カテゴリー「能・狂言」の68件の記事

2025年2月12日 (水)

観劇感想精選(483) 渡邊守章記念「春秋座 能と狂言」令和七年 狂言「宗論」&能「二人静」立出之一声

2025年2月8日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、渡邊守章記念「春秋座 能と狂言」を観る。毎年恒例となっている能と狂言の上演会である。今回の狂言の演目は「宗論」、能は「二人静」立出之一声である。

片山九郎右衛門(観世流シテ方)と天野文雄(大阪大学名誉教授)によるプレトークでは、能「二人静」立出之一声の演出についての話が展開される。『義経記』を元に静御前の霊を描いた「二人静」。静御前は日本史上最も有名な女性の一人であるが、その正体についてはよく分かっておらず、不自然な存在でもあるため、架空の人物ではないかと思われる節もある。正史である『吾妻鏡』には記されているが、公家の日記や手紙など、一次史料とされるものにその名が現れることはない。『義経記』は物語で、史料にはならない。
「二人静」は、元々はツレの菜摘の女と、後シテの静の霊が同じ舞を行うという趣向だったのだが、宝生九郎が「舞の名手を二人揃えるのは大変」ということで宝生流では「二人静」を廃曲とし、観世元章も同じような考えも持つに至った。ただ廃する訳にはいかないので、立出之一声という新しい演出法を行うことにしたという。立出之一声を採用しているのは観世流のみのようである。
二人とも狂言に関する解説は行わなかった。

 

狂言「宗論」。宗派の違う僧侶同士が論争を行うことを宗論という。仏教が伝来した奈良時代から行われており、最澄と徳一の三一権実論争などが有名だが、史上、たびたび行われており、時には天下人を利用したり利用されたりもしている(安土宗論など)。現在の仏教界は共存共栄路線を取っているので、伝統仏教同士で争うことは少ないが、昔は宗派による争いも絶えず、時に武力に訴えることもあった。
出演は、野村万作(浄土僧。シテ)、野村萬斎(法華僧。シテ)、野村裕基(宿屋。アド)。三世代揃い踏みである。
京・日蓮宗大本山本国寺(現在は本圀寺の表記で山科区にあるが、以前は洛中にあった。山科に移る前は西本願寺の北にあり、塔頭は今もその周辺に残るため、再移転の案もある。江戸時代には水戸藩との結びつきが強く、水戸光圀より圀の名を譲られて本圀寺の表記となっている)の僧で、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺(甲斐国、現在の山梨県にある。日蓮は鎌倉幕府から鎌倉か京都に寺院を建立しても良いとの許可を得たが、これを断って、僻地の身延山に本山を据えた)に詣でた法華僧(野村萬斎)は、都への帰り道で、同道してくれる都の僧侶を探すことにする。丁度良い感じの僧(野村万作)が見つかったが、よく話を行くと、東山の黒谷(浄土宗大本山の金戒光明寺の通称)の僧で、信濃の善光寺から京に帰る途中だという。
共に有名寺院の僧侶であったことから、宿敵に近い関係であることがすぐに分かる。
浄土宗と日蓮宗は考え方が真逆である。往生を目的とするのは同じなのだが、「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えれば極楽往生出来るとするのが浄土宗、「妙法蓮華経」を最高の経典として日々の務めに励むのが日蓮宗である。日蓮宗の宗祖である日蓮は、『立正安国論』において、「今の世の中が悪いのは(浄土宗の宗祖である)法然坊源空のせいだ」と名指しで批判しており、浄土宗への布施をやめるよう説いていたりする。

互いに自宗派の優位を説く法華僧と浄土僧。法華僧は、嫌になって「在所に用がある」「何日も、数ヶ月も掛かるかも知れない」といって、同道をやめようとするが(「法華骨なし」という揶揄の言葉がある)、浄土僧は「何年でも待ちまする」とかなりしつこい(「浄土情なし」という揶揄が存在する)。
何とかまいて、宿屋へと逃げ込む法華僧だったが、浄土僧も宿屋を探り当て、同室となる……。

法華僧が論争にそれほど積極的ではないのに、扇子で床を打つ様が激しく、浄土僧も扇子で床を叩くが言葉の読点を置くようにだったりと、対比が見られる。性格と態度が異なるのも面白いところである。浄土僧は法然から授かった数珠を持っており、法華僧は日蓮から下された数珠を手にしているということで、かなりの高僧であることも分かる。本圀寺と金戒光明寺という大本山の僧侶なのだから、その辺の坊主とは違うのであろう。
最後は、浄土僧が「南無阿弥陀仏(狂言では「なーもーだー」が用いされる)」、法華僧が「妙法蓮華経」を唱えるが、いつの間にか逆転してしまうという笑いを生むのだが、それ以前から逆転の現象は起こっているため、最後だけとってつけたように逆転を起こしている訳ではないことが分かる。

 

能「二人静」立出之一声。出演は、観世銕之丞(前シテ、里女。後シテ、静御前)、観世淳夫(菜摘女。ツレ)、宝生常三(勝手宮神主。ワキ)。鳴り物は、亀井広忠(大鼓)、大倉源次郎(小鼓)、竹市学(笛)。

大和国吉野。神主が菜摘女に、菜摘川に若菜を採りに行くよう命じる。菜摘女は菜摘川の近くで、不思議な女に声を掛けられる。罪業が重いので、社家の人々に弔ってくれるよう伝えて欲しいというのだ、菜摘女は憑依体質のようで、女が取り憑き、判官殿(源九郎判官義経)の身内と名乗り出る。
春秋座は歌舞伎対応の劇場なので、花道があり、途中にセリがある。静御前の霊は、このセリを使って現れる。
しばらくは共に大物浦や吉野山の話(義経関連のみではなく、後に天武天皇となる大海人皇子の宮滝落ちの話なども出てくる。ちなみに天武天皇も天智天皇の「弟」である)などをしていた菜摘女と静御前の霊であるが、互いに舞い始める。最初は余り合っていないが、次第に二人で一人のようになってくる。
ただ、頼朝の前での舞を再現するときは、菜摘女のみが舞い、静御前は動かない。おそらく頼朝の前で舞を強要された屈辱から、同じ舞を行うことを拒否しているのだと思われる。その他の理由は見当たらない。そして「しづやしづ賤の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな」から再び静は菜摘女と一体になり、存在を示す。

近年のドラマは、ストーリーよりも「伏線回収」が重視されているような印象を受けるが(物語は謎解きではないので必ずしも良い傾向だとは思えない)、今日観た狂言と能の演目は、伏線のしっかりした作品である。ただし、ある程度の知識がないと伏線が伏線だと分からないようにはなっている。

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2025年1月14日 (火)

コンサートの記(879) 平野一郎 弦楽四重奏曲「二十四氣」京都公演@大江能楽堂

2024年12月10日 京都市役所そばの大江能楽堂にて

午後7時から、押小路通柳馬場東入ル(京都市役所のそば)にある大江能楽堂で、平野一郎の弦楽四重奏曲「二十四氣」の演奏を聴く。二十四節気を音楽で描いた作品。演奏は石上真由子(いしがみ・まゆこ。第1ヴァイオリン)、對馬佳祐(つしま・けいすけ。第2ヴァイオリン)、安達真理(ヴィオラ)、西谷牧人(にしや・まきと。チェロ)。全員、タブレット譜を使っての演奏であった。

能楽堂での演奏ということで色々と制約がある。まずファンヒーターは音が大きいというので本番中は切られるため、寒い中で鑑賞しなくてはいけない。客席もパイプ椅子や座布団などで、コンサートホールほど快適ではない。音響設計もされていないが、能楽堂は響くように出来ている上に空間も小さめなので、弦楽四重奏の演奏には特に支障はない。

弦楽四重奏で、四季よりも細分化された二十四氣を描くという試み。24の部分からなるが、24回全てで切るわけにはいかないので、春夏秋冬の4つの楽章で構成されるようになっている。
作曲者の平野一郎のプレトークに続いて演奏がある。能舞台の上には白足袋でしか上がってはいけない(他の履き物で上がってしまうと、板を張り替える必要があるため、膨大な金額を請求されることになる)ので、全員、白足袋での登場である。白足袋で演奏するクラシックの演奏家を見るのは珍しい。

 

平野一郎は、京都府宮津市生まれ(「丹後國宮津生」と表記されている)の作曲家。京都市立芸術大学と同大学大学院で作曲を専攻。2001年から京都を拠点に作曲活動を開始している。
プレトークで、平野は二十四節気は中国由来だが、すでに日本独自のものになっていることや、調べ(調)などについての説明を行う。

 

「二十四氣」であるが、現代曲だけあって、ちょっととっつきにくいところがある。繊細な響きに始まり、風の流れや鳥の鳴き声が模され、ピッチカートが鼓の音のように響く。弦楽器の木の部分を叩いて能の太鼓のような響きを生んだり、ヴァイオリンが龍笛のような音を出す場面もある。旋律らしい旋律は余り出てこないが、ヴィオラが古雅な趣のあるメロディーを奏でる部分もある(チェロのピッチカートで一度中断される)。ヴァイオリンであるが、秋に入ってからようやくメロディーらしきものを奏でるようになる。
秋には楽器が虫の音を模す場面もある。チェロが「チンチロリン」(松虫)、ヴァイオリンが「スイーッチョン」(ウマオイ)の鳴き声を模す。
冬の季節に入ると、奏者達が歌いながら奏でるようになり、足踏みを鳴らす。面白いのは四人のうちヴィオラの安達真理のみ左足で音を鳴らしていたこと。どちらの足で出しても音は大して変わらないが、おそらく左足が利き足なのだろう。
演奏時間約70分という大作。豊かなメロディーがある訳ではないので、聴いていて気分が高揚したりすることはないが、日本的な作品であることは確かだ。四人の奏者の息も合っていた。

演奏終了後に、安達真理がお馴染みの満面の笑みを見せる。彼女の笑みは見る者を幸せにする。

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2024年9月16日 (月)

観劇感想精選(467) 令和六年「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」第2部 能「花月」、狂言「梟」、能「融」

2024年8月22日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後6時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」第2部を観る。演目は、能「花月」、狂言「梟」、能「融(とおる)」

まず、女性能楽師の鷲尾世志子による作品の説明があり、今年の元日に起こった能登半島地震のチャリティ公演にもなるということが告げられ、それが通訳の女性によって英訳される(外国人観客のため)。


能「花月」。出演は、河村浩太郎、原大。山下守之(アイ)。
7歳でさらわれた花月を巡る物語である。
九州筑紫国、彦山の麓に住む出家が現れ、7歳でさらわれた息子の花月を探して諸国を練り歩いていることを語る。桜が満開の清水寺(「きよみずでら」であるが、能狂言の場合は、音読みの「せいすいじ」と呼ばれる)にたどり着いた出家は、花月という少年が清水寺にいたという話を耳にする。
現れた花月は清水寺の由来に合わせて舞い、鶯を弓で射ようとする。出家はそれが自分の息子だと確信する。
父親に出会えた花月は嬉しさの余り、様々な舞いを披露しつつ、これまでの遍歴を述べるのだった。
日本諸国の「山づくし」が謡われる「鞨鼓舞」が印象深い。

「良弁杉由来」にちょっとだけ似ている展開である。


狂言「梟(ふくろう)」。出演は、茂山忠三郎、山本善之、鈴木実。
「梟」は以前にも、「能楽チャリティ公演」で茂山千五郎家によって上演されているのだが、今回は茂山忠三郎家の忠三郎が主役の法師を務める。実は忠三郎とはちょっとした知り合いなのだが、特に仲が良いわけでもない。

弟が、山に行った兄が放送自粛用語になったので、放送自粛用語に放送自粛用語を……、
あ、これじゃ分からないか。放送自粛用語になったので、法師に祈祷をお願いする。どうも兄は山で梟の巣をいじったようで、梟のような奇声を上げる。法師は祈祷を行うのだが……。
客観的に見ると、エクソシスト系の純粋なホラー作品である。狂言だということにしてあるため笑っていられるが、身近であんなことが起きたら、当時だと山奥に幽閉されそうな気がする。昔はその手の差別が酷かった。


能「融」。今回は後半部分のみの上演である。「融」の発音は、関東では「お」にアクセントが来るが、鷲尾世志子の「融」の発音は、英語のTallに近い。
嵯峨天皇の子であり、嵯峨源氏系渡辺氏の祖である源融。当事国内最大の荘園であった渡辺荘(現在の大阪市内にあったことは分かっているが、実際にどの辺りなのかははっきりしていないようである)の荘官を務め、渡辺氏を名乗った嫡流の子孫は融にあやかり、代々、諱は漢字一文字である(渡辺綱などはその代表例)。
光源氏のモデルの一人ともされており、六条河原町に広大な邸宅を建てて河原左大臣(かわらのさだいじん)とも呼ばれている。

出演は、片山九郎右衛門、有松遼一。

秋の名月の日、東国出身で初めて都に来た僧侶が六条河原院にやって来る。そこで汐汲みの田子を背負った老人と出会う。この老人は、以前、この邸の主だった源融のことを語る。

今回上演されるのは、これより後の、融(後シテ)の亡霊が現れて、舞を披露するが、夜明けと共に月の都へと帰っていく場面である。
後シテの舞に迫力があり、鳴り物の妙も相まって気高さの感じられる上演となっていた。

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2024年6月20日 (木)

観劇感想精選(463) 第73回京都薪能 「光源氏の夢」初日

2024年6月1日 左京区岡崎の平安神宮境内特設会場にて

左京区岡崎の平安神宮で行われる第73回京都薪能。午後6時開演である。今回は「光源氏の夢」というタイトルが付いている。演目は、「半蔀(はじとみ)」(観世流)、「葵上」(金剛流)、狂言「おばんと光君(ひかるきみ)」(大蔵流)、「土蜘蛛」(観世流)。
思ったよりも人が多く、最初は立ち見。その後、補助席が設けられた。どうやら京都市京セラ美術館から椅子を借りてきたようである。

まずナビ狂言として、茂山千五郎家の茂山茂(しげやま・しげる)と井口竜也が登場。京都薪能があるので急いでいるという設定で、茂山茂が、「西宮神社の福男」に例えて一番乗りを目指すのが京都薪能の見方だと語る。ちなみに今年から指定席も設けられたことも紹介される(ただし高い)。井口竜也から今年の京都薪能の演目を聞かれた茂山茂は、「今年はNHK大河ドラマが『光る君へ』ゆえ、『源氏物語』にちなんだ演目が揃っておりまする」
井口「それは、『ちなんだ』というよりも、『便乗商ほ……』」
茂山「シーッ!」
確かに例年より客が多いような気がする。「光る君へ」は低視聴率が続いているが、なんだかんだでテレビの影響力は大きい。
井口「それがし、能についてはようわからんのだが」
茂山「そういう方のために、パンフレットを販売しております。あとイヤホンガイドも貸し出してございます」
井口と茂山は、その後、「半蔀」の紹介(そもそも半蔀とは何かから説明する)などを行う。

能「半蔀」。『源氏物語』の中でもホライックな場面として教科書などでもお馴染みの「夕顔」を題材にした演目である。シテの夕顔の亡霊を演じる松井美樹さんとは知り合いなのだが、長いこと顔を合わせていない。
北山の雲林院(今も大徳寺の塔頭として規模と宗派は異なるが同じ名前の後継寺院がある)の僧が花供養をしていると、女がやって来て夕顔の花を捧げる。女は「五条あたりにいた者」と名乗る。
僧が五条の夕顔の咲いた茅屋を訪ねると、半蔀を開けて夕顔の亡霊が現れる(そもそも光源氏は半蔀を開けていた夕顔を見初めたのである)。夕顔は夕顔の花にまつわる光源氏との思い出を語る。

「半蔀」の上演後、平安神宮の本殿から神官によって火が運ばれ、薪に移す火入式が行われる。傍らでは消防の方々が見守る。

その後、松井孝治京都市長による挨拶がある。松井市長は「文化首都・京都」を掲げて当選。古典芸能を愛するほか、自称「クラオタ(クラシックオタク)」で、X(旧Twitter)などを見ると沖澤のどかの追っかけをしていたりするのが確認出来る。そんな市長なので、文化芸能について語るのかと思いきや、それを後回しにして、「まずお詫びがございます」と始める。立ち見の方が出てしまったことや今も立ち見状態の方へのお詫びだった。座席数よりかなり多くのチケットを売ってしまった訳で、やはりこれは計算ミスだったであろう。

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再びナビ狂言の茂山茂と井口竜也が登場し、「葵上」について語る。
井口「しかし肝心の葵上の名前がないが、これはミスプリか?」
茂山「いえいえ」
葵上は病気になって寝ているという設定で、着物(小袖)を敷いて葵上に見立てる。茂山茂が着物を敷いた。

能「葵上」。今でいうメンヘラの六条御息所が生き霊となって葵上に祟るという内容である。
葵上が病で伏せっている(着物しかないが寝ているという設定)。そこへ照日巫女が連れてこられ、梓弓の呪法を行う。夕顔の名も登場する。破れ車に乗った六条御息所の怨霊が現れ、愚痴りまくった上で、恨み(賀茂の祭りこと葵祭での車争いの恨みとされる)を晴らそうとする。結構激しいシーンとなる。
比叡山の横川の小聖が呼ばれることになる。横川まではかなり遠いはずだが、物語の展開上、早く着く。横川の小聖は延暦寺ではなく修験道の行者である。小聖は苦戦の末、六条御息所の霊をなんとか調伏する。


狂言「おばんと光君」。光源氏が出てくる狂言の演目は古典にはないそうで、そこで明治以降に書かれた現代狂言の中から、光源氏ならぬほたる源氏(茂山逸平)、頭中将ならぬとうふの中将(茂山忠三郎)、惟光ならぬあれ光(鈴木実)とそれ光(山下守之)などが登場するパロディが上演される。パロディということで、表現も思いっきり砕けており、「熟女」という比較的新しい言葉が使われたり、「スキャンダル」という英語が用いられたり、「文春砲」という芸能用語が飛び出したりする。
ほたる源氏も光源氏同様にモテモテで、声を掛ければどんな女でもなびくので面白くなくなり、これまで抱いたことのない熟女にチャレンジしようと決めたことから起こるドタバタ劇で、途中、歌舞伎の「だんまり」に似た場面もある。

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能「土蜘蛛」。京都では壬生狂言でも人気の演目である。ちなみに「土蜘蛛」は明日も金剛流のものが上演されるので、明日も観る予定がある場合は、ここで席を立つ人も多かった。
源頼光が主人公であるが、四天王は登場しない。その代わり、独武者という頼光の従者が登場する(四天王の誰かに当たるのかも知れないが、名前がないので分からない)。
頼光が病気で伏せっていると、僧侶が現れる。僧侶の正体は葛城山の土蜘蛛で、頼光に蜘蛛の糸を投げつける。
土蜘蛛と独武者との大立ち回りが見物の演目である。
土蜘蛛の正体は、大和葛城郡を根拠地とし、渡来人を多く抱えていた有力豪族の葛城氏であるとされる。葛城氏はその後に滅ぼされることになるが、土蜘蛛伝説となって後世に存在を残すこととなった。

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2024年5月 5日 (日)

観劇感想精選(460) RYUICHI SAKAMOTO+SHIRO TAKATANI 「TIME」京都初演

2024年4月27日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、坂本龍一の音楽+コンセプト、高谷史郎(ダムタイプ)のヴィジュアルデザイン+コンセプトによるシアターピース「TIME」を観る。坂本が「京都会議」と呼んでいる京都での泊まり込み合宿で構想を固めたもので、2019年に坂本と高谷史郎夫妻、浅田彰による2週間の「京都会議」が行われ、翌2020年の坂本と高谷との1週間の「京都会議」で大筋が決定している。当初は1999年に初演された「LIFE」のようなオペラの制作が計画されていたようだが、「京都会議」を重ねるにつれて、パフォーマンスとインスタレーションの中間のようなシアターピースへと構想が変化し、「能の影響を受けた音楽劇」として完成されている。
2021年の6月にオランダのアムステルダムで行われたホランド・フェスティバルで世界初演が行われ(於・ガショーダー、ウェスタガス劇場)、その後、今年の3月上旬の台湾・台中の臺中國家歌劇院でのアジア初演を経て、今年3月28日の坂本の一周忌に東京・初台の新国立劇場中劇場で日本初演が、そして今日、ロームシアター京都メインホールで京都・関西初演が行われる。
京都を本拠地とするダムタイプの高谷史郎との作業の中で坂本龍一もダムタイプに加わっており、ダムタイプの作品と見ることも出来る。

出演は、田中泯(ダンサー)、宮田まゆみ(笙)、石原淋(ダンサー)。実質的には田中泯の主演作である。上演時間約1時間20分。

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なお、シャボン玉石けんの特別協賛を受けており、配布されたチラシや有料パンフレットには、坂本龍一とシャボン玉石けん株式会社の代表取締役社長である森田隼人との対談(2015年収録)が載っており、来場者には「浴用 シャボン玉石けん 無添加」が無料で配られた。

「TIME」は坂本のニュートン時間への懐疑から構想が始まっており、絶対的に進行する時間は存在せず、人間が人為的に作り上げたものとの考えから、自然と人間の対比、ロゴス(論理、言語)とピュシス(自然そのもの)の対立が主なテーマとなっている。

舞台中央に水が張られたスペースがある。雨音が響き、鈴の音がして、やがて宮田まゆみが笙を吹きながら現れて、舞台を下手から上手へと横切っていく。水の張られたスペースも速度を落とすことなく通り過ぎる。
続いて、うねるようでありながらどこか感傷的な、いかにも坂本作品らしい弦楽の旋律が聞こえ、舞台上手から田中泯が現れる。背後のスクリーンには田中のアップの映像が映る。田中泯は、水の張られたスペースを前に戸惑う。結局、最初は水に手を付けただけで退場する。
暗転。
次の場面では田中泯は舞台下手に移動している。水の張られたスペースには一人の女性(石原淋)が横たわっている。録音された田中泯の朗読による夏目漱石の「夢十夜」より第1夜が流れる。「死ぬ」と予告して実際に死んでしまった女性の話であり、主人公の男はその遺体を真珠貝で掘った穴に埋め、女の遺言通り100年待つことになる。
背後のスクリーンには石垣の中に何かを探す田中泯の映像が映り、田中泯もそれに合わせて動き出す。

暗転後、田中泯は再び上手に移っている。スタッフにより床几のようなものが水を張ったスペースに置かれ、田中泯はその上で横になる。「邯鄲」の故事が録音された田中の声によって朗読される。廬生という男が、邯鄲の里にある宿で眠りに落ちる。夢の中で廬生は王位を継ぐことになる。

田中泯は、水を張ったスペースにロゴスの象徴であるレンガ状の石を並べ、向こう岸へと向かう橋にしようとする。途中、木の枝も水に浸けられる。

漱石の「夢十夜」と「邯鄲」の続きの朗読が録音で流れる。この作品では荘子の「胡蝶之夢」も取り上げられるが、スクリーンに漢文が映るのみである。いずれも夢を題材としたテキストだが、夢の中では時間は膨張し「時間というものの特性が破壊される」、「時間は幻想」として、時間の規則性へのアンチテーゼとして用いているようだ。

弦楽や鈴の響き、藤田流十一世宗家・藤田六郎兵衛の能管の音(2018年6月録音)が流れる中で、田中泯は橋の続きを作ろうとするが、水が上から浴びせられて土砂降りの描写となり、背後にスローモーションにした激流のようなものが映る。それでも田中泯は橋を作り続けようとするが力尽きる。

宮田まゆみが何事もなかったかのように笙を吹きながら舞台下手から現れ、水を張ったスペースも水紋を作りながら難なく通り抜け、舞台上手へと通り抜けて作品は終わる。

自然を克服しようとした人間が打ちのめされ、自然は優雅にその姿を見守るという内容である。

坂本の音楽は、坂本節の利いた弦楽の響きの他に、アンビエント系の点描のような音響を築いており、音楽が自然の側に寄り添っているような印象も受ける。
田中泯は朗読にも味があり、ダンサーらしい神経の行き届いた動きに見応えがあった。
「夢の世界」を描いたとする高谷による映像も効果的だったように思う。
最初と最後だけ現れるという贅沢な使い方をされている宮田まゆみ。笙の第一人者だけに凜とした佇まいで、何者にも脅かされない神性に近いものが感じられた。

オランダでの初演の時、坂本はすでに病室にあり、現場への指示もリモートでしか行えない状態で、実演の様子もストリーミング配信で見ている。3日間の3公演で、最終日は「かなり良いものができた」「あるべき形が見えた」と思った坂本だが、不意に自作への破壊願望が起こったそうで、「完成」という形態が作品の固定化に繋がることが耐えがたかったようである。

最後は高谷史郎が客席から登場し、拍手を受けた。なお、上演中を除いてはホール内撮影可となっており、終演後、多くの人が舞台セットをスマホのカメラに収めていた。

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2023年2月26日 (日)

観劇感想精選(455) 渡邊守章記念 春秋座「能と狂言」2023 「花盗人」&「隅田川」

2023年2月4日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、渡邊守章記念 春秋座「能と狂言」を観る。

まず観世流シテ方の片山九郎右衛門と舞台芸術センター特別教授である天野文雄によるプレトークがあり、狂言「花盗人」と能「隅田川」が上演される。

片山九郎右衛門と天野文雄によるプレトークであるが、「隅田川」の内容解説などが中心となる。「隅田川」には子方といって子役が登場するのだが、片山九郎右衛門も子どもの頃に「隅田川」の子方を何度も務めているという。ずっと塚を表す室の中に隠れているのだが、ずっと正座しているそうで、それだけでも大変さが伝わってくる。
「隅田川」は救いのない悲劇として知られているが、子方の「南無阿弥陀仏」の称名が救いなのかどうか、また「隅田川」の作者である観世元雅と父親の世阿弥との間で行われたという『申楽談儀』の「子方論争」というものがあり、世阿弥が子方を出すべきではないと主張して、元雅はそれに反対したという経緯があるのだが、今では子方は基本的に出すことになっている。片山九郎右衛門が出演した「隅田川」でも観世銕之丞が出演した「隅田川」でも子方は必ず出ていたそうだ。ただそうではない演出も実は今でもあるそうである。


狂言「花盗人」。桜の花を盗みに来た男(野村万作)が、何某(野村萬斎)に捕らえられるが、歌道の妙技で危機を切り抜けたばかりか、桜の枝まで贈られるという展開で、芸能の妙技が称えられている。野村万作の動きのキレはやはり90代の高齢であることを感じさせない。


能「隅田川」。一昨年に横須賀でも観ている演目である。
子方梅若丸:安藤継之助、シテ狂女:観世銕之丞、ワキ渡守:森常好、ワキヅレ商人:舘田善博。
京都芸術劇場のある北白川に住む女が、息子の梅若丸をさらわれ、東国に連れて行かれたという噂を聞いて、武蔵国と下総国の国境である隅田川まで狂女となって落ちていく。
狂人に「狂え」と人が命令する能の演目はいくつかあるそうだが、それらはいずれも芸能者に「芸を披露しろ」と命ずるものだそうで、芸能者でないものに命令するのは珍しいそうである。

片山九郎右衛門は、梅若丸の姿が母親である狂女以外にも見えるという解釈を支持しているそうだが、確かに視覚全盛の現代の上演ということを考えれば、そうした解釈の方が似つかわしいように感じられる。

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2023年1月21日 (土)

観劇感想精選(454) 「万作萬斎新春狂言2023」@サンケイホールブリーゼ

2023年1月18日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて

午後6時30分から、西梅田のサンケイホールブリーゼで「万作萬斎新春狂言2023」を観る。

まず、飯田豪、中村秀一、野村萬斎、内藤連、野村裕基(プログラム掲載順)による謡初「雪山」が歌われ、野村裕基による小舞「兎」が舞われる。


その後、野村萬斎によるレクチャートークがあるが、「野村裕基が卯年の年男だそうで、だそうでもなにも私の息子なんですが」と、野村裕基が「兎」を舞った理由が述べられる。
野村萬斎のトークは、前半の演目「舟渡聟」に関するレクチャーが大半を占める。「『舟渡聟』は大蔵流にもあるのですが、我々和泉流の方が面白い」として、なぜ面白いのかを解説する。また例によって、狂言が「エア」であることを強調する。確かにエアであることに納得出来ないと狂言を観ても面白くないだろう。また、狂言に出てくる人というのは理性や自制心が飛んでしまっている人も多いのだが、それは観る人の代わりにその場をぶち壊してくれるという要素が強いことが語られる。
野村萬斎は、今年の大河ドラマ「どうする家康」にも出演しているが、「第1回で死んでしまう」と語り、「まだ視聴率が高い内に退場出来て良かった」と前向きに捉えて、「第3回には私は登場するようです」と予告していた。


「舟渡聟」。出演:野村万作(船頭)、野村裕基(婿)、深田博治。
琵琶湖と琵琶湖畔が舞台である。都邊土(都の近辺)から婿入り(婿が舅の家に挨拶に行くこと。今ではこの風習はない)のために琵琶湖は大津松本にやってきた婿であるが、舅の家がある矢橋まで舟に乗ることにする。舅への土産として京の酒と鯛を担いでいる婿であるが、船頭は酒ほしさに婿を脅すことになる。
野村万作の年齢(今年で92歳)を感じさせない体の捌きに方にまず感心する。十代の頃は線の細い優男という印象だった野村裕基だが、今では堂々たる若武者に変貌。今後が楽しみである。


「花折」。出演は、野村萬斎(新発意)、石田幸雄(住持)、高野和憲、内藤連、中村修一、飯田豪。

住持(住職)が出掛けることになるのだが、境内の桜は満開なるも「花見禁制にしたから誰が来ても庭へ入らせないように」と新発意(見習い僧)に言いつける。
そこへ人々が花見に訪れるのだが、新発意は住持の言いつけを守って人々を庭へは入れない。だが人々は寺の外から垣間見る形で花見をし、宴会を始めてしまう。新発意はうらやましくなり、ついには宴会に参加し、人々を寺内に招き入れてしまうのだが……。

タイトルから想像出来ると思われるが、ラストはかなり衝撃的で、客席から声や息をのむ音が伝わってきた。おそらくであるが、「質素倹約」を押しつけてきた時の為政者への強烈なカウンターの意味もあるのであろう。

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2022年9月 1日 (木)

観劇感想精選(444) 「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」2022 第2部

2022年7月25日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後6時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、「能楽チャリティ公演~祈りよとどけ、京都より~」第2部を観る。午前10時半から第1部の公演があり、少し開けて第2部の公演が行われる。

第2部の演目は、「右近」、狂言「舎弟」、「鞍馬天狗」

女性能楽師の松井美樹によるナビゲーションがあり、公演の趣旨や演目のあらすじが紹介される。同じ内容を白人の男性通訳が海外からのお客さんのために英語に訳した。


「右近」。半能として後半のみの上演である。出演は、吉田篤史、有松遼一。
北野天満宮の右近の馬場が舞台であり、鹿島神宮の神職が在原業平の歌を口ずさむと、桜場の女神(じょしん)が感応して舞を始めるという内容である。
長い袖を腕に絡ませながらの舞であるが、その瞬間に桜の花が咲いて散る様が見えるような、桜そのものの舞となる。おそらく意識しているのだと思われるが、凄いアイデアである。


狂言「舎弟」。出演は、茂山千之丞、鈴木実、網谷正美。
この辺りの者(シテ。茂山千之丞)には兄がいるのだが、名前ではなくいつも「舎弟、舎弟」と呼ばれている。シテの男は「舎弟」の意味が分からないので、ものをよく知っている知り合い(鈴木実)に「舎弟」の意味を聞きに行く。いい年なのに「舎弟」という言葉も意味も知らないということで知り合いは呆れ、「舎弟るといって、人のものを袖に入れて持ち去る」いわゆる盗人だと嘘を教える。シテの男は信じ込んで激怒。兄の正美のところへ文句を言いにやってくる。

いつのまにか「舎弟る」という言葉が一人歩きし、二人で「舎弟る」の話になって別の喧嘩が始まるのが面白い。


「鞍馬天狗」。通常とは異なり、白頭の装束での上演となったが、膨張色ということもあり、鞍馬の大天狗が大きく見えて効果的であった。出演は、原大、茂山逸平、島田洋海、松本薫、井口竜也。
鞍馬寺にはその昔、東谷と西谷があり(東谷って嫌な言葉だなあ)、一年おきに片方の僧侶が相手の所に出向いて花見を行い、それを当地の僧侶がもてなすという習慣があった。そんな折り、東谷を訪れた山伏。正体は鞍馬の大天狗(「義経記」などの鬼一方眼に相当)である。稚児達が遊んでいるが、皆、山伏が来たのを見て帰ってしまう。その中で一人、残った稚児がいる。この子こそ後に源九郎判官義経となり日本一の戦上手として名をはせる人物であるが、「帰ったのはみな平家の稚児、それも平清盛に近い稚児で、自分だけ彼らとは立場が異なる」と語る。それを見た山伏は、兵法の奥義を後に義経となる牛若丸、大天狗の名付けによると遮那王に授けることに決める。

能の演目であるが、狂言方による笑えるシーンなどもあり、大天狗の舞も見事で、能のもう一つの魅力であるダイナミズムが前面に出た演目となった。とにかく迫力がある。

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2022年8月14日 (日)

観劇感想精選(442) 「観世青年研究能」 令和4年8月6日

2020年8月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて

左京区岡崎の京都観世会館で、「観世青年研究能」を観る。午前11時開演。能楽観世流若手による上演だが、時節柄体調不良の者が多く、出演者にかなりの変更がある。

演目は、「田村」、大蔵流狂言「太刀奪」、「杜若」、「鵺」

先日、上七軒文庫のシラス講座「能と唯識」で取り上げられた「鵺」が上演されるということで、講師で観世流シテ方の松井美樹が宣伝していた公演である。今日は本来なら出勤日なのだが、手掛けている仕事も一段落ということで、休みを取って観に行くことにしたのだ。同じ講座を受講している人と会えるかなとも思ったのだが、残念ながら観に行ったのは私一人だけだったようである(松井美樹は地謡として「鵺」に出演していた)。

謡本は、Kindleで買ったものをスマホにダウンロードしており、昨日、一通り読んで来たのだが、いざ本番となると、肝心要のセリフが聞き取れなかったりする。「聞き取れない部分の面白さ」も能にはあるわけだが、なるべくなら謡も聞き取れた方がいい。ということで、売店でミニサイズの謡本「杜若」と「鵺」を購入。不思議なもので本を読んでいると謡も「そう言っているようにしか聞こえない」ようになる。周りを見ると、謡本を手に能を観ている人も結構多い。


謡本を購入する前に観た「田村」。この作品は、YouTubeなどで何度か観たことがあり、あらすじも分かっているのだが、次回は謡本を手に観た方が良さそうである。
「田村」というのは、征夷大将軍・坂上田村麻呂(劇中では田村丸)のことである。
ワキの僧侶は、東国出身で都(京都。平安京)を見たことがないというので、上洛してまず清水寺(「せいすいじ」「きよみずでら」の両方で読まれる)に詣で、そこで地主権現(現在の地主神社)の桜の精(前シテ)と坂上田村丸の霊(後ジテ)に出会うという物語である。「杜若」に出てくる僧侶が京の生まれで東国を見たことがないというので東下りするのと丁度真逆の設定となっている。
出演:谷弘之助(前シテ、後ジテ)、岡充(ワキ。旅僧)、島田洋海(アイ。清水寺門前ノ者)。

坂上田村麻呂と縁の深い清水寺。この演目ではその由来が語られる。懸造りの舞台が有名な清水寺であるが、勿論そればかりではない。音羽の滝の清水や、地主神社、十一面観音などの来歴がシテや地謡によって語られていく。


狂言「太刀奪」。野村万作、野村萬斎、野村裕基の親子三代による和泉流狂言も観ているが、大蔵流は設定からして和泉流とは異なる。

和泉流では太郎冠者がすっぱに太刀を奪われるのであるが、大蔵流では太郎冠者が北野天満宮通いの男の太刀をすっぱよろしく奪おうとするという真逆の設定になっている。
出演:山本善之(太郎冠者)、茂山忠三郎(主人)、山口耕道(道通の者)。

和泉流でも大蔵流でも霊験あらたかな寺社に詣でるのは一緒だが、和泉流の鞍馬寺に対して大蔵流は北野天満宮となっている。どちらも京都の北の方にある寺社ということだけ共通している。


「杜若」。三河の八つ橋の在原業平伝説にちなみ演目である。出演:河村晴道(代役。シテ。杜若ノ精)、有松遼一(ワキ。旅僧)。
当代一の色男にして色好み(三河は「実は三人の女」、八つ橋も「実は八人の女」説があるようだ)、加えて天才歌人と見なされた才能。だがそれ故にか嫉妬され、出世を阻まれ東下り(実際にはそれなりに出世しており、東下りも伝説に留まる)と不遇の貴公子のイメージも強い業平であるが、この演目では、業平の霊と共に業平の愛人である高子后の霊、杜若の霊が一体となって舞う場面がある。
「田村」での田村丸の舞、「鵺」での鵺の前も勇壮であり、気が飛んでくるような迫力があるが、この「杜若」での舞はそれとは真逆の静寂でたおやかなものである。「色ばかりこそ昔なれ」という謡の前に置かれていることから、それは「単なる時の経過」を表していると見ることも出来るのだが、その発想が尋常ではない。「時の過ぎゆく様を舞で表したい」とは普通は着想も実現も出来ない。しかしこの「杜若」での舞は、そうした様子が悲しいほど切実に伝わってきた。時が過ぎゆくほど残酷なことはない。そしてこの杜若の舞が、「草木国土悉皆成佛」へと繋がっていくのである。


「鵺」。以前に春秋座の「能と狂言」公演で観たことのある演目である。世阿弥の作といわれている。出演:寺澤拓海(シテ)、原陸(ワキ。旅僧)、増田浩紀(アイ。里人)。

頭は猿、尾は蛇、手足は虎、胴体は狸に似ているというキメーラの鵺。鳴き声が鵺という鳥(トラツグミ)に似ているので鵺と名付けられた怪物である。近衛天皇の御代(この時の近衛天皇は今でいう中学生と同い年ぐらい。その後、わずか17歳で崩御している)、東三条の空に黒雲が宿り、やがて御所へと押し寄せて近衛天皇を気絶させるほどに苛むものがあった。その正体が鵺である。三位頼政、源三位頼政として知られる源頼政がこの鵺を弓矢で射て退治することになる。

鵺退治の褒美として頼政は宇治の大臣(悪左府の名で知られる左大臣藤原頼長)の手を通して獅子王という剣を拝領するのだが、その時にホトトギスが鳴いたので、頼長は、「ほととぎす名をも雲居に揚げるかな」と上の句を詠み、頼政が「弓張月のいるにまかせて」と下の句を即興で継いだという下りが出てくる。三位頼政も悪左府頼長も平安時代末期の人であり、室町時代初期の人である世阿弥は彼らの最期がどうなったかを当然ながら知っている。それを考えた場合、鵺の最期も悲惨であろうと想像することは必然でもある。

鵺の悪とは、天皇を苛んだことであるが、それ以上に大きななにかがありそうである。だがそれは劇中では明らかにされない。なぜ鵺として現れたのか、なぜ天皇を苛んだのかいずれも謎である。

春秋座で「鵺」を観た時には、渡邊守章が「鵺=秦河勝説」を唱えていたが、世阿弥自身も秦河勝の末裔を名乗っており、秦河勝は能楽(猿楽)の祖ともいわれている。
最晩年に赤穂・坂越に流罪になったともいわれる秦河勝は、キメーラである摩多羅神と同一視されてもいるという。
「鵺」は世阿弥の最晩年に書かれた作品とされている。世阿弥の心に何か去来するものがあったのであろうか。

午前11時に開演して、終演は午後4時近く。約5時間の長丁場であった。

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2022年7月13日 (水)

コンサートの記(787) 日本オペラ「藤戸」@兵庫県立芸術文化センター 2015.3.21

2015年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、日本オペラ「藤戸」を観る。兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)では、日本人作曲家による日本オペラの上演を毎年行っており、今回で3回目になるが、私がHPACで日本オペラを観るのは今日が初めてになる。

「藤戸」は、源平合戦(治承・寿永の乱)、藤戸の浦の戦いを題材にしたオペラである。原作:有吉佐和子(小説ではなく舞踏浄瑠璃のための台本とのこと)、台本&作曲:尾上和彦、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。初演時のタイトルは「藤戸の浦」であったが、後に「藤戸」に改題されている。

1日2回公演であり、午後2時開演の回の主演は、井上美和と迎肇聡(むかい・ただとし)。午後6時開演の公演の主演は、小濱妙美(こはま・たえみ)、晴雅彦(はれ・まさひこ)。他の出演は2回とも一緒で、古瀬まきを、松原友(まつばら・とも)、以降は波の精としてコーラス(コロス)としての出演で、柏原保典、谷幸一郎、水口健次(以上、テノール)、神田行雄、木村孝夫、砂田麗央(すなだ・れお)、下林一也(以上はバスと表記されているが、日本人に正真正銘のバス歌手はいないといわれているのでバリトンということになるのだと思う)。

今日はダブルキャストを共に観てみたいため、2回ともチケットを取った。

オーケストラピットが設けられているが、小編成での演奏。大江浩志(フルート)、奥野敏文(パーカッション)、日野俊介(チェロ)、武知朋子(たけち・ともこ。ピアノ)によるアンサンブルである。指揮は奥村哲也。奥村哲也は尾上和彦のオペラの指揮を何度も手掛けているが、元々はギタリストであり、高校生の時に日本ギターコンクールで2位に入るなど輝かしい経歴の持ち主である。高校卒業後、ロンドンに渡り、同地の音楽院でクラシックギターの他に指揮法や作曲も学んでいる。帰国後は主にオペラの指揮者として活動しており、関西、名古屋、四国の二期会と共演を重ねている。


『平家物語』に描かれ、伝世阿弥作(偽作の可能性が高く、最近は作者不明とされることが多いが)の謡曲などで知られる「藤戸」。一ノ谷の戦いに勝利した源氏が、源範頼を総大将として児島(現在の岡山県倉敷市児島。かつては倉敷市一帯は入江であり、児島は本当に島であった)を攻めようと対岸の藤戸に陣を張るが船がない。そもそも坂東武者を多く集めた源氏は陸戦は得意だが舟戦は得手とはしていない。宇多源氏佐々木三郎盛綱は何とかして先陣の功を上げたいと思っていたが、手段がない。そこにある漁師が、浅瀬を渡って児島に渡る方法を知っていると聞く。藤戸の浦には浅瀬があり、そこを通れば徒歩でも馬でも渡れるという。盛綱は喜ぶが、この事がよそに漏れてはいけないと、漁師を殺してしまう。能では漁師が幽霊となって現れるのであるが、有吉佐和子は、児島への行き方を知っている人物を漁師ではなく、少年に変えているという。そして佐々木盛綱と少年は二人だけの冒険のように児島への秘密のルートを辿るのだ。ただ、有吉版「藤戸」でも案内役である少年はやはり盛綱に殺されてしまう。そして殺された当人ではなく、母親がその様を聞いて発狂するという展開になる。


尾上和彦は、1942年、奈良市生まれの作曲家。京都市立堀川高校音楽コース作曲科(現・京都市立京都堀川音楽高校)在学中に主任講師に認められて放送用音楽の作曲助手として活動を開始(音楽の仕事が忙しすぎて出席数が足りず、高校は中退したそうである)、17歳にして舞台音楽の作曲家として自立し、オラトリオを始めとする声楽作品やオペラ、器楽などその他のジャンルの作曲を多く手掛けてる。放送禁止歌になった「竹田の子守唄」を発掘したり、小オラトリオ「私は広島を証言する」など、シビアな題材を取り上げていることでも知られる。オペラ「藤戸」は「藤戸の浦」という題で、1992年に米国サンフランシスコで初演。大劇場と中劇場で公演を行っている文化施設での初演であり、大劇場ではヴェルディの歌劇「オテロ(オセロ)」上演時間約4時間、中劇場で「藤戸の浦」上演時間約1時間という同時上演が行われたが、「藤戸の浦」は、「1時間で4時間分の密度のあるオペラ」と激賞されたという。


午後2時開演の回、午後6時開演の回共に、日本オペラプロジェクト総合プロデューサーである日下部吉彦、作曲の尾上和彦、演出の岩田達宗によるプレトーク20分、途中休憩15分、オペラ上演60分という変わったスタイルでの上演。


開演前に、演出の岩田さんに挨拶をし、少しお話を伺う。午後6時開演の前にはオペラ上演に適した日本のホールはどこか伺ったのだが、古典派までだったら大阪府豊中市にある大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス。大規模なものだと何だかんだで東京・上野の東京文化会館が最適とのこと。東京文化会館は東京初の音楽専用施設であり、都が威信を懸けただけあって入念の音響だそうである。


音楽、ストーリー共に分かり易いものである。音楽は比較的シンプルであり、特に女が歌うときにはミニマル・ミュージックのような同じ音型のピアノ伴奏が繰り返される(歌自体はミニマルミュージックではない)。

岩田達宗の演出であるが、まず中央に白い壁。左右に白く細い紗幕が数本降りている。幕が上がると、女がすでにおり、後ろを向き、正座をして屈み額を膝に付けている。
紗幕にライトが当たると、水色なのか浅葱色なのか(浅葱色だと別の意味が足されるが)とにかく青系の衣装を着た波の精達が見える。地唄に当たる部分は、彼ら波の精と、千鳥という女装をした着物姿の歌手(今回が松原友が務める)が歌う。ちなみに、「藤戸」はこれまでに90回以上上演されているが、いずれも波の精は女声アンサンブルが務めており、尾上の構想にあった男声による波の精が実現するのは今回が初めてだそうである。女声による波の精を聴いたことがないので何とも言えないが、男声による波の精の方が「リアル」だという想像は付く。
白い壁には「戦争」、「平和」といった文字や、源平の武者達の名前などが浮かぶ。

「白」は勿論、源氏の白旗であるが、平氏の赤旗も「赤=血=殺戮」というイメージの重なりを伴い、藤戸の浦の合戦の場面で登場する(赤い布が上から吊され、バックライトで佐々木盛綱の殺陣が浮かび上がった後で、布が天井から落とされ、波の精達がそれを纏って後ずさりし、平氏の退却を表す)。

日本語歌唱、日本語字幕スーパー付きの上演であるが、時折、歌手が字幕と違う言葉を歌ったのはアドリブなのか、或いは言い間違えたのか。意味は通じるので瑕疵にはならないが。

ちなみに、午後2時開演の回では、佐々木盛綱役の迎肇聡が太刀の刃を上にした形で握っているように見える場面が長く、ちょっと気になった。太刀の場合は刃を上にして握るという発想がなく、抜くときは横にして抜くので、刃は下か横を向いているはずだが、ちょっと力が入ったのかも知れない。抜くときは横にして抜いていたので、日本刀と勘違いしたというわけではないようである。

ダブルキャストの出来であるが、午後6時開演の小濱妙美と晴雅彦の方がメリハリを付けた演技となっていた。佐々木盛綱はある意味歌舞伎的わかりやすさが出て晴雅彦の方が迎肇聡よりも面白かったが、女は井上美和の方が伸びやかさにおいて優っていたように思う。


さて、女の歌と、盛綱の歌の歌詞を比較すると、女のものは素朴で情緒豊か(反戦のメッセージも入っているが)、盛綱の歌詞は理屈っぽい傾向がある(言い逃れをしているのだから当然である)。また盛綱は経文を唱えたり「徳義」という言葉を用いるなど、文字としてもお堅い。旋律も女のものは流れが良いが、盛綱の歌は角がある。女にとっては親子の日常こそが大切なのであって、武士道だの勝つだの負けるだの出世だのはどうでもいいのである。

「情」と「理」などと分けてあれこれ言うのは理の仕事なので書くだけ野暮になるわけだが、武士の世の戦は大将が戦場にいるという点においてまだ情の入り込む余地がある。こうして、戦の中にも涙を誘うような物語も生まれる。ただ近現代の戦争は極めて「非情」である。大将が戦場にいない。映像を見ながら指示している。兵隊はいるが、それに対する情もあるのかないのか。
1990年の湾岸戦争で、初めて我々はそれを目にした。不気味なほど綺麗な風景。コンピューターゲームのワンシーンのような映像。そこでは血が流れているはずだ。だが我々にはそれは見えなかった。

あたかも人間がその場にいないかのような不気味で洗練されすぎた戦争。そうしたあらゆる戦争が今もリアルタイムで行われているのが「現在」だ。


勿論、「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は生きにくい」という夏目漱石の言葉通り、情に棹させば解決するものでもないが、理屈と理屈で格闘し、気にくわないなら殺傷ではなく、「個と個で向き合うこと」、それしか戦争を防ぐ方法はないように思える。

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