カテゴリー「能・狂言」の56件の記事

2022年3月16日 (水)

観劇感想精選(432) 野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』@びわ湖ホール2022春

2022年3月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後5時から、びわ湖ホール中ホールで、野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』を観る。「名取川」は、先日、茂山千五郎家の公演で観たばかりなので、比較が出来る。

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まず高野和憲による解説がある。「カラスと雀が親子という話があります。カラスが『コカー、コカー』と鳴き、雀が『チチ、チチ』と応える。これで笑えないと狂言では笑えません」といった話から、狂言における約束事、更に「名取川」と「止動方角」の内容の紹介を行い、「伝統芸能なので、パンフレットに書かれていること以外は起こりません」と語る。「止動方角」には馬が登場し、歌舞伎と違って一人で演じる必要があるのだが、無理な姿勢を続ける必要があり、更に「止動方角」の上演時間は一般的な狂言の演目よりかなり長く、40分ほどあるため、かなり大変だという話もしていた。
最後に高野は、「今苦しい思いをなさっている方もいらっしゃるかも知れません。今日、狂言を観ても何も変わりません。ただ、狂言に出てくる人は失敗ばかりする。それでもたくましく生きている」ということがメッセージになれば、という意味の話で締めた。


「名取川」。出演は、野村万作(僧)、内藤連(名取の何某)。地謡:野村萬斎、高野和憲、野村裕基。後見:石田幸雄。地謡が3人いるのが、茂山千五郎家(大蔵流)と和泉流の違いである。

大蔵流では、シテの僧が自己紹介をする前に謡と舞を行っていたが、和泉流ではそれはない。
遠国(名取川という地名から奥州出身であることが分かる)出身の僧が、受戒をしないと正式な僧侶と認められないというので、比叡山まで出て、戒を授かった。その後、ある寺の大稚児と小稚児から僧としての名前を付けて貰うことにする。僧は大稚児から「希代坊」、小稚児から替え名である「不肖坊」という名を授かる。大蔵流では名の意味が説明されるのだが、和泉流ではそれはない。僧は記憶力が悪いため、大稚児と小稚児に頼んで、名を袖に墨で書き付けて貰った。それでも思い出せないと困るというので、様々な節を付けて謡いながら進む。そうしている内に、現在の宮城県名取市と仙台市の間を流れる名取川という川に差し掛かった僧は、「水かさが増して濁っているが、徒歩で渡れる」と見て、そのまま川へと入るのだが、中央付近は思いのほか深く、水に飲まれてしまう。流されたものはないかと確認し、ものは紛失していないことが分かって一安心の僧であったが、袖に書き付けて貰った僧侶としての名は流れてしまっていた。僧は、「まだ掬えるかも知れない」となぜか思い、笠で名を掬おうとする。これで地謡が「川づくし」の謡を行い、僧が舞う。野村万作は今年で91歳。流石にキレは失せたが、年齢を考えると驚異的に体が動く。

そこに名取の何某が現れ、「名は掬えず雑魚ばかり」とこぼしている僧を、「殺生を行っている」と勘違いして詰め寄る。訳の分からぬことを述べる僧に、名取の何某は、「希代」「不肖」の独り言を述べて、僧が名を思い出すという趣向である。


「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村裕基(主)、石田幸雄(伯父)、飯田豪(馬)。後見は内藤連。

京の東山で茶くらべがあるというので、主が太郎冠者に、「伯父のところへ行って、極上の茶と太刀、それに馬を借りてこい」と命じる。主の家にも茶はあるのだが、「まだ封を切っていない」という謎の理由で借りてこいと命じる、ということでかなりの吝嗇家であることが分かる。一人で借りてこいという命令に、野村萬斎演じる太郎冠者は例によって言い方にアレンジを加え、不承不承であることや主に呆れていることを表す。

上手いこと伯父から茶、太刀、馬を借りることに成功した太郎冠者であるが、伯父から、「この馬は後ろで咳をすると暴れ出す」というので、馬を鎮めるための「寂蓮童子、六万菩薩、鎮まり給え、止動方角」という呪文を授かる。

大成功ということで、意気揚々と戻ってきた太郎冠者であるが、主に「遅い!」と叱責され……。

主を馬に乗せ、わざと背後で咳をして落としたり、立場を入れ替えることになったり(主が太郎冠者になり、太郎冠者が主という設定で進める)という太郎冠者のいたずらが見所。無理無体を言う主に対する復讐劇であるが、太郎冠者も意地が悪そうなのがリアルである。

王子系のルックスである野村裕基、立ち振る舞いも凜々しく、メディアへの露出が増えるにつれて狂言界のアイドルとなりそうな予感がある。

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2022年3月15日 (火)

観劇感想精選(431) 第265回「市民狂言会」

2022年3月4日 京都観世会館にて

午後7時から、京都観世会館で、第265回「市民狂言会」を観る。

演目は、「名取川」(出演:茂山千之丞、丸石やすし)、「真奪(しんばい)」(出演:茂山逸平、茂山七五三、茂山宗彦)、小舞「泰山府君」(茂山忠三郎)、「三人夫(さんにんぷ)」(茂山あきら)、「放下僧(ほうかそう)」(茂山茂)、「朝比奈」(出演:茂山千五郎、鈴木実)


「名取川」。現在の宮城県仙台市と名取市を流れる名取川。この川の名に着想を得たと思われる作品である。
シテの出家(茂山千之丞)は、自己紹介をする前に戒壇に関する謡と舞を行う。
陸奥国出身の出家は、これまで私度僧であったが、比叡山に登って戒壇院で戒を授かり、公認の僧となる。陸奥への帰り道、二人の稚児とのやり取りで、「希代坊」という正式な名と「不承坊」という替えの名を名乗ることになった出家であるが、記憶力が人並み外れて悪いことを自覚しているため、衣の袖に二つの名を書き付けて貰った上で、その名を口ずさみながらみちのくへと向かう。途中、名取川という大きな川に出会った出家であるが、「浅い」と見て徒歩での渡河を決意。しかし水深が思いのほかあり、結局ずぶ濡れ。袖に書いた僧侶としての名も消えてしまう。
そこに通りかかった名取の某(丸石やすし)。出家は、「名を奪ったのはこの男だ」と勝手に決めつけ、名取の某を組み伏せるのだが……。

やり取りをしている内に名前を思い出すという趣向であり、最後はほのぼのと終わる。


「真奪(しんばい)」。生花の中心になる花のことを「真」というそうである。
室町時代も中期となり、太平の世となったことを喜ぶ主人(茂山七五三)は、立花(生花)に凝っているのだが、「真」となる良い花がないので、太郎冠者(茂山逸平)と共に東山まで探しに出掛ける。途中、菊の真を持った男(茂山宗彦。「もとひこ」と読む)と出会った二人。太郎冠者がこの菊の真を奪うことに成功するのだが、逆に持っていた太刀を男に奪われてしまう。それに気付かず、主人に真を渡す太郎冠者であったが、主人から太刀を持っていないことを指摘される。
男が真を届けに行く途中と話していたことから、「同じ道を戻ってくる」と考えた太郎冠者は、主人と共に隠れて待つ。果たして男が戻ってきた。主人が男を後ろから捕まえ、太郎冠者に縄を持ってくるよう命じるのだが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄をなう(泥縄)」のことわざ通りのことを始めてしまい……。

以降は、今年の1月にサンケイホールブリーゼで観た野村萬斎、万作、裕基の「成上がり」と同じ展開となる。違うのは、男が太刀を使って太郎冠者を転がすことと、太郎冠者の物わかりが異様に悪いということである。


小舞「泰山府君」、「三人夫」、「放下僧」
「泰山府君」は短い踊りだが、茂山忠三郎の舞は他の二人に比べるとメリハリに欠ける。
茂山あきらの佇まいと動きの細やかさとそこから生まれる静の迫力、茂山茂のダイナミックさは共に魅力的であった。


「朝比奈」。「あさひな」という読みと「あさいな」という読みがあるようだが、今回は「あさひな」とされている。
鎌倉武士である朝比奈三郎義秀が登場する。庶民を描いた芸能である狂言においては、実在の人物が登場することは比較的珍しい。

そもそも登場するのが閻魔王(鈴木実)と冥界へ向かう途中の朝比奈(読みは「あさいな」である。茂山千五郎)の二人で、共にこの世の人物ではないという、狂言としては珍しい演目である。

この演目も、自己紹介する前に謡や舞がある。囃子方は、杉信太朗(笛)、吉阪一郎(小鼓)、谷口正壽(大鼓)、前川光範(太鼓)。

まず閻魔王が、最近、人間が賢くなってみな極楽に行ってしまい、地獄の商売があがったりになっていると愚痴をこぼす。そこで閻魔自らが六道の辻まで出向き、やって来た霊を罪人として地獄に落としてやろうと企む。
「泣く子も黙る」はずの閻魔が地獄に来る者がいないので困っており、落ちぶれてしまって六道の辻までこちらから出向くというのがまず情けなくて笑える設定となっている。また仕草も情けないものが多い。

やって来たのが折悪しく、剛の者として名高き朝比奈三郎義秀であったことから、閻魔のドタバタが始まる。朝比奈は死に装束をしているが、七つ道具(光背のように見えなくもない)を背負い、堂々たる立ち振る舞いである。橋懸かりにて自己紹介を行う。
朝比奈三郎義秀は、和田義盛の三男。母は巴御前という説があるが、俗説である。
安房国朝夷(あさい)に所領を持ったため、姓を和田から朝比奈に変えたとされる。怪力の持ち主で、鎌倉の代表的な切通しである朝比奈の切通し(鎌倉から横浜市内の金沢八景へと抜ける道)を一夜で開いたという伝説を持つ。
和田合戦では獅子奮迅の働きをするが、結局、和田氏は敗れ、朝比奈は領地のある安房国に逃れたという。以後の消息は不明。ということで、勇猛果敢とはいえ、実は敗軍の武将が閻魔と対峙するという、これまたひねくれた構図となっている。為政者が見た場合、あるいは隠された反権力の意図に気付いたかも知れない。

朝比奈を地獄に導くことに失敗した閻魔は、朝比奈に和田合戦での活躍を語るようせがむ。朝比奈は大倉御所南門の突破、一対三十の力比べに勝ったことなどを朗々と述べる。最後には朝比奈は閻魔を調伏し、極楽への道案内をさせることになる。かなり思い切った逆転の構図である。

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2022年2月12日 (土)

観劇感想精選(426) 「春秋座 能と狂言」2022渡邊守章追善公演

2022年2月6日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「春秋座 能と狂言」を観る。今回は、昨年の4月に逝去した渡邊守章追善公演として行われる。

演目は、狂言「武悪」と能「弱法師」であるが、体調不良者や濃厚接触者が出たため、出演が一部変更になっている。「武悪」で武悪を演じる予定であった野村萬斎(本名:武司)が、先月29日に体調不良のため、念のために当日と翌日の本番を降りたことをTwitterで報告していたが、結局体調は回復せずに降板。父親である野村万作が武悪役を務めることになった。野村万作は「武悪」で主を演じることになっていたが、代わりに石田幸雄が入り、後見も飯田豪から石田淡朗に変わった。
また「弱法師」では、後見が上野雄三から鵜澤光に代わる。

まずは舞台芸術研究センター所長である天野文雄による解説がある。これまでは解説は渡邊守章と天野の二人による対談形式で行われていたが、渡邊の他界により、天野一人で引き受けることになっている。
天野は、「武悪」については解説を行わなかったが、無料パンフレットにある語句解説が野村万作事務所によるものであることを明かし、「狂言というと分かりやすいというイメージがありますが、そんなことはない」と丁寧な語句解説を行った野村万作と萬斎の姿勢を評価した。

能「弱法師」についてだが、大阪の四天王寺の石の鳥居(鎌倉時代のもので重要文化財に指定)とそこから見る夕日の日想観(じっそうかん)について説明を行う。四天王寺の極楽門(西大門)から鳥居を経て見る日想観は、西方に極楽浄土を思い浮かべるという観相念仏(浄土を思い浮かべることで行われる念仏。「南無阿弥陀仏」を唱えるいわゆる念仏=称名念仏とは異なる)である。四天王寺は和宗といって特定の宗派でなく、天台、真言、浄土、真宗、禅宗など多くの宗派の兼学や習合を行っている寺院だが、日想観の儀式は、フェスティバルホールで行われた天王寺楽所の演奏会でも接している
弱法師が四天王寺で日想観を行うのが、「弱法師」のハイライトであるが、まず天野は「弱法師」の成り立ちについて説明する。「弱法師」の作者は、観世元雅。世阿弥こと観世元清の長男である。「弱法師」の他に「隅田川」などの傑作を書いているが、40に満たぬ若さで他界。世阿弥を悲しませた。若死にしたため、残された作品は少ないが、亡者が現れて心残りを語る夢幻能とは異なり、シテは現世で生きている人物としているのが特徴である。「弱法師」でもシテは視覚障害者で一種のマレビトであるが、生きることを選択している俊徳丸である。


狂言「武悪」。狂言の中でも異色作とされている。上演時間も約50分と、一般的な狂言の演目の倍ほどあるが、最初に現れた主(石田幸雄)が自己紹介をせず、いきなり「誰そあるか?」と何度か聞き、次の間に控えていた太郎冠者(深田博治)が馳せ参じるという場面から始まる。
内容もかなり物騒で、主が「武悪は働きが悪いので討て」と太郎冠者に命じる。笑いを取る芸能である狂言でいきなり殺生の話が出るのは珍しい。
武悪という名についてだが、「悪」という字には「悪い」という意味の他に、「悪源太義平」「悪王子」「悪太郎」のように「強い」という意味があり、「武悪」も武芸の達人という意味だと思われる。ところがこの武芸の達人が武力でなく、他の技で主をギャフンと言わせるというところが「弁慶もの」など他の演目にも繋がっている。

武悪を討つよう命じられた太郎冠者であるが、実は二人は幼なじみ。武悪を釣りに誘い出し、水際で武悪を討とうとする太郎冠者であるが、情が勝って武悪を討つことが出来ない。武悪が観念して、首を刎ねるよう太郎冠者に命じるが、やはり太刀を振るうことは出来ず、二人で泣き出してしまうという、これまた狂言らしからぬ展開である。

太郎冠者は、「武悪を討ったと主に告げる」ことに決め、二人は別れる。
さて、命が助かった武悪は清水寺にお礼参りに行き、太郎冠者は武悪の死を不憫に思った主と共に鳥辺野に武悪を弔いに行く。京都の地理や歴史に詳しくない人は余りピンとこないだろうが、鳥辺野というのは京都周辺最大の風葬の地であり、清水寺の南側に広がっていた。当然ながら、清水寺参りの人と鳥辺野に行く人とは出会いやすい。今とは違い、当時は周辺になにもない。という訳で、武悪と主はばったり出会ってしまう。
ここで太郎冠者と武悪は一計を案じ、武悪は幽霊だということにして、主を騙す。
幽霊に化けた武悪は、あの世で出会った主の父親から命じられたとして、主の太刀、短刀、扇などを奪った上で更に脅しをかけ、主が逃げ出してしまうというラストを迎える。

前半は人情サスペンス、後半は主がしてやられる狂言の王道という二部構成のような演目であるが、武悪と太郎冠者の友情が主をやっつけるというメッセージ性豊かな作品ともなっている。血なまぐさい話でありながら本当の悪人が出てこないというのも特徴的である。
幽霊と出会うという夢幻能のスタイルをパロディ化しているという点でも興味深い作品となっており、作者はよく分からないようだが、かなり頭の良い人物であることが察せられる。


能「弱法師」。出演は、観世銕之丞(シテ。俊徳丸)、森常好(ワキ。高安通俊)、野村裕基(アイ。通俊ノ下人)。大鼓:亀井広忠、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。

毎回書いているが、野村裕基は声だけなら父親である野村萬斎と聞き分けられない程にそっくりである。若さを生かしたキビキビとした動きも良い。

事前に金春流の「弱法師」のテキストを読んでいったが、今回は当然ながら観世流のテキストであり、謡を全て聞き取ることは難しい。ただ要所要所は理解可能である。

まず高安通俊が出てきて、「これは河内国、高安の里に、左衛門尉通俊と申す者に候」と自己紹介を行う。高安というのは、現在の大阪府八尾市付近にあった里である。八尾というと関西でもガラの悪い土地というイメージが定着しているが、往時もそうだったのかは不明である。ただ高安という地名からは、「高いところにある安らかな場所=極楽」が連想される。おそらく意図しているだろう。
この高安通俊は、ある人(明らかにされないが、奥さんのようである)の讒言により、息子を追い出さねばならなくなった。不憫に感じた通俊は、大坂・四天王寺に向かい、施行(せぎょう。施しによって善根を積むこと)を7日間行うことにする。下人が現れてそのことを人々に告げる。

そこへ、弱法師(よろぼし)と呼ばれる男がやって来る。よろよろ歩くので弱法師との名が付いたのだが、四天王寺に日想観を行いにやって来たのである。ただ、弱法師は目が見えず、生きているうちから闇の中を進まなければならないことと、親から追われたことを嘆きつつ、日本における仏法最初の寺である四天王寺へと辿り着く。
通俊と弱法師は親子なのだが、最初の内はそれに気付かず、やり取りを行う。木花開耶姫が瓊瓊杵尊と出会ったのが浪花であるという説があることや、梅の花が雪に例えられることを知っている弱法師の教養から、「これはただの乞食ではない」と察した通俊。やがて弱法師が我が子であると見抜くことになる。

さて、弱法師が中腰になったまま地唄を聴く場面がある。地唄は四天王寺の由来を謡うのだが、この場面が「退屈だ」というのでカットされた版があるということを、解説の時に天野が口にしていたが、四天王寺の由来を地唄にしたことはその後に利いてくる。日想観を行う場所こそが聖徳太子がこの世の極楽を願った四天王寺なのである。

目が見えないので日想観を行うことが出来ないはずの弱法師であったが、心の目で日想観を果たし、有頂天となるも、他人にぶつかったことで我に返り、そして最後は通俊と共に弱法師は高安の地へと帰って行くのだが、「高安」が「極楽」に掛かった言葉だとすると、元いた場所への帰還、もしくは二種回向にまで解釈は広がることになる。個人的には余り拡げない方がいいとも感じているが、仏教的な解釈が魅力的であることは否定しがたい。


今回は、狂言と能の上演の後に、渡邊守章追悼トーク「渡邊守章先生と『春秋座―能と狂言』」が行われる。司会は天野文雄。出演は、亀井広忠、大倉源次郎、観世銕之丞。当初出席するはずだった野村萬斎は欠席となったが、渡邊守章死去直後にYouTubeにアップされた5分ほどの映像が流れ、また今回のトークイベントのために書かれたメッセージが読み上げられる。

渡邊守章の本業は、フランス文学者、ポール・クローデル研究家、翻訳家、フランス思想研究家であるが、能や狂言も余技ではなく、本業として取り組んでいたことを天野が語る。

それぞれの渡邊との出会いが語られる。亀井広忠は、四半世紀ほど前、パリに日仏会館が出来たときの記念上演会で出会ったのが最初だそうで、渡邊に「君は誰だ?」と聞かれ、「亀井広忠といって鳴り物をやっています」と答えたところ、「あれ? ターちゃんの息子さん?」と聞かれたそうだ。「ターちゃん」というのは亀井広忠の父親である忠雄のあだ名で、渡邊と亀井忠雄はかなり親しかったようである。

大倉源次郎はまずテレビで渡邊守章を知ったそうである。ジャン=ルイ・バローや観世寿夫らが出ていたNHK番組で渡邊が司会のようなことをしていたそうだ。

観世銕之丞は、父親の観世銕之亟(観世静夫)が渡邊守章演出の舞台に出演したときに、夜遅くに帰ってきてから渡邊の悪口を言いまくっていたそうで、「あの演出家は何を言っているのか分からん!」という父親の口吻から、「渡邊守章というのは怖い人だ」という印象を持っていたという。

実は渡邊守章が舞台芸術センターや春秋座で仕事をするようになったのは、親友である観世榮夫(私の演技の師でもある)が舞台芸術センターや春秋座を運営する京都造形芸術大学の教授を務めていたのがきっかけであり、「能と狂言」公演をプロデュースするようになっている。

野村萬斎からのメッセージは、「能ジャンクション」の思い出や、役者が演出を超えた時の喜びについてで、渡邊も役者が演出以上の演技をした場合はご満悦で、「舞台はやっぱり役者のもの」と語っていたそうである。

春秋座のように、能舞台ではない劇場で能狂言を行うことについて、特に「花道を使わねばならない」と渡邊が決めたことについては、野村萬斎は「橋懸かりと花道は根本的に違い、橋懸かりが彼岸と此岸を結ぶのに対して、花道を使う場合は客席からやって来る。それでは能や狂言にならないと承知の上で使うことに決めた」渡邊の演出法に一定の理解を示している。野村萬斎は、自身が芸術監督を務めている世田谷パブリックシアターでは、舞台の後方に3つの橋懸かりがあるという設計を施し、大阪のフェスティバルホールでの「祝祭大狂言会」でも同様のセットを使ったことを書いていた。
観世銕之丞は、橋懸かりでなく花道を使った場合、シテ柱のそばにある常座(定座)の位置が意味をなさなくなるのでやりにくさを感じていたそうである。観世は語っていなかったが、能面を付けて花道を進むことは危険で、一度、観世が能面を付けて花道を歩いているときに、前のめりに転倒したのを目撃している。幸い大事には至らなかったようだが。

鼓などの鳴り物に関してだが、春秋座は歌舞伎用に設計された劇場であるため、音は鳴りやすく、ストレスは感じないようだ。大倉によると、一般的なホールだと、音が後方に吸い取られてしまうため、客席まで届いているか不安になるそうである。
亀井広忠は、父方は鳴り物の家だが、母親は歌舞伎の家の出身だそうで、両方の血が入っているため、春秋座でやるときは歌舞伎の血がうずくそうである。


最後に野村万作が背広姿で登場し、渡邊守章との思い出を語る。渡邊との出会いは、初めてパリ公演に行ったときで、渡邊が現地で通訳のようなことをしてくれたそうだ。
その後、渡邊が万作に、自分がやる作品に出るよう催促するようになったそうだが、「アガメムノン」をやるとなった時には、断ろうとすると、「だったらもう友達止めるよ」と言われて仕方なく出たそうで、強引なところがあったという話をした。ジャン=ルイ・バローや観世寿夫が出た番組を万作は今のような背広姿で客席で見ていたそうだが、渡邊がそれを見つけて、出演するよう言ったという話もしていた。
ちなみに、「萬斎が言い忘れたことがある」と言い、「萬斎主催の『狂言 ござる乃座』の命名者が渡邊守章」であると紹介していた。

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2022年1月29日 (土)

観劇感想精選(424) 「万作 萬斎 新春狂言 2022」大阪

2022年1月19日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作 萬斎 新春狂言 2022」を観る。

まず新年を祝う謡初・連吟「雪山」でスタート。出演は、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(舞台上手側から下手側に向かう順番)。

次いで、野村萬斎によるレクチャートークがある。萬斎はまず「出にくい中、お越し頂きましてありがとうございます」と述べる。大阪では新型コロナウイルス・オミクロン株の感染拡大が続いており、連日のように新規感染者の最多記録が更新されている。

今回の演目は、「成上がり」と「小傘(こがらかさ)」。野村萬斎による「小傘」は、以前にびわ湖ホール中ホールで観たことがある。

「今年は寅年ということで、関西で寅というと阪神タイガースを思い浮かべてしまう訳ですが」という話から、大阪での「新春狂言」は、毎年その年の干支を題材にした作品を選ぶことにしていると語り、「成り上がり」が寅年にちなむ作品であるとする。
実際には寅年ではなく、寅の日の話なのだが、「寅」繋がりではある。
舞台は洛北・鞍馬寺。主が太郎冠者を連れて、初寅の日に鞍馬寺に参詣する。昔は堂籠の習慣があったようで、そのまま鞍馬寺の堂内か堂の付近で一夜を過ごすことが多かったそうだ。そこへすっぱがやって来て、太郎冠者が眠ったまま抱えている太刀を盗もうとするという話である。
野村萬斎は、コロナが広まってからは感染を避けるために初詣には行っていないようだが、昔は明治神宮などに初詣に行き、「機動隊とまでは行きませんか、警察の方々が装甲車のようなものを並べて、『スリや置き引きにご注意下さい!』と大音量を響かせていた」という話をする。「関西ではそういうのありませんか?」と聞くが、そこまでのことはないような反応である。私は、例えば伏見大社のような参拝客でごった返す神社には初詣に行かないので、状況については全く知識がない。
「熊野別当」という役職についての話になり、「武蔵坊弁慶はご存じですか? 義経と良い関係な人。手下。解釈は色々ありますが、武蔵坊弁慶の父親が熊野別当だった」という話をする。ちなみに、昨年の3月に、野村萬斎は熊野で三谷幸喜脚本のアガサ・クリスティシリーズの新作の収録を行ったと明かしていた。
熊野別当がうっかり太刀を落としてしまう。「武士にとって太刀を落とすというのは大変なことで、今でいうと実印を落とすような」と例えた、人に盗まれないよう太刀自身がくちなわに化けたという話をする。太郎冠者の言い訳が、この熊野別当の太刀落とし由来である。
「今年で91になるお年寄りが、舞台の上でゴロンゴロンします。森光子さんが『放浪記』ででんぐり返しをして拍手を貰ったという話がありますが、家の父親はそれより凄い」

「小傘」については、僧堂を建てたは良いが、肝心の堂守(住職のようなもの)がいないので困っている男が、「街道に出れば誰か見つかるかも知れない」というので出掛けていくところから始まる。丁度、僧形をした男が街道を歩いていた。その男は博打好きで、金子は勿論、家財一式まで失ったという遊び人。僧の身なりをすれば食えるらしいということで、格好だけは僧侶になったが、にわか坊主か三日坊主ということで経典を読むことは一切出来ない。偽僧侶は、弟子を新発意(しんぼち。小僧のこと)に変身させ、小傘を持たせる。堂守を探している男と堂守になりすましたい男が「Win-Winの関係」になり、僧堂に向かうのだが、経が読めないので、「昨日通る小傘が今日も通り候。あれ見さいたいよこれ見さいたいよ」という小歌を経典ぽく謡ってごまかそうとする話である。
「お寺にはキンキラキンのものが一杯ある」というのでそれを盗むのだが、萬斎は、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが出所後に教会に泊めて貰い、金細工や銀細工のものを盗むというシーンに重なるという話をしていた。
ラストに「なーもーだー、なーもーだー」という「南無阿弥陀仏」の六字の省略形が謡われるのだが、「私は浄土真宗の回し者でもなんでもないわけですが」客と一緒にパフォーマンスを行うことにする。萬斎が発する「なーもーだー、なーもーだー」と謡に合わせて、観客が手拍子をするというもので、「以前は、一緒に『なーもーだー』と言う形式でやっていたのですが(コロナ前のびわ湖ホールでの公演ではそういうスタイルでやっていた)、昨今は声を出すのは余りよろしくない」ということで手拍子に変えている。萬斎が「なーもーだー」と言いながら膝を叩くのに合わせて観客が手拍子をした。本番については、「私がそれとなく合図をします」


「成上がり」。出演は、野村万作(太郎冠者)、野村裕基(主)、野村萬斎(すっぱ)という三代そろい踏みである。

鞍馬寺での堂籠の最中に眠ってしまった太郎冠者。そこへ、「去年は不幸せだったが、今年は幸せに」と言いつつ、すっぱがやって来る。太郎冠者が眠り込んでいるのを見て、太刀を抜き取ろうとするが、太郎冠者は寝ているのに反応。そこですっぱは、青竹と太刀をすり替えることでまんまと獲物を手に入れる。
東の空が白んできた頃に目を覚ました主は太郎冠者を起こすが、太郎冠者が抱えていたはずの太刀が青竹に変わっている。そこで太郎冠者は熊野別当の故事を引き合いに出して、「山芋が鰻、蛙が甲虫、燕が飛び魚、嫁が姑(これについては主から突っ込まれる)」になるような成り上がりが起こり、太刀がこの青竹にと誤魔化そうとする。

「成上がり」は大蔵流にもあるそうだが、大蔵流の「成り上がり」はこの場面で終わるのに対し、和泉流は続きがある「デラックス版」となっている(?)そうである。
すっぱに太刀を盗まれたと悟った主は、「すっぱが太刀だけ盗んで帰るとは考えにくい。また近くで盗みを行うだろうから、そこを捕らえよう」と決め、二人で木陰に隠れる。
そこに太刀を持った太郎冠者が再び姿を現す。主がすっぱを羽交い締めにするが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄を綯う」を地で行ってしまい、主を苛立たせる。更にすっぱは太郎冠者を足で転がして妨害する。野村万作が転がった時には拍手が起こっていた。
結局、縄で縛めようとするものの、太郎冠者はすっぱではなく主の二の腕を体に巻き付けてしまい、状況を把握していない主が手を離すと、すっぱはまんまと逃げ出してしまう。

野村萬斎の三代は、三人が三人ともタイプが違うため、良い意味で肉親であることが感じられないような個性の引き立つものになっている。
「雌雄眼」の代表例として挙げられることも多い野村萬斎は、悪党をやるとダークなオーラのようなものが出る。何故そんなものが出るのかは良く分からない。


「小傘」。出演は、野村萬斎(僧)、深田博治(田舎者)、高野和憲(新発意)、内藤連、飯田豪、野村裕基(以上、立衆)、石田幸雄(尼)。この上演では野村万作が後見を務める。
先に書いたように、立派な僧堂をこしらえたものの、肝心の堂守がいないと嘆く田舎者が、街道で堂守候補をスカウトしようとする。そこへ僧(偽物)と新発意(こちらも偽物)がやって来る。博打ですってんてんの僧は、「出家したら金が儲かるらしい」というので、堂守になると見せかけて盗みを働く気でいた。
経が読めないので、小歌をそれらしく謡って誤魔化すと新発意に伝え、続きがある場合は、経典を持ってくるのを忘れたということにするが、新発意が、「堂に経典があったら?」と聞くので、「その時は自分が面白おかしくやって切り抜ける」と自信を見せる。
果たして、堂内には経典があり、「にくい奴」などと僧は述べるが、「自分は子供の頃から修行を行っていて、経文は全て暗記しているので、経は目にする必要はない」とする。
新発意が傘を持っているのを不審がられるも僧は、「傘こそ最高の仏具」とし、拡げた時に「後光になる」としてしまう。
さて、立衆が揃い、僧と新発意は「小傘」の謡を始める。「小傘」の謡は徐々にデフォルメされていき、笑いを誘う。またそれを真面目な顔で聞いている立衆との落差がベルグソン的である。
そして、観客の手拍子入りの「なーもーだー」。アッチェレランドしていき、高揚感が増す。一遍が始めた踊り念仏もかくやと思えるほどエネルギッシュなトランス状態へと見る者を巻き込んでいった。

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2022年1月10日 (月)

観劇感想精選(421) 野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16th

2021年11月7日 左京区岡崎の京都観世会館にて

午後2時から、左京区岡崎の京都観世会館で、野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16thを観る。

演目は、まず小舞が3つあり、野村裕基による「鮒(ふな)」、野村萬斎による「鐵輪(かなわ)」、野村万作による「住吉」が舞われる。

「鮒」は、琵琶湖を舞台とした舞で、「美物の数は多けれど中に異なる近江鮒の膾(なます)の味こそすぐれたれ」と訴える大きな鮒に小袖などが与えられ、鮒がいることの目出度さが語られる。

「鐵輪」は、貴船(きぶね)の貴船(きふね)神社が舞台であり、丑の刻参りを行おうとした女性が、安倍晴明が築いた結界によって境内に入れず、目に見えぬ鬼となって消えていくという物語である。この場面は、野村萬斎が安倍晴明を演じた映画「陰陽師」にも登場する。

「住吉」は、大阪の住吉大社が舞台となっている。海路の神である住吉大社から見た瀬戸内海の風情が称される。詞も短く、動きも大きくはないが、動中の静、静中の動を共に表現する必要があり、最も難しい舞の一つに数えられているそうである。


狂言の演目は、「縄綯(なわない)」と「孫聟(まごむこ)」であるが、その前に中村修一による解説がある。

中村は、「まだ解説にはなれていませんので」ということで説明書きを用意しての解説を行う。まず小舞が行われたことに関して、「狂言を観るのは今日が初めてという方もいらっしゃるかも知れませんが、『話が違う』『全然笑えない』と思われた方、大丈夫です。本編はこれからです」と言って、まず3つの小舞の解説を行う。

「縄綯」はタイトル通り縄を綯う話なのだが、中村が太郎冠者が縄を綯うようになるまでの過程を説明する。登場する主が博打狂いだという話をして、借金のカタとして太郎冠者まで取られてしまったという顛末を語る。ただそのまま身売りの話をしても太郎冠者は首を縦に振らないだろうということで、相手先に状を届けるということにして、太郎冠者を相手の家に向かわせる。ところが、借金のカタに取られたと知った太郎冠者はふてくされて、英語で言うボイコットを行う。山一つ向こうまで使いに言ってくれと頼むも、足を痛めているということで拒否。縄を綯(な)ってくれと頼むと、「縄など綯ったことがない」と言い出す。ところが、元の主人のところに新しい主が聞きに行ったところ、実は縄綯いは太郎冠者の特技だという。ということで、太郎冠者を元の主のところに戻し、新しい主が物陰に隠れて太郎冠者が縄綯いをするところと探っていると、太郎冠者は新しい主の悪口三昧。更には会ってもいない新しい主の奥さんや子どもの話をでっち上げて謗り始め……という内容であることを語る。

「狂言というのは、最初に『この辺りの者でござる』と言いますが、ありふれた人々が失敗をしてしまう話」という定義を語った後で、「『私、失敗しないので』でお馴染みの大門未知子の『ドクターX』。野村萬斎も出ております。是非ご覧下さい」と宣伝に繋げていた。

「孫聟」に関しては、「婿入りの話だが、今で言う婿入りではなく、聟が妻の実家に挨拶に行くこと」と解説。また、「おおじ」という言葉が出てくるが、これは「祖父」と書いて「おおじ」と読み、「王子、プリンスのことではありません」と語った。


野村裕基、萬斎、万作による三代の舞。裕基は若いだけに華があるが、同時に軽さもまだ出てしまう。若さが持つ諸刃の剣である。萬斎の仄暗さの表出、万作の泰然とした舞は見応えがある。


「縄綯」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、内藤連(主)、高野和憲(何某)。
野村萬斎演じる太郎冠者は、主の命令に現代人の口調で「はい??」と返すため、本来は舞台上と客席とでは時代が違うはずなのだが、萬斎だけが現代人の心情を持った人物として現れたような印象を受ける。観る側は、萬斎を「視座」として芝居を楽しめば良い。博打狂いで借金まみれ、家内の者をカタとして譲るような人物に仕えているということで、太郎冠者がブラック企業に不承不承勤めるサラリーマンのようにも見えてくる。そうした楽しみ方もありだろう。太郎冠者が現代に生きていたら、ネット上に上司の悪口を書きまくるのかも知れない。


「孫聟」。出演は、野村万作(祖父)、深田博治(舅)、飯田豪(太郎冠者)、野村裕基(聟)。野村万作と裕基が祖父と孫という、現実と同じ役割を演じる(祖父は劇中では母方の祖父である)。裕基は、「祖父にとても可愛がられている孫でござる」と言って笑いを取っていた。
「孫聟」は和泉流の専有曲で、聟と舅が口うるさい祖父がいない間に祝言を済ませようとするのだが、結局、祖父も孫が来ているということを知って祝言に参加し、自分の思い通りにことを進めようと何度も何度も同じことを口にし、舅がそれを食い止めようとこれまた同じことを繰り返すという、反復の妙が生きた作品である。

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2021年9月 2日 (木)

観劇感想精選(410) 枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」@枚方市総合文化芸術センター

2021年8月30日 枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールにて観劇

午後7時から、関西医科大学の隣に出来た枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールで、枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」を観る。

枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホール(ネーミングライツによるもので、関西医科大学が運営している訳ではない)を始めとする枚方市総合文化芸術センター本館の正式オープンは9月で、今回は杮落とし的公演となる。

公演タイトル名は、辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」であるが、実際の上演順は逆である(表記は「末廣かり」であるが、読みは「すえひろがり」である。流派によって違うようだが、基本的に祝いのための演目なので、濁点が付くのは良くないのだと思われる)。
杮落とし的公演であるため、スタッフも全く慣れておらず、開場の際にミスがあったり、開演前のアナウンスで、「辰巳満次郎『末廣がり』、野村萬斎『船弁慶』」と真逆に紹介されたりと色々ある。

開場の時は3列なのが見て分かったのだが、他の人は慣れてないのか一番手前の1列目のみに一列で並んでいた。私は一番奥、つまり手前から3列目を選んだのだが、3列目のスタッフがホワイエへの入り口の扉を開けるのを忘れているというミスがあった。まあ、笑いで済んだが。そんなことがあったが、他の列はもっと慣れていないようで、結果として、ホワイエに入ったのも客席内に入ったのも私が一番先であった。自慢になることなのかどうかは分からないけれども。


まず、枚方市文化芸術アドバイザーの辰巳満次郎(宝生流能楽シテ方)による解説があり、続いて野村萬斎ほかによる狂言「末廣かり」と辰巳満次郎ほかによる能「船弁慶」が上演される。

辰巳満次郎は、この公演が即日完売となったことを告げて、「伝統芸能の公演が即日完売となるのは本当に珍しいことで、『流石、枚方市民は文化度が高い』と萬斎と話しておりました」と語る。それから、「私は『すえひろがり』はやりません。さっき、お気づきになった方、いらっしゃると思いますが」

まずは能狂言の初歩ということで、舞台上の説明から。
「こちら、橋懸かりと言います。『廊下』って言っちゃう人いるんですが、橋懸かりです」
その後、初心者にも分かるよう能狂言のお約束と、「末廣かり」と「船弁慶」のストーリーについて丁寧な説明を行う。

狂言に関しては、「今は大声で笑うのはよろしくないとされているようですが、余り口を開けずにそっと笑って下さい」

「船弁慶」の義経は子役がやるが、「人手が足りない訳ではありませんで」高貴な身分は子役が演じるという慣例があり、また義経と静という恋愛関係にある者同士を大人が演じると生々しくて、能においてはよろしくないとされるようである。

能と狂言を観るには想像力が必要ということで、「敢えてセットを置いていません。セットを置いてもいいんですが、それだと誰がやっても一緒になる」「想像力を使わないとつまらない、下手したら居眠りしちゃう」とも語っていた。


狂言「末廣かり」(和泉流)。出演は、野村萬斎(果報者)、野村太一郎(太郎冠者)、石田淡朗(すっぱ)。後見:深田博治。大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。

果報者は身分が高いということで、野村萬斎は素早い足取りで思いっ切り前に出る。多分、萬斎ファンはこれだけで大笑いなのであろうが、そこまでの萬斎ファンは今日は来ていないようだ。
以前に歌舞伎版で観た演目であるが、原作の狂言は歌舞伎版とは登場人物からして異なっている。

正月。果報者(長者)が縁起の良い末廣かり(扇のこと)を買ってくるよう太郎冠者に命じる。太郎冠者は「京まで行けば何でも売っていましょう」と買い物に出掛けるが、京まで着いたところで末廣かりがなんのことか聞くのを忘れてしまったことに気づく。そこで、「すえひろがりあるか?」「すえひろがり買おう」と言いながら往来を歩くことにする。
それを見たすっぱ(詐欺師、悪知恵の働く者)が、「騙してやろう」と近づく。すっぱは唐傘を「これがすえひろがりじゃ」と言って売りつけることにする。果報者が出した末廣かりの条件はいくつかあるが、すっぱは口八丁で丸め込む。それでも「戯れ絵」についてはすぐには妙案が浮かばないが、「絵」ではなく「柄(え)」であるとして、太郎冠者相手に戯(たわむ)れ、「これが戯れ(ざれ)柄」ということにしてしまう。
高い金を払って唐傘を購入して帰ってきた太郎冠者。当然ながら果報者は激怒するが、太郎冠者はすっぱが言ったすえひろがりについて説明を続ける。それでも当たり前ではあるが果報者の怒りは収まらない。そこで太郎冠者は、すっぱがうたっていた謡を披露することにして……。
太郎冠者の謡は、「三笠山(若草山、春日山の別名)」と傘と「春日山(こちらは具体的には春日大社を指す)」の神を掛けたものである。狂言と能の基となった猿楽は、奈良の興福寺とその鎮守である春日大社の下級神官や職員が始めたとされており、目出度さがより一層高まる。

果報者を演じる野村萬斎は、太郎冠者などをやる時とは違い、独自性は余り出さないが、身のこなしの巧みさや滑稽さで魅せる。


能「船弁慶」(宝生流)。ポピュラーであると同時に、劇場の「船出」を祝うのに相応しいということで選ばれた演目だと思われる。出演は、辰巳満次郎(シテ:静。後シテ:知盛の怨霊)、辰巳紫央莉(義経。子役)、原大(弁慶)、原陸(従者)。アイ(間)として野村裕基が船頭を演じる。
大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。後見:山内崇生、石黒実都。地謡:辰巳大二郎、澤田宏司、辰巳孝弥、辰巳和麿。

平家を滅亡に追いやり、英雄となった源義経だが、兄である鎌倉殿こと源頼朝との仲が悪化。義経は一転して追われる身となる。
尼崎の大物浦にやって来た義経一行。義経は、「女連れとあっては体裁が悪い」ということもあり、静をいったん京に帰すことにする。弁慶を通して静に京に帰るよう命じたのだが、静は、「弁慶が自分を騙そうとしているのではないか」と疑い、義経に真偽を直接問う。義経の意志だと知った静は金の烏帽子を被って白拍子の舞を行い、泣く泣く京へと帰っていく。
大物浦から出た船であるが、天候が悪化し、波が荒くなり、遠くから知盛を始めとする平氏の亡霊が現れる。長刀を振り回す知盛に対して、義経も刀で応戦しようとするが、亡霊なので幾太刀浴びせようと一向に応える気配がない。そこで弁慶が仏法で知盛を調伏する。

芸能者であるだけに、武よりも身につけた芸を上位に置くという演目の系譜に入るものであるが(「勧進帳」もそうだが、一番強そうな弁慶が武力で押し通そうとしないところが妙味となっている)、新型コロナが猛威を振るっており、収束への祈りも込められているように感じられた。

見ようによってではあるが、中国のように民衆を力で押さえつけて無理矢理終わったということにしている国もあり(中国は情報操作を行っている典型的な国なのでコロナ罹患者数のデータは当てにならないと見て間違いないだろう)、西洋各国も行っているロックダウンなど強制力を伴う支配に関する話が日本でも起こっている。だが、あらゆる意味でそれは危険で、日本はあくまで強権発動をしない形で抑えたいという意志も感じられる。芸能や表現の歴史を見れば、それは当然であるといえる。

野村萬斎の息子である野村裕基。顔は父親に余り似ておらず、井上芳雄系の美男子であるが、声は萬斎にそっくりで、声だけだと本当に萬斎と間違えるのではないかと思えるほどに酷似していた。

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2021年8月15日 (日)

コンサートの記(738) アンサンブル九条山コンサート VOL.12 観世流能楽師・浦田保親×アンサンブル九条山「彼岸にて」

2021年8月6日 烏丸迎賓館通りの京都府立府民ホールアルティにて

午後7時から、京都府立府民ホールアルティで、アンサンブル九条山コンサート VOL.12 観世流能楽師・浦田保親×アンサンブル九条山「彼岸にて」を聴く。文字通り、観世流の能楽師である浦田保親とアンサンブル九条山によるコラボレーション。

現代音楽への挑戦を続けるアンサンブル九条山。2010年にヴィラ九条山のレジデントであったヴァレリオ・サニカンドロによって現代音楽アンサンブルとして結成され、2015年からは演奏家による企画を主体的に行う団体として再始動している。今日の出演は、太田真紀(ソプラノ)、畑中明香(はたなか・あすか。打楽器)、石上真由子(いしがみ・まゆこ。ヴァイオリン)、上田希(うえだ・のぞみ。クラリネット)、福富祥子(ふくとみ・しょうこ。チェロ)、森本ゆり(ピアノ)。

能舞を行う浦田保親は、1967年生まれ。父親は観世流職分・浦田保利。3歳で初舞台を踏み、10歳で初シテを「猩々」で演じている。2012年には長男である親良との「ちかの会」を結成。復曲能や新作能にも意欲的に取り組んでいる。重要無形文化財総合指定保持者。


曲目は、まず早坂文雄の「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」より「孤独」と「漳州橋畔口吟」の2曲が太田真紀によって歌われ、畑中明香の演奏による石井眞木の「サーティーン・ドラムス」を挟む形で残りの2曲である「嫁ぎゆく人に」と「うぐひす」の歌唱が行われる。後半にはメシアンの代表作の一つである世の終わりのための四重奏曲が演奏される。


黒澤映画の作曲家としても知られる早坂文雄。仙台生まれの札幌育ち。家庭の事情で中学卒業後すぐに社会に出ており、作曲は独学である。同じ北海道出身の伊福部昭や三浦敦史らと札幌で新音楽連盟を結成。この頃、サティ作品に傾倒し、いくつかの曲を日本初演している。1939年に東宝映画に音楽監督として入社し、黒澤明との名コンビで知られたが、結核の悪化により41歳の若さで他界。その死に際して黒澤明は、「両腕をもがれたよう」と悲嘆に暮れている。同じく結核に苦しんでいた武満徹は、早坂のために「弦楽のためのレクイエム」を書き上げた。
「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」は、佐藤春夫のごくごく短い詩の一節を選んで作曲したものだが、四つの歌を通すと一つの物語が浮かぶように設計されている。
汎東洋主義を掲げた早坂文雄。この歌曲でも尺八の息づかいを応用するなど、独特の試みがなされている。
「漳州橋畔口吟」に浦田保親が登場。扇子を持って舞う。


石井眞木(男性)の「サーティーン・ドラムス」。タイトル通り13の太鼓で演奏される曲である。数種類のバチの他、素手でも演奏が行われる。畑中明香のダイナミックな演奏が魅力的である。
浦田保親は、榊の付いた杖を持って登場。神へ奉納するような舞を見せる。


メシアンの世の終わりのための四重奏曲(ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノのための)。20世紀に作曲された最高の室内楽作品の一つとして高く評価されており、その特異な曲名と共に有名である。演奏は、石上真由子、上田希、福富祥子、森本ゆり。
森本ゆりの硬質のピアノが、全曲を通して良いアクセントとなっている。

世の終わりのための四重奏曲は、第二次大戦中にドイツの捕虜収容所にて書かれ、1941年にメシアン自身のピアノで初演されている。ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという編成は、たまたま捕虜収容所で一緒だった演奏家を念頭に入れたが故の産物である。世の終わりのための四重奏曲というタイトルは『ヨハネ黙示録』に由来するが、意味的には「時の終わりのための四重奏曲」とした方が原題に近いようである。

この曲では浦田は増女の能面を付けて登場。まずは赤の着物、次いで白の着物、最後は頭に鳳凰の飾りを付けた天女の衣装で現れる。
アルティは舞台が可動式で自由に設計することが出来るが、今日は中央部を張り出した独特の設置。舞台奥側から俯瞰で見ると凸型に見えるはずである。

能面を付けると視界がほとんど遮られるはずだが、浦田はそれを感じさせないキレのある舞を披露。舞台端や演奏家のすぐそばまで寄るため、見ているこちらがヒヤヒヤしたりもした。

オリヴィエ・メシアンの母親は、詩人であり、メシアンがまだお腹の中にいる時に、「いまだかつて誰も聴いたことのない音楽が聞こえる」という詩を書いたというが、生まれた息子は本当に「誰も聴いたことのない音楽」を生み出すことになる。
世の終わりのための四重奏曲は、この世とあの世の対比が描かれるのだが、それはまさに能が描き続けてきた世界である。
上田希のピアニシモで彼方から響き始めるかのようなクラリネットの音は、異人である能の登場人物の肉声のように聞こえたりもする。
余り指摘されてはいないはずだが、メシアンの音楽は天体と親和性があり、天の川や星々の煌めきが音楽で描写されたようなところがある。「天国への階段」とされるラストも、同時に満点の星空へと吸い込まれていくような「魂の昇華」が目に見えるかのようだ。

浦田の舞も、本当の意図は分からないが、衣装の変遷とメシアンの音楽とのストーリー性、また演奏者が全員女性であるということから、三者三様というよりも三つの女性の舞を通して「女人往生」に繋がるものがあるようにも見えた。一言で表せるほど単純なものでもないと思われるが。

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2021年7月10日 (土)

観劇感想精選(403) 大槻能楽堂 「野村万作 萬斎 狂言会 第26回」

2021年7月1日 大阪・上町の大槻能楽堂にて観劇

午後6時30分から、大阪・上町の大槻能楽堂で、「野村万作 萬斎 狂言会 第26回」を観る。大槻能楽堂は、大阪メトロ谷町線の谷町4丁目駅と谷町6丁目駅の中間にあるのだが、今日は行きは谷町6丁目駅を、帰りは谷町4丁目駅を使った。

演目は、「呂蓮(ろれん)」(出演:野村万作、中村修一、石田淡朗)、野村万作による芸話、「寝音曲(ねおんぎょく)」(出演:野村萬斎、内藤連)。

開場直前に大槻能楽堂付近は雨が落ち始める。野村萬斎は雨男として知られているが、彼らしい降り方だ。もっとも、私が野村萬斎の公演を観に行った時に雨が降ったのは今日で2度目なので、それほど酷い雨男というわけでもないように思われる。


「呂蓮」は、和泉流と大蔵流とでは結末が異なる演目として知られている。東日本を回った旅の僧(野村万作)が、今度は西日本を巡ろうと思い立つが、妻子も宿もなき流浪の身ゆえ、まずは今夜の宿を請う。対応した宿主(中村修一)は、仏道の旅の話を聞き、極楽往生の絶対を知って、自分も出家したいと願い出る。僧は、「出家しなくても往生に変わりはない」と止めようとするが、宿主は、心がけが異なるだろうからと決意を示す。奥さんに相談してからではどうかと僧は提案するのだが、宿主は、「いつ僧になる気か」と奥さんに聞かれたこともあり、話はついていると語る。そこで僧侶は宿主の剃髪を行う。
宿主は今度は、「法名が欲しい」と願い出る。宿主の名前は「修一」で、出演者が本名を名乗る設定のようである。僧は「良い名だからそのままで」と言うのだが、宿主はそれらしい法名が欲しいと引かない。僧は「いろは歌」を携えていたため、それにちなむ名前を付けようとする。宿主は、「蓮(はちす)」の字を入れて欲しいと頼む。そこで僧は「い蓮」ではどうかと提案するが宿主は気に入らない。「もっと長い名が良い」というので、僧は「ちりぬるを蓮」と名付けるが今度は長すぎる。「い蓮で駄目なら、ろ蓮も駄目だろう」と思い込んでいた僧だが、宿主は「ろ蓮」を気に入り、「呂蓮坊」と名乗ることが決まった。そこへ奥さん(石田淡朗)が現れるのだが、これがなんとも怖ろしい人で……。

出家をするというので厭世的な意図を宿すともされる演目だが、今日観た限りではそんな印象は受けず、愛し合っている夫婦の家に上がり込んでしまった僧の失敗談と受け取れる。僧と夫婦とはそもそもが別世界を生きる人々なのだが、僧がそれを見抜けなかったことで起こる滑稽さと寂しさが胸に残る。


野村万作による芸話。「猿に始まって狐に終わる」という言葉があるそうなのだが、これは野村万作の家だけに伝わる言葉で、万作の父親(六世野村万蔵)以外は記していないそうである。
万作の家では、「靫猿(うつぼざる)」で初舞台を踏み、「しびり(痺れのこと)」などを経て、「大学の卒業論文的なもの」として「釣狐」を演じるそうである。

初舞台を「靫猿」で踏むというのはやはり難しいようで、万作は兄の野村萬と二人で「靭猿」を演じることになったのだが、兄が病気になるなど上手くいかなかったそうである。その他にも、猿役の子どもが泣き叫んで開演が20分遅れた、子ども(この時は狂言の家ではなく一般家庭の子どもが抜擢されたようである)が出演を拒否して、結局、別の演目を上演することになった、子どもの勢いが良すぎて舞台から落ちてしまったなどの失敗談があるそうだ。

万作は、伝統芸能の家に生まれた者の常として、幼い頃から稽古を付けられている。幼稚園から小学校1年生の途中ぐらいまでは祖父に教わっており、祖父はやはり孫は可愛いということで優しく教えてくれたそうで、稽古の終わりにご褒美までくれたそうである。その後は父親に就いたのだが、父親は、「早くものにしないと」ということで稽古はかなり厳しかったそうだ。小学校から帰ると、ランドセルを放り出して友達と遊びに、それも父親に見つからないような場所へと出掛けたのだが、父親が探しに来て、耳を引っ張られて連れ戻され、稽古が始まったそうである。当然ながら、当時は稽古が嫌で仕方なかったそうだ。

中学校2年生の時に終戦を迎えるのだが、その前年に空襲によって万作の実家は焼失。父親も意気消沈して、「こんなことで息子達に狂言を続けさせていいものか」という心根をインタビューで語って、関係者や記者達に、「そんなことで狂言の家が絶えては困る」と苦言を呈されたという。ただ、そうした出来事があったことで万作も、「狂言師として生きていく」という決意を逆に固めたそうだ。早稲田大学入学後には、歌舞伎や現代劇など他のジャンルの演劇を観に出掛けては研究し、狂言サークルを立ち上げて、同じ学生に指導も行うなど、狂言にのめり込んでいくことになる。

変わって、落語の話。万作は、六代目三遊亭圓生が好きで、3日ほど前からは彼の書いたものを読んでいるそうである。圓生は、「日本語は語尾までしっかり語るべき」という信念を持っており、これは狂言にも共通するものだという。
私の演技の師は、観世榮夫なのだが、観世も「日本語は言葉の末尾に重要な意味が来るから、最後までしっかり発音するように」と指導していた。
圓生は、子どもの頃は義太夫をやっており、歌も上手く、また狂言なども好きで、高座に上がる時に、「やるまいぞやるまいぞ」と言いながら登場したという話もあるそうだ。
万作は上方の落語家では米朝も好きだそうだが、米朝も茂山千之丞と親しく、狂言にも造詣が深かったという話をしていた。


「寝音曲」。昨夜、主(内藤連)が宴の前を通り過ぎた時に、太郎冠者(野村萬斎)が良い声で謡うのを聞き、「目の前で謡わせよう」と太郎冠者を呼ぶのだが、太郎冠者は、「面倒なことになる」と悟り、「酒を飲まないと謡えない」「妻の膝枕の上でないと声が出ない」と言って断る。主は太郎冠者に謡わせるために酒を用意し、自分の膝枕の上で謡うよう命じる。不承不承謡い始める太郎冠者であったが……。

萬斎の「声の出ないふり」の演技の滑稽さが笑いどころであるが、そうしたふざけた態度としっかりとした美声で歌われる謡や興に乗って繰り出す舞の技術の確かさとの落差が激しく、技量のある狂言方でないと出来ない演目であることが察せられた。

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2021年3月21日 (日)

配信公演 滋賀県犬上郡甲良町制作 新作能「高虎」(文字のみ)

2021年3月12日

ぴあのWeb配信で、新作能「高虎」を観る。びわ湖ホールに「ローエングリン」を観に行った時にチラシを見つけたもの。藤堂高虎の出身地とされる滋賀県犬上郡甲良町が制作したものである。初演は令和元年10月19日であるが、コロナ調伏を願って全国配信版が新たに制作され、14日23時59分まで有料配信された。

甲良町長の挨拶があった後で、まず第1部として舞・笙「禍(まが)ごとの鎮め」が上演される。白拍子舞人:井上由理子、楽人:和田篤志。
磯禅尼が始め、娘である静御前が継いだとされる白拍子だが、平安時代末までそうしたものが生まれなかったと考えるのは不自然であり、また二人とも架空の人物である可能性もある。特に静御前については、モデルになった人はいたかも知れないが、物語に出てくるように常に義経の傍らにいたという部分は怪しい。義経の正妻が河越氏出身であることが執権となった北条氏にとっては不都合だったため、静御前という実在の不確かな女性を前に出すことで隠蔽した可能性も高い。

ただ白拍子がいつ生まれたのかは、ここでは特に大きなことではない。コロナ禍を鎮めるための雅やかな舞である。即興による部分が多いとのことだが、謡がなかなか聞き取れない。やはり伝統芸能の謡を聞き取るには相当の訓練が必要なようである。

 

第2部、能「高虎」。まずマンガによる能「高虎」の紹介がある。

新作能「高虎」。出演は、寺澤拓海(前ツレ・高虎の母)、浦部好弘(前シテ・高虎の父)、浦部幸裕(後シテ・高虎)、有松遼一(ワキ・天海僧正)、岡充(ワキツレ・従僧)。間狂言の出演、茂山茂(茶屋の主)、茂山宗彦(もとひこ。旅の者)、井口竜也(茶屋の妻)。

藤堂高虎は現在の滋賀県犬上郡甲良町の在士八幡宮付近の生まれとされ、在士八幡宮の藤の下が舞台となる。高虎は築城の名手として知られ、自らの居城の他に江戸城の縄張りも手掛けるなど、徳川家康からの信頼も厚かった。戦でも先陣は、譜代は井伊、外様は藤堂と決まっていた。

天海僧正が、江戸から京に向かうことになる。南禅寺山門供養のためである。途中、近江国で、満開の藤の花を見つけ、花の下で掃除をしている老夫婦にここはどこかと訪ねる。老夫婦は、甲良の在士八幡宮だと答え、この地が藤堂高虎公ゆかりの地であることを告げる。天海は今は亡き高虎と懇意であった。老夫婦の正体が高虎の両親の霊であることが明かされ、前場が終わる。

間狂言は、高虎が若い頃の話に基づいている。仕官先を求めて東へ向かい、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)で無一文で空腹となっていたところで餅屋を見つけて餅を食べるも銭がない。だが餅屋の主は銭を求めず、「東に行くのではなく故郷に戻りなさい」と高虎に勧める。故郷に戻った高虎は豊臣秀長に仕え、出世の第一歩を築く。高虎は後に吉田に行き、出世払いをしたという話である。
この狂言では、「三河国に住まい致す者」が京へ上る途中、近江国の茶屋に寄り、高虎の話が好きな茶屋の主から餅を振る舞われるという話になっている。
旅の者(茂山宗彦)が餅を豪快に食らうシーンが見せ場である。

後場。藤の花の下で眠りに就いた天海僧正の前に高虎の霊が現れ、昔を懐かしみ、大坂夏の陣での大活躍を舞で表現すると同時に身内を失った苦悩を吐露する。南禅寺山門は、高虎が親族を弔うために再建したものであり、天海がそこを訪れて供養を行うことを知って喜ぶのだった。

高虎は、主君を度々変えたということもあって、所領も頻繁に変わっており、築城した城も多い。新作能「高虎」にも、今治城や津城など、高虎が築いた名城が登場する。

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2021年2月26日 (金)

劇団音乃屋オンライン公演 音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」(文字のみ)

2021年2月23日

劇団音乃屋のオンライン公演、音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」を視聴。静岡市清水区(旧静岡県清水市)の曹洞宗庵原山(あんげんざん)一乗寺の本堂で収録されたものである。静岡市清水区の三保の松原を始め、日本各地に残る羽衣伝説を題材にした「家族みんなで楽しめる音楽劇」である。宮城聰が芸術監督を務めるSPAC所属の女優で、劇団音乃屋主宰でもある関根淳子の作・演出、天女役。劇団大樹主宰で大蔵流狂言方の川野誠一の伯良(漁師。川野誠一は私立大分高校卒とのことなので、財前直見の後輩、森七菜の先輩となるようである)。新保有生(しんぼ・ありあ。苗字から察するに、先祖がご近所さんだった可能性もある)の作曲・演奏(三味線、篠笛、能管)での上演である。冒頭に一乗寺住職からの挨拶があり、劇団音乃屋主宰の関根淳子からの挨拶と新保有生の演奏が特典映像として収められている。

全国各地に存在する「羽衣伝説」であるが、三保の松原のそばにある御穂神社には天女のものとされる羽衣が今に伝わっている。
羽衣伝説は様々な芸能の素材となっているが、歌舞伎舞踊の「松廼羽衣(まつのはごろも)」が中村勘九郎・七之助の兄弟により、ロームシアター京都メインホールで上演された時には、上演前に行われた芸談で、「静岡公演の昼の部と夜の部の間に三保の松原と羽衣を見に行った」という話をしており、「残っているんなら切って与えたんだから、それを演出に取り入れよう」ということで、夜の部から急遽羽衣を切るという演出を加えたという話をしていたのを覚えている。

三保の松原は風光明媚な地として日本中に知られているが、そこから眺める富士山の美しさでも知られている。富士山は休火山で、今は噴煙は上がっていないが、噴火していた時代もあり、空へとたなびく白煙が天界へと続く羽衣に見立てられたことは想像に難くない。

新保有生による冴え冴えとした邦楽器の音が奏でられる中、まず川野誠一演じる伯良が狂言の発声と所作と様式で状況を説明して松に掛かった羽衣を見つけ、次いで天女役の関根淳子が現れて、返して欲しいと謡の発声で話し掛ける。邦楽を用いることで郷愁や哀愁が自ずから漂う。「舞を行うので衣を返して欲しい」と頼まれた伯良は「嘘偽りではないか」と疑うが、天女は「天に偽りなきものを」と言い、羽衣を纏っての舞を披露する。もちろん嘘ではない、嘘ではないが「芸術とは最も美しい嘘のことである」というドビュッシーの言葉が浮かぶ。天女は天界の人(正確にいうと人ではないが)なので神通力が使えるはずなのであるが、無理に衣を奪い返そうとせず、舞を披露することで羽衣を取り返す。このあたりが、芸能に生きる人々の「舞こそおのが神通力なれ」という心意気であり、今も受け継がれているように思える(伝承での「羽衣」は舞を披露したりはせず、夫婦となった後に天上へと帰ったり、地上に残ったりするパターンが多い。舞によって羽衣を取り返すのは伝世阿弥の謡曲「羽衣」以降である)。
三保の松原を舞台にした「羽衣」作品群には、天女への愛着のみならず、霊峰と仰がれ神格化された富士山(寿命を持った女神である「木花開耶姫=浅間神」に見立てられた)とそこから上る白煙を通した天界への憧れが、背後に隠されていると思われる。

関根淳子と川野誠一の演技と動きも寺院で上演されるに相応しい雅趣がある。現代劇の発声ではないので、セリフが耳に馴染みにくい方もいらっしゃるかも知れないが、日本語字幕付きのバージョンがあったり、英語字幕付きのバージョンがあったり、目の不自由な方のための解説副音声付きのものがあったりと、バリアフリー対応の公演となっている。

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