カテゴリー「京都市交響楽団」の260件の記事

2025年2月27日 (木)

コンサートの記(891) 準・メルクル指揮 京都市交響楽団第697回定期演奏会

2025年2月15日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第697回定期演奏会を聴く。指揮は、日独ハーフの準・メルクル。

NHK交響楽団との共演で名を挙げた準・メルクル。1959年生まれ。ファーストネームの漢字は自分で選んだものである。N響とはレコーディングなども行っていたが、最近はご無沙汰気味。昨年、久しぶりの共演を果たした。近年は日本の地方オーケストラとの共演の機会も多く、京響、大フィル、広響、九響、仙台フィルなどを指揮している。また非常設の水戸室内管弦楽団の常連でもあり、水戸室内管弦楽団の総監督であった小澤征爾の弟子でもある。
現在は、台湾国家交響楽団音楽監督、インディアナポリス交響楽団音楽監督、オレゴン交響楽団首席客演指揮者と、アジアとアメリカを中心に活動。今後は、ハーグ・レジデエンティ管弦楽団の首席指揮者に就任する予定で、ヨーロッパにも再び拠点を持つことになる。これまでリヨン国立管弦楽団音楽監督、ライプツィッヒのMDR(中部ドイツ放送)交響楽団(旧ライプツィッヒ放送交響楽団)首席指揮者、バスク国立管弦楽団首席指揮者、マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督(広上淳一の前任)などを務め、リヨン国立管弦楽団時代にはNAXOSレーベルに「ドビュッシー管弦楽曲全集」を録音。ラヴェルも「ダフニスとクロエ」全曲を録れている。2012年にはフランス芸術文化勲章シュヴァリエ賞を受賞。国立(くにたち)音楽大学の客員教授も務め、また台湾ユース交響楽団を設立するなど教育にも力を入れている。

 

曲目は、ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲(ピアノ独奏:アレクサンドラ・ドヴガン)とラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」全曲(合唱:京響コーラス)。
「ダフニスとクロエ」は、組曲版は聴くことが多いが(特に第2組曲)全曲を聴くのは久しぶりである。
今日はポディウムを合唱席として使うので、いつもより客席数が少なめではあるが、チケット完売である。

 

午後2時頃から、準・メルクルによるプレトークがある。英語によるスピーチで通訳は小松みゆき。日独ハーフだが、日本語の能力については未知数。少なくとも日本語で流暢に喋っている姿は見たことはない。同じ日独ハーフでもアリス=紗良・オットなどは日本語で普通に話しているが。ともかく今日は英語で話す。
ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲だが、パガニーニの24のカプリースより第24番の旋律(メルクルがピアノで弾いてみせる)を自由に変奏するが、変奏曲ではなく狂詩曲なので、必ずしも忠実な変奏ではなく他の要素も沢山入れており、有名な第18変奏はパガニーニから離れて、「世界で最も美しい旋律の一つ」としていると語る。私が高校生ぐらいの頃、というと1990年代初頭であるが、KENWOODのCMで「ピーナッツ」のシュローダーがこの第18変奏を弾くというものがあった。おそらく、それがこの曲を聴いた最初の機会であったと思う。
「ダフニスとクロエ」についてであるが、19世紀末のフランスでバレエが盛んになったが、音楽的にはどちらかというと昔ならではのバレエ音楽が作曲されていた。そこにディアギレフがロシア・バレエ団(バレエ・リュス)と率いて現れ、ドビュッシーやサティ、ストラヴィンスキーなどに新しいバレエ音楽の作曲を依頼する。ラヴェルの「ダフニスとクロエ」もディアギレフの依頼によって書かれたバレエ曲である。演奏時間50分強とラヴェルが残した作品の中で最も長く(バレエ音楽としては長い方ではないが)、特別な作品である。バレエ音楽としては珍しく合唱付きで、また歌詞がなく、「声を音として扱っているのが特徴」とメルクルは述べた。またモチーフライトに関しては「愛の主題」をピアノで奏でてみせた。
また笛を吹く牧神のパンに関しては、元々は竹(日本語で「タケ」と発音)で出来ていたフルートが自然の象徴として表しているとした。

往々にしてありがちなことだが、バレエの場合、音楽が立派すぎると踊りが負けてしまうため、敬遠される傾向にある。「ダフニスとクロエ」も初演は成功したが、ディアギレフが音楽がバレエ向きでないと考えたこともあって、この曲を取り上げるバレエ団は続かず、長らく上演されなかった。
現在もラヴェルの音楽自体は高く評価されているが、基本的にはコンサート曲目としてで、バレエの音楽として上演されることは極めて少ない。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏。フルート首席の上野博昭はラヴェル作品のみの登場である。今日のヴィオラの客演首席は佐々木亮、チェロの客演首席には元オーケストラ・アンサンブル金沢のルドヴィート・カンタが入る。チェレスタにはお馴染みの佐竹裕介、ジュ・ドゥ・タンブルは山口珠奈(やまぐち・じゅな)。

 

ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲。ピアノ独奏のアレクサンドラ・ドヴガンは、2007年生まれという、非常に若いピアニストである。モスクワ音楽院附属中央音楽学校で幼時から学び、2015年以降、世界各地のピアノコンクールに入賞。2018年には、10歳で第2回若いピアニストのための「グランド・ピアノ国際コンクール」で優勝している。ヒンヤリとしたタッチが特徴。その上で華麗なテクニックを武器とするピアニストである。
メルクルは敢えてスケールを抑え、京響の輝かしい音色と瞬発力の高さを生かした演奏を繰り広げる。ロシアのピアニストをソリストに迎えたラフマニノフであるが、アメリカ的な洗練の方を強く感じる。ドヴガンもジャズのソロのように奏でる部分があった。

ドヴガンのアンコール演奏は、ショパンのワルツ第7番であったが、かなり自在な演奏を行う。溜めたかと思うと流し、テンポや表情を度々変えるなどかなり即興的な演奏である。クラシックの演奏のみならず、演技でも即興性を重視する人が増えているが(第十三代目市川團十郎白猿、草彅剛、伊藤沙莉など。草彅剛と伊藤沙莉はインタビューでほぼ同じことを言っていたりする。二人は共演経験はあるが、別に示し合わせた訳ではないだろう)、今後は表現芸術のスタイルが変わっていくのかも知れない。
今まさにこの瞬間に生まれた音楽を味わうような心地がした。

 

ラヴェルの音楽「ダフニスとクロエ」全曲。舞台上に譜面台はなく、準・メルクルは暗譜しての指揮である。
パガニーニの主題による狂詩曲の時とは対照的に、メルクルはスケールを拡げる。京都コンサートホールは音が左右に散りやすいので、最初のうちは風呂敷を広げすぎた気もしたが次第に調整。京響の美音を生かした演奏が展開される。純音楽的な解釈で、あくまで音として聞かせることに徹しているような気がした。その意味ではコンサート的な演奏である。
京響の技術は高く、音は輝かしい。メルクルの巧みなオーケストラ捌きに乗って、密度の濃い演奏を展開する。リズム感も冴え、打楽器の強打も効果を上げる。

ラストに更に狂騒的な感じが加わると良かったのだが(ラヴェルはラストでおかしなことを要求することが多い)、「純音楽的」ということを考えれば、避けたのは賢明だったかも知れない。オーケストラに乱れがない方が良い。
ポディウムに陣取った京響コーラスも優れた歌唱を示した。

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2025年1月25日 (土)

コンサートの記(881) ヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮京都市交響楽団第696回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル

2025年1月17日 京都コンサートホールにて

午後7時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第696回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。指揮は京都市交響楽団首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーント。

曲目であるが、当初の発表より変更があり、モーツァルトのセレナード第10番「グラン・パルティータ」とロベルト・シューマンの交響曲第2番となった。モーツァルトの「グラン・パルティータ」は編成こそ小さめだが、全7楽章で演奏時間約50分と長い。シューマンの交響曲第2番も通常の演奏時間は40分ほどある。休憩時間なし演奏時間約1時間が売りのフライデー・ナイト・スペシャルであるが、今回は長さに関しては休憩ありの普通の演奏会と同等の規模となった。なお、来年度はフライデー・ナイト・スペシャルは実施されず、3月の沖澤のどか指揮のものが最後のフライデー・ナイト・スペシャルとなる予定である。

 

午後7時頃よりデ・フリーントによるプレトークがある(通訳:小松みゆき)。
デ・フリーントは、「セレナーデは屋内ではなく野外で演奏されることが多かった」と話し始めるが、まずはシューマンの交響曲第2番についての解説となる。この曲はシューマンが精神を病んでいた時期に書かれたもので、彼の中に二つの人格があってせめぎ合っていたという。落ち着いていることが出来ず、常に動き回っている時もあったそうだが、J・S・バッハの音楽を聴くと落ち着いたそうだ。
交響曲第2番の初演時の評価は真っ二つに分かれたそうで、「ベートーヴェン以降最高の交響曲」と絶賛する向きもあれば、「複雑すぎてよく分からない」と評する人もいたようである。現在もシューマンの4つの交響曲の中では第2番が最も難解とされており、演奏会のプログラムに載る回数も録音も少なめである。

シューマンの精神病については梅毒由来のものとする説が有力で、後に彼はライン川への入水自殺を図っている(未遂に終わった)。

モーツァルトの時代には、音楽は黙って静かに聴くものではなく、お喋りをしながら聴かれることも多かったという話もフリーントはする。
モーツァルトは当時は新しい楽器であったクラリネットを愛したことで知られるが、クラリネットからの派生楽器であるバセットホルンが使われていることにも注目して欲しいとフリーントは述べていた。

 

モーツァルトのセレナード第10番「グラン・パルティータ」。オーボエ2、クラリネット2、バセットホルン2、ホルン4、ファゴット2、コントラバス1という編成である。
下手端のオーボエの髙山郁子と上手端のクラリネットの小谷口直子が向かい合う形になる。デ・フリーントは椅子に腰掛けてノンタクトでの指揮。
創設当初は編成が小さかったことから、小さくても聴かせられるモーツァルトの演奏に力を入れ、「モーツァルトの京響」と呼ばれた京都市交響楽団。その伝統は今も生きていて、典雅にして柔らかなモーツァルトが奏でられる。奏者達の技術も高い。デ・フリーントの各奏者の捌き方も巧みである。
クラリネットに美しい旋律が振られることが比較的多く、このことからもモーツァルトがクラリネットという楽器を愛していたことが分かる。
演奏終了後のコタさんこと小谷口直子は今日はハイテンション。ステージ上でデ・フリーントとハグし、客席に手を振り、一人で拍手したりしていた。管楽器奏者の多くはシューマンにも出演する。

 

シューマンの交響曲第2番。今日のコンサートマスターは京響特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。
ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏である。ヴィオラの首席にはソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積が入る。チェロの客演首席は森田啓介。トランペットは副首席の稲垣路子は降り番で、ハラルド・ナエスと西馬健史の二人が吹く。
デ・フリーントは指揮台を用いず、ノンタクトでの指揮である。

序奏こそ中庸かやや速めのテンポであったが、主部に入ると快速で飛ばす。かなり徹底したピリオド・アプローチによる演奏であり、弦楽器の奏者達はビブラートを最小限に抑えている。中山航介が叩くのはモダンティンパニであるが、時折、音だけだとバロックティンパニと勘違いするような硬い響きによる強打が見られた。
速めのテンポによる演奏だが、単に速いわけではなく、自在さにも溢れていて、滝を上る鯉のように活きのいい音楽となっていた。
こうした演奏で聴くとシューマンが鍵盤で音楽を考えていたということもよく分かる。
第3楽章のため息のような主題も、美しくも涙に濡れたような独特の音色によって弾かれ、悲嘆に暮れるシューマンの姿が見えるかのようである。H.I.P.の弦楽の奏法が効果的。
この主題は第4楽章で長調に変わって奏でられるのだが、今回の演奏では上手く浮かび上がっていた。
これまでの陰鬱なだけのシューマン像が吹き飛ぶかのような情熱に満ちた演奏であり、シューマンがこの曲に込めた希望がはっきりと示されていた。

デ・フリーントは今は知名度は低めだが、今後、名声が高まっていきそうな予感がする。

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2025年1月 7日 (火)

コンサートの記(878) 横山奏指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024 「マエストロとディスカバリー」第3回「シネマ・クラシックス」

2024年12月1日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024 「マエストロとディスカバリー」第3回「シネマ・クラシックス」を聴く。今日の指揮者は、若手の横山奏(よこやま・かなで。男性)。

京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2024は、9月1日に行われる予定だった第2回が台風接近のため中止となったが、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の語り手を務める予定だったウエンツ瑛士が、そのまま第3回のナビゲーターにスライド登板することになった。

「シネマ・クラシックス」というタイトルからも分かる通り、シネマ(映画)で使われているクラシック音楽や映画音楽がプログラムに並ぶ。
具体的な曲目は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った(かく語りき)」から冒頭、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」、ブラームスのハンガリー舞曲第5番(シュメリング編曲)、マーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェット、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ニューマンの「20世紀フォックス」ファンファーレ、ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトル、久石譲のジブリ名曲メドレー(直江香世子編。Cinema Nostalgia~ハトと少年~海の見える街~人生のメリーゴーランド~あの夏へ~風の通り道~もののけ姫)、ハーラインの「ピノキオ」から星に願いを(岩本渡編)、フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」より同名曲(三浦秀秋編)、バデルトの「パイレーツ・オブ・カリビアン」(リケッツ編)

 

横山奏は、1984年、札幌生まれ。クラシック音楽業界には男女共用の名前の人が比較的多いが、彼もその一人である。ピアニストの岡田奏(おかだ・かな)のように読み方は異なるが同じ漢字の女性演奏家もいる。
高校生の時に吹奏楽部で打楽器を担当したのが、横山が音楽の道に入るきっかけになったようだ。北海道教育学部札幌校で声楽を学ぶ。北海道教育大学には現在は岩見沢校にほぼ音楽専攻に相当するゼロ免コースがあるが、地元の札幌校の音楽教師になるための学科を選んだようだ。在学中に指揮者になる決意をし、桐朋学園大学指揮科で学んだ後、東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程を修了。ダグラス・ボストックや尾高忠明に師事した。
2018年に、第18回東京国際指揮者コンクールで第2位入賞及び聴衆賞受賞。2015年から2017年までは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の指揮研究員を務めている。
趣味は登山で、NHK-FM「石丸謙二郎の山カフェ」のシーズンゲストでもある。
今年の6月には急病で降板したシャルル・デュトワに代わって大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」全曲などを指揮して好評を得ている。直前にデュトワから直接「火の鳥」のレクチャーを受けていたことが代役に指名される決定打になったようだ。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴィオラの客演指揮者には田原綾子が入る。ハープはマーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェットまでは舞台上手寄りに置かれていたが、演奏終了後にステージマネージャーの日高さんがハープを舞台下手側へと移動させた。

 

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」冒頭と、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」はいずれも「2001年宇宙の旅」で使われた曲である。特に「ツァラトゥストラはこう語った」は映画によって誰もが知る音楽になっている。
「ツァラトゥストラはこう語った」と「美しく青きドナウ」は続けて演奏される。
「ツァラトゥストラはこう語った」はオルガンなしでの演奏。京響の輝かしい金管の響きが効果的である。ロームシアター京都メインホールも年月が経つに連れて響くようになってきているようだ。
「美しく青きドナウ」も端麗で優雅な音楽として奏でられる。

「美しく青きドナウ」演奏後にナビゲーターのウエンツ瑛士が登場。これまでオーケストラ・ディスカバリーのナビゲーターは吉本の芸人が務めていたが、ウエンツ瑛士は俳優だけあって、吉本芸人とは話の流麗さが違う。吉本芸人も生き残るのは100人に1人程度なので凄い人ばかりなのであるが。またウエンツ瑛士は吉本芸人とは異なり、台本を手にしていない。ミスもあったが全て暗記して臨んでいるようだ。俳優はやはり凄い。

ウエンツ瑛士は、「マエストロとディスカバリー」というテーマだが、「マエストロとは何か?」とまず聞く。会場にいる「マエストロ」の意味が分かる子どもに意味を聞いてみることにする。指名された男の子は、「指揮者やコンサートマスターのこと」と答えて、横山の「その通り」と言われる。
横山「先生とか権威ある人とか言う意味がある。コンサートマスターもマエストロと呼ばれることがあります」とコンサートマスターの泉原の方を見る。
ウエンツ「ご自分で『権威ある人』と仰いましたね。大丈夫なんですか?」
横山「自認しております」

 

ブラームスのハンガリー舞曲第5番。ハンガリー舞曲の管弦楽曲版は今では第1番(ブラームス自身の管弦楽版編曲あり)や第6番も演奏されるが、昔はハンガリー舞曲と言えば第5番であった。
ウエンツ瑛士は、この曲が、チャップリンの「独裁者」で使われているという話をする。
ロマの音楽であるため、どれだけテンポを揺らすかが個性となるが、横山は大袈裟ではないが結構、アゴーギクを多用する。ゆったり初めて急速にテンポを上げ、中間部では速度を大きく落とす。
躍動感溢れる演奏となった。
子どもの頃、ハンガリー舞曲第5番といえば、斎藤晴彦のKDD(現・KDDI)の「国際電話は」の替え歌だったのだが、今の若い人は当然知らないだろうな。

 

マーラーの交響曲第5番より第4楽章アダージェット。トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ベニスに死す」でテーマ曲的に使われ、マーラー人気向上に大いに貢献している。それまでマーラーといえば「グロテスクな音楽を書く人」というイメージだったのだが、アダージェットによって「こんな甘美なメロディーを書く人だったのか」と見直されるようになった。
ウエンツ瑛士が、「この曲は、『愛の楽章』と呼ばれているそうですが」と聞く。横山は、「マーラーが当時愛していて、後に奥さんになるアルマへの愛を綴った」と説明した。
実は当初は交響曲第5番にはアダージェットは入る予定ではなかったのだが、マーラーがアルマに恋をして書いた音楽を入れることにしたという説がある。第4楽章は第5楽章とも密接に繋がっているので、第5楽章も当初の構想から大きく変更されたと思われる。
ウエンツは、「アダージェット」の意味についても横山に尋ねる。横山は、「『アダージョ』は『ゆったりとした』といういう意味で、『アダージェット』はそれより弱く『少しゆったりとした』という意味」と説明していた。
弦楽のための楽章なので、木管奏者が退場した中での演奏。金管奏者は残って聴いている。
中庸のテンポでの演奏で、ユダヤ的な濃さはないが、しなやかな音楽性が生きており、京響のストリングスの音色も適度な透明感があって美しい。
横山はどちらかというと、あっさりとした音楽を奏でる傾向があるようだ。

 

デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。ディズニー映画「ファンタジア」でミッキーマウスが魔法使いの弟子を演じる場面があることで知られている。横山は、「三角帽子のミッキーマウスが」と話し、元々はゲーテが書いた物語ということも伝えていた。
実は、「ファンタジア」における「魔法使いの弟子」は、著作権において問題になっている作品でもある。ディズニーはミッキーマウスを著作権保護の対象にしたいため、保護期間を延ばしている。そのため著作権法案はミッキーマウス法案と揶揄されている。この映画での演奏は、フィラデルフィア管弦楽団が担当しているのだが、フィラデルフィア管弦楽団が「ファンタジア」の「魔法使いの弟子」の映像ををSNSにアップしたところ、ディズニー側の要請で動画が削除されるという出来事があった。演奏している当事者のアップが認められなかったのである。

横山の演奏はやはり中庸。描写力も高く、水が溢れるシーンなども適切なスケールで描かれる。

 

後半は劇伴の演奏である。日本では劇伴音楽が低く評価されている。映画音楽もそれほど好んで聴かれないし、映画音楽を聴く人は映画音楽ばかりを聴く傾向にある。アメリカでは映画音楽は人気で、定期演奏会に映画音楽の回があったりするのだが、日本では映画音楽の演奏会を入れても集客はそれほど見込めないだろう。
大河ドラマのメインテーマなども、NHKが1年の顔になる音楽ということで威信を賭けて、当代一流とされる作曲家にしか頼まず、指揮者も「良い」と認めた指揮者にしか任せないのだが、例えばシャルル・デュトワが「葵・徳川三代」のメインテーマをNHK交響楽団と小山実稚恵のピアノで録音することが決まった時、まだ楽曲が出来てもいないのに「そんなつまらない仕事断ればいいのに」という書き込みがあった。どうも伝統的なクラシック音楽しか認めないようだが、予知能力がある訳でもないだろうに、聴いてもいない音楽の価値を決めて良いという考えは奢りに思えてならない。

 

ニューマンの「20世紀フォックス」ファンファーレ。演奏時間1分の曲なので、続けてジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトルが演奏される。
「20世紀フォックス」ファンファーレは、短いながらも「これから映画が始まる」というワクワク感を上手く音楽化した作品と言える。この曲も京響のブラスの輝かしさが生きていた。

ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」からメイン・タイトルは、映画音楽の代名詞的存在である。指揮者としてボストン・ポップス・オーケストラ(ボストン交響楽団の楽団員から首席奏者を除いたメンバーによって構成され、セミ・クラシックや映画音楽の演奏などを行う)の常任指揮者としても長く活躍していたジョン・ウィリアムズは、近年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に立て続けに招かれている。「ジョン・ウィリアムズの音楽はクラシックではない」と見る人も当然いるが、「クラシックとは何か」を考えた場合、これだけ世界中で演奏されている音楽をクラシックではないとする方が無理があるだろう。
横山指揮による京響は、輝きに満ちた演奏を展開する。力強さもあり、イメージ喚起力も豊かだ。

演奏終了後、ウエンツ瑛士は、「『スター・ウォーズ』が観たくなりましたね。今夜は帰って『スター・ウォーズ』を観ましょう」と述べていた。

 

久石譲のジブリ名作メロディー。ジブリ作品においては愛らしいメロディーを紡ぐ久石譲。北野武作品の映画音楽はもう少し硬派だが、大人から子どもまで楽しめるジブリメロディーは、やはり多くの人の心に訴えかけるものがある。坂本龍一が亡くなり、今は世界的に通用する日本人の映画音楽作曲家は久石譲だけになってしまった。久石譲は指揮活動にも力を入れているので、自作自演を聴く機会が多いのも良い。自作自演には他の演奏家には出せない味わいがある。
今回は久石譲の自作自演ではないが、京響の器用さを横山が上手くいかした演奏となる。私が京都に来た頃は、京響はどちらかというと不器用なオーケストラで、チャーミングな音楽を上手く運ぶことは苦手だったのだが、急激な成長により、どのようなレパートリーにも対応可能なオーケストラへと変貌を遂げている。
久石譲の映画音楽は世界中で演奏されており、YouTubeなどで確認することが出来るが、本来の意味でのノスタルジックな味わいは、あるいは日本のオーケストラにしか出せないものかも知れない。
なお、ピアノは白石准が担当した。

 

ハーラインの「ピノキオ」から、星に願いを。岩本渡のスケール豊かな編曲による演奏される。スタンダードな曲だけに、多くの人の心に訴えかける佳曲である。

 

フレディ・マーキュリーの「ボヘミアン・ラプソディ」。同名映画のタイトルにもなっている。映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、クィーンのボーカルであったフレディ・マーキュリーの生涯を描いたもので、ライブエイドステージでの「ボヘミアン・ラプソディ」の歌唱がクライマックスとなっている。
「ボヘミアン・ラプソディ」。全英歴代の名曲アンケートでは、ビートルズ作品などを抑えて1位に輝いている。ただこの曲は本番では歌えない曲としても知られている。フレディ・マーキュリーがピアノで弾き語りをする冒頭部分は歌えるのだが、そこから先は多重録音などを駆使したものであり、ライブエイドステージでも、ピアノ弾き語りの部分で演奏を終えている。「本番では歌えない」ということで、ミュージックビデオが作られ、テレビで全編が流されたのだが、これが「格好いい」ということでヒットに繋がっている。
横山は、ラプソディについて、「日本語で簡単に言うと狂詩曲」と言うもウエンツに、「うーん、簡単じゃない」と言われる。横山は、「伝統的、民謡的な音楽などを自由に使った音楽」と定義した。
横山は「ボヘミアン・ラプソディ」が大好きだそうだ。80名での演奏で、ウエンツは、「クィーンで80人は多いんじゃないですか」と言うが、演奏を終えると、「クィーン、80人要りますね」と話していた。
ピアノは引き続き白石准が担当。メランコリックな冒頭のメロディーはオーボエが担当する。スイング感もよく出ており、第3部のロックテイストの表現も上手かった。

 

ラストは、バデルトの「パイレーツ・オブ・カリビアン」。ウエンツは「映画よりも音楽の方を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか」と述べる。
スケールも大きく、推進力にも富んだ好演となった。

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2024年12月31日 (火)

コンサートの記(876) ガエタノ・デスピノーサ指揮 京都市交響楽団特別演奏会「第九」コンサート 2024

2024年12月28日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会「第九」コンサートを聴く。指揮はガエタノ・デスピノーサ。

コロナの時期には海外渡航が制限されたということもあり、半年近くに渡って日本国内に留まって様々なオーケストラに客演したデスピノーサ。指揮者不足を補い、日本のクラシック楽壇に大いに貢献している。入国制限により来日不可となったラルフ・ワイケルトの代役として大阪フィルハーモニー交響楽団の年末の第九も指揮した
イタリア・パレルモ出身。ヴァイオリン奏者としてキャリアをスタート。ザクセン州立歌劇場(ドレスデン国立歌劇場)のコンサートマスターとして活躍し、当時の音楽監督であったファビオ・ルイージの影響を受けて指揮者に転向。2012年から2017年までミラノ・ヴェルディ交響楽団首席客演指揮者を務めている。歌劇場のオーケストラ出身だけにオペラも得意としており、新国立劇場オペラパレスでの指揮も行っている。

独唱は、隠岐彩夏(ソプラノ)、藤木大地(カウンターテナー)、城宏憲(テノール)、大西宇宙(おおにし・たかおき。バリトン)。合唱は京響コーラス(合唱指導:小玉洋子、津幡泰子、小林峻)。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。ヴィオラの客演首席には湯浅江美子、チェロの客演首席には水野優也が入る。ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏だが、ソリストと合唱団はステージ上に設けられたひな壇状の台の上で歌うため、ティンパニは舞台上手端に設置され、そのすぐ横にトランペットが来る。

ステージにまず京響コーラスのメンバーが登場し、次いで京響の団員が現れる。独唱者4人は第2楽章演奏終了後に下手からステージに上がった。

デスピノーサは譜面台を置かず、暗譜での指揮である。頭の中に入っているのはベーレンライター版の総譜だと思われる。


弦楽が音の末尾を切るなど、H.I.P.を援用した演奏。アポロ的な造形美が印象的である。京響の明るめの音色もプラスに働いている。
第2楽章では最後の音をかなり弱めに弾かせたのが特徴。またモダンティンパニを使用しているが、この楽章のみ先端が木製のバチを使って硬めの音で強打させていた(ティンパニ:中山航介)。
第3楽章は比較的速めのテンポを採用。ロマンティシズムよりも旋律の美しさを優先させた演奏である。

通常はアルトの歌手が歌うパートを今回はカウンターテナーの藤木大地が担うが、音楽的には特に問題はない。女声の方がやはり美しいとは思うが、たまにならこうした試みも良いだろう。定評のある藤木の歌唱だけに音楽性は高い。
端正な演奏を繰り広げるデスピノーサだが、たまに毒を忍ばせるのが印象的。美演ではあるが、綺麗事には留めない。第4楽章では裁きの天使・ケルビムの象徴であるトロンボーンを通常よりかなり強めに吹かせており、人間が試される段階に来ていることを象徴しているかのようだった。

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2024年11月30日 (土)

コンサートの記(872) 鈴木雅明指揮 京都市交響楽団第695回定期演奏会

2024年11月16日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都市交響楽団の第695回定期演奏会を聴く。指揮は鈴木一族の長である鈴木雅明。
本来は京響の11月定期は、常任指揮者である沖澤のどかが指揮する予定だったのだが、出産の予定があるということで、かなり早い時点でキャンセルが決まり、代役も大物の鈴木が務めることになった。

今日の演目は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:ジョシュア・ブラウン)、ドヴォルザークの交響曲第6番。


日本古楽界の中心的人物である鈴木雅明。古楽器の指揮や鍵盤楽器演奏に関しては世界的な大家である。神戸市生まれ。1990年にバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)を創設。以降、バッハ作品の演奏や録音で高い評価を得ている。なお、レコーディングは神戸松蔭女子学院大学の講堂で行われ、鈴木も神戸松蔭女子学院大学の客員教授を務めているが、神戸松蔭女子学院大学は共学化が決定している。難関大学ではないが、良家のお嬢さんが通う外国語教育に強い女子大学として知られた神戸松蔭女子学院大学も定員割れが続いており、来年度からの共学化に踏み切った。
モダンオーケストラにも客演しており、ベルリン・ドイツ交響楽団、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、フランクフルト放送交響楽団(hr交響楽団)、ニューヨーク・フィルハーモニック、サンフランシスコ交響楽団といった世界各国の名門オーケストラを指揮している。
東京藝術大学作曲科およびオルガン科出身(二度入ったのだろうか?)。古楽の本場、オランダにあるアムステルダム・スウェーリンク音楽院にも学ぶ。藝大の教員として、同校に古楽科を創設してもいる。現在は東京藝術大学名誉教授。


午後2時頃より、鈴木雅明によるプレトークがある。「今日の指揮者である鈴木雅明です。というわけで、今日の指揮者は沖澤のどかではありません。期待されていた方、残念でした」に始まり、楽曲解説などを行う。
歌劇「ドン・ジョヴァンニ」については、「おどろおどろしい。お化け屋敷のような」ところが魅力でありと語り、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲については、「モーツァルトの次にベートーヴェンという王道。最も有名なヴァイオリン協奏曲の一つなのですが」ティンパニの奏でる音が全曲のモチーフとなること、またベートーヴェン自身はカデンツァを書き残していないと説明。ただベートーヴェンはヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲してあり、ピアノ向けにはカデンツァを書いているので、それをヴァイオリン用にアレンジして弾くこともあると紹介していた。
ヨーロッパなどでは王道の曲は「飽きた」というので、プログラムに載ることが少なくなったそうだが、その分、ドヴォルザークの交響曲第6番のような知られざる曲が取り上げられることも増えているようだ。ドヴォルザークの初期交響曲は出版されるのが遅れており、私の小学校時代の音楽の教科書にも「新世界」交響曲は第5番と記されていた。後期三大交響曲(その中でも交響曲第7番は知名度は低めだが)以外は演奏される機会は少ないドヴォルザークの交響曲。今日を機会にまた演奏出来るといいなと鈴木は語った。
鈴木が京都コンサートホールを訪れるのは久しぶりだそうで、リハーサルの時に「あれ、こんな音の良いホールだったっけ?」と驚いたそうだが(ステージを擂り鉢状にするなど色々工夫して音響は良くなっている)、パイプオルガンに中央にないのが不思議とも語ってた。一応であるが、演奏台は中央にある。


今日はヴァイオリン両翼の古典配置での演奏。モーツァルトとベートーヴェンでは中山航介がバロックティンパニを叩く。
コンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。今日はソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積が乗り番。一方で、管楽器の首席奏者はドヴォルザークのみの出演となる人が大半であった。
首席奏者の決まらないトロンボーンは、京響を定年退職した岡本哲が客演首席として入る。
京響は様々なパートの首席が決まらず、募集を行っている状態である。


モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲。全面的に、H.I.P.を用いた演奏である。
鈴木雅明は音を丁寧に積み上げる指揮。音響が立体的であり、建築物を築き上げるような構築力が特徴である。息子の鈴木優人は流れ重視の爽やかな音楽を奏でるタイプなので、親子とはいえ、音楽性は異なる。
総譜を見ながらノンタクトでの指揮。総譜は置くが暗譜していてほとんど目をやらない指揮者も多いが、鈴木は要所を確認しながら指揮していた。


ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
ヴァイオリン独奏のジョシュア・ブラウンは、アメリカ出身の若手。シカゴ音楽院を経て、現在はニューイングランド音楽院で、学士号修士号獲得後のアーティスト・ディプロマを目指す課程に在籍している。今年ブリュッセルで開催されたエリザベート王妃国際コンクール・ヴァイオリン部門で2位に入賞し、聴衆賞も獲得している。
北京で開催された2023年グローバル音楽教育連盟国際ヴァイオリンコンクール第1位、レオポルト・モーツァルト国際ヴァイオリンコンクールでも第1位と聴衆賞を得ている。

ブラウンは美音家で、スケールを拡げすぎず、内省的な部分も感じさせつつ伸びやかなヴァイオリンを奏でる。ベートーヴェンということで情熱的な演奏をするヴァイオリニストもいるが、ブラウンは音そのもので勝負するタイプで、大言壮語しない小粋さを感じさせる。
鈴木雅明の指揮する京響はベートーヴェンの構築力の堅固さを明らかにする伴奏で、ブラウンのソロをしっかり支える。重層的な伴奏である。

ブラウンのアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。生まれたばかりの朝のようなイノセントな演奏であった。


ドヴォルザークの交響曲第6番。演奏会で取り上げられることは少ないが、スラヴ的な味わいのある独特の交響曲である。ドヴォルザークの傑作として「スラヴ舞曲」を挙げる人は多いと思われるが、そのスラヴ舞曲の交響曲版ともいうべきメロディーの美しい交響曲である。ただ構築や構造において交響曲的要素が薄いということが知名度が低い理由になっていると思われる。
旋律において、マーラーとの共通点を見出すことも出来る。第1楽章の終結部などは、マーラーの交響曲第1番「巨人」第2楽章のリズムを想起させる。マーラーはボヘミア生まれのユダヤ人で主にオーストリアで活躍という人で、自身のアイデンティティに悩んでいたが、幼い頃に触れたボヘミアの旋律が原風景になっている可能性は高いと思われる。
鈴木と京響は歌心に満ちた演奏を展開。音色は渋く、密度も濃い。かなり情熱的な演奏でもある。意外だったのはブラスの強烈さ。ティンパニと共にかなりの力強さである。通常ならここまでブラスを強く吹かせると全体のバランスが大きく崩れるところだが、そこは鈴木雅明。うるさくもなければフォルムが揺らぐこともない。結果として堂々たる演奏となった。

鈴木は、オーケストラを3度立たせようとしたが、京響の楽団員は鈴木を讃えて立たず、鈴木は指揮台に上って、一人喝采を浴びていた。

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2024年11月 2日 (土)

コンサートの記(867) アジア オーケストラ ウィーク 2024 大友直人指揮京都市交響楽団@京都コンサートホール

2024年10月22日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、アジア オーケストラ ウィーク 2024 京都市交響楽団の演奏会を聴く。今年度のアジア オーケストラ ウィークは、この公演を含む京都での2公演のみのようである。

シンガポール交響楽団と京都市交響楽団の演奏会には通し券があるので、今回はそれを利用。2公演とも同じ席で聴くことになった。

今日の指揮は、京都市交響楽団桂冠指揮者の大友直人。昨年は第九などを振ったが、京都市交響楽団の桂冠指揮者になってからは京響の指揮台に立つことは少なめである。
近年は、沖縄の琉球交響楽団というプロオーケストラ(沖縄交響楽団を名乗らなかったのは、先に沖縄交響楽団という名のアマチュアオーケストラがあったため。沖縄大学と琉球大学の関係に似ている)の音楽監督として指導に力を入れており、この間、定期演奏を行ったばかり。沖縄は地元の民謡や、アメリカ統治時代のロックやジャズなどは盛んだが、クラシック音楽を聴く土壌は築かれることがなく、沖縄県立芸術大学という公立のレベルの高い音楽学部を持つ大学があるにも関わらず、聴いて貰う機会が少ないため、卒業生は沖縄県外に出てしまう傾向があるようだ。
その他には、高崎芸術劇場の音楽監督を務めるほか、東京交響楽団名誉客演指揮者などの称号を持ち、大阪芸術大学教授や東邦音楽大学特任教授、京都市立芸術大学や洗足学園音楽大学の客員教授として後進の育成に励んでいる。


曲目は、伊福部昭の「SF交響ファンタジー」第1番、宮城道雄作曲/池辺晋一郎編曲の管弦楽のための「春の海」(箏独奏:LEO)、今野玲央(こんの・れお)/伊賀拓郎(いが・たくろう)の「松風」(箏独奏:LEO)、ブラームスの交響曲第1番。
今野玲央がLEOの本名である。


今日のコンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。泉原隆志と尾﨑平は降り番で、客演アシスタント・コンサートマスターに西尾恵子。第2ヴァイオリン客演首席には清水泰明、ヴィオラの客演首席には林のぞみ。チェロも今日は首席不在。トロンボーンも首席は空いたままである。いつもながらのドイツ式の現代配置による演奏。ステージのすり鉢の傾斜はまあまあ高めである。


伊福部昭の「SF交響ファンタジー」第1番。「ゴジラ」の主題に始まり、伊福部が手掛けた円谷映画の音楽をコンサート用にまとめたもので、第1番から第3番まであるが、「ゴジラ」のテーマがフィーチャーされた第1番が最も人気である。ちなみに「ゴジラ」のテーマは、伊福部がラヴェルのピアノ協奏曲の第3楽章から取ったという説があり、本当かどうか分からないが、伊福部がラヴェルの大ファンだったことは確かで、ラヴェルが審査員を務める音楽コンクールに自作の「日本狂詩曲」を送ろうとしたが、規定時間より長かったため、第1楽章を取ってしまい、そのままのスタイルが今日まで残っていたりする(結局、ラヴェルは審査員を降りてしまい、伊福部はラヴェルに作品を観て貰えなかったが、第1位を獲得した)。

「SF交響ファンタジー」には、若い頃の広上淳一が日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した音盤が存在するが、理想的と言っても良い出来となっている。
その広上と同い年の大友が指揮する「SF交響ファンタジー」第1番。大友らしい構築のしっかりした音楽で、音も息づいているが、映画のために書かれた音楽が元となった曲としては少しお堅めで、大友の生真面目な性格が出ている。もっと外連のある演奏を行ってもいいはずなのだが。
大友も1990年代には、NHK大河ドラマのオープニングをよく指揮していた。大河のテーマ音楽は、NHKの顔になるということで、当代一流と見なした作曲家にしか作曲を依頼せず、N響が認める指揮者にしか指揮させていない。近年では、正指揮者に任命された下野竜也が毎年のように指揮し、その他に元々正指揮者の尾高忠明(「八重の桜」、「青天を衝け」など)、共演も多い広上淳一(「光る君へ」、「麒麟がくる」、「軍師官兵衛」、「龍馬伝」、「新選組!」など)の3人で回している。なお、音楽監督であった時代のシャルル・デュトワ(「葵・徳川三代」)やウラディーミル・アシュケナージ(「義経」)、首席指揮者時代のパーヴォ・ヤルヴィ(「女城主直虎」)もテーマ音楽の指揮を手掛けている。将来的には現首席指揮者のファビオ・ルイージも指揮する可能性は高い。
ということで、大友さんも90年代は良いところまで行っていたことが窺える。それが21世紀に入る頃から、大友さんのキャリアに陰りが見え始めるのだが、これは理由ははっきりしない。大友さんは、「色々リサーチしたが、世界で最もクラシック音楽の演奏が盛んなのは東京なのだから東京を本拠地にするのがベスト」という考えの持ち主である。ただ海外でのキャリアが数えるほどしかないというのはブランドとして弱かったのだろうか。


LEOをソリストに迎えた2曲。箏奏者のLEOは、「題名のない音楽会」への出演でお馴染みの若手である。1998年生まれ、16歳でくまもと全国邦楽コンクールにて史上最年少での優勝を果たし、注目を浴びる。これまで数々の名指揮者や名オーケストラと共演を重ねている。

宮城道雄/池辺晋一郎の管弦楽のための「春の海」。お正月の音楽としてお馴染みの「春の海」に池辺晋一郎が管弦楽をつけたバージョンで、1980年の編曲。森正指揮のNHK交響楽団の演奏、唯是震一の箏によって初演されている。
尺八の役目はフルートが受け持ち(フルート独奏:上野博昭)。開けた感じの海が広がる印象を受ける。まるで地球の丸く見える丘から眺めた海のようだ。


今野玲央/伊賀拓郎の「松風」。作曲はLEOこと今野玲央が行っており、弦楽オーケストラ伴奏のためのアレンジを伊賀拓郎が務めている。
LEOは繊細な響きでスタート。徐々にうねりを高めていく。「春の海」が太平洋や瀬戸内の海なら、「松風」は日本海風。ひんやりとしてシャープな弦楽の波が現代音楽的である。
実際は、「松風」は海を描いたものではなく、二条城二の丸御殿「松」の障壁画を題材としたものである。二条城の障壁画は、私が京都に来たばかりの頃は、オリジナルであったのだが、傷みが激しいということで、現在はほぼ全てレプリカに置き換えられている。
「松風」は初演時にはダンスのための音楽として、田中泯の舞と共に披露された。


LEOのアンコール演奏は、自作の「DEEP BLUE」。現代音楽の要素にポップな部分を上手く絡めている。


ブラームスの交響曲第1番。コンサートレパートリーの王道中の王道であり、これまで聴いてきたコンサートの中で最も多く耳にしたのがこの曲のはずである。なにしろ、1990年に初めて生で聴いたコンサート、千葉県東総文化会館での石丸寛指揮ニューフィルハーモニーオーケストラ千葉(現・千葉交響楽団)のメインがこの曲だった。
現在、来日してN響を指揮しているヘルベルト・ブロムシュテットの指揮でも2回聴いている(オーケストラは、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とNHK交響楽団)。パーヴォ・ヤルヴィ指揮でも2回聴いているはずである(いずれもドイツ・カンマ-フィルハーモニー・ブレーメン)。

大友さんは、21世紀に入った頃から芸風を変え始め、力で押し切るような演奏が増えた。どういう心境の変化があったのか分からないが、小澤征爾との関係が影響を与えているように思われる(小澤と大友は師弟関係であるが明らかに不仲である)。

ただ今日の演奏は、力技が影を潜め、流れ重視の音楽になっていた。
今日は全編ノンタクトで指揮した大友。この曲では譜面台を置かず、全て暗譜での指揮である。
冒頭はどちらかというと音の美しさ重視。悲哀がそこはかとなく漂うが、悲劇性をことさら強調することはない。ティンパニも強打ではあるが柔らかめの音だ。その後も押しではなく一歩引いた感じの音楽作り。大友さんもスタイルを変えてきたようだ。そこから熱くなっていくのだが、客観性は失わない。

第2楽章は、コンサートマスターの石田泰尚が、優美なソロを奏でる。甘く、青春のような若々しさが宿る。

第3楽章もオーケストラ捌きの巧みさが目立ち、以前のような力みは感じられない。第4楽章もバランス重視で、情熱や歓喜の表現は勿論あるが、どちらかというと作為のない表現である。ただ大友は楽団員を乗せるのは上手いようで、コンサートマスターの石田を始めヴァイオリン奏者達が前のめりになって弾くなど、大友の表現に積極的に貢献しているように見えた。

大仰でない若々しいブラームス。この曲を完成させた43歳時のブラームスの心境が伝わってくるような独特の味わいがあった。


大友の著書『クラシックへの挑戦状』(中央公論新社)の中に、小澤征爾は二度登場する。うち一度は電話である。いずれも大友にとっては苦い場面となっている。師弟関係であり、著書に登場しながら、巻末の謝辞を述べる部分に小澤征爾の名はない。
力で押すのは晩年の小澤の音楽スタイルでもある。そこからようやく離れる気になったのであろうか。

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2024年10月25日 (金)

コンサートの記(864) デイヴィッド・レイランド指揮 京都市交響楽団第694回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル

2024年10月11日 京都コンサートホールにて

午後7時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第694回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。指揮は、デイヴィッド・レイランド。京響には2度目の登場である。

休憩時間なし、上演時間約1時間のフライデー・ナイト・スペシャル。今回は、アンドリュー・フォン・オーエンのピアノソロ演奏の後に京響が登場。京響は1曲勝負である。


曲目は、アンドリュー・フォン・オーエンのピアノソロで、ラフマニノフの前奏曲作品23から、第4番ニ長調、第2番変ロ長調、第6番変ホ長調、第5番ト短調。デイヴィッド・レイランド指揮京都市交響楽団の演奏で、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。


アンドリュー・フォン・オーエンは、ドイツとオランダにルーツを持つアメリカのピアニスト。5歳でピアノを始め、10歳でオーケストラと共演という神童系である。名門コロンビア大学に学び、ジュリアード音楽院でピアノを修めた。アルフレッド・ブレンデルやレオン・フライシャーからも薫陶を受けている。1999年にギルモア・ヤング・アーティスト賞を受賞。レニ・フェ・ブランド財団ナショナル・ピアノ・コンペティションで第1位を獲得。アメリカとフランスの二重国籍で、ロサンゼルスとパリを拠点としている。

午後7時頃からのデイヴィッド・レイランドによるプレトーク(通訳:小松みゆき)でも、オーエンが、ロサンゼルスとパリを拠点とするピアニストであることが紹介されている。
プレトークでは他に作品の解説。共にロシアの作品で、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」はラヴェルの編曲なのでフランスの要素も入ってくるということを語る。組曲「展覧会の絵」は、ムソルグスキーが、若くして亡くなった友人のヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)の遺作の展覧会を見て回るという趣向の作品だが、ハルトマンの絵は今では見られなくなってしまったものが多いと語る(いくつかは分かっていて、ずっと前にNHKで特集が組まれたことがあった。その際、「ビィドロ」は牛が引く荷車ではなく、「虐げられた人々」という意味でつけられたことが判明していたりする)。最後の曲は「キエフの大門」(今回は、「キエフ(キーウ)の大門」という併記表現になっている)で、これは今演奏することに意味があるとレイランドは語る。キエフ(キーウ)は、現在、ロシアと交戦中のウクライナの首都。更に、レイランドは知らないかも知れないが、京都市の姉妹都市である。ロシアはそもそもキエフ公国から始まっており、ロシアにとっても特別な場所だ。「キエフ(キーウ)の大門」の絵は現物が残っている。その名の通り、キエフに建てられる予定だった大門のデザインのコンペティションに応募した時の作品なのだが、不採用となっている。

アンドリュー・フォン・オーエンのピアノは、音がクリアで、構築もしっかりしている。全曲ラフマニノフを並べていることからメカニックに自信があることが分かるが、難曲のラフマニノフを軽々と弾いていく感じだ。

第4番のロマンティシズム、第2番のスケールの豊かさ、第6番のリリシズム、第5番のリズム感といかにもラフマニノフらしい甘い旋律などを的確に表現していく。ロシアものにかなり合っているし、おそらくフランスものを弾いても出来は良いだろう。

アンコール演奏は、ラフマニノフの前奏曲作品32-12 嬰ト短調であった。これも好演。


デイヴィッド・レイランド指揮京都市交響楽団によるムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。ピアノをはけさせるなど舞台転換があるため、まず管楽器や打楽器の奏者が登場し、最後に弦楽器の奏者が現れる。通常は一斉に登場して客席からの拍手を受けるのだが、今日は拍手をするタイミングはなかった。

デイヴィッド・レイランドは、ベルギー出身。ブリュッセル音楽院、パリのエコール・ノルマル音楽院、ザルツブルク・モーツァルティウム大学で学び、ピエール・ブーレーズ、デイヴィッド・ジンマン、ベルナルト・ハイティンク、ヨルマ・パヌラ、マリス・ヤンソンスに師事。イギリスの古楽器オーケストラであるエイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団の副指揮者として、サー・マーク・エルダー、ウラディーミル・ユロフスキ、サー・ロジャー・ノリントン、サー・サイモン・ラトルと活動している。ウラディーミル・ユロフスキだけはイギリス人ではなくロシア出身のドイツ国籍の指揮者だが、長年に渡ってロンドン・フィルの指揮者を務めており、名誉イギリス人的存在である。
ルクセンブルク室内管弦楽団の音楽監督を経て、現在はフランス国立メス管弦楽団(旧フランス国立ロレーヌ管弦楽団)と韓国国立交響楽団の音楽監督を務めるほか、スイスのローザンヌ・シンフォニエッタ首席客演指揮者としても活動している。

今日のコンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。ドイツ式の現代配置での演奏。ヴィオラの客演首席に東条慧(とうじょう・けい。女性)が入る。サクソフォンの客演は崔勝貴(さい・しょうき)。
ハープの客演は朝川朋之。朝川は以前にも京響に客演していたが、日本では男性のハーピストは比較的珍しい。ヨーロッパではそもそも女性が楽団員になれないオーケストラも多かったので、男性ハーピストは普通である。今は指揮者として活躍している元NHK交響楽団の茂木大輔氏が、エッセイで、「ハープは女性には運搬が大変なので、男性にやらせたらどうか」という内容を書いており、その後なぜかハープ演奏がヤクザのしのぎの話になって、「ハープの演奏をする」が「しばいてくる」になったりしていた。
トランペットは首席のハラルド・ナエス、副首席の稲垣路子が揃い、曲はナエスの輝かしいトランペットソロで始まる。
京響は音に艶と輝きがあり、音のグラデーションが絶妙な変化を見せる。まさに虹色のオーケストラである。京響も本当に魅力的なオーケストラになった。

レイランドの指揮は簡潔にして明瞭。指揮の動きに合わせれば演奏出来る安心感があり、オーケストラの捌き方も抜群。どちらかというと音の美しさで聴かせるタイプで、ムソルグスキーというよりラヴェル寄りであるが、十二分に満足出来る水準に達していた。

演奏終了後、京響の楽団員はレイランドに敬意を表して立たず、レイランドはコンサートマスターの会田莉凡の手を取って立たせて、全楽団員にも立つよう命じていた。

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2024年10月12日 (土)

コンサートの記(860) 2024年度全国共同制作オペラ プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」京都公演 井上道義ラストオペラ

2024年10月6日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、2024年度全国共同制作オペラ、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。井上道義が指揮する最後のオペラとなる。
演奏は、京都市交響楽団。コンサートマスターは特別名誉友情コンサートマスターの豊島泰嗣。ダンサーを使った演出で、演出・振付・美術・衣装を担当するのは森山開次。日本語字幕は井上道義が手掛けている(舞台上方に字幕が表示される。左側が日本語訳、右側が英語訳である)。
出演は、ルザン・マンタシャン(ミミ)、工藤和真(ロドルフォ)、イローナ・レヴォルスカヤ(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、スタニスラフ・ヴォロビョフ(コッリーネ)、高橋洋介(ショナール)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ベノア)、仲田尋一(なかた・ひろひと。アルチンドロ)、谷口耕平(パルピニョール)、鹿野浩史(物売り)。合唱は、ザ・オペラ・クワイア、きょうと+ひょうごプロデュースオペラ合唱団、京都市少年合唱団の3団体。軍楽隊はバンダ・ペル・ラ・ボエーム。

オーケストラピットは、広く浅めに設けられている。指揮者の井上道義は、下手のステージへと繋がる通路(客席からは見えない)に設けられたドアから登場する。

ダンサーが4人(梶田留以、水島晃太郎、南帆乃佳、小川莉伯)登場して様々なことを行うが、それほど出しゃばらず、オペラの本筋を邪魔しないよう工夫されていた。ちなみにミミの蝋燭の火を吹き消すのは実はロドルフォという演出が行われる場合もあるのだが、今回はダンサーが吹き消していた。運命の担い手でもあるようだ。

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オペラとポピュラー音楽向きに音響設計されているロームシアター京都メインホール。今日もかなり良い音がする。声が通りやすく、ビリつかない。オペラ劇場で聴くオーケストラは、表面的でサラッとした音になりやすいが、ロームシアター京都メインホールで聴くオーケストラは輪郭がキリッとしており、密度の感じられる音がする。京響の好演もあると思われるが、ロームシアター京都メインホールの音響はオペラ劇場としては日本最高峰と言っても良いと思われる。勿論、日本の全てのオペラ劇場に行った訳ではないが、東京文化会館、新国立劇場オペラパレス、神奈川県民ホール、びわ湖ホール大ホール、フェスティバルホール、ザ・カレッジ・オペラハウス、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール、フェニーチェ堺大ホールなど、日本屈指と言われるオペラ向けの名ホールでオペラを鑑賞した上での印象なので、おそらく間違いないだろう。

 

今回の演出は、パリで活躍した画家ということで、マルチェッロ役を演じている池内響に藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ)の格好をさせているのが特徴である。

 

井上道義は、今年の12月30日付で指揮者を引退することが決まっているが、引退間際の指揮者とは思えないほど勢いと活気に溢れた音楽を京響から引き出す。余力を残しての引退なので、音楽が生き生きしているのは当然ともいえるが、やはりこうした指揮者が引退してしまうのは惜しいように感じられる。

 

歌唱も充実。ミミ役のルザン・マンタシャンはアルメニア、ムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤとスタニスラフ・ヴォロビョフはロシアと、いずれも旧ソビエト圏の出身だが、この地域の芸術レベルの高さが窺える。ロシアは戦争中であるが、芸術大国であることには間違いがないようだ。

 

ドアなどは使わない演出で、人海戦術なども繰り出して、舞台上はかなり華やかになる。

 

 

パリが舞台であるが、19世紀前半のパリは平民階級の女性が暮らすには地獄のような街であった。就ける職業は服飾関係(グレーの服を着ていたので、グリゼットと呼ばれた)のみ。ミミもお針子である。ただ、売春をしている。当時のグリゼットの稼ぎではパリで一人暮らしをするのは難しく、売春をするなど男に頼らなければならなかった。もう一人の女性であるムゼッタは金持ちに囲われている。

 

この時代、平民階級が台頭し、貴族の独占物であった文化方面を志す若者が増えた。この「ラ・ボエーム」は、芸術を志す貧乏な若者達(ラ・ボエーム=ボヘミアン)と若い女性の物語である。男達は貧しいながらもワイワイやっていてコミカルな場面も多いが、女性二人は共に孤独な印象で、その対比も鮮やかである。彼らは、大学などが集中するカルチェラタンと呼ばれる場所に住んでいる。学生達がラテン語を話したことからこの名がある。ちなみに神田神保町の古書店街を控えた明治大学の周辺は「日本のカルチェラタン」と呼ばれており(中央大学が去り、文化学院がなくなったが、専修大学は法学部などを4年間神田で学べるようにしたほか、日本大学も明治大学の向かいに進出している。有名語学学校のアテネ・フランセもある)、京都も河原町通広小路はかつて「京都のカルチェラタン」と呼ばれていた。京都府立医科大学と立命館大学があったためだが、立命館大学は1980年代に広小路を去り、そうした呼び名も死語となった。立命館大学広小路キャンパスの跡地は京都府立医科大学の図書館になっているが、立命館大学広小路キャンパスがかなり手狭であったことが分かる。

 

ヒロインのミミであるが、「私の名前はミミ」というアリアで、「名前はミミだが、本名はルチア(「光」という意味)。ミミという呼び方は気に入っていない」と歌う。ミミやルルといった同じ音を繰り返す名前は、娼婦系の名前といわれており、気に入っていないのも当然である。だが、ロドルフォは、ミミのことを一度もルチアとは呼んであげないし、結婚も考えてくれない。結構、嫌な奴である。
ちなみにロドルフォには金持ちのおじさんがいるようなのだが、生活の頼りにはしていないようである。だが、ミミが肺結核を患っても病院にも連れて行かない。病院に行くお金がないからだろうが、おじさんに頼る気もないようだ。結局、自分第一で、本気でルチアのことを思っていないのではないかと思われる節もある。


「冷たい手を」、「私の名前はミミ」、「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)など名アリアを持ち、ライトモチーフを用いた作品だが、音楽は全般的に優れており、オペラ史上屈指の人気作であるのも頷ける。


なお、今回もカーテンコールは写真撮影OK。今後もこの習慣は広まっていきそうである。

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2024年9月 4日 (水)

コンサートの記(855) 広上淳一指揮京都市交響楽団第692回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル マーラー 交響曲第3番

2024年8月23日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第692回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。
通常のフライデー・ナイト・スペシャルは、土曜のマチネーの短縮版プログラムを午後7時30分から上演するのだが、今回は演奏曲目がマーラーの大作、交響曲第3番1曲ということで、フライデー・ナイト・スペシャルも土曜日と同一内容で、開演時間も午後7時30分ではなく午後7時となっている。
今日の指揮者は、京都市交響楽団の第12代および第13代常任指揮者であった広上淳一。
現在は、京都市交響楽団 広上淳一という変わった肩書きを持っている。

午後6時30分頃より、広上淳一と音楽評論家の奥田佳道によるプレトークがある。広上はピンクのジャケットを着て登場。
広上淳一と京都市交響楽団によるマーラーの交響曲第3番の演奏は、広上淳一の京都市交響楽団常任指揮者退任記念となる2022年3月の定期演奏会で取り上げられる予定だったのだが、コロナ禍で「少年合唱団が入るので十分に練習できない」ということでプログラムが変更になり、広上の師である尾高惇忠(おたか・あつただ。指揮者の尾高忠明の実兄で、共に新1万円札の肖像になった渋沢栄一の子孫)の女声合唱曲集「春の岬に来て」より2曲とマーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子)、マーラーの交響曲第1番「巨人」に変わった。広上はその時のプレトークでマーラーの交響曲第3番について、「2、3年後にやります」と語っていたが、ついに実現することになった。
プログラムが変更になったことについては、「災い転じて、じゃないですが」と語り始め、「マーラーの交響曲第3番は曲は長いんですが、歌の部分は短い(メゾ・ソプラノ独唱の部分は)7分ぐらいしかない」ということで、藤村の歌唱をより長く楽しめる曲になったことを肯定的に捉えていた。
奥田が、「『京都市交響楽団 広上淳一』というのはこれが称号ですか?」と聞き、広上が「そうです」と答えて、「名誉とか桂冠とか、そういうのは気恥ずかしい」ということで、風変わりな称号となったようである。奥田は、「個人名が称号になるのは異例」と話す(おそらく世界初ではないだろうか)。
広上はマーラーの交響曲第3番について、「神を意識した」と述べ、奥田が補足で、「当初は全ての楽章に表題がついていた。ただ当時は標題音楽は絶対音楽より格下だと思われていた。そのため、表題を削除した」という話をする。
奥田は、「こういうことを言うと評論家っぽいんですが、第1楽章だけで35分。ベートーヴェンなどの交響曲1曲分の長さ」とこの曲の長大さを語る。
この曲では、トロンボーンのソロと、ポストホルンのソロが活躍する。トロンボーンは戸澤淳が(現在、京響は首席トロンボーン奏者を欠いている)、ポストホルンソロは副首席トランペット奏者の稲垣路子が吹く。稲垣路子がどこでポストホルンを吹くのかを広上はばらしそうになって慌ててやめていた。
マーラーは作曲は指揮活動以外の時間、特に夏の休暇を使って行っていた。交響曲第3番は、1895年と1896年の夏の休暇に書かれている。作曲を行ったのは、オーストリアのアッター湖畔、シュタインバッハの作曲小屋においてであった。奥田はシュタインバッハに行ったことがあるそうで、広上に羨ましがられていた。マーラーの弟子で、後にマーラー作品の普及に尽力することになる指揮者のブルーノ・ワルターが1896年にマーラーの作曲小屋を訪れ、豊かな自然に見とれていると、マーラーが、「見る必要はない、全部ここに書いたから」と交響曲第3番の譜面の見せたという話が伝わっている。

奥田は、京都市交響楽団の成長について聞くが、広上は、「何もしてません。私を超えちゃいました」と答える。奥田は、「いや今のは謙遜で」とフォロー。
オーケストラと指揮者の関係についてだが、広上は、長年に渡ってアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)の首席指揮者を務めたベルナルト・ハイティンクから、「いつか育てたオーケストラに感謝する日が来るよ」と言われたことを思い出していた。


今日のコンサートマスターは、京響特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。尾﨑平は降り番である。ヴィオラの客演首席奏者として大野若菜が入る。
メゾ・ソプラノ独唱:藤村実穂子。女声合唱:京響コーラス。少年合唱:京都市少年合唱団。

広上が指揮したときの京響はやはり音が違う。音の透明度が高く、抜けが良く、程よく磨かれ、金管はパワフルで立体的で輝かしい。
これまで無意識に広上指揮する京響の演奏をロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に例えて来たが、考えてみると、広上の指揮者としてのキャリアは、アムステルダム・コンセルトヘボウ(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地。当時はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という名称だった)で、レナード・バーンスタインに師事したことから始まっており、原体験が広上の無意識に刻まれてベースとなっているのではないかという仮説も立ててみたくなる。

史上最高のマーラー指揮者とみて間違いないレナード・バーンスタイン。1960年代に「マーラー交響曲全集」を完成させ、マーラー指揮者としての名声を確立。その過程を見守っていたのが小澤征爾であり、小澤も後年、世界的なマーラー指揮者と見做されるようになる。
1980年代にも2度目の「マーラー交響曲全集」を完成させるべくライブ録音を開始したバーンスタイン。ウィーン国立歌劇場音楽監督であるマーラーが事実上の常任指揮者であったウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、晩年のマーラーが海を渡って音楽監督に就任し、バーンスタインも手兵としていたニューヨーク・フィルハーモニック、当時「不気味な音楽」として評価されていなかったマーラーの音楽を世界に先駆けて取り上げていたヴィレム・メンゲルベルクが率いていたアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)の3つを振り分ける形で録音は進められたが、バーンスタインの死によって全集は未完となり、交響曲第8番「千人の交響曲」は映像用の音源を使ってリリースされたが、交響曲「大地の歌」は全集に収録されなかった(バーンスタインは「大地の歌」を生前2度録音しており、それが代用される場合がある)。

私も新旧のレナード・バーンスタインが指揮する「マーラー交響曲全集」を持っており、交響曲第3番はバーンスタインの新盤がベストだと思っている。ただ、余り好きな曲ではないため、その他にはエサ=ペッカ・サロネン盤など数種を所持しているだけである。

そんなレナード・バーンスタインに師事した広上のマーラー。「巨人」は京響で聴いたほか、広島まで遠征して広島交響楽団との演奏を聴いている。交響曲第5番は京響との演奏を2度ほど聴いている。ただ第3番を聴くのは、京都で取り上げるのは初ということもあってこれが一度目となる。他にホールで聴いた記憶もないので、実演に接するのも初めてのはずである。

チケットは完売。京都のみならず、日本中からの遠征組も存在すると思われる中でのコンサート。

広上はいつも通り個性的な指揮。時折、指揮台の端まで歩み寄って指揮するため、「落ちるのではないか」とハラハラさせられる。
バーンスタインのマーラーは、異様なまでに肥大化したスケールを最大の特徴とするが、広上は確固としたフォルムを築きつつ、大言壮語はしないスタイル。それでも、うなるようなパワーと緻密さを止揚させた説得力のあるマーラー像を築き上げる。

マーラーは、生前は指揮者として評価されていた人であり、オーケストラの性能を熟知していた。そのため、コル・レーニョ奏法の使用やベルアップの指示など、オーケストラの機能を極限まで追求する曲を書いているのだが、京響はマーラーの指示を巧みに捌いていく。

稲垣路子のポストホルンソロはステージの外で吹かれる。私の席からは死角になって姿は見えないのだが、朗々として純度の高い響きが天から降り注ぐかのようである。

藤村実穂子のメゾ・ソプラノは深みと奥行きを持った歌唱としてホール内の空気を伝っていく。テキストはニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』から取られたものである。
その後、京響コーラスの女声合唱と京都市少年合唱団による汚れのない歌声とのやり取りが、現世と彼岸とを対比させる。

そして最終楽章。哀切、清明、現在、過去、自己の内と外など、様々な要素が複雑に絡み合い、浄化へと向かっていく。
現在の日本人指揮者と日本のオーケストラによる最上級の演奏になったと見做しても間違いないだろう。贔屓目なしでそう思う。

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2024年8月 7日 (水)

コンサートの記(853) 井上道義指揮 京都市交響楽団第690回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャル

2024年6月21日 京都コンサートホールにて

午後7時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第690回定期演奏会 フライデー・ナイト・スペシャルを聴く。指揮は京響第9代常任指揮者兼音楽監督であった井上道義。井上の得意とするショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番(チェロ独奏:アレクサンドル・クニャーゼフ)と交響曲第2番「十月革命」(合唱:京響コーラス)の組み合わせ。明日はこれにショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番が加わる。

プレトークは開演の30分前が基本なのだが、今日は特別に開演10分前となっている。
井上道義は、「どうも井上です」と言いながら登場。「ショスタコーヴィチで完売になる日が来るなんて。今日は違います。明日です」
京都市交響楽団の音楽監督と務めたのがもう35年ほど前、京都コンサートホールが出来てから約30年(正確にいうと、1995年開場なので29年である)ということで時の流れの速さを井上は語る。あの頃は京響の宣伝のために燕尾服を着て鴨川に入った写真を撮ってテレホンカードにしたが、「今、テレホンカードなんて何の役にも立たない」

今ではショスタコーヴィチ演奏の大家となった井上であるが、ショスタコーヴィチの魅力に気づいたのは京響の音楽監督をしていた時代だそうで、京都会館でのことだそうである。ここから先は他の場所で話していたことになる。

以前に京都市交響楽団が本拠地としていた京都会館第1ホールは前川國男設計の名建築ではあるのだが、音響が悪いことで知られていた。音響の悪い原因は実ははっきりしており、なんとも京都らしい理由なのだが、ここには書かないでおく。井上は色々と試したのだが、何をやっても鳴らない。ただ唯一、ショスタコーヴィチだけはオーケストレーションが良いので音が通ったそうで、ショスタコーヴィチの凄さを知ったという。

ここで、今日、井上が語った内容に戻る。それまでは井上も、ショスタコーヴィチの音楽について、「重ったるい、暗い、社会主義的な音楽」だと思っていたのだが、いったん開眼するとそうではないことに気づいたという。明日演奏するチェロ協奏曲第2番についても、「クニャーゼフにも聞いたんだけど、暗い曲じゃない」。ただチェロ協奏曲第2番を演奏するのは明日なので、詳しくは明日話すことにするという。
ショスタコーヴィチの交響曲第2番「十月革命」は、ショスタコーヴィチが二十歳の時に書いた作品である(交響曲第1番は17歳で書いている)。この頃、ショスタコーヴィチは作曲家よりもピアニストに憧れていたというが、ショパン・コンクールでは入賞出来なかった。井上は客席に「二十歳以下の人」と聞く。結構手が上がるが、井上の見える範囲内では8人程度。「二十歳と言ったら(作曲家としては)まだ青二才です」
ショスタコーヴィチは「天才中の天才」と言える人で、「ソ連が生んだ初の天才作曲家」と言われているが、私の見るところ、「音楽史上最高の天才」で、おそらくモーツァルトよりも上である。ただモーツァルトの音楽が「天から降ってきた」ような音楽であるのに対し、ショスタコーヴィチの音楽は「あくまで人間が創造したもの」であるところが違う。
ロシア革命が起こり、それまでの体制が全てひっくり返る。若い人々がやる気に満ちている。井上は、「レーニンがみんな平等の社会を作ろうとした。ただ人間はそこまでクレバーじゃなかった。善意だけで国を作ろうとするとどうなるか」とその後のソ連の運命を暗示した。ただショスタコーヴィチが二十歳の頃のソ連は、世界のどこよりも自由で、ロシア・アヴァンギャルドなどの芸術が興り、何をどう表現してもいいような雰囲気に満ちていた。これはスターリンが台頭するまで続く。
無料パンフレットによると、ショスタコーヴィチはアレクサンドル・ベズィメンスキーの書いた「十月革命とレーニン礼賛」の詩を嫌っていたとあるが、井上はショスタコーヴィチはレーニンを尊敬していたと語った。
この曲ではサイレンが鳴るのだが、井上は、「サイレンが鳴りますがびっくりしないでね。心臓の悪い人、気をつけて」
この時代のショスタコーヴィチの音楽は、「まだ二枚舌じゃない」と井上は語り、「分かりやすい」とも付け加えた。


今日のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーには泉原隆志。チェロの客演首席には櫃本瑠音(ひつもと・るね)が入る。佐渡裕が創設したスーパーキッズオーケストラ出身のようである。
ティンパニは中山航介(打楽器首席)が皆勤状態だったのだが、今日は降り番。終演後にホールの外で京響の団員に「今日は中山さんどうされたんですか?」と聞いている人がいた。


ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番。私が初めて聴いたショスタコーヴィチの曲の1つである。聴いたのは高校1年生頃だっただろうか。今はソニー・クラシカルとなっているCBSソニーのベスト100シリーズの中に、レナード・バーンスタインとニューヨーク・フィルハーモニックが東京文化会館で行ったショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏のライブ収録のものがあり、それにカップリングされていたのがショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番であった。ヨーヨー・マ(馬友友)のチェロ、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の伴奏。2曲とも今でもベスト演奏に挙げる人がいるはずである。
今回、チェロ独奏を務めるアレクサンドル・タニャーゼフはロシア出身。1990年のチャイコフスキー国際音楽コンクール(ヴァイオリン部門で諏訪内晶子が優勝して話題になった年である)チェロ部門で2位入賞。ロシア国内外の名指揮者と共演を重ねている。一方でオルガンも習得しており、バッハ作品などをオルガンで演奏して好評を博しているという。今、ロシアは戦争中であるため、具体的には書かないが色々と制約があるようである。タニャーゼフも以前はウクライナで何度も演奏を行っていたが、今は入ることも出来ないそうだ。ちなみに井上とタニャーゼフの初共演は20年前だそうで、タニャーゼフが20年前とはっきり覚えていたようである。

力強いが豪快と言うよりは粋な感じのチェロ独奏である。ロシアよりもフランスのチェリストに近い印象も受ける。ロシア音楽はフランス音楽を範としているため、フランス的に感じられてもそうおかしなことではない。歌は非常に深く印象的である。
指揮台なしのノンタクトで指揮した井上の伴奏もショスタコーヴィチらしい鋭さと才気に溢れた優れたものであった。

タニャーゼフのアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第3番よりサラバンド。深々とした演奏であった。


ショスタコーヴィチの交響曲第2番「十月革命」。京響コーラスの合唱指揮(合唱指導)は大阪フィルハーモニー合唱団の指揮者である福島章恭(あきやす)が務めている。京響コーラスを創設したのは実は井上道義である。
宇宙的な響きのする曲で、一体どうやったら二十歳でこんな曲が書けるのか全く分からない。井上と京響も迫力と透明感を合わせ持った名演を展開し、「これはえらいものを聴いてしまった」という印象を抱く。なお、井上道義指揮による2度目の「ショスタコーヴィチ交響曲全集」を制作する予定があり、ホールの前にはオクタヴィア・レコードのワゴンが停まっていて、ホール内には本格的なマイクセッティングが施されていた。
粛清の嵐を巻き起こしたソビエト共産党との関係の中で、ショスタコーヴィチはミステリアスでアイロニカルな作風を選ぶ、というより選ばざるを得なくなるのだが、もっと自由な世界に生まれていたらどんな音楽を生み出していたのだろうか。更なる傑作が生まれていたのか、あるいは名画「第三の男」のセリフにあるように、「ボルジア家の悪政下のイタリア、殺戮と流血の日々はルネサンスを開花させた。一方、スイス500年の平和と民主主義が何を生み出したか。鳩時計さ」という聴衆にとっては不幸なことになっていたのか。想像は尽きない。

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