コンサートの記(927) ジャン=エフラム・バヴゼ ピアノ・リサイタル「モーリス・ラヴェル生誕150年記念 ピアノ独奏曲全曲演奏会」@京都
2025年10月9日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて
午後6時から、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ(通称:ムラタホール。ムラタは長岡京市の村田製作所ではなく京都市のムラテックこと村田機械のことである)で、ジャン=エフラム・バヴゼ ピアノ・リサイタル モーリス・ラヴェル生誕150年記念 ピアノ独奏曲全曲演奏会を聴く。文字通り、ラヴェルが作曲したピアノ独奏曲を一晩で演奏してしまおうという試み。上演時間は、アンコールと2度の休憩を含んで約3時間である。
3時間というのはピアノ・リサイタルとしては長いので、ラヴェルのファンしか集まらない。だが、まずまずの入りである。
ラヴェルのピアノ独奏曲全曲演奏会はもう一つ京都コンサートホールで行われていて、京都在住のロシア人ピアニストであるイリーナ・メジューエワが2回に分けてムラタホールで行う。2回に分けた方が聴きやすいので、メジューエワの方が人気が高いかも知れないが、バヴゼは本場フランス人ピアニストということでこちらを選ぶ人も多いはずである。おそらく両方に行くラヴェル好きも少なくはないはずである。
ジャン=エフラム・バヴゼは、パリ音楽院でピエール・サンカンに師事。1995年にサー・ゲオルグ・ショルティ指揮パリ管弦楽団の演奏会でデビュー。「ショルティが見出した最後の逸材」とも呼ばれた。ただ個人的には母国であるフランスのピアノ音楽に目覚めるのは遅く、三十代半ばになってからだそうだ。フランス人ピアニストだからフランス音楽を愛さなければならないなどいう法も規則もないので、それはそれで良いだろう。日本人だけれど、洋楽の方が好きという人も多いのだから。
ただ、バヴゼはラヴェルの音楽だけは若い頃から弾いており、共感を抱いてきたそうだ。
モーリス・ラヴェルは、ドビュッシーと同じ印象派に分類される作曲家だが、曲調はドビュッシーとは大きく異なり、響き重視のドビュッシーに対して、ラヴェルはメロディーラインも明確であり、初心者にはドビュッシーよりも取っつきやすい作風である。
曲目は、「グロテスクなセレナード」、「古風なメヌエット」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「水の戯れ」、ソナチネ、「鏡」、「ハイドンの名によるメヌエット」、「高雅で感傷的なワルツ」、「夜のガスパール」、「ボロディン風に」、「シャブリエ風に」、前奏曲(プレリュード)、「クープランの墓」
以前は、演奏家といえば、ドイツ人かフランス人。加えるにロシア人とイタリア人。イギリス人は古楽という感じだったのだが、ドイツとフランスは音楽大国からすでに脱落。めぼしい指揮者は一人ずつしかいないという状態で、器楽奏者も数が限られる。祖国の音楽を演奏や録音するアーティストが多いため、その国の音楽の知名度や人気が上がったが、ドイツもフランスも現状では苦しい。指揮者大国となったフィンランドは、出身指揮者が必ずシベリウスを演奏するため、「シベリウス交響曲全集」リリースラッシュが何年も続いている。アメリカ出身の指揮者も増えたので、アイヴスやレナード・バーンスタイン作品を耳にする機会が増えた。日本出身の演奏家も健闘しており、武満作品などは着実に演奏回数を増やしている。
そんな下り坂ともいえるフランスピアノ界であるが、フランス人ピアニストには他の国にはない特徴がいくつかある。どちらかといえば即物的な解釈、強く硬めのタッチ、ダイナミックレンジの広さなどで、いずれもエスプリ・ゴーロワに通じるものがある。
エスプリというと、典雅なエスプリ・クルトワがイメージされるが、もう一つエスプリ・ゴーロワがあり、野卑で力強く、豪放磊落というものである。フランス人トランペッターは力強く吹くので優れた奏者が多いと言われるのもエスプリ・ゴーロワによるものだろう。作曲に関してはエスプリ・クルトワ重視だが、演奏になるとエスプリ・ゴーロワが出てくるのが面白い。
ということで我々が思い浮かべる理想のフランス音楽の演奏はフランス人演奏家によるものでない場合が多い。フランス音楽演奏のスペシャリストであったエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団などいずれもフランス語圏ではあるがフランスの指揮者とオーケストラのコンビではない。彼らはエスプリ・ゴーロワの要素を巧みに薄めているため(あるいはフランス人ではないのでエスプリ・ゴーロワを身につけなくても良いため)、一般的にフランス的と思われる演奏が可能だったのだと思われる。サティのスペシャリストといわれたアルド・チッコリーニは甘美なカンタービレが特徴だが、チッコリーニはイタリアからフランスに帰化したピアニストで、カンタービレはイタリアの血が生んだものだ。純粋なフランス人ピアニストによるサティ演奏は案外素っ気ない。
と、長々書いたが、バヴゼのピアノもフランスの正統派で、これまでに書いた要素を全て含むが、日本人好みのラヴェル演奏家かというと人によるとしか書きようがない。
日本でも人気の「亡き王女のためのパヴァーヌ」も日本人ピアニストによるものよりも突き放した解釈で構造重視という印象を受ける。
「水の戯れ」は圧倒的なピアニズムが発揮され、水が鍵盤から溢れる様が見えるような演奏。5月に聴いたアルゲリッチの演奏を連想させる。
「鏡」はテクニック勝負。基本的にダンパーペダルは踏んだままで、音を濁らせたくない時だけ踏み換える。
オーケストラ曲としても親しまれている第4曲の“道化師の朝の歌”は白熱した演奏で、曲が終わった後に拍手が起こりそうになったが、バヴゼは右手の人差し指を立てて、「まだ1曲あるよ」と示し、笑いを誘っていた。第2部第3部ともに当初の曲目順から変更があるが、第2部は確かに「夜のガスパール」で終わった方がいいだろう。
「夜のガスパール」はオカルトな内容で、エドガー・アラン・ポーやモーパッサンなどが好きな人にお薦めの曲である。また筒井康隆がこの曲にインスパイアされた『朝のガスパール』を書いている。
超絶技巧が必要とされる曲だが、バヴゼは余裕を持って弾きこなしているように見える。
「ボロディン風に」はパストラル的、「シャブリエ風に」はワルツであるが、個人的には「亡き王女のためのパヴァーヌ」にも似たパストラルの方がシャブリエ的であるような気がする。
前奏曲は、初見で弾くための審査用に作曲された作品。技巧的には平易で、私も何度か弾いたことがあるが(初見では無理だった)、私が弾くときに「繊細に滑らかに詩的に」と心がけたものとは明らかに異なる、一音一音を大きな音で弾く「小さいが巨大な曲」として再現したのが面白かった。プロと比べるのも無粋だが、同じ音符を見て弾いているのにここまで違うとは。
ラストは「クープランの墓」。これもオーケストラ版で有名である。バヴゼのピアノからは、オーケストラ版からは聞こえない一種の切なさのようなものを感じた。フランス映画のラストによくあるあの切なさに似たもの。
音の透明度は高く、巨大な「クープランの墓」であった。
アンコール演奏は、「ラ・ヴァルス」ピアノ独奏版。低音から始まり、典雅なワルツが聞こえ始める。そして舞踏会は盛り上がるのだが……。
ラヴェルの曲は、「最後にとんでもないことが起こる」ものが多いが、「ラ・ヴァルス」もその1曲である。貴族階級の終わりを描いたのかも知れないが、こういうラストにした意図は不明である。
全てのプログラムが終わり、複数名がスタンディグオベーションを行うなど客席は沸き、バヴゼも満足そうな笑みを浮かべていた。













































































最近のコメント