カテゴリー「パフォーマンス」の6件の記事

2019年12月20日 (金)

美術回廊(46) ジョーン・ジョナス京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」

2019年12月18日 御池通の京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて

御池通にある京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」を観る。
1936年生まれのジョーン・ジョナス。今月12日にロームシアター京都サウスホールでパフォーマンス「Reanimatio」が上演され、14日から京都市立芸術大学@KCUAのでの展覧会が行われている。年をまたいで来年の2月2日までの開催である。入場無料。

展覧会のタイトル通り、京都市立芸術大学@KCUAの5つの展示室を使って行われる展覧会。映像作品と美術の展示がある。
最初の部屋は、12日にロームシアター京都サウスホールで行われた「Reanimation」のものである。ジェイソン・モランの音楽も録音で流れてくる。
ジョナスは、歌舞伎や能を観て日本の表現形式に魅せられたそうだが、「Reanimation」では障子をスクリーンとして用いている。氷河の山脈の映像や、ドローイングの風景などが投影されている。
「Reanimation」の上演映像もモニターで流れている。セリフを書いた冊子が手前の椅子の上に置いており、自由に読むことが出来るようになっている。

2階に上がり、3つの部屋で行われる展示を眺める。最初の部屋に映されているのは、「Lines in the Sand」。パリスと結婚したとされるヘレネーの物語を題材としているが、ヘレネーはトロイアではなくエジプトに行ったとするアイスキュロスの戯曲を元にしており、エジプトに取材した作品である。ただ、ジョナスはエジプトには行かず、ピラミッドやスフィンクスの模倣品が街中にあるラスベガスに向かい、ラスベガスのそばの砂漠で砂にドローイングを行ったりしている。二重の意味で「本来ではない場所」での創造が行われるのである。
モニターには「ピロートーク」という題の、男女による語りの作品が映されていた。こちらは演劇性が高いものである。

2階の2つ目の部屋は、最も演劇性の高い実験映像である。「Organic Honey」と題された映像群で、最初期の作品である「Oranic Honey's Visual Telepathy」を始めとする6つの映像がスクリーンやモニターに流れている。何が映っているのかよくわからないものもある。

2階の3つ目の部屋は、ジョナスが取り組んでいる環境問題に題材を取った映像2つ(「Moving off the Land Ⅱ」と「Whale Video」)が流れている。人類と魚類の共通点が少年や少女によって語られ、「Reanimation」のラストに登場した魚は、やはり生物の原点という意味で扱われていたことがわかる。
ジョナスがスクリーンに映る海の生き物たちと一体になろうとしたり、自分の体に紙を押し当てて体型をなぞったものに吸盤を加えてタコと一体化したりと、生物の歴史を超えた融合を試みる場面が見られる。この作品でもジョナスがハンドベルを鳴らず場面があるが、自然破壊への「警鐘」そのものとして用いているようである。

階段を降りて、1階にある最後の展示室へ。この部屋ではジョナスの教育活動が紹介されている。4つのモニターが互いに背を向ける形で四方に並べられており、大学や美術アカデミーで行われたインプロビゼーション(即興)でのパフォーマンスが映し出されている。
ガラスケースの中には、ジョナスが授業の際に使用した指示書が展示されている。これも日本語訳テキストが壁に2冊ずつ下がっていて、手に取って読むことが出来る。詩や映像作品の組み立てを分析してパフォーマンスに生かすこともやっているようだが、日記を書いて、実際にあったことを表現するよう指示が出されたものもあった。

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観劇感想精選(330) ジョーン・ジョナス 京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」

2019年12月12日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」を観る。

ジョーン・ジョナスは、1936年、ニューヨーク生まれ。現在も同市在住である。1960年代にパフォーマンスとビデオを融合させた新たな表現形式を創始し、現在もデジタルメディアとパフォーマンスとの関係を探求し続けている。

 

舞台中央に障子で出来たスクリーンが降りており、そこに映像が投影される。まず映されるのは寒冷地の街の映像であり、その後、アイスランドを描いた地図が映り(左下に首都のレイキャビクがある)、先程の映像がアイスランドのものであるらしいことがわかる。

舞台左手にグランドピアノがあり、その上にキーボードが乗せられている。演奏を行うのは、1975年、テキサス州生まれのピアニストで作曲家であるジェイソン・モラン。グランドピアノには坂本龍一のコンサートでよく見られるような自動演奏機能が付いており、モランはグランドピアノを自動演奏モードにしてキーボードを弾いたり、片手でキーボード、もう片方の手でピアノの演奏を行ったりする。ミニマルミュージックに始まり、即興演奏風になり、再びミニマルミュージックに戻ってくる。北欧の先住民であるサーミ人の伝統歌謡「ヨイク」も効果的に用いられている。

舞台上手にはテーブルが置かれ、助手が映像を映し出したり、ドローイングが行われたりする。

 

アイスランドの作家、ハルドル・ラクスネスの著作、特に『極北の秘教』に影響を受けたパフォーマンスである。近年、世界的な問題となっている氷河の融解を題材としているが、実はラクスネスは氷河がまだ溶け出していない1960年代に氷河の問題を取り上げているそうである。
ラクスネスの著作を題材にしたパフォーマンスは、まず2010年にジョナスが教鞭を執るマサチューセッツ工科大学(MIT)で制作され、講義形式の作品であったようだが、その後、ジェイソン・モランとのコラボレーションを行うようになり、完成形へと徐々に近づいていったようである。

ハルドル・ラクスネスは、1955年にノーベル文学賞を受賞しているが、彼が書いた戯曲のような小説『Under the Glacier(氷河の下で。邦題:極北の秘教)』が今回の公演の軸となっている。『極北の秘教』からのテキストをジョナスが朗読することで進んでいく。上演時間は約1時間。

ジョナスが、舞台中央やや下手寄りに立てられた板に掛かる黒板風のものにチョークで六角形の図形を並べた花のような絵を描き込んでいく。
「完全な死体となった全裸の女が目覚め、棺から出てアイルランド風のパンを焼き(どんなパンなのかはわからないが)、棺担ぎの男達に振る舞った」という民話風のミステリアスな蘇生(Reanimation)の話が冒頭で語られる。その後、北欧(アイスランドではなくノルウェーらしい)の光景である山々や動物達がスクリーンに映し出される。ジョナスは舞台上手のドローイングスペースに行って、映像の輪郭をなぞるような書き込みを行うが、完成する前に映像は先に進んでしまい、ジョナスが描き込んだ絵は残像のように残されることになる。「喪失」が強く印象づけられる。

ラクスネスによると氷河は世界の中心であり、昔、錬金術師に導かれて3人の男が氷河に覆われた火山の噴火口に降り、そこで世界の中心を見つけたという。

ノルウェーの氷に閉ざされた山の麓を走る列車から取られたと思われる映像が続き、ジョナスは草笛のようなものや、角笛のようなものを鳴らす。また紙をくしゃくしゃに丸める音を出す。それは氷河の溶解の音のようでもある。

「歴史は寓話、それも粗末な。それに絶えられず私は神学を学ぶことにした」だが、その神学もやがては信じられなくなるようである。新たな寓話が求められる。

嵐に耐えるユキホオジロの話も語られる。「完璧」の喩えとしてだ。人間がユキホオジロのように鳴き声を交わす生き物でないことを残念に思い、ならば沈黙を求めようとする。氷河は沈黙している。野の百合もまた。

やがて話は冒頭の全裸の女の死体の話に戻る。それは今や完全な死体である。幽霊の話も語られるが、幽霊は常に不完全な存在であり、「世界の流産」と形容される。これは氷河の融解に繋がるメタファーだと思われる。氷河の融解は進んでおり、時間を巻き戻すことは出来ない。それを食い止める夢を描いたとしても、それはかつての氷河の姿に由来する幽霊に過ぎないのではないか。

ただ、時間は解決のための有効な手段として今も考えられており、最後の結論として再度登場する。

「蘇生」を題材にした映像。池の中に白い影が映り込んでいる。やがてその白い影は白い服を着た女性だということがわかり、飛び込み台の上にいる女性はやがて池に飛び込み、泳ぎ出す。その後、映像はアザラシなど、氷河の海で暮らす生物達の映像に突然切り替わる。

タンポポとミツバチの話、ミツバチがタンポポの蜜を吸い、ミツバチがタンポポの花粉を体につけて他のタンポポに移り、受粉が行われることを「超交信」と呼ぶ。これが新たな宇宙的発展の希望と考えられているようである。

世界は悪魔が支配しているという話。ものが燃やされている映像。あるいは焚書を表しているのかも知れない。悪魔はいつまで経っても悪魔であり続けると考えたとしても、神を冒涜したことにはならないだろうという内容が読み上げられる。

山羊などアイスランドの家畜達が映った映像が流れた後で、ジョナスはカウベルなどを鳴らす。スクリーンにはすでに家畜はおらず、雪の畑を延々と歩き出す人の影が映し出されている。やがて右の方に北極海が見え、影は砂浜にたどり着く。

ジョナスは、最初は黒板のようなものが掛けられていた板に半紙を垂らし、墨で魚の絵を描く。

『極北の秘教』からの最後の引用が語られる。「時について」だ。「時の超越性は誰も知ることである。時はエネルギーでも物質でもないが、始まりと終わりを担っている。世界の創成のだ」
スクリーンには魚達の姿が映されている。あるいは他に意味があるのかも知れないが、「始まり」と「魚」は相性が良い。生物の始まりは魚だからである。
ジョーン・ジョナスは、教訓的な表現は行わない人だそうで、あるいは細分化して「意味」として受け取るのは間違っているのかも知れないが、「根源に戻ること」は何事においても重要なのかも知れない。我々はそもそも何を求めてどこからやって来たのかということだ。
キリスト教では、魚は特別な存在であり、題材からいってそちらの可能性もあるのだが、キリスト教徒の少ない日本においてはそうした解釈は真偽に限らず有効性を持たない。先の解釈の方が良いだろう。

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2019年11月14日 (木)

日本・ポーランド国交樹立100周年記念 ポーランド国立民族合唱舞踊団シロンスク@フェスティバルホール

2019年11月6日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、日本・ポーランド国交樹立100周年記念 ポーランド国立民族合唱舞踊団シロンスクの公演を観る。

ポーランド国立民族合唱舞踊団シロンスクは、1953年7月1日に作曲家で教育者、更に作家でもあったスタニスワフ・ハディナによって設立された民族舞踊団。100人を超えるメンバーがいるというが、そのうちの54名が今回来日し、日本各地で公演を行う。合唱団、舞踊団、オーケストラから成る団体だそうだが、今回はオーケストラなしでの上演(録音音源だと思われる)。シロンスクは、現在はポーランドとシロンスク県(県都は、ポーランド国立放送交響楽団の本拠地としても知られるカトヴィツェ)の共同運営となっているそうだ。

まずスクリーンにポーランドとポーランド国立民族合唱舞踊団シロンスクの紹介映像が映される。その後、ポーランド広報文化センター職員でピアニストの栗原美穂がポーランド民族衣装を纏って登場し、進行役を務める。

その後、いかにも東欧といった感じの舞踊が繰り広げられるのだが、「シュワ・ジェヴェチカ(森へ行きましょう)」が日本語で歌われるなど、サービス精神にも富んでいる。

シロンスクは、ポーランドの民族衣装2万点以上を保有しているそうで、今回も多くの民族衣装を披露すべく、ダンサーは平均して公演中に10回近く着替えるそうである。

民族舞踊に関しては特に知識もないので見所なども上手くは語れないが、やはり下半身の強靱さは目立つ。隣国ロシアのコサックダンスのような足の動きもあるのだが、器用に軽々とこなせるのは足腰の強さあってこそだろう。そしてバレエでもそうだが、男性のダンサーはやはり日本人とは比べものにならないほど体格が良く、動きがダイナミックである。女性ダンサーも日本人よりプロポーションは良いが、圧倒的といえるほどの差はないように思われる。スポーツでも女子選手は世界の強豪国と互角以上に戦える種目が多いが、男子の場合はお家芸とされる種目以外ではまず勝てない。身体能力においては日本人男性は不利だ。

ポーランドが生んだ最大の作曲家が、フレデリック・フランソワ・ショパンである。ショパンは父親がフランス人、母親がポーランド人のハーフであり、生涯の半分近くをパリで過ごしたため、純粋なポーランドの作曲家とはいえないのかも知れないが(フランス系であったがために青春期に失恋したこともあるようだ)ポロネーズやマズルカといった祖国の舞曲をピアノ曲にしており、愛国心においては祖国の人々に劣ってはいなかったと思われる。

そのポロネーズやマズルカの踊りも当然ながら行われる。ピアノ曲でしか知らない舞曲が実際にどのように舞われるのか興味があったが、リズムの意味が舞踊を見ているとよく分かる。特にリズムにステップが大きく影響していることが見て取れる。

曲芸的な舞やユーモアを取り入れた表現、舞と合唱のコラボや、合唱のみで聴かせる場など、思った以上にバラエティーに富んだ構成であった。

アンコールとして、ラストに踊られた「クラコヴィアク」が再度披露され、その後、スクリーンが下りてきて、シロンスクの出演者達が中島みゆきの「時代」を歌う。スクリーンには「皆さまもご一緒にお歌い下さい」と出て歌詞が投影され、ポーランド人出演者と日本人聴衆による合唱が行われる。大阪の聴衆の良いところは、こうした場面でちゃんと歌ってくれることである。仕事のため行けなかったが、今月2日にはロームシアター京都メインホールでの公演もあった。京都のお客さんはちゃんと歌ってくれただろうか。

同じ歌を歌っただけで本当に心が通じ合えたかどうかはわからない。ただやはりこうした経験は心を温かくしてくれるし、短い時間であっても一体感を得たことで少しだけ優しくなれたようにも思う。

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2019年1月27日 (日)

観劇感想精選(289) 神里雄大/岡崎藝術座 新作パフォーマンス「いいかげんな訪問者の報告」京都公演

2019年1月18日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

午後7時から、京都芸術センターフリースペースで、神里雄大/岡崎藝術座の新作パフォーマンス「いいかげんな訪問者の報告」京都公演を観る。沖縄系ペルー移民の子である神里雄大が、自身のルーツである南米を訪れた時の様子をレクチャー形式で語るパフォーマンスである。神里はアサード(南米の焼き肉料理)を焼きながら映像をスクリーンに投影し、音楽をパソコンで出しつつ語りや説明を行う。

フリースペースの中央に長机が縦2横4になるよう向かい合わせで並んでおり、計24人が椅子に座る。それぞれの前には紙皿にフォークとナイフが置かれており、アサードが焼けたらこれに取り分けて食べる。その他におにぎりも用意されている。

まず、南米の地理関係の説明(「南米のチリ関係」と変換された。確かに正しいが)。南米は日本の真裏。つまり、日本から行くには最も遠い場所にあるということであり、南米から日本に来るのも同時に大変である。昔、宮沢和史が手掛けた南米を舞台にした歌詞に「たどり着いた地図の裏側 最果ての街」という一節があったのを思い出す。

日本人初のペルー移民が日本を旅立ったのは、今から120年前の1899年のこと。当時は、仕事にあぶれている者が多く、4年契約の出稼ぎ感覚で出掛けた人が多かったようだ。そのこともあってペルーに向かったのは全員男性だった。しかし、現地に着くや話が違うことがわかる。プランテーションでの仕事はきつく、賃金未払いは当たり前。衛生状況も悪く、死者も続出した。それでも日本に返すだけの金はないので、奥地にあるゴムの木の森に向かわせることになるのだが、そのうちの約半数はその後、行方がたどれなくなっているそうである。そもそもペルーが移民を募集したのは、1850年代に奴隷制度が廃止され、奴隷の代わりとなる労働力が必要となったからであり、労働条件は最悪に近いものであった。最初は中国人移民を募り、次いで日本人の移民を集めようとしたのだが、日本人を集めようとした理由は中国人と容貌が似ているというそれだけのことだったようだ。当時のペルーでは、日本人移民は見かけからして異物であり、「治安が悪くなる」という理由で排斥されたりもした。第二次世界大戦が始まると、日本人移民は敵性外国人として苦難の日々を歩むことになり、日本語の使用も自主的に控えたそうだ。
当時の日本政府は、ペルーに渡って苦心している移民のことを事実上、見捨てている。

昔のペルー移民の話だが、今の日本を巡る状況にも似ている。こうしたことをレクチャー形式のパフォーマンスで伝えるという発想力がまず良い。

戦後におけるペルーへの日本人移民(私の記憶違いがありました。神里雄大氏ご本人からのご指摘によるとペルーではなく南米各地への日本人移民で、ペルーへの移民は日系排斥運動が強かったために行われなかったとのことです)は戦後すぐに募集が行われ、日本社会が混乱していたということもあり、大人気で抽選が行われたところもあったそうだ。彼らは戦前の日本人移民とは違い、日本人というだけで抑圧される環境にあったわけではないので、日本語でのやり取りを今も行っている。

セリフはエッセイ風のもの、手記の一節、手紙類などを元にしたもので、スペイン語での語りもあった(スクリーンに日本語字幕が出る)。

後半には、長きに渡る滞在を経て、南米にいることの窮屈さを語ったりもする。

映像では沖縄県からの南米移民によるお祭りの映像が流れる。地球の裏側にあるもう一つの沖縄。先週観た「高丘親王航海記」に出てくる「アンチポデス」という言葉が浮かぶ。

ラストは、アルゼンチンの日本人学校(ここも私の記憶違いで、神里氏によると日本人学校ではなく日本語学校だそうです)での卒業式兼終業式の催しとして、皆がアサードとおにぎりを食べる中、神里が一人でパフォーマンスを行い、ビンゴゲームが行われる。私は1個差で1位通過はならず。1位通過者にはチョコボールがプレゼントされた。

独自のエンターテインメントだが、単なる消費になっていないところに好感が持てる。

 

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2017年7月20日 (木)

コンサートの記(311) 第55回大阪国際フェスティバル 井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか レナード・バーンスタイン シアターピース「ミサ」

2017年7月14日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、第55回大阪国際フェスティバル2017 レナード・バーンスタイン作曲のシアターピース「ミサ」を聴く。

レナード・バーンスタインの「ミサ」は、1971年に、ワシントンD.C.に完成したジョン・F・ケネディ・センターの杮落とし演目として初演されたものであり、宗教曲でありながら反キリスト教的要素が濃く、音楽的にもロック、ミュージカルナンバー風、ジャズ、現代音楽を取り入れたアマルガム的なものになっている。

今回の上演は、日本初演以来23年ぶりの舞台上演。フェスティバルホールでの2公演のみであり、関西のみならず、日本中からファンが駆けつけたと思われる。

指揮は、「ミサ」の日本初演も手がけた井上道義。井上は、総監督、演出、日本語字幕訳も手がける。
演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。オーケストラピットに入っての演奏である。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。出演は、大山大輔(バリトン)、小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣(以上ソプラノ)、野田千恵子、弊真千子(へい・まちこ)、森山京子(以上メゾソプラノ)、後藤万有美(アルト)、藤木大地(カウンターテナー)、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太(以上テノール)、加耒徹(かく・とおる)、久保和範、与那城敬(以上バリトン)、ジョン・ハオ(バス)、込山直樹(ボーイソプラノ)、ファルセットコーラスを担当するのは奥村泰徳、福島章恭、藤木大地の3人。
ボーイソプラノコーラスは、キッズコールOSAKA。
従者役は、孫高宏と三坂賢二郎の二人(ともに兵庫県立ピッコロ劇団)。
バレエダンサーは、堀内充バレエプロジェクト所属のバレエダンサー9人と大阪芸術大学舞台芸術学科舞踏コースの学生6人。
副指揮者は角田鋼亮(つのだ・こうすけ)。
ミュージックパートナーは佐渡裕(本番には出演せず)。

従者達が運んだジュークボックスから声が響き、エレキギターを奏でていた男(大山大輔。今回はレナード・バーンスタイン本人を演じるという設定である)が、祭服を纏い、司祭となることからストーリーは始まる。
司祭は、「神に祈ろう」、「神の言葉は絶対だ」と歌うのだが、神の存在をどうしても信じられないという人や、神の言葉の矛盾を突く人などが次々と現れ、司祭がついには信仰を投げ出してしまうという筋書きである。

ラストは、言葉のない歌(スキャット)や簡単な歌詞(「ラウダ、ラウデ」という言葉が繰り返される)による歌が歌われることになる。このラストの部分はとても美しいのだが、レナード・バーンスタインがそうなるように仕掛けたのだと思われる。

「はじめに言葉ありき」という聖書の言葉がある。この「ミサ」にも登場する有名な言葉なのであるが、音楽家としてはこの言葉に簡単には首肯できないのではないだろか。「音楽はともかくとして、音より先に言葉があるとはどういうことなのか?」
レナード・バーンスタインはここで音楽の言葉に対する優位性を唱えたように思う。言葉による神をめぐる思想は矛盾や争いを生み、地上に地獄をもたらす。一方、言葉のない音楽の世界は天上のように美しい。つまり音楽こそがレナード・バーンスタンの求める平和を体現するものだということだろう。こうした意思の表明は極めてわかりやすく提示されている。

日本初演も手がけた井上道義の指揮はノリが良く、大阪フィルハーモニー交響楽団の音色も鮮やかで、この曲を再現するのに最適の演奏となった。一方で井上の演出は余計なことが多いような。やはり音楽家が演出も兼務するには限界があるのだろう。

今日は3階席の後ろの方、ほぼ真ん真ん中で聴いたのだが、この席で聴くフェスティバルホールの音響は優れたものであった。

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2015年1月15日 (木)

観劇感想精選(145) カンパニー・フィリップ・ジャンティ 「忘れな草」

2014年11月1日 京都劇場にて観劇

午後3時から、京都劇場で、カンパニー・フィリップ・ジャンティの公演「忘れな草」を観る。日仏文化交流90周年記念公演でもある。

セリフはほとんど用いられず、演者のパフォーマンスと小道具の使い方で見せる公演。特に人形と幕の使い方が特徴である。

舞台が明転すると、まず後ろを向いた女優がヘンデルの歌劇「リナルド」から“私を泣かせてください”を歌っている。ところが、この女優、舞台の方に向き直るとチンパンジーのフェイスマスクをしている。

そこへ、遠くの方から人間の集団らしい影絵が近づいて来るのが見える。チンパンジーはそれを追い返そうとするのだが、無駄骨に終わる。

続いて、男と女のいる舞台。だが、それぞれ、自分の顔に似せた等身大の人形を持っており、人間と人形が様々に交錯するという興味深い展開が行われる。「この辺で変わりそうだな」という予測は可能であり、当たることが多いのだが、急にチェンジするので、どうやったのかわからないところも何ヶ所かあった。

実は、男装した女優が一人紛れており、そのため数の勘定合わないよう錯覚させる工夫がなされていた。

舞台設定は北極か南極のようで、演者達は小さなスキーの模型を履いていたりする。そのため、温め合う男女という設定もあるのだが、これは良いところでブツ切りにされる。

チンパンジーにとっては人類が繁栄しないことこそが願いなので、人類のあれやこれやはあっても何事もなく去って貰うのが望ましい。

ラストシーンでは、チンパンジーの望み通り人類は去って行くかに見える(影絵で示される)のだが、途中で、一組のカップルが馬車を降り、恋愛が成就したことが暗示される。チンパンジーが悔しがる中、幕となる。

ストーリー自体は、言葉を使わないパフォーマンスの常として奥深さはあっても多彩とはいえないものだが、小道具の生かし方は見応えがあったように思う。

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