カテゴリー「能・狂言」の51件の記事

2021年9月 2日 (木)

観劇感想精選(410) 枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」@枚方市総合文化芸術センター

2021年8月30日 枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールにて観劇

午後7時から、関西医科大学の隣に出来た枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールで、枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」を観る。

枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホール(ネーミングライツによるもので、関西医科大学が運営している訳ではない)を始めとする枚方市総合文化芸術センター本館の正式オープンは9月で、今回は杮落とし的公演となる。

公演タイトル名は、辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」であるが、実際の上演順は逆である(表記は「末廣かり」であるが、読みは「すえひろがり」である。流派によって違うようだが、基本的に祝いのための演目なので、濁点が付くのは良くないのだと思われる)。
杮落とし的公演であるため、スタッフも全く慣れておらず、開場の際にミスがあったり、開演前のアナウンスで、「辰巳満次郎『末廣がり』、野村萬斎『船弁慶』」と真逆に紹介されたりと色々ある。

開場の時は3列なのが見て分かったのだが、他の人は慣れてないのか一番手前の1列目のみに一列で並んでいた。私は一番奥、つまり手前から3列目を選んだのだが、3列目のスタッフがホワイエへの入り口の扉を開けるのを忘れているというミスがあった。まあ、笑いで済んだが。そんなことがあったが、他の列はもっと慣れていないようで、結果として、ホワイエに入ったのも客席内に入ったのも私が一番先であった。自慢になることなのかどうかは分からないけれども。


まず、枚方市文化芸術アドバイザーの辰巳満次郎(宝生流能楽シテ方)による解説があり、続いて野村萬斎ほかによる狂言「末廣かり」と辰巳満次郎ほかによる能「船弁慶」が上演される。

辰巳満次郎は、この公演が即日完売となったことを告げて、「伝統芸能の公演が即日完売となるのは本当に珍しいことで、『流石、枚方市民は文化度が高い』と萬斎と話しておりました」と語る。それから、「私は『すえひろがり』はやりません。さっき、お気づきになった方、いらっしゃると思いますが」

まずは能狂言の初歩ということで、舞台上の説明から。
「こちら、橋懸かりと言います。『廊下』って言っちゃう人いるんですが、橋懸かりです」
その後、初心者にも分かるよう能狂言のお約束と、「末廣かり」と「船弁慶」のストーリーについて丁寧な説明を行う。

狂言に関しては、「今は大声で笑うのはよろしくないとされているようですが、余り口を開けずにそっと笑って下さい」

「船弁慶」の義経は子役がやるが、「人手が足りない訳ではありませんで」高貴な身分は子役が演じるという慣例があり、また義経と静という恋愛関係にある者同士を大人が演じると生々しくて、能においてはよろしくないとされるようである。

能と狂言を観るには想像力が必要ということで、「敢えてセットを置いていません。セットを置いてもいいんですが、それだと誰がやっても一緒になる」「想像力を使わないとつまらない、下手したら居眠りしちゃう」とも語っていた。


狂言「末廣かり」(和泉流)。出演は、野村萬斎(果報者)、野村太一郎(太郎冠者)、石田淡朗(すっぱ)。後見:深田博治。大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。

果報者は身分が高いということで、野村萬斎は素早い足取りで思いっ切り前に出る。多分、萬斎ファンはこれだけで大笑いなのであろうが、そこまでの萬斎ファンは今日は来ていないようだ。
以前に歌舞伎版で観た演目であるが、原作の狂言は歌舞伎版とは登場人物からして異なっている。

正月。果報者(長者)が縁起の良い末廣かり(扇のこと)を買ってくるよう太郎冠者に命じる。太郎冠者は「京まで行けば何でも売っていましょう」と買い物に出掛けるが、京まで着いたところで末廣かりがなんのことか聞くのを忘れてしまったことに気づく。そこで、「すえひろがりあるか?」「すえひろがり買おう」と言いながら往来を歩くことにする。
それを見たすっぱ(詐欺師、悪知恵の働く者)が、「騙してやろう」と近づく。すっぱは唐傘を「これがすえひろがりじゃ」と言って売りつけることにする。果報者が出した末廣かりの条件はいくつかあるが、すっぱは口八丁で丸め込む。それでも「戯れ絵」についてはすぐには妙案が浮かばないが、「絵」ではなく「柄(え)」であるとして、太郎冠者相手に戯(たわむ)れ、「これが戯れ(ざれ)柄」ということにしてしまう。
高い金を払って唐傘を購入して帰ってきた太郎冠者。当然ながら果報者は激怒するが、太郎冠者はすっぱが言ったすえひろがりについて説明を続ける。それでも当たり前ではあるが果報者の怒りは収まらない。そこで太郎冠者は、すっぱがうたっていた謡を披露することにして……。
太郎冠者の謡は、「三笠山(若草山、春日山の別名)」と傘と「春日山(こちらは具体的には春日大社を指す)」の神を掛けたものである。狂言と能の基となった猿楽は、奈良の興福寺とその鎮守である春日大社の下級神官や職員が始めたとされており、目出度さがより一層高まる。

果報者を演じる野村萬斎は、太郎冠者などをやる時とは違い、独自性は余り出さないが、身のこなしの巧みさや滑稽さで魅せる。


能「船弁慶」(宝生流)。ポピュラーであると同時に、劇場の「船出」を祝うのに相応しいということで選ばれた演目だと思われる。出演は、辰巳満次郎(シテ:静。後シテ:知盛の怨霊)、辰巳紫央莉(義経。子役)、原大(弁慶)、原陸(従者)。アイ(間)として野村裕基が船頭を演じる。
大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。後見:山内崇生、石黒実都。地謡:辰巳大二郎、澤田宏司、辰巳孝弥、辰巳和麿。

平家を滅亡に追いやり、英雄となった源義経だが、兄である鎌倉殿こと源頼朝との仲が悪化。義経は一転して追われる身となる。
尼崎の大物浦にやって来た義経一行。義経は、「女連れとあっては体裁が悪い」ということもあり、静をいったん京に帰すことにする。弁慶を通して静に京に帰るよう命じたのだが、静は、「弁慶が自分を騙そうとしているのではないか」と疑い、義経に真偽を直接問う。義経の意志だと知った静は金の烏帽子を被って白拍子の舞を行い、泣く泣く京へと帰っていく。
大物浦から出た船であるが、天候が悪化し、波が荒くなり、遠くから知盛を始めとする平氏の亡霊が現れる。長刀を振り回す知盛に対して、義経も刀で応戦しようとするが、亡霊なので幾太刀浴びせようと一向に応える気配がない。そこで弁慶が仏法で知盛を調伏する。

芸能者であるだけに、武よりも身につけた芸を上位に置くという演目の系譜に入るものであるが(「勧進帳」もそうだが、一番強そうな弁慶が武力で押し通そうとしないところが妙味となっている)、新型コロナが猛威を振るっており、収束への祈りも込められているように感じられた。

見ようによってではあるが、中国のように民衆を力で押さえつけて無理矢理終わったということにしている国もあり(中国は情報操作を行っている典型的な国なのでコロナ罹患者数のデータは当てにならないと見て間違いないだろう)、西洋各国も行っているロックダウンなど強制力を伴う支配に関する話が日本でも起こっている。だが、あらゆる意味でそれは危険で、日本はあくまで強権発動をしない形で抑えたいという意志も感じられる。芸能や表現の歴史を見れば、それは当然であるといえる。

野村萬斎の息子である野村裕基。顔は父親に余り似ておらず、井上芳雄系の美男子であるが、声は萬斎にそっくりで、声だけだと本当に萬斎と間違えるのではないかと思えるほどに酷似していた。

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2021年8月15日 (日)

コンサートの記(738) アンサンブル九条山コンサート VOL.12 観世流能楽師・浦田保親×アンサンブル九条山「彼岸にて」

2021年8月6日 烏丸迎賓館通りの京都府立府民ホールアルティにて

午後7時から、京都府立府民ホールアルティで、アンサンブル九条山コンサート VOL.12 観世流能楽師・浦田保親×アンサンブル九条山「彼岸にて」を聴く。文字通り、観世流の能楽師である浦田保親とアンサンブル九条山によるコラボレーション。

現代音楽への挑戦を続けるアンサンブル九条山。2010年にヴィラ九条山のレジデントであったヴァレリオ・サニカンドロによって現代音楽アンサンブルとして結成され、2015年からは演奏家による企画を主体的に行う団体として再始動している。今日の出演は、太田真紀(ソプラノ)、畑中明香(はたなか・あすか。打楽器)、石上真由子(いしがみ・まゆこ。ヴァイオリン)、上田希(うえだ・のぞみ。クラリネット)、福富祥子(ふくとみ・しょうこ。チェロ)、森本ゆり(ピアノ)。

能舞を行う浦田保親は、1967年生まれ。父親は観世流職分・浦田保利。3歳で初舞台を踏み、10歳で初シテを「猩々」で演じている。2012年には長男である親良との「ちかの会」を結成。復曲能や新作能にも意欲的に取り組んでいる。重要無形文化財総合指定保持者。


曲目は、まず早坂文雄の「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」より「孤独」と「漳州橋畔口吟」の2曲が太田真紀によって歌われ、畑中明香の演奏による石井眞木の「サーティーン・ドラムス」を挟む形で残りの2曲である「嫁ぎゆく人に」と「うぐひす」の歌唱が行われる。後半にはメシアンの代表作の一つである世の終わりのための四重奏曲が演奏される。


黒澤映画の作曲家としても知られる早坂文雄。仙台生まれの札幌育ち。家庭の事情で中学卒業後すぐに社会に出ており、作曲は独学である。同じ北海道出身の伊福部昭や三浦敦史らと札幌で新音楽連盟を結成。この頃、サティ作品に傾倒し、いくつかの曲を日本初演している。1939年に東宝映画に音楽監督として入社し、黒澤明との名コンビで知られたが、結核の悪化により41歳の若さで他界。その死に際して黒澤明は、「両腕をもがれたよう」と悲嘆に暮れている。同じく結核に苦しんでいた武満徹は、早坂のために「弦楽のためのレクイエム」を書き上げた。
「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」は、佐藤春夫のごくごく短い詩の一節を選んで作曲したものだが、四つの歌を通すと一つの物語が浮かぶように設計されている。
汎東洋主義を掲げた早坂文雄。この歌曲でも尺八の息づかいを応用するなど、独特の試みがなされている。
「漳州橋畔口吟」に浦田保親が登場。扇子を持って舞う。


石井眞木(男性)の「サーティーン・ドラムス」。タイトル通り13の太鼓で演奏される曲である。数種類のバチの他、素手でも演奏が行われる。畑中明香のダイナミックな演奏が魅力的である。
浦田保親は、榊の付いた杖を持って登場。神へ奉納するような舞を見せる。


メシアンの世の終わりのための四重奏曲(ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノのための)。20世紀に作曲された最高の室内楽作品の一つとして高く評価されており、その特異な曲名と共に有名である。演奏は、石上真由子、上田希、福富祥子、森本ゆり。
森本ゆりの硬質のピアノが、全曲を通して良いアクセントとなっている。

世の終わりのための四重奏曲は、第二次大戦中にドイツの捕虜収容所にて書かれ、1941年にメシアン自身のピアノで初演されている。ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという編成は、たまたま捕虜収容所で一緒だった演奏家を念頭に入れたが故の産物である。世の終わりのための四重奏曲というタイトルは『ヨハネ黙示録』に由来するが、意味的には「時の終わりのための四重奏曲」とした方が原題に近いようである。

この曲では浦田は増女の能面を付けて登場。まずは赤の着物、次いで白の着物、最後は頭に鳳凰の飾りを付けた天女の衣装で現れる。
アルティは舞台が可動式で自由に設計することが出来るが、今日は中央部を張り出した独特の設置。舞台奥側から俯瞰で見ると凸型に見えるはずである。

能面を付けると視界がほとんど遮られるはずだが、浦田はそれを感じさせないキレのある舞を披露。舞台端や演奏家のすぐそばまで寄るため、見ているこちらがヒヤヒヤしたりもした。

オリヴィエ・メシアンの母親は、詩人であり、メシアンがまだお腹の中にいる時に、「いまだかつて誰も聴いたことのない音楽が聞こえる」という詩を書いたというが、生まれた息子は本当に「誰も聴いたことのない音楽」を生み出すことになる。
世の終わりのための四重奏曲は、この世とあの世の対比が描かれるのだが、それはまさに能が描き続けてきた世界である。
上田希のピアニシモで彼方から響き始めるかのようなクラリネットの音は、異人である能の登場人物の肉声のように聞こえたりもする。
余り指摘されてはいないはずだが、メシアンの音楽は天体と親和性があり、天の川や星々の煌めきが音楽で描写されたようなところがある。「天国への階段」とされるラストも、同時に満点の星空へと吸い込まれていくような「魂の昇華」が目に見えるかのようだ。

浦田の舞も、本当の意図は分からないが、衣装の変遷とメシアンの音楽とのストーリー性、また演奏者が全員女性であるということから、三者三様というよりも三つの女性の舞を通して「女人往生」に繋がるものがあるようにも見えた。一言で表せるほど単純なものでもないと思われるが。

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2021年7月10日 (土)

観劇感想精選(403) 大槻能楽堂 「野村万作 萬斎 狂言会 第26回」

2021年7月1日 大阪・上町の大槻能楽堂にて観劇

午後6時30分から、大阪・上町の大槻能楽堂で、「野村万作 萬斎 狂言会 第26回」を観る。大槻能楽堂は、大阪メトロ谷町線の谷町4丁目駅と谷町6丁目駅の中間にあるのだが、今日は行きは谷町6丁目駅を、帰りは谷町4丁目駅を使った。

演目は、「呂蓮(ろれん)」(出演:野村万作、中村修一、石田淡朗)、野村万作による芸話、「寝音曲(ねおんぎょく)」(出演:野村萬斎、内藤連)。

開場直前に大槻能楽堂付近は雨が落ち始める。野村萬斎は雨男として知られているが、彼らしい降り方だ。もっとも、私が野村萬斎の公演を観に行った時に雨が降ったのは今日で2度目なので、それほど酷い雨男というわけでもないように思われる。


「呂蓮」は、和泉流と大蔵流とでは結末が異なる演目として知られている。東日本を回った旅の僧(野村万作)が、今度は西日本を巡ろうと思い立つが、妻子も宿もなき流浪の身ゆえ、まずは今夜の宿を請う。対応した宿主(中村修一)は、仏道の旅の話を聞き、極楽往生の絶対を知って、自分も出家したいと願い出る。僧は、「出家しなくても往生に変わりはない」と止めようとするが、宿主は、心がけが異なるだろうからと決意を示す。奥さんに相談してからではどうかと僧は提案するのだが、宿主は、「いつ僧になる気か」と奥さんに聞かれたこともあり、話はついていると語る。そこで僧侶は宿主の剃髪を行う。
宿主は今度は、「法名が欲しい」と願い出る。宿主の名前は「修一」で、出演者が本名を名乗る設定のようである。僧は「良い名だからそのままで」と言うのだが、宿主はそれらしい法名が欲しいと引かない。僧は「いろは歌」を携えていたため、それにちなむ名前を付けようとする。宿主は、「蓮(はちす)」の字を入れて欲しいと頼む。そこで僧は「い蓮」ではどうかと提案するが宿主は気に入らない。「もっと長い名が良い」というので、僧は「ちりぬるを蓮」と名付けるが今度は長すぎる。「い蓮で駄目なら、ろ蓮も駄目だろう」と思い込んでいた僧だが、宿主は「ろ蓮」を気に入り、「呂蓮坊」と名乗ることが決まった。そこへ奥さん(石田淡朗)が現れるのだが、これがなんとも怖ろしい人で……。

出家をするというので厭世的な意図を宿すともされる演目だが、今日観た限りではそんな印象は受けず、愛し合っている夫婦の家に上がり込んでしまった僧の失敗談と受け取れる。僧と夫婦とはそもそもが別世界を生きる人々なのだが、僧がそれを見抜けなかったことで起こる滑稽さと寂しさが胸に残る。


野村万作による芸話。「猿に始まって狐に終わる」という言葉があるそうなのだが、これは野村万作の家だけに伝わる言葉で、万作の父親(六世野村万蔵)以外は記していないそうである。
万作の家では、「靫猿(うつぼざる)」で初舞台を踏み、「しびり(痺れのこと)」などを経て、「大学の卒業論文的なもの」として「釣狐」を演じるそうである。

初舞台を「靫猿」で踏むというのはやはり難しいようで、万作は兄の野村萬と二人で「靭猿」を演じることになったのだが、兄が病気になるなど上手くいかなかったそうである。その他にも、猿役の子どもが泣き叫んで開演が20分遅れた、子ども(この時は狂言の家ではなく一般家庭の子どもが抜擢されたようである)が出演を拒否して、結局、別の演目を上演することになった、子どもの勢いが良すぎて舞台から落ちてしまったなどの失敗談があるそうだ。

万作は、伝統芸能の家に生まれた者の常として、幼い頃から稽古を付けられている。幼稚園から小学校1年生の途中ぐらいまでは祖父に教わっており、祖父はやはり孫は可愛いということで優しく教えてくれたそうで、稽古の終わりにご褒美までくれたそうである。その後は父親に就いたのだが、父親は、「早くものにしないと」ということで稽古はかなり厳しかったそうだ。小学校から帰ると、ランドセルを放り出して友達と遊びに、それも父親に見つからないような場所へと出掛けたのだが、父親が探しに来て、耳を引っ張られて連れ戻され、稽古が始まったそうである。当然ながら、当時は稽古が嫌で仕方なかったそうだ。

中学校2年生の時に終戦を迎えるのだが、その前年に空襲によって万作の実家は焼失。父親も意気消沈して、「こんなことで息子達に狂言を続けさせていいものか」という心根をインタビューで語って、関係者や記者達に、「そんなことで狂言の家が絶えては困る」と苦言を呈されたという。ただ、そうした出来事があったことで万作も、「狂言師として生きていく」という決意を逆に固めたそうだ。早稲田大学入学後には、歌舞伎や現代劇など他のジャンルの演劇を観に出掛けては研究し、狂言サークルを立ち上げて、同じ学生に指導も行うなど、狂言にのめり込んでいくことになる。

変わって、落語の話。万作は、六代目三遊亭圓生が好きで、3日ほど前からは彼の書いたものを読んでいるそうである。圓生は、「日本語は語尾までしっかり語るべき」という信念を持っており、これは狂言にも共通するものだという。
私の演技の師は、観世榮夫なのだが、観世も「日本語は言葉の末尾に重要な意味が来るから、最後までしっかり発音するように」と指導していた。
圓生は、子どもの頃は義太夫をやっており、歌も上手く、また狂言なども好きで、高座に上がる時に、「やるまいぞやるまいぞ」と言いながら登場したという話もあるそうだ。
万作は上方の落語家では米朝も好きだそうだが、米朝も茂山千之丞と親しく、狂言にも造詣が深かったという話をしていた。


「寝音曲」。昨夜、主(内藤連)が宴の前を通り過ぎた時に、太郎冠者(野村萬斎)が良い声で謡うのを聞き、「目の前で謡わせよう」と太郎冠者を呼ぶのだが、太郎冠者は、「面倒なことになる」と悟り、「酒を飲まないと謡えない」「妻の膝枕の上でないと声が出ない」と言って断る。主は太郎冠者に謡わせるために酒を用意し、自分の膝枕の上で謡うよう命じる。不承不承謡い始める太郎冠者であったが……。

萬斎の「声の出ないふり」の演技の滑稽さが笑いどころであるが、そうしたふざけた態度としっかりとした美声で歌われる謡や興に乗って繰り出す舞の技術の確かさとの落差が激しく、技量のある狂言方でないと出来ない演目であることが察せられた。

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2021年3月21日 (日)

配信公演 滋賀県犬上郡甲良町制作 新作能「高虎」(文字のみ)

2021年3月12日

ぴあのWeb配信で、新作能「高虎」を観る。びわ湖ホールに「ローエングリン」を観に行った時にチラシを見つけたもの。藤堂高虎の出身地とされる滋賀県犬上郡甲良町が制作したものである。初演は令和元年10月19日であるが、コロナ調伏を願って全国配信版が新たに制作され、14日23時59分まで有料配信された。

甲良町長の挨拶があった後で、まず第1部として舞・笙「禍(まが)ごとの鎮め」が上演される。白拍子舞人:井上由理子、楽人:和田篤志。
磯禅尼が始め、娘である静御前が継いだとされる白拍子だが、平安時代末までそうしたものが生まれなかったと考えるのは不自然であり、また二人とも架空の人物である可能性もある。特に静御前については、モデルになった人はいたかも知れないが、物語に出てくるように常に義経の傍らにいたという部分は怪しい。義経の正妻が河越氏出身であることが執権となった北条氏にとっては不都合だったため、静御前という実在の不確かな女性を前に出すことで隠蔽した可能性も高い。

ただ白拍子がいつ生まれたのかは、ここでは特に大きなことではない。コロナ禍を鎮めるための雅やかな舞である。即興による部分が多いとのことだが、謡がなかなか聞き取れない。やはり伝統芸能の謡を聞き取るには相当の訓練が必要なようである。

 

第2部、能「高虎」。まずマンガによる能「高虎」の紹介がある。

新作能「高虎」。出演は、寺澤拓海(前ツレ・高虎の母)、浦部好弘(前シテ・高虎の父)、浦部幸裕(後シテ・高虎)、有松遼一(ワキ・天海僧正)、岡充(ワキツレ・従僧)。間狂言の出演、茂山茂(茶屋の主)、茂山宗彦(もとひこ。旅の者)、井口竜也(茶屋の妻)。

藤堂高虎は現在の滋賀県犬上郡甲良町の在士八幡宮付近の生まれとされ、在士八幡宮の藤の下が舞台となる。高虎は築城の名手として知られ、自らの居城の他に江戸城の縄張りも手掛けるなど、徳川家康からの信頼も厚かった。戦でも先陣は、譜代は井伊、外様は藤堂と決まっていた。

天海僧正が、江戸から京に向かうことになる。南禅寺山門供養のためである。途中、近江国で、満開の藤の花を見つけ、花の下で掃除をしている老夫婦にここはどこかと訪ねる。老夫婦は、甲良の在士八幡宮だと答え、この地が藤堂高虎公ゆかりの地であることを告げる。天海は今は亡き高虎と懇意であった。老夫婦の正体が高虎の両親の霊であることが明かされ、前場が終わる。

間狂言は、高虎が若い頃の話に基づいている。仕官先を求めて東へ向かい、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)で無一文で空腹となっていたところで餅屋を見つけて餅を食べるも銭がない。だが餅屋の主は銭を求めず、「東に行くのではなく故郷に戻りなさい」と高虎に勧める。故郷に戻った高虎は豊臣秀長に仕え、出世の第一歩を築く。高虎は後に吉田に行き、出世払いをしたという話である。
この狂言では、「三河国に住まい致す者」が京へ上る途中、近江国の茶屋に寄り、高虎の話が好きな茶屋の主から餅を振る舞われるという話になっている。
旅の者(茂山宗彦)が餅を豪快に食らうシーンが見せ場である。

後場。藤の花の下で眠りに就いた天海僧正の前に高虎の霊が現れ、昔を懐かしみ、大坂夏の陣での大活躍を舞で表現すると同時に身内を失った苦悩を吐露する。南禅寺山門は、高虎が親族を弔うために再建したものであり、天海がそこを訪れて供養を行うことを知って喜ぶのだった。

高虎は、主君を度々変えたということもあって、所領も頻繁に変わっており、築城した城も多い。新作能「高虎」にも、今治城や津城など、高虎が築いた名城が登場する。

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2021年2月26日 (金)

劇団音乃屋オンライン公演 音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」(文字のみ)

2021年2月23日

劇団音乃屋のオンライン公演、音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」を視聴。静岡市清水区(旧静岡県清水市)の曹洞宗庵原山(あんげんざん)一乗寺の本堂で収録されたものである。静岡市清水区の三保の松原を始め、日本各地に残る羽衣伝説を題材にした「家族みんなで楽しめる音楽劇」である。宮城聰が芸術監督を務めるSPAC所属の女優で、劇団音乃屋主宰でもある関根淳子の作・演出、天女役。劇団大樹主宰で大蔵流狂言方の川野誠一の伯良(漁師。川野誠一は私立大分高校卒とのことなので、財前直見の後輩、森七菜の先輩となるようである)。新保有生(しんぼ・ありあ。苗字から察するに、先祖がご近所さんだった可能性もある)の作曲・演奏(三味線、篠笛、能管)での上演である。冒頭に一乗寺住職からの挨拶があり、劇団音乃屋主宰の関根淳子からの挨拶と新保有生の演奏が特典映像として収められている。

全国各地に存在する「羽衣伝説」であるが、三保の松原のそばにある御穂神社には天女のものとされる羽衣が今に伝わっている。
羽衣伝説は様々な芸能の素材となっているが、歌舞伎舞踊の「松廼羽衣(まつのはごろも)」が中村勘九郎・七之助の兄弟により、ロームシアター京都メインホールで上演された時には、上演前に行われた芸談で、「静岡公演の昼の部と夜の部の間に三保の松原と羽衣を見に行った」という話をしており、「残っているんなら切って与えたんだから、それを演出に取り入れよう」ということで、夜の部から急遽羽衣を切るという演出を加えたという話をしていたのを覚えている。

三保の松原は風光明媚な地として日本中に知られているが、そこから眺める富士山の美しさでも知られている。富士山は休火山で、今は噴煙は上がっていないが、噴火していた時代もあり、空へとたなびく白煙が天界へと続く羽衣に見立てられたことは想像に難くない。

新保有生による冴え冴えとした邦楽器の音が奏でられる中、まず川野誠一演じる伯良が狂言の発声と所作と様式で状況を説明して松に掛かった羽衣を見つけ、次いで天女役の関根淳子が現れて、返して欲しいと謡の発声で話し掛ける。邦楽を用いることで郷愁や哀愁が自ずから漂う。「舞を行うので衣を返して欲しい」と頼まれた伯良は「嘘偽りではないか」と疑うが、天女は「天に偽りなきものを」と言い、羽衣を纏っての舞を披露する。もちろん嘘ではない、嘘ではないが「芸術とは最も美しい嘘のことである」というドビュッシーの言葉が浮かぶ。天女は天界の人(正確にいうと人ではないが)なので神通力が使えるはずなのであるが、無理に衣を奪い返そうとせず、舞を披露することで羽衣を取り返す。このあたりが、芸能に生きる人々の「舞こそおのが神通力なれ」という心意気であり、今も受け継がれているように思える(伝承での「羽衣」は舞を披露したりはせず、夫婦となった後に天上へと帰ったり、地上に残ったりするパターンが多い。舞によって羽衣を取り返すのは伝世阿弥の謡曲「羽衣」以降である)。
三保の松原を舞台にした「羽衣」作品群には、天女への愛着のみならず、霊峰と仰がれ神格化された富士山(寿命を持った女神である「木花開耶姫=浅間神」に見立てられた)とそこから上る白煙を通した天界への憧れが、背後に隠されていると思われる。

関根淳子と川野誠一の演技と動きも寺院で上演されるに相応しい雅趣がある。現代劇の発声ではないので、セリフが耳に馴染みにくい方もいらっしゃるかも知れないが、日本語字幕付きのバージョンがあったり、英語字幕付きのバージョンがあったり、目の不自由な方のための解説副音声付きのものがあったりと、バリアフリー対応の公演となっている。

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2021年1月27日 (水)

観劇感想精選(381) 「万作萬斎新春狂言2021」@サンケイホールブリーゼ

2021年1月20日 西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後7時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「万作萬斎新春狂言2021」を観る。
緊急事態宣言発出により、劇場の営業は午後8時までとなっているが、「すでにチケットを売ったものについては例外」となっている。ただなるべく協力する形でということで、野村萬斎によるレクチャートークを短くし、休憩時間をなくすことで、午後8時15分頃の終演とした上で上演が行われる。
ちなみに明日も同一内容の公演がサンケイホールブリーゼであるが(主役級のキャストに変更はないが、ダブルキャストの役があるため、今日と完全に同じ出演者というわけではない)、マチネーであるため、レクチャートークも通常の長さ、休憩もありで上演される予定である。

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サンケイホールブリーゼの入るブリーゼタワーの周辺、西梅田や桜橋の地上は人がまばら。ショッピングビルであるブリーゼブリーゼ内部も休業中のショップも多いためか、がらんどうである。ブリーゼタワーは下層がショッピングビルのブリーゼブリーゼであり、その最上階の7階にあるサンケイホールブリーゼまでが一般人が立ち入れるスペースである。それより上はオフィスビルとなっており、日本ハムの本社もこのビル内に移転している。日本ハムは大阪の企業であるが、ファイターズが本拠地を東京(後楽園球場→東京ドーム)や札幌(今現在は札幌市の隣町である北広島市に自前の新球場を建設中であり、2年後を目途に移転する予定)、二軍を千葉県鎌ケ谷市に置いているということもあり、大阪の会社であるということは野球ファン以外には案外知られていないようである。

さて、「万作萬斎新春狂言2021」であるが、七五三縄が降りる中、まず謡初「雪山」が、中村修一、深田博治、野村萬斎、高野和憲、内藤連(上手からの並び順)によって謡われる。背景には舞い落ちる雪片が投影される。雪ということで「衣手」といった和歌でよく取り上げられる組み合わせの言葉も登場する。

狂言の演目は、野村万作がシテを務める「横座」と野村萬斎がシテを演じる「木六駄(きろくだ)」。「木六駄」は、野村万作が演じたものをびわ湖ホールで観たことがあるが、萬斎が太郎冠者を務める「木六駄」を観るのは初めてである。

好評をもって受け取られることが多い野村萬斎のレクシャートークであるが、今日は時間に制限がある。「明けましておめでとうございます、というには少し遅いような気がしますが」と萬斎は話し始める。ちなみに昨年の「万作萬斎新春狂言」では萬斎は、自身が総合演出を務めるはずだった東京オリンピックの開会式についても触れていたのだが、東京オリンピックは延期となり、今年開催されるにしても開会式も閉会式も規模縮小ということで、野村萬斎がリーダーであった「ドリームチーム」はすでに解散となっている。余りにも商業化しすぎ、筆頭スポンサーのNBCの意向で、真夏の開催となったことで批判の多い東京オリンピック。延期により秋の開催が出来るのかと思いきや、またもやNBCの意向で、酷暑の時期の開催が決まっている。正直、今の状態で東京オリンピックが開催されるようになる可能性は極めて低い。設備は整っているのだから、今年でなく近い将来に東京オリンピックが開催されるのもありだが、秋でないなら開催自体を見送った方がいい。オリンピックは一巨大メディアの専有物ではない。

野村萬斎はコロナ禍の中で駆けつけたお客さんに向かい、「よくぞいらっしゃいました。勇気と覚悟を持って」と話し、「今日は市松模様の俺様シート(左右前後空けのソーシャルディスタンスシフト)ですのでゆったりとご覧いただけます」と語った。緊急事態宣言発出の中での公演であるが、「なるべく劇場にお越し頂きたい」とお願いもする。

野村萬斎の家で元日に行われる謡初の話から入り、今日の演目が丑年にちなむ「牛尽くし」であることを説明する。「料理店のメニューのようですが」と語った後で、「横座」の解説。「横座」というのは上座のことで、牛主が「可愛らしい子牛が生まれた」というので、上座に子牛を据え、それが元で「横座」と呼ばれるようになった牛の話である。何某が牛を買ったのだが、見立てが出来ないので、見立てが出来る者のところに赴くことにする。さて、見立ての出来る牛主だが、大事な牛がどこかに行ってしまった。そこに通りかかった何某の牛を見て、それは自分が育てた横座という牛だと主張するのだが、何某は「金を出して買ったのだから自分の牛である」と譲らない。
萬斎は客席に、「牛の見分けが付く方、いらっしゃいますか? 私は自信がないのですが、ずっと牛と一緒にいれば見分けが付くようで」

その後に、平安時代の呪術の話が登場し、ややこしいので、萬斎はそこを重点的に解説する。「『陰陽師』(映画版は野村萬斎が安倍晴明役で主演している)って覚えてますでしょうか? リモートで戦うという」という話から、「横座」で語られる呪術合戦の物語へと入っていく。文徳天皇の御代の話である。平安時代の初期だ。日本の初期の歴史書6つ、総称して「六国史」と呼ばれるが、6つのうち4つは天皇数代の記録を一つの史書に纏めている。だが文徳天皇だけは『日本文徳天皇実録』と諡号入りの一代記になっている。藤原北家が本格的な摂関政治へと繰り出すきっかけになった天皇であり、天皇としての実績はほとんどないが、歴史のターニングポイントに在位した重要な存在である。ちなみに祖父は藤原冬嗣、伯父は藤原良房である。
さて、文徳天皇には後継者として有力視される二人の皇子がいた。紀静子との間に生まれた惟喬親王(萬斎は「タカちゃん」と呼ぶ)と、藤原明子の間に生まれた惟仁親王である。藤原北家の時代が始まりつつあったが、紀氏もまだ勢力を保っていたということで跡目争いが本格化する。惟喬親王と紀氏は、東寺の柿本紀僧正(真済)の力を借り、一方の惟仁親王と藤原氏は比叡山延暦寺の慧亮和尚の後ろ盾を得て、皇位継承を決める相撲合戦を密教で操作する。最初は柿本紀僧正の密教の方が力が強く、10戦で勝敗を決める相撲の第4取り組みまでは惟喬親王派が4連勝した。これを聞いた比叡山の慧亮和尚は、独鈷で頭を割り、脳みそを引きずり出して火にくべて祈祷し、結果、惟仁親王側の力士が6連勝し、惟仁親王が清和天皇として即位することになるのだが、萬斎は、「さっきググってみたら、どうも話を盛っている。清和天皇は清和源氏の祖となりますので、源氏の人達が先祖を讃えるべく盛った」らしいという話をしていた。

「今日は時間を短くしなくちゃいけないということで、もう時間が来てしまいました」と萬斎は、「木六駄」についても軽く解説する。「お歳暮の話です」と言い、「お歳暮を黒猫(ヤマト運輸)ではなく牛で運ぶ」と冗談を言って、「『横座』は実際に牛が出てくるんですが、『木六駄』はリモートでいるように見せます」と語った。
「牛と出くわしたことのある方、いらっしゃいますか? 私はイギリスに留学していた時に野生の牛と出くわしたことがあるのですが、牛というのはとにかく動きません。通り過ぎるまで15分ぐらい待ちました」
また、通常の能舞台とは異なる場所での上演ということで、「劇場ならではの演出をする」ことも明かしていた。

 

「横座」。出演:野村万作、石田幸雄、石田淡朗。後見:飯田豪。
何某(石田幸雄)が、牛(石田淡朗)を連れ簡易橋懸かりから現れる。たまたま牛を手に入れたのだが、価値も何もわからないので、目利きの出来る牛主(博労。演じるのは野村万作)に目利きを頼むつもりで、牛を東の在所の柱に繋ぐ。そこへ牛主がやって来る。なんでも横座という名の秘蔵の牛が行方不明になったらしい。
牛主が陰陽師に見て貰ったところ、「(横座は)東の在所にいる」ということで、東の在所にやって来たのだ。そこで何某が繋いでいる牛こそが横座なのではないか、と聞くが、何某は、「これは自分がきちんとしたところから買った牛で、横座とは思えない」と返し、横座であったとしても金を出して買ったのだから自分のものだと主張する。
牛主は、横座は呼べば答える牛なので、呼んでみようとするが、「100編呼ぶ内に答えたら」と回数が余りに多く、「それだけ呼んだらたまたま鳴くこともあるだろう」と何某に突っ込まれて、50回、5回と減らされ、最期は3度の内に落ち着く。鳴かなかった場合は、牛主は何某の譜代(家来)にならねばならないという。
2度呼ぶも横座は答えず、ならば、と文徳天皇の時代の故事を語る。陰陽師の話を聞いて東の在所にやって来たり、東寺と延暦寺による加持祈祷合戦の話をしたりと、スピリチュアルな内容になっているのが特徴の狂言である。
比叡山の慧亮和尚は、五大尊の曼荼羅を置いて祈ったのであるが、五大尊の中の大威徳は、水牛に座した姿で描かれており、慧亮和尚が祈祷を行うと、描かれた水牛が鳴いたという。
「絵の牛ですら鳴くのだから、実在する横座は鳴くだろう」というのが、語られた故事の結末となっている。果たして……
最後は書かないでおく。

 

「木六駄」。出演:野村萬斎、中村修一、高野和憲、深田博治。後見:内藤連。
狂言は、「この辺りの者でござる」で始まるのが一般的だが、この狂言では最初に出てきた主(中村修一)が、「奥丹波に住まい致す者でござる」と自己紹介をする。京に住む伯父(深田博治)にお歳暮を届けようと思い、太郎冠者(野村萬斎)に牛12頭のうち6頭に炭六駄、残る6頭に木六駄を付けて運ぶよう命じる。野村萬斎演じる太郎冠者は最初の返事から「はい」ではなく「ばい」といった感じで、常日頃から主の無理難題に辟易していることが見て取れる。その後の返事も、「ふぁい」「ふぇい」と不請不請答えていることが伝わってくる。通常の狂言は、舞台上で行われる古い時代の笑い話を見ることになるのだが、野村萬斎の場合は現代人に近い感じの人物を創造するため、現代的視点が狂言の中に入り込む仕掛けとなり、客体化もしくは相対化される。これはおそらく、野村萬斎一代限りの芸である。息子さんは継げないだろう。

雪深い奥丹波を行く太郎冠者。言うことをなかなか聞かない牛を連れて、舞台を横切っていく。能舞台で演じる時は、下手の橋懸かりから出て、再び橋懸かりから下手袖に戻るということしか出来ないのだが、今日は普通の劇場ということで、上手に退場。その後、背後の紗幕が透け、紗幕の後ろを上手から下手へと牛を追う仕草をしながら歩いて行くのが見える。そして再び下手から仮設の橋懸かりに登場。そこで太郎冠者は老の坂の峠の茶屋を発見し、一休みすることにする。牛を繋ごうとするが、「進め」と言っても進まないのに、「止まれ」と命じるとなぜか進もうとし、崖の方へ向かったりと太郎冠者を苦戦させる。
茶屋の中でくつろぐ太郎冠者に、茶屋の主(高野和憲)は茶を勧めるが、太郎冠者は酒を所望する。だが、茶屋は酒を切らしており、大雪のため買いにも行けない。実は太郎冠者は伯父に贈るための酒樽を持って歩いていた。茶屋の主と二人で、「濃い酒なので少しぐらい飲んでも水を足せばバレない」と話し合い、「ちょっと一杯のつもりで飲」み始め、「いつの間にやら」酒宴となってしまう。太郎冠者は鶉舞を披露。レクチャートークで「豪華パンフレット(冗談で、ペラペラの紙が二つ折りになっているだけである)に歌詞が載っているので」後で見て欲しいと萬斎は言っていたが、源三位頼政の鵺(ぬえ)退治の話が出てくる。京都市内には三位頼政の鵺退治ゆかりの場所がいくつか存在する。

結局、ベロベロに酔っ払った太郎冠者は、木六駄とそれを付けた牛を茶屋の主に与えてしまい、酔ったまま千鳥足で旅路を急いで、都の伯父の家に辿り着く。状を伯父に渡した太郎冠者。伯父は、「炭六駄と木六駄とあるが、木六駄がないではないか」と太郎冠者を問い詰める。太郎冠者は、「近頃、名を木六駄と変えまして、それがし木六駄が炭六駄を付けた牛を連れて上って参りました」と無理矢理誤魔化そうとするのだが……

太郎冠者のトリックスターぶりを際立たせた名演技であった。

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2020年11月 7日 (土)

観劇感想精選(364) 「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」

2020年11月3日 烏丸迎賓館通りの金剛能楽堂にて観劇

午後2時から、京都御苑の西、京都府立府民ホールアルティのすぐ北にある金剛能楽堂で、「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」を観る。野村萬斎が主催する狂言公演「ござる乃座」の京都公演。今回で15回目となった。
ちなみに野村萬斎は、現在、Eテレの「100分間de名著『伊勢物語』」に朗読担当として出演しており、昨夜第1回が放送されている。

演目は、「清水座頭(きよみずざとう)」と「止動方角(しどうほうがく)」。共に京都を舞台とした作品である。

「清水座頭」の出演は、野村万作(座頭)と野村萬斎(瞽女)。
まず「この辺りに住まい致す瞽女」が登場する。3年ほど前から目が見えなくなり、生業を失い、夫もいないということで行く末を憂いて清水寺の観世音菩薩に参詣し、その夜は本堂に籠もることにする。
しばらくすると座頭がやって来る。座頭も清水寺の観世音菩薩に妻となるべき人に出会えないことを嘆き、妻ごいをする。
瞽女がいるとは知らず、本堂に籠もろうとした座頭は無遠慮に近づいたということで瞽女と喧嘩になるが、互いが本当に目が見えないと分かると謡を交わす。
やがて瞽女は、観世音菩薩から「西門のところで夫となる者と出会う」との託宣を授かり、座頭も「西門のところに妻となる女がいる」とのお告げを受ける……。

婚活の曲ともいわれ、ロマンティックな展開となるが、自ずから杖をついているのではなく、神仏によって杖で導かれているという浄土真宗的な解釈をするとロマンの度合いは更に増す。

謡であるが、恋路を扱った作品にしてはかなりナンセンスな言葉が選ばれており、源平合戦の一ノ谷の戦いで、で頤(おとがい。顎のこと)を切られた武者と踵(きびす)を切られた武者が、忙しいので慌てて切られた頤に切り落とされた踵を付け、傷を負った踵に切断された頤を付けると、踵から髭が生え、頤があかぎれになるという変なものである。よく分からないが、これは「割れ鍋に綴じ蓋」ということなのだろうか? 解釈せずに戯れ言として捉えた方が謡が生きるのかも知れないが。

瞽女の謡う「地主の桜」は、清水寺境内にある地主神社の桜のことであるが、この時代から地主神社が縁結びの神様として名高かったことが窺える。

 

「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村太一郎(主)、深田博治(伯父)、飯田豪(馬)。

主が、東山での茶会(内容は茶葉の生産地を当てたり、品質を見抜いたりする闘茶)に参加することになるのだが、見栄を張るため、茶器や太刀や馬を伯父に借りてこいと太郎冠者に無理を言う。野村萬斎演じる太郎冠者は、「え゛?」と現代風にボケたりして、狂言を客体化し、主の無理難題っぷりを誇張する。こうした一種のパースペクティブは効果的であり、これが伏線となってラストでは、セリフが変わっておらず、演技や表情にも作為的なものは見えないのにニュアンスが変化しているような印象を受ける。
太郎冠者が活躍する「太郎冠者物」の傑作であるが、野村萬斎演じる太郎冠者の人間くささが実に良い。主という絶対的権力に媚びずに挑みかかる存在であり、私は余り見ていないが「半沢直樹」に繋がるような一種の爽快さを生み出しているように思われる。

ちなみにタイトルの「止動方角」というのは、後ろで咳をすると暴れ出すという馬を止めるときの呪文である。

 

演目終了後に野村萬斎からの挨拶がある。羽織袴姿で登場した萬斎は観劇が「勇気と覚悟が必要」なものになってしまったことを語ったが、一席空け(萬斎は「市松」と表現)にするなど感染症対策を十分に行った上での上演であること、15回目ということで盛大にやりたかったが、演目も登場人物の少ないものを選んで、接触をなるべく減らしていることなどを語った。
「清水座頭」については、「座頭が卒寿、瞽女が五十代半ばということで年の行ったカップル」と表現して笑いを取る。
「止動方角」で見られるように、狂言は身分の高い人が酷い目に遭うことが多いのだが、能・狂言は、室町幕府、豊臣政権、江戸幕府、朝廷が公認し、後ろ盾となってきた芸能であり、「一種のガス抜き効果」があったと萬斎は解釈を述べる。
ちなみに、今回の上演は有料配信用の収録が行われ、特別解説付きで11月13日から期間限定で配信されるが、午前中に解説用の映像を撮るために清水寺に行ってきたそうで、西門から見る京都市街とその向こうの西山に落ちる夕日に極楽浄土が見立てられているという話をしたが、それも有料配信用の宣伝であり、続きは配信でということのようである。

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2020年10月23日 (金)

コンサートの記(663) 能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」ソーシャルディスタンス対応公演@よこすか芸術劇場

2020年10月18日 横須賀・汐入の横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場にて

午後2時から、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場で、能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」を観る。世阿弥の息子である観世元雅の作による狂女ものの有名作「隅田川」と、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンが「隅田川」を東京で鑑賞した時にインスパイアを受けて書かれた作品「カーリュー・リヴァー」(台本:ウィリアム・プルーマー)の連続上演である。「カーリュー・リヴァー」は最初はオペラと定義されず、「教会上演用の寓話劇」と題してサフォーク州オーフォードの聖バーソロミュー教会という小さな教会で初演されたが、現在ではオペラとして歌劇場で上演されるようになっている。2014年に大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで、山下一史の指揮、井原広樹の演出で観ているが、それ以来、久しぶりの再会となる。

能「隅田川」は、映像や歌舞伎版(南座にて坂田藤十郎の狂女)では観ているのだが、劇場で観るのは初めてとなる。

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よこすか芸術劇場の感染症対策であるが、まず横須賀芸術劇場が入っているベイスクエアよこすかの3階入り口からは1階席前方の席を取った客が入場し、それ以外の客はベイスクエアよこすか4階から入ることで分散を図る。チケットの半券は自分でもぎって箱に入れ、パンフレットも自分で取る。サーモカメラによる検温も行う。
そもそも「幻(GEN)」はチケット発売時に通常の形で売り出したが、それをいったん全て払い戻しとし、客席前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応公演として再度チケットを発売して行われている。
終演後は、混雑を避けるために時差退場が行われた。

 

能「隅田川」の出演は、観世喜正(シテ・狂女)、観世和歌(子方・梅和若丸)、森常好(ワキ・渡し守)、舘田善博(ワキツレ・旅人)。笛:竹市学、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠。演出は観世喜正が行う。観世喜正は2005年からよこすか芸術劇場で「よこすか能」をプロデュースしているそうである。「よこすか能」は蝋燭を使った演出が特徴だそうで、今回も巨大蝋燭数本に小型の蝋燭数百本が灯される中での上演である。日本語字幕付き。

武蔵国と下総国の国境を流れる隅田川。現在とは水路も異なるが、川幅も今の2倍ほどはあった巨大な川である。後に荒川放水路が出来て川幅は狭くなっている。
国境ということで(江戸時代中期以降には二つの国に跨がることが由来である「両国」の東岸が栄えるようになり、後に隅田川以東の葛飾は武蔵国に編入されることになる)、あの世とこの世の境、つまり三途の川にも見立てられている。
とにかく川幅が広いため、渡るのも容易ではない。また坂東の川はよく荒れる。ということで渡し守も何度も川を渡ることはままならず、客を溜めてから渡すことにする。旅人が現れ、渡し守と子細を話す。丁度1年、商人に連れられて来た少年が隅田川を渡ったところで病死した。商人は少年を見捨てて行ってしまったという。今日はそれから1年目ということで供養のための大念仏が唱えられているという。
そこへ、狂女がやって来る。京・北白川に住まいしていた女であり、我が子がさらわれたため、追って東国までやって来たのだ。
隅田川で詠まれた歌として知られる、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」が効果的に用いられ、狂女がただの狂女ではなく、元は教養溢れる人物であったことが偲ばれ、一層の哀感を誘う。

船の上で渡し守が1年前に亡くなった少年のことを語り、狂女がそれが自分の息子だと徐々に気付く。狂女役の観世喜正は、少しずつ少しずつ体を時計回りに回転させ、そのことを表現する。

少年を埋葬した塚の前で念仏が唱えられ、狂女もそれに加わるのだが、突然、念仏に子どもの声が混じり、少年の幽霊が現れる。

少年の幽霊を登場させることに、観世元雅の父親である世阿弥が大反対したという話が残っているが、子方を出すと生々しくなるというのがその理由の一つだと思われる。幽玄さも後退するだろう。だが、この能の本質が「哀感」であるとしたのなら、子方を出した方が狂女の悲しみへの共感はより強まるだろう。目の前に見えているのに触れることも叶わずに訪れる別れ。それこそが「隅田川」を傑作へと昇華しているのだと思われる。
狂女を演じる観世喜正の動きは抑制されたものであったが、それゆえにその心情が惻々と伝わってきた。語らざる雄弁であり、動かざるダイナミズムである。

 

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ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」。日本語字幕付きの上演であるが、タイトルには「キリスト教会上演用の寓話劇」と記されており、舞台に教会のステンドグラスが映されるなど、キリスト教的要素の濃い上演となる。「隅田川」に念仏を唱えるシーンがあるため、よりクッキリと対比を付けたいという意図もあるのかも知れない。

演出は彌勒忠史。小編成のオーケストラのための作品で、指揮者を置かないというのがブリテンの指示である。ただ、今回、オルガンと音楽監督を務めるのが鈴木優人というのが最大の売りであり、鈴木優人だけが客席に背中を向けての演奏し、またそのキャリアから事実上の指揮者であることは明白である。演奏は鈴木の他に、上野星矢(うえの・せいや。フルート)、根本めぐみ(ホルン)、中村翔太郎(ヴィオラ)、吉田秀(よしだ・しゅう。コントラバス)、高野麗音(たかの・れいね。ハープ)、野本洋介(パーカッション)。邦楽器を模した音型が登場するのが特徴である。
出演は、鈴木准(狂女)、与那城敬(渡し守)、坂下忠弘(旅人)、町田櫂(霊の声。ボーイソプラノ。横須賀芸術劇場少年少女合唱団員)、加藤宏隆(修道院長)。巡礼者役(合唱)として、金沢青児、小沼俊太郎、吉田宏、寺田穰二、寺西一真、山本将生、奥秋大樹、西久保孝弘が出演する。

 

「カーリュー・リヴァー」も大型蝋燭2本に火を灯しての上演となる。
まず、「隅田川」でも鳴り物を務めた、竹市学、飯田清一、亀井広忠の3人が登場し、邦楽の演奏を行う。その後、修道僧が登場し、オペラ「カーリュー・リヴァー」が始まるのだが、いかにもキリスト教的な賛美歌風合唱から始まるため、かなりの落差が感じられる。

ブリテンとプルーマーは、亡くなった子を「聖人」としており、そのことからして「隅田川」とはかなり趣が異なる。
出演者達は、口元を布で隠し、頭巾を被っている。大谷刑部こと大谷吉継のようだが、これはコロナ対策であると同時に、宗教的な雰囲気を出す役割も担っていると思われる。

カウンターテナーでもある彌勒忠史は、観世喜正と2018年まで数年に渡って、市川海老蔵の「源氏物語」で共演してきたそうで、能の要素を取り入れた演出となっている。元々はもっと能の型を全面に取り入れるはずだったのだが、コロナの影響で少しシンプルになったようだ。だが、狂女が、さらわれてきた子が我が子だと気付く場面で、「隅田川」の観世喜正と完全に同じゆっくりとした振り返りを取り入れており、能との連続上演ということで、違う作品に同じ動きを取り入れることで却って明らかになる差違を示していく。

「隅田川」では現れるだけだった少年が、「カーリュー・リヴァー」ではキリスト教的な救済を述べる。ブリテンもプルーマーも「隅田川」的哀感ではやはり救いがないと思ったのだろうか。「隅田川」も、日本的「哀れ」を描いた作品であり、他国の人に完全に伝わるかどうかは疑問である。また宗教観の違いもあり、有名な「悲しむ者は幸いである」をメッセージとして入れるべきだと感じたのかも知れない。なによりこれは救済のための「寓話」として再現された「隅田川」である。

鈴木優人を音楽監督とする演奏者達は、邦楽からの置き換えを上手く表現しつつ、高雅な響きを紡ぎ上げる。独唱者も合唱も充実しており、ブリテンの叡智と才気を十全に表現していた。

両作品とも、突如として響き渡る子どもの声が効果的に用いられている(「カーリュー・リヴァー」では舞台奥の紗幕の後ろに少年の姿が浮かび上がる)。それは突然の啓示のようでもあり、闇の中に不意に差し込んできた光のようでもある。金曜日に小林研一郎指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で聴いた、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲のオルガンにもそうした要素があるが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により、未来が全く見えない今現在、求められている救いにも似たものである。
もののわかった振りをした山師的な人々が現れては消えているが、そうした打算的なものとは違った本当の恩寵が、フィクションの世界の中とはいえもたらされていることが、あるいは救いなのかも知れない。

フィクションとは絵空事ではなく、人類の歴史が凝縮されたものである。これまで人類に降りかかってきた数々の悲劇が、そこには詰め込まれているが、にも関わらず人類は今も存在して歩みを続けている。それは希望に他ならない。

 

 

上演終了後、どぶ板通りを歩いてみる。コロナの影響からか、あるいは日曜の夜だからかはわからないが閉まっている店も多い。
一昔前に比べるとアメリカ系の店舗は減ったといわれているが、それでも迷彩服姿の米兵が何人も歩いているなど、日本離れした光景が広がっている。
舗道には横須賀ゆかりの有名人の手形が押してあり、指揮者の飯森範親(鎌倉生まれの葉山育ちだが、横須賀市内にある神奈川県立追浜高校出身)と横須賀市出身のヴァイオリニストである徳永二男(元NHK交響楽団コンサートマスター)の手形が並んでいた。

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2020年10月 9日 (金)

観劇感想精選(357) 「野村万作・野村萬斎 狂言公演」@びわ湖ホール2020

2020年10月4日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

びわ湖ホール中ホールで午後5時から「野村万作・野村萬斎 狂言公演」を観る。
本来は、今年の3月にびわ湖ホールで行われるはずの公演だったのだが、コロナ禍で中止となり、半年ちょっとの時を経て公演に漕ぎ着けた。3月公演のチケットは全て払い戻しとなり、前後左右1席ずつ空けたソーシャルディスタンス対応版のチケットが新たに発売された。ステージに近い3列は空席となっている。入場時に人が集中するのを避けるため、通常は開演30分前開場となるところを開演1時間前開場と30分前倒しにしていた。クラシック音楽のコンサート、特にオーケストラの公演は「開場は開演の1時間前」であることが多いため、特に違和感は覚えなかった。

今日は午後1時からと午後5時からの2回公演であるが、午後5時からの公演は残念ながら入りは今ひとつ。隣の大ホールでは日本センチュリー交響楽団がコンサートを行うなど、通常時に近い稼働を行っているびわ湖ホールであるが、コロナの影響もあって人は余り多くないという印象を受ける。

野村万作、野村萬斎、野村裕基の三代が3つの演目で主役を務めるという舞台。これまでも三代の共演は観たことがあるが、同じ演目で共演することなく単独で主演という形は初めてだと思われる。
演目は、「蚊相撲」(出演:野村裕基、内藤連、深田博治)、「謀生種(ぼうじょうのたね)」(出演:野村万作、野村太一郎)、「六地蔵」(出演:野村萬斎、高野和憲、中村修一、飯田豪、石田淡朗)。


上演が始まる前に、高野和憲が登場して、狂言と演目の解説を行う。狂言はセットなどを用いないため、全てセリフで語るのだが、暗黙のルールがあるため、「約束事の演劇」とも呼ばれているという話をする。
日本中どこでも、あるいは海外でも「この辺りの者でござる」と自己紹介する人物が登場し、庶民が主人公になることが多い舞台である。中世において庶民が主人公になる演劇は世界的に見てもかなり珍しい。

高野は、「冗談もあります」と言って、「木に二羽の鳥が止まっている。カラスとスズメだが、この二羽は親子である。カラスが『コカー』と鳴き、スズメが『チチ』と応える。これで笑えないと狂言は楽しめません」と語っていた。説明するまでもないことだが、カラスの鳴き声が「子か」、スズメの鳴き声が「父」という風に聞こえるという話である。そのほか、道行きの話をして、「なんだあいつ、同じところグルグルして馬鹿じゃないの? という人には狂言は無理です」と語っていた。
その後、演目の解説。「蚊相撲」と「謀生種」には滋賀県の話が登場する。「蚊相撲」には蚊の精が登場するのだが、江州(近江国)守山からやってきたという設定である。「守山は蚊どころ(蚊の名所)」というセリフもある。往時の守山は湿地帯であり、蚊が多いことで知られていたようである。
「謀生種」にも琵琶湖の話が出てくる。更に滋賀県人にはお馴染みの名所も例えとして登場する。
「六地蔵」は、京都を舞台にした話だが、京都市伏見区と宇治市一帯にある六地蔵地区とは関係がない。すっぱを題材にしたお話である。

高野は、「人生に悩んでいる人が狂言を観ても何も変わりません」と語る。「失敗する人ばかり出てくる」からだが、「昨日も失敗、今日も失敗、明日も失敗で生きていくのが人間であり、みんな一緒」と思えたなら少しは勇気づけられるかも知れない。

 

「蚊相撲」。大名(演じるのは野村裕基。いわゆる守護大名や戦国大名などとは違い、その土地の有力者という程度の意味)が、新たな家来を雇おうという話を太郎冠者(内藤連)としている。狂言では身分の高い人(余り出てこないが)は最初から前の方に出てくるという約束があり、大名も目一杯前に出て自己紹介を行う。今、家来は太郎冠者一人であり、太郎冠者も新たな家臣を雇えば楽が出来るというので賛成する。最初は8000人の家来を雇いたいという無茶をいう大名であったが、太郎冠者に「家が確保出来ない」と反対され、200名に下げたが「食事の面倒が見られない」ということで、太郎冠者と合わせて2人、つまり新規採用1人となった。
太郎冠者は往来に出て、めぼしい人材がいないか目をこらす。スカウトを行う訳である。そこへ、「都へ上って人々の血を吸おう」と企んでいる蚊の精(深田博治)が通りかかる。蚊の精が気になった太郎冠者は正体を知らずに話し掛ける。蚊の精が「自分は万能だ」という意味の話をしたため、太郎冠者は採用を決め、蚊の精を屋敷に連れ帰る。
蚊の精が一番得意とするのは、「やっとまいった」=「相撲」である。大名は蚊の精に相撲の腕を見せて欲しいというのだが、一人では相撲は出来ない。そこで大名が相手をすることになるのだが、相撲の最中に蚊の精は正体を現す。最初の取り組みを終えて相手の正体を見破った大名は団扇を隠し持ち、蚊の精を嬲り始めるのだが……。

蚊の精の鳴き声が結構可愛らしく、ユーモラスである。狂言には獣の精に取り憑かれるという話がいくつかあるのだが、これもその系統に入る。
まだ若い野村裕基だが、立ち姿は美しく、堂々とした振る舞いが板に付いている。

 

「謀生種」は和泉流の専有曲であり、嘘つきの話である。主人公である甥(野村太一郎)には山一つあなたに住む伯父(野村万作)がいるのだが、この伯父が法螺話を得意としており、甥が勝負を挑んでもいつも打ち負かされてしまう。甥は予め作り話を考えておき、伯父の上を行こうとするのだが……。
富士山に紙袋を着せる話、琵琶湖で茶を沸かす話(茶の葉を取り寄せて練り、三上山ぐらいの大きさまで練り上げて琵琶湖に投じたという話が出てくる)、本州から首を伸ばして淡路島の草を食う牛の話などが出てくる。壮大すぎる話だが、日本人の多くが知っている名所を題材としているため、荒唐無稽ではあるがイメージは出来てしまうというのが特徴である。ちなみにオチはない。

 

「六地蔵」。とある田舎者(高野和憲)が、六地蔵を堂宇に安置しようと計画。地蔵堂は建てたのだが、田舎であるため仏師がおらず資源もない。ということで都まで仏師を探しに出掛ける。だが、仏師が京都のどこにいるのかも調べずに来てしまったため、都大路をウロウロする羽目になる。それを見ていたいかにも悪そうな顔のすっぱ(野村萬斎)が田舎者と見抜き、騙すことを思いつく。
田舎者が「仏師を探している」と言うと、すっぱは、「その真仏師(まぶっし)だ」と名乗る。田舎者は「マムシ」と聞き違えて震え上がるが、すっぱは「真の仏師で真仏師だ」と説明する。すっぱは当然ながら仏像とは縁がなく、「楊枝一つ削ったことがない」のだが、六地蔵を彫ろうという約束をする。最初は3年3月90日(この辺の数え方の意味はよくわからない)かかるといっていたのだが、弟子達に分業体制で行わせ、完成した各々の部分を膠で固めたら1日で六地蔵が完成すると説明する。そして大金を吹っ掛けるが、明日までに六地蔵を完成させられる仏師は他にいそうにないので田舎者も話を飲む。

さて、すっぱは、仲間3人(中村修一、飯田豪、石田淡朗)を呼び、各自が地蔵に化けるという提案を行う。3体にしかならないので、すっぱ仲間の一人がもう3人呼んでこようとするが、提案を行ったすっぱは、「分け前が減る」ということで、3体ずつ別々にあるところを見せて田舎者を騙そうと企む。三条通の大黒屋に金が振り込まれ、因幡薬師(平等寺)の北側の本堂(北側の寺院の本堂という意味だろうか。往時の因幡薬師は参拝者が多いので因幡薬師内という訳ではないと思われる)を待ち合わせ場所とする。早めに因幡薬師の北側に着いたすっぱとその仲間は法具などを手にした地蔵に化けようとするのだが、無教養の者が多いため、何をすればいいのかわからない。ということでこの場面の野村萬斎はスパルタ教官と化す。
本堂のすっぱ達が化けた地蔵を見て感心する田舎者であったが、六地蔵なのに3体しかないとやはり言い出す。すっぱは「残りの3体は置き場所がないので鐘楼堂に安置した」と説明し、鐘楼堂に先回りして田舎者を騙すことにいったんは成功したのだが……。

特にひねりはないため、意外性には欠けるのだが、舞台と橋掛かりの間を何度も行き来するためダイナミックかつ賑やかで、華のある狂言となっていた。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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