カテゴリー「フランス映画」の23件の記事

2021年4月22日 (木)

これまでに観た映画より(256) ルキノ・ヴィスコンティ監督作品「異邦人」

2021年4月19日 京都シネマにて

京都シネマで、「異邦人」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のデジタル復元版。アルベール・カミュの同名小説の映画化(公式サイトではなぜか原作が「ペスト」になっている)である。主演はマルチェロ・マストロヤンニで、恋人役でアンナ・カリーナが出演している。
日本初公開時は、英語による国際版での上映だったようだが、今回はイタリア語版での初上映となる。

「太陽が眩しかったから」人を殺したというくだりが有名な不条理文学を代表する作品が原作である。ただこの「不条理」をどう捉えるかで解釈も変わってくる。「自分でもよく分からない」「とにかく謎」という意味であるとするならば、今現在の現実社会ではそうした状態であることの方がむしろ自然であり、もしそうだとするなら不条理というよりも先駆的であるという意味で優れた文学作品であると評価出来る。

ただ、当然ながらそうした「よく分からない」状態は文学作品であるからこそ有効であり、映画にするとどうしても説得力を欠く作品となってしまう。20世紀を代表するヴィスコンティ監督の力量を持ってしてもそれは覆せなかったようで、映像美やカットの面白さが取り柄の作品となってしまっている。原作の文章をモノローグとして用いることが多いが、そうした手法自体が映像的ではない。映画「異邦人」は、映像ソフト化されることがこれまで一切なかったそうだが、あらすじをなぞっているだけであるため、映画として楽しむのは苦しいというのが第一の理由であると思われる。そして今現在から観ると映画化された「異邦人」はごくありきたりの物語に見えてしまう。原作小説自体が映像化に向いていないのだが、筋だけ見ると、カミュが示した世界に現実が追いつきつつあるような、一種の不気味さも感じられる。

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2021年1月31日 (日)

これまでに観た映画より(244) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「勝手にしやがれ」

2007年5月27日

DVDで映画「勝手にしやがれ」を観る。いわずと知れたジャン=リュック・ゴダール監督の長編第1作。ジャン=ポール・ベルモンド主演。ヒロインを務めるのは「悲しみよこんにちは」のジーン・セバーグ。というわけで、フランソワーズ・サガンの小説のタイトルがセリフにギャグ的に散りばめられている。

ろくでなしのミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)の話。警官を殺し、指名手配されながら、悪びれることもなくアメリカ人の恋人・パトリシア(ジーン・セバーグ)といちゃついているだけのミシェル。

ゴダール作品だけに、妙な味わいがあり、演っている側も、観ている側も、「勝手にしやがれ」という感じである。
原題を日本語に訳すと「息切れ」だそうだが、邦題の「勝手にしやがれ」はそういう意味で優れたタイトルだ。

また編集機能を利用して映像を細切れにしてみたり、極端なクローズアップを用いたりと、カメラワークも今なお斬新だ。

エスプリの利いたセリフ(状況的にはエスプリなんか利かせている場合じゃないのだが)や即興的な演出も抜群で(ジャン=ポール・ベルモンドが路上で倒れ、自分でまぶたを閉じて息絶えるまでは完全なアドリブで撮られている)、変な映画なのにまた観たくなる一本である。

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2021年1月25日 (月)

これまでに観た映画より(243) 「かくも長き不在」

2021年1月19日

録画してまだ観ていなかった映画「かくも長き不在」を観る。1961年制作のフランス映画。監督:アンリ・コルピ。脚本:マルグリット・デュラス&ジェラール・ジャルロ。第14回カンヌ映画祭パルムドール受賞作である。主演は、「第三の男」のアリダ・ヴァリ。「世界映画史上最も長い歩くだけのシーン」で歩いていた人である。「第三の男」の頃は若かったアリダ・ヴァリだが、「かくも長き不在」は「第三の男」の12年後の制作、ということでアリダ・ヴァリは印象も役どころも異なる。

「かくも長き不在」は名画として有名であるため、テレビで放送される機会も比較的多く、私も十代の頃にBSで放送されたものを観ているが、鑑賞するのはそれ以来となる。マルグリット・デュラスによる脚本はちくま文庫から発売されており、現在も入手は可能。高値は付いているが、大きめの図書館などには置いてあるはずである。デュラスの映画・演劇用台本(『インディア・ソング』、『ユダヤ人の家』、『ヴィオルヌの犯罪』、『苦悩』など)は重層的な構造を持つものが多いが、「かくも長き不在」の脚本は共作ということもあってか、比較的シンプルな筋書きを持つ。

1960年のパリが舞台である。テレーズ・ラングロワ(アリダ・ヴァリ)はパリでカフェを営んでいる。パリ祭(7月14日)が終わり、常連客を含むパリ市民の多くがバカンスに出掛け、パリを離れられない者だけが残る。

テレーズの店の前を、浮浪者風の男が毎日のように通り過ぎる。男はロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」より“陰口はその風のように”を口ずさんでいる。最初は気にも留めなかったテレーズだったが、ある日、間近で見た男が夫のアルベール・ラングロワに似ていることに気付く。アルベールは16年前、ドイツ占領下のショーリュでパリ祭の日にドイツ秘密警察(ゲシュタポ)に逮捕され、それ以降、消息を絶っていた。テレーズはアルベールが行方不明になってからも再婚はせず、苗字も戻さず、夫が帰ってくるのを待っていたのだ。

男の名は身分証明書によるとロベール・ランデ(演じるのはジョルジュ・ウィルソン)。記憶喪失となっており、昔のことは覚えていない。ロベール・ランデが本名なのかどうかも不明である。テレーズは男の後を付け、セーヌ川沿いの廃屋で暮らしていることを突き止める。男は、午前中は古紙を拾って生活費を稼ぎ、午後は雑誌の切り抜きをして過ごしている。
テレーズは、ロベールがアルベールであることを確かめるために親族(アルベールの叔母と甥)を呼び、「セビリアの理髪師」のレコード(EP)を手に入れて掛け、ロベールを店に誘い込む。アルベールらしき男の前でアルベールに関する話をするテレーズ達。しかし、テレーズがアルベールだと信じているロベールは、話を聞いても何も思い出さない。そして親族が出した結論は、「あれはアルベールではない」

テレーズは再びロベールの廃屋に行き、食事に誘う。音楽を聴きながら恋の始めをやり直そうとするテレーズの姿がいい。テレーズもロベールもとうに中年に差し掛かっているのだが、仕草は二十代の始めのようであり、まるで青春映画のワンシーンのようでもある。音楽やダンスの記憶はあり、ロベールこそアルベールだと多くの人は確信することになると思うが、テレーズはこの時、残酷な事実を発見をする。結局、ロベールは記憶を取り戻せず、テレーズは記憶を取り戻すのを待つことに決める。

「待つ」ということが重要なテーマとなっており、それは単にロベールの記憶ではなく、更に大きな何かを感じさせるところがある。ドイツ侵攻によって無残に奪われた16年という歳月を取り戻すためか、あるいはいったんは失われた幸せの到来か。それよりも大きな恩寵か。とにかく待ち続けるという人生そのものの、若しくは人生最大の主題が、大仰にならない形で描かれている。完全な屈服は認めない。それこそが人々を不幸の底へと陥れた戦争への最大のレジスタンスでもある。

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2020年11月 8日 (日)

これまでに観た映画より(225) メル・ギブソン&ショーン・ペン 「博士と狂人」

2020年11月5日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド合作映画「博士と狂人」を観る。久しぶりとなるスクリーン1(京都シネマは、スクリーン1、スクリーン2、スクリーン3という3つの上映空間からなっており、番号が若いほど大きい)での鑑賞となる。

言語を網羅化したものとしては世界最高峰の辞典『オックスフォード英語大辞典』編纂に纏わる実話を基にした物語の映画化。原作:サイモン・ウィンチェスター。脚本・監督:P.B.シェムラン。出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマン、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガンほか。2018年の制作である。

英語に関する単語や表現、由来や歴史などを集成した『オックスフォード英語大辞典』。19世紀に編纂が始まり、完成までに70年を要した大著であるが、その編纂初期に取材したサイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを映画化したのが、この「博士と狂人」である。サイモン・ウィンチェスターの著書は1998年に発売されたが、映画化の権利獲得に真っ先に名乗りを挙げたのがメル・ギブソンであり、当初はメル・ギブソン自身が監督する案もあったそうだが、最終的にはメル・ギブソンは主演俳優に専念することになった。構想から完成まで20年を費やした力作である。

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教師として働くジェームズ・マレー(メル・ギブゾン)は、スコットランドの仕立屋の子として生まれたが、生家が貧しかったため、14歳で学業を終えて働き始めた(先日亡くなったショーン・コネリーに生い立ちが似ている)。その後、独学で語学を学び、ヨーロッパ圏の言語ほとんどに通じる言語学の第一人者と認められるまでになるが、大学を出ていないため当然学士号は持っておらず、話し方もスコットランド訛りが強いということで白眼視する関係者もいる。『オックスフォード英語大辞典』はその名の通り、オックスフォード大学街で編纂が行われるが、マレーの案で、イギリスとアメリカ、そして当時のイギリスの植民地などに在住する英語話者からボランティアを募り、単語や言い回し、その歴史や出典などを手紙で送って貰って、それらをマレー達が中心になって取捨選択し編纂するという形を取る。その中に、一際英語に詳しい人物がいた。アメリカ出身の元軍医で、今はイギリスのバークシャー州に住むウィリアム・G・マイナー博士(ショーン・ペン)である。マレーはその住所からマイナーのことを精神病院の院長だと思い込むのだが、実際はマイナーは殺人事件を起こし、幻覚症状が酷いことから死刑を免れて刑事精神病院に措置入院させられている人物であった。マイナーは、南北戦争に軍医として従軍。敵兵の拷問に関与したのだが、その時の記憶がトラウマとなり、今では拷問を受けた人物が殺意を持って自分を追いかけてくると思い込む強迫神経症に陥っていた。敵が自分を監視していると思い込んだマイナーは、その場を通りかかったジョージ・メレットを誤認識し、射殺してしまっていたのだ。精神病院でもマイナーは幻覚に苛まれる(後に統合失調症との診断が下る)。

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マイナーが実は精神病患者で殺人犯だと気付いたマレーだが、学識豊かなマイナーと英語に関する知識を交換し、すぐに友情で結ばれるようになる。二人のやり取りは、これまで互いに理想としてきた人物との邂逅の喜びに溢れていた。
『オックスフォード大辞典』の第1巻が完成し、その功績によりマレーは言語学の博士号を送られ、正式な博士となる。
だが、アメリカ人の殺人犯が権威ある英語辞典の編纂に関与していることが知られてスキャンダルとなり、マイナーの病状も徐々に悪化して、異様な行動も目立つようになる。

『オックスフォード英語大辞典』編纂の物語ということで、派手な展開ではないが、しっかりとした構造を持つヒューマンドラマに仕上がっている。マレーとマイナーの友情の物語、またメレット夫人(イライザ・メレット。演じるのはナタリー・ドーマン)とマイナーとの男女の物語が平行して進むのだが、文盲であったメレット夫人がマイナーの指導によって読み書きの能力を身につけていく過程は、メレット夫人の成長とマイナーとの歩み寄りの物語でもある。「許すとは何か」がここで問い掛けられている。メレット夫人を単なる悲劇のヒロインや復讐に燃える女性としないところも良い(マイナーとメレット夫人のシーンはフィクションの部分が多いようだが)。

単にヒューマンドラマとして観てもいいのだが、マレーがスコットランド出身であることや学歴がないことで見下されたり、追い落とされそうになるところ、またマイナーがアメリカ人で(今でこそイギリスとアメリカではアメリカの方が優位だが、19世紀当時のアメリカは「ヨーロッパの落ちこぼれが作った未開の国」でイギリスへの裏切り者というイメージだった)しかも精神病に冒されているということで異端視されるなど、差別と偏見がしっかりと描かれている。こうした傾向は、19世紀よりはましになったが、今に到るまで続く問題であり、単なる「知られざる偉人の物語」としていないところに奥行きが感じられる。

ちなみに、若き日のウィンストン・チャーチルが登場する場面がある。世界史好きの方はご存じだと思われるが、チャーチルも生涯に渡って精神病に悩まされた人物であった。実際に映画で描かれているようなことがあったのかどうかは分からないが、ある意味、象徴的な役割を果たしている。

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2020年10月16日 (金)

これまでに観た映画より(217) 「ロゼッタ」

2006年3月23日

DVDで映画「ロゼッタ」を観る。ベルギー=フランス合作。ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ兄弟監督作品。

キャンピングカーで暮らす少女・ロゼッタ。母親は酒に溺れどうしようもない。働きに出ていたロゼッタはいきなり解雇される。その後、仕事を探すが全く見つからず、やっと見つけたワッフル屋での仕事は帰ってきた店長の息子に奪われてしまう。苛立ちが募り……。

ロゼッタの苛立ちが画面全体から伝わってくる作品である。自己と社会へ向けられたどうしようもない焦燥感。ダルデンヌ兄弟の作品らしくセリフは少なく、俳優は身体で感情を表現する技術を要求される。ロゼッタを演じるエミリー・ドゥケンヌは全くの新人だが、ダルデンヌ兄弟の演技指導が徹底しているのか、やるせなさを体全体で表現することに成功している。素晴らしいと思う。

焦燥感をより掻き立てるために、カメラワークはクリストファー・ドイルも顔負けするほどの疾走ぶり。またロゼッタの顔から数十センチの所にいつもカメラがあるため、役者達の感情が生でぶつかってくるような迫力があった。

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2020年9月20日 (日)

これまでに観た映画より(210) 「さよならS」

2006年1月13日

DVDでフランス映画「さよならS」を観る。エリック・ゾンカ監督作品。

パン工場で働くエス(S)は、職務怠慢でクビを告げられる。恋人のサンドラに「金持ちの下で働くのはたくさんだ。奴らから金を奪う」と宣言したエスはマルセイユで窃盗団の一味に加わる。窃盗団のたむろする場であるボクシングジムで、いら立ちをぶつけるように格闘に打ち込むエス。窃盗団のリーダー格、オイユ(目)の家に住み、彼の祖母の世話をし、また窃盗をするという毎日。しかしエスは窃盗団一味とともに空き巣に入ったとき、警察に追い込まれ、逃げ遅れまいとして、オイユを2階の窓から突き落としてしまい……。

街の不良が大きなことを言ってアウトローの世界に入ったものの、そこでも己の小ささと不運を知るという物語。63分の中編であるが完成度は悪くない。ただ、北野武監督の「キッズ・リターン」という同傾向の更に優れた作品があるので物足りなさも感じた。

セリフを極力抑えて、映像で語らせる手法はエスのやるせなさを伝えている。夢やぶれる物語だが、救いのある(本当の意味での救いかどうかはわからないのだが)ラストにもホッとさせられた。

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2020年9月16日 (水)

これまでに観た映画より(208) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「女と男のいる舗道」

2020年9月12日 東寺近くの京都みなみ会館にて

京都みなみ会館で、「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち《デジタル・リマスター版特集上映》」の中の一本、「女と男のいる舗道」を観る。ジャン=リュック・ゴダール監督作品。1962年の制作である。原題は「Vivre sa vie(自分の人生を生きる)」であり、邦題がなぜ内容をまるで反映していない「女と男のいる舗道」になったのかは不明である。封切られた1960年代はまだ「それっぽい」邦題を付けておけば良いという時代であり、お洒落な感じで適当に付けられたのだと思われる。80年代以降は「意味が分からなくても原題に近いものを」という傾向が増え、今もそれは続いている。例えばスピルバーグの「プライベート・ライアン」の「プライベート」というのは「二等兵」という意味であるが、一般的な日本人はそんな意味は知らない。「プライベート」といえば「私的」であり、「マイ・プライベート・アイダホ」のような有名作もあるだけにややこしいことになっている。なぜ「ライアン二等兵」では駄目だったのかは不明である。

出演:アンナ・カリーナ、サディ・レボ、アンドレ・S・ラバルト、ギレーヌ・シュランベルジェ、ペテ・カソヴィッツ、ブリス・パランほか。音楽:ミシェル・ルグラン。

12のタブローからなるモノクローム映画である。

これまで観た「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち《デジタル・リマスター版特集上映》」の「女は女である」と「シェルブールの雨傘」は京都みなみ会館の1階にあるSCREEN1での上映であったが、今日は2階にあるSCREEN2での上映となる。

女優を夢見るナナ(アンナ・カリーナ)が主人公である。おそらくエミール・ゾラの『ナナ』に由来する命名だと思われる。
冒頭はアンナ・カリーナの愁いに満ちた横顔や正面の顔のアップである。

パリ。ナナは、夫のポール(アンドレ・S・ラバルト)の稼ぎが不満であり、別れることになる。カメラマンと会い、あるいは映画女優への道が開けるかと思っていたナナだが、ヌードになる必要があるため断ってしまう。
ナナとポールが会話を交わす場面はずっと後ろ姿を撮影しており、アンナ・カリーナの顔は鏡に映って見えるようになっている。

ナナはレコードショップで働いているが、稼ぎは足らず、家賃が払えなくなってアパートを追い出され、友人の家を泊まり歩いている。本筋とは関係ないが、ナナが働いているレコードショップでは、ジュディ・ガーランドのレコードは売っておらず、当時神童といわれていたペペ・ロメロのレコードを売る場面がある。ラックには「J Williams」の文字もあるが、映画音楽作曲家のジョン・ウィリアムズなのか、ギタリストのジョン・ウィリアムスなのか、それともまた別人なのかは不明である。

映画館で「裁かるゝジャンヌ」を観て涙するナナは、ジャンヌ・ダルクのような自分で選ぶ生き方に憧れているようであるが、現実はそうはいかない。これまた余談であるが、当時は映画は大人気であり、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」が上映されている映画館の前で人々が長蛇の列を作っている様が映るシーンがある。

新聞販売店で女性客が落とした紙幣をネコババしようとして訴えられ、警察に逮捕されたりするナナ。結局、金のために体を売ることになる。売春の斡旋をしている友人のイヴェット(ギレーヌ・シュランベルジェ)の知り合いの富豪の女性に宛てた手紙を書くナナだったが、イヴェットに紹介された女衒(余談だが、フランス語では女衒のことを「マック」と言うため、マクドナルドは「マック」ではなく関西と同じように「マクド」と略す)のラウル(サディ・レボ)と出会ってからは本格的な娼婦となる。

そんな中、カフェで哲学者のブリス・パラン(本人が出演している)と出会ったナナは、パランから言葉と愛についての教えを受ける。ポーの「楕円形の肖像」を朗読する若い男(ペテ・カソヴィッツ。朗読自体はゴダール監督が行っている)とおそらく「体でなく言葉で紡ぐ愛」に目覚めたかのようだったナナだったが、その命は突然に断ち切られる。

重要なのはラストの「言葉による愛」への目覚めだと思われるが、それに到るまでの堕ちていく女の話と観るだけでも十分であろう。ゴダール作品なので、主題めいたものを求めると肩透かしをくらう可能性がある。ナナの「自由と責任論」も今となっては当たり前のことを話しているように聞こえるが、当時としては目新しいものだったと思われる。

 

当時、ゴダール監督の夫人であったアンナ・カリーナであるが、この映画の出来に不満だったという話もある。冒頭のシーンや「裁かるゝジャンヌ」の引用、そしてルグランが書いた宗教音楽のような旋律から察するに、あるいはジャンヌ・ダルクに憧れる女性の話のはずがそうならなかったということなのかも知れない。元々が娼婦を題材にした原案が存在する作品なので、娼婦を演じることに抵抗があったわけではないと思われるが、愛の物語が展開する前に話が終わってしまったことで自身の良さが出せなかったと思ったのであろうか。


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2020年9月11日 (金)

これまでに観た映画より(206) 「シェルブールの雨傘」

2020年9月7日 東寺近くの京都みなみ会館にて

東寺の近くにある京都みなみ会館で、「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち《デジタル・リマスター版特集上映》」の中の一本、「シェルブールの雨傘」を観る。冒頭から流れ、何度も歌われるメインテーマはミシェル・ルグランの代表作である。
監督・脚本:ジャック・ドゥミ。出演:カトリーヌ・ドヌーブ、ニーノ・カステルヌオーヴォ、アンヌ・ヴェルノン、ミレーユ・ペレー、マルク・ミシェル、エレン・ファルナーほか。セリフの全てが歌われるという全編ミュージカル作品であり、歌は全て本職の歌手によって吹き替えられている。演技と歌を別人が行っているということで、宮城聰の演出スタイルやその元ネタとなった文楽などの日本の伝統芸能、古代ギリシャの頃のギリシャ悲劇の上演形態が連想される。

英仏海峡に面したノルマンディー地方の港町シェルブールが舞台であり、映画はまずシェルブールの港の風景から始まる。やがて俯瞰ショットとなり、雨が降り始め、人々が傘を差して通り過ぎる。

1957年11月。主人公のジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーブ)は傘屋の娘、恋人のギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)はなぜか男前揃いの自動車整備工場の工員である。
映画は3つのパートとエピローグからなっており、第1部「旅立ち」では、自動車整備工場の場面に続き、ギイとジュヌヴィエーヴが劇場デートの約束をするシーンになる。二人が観るのはオペラ「カルメン」。おそらくこれはさりげない伏線になっていると思われる。
シェルブールの街を歩きながら将来を語るギイとジュヌヴィエーヴ。女の子が生まれたら名前は「フランソワーズにしよう」などと決める。

愛し合う二人だが、ギイがしがない自動車整備工ということもあって、ギイ本人も今すぐ結婚ということは考えておらず、ジュヌヴィエーヴの母親であるエムリ夫人(アンヌ・ヴェルノン)もギイの将来性を疑問視し、結婚には反対する。またギイの叔母のエリーズ(ミレーユ・ペレー)は病気がちで、ギイの幼なじみのマドレーヌがエリーズの面倒を見ている。マドレーヌを演じるエレン・ファルナーがこれまた絶世の美女であり、登場した時から何かが起こりそうな予感がする。

そんな中、二十歳になったギイは兵役に就くことになる。20世紀の終わり頃までフランスには義務兵役制があったが、1957年当時のフランスはアルジェリア戦争を戦っており、兵役に就くということは単なる訓練ではなく戦場に赴くことを意味していた。ギイもアルジェリアに向かうことになり、ジュヌヴィエーヴとシェルブール駅で別れる。

一方、エムリ夫人とジュヌヴィエーヴが営むシェルブール雨傘店の経営が傾いており、店の営業権利を守るためにエムリ夫人のネックレスを売ることにする。宝石店でネックレスを出すも店主からは色よい返事が貰えない。だが、たまたま店に来ていた宝石商のローラン・カサール(マルク・ミシェル)がネックレスを高値で買い上げる。カサールは母親と一緒に来ていたジュヌヴィエーヴを一目見て気に入る。

第2部「旅立ち」。2ヶ月後の1958年1月。ジュヌヴィエーヴが妊娠していることが判明する。ギイとの子だった。だが肝心のギイはアルジェリアにおり、手紙もたまにしか来ない。一方、カサールがジュヌヴィエーヴにアプローチを始めており、最終的に倫理上正しいのかどうかわからないが、「生まれた子どもは自分たちの子として育てよう」と言ってくれたカサールをジュヌヴィエーヴは選ぶことになる。

 

「戦争に引き裂かれた悲恋もの」などといわれることがあるが、それはちょっと違う気がする。ジュヌヴィエーヴは自分の意思でギイの帰郷を待たずにカサールと結婚したのであり、少なくともこの時はジュヌヴィエーヴにとっては悲恋でも何でもない。

第3部「帰還」以降はギイが主人公となり、ジュヌヴィエーヴはエピローグのラストになるまで登場しない。ギイはやはりというかなんというか次の恋人としてマドレーヌを選び、結婚する。マドレーヌにプロポーズする際、「ジュヌヴィエーヴのことは忘れた」とギイは言ったが、以前、ジュヌヴィエーヴと「男の子が生まれたらフランソワという名にしよう」という約束を引きずっており、マドレーヌとの間に生まれた息子にフランソワと名付けた。
ギイは以前、ジュヌヴィエーヴに語った将来の夢をマドレーヌ相手に成し遂げていく。

 

原色系の衣装やセット、街並みなどが鮮やかであり、全編音楽が流れてセリフも歌ということを考えると、メルヘンチックではある。衣装は主人公の心境を代弁するかのように色彩を変えていく。この辺は表現主義過ぎて嫌う人もいるかも知れない。セリフもド直球のものが多く、ミュージカルでなくストレートプレーだったとしたらかなり馬鹿っぽいやり取りになってしまうため、ミュージカルとして成立させたのは成功だった、というより最初からミュージカルスタイルでしか成功し得ない展開を狙っているのだと思われる。

ラストシーン、ギイが経営するガソリンスタンドの場面。クリスマスイヴであり、マドレーヌはフランソワを連れて買い物に出掛ける。その時、ガソリンスタンドに一台の車が駐まる。運転しているのは今はパリで暮らしているジュヌヴィエーヴであり、助手席にはギイとの間の娘であるフランソワーズがいた。

ジュヌヴィエーヴは高級車に乗り、身につけている服も上質なものだが、その表情はどう見ても幸せそうには見えない。ガソリンスタンドの部屋に入り、「ここは暖かいわ」などと「かもめ」のニーナのようなセリフを言うジュヌヴィエーヴであるが、ギイは「フランソワーズに会わないか」というジュヌヴィエーヴの提案には乗らない。ガソリンスタンドに寄ったのはたまたまだというジュヌヴィエーヴであるが、本来寄る必要のないシェルブールに寄っているということは、心のどこかでギイに会えたらという気持ちがあったものと推察される。というよりもむしろ、「かもめ」へのオマージュであるということを考えれば、ジュヌヴィエーヴはギイに会うためにシェルブールに来たのである。半島の先端にあるシェルブールはついでに寄るような街ではない。その街に行きたいという意志のある人だけが来る街である。ジュヌヴィエーヴはギイの夢を以前に聞いており、今のギイがそれを果たしているであろうことは容易に推測出来る。今現在と違って情報化社会ではないが、その気になればギイと再会することはそう難しくはない。そして二人の間の娘であるフランソワーズを見せればギイも態度を変えるのではと、甘い期待を抱いていたのかも知れない。だがそうはならなかった。

ジュヌヴィエーヴの車が去ると同時にマドレーヌとフランソワが帰ってくる。ギイはジュヌヴィエーヴを一顧だにせず、マドレーヌと抱き合い、フランソワと遊び戯れる(一顧だにせずというところが結構衝撃的である)。ギイは本当に幸せそうだ。多くの人が、「あの時、素直にギイを選んでおけば良かったのに」とジュヌヴィエーヴの愚かしさに悲しくなる。これがこの映画の最大のカタストロフィであろう。同じフランスが生んだ作品である「カルメン」はどちらかというと男の方が馬鹿だったが、この映画では女の方が浅はかであり、手にし得た幸せをみすみす逃してしまうという話になっている。そもそもジュヌヴィエーヴが歌うメインテーマの歌詞はギイに対して「あなたなしで生きていけない死んでしまう」歌ったものなのだが、歌詞とは裏腹にあっさりとカサールを選んでいる。恋に誠実になれなかったジュヌヴィエーヴの女としての悲しさが、もう戻すことの叶わない日々のセリフとしてこだまするかのようである。


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2020年9月 1日 (火)

これまでに観た映画より(202) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「女は女である」

2020年8月27日 東寺近くの京都みなみ会館にて

京都みなみ会館で行われている「ミシェル・ルグランとヌーヴェルヴァーグの監督たち デジタル・リマスター版 特集上映」の中の1本、「女は女である」を観る。1961年のジャン=リュック・ゴダール監督作品。原案:ジャヌヴィエーヴ・クリュニー、音楽:ミシェル・ルグラン、美術:ベルナール・エヴァン。出演:アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、ジャン=ポール・ベルモンド。アンナ・カリーナとミシェル・ルグランは共に昨年他界している。

アンナ・カリーナ演じるストリップ嬢のアンジェラ(アンナ・カリーナ同様、コペンハーゲンの出身ということになっている)が、ストリップ小屋の仲間の影響を受け、「子どもを産みたい!」と思い立ったことから恋人のエミール(ジャン=クロード・ブリアリ)や知り合いのアルフレッド(ジャン=ポール・ベルモンド)と共に巻き起こす一騒動、ともいえないほどのちょっとしたドラマである。ベッドインするまでをモンタージュの技術や音楽などを駆使して「状況」として作り上げていく。音楽は必ずしも場面と一致しているとは限らず、アンナ・カリーナが歌う場面では敢えて伴奏はなく、アカペラにしている。

ストーリーは添え物で、その場その場のシチュエーションを描くことに重点を置いた、ゴダールらしい映画であるが、映し出されるパリの街も、出演者も魅力的であり、それだけで見せることの出来る映画である。登場人物達は皆、原色系の服を身につけているが、これがまた実にお洒落である。アンジェラとエミールが暮らすアパルトマンも愛らしい。


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2020年8月 1日 (土)

これまでに観た映画より(193) 「無伴奏シャコンヌ」

2005年7月9日

ビデオでフランス=ベルギー=ドイツ合作映画「無伴奏シャコンヌ」を観る。天才的な才能を持ちながら、コンサートなどでは活動せず、ただひたすら音楽を極めることだけを考える求道者のようなヴァイオリニスト、アルマン(リシャール・ベリ)。観客に媚びるような演奏ではなく、本当の演奏様式を確立したいと望み、ヴァイオリン教師などをして過ごしていた彼は、かっての親友でヴァイオリニストのミカエルが自殺したことを知る。

恋人とも上手くいかず、親友も失ってしまったアルマン。彼の求道的生き方がそういった事態を招いたのだろうか。スランプに陥っていたミカエルはアルマンの才能と己の才能を比較して失望していったのかも知れない。ミカエルの録音が良くないことで、カデンツァの場面を代役として弾くようにプロデューサーから要請され、それに応じてしまったアルマン。親友のためを思ってした行為なのだろうが、その事実を知ったミカエルは絶望しただろう。ある意味、アルマンはミカエルを殺したのではないかと思えてしまうのだ。

リヨンの地下鉄構内で演奏をするアルマン。やがて、地下鉄の切符売り場の女性・リディアと淡い恋に落ちるが、ある日、アルマンの演奏に熱狂して多くのミュージシャンが思い思いに演奏を始めるという光景を目にした彼女はアルマンの前から姿を消す。アルマンは自分より音楽を愛しているのだと気づいたのかも知れない。

リディアを失い、ヴァイオリンも心ない二人組に壊されてしまったアルマンは尋常とは思えない精神状態へ。

そこにかつて彼の演奏を耳にしたことのある音楽院の教師が現れ、ヴァイオリンを手渡されたアルマンはバッハのシャコンヌを弾く。

芸術を愛し、自分にもそして他人にも厳しかったことで多くのものを失ったアルマン。ラスト10分のシャコンヌ演奏場面は文学的過ぎる嫌いはあるものの、詩的で意味深く、感動的だ。

そして弾き終えたアルマンの表情。それは慈悲に溢れたキリストの顔のようにも見えるし、何故失うのかを悟った悲しみを湛えているようにも見える。


監督のシャルリー・ヴァン・ダムはアラン・レネやアニエス・ヴァルダなどセーヌ左岸派の映画監督の下で長年撮影監督を務めていた人物。経歴から察せられる通りの作風を持っている。

リシャール・ベリのヴァイオリン演奏シーンの演技も上手く、「本当に弾いているのでは?」と錯覚するほどだ。ところでこのベリ、役所広司にどことなく顔や雰囲気が似ている。

音楽監督は世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル。実際のヴァイオリン演奏も担当しており、素晴らしい音を奏でている。

音楽と映画が好きなら、この映画を観ずに死ぬのはもったいない。そう言いたくなる佳作である。

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