カテゴリー「美術回廊」の74件の記事

2022年4月22日 (金)

美術回廊(75) 京都市京セラ美術館 「兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~」

2022年3月30日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、「兵馬俑と古代中国 ~秦漢文明の遺産~」を観る。日中国交正常化50周年を記念した展覧会である。

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私の生まれた1974年、西安市郊外にある始皇帝の陵墓の東側で、等身大の兵馬の俑(副葬品の人形)が数多発見され、世界的な大ニュースとなった。他の皇帝も殉死者の代わりに俑を埋めるということは行ってきたが、等身大であることがまず初めて、そして尋常でない数の兵馬の俑に全世界が驚愕した。始皇帝の兵馬俑は確認出来るだけで8千を超えるらしいが、きちんと発掘されているのは今日に至るまで1600程度だそうで、まだ多くの兵馬俑が眠っていることになる。俑を等身大に作るのは、実は縁起が悪いそうで、始皇帝がなぜ数多くの等身大の俑を作らせたのかについては、今も正確な理由は不明のようである。

会場は、京都市京セラ美術館の本館北回廊2階。ということで、展示はそれほど多くない。そもそも等身大の兵馬俑を中国から運ぶのは一苦労である。ということで、小型のものも含めて36体の選抜メンバー(?)による展示。このうち等身大のものは数点だが、いずれも個性溢れる兵と馬である。始皇帝の兵馬俑に関しては原則撮影可であり、京都市京セラ美術館自体がSNSへの投稿を推奨している。

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それ以外は、刀、矛、鏃(やじり)などの青銅製の武器、貨幣、木簡、副葬品などの展示である。
今回は、紙製のリストは作られておらず、リストが欲しい場合は、会場入り口付近などによるQRコードをスマホで読み取って、確認することになる。
始皇帝に関しては、近年、原泰久のマンガ「キングダム」で描かれて人気であり、今回の展覧会でも「キングダム」絡みの展示があった。

兵の俑も個性が出ていて良いが、馬などの動物の俑の方がよりリアルであり、当時の職人の腕の確かさと描写力の高さが感じられる。

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中国史上初の統一王朝となった秦。拼音だとQinで、これはChinaの語源となっている。だが秦は漢民族による王朝ではなく、元々は西方の遊牧民族によって建国されたものである。ということもあってか、始皇帝は後に漢民族となるマジョリティに対して圧政を行い、反発を買って統一後わずか15年で秦は瓦解。劉邦が漢を建国し、今に至るまで漢が中国と中国人の代名詞となっている。

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2022年3月24日 (木)

美術回廊(74) 京都文化博物館 特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」

2022年3月9日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」を観る。

個性派の浮世絵師であり、「相馬の古内裏」など、グロテスクで大胆な構図で知られる歌川国芳と、その弟子である月岡芳年の作品を中心とした展覧会であるが、国芳から「芳」の字を授かった弟子達の作品も多く展示されている。写真撮影可である。

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今では人気のある歌川国芳であるが、「グロテスクで大胆な構図」に拒否反応を起こす人も多かったようで、一時埋もれそうになったそうである。名古屋に住む国文学者にして教師の尾崎久弥と、九州帝国大学の医学者・高木繁が国芳を高く評価しており、コレクションしていたものが再評価されるようになったのだが、高木繁の息子は名古屋大学の教授となったそうで、尾崎久弥のコレクションと共に名古屋市博物館に収められることになっている。今回展示されているのも全て名古屋市博物館の所蔵品である。


初期の歌川国芳の画風は中心を取り囲むような構図に特徴がある。酒呑童子を描いた作品が2点あるが、どちらも酒呑童子を中心に描き、頼光四天王がそれを取り囲んでいる。
また映画館のスクリーンや最近のテレビモニターのように横長の絵(3枚続)を描いているのも特徴である。

弁慶が三井寺の鐘を引きずっているところを描いた国芳の絵が2点あるが、いずれも鐘の下の部分が枠の外に出て見えないという構図で描かれており、それによって鐘の重さが増しているように感じられるという高度なテクニックが駆使されている。
また宇治川の戦いを描いたもの2点は、いずれも水流の描き方が巧みで、動く様が容易に想像出来る。動かない動画ともいうべき浮世絵の真骨頂である。

源三位頼政が鵺(ぬえ)を退治する様子を描いたものが3点あるが、うち1点は頼光が矢を放った直後の絵であり、鵺は描かれていない。頼光の目は鵺のいる方角ではなく、こちらを見つめている。今でいうカメラ目線であるが、意図は不明で不思議な感じもする。メッセージ性があるわけではおそらくない。

国芳に反体制的なところがあったのは確かなようで、暗愚と定評のある徳川家定を揶揄したと思われる絵なども展示されている。流石にこれは公儀にも分かったようで、尋問を受けたりもしたそうだ。

国芳の弟子である歌川芳虎も、徳川幕府への反発からだと思われるが、「道外武者 御代の若餅」で、「織田が撞き羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに喰うは徳川」という落首を元にした絵を描いている。別の川柳が書かれながら、羽柴秀吉の顔が猿になっているところに風刺が効いているが、それだけにすぐに意図が見透かされたようで、この絵は即日発禁処分となり、芳虎も手鎖50日の刑に処されたそうである。

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猟奇的な絵画を集めているのもこの展覧会の特徴で、その手の絵は1カ所に集められ、そうしたものが苦手な人は見ないで通過出来るようになっている。歌舞伎を題材にしたものが多いが、血が飛び散って、首が飛んで、というさながらスプラッターホラーである。
このコーナーの少し手前に有名な「相馬の古内裏」が展示されている。

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続くは人物画のコーナー。何かをしながら物思いに耽っている美人画が多く、静止の中に躍動があるのが特徴となっている。

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2022年3月 7日 (月)

美術回廊(73) 京都国立近代美術館 新収蔵記念「岸田劉生と森村・松方コレクション」&コレクション・ギャラリー 令和3年度第5回コレクション展

2022年3月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「岸田劉生と森村・松方コレクション」という展覧会を観る。

美術の教科書に必ず載っている「麗子像」(「麗子像」という作品は多数存在する)で知られる岸田劉生(1891-1929)。
ジャーナリストの岸田吟香の長男として東京・銀座に生まれ、高等師範学校附属中学校中退後に白馬会に入り、黒田清輝に師事。白樺派の文学に傾倒し、雑誌「白樺」に載ったフランスの画家達に憧れる。高村光太郎らと共にヒュウザン会を結成し、代々木に家を構えて創作活動に入るが、肺結核と診断され(後に誤診であったことが分かる)白樺派の武者小路実篤が所有していた藤沢・鵠沼の貸別荘で転地療養を行う。その間に関東大震災が発生。岸田は関東を諦め、かねてより憧れていた京都移住を決断。南禅寺の近くに2階家を見つけて妻子と共に暮らし始める。東京にいた頃から歌舞伎見物を好んだ岸田は、南座にも通い詰める。また祇園でお茶屋遊びも楽しんだ。だがこの頃、春陽会のメンバーと不仲になり脱退。ただ梅原龍三郎は岸田によくしてくれたという。3年の京都生活を経て、岸田は鎌倉に移る。その後、満鉄の松方三郎(松方正義の息子)の招きで、満州に旅行。ここでも絵を描いて渡仏のための資金に充てるつもりだったという。だが慣れぬ大陸での生活ということもあってか、体調を崩してしまい、同行していた若き画商の田島一郎と共に帰国。山口県の徳山(平成の大合併により今は周南市となっている)にある田島の実家に身を寄せるが、そこで更に体調は悪化。38歳の若さで帰らぬ人となっている。奥さんの蓁(しげる)や娘の麗子は岸田の最期には間に合わなかったという。

初期の岸田の画風は、師である黒田清輝の模倣である。全体的に白っぽい画風がそれを表している。そこから白樺派によってフランスの画家を知るようになり、画風を大きく変える。1912年に描かれた「夕陽」という作品は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホからの影響が濃厚で、エネルギー重視の画風となっている。その他の作品も西洋の有名画家の作風をモデルとしており、初期の白馬会風のものとは大きく異なっているが、どうも岸田は、理想の絵画を求めて画風をコロコロ変えるというカメレオン的なところがあったようである。その後、後の奥さんとなる小林蓁と出会う。蓁は、鏑木清方に日本画を学んでおり、岸田も彼女の影響を受けて日本画や南画を描くようになっている。

鵠沼に移ってからの岸田は、立体感を求めた絵をいくつか描いている。「鵠沼風景」や「壜と林檎と茶碗」といった絵である。こうした立体感に富む絵が私は気に入った。
一方で、結核という当時としては死の病に冒された(実際には誤診であったが)ことで、宗教画なども描いている。岸田が子供の頃に両親が相次いで亡くなっており、岸田は洗礼を受け、クリスチャンとなって宗教家を志したこともあった。牧師の田村直臣を慕っており、岸田に画家を目指すよう進言したのも田村であったようだ。

有名な「麗子像」であるが、今回は、「麗子裸像」、「童女と菊花」、「二人麗子」、「三人麗子」、「麗子提灯を喜ぶ之図」、「麗子弾絃図」などが展示されている。

歌舞伎を好んだ岸田劉生。初代中村鴈治郎主演舞台を描いた作品があるが、舞台上よりもそれを観る観客の方がリアルに描かれているのが特徴である。

京都時代には愛らしい日本画も残している岸田。鎌倉時代には静物画の比重が大きくなっていったようである。

1929年に満州で描かれた「大連星ヶ浦風景」という絵が素晴らしい。この作品は武者小路実篤ら白樺派の面々も絶賛しているようだ。

その時々によって画風を大きく変えた岸田劉生。だた彼が真に目指した作風への道のりは、38歳で早逝したことで未完のまま途切れた印象が強い。


岸田劉生の展示会に続いて、森村・松方コレクションの展示がある。共に松方正義の息子である森村義行(森村家に養子に入っている)と松方三郎の兄弟は岸田劉生を支援していた。
この兄弟は美術品の蒐集にも熱心であり、葛飾北斎、歌川広重、藤田嗣治らの作品をコレクションしており、今回、それらが展示されている。

また岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の芝川コレクションも展示されている(岸田劉生や椿貞雄が描いた芝川照吉の肖像は、ギョロリとした目の輝きが印象的である)。青木繁、坂本繁二郎らの作品を観ることが出来る。


4階で行われている令和3年度第5回コレクション展には、「岸田劉生の友と敵」というコーナーがある。岸田劉生は生前に様々な画家と激突したようである。性格的に円満とはいえないところがあったようだ。先に書いたように春陽会の中でも梅原龍三郎は味方であったが、他のメンバーとは折り合いが悪くなり、1925年に退会している。

「劉生が生きた時代の西洋美術」のコーナーもある。この中ではやはりユトリロ(「モンマルトルのミミ・パンソンの家」)とデュフィ(「静物」)の画風が私の好みに合う。

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2022年1月31日 (月)

美術回廊(72) 京都国立近代美術館 「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」

2022年1月15日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」を観る。

今回は展示品の横に説明書きのようなものはなく、入り口に置かれている作品リストを手に、展示品の脇に置かれた番号(「Ⅰ-1-01」「Ⅱ-2-10」といったような)を参照して、リストで内容を確認するという鑑賞法になっている。

1893年にウィーンに生まれた上野リチ。生誕時の名前はリチ・リックスであり、32歳の時に日本人建築家の上野伊三郎と結婚して、上野リチ・リックスという名前になっている。
ウィーン工芸学校で学んだ後、ウィーン工房の一人としての活動を開始。上野とはウィーン工房の同僚であった。

ウィーン工房は、共にウィーン分離派(オーストリア造形芸術家協会)出身のヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが始めた美術工房で、工業デザインを得意としていた。

上野リチの作品の前に、ウィーン工房が作成したデザイン画や日用品などが展示されているが、一目見てマーラーの音楽が脳内に響き渡るような趣を持ったものが多い。マーラーもこのような工芸デザインに囲まれながら作曲や指揮活動を行っていた訳で、相互作用は当然ながら働いていたと思われる。マーラーは生前には作曲家としてはいくつかの例外を除いて成功出来ておらず、「異様な曲を書くらしい」ということだけが知られていた(マーラーは失敗を怖れて交響曲の初演を本拠地のウィーンでは行わなかった)。だが、時を経て見てみると、時代による親和性は確かにある。

上野伊三郎と結婚後、上野リチは夫の故郷である京都とウィーンを往復する生活に入る。作品の中には、水墨画や版画を意識したものもいくつか見られる。夫と共作したものもある。オーストリアと日本の良き融合である。

その後に京都に定住するようになった上野リチ。当時の日本にはまだインダストリアルデザインは十分には普及しておらず、上野は京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学美術学部)で教鞭を執った他、夫と共にインターナショナルデザイン研究所(その後、何度も校名変更を行い、最終的には京都インターアクト美術学校となるが、京都精華大学に吸収合併される形で2009年に閉校)を設立して後進の育成に当たった。展覧会の終盤にはリチの教え子達の作品も展示されている。

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2022年1月23日 (日)

美術回廊(71) 大丸ミュージアム〈京都〉 「堀内誠一 絵の世界」

2022年1月5日 大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉にて

大丸京都店6階大丸ミュージアム〈京都〉で、「堀内誠一 絵の世界」を観る。
1932年、東京に生まれた堀内誠一は、第二次世界大戦の影響を受けて、家計を助けるため中学校卒業後に伊勢丹に就職。日本大学第一商業学校(日本大学第一高校の前身)の夜間部に入学しているが中退している。父親が今でいうデザイナーの日本での走りということもあり、誠一も幼い頃から絵が得意で、伊勢丹でもデザイン部門の仕事を行っているが、その後に独立。絵本や童話の挿絵などを手掛けるようになる。「an・an」や「Popeye」の創刊号の表紙の想定を手掛けるなど、グラフィックデザイナーとしても活躍している。

若い頃に描いた絵画なども観ることが出来るが、ピカソ、モディリアーニ、ゴッホ、ゴーギャン、ラウル・デュフィなど、フランスで活躍した画家からの影響が一目で分かるほど顕著な作品もあり、フランスへの憧れが垣間見える。1974年に堀内誠一は、日本でのグラフィックデザインの仕事を全て断って渡仏。パリ郊外のアントニーに居を構え、絵本の制作などに打ち込んだ。パリには1981年まで滞在。1987年に下咽頭癌のため54歳の若さで死去している。

パリに移る前後に、詩人の谷川俊太郎とのコラボレーションを行っており、谷川俊太郎が翻訳した『マザーグース』に挿絵を付けたり(現在の講談社文庫の挿絵は堀内誠一のものではない)、共通の趣味であるクラシック音楽のために堀内がエッセイと作曲家の肖像を描き、谷川が作曲家に纏わる詩を書くなど、芸術性の高い仕事を行っている。ストラヴィンスキーの肖像画は、明らかにラウル・デュフィの作品へのオマージュであることが分かる。

絵本のために描いた絵は作品ごとにタッチが異なっており、アメリカ風だったり、淡彩画風だったり、バランスを敢えて崩してチャーミングさを増してみたりと、様々な工夫を行っている。

地理も愛していたようで、移住したパリを始め、世界各地の都市の地図を描いている。原色系の愛らしい地図である。

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2021年11月11日 (木)

美術回廊(70) 京都文化博物館 創業200年記念「フィンレイソン展―フィンランドの暮らしに愛され続けたテキスタイル―」

2021年11月3日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、創業200年記念「フィンレイソン展 ―フィンランドの暮らしに愛され続けたテキスタイル―」を観る。

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フィンランドのタンペレに本社を置いていたテキスタイル企業、フィンレイソン。北欧のデザイン界を代表する企業だが、フィンレイソンというのは英国スコットランドからやって来た創業者、ジェームズ・フィンレイソンの苗字であり、「フィン」と入るがフィンランドとは一切関係がないようである。なお、200年に渡ってフィンランドのテキスタイルデザインをリードし続けたフィンレイソンであるが、20世紀後半の綿工業の衰退により、現在では本社を首都のヘルシンキに移し、生産は海外の工場に一任しているようである。
ちなみに、フィンレイソンを代表するデザインの名は「コロナ(王冠)」という何とも皮肉なものである。

1820年。ロシア統治下のフィンランドで創業されたフィンレイソン。工業都市タンペレに本拠を置き、ロシア人経営者の下で急成長。タンペレ市民の6割ほどがフィンレイソンの社員として働いていたこともあるそうだ。また北欧で初めて女性を社員として雇った企業でもあり、1880年代から1920年代に掛けては、女性社員の数が男性社員のそれを上回っていたそうで、かなり画期的な運営をしていたことが分かる。

動植物の柄を中心としたシンプルなデザインが多いが、子どもを描いたデザインなどは可愛らしいものも多く、見る方も自然と頬が緩んでしまう。

トーベ・ヤンソンもムーミンを使ったデザインでフィンレイソンのテキスタイルに参加しており、今回の展覧会の見所の一つとなっている。

京都文化博物館の4階と3階の展示室を使用しているが、3階に展示されている作品は撮影自由である(フラッシュ撮影、動画撮影などは禁止)。
フィンレイソンは女性の社員が多いという話をしたが、参加しているデザイナーも1名を除いて全員女性である。アイニ・ヴァーリがメインのデザイナーのようで展示数も多いが、第二次世界大戦中には、ユダヤ人ということでドイツから逃れてきた女性がフィンレイソンのデザイナーになったこともあったようである。

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3階の展示室もシンプルで飾らないデザインが主流だが、中にはミンナ・アホネンという、フィンランドらしい名前ではあるが日本語で取ると愉快な名前のデザイナーもいる。みんながみんなアホだったら、それはそれで幸せな世の中になりそうではある。

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フィンランドということで、シベリウスの交響詩「フィンランディア」を題材としたデザインのうちの一つも展示されている。シルッカ・シヴェが1980年代末に手掛けたものだが、白地に赤黄青の三原色線を配したシンプルなもので、フィンランドを支配し続けてきたスウェーデンとロシアからの飛躍をモチーフにしているようでもある。

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フィンランドの有名人に、パーヴォ・ヤルヴィの名前の由来となったことでも知られる名指揮者、パーヴォ・ベルグルンドがいるが、同姓のカーリナ・ベルグルンドというデザイナーの作品も展示されている。血縁関係はないと思われるが、比較的有名なデザイナーのようである。カーリナ・ベルグルンドの作品は原題はイケアでは「グラウドブローマ(幸せな花)」と命名されていたようだ。

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デザイナーということで、ヘルシンキ芸術デザイン大学(2010年に合併改組されて、アアルト大学となっている)の卒業生も多い。
ヘルシンキ芸術デザイン大学出身の、アンナ・フフタが描いた都市のデザインは、簡素化された図形の配置と色合いがいかにも北欧的である。

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リーサ・スーラ(ジョルジュ・スーラとは多分、無関係)が花の絵2点は、「キオト(京都)」と名付けられている。「京都は春の花の美しいところ」と聞いて命名したそうである。

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2021年10月 9日 (土)

美術回廊(69) 京都国立近代美術館 「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ー外から見る/外へ見せるー」&コレクション・ギャラリー 浅井忠「御宿海岸」ほか

2021年10月2日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡﨑の京都国立近代美術館で、「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ―外から見る/外へ見せるー」を観る。明治時代に来日したお雇い外国人の画家や、彼らと同じ時代を生きた明治時代の日本人画家達の作品を集めた展覧会。

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明治時代に日本にやって来て、洋画を教えたお雇い外国人、ワーグマン、ウィアー、ベレスフォードらが日本人が見落としていた日本の優れた風景を描き、それを見た日本人の画家達が日本の美質を再発見することになる。

1867年に始まり、1912年に終わった明治という年号。45年(43年間)という、昭和(64年。62年間)に次いで長い年号であり、前半と後半では大きく異なっている。

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1860年代は、フランスで後に印象派と呼ばれる絵画の作風が生まれた時代である。後に活躍するほとんどの画家が多かれ少なかれ印象派の影響を受けることになるのだが、お雇い外国人の画家達も、印象派のことは念頭に置いていたようで、彼らが描いた明治の日本は、光の降り注ぎ方が鮮やかである。

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また、描写の緻密さも特筆事項である。お雇い外国人として日本にやって来た外国人画家達は、日本人に洋画の手法を教え、自らのインスピレーションを深めると同時に、祖国へ未知の国「日本」を教えるという役目を担っていた。そのため、光の加減こそ印象派風であるが、描写スタイルそのものは印象派とは異なっている。写真を思わせるかのようなリアルなタッチの作品が多い。

最も展示作品が多い日本人画家は五姓田義松(ごせだ・よしまつ)である。ワーグマンやフォンタネージに師事した義松は、明治天皇御付画家の名誉を得ており、北陸地方や東海道への御幸に同行して訪れた場所の風景画をいくつも描いている。これらのうち、長野・善光寺、越前敦賀港、伊豆・三嶋大社の絵などを観ることが出来る。ワーグマンに師事していた時代には高橋由一と同門だったという五姓田義松。洋画と日本画の融合が試みられた時代であり、高橋に似た作風であるのもうなずける。

明治時代に風景画の第一人者とされた吉田博の作品も当然多い。光の移り変わりを題材にした版画なども多く手掛けた吉田博。写実的で動画的でもあるという、西洋と日本の融合への試みが、今回展示された作品のいくつかから伝わってくる。

古くから「子守」の文化があった日本だが、その様子は西洋人の目には面白く映ったようで、お雇い外国人画家達が子守の様子を描き、それが日本人画家による子守の再発見に繋がる。浮世絵が盛んであった江戸時代には子守を題材にした絵はほとんどなかったが、明治に入ると子守は重要な題材となる。

最後は日本の風景の至る所に配された花の絵で終わる。江戸時代から、日本の家々では園芸が盛んになり、庶民も家の片隅に花を植えていた。日本人は余り意識していないが、こうした風景は世界的には珍しいようで、これもまた海外からの視点を通して再発見された日本の美質といえるようだ。


「発見された日本の風景」は個人のコレクションによる展示会であり、4階のコレクション・ギャラリーでは、それを補う美術作品が展示されている。

まずは、ブーダン、シスレー、シニャック、マルケという、日本でいう幕末から明治時代に掛けて活躍した画家の作品が並び、お雇い外国人画家達への影響や同時代性を窺うことが出来る。

その後は、「発見された日本の風景」には登場しなかった日本人画家の作品が展示されている。いずれも京都国立近代美術館蔵のものだが、新たに購入した作品などもある。

浅井忠の「御宿海岸」は、千葉県の御宿(保養地として知られ、芥川龍之介など多くの文人が滞在している。全国的には童謡「月の沙漠」の舞台として有名である)を描いたものだが、この作品は長い間行方不明になっていたものだそうで、発見後初の展示となるようである。

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2021年8月28日 (土)

美術回廊(68) 京都文化博物館「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」

2021年8月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」を観る。
京都府立の施設である京都文化博物館も緊急事態宣言発出により、明日から休業に入るのだが、「小早川秋聲」展だけは引き続き展示が行われる予定である。

1885年生まれの小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)。鳥取県日野郡日野町の真宗大谷派の寺院・光徳寺の住職の子として生まれた秋聲(本名:盈麿。みつまろ)。母親は摂津三田(さんだ)元藩主・九鬼隆義の養妹であり、幼時を母の実家である神戸で過ごした。7歳から仏典を教わった秋聲は、父親が出世により本山である京都・東本願寺の事務局長となったため、共に京都に移住。9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。いったんは鳥取に戻った秋聲だったが、画家を志して二十歳の時に再び上洛。以降、88歳で他界するまで京都を本拠地として作品制作に取り組んだ。とはいえ、旅好きであった秋聲は、中国を皮切りにヨーロッパやアメリカまで出掛けて作品を残しており、旅を愛し、旅に生きた画家でもあった。

幸野楳嶺の門下である谷口香嶠に師事した秋聲は、谷口が京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の前身)の教師になったため、同校に入学しているが、南画や文人画など中国を本場とする絵画に憧れていたこともあって、すぐに退学して中国に渡り、水墨画を学んだ。
秋聲の絵は、中国絵画からの影響が濃厚である。そうした画風を持ちつつ、欧米の風物を描いたことが強い個性へと繋がっているように思える。

満州事変以降、中国や東南アジアに渡って戦争画を作成した小早川だが、1974年に没すると急速に忘れ去られてしまう。彼の名前が再び脚光を浴びるのは、戦争画の一つである「國之楯」が戦争画展で注目を浴びたここ数年のことであるという。ということで、小早川秋聲の回顧展は今回が初めてとなる。「國之楯」で注目されたが、他の作品が全く知られていないという事実が、今回の展覧会開催の端緒となったようだ。

戦争画と関連のある絵画と見ることも出来る「山中鹿介三日月を排する之図」で展示はスタートする。題材は日本であるが、画風は典型的な南画の系列に入る。歴史的人物を描いた絵としては他に「楠公父子」という作品があり、楠木正成と楠木正行が描かれている。忠臣を描くことが好きだったのかどうかは分からない。

京都市立絵画専門学校時代の習作であるという「するめといわし」は、日本画のタッチで西洋的な描写も視野に入れるということで、高橋由一の作風によく似ている。

中央の火の明かりが周囲の人々を浮かび上がらせる「露営之図」の技法はその後も何度も用いられることになる。


海外を題材にした絵としては、満州吉林、蒙古ゴビ砂漠、台湾(当時日本領)、香港(当時英国領)、インド(当時英国領)のタージマハール、エジプト(当時英国領)、イタリア・ナポリ、ローマ、南仏ニース、グリーンランド、パリ、アメリカ・グランドキャニンなどを描いた作品が展示されている。いずれも西洋的な技術や視点とは異なるスタイルが取られているのが興味深い。
小早川は、ヨーロッパの夕景を好んだそうで、光と影の配分に力を入れているという点で、日本の伝統的な絵画の技術も受け継いでいることが分かる。
一見、暖かでユーモラスなタッチで描かれている「巴里所見」も描かれているのは大道芸人達ということで下層階級の人々だそうである。

一方で、「國之楯」と共に展覧会のポスターにも採用されている「長崎へ航(ゆ)く」 は、長崎の出島へ向かうオランダ商船をオランダ人が見送るという構図を持った作品で、日本人的でない発想力を持った人だったことも分かる。

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出征家族に送ることを想定した戦争画では勇ましい日本男児の姿が描かれているが、戦場で眠る日本兵士を描いた「虫の音」などはユーモラスであり、小早川の個性が窺われる。

戦死した日本軍兵士を描いた「國之楯」は、構図も内容も衝撃的である。戦死した日本人を描くのは好ましいとはされなかったようで、依頼した陸軍省から一度は受け取りを拒否されたという。

敗戦後、戦犯とされるのは覚悟の上だったという小早川だが、従軍中に体調を崩しており、京都で依頼される仏画などを描いて晩年を過ごす。真宗大谷派の寺の出身ということで、蓮如上人を題材としていたり、無量寿経(大経)に出てくる「天下和順(てんげわじゅん)」をイメージした絵画を制作している。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起(天下は治まり、日や月が煌々と輝く 風雨は相応しい時に立ち、災害や疫病も起こることがない)」

 

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2021年8月13日 (金)

美術回廊(67) 京都国立近代美術館 「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)&京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年 第2回コレクション展」

2021年8月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)と京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年度 第2回コレクション展」を観る。

「モダンクラフトクロニクル」は、工芸品を中心とした展覧会。工芸品はどちらかというとアーティスト(芸術家)よりもアルチザン(職人)寄りであるため、芸術品と評価されない時代が長かった。特に日本では職人芸と芸術が引き離された形で発展したため、「工芸家は工芸家」と見なされることが今でも少なくない。

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1階に海外の作家による作品が並べられているが、これはこれまでに京都国立近代美術館で行われた工芸展に出展されたものが中心となっているようだ。

工芸作品には疎いため、知っている作家の名前を見つけることがほとんど出来ないが、理解するのではなく、「そういうもの」を受け入れる形で楽しむべき作品が多いことは分かる。理屈を言い出した途端に面白くなくなる作品群である。

ただ、想像と知識でもって理解すべき作品も勿論あって、里中英人の「シリーズ:公害アレルギー」は、水道の蛇口が徐々に破損されていく様を描いており、象徴的である。

益田芳徳の「1980年5月」という作品は、1980年5月のとある一日の新聞の一面が球状のケースの中に押し込まれているが、紙面ははっきりとは見えない。1980年5月を後で調べると、光州事件、日本のモスクワオリンピック不参加決定といった出来事が起こっていたことが分かる。また5月にはWHOが天然痘の根絶を宣言していた。
ただ、実際に一面を飾っていたのは、大平正芳内閣総理大臣とジミー・カーター米大統領の共同声明だったことが分かる。その直後、内閣不信任案が自民党内の反大平派が黙認したことによって通過し、衆議院は解散。翌6月12日に大平は過労が元で急死している。


第4章の「古典の発見と伝統の創出」には、河井寛次郎、北大路魯山人などのビッグネームが登場する。近藤正臣の親戚である近藤悠三の作品も展示されている。近藤悠三は人間国宝に指定されたが、近藤正臣の話によると、その途端に作品の値が跳ね上がったはいいが、高すぎて売れなくなってしまったそうで、「名誉は手にしたがお金は」という状態だったそうである。


4階展示室に場を移した第6章「図案の近代化 浅井忠と神坂雪佳を中心に」。現在の千葉県佐倉市出身(生まれは江戸の佐倉藩邸内)で、京都高等工芸学校(国立大学法人京都工芸繊維大学の前身)の教授としての活躍や、関西美術院の創設と後進の育成に尽力したことで知られる浅井忠。私が生まれ育った千葉県では郷土の偉人として教科書に載っていたり、小学校の廊下に肖像画が掛けられていたりする。京都での活躍でも知られるのだが、実際に京都で過ごしたのは死ぬまでの6年間ほどだそうで、決して長くはない。
フランスからの帰国後の京都時代に浅井は、当時のフランスで流行していたアールヌーヴォーを取り入れた陶芸作品の図案をいくつも作成。日仏工芸の融合に貢献したようである。


「令和3年度 第2回コレクション展」の展示では、冒頭に置かれた「西洋近代美術作品選」のアーシル・ゴーキーという画家の作品が面白い。

1904年、オスマントルコ統治下のアルメニアで生まれたアーシル・ゴーキーは、11歳の時にアルメニア人大虐殺によって母親を殺害され、アメリカに渡っていた父を頼って渡米。ボストンの美術学校に学び、抽象派やシュルレアリスムの影響を受けた独自の手法で高く評価されたが、少年期のトラウマに加え、度重なる怪我や病気を苦にして44歳の時に自ら命を絶っている。
「令和3年度 第2回コレクション展」のポスターにも選ばれた「バースデイ・グリーティング」は、いたずら書きのような自在感の中に、赤と緑の対抗色などを含めた計算された配置が存在感を放っている。

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2021年8月 9日 (月)

美術回廊(66) 京都市京セラ美術館 「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」

2021年7月30日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館・東山キューブにて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館の新館、東山キューブで、「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」を観る。京都市美術館が改修工事を経て京都市京セラ美術館となる際に、本館の東側に新設された東山キューブ。入るのは初めてである。

藤子・F・不二雄の代表作「ドラえもん」にインスパイアされた若手アーチスト達の作品を並べた「THE ドラえもん展」。東京では何度か開催されているようだが、京都で行われるのは初めてである。

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現在、東山キューブのみならず京都市京セラ美術館の各所にほぼ等身大(129.3cm)のドラえもん像がいくつも設置されており、自由に写真を撮ることが出来るが、「THE ドラえもん展」もいくつかの作品(映像作品が主になる)を除いて写真撮影可である。

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「ドラえもん」は1969年に連載開始、SF(少し不思議な)マンガとして構想されたことは有名である。アニメ第1シリーズは私が生まれる前年の1973年に始まっているが、半年後に制作会社が倒産して打ち切り。今に至るまで続いている第2シリーズは1979年に始まっているが、この第2シリーズは私は第1回放送から見ており(予告編も見た記憶がある)、アニメ「ドラえもん」と共に成長した世代に当たる。マンガも各誌に連載されており、単行本も買って読んでいた。


様々な作品が展示されているが、最初に飾られている村上隆の2つの作品がオリジナルのドラえもんに最も近い。タイトルは「あんなこといいな 出来たらいいな」で微妙に間違っている(「ドラえもんのうた」の歌詞は「こんなこといいな 出来たらいいな あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど」である。敢えて変えたのかも知れないが)。この作品は「ドラえもん」の名場面のパラフレーズで、藤子・F・不二雄が登場している場面や、「ドラえもん」ファンにはお馴染みのジャイアンのリサイタルシーンなども取り入れられている。

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蜷川幸雄の娘で、写真家・映画監督である蜷川実花の作品は、ドラえもんを理想の恋人に見立てて、女の子とデートする姿が捉えられてる。


後半は、映画版「ドラえもん」(大長編「ドラえもん」)に取材した作品が並ぶ。


1996年生まれの若手、れなれなの作品は、「のび太の新魔界大冒険」のクライマックス近くの場面を「黒板アート」として描いたものだが、黒と白墨のコントラストが絶妙であり、芸術性が高い。


ラストを飾るのは、坂本友由の「僕らはいつごろ大人になるんだろう」。タイトルは、武田鉄矢が歌った大長編「ドラえもん のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)」の主題歌「少年期」の歌詞に由来している。

「のび太の宇宙小戦争」のしずかちゃんを描いたものだが、顔はローティーンではなくハイティーンの少女風に変わり、スカートをたくし上げて絞るという構図はセクシーにしてエロティックである。
アニメ「ドラえもん」を子供の頃から見ている世代の男にとっては、しずかちゃんは初めて知る「可愛い」「理想的な」女の子であり、いわば擬似的な「初恋の女の子」になりうる存在である。そんな「女の子」が「女」に変わる瞬間、男側から見れば「女の子」でなく「女」と感じる瞬間というものを、この作品は上手く捉えているように思われる。

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