カテゴリー「京都市交響楽団」の195件の記事

2021年4月11日 (日)

コンサートの記(709) 現田茂夫指揮 京都市交響楽団第524回定期演奏会

2009年5月15日 京都コンサートホールにて

午後7時から京都コンサートホールで京都市交響楽団の第524回定期演奏会に接する。今日の指揮者は現田茂夫(げんだ・しげお)。

現田茂夫(愛称は「ゲンタ」)は、京都市交響楽団の常任指揮者である広上淳一と東京音楽大学において同窓であり、当然ながら知り合いである。現田は東京音楽大学卒業後、東京藝術大学でも指揮を学び、その後、オペラとコンサートの両方で活躍している。夫人はソプラノ歌手の佐藤しのぶ。以前は指揮者としてよりも、佐藤しのぶの旦那としての方が有名であった。

曲目は、前半がビゼーの歌劇「カルメン」より抜粋(メゾ・ソプラノ:福島紀子、テノール:松本薫平、バリトン:萩原寛明)、後半がシチェドリンの「カルメン組曲」(原曲:ビゼー)という興味深い組み合わせ。

今年の兵庫県立芸術文化センター・佐渡裕芸術監督プロデュースオペラの演目が「カルメン」なので、その予習にもなる。

京都市交響楽団による「カルメン」の音楽は、広上淳一指揮による実演を聴いているのでそれとの比較になるが、現田茂夫の方がテンポは平均的演奏に近い。だが、ハーモニーに関する感度の違いか、今日の演奏は広上指揮のものに比べると音がモワモワして団子状に聞こえた。

独唱者3人はいずれも見事な歌唱。現田の指揮もオペラでの豊かな経験を生かし、曲を楽しむには十分であった。

演奏は、後半のシチェドリンの「カルメン組曲」の方が更に良かった。弦楽と打楽器のための作品だが、打楽器奏者が様々な楽器を掛け持ちするため、視覚的にも面白い。現田は巧みにオーケストラを導き、聴き応えのある演奏に仕上げた。演奏終了後、盛んな拍手が現田を称えた。

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コンサートの記(708) 大友直人指揮京都市交響楽団第523回定期演奏会

2009年4月18日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第523回定期演奏会を聴く。指揮は桂冠指揮者の大友直人。

ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲と、シベリウスの交響曲第2番というプログラムである。


ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲のソリストは、ジェニファー・ギルバート。父親はニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリン奏者で現在は指揮者として活躍するマイケル・ギルバート、母親もやはりニューヨーク・フィルハーモニックのヴァイオリン奏者である建部洋子、兄は指揮者のアラン・ギルバートという音楽一家の出である。ジェニファーは現在、リヨン国立管弦楽団のコンサート・ミストレスを務めている。

ジェニファー・ギルバートのヴァイオリンは豊かで美しい音色が特徴。第一級のヴァイオリニストと見て良いだろう。

大友直人指揮の京響の演奏も充実していたが、金管がたまに安っぽい音を出すのが残念である。


シベリウスの交響曲第2番。大友は例によって力で押すが、シベリウスの本質を把握しているのか、力だけの演奏にはならない。第2楽章が押す一方の演奏になってしまったのは疑問だが、他の楽章ではオーケストラが鳴り渡り、トップを揃えた金管も輝かしかった。

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2021年4月 3日 (土)

コンサートの記(703) 広上淳一指揮京都市交響楽団第654回定期演奏会

2021年3月28日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第654回定期演奏会を聴く。指揮は京都市交響楽団常任指揮者兼音楽顧問の広上淳一。

ヴァイオリン独奏としてダニエル・ホープが出演する予定であったが、新型コロナウイルス感染拡大防止のための外国人入国規制により来日不可となったため、1月の京都市ジュニアオーケストラのコンサートでもヴァイオリン独奏を務めた小林美樹が代役として登場し、曲目も変更となった。

その曲目は、ドヴォルザークの序曲「自然の王国で」、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン独奏:小林美樹)、ドヴォルザークの交響曲第7番。

 

今日のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志が入る。第2ヴァイオリンの客演首席は大阪交響楽団の林七奈。
ドイツ式の現代配置での演奏だが、ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄りに置かれる。
管楽器の首席奏者はドヴォルザークの交響曲第7番のみの登場となる。

 

ドヴォルザークの序曲「自然の王国で」。広上の指揮は相変わらず冴えており、抒情美と清々しい音色と快活さを合わせ持った響きを京響から引き出す。

 

小林美樹が独奏を務めるブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番。ターコイズブルーのドレスで登場した小林は、持ち味である磨き抜かれた美音で勝負。音の美しさのみならず、力強さや音の広がり、表現の幅広さなど十分であり、優れた独奏を聴かせる。
広上指揮による京響の伴奏も描写力の高さと雰囲気作りの上手さが光る。

コロナ禍が訪れてから、ソリストによるアンコールが行われないケースが目立ったが(ソアレの場合は退館時間を早めにする必要があるということも影響していると思われる)、今日はアンコール演奏が行われる。曲目は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。音の純度が高く、静謐さと気高さが感じられる演奏であった。小林美樹もこのところ成長著しいようである。

 

ドヴォルザークの交響曲第7番。ドヴォルザークの交響曲第7番、第8番、第9番「新世界より」は、「後期三大交響曲」とも呼ばれるが、交響曲第7番は、第8番や「新世界より」に比べると演奏機会は多くなく、スラヴ的な要素が薄い分、ドヴォルザークならではの魅力には欠けている。

広上の表現であるが、第1楽章からドラマティック。リズム感が抜群であり、音にもキレがある。金管への指示を敬礼のようなポーズで行うのも特徴的。
京響は冒頭付近こそ音がかすれ気味のように感じられたが、次第に洗練度を高めていき、その上にドヴォルザーク的な濃厚さも加えた音色を聴かせていく。

第3楽章と第4楽章の出来が特に良く、スケール豊かで迫力ある音像が築かれる。ラスト付近ではアゴーギクも用いられ、スラヴ的な味わいも加えられていた。

 

演奏終了後、広上は、各奏者を立たせるが、大活躍したティンパニの中山航介には笑顔を向けるも飛ばす。中山も「えー、なんで?」という顔であったが、広上は大トリとして中山を立たせた。

その後、広上はマイクを片手に再登場。第一声が「疲れました」で客席の笑いをとるが、コロナの中で演奏会に駆けつけてくれたことへのお礼や、京都市交響楽団が京都市民の心を癒やす役割と担っていることや、ヨーロッパに代表されるように街のオーケストラを育てるのはその街の市民であることなどを述べた。
そして、京都市交響楽団副楽団長である北村信幸と森川佳明が異動によって京響を去るということで(京都市交響楽団は公営のオーケストラであるため、スタッフも音楽を専門としている訳ではなく、京都市の職員が交代で受け持っている)、広上がそれぞれの話を聞き(広上は、「愚息、娘なので愚か娘になるんでしょうが、受験に落ちてばっかりだったのが、森川さんから合格のお守りを頂いてから受かり始めた」と語る)、アンコールとしてドヴォルザークの「チェコ組曲」よりポルカが演奏される。ドヴォルザーク的なノスタルジックな趣と憂いと快活さを上手く表現した演奏で、今年度の最後の定期演奏会の掉尾を飾るのに相応しい音楽となった。

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2021年3月19日 (金)

コンサートの記(702) 高関健指揮 京都市交響楽団第513回定期演奏会

2008年6月6日 京都コンサートホールにて

午後7時より、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第513回定期演奏会を聴く。指揮は高関健。

曲目は、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」(1833/1834年稿)、松山冴花(まつやま・さえか)をソリストに迎えたバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番、オネゲルの交響曲第3番「礼拝(典礼風)」

高関健は1955年生まれ、桐朋学園大学の出身。1977年のカラヤン国際指揮者コンクールジャパンで優勝し、数年間カラヤンのアシスタントを務めたこともある。
構築の確かさと、力強い音楽作りに定評のある指揮者である。今年(2008年)の春まで15年以上に渡って群馬交響楽団の音楽監督を務め、この春からは札幌交響楽団の正指揮者に転じている。

以前は額を隠したおかっぱ頭というダサダサの風貌だったのだが、今は髪を少し短くして、以前より幾分外見が洗練された。


午後6時より、高関健によるプレトークがある。オネゲルの交響曲第3番「礼拝」で使用するためのピアノが舞台の奥に据えられていたので、そのピアノで楽曲の旋律を奏でながらの解説となった。


今日は全曲、ヴァイオリンが両翼に来る古典的配置での演奏。


メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」は、1833年に初演され、好評を得たが、メンデルスゾーンは出来に不満があったようで、直後から改訂に取りかかっている。しかし、改訂した楽譜が周囲から不評だったということで、翌1834年には作業途中で改訂を諦めたとのことである。しかし2001年に、メンデルスゾーンが改訂を進めていた「イタリア」の版が、ジョン・マイケル・クーパーの校訂によって「1833/1834年稿」として出版された。今日の演奏会はその楽譜を使っての演奏となる。


高関の指揮する「イタリア」は第4楽章を除いては高揚を抑えた端正な演奏であった。音は美しいけれど、あっさりとして小さくまとまっている感じがある。個人的には第1楽章から一貫して情熱と喜びに溢れた「イタリア」の演奏が好きなので、高関の表現はやや物足りなかった。

京響は弦は美しいが、金管は第1楽章でトランペットが破裂したような音を出し、第2楽章ではフルートの音が弱かったり、木管全体としてのハーモニーが美感を欠いていたりと、管楽器群の調子は今一つであった。

1833/1834年稿は、第2楽章の旋律がなだらかになっているのが一番印象に残った。

高関は第1楽章と第4楽章は指揮棒を持ち、第2楽章と第3楽章の大半はノンタクトで振っていた。抒情的な部分はノンタクトで振るようにしているようである。


バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。ソリストの松山冴花は、西宮の生まれ。9歳で渡米し、ジュリアード音楽院で修士課程まで学んでいる。エリザーベト王妃国際コンクール4位入賞が最も輝かしいコンクール成績ということで、コンクール歴はさほど華麗ではないが、今日のバルトークでは情熱的で力強い音楽を奏でた。技術も高く、良いヴァイオリニストである。

高関指揮の京響は編成を大きくしたこともあると思うが、音に厚みがあり、金管も輝かしくて、メンデルスゾーンよりも優れた演奏を繰り広げた。


アルチュール・オネゲルの交響曲第3番「礼拝」。
フランス生まれで、フランス六人組の一人でありながら、オネゲルは両親がスイス・ドイツ語圏の出身であり、オネゲル自身もスイス国籍を持ち続け(フランスとの二重国籍)、フランス語とドイツ語を操った。
そのことが影響していると思われるが、オネゲルの作品はフランス六人組の中では飛び抜けて構造的であり、メロディーよりも強靱な構築感と力強い響きを特徴としている。

ガッチリとした構造作りには定評のある高関の指揮だけに、この作品は文句なしの名演となった。弦も管もすこぶる好調。増強された金管の威力は抜群であり、第2楽章におけるラメのような、もっと気障にいうと星々の煌めきのような独特の音の輝きも印象的であった。


バルトークとオネゲルが20世紀の作曲家であるということもあってか、空席も目立つ演奏会であった。客層も白髪の方達と、二十代と思われる若者が目立ち、中間層が薄い。年配の方はいつも京響の演奏会に来ている人で、若者達は現代音楽に抵抗感が少ないので聴きに来たと思われる。


最後に、この6月一杯で京都市交響楽団を退団する、コンサートマスターのグレブ・ニキティンに花束が渡された。

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2021年3月12日 (金)

コンサートの記(701) びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー作曲 歌劇「ローエングリン」 2021.3.7 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか

2021年3月7日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホールプロデュースオペラ ワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。ワーグナー作品を積極に演奏して、近年では「日本のバイロイト」とも呼ばれるようになっているびわ湖ホール。楽劇「ローエングリンの指輪」に4年がかりで挑み、昨年は最終作である楽劇「神々の黄昏」が新型コロナによって公開上演こそ中止になったものの無観客上演を行い、同時配信された映像が世界各国45万人以上の視聴を記録するなど、話題になった。そして今年は人気作の「ローエングリン」。コロナ第3波が心配であったが上演に漕ぎ着けた。だが、昨日今日と2回公演のうち、今日の公演は、当初は外国人キャスト2名が出演する予定だったのだが、入国制限による来日不可ということで日本人キャストに変更になり、更にエルザ役の横山恵子が体調不良のため降板し、元々カバーキャストとして入っていた木下美穗子が出演することになった。関西は緊急事態宣言が解除され、街に人も多くなったが、余波はまだ続いている。

今回はステージ前方の2ヵ所に台を築いてのセミ・ステージ形式での上演である。映像と照明を駆使し、演技と衣装も凝っていて、セミ・ステージではあるが十分にドラマを楽しめるようになっている。

指揮は、びわ湖ホール芸術監督である沼尻竜典。演奏は京都市交響楽団。演出は粟國淳(あぐに・じゅん)。出演は、斉木健詞(ドイツ王ハインリヒ)、小原啓楼(おはら・けいろう。ローエングリン)、木下美穗子(エルザ・フォン・ブラバント)、黒田博(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、八木寿子(やぎ・ひさこ。オルトルート)、大西宇宙(おおにし・たかおき。王の伝令)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーと客演歌手による混成である。

パンフレットは無料ながらボリューム十分で読み応えがあり、びわ湖ホール プロデュースオペラの良心が窺える。

 

京都市交響楽団はステージ前方を歌手達に譲り、舞台の中央部で演奏。舞台奥部にはひな壇が設けられていて、そこに合唱が陣取る。合唱とオーケストラの間には、ビニールを張り巡らした柵が設けられており、飛沫対策が取られている。なお、合唱は全員不織布マスクをしながらの歌唱である。合唱スペースの後ろにスクリーンが下りていて、ここに様々な映像が投影される。

オルトルート役の八木寿子は真っ赤なドレスを纏っており、オルトルートが主役となる場面では照明も赤に支配される。一方、エルザが主役の場面では神秘的な青系の照明が用いられる。

びわ湖ホール大ホールの前から3列目までは飛沫対策のため空席となっているが、ここにモニターが4台ほど設置されており、歌手達はモニターで沼尻の指揮を確認しながら歌うことになる。更に第2幕や第3幕では、金管のバンダが、空席になっている前方席の両側で壁を背にしながらの演奏を行う。

今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田尚泰。泉原隆志がフォアシュピーラーに入る。弦楽器の配置はドイツ式の現代配置がベースだが、コントラバスは最後列、合唱スペースの前に横一線に並ぶ。管楽器はコンサートの時とは違い、下手側のヴァイオリン奏者の背後に木管楽器群やハープが並び、上手側のチェロ奏者やヴィオラ奏者の後ろにティンパニなどの打楽器や金管楽器が入る。
バンダが多用されるため、トランペットの客演奏者が多い。またオルガンの演奏を桑山彩子が務める。

それまで歌手達が主役で、管弦楽は伴奏だったオペラだが、ワーグナーはオーケストラと歌手が一体となった一大交響楽を構想し、実現していった。その後、総合的なスタイルは更に追求され、楽劇というジャンルを生むことになる。

ワーグナーは子どもの頃は音楽よりも文学を好んでおり、シェイクスピア作品などを愛読。音楽家よりも文学者を夢見る少年であった。ということもあって、ワーグナーは自身の歌劇や楽劇の台本のほとんどを自ら執筆しており、「ローエングリン」もまたワーグナーが台本から音楽に至るまでを一人で手掛けた作品である。

ワーグナーはかなりハチャメチャな人生を送った人物であり、作曲家としては遅咲き。もっとも早い時期から優れた音楽の才を示していたのだが、人間関係の形成が下手だったり、倫理面で問題があったりしたため、人から受け入れられにくかった。「音楽史上最も性格が悪かった有名作曲家は誰か」というアンケートを行ったら、おそらく1位になるのはワーグナーであろう。その後、革命運動に参加したことで指名手配され、スイスでの亡命生活を余儀なくされる。革命運動参加の直前に完成した「ローエングリン」だが、上演の機会はドイツ国内に限られたため、ワーグナーは自作でありながら長きに渡って「ローエングリン」を観る機会を得ることが出来なかったという。初演は、1850年。フランツ・リストの指揮によりワイマール宮廷劇場で行われた。

 

事件や進行、感情などは全て歌われるため、筋の把握自体はそれほど困難ではない作品である。
先日、NHKオンデマンドで観た2018年のバイロイト音楽祭での「ローエングリン」について書いた際にもあらすじは記したが、もう一度確認しておく。

舞台となっているのは、現在のベルギー北部にあったブラバント公国である。先のブラバント大公が亡くなり、エルザとジークフリートという大公の子が残される。だが、ある日、森に出掛けたエルザとジークフリートは迷子になり、エルザは戻ったが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントを訪れたドイツ王ハインリヒは、ブラバントの貴族、フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵から、「エルザがジークフリートを殺害し、継承権を独り占めにしようとしている」との告発を受け、裁判を行うことにする。
被疑者であるエルザであるが、申し開きをするよう言われても、「白鳥の曳く小舟に乗って騎士がやって来る」といった、否認とは全く関係のない話をし始める。なんとも妙なのだが、実際に白鳥の曳く小舟に乗った騎士(ローエングリンである)がやって来る。そしてエルザの窮地を救うことになる。
フリードリヒは、ブラバントに貢献する数々の人材を生んだ名家出身のオルトルートと結婚した。実はオルトルートは魔女であり、フリードリヒは妻となったオルトルートの助力を得ていて、そのことで自信満々であったが、騎士と決闘してあえなく敗れ去る。

余り触れられていないことだが、エルザもまた予知能力のようなもの、あるいは思い描いた通りの騎士を呼び寄せる力を持っており、明らかに異能者である。「ローエングリン」は実は異能者である女性二人の対決という側面を持っているように思われる。

騎士は名を明かさず、正体を問うてもいけないと人々に誓わせるのだが、エルザにだけは正体を明かす可能性を話す。これがその後の悲劇への第一歩となる。オルトルートはエルザに、「後ろ暗いところがあるから正体を明かせないのではないか」「本当に彼の身分は貴族なのか」と疑問をぶつけ、エルザの心を揺るがす。

結婚式が終わり、二人きりとなった騎士とエルザだが、エルザは騎士に正体を明かすよう迫る。騎士は、「信じる力があれば名など知らなくてもいい」という意味の言葉を繰り返す(「ロミオとジュリエット」のバリエーションのように見えなくもない)。知られたなら全てが終わることを知っているからだ。だが、エルザは騎士を信じることが出来ず、破滅へと向かう。

絶対的な信仰の時代であった中世(それゆえ進歩も滞り、「暗黒の中世」などと呼ばれることになる)が終わり、科学の発展により信仰の屋台骨がきしむ時代が訪れていた。「神」の存在そのものへの疑問である。その代表格であるニーチェはワーグナーのシンパだった。
ニーチェはワーグナーに対して信仰に近い心酔を示していた。おそらくニーチェにとってはワーグナーこそが神に成り代わって世界を再生させる存在でもあったのだろうが、やはりこの関係もニーチェのワーグナーに対する不信により終わりを告げている。

自己を神格化するような性格であったワーグナーは、音楽に多大なる影響を与えたが、それが調性音楽の崩壊という一種のバッドエンドを招いている。

神の時代が終わり、人間の時代が来る。これは政治や宗教のみならず文化でもそうであり、音楽にも当然ながら反映される。そしてその人間の欲望の肥大化が、二つの世界大戦など20世紀の悲劇を招き、音楽も時の政権によって利用されることになるのだが、それはまだ先の話である

 

私個人の話をすれば、――興味がある人は余りいないと思われるが――、京都に移住後、真宗大谷派の門徒としての信仰生活に入るようになった。宗教色の余り強くない関東で育った人間にとって京都で生きるためにはそれは必須であるように思われた。どの宗教や宗派を選ぶかから始まり、最終的には父方の家の宗派である真宗大谷派を選ぶ。人間としての軸の創造である。高村光太郎的に言えば、地理的な意味ではないが「ここを世界のメトロポオルとひとり思」うことにしたのだ。ただ実感するのは、今の時代に宗教色の弱い地域に生まれ育った人間が絶対の信仰を得るのは難しいということだ。親鸞ですら弥陀の本願を信じ切れずに苦悩した、況んや~をやである。
絶対的な信仰は、心のみならずあらゆるものの安寧へと結びつく。最近では唯識思想を学ぶなど、知識が広がることへの喜びも覚える。だがそれは、基本的には知的満足においてである。理論体系に納得することは出来ても信じることは難しい。それが私のみならず現代に生きる人間の宿命である。信じることが出来たなら楽になれることはわかるのだが、それは不可能なのだ。

 

一方で、信念は狂信へと繋がる歴史を生んだ。石原莞爾が構想に関与した満州国は傀儡国家なのは間違いないが、日蓮宗国柱会の人間であった石原は本気で日蓮聖人が説いた理想郷を満州の地に生むつもりだったよう思われる。そしてその信念は、結局、悲劇で終わる。

ワーグナーを愛好したヒトラーはゲルマン民族の優越を信仰した。客観的に見れば異様にしか見えない彼の盲信は、世界的な災禍を招くことになった。

彼らは本気でユートピアの到来を信じており、それが破局へと繋がった。

そうした歴史を知った上で、まだ絶対的な何かを信じることが出来るかということだが、21世紀に入ってから、別の形での「信仰」が顕在化するようになった。従来からあったがそれが強化された形である。それを呼び寄せた者達が破滅へと向かうのは歴史的にも明らかなのだが、人々は宗教とはまた違った形の「信仰」を止めようとはしない。今回の演出では、呼び寄せた者であるエルザの最後は明確には描かれていないが、本来の筋にある彼女の破滅は、呼び寄せながら不信に陥る人間の弱さと罪業の結果であるようにも思う。信じることも信じないことも悲劇である。

 

ローエングリンとエルザのこの世界からの退場と共に、絶対的な神のいなくなった世界が始まる。おそらくそれは絶対王政の終わりとリンクしている。ワーグナーも参加した社会主義革命、それは絶対的な存在を否定する行為でもあり(この時点では却って独裁を招く形態であるとの認識を持っている人はほとんどいなかったはずである)、同時に絶対的な孤独を招く行いでもある。自由を目指す行為は、絶対的な存在の前での平等を崩してしまう。歴史を辿れば、絶対的な神のいなくなった世界では、神に成り代わろうとする英雄気取りの者達が次から次へと現れ、新たな「信仰」を生み、別の形での犠牲者を生んでいった。

 

劇の内容に関する考察はここまで。演奏であるが、なめらかな響きと輝きと神秘感を合わせ持った京都市交響楽団の演奏が見事である。
関西では、びわ湖ホール以外でも演奏を聴く機会の多い沼尻竜典。キビキビとした音運びが印象的であるのと同時に、コンサートレパートリーではややスケールの小ささも感じられる指揮者であるが、オペラの演奏に関してはドラマティックな音楽作りといい、語り口の上手さといい、優れた適性を示している。スケールも雄大であり、彼には絶対音楽よりもこうした物語性のある音楽の方が向いているようだ。沼尻も十八番がなんなのかよく分からない指揮者なのだが(マーラーやショスタコーヴィチは良い)、オペラの指揮に関しては全幅の信頼を置いてもいいように思う。

歌唱も充実。オーケストラよりも前で歌うということもあるが、凄絶なうねりを生むワーグナーの音楽と、それを見事に具現化する沼尻と京響と共に壮大な音の伽藍を築き上げる。
来日経験も豊富な某有名指揮者から、「日本人にワーグナーなど歌えるわけがない」と見下されてもそれを受け入れざるを得なかった時代が、遠い過去のことになったように思える。

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2021年3月 1日 (月)

コンサートの記(699) 井上道義指揮 京都市交響楽団第508回定期演奏会 ハイドン「朝」「昼」「晩」

2008年1月25日 京都コンサートホールにて

午後7時より、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第508回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は京都市交響楽団(京響)の第9代常任指揮者を務めた井上道義。

ハイドンの初期交響曲、交響曲第6番「朝」、交響曲第7番「昼」、交響曲第8番「晩」という、人を食ったようなタイトルを持つ3つの交響曲を並べたプログラムである。

外連味たっぷりの指揮が持ち味である井上道義。「最もピリオド・アプローチの似合わない日本人指揮者」のトップを小林研一郎と争うタイプの指揮者だったのだが、何故か最近、ピリオド・アプローチに手を出した。ニコラウス・アーノンクールが2005年の京都賞を受賞した記念に、国立京都国際会館で京都フィルハーモニー室内合奏団相手にピリオド・アプローチの公開ワークショップを行っているのだが、井上はそこにも顔を見せていたそうである。

京都コンサートホールのステージを見て、まず苦笑。
京都コンサートホール大ホールのステージは、管楽器奏者や打楽器奏者が指揮を見やすいように、ステージ後方がコンピューター操作によってせり上がるようになっている。そのせり上がりを目一杯利用して、ステージ後方のせりを壁のようにしてしまい、ステージ面積が通常の半分以下になっている。
ピリオド・アプローチによるハイドンということで小編成での演奏であり、それを視覚的に強調するようになっているのだ。のっけから遊び心全開である。最後部のせりは上げず、ステージ後ろから見ると、ステージと客席(ポディウム席)の間に空堀が掘られたようになっている。その空堀の底にライトが仕込んである。何かやりそうである。


オーケストラのメンバーが登場し、チューニングが終わる。それとほぼ同時に見るからにやる気満々の井上道義が登場、演奏が始まる。
予想通り、ユーモアたっぷりの指揮姿。ただ余りに大袈裟で、徐々に井上のナルシシズムが鼻につくようになる。
ピリオド・アプローチというと、ビブラートを抑えめにした透明な弦の音と、力強い管の音が特徴で、サー・サイモン・ラトルやパーヴォ・ヤルヴィ、ダニエル・ハーディング、サー・チャールズ・マッケラスなど、現代楽器によるピリオド・アプローチを得意とする指揮者の演奏を聴くと、アグレッシブな音にこちらの血が騒ぐ。
井上の指揮する京響は確かに音はきれいだけれど、生命力にはいくぶん欠ける。井上が、音楽と同等かそれ以上に自身の指揮姿の演出に力を入れているのも気になる。

交響曲第8番「晩」の第4楽章のような激しい音楽の演奏がやはり一番出来が良い。井上はピリオドはやらない方がいいんじゃないだろうか。ピリオドをやっている井上道義というのはどこかギャグ的である(そこが井上の狙いなのだろうが)。


前半が「朝」と「昼」、後半が「夜」の演奏。どの曲も20分ちょっとの作品なので、後半はかなり早い時間に終わる。ということでアンコール演奏(というより隠れプログラム)がある。やはりハイドンの交響曲第45番「告別」より第4楽章。
交響曲第45番「告別」第4楽章は、曲が進むにつれて演奏している楽器がどんどん減っていくという特異な構造を持つ。

ハイドンのご主人様であったニコラウス・エステルハージ候が、ある年、夏の離宮で長期滞在したため、ハイドンの部下である楽団員達は妻や子の待つ実家に戻れず嘆いていた。その状況を見るに見かねたハイドンが作曲したのが「告別」である。第4楽章で、楽団員達が一人、また一人と譜面台の上のロウソクの灯を吹き消して退場するのを見たエステルハージ候は、その意図を悟り、すぐさま離宮での生活を打ちきりにしたという。

今回は、初演時の演出を取り入れる。照明が抑えられ(ここで空堀の下のライトが活躍する)、各々の譜面台の上に置かれたロウソクに灯が点った状態で演奏がスタート。京響のメンバーは曲が進むにつれてどんどんステージを去っていく。最後は暗闇に。
いかにも井上好みの演奏会であった。

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2021年2月23日 (火)

コンサートの記(696) 小泉和裕指揮 京都市交響楽団第653回定期演奏会

2021年2月19日 京都コンサートホールにて

午後6時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第653回定期演奏会を聴く。指揮は小泉和裕。

緊急事態宣言発出により、チケットの発売が遅れた公演。定期会員にあたる京響友の会の会員でS席とA席は埋まったため、それ以外の席を1回券として発売。午後8時まで公演を終える必要があるため、開演時間を通常の午後7時から1時間早め、曲目も変更。当初、ヴァイオリン独奏を務める予定だったクララ=ジュミ・カンが外国人全面入国禁止措置により来日出来なくなったため、代役を南紫音(みなみ・しおん)が務める。

京都市出身の小泉和裕。京都市立堀川高校音楽科(現在の京都市立京都堀川音楽高校の前身)を経て、東京藝術大学指揮科に入学。第2回民音指揮者コンクール(現在の東京国際音楽コンクール指揮部門)で第1位を獲得し、1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創設に参加(新日フィルは日フィル争議によって生まれており、実質的には分裂である)。その後、ベルリンに留学し、オペラの指揮法などを学ぶ。翌1973年に第3回カラヤン国際指揮者コンクールで第1位を獲得し話題となる。カラヤン国際指揮者コンクール優勝の特典は、「ベルリン・フィル演奏会での指揮」であり、小泉もベルリン・フィルとの初共演を果たしている。1975年にはベルリン・フィルの定期演奏会の指揮台にも立ち、またもう一方の雄であるウィーン・フィルともザルツブルク音楽祭で共演を果たしている(定期演奏会への登場はないようである)。東京都交響楽団とのコンビで知られるが、出身地の関西でも大阪センチュリー交響楽団の首席客演指揮者や音楽監督(橋下府政よってオーケストラへの補助金が打ち切られる可能性が示された時の音楽監督であり、演奏会の前にトークを行い、楽団の危機を訴えたことがある。大阪府が中心になって創設された大阪センチュリー交響楽団は大阪府との関係を解消して日本センチュリー交響楽団として再出発することになった)を務め、現在は九州交響楽団と名古屋フィルハーモニー交響楽団の音楽監督、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の特別客演指揮者を務め、東京都交響楽団からは終身名誉指揮者の称号を得ている。

佐渡裕が若い頃に同郷の先輩である小泉のアシスタントを務めていたことがあり、佐渡の著書にもその頃の小泉の姿が描かれているが、親分肌で人を喜ばせるのが好きな性格を窺い知ることが出来る(リハーサルの前に「そこで美味しいタコ焼きを見つけた」というので、楽団員全員分買ってきて振る舞うなど)。
海外でのキャリアもあり、1983年から1989年までカナダのウィニペグ交響楽団の音楽監督を務めている。

曲目は、ワーグナーの歌劇「リエンツィ」序曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:南紫音)、ブラームスの交響曲第1番。

小泉は譜面台を置かず、全曲暗譜での指揮である。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。フルート首席の上野博昭、オーボエ首席の髙山郁子、クラリネット首席の小谷口直子、ホルン首席の垣本昌芳はブラームスのみの出演である。第2ヴァイオリンの客演首席には今日は下田詩織が入る。
ドイツ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄りに置かれ、指揮者の正面にはトランペットやトロンボーンが配される。

平日の午後6時開演だと、駆けつけるのが難しい人もいると思われるが、入りは状況を考えれば悪いという程ではない。

ワーグナーの「リエンツィ」序曲。小泉らしい明快な演奏で、音の輝きと影の部分の描きわけが上手い。いわゆる「ワーグナーっぽい」演奏ではないかも知れないが、コンサートの幕開けには相応しい選曲と解釈である。

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。三大ヴァイオリン協奏曲の一つであり、知名度は最も上で、冒頭のヴァイオリンの旋律は誰もが一度は聴いたことがあると思われるが、コンサートのプログラムに載る回数は、三大ヴァイオリン協奏曲の残る二つ、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とブラームスのヴァイオリン協奏曲、そして三大には入らないが演奏頻度はナンバーワンだと思われるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲に比べると多くないように思われる。繊細にして優雅且つ憂いを帯びた曲調は日本人が最も好みそうであるが、最近は明るくて勢いのある曲の方が人気なのかも知れない。

南紫音は、1989年生まれの若手。福岡県北九州市の生まれであり、2005年に北九州市民文化奨励賞、2006年には福岡県文化賞を受賞している。北九州市はNHK交響楽団のコンサートマスターである“MORO”こと篠崎史紀の出身地であり、南も篠崎の両親である篠崎永育と美樹の夫妻にヴァイオリンを師事している。
2004年にナポリで行われた第13回アルベルト・クルチ国際ヴァイオリン・コンクールに15歳で優勝。ロン=ティボー国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門やハノーファー国際ヴァイオリン・コンクールで2位入賞などコンクール歴も華麗である。

南は名前にある紫ではなく、濃紺のドレスで登場。弾き始めは現在の一般的な速度に比べるとやや遅めで、優雅な旋律を愛でるように奏でる。技術よりも美音で聴かせるタイプだが、磨き抜かれた音が心地良く、技術も高い。他の有名ヴァイオリニストに比べると個性の面で弱いかも知れないが、音楽性自体は優れている。

ブラームスの交響曲第1番。冒頭は悲劇性を強調せず、流麗であるが、木管などの内声がクッキリと聞き取れる見通しの良い演奏である。室内楽的と呼ぶことも可能かも知れない。そこから音が徐々に熱していき、激しいぶつかり合いを見せるようになる。

ブラームスの交響曲第1番は、ベートーヴェンの交響曲を意識しており、「苦悩から歓喜へ」という物語性を持つが、今日の演奏は物語に従うのではなく、音そのもののドラマを描き出しており、京響のパワーも加味された熱い演奏となるが、暑苦しさには陥らず、峻烈だが獰猛ではない絶妙なバランスによる音の闘いがステージ上で繰り広げられる。

第2楽章の泉原隆志のヴァイオリンソロも美しく、ホルンの垣本昌芳とのやり取りも見事である。

フルートの上野博昭、オーボエの髙山郁子、クラリネットの小谷口直子の演奏も冴えまくっている。ティンパニの中山航介の抜群のリズム感と適切な打撃音の創造も見事だ。

フォルム重視の小泉だが、第4楽章ではアッチェレランドを行うなど盛り上げ方も上手く、金管のコラールも神々しくて、京響が演奏した数多くのブラームスの交響曲第1番の中でもトップレベルの演奏となった。

京都市交響楽団の卓越した技術力あってこその名演であり、小泉のやりたい演奏が可能になったのも京響の成長と充実に拠るところが大きい。ともあれ、小泉本人も「会心の出来」と確信したはずで、緊急事態宣言の中で成し遂げられた勝利への狼煙のような特別な演奏会となった。

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2021年2月13日 (土)

コンサートの記(695) 下野竜也指揮 京都市交響楽団 京都ミューズ フォーレ「レクイエム」+林光「木琴協奏曲・夏の雲走る」(日本初演)

2007年7月14日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールへ。台風が接近中であり、たまにどしゃ降りになる。

今日のコンサートは、下野竜也(しもの・たつや)指揮京都市交響楽団(京響)の演奏で、前半はメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」と林光の木琴協奏曲「夏の雲走る」(日本初演)の演奏。木琴独奏は通崎睦美(つうざき・むつみ)。
後半は、京都ミューズ・フォーレ・レクイエム合唱団を加えて、フォーレの「レクイエム」が演奏される。ソプラノ独唱:日紫喜恵美(ひしき・えみ)――今日のコンサートは読みにくい苗字の人が多いなあ、他人のことは言えないけれど――、バスバリトン独唱:片桐直樹。

下野竜也は1969年、鹿児島県生まれの若手指揮者。見るからに「薩摩隼人」という風貌の持ち主である。若手としてはオーケストラを鳴らす術に長けており、「フィンガルの洞窟」は迫力がありながら細部までの目配りも怠らない好演であった。

林光は現代の作曲家としては平易な作風を特徴とする。木琴協奏曲はリズミカルでユーモラスな木琴独奏が実に楽しい。通崎睦美も遺漏のない演奏。下野指揮の京響もリズムの良い伴奏を奏でた。
演奏終了後、客席にいた林光がステージに上がり、聴衆からの喝采を浴びる。


京都ミューズ・フォーレ・レクイエム合唱団は、今回の演奏会のために編成されたアマチュア合唱団。京都市民の参加、自主運営で、今年の1月から今日のために練習を積み重ねてきた。総勢は200名を超える、ってそんな大編成だったらプロの合唱団でも声がずれるぞ。
こちらも、技術面は期待していない。それに私は合唱は聞き込んでいないので詳しくもなく、良し悪しがはっきりわかるわけでもない。
やはり声のズレはあったけれど、大編成のアマチュア合唱団にしては良い部類に入るのではないだろうか。

フォーレの「レクイエム」は、私の大好きな曲。台風だろうか何だろうが聞き逃すわけにはいかない。
ちなみに、先月も大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でフォーレの「レクイエム」は演奏されたのだが、指揮予定の大植英次が突然のめまいにより緊急降板するというハプニングがあった。

下野竜也の指揮はやや速めのテンポを基調とした若々しくも輪郭のクッキリした音楽を作り出す。京響は金管、特にホルンの音色が輝かしい。

ソプラノ独唱の“ピエ・イエス”は、満足するのが非常に難しい曲。オペラ歌手が歌うと(今日のソリストの日紫喜恵美もオペラで活躍している)ドラマティック過ぎて、曲の持つ楚々とした旋律美が壊されてしまう。もっともそう感じるのは、ミシェル・コルボという指揮者がボーイ・ソプラノや、ボーイ・ソプラノに近い声質を持ったソプラノ歌手にソリストを務めさせた名盤が複数存在するからなのだが。
日紫喜恵美も少しドラマティックに過ぎる箇所があったが、曲の雰囲気にはそこそこ合っていたのではないかと思う。

終演後、花束贈呈がある。指揮者の下野竜也が受け取った花束を手にステージ奥へと進み、ポディウム席に陣取っていた女声コーラス陣に花束を投げて渡す。粋なことをやる。

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2021年1月28日 (木)

コンサートの記(687) 高関健指揮 京都市交響楽団第652回定期演奏会

2021年1月24日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第652回定期演奏会を聴く。元々はアレクサンドル・スラドコスキーが指揮台に立つ予定だったが、新型コロナウイルスによる外国人入国規制により来日不可となり、代わって昨年3月まで京都市交響楽団常任首席客演指揮者を務めていた高関健がタクトを振るうことになった。

曲目も変更となり、ベートーヴェンの交響曲第4番とショスタコーヴィチの交響曲第5番となる。前の見えない迷宮に迷い込んだような序奏を持つベートーヴェン交響曲第4番は、運命に打ち勝つ交響曲第5番とセットで演奏されることがコロナ禍以降増えているが、高関は少し捻りを加え、ベートーヴェンの交響曲第5番ではなくショスタコーヴィチの交響曲第5番との組み合わせできた。ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、ベートーヴェンの交響曲第5番をなぞる形で書かれたというのが定説であり、同じようなテーマをより現代的に提示した作品を選んだことになる。

 

ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。コントラバスは舞台最後部に横一列に並ぶ。クラウディオ・アバドやクルト・マズアも好んだ、最も古典的な配置であり、山形交響楽団がこの形で演奏する時には特別な名前が付いているが、京響なのでそうした名称は用いられない。高関はこのシフトを好んで用いる。
この配置だと、楽器による音の受け渡しが確認しやすく、視覚的にも面白い効果を上げている。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。今日は管楽器の首席奏者はショスタコーヴィチ作品のみの出演。オーボエ首席の髙山郁子は前後半共に出演することが多いが、彼女も今日はショスタコーヴィチのみの出演で、ベートーヴェンは客演の髙崎雅紀がトップの位置でオーボエを吹いた。

演奏の出来は、ショスタコーヴィチ作品の方がはるかに良い。

 

ベートーヴェンの交響曲第4番。ピリオドアプローチを援用しており、弦楽のビブラートは控えめ。ところによって語尾を短くする。バロックティンパニの強打が効果的であり、生命力豊かであるが、全てのパートの音圧が強いため、主旋律が埋もれがちで、ところによっては混濁した印象を受けてしまう。最も力のある現役日本人指揮者の一人に数えられながら90年代以降「壁に当たっている」と言われ続ける高関健。確かに音を積み上げる技術については一流で、ブルックナーや現代音楽の指揮では高い評価を得ているが、流れの良さやしなやかさを犠牲にしている嫌いもある。なかなか両立は難しいということでもある。
京響も管楽器奏者の指が絡まったりと細かな傷があったが、フォルムのしっかりした演奏を繰り広げる。

 

ベートーヴェンも悪い演奏ではなかったが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番は高関の音楽性に合っており、桁違いに優れた演奏となった。首席奏者を揃えた管楽器もパワフルであるが、弦のボリュームと鋭さがショスタコーヴィチの才気を表し、打楽器の鳴りも凄絶である。
スケールとパースペクティヴを築く能力に長けた高関。ホール内を揺るがすほどパワフルな演奏に仕上げるが、飽和することはない。
爆発力と抒情性を兼ね備え、第3楽章のオーボエやクラリネットのソロの哀切さの表出も見事だが、ここは高関が奏者に任せている部分が多いように見えた。

第3楽章は哀歌と解釈される場合も多いが、曲調から勘案するに鎮魂歌と考えた方が自然なように思える。ショスタコーヴィチの生きた時代はスターリンによる粛清の嵐が吹き荒れており、無辜の民が数多く命を落としていた。ショスタコーヴィチの知り合いも、一人また一人と消えていったが、故人を犠牲者として偲ぶことさえ罪と見なされかねない時代であった。ショスタコーヴィチは第4楽章のインパクトによって印象に残りにくくなるこの楽章に鎮魂の意を込めたのだろうか。

その第4楽章は、「皮相なまでの凱歌」と呼ばれる行進曲である。今では偽書であるとされているソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』で、第4楽章について「強制された喜び」であると、ショスタコーヴィチは語ったとされる。ただ、ラストの展開を見ると、勝利と見なすことすら疑わしく、ショスタコーヴィチが本当は何を込めたのか分からなくなってくる。
メッセージを一つの演奏の印象から読み解くのは危険であるため、それ以上には踏み込まないが、高関と京響の演奏は、この曲の異様さを十分に炙り出していた。

「交響曲としては20世紀最大のヒット作」と言われるショスタコーヴィチの交響曲第5番。ショスタコーヴィチの他の作品の多くが聴けるようになった今では、交響曲第5番をショスタコーヴィチの最高傑作と見なす向きは減りつつあるが、それでも特別な楽曲であることに違いはなく、ショスタコーヴィチがこの曲に込めた謎に挑む人は今後も絶えないであろう。

充実した響きを堪能したコンサートであった。

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2021年1月22日 (金)

コンサートの記(686) ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサート

2021年1月17日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、ロームシアター京都開館5周年記念事業 京都市交響楽団×石橋義正パフォーマティブコンサートを聴く。出演者側というよりも入場者側の問題だったのか(午後2時を過ぎてから客席に入ってくるお客さんが結構いた)、開演は15分以上押した。

先週の「雅楽――現代舞踊との出会い」とのセット券(S席のみ)も発売されていたが、先週の同じ時間帯に京都市交響楽団は京都コンサートホールでニューイヤーコンサートを行っていたため、京響のファンはニューイヤーコンサートを優先させる人が多かったはずで、多分、それほど売れなかったと思われる。それでもヘアスタイルからバレエをやっているとわかる女の子達が集団で訪れるなど、バラエティに富んだ聴衆が集っているのが見て取れる。

今日の公演はタイトル通り、京都市交響楽団と演出家・映画監督で京都市立芸術大学美術科教授でもある石橋義正のコラボレーションである。

指揮者は園田隆一郎。オーケストラが舞台の後部に控える配置である上に、照明がそれほど明るくないのでハッキリとは見えなかったが、コンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーは尾﨑平であると思われる。管楽器のソロが重要になる曲目が多いということで、フルート首席の上野博昭、クラリネット首席の小谷口直子も全編出演する。

その曲目は、ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ラヴェルの「ボレロ」、ラヴェルの歌曲集「シェエラザード」(ソプラノ独唱:森谷真理)、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。
私の世代だと、これらの楽曲はシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団のCDで初めて聴いたケースが多いと思われる。私の場合も、「ボレロ」だけはアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団盤が初めて聴いた演奏だが、それ以外はデュトワ指揮モントリオール響のCDで初めて耳にしている。丁度、私の十代から二十代初頭に掛けてデュトワとモントリオール響はこれらの曲を録音して次々にリリースしていた。

パフォーマンスの出演は、「花火」が花園大学男子新体操部。「牧神の午後への前奏曲」と「火の鳥」が、茉莉花(まりか。コントーション)、池ヶ谷奏(いけがや・かな)、薄田真美子(うすだ・まみこ)、斉藤綾子、高瀬瑶子、中津文花(なかつ・あやか)、松岡希美(以上、ダンス)。「ボレロ」がアオイヤマダとチュートリアルの徳井義実。
振付は藤井泉が行う。ビジュアルデザインは江村耕市。衣装は川上須賀代。特殊メイクはJIRO(自由廊)。

石橋の演出は全般的に「生命の輝き」を軸としたものである。

 

張り出し舞台にしての公演。「火の鳥」はオーケストラピットの上に板を置いてコントーション(体の柔らかさなども生かした曲芸的なダンス)の茉莉花が舞台前方で踊る場面が続いたのだが、張り出し舞台の前方で踊るとやはりよく見えない(今日は私は3階席にいた)。

オペラやバレエでタクトを執ることも多い園田隆一郎だが、今日は舞台後方での演奏であり、ダンスを確認しながらの指揮ではない。音楽にパフォーマーが合わせる形になるが、その場合はインテンポでの演奏を行えた方が良い。園田はそうした職人芸も持ち合わせているため、演奏自体もかなり高度なものになる。それにしても京都市交響楽団も随分上手くなった。私が京都に移り住んだ2002年にはまだ不器用なオーケストラというイメージだったが、今や別次元である。音の輝き、響きの力強さ、精度、いずれも日本を代表するレベルで、文化都市・京都の顔にこれほど相応しい団体は他にない。

 

ストラヴィンスキーの交響的幻想曲「花火」。今年はストラヴィンスキーの没後50年ということで彼の作品が2曲入っているが、ストラヴィンスキーもバレエ音楽を書いて活躍したのはパリ時代であり、ドビュッシーもラヴェルもパリを拠点とした作曲家ということで、京都市の姉妹都市パリにも焦点が当てられた曲目である。

オリンピックでも日本が比較的健闘している新体操であるが、男子の新体操となるとまだ珍しい。花園大学新体操部は1998年に創部。2020年11月に開催された第73回全日本新体操選手権大会では団体競技の部3位に入賞している。
オリンピックでは「フェアリージャパン」と称され、可憐な舞が中心となる新体操だが、男子の新体操は女子とは別のアクロバティックなものである。男子のシンクロナイズドスイミングを描いた矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」という映画は有名だと思われるが、女子と男子とでは別物という点が共通しており、「ウォーターボーイズ」(テレビドラマ版でも良い)を観たことのある人は男子新体操を思い浮かべやすいと思われる。タンブリングを主体としたダイナミックなもので、銀色のボディスーツにカラフルな照明が映えて、花火と肉体の生命力が存分に表される。

ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。出演者達は「花火」の時には指揮台のすぐそばで目立たないように立っていた。
石橋義正のノートによると、「生殖」をイメージしたものであるが、出演者は女性のみであり、将来、人間は有性生殖をしなくなるという仮定の下、細胞分裂による進化を描いたものだという。「牧神の午後への前奏曲」は、マラルメの詩を元にしているが、牧神がニンフ達を追い回すということで、エロティックな振付が行われることもある。今回もそれらしい動きはあるが、女性ダンサー同士なので、それほど性的な意味に固執しない方がいいだろう。ダンサー達は腕と脚をゴムのようなもので繋いで踊る。具体的に何を意味するのかはわからないが、細胞膜、染色体、DNA(螺旋ではないが)といったものと捉えるとわかりやすい。これらは生命体である証であり、ウイルスはこうしたものを持たない。
ラストで紗幕が降り、ピンク色の光が溢れ出る様が投影される。

ラヴェルの「ボレロ」。紗幕に今度は原色系の帯のようなものが投影され、左右に動く。ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の冒頭に出てきそうな映像である。
やがて赤いドレスを着た女性の影が浮かぶ。紗幕が上がると、その赤いドレスを着た女性(アオイヤマダ)が踊る。やがて女性は舞台中央にしつらえられたチェアに腰掛ける。上手から男性(徳井義実)が登場し、女性の顔に色々と施しをする。どうもメイクアップアーティストのようだ。こういうような設定の場合は、大体、女性がえらい目に遭うのだが、JIROの特殊メイクにより、徳井がドライヤーを掛けると女性の顔が崩れて血が流れ始める。「ボレロ」自体がラストの突然の転調で聴き手を驚かせる内容であり、演出も音楽に沿ったものである。曲とパフォーマンスが終わると同時に、オーケストラが乗った少し高いステージの部分に「intermission」の文字が投影される。
無申告事件の後、テレビにはほとんど出られなくなった徳井義実であるが、昨年のよしもと祇園花月再始動の際にはオープニングを飾るなど、舞台では活動を拡げつつある。なぜ漫才が本業の徳井義実がパフォーマーに選ばれたのかはよくわからないが、京都市出身で花園大学OB(中退ではあるが。ちなみに「花園大学は同志社大学より格上」だと言い張って、相方の福田充徳に突っ込まれまくるというネタを持っている)いうこともあるのかも知れない。舞台慣れしているだけに洗練された身のこなしで、他の出演者達に劣らない存在感を示していた。

 

後半。まずはラヴェルの歌曲「シェエラザード」。
独唱の森谷真理は、人気上昇中のソプラノ歌手。栃木県小山市出身で小山評定ふるさと大使と、とちぎみらい大使でもある。二期会会員。「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」で国歌独唱を務めている。
紅白歌合戦の小林幸子のような巨大衣装で歌う。頭頂部に泉の噴水のようなオブジェが付いており、演出ノートによると「生命の起源をイメージする海洋生物」ということで鯨の祖先を模しているのかも知れないが、むしろ湧き出る泉のような生命力を表しているようにも見える。
森谷真理の歌声はびわ湖ホール大ホールでも聴いたことがあるが、ロームシアター京都メインホールは空間自体がそれほど大きくないということもあり、臨場感抜群の歌唱となった。私が行ったことのあるホールの中では、ここが一番声楽に適した音響を持っているように思われる。響き過ぎないのが良い。
巨大衣装ということで一人では退場出来ないため、歌唱終了後はスタッフが登場して4人がかりで移動。去り際に森谷真理は客席に向かって手を振る。

ストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」(1919年版)。ストーリー的には「牧神の午後への前奏曲」の続編としているそうだが、火の鳥は「復活の象徴」としてフェニックス=不死鳥になぞらえられている。舞台上方にはハートや蟹にも見えるオブジェが赤く輝いており、ノートには「火の鳥の卵のようなもの」と記されているが、向かい合った不死鳥を表しているようにも見える。
音楽自体が「牧神の午後への前奏曲」とは違ってダイナミックであるため、生命の躍動がダイレクトに伝わってきた。ノートにも「リアルな生の体験」と書かれているが、臨場感や波打つような生命力は劇場でないと十分に味わえないものであり、コロナ禍を乗り越えて不死鳥のように復活するという人類への希望と賛美もまた伝わってきた。

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