カテゴリー「美術回廊」の69件の記事

2021年10月 9日 (土)

美術回廊(69) 京都国立近代美術館 「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ー外から見る/外へ見せるー」&コレクション・ギャラリー 浅井忠「御宿海岸」ほか

2021年10月2日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡﨑の京都国立近代美術館で、「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ―外から見る/外へ見せるー」を観る。明治時代に来日したお雇い外国人の画家や、彼らと同じ時代を生きた明治時代の日本人画家達の作品を集めた展覧会。

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明治時代に日本にやって来て、洋画を教えたお雇い外国人、ワーグマン、ウィアー、ベレスフォードらが日本人が見落としていた日本の優れた風景を描き、それを見た日本人の画家達が日本の美質を再発見することになる。

1867年に始まり、1912年に終わった明治という年号。45年(43年間)という、昭和(64年。62年間)に次いで長い年号であり、前半と後半では大きく異なっている。

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1860年代は、フランスで後に印象派と呼ばれる絵画の作風が生まれた時代である。後に活躍するほとんどの画家が多かれ少なかれ印象派の影響を受けることになるのだが、お雇い外国人の画家達も、印象派のことは念頭に置いていたようで、彼らが描いた明治の日本は、光の降り注ぎ方が鮮やかである。

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また、描写の緻密さも特筆事項である。お雇い外国人として日本にやって来た外国人画家達は、日本人に洋画の手法を教え、自らのインスピレーションを深めると同時に、祖国へ未知の国「日本」を教えるという役目を担っていた。そのため、光の加減こそ印象派風であるが、描写スタイルそのものは印象派とは異なっている。写真を思わせるかのようなリアルなタッチの作品が多い。

最も展示作品が多い日本人画家は五姓田義松(ごせだ・よしまつ)である。ワーグマンやフォンタネージに師事した義松は、明治天皇御付画家の名誉を得ており、北陸地方や東海道への御幸に同行して訪れた場所の風景画をいくつも描いている。これらのうち、長野・善光寺、越前敦賀港、伊豆・三嶋大社の絵などを観ることが出来る。ワーグマンに師事していた時代には高橋由一と同門だったという五姓田義松。洋画と日本画の融合が試みられた時代であり、高橋に似た作風であるのもうなずける。

明治時代に風景画の第一人者とされた吉田博の作品も当然多い。光の移り変わりを題材にした版画なども多く手掛けた吉田博。写実的で動画的でもあるという、西洋と日本の融合への試みが、今回展示された作品のいくつかから伝わってくる。

古くから「子守」の文化があった日本だが、その様子は西洋人の目には面白く映ったようで、お雇い外国人画家達が子守の様子を描き、それが日本人画家による子守の再発見に繋がる。浮世絵が盛んであった江戸時代には子守を題材にした絵はほとんどなかったが、明治に入ると子守は重要な題材となる。

最後は日本の風景の至る所に配された花の絵で終わる。江戸時代から、日本の家々では園芸が盛んになり、庶民も家の片隅に花を植えていた。日本人は余り意識していないが、こうした風景は世界的には珍しいようで、これもまた海外からの視点を通して再発見された日本の美質といえるようだ。


「発見された日本の風景」は個人のコレクションによる展示会であり、4階のコレクション・ギャラリーでは、それを補う美術作品が展示されている。

まずは、ブーダン、シスレー、シニャック、マルケという、日本でいう幕末から明治時代に掛けて活躍した画家の作品が並び、お雇い外国人画家達への影響や同時代性を窺うことが出来る。

その後は、「発見された日本の風景」には登場しなかった日本人画家の作品が展示されている。いずれも京都国立近代美術館蔵のものだが、新たに購入した作品などもある。

浅井忠の「御宿海岸」は、千葉県の御宿(保養地として知られ、芥川龍之介など多くの文人が滞在している。全国的には童謡「月の沙漠」の舞台として有名である)を描いたものだが、この作品は長い間行方不明になっていたものだそうで、発見後初の展示となるようである。

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2021年8月28日 (土)

美術回廊(68) 京都文化博物館「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」

2021年8月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」を観る。
京都府立の施設である京都文化博物館も緊急事態宣言発出により、明日から休業に入るのだが、「小早川秋聲」展だけは引き続き展示が行われる予定である。

1885年生まれの小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)。鳥取県日野郡日野町の真宗大谷派の寺院・光徳寺の住職の子として生まれた秋聲(本名:盈麿。みつまろ)。母親は摂津三田(さんだ)元藩主・九鬼隆義の養妹であり、幼時を母の実家である神戸で過ごした。7歳から仏典を教わった秋聲は、父親が出世により本山である京都・東本願寺の事務局長となったため、共に京都に移住。9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。いったんは鳥取に戻った秋聲だったが、画家を志して二十歳の時に再び上洛。以降、88歳で他界するまで京都を本拠地として作品制作に取り組んだ。とはいえ、旅好きであった秋聲は、中国を皮切りにヨーロッパやアメリカまで出掛けて作品を残しており、旅を愛し、旅に生きた画家でもあった。

幸野楳嶺の門下である谷口香嶠に師事した秋聲は、谷口が京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の前身)の教師になったため、同校に入学しているが、南画や文人画など中国を本場とする絵画に憧れていたこともあって、すぐに退学して中国に渡り、水墨画を学んだ。
秋聲の絵は、中国絵画からの影響が濃厚である。そうした画風を持ちつつ、欧米の風物を描いたことが強い個性へと繋がっているように思える。

満州事変以降、中国や東南アジアに渡って戦争画を作成した小早川だが、1974年に没すると急速に忘れ去られてしまう。彼の名前が再び脚光を浴びるのは、戦争画の一つである「國之楯」が戦争画展で注目を浴びたここ数年のことであるという。ということで、小早川秋聲の回顧展は今回が初めてとなる。「國之楯」で注目されたが、他の作品が全く知られていないという事実が、今回の展覧会開催の端緒となったようだ。

戦争画と関連のある絵画と見ることも出来る「山中鹿介三日月を排する之図」で展示はスタートする。題材は日本であるが、画風は典型的な南画の系列に入る。歴史的人物を描いた絵としては他に「楠公父子」という作品があり、楠木正成と楠木正行が描かれている。忠臣を描くことが好きだったのかどうかは分からない。

京都市立絵画専門学校時代の習作であるという「するめといわし」は、日本画のタッチで西洋的な描写も視野に入れるということで、高橋由一の作風によく似ている。

中央の火の明かりが周囲の人々を浮かび上がらせる「露営之図」の技法はその後も何度も用いられることになる。


海外を題材にした絵としては、満州吉林、蒙古ゴビ砂漠、台湾(当時日本領)、香港(当時英国領)、インド(当時英国領)のタージマハール、エジプト(当時英国領)、イタリア・ナポリ、ローマ、南仏ニース、グリーンランド、パリ、アメリカ・グランドキャニンなどを描いた作品が展示されている。いずれも西洋的な技術や視点とは異なるスタイルが取られているのが興味深い。
小早川は、ヨーロッパの夕景を好んだそうで、光と影の配分に力を入れているという点で、日本の伝統的な絵画の技術も受け継いでいることが分かる。
一見、暖かでユーモラスなタッチで描かれている「巴里所見」も描かれているのは大道芸人達ということで下層階級の人々だそうである。

一方で、「國之楯」と共に展覧会のポスターにも採用されている「長崎へ航(ゆ)く」 は、長崎の出島へ向かうオランダ商船をオランダ人が見送るという構図を持った作品で、日本人的でない発想力を持った人だったことも分かる。

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出征家族に送ることを想定した戦争画では勇ましい日本男児の姿が描かれているが、戦場で眠る日本兵士を描いた「虫の音」などはユーモラスであり、小早川の個性が窺われる。

戦死した日本軍兵士を描いた「國之楯」は、構図も内容も衝撃的である。戦死した日本人を描くのは好ましいとはされなかったようで、依頼した陸軍省から一度は受け取りを拒否されたという。

敗戦後、戦犯とされるのは覚悟の上だったという小早川だが、従軍中に体調を崩しており、京都で依頼される仏画などを描いて晩年を過ごす。真宗大谷派の寺の出身ということで、蓮如上人を題材としていたり、無量寿経(大経)に出てくる「天下和順(てんげわじゅん)」をイメージした絵画を制作している。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起(天下は治まり、日や月が煌々と輝く 風雨は相応しい時に立ち、災害や疫病も起こることがない)」

 

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2021年8月13日 (金)

美術回廊(67) 京都国立近代美術館 「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)&京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年 第2回コレクション展」

2021年8月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)と京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年度 第2回コレクション展」を観る。

「モダンクラフトクロニクル」は、工芸品を中心とした展覧会。工芸品はどちらかというとアーティスト(芸術家)よりもアルチザン(職人)寄りであるため、芸術品と評価されない時代が長かった。特に日本では職人芸と芸術が引き離された形で発展したため、「工芸家は工芸家」と見なされることが今でも少なくない。

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1階に海外の作家による作品が並べられているが、これはこれまでに京都国立近代美術館で行われた工芸展に出展されたものが中心となっているようだ。

工芸作品には疎いため、知っている作家の名前を見つけることがほとんど出来ないが、理解するのではなく、「そういうもの」を受け入れる形で楽しむべき作品が多いことは分かる。理屈を言い出した途端に面白くなくなる作品群である。

ただ、想像と知識でもって理解すべき作品も勿論あって、里中英人の「シリーズ:公害アレルギー」は、水道の蛇口が徐々に破損されていく様を描いており、象徴的である。

益田芳徳の「1980年5月」という作品は、1980年5月のとある一日の新聞の一面が球状のケースの中に押し込まれているが、紙面ははっきりとは見えない。1980年5月を後で調べると、光州事件、日本のモスクワオリンピック不参加決定といった出来事が起こっていたことが分かる。また5月にはWHOが天然痘の根絶を宣言していた。
ただ、実際に一面を飾っていたのは、大平正芳内閣総理大臣とジミー・カーター米大統領の共同声明だったことが分かる。その直後、内閣不信任案が自民党内の反大平派が黙認したことによって通過し、衆議院は解散。翌6月12日に大平は過労が元で急死している。


第4章の「古典の発見と伝統の創出」には、河井寛次郎、北大路魯山人などのビッグネームが登場する。近藤正臣の親戚である近藤悠三の作品も展示されている。近藤悠三は人間国宝に指定されたが、近藤正臣の話によると、その途端に作品の値が跳ね上がったはいいが、高すぎて売れなくなってしまったそうで、「名誉は手にしたがお金は」という状態だったそうである。


4階展示室に場を移した第6章「図案の近代化 浅井忠と神坂雪佳を中心に」。現在の千葉県佐倉市出身(生まれは江戸の佐倉藩邸内)で、京都高等工芸学校(国立大学法人京都工芸繊維大学の前身)の教授としての活躍や、関西美術院の創設と後進の育成に尽力したことで知られる浅井忠。私が生まれ育った千葉県では郷土の偉人として教科書に載っていたり、小学校の廊下に肖像画が掛けられていたりする。京都での活躍でも知られるのだが、実際に京都で過ごしたのは死ぬまでの6年間ほどだそうで、決して長くはない。
フランスからの帰国後の京都時代に浅井は、当時のフランスで流行していたアールヌーヴォーを取り入れた陶芸作品の図案をいくつも作成。日仏工芸の融合に貢献したようである。


「令和3年度 第2回コレクション展」の展示では、冒頭に置かれた「西洋近代美術作品選」のアーシル・ゴーキーという画家の作品が面白い。

1904年、オスマントルコ統治下のアルメニアで生まれたアーシル・ゴーキーは、11歳の時にアルメニア人大虐殺によって母親を殺害され、アメリカに渡っていた父を頼って渡米。ボストンの美術学校に学び、抽象派やシュルレアリスムの影響を受けた独自の手法で高く評価されたが、少年期のトラウマに加え、度重なる怪我や病気を苦にして44歳の時に自ら命を絶っている。
「令和3年度 第2回コレクション展」のポスターにも選ばれた「バースデイ・グリーティング」は、いたずら書きのような自在感の中に、赤と緑の対抗色などを含めた計算された配置が存在感を放っている。

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2021年8月 9日 (月)

美術回廊(66) 京都市京セラ美術館 「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」

2021年7月30日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館・東山キューブにて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館の新館、東山キューブで、「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」を観る。京都市美術館が改修工事を経て京都市京セラ美術館となる際に、本館の東側に新設された東山キューブ。入るのは初めてである。

藤子・F・不二雄の代表作「ドラえもん」にインスパイアされた若手アーチスト達の作品を並べた「THE ドラえもん展」。東京では何度か開催されているようだが、京都で行われるのは初めてである。

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現在、東山キューブのみならず京都市京セラ美術館の各所にほぼ等身大(129.3cm)のドラえもん像がいくつも設置されており、自由に写真を撮ることが出来るが、「THE ドラえもん展」もいくつかの作品(映像作品が主になる)を除いて写真撮影可である。

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「ドラえもん」は1969年に連載開始、SF(少し不思議な)マンガとして構想されたことは有名である。アニメ第1シリーズは私が生まれる前年の1973年に始まっているが、半年後に制作会社が倒産して打ち切り。今に至るまで続いている第2シリーズは1979年に始まっているが、この第2シリーズは私は第1回放送から見ており(予告編も見た記憶がある)、アニメ「ドラえもん」と共に成長した世代に当たる。マンガも各誌に連載されており、単行本も買って読んでいた。


様々な作品が展示されているが、最初に飾られている村上隆の2つの作品がオリジナルのドラえもんに最も近い。タイトルは「あんなこといいな 出来たらいいな」で微妙に間違っている(「ドラえもんのうた」の歌詞は「こんなこといいな 出来たらいいな あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど」である。敢えて変えたのかも知れないが)。この作品は「ドラえもん」の名場面のパラフレーズで、藤子・F・不二雄が登場している場面や、「ドラえもん」ファンにはお馴染みのジャイアンのリサイタルシーンなども取り入れられている。

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蜷川幸雄の娘で、写真家・映画監督である蜷川実花の作品は、ドラえもんを理想の恋人に見立てて、女の子とデートする姿が捉えられてる。


後半は、映画版「ドラえもん」(大長編「ドラえもん」)に取材した作品が並ぶ。


1996年生まれの若手、れなれなの作品は、「のび太の新魔界大冒険」のクライマックス近くの場面を「黒板アート」として描いたものだが、黒と白墨のコントラストが絶妙であり、芸術性が高い。


ラストを飾るのは、坂本友由の「僕らはいつごろ大人になるんだろう」。タイトルは、武田鉄矢が歌った大長編「ドラえもん のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)」の主題歌「少年期」の歌詞に由来している。

「のび太の宇宙小戦争」のしずかちゃんを描いたものだが、顔はローティーンではなくハイティーンの少女風に変わり、スカートをたくし上げて絞るという構図はセクシーにしてエロティックである。
アニメ「ドラえもん」を子供の頃から見ている世代の男にとっては、しずかちゃんは初めて知る「可愛い」「理想的な」女の子であり、いわば擬似的な「初恋の女の子」になりうる存在である。そんな「女の子」が「女」に変わる瞬間、男側から見れば「女の子」でなく「女」と感じる瞬間というものを、この作品は上手く捉えているように思われる。

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2021年7月30日 (金)

美術回廊(65) 京都市京セラ美術館 「フランソワ・ポンポン展」

2021年7月23日 京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、フランソワ・ポンポン展を観る。

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京都市美術館をリニューアルした京都市京セラ美術館。展示会場が増え、現在、6つの展覧会が同時進行で行われている。

「古代エジプト展」も「上松松園」展も、北回廊1階の展示室で行われているが、フランソワ・ポンポン展は、北回廊の2階が会場である。展覧会を見終えてから、東山キューブのバルコニーに出て、ウエスティン都ホテルなどを眺めた。

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フランソワ・ポンポン(1855-1933)は、フランスに生まれ、活躍した彫刻家である。遅咲きであり、全仏にその名が知れ渡ったのは67歳の時。それまでは彫刻家の下彫り職人をしながら自作を発表していたが、人物彫刻では十分な評価を得られず、51歳で動物彫刻に転向。巨大なシロクマ像を発表して話題になり、「売れている」と見なされるまでにはそれからまだ時間が掛かるが、巨大シロクマ像発表の前年である1922年に、東久邇宮稔彦(後に史上初にして唯一の宮家出身首相となる)がポンポンの作品を買い上げているそうである。

巨大シロクマ像は移動させることが大変であるため、展示はされていないが、小型のシロクマ像はいくつか展示されており、そのうちの一つは写真撮影可となっている。また展示場内売店にポンポンの巨大シロクマ像の模型が展示されており、記念撮影をすることが出来る。

なお、紙に印刷された作品リストは存在せず、QRコードを読み取って、スマホで確認することになる。コロナ対策なのか、今後は作品リストはこうしたタイプのものが主流になるのか、現時点では判断保留である。

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フランス中央部、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれたフランソワ・ポンポン。父親は高級木工家具職人であり、ポンポンも幼時から父親の仕事を手伝っている。将来彫刻家になる素養はこの父親と成育環境から受け継いだものだと思われる。
15歳の時に地元の司祭に才能を認められたポンポンは奨学金を得て、ブルゴーニュ地方のより大きな都市であるディジヨンに移り、墓石を掘る大理石職人として働きながら美術学校の夜間部で本格的に彫刻を学び始める。ディジヨンの彫刻コンクールで1等賞を得たポンポンは兵役に就くためにパリに出て、短期間で軍務を終えた後は、パリのモンパルナスに住み、やはり墓石の大理石職人をしながらプティット・エコール(ポンポンが入学した年に国立装飾美術学校に改名)の夜間部で学ぶ。ここでは動物彫刻家のピエール=ルイ・ルイヤールが教えており、ポンポンにパリの植物園内の動物園で動物の観察をするようポンポンに勧めたそうだが、この時はポンポンは人物の彫刻家を目指していたため、助言を聞き入れなかったようである。

1890年から5年ほど、ポンポンはオーギュスト・ロダンの工房で下彫り職人を務め、最終的には工房長にまでなる。当時、彫刻家として並ぶ者のいないほどの名声を得ていたロダンの「動き」に着目する技法にポンポンは影響を受ける。ロダンの下を離れてからは、ルネ・ド・ポール・ド・サン=マルソーという彫刻家の下彫り職人として働き、夏場はノルマンディー地方のキュイ=サン==フィアクルという小さな村で過ごしたサン=マルソーに従って、ポンポンもキュイ=サン=フィアクルに家を買い、サン=マルソーの仕事を手伝ったのだが、キュイ=サン=フィアクルの農場で飼われている動物達の姿がポンポンのインスピレーションを刺激することになる。

当時のフランスの彫刻界では、人物の彫刻像が主流。それも文学作品に出てくる人物を彫るのが流行りであった。ポンポンも『レ・ミゼラブル』のコゼット像などを彫っており、好評で本人も自信があったそうだが、国による買い上げは認められず、これを機にポンポンは本格的に動物彫刻の道へと進んでいく。動物彫刻は人物彫刻よりも格下と見られていた時代だったが、20世紀初頭には動物彫刻の再評価が始まっており、ポンポンもこの潮流に乗ることが出来た。

ポンポンの後期の動物彫刻は、磨き抜かれたフォルムが特徴で、これは墓石の大理石職人をしていた影響が強いと思われる。表面は陶器か漆器のようであり、現実なのか非現実なのか、リアルなのか象徴なのか、その絶妙の間でポンポンが作成した彫刻は生命力を見せつける。

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有名なシロクマシリーズなども、足が太く、足の運び方も現実とは異なっているのだが、「今まさに移動している最中のような」躍動感を上手く面に出すことに成功している。「ノッシノッシ」という擬音が聞こえてくるかのようだ。現実ではあり得ないが、よりリアル(切実)である。目で見たものそれ自体よりも目で感じたこととして彫刻作品を作り上げている。またこの時代にフランスではアールデコが流行っており、ポンポンもアールデコに基づくデザイン性を取り入れた動物彫刻を作成している。
「休んでいる冠鶴」などはその典型で、細部をデザイン化することで、「そのもの」からは遠くなるが、フォルムと生命感を抽出した作品となっており、「そのもの」が持つ力はより先鋭化されるというアンビバレントが技巧が用いられている。

ポンポンは、パリ旧王立植物園付属動物園に足繁く通っていたようで、ついには動物園の動物達がポンポンになついてしまったという。そうした動物への愛情が、動物も持つであろう心情やエネルギーをいわば理想化しつつ誠実に読み込み、彫刻作品として昇華することを可能にさせたのだと思われる。

ポンポンが理想の一つとしたのだが、古代エジプトの動物彫刻だそうで、シンプル且つ生命力豊かという古代エジプト芸術に感銘を受けたようだ。

ポンポンが売れる直前の1921年に、苦楽をともにした妻のベルトが死去。ポンポンは彼女の墓にコンドルの像を飾った。同じ形のコンドル像が展示されているが、ポンポンは古代エジプトでは、コンドルに似たハゲワシが冥界の守護神となっていることを知っており、妻のあの世での安寧を期して、コンドル像を飾ったことが推測される。1933年、78歳の誕生日を3日後に控えて他界したポンポンは、コンドル像のある墓所で妻と共に眠っている。


ポンポンの作品は、ソーリューのフランソワ・ポンポン美術館、ディジヨン美術館、パリのオルセー美術館などの他に群馬県立館林美術館が多く所蔵しており、館林美術館所蔵のものが数多く展示されている。また、今年の11月からは、館林美術館でフランソワ・ポンポン展が開催される予定である。

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2021年7月28日 (水)

美術回廊(64) 京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」

2021年7月20日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」を観る。なお、ポスターなどに用いられている重要文化財「序の舞」は、8月17日から始まる後期のみでの展示となる。

近世京都画壇の重要人物の一人である上村松園(1875-1949)。京都の街中である四条御幸町西入ル奈良物町(現在はビックカメラのある辺り)に生まれた彼女は、幼い頃から絵が好きで、京都市立開智小学校(跡地に現在は京都市学校歴史博物館が建つ)卒業後、京都府画学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)で鈴木松年(しょうねん)に円山派の絵画を学び、「松」の字を譲り受けて松園と名乗る。松年が画学校を退職すると松園も退学して、松年の私塾で学ぶ。元々、美人画を描きたいと考えていた松園は、幸野楳嶺に師を変え、楳嶺が2年後に死去すると、楳嶺の一番弟子で現在も京都画壇の最重要人物と目されている竹内栖鳳に師事するようになる。その後は主に市井の女性を題材とした絵で注目され、死の前年には女性として初めて文化勲章を受章。死後には従四位に叙せられている。門徒でもあり、墓は大谷祖廟の東大谷墓地(展示されていた年表では大谷本廟となっていたが誤り)にある。息子は日本画家の上村松篁(しょうこう)、孫も日本画家の上村淳之(あつし。京都四條南座の緞帳も手掛けている)。

初期は表面的な美人画を描いていた松園だが、次第に内面の描写へと傾いていく。

初期作品の一つである「清少納言」は、清少納言が中宮定子に「香炉峰の雪はどう見るの?」と問われて御簾を掲げる場面が描かれているのが、全く同じ題材の「清少納言」を松園を大正時代に入った二十数年後に描き上げている。画風は大きく異なる。初期に書かれた「清少納言」は、床など余白とされる部分が大きく、清少納言の表情も何を考えているのかよく分からない。一方、大正時代に描かれた「清少納言」は清少納言の姿が大きく描かれ、迫力からして異なる。また清少納言の顔は、この場面には相応しくないほどの憂いに満ちている。大正期の「清少納言」の次に展示されているのは、「焔」という作品であるが、これは、紫式部の「源氏物語」に登場する六条御息所をモデルにした作品で、やはり強い憂愁の表情を浮かべている。その横に並ぶのは「紫式部之図」で、紫式部は和やかな面持ちである。歴史的に清少納言は皇后の座争いに負けた中宮定子側、紫式部は勝った中宮彰子側である。これはそう見えるようにキュレーターが並べているので、実際に松園が清少納言の憂いに何を込めたのかは分からない。御簾を掲げる場面は、清少納言が己の教養の高さを示すために「枕草子」に自慢気に書いたもので、その場で憂鬱な顔をしていたとは考えにくい。大正時代の「清少納言」が描かれた時期は、松園がスランプに陥っていた時代のようだが、己の姿を清少納言に重ねたのであろうか。

初期の松園の絵は、伝統的な日本画に多い、S字カーブの構図を用いているのも特徴。「花のにぎわい」など、同じモチーフで描かれている一連の作品は、崩れそうなバランスを敢えて取ることで、一瞬の華やぎを上手くすくい取っている。後年の作品ではS字カーブはあまり見られなくなり、代わって垂直の構図が多く用いられるようになる。

「表面的で内面描写に乏しい」というのが、初期の松園が受けた評価であった。これを受けて松園も心情が一目見て分かるような描写を心がけるようになり、先に挙げた「清少納言」や「焔」はそうした時代を代表するものである。だが松園はその後、直接的な描写ではなく、主人公以外の要素を描くことで、心象が間接的に伝わる技法へと転換していく。

昨年、京都国立近代美術館で行われた「京(みやこ)のくらし」展でも観た「虹を見る」(京都国立近代美術館所蔵)では母親と赤子、そしてもう一人の若い女性がタイトル通り虹を見上げているところを描いた絵であるが、目に映る虹は三者三様であることが察せられ、観る者の想像力をくすぐる。
また亡くなった母に捧げたとされる「母子」(重要文化財指定。前期のみの展示)では、赤子を抱いている母親の横顔が描かれているのだが、赤子は向こうを向いているので表情は見えない。だが母親の方は清々しい表情を浮かべているため、赤子も良い表情をしていることが察せられる。このように松園は直接的な描写でなく観る者の想像力に委ねる画風を確立する。「楚蓮香」など、蝶々が華やかさを演出している絵が何枚かあるが、やがてそれが憂いの蛍へと変わっていく。描かれている女性は特に憂鬱な感じではないのだが、蛍を追っていることで、自然に儚さが出ている。後期になると再び余白の部分も大きくなる。

松園の絶筆とされる「初夏の夕」(京都市美術館所蔵)も蛍を目で追う女性を描いたものだ。だがこの作品では女性は柔らかな微笑みを浮かべており、蛍が憂鬱の象徴から懐古の念を起こさせるものに変化したことが受け取れる。憂いさえも微笑んで受け入れる松園円熟の境地である。

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2021年3月20日 (土)

美術回廊(63) 国立国際美術館 「液晶絵画」

2008年6月13日 大阪・中之島の国立国際美術館にて

中之島にある国立国際美術館まで行って、今何をやっているのか確認する。映像を用いた「液晶絵画」なる展覧会をやっており、出品者の中にブライアン・イーノの名前を発見。国立国際美術館は、金曜日は特別に午後7時まで開館しているとのことなので入ってみる。

イーノの作品は、映像よりもブース内に流れているイーノの作曲した音楽の方が面白かった。

サム・テイラー=ウッドという作家の作品は、ウサギの死骸や果物が腐敗していく様を映し、高速で再生するというもの。発想がピーター・グリーナウェイの「ZOO」そのままのような気もするのだが……。

展示されている作品の中で、もっとも印象深かったのは、自身が歴史上の有名人物になりきるアートを発表していることで有名な森村泰昌の「フェルメール研究」という連作。「真珠の耳飾りの少女」に森村がなりきった作品が特に良かった。

ドミニク・レイマンという作家の作品は、スペース上方に据えられたカメラの映像が、少し遅れて正面のスクリーンに映し出される。私も色々なポーズをして楽しんだ。

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2021年2月17日 (水)

美術回廊(62) 京都国立近代美術館 「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」

2021年2月11日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」を観る。

分離派というとグスタフ・クリムトやオットー・ワーグナーらが興したウィーン分離派(オーストリア造形芸術家協会。セセッション)による芸術革新運動が有名であるが、今回の展覧会は、ウィーン分離派に影響を受け、「分離派建築会」を創設した日本の若き建築家達が主役である。創設メンバーは全員、東京帝国大学工学部建築学科に所属していた、石本喜久治、瀧澤眞弓(男性)、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守の6人である。その後、山口文象(岡村蚊象)、蔵田周忠(濱岡周忠)、大内秀一郎が加わっている。

創設メンバーは、東京帝国大学で伊東忠太に師事。それまでの建築様式にとらわれない新建築を目指したが、ウィーン分離派同様、全体としての傾向を定めることはなく、一人一様式としている。

分離派建築会が関わった建築は、今では少なくなってしまっているが、往時は毎日のように眺めていた東京・御茶ノ水の聖橋や、京都では京都大学学友会館、京都大学農学部正門などが残っている。入ってすぐのところに現存する分離派建築会関連建築の写真展示があり、分離派建築会の第1回作品展で掲げられた宣言(「我々は起つ」)を読み上げる女性の声が、終始流れている。

分離派建築会の創設は、1920年(大正8)。スペイン風邪のパンデミックの最中であった。明治維新と共に、西洋風の建築が日本の各地に建てられたが、明治も終わり頃になると「西洋建築一辺倒でいいのか?」という疑問を持つ人も多くなり、独自の日本建築の開拓に乗り出す人が出てきた。分離派建築会の人々もまたそうである。
分離派建築会の東大の先輩にあたる野田俊彦は、「建築非芸術論」を上梓し、実用性最優先の立場に立っていた。

いくつかの映像展示があるが、一番最初にあるのは、当時の建築の最前線を走っていた後藤慶二に関する映像である。1983年の制作。テレビ番組として制作されたもののようで、後藤の代表作である豊多摩監獄(豊多摩刑務所。正門部分のみ現存)が紹介されている。豊多摩監獄は、1983年に取り壊されることが決まっており、このドキュメンタリー映像は、豊多摩監獄を記録する意図で制作されたようである。
豊多摩監獄は、日本最大級の監獄であり、江戸時代の小伝馬町の牢屋敷を市ヶ谷に移した市谷監獄の後継施設として建てられている。市谷監獄は小伝馬町の牢屋敷をそのまま移築したものだそうで、何と江戸時代に建てられた獄舎が明治43年まで長きに渡って使用されていた。手狭になり、老朽化も甚だしいとして現在の中野区に建てられたのが豊多摩監獄である。思想犯を多く収容し、大杉栄、亀井勝一郎、小林多喜二、三木清、中野重治、埴谷雄高、河上肇らが入獄している。
後藤が設計した豊多摩監獄は、十字式の独居房配置が特徴。中心の部分に見張りを置いていれば、4つの独居房の列が全て見渡せるという、画期的な仕組みが採用されていた。
その後藤慶二にあるが、スペイン風邪に罹患し、腸チフスも合併して35歳の若さで亡くなってしまう。
後藤慶二や、分離派建築会のメンバーの師である伊東忠太も師事した辰野金吾もスペイン風邪に罹り、64歳で他界。スペイン風邪は日本の建築界にも激震をもたらした。

その直後に発足した分離派建築会は、新たなる芸術としての建築美を追究することになる。アールデコなどの装飾も流行った時期であったが、分離派建築会のメンバーが設計した建築は、どちらかというと装飾の少ない、スッキリしたものが多い。
教育面でも活躍しており、瀧澤眞弓は神戸大学や大阪市立大学、甲南大学といった関西の大学で教鞭を執っている。堀口捨己は明治大学建築科の創設に尽力し、指導も行った。森田慶一は武田五一に招かれて京都帝国大学の教員となり、京大関連の建物も設計。先に書いた京都大学学友会館や農学部正門といった現存建築は森田が設計したものである。矢田茂は民間企業に就職したため分離派としての作品は少ないが、逓信省に入った山田守は、後に御茶ノ水の聖橋、日本武道館や京都タワーなどを手掛けた。

分離派建築会のメンバーは、新しい建築を生むにあたり、オーギュスト・ロダンらの彫刻を参考にしたり、田園地帯での生活における建築美を追究するなど、建築そのものとは関わりのないものにも影響を受け、自身の作品に取り入れていった。瀧澤眞弓の作品「山の家」模型は、ディズニー映画「アナと雪の女王」に出てくる雪の女王の城を連想させる斬新な設計である(理想を掲げたもので、実際に建設はされなかった)。

旧岩国藩主であった吉川家の東京邸や、公家であった坊城邸なども堀口捨己や蔵田周忠ら分離派建築会のメンバーが手掛けているようだ。写真のみの展示なのがちょっと寂しい。

京都国立近代美術館を出ると隣は武田五一設計の京都府立図書館(残念ながら外装工事中であり、布で覆われていた)、北側に目をやると伊東忠太設計の平安神宮応天門が眼に入る。今まさに建築の歴史の中に生きていることを実感し、彼らと繋がれたような喜びがこみ上げてくる。

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2021年1月12日 (火)

美術回廊(61) 京都髙島屋7階グランドホール 「没後70年 吉田博展」

2021年1月7日 京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、「没後70年 吉田博展」を観る。

現在の福岡県久留米市に生まれた吉田博(1876-1950)は、明治、大正、昭和期に掛けて風景画の第一人者として活躍した人物である。久留米藩士の子として生まれ、京都と東京で洋画を学び、洋画家として活躍したが、49歳の時に木版画を始める。その後、1923年(大正12)に関東大震災が起こり、木版画や版木を全て焼失。他に被害を受けた画家仲間も多かったため、代表してアメリカに渡って絵を売ることになるが、売れたのは吉田の木版画ばかり。アメリカでも浮世絵の評価は高く、そのため版画が人気だったのだが、「反骨の男」とも呼ばれた吉田は、江戸時代の浮世絵ばかりが高く評価されていることに疑問を抱き、以降は独自の木版画制作に没頭するようになる。

実は若い頃に吉田は渡米しており、デトロイトやボストンで展覧会を開いて好評を博している。ちなみにこの時は英語は一切出来なかったそうで、かなりのチャレンジャーである。当時は、黒田清輝を中心とするフランス帰りの画家が日本で人気を得ていたが、吉田はこれに反発。敢えてフランスではなくアメリカに向かって腕試しをしている。
吉田は黒田清輝率いる白馬会のメンバーとはかなり仲が悪かったそうで、白馬会の白がかった淡めの画風を毛嫌いしていた。九州男児だからかどうかはわからないが喧嘩っぱやく、黒田清輝に殴りかかったこともあったという。後には、白馬会に対抗する形で太平洋画会(現・太平洋美術会)を興している。

旅と山岳を愛し、画材を持ち仲間を連れて富士山を始めとする日本の名山に登山。登山中にじっくりとした描写を行うのが常だったという。次男には穂高岳にちなむ穂高(ほだか)という名を与えている。ちなみにこの穂高と、長男の遠志(とおし)は二人とも版画家となっている。

吉田博は、浮世絵ではなく洋画を版画に移したような新しい木版画を目指したが、構図の大胆さなどは案外、浮世絵と共通しているように思われる。あるいは構図の大胆さは「摺りやすさ」に由来しているのかも知れないが、私は版画を制作したことがないのでよくわからない。

独自の画風を目指した吉田博だが、ホイッスラーにだけは惹かれたという。仄暗い寒色系の色使いなどにはホイッスラーに共通するものも感じられるが、最終的には吉田はホイッスラーからも離れたという。

アメリカの風景を版画で描いた作品がいくつか並ぶ。グランド・キャニオンやナイヤガラ瀑布などで、色彩感や構図が面白い。

吉田は版画の性質を生かし、同じ版木に異なる色彩を入れることで、朝、昼、夕、夜など、同じ絵の時間違いバージョンなどもいくつか制作している。これには日本を題材にした作品のみならず、スフィンクスやタージマハルなど海外で描かれた風景画も含まれる。

なお、吉田は専ら風景画家として活躍。人物画は余り得手としていなかったようで、風景画の中にいる人物達の表情も簡素である。

吉田の作品は、日本よりも海外での評価が高く、ファンも多い。厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーの第一声が、「ヒロシ・ヨシダはどこだ?」だったというジョークも存在する。マッカーサーが吉田ファンというのは本当で、新宿区下落合にあった吉田のアトリエを実際に訪れている。ダイアナ妃も吉田博のファンで、「瀬戸内海集 光る海」と「猿沢池」の2作品を自室に飾っていた。
「瀬戸内海集 光る海」は、海に反射する光を描いた作品である。吉田は印象派の絵画について特に語ってはいないようだが、この光のたゆたい方は印象派のアイデアそのものである。印象派は日本の浮世絵の版画に影響を受けたが、そうした浮世絵の影響を受けた洋画が日本の版画へとフィードバックされたような形となっている。循環である。面白い。

富士山と山中湖を描いた版画には、定番の「逆さ富士」が描かれているが、吉田の作品はこの他にも水に反映した物体を描いていることがかなり多い。また暖色と寒色の組み合わせが絶妙であり、幻想性を高めている。

映像も2点流れている。版画の工程を描いた映像では、吉田が摺り師にかなりの数の重ね摺りを要求したことが語られており、江戸時代の浮世絵の版画は多くても十数回の重ね擂りで完成するが、吉田の作品は平均でも30回以上、日光東照宮の「陽明門」の版画に至っては実に96回も重ね摺りが行われたという。

展示会場を出たところにあるモニターには、吉田の人生を描いた映像が映っており、反骨精神旺盛な吉田のエピソードはここで語られていた。

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2020年11月20日 (金)

美術回廊(60) 京都国立近代美術館 「生誕120年 藤田嗣治展」

2006年7月23日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で開かれている、「生誕120年 藤田嗣治展」に出かける。今日が最終日である。チケットは買ってあったのだが、結局最終日に来ることになってしまった。最終日は当然ながら混む。

藤田嗣治は東京に生まれ、若くしてパリに渡り成功を収めた画家である。第二の藤田になることを目指して渡仏するも夢やぶれた画家は非常に多いそうだ。

第二次大戦前夜に藤田は日本に戻り、日本の戦闘行為を英雄的に描く戦争画を制作したりもした。しかし、戦争協力責任を問われるなどして、日本での活動に限界を感じた藤田は再びパリに戻りフランスに帰化。その後、日本の土地を踏むことはなかったという。

パリで成功し始めた頃の作品は、ピカソのキュビズムに影響されていたり、ムンクの模写のような画を描いていたりする。だが、本当に認められたのは乳白色を多用した画だ。彫刻をキャンバス上に刻んだような、独特の乳白色をした画の数々は個性的である。

だが、藤田の特色は、個性的であることではなく、その器用さにある。南米で過ごした頃の画からは、パリ時代とは全く異なるラテンの血が感じられる。また日本回帰の時代というのもあって、ここでは高橋由一や青木繁のような画風を示す。この時期に描かれた「北平の力士」(北平とは中華民国時代の北京の名称。中華民国の首都が南京に置かれたために北京は北平と改称されたのである)という画は日本画と中国画のタッチを取り入れた、迫力と生命力が漲る優れた作品である。

戦争画の一枚は、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」に構図が似ていたり、また宗教画にはミケランジェロの「最後の審判」をアレンジしたもの(タイトルは「黙示録」)があったり、藤田は自分の観たものを貪欲に取り入れる精神に溢れていたようだ。かといって自らの個性を殺したわけではなく、例えば、フランスの女性を描いても目の辺りが日本美人風になっていたりするのは藤田独特の個性だろう。

フランスに帰化してからの藤田は子供を題材にした画を多く残している。戦争画を描くことを強要し、戦争が終わると「戦争協力責任」なるものを押しつけようとする「大人達」への反発がそうさせたのだろうか。面白いのは、藤田が描いた子供の顔には、それに似つかわしい無邪気さが見られないことである。何かあるのだろう。


3階の「藤田嗣治展」を観た後、4階の通常展示も見学。私の好きな長谷川潔や、浅井忠の画を見て回る。藤田嗣治と吉原治良(よしはら・じろう。風間杜夫似の、画家というより俳優か小説家のような顔をした画家。具体美術協会の創設者であり、吉原製油社長という実業家でもあった)が握手をしている写真が飾ってある。そして吉原の作品も展示されている。個人的には吉原の作風の方が気に入った。

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