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2021年8月 1日 (日)

観劇感想精選(405) 「坂東玉三郎 特別舞踊公演」南座七月(令和三年) 「口上」 地唄「雪」 地唄「鐘ヶ岬」

2021年7月24日 京都四條南座にて観劇

午後2時から、京都四條南座で、坂東玉三郎特別舞踊公演7月の回を観る。今日が初日である。

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まず口上があり、その後に地唄「雪」と「鐘ヶ岬」が上演される。

口上では、「本日はお暑い中、また状況の厳しい中、お足をお運び下さりありがとうございます」と述べ、今年の1月に大阪松竹座で口上を行った時に衣装の紹介をしたところ好評だったというので、今回もそれを行い、いつもより長くなるとの断りがある。舞台後方には上手から下手に向かって、春夏秋冬の景色を描いた金屏風が並んでいる。

玉三郎が初めて南座の舞台に立ったのは、昭和46年12月の顔見世興行においてであったが、50年前ということで今とは勝手が違い、上演時間も長い上に初日は押しに押しまくって、午後11時を過ぎたため、玉三郎が出演するはずだった「京人形」は上演されないまま終わってしまったそうである。
また京都は歌舞伎発祥の地、地唄の発祥の地ということで、南座で地唄を披露するのは今になっても「面映ゆい思いが致します」と語っていた。

紹介される衣装は、「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」から乳母・政岡の打ち掛け、「壇浦兜軍記 阿古屋」より遊女・阿古屋の打ち掛けなどである。その他に傾城(遊女)を演じる時に使用した打ち掛けや、静御前を演った時の衣装なども紹介される。

阿古屋の打ち掛けは二代目だそうである。初代の打ち掛けは玉三郎独自のデザインであったが、現在の二代目は六代目中村歌右衛門が阿古屋を演じた時に用いていたものを引き継ぐ意匠となっているそうだ。阿古屋は景清(藤原氏の出身だが平家の武将として活躍)の思い人ということで、平家の家紋である揚羽蝶が描かれている。また、中国では最も華やかな花とされる牡丹が、裾を飾っている。ただ玉三郎は人から、「蝶々は牡丹を嫌う」という話を聞き、実際に牡丹の花を観察したことがあるのだが、本当に蝶々は牡丹を避けるそうである。

男勝りの政岡の打ち掛けは、「伽羅先代萩」が仙台伊達家のお家騒動である伊達騒動に取材した作品ということで、伊達家の家紋にある笹が用いられている。


地唄「雪」。振付:梅津貴昶。三絃・唄:富山清琴、箏:富山清仁。
ゆっくりとした動きと細やかな動きが、移ろう時の速さと儚さを表すが、逆に一瞬一瞬の美が映える。時というものを分解する美術だ。
ここに登場する女性に名はないが、大坂・南地の名妓だったソセキという人がモデルになっているそうで、歌詞にも「そせき」の名がさりげなく入っている。


地唄「鐘ヶ岬」。振付:二世藤間勘祖、舞台美術:山中隆成。三絃・唄:富山清琴、箏:富山清仁。
安珍と清姫を主人公とする「道成寺もの」の一つで、歌詞には鐘は出てこないが、玉三郎の口上によると、「京鹿子娘道成寺」を改作した「九州釣鐘岬」を短縮したものが「鐘ヶ岬」だそうである。
舞台背景は枝垂れ桜。舞台上手寄りに鐘が下がっているという舞台美術である。紙の桜が天井からひらひらを舞い落ちて積もり、清姫は床板の桜を足で散らしながら舞う。清姫は鐘に対する恨みを述べ、前半は安珍が僧侶ということで仏教の言葉が並ぶ。扇をクルクルと回し、衣装が黒から白に変わって後半、日本の有名な遊郭づくしである。
江戸の吉原、京の嶋原、伏見・墨染の撞木町(大石内蔵助が通ったことで有名である)、大坂・四つ橋筋の西にあった新町、奈良の木辻、九州・長崎の丸山と続く。
前半と後半の対比が見事であり、可憐さと同時に女の業と男の罪深さが、抑制されつつも漂う香のように静かに確実に観る者に伝わってくる。

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2021年7月27日 (火)

これまでに観た映画より(265) 京都シネマ 中村壱太郎×尾上右近 「ART歌舞伎」 中村壱太郎舞台挨拶付き

2021年7月19日 京都シネマにて

午後4時35分から、京都シネマで「ART歌舞伎」を観る。
中村壱太郎と尾上右近が、コロナ禍の中で作成した配信用作品。昨年の7月1日に東京・九段の靖国神社能楽堂で収録され、7月12日から期間限定で配信された。
本編(86分)上映後に、中村壱太郎出演による舞台挨拶がある。
「ART歌舞伎」は、まずポレポレ東中野で上映され、今日1日限定で大阪・シネマート心斎橋と京都シネマで上映される。

出演は、中村壱太郎、尾上右近、花柳源九郎、藤間涼太郎。演奏は、中井智弥(箏・二十五弦箏)、浅野祥(津軽三味線)、藤舎推峰(笛)、山部泰嗣(太鼓)、友𠮷鶴心(琵琶)。

「四神降臨」「五穀豊穣」「祈望祭事」「花のこゝろ」の4部からなり、「四神降臨」と「祈望祭事」は歌舞伎舞踊、「五穀豊穣」は三味線の謡、「花のこゝろ」は中村壱太郎が歌謡集『閑吟集』に出てくる言葉を選んでストーリーを組み立てた舞踊物語である。


「四神降臨」では、壱太郎、尾上右近、源九郎、涼太郎がそれぞれ四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)となり、舞踊を行う。玄武を受け持った尾上右近は黒の紋付きを着ていたが、他の演者は、顔の一部分に該当する色を入れていたり、背景のライトの色を変えたりすることで処理していた。

外は大雨で、雨音がマイクにも入っている。2020年7月1日は台風が近づいている日であったが、収録が行えるのはこの日しかないということで強行したそうである。ちなみにリハーサルも十分に行えない上に一発録り。カメラは7台用意したそうで、それでも上手くいかない場面があり、良く聴くと音楽が止まっていたり、よく見ると「あれ、ここなんか事故あったかな?」と分かる場面もあるそうだ。

「祈望祭事」では、藁が効果的に使われているが、たまたま靖国神社のそばで藁が手に入ったために使っているそうで、即興的要素も多いようである。

字幕入りの国際版での上映であるため、謡入りの「花のこゝろ」は英語での表現も気になる。
壱太郎は、白塗りの真ん中に日の丸を入れるというメイクである。壱太郎演じる女は、良き夫と子に恵まれ、幸せに過ごしていたが、突如として戦乱の世となり、夫は戦死、子は病死、自身は狂気にさいなまれ、遊女へと身をやつすことになる。
一方、尾上右近が演じるのは、「生涯を戦場(いくさば)にて過ごす若者」(英語字幕では、“Natural bone warrior”という凄い表現になっていた)。腕に覚えがあったが、朋に裏切られ、落ち武者となる。
そんな二人が巡り会うが、平穏が訪れる日を願いながら別れることになる。ちなみに西方浄土は、“Western Pure land”になるそうだ。

若者が去った後で、海兵の英霊(やはり尾上右近が演じている)が現れ、無用な戦をするなという意味のメッセージを女に伝える。
英霊というのは靖国神社に祀られている御霊のことだが、ここに登場する英霊は具体的には、『きけわだつみの声』の巻頭を飾ることになる遺書を残した上原良司だと思われる。上原良司は慶應義塾大学在学中に学徒出陣して戦死しているが、壱太郎による大学の先輩へのリスペクトということになるのかも知れない。


中村壱太郎による舞台挨拶。この後、午後6時45分からの回も観て欲しいため、壱太郎は色々と宣伝を行う。「うっとうしいのは僕の舞台挨拶を2回聴かないといけない」と冗談を言っていたが、壱太郎のファンなら2回聴けるのはむしろプレゼントだろう。
稽古は2週間ほど行えたが、本番は1日だけで、取り直しが利かない一発録り。「春のこゝろ」については半分ほどしか当日リハーサルが行えなかったそうである。

収録中も、「(尾上右近の)髪型がおかしいじゃない?」など、臨機応変に変えた部分も多いそうだ。なお、雨がやむ気配がなく、邦楽器は雨に弱くていつ故障が起こってもおかしくないということで、よく見ていると出演者の顔がどんどん青ざめていくのが分かるそうである。
配信用の収録であり、スクリーンでの上映は念頭に置いていなかったが、「映画館で上演するには録音が貧弱」ということで、音楽に関しては全て一から録音し直したそうである。なお、再録音したものはCD化されており、壱太郎が舞台挨拶の最後でグッズの一つとして紹介していた。「CDはちょっと」という人向けのダウンロード版も発売されているそうである。
なお、舞台での初演がすでに決まっており、岡山市で行われるそうである。

舞台挨拶中は写真撮影や録画は一切禁止であるが、舞台挨拶終了後に短い時間ではあるが、フォトセッションの時間が設けられており、壱太郎もこの時は、「何も喋らないんで」とマスクを外すファンサービスを行っていた。

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2021年6月30日 (水)

第28回京都五花街合同公演「都の賑い」@南座

2021年6月27日 京都四條南座にて

午後3時から、京都四條南座で第28回京都五花街合同公演「都の賑い」を観る。祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒の5つの京都を代表する花街の芸妓舞妓が技を競う恒例行事なのだが、昨年は新型コロナウイルス流行のため、初めて中止となった。

なお、秋にはロームシアター京都サウスホールで「五花街の初秋」公演がある。平日のマチネーであるが、アーカイブ付きの有料オンライン配信も行われる予定である。

五花街の内、祇園東を除く四つの花街は、春に舞踊の公演を行うのだが、今年は宮川町の京おどりが規模を縮小して公演を行えただけで、他の花街は公演中止。祇園甲部は、代替公演として弥栄会館のギオンコーナーと八坂倶楽部で「春の雅」を行い、先斗町の鴨川をどりは収録されたものをオンライン配信している。

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出演と演目は、祇園甲部(井上流)が上方唄「蛍狩」で、出演は立方が、槇子、小愛、美帆子、市有里、小扇、紗矢佳。地方の唄が、小桃、幸苑、だん満、惠美乃。三味線が、だん佑、ます穂、君鶴、まほ璃。

持統天皇の、「春過ぎて夏来にけらし」の和歌を冒頭に置き、蛍狩りをする芸妓達が、蛍火にジリジリとした恋心を重ねる演目である。蛍籠、扇子、手ぬぐいを使って行われる舞で、何とも絵になる。しゃがんだまま回転するなど、足腰が強くないと出来ない舞が取り入れられているのも特徴である。


宮川町(若柳流)が演じるのは、清元「舟」。出演は立方が、富美祐、ふく佳。地方の浄瑠璃が、ふく葉、弥千穂、富美毬、美惠雛。三味線が、小扇、君有、ふく愛、とし真菜。

江戸・隅田川の渡舟の船頭と船頭を恋い慕う芸者の恋模様を描いた舞である。
隅田川の花火など、江戸の名物を織り込み、不安定な舟の上で、恋路が語られる粋な演目である。


祇園東(藤間流)が演じるのは、長唄「水仙丹前(すいせんたんぜん)」。出演は立方が、まりこ、つね有、叶和佳、雛佑。地方は唄が、美弥子、つね和、富津愈。三味線が、豊壽、満彩希、富多愛。

現在の野郎歌舞伎が発展する前の、和衆歌舞伎(同性愛の対象となったため江戸幕府により禁止になる)や遊女歌舞伎(風紀が乱れるというので幕府によって禁止になる)の粋な部分を再現した演目である。
容姿自慢の男女が、戯れを込めて舞い続ける華やかな作品となっている。


上七軒(花柳流)の演目は、長唄「菖蒲浴衣(あやめゆかた)」。出演は立方が、梅ぎく。地方は唄が、尚ひろ、尚絹、梅嘉。三味線が、里の助、市純、梅志づ。

菖蒲(あやめ)がタイトルに入る作品であるが、同じ漢字である菖蒲(しょうぶ)の方が重要となってくる。五月五日の端午の節句の菖蒲湯、菖蒲酒といった邪気払いの習慣をコロナ退散に掛けて演じられる。


先斗町(尾上流)の演目は、長唄「吉原雀」。江戸の吉原遊郭を舞台とする作品である。出演は立方が、市真芽、市笑。地方の唄が、豆千佳、市穂、久鈴、久桃。三味線が、もみ蝶、市菊、市乃、千鶴。

吉原で出会った遊客と遊女が名残を惜しむ様などが、桜の花と立ち並ぶ吉原の遊女屋を背景に演じられる。江戸を舞台としているだけに、京の雅とは違った気っぷの良さが感じられる舞となっていた。


五花街の舞妓による合同演目「舞妓の賑い」。長田幹彦作詞。佐々紅華作曲による「祇園小唄」がそれぞれの流派の舞で演じられる。出演は、宮川町から菊咲奈、とし七菜、とし菜実、ふく友梨。祇園東から満彩野、叶朋、叶千代、満彩尚。上七軒からふみ幸、勝貴、市すず、ふじ千代。先斗町から秀眞衣、秀芙美、秀千代、秀好。祇園甲部から豆珠、佳つ春、佳つ桃、豆沙弥。地方は唄が、小桃、幸苑、だん満、惠美乃。三味線が、だん佑、ます穂、君鶴、まほ璃。

最初のフォーメーションは、センターが宮川町、下手手前が上七軒、下手奥が祇園東、上手奥が先斗町、上手手前が祇園甲部で、「祇園恋しやだらりの帯よ」まで歌い終わったところで、時計回りに一つずつ場所を移って舞が続けられる。

踊りの流派が違い、振付も異なるため、同じ「祇園小唄」であっても各花街によって踊りはバラバラで、それが面白さとなっている。ラストの「祇園恋しやだらりの帯よ」の「帯よ」のところだけ振付が一緒であることが確認出来る。
2番の「夕涼み」という歌詞のところで祇園東が団扇を取り出して踊るなど、小道具を使うか使わないかといったところも異なっている。

フィナーレは、総出演による「京小唄」。まず舞妓達による舞があり、花道から退場した後で、芸妓達が出演時の格好で現れて舞を披露し、上手、下手、中央の客席にそれぞれ一礼して幕となる。「京小唄」も「祇園小唄」同様、京の春夏秋冬を描いた唄であり、4番とも「ホンに京都はええところ ホンマにぜひきておくれやっしゃ」で締められる。

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2021年6月27日 (日)

観劇感想精選(402) 市川海老蔵企画公演「いぶき、」@南座

2021年6月19日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四條南座で、市川海老蔵企画公演「いぶき、」を観る。といっても海老蔵が出る公演ではなく、コロナ禍によって若手歌舞伎俳優が舞台に立つ機会が激減してしまったことを憂いた海老蔵が企画した公演である。南座ではついこの間まで海老蔵主催の公演が行われており、「いぶき、」に出演する若手歌舞伎俳優達も帯同して、海老蔵の公演が終わった後の南座の舞台上で稽古をさせて貰っていたという。
タイトルの「いぶき、」の「、」には、「次に続くこと」、「歌舞伎の未来への継承」の意味が込められているという。

まず市川九團次による挨拶と作品解説があり、続いて「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」より“願絲縁苧環(ねがいのいとえにしのおだまき)”と“三笠山御殿”、そして「乗合船恵方万歳(のりあいぶねえほうまんざい)」が上演される。

九團次さんとは知り合いの知り合い、もしくは友人の友人という関係で、一度、バーで話したことがある。九團次さんが出演していた舞台「Honganji」のことを話したり、私は市川染五郎(現・二代目松本白鸚)の「野バラ咲く路」が歌えるのでうたってみたりした。


市川九團次の挨拶と作品解説。「妹背山婦女庭訓」の上演される段に至るまでのあらすじや人物紹介などを行い、全員が初役であることを告げる。

 

「妹背山婦女庭訓」は、飛鳥時代を舞台にした作品であるが、歌舞伎の演目の常として事実からは少し離れている。背景にあるのは藤原氏と蘇我氏の対立である。

私が子どもの頃には、645年に蘇我蝦夷を暗殺して成し遂げられたのが「大化の改新」と教わったが、今は蘇我入鹿暗殺は「乙巳の変」と呼ばれ、その後の「大化の改新」とは離して教えられるようである。
それはともかくとして、飛鳥時代に隆盛を極めた蘇我氏と、それを快く思っていなかった中臣氏(後に政に携わるようになった血統は藤原氏を名乗るようになる)の対立という史実がベースにある。ただ、蘇我入鹿が登場するのは史実とは異なり、天智天皇の時代ということになっている。

蘇我蝦夷は蘇我馬子の孫であるが、「妹背山婦女庭訓」では妖術を使う悪漢として登場する。蘇我入鹿の父親が蘇我蝦夷というのは史実通りであるが、蝦夷に子が出来ず、妻に白鹿の生き血を飲ませたところ子を宿し、超人的な能力を持つ入鹿が生まれたということになっている。入鹿の名もこの怪談由来とされている。実際には、祖父が馬子で孫が入鹿という名であることから察せられるように、飛鳥時代には動物の名を子どもに付けることが流行っていたのである。動物の名を付けることは、幕末の土佐でも流行り、坂本龍馬直柔(なおなり)の通称である龍馬も流行りに乗ったものである。キラキラネームというものがあることからも分かる通り、日本は命名が比較的自由な国なので、命名の流行りというものも存在する。

超人・蘇我入鹿を倒すためには、爪黒の鹿の生き血と疑着(執着、嫉妬)の相の女の生き血を混ぜたものを笛に入れて吹くという方法しかないので、疑着の相の女を探す、という話の骨子がある。

なお、史実では蘇我入鹿の時代の都は飛鳥に存在したが、「妹背山婦女庭訓」では、都が平城京に置かれていた時代に変更され、藤原氏の氏神で、この頃にはまだ存在していない春日大社が舞台になっていたりするが、全ては芝居の嘘であり、歴史考証的な事柄は大して意味がない。ただ由来については適宜解説していく。

まず鹿の話であるが、入鹿という名と、鹿が春日大社のお使いであるということに由来している。

 

“願絲縁苧環”(道行戀苧環)に登場するのは、入鹿の妹である橘姫(モデルは県犬養橘三千代であるが、彼女は実際には蘇我氏の娘ではない。演じるのは中村芝のぶ)、烏帽子折求女(もとめ)実は藤原淡海(たんかい。モデルは藤原不比等で、不比等の国風諡号である「淡海公」に由来。演じるのは大谷廣松)、杉酒屋娘のお三輪(中村児太郎)の3人である。

春日大社の鳥居前が舞台である(原作の人形浄瑠璃では、石上神宮の鳥居前となっている)。蘇我氏と藤原氏は対立しているが、橘姫と藤原淡海は互いの素性を知らずに恋仲になっている。一方、藤原淡海にはもう一人、男女の契りを結んだ相手がいる。杉酒屋の娘であるお三輪である。藤原淡海は烏帽子折職人の求女を名乗っていたため、お三輪は彼の正体が藤原氏の貴公子であり、身分違いの恋であるということを知らない。そのため、橘姫のことを責め始める。
険悪な雰囲気となったため、橘姫はその場を去るのだが、求女は橘姫の振袖に赤い苧環(おだまき)の糸を結びつけ、その糸を頼りに跡を追う。お三輪も求女の着物に白い苧環の糸を結びつけ、同じく跡を追おうとするのだが、白い糸は切れてしまう。

大和国が舞台ということで、大和ゆかりの様々な伝承が盛り込まれている。
まず、苧環でありが、これは大和・吉野で義経と別れた静御前の謡「しずやしず しずの苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」が元ネタである。この謡には更に元ネタとなる本歌があり、『伊勢物語』に載っている在原業平の歌「いにしへの倭文(しず)の苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」がそれである。苧環とは糸車(糸巻き)のことで、輪廻をも連想させる「繰り返し」に掛かる言葉であるが、同時に「糸し糸し」ということで「恋し恋し(戀し戀し)」にも繋がっている。
また、着物に糸を付けて、相手の行方をたどるというのは、「三輪山伝説」に由来する。お三輪という名なのはそのためである。

二組の悲恋の男女が登場し、「日本版ロミオとジュリエット」とも呼ばれる「妹背山婦女庭訓」。そのため、お三輪の憂いの表現が重要になるのだが、中村児太郎はきめ細やかな演技を披露。十分に合格点に達している。苧環の糸が切れたことを知った時の絶望の表情などは見事であった。

 

“三笠山御殿”。蘇我氏の館があったのは、飛鳥の甘樫丘であるが、舞台が平城京になっているため、三笠山(春日山)に変わっている。

橘姫が三笠山御殿に戻り、続いて苧環の糸をたどって求女(藤原淡海)が御殿に入ってくる。三笠御殿に戻ったことで橘姫が蘇我氏の娘であること悟った求女は、橘姫に「入鹿が盗んだ十握の剣を取り戻したら祝言を挙げよう」と約束する。

苧環の糸が切れてしまったお三輪だが、なんとか自力で三笠山御殿にたどり着く。そして、偶然出会った顔馴染みの豆腐買おむら(市川新蔵)から求女の正体と、二人が祝言を挙げようとしていることを明かされる。

自らを「賤(しず。ここでも静御前の謡が掛かっている)の女」と語るお三輪には、到底叶わぬ恋であるのだが、それでも一目求女に会いたいと屋敷に上がったところを、現れた女官達に散々になぶり者にされる。お三輪を一目で庶民と悟った女官達は、「到底無理」と分かっていながらお三輪に貴族階級の礼儀作法を真似るよう強要し、徹底していじめまくる。

かなり嫌な印象を受けるシーンであるが、これが漁師鱶七(ふかしち。正体は藤原鎌足の家来である金輪五郎今国。演じるのは市川九團次)に刀で胸を刺し貫かれてもお三輪が喜ぶ伏線となっている。身分違いを乗り越えても、お三輪にはいじめが待っているだけ、ならば疑着の相の女として生き血を入鹿追討に使われた方が求女こと藤原淡海のためとなる。犠牲の美しさへと繋がるのである。
お三輪は輪廻の苧環を手に、来世で求女こと淡海と夫婦になることを夢見ながら息絶える。

“三笠山御殿”でも中村児太郎の繊細な演技が見物で、初役とは思えないほどの好演となっていた。



「乗合船恵方万歳」。江戸の隅田川沿いが舞台である。ということで、常磐津節の浄瑠璃の太夫も『伊勢物語』に掛けた「都鳥」という言葉を歌う。

隅田川を渡り、岸に漕ぎ着けた船。女船頭(中村児太郎)以下、田舎侍(市川新蔵)、芸者(中村芝のぶ)、通人(市川新十郎)、白酒売(市川右若)、大工(市川升三郎)、子守(市川福太郎)の計7名は、数からも分かる通り、七福神に見立てられている。そこに三河萬歳の鶴太夫(市川九團次)と才造の亀吉(大谷廣松)が現れ、全員が芸を披露することになるという、華やかな演目である。

ストーリーらしいストーリーはない歌舞伎舞踊の演目であるが、皆、洒脱な感じもよく出ており、若々しさに溢れる上演となっていた。

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2021年4月19日 (月)

祇園甲部「春の雅」2021.4.14

2021年4月14日 ギオンコーナー&八坂倶楽部にて

午後2時から、弥栄会館内ギオンコーナーで、祇園甲部「春の雅(みやび)」を観る。

新型コロナウイルスの流行により、都をどりは2年連続で中止となったが、今年は代替公演として「春の雅」が行われることになった。
ギオンコーナーは、観光客向けに、舞妓による京舞を始め、華道、茶道、狂言、箏曲、雅楽、文楽などの文化をダイジェスト紹介する施設であり、私もこれまでに一度だけ行ったことがある。
舞台も客席部分も小規模な施設で、しかも客席は前後左右1席空けのソーシャルディスタンスシフトである。今年の都をどりは無くなったが、祇園甲部の芸舞妓の公演が観られるとあって人気で即日完売となり、チケットが手に入ったのは、結局、今日のこの回だけであった。
ギオンコーナーで行われる「芸妓舞妓の舞」は、3つの演目のローテーションで、今日は、「夜桜」、「四季の花」、「芦刈」、「六段くずし」の4つの演目が上演される。3つあるローテーションのうち「六段くずし」だけは全てで上演されるようだ。

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上演開始前に、祇園甲部芸妓組合組合長のまめ鶴からの挨拶があり、今日の司会である孝鶴にバトンタッチ。孝鶴は、それぞれの舞の見所や背景などを紹介する。

「夜桜」の出演は、芸妓の小花と舞妓のあす佳と菜乃葉。「四季の花」が芸妓の真咲と佳つ雛。「芦刈」が芸妓の美帆子。「六段くずし」では、真咲、菜乃葉、佳つ雛、あす佳が出演する。舞台が狭いということもあるが、舞台上で密になることは避ける必要があるということで、最大でも4人という小編成での舞である。
地方(じかた)は、「夜桜」が、君鶴、福奈美、幸苑。「四季の花」は、小桃、だん佑、幸苑。「芦刈」は、ます穂、幸苑、福奈美。「六段くずし」が、君鶴、福奈美、恵美華。地方の前に透明のボードを置くという飛沫対策が取られている。
かげ囃子は、小萬(笛)、豆千鶴(小鼓)、真生(太鼓)。藤舎清鷹。

4演目合計で1時間以内という小規模公演。途中で、司会の孝鶴が、舞妓の菜乃葉と地方の恵美華にインタビューするコーナーがある。菜乃葉は舞妓4年目の「大きい舞妓さん」、恵美華は地方1年目の新人だそうである。菜乃葉は一昨年に南座で行われた都をどりが初出演となったが、2年連続で都をどりが中止になったため、今のところ都をどりへの出演は一度きりとなっているようである。「早く祇園甲部歌舞練場でも踊りたい」と語っていたが、祇園甲部歌舞練場の耐震改修工事はほとんど進んでいないようで、今日も寄付を募っていた。弥栄会館は模様替えされて京都帝国ホテルとなる(祇園甲部からの貸借という形態)が、それも祇園甲部歌舞練場改修工事の資金に充てるためなのかも知れない。

当然と言えば当然なのだが、芸妓の方が優れた舞を見せる。手もピシッと止まるが、腕と体との距離も芸妓の方が近く、無理なくキレを出すことが可能となっている。
上手さだけでなく個性も重要となってくるが、今日はそれぞれに良い味を出せていたように思われた。
都をどりの華やかさには比ぶべくもないが、花街公演の礎を築いた祇園甲部が何もない春を迎えるよりはましである。上演会場も小さいだけに、京舞も間近で観られて、手作り感があるのも良い。
とはいえ、来年は都をどりが観たいところである。

「春の雅」の芸妓舞妓の舞を観た人は、そのチケットで八坂倶楽部のお庭公開にも無料で入ることが出来る。芸妓舞妓の舞を観ずに(もしくはチケットが手に入らずに)お庭公開だけの人は当日料金500円が必要になる。

芸妓舞妓の舞が、午後2時50分過ぎに終わり、それを待つようにして午後3時からは八坂倶楽部で舞妓による「祇園小唄」上演がある。密を避けるために整理番号の若い人は八坂倶楽部の1階で、それより大きい番号の人は2階の大広間で「祇園小唄」を観ることになる。まず1階での上演があり、終わってすぐに2階での上演が始まる。今日の出演は、真矢と佳つ駒の二人。共に昨年、見世出しを行ったばかりで、まだ駆け出しである。比較しなければということではあるが、よく踊れていたように思えた。間近で観られるというのも良い。

八坂倶楽部の庭園は改修工事中で池に水も少なく、今年は桜ももう散ったということで華やかさには欠けたが、青もみじなどは美しく、初々しい舞妓の踊りに重なったりした。

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2021年3月31日 (水)

観劇感想精選(388) 京都四條南座 「三月花形歌舞伎」令和3年3月20日 Aプロ 「義経千本桜」より“吉野山”&“川連法眼館”

2021年3月20日 京都四條南座にて観劇

午後4時15分から、京都四條南座で「三月花形歌舞伎」を観る。平成生まれの若き歌舞伎俳優達が中心となった公演である。AプログラムとBプログラムがあり、キャストが異なるが、本日4時15分開演の夜の部は、Aプログラムでの上演となる。

演目は、「歌舞伎の魅力」(中村米吉が担当)、「義経千本桜」より“吉野山(道行初音旅)”と“川連法眼館(通称・四の切)”。四の切とは、“川連法眼館の場”が「義経千本桜」四段目の切り(最後)にあることからついた通称である。「義経千本桜」は、元々は人形浄瑠璃(文楽)のために書かれた作品で、歌舞伎の「義経千本桜」は人形浄瑠璃の台本を元にした義太夫狂言と呼ばれる類いのものである。文楽でも“川連法眼館の場”は観たことがあるが、文楽では「四の切」という言い方はしないようである。

「歌舞伎の魅力」は、毎回、若手歌舞伎俳優が演目の説明や、歌舞伎に関する様々な紹介を行うもので、今回は中村米吉(播磨屋)が担当する。ちなみに、米吉、尾上右近、壱太郎(かずたろう)、橋之助の4人がローテーションを組んでおり、南座での「三月花形歌舞伎」の「歌舞伎の魅力」の初日最初の回の担当となってのも米吉だそうである。
「三月花形歌舞伎」は、明日千穐楽を迎えるため、米吉が「歌舞伎の魅力」を受け持つのは今回が最後となるようだ。

義太夫の「春の京都の南座で、歌舞伎の魅力語らんとまかり出でたる中村米吉」という言葉に乗って、米吉は花道から登場する。

今日は義太夫の紹介をまず行う。義太夫はわかりやすく言うと、「音楽付きのナレーション」で語りと三味線の二人からなると米吉は説明する。その後、義太夫は自分で退場のセリフを語り、定式幕の後ろへと引っ込むのだが、「義太夫さんが自分で語りながら退場するというアイデアを出したのは私」と米吉は胸を張っていた。

上演されるのは、「義経千本桜」の“吉野山”と“川連法眼館”であるが、それより前に忠信と静御前が登場する“鳥居前”(二段目)のあらすじを米吉は紹介する。義経と静御前の一人二役を行ったり、「会いたくて震える」という西野カナの歌詞を引用したりとユーモラスな語り口である。
その後、忠信のカツラや静御前の衣装、義経から忠信に授けられた甲冑や静御前に渡された初音の鼓などを紹介し、更に用意された巨大パネルで人物相関についても説明を行う。「すっぽん」は異形のものが現れる時に使われると説明し、花道と揚幕についても解説を行う。「揚幕は上がる時に音がして、向こうから誰か役者が出てきますので、皆さん、振り返ってみて下さい」と語るが、実はこれはトラップである。“川連法眼館の場”には、花道から誰かが出てくると思わせて、実は別の所から俳優が登場する場面が存在するのである。

 

「義経千本桜」より“吉野山”。出演は、尾上右近(音羽屋。佐藤忠信、実は源九郎狐)、中村壱太郎(成駒家。静御前)。
背景は吉野山の桜と吉野川。吉野川の装置は、途中に三段のローラーを設置し、川が流れているように見えるよう工夫されている(役者の見せ場では観客の意識が散らないよう、ローラーは止まる)。

若手でもトップクラスの女形と評価されている中村壱太郎。生まれ育ちは東京であるが、中村鴈治郎家の出身ということで、上方も拠点としており、屋号も江戸の成駒屋とは異なるとして、父親である鴈治郎が採用した成駒家という上方系の屋号を用いている。
仕草や表情がとにかく細やかであり、色気と上品さを合わせ持った静御前像を創造している。

尾上右近の狐忠信も凜々しく、動きはダイナミックで言うことなしである。

なお、「義経千本桜」には、澤瀉屋型と音羽屋型があり、宙乗りで有名なのは澤瀉屋型である。音羽屋の尾上右近の狐忠信ということで、当然ながら音羽屋型によって行われ、宙乗りや本物の忠信と狐忠信の早替えなどもないが、“吉野山”の一部で澤瀉屋型を採用したとのことである。

 

“川連法眼館”。出演は、尾上右近と中村壱太郎の他に、中村橋之助(成駒屋。源九郎判官義経)、中村福之助(亀井六郎重清)、中村歌之助(駿河次郎清繁)の三兄弟らが加わる。

壱太郎の静御前は相変わらず可憐なのだが、尾上右近の狐忠信は所作は良いものの、正体を現した時の独特のセリフが、「あれ??」と思うほど全くものになっておらず、これでは不出来と思われても仕方のない水準にしか達していなかった。尾上右近は自主公演「研の會」で“吉野山”を取り上げ、狐忠信をやったことがあるが、“川連法眼館”の狐忠信は初役だそうで、やはり初役で成功出来るほど易しい役ではないようである。自分のものにするにはまだまだ時間が掛かりそうだ。

“川連法眼館”は人気演目で、私も澤瀉屋型を当代の猿之助の狐忠信で、音羽屋型を愛之助の狐忠信で観ているが、いずれも優れた出来であった。そうした実力者と比較されやすいだけに、若手にとっては更なる難関となっているようである。

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2021年2月26日 (金)

劇団音乃屋オンライン公演 音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」(文字のみ)

2021年2月23日

劇団音乃屋のオンライン公演、音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」を視聴。静岡市清水区(旧静岡県清水市)の曹洞宗庵原山(あんげんざん)一乗寺の本堂で収録されたものである。静岡市清水区の三保の松原を始め、日本各地に残る羽衣伝説を題材にした「家族みんなで楽しめる音楽劇」である。宮城聰が芸術監督を務めるSPAC所属の女優で、劇団音乃屋主宰でもある関根淳子の作・演出、天女役。劇団大樹主宰で大蔵流狂言方の川野誠一の伯良(漁師。川野誠一は私立大分高校卒とのことなので、財前直見の後輩、森七菜の先輩となるようである)。新保有生(しんぼ・ありあ。苗字から察するに、先祖がご近所さんだった可能性もある)の作曲・演奏(三味線、篠笛、能管)での上演である。冒頭に一乗寺住職からの挨拶があり、劇団音乃屋主宰の関根淳子からの挨拶と新保有生の演奏が特典映像として収められている。

全国各地に存在する「羽衣伝説」であるが、三保の松原のそばにある御穂神社には天女のものとされる羽衣が今に伝わっている。
羽衣伝説は様々な芸能の素材となっているが、歌舞伎舞踊の「松廼羽衣(まつのはごろも)」が中村勘九郎・七之助の兄弟により、ロームシアター京都メインホールで上演された時には、上演前に行われた芸談で、「静岡公演の昼の部と夜の部の間に三保の松原と羽衣を見に行った」という話をしており、「残っているんなら切って与えたんだから、それを演出に取り入れよう」ということで、夜の部から急遽羽衣を切るという演出を加えたという話をしていたのを覚えている。

三保の松原は風光明媚な地として日本中に知られているが、そこから眺める富士山の美しさでも知られている。富士山は休火山で、今は噴煙は上がっていないが、噴火していた時代もあり、空へとたなびく白煙が天界へと続く羽衣に見立てられたことは想像に難くない。

新保有生による冴え冴えとした邦楽器の音が奏でられる中、まず川野誠一演じる伯良が狂言の発声と所作と様式で状況を説明して松に掛かった羽衣を見つけ、次いで天女役の関根淳子が現れて、返して欲しいと謡の発声で話し掛ける。邦楽を用いることで郷愁や哀愁が自ずから漂う。「舞を行うので衣を返して欲しい」と頼まれた伯良は「嘘偽りではないか」と疑うが、天女は「天に偽りなきものを」と言い、羽衣を纏っての舞を披露する。もちろん嘘ではない、嘘ではないが「芸術とは最も美しい嘘のことである」というドビュッシーの言葉が浮かぶ。天女は天界の人(正確にいうと人ではないが)なので神通力が使えるはずなのであるが、無理に衣を奪い返そうとせず、舞を披露することで羽衣を取り返す。このあたりが、芸能に生きる人々の「舞こそおのが神通力なれ」という心意気であり、今も受け継がれているように思える(伝承での「羽衣」は舞を披露したりはせず、夫婦となった後に天上へと帰ったり、地上に残ったりするパターンが多い。舞によって羽衣を取り返すのは伝世阿弥の謡曲「羽衣」以降である)。
三保の松原を舞台にした「羽衣」作品群には、天女への愛着のみならず、霊峰と仰がれ神格化された富士山(寿命を持った女神である「木花開耶姫=浅間神」に見立てられた)とそこから上る白煙を通した天界への憧れが、背後に隠されていると思われる。

関根淳子と川野誠一の演技と動きも寺院で上演されるに相応しい雅趣がある。現代劇の発声ではないので、セリフが耳に馴染みにくい方もいらっしゃるかも知れないが、日本語字幕付きのバージョンがあったり、英語字幕付きのバージョンがあったり、目の不自由な方のための解説副音声付きのものがあったりと、バリアフリー対応の公演となっている。

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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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2020年10月23日 (金)

コンサートの記(663) 能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」ソーシャルディスタンス対応公演@よこすか芸術劇場

2020年10月18日 横須賀・汐入の横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場にて

午後2時から、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場で、能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」を観る。世阿弥の息子である観世元雅の作による狂女ものの有名作「隅田川」と、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンが「隅田川」を東京で鑑賞した時にインスパイアを受けて書かれた作品「カーリュー・リヴァー」(台本:ウィリアム・プルーマー)の連続上演である。「カーリュー・リヴァー」は最初はオペラと定義されず、「教会上演用の寓話劇」と題してサフォーク州オーフォードの聖バーソロミュー教会という小さな教会で初演されたが、現在ではオペラとして歌劇場で上演されるようになっている。2014年に大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで、山下一史の指揮、井原広樹の演出で観ているが、それ以来、久しぶりの再会となる。

能「隅田川」は、映像や歌舞伎版(南座にて坂田藤十郎の狂女)では観ているのだが、劇場で観るのは初めてとなる。

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よこすか芸術劇場の感染症対策であるが、まず横須賀芸術劇場が入っているベイスクエアよこすかの3階入り口からは1階席前方の席を取った客が入場し、それ以外の客はベイスクエアよこすか4階から入ることで分散を図る。チケットの半券は自分でもぎって箱に入れ、パンフレットも自分で取る。サーモカメラによる検温も行う。
そもそも「幻(GEN)」はチケット発売時に通常の形で売り出したが、それをいったん全て払い戻しとし、客席前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応公演として再度チケットを発売して行われている。
終演後は、混雑を避けるために時差退場が行われた。

 

能「隅田川」の出演は、観世喜正(シテ・狂女)、観世和歌(子方・梅和若丸)、森常好(ワキ・渡し守)、舘田善博(ワキツレ・旅人)。笛:竹市学、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠。演出は観世喜正が行う。観世喜正は2005年からよこすか芸術劇場で「よこすか能」をプロデュースしているそうである。「よこすか能」は蝋燭を使った演出が特徴だそうで、今回も巨大蝋燭数本に小型の蝋燭数百本が灯される中での上演である。日本語字幕付き。

武蔵国と下総国の国境を流れる隅田川。現在とは水路も異なるが、川幅も今の2倍ほどはあった巨大な川である。後に荒川放水路が出来て川幅は狭くなっている。
国境ということで(江戸時代中期以降には二つの国に跨がることが由来である「両国」の東岸が栄えるようになり、後に隅田川以東の葛飾は武蔵国に編入されることになる)、あの世とこの世の境、つまり三途の川にも見立てられている。
とにかく川幅が広いため、渡るのも容易ではない。また坂東の川はよく荒れる。ということで渡し守も何度も川を渡ることはままならず、客を溜めてから渡すことにする。旅人が現れ、渡し守と子細を話す。丁度1年、商人に連れられて来た少年が隅田川を渡ったところで病死した。商人は少年を見捨てて行ってしまったという。今日はそれから1年目ということで供養のための大念仏が唱えられているという。
そこへ、狂女がやって来る。京・北白川に住まいしていた女であり、我が子がさらわれたため、追って東国までやって来たのだ。
隅田川で詠まれた歌として知られる、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」が効果的に用いられ、狂女がただの狂女ではなく、元は教養溢れる人物であったことが偲ばれ、一層の哀感を誘う。

船の上で渡し守が1年前に亡くなった少年のことを語り、狂女がそれが自分の息子だと徐々に気付く。狂女役の観世喜正は、少しずつ少しずつ体を時計回りに回転させ、そのことを表現する。

少年を埋葬した塚の前で念仏が唱えられ、狂女もそれに加わるのだが、突然、念仏に子どもの声が混じり、少年の幽霊が現れる。

少年の幽霊を登場させることに、観世元雅の父親である世阿弥が大反対したという話が残っているが、子方を出すと生々しくなるというのがその理由の一つだと思われる。幽玄さも後退するだろう。だが、この能の本質が「哀感」であるとしたのなら、子方を出した方が狂女の悲しみへの共感はより強まるだろう。目の前に見えているのに触れることも叶わずに訪れる別れ。それこそが「隅田川」を傑作へと昇華しているのだと思われる。
狂女を演じる観世喜正の動きは抑制されたものであったが、それゆえにその心情が惻々と伝わってきた。語らざる雄弁であり、動かざるダイナミズムである。

 

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ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」。日本語字幕付きの上演であるが、タイトルには「キリスト教会上演用の寓話劇」と記されており、舞台に教会のステンドグラスが映されるなど、キリスト教的要素の濃い上演となる。「隅田川」に念仏を唱えるシーンがあるため、よりクッキリと対比を付けたいという意図もあるのかも知れない。

演出は彌勒忠史。小編成のオーケストラのための作品で、指揮者を置かないというのがブリテンの指示である。ただ、今回、オルガンと音楽監督を務めるのが鈴木優人というのが最大の売りであり、鈴木優人だけが客席に背中を向けての演奏し、またそのキャリアから事実上の指揮者であることは明白である。演奏は鈴木の他に、上野星矢(うえの・せいや。フルート)、根本めぐみ(ホルン)、中村翔太郎(ヴィオラ)、吉田秀(よしだ・しゅう。コントラバス)、高野麗音(たかの・れいね。ハープ)、野本洋介(パーカッション)。邦楽器を模した音型が登場するのが特徴である。
出演は、鈴木准(狂女)、与那城敬(渡し守)、坂下忠弘(旅人)、町田櫂(霊の声。ボーイソプラノ。横須賀芸術劇場少年少女合唱団員)、加藤宏隆(修道院長)。巡礼者役(合唱)として、金沢青児、小沼俊太郎、吉田宏、寺田穰二、寺西一真、山本将生、奥秋大樹、西久保孝弘が出演する。

 

「カーリュー・リヴァー」も大型蝋燭2本に火を灯しての上演となる。
まず、「隅田川」でも鳴り物を務めた、竹市学、飯田清一、亀井広忠の3人が登場し、邦楽の演奏を行う。その後、修道僧が登場し、オペラ「カーリュー・リヴァー」が始まるのだが、いかにもキリスト教的な賛美歌風合唱から始まるため、かなりの落差が感じられる。

ブリテンとプルーマーは、亡くなった子を「聖人」としており、そのことからして「隅田川」とはかなり趣が異なる。
出演者達は、口元を布で隠し、頭巾を被っている。大谷刑部こと大谷吉継のようだが、これはコロナ対策であると同時に、宗教的な雰囲気を出す役割も担っていると思われる。

カウンターテナーでもある彌勒忠史は、観世喜正と2018年まで数年に渡って、市川海老蔵の「源氏物語」で共演してきたそうで、能の要素を取り入れた演出となっている。元々はもっと能の型を全面に取り入れるはずだったのだが、コロナの影響で少しシンプルになったようだ。だが、狂女が、さらわれてきた子が我が子だと気付く場面で、「隅田川」の観世喜正と完全に同じゆっくりとした振り返りを取り入れており、能との連続上演ということで、違う作品に同じ動きを取り入れることで却って明らかになる差違を示していく。

「隅田川」では現れるだけだった少年が、「カーリュー・リヴァー」ではキリスト教的な救済を述べる。ブリテンもプルーマーも「隅田川」的哀感ではやはり救いがないと思ったのだろうか。「隅田川」も、日本的「哀れ」を描いた作品であり、他国の人に完全に伝わるかどうかは疑問である。また宗教観の違いもあり、有名な「悲しむ者は幸いである」をメッセージとして入れるべきだと感じたのかも知れない。なによりこれは救済のための「寓話」として再現された「隅田川」である。

鈴木優人を音楽監督とする演奏者達は、邦楽からの置き換えを上手く表現しつつ、高雅な響きを紡ぎ上げる。独唱者も合唱も充実しており、ブリテンの叡智と才気を十全に表現していた。

両作品とも、突如として響き渡る子どもの声が効果的に用いられている(「カーリュー・リヴァー」では舞台奥の紗幕の後ろに少年の姿が浮かび上がる)。それは突然の啓示のようでもあり、闇の中に不意に差し込んできた光のようでもある。金曜日に小林研一郎指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で聴いた、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲のオルガンにもそうした要素があるが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により、未来が全く見えない今現在、求められている救いにも似たものである。
もののわかった振りをした山師的な人々が現れては消えているが、そうした打算的なものとは違った本当の恩寵が、フィクションの世界の中とはいえもたらされていることが、あるいは救いなのかも知れない。

フィクションとは絵空事ではなく、人類の歴史が凝縮されたものである。これまで人類に降りかかってきた数々の悲劇が、そこには詰め込まれているが、にも関わらず人類は今も存在して歩みを続けている。それは希望に他ならない。

 

 

上演終了後、どぶ板通りを歩いてみる。コロナの影響からか、あるいは日曜の夜だからかはわからないが閉まっている店も多い。
一昔前に比べるとアメリカ系の店舗は減ったといわれているが、それでも迷彩服姿の米兵が何人も歩いているなど、日本離れした光景が広がっている。
舗道には横須賀ゆかりの有名人の手形が押してあり、指揮者の飯森範親(鎌倉生まれの葉山育ちだが、横須賀市内にある神奈川県立追浜高校出身)と横須賀市出身のヴァイオリニストである徳永二男(元NHK交響楽団コンサートマスター)の手形が並んでいた。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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