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2022年1月 1日 (土)

観劇感想精選(419) 草彅剛主演「アルトゥロ・ウイの興隆」2021@ロームシアター京都

2021年12月23日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「アルトゥロ・ウイの興隆」を観る。2020年1月に、KAAT 神奈川芸術劇場で行われた草彅剛主演版の再演である(初演時の感想はこちら)。前回はKAATでしか上演が行われなかったが、今回は横浜、京都、東京の3カ所のみではあるが全国ツアーが組まれ、ロームシアター京都メインホールでも公演が行われることになった。ちなみにKAATもロームシアター京都メインホールも座席の色は赤だが、この演出では赤が重要なモチーフとなっているため、赤いシートを持つ会場が優先的に選ばれている可能性もある。アルトゥロ・ウイ(草彅剛)が率いるギャング団は全員赤色の背広を身に纏っているが、仮設のプロセニアムも真っ赤であり、3人の女性ダンサーも赤いドレス。演奏を担当するオーサカ=モノレールのメンバーもギャング団と同じ赤いスーツを着ている。

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アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)を皮肉る内容を持った「アルトゥロ・ウイの興隆」。元々のタイトルは、「アルトゥロ・ウイのあるいは防げたかも知れない興隆」という意味のもので、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)がアメリカ亡命中の1941年に書かれている。ナチスもヒトラーも現役バリバリの頃だ。ヒトラー存命中にその危険性を告発したものとしては、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者」と双璧をなすと見なしてもよいものだが、すぐに封切りとなった「独裁者」に対し、「アルトゥロ・ウイの興隆」はその内容が危険視されたため初演は遅れに遅れ、ブレヒト没後の1958年にようやくアメリカ初演が行われている。ブレヒトの母国でナチスが跋扈したドイツで初演されるのはもっと後だ。

ブレヒトの戯曲は、今がナチスの歴史上の場面のどこに当たるのか一々説明が入るものであるが(ブレヒト演劇の代名詞である「異化効果」を狙っている)、今回の演出ではブレヒトの意図そのままに、黒い紗幕に白抜きの文字が投影されて、場面の内容が観客に知らされるようになっている。

作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、演出:白井晃。
出演は、草彅剛、松尾諭(まつお・さとる)、渡部豪太、中山祐一朗、細見大輔、粟野史浩、関秀人、有川マコト、深沢敦、七瀬なつみ、春海四方(はるみ・しほう)、中田亮(オーサカ=モノレール)、神保悟志、小林勝也、榎木孝明ほか。


禁酒法時代のシカゴが舞台。酒の密売などで儲けたアル・カポネが権力を握っていた時代であるが、アル・カポネの存在は、セリフに一度登場するだけに留められる。
この時代が、ナチス台頭以前のドイツになぞらえられるのであるが、当時のドイツは深刻な不況下であり、ユンカーと呼ばれる地方貴族(ドイツ語では「ユンケル」という音に近い。「貴公子」という意味であり、ユンケル黄帝液の由来となっている。「アルトゥロ・ウイの興隆」では、カリフラワー・トラストがユンカーに相当する)が勢力を拡大しており、贈収賄なども盛んに行われていた。
清廉潔白とされるシカゴ市長、ドッグズバロー(榎木孝明)は、当時のドイツの大統領であったハンス・フォン・ヒンデンブルクをモデルにしている。ヒンデンブルクはヒトラーを首相に指名した人物であり、ナチスの台頭を招いた張本人だが、この作品でもドッグズバローはアルトゥロ・ウイの興隆を最初に招いた人物として描かれる。

小さなギャング団のボスに過ぎなかったアルトゥロ・ウイは、ドッグズバローが収賄に手を染めており、カリフラワー・トラストに便宜を図っていることを突き止め、揺する。それを足がかりにウイの一団は、放火、脅迫、殺人などを繰り返して目の前に立ち塞がる敵を容赦なく打ち倒し、暴力を使って頂点にまで上り詰める。
ぱっと見だと現実感に欠けるようにも見えるのだが、欠けるも何もこれは現実に起こった出来事をなぞる形で描かれているのであり、我々の捉えている「現実」を激しく揺さぶる。

途中、客席に向かって募金を求めるシーンがあり、何人かがコインなどを投げる真似をしていたのだが、今日は前から6列目にいた私も二度、スナップスローでコインを投げる振りをした。役者も達者なので、「わー! 速い速い!」と驚いた表情を浮かべて後退してくれた。こういう遊びも面白い。

クライマックスで、ヨーゼフ・ゲッペルスに相当するジュゼッペ・ジヴォラ(渡部豪太)とアドルフ・ヒトラーがモデルであるアルトゥロ・ウイは、客席中央通路左右の入り口から現れ、客席通路を通って舞台に上がるという演出が採られる。ナチス・ドイツは公正な民主主義選挙によって第一党に選ばれている。市民が彼らを選んだのである。市民に見送られてジヴォラとウイはステージに上がるという構図になる。

アメリカン・ソウルの代名詞であるジェイムズ・ブラウンのナンバーが歌われ、ステージ上の人物全員が赤い色の服装に変わり、ウイが演説を行って自分達を支持するよう客席に求める。ほとんどの観客が挙手して支持していたが、私は最後まで手を挙げなかった。お芝居なので挙手して熱狂に加わるという見方もあるのだが、やはり挙手ははばかられた。ただ、フィクションの中とはいえ、疎外感はかなりのものである。ナチスも熱狂的に支持されたというよりも、人々が疎外感を怖れてなんとなく支持してしまったのではないか。そんな気にもなる。流れに棹さした方がずっと楽なのだ。

アルトゥロ・ウイがヒトラーの化身として告発された後でも、音楽とダンスは乗りよく繰り広げられる。その流れに身を任せても良かったのだが、私はやはり乗り切ることは出来なかった。熱狂の中で、草彅剛演じるアルトゥロ・ウイだけが身じろぎもせずに寂しげな表情で佇んでいる。ふと、草彅剛と孤独を分かち合えたような錯覚に陥る。

こうやって浸ってみると孤独を分かち合うということも決して悪いことではない、むしろ世界で最も良いことの一つに思えてくる。誰かと孤独を分かち合えたなら、世界はもっと良くなるのではないか、あるいは「こうしたことでしか良くならないのではないか」という考えも浮かぶ。

ヒトラーが告発され、葬られても人々のうねりは止まらない。そのうねりはまた別の誰かを支持し攻撃する。正しい正しくない、良い悪い、そうした基準はうねりにとってはどうでもいいことである。善とも悪ともつかない感情が真に世界を動かしているような気がする。


大河ドラマ「青天を衝け」で準主役である徳川慶喜を演じて好評を得た草彅剛。私と同じ1974年生まれの俳優としては間違いなくトップにいる人である。横浜で観た時も前半は演技を抑え、シェイクスピア俳優(小林勝也。ヒトラーは俳優から人前に出るための演技を学んだとされるが、ヒトラーに演技を教えたのはパウル・デフリーントというオペラ歌手であると言われている。「アルトゥロ・ウイの興隆」でシェイクスピア俳優に置き換えられているのは、この作品がシェイクスピアの「リチャード三世」を下敷きにしているからだと思われる)に演技を学んでから生き生きし出したことに気づいたのだが、注意深く観察してみると、登場してからしばらくは滑舌を敢えて悪くし、動きにも無駄な要素を加えているのが分かる。意図的に下手に演じるという演技力である。


演説には乗れなかったが、スタンディングオベーションは誰よりも早く行った。良い芝居だった。

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2021年11月10日 (水)

コンサートの記(751) オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」世界初演

2021年11月5日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて

午後7時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」(ソプラノ、ギター、電子音響のための。2021年委嘱・世界初演)を聴く。作曲は、足立智美(あだち・ともみ。男性)。出演は、太田真紀(ソプラノ)と山田岳(やまだ・がく。エレキギター、アコースティックギター、リュート)。この二人による委嘱である。演出は、あごうさとし。

テキスト生成用のAI(人工知能)であるGPT-2に、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の原文を始め、文献やWeb上の情報など数百年分のデータを入れて記述されたテキストを基に作曲されたオペラである。足立本人は敢えて「ロミオとジュリエット」の原文には触れないようにしたそうで、「おそらく、オペラ作曲家が原作を読まずに作曲した世界初のオペラでもあります」(無料パンフレットに記載された足立本人の文章より)とのことである。

英語上演(一部日本語あり)字幕なしということで、予約を入れた人に届いたメールには英語の原文と日本語訳が載ったPDFが添付されており、事前に読むことが推奨されている。テキストは当日に席の上に置かれたチラシの束の中にも入っている。

私は事前に2度読んで行ったが、AIは意味というものを理解することが出来ないということでハチャメチャなテキストになっている。「ロミオとジュリエット」の主筋は登場せず(別れの場だけ多少それらしかったりする)、突然、ゲームの話になったり(「ロミオとジュリエット」をビデオゲーム化したものがいくつもあって、その影響らしい)、「あんた誰?」という登場人物が何の予告もなしに出てきたり(「ロミオとジュリエット」の二次創作からの還元の可能性があるようだ)、矛盾だらけの文章が続いたりと、とにかく妙である。ただ、そんな妙な文章の中に、時折ふっと美しい一節が現れることがある。それまでの過程が奇妙なだけに、その美しさは際立つ。

中央から左右に開くタイプの黒い幕が開き、オペラ開始。ソプラノの太田真紀は中央に黒いドレスを纏って(正確に言うと、床に置かれた黒いドレスに潜り込んで)座り、ベールを被っている。顔は白塗りで、そのために真っ赤に口紅が引き立つ。山田岳は上手奥にいてギターを弾き始める。両手は血をイメージしたと思われる赤い塗料に染められている。

今日が世界初演の初日である。

9場からなるテキスト。上演時間は休憩時間15分を含めて約1時間20分である。
英語テキストなので聞き取れない部分も多いが、聞き取れたとしても意味は分からないので、そう変わらないと言えないこともない。

まずは第1場「ロミオ」は朗読から入り、第2場「ジュリエット」では、冒頭の「目をいつもよりちょっと大きく動かしてみましょう!」が日本語で語られる。
ボイスチェンジャーが使われたり、声が重なって聞こえるよう加工されたりする。

そんな中で第4場の「ジュリエットとサクラ」は純然とした朗読。太田真紀も情感たっぷりに読み上げるが、その実、文章の意味は通っていなかったりする。サクラなる人物が何者なのか良く分からないが、なぜか子どもが登場し(誰の子どもなのかも、サクラやジュリエットとの関係も不明)、街には当たり屋(?)がいて、裕也というこれまた謎の男が突如現れ、白人の男が黒いカーテンのようだと形容される(白人なのに黒とは如何?)。

第5場「カンティクル」も朗読だが、サクラと独立した彼女の腕との話になっており(「ロミオとジュリエット」からどうしてそんな話になったのかは不明。そもそもジュリエットはどこに行ったのだ?)、中上健次の初期の短編小説「愛のような」を連想させる。
ノーベル文学賞候補と言われながら若くして亡くなった中上健次。一週間後には私は中上健次の享年を超えることになる。

音楽的には、声が重層的になる部分がクイーンのアルバム「オペラの夜」を連想させたり、ラストの第9場「ジュリエット」では、山田岳の弾くリュートに乗せて、太田真紀がシェークスピアと同時代のイギリスの作曲家であるジョン・ダウランドを思わせるような叙情的な旋律を歌うなど(「A drop」のリフレインが印象的)、全体的にブリティッシュな印象を受けるのだが、実際には「イギリス」をどれほど意識していたのかは不明である。ただ、アフタートークで足立は第9場の音楽についてはやはりダウランドを意識したと語っていた。
エレキギターからアコースティックギター、リュートという時代に逆行した流れになっているのも面白い。

ジョン・ダウランドは、近年、再評価が進んでいる作曲家なので紹介しておく。シェークスピア(1564-1616)とほぼ同じ頃に生まれ(1563年説が最有力のようだ)、シェークスピアより10年長生きした作曲家で、オックスフォード大学で音楽を学んだリュートの名手であり、エリザベス女王の宮廷楽士になろうとするが、なぜか不合格となってしまい、やむなくヨーロッパ大陸に活躍の場を求めている。イタリア、ドイツ、デンマークなどで名声を得た後、1606年にイングランドに帰国し、1612年にようやくジェームズ1世の王宮にリュート奏者として仕官。シェークスピアは、その頃には引退間際であり、共に仕事をすることはなかった。同じ時代を生きながらすれ違った芸術家の代表格と言える。


テキストとしては、第7場「ジュリエット」における、「ロミオここにあり」「来たれ」が繰り返されるミニマルなものや、第8場「ロミオ」の「愛」と「死」と「肉体」の観念、第9場「ジュリエット」での「死」と「ひとしずく」の関係などが面白い。AIは意味というものを理解することは出来ないので、自動記述的に生み出されたものなのだが、理屈では捉えきれないが感覚的に飲み込むことの出来る何とも言えない愉悦がここには確かにある。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年7月24日 (土)

コンサートの記(733) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2021 レハール 喜歌劇「メリー・ウィドウ」

2021年7月18日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2021 レハールの喜歌劇(オペレッタ)「メリー・ウィドウ」を観る。なお、「メリー・ウィドウ」では劇中に選挙の話が出てくるが、今日は兵庫県知事選の投票日で、兵庫県立芸術文化センターの周りを投票を呼びかける選挙カーが回っていた。

佐渡裕の指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団の演奏で行われる毎夏恒例のオペラ公演。昨年の「ラ・ボエーム」はコロナ禍のため、2022年に延期となったが、今年は無事に開催される運びとなった。ダブルキャストで、明日と23日は休演となるが、それ以外は1日おきに出演者が変わる。

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今日の出演は、高野百合絵(ハンナ・グラヴァリ)、折江忠道(ミルコ・ツェータ男爵)、高橋維(たかはし・ゆい。ヴァランシエンヌ)、黒田祐貴(ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵)、小堀勇介(カミーユ・ド・ロシヨン)、小貫岩夫(おぬき・いわお。カスカーダ子爵)、大沼徹(ラウール・ド・サンブリオッシュ)、泉良平(ボクダノヴィッチ)、香寿たつき(シルヴィアーヌ)、桂文枝(ニエグシュ)、志村文彦(ブリチッチュ)、押見朋子(プラスコヴィア)、森雅史(もり・まさし。クロモウ)、鈴木純子(オルガ)、鳥居かほり(エマニュエル)、高岸直樹&吉岡美佳(オペラ座のエトワール)、佐藤洋介(パリのジゴロ=ダンサー)、伊藤絵美、糀谷栄里子、四方典子(よも・のりこ。以上3人は踊り子)。踊り子役の3人は、関西では比較的名の知れた若手歌手なのだが、ひょうごプロデュースオペラ合唱団の中で踊りも担当する役ということで、無料パンフレットには個別のプロフィールは記載されていない。その他にダンサーとして、高岸、吉岡、佐藤も含めた16人の名前がパンフレットに載っており、助演名義で14人が出演する。

演出は、広渡勲(ひろわたり・いさお)。日本語訳詞・字幕付での上演。訳詞を手掛けたのは森島英子。演出の広渡が日本語台本を手掛けている。プロデューサーは小栗哲家(俳優・小栗旬の実父)。

グランドピアノをイメージしたセットが組まれており、ミニチュアセットが兵庫県立芸術文化センター内の「ポッケ」というスペースに展示されていて、写真を撮ることも出来る。
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オーケストラピットを囲うようにスペースが設けられており(宝塚歌劇でいうところの銀橋)、そこでも歌唱やダンスなどが行われる。

佐渡裕が登場し、客席に顔を見せて振り返ったところで入り替わりがあり、タクトを振り上げてから客席を振り返った指揮者は桂文枝に代わっていて、「いらっしゃーい」というお馴染みの言葉が客席に向かって放たれる。文枝が務めるのは、架空の国であるポンテヴェドロ王国(モンテネグロ公国がモデルである)の大使館書記のニエグシュとストーリーテラー(狂言回し)である。

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ポンテヴェドロ王国の資産を握るほどの大富豪が死去したことから問題が起こる。

その前にまず主人公であるハンナとダニロの関係から。二人は元々は恋人で、結婚を誓ったほどの仲だったのだが、ダニロが伯爵であるのに対して、ハンナは平民の娘。身分違いの恋ということで二人は引き離されることとなったのだ。
その後、ハンナはポンテヴェドロ王国の大富豪の老人と結婚。ところが、十日も経たないうちに(正式には八日後ということになっている)老人が死去。文枝は、「最近、和歌山で同じようなことがありまして、田辺の方だったでしょうか。あちらは事件性がありますが、こちらはございません」と、現在に至るまでのあらすじを語り、ハンナもパリに出てきて、陽気な未亡人(メリー・ウィドウ)として暮らしているのだが、彼女がフランス人と再婚すると、受け継いだ大富豪からの遺産がフランスのものになってしまうということで、元恋人であるダニロに白羽の矢が立つのだが、ダニロはプライドが邪魔する上に、財産目当てと見られることを嫌い、その気になれない。ハンナと別れてからのダニロは駐仏大使館の一等書記官となるも荒れた生活を送っており、有名バー・レストラン「マキシム」に入り浸る毎日を過ごしている。

一方、ポンテヴェドロ王国駐仏公使のツェータ男爵の夫人であるヴァランシエンヌに、パリの伊達男であるカミーユが懸想し、ヴァランシエンヌの扇に「愛している」と書き込んだのだが、その扇をヴァランシエンヌが紛失してしまったことから一騒動起こる。扇は大使館員の手で拾われ、話題になるのだが、ツェータ男爵は自分の妻が関係しているとは夢にも思っていない。

ということで、ハンナとダニロ、ヴァランシエンヌとツェータとカミーユによる騒動を描いたドタバタである。オペレッタということで、筋書きも単純だが、音楽と「人を愛することの素晴らしさ」を存分に味わうことが出来る。音楽によって舞台上と客席が一体になる様は、オペラやオペレッタならではのものである。

歌手達の歌唱と演技も上等。新劇と宝塚歌劇の中間のような演技をする人が多いので、作りものっぽさが気になる人もいるかも知れないが、日本人歌手による日本語上演としてはかなり健闘しているように思う。桂文枝は落語家なので、語りや演技スタイルが浮いているが、そもそもがそうした要素を求められてのキャスティングである。文枝に名演技を期待している人も余りいないだろう。


育成型のオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)は、在籍期間最長3年ということで、個性のある団体にはならないのだが、見方を変えるとどんな音楽にも順応しやすいということで、「メリー・ウィドウ」でもウィーンとパリの良さを合わせたレハールの音楽を洒落っ気たっぷりに演奏する。コンサートマスターは元大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスターで、現在は日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務める田之倉雅秋だが、元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団第2ヴァイオリン首席奏者のペーター・ヴェヒターを招き、ウィーン情緒の醸成に一役買って貰っているようである。佐渡の生き生きとした音楽作りも良い。

全体的に野球ネタがちりばめられており、ダニロが通う「マキシム」は甲子園店という設定で、文枝が「毎晩、虎になる」という話をするが、ツェータ男爵は巨人ファンだったという謎の設定である。また、ダニロが酔っ払って、「佐藤(輝明。西宮市出身である)、オールスターで打った」と寝言を言ったり、ハンナが「ダニロ」と言うのかと思ったら、そうではなくて「ダルビッシュ」だったりする。


3幕の前に、文枝が客席通路を喋りながら銀橋に上がり、「私と香寿たつきさんとで面白いことやってくれと言われまして。香寿たつきさんはいいですよ、歌って踊れる。私は話しか出来ない」ということで、花月などでもやったことのある病院ネタの創作落語を、今日は立ったまま行う。「病院で薬を貰うようになってから体調が悪化した」という老人の話。元々酒豪で、医師から「1日1合まで」と決められたのだが、それでも体調が悪くなる。医師は、酒の他に「煙草も1日2本まで」と決めたのだが、「元々煙草は飲まない」そうで、無理して朝晩1本ずつ吸うようにしたら頭がクラクラして体調が悪化したとのこと。更に、右脚が悪くなり、医師から「年だ」と言われるも、「左脚も同い年なんですけれど」「左右共に一緒に学校に通ったりしてたんですけれど」と粘るも、「直に追いつく」などと言われる内容であった。
文枝は、佐渡にも病院ネタの話をして貰うのだが、「脚を骨折した」「溝に落ちて骨折した」「病院に予約しないで行ったら、『佐渡さんだ! 佐渡さんだ!』と騒がれた」「脚の診察を終えたが、顔にも傷が出来てきたので、『頭のレントゲンも撮った方が良いですよ!』と医者に言われるも」「医者は興奮していて、自分の骨折した方の足を思いっ切り踏んでいた」という佐渡の話に、「私より面白い話してどうしまんのん?」とつぶやく。

一方の香寿たつきは、十八番である「すみれの花咲く頃」を歌って踊る。ちなみに佐渡裕は、昨年、コロナ禍を乗り切るために「すみれの花咲く頃」の歌声映像や音声を募集して、合唱作品を作り上げている


「メリー・ウィドウ」の「ダニロの登場の歌」は、ショスタコーヴィチが交響曲第7番「レニングラード」の第1楽章の「戦争の主題」の一部に取り入れられているとされる。「メリー・ウィドウ」はヒトラーが好んだオペレッタとして有名で、ショスタコーヴィチがヒトラーを揶揄する意味で取り入れたのではないかとする説もある。


本編終了後におまけがあり、まずレハールのワルツ「金と銀」抜粋に合わせて、高岸と吉岡がパ・ド・ドゥを行い、その後に「メリー・ウィドウ」のハイライトが上演される。最後はステージ上に登場した佐渡が「さて女というものは」を歌い、文枝がPACオーケストラを指揮して伴奏を行うなど、遊び心に溢れた上演となった。

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2021年6月13日 (日)

NHKプレミアムシアター「プライド」 2011.2.6

2011年2月6日視聴

録画しておいた、NHKプレミアムシアター「プライド」を観る。一条ゆかりの少女マンガを、大石静の脚本で舞台化。演出は寺﨑秀臣。音楽:佐橋俊彦。
笹本玲奈、新妻聖子、佐々木喜英、鈴木一真による四人芝居である。2010年12月、東京のシアター・クリエでの収録。

笹本玲奈、新妻聖子という、若手を代表するミュージカル俳優を起用しているだけに歌は抜群。オリジナルの音楽やオペラの曲以外にも、THE BOOMの「島唄」、エディット・ピアフの「愛の賛歌」、童謡「故郷」、ドヴォルザークの歌曲「我が母の教え給いし歌」などが歌われていて、いずれも効果的である。


売れっ子ソプラノ歌手だった母を持つサラブレットで、三田音楽大学生の麻見史緒(笹本玲奈)と、実家が貧しく苦学しながら立川音楽大学に通う緑川萌(新妻聖子)はオペラ・コンクールの決勝で争うことに。本番直前、ドレスが切れていることに気付く萌。史緒はドレスを貸そうかと提案するが、萌は反発。ついでに史緒の母親が史緒をかばって交通事故で亡くなったことを告げる。そのことを初めて知った史緒は本番で声が出ず、優勝は萌に輝く。

オペラのコンサートの主催者であるクィーン・レコードの副社長である神野隆(鈴木一真)は優勝の特典であるミラノ留学を獲得した萌を祝福する一方で、史緒には将来自分と結婚することを前提にウィーン留学を持ちかける。

一方、史緒の伴奏ピアニストである池之端蘭丸(佐々木喜英)は、史緒と萌と三人でポピュラーソングを歌うことを思いついていた。

優勝した萌だが、お金はなく、大学の学費も払えていないという状態。そこで萌は神野にバー「プリマドンナ」で相談。神野は「プリマドンナ」の歌い手が先月辞めたので、ここのシンガーになればいいと提案。「プリマドンナ」で女装してピアニストをやっている蘭丸の伴奏で、「島唄」を歌う。神野は採用は間違いなしというが、実は史緒が「プリマドンナ」の歌い手として入っていて……


少女マンガが原作だけに、セリフなどはかなりクサイが、そこは大石静の脚本だけにしっかりとした構造の作品を提供してくれる。ドロドロとした女の情念と、歌っている時の心の通い合いの描写は見事だ。演じ手達も大袈裟にならない程度に力の籠もった演技を見せていて、上質のエンターテインメントに仕上がっている。

笹本玲奈のさらりとした甘い声と、新妻聖子の芯のある凜とした歌声の対比が見事な二重唱は特に聴き物である。

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2021年2月26日 (金)

劇団音乃屋オンライン公演 音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」(文字のみ)

2021年2月23日

劇団音乃屋のオンライン公演、音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」を視聴。静岡市清水区(旧静岡県清水市)の曹洞宗庵原山(あんげんざん)一乗寺の本堂で収録されたものである。静岡市清水区の三保の松原を始め、日本各地に残る羽衣伝説を題材にした「家族みんなで楽しめる音楽劇」である。宮城聰が芸術監督を務めるSPAC所属の女優で、劇団音乃屋主宰でもある関根淳子の作・演出、天女役。劇団大樹主宰で大蔵流狂言方の川野誠一の伯良(漁師。川野誠一は私立大分高校卒とのことなので、財前直見の後輩、森七菜の先輩となるようである)。新保有生(しんぼ・ありあ。苗字から察するに、先祖がご近所さんだった可能性もある)の作曲・演奏(三味線、篠笛、能管)での上演である。冒頭に一乗寺住職からの挨拶があり、劇団音乃屋主宰の関根淳子からの挨拶と新保有生の演奏が特典映像として収められている。

全国各地に存在する「羽衣伝説」であるが、三保の松原のそばにある御穂神社には天女のものとされる羽衣が今に伝わっている。
羽衣伝説は様々な芸能の素材となっているが、歌舞伎舞踊の「松廼羽衣(まつのはごろも)」が中村勘九郎・七之助の兄弟により、ロームシアター京都メインホールで上演された時には、上演前に行われた芸談で、「静岡公演の昼の部と夜の部の間に三保の松原と羽衣を見に行った」という話をしており、「残っているんなら切って与えたんだから、それを演出に取り入れよう」ということで、夜の部から急遽羽衣を切るという演出を加えたという話をしていたのを覚えている。

三保の松原は風光明媚な地として日本中に知られているが、そこから眺める富士山の美しさでも知られている。富士山は休火山で、今は噴煙は上がっていないが、噴火していた時代もあり、空へとたなびく白煙が天界へと続く羽衣に見立てられたことは想像に難くない。

新保有生による冴え冴えとした邦楽器の音が奏でられる中、まず川野誠一演じる伯良が狂言の発声と所作と様式で状況を説明して松に掛かった羽衣を見つけ、次いで天女役の関根淳子が現れて、返して欲しいと謡の発声で話し掛ける。邦楽を用いることで郷愁や哀愁が自ずから漂う。「舞を行うので衣を返して欲しい」と頼まれた伯良は「嘘偽りではないか」と疑うが、天女は「天に偽りなきものを」と言い、羽衣を纏っての舞を披露する。もちろん嘘ではない、嘘ではないが「芸術とは最も美しい嘘のことである」というドビュッシーの言葉が浮かぶ。天女は天界の人(正確にいうと人ではないが)なので神通力が使えるはずなのであるが、無理に衣を奪い返そうとせず、舞を披露することで羽衣を取り返す。このあたりが、芸能に生きる人々の「舞こそおのが神通力なれ」という心意気であり、今も受け継がれているように思える(伝承での「羽衣」は舞を披露したりはせず、夫婦となった後に天上へと帰ったり、地上に残ったりするパターンが多い。舞によって羽衣を取り返すのは伝世阿弥の謡曲「羽衣」以降である)。
三保の松原を舞台にした「羽衣」作品群には、天女への愛着のみならず、霊峰と仰がれ神格化された富士山(寿命を持った女神である「木花開耶姫=浅間神」に見立てられた)とそこから上る白煙を通した天界への憧れが、背後に隠されていると思われる。

関根淳子と川野誠一の演技と動きも寺院で上演されるに相応しい雅趣がある。現代劇の発声ではないので、セリフが耳に馴染みにくい方もいらっしゃるかも知れないが、日本語字幕付きのバージョンがあったり、英語字幕付きのバージョンがあったり、目の不自由な方のための解説副音声付きのものがあったりと、バリアフリー対応の公演となっている。

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2021年2月 3日 (水)

コンサートの記(690) びわ湖ホール オペラへの招待 モーツァルト作曲 歌劇「魔笛」 阪哲朗指揮大阪交響楽団ほか

2021年1月30日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、「びわ湖ホール オペラへの招待」 モーツァルト作曲 歌劇「魔笛」を観る。初心者にも配慮した良質のオペラを提供し続けている「びわ湖ホール オペラへの招待」。客席に子ども達の姿も多く、企画としても成功している。今回は、オペラの中でも一二を争う人気作「魔笛」の上演である。元々はオペラではなく市民向けのジングシュピール(音楽劇)として書かれたものだが、最晩年(といってもまだ三十代半ばだが)の円熟期を迎えたモーツァルトが庶民にも分かりやすい曲を書いたということもあって、名アリア揃いの傑作である。曲調もシリアスなものからコミカルなものまで幅広い。

指揮は阪哲朗。演奏は大阪交響楽団(コンサートマスター・林七奈)。日本語台本と演出は中村敬一が担う。日本語訳詞を手掛けたのは鈴木敬介。装置:増田寿子、衣装:村上まさあき。
ダブルキャストによる公演で、今日はA組が登場。実は、B組は夜の女王として人気ソプラノの森谷真理が出演したり、ザラストロをベテランの片桐直樹が務めていたりと、キャスト的には上なのだが、日程的にB組の回を観るのは無理であった。A組は全員、B組も森谷真理と片桐直樹以外は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーによるキャストとなっており、日本初の公共ホールの専属声楽家集団としてレベルは高い。日本語訳詞と日本語のセリフによる上演であり、日本人歌手の場合、演技のレッスンを余り受けていない場合も多いが、びわ湖ホール声楽アンサンブルは、その辺りもきちんとしており、上質とはいえないかも知れないが、一定のレベルに達した演技を見せてくれる。なお、今日明日と映像同時配信が有料で行われ、編集後のアーカイブのみでも購入出来る。

今日の出演は、松本治(ザラストロ)、清水徹太郎(タミーノ)、脇阪法子(夜の女王)、船越亜弥(パミーナ)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。パパゲーナ)、迎肇聡(むかい・ただとし。パパゲーノ)、坂東達也(モノスタトス)、市川敏雅(弁者)、宮城朝陽(みやぎ・あさひ。僧Ⅰ。タミーノ役のアンダースタディとしても入っている)、美代開太(みしろ・かいた。僧Ⅱ、武士Ⅱ)、山田知加(やまだ・ちか。侍女Ⅰ)、上木愛李(侍女Ⅱ)、藤居知佳子(侍女Ⅲ)、谷口耕平(武士Ⅰ)。合唱はアルト兼メゾ・ソプラノの阿部奈緒以外は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのソロ登録メンバーと客演の歌手が担う。3人の童子は、成人のソプラノ歌手が務めることも多いが、今回は大津児童合唱団所属の3人の女の子が出演する。

 

上演開始前に、演出の中村敬一によるお話がある。中村は、「魔笛」では、フリーメイソン同様、「3」という数がキーとなっているという話から始める。そして千円札に関するフリーメイソントリビアが語られる。千円札の肖像となっている野口英世の向かって右側の目、野口本人の視点からは左側の目が少し変だという話から入る。これは「真実の目」と呼ばれるもので、フリーメイソンの象徴にもなっているものだが、千円札に描かれた富士山にも実は仕掛けがあり、本栖湖に映っているのは実は逆さ富士ではなく、ノアの箱舟で有名なアララト山だという話もしていた。
「魔笛」の背景も語られ、先王の死により、分断が起こってしまったという話もする。
また魔笛がウィーンのリングの外にあるアン・デア・ウィーン劇場(ベートーヴェンの「運命」や「田園」が初演された劇場としても名高い)の前身となる劇場で上演され、観に来たのも貴族階級ではなく一般市民中心。貴族が観るオペラはイタリア語によるものだったが、「魔笛」は外国語を学んだことがない一般市民でもわかるようドイツ語で書かれている。今回の「魔笛」は日本語訳による上演だが、やはり一般向けに書かれたものだから、日本でやる時もわかりやすい日本語訳でやるのが正統という考え方のようである。
コロナ禍の最中であり、喋ったり歌ったりすると飛沫が5mぐらいは飛ぶというので、オーケストラピットから5m以上離れた通常より奥側での歌唱とし、歌手同士も手を握ったり抱き合ったりするシーンをなるべく減らしたソーシャルディスタンス版の演技と演出に変えたという話もしていた。

 

京都市生まれで京都市立芸術大学卒(指揮専修ではなく作曲専修の出身)である阪哲朗だが、これまでドイツでのオペラ指揮者の活動を優先させてきたため、関西で彼が指揮するオペラを聴く機会は余り多くない。
日本でも最もピリオド・アプローチによる演奏を積極的に行っている団体の一つである、山形交響楽団の常任指揮者でもある阪。そのためなのかどうかはわからないが、かなり徹底したピリオドによる演奏を展開。幕間にピットを覗いて確認したところ、管楽器はナチュラルタイプのものではなかったが、ティンパニはやはりバロックスタイルのものを採用しており、聴き慣れた「魔笛」とは大きく異なる清新な響きを生み出していた。オペラは指揮棒を使った方が歌手から見えやすいという定説があるが(ピエール・ブーレーズなどは、「そんなのは俗説だ」と一蹴している)、今日の阪はノンタクトでの指揮。びわ湖ホール中ホールはそれほど空間は大きくないので、指揮棒を使っても使わなくても余り変わりはないと思われる。指揮棒の話はともかくとして、長きに渡ってオペラ畑を歩んできただけに音運びは実に的確で、ツボの抑え方も巧みである。阪の音楽作りを聴くだけでも、びわ湖ホールに足を運ぶ価値がある。
関西のプロオーケストラのシェフは、コンサート指揮者が多いため、阪さんのようなオペラを得意とする人にももっと振って貰いたくなる。

アニメーションを多用した演出であり、序曲が始まると同時に、蜘蛛の巣のようなものや樹木などが背景に浮かぶ。やがて、「魔笛」の登場人物達の絵が浮かび上がるが、王様が死んでしまい、家臣達も消え去って、ザラストロと夜の女王の二人だけが残る。ザラストロの神殿は、ピラミッドやオベリスクが建っていてエジプト風。夜の女王の宮殿は、ヨーロッパ風にも見えるが、アラベスクがあるのでアラビア風のようでもあり、蓮の花などが出てくるため、更に東方の印象も受ける。やがて樹木の葉が落ちて冬枯れとなり。右側が赤、左側が青の背景となる。「魔笛」において重要な試練となる「火」と「水」のイメージである。やがて稲妻が走って大木が二つに割れ、ザラストロと夜の女王の決別が暗示される。王の死以外に何か原因があるのかどうかは分からないが、とにかくザラストロと夜の女王は仲違いをしたようである。

タミーノが大蛇に襲われるファーストシーンでも大蛇はアニメーションで登場する。夜の女王の侍女達により、大蛇は退治されるのだが、侍女達は大蛇のことを「オロチ」と日本古来の読み方をする。実はタミーノの衣装については「狩衣を着ている」という作者であるシカネイダーの記述があり、タミーノ日本人説があったりするのだが、今日は「オロチ」以外に特に和のテイストを入れることはなかった。
侍女達は椅子を三脚持ってくるのだが、それぞれに、「日輪」「星」「三日月」のマークが入っている。三日月はイスラム教の重要なモチーフで、その後の背景の映像にも登場するが、これはやはり終盤の「異なるものへの寛容さ」という演出に絡んでいる可能性がある。

ザラストロは、ツァラトゥストラに由来する名前であり、ツァラトゥストラとはゾロアスター教のことである。火を神聖視するゾロアスター教であるが、水も重要視され、火と水の試練が実際に説かれていたりする。実はこのモチーフはそのまま仏教にも取り入れられており、浄土への道を指す「二河白道(にがびゃくどう)」という言葉になっている。火と水との間に白い小さな道があり、阿弥陀如来が浄土へと招き、釈迦如来が此岸から白道を進むよう促すというものである。ということで、舞台を日本に置き換えることも可能であり、実際に千葉市の市民オペラで舞台を日本にした「魔笛」が上演されたこともある(千葉テレビで放送されたダイジェストを見ただけで、実演に接したわけではない)。

主筋に変更はないが、ザラストロが夜の女王達を倒して終わりではなく、最後の合唱には夜の女王や侍女達も登場し、音楽によってもたらされた和解が仄めかされている。対立を超えるのは、魔法の笛や鈴であり、引き離されたものが音楽によって再び結びつけられる。ベートーヴェンの第九でもそうだが、この時代における最新の思想では、フランス革命に繋がる「自由・平等・博愛」が重視されており、ベートーヴェンもモーツァルトも音楽こそが新たなる世界で大きな働きをすると信じていた、いや、それ以上に知り抜いていたはずである。

「魔笛」に関しては、「ザラストロが嫌い」や「夜の女王が善から悪になることに矛盾を感じる」という声が聞かれたりもするが、「どちらかが善でどちらかが悪」という単純な構図ではないように思われる。モーツァルトもベートーヴェンも、そして「魔笛」の台本を書いて初演でパパゲーノを演じたシカネイダーもフリーメイソンのメンバーであるが、フリーメイソンは思想的には当時の先端を行っており、「自由・平等・博愛」は最も重要視されていた。一方的な勧善懲悪は、当時の精神から見ても時代遅れだったかも知れない。

ザラストロが課した試練の一つに「沈黙」があるが、これはコロナ禍の今に響くものである。会話が最も危険とされるため、劇場や電車内などでのアナウンスにも「会話はお控え下さい」という文言が入っている。私などは沈黙が全く苦にならない質だが、世の中には人と話せないのが苦痛という人も多く、「沈黙」の試練が今現在起こっているということになる。

ただ一方で、スパルタ式では全くない道も示されており、試練から脱落したパパゲーノはパパゲーナを得ている(仏教における聖道門と浄土門のようなものかも知れない)。モーツァルトは、実は思想関連についてはかなり詳しい人であり、自由を重んじていた。精神論に凝り固まるというのも、一種の毒で忌避すべきことである。

「昼と夜」、「光と影」、「男と女」、「情と知」、「自由と試練」、「老いと若さ」など様々な対比があるのが「魔笛」だが、音楽はそうした対比や対立を止揚するのではなくそのまま結びつけ、「そうしたもの」として肯定していく。
分かりやすいが奥深い、それが「魔笛」であり、モーツァルトの音楽である。

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2021年1月29日 (金)

観劇感想精選(382) 三谷幸喜 作・演出「コンフィダント・絆」

2007年5月10日 大阪・京橋のシアターBRAVA!にて観劇

大阪へ。京橋のシアターBRAVA!で、三谷幸喜:作・演出の「コンフィダント・絆」を観るためだ。

「コンフィダント・絆」は、19世紀末のパリ画壇を描いた作品。フィンセント・ファン・ゴッホとポール・ゴーギャンがクロード・エミール・シュフネッケルという売れない画家を通して知り合いだったことを手がかりに、もし当時、パリに住む画家達が共同のアトリエを持っていたら、という設定で書かれた劇である。登場人物は、ゴッホとゴーギャンとシュフネッケルの3人に加え、本当は世代が異なるが、中井貴一に演じさせたい画家としてジョルジュ・スーラを加え、更に男だけの芝居にはしたくなかったということで、画のモデルとしてルイーズという架空の女性(堀内敬子)を入れ、5人による芝居とした。
出演は、中井貴一、寺脇康文、相島一之、堀内敬子、生瀬勝久。音楽&ピアノ生演奏:荻野清子。
生瀬勝久がゴッホを、寺脇康文がゴーギャンを、相島一之がシュフネッケルを演じる。

スーラが陰で「点々」(スーラは点描による画風が特徴である)とあだ名されていたり、ゴッホは観たものしか書けないが、とにかく良く観るという性質を付け加えるなど、画家の群像劇として上手く設計されている。そして最後にシュフネッケルの悲劇が待ち受けている。

良く出来た芝居であった。笑えたし、感動できる要素も盛り込まれていた(私自身は感動はしなかった)。三谷幸喜本人が二幕目の頭に登場してボタン式のクロマチック・アコーディオンを奏でる(大阪公演ということで、冒頭には「六甲おろし」のフレーズも挿入。笑いを取る)というサービスもあった。
ただ、三谷の芝居を何本も観ているためか、類型化、そして類型から逃れようというパターンまで看取出来てしまった。「三谷ならこうするだろうな」と思った通りになる。
こういう時は、自分が芝居好きであることが呪わしくなる。

20代前半の頃、BSで放送された三谷作の芝居をビデオに録画して何度も何度も観た。それはそれは楽しかった。だが、そうやって楽しみすぎてしまったために、今では三谷の芝居に対して新鮮な気持ちで臨むことが出来なくなったようだ。
三谷幸喜という人間は一人しかいない。一人の人間が長いこと同じ仕事を続けていて類型化から逃れることは難しい。一人の力で生み出せるものは実はそう多くはないということなのだろう。歴史上に残る芸術家達も、そのほとんどが類型化や自己模倣と戦ってきたのだ。

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2020年12月29日 (火)

2346月日(26) 東京芸術劇場オンライン「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦――芸術と矯正の融合を目指して――」

2020年12月21日

東京芸術劇場のオンラインイベント、「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦 ――芸術と矯正の融合を目指して――」を視聴。約3時間の長丁場である。事前申し込み制で、当初定員は先着100名であったが、申し込みが多かったため、150名に増えている。

事前に、稽古やワークショップの様子や、本番のダイジェスト映像、資料などにアクセスするURLが書かれたメールが送られて来ており、それに目を通すことで、内容がわかりやすくなるようになっている。

ドイツで刑務所の受刑者に演技指導をして上演するという活動を続けているアウフブルッフ(ドイツ語で「出発」という意味)の芸術監督で舞台美術家のホルガー・ズィルベによるレクチャーと、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」にも出演していた毛利真弓(同志社大学心理学部准教授、元官民協働刑務所民間臨床心理士)による日本の刑務所で矯正のために行われている治療共同体(Therapeutic Community。頭文字を取ってTCと呼ばれる)の活動報告、そしてホルガー・ズィルベと毛利真弓の対談「矯正教育による芸術の可能性」からなるオンラインイベントである。モデレーターは、明治大学国際日本学部教授の萩原健(専門はドイツの演劇及びパフォーマンスと日本の演劇及びパフォーマンス)。

アウフブルッフは、刑務所演劇を専門に行っている団体ではなく、フリーのプロ演劇カンパニーだそうで、1996年に結成。翌1997年から刑務所演劇に取り組みようになったという。

アウフブルッフが本拠地を置くベルリン都市州は大都市ということもあって犯罪率も高めだが、「移民が多い」「教育水準の低い人が多い」「再犯率が高い」という特徴があるそうで、刑務所演劇によって再犯率が低くなればという狙いもあったようだが、演劇を行ったことで再犯率に変化があったかどうかの立証は不可能であるため、統計も取られていないようである。
「移民で教育水準が低い」と悪条件が重なった場合はドイツ語も喋れないため、犯罪に手を出す確率は高くなることは容易に想像される。また職業訓練も上手く受けられない場合も多いようだ。そうした状態にある人に芸術でのアプローチを試みたのが、ズィルベ率いるアウフブルッフである。アウフブルッフは、ドイツの他にもロシアやチリの刑務所での上演も行っているようだ。

刑務所演劇の意義として、刑務所のマイナスイメージに歯止めをかけることが挙げられる。受刑者以外で刑務所に入ったことのある人は余り多くないため、その中やそこから出てきた人に対するイメージはとにかく悪い。ただ、刑務所で受刑者が演じる演劇を観て貰うことで、両者を隔てる壁が少しだけ低くなるような効果は生まれる。少なくとも「断固拒絶すべきスティグマ」ではなくなるようである。
1997年にドイツ最大の男性刑務所であるテーゲル司法行刑施設での、「石と肉」という作品で上演が始まり、今に到るまでベルリンの全ての刑務所で公演を行ったほか、外部プロジェクトとして元受刑者で今は社会に出ている人などをキャスティングし、プロの俳優や市民と共同で上演を行う混成アンサンブルによる上演が、博物館、裁判所、教会、ベルリンの壁記念碑の前などで行われているそうである。

ちなみに小さい刑務所の場合は上演を行うスペースがないため、代わりに演劇のワークショップなどを行っているという。

キャストであるが、刑務所側が止めた場合(暴行罪や暴力癖のある人)を除くと希望者がトレーニングを受けて本番に臨むというスタイルのようである。アウフブルッフ側は敢えて受刑者の知識は入れないようにしており、罪状なども一切知らないで稽古を進めるようだ。最初は1回4時間の稽古を4~6回行い、その先に行きたい希望者向けに計300時間ほどの稽古を行うという。刑務作業以外の自由時間は全て稽古に費やす必要がある。無断欠席を3回行った場合は脱落者と見做されるそうである。

ラップや合唱など、コーラスを使った演出も特徴で(演出は全てペーター・アタナソフが行っている)、その他にもセリフの稽古、書き方のワークショップなどが音楽の練習と並行して行われる。本番は6回から14回ほど、キャパは75人から250人までだそうである。受刑者には芸術に触れた経験も興味もない人も多いため、最初は暇つぶしのために参加したり、人から勧められて参加したりと、前向きな理由で加わる人はほとんどいないそうだが、稽古を重ねるうちに社会性が高まる人もおり、更に本番では観客からの拍手を受けるのだが、それが生まれて初めての称賛だったという人も多いそうで、「人生で初めて何かを最後までやり遂げた」と感激の表情を浮かべる受刑者もかなりの数に上るそうである。これにより自信を付け、自己肯定感を得て再犯率も減り……、だといいのだが先に書いたとおり、再犯率低下に演劇が貢献しているのかどうかまではわからないようである。
ただ、刑務所に入るまでに抱き続けていた劣等感は、仮にたった一時であったとしても振り払えるため、何らかの形での再生に繋がっている可能性は否定出来ないように思う。
稽古の終わりに、毎回、キャスト全員で反省会を行い、各々の意見を述べるのだが、これも受刑者がそれまでの人生で余りやってこなかったことであり、人間関係と他者の存在とその視点を知るという意味では有意義なように思われる。

ズィルベによると犯罪者はいずれ社会復帰することになるため、社会の側も刑務所演劇を観ることで受刑者に対する新たな見方を得て彼らを受け入れるための準備をすることが出来る。そうした意味での刑務所演劇の可能性も語られた。

 

毛利真弓による刑務所の報告。「プリズン・サークル」の舞台となった島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の刑務所で臨床心理士をしていた毛利だが、島根あさひ社会復帰促進センターでTCを受けた人の再犯率は9.5%と、TCを受けていない人達の19.6%より優位に低かったそうである。
日本の刑務所は、あくまで収監し、懲役を行うのが主目的で、社会復帰のための教育は遅れているのが現状であり、職業訓練などはあるが、再犯防止のための教育策は基本、取られてこなかった。それでも2006年から少しだけ風向きが変わっているという。

島根あさひ社会復帰促進センターでは、アミティという海外で考え出されたプログラムを使い、イメージトレーニングや加害者と被害者を一人二役で演じる自己内対話を経て他者の視点を得る訓練、また受刑者が受刑者に教えるというシステムもあり、他者と接する機会を多く設けている。これまでの日本の刑務所は他者と触れ合うこと自体が禁じられていることも多かったため、画期的なことであったといえる。

島根あさひ社会復帰促進センターは、初犯の男性受刑者のみが収監されるが、それまでの人生で他者と向き合う機会がほとんどなかったという人も少なくなく、「他者を通して自己と向き合う」「生身の人間のリアルに触れる」ことを目標としたトレーニングが組まれているようである。

ホルガー・ズィルベが島根あさひ社会復帰促進センターの情報を得て、「社会と繋がっていないように感じる」と述べたが、やはり日本の場合、受刑者が社会と直接的な繋がりを持つのは難しいだろう。刑務所演劇の場合は、目の前で受刑者が演技を行い、終演後に観客と受刑者が会話を交わすことも許されているようだが、日本の場合は受刑者という存在に対するスティグマがかなり強いため、少なくともドイツと同様というわけにはいかないように思う。

「犯罪の加害者と上演をしているが、被害者とはどうなんだ?」という視聴者からの質問が来ていたが、被害者とは接点が持てないそうで、まず被害者同士で纏まるということもなく、接触も禁じられているため、手を打とうにも打てないようである。加害者が出演している芝居を観た被害者から一度連絡が来たことがあったそうだが、その一例だけのようである。

刑務所演劇も稽古や上演に到るまで、何ヶ月にも渡って行政と話し合いを持ったそうだが、最終的には「やってやる!」というズィルベの意志が勝ったそうで、毛利も「日本では(刑務所演劇は)難しい」ということを認めながら、「違いを超える」必要性を説いていた。

折しも、日本では第九の季節である。シラーとベートーヴェンが唱えたように「引き裂かれていたものが再び結び合わされる」力にもし演劇がなれるとしたのなら、それに携わる者としてはこの上ない喜びである。

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2020年12月 6日 (日)

観劇感想精選(374) 「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演2020

2020年11月29日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演を観る。
2年に1度のペースで春秋座で公演が行われている「琉球舞踊と組踊」。今回の琉球舞踊は、琉球王朝時代ではなく、廃藩置県や琉球処分による日本の沖縄県となった後で生まれた芸能が披露される。

まず、国立劇場おきなわの芸術監督である嘉数道彦が、ウチナーグチによる挨拶を行い、それをヤマトグチに直す。今年は平年よりも気温は高めだが、「やはり京都は寒い」とのことである。
そして沖縄芸能の歴史について話す。琉球舞踊は、元々は宮中の祝賀や年中行事で披露されていたものであり、庶民は観る機会がほとんどなかったのだが、王朝時代が終わり、沖縄県になると、上演の場を芝居小屋に移すことになる。ただ王族や貴族向けの内容であったため洗練され過ぎている上に一定の教養がないとわからないということで、客足が絶えるようになってしまう。そこで生み出されたのが雑踊(ぞうおどり)というものであり、庶民を主人公とし、市井の風俗を描いた平易な作風であるため人気を博するようになった。今回は前半に雑踊作品が並んでいる。

第一部・琉球舞踊。演目は、「鳩間節」(踊り手:田口博章)、「むんじゅる」(踊り手:山城亜矢乃)、「金細工(かんぜーくー)」(指導:宮城能鳳。踊り手:石川直也、新垣悟、阿嘉修)、「木花風(むとぅはなふう)」(踊り手:宮城能鳳)、舞踊喜劇「戻り駕篭」(踊り手:金城真次、玉城匠、山城亜矢乃)。日本語(というと変かも知れないが、いわゆる大和言葉)字幕付きでの上演である。

地謡は、西江喜春(にしえ・きしゅん。地謡指導兼)、花城英樹、玉城和樹(たましろ・かずき)、和田信一(わだ・のぶかず。以上、歌三線)、安慶名久美子(あげな・くみこ。箏)、宮城英夫(笛)、平良大(たいら・だい。胡弓)、久志大樹(太鼓)。

 

日本舞踊もそうだが、琉球舞踊も身体全体を大きく見せているが、手や足は実は最短距離を通っており、無駄がない。演者は全て「最高賞受賞」「新人賞受賞」「師範」など華麗な経歴や肩書きを誇る人々で、沖縄の優れた芸能を堪能することが出来る。

沖縄県になってから生まれた雑踊ということで日本本土の芸能が積極的に取り入れられており、空手、かっぽれ、チャンバラ、狂言などお馴染みの芸が登場する。

「金細工(かんぜーくー)」は、芝居仕立てである。金細工(鍛冶屋のことだそうだ)の加那兄は、遊女の真牛を一月も連れ回してる。本当は身請けしたいのだが金がない。ということで商売道具を売ろうとするのだが上手くいかず、身をはかなんで身投げしようとしたところに左官の長兵衛が、とはならない。真牛が揚げ代は自分で払うということで、ハッピーエンドへと向かっていくという話である。

「本花風(むとぅはなふう)」は、非常にゆったりとした踊りであり、前半の演目の中では異色である。踊り手の宮城能鳳(みやぎ・のうほう)は人間国宝指定保持者であり、今回の「本花風」の振付も手掛けている。男との別れを描いた作品であり、さりげない仕草に哀感がにじむ。
登場する際も退場の際も同じようなゆっくりとした足取りだが、前者は別れへの怖れ、後者は去りがたき未練にように見え、全体をかなり緻密に練り上げているという印象を受ける。

舞踊喜歌劇「戻り駕篭」は歌舞伎舞踊「戻籠」の一部を原作に、今日も出演する玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)が創作した作品で、タイトル通りの舞踊劇となっている。駕篭かき二人が、美女を乗せた駕篭を走らせているのだが、やがて取り合いとなる。駕篭かき二人は杖を刀代わりにチャンバラを行うなど外連味も十分。この作品では、踊り手がセリフを発し、地謡が同じ言葉を返すという趣向が特徴となっている。美女だと思っていたら実は……、という展開は狂言の「吹取」や「業平餅」と同様である。

 

第二部・組踊。演目は「二童敵討(にどうてきうち)」。まずは嘉数道彦による解説がある。タイトル通り、二人の童が敵を討つ話なのだが、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が、1719年に中国(当時は清王朝)からの冊封使をもてなすために創作した最初の組踊二編のうちの一編だそうである(もう一編は「道成寺」の翻案である「執心鐘入」)。昨年は組踊の初演から300年ということで琉球芸能にとって特別な年となったようだ。
組踊は、歌舞劇の一種であるが、琉球オペラや琉球ミュージカルとも言われており、地謡に特徴があるという。
玉城朝薫は、当時琉球が二重朝貢として使者を送っていた薩摩、更には江戸にも滞在し、能や狂言、歌舞伎などに触れたことがあるそうで、組踊創作の際に影響を受けたと思われる。

冊封使をもてなす場で上演されるということで、往時の組踊は士族の男子のみが演じることを許されていたそうである。

兄弟が父親の敵を討つという話であり、「曾我兄弟」を思い起こさせるが、「二童敵討」に登場する鶴松と亀千代の年齢はそれぞれ13歳と12歳で、曾我兄弟よりも更に若い。

出演は、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ。あまおへ)、田口博章(鶴松)、金城真次(きんじょう・しんじ。亀千代)、宮城能鳳(母)、石川直也(供一)、新垣悟(あらかき・さとる。供二)、阿嘉修(あか・おさむ。供三)、玉城匠(たまき・たくみ。きやうちやこ持ち)。立方指導は宮城能鳳。

勝連の阿麻和利(あまおへ)は、中城(なかぐすく)の護佐丸氏の一族を滅ぼし、首里城に攻め込む準備をしているが、吉日だというので、家臣の者を連れて野原へ遊びに出掛ける。
あまおへが一族根絶やしにしたと思っていた護佐丸氏だが、13歳になる鶴松と12歳の亀千代は生きており、「親の敵を討ち取れば、二人がともに死んだとしても国がある限りは名が残る」と父を殺したあまおへに復讐する機会を窺っていた。

自己紹介などの説明や、ちょっとしたやり取りなどは、「ドミファソシド」の琉球音階を上がり下がりするだけの単純な節回しで行われるが、表に出ない心の声は、地謡がコブシたっぷりに歌い上げ、メロディーをなぞる胡弓が哀切な響きを奏でる。
鶴松、亀千代が母と対面する場面では、二人の決意と、母親の我が子を心配する気持ちが地謡で切々と歌われる。

鶴松と亀千代は、あまおへが家臣と遊んでいる野原を訪れ、自慢の舞を行い始める。二人の舞はすぐにあまおへの目にとまり、あまおへは家臣に命じて二人を呼び寄せ、目の前で舞うよう命令する。
鶴松と亀千代は、最初の内はそうでもなかったが、次第にあまおへの顔から目を逸らさずに舞うようになり、緊迫感が増す。
だが、あまおへは油断しているのか、二人の視線には気がつかず、褒美として軍配、大小の刀、羽織などを与え、更に家臣達を下がらせ、鶴松と亀千代の踊りを真似て上機嫌。そこで二人は名乗りを上げ、見事、あまおへを討ち果たすのだが、殺害の場面はギリシャ悲劇同様、見えない場所で行われる。冊封使歓待の劇で殺害シーンを見せるというのは、やはり憚られたのだろうか。

酒宴での踊り子に化けての暗殺は日本武尊の熊襲襲撃伝説に繋がる。
兄弟による仇討ちや、酒宴の場での殺害などは演劇において決して珍しい場面ではないが、「曾我兄弟の仇討ち」や日本武尊の話を朝薫が日本滞在中に知り、自作に取り入れた可能性は高い。オリジナリティが尊重されるのはもっとずっと後の時代であり、往時は「オリジナリティ」は、「勝手な思いつき」でしかなく、観る方は「なんでお前の思いつきにつき合わねばならんのだ」となる方が普通であったと思われる。実際に起こった歴史上の出来事や古くから伝わる話の方が迫真性があるという考え方は確かに納得のいくものである。

嘉数道彦の話によると、「二童敵討」は、中国からの冊封使に見せるということで、中国で盛んな儒教の要素、「君に忠、親に孝」を取り入れているとのことだったが、要は「勧善懲悪」の面白さであり、日本の時代劇と同じ要素で出来ている。「勧善懲悪もの」のテレビ時代劇は今は数がかなり少なくなってしまっているが、BSやCSなどでは流されており、また「『半沢直樹』は時代劇だ」という言葉が聞こえてくるなど、現代劇であっても人々は勧善懲悪の物語を求めている。明らかな悪が退治される話に胸がすくというのは、世界中どこへいってもそう変わらないだろう。

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