カテゴリー「フランス映画」の28件の記事

2022年9月10日 (土)

これまでに観た映画より(310) 「ポルトガル、夏の終わり」

2022年9月8日

録画しておいた映画「ポルトガル、夏の終わり」を観る。2019年の制作。アメリカ・フランス・ポルトガル合作。セリフは英語とフランス語、一部ポルトガル語が用いられている。
監督:アイラ・サックス。出演:イザベル・ユペール、グレッグ・キニア、マリサ・トメイ、ジェレミー・レニエ、ブレンダン・グリーソン、ヴィネット・ロビンソン、パスカル・グレゴリーほか。

原題は、主演女優であるイザベル・ユペールの役名である「フランキー」(フランソワの愛称)であるが、ポルトガルの避暑地であるシントラ(世界文化遺産指定)を舞台に繰り広げられる群像劇であり(フランキーは中心にはいるが)、「夏の終わり」がフランキーの病状に重ねられているため、邦題としてはまずまず良いのではないかと思われる。多分、「フランキー」というタイトルだったら、「観たい」と思う日本人はかなり少なかったはずである。

比較的淡々と物語は進んでいく。

有名女優であるフランキーことフランソワ・クレモント(イザベル・ユペール)は、末期の癌に冒されており、診断によると年を跨ぐことは出来ない。そこで、家族や友人を連れて、ポルトガルのシントラで晩夏を過ごすことにする。夫に元夫、元夫との間の息子とその恋人候補、現在の夫の娘(連れ子)とその夫と娘などの行く末を見定めるつもりでもあっただろう。特に息子のポール(ジェレミー・レニエ)を友人のヘアメイクアーティストのアイリーン(マリサ・トメイ)とめあわせようとするのだが、実のところ……といった展開になる。アイリーンはニューヨーク在住で、息子のポールは仕事でニューヨークに移るということで期待したのであるが、アイリーンにはすでに婚約者候補があり、ポールもそれとなくアイリーンにアプローチをするのだが、断られている。

最期は登山のシーンである。フランキーがプランを立てたのだ。先に山に登ったフランキーが下にいるジミーとアイリーンを見つめる。そのフランキーを更に上から元夫のミシェルが望遠鏡で覗いている(ミシェルは今では男と恋愛関係にあるようだ)。その後、更に上の場所から山頂に到達した人々を捉える視点。おそらく神の視点であろう。計画はフランキーの予定通りには進まなかった。だが人々は思い思いに人生を過ごしていく。それを見つめる神の視座にいるカメラは、最後の頂に立ったフランキーのもう一つの視点なのかも知れない。

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2022年5月26日 (木)

これまでに観た映画より(296) 「勝手にしやがれ」4Kレストア版(2K上映)

2022年5月23日 京都シネマにて

京都シネマで、ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」を観る。日本では特に沢田研二がこの映画にインスパイアされた曲をヒットさせたということもあるが、ゴダール監督作品の中でも最も有名な映画と見て間違いないだろう。長編第1作が著名にして今なお世界的評価を得ているというのも稀なことである。

出演:ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグほか。原案をフランソワ・トリュフォー、監修をクロード・シャブロルが務めている。

2007年にDVDで観ているが、映像特典では、ジョン=ポール・ベルモンドが、自身が行った即興の演技の解説を行っていた。
有名なラストシーンで、どこまで走るかはベルモンドに一任されており、ゲリラ撮影であったため、ベルモンドは、「これ以上走ると車に轢かれる」という寸前で倒れたことを明かしている。死ぬ前に自分の手でまぶたを閉じるという有名な仕草もベルモンドによる即興である。


ろくでなしのミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)の話。実話が基になっている。マルセイユで車を盗み、南仏で乗り回していたミシェル。警察のバイクに追いかけられ、逃げるが、エンストして追い込まれた時に警官を射殺してしまう。かくてミシェルはお尋ね者となった。
パリに戻ったミシェルは、知り合いの女性から金をくすねたり、トイレで手を洗っていた男性を襲って金を奪ったりと、相変わらずのろくでなし生活。最終的にはアメリカ人の恋人であるパトリシア(ジーン・セバーグ)の下に転がり込むことになる。パトリシアはジャーナリストを志している。そうしている間にも捜査は進み、ミシェルは指名手配され、新聞にも顔写真と名前が載るようになっていた。


多くの映画監督が言葉を武器とする批評家からスタートしたというヌーヴェルヴァーグの映画らしく、過度にエスプリをちりばめたセリフが特徴。いくらフランス人とはいえ(ジーン・セバーグはアメリカ人だが)、ここまで凝った言葉を喋る人はいないと思われ、リアリティを欠くのだが、いわゆるリアリティとは別のところで勝負しているところがヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の特徴である。おそらくヌーヴェルヴァーグの作家達にとって、リアリティの重要度はそれほど高くはなかっただろう。

ジャン=リュック・ゴダールの作品は、私はそれほど好きではないが、「勝手にしやがれ」の完成度にはやはり感心させられる。

ちなみに、「勝手にしやがれ」制作時に、ジャン=リュック・ゴダールは28歳、ジャン=ポール・ベルモンドは26歳、ジーン・セバーグは二十歳である。みんな若い。


フランソワーズ・サガン原作の映画「悲しみよこんにちは」のセシル役で鮮烈なデビューを飾ったジーン・セバーグ。続けて出た「勝手にしやがれ」も好評だったが、実は彼女の出演作の中でヒットしたのは、この2作だけである。興行成績的にいうなら「悲しみよこんにちは」も成功とはいえないとされる。以降は女優としては低迷し、政治活動に力を入れるが、精神を病み、40歳の若さで自殺している。
ただ、「悲しみよこんにちは」で売れたということで、「勝手にしやがれ」のセリフの中に、サガンの『一年ののち』や『ブラームスはお好き』といった小説のタイトルがちりばめられている。だが、今日は残念ながら客席から笑いや反応は起こらなかった。天才少女作家の代名詞でもあったフランソワーズ・サガンも他界して久しく、小説も絶版が多く、今後は読まれない過去の作家となっていくのかも知れない。

とはいえジーン・セバーグもジャン=ポール・ベルモンドもとにかく魅力的である。セリフも映画のスタイルも自己中心的もしくは自己完結的であり、登場人物の間、そしてスクリーンと観客の間でもすれ違いが起こっていることは実感出来る。まさしく「勝手にしやがれ」状態だが、それが魅力になるというのが、この映画の強さである。車を盗んでは逃げ回っている男、そんな男についていく女、ろくでもない二人だが、そのろくでもなさの哀感が観る者を魅了する。「勝手にしやがれ」という邦題はベルモンドのセリフに由来するが、かなり上手い邦題だと思える。

3年前(2019年)に火災に遭ったノートルダム大聖堂、凱旋門、エッフェル塔、コンコルド広場など、舞台となっているパリの名所も多く登場し、パリの美しい街並みや風景も目にすることが出来るが、同時に例えばユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に描かれたような、もう一つのパリとその魅力が語られているような独特の妙味を持った映画と賞賛したい。

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2022年5月21日 (土)

これまでに観た映画より(294) 「気狂いピエロ」

2022年5月13日 京都シネマにて

京都シネマで、「気狂いピエロ」を観る。ジャン=リュック・ゴダール監督の代表作の一つ。出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナほか。
原作があるそうで、最近、邦訳が出たようだが、基本的に即興重視であり、バルザック、ランボー、ボードレール、プルーストといったフランスの詩人や小説家、またスコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』などのアメリカの文学作品のタイトルなどが衒学的にちりばめられている。ただ、実際にそれらの文学作品を読んでいれば分かりやすくなるかといえば、そんなことは全くない。

「気狂いピエロ」は、二十代の頃にビデオで観ているはずだが、内容は完全に忘れており、見返してみても、「こんな映画だったっけかな?」と尻尾をつかむことが出来ない状態であった。

アメリカンニューシネマに影響を与えた作品として知られており、実際、アメリカンニューシネマに通じるテイストや色彩感、雰囲気などを備えているが、やはり即興性が強いため、強引に感じる場面も多く、練りに練った脚本や当時流行っていた思想などで勝負するアメリカンニューシネマとは実は見た目は近いが最も遠い作品なのではないかという印象も受ける。

ストーリー自体は単純で、妻との関係に飽きた文学かぶれのフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は、5年ぶりに再会したマリアンヌ(アンナ・カリーナ)と恋仲になる。マリアンヌは、フェルディナンのことを「ピエロ」というあだ名で呼ぶが、フェルディナンはそのたびに「フェルディナンだ」と言い返し、「ピエロ」というあだ名を気に入っていない。マリアンヌの兄が右翼系の武器流通組織に関与していたということで、事件に巻き込まれた二人はパリから南仏へと逃げることになる。
これだけなのだが、フェルディナンが書き記しているやたらと詩的なメモ、唐突に切り替わってはぶつ切りにされる音楽、一貫性を欠いた(即興なので当然なのだが)場面設定、突然始まるミュージカルなど、ごった煮状態であり、ある意味、理解するのではなく状況をそのままに味わった方が楽しめる映画である。

アメリカンニューシネマに影響を与えたと書いたが、アメリカンニューシネマは「俺たちに明日はない」などの例外はあるが、基本的に男性が活躍する作品が多いため、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナは、アメリカンニューシネマのどのヒロインよりも魅力的と断言してもいいだろう。

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2022年2月19日 (土)

これまでに観た映画より(282) 「ベニスに死す」

2022年2月8日

DVDで映画「ベニスに死す」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品。トーマス・マンの同名小説の映画化であるが、主人公のアシェンバッハ(アッシェンバッハ)は、原作の小説家から音楽家に変えられている。元々、トーマス・マンは、作曲家にして指揮者のグスタフ・マーラーをアシェンバッハのモデルにしたとされており、最初の構想に戻す形となっている。舞台となっている年代は、原作では「19××」年とぼかされているが、この映画ではマーラーの没年である1911年に設定されている。
セリフは、英語、フランス語、イタリア語、ポーランド語、ロシア語、ドイツ語で語られる(メインは英語)。

アシェンバッハは高名な作曲家にして指揮者であるが、作曲作品は聴衆から受け容れられていない。アシェンバッハが自作を指揮する場面があるが、演奏終了後に拍手が起きないどころか、ブーイングと怒号の嵐となる。

私が初めて「ベニスに死す」を観たのは、タージオ役のビョルン・アンドレセンと同じ、15、6歳の時、高校1年か2年である。当時フジテレビでは深夜に名画をCMなしで放送しており、それを録画して3回ほど観ている。今回、30数年ぶりに見直してみて、映像のキメが細かいことに驚いた。当時の地上アナログ波、そしてVHSの限度が分かる。
また、フジテレビ放送版は、おそらく15分ほどのカットがあったと思われる。

自作の上演が成功せず、鬱状態に陥ったアシェンバッハ(ダーク・ボガード)は、心臓が弱いということもあり、医師から静養を勧められ、ベニス(ヴェネツィア)に旅行に出掛け、リード・デ・ヴェネツィアにあるホテルに滞在することになる。
アシェンバッハは厳格な性格であり、精神性を何よりも大事にしていた。そんなアシェンバッハが、滞在先のホテルで絶世の美少年であるタージオ(タジオ。本名はタデウシュ。演じるのはビョルン・アンドレセン。タージオはフランス語とポーランド語を話すという設定だが、アンドレセンはフランス語やポーランド語は出来ないため、セリフは全て吹き替えである)を見掛ける。最初はタージオへの思いに戸惑い、自身に怒りすら覚えるアシェンバッハだったが、次第にタージオの精神を超えた美に対する愛を肯定するようになる。友人の音楽家であるアルフレッドから指摘された殻を破れそうになるのだが、ベニスには疫病が蔓延していた……。

時間と場所、現実と妄想が予告なしに入れ替わる、「意識の流れ」のような手法が採用されている。

アシェンバッハは、いつも通っている美容師から白塗りのメイクを伝授されたのだが、見るからに不吉である。そして、同じように白塗りをした男達にからかわれたりするのだが、どうも彼らも死神の分身のように見える。
そして、死神の本体とも思えるのが、美少年であるタージオである。愛と死とは隣接したものであるが、それが淡いのように渾然として描かれているのは流石である。

ヴィスコンティ好みの耽美的な作風であり、ベニスという都市が登場人物以上の存在感を持つようカメラで切り取られている。芸術性は非常に高い。

本来なら作曲の新境地へと行けるはずだったアシェンバッハが、その前に命を落とすという悲劇のはずであるが、絵が余りに美しいので余り悲壮な感じはしない。好みが分かれるとしたらここであると思われる。

この映画が公開された当時、マーラーはまだ人気作曲家ではなかった。ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーといったマーラーの指揮の弟子達が作品を取り上げ、マーラーの生前からその作品を高く評価していたウィレム・メンゲルベルク、そして「この作品が自分の作曲であったなら」とまで惚れ込んでいたレナード・バーンスタインが演奏と録音を行っていたが、一般的な評価は「不気味な曲を書く作曲家」といったところだった。ところが「ベニスに死す」でマーラーの交響曲第5番第3部第1章(第4楽章)「アダージェット」がメインテーマとして取り上げられたことで甘美な一面が知られるようになり、マーラーの人気は上がっていく。

映画界だけでなく、音楽界の潮流も変えた記念碑的作品である。

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2021年6月 8日 (火)

これまでに観た映画より(262) 「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」

2021年6月5日 マルタ・アルゲリッチの80歳の誕生日に

録画してまだ観ていなかったドキュメンタリー映画「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」を観る。フランス=スイス合作作品。実は今日、6月5日はマルタ・アルゲリッチの誕生日であり、彼女は満80歳、日本でいう傘寿を迎えた。
撮影・監督はステファニー・アルゲリッチ。彼女の三女である。邦題の「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」からはアルゲリッチのサクセスストーリーが描かれているような印象を受けるが、実際はアルゲリッチの影の部分に迫った作品と見た方が適当であるように思われる。

原題は「Bloody Daughter」。これは、「いまいましい娘」という意味で、ステファニー・アルゲリッチの父親であるスティーヴン・コヴァセヴィチがステファニーを称した言葉である。日本語でいう「いまいましい娘」とは別の意味があるようだ。

アルゲリッチには女ばかり三人の子どもがいるが、父親は全員違う。長女、リダの父親は中国系指揮者のロバート・チェン、次女のアニーの父親は日本でもお馴染みである指揮者のシャルル・デュトワ、そしてステファニーの父親はピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチである。現役最高の天才ピアニストの一人であり、女性ピアニストとしては史上最高といっていいほどの才能の持ち主であるマルタ・アルゲリッチだが、娘のステファニーが捉えたアルゲリッチの姿は、どう見ても幸せそうには感じられない。音楽を愛しているが、演奏する喜びよりも不安や虚しさの方が強く感じられ、精神的には不安定で、人生を謳歌しているとは言い難いように思われる。

映画は、ステファニーの出産にアルゲリッチが立ち会うところから始まり、ステファニーの息子、つまり孫にピアノや歌を教えるシーンで終わる。アルゲリッチの60歳から70歳までの姿が収められている。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに生まれたアルゲリッチだが、12歳の時に一家でウィーンに移住。フリードリヒ・グルダに師事する。以降、ブエノスアイレスに戻ることはほとんどなかったようだが、この映画にはブエノスアイレスを訪れたアルゲリッチが、子どもの頃に父親とよく動物園を訪れて写真を撮ったという思い出を語る場面がある。

デュトワと結婚していた時代に、二人でインタビューに応じた映像が流され、二人の娘であり、現在はジャーナリストとして活躍するアニー・デュトワも映像と写真で出演。ヴィオラ奏者となった長姉のリダも登場する。

ステファニーの父親であるスティーヴン・コヴァセヴィチは、チェンやデュトワとは違い、今現在の姿が収められている。ステファニーによると、コヴァセヴィチは「母と違って、毎日ピアノを弾く」。アルゲリッチは天才ピアニストではあるが、ムラのあるタイプであり、またかなり変わった人物でもある。このドキュメンタリー映画の中で口にしている言葉も、意味不明というほどではないが、通常の人とは明らかに変わったものの捉え方と表現の仕方をしていることが分かる。天才ピアニストであるだけに、個性的且つ即興的、偉大な作曲家の作品を奏でているが、あたかもその場で頭に浮かんだばかりのような新鮮な音楽を生み出すことが出来るアルゲリッチ。だが、その姿に誰よりも自分自身が違和感を覚えているようですらある。若い頃はピアノが嫌いだったそうで、自分が描いていたものとは別の人生を歩んでいることの不可思議さと自身の才能に振り回されているようにも見える。日々演奏旅行を行う日常に不満を感じているようであり、もっとじっくりと自分と向かい合いたいのだがその時間が取れないもどかしさがあるようだ。
アルゲリッチは一頃はキャンセル魔として知られ、また長い間、ピアノ独奏の演奏会を一切行わない時期があった。理由は、「ステージ上に一人でいると寂しい」という、およそプロのピアニストとは思えないものであったようだが、そうした不安を抱える様子もこの作品の映像には収められている。

スティーヴン・コヴァセヴィチは、味のあるピアノを弾く人だが、天才ピアニストではない。だが、皮肉なことに表現上の迷いがない分、ピアニストとしてはコヴァセヴィチの方がずっと幸せそうに見える。アルゲリッチとコヴァセヴィチはステファニーが2歳の時に離婚しており、ステファニーがどちらの姓を名乗るかは、両親がコイントスで決めたそうで、結果、アルゲリッチ姓を名乗ることになった。そんないい加減な調子なので、コヴァセヴィチもステファニーを認知していない。ということで、出生当時のステファニーの苗字は「デュトワ」とされていたそうだ。コヴァセヴィチとステファニーの関係は良好なようだが、ステファニーがコヴァセヴィチに「父親と認める手続きをして欲しい」と申し出たシーンで、コヴァセヴィチは手続きの仕方がよく分かっておらず、必要な資料の在処も忘れていることが判明する。音楽家はその才能の代わりに何かが欠落しているようである。

ちなみに最初の正式な結婚相手であるシャルル・デュトワも実力派の指揮者で、フランス音楽演奏の第一人者であるが、やはり天才というよりも職人タイプであり、天才であるアルゲリッチは、自身とは異なった特性を持った音楽家を選んでいることになる。映画の中で語られるアルゲリッチの言葉を聞くと、意図的に選んでいるのではないかと予想される。
アルゲリッチが音楽を「愛のようなもの」と例える場面があるが、愛においては、アルゲリッチは勝者とは呼べないようである。

リダ、アニー、ステファニーは共に父親似であり、顔も、おそらく性格もアルゲリッチには似ていない。アニーとステファニーは姉妹のように育てられたようで、二人で写っている写真や映像が存在する。ある時期まではリダの存在は二人には秘せられていたようだ。
なお、幼いステファニーの世話は教育面でも生活面でもアニーが担っており、アルゲリッチは母親としては完全に無能であることが分かる。幼いアニーとデュトワと三人で写ったインタビュー映像でもアニーの面倒はデュトワが見ており、アルゲリッチは横にいるだけだ。その後は、ステファニーの面倒は、アルゲリッチの愛人となったピアニストのミシェル・ベロフが見るようになったが、やはりアルゲリッチは何もしていないようである。

ちなみに、アルゲリッチの家にビデオカメラを持ち込んだのはアルゲリッチ本人だそうで、日本で演奏会を行った時に購入し、土産として娘に与えたようだ。アルゲリッチは別府アルゲリッチ音楽祭の主催者であるため、来日してリダ(と撮影のステファニー)と共に新幹線に乗り、箸を使って駅弁を頬張るシーンがある。別府市のホールとその周辺、リダのヴィオラとのリハーサルシーンも収められている。

彼女の即興的な演奏スタイルは、ワルシャワで行われるコンサートのリハーサル、ショパンのピアノ協奏曲第1番を弾く際に最も分かりやすい形で伝わってくる。通常とは違うスタイルでの演奏をすることを思いついたアルゲリッチだが、それは閃きというよりも、向こうから来たもののようで、アルゲリッチ本人もその理由を説明することが出来ない。

その言葉では表現出来ない何かの存在を本編の最後でアルゲリッチはステファニーに伝えている。おそらくその何かは音楽であるのだと思われるのだが、音楽はアルゲリッチ本人にも統御出来るものではないようだ。こうしたピアニストの常として、アルゲリッチもホロヴィッツに憧れ、ニューヨークに渡り、ホロヴィッツの家のそばに部屋を借りて滞在していたことがあるのだが、面会は叶わなかったそうである。

アルゲリッチがコンサート終了後に延々とサイン会を行うのを、幼い頃のステファニーは不満に思っていたことが語られる。だが、この映画に収められたサイン会のシーンでアルゲリッチは実に生き生きとしている。普段のアルゲリッチは疲れたような厭世的な表情をしているが、サイン会の時は顔色が違う。ステファニーが言う「女神」のように。
アルゲリッチは幼い頃から国際的なピアノコンクールで優勝し、「美貌の天才ピアニスト」として引く手あまたで、数々の音楽家と共演した。彼らの中に正真正銘の天才は少なかったかも知れないが、いずれも特別な種類の人々であったのは確かだ。あるいはサイン会の時間は、彼女に許された数少ない普通の人々と触れ合う機会だったのかも知れない。

アルゲリッチと三人の娘がピクニックに出掛け、ペディキュアを塗り合うシーンがある。いずれも父親は違うが、三人の娘と過ごすアルゲリッチは、ある意味、平凡な女性にすら見える。だが、アルゲリッチの真の意味での娘は実は音楽以外にはいないのではないだろうか。そしてその真の娘は、腹を痛めて生んだ三人の父親似の娘よりもいまいましい娘(Bloody Daughter)であり、アルゲリッチ本人を揺すぶり続ける。
冒頭付近に、ステファニーがアルゲリッチについて「彼女の方が自分の子どもなのではないかと思われる」と語るナレーションがある。そこからは音楽の母である天才マルタ・アルゲリッチと、音楽の娘でもある幼いマルタ・アルゲリッチという二つの姿が浮かぶ。音楽は選ばれた者を人と同等には育まないようだ。

音楽の神に愛されたが故に音楽に利用され、やりたいことも出来ず、娘ともずっと向き合えなかった孤独な天才の肖像である。結婚していた時代にデュトワがインタビューで答えていたが、「演奏家は音楽を義務としてやるため、本当にしたいことは出来ない」という意味の言葉は本当のことのようである。

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2021年4月22日 (木)

これまでに観た映画より(256) ルキノ・ヴィスコンティ監督作品「異邦人」

2021年4月19日 京都シネマにて

京都シネマで、「異邦人」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のデジタル復元版。アルベール・カミュの同名小説の映画化(公式サイトではなぜか原作が「ペスト」になっている)である。主演はマルチェロ・マストロヤンニで、恋人役でアンナ・カリーナが出演している。
日本初公開時は、英語による国際版での上映だったようだが、今回はイタリア語版での初上映となる。

「太陽が眩しかったから」人を殺したというくだりが有名な不条理文学を代表する作品が原作である。ただこの「不条理」をどう捉えるかで解釈も変わってくる。「自分でもよく分からない」「とにかく謎」という意味であるとするならば、今現在の現実社会ではそうした状態であることの方がむしろ自然であり、もしそうだとするなら不条理というよりも先駆的であるという意味で優れた文学作品であると評価出来る。

ただ、当然ながらそうした「よく分からない」状態は文学作品であるからこそ有効であり、映画にするとどうしても説得力を欠く作品となってしまう。20世紀を代表するヴィスコンティ監督の力量を持ってしてもそれは覆せなかったようで、映像美やカットの面白さが取り柄の作品となってしまっている。原作の文章をモノローグとして用いることが多いが、そうした手法自体が映像的ではない。映画「異邦人」は、映像ソフト化されることがこれまで一切なかったそうだが、あらすじをなぞっているだけであるため、映画として楽しむのは苦しいというのが第一の理由であると思われる。そして今現在から観ると映画化された「異邦人」はごくありきたりの物語に見えてしまう。原作小説自体が映像化に向いていないのだが、筋だけ見ると、カミュが示した世界に現実が追いつきつつあるような、一種の不気味さも感じられる。

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2021年1月31日 (日)

これまでに観た映画より(244) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「勝手にしやがれ」

2007年5月27日

DVDで映画「勝手にしやがれ」を観る。いわずと知れたジャン=リュック・ゴダール監督の長編第1作。ジャン=ポール・ベルモンド主演。ヒロインを務めるのは「悲しみよこんにちは」のジーン・セバーグ。というわけで、フランソワーズ・サガンの小説のタイトルがセリフにギャグ的に散りばめられている。

ろくでなしのミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)の話。警官を殺し、指名手配されながら、悪びれることもなくアメリカ人の恋人・パトリシア(ジーン・セバーグ)といちゃついているだけのミシェル。

ゴダール作品だけに、妙な味わいがあり、演っている側も、観ている側も、「勝手にしやがれ」という感じである。
原題を日本語に訳すと「息切れ」だそうだが、邦題の「勝手にしやがれ」はそういう意味で優れたタイトルだ。

また編集機能を利用して映像を細切れにしてみたり、極端なクローズアップを用いたりと、カメラワークも今なお斬新だ。

エスプリの利いたセリフ(状況的にはエスプリなんか利かせている場合じゃないのだが)や即興的な演出も抜群で(ジャン=ポール・ベルモンドが路上で倒れ、自分でまぶたを閉じて息絶えるまでは完全なアドリブで撮られている)、変な映画なのにまた観たくなる一本である。

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2021年1月25日 (月)

これまでに観た映画より(243) 「かくも長き不在」

2021年1月19日

録画してまだ観ていなかった映画「かくも長き不在」を観る。1961年制作のフランス映画。監督:アンリ・コルピ。脚本:マルグリット・デュラス&ジェラール・ジャルロ。第14回カンヌ映画祭パルムドール受賞作である。主演は、「第三の男」のアリダ・ヴァリ。「世界映画史上最も長い歩くだけのシーン」で歩いていた人である。「第三の男」の頃は若かったアリダ・ヴァリだが、「かくも長き不在」は「第三の男」の12年後の制作、ということでアリダ・ヴァリは印象も役どころも異なる。

「かくも長き不在」は名画として有名であるため、テレビで放送される機会も比較的多く、私も十代の頃にBSで放送されたものを観ているが、鑑賞するのはそれ以来となる。マルグリット・デュラスによる脚本はちくま文庫から発売されており、現在も入手は可能。高値は付いているが、大きめの図書館などには置いてあるはずである。デュラスの映画・演劇用台本(『インディア・ソング』、『ユダヤ人の家』、『ヴィオルヌの犯罪』、『苦悩』など)は重層的な構造を持つものが多いが、「かくも長き不在」の脚本は共作ということもあってか、比較的シンプルな筋書きを持つ。

1960年のパリが舞台である。テレーズ・ラングロワ(アリダ・ヴァリ)はパリでカフェを営んでいる。パリ祭(7月14日)が終わり、常連客を含むパリ市民の多くがバカンスに出掛け、パリを離れられない者だけが残る。

テレーズの店の前を、浮浪者風の男が毎日のように通り過ぎる。男はロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」より“陰口はその風のように”を口ずさんでいる。最初は気にも留めなかったテレーズだったが、ある日、間近で見た男が夫のアルベール・ラングロワに似ていることに気付く。アルベールは16年前、ドイツ占領下のショーリュでパリ祭の日にドイツ秘密警察(ゲシュタポ)に逮捕され、それ以降、消息を絶っていた。テレーズはアルベールが行方不明になってからも再婚はせず、苗字も戻さず、夫が帰ってくるのを待っていたのだ。

男の名は身分証明書によるとロベール・ランデ(演じるのはジョルジュ・ウィルソン)。記憶喪失となっており、昔のことは覚えていない。ロベール・ランデが本名なのかどうかも不明である。テレーズは男の後を付け、セーヌ川沿いの廃屋で暮らしていることを突き止める。男は、午前中は古紙を拾って生活費を稼ぎ、午後は雑誌の切り抜きをして過ごしている。
テレーズは、ロベールがアルベールであることを確かめるために親族(アルベールの叔母と甥)を呼び、「セビリアの理髪師」のレコード(EP)を手に入れて掛け、ロベールを店に誘い込む。アルベールらしき男の前でアルベールに関する話をするテレーズ達。しかし、テレーズがアルベールだと信じているロベールは、話を聞いても何も思い出さない。そして親族が出した結論は、「あれはアルベールではない」

テレーズは再びロベールの廃屋に行き、食事に誘う。音楽を聴きながら恋の始めをやり直そうとするテレーズの姿がいい。テレーズもロベールもとうに中年に差し掛かっているのだが、仕草は二十代の始めのようであり、まるで青春映画のワンシーンのようでもある。音楽やダンスの記憶はあり、ロベールこそアルベールだと多くの人は確信することになると思うが、テレーズはこの時、残酷な事実を発見をする。結局、ロベールは記憶を取り戻せず、テレーズは記憶を取り戻すのを待つことに決める。

「待つ」ということが重要なテーマとなっており、それは単にロベールの記憶ではなく、更に大きな何かを感じさせるところがある。ドイツ侵攻によって無残に奪われた16年という歳月を取り戻すためか、あるいはいったんは失われた幸せの到来か。それよりも大きな恩寵か。とにかく待ち続けるという人生そのものの、若しくは人生最大の主題が、大仰にならない形で描かれている。完全な屈服は認めない。それこそが人々を不幸の底へと陥れた戦争への最大のレジスタンスでもある。

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2020年11月 8日 (日)

これまでに観た映画より(225) メル・ギブソン&ショーン・ペン 「博士と狂人」

2020年11月5日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド合作映画「博士と狂人」を観る。久しぶりとなるスクリーン1(京都シネマは、スクリーン1、スクリーン2、スクリーン3という3つの上映空間からなっており、番号が若いほど大きい)での鑑賞となる。

言語を網羅化したものとしては世界最高峰の辞典『オックスフォード英語大辞典』編纂に纏わる実話を基にした物語の映画化。原作:サイモン・ウィンチェスター。脚本・監督:P.B.シェムラン。出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマン、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガンほか。2018年の制作である。

英語に関する単語や表現、由来や歴史などを集成した『オックスフォード英語大辞典』。19世紀に編纂が始まり、完成までに70年を要した大著であるが、その編纂初期に取材したサイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを映画化したのが、この「博士と狂人」である。サイモン・ウィンチェスターの著書は1998年に発売されたが、映画化の権利獲得に真っ先に名乗りを挙げたのがメル・ギブソンであり、当初はメル・ギブソン自身が監督する案もあったそうだが、最終的にはメル・ギブソンは主演俳優に専念することになった。構想から完成まで20年を費やした力作である。

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教師として働くジェームズ・マレー(メル・ギブゾン)は、スコットランドの仕立屋の子として生まれたが、生家が貧しかったため、14歳で学業を終えて働き始めた(先日亡くなったショーン・コネリーに生い立ちが似ている)。その後、独学で語学を学び、ヨーロッパ圏の言語ほとんどに通じる言語学の第一人者と認められるまでになるが、大学を出ていないため当然学士号は持っておらず、話し方もスコットランド訛りが強いということで白眼視する関係者もいる。『オックスフォード英語大辞典』はその名の通り、オックスフォード大学街で編纂が行われるが、マレーの案で、イギリスとアメリカ、そして当時のイギリスの植民地などに在住する英語話者からボランティアを募り、単語や言い回し、その歴史や出典などを手紙で送って貰って、それらをマレー達が中心になって取捨選択し編纂するという形を取る。その中に、一際英語に詳しい人物がいた。アメリカ出身の元軍医で、今はイギリスのバークシャー州に住むウィリアム・G・マイナー博士(ショーン・ペン)である。マレーはその住所からマイナーのことを精神病院の院長だと思い込むのだが、実際はマイナーは殺人事件を起こし、幻覚症状が酷いことから死刑を免れて刑事精神病院に措置入院させられている人物であった。マイナーは、南北戦争に軍医として従軍。敵兵の拷問に関与したのだが、その時の記憶がトラウマとなり、今では拷問を受けた人物が殺意を持って自分を追いかけてくると思い込む強迫神経症に陥っていた。敵が自分を監視していると思い込んだマイナーは、その場を通りかかったジョージ・メレットを誤認識し、射殺してしまっていたのだ。精神病院でもマイナーは幻覚に苛まれる(後に統合失調症との診断が下る)。

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マイナーが実は精神病患者で殺人犯だと気付いたマレーだが、学識豊かなマイナーと英語に関する知識を交換し、すぐに友情で結ばれるようになる。二人のやり取りは、これまで互いに理想としてきた人物との邂逅の喜びに溢れていた。
『オックスフォード大辞典』の第1巻が完成し、その功績によりマレーは言語学の博士号を送られ、正式な博士となる。
だが、アメリカ人の殺人犯が権威ある英語辞典の編纂に関与していることが知られてスキャンダルとなり、マイナーの病状も徐々に悪化して、異様な行動も目立つようになる。

『オックスフォード英語大辞典』編纂の物語ということで、派手な展開ではないが、しっかりとした構造を持つヒューマンドラマに仕上がっている。マレーとマイナーの友情の物語、またメレット夫人(イライザ・メレット。演じるのはナタリー・ドーマン)とマイナーとの男女の物語が平行して進むのだが、文盲であったメレット夫人がマイナーの指導によって読み書きの能力を身につけていく過程は、メレット夫人の成長とマイナーとの歩み寄りの物語でもある。「許すとは何か」がここで問い掛けられている。メレット夫人を単なる悲劇のヒロインや復讐に燃える女性としないところも良い(マイナーとメレット夫人のシーンはフィクションの部分が多いようだが)。

単にヒューマンドラマとして観てもいいのだが、マレーがスコットランド出身であることや学歴がないことで見下されたり、追い落とされそうになるところ、またマイナーがアメリカ人で(今でこそイギリスとアメリカではアメリカの方が優位だが、19世紀当時のアメリカは「ヨーロッパの落ちこぼれが作った未開の国」でイギリスへの裏切り者というイメージだった)しかも精神病に冒されているということで異端視されるなど、差別と偏見がしっかりと描かれている。こうした傾向は、19世紀よりはましになったが、今に到るまで続く問題であり、単なる「知られざる偉人の物語」としていないところに奥行きが感じられる。

ちなみに、若き日のウィンストン・チャーチルが登場する場面がある。世界史好きの方はご存じだと思われるが、チャーチルも生涯に渡って精神病に悩まされた人物であった。実際に映画で描かれているようなことがあったのかどうかは分からないが、ある意味、象徴的な役割を果たしている。

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2020年10月16日 (金)

これまでに観た映画より(217) 「ロゼッタ」

2006年3月23日

DVDで映画「ロゼッタ」を観る。ベルギー=フランス合作。ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ兄弟監督作品。

キャンピングカーで暮らす少女・ロゼッタ。母親は酒に溺れどうしようもない。働きに出ていたロゼッタはいきなり解雇される。その後、仕事を探すが全く見つからず、やっと見つけたワッフル屋での仕事は帰ってきた店長の息子に奪われてしまう。苛立ちが募り……。

ロゼッタの苛立ちが画面全体から伝わってくる作品である。自己と社会へ向けられたどうしようもない焦燥感。ダルデンヌ兄弟の作品らしくセリフは少なく、俳優は身体で感情を表現する技術を要求される。ロゼッタを演じるエミリー・ドゥケンヌは全くの新人だが、ダルデンヌ兄弟の演技指導が徹底しているのか、やるせなさを体全体で表現することに成功している。素晴らしいと思う。

焦燥感をより掻き立てるために、カメラワークはクリストファー・ドイルも顔負けするほどの疾走ぶり。またロゼッタの顔から数十センチの所にいつもカメラがあるため、役者達の感情が生でぶつかってくるような迫力があった。

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