カテゴリー「美術回廊」の81件の記事

2022年11月 2日 (水)

美術回廊(81) 京都市京セラ美術館 「ボテロ展 ふくよかな魔法」

2022年10月27日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館本館北回廊1階で「ボテロ展 ふくよかな魔法」を観る。

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1932年にコロンビアのメデジンで生まれたフェルナンド・ボテロ。90歳になる現在も画家として活躍を続けている。ふっくらとして立体的で陰がなく、その一方で表情を敢えて乏しくさせるという画風が特徴。一見すると可愛らしいが、その絵が表す状況は決して明るくはなく、おそらくコロンビアという国、その中でも最も治安の悪いとさせる故郷のメデジン(メデジン・カルテルの本拠地であり、「麻薬汚染都市」として有名である)を何らかの形で象徴しているのだと思われる。

ボテロが画家として活動を始めた時代は抽象画が全盛であり、具象画を描いていたボテロは当初はなかなか認められなかった。ある日、マンドリンを描いていたボテロはリアリズムではなくふくよかに描く画法を発見。それを用いた「12歳のモナリザ」で注目されることになる。
ボテロが描くのはリアルな世界ではなく、ボテロの脳内で変換された芸術としての風景だ。

今回の展覧会は全作品が写真撮影可となっているが、「個人利用に限る」ということで、推奨されているインスタグラム以外のSNSへの投稿は避けた方がいいかも知れない。少なくとも商用は不可である。
私は丸々とした楽器を題材とした絵数点をスマホのカメラに収めたが、デフォルメされることで楽器の存在感が増しているのが分かる。

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2022年10月11日 (火)

美術回廊(80) 「アンディ・ウォーホル・キョウト」

2022年9月21日 左京区岡崎の京都市京セラ博物館・東山キューブにて

京都市京セラ美術館の新館である東山キューブで、「アンディ・ウォーホル・キョウト」を観る。アメリカのモダンアートを代表するアンディ・ウォーホル(本名:アンドリュー・ウォーホラ。1928-1987)の没後最大級の回顧展である。ちなみにウォーホルは、1956年と1974年に来日しており、京都も訪れているようである。

会場内はスマホ内蔵のカメラでの撮影のみ可であり、フラッシュの使用や動画撮影は禁止となっている。

ウォーホルの美術の特徴は、ポップなタッチや豊かな色彩もさることながら、「芸術における唯一性の逆転」を最大のものとしている。それまでの美術は、「一点しかないこと」「真作であること」に価値があったのだが、ウォーホルは大量生産・大量消費の時代を反映して、同じものをいくつも描き、オリジナリティも否定して、「唯一でないことの唯一性」を示すことの成功した。そうしたポップアートを提唱したのはウォーホルが最初であったはずである。そこにはあるいは「ミニマル」という観念が作用していたかも知れない。

ウォーホルが京都を訪れた時のスケッチの展示があるほか、YMO時代の坂本龍一や葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を取り入れたアートがあり、日本からの影響も分かりやすく示されている。坂本龍一の肖像は、2枚1組であるが、同様の肖像画としてアレッサ・フランクリンやシルヴェスター・スタローンのものが並んでいる。また、本展覧会のポスターに採用されている3つの顔が並んだマリリン・モンローのものも観ることが出来る。

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有名なキャンベルスープの缶を描いた作品や、ジャクリーン・ケネディの複数の表情をモチーフにした「ジャッキー」という作品などが興味深い。

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プライベートを明かさなかったウォーホルであるが、敬虔なキリスト教徒であり、協会での礼拝を欠かさなかった。展覧会の後半には、キリスト教をテーマにした作品も並ぶが、「最後の晩餐」には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に20世紀のアメリカ的な要素を持ち込んだオリジナリティを放棄したことで逆に独自のオリジナリティを発揮するというウォーホルらしい技巧がちりばめられている。

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ウォーホルの「生死観」については、壁に以下のような文字が投影されている。「ぼくは死ぬということを信じていない。起こった時にはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんかしていないから何も言えない(I don't believe it(death),because you're not around to know that it's happend.I can't say anything about it because I'm not prepared for it.)」

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2022年9月27日 (火)

美術回廊(79) 「とびだせ!長谷川義史展」@大丸ミュージアム〈京都〉

2022年9月17日 大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階にある大丸ミュージアム〈京都〉で、「とびだせ!長谷川義史展」を観る。今日が開催初日である。

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絵本作家として人気の長谷川義史。私自身はそれほど詳しくはなかったが、上七軒文庫で行われる「井上歳二絵本ライブ」で長谷川義史の絵本が多く取り上げられるため、馴染みの存在となっていた。

長谷川義史は、1961年、大阪府藤井寺市生まれ。高校卒業後に専門学校に進み(本当は美大に行きたかったが、母子家庭であったため、費用面で無理であった)、その後にデザイン事務所などでアルバイトとして働きながら更に絵を学ぶ。その頃に週刊朝日の「山藤章二の似顔絵塾」に投稿した似顔絵も展示されている。その後、南河内万歳一座の作品ポスターを手がけて注目され、絵本を発表する。奥さんもデザイナーから絵本作家に転じた人で、長谷川の背中を押したのは奥さんだそうだ。
自身のルーツをたどる『おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん』、寛容さの大切さを説くような『いいからいいから』、反戦のメッセージを持った『ぼくがラーメンたべてるとき』、同じく『へいわってすてきだね』などの原画が並ぶ。顔が大きく、パーツが中心に寄っているなど、「こども」の要素を持つ人物が登場することで、愛らしさが強調され、大人から子どもまで親しまれるであろうタッチが特徴となっている。またストーリー展開があるというよりも、一枚ワンシーンの構図で完結した絵が連続するという感じであり、昔ながらの紙芝居を想起させるところもあって、なんともいえない懐かしさが画面から溢れている。紙芝居が子どもたちの娯楽であった戦後すぐの時代が作品の中で広がっているかのようだ。

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映像展示もあり、長谷川が絵を描く様子も見ることが出来る。長谷川は下絵は描かず、「塗るんじゃなくて描く」「やりにくいをチャンスと思おう」「正解したと思う方が絵は失敗」といったような創作哲学を説いている。

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東日本大震災後の福島での野球を題材にした絵本もある。『ぼんやきゅう』という作品で、興味を引かれる。物販コーナーもあったのだが、今日は持ち合わせが余りなかったため、買うのは諦めた。いずれどこかで購入したいと思う。

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2022年8月 3日 (水)

美術回廊(78) 京都市京セラ美術館 特別展「綺羅めく京の明治美術――世界が驚いた帝室技芸員の神業」

2022年7月26日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館南回廊で、特別展「綺羅めく京の明治美術――世界が驚いた帝室技芸員の神業」を観る。明治23年(1890)年に発足した制度で、皇室によって優れた美術工芸家を顕彰、保護するシステムである帝室技芸員。選ばれたのは一握りの美術家のみであり、帝室技芸員に選ばれることは大変な名誉であったようだ。昭和19年に廃止となっている。
その帝室技芸員に選ばれた京都縁の明治時代に活躍、もしくは明治時代生まれの19人の美術家の作品を取り上げた展覧会である。
取り上げられた美術家は、森寛斎、幸野楳峰、川端玉章、岸竹堂、望月玉泉、今尾景年、熊谷直彦、野口小蘋、竹内栖鳳、富岡鉄斎、山元春挙、五世伊達弥助、加納夏雄、三代清風輿平、初代宮川香山、並河靖之、二代川島甚兵衛、初代伊東陶山、初代諏訪蘇山。

日本画の本質は何かと問われると、浮世絵以来の「躍動感」になると思われる。静止してポーズを取っている西洋画に比べ、日本の絵は、「何かしている最中」を「想像力を使って描く」のが特徴である。そのため、妙な表現にはなるが、「動かない動画」「動き出す0.1秒前の永遠の静止」を描くのが日本画の神髄だと思える。絵画は静止画でしかあり得ないが、その前と後を想像させることで、静止画の中に動画が紛れ込んだかのような手法。ヨーロッパの画家達を震撼させた技法を、日本の絵師達は自然に用いていたということになる。

今回の展覧会に出品された作品もそうした躍動感や生命力、動的な印象がはち切れんばかりに表に出ている。例えば岸竹堂の「猛虎図」に描かれた虎は今にも動き出しそうで、毛の先々まで神経が行き届いている(明治時代には江戸時代と違い、日本人も動いている本物の虎の姿を実際に見ることが出来るようになったため、リアルである)。同じく岸竹堂の「月下猫児図」は、たわんだ柳の枝の上の猫が蟷螂と対峙している様を描いた作品だが、このまま柳の枝が垂れて猫も蟷螂も振り落とされそうになるのか、あるいは猫が蟷螂を捕まえるのか、はたまた蟷螂が逃げおおせるのか、様々なケースが脳裏に浮かぶ。富岡鉄斎が描いた文人画風の「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」(重要文化財指定)からは人々の話し声や嬌声が聞こえてきそうな気がする。現在いわれるリアリズムとはまた違った、ビビッドな迫真性がそこには感じられるのである。

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2022年7月 2日 (土)

美術回廊(77) 京都国立近代美術館 没後50年「鏑木清方展」

2022年6月10日&6月28日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて


2022年6月10日

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、没後50年「鏑木清方展」を観る。個人的には2014年に千葉市美術館で鏑木清方の展覧会を観ているが、京都で鏑木清方の大規模回顧展が行われるのは45年ぶりだそうである。

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1878(明治11)年、東京に生まれた鏑木清方(かぶらき・きよかた。清方は号で、本名は健一)。父親は毎日新聞創設者の一人であるジャーナリストで戯作者・脚本家・小説家としても活躍した条野採菊。ということで、幼い時から歌舞伎や寄席に親しむ生活を送っていた。清方は長じてからも、芝居絵を書くほかに歌舞伎の評論なども行っている。
浮世絵師の水野年方に師事し、清方の号を授かる。鏑木は母方の姓であり、母方の家系を継いでいる。

電車が嫌いだったそうで、関東を出たのは数度だけ。基本的には東京で生活を送っていたが、第二次大戦のため、茅ヶ崎に疎開。その後、御殿場に移るが、東京の自宅を戦災により焼失。鎌倉に住んでいた娘を頼って移住し、その後、復興の釘音かまびすしい東京を避けて鎌倉市内に自宅を構え、同地で生涯を終えた。93歳と長生きであった。

初期には挿絵画家として成功を収めた鏑木清方。泉鏡花と親しくなり、表紙絵や挿絵を手掛けている。鏡花好みの美女を描き、その後、日本を代表する美人画家として名声を高めていく。長命であったため、1954年にNHKが行ったインタビュー音声が残っており、展示コーナーで美人画の映像と共に鑑賞することが出来る。「好きなものじゃないと描けない」と語っており、また関東大震災や二・二六事件、戦災などに遭った時には美人画を描くことで気を紛らわせたと回想している。

日本画の典型的な構図として、手前をクッキリ描き、奥をボンヤリさせることで奥行きを出すという技法がよく駆使されるが、清方も中年期以降はこの構図に倣っている。だが、初期の頃は、顔をボンヤリと柔らかく描き、奥を丁寧に描くことでまた別の奥行きを出すという手法が見られる。意図的に用いられたものなのかは分からない。

「音」を感じさせる技法もまた多く、雨の滴などは描かずに、登場人物の表情で雨と雨音を感じさせるという巧みさが光る。


今回の目玉は、長らく所在不明だった「築地明石町」「新富町」「浜町河岸」の3作。東京国立近代美術館が2019年に収蔵したもので、それまでは個人が蔵していたようである。いずれも美人画だが、中央に大きく美人を描き、奥にボンヤリとその土地を象徴するものを描くという手法が用いられており、その土地の象徴画の役割を果たしている。象徴的な作品は、この3作の他にもいくつも見られる。

「築地明石町」は左手奥に帆船、「新富町」は右手奥に新富座、「浜町河岸」は左手奥に火の見櫓が見える。

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新富座は、明治時代前半には東京一の芝居小屋として栄えたが、明治時代半ばに歌舞伎座が完成すると人気も落ち、大正期には関東大震災で損害を受けて廃座となっている。「新富町」の絵が描かれたのは昭和5年(1930)であるため、すでに新富座は存在しない。
鏑木清方は、幼年期を新富座の近くで過ごしており、たびたび歌舞伎を観に出掛けていた。役者に憧れ、狂言俳優として舞台を踏んだこともある。そんな幼年期の憧れがこの絵には込められているのであろう。

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「浜町河岸」で描かれた日本橋浜町は、明治座に近く、二代目藤間勘右衛門の家があって、多くの女性が踊りを習うために通ったという。そんな踊りの稽古帰りの少女を描いた作品である。

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なお、重要文化財指定の「三遊亭円朝像」は後期に入ってからの展示となるようである。


2022年6月30日

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「鏑木清方展」を観る。2度目である。前回は、物販が3階のみで行われているのを知らなかったため何も買わずに帰ってきてしまったが、今日は絵葉書を数点購入する。

前回訪れたときは、重要文化財指定の「三遊亭円朝像」が展示されていなかったので、それを目的に来たのだが、他にも展示替えが行われた絵が比較的多い。7月限定のまだ展示されていない作品も数点待機中である。

新たに展示されたものの中では、「秋宵」という女学生がヴァイオリンを弾いているところを描いた作品が良い。明治36年の制作で、京都会場のみの出品である。夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んでも分かるとおり、明治時代にはヴァイオリンというのは女子がたしなむものであり、男がヴァイオリンを買うとなると、人目につかない夕方になるのを待って布団をかぶって眠り、「もう夕方か」と思って布団から出ると陽がカンカンカンカン照っていて、というのはどうでもいいか。女学生の夢見るような表情が印象的である。

前回、鏑木清方の作風の転換のことを書いたが、42歳を境に作風に変化が見られる。大正時代に入って絵画の世界にも写実主義が台頭しており、清方もそれに倣ったようである。作風の変化にあるいは関東大震災が影響しているのかも知れないが、正確なことは分からない。
実の娘を描いた「朝涼(あさすず)」という作品(大正14年制作)があるが、実娘の眼差しがリアルで、ハッとさせられる。

とはいえ、清方も若い頃の作風を完全に捨ててしまった訳ではなく、晩年にも浮世絵美人的な涼しい目の女性を描いている。


「三遊亭円朝像」はかなりリアルな描写だが、実は清方の父親でジャーナリストである条野採菊が話を聞くためによく円朝を家に呼んでいたそうで、清方も間近で円朝の姿を目にしていたようだ。

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2022年6月29日 (水)

美術回廊(76) 京都市京セラ美術館 「ポンペイ展」

2022年6月28日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館本館北回廊1階にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、「ポンペイ展」を観る。

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「フニクリ・フニクラ」でも知られるヴェスヴィオ山の噴火による火砕流に飲まれ、一瞬にして街ごと消失したことで知られるポンペイ。18世紀から街の発掘が始まり、現在ではユネスコの世界遺産に登録されている。「一瞬にして消えた街」ということで、同じような運命をたどった街が「○○のポンペイ」と呼ばれることもある。浅間山の噴火により、村全てが埋もれた上野国鎌原村や洪水で消えた備後国草戸千軒町などが「日本のポンペイ」と呼ばれることがあるようである。

ヴェスヴィオ山は休火山だが、有史以来何度も大噴火を起こしている。
ポンペイが飲み込まれたことで有名なのは、紀元79年に起こった大噴火であるが、ぞれ以前やそれ以後の噴火で失われた街も複数存在するようだ。

街も人も消えるという一大悲劇の舞台であるが、長年に渡って眠っていたため、発掘が始まると、当時の南イタリアの風俗がそのまま分かるという重要な遺産ともなっている。

なお今回は、映像展示などを除いて全作品写真撮影可である。利用目的に関しては「個人で楽しむためだけ」とのことで、範囲は曖昧である。ただ、他人が映り込んだ場合は肖像権に触れる場合があるので注意は必要。そこにいてはいけないはずのお偉いさんが馴染みの誰かと写っていてスキャンダルに発展しても責任は持てないということでもある。

悲劇を伝えるものとしては、女性犠牲者の石膏像が一体、うつ伏せで横たわっている。頭を両手で抱えており、頭部を守ろうとしたのが分かる。

それ以外の展示は、紀元79年当時のポンペイの雰囲気を伝える遺物が中心である。
元々はローマと同盟を結ぶ同盟市であったポンペイ。しかし、戦に敗れ、ローマの植民都市となっている。その後、港湾商業都市として栄え、またワインのためのブドウ栽培と醸造でローマからも重要視されている。往事はヴェスヴィオ山の山頂付近までブドウ栽培が行われていたことが絵によって分かる。火山だと分かっているはずなのだが、勇気があるのか無鉄砲なのか。とにかく火山でもブドウは栽培されていた。

ローマの支配下ではあったが、文化的には古代エジプトやギリシャの影響も濃厚であり、エジプトやギリシャの神々が称えられていた。またギリシャについての知識を有することはポンペイの上流階級にとっては必須であったようである。エジプトについてもナイル川を描いた絵が展示されているなど、愛着を持たれていることがうかがえる。

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ポンペイは階級社会であったが、身分は固定制ではなく、奴隷もいたが、主人が臨終時に解放を宣言するか、あるいは奴隷自身がお金を払うことで一般市民へと格上げとなり、元奴隷の中には商売で成功して上流階級に伍するだけの力を蓄えた者もいたようである。

日常生活の道具なども展示されているが、半円形の穴がいくつか開いた、たこ焼き器のような銅器も存在している。勿論、ポンペイでたこ焼き器が使われていたはずもなく、実体は目玉焼き器あるいは丸パン焼き器と説明されている。正確に何を作る道具なのかは分かっていないようである。蛸が描かれた絵も存在しているため、本当にたこ焼きのようなものが作られていたら面白いのだが、可能性としては低いだろう。ただ紀元79年に火砕流に埋もれ、18世紀に発掘されたのだから、往事の記録はほとんど飛んでいるわけで、たこ焼きがオーパーツ的にあったら面白いとも思う。

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往事のポンペイ人の生活がうかがい知れるものとしては、「猛犬注意」のモザイク画が挙げられる。本物が展示されているのは1点だけだが、復刻版の別の「猛犬注意」も展示室の床に置かれている。犬を飼う人が多かったことが分かる。
また演劇が楽しまれていたようで、俳優や女優の像や、楽屋を描いたと思われる上演前の一景を目にすることが出来る。演劇は洋の東西を問わず、舞台に上がれるのは男性だけという決まりのあるところが多いが、ポンペイには女優がいたようである。ただ女優に関しては「おそらく遊女」という断りがあり、一般階級の女性が舞台に上がることはなかったようである。
一方で彫刻の技術はかなり高いレベルに達していたようで、神々の像や男女の胸像を始め、鹿、犬、猪、ライオンなどの動物も躍動感溢れる出来となっている。


ヴェスヴィオ山の噴火により消失した街としてはポンペイが最も有名であり、同じようにして消えた街への意識が向かないようになっていた。だが、エルコラーノ(紀元79年の噴火で消失)やソンマ・ヴェスヴィアーナ(472年のヴェスヴィオ噴火により消失)といった街の発掘も、少しずつではあるが進んでいるという。特にソンマ・ヴェスヴィアーナは東京大学のチームが中心になって発掘を続けているそうで、将来的に日本人による世界的な発見がもたらされる可能性もありそうだ。

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2022年4月22日 (金)

美術回廊(75) 京都市京セラ美術館 「兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~」

2022年3月30日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、「兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~」を観る。日中国交正常化50周年を記念した展覧会である。

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私の生まれた1974年、西安市郊外にある始皇帝の陵墓の東側で、等身大の兵馬の俑(副葬品の人形)が数多発見され、世界的な大ニュースとなった。他の皇帝も殉死者の代わりに俑を埋めるということは行ってきたが、等身大であることがまず初めて、そして尋常でない数の兵馬の俑に全世界が驚愕した。始皇帝の兵馬俑は確認出来るだけで8千を超えるらしいが、きちんと発掘されているのは今日に至るまで1600程度だそうで、まだ多くの兵馬俑が眠っていることになる。俑を等身大に作るのは、実は縁起が悪いそうで、始皇帝がなぜ数多くの等身大の俑を作らせたのかについては、今も正確な理由は不明のようである。

会場は、京都市京セラ美術館の本館北回廊2階。ということで、展示はそれほど多くない。そもそも等身大の兵馬俑を中国から運ぶのは一苦労である。ということで、小型のものも含めて36体の選抜メンバー(?)による展示。このうち等身大のものは数点だが、いずれも個性溢れる兵と馬である。始皇帝の兵馬俑に関しては原則撮影可であり、京都市京セラ美術館自体がSNSへの投稿を推奨している。

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それ以外は、刀、矛、鏃(やじり)などの青銅製の武器、貨幣、木簡、副葬品などの展示である。
今回は、紙製のリストは作られておらず、リストが欲しい場合は、会場入り口付近などによるQRコードをスマホで読み取って、確認することになる。
始皇帝に関しては、近年、原泰久のマンガ「キングダム」で描かれて人気であり、今回の展覧会でも「キングダム」絡みの展示があった。

兵の俑も個性が出ていて良いが、馬などの動物の俑の方がよりリアルであり、当時の職人の腕の確かさと描写力の高さが感じられる。

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中国史上初の統一王朝となった秦。拼音だとQinで、これはChinaの語源となっている。だが秦は漢民族による王朝ではなく、元々は西方の遊牧民族によって建国されたものである。ということもあってか、始皇帝は後に漢民族となるマジョリティに対して圧政を行い、反発を買って統一後わずか15年で秦は瓦解。劉邦が漢を建国し、今に至るまで漢が中国と中国人の代名詞となっている。

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2022年3月24日 (木)

美術回廊(74) 京都文化博物館 特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」

2022年3月9日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」を観る。

個性派の浮世絵師であり、「相馬の古内裏」など、グロテスクで大胆な構図で知られる歌川国芳と、その弟子である月岡芳年の作品を中心とした展覧会であるが、国芳から「芳」の字を授かった弟子達の作品も多く展示されている。写真撮影可である。

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今では人気のある歌川国芳であるが、「グロテスクで大胆な構図」に拒否反応を起こす人も多かったようで、一時埋もれそうになったそうである。名古屋に住む国文学者にして教師の尾崎久弥と、九州帝国大学の医学者・高木繁が国芳を高く評価しており、コレクションしていたものが再評価されるようになったのだが、高木繁の息子は名古屋大学の教授となったそうで、尾崎久弥のコレクションと共に名古屋市博物館に収められることになっている。今回展示されているのも全て名古屋市博物館の所蔵品である。


初期の歌川国芳の画風は中心を取り囲むような構図に特徴がある。酒呑童子を描いた作品が2点あるが、どちらも酒呑童子を中心に描き、頼光四天王がそれを取り囲んでいる。
また映画館のスクリーンや最近のテレビモニターのように横長の絵(3枚続)を描いているのも特徴である。

弁慶が三井寺の鐘を引きずっているところを描いた国芳の絵が2点あるが、いずれも鐘の下の部分が枠の外に出て見えないという構図で描かれており、それによって鐘の重さが増しているように感じられるという高度なテクニックが駆使されている。
また宇治川の戦いを描いたもの2点は、いずれも水流の描き方が巧みで、動く様が容易に想像出来る。動かない動画ともいうべき浮世絵の真骨頂である。

源三位頼政が鵺(ぬえ)を退治する様子を描いたものが3点あるが、うち1点は頼光が矢を放った直後の絵であり、鵺は描かれていない。頼光の目は鵺のいる方角ではなく、こちらを見つめている。今でいうカメラ目線であるが、意図は不明で不思議な感じもする。メッセージ性があるわけではおそらくない。

国芳に反体制的なところがあったのは確かなようで、暗愚と定評のある徳川家定を揶揄したと思われる絵なども展示されている。流石にこれは公儀にも分かったようで、尋問を受けたりもしたそうだ。

国芳の弟子である歌川芳虎も、徳川幕府への反発からだと思われるが、「道外武者 御代の若餅」で、「織田が撞き羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに喰うは徳川」という落首を元にした絵を描いている。別の川柳が書かれながら、羽柴秀吉の顔が猿になっているところに風刺が効いているが、それだけにすぐに意図が見透かされたようで、この絵は即日発禁処分となり、芳虎も手鎖50日の刑に処されたそうである。

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猟奇的な絵画を集めているのもこの展覧会の特徴で、その手の絵は1カ所に集められ、そうしたものが苦手な人は見ないで通過出来るようになっている。歌舞伎を題材にしたものが多いが、血が飛び散って、首が飛んで、というさながらスプラッターホラーである。
このコーナーの少し手前に有名な「相馬の古内裏」が展示されている。

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続くは人物画のコーナー。何かをしながら物思いに耽っている美人画が多く、静止の中に躍動があるのが特徴となっている。

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2022年3月 7日 (月)

美術回廊(73) 京都国立近代美術館 新収蔵記念「岸田劉生と森村・松方コレクション」&コレクション・ギャラリー 令和3年度第5回コレクション展

2022年3月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「岸田劉生と森村・松方コレクション」という展覧会を観る。

美術の教科書に必ず載っている「麗子像」(「麗子像」という作品は多数存在する)で知られる岸田劉生(1891-1929)。
ジャーナリストの岸田吟香の長男として東京・銀座に生まれ、高等師範学校附属中学校中退後に白馬会に入り、黒田清輝に師事。白樺派の文学に傾倒し、雑誌「白樺」に載ったフランスの画家達に憧れる。高村光太郎らと共にヒュウザン会を結成し、代々木に家を構えて創作活動に入るが、肺結核と診断され(後に誤診であったことが分かる)白樺派の武者小路実篤が所有していた藤沢・鵠沼の貸別荘で転地療養を行う。その間に関東大震災が発生。岸田は関東を諦め、かねてより憧れていた京都移住を決断。南禅寺の近くに2階家を見つけて妻子と共に暮らし始める。東京にいた頃から歌舞伎見物を好んだ岸田は、南座にも通い詰める。また祇園でお茶屋遊びも楽しんだ。だがこの頃、春陽会のメンバーと不仲になり脱退。ただ梅原龍三郎は岸田によくしてくれたという。3年の京都生活を経て、岸田は鎌倉に移る。その後、満鉄の松方三郎(松方正義の息子)の招きで、満州に旅行。ここでも絵を描いて渡仏のための資金に充てるつもりだったという。だが慣れぬ大陸での生活ということもあってか、体調を崩してしまい、同行していた若き画商の田島一郎と共に帰国。山口県の徳山(平成の大合併により今は周南市となっている)にある田島の実家に身を寄せるが、そこで更に体調は悪化。38歳の若さで帰らぬ人となっている。奥さんの蓁(しげる)や娘の麗子は岸田の最期には間に合わなかったという。

初期の岸田の画風は、師である黒田清輝の模倣である。全体的に白っぽい画風がそれを表している。そこから白樺派によってフランスの画家を知るようになり、画風を大きく変える。1912年に描かれた「夕陽」という作品は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホからの影響が濃厚で、エネルギー重視の画風となっている。その他の作品も西洋の有名画家の作風をモデルとしており、初期の白馬会風のものとは大きく異なっているが、どうも岸田は、理想の絵画を求めて画風をコロコロ変えるというカメレオン的なところがあったようである。その後、後の奥さんとなる小林蓁と出会う。蓁は、鏑木清方に日本画を学んでおり、岸田も彼女の影響を受けて日本画や南画を描くようになっている。

鵠沼に移ってからの岸田は、立体感を求めた絵をいくつか描いている。「鵠沼風景」や「壜と林檎と茶碗」といった絵である。こうした立体感に富む絵が私は気に入った。
一方で、結核という当時としては死の病に冒された(実際には誤診であったが)ことで、宗教画なども描いている。岸田が子供の頃に両親が相次いで亡くなっており、岸田は洗礼を受け、クリスチャンとなって宗教家を志したこともあった。牧師の田村直臣を慕っており、岸田に画家を目指すよう進言したのも田村であったようだ。

有名な「麗子像」であるが、今回は、「麗子裸像」、「童女と菊花」、「二人麗子」、「三人麗子」、「麗子提灯を喜ぶ之図」、「麗子弾絃図」などが展示されている。

歌舞伎を好んだ岸田劉生。初代中村鴈治郎主演舞台を描いた作品があるが、舞台上よりもそれを観る観客の方がリアルに描かれているのが特徴である。

京都時代には愛らしい日本画も残している岸田。鎌倉時代には静物画の比重が大きくなっていったようである。

1929年に満州で描かれた「大連星ヶ浦風景」という絵が素晴らしい。この作品は武者小路実篤ら白樺派の面々も絶賛しているようだ。

その時々によって画風を大きく変えた岸田劉生。だた彼が真に目指した作風への道のりは、38歳で早逝したことで未完のまま途切れた印象が強い。


岸田劉生の展示会に続いて、森村・松方コレクションの展示がある。共に松方正義の息子である森村義行(森村家に養子に入っている)と松方三郎の兄弟は岸田劉生を支援していた。
この兄弟は美術品の蒐集にも熱心であり、葛飾北斎、歌川広重、藤田嗣治らの作品をコレクションしており、今回、それらが展示されている。

また岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の芝川コレクションも展示されている(岸田劉生や椿貞雄が描いた芝川照吉の肖像は、ギョロリとした目の輝きが印象的である)。青木繁、坂本繁二郎らの作品を観ることが出来る。


4階で行われている令和3年度第5回コレクション展には、「岸田劉生の友と敵」というコーナーがある。岸田劉生は生前に様々な画家と激突したようである。性格的に円満とはいえないところがあったようだ。先に書いたように春陽会の中でも梅原龍三郎は味方であったが、他のメンバーとは折り合いが悪くなり、1925年に退会している。

「劉生が生きた時代の西洋美術」のコーナーもある。この中ではやはりユトリロ(「モンマルトルのミミ・パンソンの家」)とデュフィ(「静物」)の画風が私の好みに合う。

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2022年1月31日 (月)

美術回廊(72) 京都国立近代美術館 「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」

2022年1月15日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」を観る。

今回は展示品の横に説明書きのようなものはなく、入り口に置かれている作品リストを手に、展示品の脇に置かれた番号(「Ⅰ-1-01」「Ⅱ-2-10」といったような)を参照して、リストで内容を確認するという鑑賞法になっている。

1893年にウィーンに生まれた上野リチ。生誕時の名前はリチ・リックスであり、32歳の時に日本人建築家の上野伊三郎と結婚して、上野リチ・リックスという名前になっている。
ウィーン工芸学校で学んだ後、ウィーン工房の一人としての活動を開始。上野とはウィーン工房の同僚であった。

ウィーン工房は、共にウィーン分離派(オーストリア造形芸術家協会)出身のヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが始めた美術工房で、工業デザインを得意としていた。

上野リチの作品の前に、ウィーン工房が作成したデザイン画や日用品などが展示されているが、一目見てマーラーの音楽が脳内に響き渡るような趣を持ったものが多い。マーラーもこのような工芸デザインに囲まれながら作曲や指揮活動を行っていた訳で、相互作用は当然ながら働いていたと思われる。マーラーは生前には作曲家としてはいくつかの例外を除いて成功出来ておらず、「異様な曲を書くらしい」ということだけが知られていた(マーラーは失敗を怖れて交響曲の初演を本拠地のウィーンでは行わなかった)。だが、時を経て見てみると、時代による親和性は確かにある。

上野伊三郎と結婚後、上野リチは夫の故郷である京都とウィーンを往復する生活に入る。作品の中には、水墨画や版画を意識したものもいくつか見られる。夫と共作したものもある。オーストリアと日本の良き融合である。

その後に京都に定住するようになった上野リチ。当時の日本にはまだインダストリアルデザインは十分には普及しておらず、上野は京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学美術学部)で教鞭を執った他、夫と共にインターナショナルデザイン研究所(その後、何度も校名変更を行い、最終的には京都インターアクト美術学校となるが、京都精華大学に吸収合併される形で2009年に閉校)を設立して後進の育成に当たった。展覧会の終盤にはリチの教え子達の作品も展示されている。

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