、石田圭祐、久保酎吉(くぼ・ちゅうきち)。声の出演:段田安則。

ベートーヴェンが残した宛先不明の「不滅の恋人」への手紙を題材にした作品。一路真輝と田代万里生をキャスティングしていることからも分かる通り歌のシーンもあるが、それほど多くはない。また新型コロナ対策のため、歌うシーンでは他の俳優が飛沫が掛からない程度には遠ざかっている必要があり、それを観客からあからさまに悟られないように、また不自然でないように見せる工夫もいる。

舞台の中央にピアノがあり、今やすっかり有名になった新垣隆が演奏を行う。新垣はベートーヴェンが作曲した作品も演奏するが、多くは自己流にアレンジしてあり、楽譜そのままに演奏することはほとんどない。

タイトルにある「Op.110(オーパス110。作品番号110)」は、具体的には、ピアノ・ソナタ第31番のことを指している。ピアノ・ソナタ第31番は献呈者がなく、ベートーヴェンが「不滅の恋人」のために作曲したのではないかという説があって、今回の劇でもその説が採用されている。新垣隆は、ピアノ・ソナタ第31番だけは譜面通り演奏する。

「不滅の恋人」の正体は今もはっきりとはしておらず、今後も重要な史料が発見されない限り、特定される可能性は低いと思われるが、以前は数多くいた「不滅の恋人」候補が今では2人に絞られており、誰かというよりもどちらの可能性が高いのかが焦点となっている。その2人とはアントニー・ブレンターノとジョゼフィーネ・ブルンスヴィックである。共に夫がいたため、ベートーヴェンは秘めた恋として正体を明かさない恋文を綴り、投函することなく保管し続けたとされる。「不滅の恋人」への手紙は、現在では1812年7月6日から7日に掛けて、チェコ・ボヘミア地方の温泉町、テプリッツで書かれたことがわかっている。その直前の7月3日にベートーヴェンは「不滅の恋人」とプラハで直接会っていたとされるのだが、その時期にプラハにいたのがアントニーとジョゼフィーネなのである。確実にプラハにいたことが分かっているのはアントニーであるが、この時はイタリア系の豪商の夫、フランツ・ブレンターノと一緒。このフランツはベートーヴェンの親しい友人の一人である。また、残されたベートーヴェンの手紙からは、アントニーへの「友情」が語られており、アントニーを女性として意識していなかったのではないかという説もある。一方のジョセフィーネは、プラハに行く意思を日記に記し、姉のテレーゼにも伝えているが、1812年7月の正確な記録はなく、おそらくはプラハにいたであろうが確証はないという状態であった。どちらも決め手には欠ける。

今回の『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』では、アントニー・ブレンターノ(一路真輝)が「不滅の恋人」であるという説を採用しており、ジョゼフィーネ(前田亜季)もベートーヴェンと肉体関係を持ち、ベートーヴェンの子を宿した女性として登場する。どちらも貴族階級に生まれたがための不自由を嘆く女性である。
アントニーへのベートーヴェンの「友情」であるが、愛は友情の上に成り立つという解釈を採用している。アントニーはフランクフルト(・アム・マイン)にある嫁ぎ先の家を出て、ウィーンで別居生活を送る様になり、やがてベートーヴェンへの恋心を夫のフランツ・ブレンターノ(神尾佑)に打ち明ける。フランツはアントニーへの愛とベートーヴェンとの友情ゆえにそれを許し、ベートーヴェンとアントニーの手紙のやり取りも認める(ただし読み終えた後に破棄することを条件とする)。またベートーヴェンにボヘミア旅行を提案したのもフランツという設定になっている。フランツには商人の習慣に従ってアントニーを「子どもを産むための道具」にせざるを得なかったという負い目がある。

なお、今回の劇にはベートーヴェン本人は登場せず、段田安則がベートーヴェンの声として「不滅の恋人」への手紙の一節を朗読した録音が流れる。

まず新垣隆が登場し、ピアノを弾く。後方のスクリーンに「遺書 1802年」という文字が現れ、田代万里生扮するフェルディナント・リースが、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」を朗読する。フェルディナント・リースは、ベートーヴェンの弟子であり、ベートーヴェンの伝記を共同で著した人物でもある。物語は、リースがベートーヴェンの伝記執筆の取材のため、人々に証言を聞いて回るというスタイルで進んでいく。
「不滅の恋人」が書かれたチェコへの旅の最中に作曲されたのが交響曲第8番であるが、この曲はベートーヴェンが自身の交響曲の中で「最も好き」と明言している作品であり、9つある交響曲の中で唯一誰にも献呈していない。実際にそうなのかどうかは分からないが、この劇の中では「不滅の恋人」との愛の喜びを書いた曲とされている。

コロナ下の演劇として書かれたということもあるが、モノローグが多く、それにダイアローグがいくつか積み重なって劇は進行する。3人以上での対話が行われるというシーンはほぼない。ダイアローグも一部を除いて「不自然ではない」と思われる程度のディスタンスを取って行われることが多い。

第九のメロディーも「不滅の恋人」への手紙が書かれた頃にはすでにスケッチが出来上がっていたということで、「歓喜の歌」も「不滅の恋人」への愛に繋げている。かなり強引ではある。

原案の小熊節子Schedlbauerは、ウィーン・ミュージカル「エリザベート」の日本公演権を獲得した実業家で、元々は桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園芸術短期大学とは別物で、現存しない)に在学中の1960年にウィーン国立音楽アカデミー(現・ウィーン国立音楽大学)ピアノ演奏科に留学し、卒業した音楽家の卵だったが、ワインの貿易商へと転身し、その後にミュージカル・ライセンスのプロジェクションコーディネーターも務めるようになった人物である。
15年以上前に作家の青木やよいが「不滅の恋人」の有力候補を探し当てたということを知り、興味を持って自分でも研究を行い、栗山民也にベートーヴェンに関する芝居を作りたいと提案したのがこの劇が生まれた発端だという。栗山民也も学生時代からベートーヴェンファンだということでこの話に乗り、木内宏昌に台本執筆を依頼したようだ。「ベートーヴェンが登場しない」という発想は栗山民也によるものだそうである。

ベートーヴェンと「不滅の恋人」との恋。そしてなぜそれが成就しなかったのかが主軸となるが、時代と音楽がラブストーリー以上に重要な地位を占めている。貴族の時代が終焉へと近づき、ベートーヴェンが一般聴衆や市民の味方であるということが、芝居展開上はやや強引ではあるが語られる。ただ実際、ベートーヴェンが音楽を貴族の専有物から全ての人類のためのものへと拡大する意志を持ち、実現したのは事実である。ベートーヴェンを舞台に出さなかったのは、上手くいったかどうかは別として、時代と音楽とを見えない主役とし、ベートーヴェンをそれに重ねるという意図もあったのかも知れない。また登場人物がそれぞれのベートーヴェン像を持っており、それを語る上で一人のベートーヴェンを登場させない方が有効だったということも考えられる。また、ベートーヴェンが夢見た新時代によって自由になるのは市民だけではなく貴族も含まれると解釈されていることがステーリー展開から読み取れる。

今年は合唱の飛沫が危険ということで、年末の第九の演奏が中止になるケースが少なくない。兵庫県立芸術文化センターでは第九の演奏は予定されているが、京都コンサートホールでの京響の第九は中止となり、チャイコフスキー・ガラへと変更になった。だが、この芝居の中では第九の「歓喜の歌」はちゃんと歌われる。芸術家役、貴族役、ブルジョワ役、庶民役の全員が「歓喜の歌」を歌う。プロレベルの歌唱が行えるのは田代万里生(第九のテノールパートを務めた経験あり)と一路真輝だけであるが、それでも「歓喜の歌」(「換気の歌」と誤変換されたが、今年に限っては正しいようで複雑な気分になる)が聴けるというのはいいものだ。

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2020年8月16日 (日)

コンサートの記(648) 佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団 兵庫県立芸術文化センター大ホール杮落とし公演「第九」

2005年10月27日 兵庫県立芸術文化センター大ホール(現在のKOBELCO大ホール)にて

兵庫県立芸術文化センター大ホール柿落とし公演の「第九」を聴くために出かける。西宮という街の空気と雰囲気を知るために少し早めに出かける。

最寄り駅は、阪急西宮北口駅。地元の人は気にしないのだろうが、西宮北口(通称は西北)というのも変わった駅名である。西宮市の北口という場所にあるので西宮北口駅という即物的な名称で、阪急には西宮駅という駅はないから混同することはないが、関西以外の人は阪神西宮駅北口やJR西ノ宮駅北口と勘違いするかも知れない。


午後6時開場。午後7時開演。

兵庫県立芸術文化センター大ホールの内装は、壁全てに木を使った落ち着いたもの。変形シューボックススタイルで天井は高い。4階席は遥か上にあり、ステージからかなり遠い。
トイレは各階にあるがやや狭い。
私は1階サイド席、舞台の左手やや後方(LC9番の席)に座ったのだが、現代のホールにしては通路が狭く、また椅子がずらりと連なっているため、真ん中付近の席を買った人は、たどり着くまで難儀しそうである。後方、壁の後ろにも通路があるのだが、設計の関係でホール側の壁が斜めになっており、目の錯覚で体のバランスを崩しそうになる。

オペラ対応であるため、パイプオルガンはない。

兵庫県立芸術文化センター、柿落とし公演で演奏するのは、兵庫芸術文化センター管弦楽団というそのままの名前のオーケストラである。わかりやすくはある。誰が聞いてもどこのどんなオーケストラかわかる。略称はPAC(Peforming Arts Centerの略)。
兵庫芸術文化センター管弦楽団は、新たに結成されたプロオーケストラ。日本唯一の育成型プロオーケストラでもあり、厳しいオーディションを勝ち抜いた、日本を含む13の国出身の35歳以下のメンバー(平均年齢は27歳)からなる若い楽団である。芸術監督は佐渡裕で、今回の指揮も当然、佐渡が担当する。

合唱は、神戸市混声合唱団(プロの合唱団である)とオープニング記念第9合唱団(オーディションによって選ばれた、今回の第9演奏会のためだけに参加するメンバー達)。
ソリストは、ソプラノがロシアのマリア・コスタンツァ・ノチェンティーニ。メゾ・ソプラノが日本の手嶋眞佐子。テノールがアメリカのポール・ライオン、バリトンが韓国のキュウ=ウォン・ハン。オーケストラ同様、国際色豊かな顔ぶれである。

兵庫県立芸術文化センターの響きは、残響の少ないシンプルなものである。残響を重視するなら良いホールとは呼べないだろうが、その分、音の動きが細部までよくわかる。音楽ホールの響きが安定するまでには、最低でも竣工から2年程度はかかるとされているため、今後、響きが大きく変わる可能性もある。


第1楽章。弦の響きが薄いのが気になる。結成後間もないオーケストラということもあるのだろう。しかし最近流行りの古楽器奏法を取り入れた演奏だと考えれば、違和感は和らぐ。歴史のないオーケストラだからこそ、佐渡の音楽性がよくわかるということもある。

今回の佐渡の第九の特長は、一拍目を強調し、アクセントを与えて、そこからなだらかに歌へと変化させていくということ。メリハリが利いている。
途中、フェンシングの選手のような格好になったり、しゃがみ込むような素振りを見せたり、腰を振ったりと、佐渡の指揮は視覚的にも楽しい。
テンポは速めだったが、第3楽章をじっくり歌ったことと、第4楽章で、歓喜の主題を登場させるまでに間を長く取ったりしたため、「速い」という印象があったわりには、トータルタイムは平均的であった。

オーケストラも、音外しや、アインザッツが揃わなかったりというミスはあったものの健闘。アンサンブルは予想していたものより遥かに緻密である。

歓喜の歌はやはり、生で聴くに限る。人間の声の圧倒的な迫力はCDでは味わえない。二つの合唱団のレベルはかなり高い。

ラスト。佐渡は、「限界を超えているのでは?」と思えるほどの快速テンポを要求。フルトヴェングラーのバイロイト盤をも凌ぐほどの猛烈な追い込みだ。バイロイトは最後の最後で音が潰れてしまったが(実際は録音の問題であった可能性が高いことが後にわかっている)、兵庫芸術文化センター管弦楽団は乱れることなく最後まで弾き通した。
感動よりも興奮するベートーヴェン。完璧でも重厚でもないが、フレッシュな第九であった。

第九の後で何かを演奏するということは少ないが、今回は特別に「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」(「パッピーバースデー、ディア名ホール!」と歌われた)が演奏され、新ホールと新オーケストラの門出を祝った。

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2019年12月31日 (火)

コンサートの記(618) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2019

2019年12月30日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。指揮は今年も音楽監督の尾高忠明。

独唱は、森谷真理(ソプラノ)、清水華澄(アルト)、福井敬(テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。合唱は、大阪フィルハーモニー合唱団。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。

昨年の大フィルの年末の第九はフェスティバルホールの最前列下手寄りで聴いており、指揮者の尾高の姿はほとんど見えなかったが、今日も下手寄りの前から2列目。尾高の姿は微かに見え、第1ヴァイオリンに指示を送る時のにこやかな表情が印象的であった。

尾高らしい見通しの良い第九であり、京響を指揮したスダーンとは違って第九を独立峰と見たようなアポロ芸術的な演奏である。全てが中庸であり、傑出した個性がない代わりに抜群の安定感がある。1年を振り返る第九としてはある意味理想的かも知れない。

大フィルの技術は高く、朝比奈隆の時代から脈々と受け継がれてきたベートーヴェン演奏に対する誇りが感じられる。昨年、一昨年はホルンのミスが目立ったが、今年はそれもない。

第2楽章の音型や第4楽章のピッコロの浮かび上がりなどがあったことから、おそらくベーレンライター版での演奏であったと思われるが、古楽は一部を除いて意識されていないようである。

天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典での国歌独唱を務めた森谷真理。日本人ソプラノとしては硬質の声を持つ人だが、こうした声で聴く第九もいい。


演奏終了後には今年も福島章恭指揮大阪フィルハーモニー合唱団による「蛍の光」がある。溶暗の中、福島は緑の灯りのペンライトを振り、大フィル合唱団のメンバーも同色のペンライトを掲げたキャンドルサービスの中での合唱。今年あった様々な出来事が、清められた上で空へと昇っていくような趣があった。


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2019年12月30日 (月)

コンサートの記(617) ユベール・スダーン指揮 京都市交響楽団特別演奏会第九コンサート2019

2019年12月27日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会第九コンサートを聴く。指揮は、東京交響楽団とのコンビで日本でもお馴染みになったユベール・スダーン。独唱は、吉田珠代(ソプラノ)、八木寿子(やぎ・ひさこ。アルト)、清水徹太郎(テノール)、近藤圭(バリトン)。合唱は京響コーラス。

 

オランダ・マーストリヒトに1946年に生を受けたユベール・スダーン。ブザンソン国際指揮者コンクール優勝、カラヤン国際指揮者コンクール2位、グイド・カンテルリ国際コンクール優勝といった輝かしいコンクール歴を誇る。
岩城宏之が首席指揮者を、尾高忠明が首席客演指揮者を務めていたことで日本でも知名度の高いメルボルン交響楽団の首席客演指揮者、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団やザルツブルク・モーツァルティウム管弦楽団管弦楽団の首席指揮者を経て、2004年に東京交響楽団の音楽監督に就任。一時代を築き、14年に退任した際には同楽団から桂冠指揮者の称号を贈られている。2018年9月にはオーケストラ・アンサンブル金沢の首席客演指揮者にも就任し、今後も日本での活躍が期待されている。
基本的にノンタクトで指揮する人であり、今日も指揮棒を持たず両手と頭の動きによってオーケストラをリードする。

 

まず、メンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」が演奏され、休憩を挟まず第九の演奏が行われる。
管の首席は、オーボエの髙山郁子とホルンの垣内昌芳が第九のみの出演。メンデルスゾーンにはトロンボーンパートがないので、トロンボーン奏者も全員第九からの参加となる。他のパートの首席奏者は全編に出演する。

コンサートマスター・泉原隆志、フォアシュピーラー・尾﨑平といういつもの布陣。第2ヴァイオリンの首席は客演の安井優子が入る。ドイツ式の現代配置での演奏。

 

メンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」。ベートーヴェンも同じゲーテの詩に基づいたカンタータを残していることから選ばれたのだと思われる。令和という新時代の幕開けに相応しい曲であり、今回が新元号初の第九となることはプログラム決定の前に決まっていたはずであるが、そのためのプログラムと取るのは考えすぎかも知れない。ただ、平成の海はとんでもないことになったため、令和の海は静かであって欲しいとは思う。
スダーンは京響の弦から温かい音を弾きだし、冴え冴えとした管の響きと対比させる。安定感と切れ味を兼ね備えた演奏である。バロックティンパニの力強さも特徴的であった。

 

スダーンの描く第九は、テンポが速めでリズムを強調し、内声部えぐり出すなどベートーヴェンの荒ぶる魂を浮かび上がらせるものである。結構ロックな第九であり、人類史上初のロックである交響曲第7番と、山椒は小粒でもピリリと辛い交響曲第8番との連続性を感じさせる解釈である。非常に面白い。

バロックティンパニの強打は、ピリオド・アプローチによる演奏ではよく聴かれるものだが、第2楽章でのティンパニの5連打で、5打目をピアノに変えずにフォルテのまま叩かせたのが新鮮であった。スダーンは下手に置かれたティンパニへの指示は左手と頭を振ることで行う。

京響の第九というと、広上淳一や、昨年の第九を振った下野竜也のようにアポロ芸術的な第九を生み出す人が多いのだが、スダーンの第九はそれとは真逆である。ディオニソス的とまではいかないが、エネルギー放出量は極めて高い。それでいながらフォルムを崩さないのがスダーンの至芸である。

第3楽章もかなり速め。ひょっとしたら上岡敏之の第九よりも速いかも知れない。スリリングな展開になる場面もあったが、薄味にはならない。低弦をしっかり弾かせて全体の音に厚みと奥行きを出すなど演出も巧みである。

第4楽章も前半は前のめりの演奏。ただゲネラルパウゼはしっかりと入れるため、せわしないという印象は受けない。
京響コーラスは、快速テンポということで、最初の内はどうしても声の精度に粗さが出てしまっていたが、力強さがあり、立体的な音響が見事である。アンサンブルも徐々に整っていき、オーケストラ同様、堅固なフォルムが築かれる。スダーンの音響設計力はほぼ完璧といって良い領域に達している。
スダーンは、古楽の本場であるオランダ出身ということもあってピリオドを援用したモダン楽器による演奏はお手の物である。今日は弦のビブラートはさほど抑えてはいなかったが、第4楽章ではヴィオラに完全ノンビブラートで弾かせて浮かび上がらせるなど、ピリオドとモダン両方の長所を止揚した音楽作りで聴かせる。

とにかく面白さに関しては、これまでに接したことのある第九の実演の中でも上位に入る出来。東響の音楽監督を10年務めた実力が伊達ではないことを示していた。

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