カテゴリー「音楽劇」の23件の記事

2019年11月17日 (日)

観劇感想精選(326) こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」2019

2019年11月8日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」を観る。井上ひさしの劇作家としての遺作の上演。2010年に初演され、2012年に再演。それから久しぶりの再々演となる。演出は初演から引き続き栗山民也が手掛け、音楽&ピアノ演奏も小曽根真が担当する。出演:井上芳雄、高畑淳子、上白石萌音、神野美鈴、山本龍二、土屋佑壱。上白石萌音は石原さとみからのバトンタッチ、土屋佑壱は山崎一から役を引き継いでいるが、それ以外は初演時と同じキャストでの上演である。

「組曲虐殺」は、プロレタリア小説家として最も有名な人物と思われる小林多喜二を主人公とした音楽劇である。リーマンショック後の2010年頃は一大不況が全世界を覆っており、イタリア初とされるプレカリアートという言葉が紹介されるなどプロレタリア文学にも光が当たっていた時期で、「蟹工船」が映画化されたりもしている。

昭和5年(1930)5月下旬から昭和8(1933)年2月下旬までの2年9ヶ月が断続的に描かれる。

まず、小林多喜二が伯父が経営するパン屋で育ったことが紹介される。小林多喜二は小学校を皆勤賞の上、成績も最優秀ということで伯父に見込まれ、住み込みでパン屋を手伝いながら小樽商業学校と小樽高等商業学校(現在の国立大学法人小樽商科大学)を卒業。北海道拓殖銀行(1997年に経営破綻し、山一証券とともにバブル崩壊後不況の象徴となった)に勤務し、銀行員として働く傍ら、「蟹工船」などのプロレタリア小説を発表し、高く評価されたが、そのことが原因で拓銀を追われている。

小林多喜二の伯父が経営するパン屋(小林三ツ星パン)は最初は「小樽で一番のパン屋」と歌われるのだが、その後「北海道一のパン屋」に歌詞が変わり、最後は焼失かとしての小林多喜二の下地を生んだということで「日本で一番のパン屋」と歌われる。この小さいところから徐々に拡大していくセリフはその後も何度か登場する。
パン屋では代用パンが、安いにも関わらず売れない。小樽商業学校時代の小林多喜二(井上芳雄)は、誰かが「代用パンを買う金をくすねている」からだと考える。それが後の巨大資本や官僚批判へと繋がっていく。

多喜二は、酌婦(体を売る接待係)の田口瀧子(上白石萌音)と出会い、引き取ることにするのだが、「奥さんと許嫁の間」という中途半端なポジションであり、多喜二は奥手なので、「キスはしていて抱き合ってもいるが、生まれたままの状態でではない」というこれまた中途半端な付き合い方をしている。結局、瀧子とは籍を入れないままで終わった。

場面は大阪市の大阪府警島之内署の取調室に変わる。多喜二は大阪で講演を行った夜に、日本共産党への資金提供容疑で逮捕されたのだ。黙秘を続けていた多喜二だが、話が瀧子や伯父のことに及ぶやうっかり話し出してしまう。

豊多摩警察署の独房で、多喜二は自らの無力さを嘆くブルースを歌う(「独房からのラヴソング」)。

その後、多喜二は監視役の特高刑事である古橋(山本龍二)と山本(土屋佑壱)が杉並町馬橋の多喜二の借家に下宿するという形での不思議な生活を送る。多喜二の姉である佐藤チマ(高畑淳子)や瀧子も馬橋の家を訪ねてくる。瀧子は山野美容学校などに通い、美容学校の助手となっていたが、収入の問題で辞め、今は給仕をしている。瀧子はパーマネントの技術を身につけたのだが、当時、パーマネントの機械は日本に3台しかないということで、その腕を生かせずにいた。多喜二はそのことを嘆くのだが、これは「独房からのラヴソング」にも呼応している。多喜二は結局は同じ無産者活動家の伊藤ふじ子(神野美鈴)と結婚するのだが、それは瀧子を危険に巻き込みたくなかったからであり、不思議な距離の愛情は終生続くことになる。

酌婦に身を落とすしかなかった瀧子、美術学校に通い舞台美術家などを経て活動家となるふじ子など搾取される側にいる階級の女性が登場するが、憎むべき特高の刑事達も、上の命令に「犬」として従うしかないという苦みを歌い上げており、やはり下層にいる哀れむべき人々として描かれている。そこに井上独特の視点があるように思われる。

日本共産党員であった井上の政治観については、ここで私が書いても余り意味のないことであり、そうした面から語ることの出来る他の多くに人に任せた方が良いように思う。私がこの劇から感じたのは、「書くこと」「イメージすること」の重要性だ。多喜二は「体で書く」重要性を特高の山本に伝える。多くの人は手や頭や体の一部で文章を書くのだが、大切なのは体全体で書くことであり、体全体で書かれたものは、書き手そのものとなって残っていく。
小林多喜二は若くして虐殺されたが、「蟹工船」を始めとする作品は今も読まれ続け、時にはブームも巻き起こす。そのことで私達は小林多喜二その人に触れることも出来る。そして井上ひさしが全身で書いたこの戯曲も、井上が亡くなって間もなく10年が経とうとしている今も上演され、井上本人の肉声に触れるかのような体験を可能としている。

 

ミュージカルトップスターの井上芳雄の歌声が素晴らしいのは勿論だが、瀧子を演じた上白石萌音の歌声も予想を遙かに凌ぐ凄さ。彼女の声凄さは、耳にではなく心に直接染みこんでくることである。稀な歌唱力の持ち主とみていいだろう。ミュージカル映画「舞妓はレディ」の小春役で注目を浴びた上白石萌音。実は「舞妓はレディ」はミュージカル化されて博多座で上演されており、私も観に出掛けたのだが、その際は唯月ふうかが小春を演じている。唯月ふうかも若手ミュージカル女優としてはトップクラスなのだが、そのため却って「ああ、上白石萌音は別格なんだな」と実感することになった。

小曽根真のピアノと音楽も多彩な表情で芝居を彩る。クルト・ワイル風のワルツが登場したりするが、実は井上ひさしが「ロマンス」でクルト・ワイルの音楽に歌詞を付けていたそうで、その影響もあるのかも知れない。

井上ひさし本人が、これが最後の戯曲になるとわかっていたのかどうかは不明である。だが、井上の最後の戯曲らしい仕上がりとなったのも事実である。
これは悲劇であるが、「思いが残っていればいつかきっと」という希望と「不滅と広がりの予感」を歌い上げる祝祭劇でもある。

Dsc_7887

| | コメント (0)

2019年11月 1日 (金)

観劇感想精選(324) 野田地図(NODA・MAP)第23回公演「『Q』 A Night At The Kabuki」

2019年10月24日 大阪・上本町の新歌舞伎座にて観劇

午後7時から、大阪・上本町の新歌舞伎座でNODA・MAPの第23回公演「『Q』 A Night At The Kabuki」を観る。作・演出・出演:野田秀樹。出演は、松たか子、上川隆也、広瀬すず、志尊淳、橋本さとし、小松和重、伊勢佳世、羽野晶紀、竹中直人ほか。音楽:QUEEN、サウンドデザイン:原摩利彦、衣装:ひびのこづえ。

野田秀樹がクイーンのアルバム「オペラ座の夜」にインスパイアされて作り上げたという舞台。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」に地獄といわれたシベリア抑留などを絡ませて物語は進む。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」とは異なり、生き延びたそれからの愁里愛(じゅりえ。松たか子)とそれからの瑯壬生(ろみお。上川隆也)が、30年前の自分達である源の愁里愛(広瀬すず)と平の瑯壬生(志尊淳)の悲劇を避けるために介入していく。

時は平安末期、源平の騒乱の最中である。源義仲(橋本さとし)が源氏の統領となり、壁一枚隔てた平氏の館と冷戦が続いている。そんな中、平清盛(竹中直人)の息子である平の瑯壬生と源頼朝の妹である源の愁里愛は、一目で互いに恋に落ちた。全ての悲劇の発端となる出会いを思い起こし、それからの愁里愛とそれからの瑯壬生は、共にかつての自分に入れ知恵をする。まるでダブル「シラノ・ド・ベルジュラック」のように。

戦後、シベリアに抑留されていたそれからの瑯壬生は、実は30年前、都に帰ることになった平の凡太郎(竹中直人二役)に尼になったそれからの愁里愛への手紙を託していた。だが、30年かけてようやく平の凡太郎から愁里愛へと手渡された手紙は白紙だった。凡太郎は都に帰ってこられた嬉しさで遊び倒し、愁里愛に手紙を渡すことを30年も忘れていたと語るが、それは実は嘘であることがわかる。それからの瑯壬生は、通常の手紙とは異なる形のメッセージを凡太郎に託していたのだが、凡太郎はその内容に気後れがして、30年もの間、渡すことを躊躇していたのだ。

30年前、二人が出会い、たった5日間の愛を交わし合った日々。都では源氏が裏で操る「名を捨テロリスト」達とそれに反抗する平氏の「拾うヒロイズム」による抗争が続いていた。源の愁里愛は、平の瑯壬生が平氏の御曹司であることを嘆き、「名を捨てて」と願い、つぶやいた。愛も何も知らない少女のちょっとした思いつきが後の悲劇の始まりとなる。

 

「ロミオとジュリエット」のセリフを比較的忠実になぞる部分があるが(「平家物語」に出てくる言葉がそれに沿うように挟まれる)、ジュリエットが望んだ「名」つまり「属性」を捨てることの愚かさをある意味告発する内容である。

アノニマスとなりすましが日常的に行われている現在において、ネット上では匿名であるということが時に暴力に繋がるように、現代の戦争は匿名の兵士が人々を「名もなき存在」として殺していく。
生きながらえたそれからの瑯壬生は、「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」と嘆くが、気を取り直して名もなき一兵卒として戦争に参加することを望み、名を平の平平(へいへい)と偽る。だが、名乗りを上げて一騎打ちのそれまでの戦とは違い、ロミオが加わった戦争は、どこからか誰ともわからぬ者達が一斉に打ちかけてくるというアノニマスな戦場だった。

一方、それからの愁里愛は尼となり、修道院へと向かう。修道院行きのバスで出会った「尼ぞねす」という団体には、源義仲を殺した瑯壬生への恨みを抱いたままの尼トモエゴゼ(伊勢佳世)や、世の中は色々なものが「混ざってるさ」ということでマザーッテルサと名乗る尼(羽野晶紀)がいた。それからの愁里愛は、彼女達と行動を共にするのだが、一行はいつの間にか看護師の団体として戦場に着いている。「尼ぞねす」達は、野戦病院の看護師として従軍、次々と運ばれてくる瀕死の兵士達を看護する。その野戦病院で瑯壬生と愁里愛は再会するのだが、瑯壬生は源義仲殺しのお尋ね者にして清盛亡き今では平氏の頭領ともなり得る人物で正体がバレれば即死罪は免れない。愁里愛は、今や為政者となった源頼朝(橋本さとし)の妹ということで正体が明らかになれば連れ戻される。そのため互いの名を呼ぶことが出来ない。
そしてそれからの瑯壬生は、シベリア送りとなり、名前をなくしたことで引き上げの際にも名前が呼ばれることはなく、戦友達が船出する中で俊寬のように一人シベリアに取り残されることになる。
そんな中、『夜と霧』のヴィクトール・フランクルのように愁里愛を想い続けてきた瑯壬生は、ある意外な内容の手紙を凡太郎に言付けた。回り回った表現で綴られた愁里愛への思い。凡太郎はそれを勘違いするが、愁里愛には確かに伝わる。想像の空間の中で二人は愛を成就させるのだが、「名」をなくした行いは重く、厳然たる現実が突きつけられて劇は終わりを告げる。平安絵巻の形を借りて、冷戦終結後30年の名もない時代、アノニマスとなりすましの時代である今が問われるのである。「名」を捨てて安易に暴力へと走って良いのか? 「誰か」になることで、己をむなしくしてはいないか?

 

日本における理知派俳優の代表格である松たか子と上川隆也の共演。1997年の元日にTBS系列で放送された正月ドラマ「竜馬がゆく」で坂本竜馬と千葉さなとして共演していた二人だが、舞台での共演を見るのは初めてである。理知派の二人であるが、野田秀樹の舞台ということもあって、頭で作り上げた演技よりもこれまで培ってきた俳優としての身体技術の高さの方が目に付く。上川隆也は、大河ドラマなど数々の時代劇への出演で身につけたキレのある動きと存在感、松たか子は40歳を超えてなお光る可憐さで魅了する。

広瀬すずは熱演だが、感情が先走りしすぎてセリフが追いつかない場面が散見される。ただ、まだ若いのだし、初舞台ということでこんなものなのかも知れない。志尊淳は見た目や立ち振る舞いは良いが、存在感においては先に挙げた三人には及ばないように思われた。キャリアの差かも知れない。

野田秀樹の舞台へは初出演となる竹中直人。いつもながらの竹中直人で安心する。竹中直人と松たか子という大河ドラマ「秀吉」(1996年)のコンビのやり取りが見られたのも嬉しい。竹中直人が主役である豊臣秀吉、当時まだ十代であった松たか子が淀殿を演じていた。

羽野晶紀と伊勢佳世は、共に男に媚びを売るぶりっこの演技も見せるのだが、関西でそうした演技をすると二人とも島田珠代に見えてしまう。キャラを確立している島田珠代が凄いということなのかも知れないが。

言葉遊びを多用する野田秀樹の手法はいつもながら冴えているが、シベリア抑留の生活を言葉だけで語る(「言葉、言葉、言葉」)となるとどうしても弱くなり、切実さが感じられない憾みもあった。クイーンの音楽の使い方も十分とは思えず、インスパイアされるのは良いが、劇中で「オペラ座の夜」に収録された音楽が流れると面映ゆく感じられもした。

途中20分の休憩を挟んで上演時間約3時間という、野田秀樹としては大作であり、平氏の一党がハカを踊るシーンがあったりと、詰め込みすぎの印象も拭えないが、野田秀樹の問いの鋭さと深いメッセージにはやはり感心させられる。

Dsc_7754

| | コメント (0)

2019年8月17日 (土)

観劇感想精選(313) オフィス3○○ 音楽劇「私の恋人」

2019年8月9日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、オフィス3○○(さんじゅうまる)の音楽劇「私の恋人」を観る。原作:上田岳弘(たかひろ)、脚本・演出・衣装・出演:渡辺えり。出演:小日向文世、のん、多岐山壮子、松井夢、山田美波、那須野恵。ミュージシャン:三枝伸太郎。歌唱指導:深沢敦。

のんはこれが初舞台。兵庫県出身ということで(そもそも能年という苗字は兵庫県固有のものである)凱旋公演となる。東京の東大和市でプレビュー公演が行われたが、本編の上演は今日が初日となる。

3○○にちなみ、主演俳優3人が30の役を演じるという音楽劇である。

まず、下手客席入り口から小日向文世と渡辺えりが登場。小日向文世は、「歌なんか歌いたくないよ」と文句を言い、「ミュージカルみたいに突然歌い出すの? 変だよ、みっともないよ」と続ける。渡辺えりが、「それは偏見」と言うべきところを「それは先見」と言ってしまって言い直す。初日ということでまだセリフが完全にものになっていないようで、小日向文世も中盤の「おやじが死んで」と言うべきセリフを「俺が死んで……、俺は死んでないよな」と言い直していた。

冒頭に戻るが、小日向文世がぐずるので渡辺えりが一人で歌おうとするが、まさに第一声を発しようとした瞬間にのんが上手から駆け込んできて、奪うようにして歌い始めてしまう。のんは渡辺えりに譲りそうな気配を見せるも、結局、全編歌う。渡辺えりが、「あんた誰?」と聞くと、のんは「まだ誰でも」と答える。
その場に歌いたい女が二人、歌いたくない男が一人でということで、のんが「ならば、踊ろう!」と提唱してダンスが始まる。

 

メインとなるのは、井上由祐(のん)と主治医の高橋(小日向文世)の物語である。井上は前世ではナチ圧制下のドイツで過ごしたユダヤ人、ハインリッヒ・ケプラーであり、そのまた前世は10万年前のクロマニヨン人であった。由祐は10万年前の前前世から「私の恋人」を探しているのだが、まだ見つかってはいない。

一方、由祐の主治医でありながらどう見ても精神を病んでいそうな高橋は、二度の行き止まりを迎えた人類の旅を切実に体験するため、絶滅した優秀なタスマニア人が見た景色を求めてオーストラリアに旅に出る。道中、高橋はキャロライン(キャリー)という女性と出会うが、のちに由祐は彼女こそが「私の恋人」であると見なすことになる。

由祐の双子の弟である時生(渡辺えり)は、子供の頃からずっと引きこもりであり、良い大学から良い企業へと就職した兄に劣等感を抱いていた。二人の父親(小日向文世)は東北で時計屋を営んでいる。時生は「断捨離」を提唱するのだが、父親が残してきた雑多なものは断捨離などしなくても東日本大震災の津波で全て失われてしまうことになる(渡辺えり独自の視点だと思われるが、日本に於ける一度目の行き止まりが敗戦で、二度目が東日本大震災とされているようである)。

やがて老境に達した由祐(小日向文世)の下(もと)に未来の由祐(のん)がやって来る。小日向文世が演じる由祐は今もまだ「私の恋人」に出会えていないが、それは実は未来の由祐が未来からの操作を行っていたことが原因であった。

なぜ、過去を操ろうとするのか?

ラストでは、高橋が神の視点からの発言も行う。看護師の川上(渡辺えり)は、「狂っている」と一蹴するが、高橋は「神は狂っている」と断言する。

 

のんは初舞台の初日ということで、セリフが舞台に馴染んでいない印象を受ける。想像通りの演技をする人で才気を感じるタイプではなく、よく言えば等身大の演技をする人だが、元々が女優としては特別美人でも飛び抜けて可愛いというわけでもなく、同級生にいそうなタイプというポジションにいた人だけにこうした演技があるいは彼女の真骨頂なのかも知れない。「のんはのんだった」ということである。
歌手としても活動しているのん。歌は特段上手いということはないが、美声である。

 

2016年の大河ドラマ「真田丸」放送時に、若い頃の写真が堺雅人に似ていると話題になった小日向文世。今日は様々なかつらをかぶって色々な役をこなしていたが、髪があると今でも小日向文世は堺雅人に似ている。骨格が似ているということもあってか、声も同じ系統であるようだ。

 

カーテンコールで、渡辺えりから、初舞台の初日を地元の兵庫で迎えた感想を聞かれたのんは、「素直に嬉しいです」と答えていた。

Dsc_7155

 

| | コメント (0)

2019年7月31日 (水)

観劇感想精選(310) OSK日本歌劇団 OSK SAKURA REVUE 「海神別荘」&「STORM of APPLAUSE」

2019年7月21日 京都四條南座にて観劇

午後3時から、京都四條南座で、OSK SAKURA REVUE 「海神別荘」&「STORM of APPLAUSE」を観る。南座新オープンを記念したOSK日本歌劇団の上演。午前11時に第1回公演があり、この午後3時からの2回目を経て、夜には声優とのコラボレートによるまた別の演目が行われるというOSKウィークである。

今日は3階席2列目の上手側だったが、脚が本調子ではないため、行き帰りともにエレベーターを使った。

 

第1部 歌劇「海神別荘」。泉鏡花の代表的戯曲をアレンジしての上演である。原作:泉鏡花、作・構成:広井王子、演出・振付:麻咲梨乃。音楽は「サクラ大戦」のものを使用している。出演は、桐生麻耶、楊琳、虹架路万、愛瀬光、華月奏、白藤麗華、遥花ここ、城月れい、麗羅リコ、実花もも、穂香めぐみ、壱弥ゆう、椿りょう、栞さな、柚咲ふう、桃葉ひらり、りつき杏都、凜華あい、琴海沙羅、雅晴日、湊侑李、京我りく、紫咲心那、純果こころ、依吹圭夏、叶望鈴、瀧登有真、優奈澪。特別専科から朝香櫻子と緋波亜紀が参加している。

泉鏡花の三大戯曲の一つとして扱われることも多い「海神別荘」。新派で上演されることが多く、歌舞伎版も存在するが、今回は広井王子がまとめた上演時間約55分のものが用いられている。台詞もかなり平易なものに変えられている。

海の公子(桐生麻耶)と陸の美女(城月れい)の話である。海の公国に、贈品の身の代として陸の美女が送られてくる。陸の美女は元の陸に帰りたがるが、もはや体は人間が見ると白蛇のなりに変わっており、戻った陸では迫害を受ける。海の公子は、海の世界は愛の世界であり、拝金主義や差別がまかり通っている陸上とは違うと宣言して、美女に永遠の愛を誓う。

 

「天守物語」などに顕著なのだが、泉鏡花は妖怪を崇高、人間を醜悪な存在として対比させることがあり、この「海神別荘」でもそれは踏襲されている。愛の至高は説かれているのかどうかははっきりとわからないが、俗人間より一段高いものへの憧れは秘められている。

OSK日本歌劇団の団員であるが、役を貰えているスターとアンサンブルのキャストでは歌唱力にかなり差がある。役を貰えなかった人は声量にも乏しいが、声の輪郭がボンヤリしていて音程がはっきりしない。切れや表現力に至る前に超えられない壁が現時点ではあるようだ。

 

35分の休憩を挟んで第2部はダンスレヴュー「STORM of APPLAUSE」。ミュージカルが売りの宝塚とは違って、OSKは代々ダンスレヴューを得意としてきた。客層もダンス目当ての人が多いようで、幕間にはそうした声も聞かれていた。

宝塚は東京に進出して東宝を築いたが、東京に姉妹劇団のSKDがあったためにOSKは今も大阪ローカルのまま。ただ街の雰囲気的にダンスレヴューは関西で行った方が合っているようだ。様々な要素がごっちゃになっている様は歴史の長い関西そのものであるようにも思える。

 

ラストは、OSK日本歌劇団の団歌で、昭和5年以来歌い継がれている「桜咲く国」。宝塚の「スミレの花咲く頃」ほど有名ではないが、こちらも良い曲である。

Dsc_7050

 

| | コメント (0)

2019年7月20日 (土)

コンサートの記(575) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 レナード・バーンスタイン ミュージカル「オン・ザ・タウン」西宮公演

2019年7月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 ミュージカル「オン・ザ・タウン」を観る。佐渡の師であるレナード・バーンスタインが初めて作曲した舞台作品であり、某有名ドラマシリーズのタイトルの由来となったミュージカル映画「踊る大紐育」の原作としても知られている。

佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。演出・装置・衣装デザインは、イギリス出身で佐渡プロデュースオペラの「魔笛」と「真夏の夜の夢」でも演出を担当したアントニー・マクドナルド。合唱は特別編成である、ひょうごプロデュースオペラ合唱団(合唱指揮:矢澤定明)。
佐渡プロデュースオペラは、外国人キャストと邦人キャストの日が交互に来ることが多いが、今回はミュージカル作品でダンスも多いということで、ロンドンで行われたオーディションで選ばれた白人中心のキャストでの上演である。出演は、チャールズ・ライス(ゲイビー)、アレックス・オッターバーン(チップ)、ダン・シェルヴィ(オジー)、ケイティ・ディーコン(アイヴィ)、ジェシカ・ウォーカー(ヒルディ)、イーファ・ミスケリー(クレア)、スティーヴン・リチャードソン(ピトキン判事&ワークマン1)、ヒラリー・サマーズ(マダム・ディリー)、アンナ・デニス(ルーシー・シュミーラー)、フランソワ・テストリー(ダイアナ・ドリーム、ドロレス・ドロレス、老女)ほか。このほかにもアンサンブルダンサーとしてバレエやコンテンポラリーのダンサーが数多く出演している。振付はアシュリー・ペイジが担当。

ブルックリンの海軍造船所に停泊した船に乗る、ゲイビー、チップ、オジーの3人の水兵が初めて訪れたニューヨークでの24時間の休暇を楽しむべく、様々な観光地を巡る計画を立てている。今回のセットは全面にマンハッタン島を中心としたニューヨークのガイド地図が描かれたものだ。ゲイビーはニューヨークの女の子とデートがしたいと語る。
キャットウォークから様々なボードが降りてきたり、左右から地下鉄の車両内のセットや登場人物のアパートメントの部屋などが出てくるなど、コミック調の演出と舞台美術が特徴である。またニューヨーク市タクシー(通称:イエローキャブ)は実際に舞台上を走り回る。

ニューヨークの地下鉄の乗り込んだ3人の水兵。ゲイビーは車両内に飾られた「6月のミス改札口」に選ばれたアイヴィ・スミスのポスターを見て一目惚れ。ニューヨークに住んでいるはずのアイヴィを探し出そうとチップやオジーに提案。ポスターに書かれた情報を手がかりに3人で手分けしてアイヴィを探すことになる。
イエローキャブに乗ったチップは、女性運転手のヒルディ(本名はブルンヒルド・エスターハージ)に惚れられ、ポスターにあった「アイヴィはミュージアムで写生の勉強をするのを好む」という情報を頼りにミュージアムに向かったオジー(勘違いして美術館ではなく自然史博物館に行ってしまう)は、文化人類学者のクレアと出会い、恋に落ちる。そしてゲイビーは「アイヴィはカーネギーホールでオペラのレッスンをしている」という記述に従い、カーネギーホール(ゲイビーは「カニーギホール」と誤読している)のレッスン室でアイヴィを探し出す。

地下鉄内でゲイビーが「6月のミス改札口」のポスターを剥がすのを見とがめた老女がその後も執拗に水兵達を追いかけようと登場するのが特徴。「統一感を与えるため」らしいのだが、この老女はクロノスの象徴なのではないかと思われる。実際に24時間ひいては人生や青春の短さが登場人物によって何度も歌われており、若者達の行方を遮る時間がつまりはクロノスとして現れているのであろう。

「オン・ザ・タウン」が初演されたのは、1944年(大戦中である)。レナード・バーンスタインはまだ二十代。ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックの指揮台に急遽上がって社会現象を巻き起こした翌年である。登場人物達とさほど変わらぬ年齢だったことになる。

 

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、任期3年の育成型オーケストラであり、独自の色は出せない団体だが、若いメンバーが多いということもあってかアメリカものやミュージカルには最適の熱く迫力のある音を奏でる。なお、今回のゲストコンサートマスターはベルリン・ドイツ交響楽団の第1コンサートマスターであるベルンハルト・ハルトーク、第2ヴァイオリン客演首席に元ウィーン・フィルハーモニー第2ヴァイオリン首席のペーター・ヴェヒター、ヴィオラ客演首席にウィーン室内管弦楽団首席のシンシア・リャオ、チェロ客演首席にウィーン室内管弦楽団首席のヨナス・クレイッチ、トランペット首席にジャズトランペッターの原朋直という強力な布陣である。

 

日本人も食生活の変化で体格がかなり良くなったが、やはり平均値では白人の方がスタイルは上で、ミュージカルには栄える。以前、劇団四季が上演した本場ブロードウェイと同じ振付による「ウエストサイド・ストーリー」を京都劇場で観たことがあるが、体操のお兄さん風になっており、まだ歴然とした差があるようだ。

台本と作詞を担当したベティ・コムデンとアドルフ・グリーンのコンビも当時二十代で、これが初ブロードウェイ作品ということで、アメリカ的ご都合主義があったりするのだが、パワフルでユーモアに富んだ流れが実に良い。

 

カーテンコールでは、佐渡裕がイエローキャブに跨がって登場。爆発的に盛り上がり、幕が下りてはまた上がるが繰り返された。

Dsc_6961

 

| | コメント (0)

2019年6月23日 (日)

観劇感想精選(307) OSK日本歌劇団 「Salieri&Mozart サリエリとモーツァルト 愛と憎しみの輪舞(ロンド)」

2019年6月6日 大丸心斎橋劇場にて観劇

午後6時30分から、大丸心斎橋劇場でOSK日本歌劇団の公演「Salieri&Mozart サリエリとモーツァルト 愛と憎しみの輪舞(ロンド)」を観る。作・演出・振付:上島雪夫。音楽:浅野五朗、長野雄輔。出演:虹架路万、愛瀬光、千咲えみ、城月れい、椿りょう、柚咲ふう、唯城ありす、凜華あい、雅晴日、朝風まりあ、知颯かなで、せいら純翔、緋波亜紀(特別専科所属)。
このところ、大阪ではちょっとしたサリエリ・ルネッサンスが起こっており、大丸心斎橋劇場でサリエリの曲目を並べた「サリエリムジカ」という音楽会が催されたり、中之島の中央公会堂で日本テレマン協会が「サリエリ復権」と銘打ったコンサートを予定していたりする。

モーツァルトとサリエリの関係を描いた作品としては、ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」とそれを基にした映画が有名であり、今回の「Salieri&Mozart」も多くの部分が「アマデウス」をなぞっている。戯曲「アマデウス」には、風と呼ばれる人物2人が登場して、狂言回しの役割を主に担うのだが、今回の劇にも風役に相当する2人がストーリーテラーを務めている。

まず冒頭では、モーツァルトの墓が登場して、ウィーン市民がモーツァルトの墓参に訪れたり、アントニオ・サリエリ(虹架路万)が花を手向けに来たりするが、モーツァルトは共同墓地に埋葬されており、正確な埋葬場所も不明。慰霊塔としての墓石が建てられたのはモーツァルトの死後半世紀以上が経過してからで、史実ではない。この他にもモーツァルトが遺作である「レクイエム」を完成させていたりと、芝居としての嘘が多いが、思いの他しっかりとした本による公演であり、結構感動する。

ウルフガング・モーツァルト(愛瀬光)が子供じみた下劣なところのある人物であるとするのは「アマデウス」と一緒であるが(ピーター・シェーファーは残されたモーツァルトの手紙からモーツァルトの性格を類推している)、音楽に対しては心から打ち込んでおり、純粋に人々に良い音楽を届けたいと願っているのに対して、サリエリは至高の音楽を書き上げたいという我欲と名誉心から音楽に取り組んでおり、敗北を悟るという展開になっている。
サリエリは音楽の神を崇拝しているが、モーツァルトは父親であるレオポルトの束縛を脱するべく「自由」を音楽に盛り込んでおり、新しい音楽として市民からは好評であるがヨーゼフⅡ世皇帝を始めとする貴族階級の人からは理解されない。サリエリはその逆で音楽を尊ぶ故に新鮮な音楽を生み出すことが出来ないのだが、だからこそ保守的な貴族階級からは高く評価されているという対比が上手く示されている。そんな中でサリエリの「自分だけがわかってしまう」がための苦悩も丁寧に描かれていたように思われる。

モーツァルト作曲の音楽も電子音で流れるが、本編の多くの音楽は浅野五朗と長野雄輔によるオリジナルで、躍動感にはやや欠けるところもあったが、日本人ミュージシャンによる音楽劇としては充実している。サリエリとモーツァルト、コンスタンツェ(千咲えみ)による三重唱は特に良かったように思う。

ラストには、OSKお得意のレビューもあり(音楽は、モーツァルトの「トルコ行進曲」、「フィガロの結婚」より「恋とはどんなものかしら」、交響曲第25番第1楽章、「魔笛」より「復讐の心は炎と燃え」、ピアノ協奏曲第20番第2楽章、「ドン・ジョヴァンニ」より「お手をどうぞ」、「フィガロの結婚」序曲などをアレンジしたもの。ラストは団歌「桜咲く国」)、見応えのある出来に仕上がっていた。

Dsc_6806

 

| | コメント (0)

2019年5月28日 (火)

観劇感想精選(301) トム・ストッパード&アンドレ・プレヴィン 俳優とオーケストラのための戯曲「良い子はみんなご褒美がもらえる」

2019年5月12日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて観劇

午後1時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、俳優とオーケストラのための戯曲「良い子はみんなご褒美がもらえる」の上演を観る。作:トム・ストッパード、作曲:アンドレ・プレヴィン、テキスト日本語訳:常田景子、演出:ウィル・タケット、音楽監督・指揮:ヤニック・パジェ。出演:堤真一、橋本良亮(A.B.C-Z)、小手伸也(こて・しんや)、シム・ウンギョン、外山誠二、斉藤由貴。ダンサーとしての出演:川合ロン、鈴木奈菜、田中美甫、中西彩加、松尾望(まつお・のぞみ。女性)、中林舞、宮河愛一郎。

初演は1976年にロンドンで行われている。作曲のアンドレ・プレヴィンが今年の2月28日に亡くなっているが、追悼のために企画された上演ではなく、この時期に上演が行われるのはたまたまである。

1970年代のソビエト・レニングラードが舞台である。ソビエト共産党の意向に合わない人間が思想犯として精神病院に送り込まれている。アレクサンドル・イワノフ(以後アレクサンドルとする。堤真一)はそのことをプラウダなどに寄稿したため、精神病院送りとなる。精神病院となっているが、実際は政治犯を収容するための刑務所以外の何ものでもないのだが、体制派の医師(小手伸也)はそのことを否定し、ここはあくまで精神病院だと言い切る。医師はアレクサンドルに向かって「思考すること自体が病気だ」と断言する。ちなみに、医師はアマチュアオーケストラにヴァイオリニストとして参加しているようだ。アレクサンドルと同居することになった同姓同名の精神病者であるアレクサンドル・イワノフ(以後イワノフとする。橋本良亮)は、自身が指揮者としてオーケストラは率いていると思い込み、トライアングルを叩きながら空に向かって指揮を行っている。オーケストラのメンバーをかなり口汚く罵っており、独裁者タイプの指揮者として君臨しているつもりのようである。医師はイワノフに「オーケストラは実在しない」と繰り返し唱えて、想像を止めるよう忠告する。
アレクサンドルにはサーシャという息子がいる(韓国人女優であるシム・ウンギョンが演じている)。教師(斉藤由貴)は「父親が思想犯として逮捕された」というサーシャの言葉を信じず、そうした不自由なスターリン体制は過去のものになっていると教え込もうとしていた。

 

「転向」を描いた上演時間約1時間15分の中編である。アレクサンドルは精神病院内にトルストイの『戦争と平和』を持ち込んでおり、ナポレオン戦争の場面ではオーケストラがチャイコフスキーの序曲「1812年」の一部を奏でたりする。オーケストラは「象徴」のように常にステージ上にいて、軍服姿のヤニック・パジェの指揮で演奏を行う。
アンドレ・プレヴィンの音楽は意図的にショスタコーヴィチ作品を模したものである。偶然だが、ショスタコーヴィチは「良い子はみんなご褒美がもらえる」が初演された1976年に死去している。

「良い子はみんなご褒美がもらえる」は、「Every Good Boy Deserves Favour」の邦訳であるが、「Every Good Boy Deserves Favour」とは、「EGBDF」という五線譜の音階を覚えるための言葉である。サーシャが譜読みを正確に行わなかったために、教師からたしなめられる場面もある。

ストーリー自体は全くの架空のディストピアものではなく、ソビエトでは反体制派の政治犯や思想犯として精神病院送りということで事実上の牢獄に押し込めることがよく行われており、実はロシアに戻った今でもある。弾圧された文化人としては、作家のソルジェニーツィンが有名であり、音楽家の中でも例えばラトヴィア出身のミッシャ・マイスキーは思想犯として精神病院に幽閉された経験を持っている。トム・ストッパードは、1968年のプラハの春反対デモに参加して精神病院に送られた経験のあるヴィクトル・フェーンベルクと1976年の春に出会い、一気に戯曲を書き上げたそうである。

 

トルストイの『戦争と平和』は、私も二十代前半の頃に読み、大方は忘れてしまったが、トルストイが繰り返し説いた歴史観、つまりナポレオン戦争はナポレオン一人が起こしたものではなく、大きな流れの中で起こったものであり、ナポレオンはその中の一人に過ぎないという考えは納得出来るし、今でもよく覚えている。おそらくこの作品におけるオーケストラは「大きな流れ」、「大衆」や「群集心理」の喩えなのだろう。
アレクサンドルはサーシャを守る必要性もあって(ご褒美がもらえる)、ラストではオーケストラに向かい、指揮棒を振り上げることになる。

 

実力派の堤真一が見事な演技を見せる一方で、同姓同名の人物を演じる橋本良亮は台詞回しも弱く、存在感も今ひとつである。今日はジャニーズが出るということで、客席にはいかにもそれらしい若い女性の姿が目立ったが、納得させられる出来だったのかどうかわからない。
余り出番の多くない教師役に斉藤由貴はもったいない気がするが、リアルな人物像に仕上げてきたのは流石である。

Dsc_6568_1

 

| | コメント (0)

2018年11月 5日 (月)

コンサートの記(448) 平成30年度 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演 モーツァルト 歌劇「魔笛」

2018年10月29日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後1時から、ロームシアター京都メインホールで、平成30年度 新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演 「魔笛」を観る。

今年で3年連続となるロームシアター京都メインホールでの高校生のためのオペラ鑑賞教室・関西公演。今年は29日の公演の4階席のみ一般向け前売り券が発売されたため行ってみた。4階席ということもあって舞台が見えやすくはないが、チケット料金は全体的に安い。


今年はオペラ史上最高のヒット作といえる、モーツァルトの「魔笛」が上演される。もともとはアン・デア・ウィーン劇場の劇場主となったシカネイダー脚本のジングシュピール(音楽劇)として書かれたものであるが、現在は歌劇「魔笛」という表記と認識が一般的である。絵本の中の世界のような作品展開と、モーツァルトの魔術のような音楽は今も世界中の人々を魅了し続けている。

東京・初台の新国立劇場オペラの新作プログラムとして上演された公演の関西引っ越し版。指揮者とオーケストラは変更になり、園田隆一郎指揮の京都市交響楽団がオーケストラピットに入る。演出は南アフリカ出身のウィリアム・ケイトリッジ。再演演出は澤田康子が担当する。
出演は、長谷川顕(はせがわ・あきら。ザラストロ)、鈴木准(タミーノ)、成田眞(なりた・まこと。弁者・僧侶Ⅰ・武士Ⅱ)、秋谷直之(あきたに・なおゆき。僧侶Ⅱ・武士Ⅰ)、安井陽子(夜の女王)、林正子(パミーナ)、増田のり子(侍女Ⅰ)、小泉詠子(侍女Ⅱ)、山下牧子(侍女Ⅲ)、前川依子(童子Ⅰ)、野田千恵子(童子Ⅱ)、花房英里子(はなふさ・えりこ。童子Ⅲ)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、吉川健一(パパゲーノ)、升島唯博(ますじま・ただひろ。モノスタトス)。
合唱は新国立劇場合唱団。


ドローイングの映像を全編に渡って使用したことで話題となった演出である。


園田隆一郎は、びわ湖ホール中ホールで大阪交響楽団との上演である「ドン・ジョヴァンニ」を指揮したばかりだが、今回もモーツァルトのオペラということでピリオド・アプローチを採用。音を適度に切って演奏する弦楽と、硬めの音によるティンパニの強打が特徴である。また今回は雷鳴などを効果音を流すのではなく、鉄板を揺らすことで出している。
ピアノが多用されるのも印象的で(ピアノ演奏:小埜寺美樹)、オーケストラ演奏の前に、アップライトピアノの独奏が入ることが多い。

メインホールの4階席では、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の引っ越し公演であるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」を観ており、独特の艶のあるオーケストラの響きに感心したものだが、それはオペラ経験豊かなゲルギエフとマリインスキーだからこそ聴けた音で、今日の京響の場合は音の密度がやや薄めに聞こえる。4階席は反響板のすぐ近くにあるため、舞台から遠いが音自体はよく聞こえるはずであり、これが現時点の京響のオペラでの実力ということになるのだろう。

序曲の演奏が始まると、紗幕に光の線が映り始める。紗幕はたまに透けて、三人の侍女がストップモーションで立っているのが見え、絵画的な効果を上げている。

数段になった舞台を使用し、前から2段目にはベルトコンベアが搭載されていて、上に乗った歌手などが運ばれるのだが、モーター音が少し気になる。

冒頭に出てくる蛇は、腕の影絵で表される。

ドローイングを使うことで、光と影の対比がなされたと話題になった公演であるが、そもそもが光と影の対比を描いた台本であるため、それを視覚面でも表現する必要があるのかどうかは意見が分かれるだろう。

視覚面では、光と影よりもむしろ火と水の対比がわかりやすく表現されていたように思う。この作品中で最も有名なアリアである夜の女王の「復讐の心は炎と燃え」で代表されるように、夜の女王側の人々は火のように燃えさかる心を持っている。ザラストロ側の人々は水のように平穏で豊かな心でもって火を鎮めるというのが一応の筋書きである(拝火思想の「ゾロアスター」とは対照的だ)。火は揺らめく影絵で効果的に、また水はドローイングと録音された水滴の音によってはっきりとわかるように表されている。ただ、日本のように水害の多い国では水が脅威であることは知られており、東日本大震災では映像に捉えられた津波の恐怖が世界中で話題になっている。ということで、水だから安全というわけではない。

もう一つは音楽の言葉に対する優位が挙げられる。実際、三人の侍女が魔法の笛を「宝石よりも大事」と歌い、タミーノ王子とパパゲーノは魔法の笛と三人の童子の歌声によってザラストロの城にたどり着くことが出来ている。タミーノとパミーナは笛が奏でる音楽によって恋路へと導かれ、パパゲーノも音楽の鳴る鈴によってパパゲーナと再会を果たした。
一方で、夜の女王の繰り出す言葉の数々はザラストロによって否定的に語られ、ザラストロの言葉もまた胡散臭く見えるよう演出がなされている。タミーノが吹く笛の音にサイの映像はウキウキと踊り出すが、ザラストロの語る言葉の背景に映るサイは悲惨な目に遭うのである。

不満だったのは夜の女王と三人の侍女、モノスタトスの最期で、余りにもあっさりとやられてベルトコンベアで運ばれてしまうためギャグのようにしか見えず、引いてはその存在自体が軽く見えてしまう。もうちょっとなんとかならんのか。

歌手陣は充実している。パミーナ役の林正子はパミーナよりも夜の女王が似合いそうな存在感だが、解釈としても元々そうした役と捉えられていたようであり、世間知らずの可憐なお嬢さんというより「夜の女王の娘」であるという事実に重きが置かれていたように見える。
ムーア人のモノスタトスを演じた升島唯博は、外見で差別される存在であることのやるせなさを上手く演じていたように思う。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月30日 (火)

観劇感想精選(263) 宮本亜門演出「三文オペラ」

2009年5月4日 大阪厚生年金会館芸術ホールにて観劇

午後5時より、大阪厚生年金会館芸術ホールにて「三文オペラ」を観劇。作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、音楽:クルト・ワイル(ヴァイル)、音楽監督:内橋和久、演出:宮本亜門、主演&訳詞:三上博史。出演は他に、安倍なつみ、秋山菜津子、松田美由紀、明星真由美、米良美一、田口トモロヲ、デーモン小暮閣下など。

「三文オペラ」は、一昨年に白井晃演出のものを観ており、更に昨年には「三文オペラ」の原作である、ジョン・ゲイの「乞食オペラ」も観ているので、それとの比較になる。

まず、音楽はアンプを使った大音量の生演奏で、いかにもエレキな感じ。
舞台装置はベニヤ板を使った巨大ボードがスクリーン代わりに使われたり(客席の映像やアニメーションなどが投射された)、幕の代わりになったりと効果的に用いられている。

主な登場人物は、デーモン小暮閣下は勿論、全員顔を白塗りにして登場、役者のイメージの切り離しを行う。また、出番を待っている役者を舞台端に、客席から見えるように座らせているのも、劇と舞台とを切り離す効果を狙っているようだ。

白井晃演出の「三文オペラ」に比べると、ブレヒトの戯曲本来の泥臭さがそのまま生かされており、解釈そのものはオーソドックスだ。

安倍なつみやデーモン小暮閣下といったプロの歌手陣の歌は流石の出来。安倍なつみはちょっと頭の足りない娘としてポリーを演じており、予想以上の好演である。

口上役として客席に話しかけるという米良美一の役割の与え方も効果的で、客席を告発するかのような戯曲のどぎつさを中和させることに成功しており、全体として見応えのある舞台になっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月18日 (木)

観劇感想精選(260) アルテ・エ・サルーテ 「マラー/サド」@クリエート浜松

2018年10月11日 浜松市のクリート浜松 ホールにて観劇

午後5時30分から、クリエート浜松のホールで、アルテ・エ・サルーテの「マラー/サド(原題は「マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院の患者たちによって演じられらジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺」)」を観る。フランス革命時のジャコバン派首領であるジャン=ポール・マラーと、サディズムの語源として知られ、後世に多大な影響を与えたマルキ・ド・サド(サド侯爵)を軸にした芝居である。

アルテ・エ・サルーテは、浜松市の音楽文化交流都市であるイタリア・ボローニャに拠点を置く非営利協会。エミリア・ロマーニャ州立地域保健機構ボローニャ精神保険局の精神障害者80名以上が通っており、そのうち41名がプロの俳優として、散文劇団(コンパニィア・ディ・プローザ、児童向け劇団(コンパニィア・ディ・テアトロ・ラガッツィ)、人形劇団(テアトロ・ディ・フィーグラ)、精神を題材とした放送局であるサイコラジオに所属している。
今回来日したのは散文劇団のメンバーである。2000年の創設で、ボローニャに本拠を置く劇団としては最古参になるという。

イタリアからはエミリア・ロマーニャ州の州知事代理やアルテ・エ・サルーテの主治医が同行しており、上演前にスピーチを行う。イタリア語通訳の方が頼りなく、州知事代理の方が遠州方言である「やらまいか」を観客達とやりたいと申し出るも上手く通じる、バラバラになってしまう。スタッフも演劇上演には明らかに慣れていないが、地方都市であるだけにこれは仕方がない。

今回の浜松上演は、静岡文化芸術大学の名誉教授&理事で、イタリア語・イタリア演劇を専門とする高田和文の招聘によって実現したものであり、高田氏が真っ先にスピーチを行った。

舞台後方の白い壁には、「じゆう」「障害はあるけど奴隷じゃない!」「革命しよう 拘束反対」「自由 平等 友愛」「マラー万歳!」といった言葉が赤と青の文字で記されている。


「マラー/サド」。作:ペーター・ヴァイス。脚色・演出:ナンニ・ガレッラ。オリジナル音楽:サヴェルオ・ヴィータ。制作はエミリア・ロマーニャ演劇財団、NPOアルテ・エ・サルーテ、エミリア・ロマーニャ州立ボローニャ地域保健連合機構精神保険局。
1964年に初演が行われたドイツ演劇作品で、1967年にはピーター・ブルックによって映画化されている。

イタリアには1978年まで精神科の閉鎖病棟があり、多くの人がそこに強制入院させられていたが、今ではそうした押し込め型の精神病院はなくなっているという。


シャラントン精神病院に収監されたマルキ・ド・サド(演出であるナンニ・ガレッラが演じている)が、患者達を使ってマラーの人生を描いた芝居を上演する模様を上演するいう劇中劇の入れ子構造になっている。

出演は、布告役(口上役。劇中劇では窃盗罪と境界例があるという設定):ミルコ・ナンニ、サド侯爵(ここには殺人の罪で入っている。偏執狂の持ち主):ナンニ・ガレッラ、ジャン=ポール・マラー(過激派、妄想型統合失調症):モリーノ・リモンディ、シャルロット・コルデー(嬰児殺人罪、躁鬱病、ナルコレプシー):ロベルタ・ディステファノ、シモンヌ・エヴラール(家庭虐待、ヒステリー):パメラ・ジャンナージ、デュペレ(強制性交等、錯乱性色情症):ロベルト・リジィ、ジャンヌ・ルー(破壊行為、誇大妄想症虚言癖):ルーチォ・パラッツィ、ロッシニュール(売春、強迫性窃盗症):イレーオ・マッツェティ、キュキュリュキュ(放火魔):増川ねてる 、ポルポック(麻薬密売、強迫症):デボラ・クインタバッレ、ココル(麻薬常用、境界例):ルカ・ファルミーカ、患者1(殺人により強制措置):ファビオ・モリナーリ、患者2:ニコラ・ベルティ、女医(医院長):マリア・ローザ・ラットーニ、看護士:ロレッタ・ベッキエッティ&カテリーナ・トロッタ、看守:ダビデ・カポンチェッリ。


まず、医院長からの挨拶で芝居が始まる。舞台は鉄格子の向こうであるが、医院長だけは客席側に出て、芝居を観る(これも演技の内)ことが出来る。クリエート浜松ではなく、シャラントン精神病院での院内上演という設定で、観に来ているのも同じ入院患者として劇の紹介を行う。

フランス革命直後のフランス。貴族階級が否定され、この世の春を謳歌していた貴族達は次々とギロチン送りにされている。庶民達は自分達の時代を築こうとしているが、そちらの方は順調には進んでいない。血気盛んな庶民達は自由を望み、決起を、というところで医院長からストップが掛かる。「熱くなりすぎる! もっと冷静に」との注文を受けて芝居再開。

多数の貴族をギロチン送りにしているマラー。だが重度の皮膚病に苦しみ、症状を和らげるために常に浴槽に水を張って浸かっていないと症状が悪化してしまう。身の回りのことは家政婦のシモンヌに全て任せていた。
理想に燃えるマラーであるが、浴槽に幽閉されたような状態である。

パリに出てきたばかりのカーン出身の少女がマラーの命を狙っている。シャルロット・コルデー。後に「暗殺の天使」として世界に知られることになる下級貴族出身のこの女性も閉鎖的な修道院から出たばかりで、自由と理想を追求していた。
ちなみにコルデー役の女優さんが一番症状が重いという設定であり、常に眠気に襲われている上に重篤な鬱状態ということで、自分の出番が来るまでは看護士の膝を枕にして眠っている。
シャルロットは1日に3度、マラーを訪問し、3度目に刺し殺すのであるが、気が昂ぶったシャルロッテは最初の訪問でいきなりマラーを殺そうとしてサドから注意を受ける。

反体制派のマラーと貴族階級出身のサドの意見は対立する。このマラーとサドのディベートが一つの軸になっている。
サドは自然を嫌う。自然は偉大なる傍観者、弱者が滅びるのを観察しているだけ。あたかも「沈黙の神」に対するかのような姿勢だ。一方のマラーは自然がもたらすことには意味があり、それを超克したいという希望がある(西洋においては自然の対語が芸術である)。

マラーは急速に革命を推し進めようとするが、サドに革命が起こっても何も変わっていないと指摘される。下層階級は革命の前も後も苦しみのただ中にいると。

マラーを支持する下層階級のグループは自分達の改革の邪魔になりそうな人物の名を挙げて、血祭りに上げようと騒ぐ。ラファイエットやビュゾー、ロベスピエールの名が挙がるが、そのうちに医院長や医師の名前が挙がったため医院長に芝居を止められる。そもそもカットされたはずの部分が上演されてしまっていたらしい。

マラーは貴族階級を憎み、下層階級に与えられた苦しみに比べれば、貴族階級の苦悩などまだまだ浅いと考えており……。

音楽が流れ、歌い、隊列を作って行進しと様々な要素を取り入れた芝居である。
イタリアでは1978年にバザーリア法により精神病院と閉鎖病棟の制度は廃止されたが、日本では精神障害者のうち重度の患者は何十年にも渡って精神病院に閉じ込められているという現実がある。そこに精神障害者の自由はない。
登場人物の多くも幽閉されている。現実の精神病院にだけではなく、あるいは病気に、あるいは階級に、あるいは年齢に、あるいは修道院に代表される宗教に。

芝居は、コルデーが意識の解放を遂げた後で、フランス国歌にしてフランス革命歌「ラ・マルセイエーズ」を全員で歌って終わる。「marchons,marchons(進め! 進め!)」の部分を「マラー、マラー」に変えられ、その後の歌詞もマラーへの応援歌となり、「障害はあるけど奴隷じゃない!」と希望を望む言葉で締めくくられる。

最後は、「ラ・マルセイエーズ」をファンファーレとして使用したビートルズの「愛こそはすべて(All you need is love)」が流れる中を出演者が踊って大いに盛り上がる。
「自由」そして「解放」を訴える芝居だけあって、革命期の高揚を伴う展開に説得力があり、病気や環境によって真に抑圧されてきた経験のある俳優が演じているだけあってオーバーラップの効果は大変なものである。
ラストの選曲も実に上手かった。


芝居の上演の後に、ティーチインのようなものがあり、浜松市内のみならず日本全国から集まった当事者、医療関係者によって様々な質問がなされ、演出家のナンニ・ガレッラや劇団員達が答えていた。


精神障害者が精神障害から完全に抜け出る日は、あるいは来ないのかも知れない。来るとしてもまだまだ先なのかも知れない。ただ、演じることで苦しみのある現実から一瞬でも抜け出すことは可能であるように思われる。自分ではない他者として生きる経験を持つということ。この点において演劇は有効だ。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア ウェブログ・ココログ関連 オペラ カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ トークイベント ドイツ ドキュメンタリー映画 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都四條南座 京都市交響楽団 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 動画 千葉 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 学問・資格 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 食品 飲料 香港映画