カテゴリー「パフォーマンス」の14件の記事

2021年3月20日 (土)

美術回廊(63) 国立国際美術館 「液晶絵画」

2008年6月13日 大阪・中之島の国立国際美術館にて

中之島にある国立国際美術館まで行って、今何をやっているのか確認する。映像を用いた「液晶絵画」なる展覧会をやっており、出品者の中にブライアン・イーノの名前を発見。国立国際美術館は、金曜日は特別に午後7時まで開館しているとのことなので入ってみる。

イーノの作品は、映像よりもブース内に流れているイーノの作曲した音楽の方が面白かった。

サム・テイラー=ウッドという作家の作品は、ウサギの死骸や果物が腐敗していく様を映し、高速で再生するというもの。発想がピーター・グリーナウェイの「ZOO」そのままのような気もするのだが……。

展示されている作品の中で、もっとも印象深かったのは、自身が歴史上の有名人物になりきるアートを発表していることで有名な森村泰昌の「フェルメール研究」という連作。「真珠の耳飾りの少女」に森村がなりきった作品が特に良かった。

ドミニク・レイマンという作家の作品は、スペース上方に据えられたカメラの映像が、少し遅れて正面のスクリーンに映し出される。私も色々なポーズをして楽しんだ。

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2021年1月22日 (金)

コンサートの記(686) ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサート

2021年1月17日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサートを聴く。出演者側というよりも入場者側の問題だったのか(午後2時を過ぎてから客席に入ってくるお客さんが結構いた)、開演は15分以上押した。

先週の「雅楽――現代舞踊との出会い」とのセット券(S席のみ)も発売されていたが、先週の同じ時間帯に京都市交響楽団は京都コンサートホールでニューイヤーコンサートを行っていたため、京響のファンはニューイヤーコンサートを優先させる人が多かったはずで、多分、それほど売れなかったと思われる。それでもヘアスタイルからバレエをやっているとわかる女の子達が集団で訪れるなど、バラエティに富んだ聴衆が集っているのが見て取れる。

今日の公演はタイトル通り、京都市交響楽団と演出家・映画監督で京都市立芸術大学美術科教授でもある石橋義正のコラボレーションである。

指揮者は園田隆一郎。オーケストラが舞台の後部に控える配置である上に、照明がそれほど明るくないのでハッキリとは見えなかったが、コンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーは尾﨑平であると思われる。管楽器のソロが重要になる曲目が多いということで、フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も全編出演する。

その曲目は、ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」、ラヴェルの歌曲集「シェエラザード」(ソプラノ独唱:森谷真理)、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。
私の世代だと、これらの楽曲はシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のCDで初めて聴いたケースが多いと思われる。私の場合も、「ボレロ」だけはアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団盤が初めて聴いた演奏だが、それ以外はデュトワ指揮モントリオール響のCDで初めて耳にしている。丁度、私の十代から二十代初頭に掛けてデュトワとモントリオール響はこれらの曲を録音して次々にリリースしていた。

パフォーマンスの出演は、「花火」が花園大学男子新体操部。「牧神の午後への前奏曲」と「火の鳥」が、茉莉花(まりか。コントーション)、池ヶ谷奏(いけがや・かな)、薄田真美子(うすだ・まみこ)、斉藤綾子、高瀬瑶子、中津文花(なかつ・あやか)、松岡希美(以上、ダンス)。「ボレロ」がアオイヤマダとチュートリアルの徳井義実。
振付は藤井泉が行う。ビジュアルデザインは江村耕市。衣装は川上須賀代。特殊メイクはJIRO(自由廊)。

石橋の演出は全般的に「生命の輝き」を軸としたものである。

 

張り出し舞台にしての公演。「火の鳥」はオーケストラピットの上に板を置いてコントーション(体の柔らかさなども生かした曲芸的なダンス)の茉莉花が舞台前方で踊る場面が続いたのだが、張り出し舞台の前方で踊るとやはりよく見えない(今日は私は3階席にいた)。

オペラやバレエでタクトを執ることも多い園田隆一郎だが、今日は舞台後方での演奏であり、ダンスを確認しながらの指揮ではない。音楽にパフォーマーが合わせる形になるが、その場合はインテンポでの演奏を行えた方が良い。園田はそうした職人芸も持ち合わせているため、演奏自体もかなり高度なものになる。それにしても京都市交響楽団も随分上手くなった。私が京都に移り住んだ2002年にはまだ不器用なオーケストラというイメージだったが、今や別次元である。音の輝き、響きの力強さ、精度、いずれも日本を代表するレベルで、文化都市・京都の顔にこれほど相応しい団体は他にない。

 

ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」。今年はストラヴィンスキーの没後50年ということで彼の作品が2曲入っているが、ストラヴィンスキーもバレエ音楽を書いて活躍したのはパリ時代であり、ドビュッシーもラヴェルもパリを拠点とした作曲家ということで、京都市の姉妹都市パリにも焦点が当てられた曲目である。

オリンピックでも日本が比較的健闘している新体操であるが、男子の新体操となるとまだ珍しい。花園大学新体操部は1998年に創部。2020年11月に開催された第73回全日本新体操選手権大会では団体競技の部3位に入賞している。
オリンピックでは「フェアリージャパン」と称され、可憐な舞が中心となる新体操だが、男子の新体操は女子とは別のアクロバティックなものである。男子のシンクロナイズドスイミングを描いた矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」という映画は有名だと思われるが、女子と男子とでは別物という点が共通しており、「ウォーターボーイズ」(テレビドラマ版でも良い)を観たことのある人は男子新体操を思い浮かべやすいと思われる。タンブリングを主体としたダイナミックなもので、銀色のボディスーツにカラフルな照明が映えて、花火と肉体の生命力が存分に表される。

ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。出演者達は「花火」の時には指揮台のすぐそばで目立たないように立っていた。
石橋義正のノートによると、「生殖」をイメージしたものであるが、出演者は女性のみであり、将来、人間は有性生殖をしなくなるという仮定の下、細胞分裂による進化を描いたものだという。「牧神の午後への前奏曲」は、マラルメの詩を元にしているが、牧神がニンフ達を追い回すということで、エロティックな振付が行われることもある。今回もそれらしい動きはあるが、女性ダンサー同士なので、それほど性的な意味に固執しない方がいいだろう。ダンサー達は腕と脚をゴムのようなもので繋いで踊る。具体的に何を意味するのかはわからないが、細胞膜、染色体、DNA(螺旋ではないが)といったものと捉えるとわかりやすい。これらは生命体である証であり、ウイルスはこうしたものを持たない。
ラストで紗幕が降り、ピンク色の光が溢れ出る様が投影される。

ラヴェルの「ボレロ」。紗幕に今度は原色系の帯のようなものが投影され、左右に動く。ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の冒頭に出てきそうな映像である。
やがて赤いドレスを着た女性の影が浮かぶ。紗幕が上がると、その赤いドレスを着た女性(アオイヤマダ)が踊る。やがて女性は舞台中央にしつらえられたチェアに腰掛ける。上手から男性(徳井義実)が登場し、女性の顔に色々と施しをする。どうもメイクアップアーティストのようだ。こういうような設定の場合は、大体、女性がえらい目に遭うのだが、JIROの特殊メイクにより、徳井がドライヤーを掛けると女性の顔が崩れて血が流れ始める。「ボレロ」自体がラストの突然の転調で聴き手を驚かせる内容であり、演出も音楽に沿ったものである。曲とパフォーマンスが終わると同時に、オーケストラが乗った少し高いステージの部分に「intermission」の文字が投影される。
無申告事件の後、テレビにはほとんど出られなくなった徳井義実であるが、昨年のよしもと祇園花月再始動の際にはオープニングを飾るなど、舞台では活動を拡げつつある。なぜ漫才が本業の徳井義実がパフォーマーに選ばれたのかはよくわからないが、京都市出身で花園大学OB(中退ではあるが。ちなみに「花園大学は同志社大学より格上」だと言い張って、相方の福田充徳に突っ込まれまくるというネタを持っている)いうこともあるのかも知れない。舞台慣れしているだけに洗練された身のこなしで、他の出演者達に劣らない存在感を示していた。

 

後半。まずはラヴェルの歌曲「シェエラザード」。
独唱の森谷真理は、人気上昇中のソプラノ歌手。栃木県小山市出身で小山評定ふるさと大使と、とちぎみらい大使でもある。二期会会員。「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」で国歌独唱を務めている。
紅白歌合戦の小林幸子のような巨大衣装で歌う。頭頂部に泉の噴水のようなオブジェが付いており、演出ノートによると「生命の起源をイメージする海洋生物」ということで鯨の祖先を模しているのかも知れないが、むしろ湧き出る泉のような生命力を表しているようにも見える。
森谷真理の歌声はびわ湖ホール大ホールでも聴いたことがあるが、ロームシアター京都メインホールは空間自体がそれほど大きくないということもあり、臨場感抜群の歌唱となった。私が行ったことのあるホールの中では、ここが一番声楽に適した音響を持っているように思われる。響き過ぎないのが良い。
巨大衣装ということで一人では退場出来ないため、歌唱終了後はスタッフが登場して4人がかりで移動。去り際に森谷真理は客席に向かって手を振る。

ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。ストーリー的には「牧神の午後への前奏曲」の続編としているそうだが、火の鳥は「復活の象徴」としてフェニックス=不死鳥になぞらえられている。舞台上方にはハートや蟹にも見えるオブジェが赤く輝いており、ノートには「火の鳥の卵のようなもの」と記されているが、向かい合った不死鳥を表しているようにも見える。
音楽自体が「牧神の午後への前奏曲」とは違ってダイナミックであるため、生命の躍動がダイレクトに伝わってきた。ノートにも「リアルな生の体験」と書かれているが、臨場感や波打つような生命力は劇場でないと十分に味わえないものであり、コロナ禍を乗り越えて不死鳥のように復活するという人類への希望と賛美もまた伝わってきた。

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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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2020年12月20日 (日)

森山開次:演出・振付・出演「星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙―」

2020年12月6日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、森山開次:演出・振付・出演による「星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙―」を観る。サン=テグジュペリの代表作で舞台化されることも多い「星の王子さま」をダンス公演として上演するという試み。原作は小説であるため、言葉を使わずに上演することは難しいのだが、象徴的な場面を連続させるという絵巻物風手法で、この大人のための童話を描き出す。哲学性を語る限界はあり、ビジュアルでの勝負となるが、「星の王子さま」の鍵となる想像力を駆使する楽しさはある。

出演は、森山開次の他に、アオイヤマダ、小尻健太、酒井はな、島地保武、坂本美雨、池田美佳、碓井菜央、大宮大奨(だいすけ)、梶田留以、引間文佳(ひきま・あやか)、水島晃太郎、宮河愛一郎。
音楽:阿部海太郎(うみたろう)。演奏:佐藤公哉、中村大史(ひろふみ)。美術:日比野克彦、衣装:ひびのこずえ。KAAT 神奈川芸術劇場の制作である。

 

第1幕が11、第2幕が13のシーンに分かれている。

まず幕が上がると、坂本美雨演じるコンスエロ(サン=テグジュペリの妻である)が舞台中央にしゃがみ込み、音楽に合わせて手をくゆらせながら踊っている。背後には半円形のセットが置かれ、他の出演者達がセットの裏にある階段を上手側から登り、下手側へと降りる。坂本美雨は全編に渡ってヴォーカルを担当。歌詞のないヴォカリーズのものが多いが、たまに歌詞も登場し、進行役も受け持つ。美声であり、聴いていてとても心地良い。

飛行士役の小尻健太が現れ、他のダンサーと共に踊る。ダンサーが手足を高く上げる兵隊の歩き方を真似るシーンがあり、戦争が暗示される。やがて頭にライトを付けたダンサーが現れ、夜間飛行に入ったことを告げる。そして飛行機はサハラ砂漠へと不時着する。
猫のような格好をした王子さま(アオイヤマダ)が現れ、羊の絵を描いてくれるよう飛行士に頼む(「羊、シープ」というセリフは坂本美雨が手掛ける)。
飛行士は、紙で作られたミニチュアの飛行機をペン代わりにして描いたり綴ったりといった行為を行う。箱入り羊は穴が空いた布製(だと思う)の箱を使って表現される。

月が現れると共に、音楽はケルティクなものへと変わっていく。阿部海太郎は、「地中海沿岸の音色を集め」たと語るが、シャンソン、スパニッシュといった地中海に面した国の音楽の他に、オーストリアの民族音楽風のものが登場したり、マイケル・ナイマンを思わせるイギリス風のミニマルミュージックが流れたりと、幅広い作風の音楽が奏でられる。

渡り鳥は風船を巨大な袋で束ねたもので表される。「星の王子さま」の口絵がヒントになっていると思われる。

王子さまが星を出るきっかきを作ったバラは日本を代表するバレエ&コンテンポラリーダンサーの一人である酒井はなが踊っている。バレエの技巧を生かしたダイナミックにして可憐な舞である。バラはまず王子さまとパドドゥを踊った後で、飛行士ともパドドゥを行う。

第2幕冒頭では、王子さまが地球に辿り着くまでの遍歴がシーンごとに描かれる。自己中心的で尊大な王様、うぬぼれ屋(ここでスペイン風の音楽が流れる。「りょう手で、ぱちぱちとやってみな。」(大久保ゆう訳「あのときの王子くん」青空文庫)や「手をたたくんだよ」(河野万里子訳。新潮文庫)という言葉で表現される強制された称賛の拍手はフラメンコの手拍子に置き換えられている)、呑み助、実業家、点灯夫、地理学者。彼らは人間の典型例なのだが、その性質をダンスのみで描くのはやはり難しいように思われた。

賢者であるキツネは、着ぐるみではなく、尻尾だけを付けた島地保武が踊る。優れた跳躍力がいかにもキツネらしい。

ラストは、しゃがみ込んで手を広げた飛行士の後ろで、バラがルルベを行いながら回転しているところで幕となる。バラは女性の象徴である(妻のコンスエロがモデルという説がある)と同時に、自分が最も大事にしたいと思いながら手放してしまったものを表している。それが何かは各個人によって異なるが、「帰るべき場所」「想像力のない者には理解し得ない聖域」の象徴としてすっくと立ち続ける酒井はなの姿はその象徴として鮮やかに映った。

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2020年11月15日 (日)

観劇感想精選(367) 維新派 「ナツノトビラ」

2006年7月14日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

梅田芸術劇場メインホール(旧・梅田コマ劇場)で、維新派の「ナツノトビラ」を観る。構成・演出:松本雄吉、音楽:内橋和久。

維新派は、「ヂャンヂャン☆オペラ」という独特の歌唱と動きによる演劇(パフォーマンスと言った方が近いかも知れない)を確立した大阪の劇団で、セリフは全くと言っていいほど用いられず、歌詞はあるが、そのほとんどは意味が剥奪されており、ストーリー展開よりもパフォーマーの動きと声が織りなす雰囲気で魅せる団体だ。

「ナツノトビラ」は、夏休みの間、テレビばかり見ていた少女が、ふと思い立って昨年亡くなった弟の墓参りに出かけ、そこで数々の幻影を目にするという作品である。筋だけ書くとありきたりのようだが、ストーリーよりもその場その場の雰囲気作りで勝負する劇団なので、実際に観てみると個性溢れる構成に魅せられることになる。

巨大な直方体がステージ上に並ぶ。外面はシンプルだが、どうやら高層ビル群を表しているらしい。そして、そのミニチュア版が墓碑として現れる。墓碑は小さなビル群であり、高層ビル群は巨大な墓碑のようだ。

影絵の男が、建設現場で働いているのが見える(袖から舞台奥に向かって光りを送ることで作り出される演者の影絵は、この場面だけではなく、全編に渡り効果的に用いられている)。

レッサーパンダの帽子(衣装は全て白を基調としており、帽子も白いため、実際はレッサーパンダには見えないのだが)をかぶったランドセルの少年が通りかかった婦人を次々に包丁で刺していく。東京・上野で起こった通り魔殺人事件と、頻発する少年犯罪のメタファーだ。

巨大ビル群が築かれていく繁栄の影で、そうした奇妙な犯罪が起こる要素もまた築かれていたということなのだろうか。

世界貿易センターに突っ込んだ2機の飛行機のモデルを手にした少年、カラシニコフを手にした少年達、北朝鮮のミサイルを思わせる筒を持った少年など、テロリストを連想させる人々が登場するが、それらが単純で直線的なメッセージに回収されることはない。少女の「日常」には含まれていないが、世界にはそうしたものが存在するということだけを示しており、いたずらにメッセージ性や物語性を持たせないのが却って良い。

音楽は単純な動機の繰り返しだが、一時、ミニマルミュージックが隆盛を極めたように、反復される音楽は実に心地良く、それだけで十分ステージに引き込まれる。

魅力溢れるイリュージョンであり、演出も音楽も優れているが、「そろそろ終わりかな?」という場面になっても、また続きが始まってしまうということが度々あったためか、上演時間がやや長く感じた。

維新派は普段は野外に巨大な特設劇場を設けて公演を行っている。今日の劇も、もし野外で行われていたら祝祭性も加わって、より神秘的に見えたことだろう。ただそういった、悪く言えば「誤魔化し」がなくても、幻想的で特殊な舞台の味わいは十分に伝わってきた。

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2020年10月31日 (土)

観劇感想精選(362) 森山未來リーディングパフォーマンス『「見えない/見える」ことについての考察』

2020年10月27日 阪神尼崎駅近くのあましんアルカイックホール・オクトにて観劇

尼崎へ。午後7時30分から、あましんアルカイックホール・オクトで、森山未來のリーディングパフォーマンス公演「『見えない/見える』ことについての考察」を観る。関西出身の森山未來による全国ツアーであるが、関西公演はフェニーチェ堺と、あましんアルカイックホール・オクトの2カ所で行われることになった。森山未來はロームシアター京都でもダンス公演に出演しているが、残念ながら今回は京都公演はなしである。初演は2017年で、この時は東京芸術大学上野キャンパス内のみでの公演となったが、森山未來初のソロ全国ツアー作品として再演が行われることになった。

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(翻訳:雨沢泰。河出書房新社)とモーリス・ブランショの『白日の狂気』(翻訳:田中淳一ほか。朝日出版社)をテキストに用いているが、断片的であり、新型コロナウイルスの流行の喩えとして用いられていることがわかるようになっている。演出と振付は森山未來自身が担当する。企画・キュレーションは、長谷川祐子(東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科教授)。

あましんアルカイックホール・オクトのコロナ対策であるが、チケットの半券に名前と電話番号を記入。兵庫県独自の追跡サービス(メールを用いるものとLINEを使ったものの二種類)への登録も強制ではないが勧められているようである。今回は整理番号順による全席自由(午後7時開場)で、友人や夫婦同士で隣に座ったとしても一向に構わないようになっている。入場時に検温があり、手指の消毒が求められる。

客層であるが、当然というべきか、女性客が大半である。また余り積極的に宣伝がされていなかったためか、あるいは規制のためか、観客はそれほど多くはない。

入場口で音声ガイドが配られる。片耳に引っかけるタイプのイヤホンであるが、セリフや音楽などが流れ、劇場内でも他のセリフや音楽が鳴っているためラジオの混線のような効果が生まれている。

間に15分ほどの休憩を挟む二部構成の作品であり、共に上演時間30分ほどだが、第2部は第1部を手法を変えて繰り返すという形態が選ばれていた。第1部では森山未來がマイクを使って語ったセリフが、第2部ではマイクを使わずに発せられたり、その場で発せられていたセリフが録音になっていたり、その逆であったりと、中身はほぼ同じなのだが、伝達の仕方が異なる。これによって重層性が生まれると同時に、同じセリフであっても印象が異なることを実感出来るよう計算されている。

 

話は、ある男が、車を運転していた時に視力を失うという事件で始まる。視野が暗闇ではなく真っ白になり、まるで「ミルクの海」の飲み込まれたかのようと例えられる。同じ日に、子どもと16歳の売春婦が視界が白くなる病に冒され、病院に運ばれてきた。眼科医は、「失明は伝染しない。死がそうであるように。だが誰でもいつかは死ぬんだけどね」

だが、白の失明は蔓延するようになり、罹患した者はことごとく隔離される。他の多くの伝染病でも同様の措置がなされて来たわけだが、パンデミックを題材にしたテキストということで、新型コロナウイルスの騒動を直接想起させる形となっている。

断片的であるため分かりにくいが、戒厳令が敷かれ、軍部にも罹患する人が現れ、殺害事件まで起こり、それに反対する人々が反乱を起こすという展開になる。新型コロナでも似たようなことが起こっており、新型コロナ以外でもやはり同じようなことは起こっている。

第1部では、「見えなくなった? 見えなくなったっていつから? 最初から見えなかったんじゃないの? 私は最初から見えない状態で見ていた」というセリフが印象的である。コロナでも盲目的な行動が確認されたことは記憶に新しいが、新型コロナが蔓延してから急に人間性や国民性が変わったということではなく、今まで意識されていなかったことが可視化出来るようになったということである。同時にこれまで当たり前と思ったことが闇に飲み込まれ、見えなくなってしまっていたりもする。そうしたことは史上何度も起こってきたのだが、それでも変われないほど人間は愚かしく、世界は単純にして複雑である。
あましんアルカイックホール・オクトのエントランスで撮られた写真や上演中に撮影された客席の写真がスクリーンに映り、今行われているパフォーマンスが他人事ではないことが示唆される。

iPhoneを始めとするスマホの着信音が鳴り、その中で森山未來が踊る。情報化社会の中でもがき、サーバイブする姿のようだ。
それとは対称的に、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリアが音声ガイドから流れ、高雅にして悲痛なダンスがダイナミックに展開されたりもした。

第2部でも音楽は同じだが、ストーリーの結末は異なる。ストーリーと書いたが、「物語はやめてくれ」というセリフがある。今のこの状況は危険な物語に溢れている。
「街はあった」という救いともそうでないとも取れる言葉でパフォーマンスは終わるのであるが、容易に答えが出せないというのもまさに「今」であると思える。人智を超えた状況であり、本来はそのことに恐怖すべきなのだが、なぜか国同士や人種間もしくは同じ人種同士で争いが起こってしまっており、これまた妙な状況を生んでしまっている。生んでしまっているというより曖昧だったものがはっきり見えるようになってしまったというべきか。全ては「無知」が原因なのだが、人類はそれに対して謙虚になれないでいる。バッハはおそらく「己を超えた存在」に対して謙虚であった人物だと思われるが。

構成が良く、テキストや展開が抽象的であるのもまた良く、森山未來のキレのあるダンスが間近で見られて、見終わった後でも考えさせられる。これは観ておくべき公演だったと思う。

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2020年8月18日 (火)

配信公演 ロームシアター京都「プレイ!シアター」 at HOME2020 京都市交響楽団 0歳からのコンサート「ステイキャッスルはもううんざり!」+康本雅子&ミウラ1号 移動型ライブパフォーマンス「どこ行くダンス?ここいる音楽」 in ロームシアター京都+サウスホールバックステージ映像

2020年8月15日 左京区岡崎のロームシアター京都から配信

ロームシアター京都の夏のイベント、「プレイ!シアター」がコロナの影響によって今年は「at HOME 2020」としてオンラインを使っての開催となった。ロームシアター京都のホール等で公演は行われるが、観客としてロームシアターに入れるのは関係者や抽選に当たった人など最小限に絞られ、一般人はYouTubeなどを使っての配信で楽しむことになる。


午前11時からは、メインホールで京都市交響楽団 0歳からのコンサート「ステイキャッスルはもううんざり!」がYouTubeを使って配信される。
チャンネルは2つあり、ロームシアター京都のYouTubeチャンネル1では指揮者の頭に着けたカメラからの映像が流れ、クラシック専門配信サービスであるカーテンコールによるYouTube配信では、上演される人形劇を中心としたオーソドックスな映像が流れる。

指揮は垣内悠希。ロームシアター京都メインホールはステージが広いため、編成も比較的大きめだが、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラはいずれもワントップである。

コンサートマスターは泉原隆志。フルートの上野博昭、オーボエの髙山郁子、クラリネットの小谷口直子、トランペットのハラルド・ナエスといった首席メンバーが顔を揃えている。例年なら8月は音楽祭のシーズンであり、そちらを優先させるメンバーも多いのだが(京都市交響楽団は珍しく8月にも定期演奏会があり、宗教音楽の演奏が恒例となっている)、音楽祭自体が中止になるケースが大半となってしまっている。


糸あやつり人形劇団みのむしによる人形劇が行われ(脚本・演出はヨーロッパ企画の永野宗典と松宇拓季)、オーケストラ演奏がそれを彩っていくという趣向である。

とある国のお姫様(声はヨーロッパ企画の藤谷理子)が、城での生活に飽き飽きして国を飛び出し、ロームシアター京都の楽屋に籠城する。お付きの竜の騎士メロウ(声はヨーロッパ企画の酒井善史)と教育係のガミット(声はヨーロッパ企画の石田剛太)が音楽の力を借りて姫を城に連れ戻そうとあの手この手を繰り出すという物語である。


ロームシアター京都のYouTubeでは、先に書いた通り、指揮者の垣内悠希の頭に取り付けられたカメラからの映像が流れるのだが、カメラが揺れまくってしまっている上に、垣内の息づかいも盛大に聞こえるため音楽に集中出来ない。といういうことでカーテンコール制作のYouTube映像に切り替える。


チャイコフスキーのバレエ音楽「眠れる森の美女」よりワルツでスタート。有名曲が多く、京響も手慣れた演奏を聴かせる。

各楽部の紹介として、弦楽器がモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」冒頭、木管楽器がチャイコフスキーの「白鳥の湖」より“小さな白鳥の踊り”、金管楽器が大野雄二の「ルパン三世」のテーマ、打楽器がビゼーの「カルメン」より闘牛士のテーマを奏でる。

その後、ルロイ・アンダーソンの「ワルツィング・キャット」、ハーライン作曲(岩本渡編曲)の「星に願いを」、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」より結婚行進曲などが演奏される。グリーグの「ペール・ギュント」第1組曲より“山の魔王の宮殿にて”の演奏の際に、“朝”とクレジットされるというミスがあったが、すぐに直された。“朝”はその次の場面で演奏された。

ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」では、視聴者もチャットに手拍子の絵文字を打ち込んで参加する。

その後は、天岩戸的な展開となり、盆踊りの手拍子が気になったお姫様がドアを開けたところをメロウが引きずり出す。作戦成功をデュカスの「ラ・ペリ」のファンファーレが祝福する。

最後は、久石譲作曲(和田薫編曲)の「さんぽ」(「となりのトトロ」より)が演奏された。


その後、ロームシアター京都のYouTubeチャンネル2で、康本雅子とミウラ1号による移動型ライブパフォーマンス「どこ行くダンス?ここいる音楽」in ロームシアター京都を視聴。ミウラ1号の音楽に乗って、ダンサーの康本雅子がコンテンポラリーダンスを披露しながらロームシアター京都内を移動する。3階共通ロビーに始まり、3階ロビー(サウスホール2階席ロビー)、2階共通ロビーなどロームシアター京都を訪れたことのある人なら見覚えのある景色が映し出されるが、ベランダなど通常は関係者以外は立ち入れない場所にもカメラが入ってダンスが行われ、配信ならではの良さも生んでいた。

ダンス公演の後は、ロームシアターのバックステージの紹介が行われ、サウスホールへののピアノ搬入の模様などが映し出される。ちなみに、例年の「プレイ!シアター」ではメインホールのステージ上や一部の楽屋などは立ち入り可となっていたが、サウスホールの舞台裏に入れる催しは行われておらず、貴重な映像である。

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2020年8月 9日 (日)

中川裕貴 「アウト、セーフ、フレーム」

2020年7月31日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで中川裕貴(なかがわ・ゆうき)の「アウト、セーフ、フレーム」を聴く。
中川裕貴は京都市在住の音楽家。チェロの演奏や作曲を行い、パフォーマンスの演出も手掛ける。今回はコンサートとパフォーマンスの境界にある作品の上演である。

ロームシアター京都での公演に接するのは久しぶり。チケットの払い戻しなどで訪れたことはあるが、公演に触れるのは、今年1月18日の室内オペラ「サイレンス」が以来であり、半年以上の月日が経過している。

新型コロナ対策として、入場時の検温があり、アルコール消毒も各所で行えるようになっている。無料パンフレットは自分で取る。
ロビー開場は混雑を防ぐために30分前から1時間前に前倒しになる。

入場者を絞っての公演。全席自由であるが、中央通路より前の席は取り外し可であるため、椅子のある列の前の列の席は全て取り払われて一列置き、横も二つ分の椅子が外されて、「点在する」ように見える状況となっている。

 

出演は中川裕貴の他に、菊池有里子、横山祥子、出村弘美、穐月萌、武内もも(劇団速度)。サウンドデザイン&ライブカメラ:荒木優光。チェロ自動演奏プログラミング:白石晃一。

中川裕貴がマイクを手に登場し、挨拶を行うが、この時からパフォーマンスは始まっている。

4つの部からなり、第1部は「声/性Ⅰ」、第2部は「私たちとさえいうことができない私についてⅣ」、第3部が「Blowwwise with Automatic Play」、第4部が「声/性Ⅱ featuring かっぽれ」である。

中川はまず「音脈分凝」について解説する。本来は音として同一であるものを聴き手が無意識に複数の音脈として聞き分けることになるという現象である。中川は「音脈分凝」の漢字を説明する際、「分」は「4分33秒の分」というなどのギミックを用いる。

また中川は、擬音についても語る。馬の走るギャロップの音、「パッカパッカ」、小さな「ッ」は文字としてはあるが、実際の音となると繋ぎの音で発せられているとは言えない。「パ」と「カ」の二つの音が擬音として用いられているのだが、それは「パッカパッカ」が馬の足音として広く認識されているから何の音か分かるということでもある。また「パ」と「カ」の音に開きがあり過ぎても近過ぎても二つの音として聞こえない。別の音として認識されることも重要になってくる。

無料パンフレットに中川は、「直接的でないこと」、「抽象」、「距離」などをテーマとして記しており、ソーシャル・ディスタンスの時代の音楽を意識していることが窺える。

 

第1部では、予め録音された電子音などが流れる中、女性が二名ほど、一人ずつ登場して、言葉らしきものをマイクに向かって語る。日本語を逆再生した言葉なので意味は分からないのだが、認識出来る単語が浮かび上がる瞬間がある。
その間、中川はチェロで形にならない旋律のようなものを弾いている。「魔笛」の夜の女王のアリア「復讐の心は炎と燃え」のコロラトゥーラの場面に似た旋律も登場するが、意図したのかどうかはわからない。
やがてピアノとヴァイオリンが登場し、ピアノ三重奏となるが、最初の内はヴァイオリンとチェロはピッチカートの演奏を繰り返す。
その後、ピアノが民族舞踊の音楽のような旋律を弾き始め、ヴァイオリンやチェロもメロディーを弾き始めて広がりが生まれる。

 

第2部は更に聴きやすい音楽となるが、中央通路に巨大スピーカーが現れて、和音を響かせる。ステージ上とスピーカーの音は寄り添っては離れる。

 

第3部は、チェロを打楽器として使う試み。壊れたチェロが機械音を奏で、中川はチェロを叩く奏法でそれに応えていく。壊れたチェロは三拍子を刻み始める。
再び巨大スピーカーが現れ、今度はノイズを放つ。
第3部はちょっと長かったかも知れない。

 

「共鳴」と「分離」とその「境界」について考える。例えば「音楽」と「雑音(ノイズ)」について。現代にはノイズミュージックというジャンルがあるが、では、どこまでが音楽でどこからがノイズなのだろうか。勿論、答えは多様である。虫の音を音楽と聞くのは日本人だけという説があるが(実際はそうでもないという意見もある)、この「境界」も受け手が個々に判断すべきものである。「境界」を設けなくても当然ながら良い。

 

第4部は、「かっぽれ」の音楽である。無料パンフレットには、伊福部昭の随想『声無哀楽論』の中に、1934年の東郷平八郎の国葬の際に、アメリカから追悼音楽・演奏としてなぜか「かっぽれ」が届いたという話が載っていたことが紹介されている。中川はアメリカ人は「かっぽれ」を葬送に相応しい音楽と捉えたのではないかと推理しているようである。

日本人は「かっぽれ」がどこで歌われる曲が知っているため、音楽を聴くと背景が浮かぶが、何の知識もなかった場合は、あるいは別種の音楽と捉えられる可能性はありそうである。また、マーラーの交響曲第1番「巨人」の第3楽章のように悲哀と俗っぽさは一体になる場合もある。

日本的な旋律をピアノとヴァイオリンが奏でる中、中川のチェロは馬のいななきのような音を繰り返す。

こんなことを思い出す。古語の「かなしい」は今でいう「かなしい」とは違い、感情が大きく動いた時に用いる言葉であった。有名な東歌「多摩川に晒すてづくりさらさらになんぞこの児のここだかなしき」の「かなしき」は愛おしいという意味である。
最も感情が動くのはいわゆる「悲しい」時なので意味は固定されたのだが、本来は一体のものという認識があり、語り手と受け手が選ぶものだったのだ。

今日のこの催しも聴き手に委ねた余白の部分があり、そこに広がりと多様性が存在していたように思う。単純に成功とはいえないかも知れないが、豊穣さは確かにある。

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だが、それらの思念を超えて最も心に響いたのは、単純に「生のピアノの音が聴けた」ということである。体がアコースティックなピアノの音を欲していたのだ。やはり私の楽器はピアノなのである。

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2019年12月20日 (金)

美術回廊(46) ジョーン・ジョナス京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」

2019年12月18日 御池通の京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて

御池通にある京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」を観る。
1936年生まれのジョーン・ジョナス。今月12日にロームシアター京都サウスホールでパフォーマンス「Reanimatio」が上演され、14日から京都市立芸術大学@KCUAのでの展覧会が行われている。年をまたいで来年の2月2日までの開催である。入場無料。

展覧会のタイトル通り、京都市立芸術大学@KCUAの5つの展示室を使って行われる展覧会。映像作品と美術の展示がある。
最初の部屋は、12日にロームシアター京都サウスホールで行われた「Reanimation」のものである。ジェイソン・モランの音楽も録音で流れてくる。
ジョナスは、歌舞伎や能を観て日本の表現形式に魅せられたそうだが、「Reanimation」では障子をスクリーンとして用いている。氷河の山脈の映像や、ドローイングの風景などが投影されている。
「Reanimation」の上演映像もモニターで流れている。セリフを書いた冊子が手前の椅子の上に置いており、自由に読むことが出来るようになっている。

2階に上がり、3つの部屋で行われる展示を眺める。最初の部屋に映されているのは、「Lines in the Sand」。パリスと結婚したとされるヘレネーの物語を題材としているが、ヘレネーはトロイアではなくエジプトに行ったとするアイスキュロスの戯曲を元にしており、エジプトに取材した作品である。ただ、ジョナスはエジプトには行かず、ピラミッドやスフィンクスの模倣品が街中にあるラスベガスに向かい、ラスベガスのそばの砂漠で砂にドローイングを行ったりしている。二重の意味で「本来ではない場所」での創造が行われるのである。
モニターには「ピロートーク」という題の、男女による語りの作品が映されていた。こちらは演劇性が高いものである。

2階の2つ目の部屋は、最も演劇性の高い実験映像である。「Organic Honey」と題された映像群で、最初期の作品である「Oranic Honey's Visual Telepathy」を始めとする6つの映像がスクリーンやモニターに流れている。何が映っているのかよくわからないものもある。

2階の3つ目の部屋は、ジョナスが取り組んでいる環境問題に題材を取った映像2つ(「Moving off the Land Ⅱ」と「Whale Video」)が流れている。人類と魚類の共通点が少年や少女によって語られ、「Reanimation」のラストに登場した魚は、やはり生物の原点という意味で扱われていたことがわかる。
ジョナスがスクリーンに映る海の生き物たちと一体になろうとしたり、自分の体に紙を押し当てて体型をなぞったものに吸盤を加えてタコと一体化したりと、生物の歴史を超えた融合を試みる場面が見られる。この作品でもジョナスがハンドベルを鳴らず場面があるが、自然破壊への「警鐘」そのものとして用いているようである。

階段を降りて、1階にある最後の展示室へ。この部屋ではジョナスの教育活動が紹介されている。4つのモニターが互いに背を向ける形で四方に並べられており、大学や美術アカデミーで行われたインプロビゼーション(即興)でのパフォーマンスが映し出されている。
ガラスケースの中には、ジョナスが授業の際に使用した指示書が展示されている。これも日本語訳テキストが壁に2冊ずつ下がっていて、手に取って読むことが出来る。詩や映像作品の組み立てを分析してパフォーマンスに生かすこともやっているようだが、日記を書いて、実際にあったことを表現するよう指示が出されたものもあった。

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観劇感想精選(330) ジョーン・ジョナス 京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」

2019年12月12日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」を観る。

ジョーン・ジョナスは、1936年、ニューヨーク生まれ。現在も同市在住である。1960年代にパフォーマンスとビデオを融合させた新たな表現形式を創始し、現在もデジタルメディアとパフォーマンスとの関係を探求し続けている。

 

舞台中央に障子で出来たスクリーンが降りており、そこに映像が投影される。まず映されるのは寒冷地の街の映像であり、その後、アイスランドを描いた地図が映り(左下に首都のレイキャビクがある)、先程の映像がアイスランドのものであるらしいことがわかる。

舞台左手にグランドピアノがあり、その上にキーボードが乗せられている。演奏を行うのは、1975年、テキサス州生まれのピアニストで作曲家であるジェイソン・モラン。グランドピアノには坂本龍一のコンサートでよく見られるような自動演奏機能が付いており、モランはグランドピアノを自動演奏モードにしてキーボードを弾いたり、片手でキーボード、もう片方の手でピアノの演奏を行ったりする。ミニマルミュージックに始まり、即興演奏風になり、再びミニマルミュージックに戻ってくる。北欧の先住民であるサーミ人の伝統歌謡「ヨイク」も効果的に用いられている。

舞台上手にはテーブルが置かれ、助手が映像を映し出したり、ドローイングが行われたりする。

 

アイスランドの作家、ハルドル・ラクスネスの著作、特に『極北の秘教』に影響を受けたパフォーマンスである。近年、世界的な問題となっている氷河の融解を題材としているが、実はラクスネスは氷河がまだ溶け出していない1960年代に氷河の問題を取り上げているそうである。
ラクスネスの著作を題材にしたパフォーマンスは、まず2010年にジョナスが教鞭を執るマサチューセッツ工科大学(MIT)で制作され、講義形式の作品であったようだが、その後、ジェイソン・モランとのコラボレーションを行うようになり、完成形へと徐々に近づいていったようである。

ハルドル・ラクスネスは、1955年にノーベル文学賞を受賞しているが、彼が書いた戯曲のような小説『Under the Glacier(氷河の下で。邦題:極北の秘教)』が今回の公演の軸となっている。『極北の秘教』からのテキストをジョナスが朗読することで進んでいく。上演時間は約1時間。

ジョナスが、舞台中央やや下手寄りに立てられた板に掛かる黒板風のものにチョークで六角形の図形を並べた花のような絵を描き込んでいく。
「完全な死体となった全裸の女が目覚め、棺から出てアイルランド風のパンを焼き(どんなパンなのかはわからないが)、棺担ぎの男達に振る舞った」という民話風のミステリアスな蘇生(Reanimation)の話が冒頭で語られる。その後、北欧(アイスランドではなくノルウェーらしい)の光景である山々や動物達がスクリーンに映し出される。ジョナスは舞台上手のドローイングスペースに行って、映像の輪郭をなぞるような書き込みを行うが、完成する前に映像は先に進んでしまい、ジョナスが描き込んだ絵は残像のように残されることになる。「喪失」が強く印象づけられる。

ラクスネスによると氷河は世界の中心であり、昔、錬金術師に導かれて3人の男が氷河に覆われた火山の噴火口に降り、そこで世界の中心を見つけたという。

ノルウェーの氷に閉ざされた山の麓を走る列車から取られたと思われる映像が続き、ジョナスは草笛のようなものや、角笛のようなものを鳴らす。また紙をくしゃくしゃに丸める音を出す。それは氷河の溶解の音のようでもある。

「歴史は寓話、それも粗末な。それに絶えられず私は神学を学ぶことにした」だが、その神学もやがては信じられなくなるようである。新たな寓話が求められる。

嵐に耐えるユキホオジロの話も語られる。「完璧」の喩えとしてだ。人間がユキホオジロのように鳴き声を交わす生き物でないことを残念に思い、ならば沈黙を求めようとする。氷河は沈黙している。野の百合もまた。

やがて話は冒頭の全裸の女の死体の話に戻る。それは今や完全な死体である。幽霊の話も語られるが、幽霊は常に不完全な存在であり、「世界の流産」と形容される。これは氷河の融解に繋がるメタファーだと思われる。氷河の融解は進んでおり、時間を巻き戻すことは出来ない。それを食い止める夢を描いたとしても、それはかつての氷河の姿に由来する幽霊に過ぎないのではないか。

ただ、時間は解決のための有効な手段として今も考えられており、最後の結論として再度登場する。

「蘇生」を題材にした映像。池の中に白い影が映り込んでいる。やがてその白い影は白い服を着た女性だということがわかり、飛び込み台の上にいる女性はやがて池に飛び込み、泳ぎ出す。その後、映像はアザラシなど、氷河の海で暮らす生物達の映像に突然切り替わる。

タンポポとミツバチの話、ミツバチがタンポポの蜜を吸い、ミツバチがタンポポの花粉を体につけて他のタンポポに移り、受粉が行われることを「超交信」と呼ぶ。これが新たな宇宙的発展の希望と考えられているようである。

世界は悪魔が支配しているという話。ものが燃やされている映像。あるいは焚書を表しているのかも知れない。悪魔はいつまで経っても悪魔であり続けると考えたとしても、神を冒涜したことにはならないだろうという内容が読み上げられる。

山羊などアイスランドの家畜達が映った映像が流れた後で、ジョナスはカウベルなどを鳴らす。スクリーンにはすでに家畜はおらず、雪の畑を延々と歩き出す人の影が映し出されている。やがて右の方に北極海が見え、影は砂浜にたどり着く。

ジョナスは、最初は黒板のようなものが掛けられていた板に半紙を垂らし、墨で魚の絵を描く。

『極北の秘教』からの最後の引用が語られる。「時について」だ。「時の超越性は誰も知ることである。時はエネルギーでも物質でもないが、始まりと終わりを担っている。世界の創成のだ」
スクリーンには魚達の姿が映されている。あるいは他に意味があるのかも知れないが、「始まり」と「魚」は相性が良い。生物の始まりは魚だからである。
ジョーン・ジョナスは、教訓的な表現は行わない人だそうで、あるいは細分化して「意味」として受け取るのは間違っているのかも知れないが、「根源に戻ること」は何事においても重要なのかも知れない。我々はそもそも何を求めてどこからやって来たのかということだ。
キリスト教では、魚は特別な存在であり、題材からいってそちらの可能性もあるのだが、キリスト教徒の少ない日本においてはそうした解釈は真偽に限らず有効性を持たない。先の解釈の方が良いだろう。

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