カテゴリー「能・狂言」の62件の記事

2023年1月21日 (土)

観劇感想精選(454) 「万作萬斎新春狂言2023」@サンケイホールブリーゼ

2023年1月18日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで「万作萬斎新春狂言2023」を観る。

まず、飯田豪、中村秀一、野村萬斎、内藤連、野村裕基(プログラム掲載順)による謡初「雪山」が歌われ、野村裕基による小舞「兎」が舞われる。


その後、野村萬斎によるレクチャートークがあるが、「野村裕基が卯年の年男だそうで、だそうでもなにも私の息子なんですが」と、野村裕基が「兎」を舞った理由が述べられる。
野村萬斎のトークは、前半の演目「舟渡聟」に関するレクチャーが大半を占める。「『舟渡聟』は大蔵流にもあるのですが、我々和泉流の方が面白い」として、なぜ面白いのかを解説する。また例によって、狂言が「エア」であることを強調する。確かにエアであることに納得出来ないと狂言を観ても面白くないだろう。また、狂言に出てくる人というのは理性や自制心が飛んでしまっている人も多いのだが、それは観る人の代わりにその場をぶち壊してくれるという要素が強いことが語られる。
野村萬斎は、今年の大河ドラマ「どうする家康」にも出演しているが、「第1回で死んでしまう」と語り、「まだ視聴率が高い内に退場出来て良かった」と前向きに捉えて、「第3回には私は登場するようです」と予告していた。


「舟渡聟」。出演:野村万作(船頭)、野村裕基(婿)、深田博治。
琵琶湖と琵琶湖畔が舞台である。都邊土(都の近辺)から婿入り(婿が舅の家に挨拶に行くこと。今ではこの風習はない)のために琵琶湖は大津松本にやってきた婿であるが、舅の家がある矢橋まで舟に乗ることにする。舅への土産として京の酒と鯛を担いでいる婿であるが、船頭は酒ほしさに婿を脅すことになる。
野村万作の年齢(今年で92歳)を感じさせない体の捌きに方にまず感心する。十代の頃は線の細い優男という印象だった野村裕基だが、今では堂々たる若武者に変貌。今後が楽しみである。


「花折」。出演は、野村萬斎(新発意)、石田幸雄(住持)、高野和憲、内藤連、中村修一、飯田豪。

住持(住職)が出掛けることになるのだが、境内の桜は満開なるも「花見禁制にしたから誰が来ても庭へ入らせないように」と新発意(見習い僧)に言いつける。
そこへ人々が花見に訪れるのだが、新発意は住持の言いつけを守って人々を庭へは入れない。だが人々は寺の外から垣間見る形で花見をし、宴会を始めてしまう。新発意はうらやましくなり、ついには宴会に参加し、人々を寺内に招き入れてしまうのだが……。

タイトルから想像出来ると思われるが、ラストはかなり衝撃的で、客席から声や息をのむ音が伝わってきた。おそらくであるが、「質素倹約」を押しつけてきた時の為政者への強烈なカウンターの意味もあるのであろう。

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2022年9月 1日 (木)

観劇感想精選(444) 「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」2022 第2部

2022年7月25日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後6時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」第2部を観る。午前10時半から第1部の公演があり、少し開けて第2部の公演が行われる。

第2部の演目は、「右近」、狂言「舎弟」、「鞍馬天狗」

女性能楽師の松井美樹によるナビゲーションがあり、公演の趣旨や演目のあらすじが紹介される。同じ内容を白人の男性通訳が海外からのお客さんのために英語に訳した。


「右近」。半能として後半のみの上演である。出演は、吉田篤史、有松遼一。
北野天満宮の右近の馬場が舞台であり、鹿島神宮の神職が在原業平の歌を口ずさむと、桜場の女神(じょしん)が感応して舞を始めるという内容である。
長い袖を腕に絡ませながらの舞であるが、その瞬間に桜の花が咲いて散る様が見えるような、桜そのものの舞となる。おそらく意識しているのだと思われるが、凄いアイデアである。


狂言「舎弟」。出演は、茂山千之丞、鈴木実、網谷正美。
この辺りの者(シテ。茂山千之丞)には兄がいるのだが、名前ではなくいつも「舎弟、舎弟」と呼ばれている。シテの男は「舎弟」の意味が分からないので、ものをよく知っている知り合い(鈴木実)に「舎弟」の意味を聞きに行く。いい年なのに「舎弟」という言葉も意味も知らないということで知り合いは呆れ、「舎弟るといって、人のものを袖に入れて持ち去る」いわゆる盗人だと嘘を教える。シテの男は信じ込んで激怒。兄の正美のところへ文句を言いにやってくる。

いつのまにか「舎弟る」という言葉が一人歩きし、二人で「舎弟る」の話になって別の喧嘩が始まるのが面白い。


「鞍馬天狗」。通常とは異なり、白頭の装束での上演となったが、膨張色ということもあり、鞍馬の大天狗が大きく見えて効果的であった。出演は、原大、茂山逸平、島田洋海、松本薫、井口竜也。
鞍馬寺にはその昔、東谷と西谷があり(東谷って嫌な言葉だなあ)、一年おきに片方の僧侶が相手の所に出向いて花見を行い、それを当地の僧侶がもてなすという習慣があった。そんな折り、東谷を訪れた山伏。正体は鞍馬の大天狗(「義経記」などの鬼一方眼に相当)である。稚児達が遊んでいるが、皆、山伏が来たのを見て帰ってしまう。その中で一人、残った稚児がいる。この子こそ後に源九郎判官義経となり日本一の戦上手として名をはせる人物であるが、「帰ったのはみな平家の稚児、それも平清盛に近い稚児で、自分だけ彼らとは立場が異なる」と語る。それを見た山伏は、兵法の奥義を後に義経となる牛若丸、大天狗の名付けによると遮那王に授けることに決める。

能の演目であるが、狂言方による笑えるシーンなどもあり、大天狗の舞も見事で、能のもう一つの魅力であるダイナミズムが前面に出た演目となった。とにかく迫力がある。

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2022年8月14日 (日)

観劇感想精選(442) 「観世青年研究能」 令和4年8月6日

2020年8月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて

左京区岡崎の京都観世会館で、「観世青年研究能」を観る。午前11時開演。能楽観世流若手による上演だが、時節柄体調不良の者が多く、出演者にかなりの変更がある。

演目は、「田村」、大蔵流狂言「太刀奪」、「杜若」、「鵺」

先日、上七軒文庫のシラス講座「能と唯識」で取り上げられた「鵺」が上演されるということで、講師で観世流シテ方の松井美樹が宣伝していた公演である。今日は本来なら出勤日なのだが、手掛けている仕事も一段落ということで、休みを取って観に行くことにしたのだ。同じ講座を受講している人と会えるかなとも思ったのだが、残念ながら観に行ったのは私一人だけだったようである(松井美樹は地謡として「鵺」に出演していた)。

謡本は、Kindleで買ったものをスマホにダウンロードしており、昨日、一通り読んで来たのだが、いざ本番となると、肝心要のセリフが聞き取れなかったりする。「聞き取れない部分の面白さ」も能にはあるわけだが、なるべくなら謡も聞き取れた方がいい。ということで、売店でミニサイズの謡本「杜若」と「鵺」を購入。不思議なもので本を読んでいると謡も「そう言っているようにしか聞こえない」ようになる。周りを見ると、謡本を手に能を観ている人も結構多い。


謡本を購入する前に観た「田村」。この作品は、YouTubeなどで何度か観たことがあり、あらすじも分かっているのだが、次回は謡本を手に観た方が良さそうである。
「田村」というのは、征夷大将軍・坂上田村麻呂(劇中では田村丸)のことである。
ワキの僧侶は、東国出身で都(京都。平安京)を見たことがないというので、上洛してまず清水寺(「せいすいじ」「きよみずでら」の両方で読まれる)に詣で、そこで地主権現(現在の地主神社)の桜の精(前シテ)と坂上田村丸の霊(後ジテ)に出会うという物語である。「杜若」に出てくる僧侶が京の生まれで東国を見たことがないというので東下りするのと丁度真逆の設定となっている。
出演:谷弘之助(前シテ、後ジテ)、岡充(ワキ。旅僧)、島田洋海(アイ。清水寺門前ノ者)。

坂上田村麻呂と縁の深い清水寺。この演目ではその由来が語られる。懸造りの舞台が有名な清水寺であるが、勿論そればかりではない。音羽の滝の清水や、地主神社、十一面観音などの来歴がシテや地謡によって語られていく。


狂言「太刀奪」。野村万作、野村萬斎、野村裕基の親子三代による和泉流狂言も観ているが、大蔵流は設定からして和泉流とは異なる。

和泉流では太郎冠者がすっぱに太刀を奪われるのであるが、大蔵流では太郎冠者が北野天満宮通いの男の太刀をすっぱよろしく奪おうとするという真逆の設定になっている。
出演:山本善之(太郎冠者)、茂山忠三郎(主人)、山口耕道(道通の者)。

和泉流でも大蔵流でも霊験あらたかな寺社に詣でるのは一緒だが、和泉流の鞍馬寺に対して大蔵流は北野天満宮となっている。どちらも京都の北の方にある寺社ということだけ共通している。


「杜若」。三河の八つ橋の在原業平伝説にちなみ演目である。出演:河村晴道(代役。シテ。杜若ノ精)、有松遼一(ワキ。旅僧)。
当代一の色男にして色好み(三河は「実は三人の女」、八つ橋も「実は八人の女」説があるようだ)、加えて天才歌人と見なされた才能。だがそれ故にか嫉妬され、出世を阻まれ東下り(実際にはそれなりに出世しており、東下りも伝説に留まる)と不遇の貴公子のイメージも強い業平であるが、この演目では、業平の霊と共に業平の愛人である高子后の霊、杜若の霊が一体となって舞う場面がある。
「田村」での田村丸の舞、「鵺」での鵺の前も勇壮であり、気が飛んでくるような迫力があるが、この「杜若」での舞はそれとは真逆の静寂でたおやかなものである。「色ばかりこそ昔なれ」という謡の前に置かれていることから、それは「単なる時の経過」を表していると見ることも出来るのだが、その発想が尋常ではない。「時の過ぎゆく様を舞で表したい」とは普通は着想も実現も出来ない。しかしこの「杜若」での舞は、そうした様子が悲しいほど切実に伝わってきた。時が過ぎゆくほど残酷なことはない。そしてこの杜若の舞が、「草木国土悉皆成佛」へと繋がっていくのである。


「鵺」。以前に春秋座の「能と狂言」公演で観たことのある演目である。世阿弥の作といわれている。出演:寺澤拓海(シテ)、原陸(ワキ。旅僧)、増田浩紀(アイ。里人)。

頭は猿、尾は蛇、手足は虎、胴体は狸に似ているというキメーラの鵺。鳴き声が鵺という鳥(トラツグミ)に似ているので鵺と名付けられた怪物である。近衛天皇の御代(この時の近衛天皇は今でいう中学生と同い年ぐらい。その後、わずか17歳で崩御している)、東三条の空に黒雲が宿り、やがて御所へと押し寄せて近衛天皇を気絶させるほどに苛むものがあった。その正体が鵺である。三位頼政、源三位頼政として知られる源頼政がこの鵺を弓矢で射て退治することになる。

鵺退治の褒美として頼政は宇治の大臣(悪左府の名で知られる左大臣藤原頼長)の手を通して獅子王という剣を拝領するのだが、その時にホトトギスが鳴いたので、頼長は、「ほととぎす名をも雲居に揚げるかな」と上の句を詠み、頼政が「弓張月のいるにまかせて」と下の句を即興で継いだという下りが出てくる。三位頼政も悪左府頼長も平安時代末期の人であり、室町時代初期の人である世阿弥は彼らの最期がどうなったかを当然ながら知っている。それを考えた場合、鵺の最期も悲惨であろうと想像することは必然でもある。

鵺の悪とは、天皇を苛んだことであるが、それ以上に大きななにかがありそうである。だがそれは劇中では明らかにされない。なぜ鵺として現れたのか、なぜ天皇を苛んだのかいずれも謎である。

春秋座で「鵺」を観た時には、渡邊守章が「鵺=秦河勝説」を唱えていたが、世阿弥自身も秦河勝の末裔を名乗っており、秦河勝は能楽(猿楽)の祖ともいわれている。
最晩年に赤穂・坂越に流罪になったともいわれる秦河勝は、キメーラである摩多羅神と同一視されてもいるという。
「鵺」は世阿弥の最晩年に書かれた作品とされている。世阿弥の心に何か去来するものがあったのであろうか。

午前11時に開演して、終演は午後4時近く。約5時間の長丁場であった。

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2022年7月13日 (水)

コンサートの記(787) 日本オペラ「藤戸」@兵庫県立芸術文化センター 2015.3.21

2015年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、日本オペラ「藤戸」を観る。兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)では、日本人作曲家による日本オペラの上演を毎年行っており、今回で3回目になるが、私がHPACで日本オペラを観るのは今日が初めてになる。

「藤戸」は、源平合戦(治承・寿永の乱)、藤戸の浦の戦いを題材にしたオペラである。原作:有吉佐和子(小説ではなく舞踏浄瑠璃のための台本とのこと)、台本&作曲:尾上和彦、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。初演時のタイトルは「藤戸の浦」であったが、後に「藤戸」に改題されている。

1日2回公演であり、午後2時開演の回の主演は、井上美和と迎肇聡(むかい・ただとし)。午後6時開演の公演の主演は、小濱妙美(こはま・たえみ)、晴雅彦(はれ・まさひこ)。他の出演は2回とも一緒で、古瀬まきを、松原友(まつばら・とも)、以降は波の精としてコーラス(コロス)としての出演で、柏原保典、谷幸一郎、水口健次(以上、テノール)、神田行雄、木村孝夫、砂田麗央(すなだ・れお)、下林一也(以上はバスと表記されているが、日本人に正真正銘のバス歌手はいないといわれているのでバリトンということになるのだと思う)。

今日はダブルキャストを共に観てみたいため、2回ともチケットを取った。

オーケストラピットが設けられているが、小編成での演奏。大江浩志(フルート)、奥野敏文(パーカッション)、日野俊介(チェロ)、武知朋子(たけち・ともこ。ピアノ)によるアンサンブルである。指揮は奥村哲也。奥村哲也は尾上和彦のオペラの指揮を何度も手掛けているが、元々はギタリストであり、高校生の時に日本ギターコンクールで2位に入るなど輝かしい経歴の持ち主である。高校卒業後、ロンドンに渡り、同地の音楽院でクラシックギターの他に指揮法や作曲も学んでいる。帰国後は主にオペラの指揮者として活動しており、関西、名古屋、四国の二期会と共演を重ねている。


『平家物語』に描かれ、伝世阿弥作(偽作の可能性が高く、最近は作者不明とされることが多いが)の謡曲などで知られる「藤戸」。一ノ谷の戦いに勝利した源氏が、源範頼を総大将として児島(現在の岡山県倉敷市児島。かつては倉敷市一帯は入江であり、児島は本当に島であった)を攻めようと対岸の藤戸に陣を張るが船がない。そもそも坂東武者を多く集めた源氏は陸戦は得意だが舟戦は得手とはしていない。宇多源氏佐々木三郎盛綱は何とかして先陣の功を上げたいと思っていたが、手段がない。そこにある漁師が、浅瀬を渡って児島に渡る方法を知っていると聞く。藤戸の浦には浅瀬があり、そこを通れば徒歩でも馬でも渡れるという。盛綱は喜ぶが、この事がよそに漏れてはいけないと、漁師を殺してしまう。能では漁師が幽霊となって現れるのであるが、有吉佐和子は、児島への行き方を知っている人物を漁師ではなく、少年に変えているという。そして佐々木盛綱と少年は二人だけの冒険のように児島への秘密のルートを辿るのだ。ただ、有吉版「藤戸」でも案内役である少年はやはり盛綱に殺されてしまう。そして殺された当人ではなく、母親がその様を聞いて発狂するという展開になる。


尾上和彦は、1942年、奈良市生まれの作曲家。京都市立堀川高校音楽コース作曲科(現・京都市立京都堀川音楽高校)在学中に主任講師に認められて放送用音楽の作曲助手として活動を開始(音楽の仕事が忙しすぎて出席数が足りず、高校は中退したそうである)、17歳にして舞台音楽の作曲家として自立し、オラトリオを始めとする声楽作品やオペラ、器楽などその他のジャンルの作曲を多く手掛けてる。放送禁止歌になった「竹田の子守唄」を発掘したり、小オラトリオ「私は広島を証言する」など、シビアな題材を取り上げていることでも知られる。オペラ「藤戸」は「藤戸の浦」という題で、1992年に米国サンフランシスコで初演。大劇場と中劇場で公演を行っている文化施設での初演であり、大劇場ではヴェルディの歌劇「オテロ(オセロ)」上演時間約4時間、中劇場で「藤戸の浦」上演時間約1時間という同時上演が行われたが、「藤戸の浦」は、「1時間で4時間分の密度のあるオペラ」と激賞されたという。


午後2時開演の回、午後6時開演の回共に、日本オペラプロジェクト総合プロデューサーである日下部吉彦、作曲の尾上和彦、演出の岩田達宗によるプレトーク20分、途中休憩15分、オペラ上演60分という変わったスタイルでの上演。


開演前に、演出の岩田さんに挨拶をし、少しお話を伺う。午後6時開演の前にはオペラ上演に適した日本のホールはどこか伺ったのだが、古典派までだったら大阪府豊中市にある大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス。大規模なものだと何だかんだで東京・上野の東京文化会館が最適とのこと。東京文化会館は東京初の音楽専用施設であり、都が威信を懸けただけあって入念の音響だそうである。


音楽、ストーリー共に分かり易いものである。音楽は比較的シンプルであり、特に女が歌うときにはミニマル・ミュージックのような同じ音型のピアノ伴奏が繰り返される(歌自体はミニマルミュージックではない)。

岩田達宗の演出であるが、まず中央に白い壁。左右に白く細い紗幕が数本降りている。幕が上がると、女がすでにおり、後ろを向き、正座をして屈み額を膝に付けている。
紗幕にライトが当たると、水色なのか浅葱色なのか(浅葱色だと別の意味が足されるが)とにかく青系の衣装を着た波の精達が見える。地唄に当たる部分は、彼ら波の精と、千鳥という女装をした着物姿の歌手(今回が松原友が務める)が歌う。ちなみに、「藤戸」はこれまでに90回以上上演されているが、いずれも波の精は女声アンサンブルが務めており、尾上の構想にあった男声による波の精が実現するのは今回が初めてだそうである。女声による波の精を聴いたことがないので何とも言えないが、男声による波の精の方が「リアル」だという想像は付く。
白い壁には「戦争」、「平和」といった文字や、源平の武者達の名前などが浮かぶ。

「白」は勿論、源氏の白旗であるが、平氏の赤旗も「赤=血=殺戮」というイメージの重なりを伴い、藤戸の浦の合戦の場面で登場する(赤い布が上から吊され、バックライトで佐々木盛綱の殺陣が浮かび上がった後で、布が天井から落とされ、波の精達がそれを纏って後ずさりし、平氏の退却を表す)。

日本語歌唱、日本語字幕スーパー付きの上演であるが、時折、歌手が字幕と違う言葉を歌ったのはアドリブなのか、或いは言い間違えたのか。意味は通じるので瑕疵にはならないが。

ちなみに、午後2時開演の回では、佐々木盛綱役の迎肇聡が太刀の刃を上にした形で握っているように見える場面が長く、ちょっと気になった。太刀の場合は刃を上にして握るという発想がなく、抜くときは横にして抜くので、刃は下か横を向いているはずだが、ちょっと力が入ったのかも知れない。抜くときは横にして抜いていたので、日本刀と勘違いしたというわけではないようである。

ダブルキャストの出来であるが、午後6時開演の小濱妙美と晴雅彦の方がメリハリを付けた演技となっていた。佐々木盛綱はある意味歌舞伎的わかりやすさが出て晴雅彦の方が迎肇聡よりも面白かったが、女は井上美和の方が伸びやかさにおいて優っていたように思う。


さて、女の歌と、盛綱の歌の歌詞を比較すると、女のものは素朴で情緒豊か(反戦のメッセージも入っているが)、盛綱の歌詞は理屈っぽい傾向がある(言い逃れをしているのだから当然である)。また盛綱は経文を唱えたり「徳義」という言葉を用いるなど、文字としてもお堅い。旋律も女のものは流れが良いが、盛綱の歌は角がある。女にとっては親子の日常こそが大切なのであって、武士道だの勝つだの負けるだの出世だのはどうでもいいのである。

「情」と「理」などと分けてあれこれ言うのは理の仕事なので書くだけ野暮になるわけだが、武士の世の戦は大将が戦場にいるという点においてまだ情の入り込む余地がある。こうして、戦の中にも涙を誘うような物語も生まれる。ただ近現代の戦争は極めて「非情」である。大将が戦場にいない。映像を見ながら指示している。兵隊はいるが、それに対する情もあるのかないのか。
1990年の湾岸戦争で、初めて我々はそれを目にした。不気味なほど綺麗な風景。コンピューターゲームのワンシーンのような映像。そこでは血が流れているはずだ。だが我々にはそれは見えなかった。

あたかも人間がその場にいないかのような不気味で洗練されすぎた戦争。そうしたあらゆる戦争が今もリアルタイムで行われているのが「現在」だ。


勿論、「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は生きにくい」という夏目漱石の言葉通り、情に棹させば解決するものでもないが、理屈と理屈で格闘し、気にくわないなら殺傷ではなく、「個と個で向き合うこと」、それしか戦争を防ぐ方法はないように思える。

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2022年6月 8日 (水)

観劇感想精選(436) 第71回京都薪能 第2日目

2022年6月2日 左京区岡崎の平安神宮にて

午後6時から、左京区岡崎の平安神宮で、第71回京都薪能第2日目を観る。毎年恒例の京都薪能であったが、昨年、一昨年は新型コロナのために中止となり、3年ぶりの開催となる。少し風が強めだが、雲一つ無い好天となった。

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ロームシアター京都(京都会館)、京都市京セラ美術館、京都国立近代美術館、京都観世会館、細見美術館、みやこめっせ、京都府立図書館、岡崎公園グラウンド、京都市動物園など文化施設が並ぶ左京区岡崎であるが、一方で、平安神宮、真宗大谷派(東本願寺)岡崎別院、東天王こと岡崎神社などの伝統宗教や、阿含宗や生長の家、神慈秀明会といった新宗教の施設も集まっており、京都における一大宗教空間でもある。

2日間に渡って行われる第71回京都薪能。2日目の今日は、京都薪能の復活を祝って、神が舞を披露するという演目が並ぶ。左京区岡崎で、そして平安神宮で行われるのに相応しい演目だ。

上演作品は、観世流能「養老」水波之伝(すいはのでん)、金剛流能「龍田」、大蔵流狂言「福の神」、観世流能「小鍛治」白頭(しろがしら)。例年売られているパンフレットがコロナの影響で売れないというので(あらすじや出演者などを記した紙は受け取れるようになっている)、代わりに茂山茂と鈴木実が舞台上に登場して作品紹介などを行う。


観世流能「養老」水波之伝と金剛流能「龍田」は後半部分のみの上演である。

「養老」は、美濃国(濃州)の養老の滝である。雄略天皇(倭の五王の「武」に比定されることが多い)の勅使が養老の滝を訪れた時に楊柳観音(松井美樹)と養老の山神(吉浪壽晃)が現れ、祝いの舞を行う。今回は水波之伝というバージョン(小書=特殊演出)で、楊柳観音も登場して舞う。しっとりした楊柳観音の舞と豪快な養老の山神の舞の対比が見所。

今回は、全ての演目で神の舞があるが、みな個性豊かで舞そのものも雰囲気も趣も異なり、八百万の神の国・日本とその伝統芸能の個性がはっきりと表れている。


金剛流能「龍田」。紅葉の名所として知られる大和国・龍田明神が舞台となっている。南都(奈良)に寄った僧(村山弘)が河内国まで足を伸ばそうとした途中で竜田川の河畔に至る。
龍田姫=龍田神(金剛永謹)が、優美な舞と幣を振り上げての神楽を行う。薪から舞い上がる煙が龍田姫の後ろで霞のようにたなびき、この世ならぬ雰囲気を作り出していた。


大蔵流狂言「福の神」。狂言ではあるが、笑いは取らないという珍しい演目であり、狂言そのものの面白さよりも祝祭性が優先されている印象を受ける。
福の神(茂山忠三郎)が幸せになる秘訣を歌いながら行う舞がユーモラスである。


観世流能「小鍛治」白頭。本来は赤い頭で登場する後シテ(稲荷明神の霊狐)が白い頭で登場するという特殊演出である。
一条天皇が悪夢にうなされるというので、名刀工である三条小鍛治宗近(岡充)の下に橘道成(有松遼一)を遣わす。一条帝は「宗近に御剣を打たせよ」との夢告を受けたという。勅諚に応えるには自分に勝るとも劣らない相槌を打てるものがいないといけないが、それは難しいので宗近は断ろうとするが、伏見の稲荷大社に参拝したところその加護があり、稲荷神(橋本光史)が相槌を務めることになる。

三条小鍛治宗近がすんでいたのは三条粟田口であり、後に三条派や粟田口派となる名刀工集団を生み出した場所だが、三条粟田口は平安神宮のすぐそばであり、舞台になった場所の近くで上演が行われたことになる。
粟田神社の麓に鍛冶神社という小さな社があり、三条宗近と粟田口吉光も祀られている。
またすぐそばには、「小鍛治」の話に基づく相槌稲荷神社という小さな社もあるが、ここは民家が並ぶ路地の奥に存在するため、大人数で行ったり大声を出しながら歩いたりすることははばかられる神社である。

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2022年5月30日 (月)

観劇感想精選(435) 「狂言三代 祝祭大狂言会」2021振替公演 2022.4.10

2022年4月10日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、「狂言三代 祝祭大狂言会」2021の振替公演を観る。本来は昨年の4月に上演される予定だったのだが、コロナ禍により1年延びた。昨年買ったチケットは有効で、そのまま入ることが出来る。

演目は、野村萬斎による解説に続き、「能楽囃子」(大鼓:山本寿弥、小鼓:大山容子、太鼓:加藤洋輝、笛:竹市学)、「二人袴 三段之舞」(聟:野村裕基、太郎冠者:石田淡朗、舅:高野和憲、兄:野村太一郎)、「月見座頭」(座頭:野村万作、上京の男:野村萬斎)、池澤夏樹の作・野村萬斎の演出・補綴による「鮎」(国立能楽堂委嘱作品。小吉:野村萬斎、才助:石田幸雄ほか)。

中央に一段高くなった舞台があり、そこから上手奥と下手奥に延びる二つの橋懸かりがある。

野村萬斎が3つの演目についての解説を行うが、その前に、昨年行われる予定だった「祝祭大狂言会」について、「狂言会の翌日からまん防だというのでやれやれ(間に合った)と思っていたら中止になった」「荷造りをしていたが、途中で止めることになった」と語る。

「二人袴」に出てくる「通い聟」の制度について述べ、「狂言はエアです」と解説する。

「月見座頭」という不思議なタイトルについては、「座頭が月見をする。といっても見えませんので、月に影響されて鳴く虫の声を聴いて月見をする」と種明かしし、「虫の声もエアです」と述べる。

「鮎」は池澤夏樹による現代狂言だが、鮎を役者が演じるという設定にしたのは萬斎のようである。
内容について萬斎は、「邯鄲の夢」のようなところがあると語っていた。


鋭い響きによって奏でられた能楽囃子(水流を表しているようである)に続いて上演される「二人袴」。元々の登場人物は、聟とその父親という設定のようだが、今回は兄弟という設定に変えて上演される。
初めて袴をはいて歩くという設定の、野村裕基演じる聟のロボットのようなカクカクした動きが笑いを誘う。
以前にも観たことのある演目だが、「表面を取り繕うことの滑稽さ」が描かれているように見える。


「月見座頭」。上京の男(セリフでは「洛中に住まいする者」)と月見座頭が詠む(というより記憶していて語る)和歌が無料パンフレットに記されたものとは一部異なっており、洛中の男は、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(阿倍仲麻呂)、座頭は、「月見れば千々にものこそかなしけれ我が身一つの秋にはあらねど」(大江千里)と詠む(唱える)。
京都の、おそらく東山あたりが舞台だと思われるのに、洛中の男が奈良を詠んだ歌を自作として披露してしまうのもなんだか可笑しい。

「残酷狂言」とも呼ばれることのある「月見座頭」。風雅に満ちた展開が一変して障害者虐待となる。生きることと人間の残酷さが描かれているが、それでも淡々と生きることを選ぶ座頭が心強くもある。狂言は上の者が下の者にしてやられるという展開の作品も多いが、いうなれば下の者の忍辱のようなものがこの話では表されているのだろうか。


「鮎」。池澤夏樹が自身の短編小説を狂言とした作品であるが、小説「鮎」も実は南米の民話を下敷きにしたものとのことである。

池澤夏樹は狂言のファンだそうだが、それでも小説家が狂言を書くのは大変なことのようで、半分くらいは野村萬斎が補作したそうであるが、違和感は拭いえない。

小吉が都に出て出世するが、全ては一炊の夢であったという「邯鄲の夢」や芥川龍之介の「杜子春」などの系譜にある作品である。歌舞伎のような外連を出すなど、新しい表現にチャレンジしているが、野村萬斎の腕をもってしてもここまでというのはショックでもあった。お客さんには好評のようで、笑い声も大きかったが、狂言の一種の「粋」とは異なる作品が出来上がっているように見えた。

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2022年3月16日 (水)

観劇感想精選(432) 野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』@びわ湖ホール2022春

2022年3月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後5時から、びわ湖ホール中ホールで、野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』を観る。「名取川」は、先日、茂山千五郎家の公演で観たばかりなので、比較が出来る。

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まず高野和憲による解説がある。「カラスと雀が親子という話があります。カラスが『コカー、コカー』と鳴き、雀が『チチ、チチ』と応える。これで笑えないと狂言では笑えません」といった話から、狂言における約束事、更に「名取川」と「止動方角」の内容の紹介を行い、「伝統芸能なので、パンフレットに書かれていること以外は起こりません」と語る。「止動方角」には馬が登場し、歌舞伎と違って一人で演じる必要があるのだが、無理な姿勢を続ける必要があり、更に「止動方角」の上演時間は一般的な狂言の演目よりかなり長く、40分ほどあるため、かなり大変だという話もしていた。
最後に高野は、「今苦しい思いをなさっている方もいらっしゃるかも知れません。今日、狂言を観ても何も変わりません。ただ、狂言に出てくる人は失敗ばかりする。それでもたくましく生きている」ということがメッセージになれば、という意味の話で締めた。


「名取川」。出演は、野村万作(僧)、内藤連(名取の何某)。地謡:野村萬斎、高野和憲、野村裕基。後見:石田幸雄。地謡が3人いるのが、茂山千五郎家(大蔵流)と和泉流の違いである。

大蔵流では、シテの僧が自己紹介をする前に謡と舞を行っていたが、和泉流ではそれはない。
遠国(名取川という地名から奥州出身であることが分かる)出身の僧が、受戒をしないと正式な僧侶と認められないというので、比叡山まで出て、戒を授かった。その後、ある寺の大稚児と小稚児から僧としての名前を付けて貰うことにする。僧は大稚児から「希代坊」、小稚児から替え名である「不肖坊」という名を授かる。大蔵流では名の意味が説明されるのだが、和泉流ではそれはない。僧は記憶力が悪いため、大稚児と小稚児に頼んで、名を袖に墨で書き付けて貰った。それでも思い出せないと困るというので、様々な節を付けて謡いながら進む。そうしている内に、現在の宮城県名取市と仙台市の間を流れる名取川という川に差し掛かった僧は、「水かさが増して濁っているが、徒歩で渡れる」と見て、そのまま川へと入るのだが、中央付近は思いのほか深く、水に飲まれてしまう。流されたものはないかと確認し、ものは紛失していないことが分かって一安心の僧であったが、袖に書き付けて貰った僧侶としての名は流れてしまっていた。僧は、「まだ掬えるかも知れない」となぜか思い、笠で名を掬おうとする。これで地謡が「川づくし」の謡を行い、僧が舞う。野村万作は今年で91歳。流石にキレは失せたが、年齢を考えると驚異的に体が動く。

そこに名取の何某が現れ、「名は掬えず雑魚ばかり」とこぼしている僧を、「殺生を行っている」と勘違いして詰め寄る。訳の分からぬことを述べる僧に、名取の何某は、「希代」「不肖」の独り言を述べて、僧が名を思い出すという趣向である。


「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村裕基(主)、石田幸雄(伯父)、飯田豪(馬)。後見は内藤連。

京の東山で茶くらべがあるというので、主が太郎冠者に、「伯父のところへ行って、極上の茶と太刀、それに馬を借りてこい」と命じる。主の家にも茶はあるのだが、「まだ封を切っていない」という謎の理由で借りてこいと命じる、ということでかなりの吝嗇家であることが分かる。一人で借りてこいという命令に、野村萬斎演じる太郎冠者は例によって言い方にアレンジを加え、不承不承であることや主に呆れていることを表す。

上手いこと伯父から茶、太刀、馬を借りることに成功した太郎冠者であるが、伯父から、「この馬は後ろで咳をすると暴れ出す」というので、馬を鎮めるための「寂蓮童子、六万菩薩、鎮まり給え、止動方角」という呪文を授かる。

大成功ということで、意気揚々と戻ってきた太郎冠者であるが、主に「遅い!」と叱責され……。

主を馬に乗せ、わざと背後で咳をして落としたり、立場を入れ替えることになったり(主が太郎冠者になり、太郎冠者が主という設定で進める)という太郎冠者のいたずらが見所。無理無体を言う主に対する復讐劇であるが、太郎冠者も意地が悪そうなのがリアルである。

王子系のルックスである野村裕基、立ち振る舞いも凜々しく、メディアへの露出が増えるにつれて狂言界のアイドルとなりそうな予感がある。

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2022年3月15日 (火)

観劇感想精選(431) 第265回「市民狂言会」

2022年3月4日 京都観世会館にて

午後7時から、京都観世会館で、第265回「市民狂言会」を観る。

演目は、「名取川」(出演:茂山千之丞、丸石やすし)、「真奪(しんばい)」(出演:茂山逸平、茂山七五三、茂山宗彦)、小舞「泰山府君」(茂山忠三郎)、「三人夫(さんにんぷ)」(茂山あきら)、「放下僧(ほうかそう)」(茂山茂)、「朝比奈」(出演:茂山千五郎、鈴木実)


「名取川」。現在の宮城県仙台市と名取市を流れる名取川。この川の名に着想を得たと思われる作品である。
シテの出家(茂山千之丞)は、自己紹介をする前に戒壇に関する謡と舞を行う。
陸奥国出身の出家は、これまで私度僧であったが、比叡山に登って戒壇院で戒を授かり、公認の僧となる。陸奥への帰り道、二人の稚児とのやり取りで、「希代坊」という正式な名と「不承坊」という替えの名を名乗ることになった出家であるが、記憶力が人並み外れて悪いことを自覚しているため、衣の袖に二つの名を書き付けて貰った上で、その名を口ずさみながらみちのくへと向かう。途中、名取川という大きな川に出会った出家であるが、「浅い」と見て徒歩での渡河を決意。しかし水深が思いのほかあり、結局ずぶ濡れ。袖に書いた僧侶としての名も消えてしまう。
そこに通りかかった名取の某(丸石やすし)。出家は、「名を奪ったのはこの男だ」と勝手に決めつけ、名取の某を組み伏せるのだが……。

やり取りをしている内に名前を思い出すという趣向であり、最後はほのぼのと終わる。


「真奪(しんばい)」。生花の中心になる花のことを「真」というそうである。
室町時代も中期となり、太平の世となったことを喜ぶ主人(茂山七五三)は、立花(生花)に凝っているのだが、「真」となる良い花がないので、太郎冠者(茂山逸平)と共に東山まで探しに出掛ける。途中、菊の真を持った男(茂山宗彦。「もとひこ」と読む)と出会った二人。太郎冠者がこの菊の真を奪うことに成功するのだが、逆に持っていた太刀を男に奪われてしまう。それに気付かず、主人に真を渡す太郎冠者であったが、主人から太刀を持っていないことを指摘される。
男が真を届けに行く途中と話していたことから、「同じ道を戻ってくる」と考えた太郎冠者は、主人と共に隠れて待つ。果たして男が戻ってきた。主人が男を後ろから捕まえ、太郎冠者に縄を持ってくるよう命じるのだが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄をなう(泥縄)」のことわざ通りのことを始めてしまい……。

以降は、今年の1月にサンケイホールブリーゼで観た野村萬斎、万作、裕基の「成上がり」と同じ展開となる。違うのは、男が太刀を使って太郎冠者を転がすことと、太郎冠者の物わかりが異様に悪いということである。


小舞「泰山府君」、「三人夫」、「放下僧」
「泰山府君」は短い踊りだが、茂山忠三郎の舞は他の二人に比べるとメリハリに欠ける。
茂山あきらの佇まいと動きの細やかさとそこから生まれる静の迫力、茂山茂のダイナミックさは共に魅力的であった。


「朝比奈」。「あさひな」という読みと「あさいな」という読みがあるようだが、今回は「あさひな」とされている。
鎌倉武士である朝比奈三郎義秀が登場する。庶民を描いた芸能である狂言においては、実在の人物が登場することは比較的珍しい。

そもそも登場するのが閻魔王(鈴木実)と冥界へ向かう途中の朝比奈(読みは「あさいな」である。茂山千五郎)の二人で、共にこの世の人物ではないという、狂言としては珍しい演目である。

この演目も、自己紹介する前に謡や舞がある。囃子方は、杉信太朗(笛)、吉阪一郎(小鼓)、谷口正壽(大鼓)、前川光範(太鼓)。

まず閻魔王が、最近、人間が賢くなってみな極楽に行ってしまい、地獄の商売があがったりになっていると愚痴をこぼす。そこで閻魔自らが六道の辻まで出向き、やって来た霊を罪人として地獄に落としてやろうと企む。
「泣く子も黙る」はずの閻魔が地獄に来る者がいないので困っており、落ちぶれてしまって六道の辻までこちらから出向くというのがまず情けなくて笑える設定となっている。また仕草も情けないものが多い。

やって来たのが折悪しく、剛の者として名高き朝比奈三郎義秀であったことから、閻魔のドタバタが始まる。朝比奈は死に装束をしているが、七つ道具(光背のように見えなくもない)を背負い、堂々たる立ち振る舞いである。橋懸かりにて自己紹介を行う。
朝比奈三郎義秀は、和田義盛の三男。母は巴御前という説があるが、俗説である。
安房国朝夷(あさい)に所領を持ったため、姓を和田から朝比奈に変えたとされる。怪力の持ち主で、鎌倉の代表的な切通しである朝比奈の切通し(鎌倉から横浜市内の金沢八景へと抜ける道)を一夜で開いたという伝説を持つ。
和田合戦では獅子奮迅の働きをするが、結局、和田氏は敗れ、朝比奈は領地のある安房国に逃れたという。以後の消息は不明。ということで、勇猛果敢とはいえ、実は敗軍の武将が閻魔と対峙するという、これまたひねくれた構図となっている。為政者が見た場合、あるいは隠された反権力の意図に気付いたかも知れない。

朝比奈を地獄に導くことに失敗した閻魔は、朝比奈に和田合戦での活躍を語るようせがむ。朝比奈は大倉御所南門の突破、一対三十の力比べに勝ったことなどを朗々と述べる。最後には朝比奈は閻魔を調伏し、極楽への道案内をさせることになる。かなり思い切った逆転の構図である。

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2022年2月12日 (土)

観劇感想精選(426) 「春秋座 能と狂言」2022渡邊守章追善公演

2022年2月6日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「春秋座 能と狂言」を観る。今回は、昨年の4月に逝去した渡邊守章追善公演として行われる。

演目は、狂言「武悪」と能「弱法師」であるが、体調不良者や濃厚接触者が出たため、出演が一部変更になっている。「武悪」で武悪を演じる予定であった野村萬斎(本名:武司)が、先月29日に体調不良のため、念のために当日と翌日の本番を降りたことをTwitterで報告していたが、結局体調は回復せずに降板。父親である野村万作が武悪役を務めることになった。野村万作は「武悪」で主を演じることになっていたが、代わりに石田幸雄が入り、後見も飯田豪から石田淡朗に変わった。
また「弱法師」では、後見が上野雄三から鵜澤光に代わる。

まずは舞台芸術研究センター所長である天野文雄による解説がある。これまでは解説は渡邊守章と天野の二人による対談形式で行われていたが、渡邊の他界により、天野一人で引き受けることになっている。
天野は、「武悪」については解説を行わなかったが、無料パンフレットにある語句解説が野村万作事務所によるものであることを明かし、「狂言というと分かりやすいというイメージがありますが、そんなことはない」と丁寧な語句解説を行った野村万作と萬斎の姿勢を評価した。

能「弱法師」についてだが、大阪の四天王寺の石の鳥居(鎌倉時代のもので重要文化財に指定)とそこから見る夕日の日想観(じっそうかん)について説明を行う。四天王寺の極楽門(西大門)から鳥居を経て見る日想観は、西方に極楽浄土を思い浮かべるという観相念仏(浄土を思い浮かべることで行われる念仏。「南無阿弥陀仏」を唱えるいわゆる念仏=称名念仏とは異なる)である。四天王寺は和宗といって特定の宗派でなく、天台、真言、浄土、真宗、禅宗など多くの宗派の兼学や習合を行っている寺院だが、日想観の儀式は、フェスティバルホールで行われた天王寺楽所の演奏会でも接している
弱法師が四天王寺で日想観を行うのが、「弱法師」のハイライトであるが、まず天野は「弱法師」の成り立ちについて説明する。「弱法師」の作者は、観世元雅。世阿弥こと観世元清の長男である。「弱法師」の他に「隅田川」などの傑作を書いているが、40に満たぬ若さで他界。世阿弥を悲しませた。若死にしたため、残された作品は少ないが、亡者が現れて心残りを語る夢幻能とは異なり、シテは現世で生きている人物としているのが特徴である。「弱法師」でもシテは視覚障害者で一種のマレビトであるが、生きることを選択している俊徳丸である。


狂言「武悪」。狂言の中でも異色作とされている。上演時間も約50分と、一般的な狂言の演目の倍ほどあるが、最初に現れた主(石田幸雄)が自己紹介をせず、いきなり「誰そあるか?」と何度か聞き、次の間に控えていた太郎冠者(深田博治)が馳せ参じるという場面から始まる。
内容もかなり物騒で、主が「武悪は働きが悪いので討て」と太郎冠者に命じる。笑いを取る芸能である狂言でいきなり殺生の話が出るのは珍しい。
武悪という名についてだが、「悪」という字には「悪い」という意味の他に、「悪源太義平」「悪王子」「悪太郎」のように「強い」という意味があり、「武悪」も武芸の達人という意味だと思われる。ところがこの武芸の達人が武力でなく、他の技で主をギャフンと言わせるというところが「弁慶もの」など他の演目にも繋がっている。

武悪を討つよう命じられた太郎冠者であるが、実は二人は幼なじみ。武悪を釣りに誘い出し、水際で武悪を討とうとする太郎冠者であるが、情が勝って武悪を討つことが出来ない。武悪が観念して、首を刎ねるよう太郎冠者に命じるが、やはり太刀を振るうことは出来ず、二人で泣き出してしまうという、これまた狂言らしからぬ展開である。

太郎冠者は、「武悪を討ったと主に告げる」ことに決め、二人は別れる。
さて、命が助かった武悪は清水寺にお礼参りに行き、太郎冠者は武悪の死を不憫に思った主と共に鳥辺野に武悪を弔いに行く。京都の地理や歴史に詳しくない人は余りピンとこないだろうが、鳥辺野というのは京都周辺最大の風葬の地であり、清水寺の南側に広がっていた。当然ながら、清水寺参りの人と鳥辺野に行く人とは出会いやすい。今とは違い、当時は周辺になにもない。という訳で、武悪と主はばったり出会ってしまう。
ここで太郎冠者と武悪は一計を案じ、武悪は幽霊だということにして、主を騙す。
幽霊に化けた武悪は、あの世で出会った主の父親から命じられたとして、主の太刀、短刀、扇などを奪った上で更に脅しをかけ、主が逃げ出してしまうというラストを迎える。

前半は人情サスペンス、後半は主がしてやられる狂言の王道という二部構成のような演目であるが、武悪と太郎冠者の友情が主をやっつけるというメッセージ性豊かな作品ともなっている。血なまぐさい話でありながら本当の悪人が出てこないというのも特徴的である。
幽霊と出会うという夢幻能のスタイルをパロディ化しているという点でも興味深い作品となっており、作者はよく分からないようだが、かなり頭の良い人物であることが察せられる。


能「弱法師」。出演は、観世銕之丞(シテ。俊徳丸)、森常好(ワキ。高安通俊)、野村裕基(アイ。通俊ノ下人)。大鼓:亀井広忠、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。

毎回書いているが、野村裕基は声だけなら父親である野村萬斎と聞き分けられない程にそっくりである。若さを生かしたキビキビとした動きも良い。

事前に金春流の「弱法師」のテキストを読んでいったが、今回は当然ながら観世流のテキストであり、謡を全て聞き取ることは難しい。ただ要所要所は理解可能である。

まず高安通俊が出てきて、「これは河内国、高安の里に、左衛門尉通俊と申す者に候」と自己紹介を行う。高安というのは、現在の大阪府八尾市付近にあった里である。八尾というと関西でもガラの悪い土地というイメージが定着しているが、往時もそうだったのかは不明である。ただ高安という地名からは、「高いところにある安らかな場所=極楽」が連想される。おそらく意図しているだろう。
この高安通俊は、ある人(明らかにされないが、奥さんのようである)の讒言により、息子を追い出さねばならなくなった。不憫に感じた通俊は、大坂・四天王寺に向かい、施行(せぎょう。施しによって善根を積むこと)を7日間行うことにする。下人が現れてそのことを人々に告げる。

そこへ、弱法師(よろぼし)と呼ばれる男がやって来る。よろよろ歩くので弱法師との名が付いたのだが、四天王寺に日想観を行いにやって来たのである。ただ、弱法師は目が見えず、生きているうちから闇の中を進まなければならないことと、親から追われたことを嘆きつつ、日本における仏法最初の寺である四天王寺へと辿り着く。
通俊と弱法師は親子なのだが、最初の内はそれに気付かず、やり取りを行う。木花開耶姫が瓊瓊杵尊と出会ったのが浪花であるという説があることや、梅の花が雪に例えられることを知っている弱法師の教養から、「これはただの乞食ではない」と察した通俊。やがて弱法師が我が子であると見抜くことになる。

さて、弱法師が中腰になったまま地唄を聴く場面がある。地唄は四天王寺の由来を謡うのだが、この場面が「退屈だ」というのでカットされた版があるということを、解説の時に天野が口にしていたが、四天王寺の由来を地唄にしたことはその後に利いてくる。日想観を行う場所こそが聖徳太子がこの世の極楽を願った四天王寺なのである。

目が見えないので日想観を行うことが出来ないはずの弱法師であったが、心の目で日想観を果たし、有頂天となるも、他人にぶつかったことで我に返り、そして最後は通俊と共に弱法師は高安の地へと帰って行くのだが、「高安」が「極楽」に掛かった言葉だとすると、元いた場所への帰還、もしくは二種回向にまで解釈は広がることになる。個人的には余り拡げない方がいいとも感じているが、仏教的な解釈が魅力的であることは否定しがたい。


今回は、狂言と能の上演の後に、渡邊守章追悼トーク「渡邊守章先生と『春秋座―能と狂言』」が行われる。司会は天野文雄。出演は、亀井広忠、大倉源次郎、観世銕之丞。当初出席するはずだった野村萬斎は欠席となったが、渡邊守章死去直後にYouTubeにアップされた5分ほどの映像が流れ、また今回のトークイベントのために書かれたメッセージが読み上げられる。

渡邊守章の本業は、フランス文学者、ポール・クローデル研究家、翻訳家、フランス思想研究家であるが、能や狂言も余技ではなく、本業として取り組んでいたことを天野が語る。

それぞれの渡邊との出会いが語られる。亀井広忠は、四半世紀ほど前、パリに日仏会館が出来たときの記念上演会で出会ったのが最初だそうで、渡邊に「君は誰だ?」と聞かれ、「亀井広忠といって鳴り物をやっています」と答えたところ、「あれ? ターちゃんの息子さん?」と聞かれたそうだ。「ターちゃん」というのは亀井広忠の父親である忠雄のあだ名で、渡邊と亀井忠雄はかなり親しかったようである。

大倉源次郎はまずテレビで渡邊守章を知ったそうである。ジャン=ルイ・バローや観世寿夫らが出ていたNHK番組で渡邊が司会のようなことをしていたそうだ。

観世銕之丞は、父親の観世銕之亟(観世静夫)が渡邊守章演出の舞台に出演したときに、夜遅くに帰ってきてから渡邊の悪口を言いまくっていたそうで、「あの演出家は何を言っているのか分からん!」という父親の口吻から、「渡邊守章というのは怖い人だ」という印象を持っていたという。

実は渡邊守章が舞台芸術センターや春秋座で仕事をするようになったのは、親友である観世榮夫(私の演技の師でもある)が舞台芸術センターや春秋座を運営する京都造形芸術大学の教授を務めていたのがきっかけであり、「能と狂言」公演をプロデュースするようになっている。

野村萬斎からのメッセージは、「能ジャンクション」の思い出や、役者が演出を超えた時の喜びについてで、渡邊も役者が演出以上の演技をした場合はご満悦で、「舞台はやっぱり役者のもの」と語っていたそうである。

春秋座のように、能舞台ではない劇場で能狂言を行うことについて、特に「花道を使わねばならない」と渡邊が決めたことについては、野村萬斎は「橋懸かりと花道は根本的に違い、橋懸かりが彼岸と此岸を結ぶのに対して、花道を使う場合は客席からやって来る。それでは能や狂言にならないと承知の上で使うことに決めた」渡邊の演出法に一定の理解を示している。野村萬斎は、自身が芸術監督を務めている世田谷パブリックシアターでは、舞台の後方に3つの橋懸かりがあるという設計を施し、大阪のフェスティバルホールでの「祝祭大狂言会」でも同様のセットを使ったことを書いていた。
観世銕之丞は、橋懸かりでなく花道を使った場合、シテ柱のそばにある常座(定座)の位置が意味をなさなくなるのでやりにくさを感じていたそうである。観世は語っていなかったが、能面を付けて花道を進むことは危険で、一度、観世が能面を付けて花道を歩いているときに、前のめりに転倒したのを目撃している。幸い大事には至らなかったようだが。

鼓などの鳴り物に関してだが、春秋座は歌舞伎用に設計された劇場であるため、音は鳴りやすく、ストレスは感じないようだ。大倉によると、一般的なホールだと、音が後方に吸い取られてしまうため、客席まで届いているか不安になるそうである。
亀井広忠は、父方は鳴り物の家だが、母親は歌舞伎の家の出身だそうで、両方の血が入っているため、春秋座でやるときは歌舞伎の血がうずくそうである。


最後に野村万作が背広姿で登場し、渡邊守章との思い出を語る。渡邊との出会いは、初めてパリ公演に行ったときで、渡邊が現地で通訳のようなことをしてくれたそうだ。
その後、渡邊が万作に、自分がやる作品に出るよう催促するようになったそうだが、「アガメムノン」をやるとなった時には、断ろうとすると、「だったらもう友達止めるよ」と言われて仕方なく出たそうで、強引なところがあったという話をした。ジャン=ルイ・バローや観世寿夫が出た番組を万作は今のような背広姿で客席で見ていたそうだが、渡邊がそれを見つけて、出演するよう言ったという話もしていた。
ちなみに、「萬斎が言い忘れたことがある」と言い、「萬斎主催の『狂言 ござる乃座』の命名者が渡邊守章」であると紹介していた。

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2022年1月29日 (土)

観劇感想精選(424) 「万作 萬斎 新春狂言 2022」大阪

2022年1月19日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作 萬斎 新春狂言 2022」を観る。

まず新年を祝う謡初・連吟「雪山」でスタート。出演は、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(舞台上手側から下手側に向かう順番)。

次いで、野村萬斎によるレクチャートークがある。萬斎はまず「出にくい中、お越し頂きましてありがとうございます」と述べる。大阪では新型コロナウイルス・オミクロン株の感染拡大が続いており、連日のように新規感染者の最多記録が更新されている。

今回の演目は、「成上がり」と「小傘(こがらかさ)」。野村萬斎による「小傘」は、以前にびわ湖ホール中ホールで観たことがある。

「今年は寅年ということで、関西で寅というと阪神タイガースを思い浮かべてしまう訳ですが」という話から、大阪での「新春狂言」は、毎年その年の干支を題材にした作品を選ぶことにしていると語り、「成り上がり」が寅年にちなむ作品であるとする。
実際には寅年ではなく、寅の日の話なのだが、「寅」繋がりではある。
舞台は洛北・鞍馬寺。主が太郎冠者を連れて、初寅の日に鞍馬寺に参詣する。昔は堂籠の習慣があったようで、そのまま鞍馬寺の堂内か堂の付近で一夜を過ごすことが多かったそうだ。そこへすっぱがやって来て、太郎冠者が眠ったまま抱えている太刀を盗もうとするという話である。
野村萬斎は、コロナが広まってからは感染を避けるために初詣には行っていないようだが、昔は明治神宮などに初詣に行き、「機動隊とまでは行きませんか、警察の方々が装甲車のようなものを並べて、『スリや置き引きにご注意下さい!』と大音量を響かせていた」という話をする。「関西ではそういうのありませんか?」と聞くが、そこまでのことはないような反応である。私は、例えば伏見大社のような参拝客でごった返す神社には初詣に行かないので、状況については全く知識がない。
「熊野別当」という役職についての話になり、「武蔵坊弁慶はご存じですか? 義経と良い関係な人。手下。解釈は色々ありますが、武蔵坊弁慶の父親が熊野別当だった」という話をする。ちなみに、昨年の3月に、野村萬斎は熊野で三谷幸喜脚本のアガサ・クリスティシリーズの新作の収録を行ったと明かしていた。
熊野別当がうっかり太刀を落としてしまう。「武士にとって太刀を落とすというのは大変なことで、今でいうと実印を落とすような」と例えた、人に盗まれないよう太刀自身がくちなわに化けたという話をする。太郎冠者の言い訳が、この熊野別当の太刀落とし由来である。
「今年で91になるお年寄りが、舞台の上でゴロンゴロンします。森光子さんが『放浪記』ででんぐり返しをして拍手を貰ったという話がありますが、家の父親はそれより凄い」

「小傘」については、僧堂を建てたは良いが、肝心の堂守(住職のようなもの)がいないので困っている男が、「街道に出れば誰か見つかるかも知れない」というので出掛けていくところから始まる。丁度、僧形をした男が街道を歩いていた。その男は博打好きで、金子は勿論、家財一式まで失ったという遊び人。僧の身なりをすれば食えるらしいということで、格好だけは僧侶になったが、にわか坊主か三日坊主ということで経典を読むことは一切出来ない。偽僧侶は、弟子を新発意(しんぼち。小僧のこと)に変身させ、小傘を持たせる。堂守を探している男と堂守になりすましたい男が「Win-Winの関係」になり、僧堂に向かうのだが、経が読めないので、「昨日通る小傘が今日も通り候。あれ見さいたいよこれ見さいたいよ」という小歌を経典ぽく謡ってごまかそうとする話である。
「お寺にはキンキラキンのものが一杯ある」というのでそれを盗むのだが、萬斎は、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが出所後に教会に泊めて貰い、金細工や銀細工のものを盗むというシーンに重なるという話をしていた。
ラストに「なーもーだー、なーもーだー」という「南無阿弥陀仏」の六字の省略形が謡われるのだが、「私は浄土真宗の回し者でもなんでもないわけですが」客と一緒にパフォーマンスを行うことにする。萬斎が発する「なーもーだー、なーもーだー」と謡に合わせて、観客が手拍子をするというもので、「以前は、一緒に『なーもーだー』と言う形式でやっていたのですが(コロナ前のびわ湖ホールでの公演ではそういうスタイルでやっていた)、昨今は声を出すのは余りよろしくない」ということで手拍子に変えている。萬斎が「なーもーだー」と言いながら膝を叩くのに合わせて観客が手拍子をした。本番については、「私がそれとなく合図をします」


「成上がり」。出演は、野村万作(太郎冠者)、野村裕基(主)、野村萬斎(すっぱ)という三代そろい踏みである。

鞍馬寺での堂籠の最中に眠ってしまった太郎冠者。そこへ、「去年は不幸せだったが、今年は幸せに」と言いつつ、すっぱがやって来る。太郎冠者が眠り込んでいるのを見て、太刀を抜き取ろうとするが、太郎冠者は寝ているのに反応。そこですっぱは、青竹と太刀をすり替えることでまんまと獲物を手に入れる。
東の空が白んできた頃に目を覚ました主は太郎冠者を起こすが、太郎冠者が抱えていたはずの太刀が青竹に変わっている。そこで太郎冠者は熊野別当の故事を引き合いに出して、「山芋が鰻、蛙が甲虫、燕が飛び魚、嫁が姑(これについては主から突っ込まれる)」になるような成り上がりが起こり、太刀がこの青竹にと誤魔化そうとする。

「成上がり」は大蔵流にもあるそうだが、大蔵流の「成り上がり」はこの場面で終わるのに対し、和泉流は続きがある「デラックス版」となっている(?)そうである。
すっぱに太刀を盗まれたと悟った主は、「すっぱが太刀だけ盗んで帰るとは考えにくい。また近くで盗みを行うだろうから、そこを捕らえよう」と決め、二人で木陰に隠れる。
そこに太刀を持った太郎冠者が再び姿を現す。主がすっぱを羽交い締めにするが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄を綯う」を地で行ってしまい、主を苛立たせる。更にすっぱは太郎冠者を足で転がして妨害する。野村万作が転がった時には拍手が起こっていた。
結局、縄で縛めようとするものの、太郎冠者はすっぱではなく主の二の腕を体に巻き付けてしまい、状況を把握していない主が手を離すと、すっぱはまんまと逃げ出してしまう。

野村萬斎の三代は、三人が三人ともタイプが違うため、良い意味で肉親であることが感じられないような個性の引き立つものになっている。
「雌雄眼」の代表例として挙げられることも多い野村萬斎は、悪党をやるとダークなオーラのようなものが出る。何故そんなものが出るのかは良く分からない。


「小傘」。出演は、野村萬斎(僧)、深田博治(田舎者)、高野和憲(新発意)、内藤連、飯田豪、野村裕基(以上、立衆)、石田幸雄(尼)。この上演では野村万作が後見を務める。
先に書いたように、立派な僧堂をこしらえたものの、肝心の堂守がいないと嘆く田舎者が、街道で堂守候補をスカウトしようとする。そこへ僧(偽物)と新発意(こちらも偽物)がやって来る。博打ですってんてんの僧は、「出家したら金が儲かるらしい」というので、堂守になると見せかけて盗みを働く気でいた。
経が読めないので、小歌をそれらしく謡って誤魔化すと新発意に伝え、続きがある場合は、経典を持ってくるのを忘れたということにするが、新発意が、「堂に経典があったら?」と聞くので、「その時は自分が面白おかしくやって切り抜ける」と自信を見せる。
果たして、堂内には経典があり、「にくい奴」などと僧は述べるが、「自分は子供の頃から修行を行っていて、経文は全て暗記しているので、経は目にする必要はない」とする。
新発意が傘を持っているのを不審がられるも僧は、「傘こそ最高の仏具」とし、拡げた時に「後光になる」としてしまう。
さて、立衆が揃い、僧と新発意は「小傘」の謡を始める。「小傘」の謡は徐々にデフォルメされていき、笑いを誘う。またそれを真面目な顔で聞いている立衆との落差がベルグソン的である。
そして、観客の手拍子入りの「なーもーだー」。アッチェレランドしていき、高揚感が増す。一遍が始めた踊り念仏もかくやと思えるほどエネルギッシュなトランス状態へと見る者を巻き込んでいった。

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