カテゴリー「フランス映画」の13件の記事

2020年6月17日 (水)

これまでに観た映画より(183) ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品「ひまわり」

2020年6月15日 京都シネマにて

京都シネマで、「ひまわり」を観る。イタリア、フランス、ソ連合作映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。出演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベーリエワほか。音楽:ヘンリー・マンシーニ。製作:カルロ・ポンティ。

ちなみに映画プロデューサーであったカルロ・ポンティは既婚者であったが、この映画の撮影時にはすでにソフィア・ローレンと交際中であり、1972年にはローレンと再婚している。カルロ・ポンティとソフィア・ローレンの長男であるカルロ・ポンティ・ジュニアは、劇中に赤ちゃんとして登場するが、現在は指揮者として活躍しており、私も彼がロシア・ナショナル管弦楽団を指揮したCDを持っている。

映画音楽の大家、ヘンリー・マンシーニが手掛けた音楽も素晴らしく、メインテーマは彼の代表作となっている。

 

1970年に公開された映画で、今回は公開50周年を記念しての特別上映。最新のデジタル修復技術を用いたHDレストア版での上映である。

 

冒頭、中盤、ラストに登場する一面のひまわり畑が印象的である。ソ連時代のウクライナで撮影されたものだそうだ。ひまわりというと日本では華やかな陽性の花の代表格であるが、イタリアでは太陽に片想いしている寂しい花というイメージもあるようである。

 

第二次大戦中と戦後のイタリアとソ連が舞台である。
ファッションの街としても名高いイタリア・ミラノ。ロシア戦線に送られたまま生死不明となっている夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の行方を妻のジョバンナ(ソフィア・ローレン)が担当職員に問い詰める場面から始まる。

イタリア北部の田舎町出身のアントニオと南部の大都市ナポリ出身のジョバンナは恋に落ち、出征延期を目論んで結婚する。だが猶予はわずか12日。そこでアントニオはジョバンナと示し合わせて佯狂による一芝居を打つことで精神病院への隔離を狙うがすぐにばれ、ロシア戦線に送られることになる。
「ロシアの毛皮を土産として持って帰るよ」と約束してミラノ駅から旅立ったアントニオだったが、戦争が終わってからも行方はようとして知れない。
ロシア戦線から帰った一人の兵士が、アントニオのことを知っていた。彼によるとアントニオは真冬のロシア戦線、ドン河付近でソビエト軍からの奇襲攻撃を受け、逃走する途中で多くのイタリア兵と共に脱落したという。

それでもアントニオの生存を信じて疑わないジョバンナは、単身、ロシアに乗り込む。1953年にスターリンが亡くなり、雪解けの時代が始まっていて、ジョバンナもモスクワにたどり着くことが出来た。モスクワにある外務省で紹介された案内の男性と共にアントニオが脱落した場所付近に広がる一面のひまわり畑の中をジョバンナは進む。かつての激戦地に咲く鎮魂のひまわりに囲まれた空き地にイタリア兵とロシア人犠牲者のための供養塔があった。更にイタリア人戦没者墓地も訪ねるジョバンナだったが、「アントニオは生きている」という確信を棄てることはない。

そしてついにジョバンナは、アントニオの現在の夫人となっているマーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)と出会う。アントニオとマーシャの間には娘のカチューシャがいた。ショックを受けるジョバンナ。すると汽笛が鳴り、働きに出ていたアントニオが自宅の最寄り駅に戻ってくる時間であることが示される。午後6時15分、以前、アントニオとジョバンナが約束の時間としていた6時よりも15分ほど先だ。

マーシャと共に駅に向かったジョバンナは今のアントニオの姿を見る。アントニオもジョバンナに気づき、歩み寄ろうとするが、もう以前のアントニオではないと悟ったジョバンナは走り出した汽車に飛び乗って去り、人目もはばからず泣き続ける。出会えさえすればたちどころに寄りを戻せると信じていたのだろうが、それは余りにも楽観的に過ぎた。

アントニオを諦めたジョバンナはミラノのマネキン工場で働く金髪の男性と新たにカップルとなり、子どもも設ける。

ジョバンナのことが忘れられないアントニオはマーシャと相談した上で、単身モスクワからミラノにたどり着き、紆余曲折を経てジョバンナと再び巡り会うのだが、ジョバンナにはすでに息子のアントニオ(カルロ・ポンティ・ジュニア)がいることを知り、関係修復が不可能なことを悟る。ジョバンナは息子にアントニオと名付けることで、かつての夫のアントニオを思い出の中の人物としていた。時計はすでに進んでしまっており、互いが互いにとって最愛の人物であることはわかっていても、時を取り戻すことは最早不可能である。報われぬ両片想いのラストが訪れる。

戦争により、本来の人生から外れてしまった男女の悲恋劇である。そしてこの物語もまた戦地に咲く片想いの花、ひまわりの一本一本が象徴する報われなかった数多の夢の一つでしかないのだということが暗示されてもいる。

 

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2020年1月16日 (木)

これまでに観た映画より(151) 「去年マリエンバートで」

2020年1月12日 京都シネマにて

京都シネマでフランス映画「去年マリエンバートで」を観る。(セーヌ)左岸派、アラン・レネ監督の代表作。芸術映画というジャンルの中ではまず真っ先に名前の挙がる一本でもある。脚本:アラン・ロブ=グリエ、出演:デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ、サッシャ・ピトエフほか。アルフレッド・ヒッチコックもカメオ出演している。衣装担当:ココ・シャネル。音楽:フランシス・セイリグ(デルフィーヌ・セイリグの実兄)。

フィルムが4Kでリマスタリングされたのを記念しての上映であり、東京では4Kで上映されたようだが、京都シネマでは設備の関係上、2Kでの上映に留まるのが残念である。
1月5日から17日までの上映であるが、いずれも昼間の時間の上映であり、観に来られるのは今日しかなかった。

「去年マリエンバートで」は「世界一難解な映画」といわれることもあり、脚本のアラン・ロブ=グリエ自身がこんな笑い話を作っている。
「パリで泥棒が捕まった。警察で泥棒はアリバイを主張した。“映画を見ていました” “なんという映画だ” “『去年マリエンバートで』” “では筋を言ってみろ”。泥棒は絶句、アリバイは崩れた」

とはいえ、装飾の部分を剥ぎ取ったストーリー時代は極めてシンプル且つストレートである。ある男と女が出会い、今いるこの場所から二人で去って行くというそれだけである。それはそれでありきたり過ぎるため、泥棒は警察に信用して貰えないだろうが。
バロック(「歪んだ真珠」という意味。装飾が多い)調のホテルで物事は進んでいくのだが、このホテル自体が「去年マリエンバート」という映画の軸であり、それは過去であり、記憶であり、今この瞬間であり、未来をも象徴している。ストーリーを追うのではなく、装飾を楽しむべき映画であり、ある意味、この世の例えでもある迷宮で彷徨うことを堪能すべき一本であるともいえる。

象徴主義(広義的にはドビュッシーの音楽などもここに含まれる)や「意識の流れ」といった文学的芸術的手法を知っていれば、理解の手助けになるだろうが、そうでなくても十分に楽しむことの出来る映画である。世界的な評価は極めて高く、中国を代表する映画監督である陳凱歌は最も好きな映画として「去年マリエンバートで」を挙げており、ジャン・コクトーやアルベルト・ジャコメッティといった同時代を生きた人々からも絶賛されている。また、小説家のマルグリット・デュラスは、この映画に触発されて映画監督としての仕事を始め、傑作映画「インディア・ソング」ではデルフィーヌ・セイリグを主演女優に迎えている。世界的な名画ランキングでも必ずといっていいほど上位に食い込んでくる映画である。

ホテルで男と女は出会う。男は、「去年、フレデリクスバートでお会いしませんでしたか?」と聞くが、女には覚えがない。男は更に「でなかったらカールシュタットかマリエンバートか」と続ける。実は、マリエンバート(チェコにある)という地名が登場するのはこの一回だけであり、しかも基本的に会ったのはフレデリクスバートであってマリエンバートは「あるいは」の地名なのである。「あるいは」の地名がタイトルに入っているというのがひねりである。ただどこであったかはどうでもいいことでもある。

ストップモーションや長回し、サブリミナル的ともいえる極めて短いカットなど様々な映画の技法が錯綜し、この場所の混沌を深めていく。だがそれは世界そのもののことであり、我々の存在そのものの喩えでもある。
我々はよく知らないし、よく忘れるし、よく捉えることも出来ない。全ては存在したかどうかもわからず可能性でしかない。
そんな中で彼と彼女はこの場所を出て行く。出て行った先にもまた迷路が待ち受けていることが暗示されるが、それこそが全人類の前途に待ち構えている人生でもある。

ストップモーションの場面がキリコの絵を思わせるという指摘はよく知られているが、非現実を現実に滑り込ませるという意味でルネ・マグリットの絵画や、意識下での繋がりと別次元で愛を語るという意味では泉鏡花の小説に通底する部分もある。人間の根源にあるものが、この映画では描かれてるのだ。

ちなみはパンフレットには、アラン・ロブ=グリエのシナリオが採録されており、お薦めである。

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2019年12月14日 (土)

観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」

舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。

開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。

ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。

最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。

アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。

それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。

ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。

子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。

ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。

原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。

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映画「おとなのけんか」
2019年12月7日

配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。

英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。

アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。

ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。

子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。

舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。

 

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2019年10月22日 (火)

これまでに観た映画より(135) 「今さら言えない小さな秘密」

2019年10月16日 京都シネマにて

京都シネマでフランス映画「今さら言えない小さな秘密」を観る。フランスを代表するイラストレーター兼漫画家のジョン=ジャック・サンペの絵本を「アメリ」のギョーム・ローランの脚本で映画化した作品。監督・脚色はピエール・ゴドー。出演は、ブノワ・ポールヴォールド、スザンヌ・クレマン、エドゥアール・ベールほか。

南仏プロヴァンスのサン・セロンという小さな村が舞台。この村で生まれ育ったラウル・タビュラン(ブノワ・ポールヴォールド)は、最高の自転車修理の職人として尊敬を集めており、この村では自転車をタビュランと呼ぶほどであったが、実は自転車に乗ることが出来ない。ラウルの父親は郵便配達夫であり、毎日、この村を自転車で回っていたのだが、息子のラウルにはなぜか自転車を漕ぐ資質が欠けており、特訓しても上手くいかない。
子どもの頃、学校の同級生は皆自転車で遊び回っていたのだが、自転車に乗れないラウルはそれを隠すために、物静かな少年を演じるしかなかった。ボードレールの「アルバトロス(アホウドリ)」(象徴的である)を暗唱して好評を博すなど学業は優秀であったため、そういう子なのだと思われて自転車に乗れないということはバレなかった。学校のクラスで自転車に乗って遠足に行った時には、急坂を転倒することなく下り、勢い余って土手に激突して自転車でムーンサルトを演じて池に落ちたため、以降、ラウルは自転車に乗っていなくてもイメージで同級生達から「自転車の曲芸乗り」と見なされるようになってしまう。
二十歳になったラウルは父親から競技用自転車をプレゼントされるが、やはり乗ることは出来ない。自転車に乗れないということを打ち明けた直後に父親は雷に打たれて他界してしまう。ラウルの胸には父親の職業を継げなかったという悔いが残される
自転車には乗れないが、なぜ乗れないかを自転車を解体して分析するような子どもだったため、自転車レースのタイヤ交換で活躍したのを機に自転車修理業の親方に見込まれ、才能を発揮し始めたラウル。だが「運命の人」かとも思った会計のジュシアーヌには自転車に乗れないことを告白したがために振られてしまい、妻となるマドレーヌ(スザンヌ・クレマン)にはそのことが尾を引いて自転車に乗れないということを告げられないまま結婚に至る。
マドレーヌが両親を自転車事故で亡くしているため、ラウルはそれを利用して(?)自転車に乗らないことを誓う。そのままラウルの秘密がバレることなく歳月は流れて行ったのだが、村にやって来た写真家のエルヴェ(エドゥアール・ベール)がラウルが自転車を漕いでいるところを撮影したいと言い、マドレーヌがその話に乗ったためにラウルは焦り出す。
「自転車の専門家である自分が自転車に乗れないと知られたら、全てを失うのではないか」

 

ギョーム・ローランの脚本ということで、「アメリ」同様、アフレコによる傍白が多いのが特徴である。特にこの映画では回想のシーンが多いため、傍白もより増えている印象を受ける。

自転車に乗れない人というのは、私の身近には存在しないが、思いのほか多いとも聞く。長崎市は坂が多く自転車には不向きな街であるため乗れない人が多いという話も聞くが、それは乗る機会がないからで、練習しても乗れるようになれなかった人がどれだけいるのかは謎である。協調運動障害というものがあるというのは知っているのだが。
ただ、この映画ではたまたま「職業として自転車を扱っているのに自転車に乗れない」というケースが描かれただけで、「人に言えない秘密」は大抵の人は持っていそうである。プロのカメラマンであるエルヴェもカメラマンらしからぬ弱点を抱えているのだが、それでもそれを隠すことなく生きてこられている。

秘密を隠すがためにある意味人生をねじ曲げ、本性を隠し、不自由に生きてきたラウル。
ただ、その不自由さもまた人生の一部として讃えることが出来るような気になってくる映画である。そうでなかったら今の幸福な人生はない。

多くの人は、ありのままの自分を殺して見せかけのストーリーに乗って人生を生きている。自分自身から自由になることはとても難しいことだ。不器用な人間にとっては特に困難である。ただその不自由さの源である傷もいつかは開放される種類のものなのかも知れない。自分で何もかもを決めつけずに生きていたっていいのだ。

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2019年1月26日 (土)

「シェルブールの雨傘」

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2018年12月28日 (金)

これまでに観た映画より(116) 「オーケストラ!」

MOVIX京都まで映画を観に出かける。今日観るのはフランス映画「オーケストラ!」。

かつてはボリショイ劇場の名指揮者であったアンドレイ(アレクセイ・グシュコブ)は、30年前にブレジネフ政権のオーケストラからのユダヤ人追放政策に反対して失職。現在はボリショイ劇場の清掃員として冴えない日々を送っていた。そんなある日、理事長室の掃除をしていたアンドレイはパリのシャトレ劇場から送られてきた公演以来のFAXを手に入れ、自身がボリショイ劇場管弦楽団の指揮者になりすましてパリ公演を行うことを計画。かつてオーケストラを追われたユダヤ人楽団員らを集めて、渡仏公演を行ってしまう……。

筋書きだけを見ると無理があるように思えるし、実際に無理もあるのだが、ソ連時代の暗い歴史をユーモアを交えつつ描くなど、奥行きもあり、演奏会のシーンにはなかなか感動させられる。

俳優達の質も高く、映像も綺麗で、リアリティにさえ拘らなければ名画といってもいいだけの仕上がりになっていたように思う。

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2018年12月 5日 (水)

これまでに観た映画より(111) 「ペルセポリス」

DVDでフランスのアニメーション映画「ペルセポリス」を観る。テヘラン生まれでパリ在住のマルジャン・サトラビの半自伝的作品。監督:ヴァンサン・パルノー&マルジャン・サトラビ。

イランのテヘランに生まれたマルジャン。時代は国の王制が廃されて共和制に移行しようという時だった。その後、共産主義者の粛正があり、イラン・イラク戦争が始まる。マルジャンは戦災を恐れた両親によってウィーンに留学させられる。しかし、マルジャンはそこで居場所を発見出来なかった……。

イランの近現代史を知る上でも興味深い映画。マルジャンとマルジャンの祖母が「ゴジラ」を映画館で観るシーンがあり、日本との接点が見つかるのも面白い。

それにしても、映画に描かれる粛正の多いこと。戦後の平和な日本から見ると、イランという国は同じ時代に壮絶な歴史を辿っていることがわかる。そういう国で生まれ育つというのはどういうことなのだろうか。国家と国民、政治や風習と市民というテーマについても深く考えさせられる作品であった。

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2018年11月 8日 (木)

フランシス・レイ 「ある愛の詩」

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2018年10月26日 (金)

コンサートの記(445) 「時の響」2018初日 大ホール第3部 松尾葉子指揮オーケストラ・アンサンブル金沢 岸田繁リクエスツ「フランス音楽」

2018年10月20日 京都コンサートホールにて

「時の響」2018初日、大ホールでの第3部、岸田繁リクエスツ「フランス音楽」を聴く。演奏は第2部に引き続き松尾葉子指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢が行う。クラシック音楽愛好家としても知られる、くるりの岸田繁が選んだフレンチクラシックの演奏。

曲目は、ビゼーの「アルルの女」第1組曲、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」(ヴァイオリン独奏:坂口昌優)、ラヴェルの「クープランの墓」より“リゴードン”。


ビゼーの「アルルの女」第1組曲での迫力や熱狂、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の抒情美などいずれも見事である。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」を演奏終了後、松尾はマイクを手にスピーチを行う。「フランス音楽って(他の国の音楽と)どこが違うですか?」と聞かれることがあるそうだが、フランス人は最後まで説明するのを嫌うそうで、「亡き王女のためのパヴァーヌ」もタイトルからしてもそうだが、聴き手の想像に委ねられているという。松尾は、フランス映画「太陽がいっぱい」のラストを相手に委ねる例として挙げていた(「太陽がいっぱい」では、主人公のリプレーが今後どうなるのかは具体的に描かれていないが、画面に映ったあるものでその後が予想出来るようになっている)。


サン=サーンスの「序奏とロンド、カプリチオーソ」。ソリストの坂口昌優(さかぐち・まゆ)は、桐朋女子高校音楽科、桐朋学園大学を経て、同大学研究科を修了。2008年より文化庁新進芸術家海外研修員としてブリュッセル王立音楽院に留学し、2011年に帰国。
ナポリで行われた第14回アルベルト・クルチ国際ヴァイオリンコンクールでは第2位に入っている。

短い曲であるが、坂口は高音の切れが印象的な演奏を聴かせた。


松尾のスピーチ。フランス語は単語数が多く、後ろから修飾している言葉であるため、フランス人はみな早口だそうである。松尾もそれに影響されて早口になったそうでだが、早口なフランス人が描かれた曲として、ラヴェルの「クープランの墓」から“リドーゴン”が演奏される。すっきりとした都会的な演奏であった。



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2018年9月 1日 (土)

コンサートの記(419) ローマ・イタリア管弦楽団 「映画音楽名曲選」@京都コンサートホール

2018年8月22日 京都コンサートホールにて

午後6時30分から京都コンサートホールで、ローマ・イタリア管弦楽団の「映画音楽名曲選」コンサートを聴く。

ローマ・イタリア管弦楽団は、1990年創設のオーケストラである。クラシックと映画音楽の演奏を両輪として活動しており、室内楽や小編成のアンサンブルでの公演も行っているという。映画音楽に関しては多くのサウンドトラックのレコーディングを手掛けており、エンリオ・モリコーネ作品のほか、「ライフ・イズ・ビューティフル」や「イル・ポスティーノ」などの映画本編の演奏を担当している。

以前は、ローマ室内管弦楽団の名義で日本ツアーを行っていたが、今回はローマ・イタリア管弦楽団として日本中を回る。これまでに関東各地と愛知県日進市、静岡県浜松市で演奏会を行っており、今後は、呉、山口、福岡県、熊本、宮崎、大分、鹿児島を経て関東に戻り、長野、静岡、楽日となるてつくば市のノバホールまで計24会場を回るという大型ツアーである。このうち、鹿児島市文化第1ホール、東京オペラシティコンサートホール、ノバホールでの3公演は吉俣良特別プロデュース公演であり、「篤姫」や「江~姫たちの戦国~」で知られる吉俣良が出演して自作を中心としたコンサートを行う。

曲目は、ジョルジュ・オーリックの「ローマの休日」メインテーマ、ヘンリー・マンシーニの「ティファニーで朝食を」より“ムーンリバー”と「ピンクパンサー」のテーマ、ジョン・ウィリアムズの「シンドラーのリスト」よりテーマ、マックス・スタイナーの「風と共に去りぬ」より“タラのテーマ”、ピエトロ・マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲(ゴッド・ファーザー」パートⅢ)、ニーノ・ロータの「ゴッド・ファーザー」より“愛のテーマ”、「ロミオとジュリエット」よりテーマ、「山猫」より“愛のテーマ”、「フェリーニのアマルコムド」よりテーマ、「道」よりテーマ、「8 1/2(はっかにぶんのいち)」よりテーマ、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの交響曲第25番第1楽章(「アマデウス」)と歌劇「フィガロの結婚」序曲(「アマデウス」)、ニコラ・ピオヴァーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」メインテーマ、フランシス・レイの「ある愛の詩」テーマ、「白い恋人たち」テーマ、「男と女」よりテーマ、ミシェル・ルグランの「シェルブールの雨傘」より“愛のテーマ”、エンリオ・モリコーネの「海の上のピアニスト」より“愛を奏でて”、「ニュー・シネマ・パラダイス」より“愛のテーマ”、「ミッション」よりメインテーマ、「続・夕日のガンマン」よりテーマ。当日になって曲順を大幅に入れ替えている。

今日はステージからは遠いが音は良い3階正面席で聴く。なおポディウム席、2階ステージ横席、3階サイド席は発売されていない。

イタリアはクラシック音楽の祖国ではあるが、名門オーケストラはあっても一流オーケストラはないというのが現状である。指揮者に関してはアルトゥーロ・トスカニーニに始まり、カルロ・マリア・ジュリーニ、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティ、リッカルド・シャイー、ジュゼッペ・シノーポリ、最近話題のダニエレ・ガッティに至るまで、オーケストラビルダーとしても名高い多くの逸材が生まれているが、イタリア国内はオーケストラコンサートよりもオペラが盛んということもあってオーケストラ自体の名声が上がらない。名門よりもむしろ最近出来たミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団やアルトゥーロ・トスカニーニ・フィルハーモニー管弦楽団の方が高い評価を得ていたりする。

というわけで、機能に関しては余り期待していなかったのだが、想像していたよりもはるかに優れたオーケストラであった。透明な音と朗らかなカンタービレが特徴。管の抜けも良いが、弦はそれ以上に優れており、流石は「弦の国」のオーケストラと感心させられる出来であった。今後も日本でハイレベルな演奏を聴かせてくれそうである。

今回のツアーの指揮を務めるのは、ニコラ・マラスコ。フォッジア・ウンベルト・ジョルダーノ音楽院とペスカーラ音楽院で指揮をピエロ・ベルージやヨルマ・パヌラ、リッカルド・ムーティらに師事。2005年にはジュゼッペ・パターネ指揮コンクールで優勝している。マラスコは曲によってはピアノ独奏も担当しており、多才であるようだ。
「シンドラーのリスト」、「ニュー・シネマ・パラダイス」などではヴァイオリン独奏も務めたコンサートマスターのアントニオ・ペッレグリーノは、ローマ・イタリア管弦楽団の創設者の一人で、ローマ歌劇場第2ヴァイオリン奏者を経て同楽団のコンサートマスターも務めたという経歴の持ち主である。1999年から2003年まではフェーデレ・フェナローリ音楽院やアブルッツォ・ユース・オーケストラでオーケストラ演奏法指導者としても活躍していたそうだ。

ローマ・イタリア管弦楽団は、室内オーケストラより一回り大きめの編成。メンバー表を見たが、ほぼ全員がイタリア人のようである。アメリカ式の現代配置を基本としているが、ティンパニを舞台上手、ヴィオラの隣に置くなど独自性が見られる。「ティファニーで朝食を」より“ムーンリバー”では、出だしがサティの「ジムノペディ」第1番を意識した編曲だったりとアレンジにも凝っている。エレキ音はギターなどは用いず、全てキーボード(赤毛のミレラ・ヴィンチゲラという女性奏者が担当)で出しているようだ。

映画音楽だけでなく、マスカーニやモーツァルトの演奏も優れている。特にマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲はイタリアのオーケストラでないと出せないような絶妙の彩りが特徴である。
指揮のニコラ・マラスコは強弱のコントラストを大きくつけた音楽作りをする。パースペクティヴの作り方も上手い。

アンコールは、ペッレグリーノのヴァイオリン独奏による「愛の賛歌」、更にオーリックの「ローマの休日」メインテーマが再度演奏される。豊かな歌と輝かしい音が印象的であった。

20世紀のクラシック音楽がどんどん歌から離れていく一方で、劇伴やポップスはよりメロディアスなものへと発展を遂げていく。音楽史的には、12音楽を始めとして響きの音楽へと転換していくクラシック部門に耳目を奪われがちになるが、ポピュラー部門に関していうなら20世紀ほど旋律が追求された時代はこれまでなかったように思う。録音技術やマスメディアの発達で世界各国の音楽をいながらにして聴くことが出来るようになったことも大きいだろう。望めば24時間音楽が聴ける環境が整ったことでメロディーの世界は広大無辺は大げさにしても一個人や国家の壁を越えて広がるようになっている。
というわけで、クラシックのコンサートホールでは例がないほど甘い旋律に酔うことが出来た。

 

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