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2025年12月31日 (水)

コンサートの記(937) びわ湖ホール プロデュースオペラ コルンゴルト作曲「死の都」 阪哲朗指揮京都市交響楽団ほか

2025年3月2日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

大津へ。午後2時から、びわ湖ホール大ホールで上演されるコルンゴルトの歌劇「死の都」を観るためだが、午前11時から、演出家の岩田達宗によるワークショップがあるというので、それも聴くために早めに家を出る。ワークショップの会場は大ホールで、自由席、先着順である。誰もが知っている有名オペラではないので、多くの人が押し寄せるということはなかったが(オペラ自体マイナーなので有名オペラでも多くの人は来ないかも知れないが)、それでも「知られざる傑作」としてある程度の知名度はある作品なので、まあまあの入りであった。

びわ湖ホールの館長である村田和彦からの挨拶とびわ湖ホールの四面舞台の紹介があり、その後、岩田達宗のトークとなる。今回の「死の都」は、「竹取物語」、「三文オペラ」同様、オペラ演出家の栗山昌良が演出を担当した歌劇作品の再現を目指して上演が行われるもので、岩田達宗は再演演出となっている。ただ岩田さんから直接伺った話や、びわ湖ホールのSNS記事によると、特別な演出はしないで、どちらかというと演技指導を行っているような印象を受ける。栗山昌良に師事した岩田達宗であるが、生前の栗山から「演出家が自分の色を出すんじゃない」と何度も言われていたそうで、それを考えると栗山が施した演出を再現するだけと考えるのが普通であろう。実際、自分のことを「演出補」と語っていた。
まず、歌劇「死の都」から。コルンゴルトが23歳の時に書いたオペラであり、初演からしばらくは大成功を収めていた作品である。原作はローデンバックの『死都ブリュージュ』。ただ、直訳すると『死 ブリュージュ』で、「これでは収まりが悪い」というので、『死都ブリュージュ』としたようである。「死の都」というも良いタイトルだが、ドイツ語のタイトルを直訳すると「死の町」で(歌詞には「死の町」という言葉が登場する)、ちょっと味気ないので、『死都ブリュージュ』から取って、「死の都」というタイトルになったようだ。今間違えて、「四宮(しのみや)」と打ってしまって直したのだが、四宮という駅は京阪京津線に存在する。
原作は、ベルギーの斜陽の街、ブリュージュ。ひきこもりの男性が愛する女性を殺害するというだけのもので少し味気ないので、台本作者のパウル・ショット(正体はコルンゴルトの父親のユリウス・コルンゴルト)とコルンゴルトは、幻想劇のような作品に仕上げている。今もある夢オチ。比較的評判の悪い手法だが、本格的な夢オチを行ったのは「死の都」が初めてだそうである。「全てが夢でした」という意味での夢オチのようなものはそれまでもあったが、ジークムント・フロイトの『夢分析』の影響を受けて、「夢には意味がある」とした上での夢オチを積極的に使ったのが「死の都」となるようだ。

栗山昌良は、1925年生まれ。ということで、生きていれば100歳になる年だったという。ということもあって、世代的にオーソドックスな演出家と評する向きもあり、栗山昌良本人もそう評価されることを喜んだというが、実際の作風はアヴァンギャルドで、表現主義をベースにしたものであった。「演出家は自分の色を出すな」とは言ったが、「死の都」冒頭の主人公の部屋に関する長いト書きは全く守られていない。ただこれも無視したのではなく、内容を抽出した結果だそうである。幕を上げて、第1幕第1場のセットを見せたのだが、指示とは全く別の部屋が目の前にある。
演技も写実を嫌い、二人の人物が向かい合って喋ることすら「写実だから」と嫌ったそうである。
稽古に関しては、「昭和の人は説明をしない」ということで、細かい指示は出さず、「もう一回、もう一回」を何度も繰り返していたそうだ。何が駄目なのかを聞いても答えはないそうである。現役の演出家としては岩松了が同じような演出を行っていると竹中直人が明かしたことがあり、高岡早紀が稽古場の隅で涙を拭っていたという話が思い起こされる。
さて、「死の都」であるが、1920年にハンブルクとケルンで同時初演されているが、その直前に第一次世界大戦があり、約3400万人が戦死。その約3分の2が兵士などではなく民間人であり、廃墟のようになった街が「死の都」に重なって見えたことは大きかったようだ。その後、第二次世界大戦では全世界で約Ⅰ億人が死亡。しかし、その後、ヨーロッパは戦争をしなくなった。しょっちゅう戦争を起こしており、イメージとは違って野蛮な場所であるヨーロッパであるが、80年以上戦争がないというのはヨーロッパ史上稀なことである(東欧などは含まない)。
「死の都」には有名アリアがあるが、それよりも第3幕のマリエッタのアリアを聴いてほしいとも語っていた。

 

エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトは、現在のチェコのブルノ(モラヴィアの中心都市である)生まれのオーストリア=ハンガリー二重帝国出身の作曲家。幼少期から楽才を発揮し、ヴォルフガングというミドルネームから「モーツァルトの再来」と呼ばれ、マーラーなどにも激賞されている。しかし、ナチスが政権を取ると、彼の人生は暗転。ユダヤ系であったためアメリカの亡命したが、アメリカでは彼のクラシック音楽は受けず、生活のために映画音楽の作曲に進出。こちらでは好評を得た。オーストリアに帰る機会もあったが、前衛の時代に彼の作風は「時代遅れ」と見なされるようになっており、受け入れられることはなかった。映画音楽は当時は格下扱いであり、そのことも影響した。アメリカでも終生、クラシックの作曲家としては評価されず、アメリカに多い毒舌評論家から、「KORNGOLDは、ゴールドではなくてコーンだ」などと揶揄された。若き日の栄光を取り戻せないまま60歳で死去。
1990年代半ばに、アンドレ・プレヴィンやフランツ・ヴェルザー=メストといった有名指揮者がコルンゴルト作品をレコーディング。ようやくコルンゴルト再評価なるかと思われた直後にピアソラ・ブームが起こってしまい、コルンゴルトはどこかに飛んでしまった。運のない作曲家であるが、びわ湖ホールで「死の都」が上演されるのと同時に、九州ではコルンゴルト作品を集めたコンサートが行われており、今度こそは広まるかも知れない。

そんな中、「死の都」だけは知名度が高く、映像も数点出ている。
ちなみに、「死の都」の演奏会形式での日本初演は、1996年に井上道義指揮の京都市交響楽団が行っており、演出ありのオペラ形式での日本上演は、2014年に沼尻竜典指揮京都市交響楽団によってびわ湖ホール大ホールで行われており、この時の演出が栗山昌良である。

 

 

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ コルンゴルト作曲「死の都」を観る。2014年にびわ湖ホール大ホールでオペラ形式での日本初演が行われた作品である。びわ湖ホールの芸術監督である阪哲朗指揮の京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)の演奏。Wキャストで、今日の出演は、山本康寛(パウル)、木下美穂子(マリー/マリエッタ)、池内響(フランク)、山下牧子(ブリギッタ)、小川栞奈(おがわ・かんな。ユリエッテ)、秋元悠希(ルシエンヌ)、島影聖人(しまかげ・きよひと。ガストンの声/ヴィクトリン)、迎肇聡(むかい・ただとし。フリッツ)、与儀巧(よぎ・たくみ。アルベルト伯爵)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。児童合唱は、大津児童合唱団。演出:栗山昌良、再演演出:岩田達宗。

舞台下手側がパウルの部屋。上手側が幻の教会(神殿)となっている。
パウルの部屋の奥にマリーの巨大な肖像画が掛けられている(木下美穂子をモデルにしたもの。昨日は昨日のマリー役である森谷真理をモデルにした絵だったようである)。
ブリギッタとフランツの二人の場面なのだが、絵の事柄に関するものなのに二人とも絵に背を向けて歌う。これが栗山流の写実でない歌い方のようだ。
ブリュージュに住むパウルは、妻のマリーを失ったのだが、友人のフランクには「マリーが戻ってくる」と語る。マリーを見かけたというのだが、それはマリーに似たマリエッタという踊り子であった。パウルは彼女が何者なのか分からないまま家に呼ぶ。
マリエッタがパウルの部屋を訪ねる。マリエッタはパウルがマリーという女性を自分の中に見ていることに気づき、部屋を後にする。やがてマリーの亡霊が現れる。

びわ湖ホール館長の村田和彦が、四面舞台の話をしていたが、第2幕では、その機構を生かし、これまでの舞台が奥に引っ込んで、下から新たなセットが現れる。三段になったヘアピンカーブである。ここでマリエッタの一座が余興のようなものを繰り広げる。
さて、いつからパウルが夢、または幻覚の世界に入っていったかであるが、第2幕ではブリギッタが「修道院に入る」と言って出て行くシーンがある。しかし現実にはブリギッタはパウルの屋敷で女中を続けており、この時点で夢であることは確かである。友人のフランクもマリエッタへの思いを語るのだが、これも夢か幻である。更にいうならその前にマリーの姿(幻覚)を見る場面がある、ということで、大半が夢の中での出来事となる。

絵空事が繰り広げられる訳だが、それこそが実はパウルの欲していたことであり、フランツはこのままではいけないとブリュージュを去るようパウルに告げるのだと思われる。「ブリュージュを離れられない」というパウルの真意は「マリーから離れられない」であり、街と一体化した「今の自分を離れられない」である。そこから出るのだ。

 

阪哲朗指揮の京都市交響楽団が輝かしくも重厚で、かつ瞬発力もある演奏を展開。プッチーニ(おそらくペンタトニックは使っていると思われる)やワーグナー、モーツァルトにリヒャルト・シュトラウスと、様々なオペラ作曲家に影響された響きや旋律が登場するが、いずれも「リアル」な音として鳴り響く。この場ではこの音が鳴らなくてはならないという、説得力に満ちた演奏だ。
退廃的でミステリアスで、それでいて魅力的という音楽である。1920年に初演された作品だが、世紀末的な彩りがあるのは、やはりフロイトの影響を受けているということもあるのだろうか。あるいは初の世界大戦が終わり、次の世界大戦前夜の荒廃した思い故だろうか。
阪の指揮する京都市交響楽団は、おそらく日本初演時の沼尻竜典指揮の時よりも妖艶な音を奏でているような気がした。

オペラ形式の初演も観ている「死の都」。記憶には余り残っていないが、コミカルな部分に関しても、初演時と同じなのかは不明である。

ラストでは、パウルはマリーへの未練を見せるが、今回の演出ではそれほど執着はなく去って行く(例えば、チェーホフの「かもめ」の主人公、トレープレフとは好対照である)。ブリギッタが一人残り、前方に置かれた燭台を手にし、また後ろに下がる。そして幕が下りる。このブリギッタの動きは台本にはなく(ブリギッタはフランツと共に退場することになっている)、オリジナルである。

 

演出家の岩田達宗さんとは、2幕と3幕の間に話をした。

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コンサートの記(936) 「映像の世紀コンサート」@ロームシアター京都メインホール 加古隆(ピアノ)&沼尻竜典指揮京都市交響楽団

2025年12月3日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後4時より、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「映像の世紀コンサート」を聴く。

1995年から1996年にかけて放送され、大好評を博した「映像の世紀」。21世紀に入ってからは続編である「映像の世紀バタフライエフェクト」が放送中である。

 

大阪では、「映像の世紀コンサート」はフェスティバルホールで何度か行われており、私も初回のコンサートは聴きに行っているが、京都で「映像の世紀コンサート」が行われるのは初めてである。
関西での催しというと、最大の人口を誇り、交通も発達した大阪市内で行われがちであるが、街自体が文化と芸術の香りに溢れているような京都で楽しむのもまた乙なものである。
建築と芸術と自然が一体となった岡崎地区で聴くならなおさらでだ。

演奏は、作曲者である加古隆(ピアノ)、沼尻竜典指揮京都市交響楽団。ナレーションは、元NHKアナウンサーの山根基世が務める。

ピアノ協奏曲の布陣。ドイツ式の現代配置での演奏である。スクリーンの邪魔にならないよう、ティンパニの中山航介は上手奥の角で演奏を行っていた。
コンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。管楽器の首席奏者は、オーボエの髙山郁子、ホルンの垣内悠希、トランペットのハラルド・ナエスなどは出演したが、他は降り番である。

現在の「映像の世紀バタフライエフェクト」のテーマ音楽は、NHK交響楽団正指揮者の下野竜也がN響を指揮。下野は大河ドラマのオープニングのテーマもこのところは毎年のように指揮しており、NHK交響楽団とNHKからの信頼が感じられる。大河ドラマのオープニングテーマの指揮と年末の第九の演奏会だけは、実績のある人にしか振らせない方針のNHKとNHK交響楽団であるが、第九は外国人指揮者なども指揮台に立つが、大河ドラマのオープニングテーマは、ここ数年は下野竜也、尾高忠明という二人のNHK交響楽団正指揮者と、広上淳一を加えた3人で回している状態である。以前はNHK交響楽団音楽監督時代のシャルル・デュトワやウラディーミル・アシュケナージ、首席指揮者時代のパーヴォ・ヤルヴィも指揮していた。現在のNHK交響楽団首席指揮者であるファビオ・ルイージはまだ指揮していないが、来年の大河ドラマである「豊臣兄弟!」のオープニングを指揮するのは実は沼尻竜典である。勿論、初めての挑戦だ。

指揮者として活躍した後で、作曲家としてもデビュー。現在ではピアニストとしても活躍している沼尻竜典。びわ湖ホールの芸術監督を務めた後で(桂冠芸術監督の称号を贈られた)、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に転身。自身が起こしたトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニアの音楽監督も兼任している。京都市交響楽団とは、毎年1回、マーラーの交響曲をびわ湖ホール大ホールで演奏する試みを続けている。
劇伴の仕事をしたことがあるのかどうかは分からないが、テンポに関してはかなり的確な演奏が出来る指揮者である。総譜より先にタブレット状のものが取り付けられているが、これは譜面ではなくてモニターで、スクリーンに映っている映像がそのまま流れ、映像に合わせて指揮をするためにある。譜面にも映像にも合わせて指揮しなければならないので大忙しである。

リュミエール兄弟が世界で初めて撮影した映像や、線路の脇で電車がこちらへと走ってくる様を捉えた映像が流れて演奏スタート。演奏される楽曲は、「パリは燃えているか」、「時の封印」、「シネマトグラフ」、「はるかなる王宮」、「神のパッサカリア」、「最後の海戦 パート1、2」、「未来世紀」、「大いなるもの東方より」、「マネーは踊る」、「狂気の影」、「黒い霧」、「ザ・サード・ワールド」、「睡蓮のアトリエ」、「愛と憎しみの果てに」、そして今回はアンコールが予め決まっており、「映像の世紀バタフライエフェクト」のために書かれた、「風のリフレイン」と「グラン・ボヤージュ」が演奏される。

 

加古隆の音楽に必要なのは何よりも抒情美であるが、そこは京響。リリシズムに満ちた音楽を奏でていた。

今回の「映像の世紀コンサート」は、戦争の歴史に焦点を当てていたが、それは現在、ウクライナとロシア、イスラエルとガザ地区での戦闘が継続中であるからに他ならない。爆撃されて建物の多くが破壊されたガザ地区(おそらくガザ市)、ウクライナがロシア軍に攻撃される様も終盤、スクリーンに投影された。

「王朝の時代」を特集する映像もあり、後に惨殺されることになるロマノフ王朝のニコライ二世(皇太子時代に来日した際、大津市の旧東海道において、巡査の津田三蔵に斬りつけられるという、「大津事件」でも知られる)やアレクセイ皇太子などが映っている。
オーストリアでもハプスブルク家の支配が終焉を迎えるが、フランツ・ヨーゼフ一世の姿がカメラに捉えられている。ハプスブルク家の没落と共に登場したのが同じオーストリア出身のアドルフ・ヒトラーであり、ヒトラーの経済政策によってドイツは歴史的な大インフラを解消。ドイツにおけるヒトラーの支持率は実に90%を記録したが、このときはヒトラーの正体に気付いている人はまだほとんどいなかった。

ヨーロッパが混乱の最中にあるときに力を付けたのがアメリカである。ニューヨークには摩天楼が建ち、一際高いエンパイアステートビルが建設される。エンパイアステートビルは現在では、高さニューヨーク1ではないが、今でもニューヨークのシンボルの座は揺らいでいない。

ヒトラーはオーストリアを併合。イタリアでもファシスト党のベニート・ムッソリーニが政権を手にする。今では、「ファシスト」という言葉は相手の悪口にしか使わないが、当時は有効な政策運営手段の一つと思われていた。

独伊と手を組んだのが大日本帝国である。ヨーロッパとアジアとでは遠すぎて協力の仕様がないが、とにかく三国同盟は締結される。日本はその時は中立国だったアメリカに挑む。しかし国力の差は明らかで、日本は最終手段として特攻作戦を立案する。ゼロ戦で相手の軍艦に突っ込むという、死亡率100%の犠牲を伴う作戦。アメリカ人から見れば「クレイジー」としか思えないだろうが、日本には他国にない「死の美学」「犠牲の美学」があった。そうしたものを発揮するのはこのときではなかったかも知れないが、多くの日本戦闘機は迎撃されて海に沈み、数少ない成功例がアメリカ軍を慄然とさせた。アメリカ人からみればまともに見えなかったと思われる日本兵だが、戦死者に対する敬意は表したようである。

アメリカはベトナム戦争で敗戦する。南北に分断されたベトナム。アメリカは資本主義の南ベトナム(ベトナム共和国)を支援するが、アメリカ国内でもベトナム反戦の動きが起こり、泥沼化した戦争は、サイゴン(現ホーチミン)陥落で最後を迎える。

戦争の世紀であった20世紀であるが、各都市は復興し、発展していく。空襲を受けた東京の街は、木造建築が多いということもあり、ヨーロッパなどよりも悲惨な焼け野原だが、集った日本人少年達の顔は明るい。戦争が終わったなら後は復興するだけ。実際のところ、東京は人口が多かったということもあり、戦前の街並みをそのまま復興しようとする機運が強く、空襲を機会に道幅を広げてモータリゼーションの到来を予見した大阪や名古屋に比べると上手くはなかったと思う。それでもお洒落な銀座の街並みなど、活気ある東京をカメラは捉えていた。

 

アンコール演奏。加古隆はセンチメンタルな作風が特徴で、「映像の世紀」の音楽も明るくはないのだが、20世紀の「映像の世紀」の音楽に比べると煌びやかで希望を持てる曲調となっている。

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2025年12月30日 (火)

コンサートの記(935) 沖澤のどか指揮 京都市交響楽団特別演奏会 第九コンサート 2025

2025年12月28日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会 第九コンサートを聴く。指揮者は京都市交響楽団第14代常任指揮者の沖澤のどか。沖澤が京響の第九に登場するのは今回が初めてである。

ドイツ式の現代配置をベースにした配置だが、中央(第2ヴァイオリンとチェロの背後)に木管楽器が陣取り、その後ろの階段状の台に合唱団が乗る(合唱は京響コーラス。上手側が男声、下手側が女声である)。金管楽器が下手寄りに斜めに並び、下手奥隅に中山航介が叩くティンパニがある。ティンパニは見た目では分からなかったが、音を聴いてバロックティンパニだと確認出来た。木のバチ、先端に毛糸を巻いたマレット、両方を使用。上手寄り、チェロの奥にはファゴット群が布陣する。
ステージを擂り鉢状にしての演奏である。

コンサートマスターは京響ソロコンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。客演首席ヴィオラに笠川恵(かさかわ・めぐみ)、客演首席トロンボーンには吉田英恵(はなえ)。
今年は第九1曲勝負である。ソプラノ:嘉目真木子(よしめ・まきこ)、メゾ・ソプラノ:小泉詠子(えいこ)、テノール:小原啓楼(おはら・けいろう)、バリトン:山本悠尋(ゆきひろ)。今年は読みにくい名前の人が揃う。

沖澤のどかの指揮であるが、各楽章の冒頭は中庸でも自然にスピードアップしていくのが特徴。第3楽章では特にこの傾向が顕著であった。
第1楽章であるが、スケールを拡げずスマートなフォルム。転調の時のティンパニも抑え気味だったが、ティンパニも徐々に強打させることが多くなっていく。
第2楽章も適度に揃えたアンサンブル。アンサンブルを徹底して磨くと宇宙の鳴動のように聞こえる音楽だが、沖澤はそこまでせず、人間ドラマの側に立った第九を描き出す.
第2楽章の終わりを、沖澤は、広上淳一や川瀬賢太郎が行ったように柔らかな音で締める。

音色であるが、やはりいつもの京響とは違い、旧東独のオーケストラのような燻し銀の響きを出していた。ベルリン・フィル・カラヤン・アカデミーで学び、ベルリン・フィルの芸術監督であるキリル・ペトレンコのアシスタントを務めた沖澤だが、インターナショナル化したベルリン・フィルの響きよりも、よりドイツ的な響きを理想としているのかも知れない。ドイツの東西分裂は悲劇だったかも知れないが、結果として旧東独の地域にはドイツのローカルな響きが残ることになった。
広上淳一が指揮する京都市交響楽団は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のような響きだが、沖澤のどかが紡ぎ出す京響の響きはライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に近くなる。指揮者が変わるだけで、音色がここまで変わるというのも興味深い。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のCDで何度も聴き、横浜で耳にしたあの音を今ここで聴いているような気分。

京響コーラスは板付き。独唱者とフルートのサード(ピッコロ)、ティンパニ以外の打楽器は、第2楽章終了後にステージに登場する。

第3楽章もロマンティシズムより見通し重視の美演。ドラマよりも音にものを言わせる演奏である。
第4楽章。沖澤は第3楽章が終わるとアタッカで突入する。低弦のエッジが立っているのが特徴である。8分の6拍子のクライマックスの部分は4つ振りと2振りで処理する。
ここでもスケールよりは造形美重視。テンポは速いが勢いで突き進むタイプの第九ではない。神がベートーヴェンを通して書いたような第九の演奏もあるが、今日はあくまでもベートーヴェンという人間による人間讃歌だ。

ヴァイオリン、ヴィオラ、ティンパニにこれまで聴いた第九とは異なる部分があったので、「ブライトコプフ新版かな?」とも思ったが、沖澤が最後に掲げた総譜の表紙は茶色だったため、ベーレンライター版であった可能性が高い(オーケストラのライブラリアンなどが表紙にカバーを掛けてしまう場合があるので実際には分からない)。他の指揮者が採用しないベーレンライター版の部分を採用したのだろうか。付け加えたという部分はヴィオラを除いてはないと思う。なお、ラストのピッコロは一般的なベーレンライター版での演奏と比べて控えめであった。


今日の京響の響きをライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に例えたが、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団といえば年末の第九の元祖。擬似ライプツィッヒ気分である。

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2025年12月29日 (月)

コンサートの記(934) 鈴木優人指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第2回「国を越えてリズムがわたる」

2025年9月7日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第2回「国を越えてリズムがわたる」を聴く。指揮は第1回に引き続き鈴木優人。鈴木優人クラスの指揮者が2回連続で引き受けてくれるというのは珍しいことである。

今回はタイトルの通り、リズムが印象的な楽曲が並ぶ。また今回は全てメモリアルイヤーを迎えた作曲家の作品である。

曲目は、芥川也寸志(生誕100年)の交響管弦楽のための音楽、ヨハン・シュトラウスⅡ世(生誕200年)のワルツ「美しく青きドナウ」、ラヴェル(生誕150年)のピアノ協奏曲(ピアノ独奏:ルゥオ・ジャチン)、ショスタコーヴィチ(没後50年)の「舞台管弦楽のための組曲」第1番から5曲、ラヴェルの「ボレロ」

 

日本指揮者界のトップランナーの一人である鈴木優人。日本におけるバッハ演奏の泰斗である鈴木雅明の息子であるが、人気は父親を上回るかも知れない。
専門は古楽で、バッハ・コレギウム・ジャパンの首席指揮者であるが、現代音楽にも詳しく、日本の現代音楽の作曲家の作品のみに絞った演奏会なども行っている。「題名のない音楽会」にはたびたび登場。「エンター・ザ・ミュージック」にもたまに出演する。
経歴を確認すると、新たに九州大学の客員教授に着任したようである。

今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。ヴィオラの客演首席は大阪フィルハーモニー交響楽団首席ヴィオラ奏者の一樂もゆるで、京都市交響楽団のチェロ奏者である一樂恒(ひさし)と夫婦共演である。チェロの客演首席は藤原秀章。首席クラリネットの小谷口直子と首席フルートの上野博昭は降り番である。
いつも通りのドイツ式の現代配置での演奏。

 

台本を手に、カラヤンのような髪型で現れた鈴木優人。「前回はウエンツ瑛士さんがとても素敵な司会を務めて下さいましたが、今日は私が指揮と司会の両方をやります」と述べる。爽快で見通しの良い音楽作りもカラヤンに通ずるところがあるがくれぐれも権威主義に陥らないようにして貰いたい。あの一族なら大丈夫と思うが。

 

芥川也寸志の交響管弦楽のための音楽。鈴木は、「芥川也寸志は芥川龍之介の息子です。芥川龍之介知ってるって子?」と聞き、多くの子どもが手を挙げる。芥川龍之介の作品は、ほとんどの国語の教科書に載っているので、読んだことのある人は多いだろう。鈴木は、「あれ? 京響の側は?」と言い、京響のメンバーも慌てて手を挙げる。高校から音楽高校という人もいるだろうが、芥川龍之介の作品は、中学校の教科書によく載っているので、知らないということはないだろう。
芥川也寸志は、思想的には左翼で、ソビエトや中国の現代音楽を研究。ショスタコーヴィチの作品紹介にも尽力した。
「伊福部昭に学ぶことが多かった」と言われているが、たしかにこの交響管弦楽のための音楽も、伊福部作品のような土俗的な迫力とリズムに溢れている。

鈴木は、「芥川さんの音楽って、プロのオーケストラでやられてますかね? 伊福部さんはよくやられていると思うんですが」と語る。確かに、芥川作品はごくたまに見かける程度の演奏頻度でしかない。ただ芥川本人もプロオーケストラよりも新交響楽団のようなアマチュアオーケストラを好んで指揮したため、プロよりもアマチュア方面に知られているのかも知れない。今年も京都のアマチュアオーケストラのいくつかが芥川作品を取り上げている。

 

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」。ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで演奏されることでお馴染みだが、鈴木は一度だけウィーンで年越しをしたことがあり、12月31日の夕方には、ウィーン市庁舎の前で様々な音楽が鳴り、スキーをしたりソリに乗って飛び上がったりしているのだが、翌年の1月1日が近づくと、それまでの音楽が鳴り止み、「美しく青きドナウ」が流れてくるのだという。
鈴木は説明しなかったが、ウィーンのドナウ川は特に美しくも青くもない濁った川だそうで、流れているのも街外れである。ドナウが美しい街というとウィーンよりもブダペストかも知れない。
広上淳一が以前、「美しく青きドナウ」を指揮した時に、「京都なら、『美しく青き桂川』」と鴨川にしなかったのも、ドナウ川が街外れを流れているからである。鴨川は100万都市の街中を流れる川としては珍しい清流を現在は取り戻している。
ウィンナ・ワルツということで、鈴木も溜めやテンポダウンなどを駆使しながらの音楽作り。聴くだけのワルツにはしない。

 

ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調。20世紀後半になってから人気が上がり、音盤の数も増え続けている曲である。ジャズの影響を受けており、それを苦手に思う人もいると思われるが、現在の音楽教育は古典にも現代にも幅を拡げており、20世紀の作品を多くレパートリーに多く入れているピアニストもいる。

ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章について、鈴木は「世界で最も美しい音楽」と讃えるが、ソリストのルゥオ・ジャチン(ルゥオと読める苗字には魯迅でお馴染みの「魯」や「羅」があるが漢字表記がないため分からない)も同感のようだった。
ルゥオ・ジャチンは、1999年生まれの中国の若手ピアニスト。湖南省の出身である。武漢音楽院附属中学校に入学し、卒業後に渡米。オバーリン音楽院(アメリカ初の4年制音楽大学。主体であるオバーリン大学は、この大学から校名を取った桜美林大学と提携しているので、オバーリン音楽院も桜美林大学と提携を結んでいるかも知れない)やニューイングランド音楽院に学ぶ。ニューイングランド音楽院では、ベトナム出身の大家、ダン・タイ・ソンに師事したという。今後は、ヨーロッパに渡り、ケルン音楽舞踊大学のドイツ国家演奏家資格課程で研鑽を積む予定だという。
2022年第8回仙台国際音楽コンクール・ピアノ部門の覇者でもある。

演奏前に、鈴木とルゥオのトーク。通訳が付くのだが、
鈴木「何歳からピアノを始めましたか?」
ルゥオ「(日本語で)4歳」
と簡単な日本語なら話せるようだ。日本が大好きだそうで、色々なところに観光に行っており、京都は今回が3回目だが、前2回は純然たる観光だったそうだ。日本の文化については「ほとんど好きですが、特にアニメ」と応え、「京アニ」と言ったため、鈴木は、「これはガチな人が来ちゃいましたね」と述べていた。中でも好きな作品は、京都府宇治市が主舞台の「響け!ユーフォニアム」だそうである。明日オフだった聖地巡礼出来るじゃん! まあそんなに暇ではないだろうけれど。
今日はロームシアター京都メインホールだったが、京都コンサートホールは、「響け!ユーフォニアム」の冒頭に出てくるので、そちらだったら喜んだだろうな。

ルゥオ・ジャチンのピアノは純度の高さが特徴。ペダリングは特別なことはせず、弱音の時にソフトペダルを踏む。ダンパーペダルは、ずっと踏んでいる時と頻繁に切り替える時がある。
鈴木とルゥオが共に「世界一美しい音楽」と呼んだ第2楽章。初演者はマルグリット・ロンだが、実はマルグリット・ロンが演奏したラヴェルのピアノ協奏曲第2楽章の録音が残っており、YouTubeで聴くことが出来る
ひょっとしたらこの楽章はヨーロッパ人よりも日本人の心に訴えかけるのではないかと思えてくる。センチメンタルな気分から次第に自然のただ中へと溶け込んでいく感覚。元NHK交響楽団首席オーボエ奏者で、現在は指揮者として活躍する茂木大輔はこの楽章に「初恋」というタイトルを付けているが、私の感覚とは少し違う。私が付けるなら「幼き日から今日まで」。人生のあらゆるシーンが蘇るかのようだ。
美音による第2楽章を経て、第3楽章へ。「ゴジラ」と呼ばれる箇所も力強く、(行ったことはないが)パリの街の風景が浮かび上がるような瑞々しい演奏だった。

 

アンコール演奏は、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。しっとりとして構築感のある演奏だった。

 

ショスタコーヴィチの「舞台管弦楽のための組曲」第1番から、“行進曲”、“ダンス第2番”、“リリック・ワルツ”、“ワルツ第2番”、“終曲”。全8曲から5曲を選曲。
ギター:佐藤紀雄、クロマチックアコーディオン:大田智美が参加。
この曲は「ジャズ組曲第2番」と呼ばれていたが、戦後行方不明になっていた本来の「ジャズ組曲第2番」のピアノ譜が1999年に発見され、以後、「舞台管弦楽のための組曲」第1番と名を変えている。
冒頭の“行進曲は”、のどかな田舎にある小学校で行われている徒競走の時のような音楽である。その後もほのぼのとした曲が続くが、ワルツ2曲だけは、妖艶でミステリアスで、悲劇の予感がするようで、他の楽曲とは大きく趣が異なる。ハチャトゥリアンも「仮面舞踏会」のワルツで似た旋律を作曲しており(アイスクリームによる毒殺を図る場面の音楽)特に関係はないと思われるが、地に吸い込まれそうなほど官能的な音楽が書けるのはロシア人しかいないのではないか。一人だけ例外がいた。梅林茂である。

佐藤の使っているギターであるが、その辺で売っているギターと一緒で特別なことはなにもないという。
ちなみに、佐藤は、鈴木のデビューリサイタルで共演しているそうである。その時は、鈴木はオルガンを弾いたそうだ。

クロマチックアコーディオンの紹介。学校などで使う鍵盤式のアコーディオンとは違い、ボタンしかない。大田智美によると、右側が92鍵、左側が108鍵だそうである。鍵盤はないが、一応、音の上がり方は一定であるとのこと。

 

ラヴェルの「ボレロ」。スネアドラム奏者がひたすら同じリズムを刻み続けるという過酷な曲。しかも旋律が2つしかないので、管楽器奏者は間違えたらすぐにバレるという怖ろしい曲でもある。
鈴木は、「実は、スネアドラム奏者二人で交互に演奏していたことが分かった」と述べる。京都市交響楽団は、ジャンルイジ・ジェルメッティを指揮台に招いた定期演奏会で、スネアドラム3台による「ボレロ」を演奏したことがある。
ただ今回は、第2のスネアドラム奏者は交代に叩くのではなく、どこかから出てくるそうである。
京響の音の美しさが生かされた演奏。フランス音楽らしい淡さと濃さが交差する色彩で、ラヴェルの魔術が十分に生かされている。音楽を旋律ではなく、クレッシェンドと楽器の変化とスネアの延々と叩かれる響きで変化させる。そして転調。音楽の転換ともいえる創造物である。実はこのモチーフを真似て、ショスタコーヴィチがとんでもない音楽を作るのだが、それはもう少し後の話である。

テンポとしてはトータルで15分台ぐらいの演奏だが、第1ヴァイオリンが第1主題を奏でる1つ前に鈴木はテンポアップ(作曲者の指示では全編通して「同じ速度で」であり、演奏時間は「17分ほど」である))。その後、更にもう1回速度を上げる。

そして1階席中央横断通路にスネアドラム奏者が登場。肩から下げたスネアドラムを歩きながら叩く。二つのスネアが鳴る中、転調があってクライマックス。鈴木優人は客席の方を向いて動きを止めた。

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2025年12月26日 (金)

コンサートの記(933) 沖澤のどか指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第3回「時代を超えて踊る踊る」

2025年12月21日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第3回「時代を超えて踊る踊る」に接する。指揮は京都市交響楽団第14代常任指揮者の沖澤のどか。
沖澤が「オーケストラ・ディスカバリー」を指揮するのは初めてだが、ロームシアター京都(京都会館)で指揮すること自体が初めてであり(一昨日はノースホールでトークイベントには参加したが)今日は沖澤の輝かしきロームシアター京都デビューとなる。
沖澤は来年の3月にもロームシアター京都メインホールで2025年度最後の「オーケストラ・ディスカバリー」を指揮するが、2026年度の「オーケストラ・ディスカバリー」は2回だけと半減し、指揮者も6月に太田弦、2027年2月に川瀬賢太郎という若くしてオーケストラを率いる指揮者に変わる。プログラムも発表になっており、良く知られたクラシックの曲が多いが、映画音楽が増えているのが特徴。特に来年6月の「オーケストラ・ディスカバリー」では、オープニングの映画音楽を投票で決めるということで、私は「ハリー・ポッターと賢者の石」のヘドウィグのテーマに1票入れた。おそらく来年3月の「オーケストラ・ディスカバリー」でも投票は行われると思う。他の候補は、「スター・ウォーズ」、「パイレーツ・オブ・カリビアン」、「ジュラシック・パーク」、「ゴジラ」で、5曲中3曲がジョン・ウィリアムズ作曲作品である。

 

今回は、「踊る」がテーマだが、クリスマスシーズンに相応しい曲が選ばれている。
曲目は前半が、ヨハン・シュトラウスⅡ世(生誕200年)の「シャンペン・ポルカ」、ポルカ「観光列車」、「皇帝円舞曲」。ルロイ・アンダーソン(没後50年)の「ワルツィング・キャット」、「そりすべり」、「クリスマス・フェスティバル」
後半が、チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」から“行進曲”、“トレパーク”、“パ・ド・ドゥ”、“あし笛の踊り”、“こんぺい糖の踊り”、“花のワルツ”。“トレパーク”は指揮体験コーナーとなっている。

 

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。第2ヴァイオリンの安井優子は降り番のようで、客演首席として水鳥路が入る。ヴィオラの客演首席は大野若菜。トロンボーンの客演首席に西村菜月。
フルート首席の上野博昭は降り番である。ドイツ式の現代配置での演奏。11月の京響の定期演奏会を指揮したジャン=クリストフ・スピノジは、チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置にして右手で巧みに操っていたが、今日の沖澤も、真横に陣しているヴィオラに指揮棒を突くように向けることで音を大きくしていた。指揮台の横にどの楽器を置くかで、楽器の操りやすさやバランスが変わるようである。

今日は珍しく、首席クラリネット奏者の小谷口直子が一番先にステージに現れる。

 

司会も兼任する沖澤。楽曲の紹介などを行う。私の席の近くから「喋り上手いな」という老年男性の声が聞こえてきた。

 

「シャンペン・ポルカ」。ラストに特徴がある曲である。沖澤は「真面目」な音楽作り。この手の曲はもっとおちゃらけたものでも良いのだが、沖澤は性格的に余りふざけたことは出来ないのであろう。ラストでは、打楽器首席の中山航介が、口を開いてその前で両手を叩き、独特の音を出していた、空気銃でもシャンペンのコルクが開いた時の音を出しているのだが、人力(?)でも似た音を出す工夫がなされている。沖澤は中山の真似をして上手く音が出なかったが、実はヨハン・シュトラウスⅡ世は音について「どうやって出すか」は特に指定していないそうである。

 

ポルカ「観光列車」。沖澤は、この曲では「汽笛」と呼ばれたハーモニカに似た楽器を吹く。レールを進む音はカダフという中東で用いられる特殊な楽器で出していた。

 

「皇帝円舞曲」。沖澤は、「ポルカが続いたので、次はワルツを演奏します。といってもこの曲は最初は2拍子で、後で3拍子になります」と説明する。
ヨハン・シュトラウスⅡ世の楽曲は、メディアから流れてきて、いつの間にか知っていたり、CDを聴いて覚えたものも多いが、「皇帝円舞曲」に関してはいつどうやって知ったのかはっきりと覚えている。工藤静香が出ていたチョコレートのCMで知ったのである。その後に観た映画「ラストエンペラー」でも満州国建国記念の舞踏会でこの曲が用いられていた。沖澤と京響は堂々とした「皇帝円舞曲」を奏でる。一方で、オーストリアの楽団が出す揺れのようなものは出さなかったが、あれはオーストリア人だから自然に出るものなのかも知れない。

 

沖澤と京響のヨハン・シュトラウスⅡ世の演奏だが、ほぼノンビブラートで演奏している弦楽奏者と、ビブラートを一音ごとに掛けて演奏している弦楽奏者が半々だったのが特徴。例えばコンサートマスターの泉原隆志は稀にしかビブラートを行わず、フォアシュピーラーの尾﨑平は盛大にビブラートを掛けていた。
ヨハン・シュトラウスⅡ世の時代は、演奏法が変化していく時代である。大きなホールが建設され、ビブラートを用いないと音が隅まで届かないようになる。ただ20世紀のオーケストラのように弦楽器全員がビブラートを掛けて演奏するにはまだ間があり、ビブラートを使う人と使わない人が混じる過渡期の演奏も行われていたはずである。今日はその過渡期の演奏を味わったことになる。音色は爽やかで、派手派手しくなく、好感を抱いたが、その後に世界のほぼ全弦楽奏者がビブラートを掛ける演奏の時代が訪れたことで、音楽家達は爽やかさよりもスケールの大きさやゴージャスさを選択したということになりそうだ。

 

「アメリカのヨハン・シュトラウス」と呼ばれたルロイ・アンダーソン。見た目が余り良くない人だったのだが、名門ハーバード大学出身。音楽学部に学んだ後、大学院に進んで修士号取得。ニューイングランド音楽院でも学んだ後でハーバード大学に戻り、今度は両親が話者だったスカンジナビア語の研究を行って、最終的には博士号を取得するなど、非情に優秀にして多彩な人であった。アーサー・フィードラー時代のボストン・ポップス・オーケストラ(ボストン交響楽団が、各パートの首席奏者抜きでライトクラシックや映画音楽を演奏する時の名称)のアレンジャーとして仕事を始め、フィードラーに気に入られて自作を発表するようになっている。

「ワルツィング・キャット」について、沖澤は、「弦楽がグリッサンドといって、猫の鳴き声を真似ます。最後には猫じゃなくて犬が出てきます」と言って演奏開始。上品で柔らかな演奏である。この演奏で描かれているのはシャム猫か何かで絶対に雑種ではない。
犬は大勢の奏者が口で鳴き声を真似するが、沖澤によると「犬になりたい人多かったので、猫の倍ぐらいいました。アンダーソンは鳴き声を誰がどう出すかは書いていないんです」

 

「そりすべり」。クリスマスシーズンによく流れる曲であること、最後に馬がいななきすること、「スキーの橇ではなく、馬がひく橇です」と言って演奏開始。スケール、スピードとも理想的な演奏である。最後に馬のいななきを吹いたハラルド・ナエス(京響トランペット首席)も上手かった。

「クリスマス・フェスティバル」。クリスマスにちなんだ曲を並べてメドレーとしたもので、とても楽しい曲と演奏であった。考えてみれば、仏教にはこうした楽しい音楽は少ない。暗い曲も多いが明るい曲もある。ただ折角明るい曲があるのに、同じ歌詞の暗いメロディーを選ぶ傾向があるように思う。極楽往生が定まったのだから、それを祝う曲があってもいいと思うのだが、定めたのは自身ではなく阿弥陀如来(絶対他力)なので、能天気な曲は書けないのだろう。

 

後半。チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」から。クリスマスの定番の演目であるバレエ「くるみ割り人形」。実は沖澤のどかはバレエオタクで、これまでベルリン州立バレエで様々なバレエを楽しんできたのだが、「くるみ割り人形」だけは人気が高すぎてチケットを手に入れることが出来なかった。それでも観たいのでドレスデン州立歌劇場バレエ(ドレスデンはザクセン州にあり、ベルリンとは州が異なる)まで遠征したこともあったのだが、ようやくベルリン州立バレエの「くるみ割り人形」のチケットに当選した、と思ったら公演当日の朝に電話が掛かってきて、「水道管が破裂した(だったかな?)ので照明を使ったりするのが危険なので公演中止」「ただリハーサルはご覧になれます」ということで出向いて、ジャージ姿で踊るバレリーナを観察したりしていたそうだ。

リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」を聴いた時にも感じたことだが、沖澤の振るロシアものは味が濃いめである。低弦が力強く、洗練された響きの奥にざらついたものが聞こえる。ロシアの大地を考えれば、そうした表現も適切なのかも知れない(ただ私はロシアの大地を見たことはない)。

“トレパーク”では、小学校2年の女の子と小学校4年の男の子が指揮に挑戦。
小学校2年の女の子は途中でテンポが遅すぎて止まりそうになったため、沖澤が助け船を出して右手を振ってテンポを示して見せ、最後まで振り切った。
小学校4年生の男の子は、途中でテンポの変更があって、京響の団員も合わせるのが難しそうであったが、こちらも完走した。
沖澤は、学校で習う四拍子や三拍子の振り方については、「あれはあくまで基本形。というよりどうでもいい」。ということで四拍子は二つ振り、三拍子は円を描く方法で教えていた。
パーヴォ・ヤルヴィは、「今のプロオーケストラは優秀なので拍を刻まなくても演奏出来ます」ということで、音型を描く指揮を教えているようである。アニメ「響け!ユーフォニアム」には、吹奏楽部の顧問による指揮の「打点が分からない」と友達が愚痴る場面があるが、あれはアマチュアだからきっちり拍を刻んだ指揮をしないと弾けないということである。

“パ・ド・ドゥ”は、組曲にも含まれていない曲だが、「組曲に取り上げられていない曲にも良い曲がある」と沖澤は語っていた。

「あし笛の踊り」。ソフトバンクのCMで知られる曲だが、沖澤のどかは、テレビもラジオもない生活を、しかもベルリンで送っているので、CMのことは知らなかったと思われる。YouTubeでなら見られるが、わざわざ「ソフトバンク CM」と検索したりはしないだろう。主役であるフルートは首席なしでの演奏なのでやや落ちる感じではあったが、雰囲気は出ていた。
京響は首席と次席に明らかな実力差があるのが難点である。

「こんぺい糖の踊り」。チェレスタをお馴染みの佐竹裕介が演奏する。
沖澤は、チャイコフスキーがパリでまだ新しい楽器だったチェレスタを見つけたこと、「新作のバレエで使いたい」のでロシアまで運んで欲しいと出版社に手紙を送ったこと、「ただしリムスキー=コルサコフやグラズノフには絶対知られないように」と念を押したことなどを述べ、「くるみ割り人形」の初演でチェレスタの音が大好評だったことを語った。
「オーケストラ団員になりたい」という夢を持つピアニスト、佐竹裕介。普通はピアニストというと個性勝負になるが、オーケストラの一楽器となったチェレスタを演奏する。
神秘的な雰囲気が良く出ていた。

最後はお馴染みの“花のワルツ”。この曲はいすゞジェミニのCMで知ったはずである。チャーミングであるが、案外、ガッシリとした聴き応えのある演奏であった。

 

最後に告知。2025年度最後となる「オーケストラ・ディスカバリー」が来年の3月29日に沖澤の指揮で行われること、また2026年度は2回の公演になること(理由はよく分からないが、プロコフィエフの交響曲チクルスがあるからではないかと思われる)、クリスマスシーズンというと、「くるみ割り人形」や(フンパーディンクの歌劇)「ヘンゼルとグレーテル」が上演されたりするが、「日本の年末と言えば第九ですよね」「と言いながらもうチケット完売なんですが」「来年、再来年と機会があるので」と話していた。

 

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2025年12月20日 (土)

京都市交響楽団・京都コンサートホール・ロームシアター京都「会員限定トークイベント 沖澤のどか×tupera tupera 『芸術との出会いと今、そして京都でのこれから』」

2025年12月19日 ロームシアター京都ノースホールにて

午後7時から、ロームシアター京都ノースホールで、「会員限定トークイベント 沖澤のどか×tupera tupera 『芸術との出会いと今、そして京都でのこれから』」を聴く。

京都市交響楽団の常任指揮者である沖澤のどか、そして京都を拠点に絵本やポスターなどの絵画制作を行っている夫婦二人組、tupera tuperaを招いて行われるトークショー。女性の方が司会を務めたが、残念ながらお名前は頭に残らず。

ロームシアター京都は来年、開場10年を迎えるが、それを祝した2026年1月10日と11日に行われる「プレイ!シアター」のポスターもtupera tuperaが手掛けているという。「なるべく色々な人を描いたということだが、沖澤は「自意識過剰かも知れませんが私もいるような」と発言。実際、沖澤をモデルにした人が描かれている。ただ遠目なので「指揮者」としか分からないかも知れない。髪が長いので、「ひょっとしたら女性かも」と思うかも知れないが、男性指揮者も髪が長い人は多い。なぜ男性指揮者も髪を長くするかだが、松尾葉子が学生時代の山田和樹に、「指揮者は大きく見えなければいけないと」言い、山田をそれを汲んで学生時代はパーマを掛けていたという話があるため、そうしたことと関係しているのかも知れない。

 

沖澤のどかは、次の日曜日にロームシアター京都メインホールで、「京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー」を指揮するが、これがロームシアター京都でのデビューとなるそうである。
青森県生まれ。東京芸術大学および同大大学院修了。コンクール歴などは語られなかったのでここでも記さない。ベルリン在住。二児の母である。

tupera tupera(ツペラ ツペラ)は、京都に拠点を置く美術ユニット。メンバーは、亀山達矢(三重県伊勢市出身。武蔵野美術大学油絵学科版画専攻卒)と中川敦子(京都府出身。多摩美術大学染織デザイン科卒)の二人。10年ほど東京で活動していたが、「今の時代、東京じゃなくても仕事出来るよね」。ということで移住を決意。中川が京都府出身、亀山も伊勢市出身で京都には馴染みがあるということで、京都市に転居。子どもが二人いたが、「秒の速さで京都弁を覚えた」そうである。亀山は、「京都に来てから東京に行く楽しみが増えた」と語る。今も関西在住の友達より、東京にいる友達の方が多いが、離れている分、会える喜びが増すようだ。

亀山は、小学校1年生の時に出した絵が伊勢市で1等を取ったのだが、実は失敗作だったらしい。だが、賞を取ったことで親から絵画教室に通うように言われ、嫌々通っていたそうだが、高校に進み、進路を考えた時に過去を振り返って、「やっぱり美大がいいんじゃないか」という結論に至り、今に至るまで美術の仕事をしているという。

 

沖澤のどかは、田舎で育ったので、虫取りをしたりツララにかじり付いたり、「ワイルドな」子ども時代を送ったそうである。チェロを習っている姉がおり、沖澤も小学校3年生の時からチェロを習い、小学校5年生からジュニアオーケストラに入ったそうである。ただチェロの練習は苦手で、独習は集中力が続かなかった。ジュニアオーケストラに入ってからも、「弾く真似をしてたら隣で上手い子が良い音で弾いてくれる」というので弾いている真似ばかりしていたそうだ。技術は当然ながら上達しなかったが、オーケストラは好きになったそうである。沖澤は子供用のチェロを弾いていたため、「音大目指すならお姉ちゃんと同じ立派なチェロを買ってあげるよ」と言われたが、当時は音大に行くほど音楽が好きになるとは思っていなかったため、良いチェロを手に入れる機会を逃したそうである。
高校ではオーボエに励んだが、オーボエは学校からの貸与。「自分のオーボエが欲しい」と思ったが、オーボエは高価。そこで、「指揮棒だったら手に入る!」というので指揮者になる決意をしたそうだ。「持たない人もいますけどね」と沖澤は続けていた。ヘルベルト・ブロムシュテットや尾高忠明は若い頃は指揮棒を使って指揮していたが、今は専らノンタクトである。小澤征爾も晩年はノンタクトが増えた。ピエール・ブーレーズのように指揮棒の存在を否定する人もおり、ブーレーズの影響を受けたフランスの指揮者にはノンタクトで振る人も多い。

外国で、tupera tuperaが京都在住と知れると、あちらこちらから、「京都なの? 京都の良いところ教えて?」と質問攻めにあうそうだが、みんな京都という街の存在は知っているようである。沖澤も京都でオーケストラのシェフをやっていると自己紹介すると、「京都の良いところ教えてよ」とやはり同じような結果になるようである。

沖澤も京都市交響楽団から常任指揮者の話を貰った時は、「わーい、京都に行ける」と無邪気に喜んだそうだ。「修学旅行以来」。ただ、常任指揮者の仕事は忙しく、まだ嵐山のモンキーパークと京都水族館、大徳寺にしか行けていないそうで、京都マスターにはほど遠い。大徳寺も塔頭巡りなどではなく、そばにある和菓子の店に娘と入っただけのようだ。京都市交響楽団を指揮する時は、一家で京都の民泊を行うそうで、近所での買い物ぐらいは出来ているようである。ちなみにようやく巡ってきたシェフの座なので、「受けない」という選択肢は、はなからなかったそうである。
なお、自炊はするが料理は得意ではないそうである。「料理が得意な指揮者も多いんですけれど」と沖澤は語っていたが、チョン・ミョンフンのように料理本を出している人もいる。
指揮者の常として、次回振る曲が頭の中で鳴っていたり、雑音が気になったりするそうだ。ベルリンは「大きな田舎」のような街で、快適に過ごせているそうだが、学生時代を過ごした東京は雑音だらけで、ずっと鬱々としていたらしい。最初は芸大から遠い、おそらく家賃の安いところで暮らしていたが、雑音に耐えきれず、大学のそばに引っ越したという(東京芸術大学は、東京の中でも駅前以外は閑静な上野にある)。京都は雑音がしないので快適だが、それでも街中は避け、出雲路の練習場の近くに民泊し、自転車で通っているそうだ。
ちなみに京都市交響楽団のコンサートマスターである泉原隆志も自転車通勤なので、京響は大都市にありながら常任指揮者とコンサートマスターが自転車通勤という風変わりなオーケストラということになる。
沖澤は、自宅にテレビもラジオもCDプレーヤーもないそうだ。昔、シャルル・デュトワは「好きなCD」について聞かれ、「私はCDなどというものは聴いたことがありません」と答え、質問者は「冗談なのかふざけているのか」と思ったそうだが、この調子だと実際にCDを聴いたことがない音楽家は結構いそうである。パーヴォ・ヤルヴィのように「朝比奈隆のブルックナーのCDは全部持っている」というCDマニアもいるが、自分の頭の中にある音を優先させる人もいそうである。

沖澤は、京都での音楽の展望について、「私はいかないんですけれど京都市交響楽団の方が」京都府内のあちこちでミニコンサートを行う計画があるということを話す。今年は沖澤は振らなかったが、京都市内各所の文化会館でまた指揮する予定もあるようだ。
展望とは余り関係がないが、沖澤が新しい「常任指揮者発表記者会見」に臨んだとき、ニコニコ生放送による中継が行われたのだが、後でニコ生のコメントをチェックしたところ、「十二単似合いそう」というコメントがあって嬉しかったそうである。司会者の方が、「着物を着て指揮したことのある方っていらっしゃるんでしょうか?」と聞き、沖澤は「ないです。演奏する方はいらっしゃいますけど」と答えていた。わざわざ着物を着てオーケストラを指揮するというのは絵面としても滑稽であり、単騎西洋文明に挑むドン・キホーテのようでもある。「意味がない」の一言でも済ますことが出来る。

海外での話としては、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるベルリン・フィルハーモニーはティンパニなどのすぐ後ろが客席となっていて、足で音楽を感じられるだとか、先日、ボストン交響楽団に客演した際には、女性チェロ奏者が演奏中に「So Wonderful Sound!」と叫んでいたという話をしていた。「本人は自分が声を出したと気付いてないと思うんですけど」ということで無意識に言葉が出たのだろうとのことだった。

 

亀山は、絵本だけが売り上げが右肩上がりで、他の書籍は電子書籍に食われていると語る。
絵本はめくる行為が重要な意味を持っており、紙の書籍でないとそれは出来ないため、絵本だけが電子書籍に勝っている要因なのではないかと分析していた。

 

中川は、AIの台頭に危機感を覚えていた。今年に入ってから、YouTubeなどで、「実在なのかAIなのか分からない」レベルの人物が溢れるようになってきている。音声読み上げソフトのレベルがまだ低めで、いかにも「文章をコンピューターで読み上げました」といったセリフ回ししか出来ていないため、音声なら見分けは付くし、シナリオも誰でも思いつくような低レベルのものが多いが、こうした中途半端な出来であっても満足してしまう人はいるだろうし、そうした人は嘘も拡散してしまう。見分けのつく人は拡散しないので、ネット上は嘘が上位になってしまう。そしてこの程度のクオリティでも娯楽として商品化したり消費したり出来るのも問題である。

生身の人間が演じる演劇には影響は余りないだろうが(劇場に来ずにYouTubeばかり見ている人が増えるという間接的な影響はあるかも知れないが)、映画やドラマなどは、主役級や重要な脇役陣は流石に俳優に任せるが、端役などはAIが務める時代が来てもおかしくない。AI俳優は危険なアクションに挑んでも怪我をしない。

ただ生身の俳優に出来てAI俳優に絶対に出来ないことが一つだけある。アドリブだ。AIはコンピューターが規定した予定調和の言葉しか喋れないし動けない。アドリブなど即興性の高い演技を行えるのは人間の俳優だけだ。
このところ、アドリブや即興を重視した演技について語る俳優が増えており、彼らはアドリブが巧みだ。決まり切ったことを決まり切ったように行うのがAIの得意技。NGも出さないだろう。だがそこに本当の面白さはないのではないだろうか。
即興の巧みさが演技のバロメーターになる日が来るような気がする。いや、もう来ているのかも知れない。

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2025年12月14日 (日)

コンサートの記(932) ジャン=クリストフ・スピノジ指揮 京都市交響楽団第706回定期演奏会

2025年11月29日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第706回定期演奏会を聴く。指揮は、ジャン=クリストフ・スピノジ。

ジャン=クリストフ・スピノジ。いかにもベートーヴェン好きになりそうな名前であり、フランス・コルシカ島出身ということでナポレオンと同郷である。ベートーヴェンは「ウェリントンの勝利」を書いているけれども。
詳しい経歴などは無料パンフレットには載っていないが、クラシック音楽における「アンファン・テリブル(恐るべき子ども)」と呼ばれていたり、「並外れたリズム感と身体能力を持ち合わせた。音楽家=振付師」と称されてもいるようだ。

2007年に自ら組織したアンサンブル・マテウスと共にシャトレ劇場で珍しいものも含むオペラをいくつも上演。客演指揮者として、ベルリン・ドイツ交響楽団、パリ管弦楽団、hr交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、ウィーン交響楽団などと定期的に共演し、2021年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っている。

開演30分前からプレトークがあるが、スピノジは、フランス語で比較的長めのトークを行っていた。事前に打ち合わせはしていたと思うが、通訳泣かせではある。内容は楽曲の解説が中心。「田園」交響曲については、日本人の独自の自然観についても述べていた(私の認識とは多少異なっていたが)。

 

曲目は、ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」、ハイドンの交響曲第82番「熊」、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」

 

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の町田琴和(まちだ・ことわ。女性)が客演コンサートマスターとして入る。町田姓は圧倒的に鹿児島県出身者が多いのだが、彼女は東京生まれのようである。ちなみに私には京都出身の町田姓の友人が二人いる。
フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に石橋直子、チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。管の首席奏者の大半はベートーヴェンのみの出演である。クラリネット首席の小谷口直子は、老眼鏡をかけて出演した。私も近頃は老眼に悩むようになっている。

チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置での演奏。実のところ、ドイツ式の現代配置でもアメリカ式の現代配置でも大した違いはないとこれまでは思ってきたが、「田園」交響曲を聴いてその認識が誤りであることが分かった。

 

指揮台の前に譜面台はなく、スピノジは全て暗譜によるノンタクトでの指揮を行う。拍を刻むことは稀で、基本的には音型を両手で示してみせる。

 

ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」。ピリオドによる弦楽の響きの透明さがプラスに働き、管も快活で楽しい演奏になる。

問題はここからである。
ハイドンの交響曲第82番「熊」。最近、熊が日本のあちこちに出没しているが、「タイムリー」などとは言えないタイトルである(後記:令和7年の今年の漢字は「熊」に決まった)。タイトルの由来はよく分かっていないが、第4楽章の音型が熊の鳴き声に聞こえた説などがある。ハイドンによる命名ではない。

ロッシーニにはティンパニのパートがなく、この曲から中山航介がバロックティンパニを担当するが、ティンパニは指揮者の真正面ではなく、後列の中で一番上手寄りに陣する。

交響曲第82番「熊」は、ロヴロ・フォン・マタチッチがNHK交響楽団の定期演奏で取り上げたときの放送用音源がCD化されているので、それで親しんだ人も多いかも知れない。
だが、スピノジの「熊」は一般的な「熊」交響曲とは別物。緩急、強弱の幅が著しく、「これが俺の考える『熊』だ!」と思い切り提示してみせる。常日頃の京響では追いつけない解釈で、そこでスピノジと共演経験のある町田琴和が客演コンサートマスターとして呼ばれたのだろう。

かなり即興的であり、再創造的であるが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどは「音楽は即興的でなければならない」と考えており、同じ演奏は二度としなかったし、朝比奈隆もその時々によって演奏を変えていた。だからスピノジが前例のないことをした訳でもない。

良い演奏かどうかは人によって意見が分かれると思うが、私は、「遊んでるな」と微笑ましく見ていた。

ハイドンは交響曲第90番で、「全曲終わったと見せかけてまだ終わってない」を繰り返すのだが、スピノジは「熊」で同じことをやる。勿論、スピノジが切ったところで曲が終わるわけはないのだが、客席からは、「クレイジー!」という言葉が飛び(演奏中に言葉が飛ぶのはかなり珍しい)、演奏が終わってからはブーイングも響いた。

ハイドンは古典派なので、格調高く演奏すべきという考えは分かる。ただそうした考えがハイドンの人気を下落させ、ピリオド・アプローチが盛んになってから復活したということを考えると、「べき」演奏は作曲家の魅力を下げることに繋がらないと言い切れるだろうか。

 

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。

第1楽章はやはり緩急を付けた演奏。同じフレーズでも急に遅くなったり速くなったりアゴーギクを多用する。ゲネラルパウゼも長め。この楽章ではそうする必要を強くは感じなかったが、第2楽章ではほぼインテンポによる細やかな演奏を聴かせる。小川のせせらぎを描いているのでそんなに急に遅くなったり速くなったりする訳はない。
第3楽章は「風景」よりも「心情」を表出。沸き立つ気分が描かれる。そして「嵐」であるが、ここで客席側に配置されたチェロがエッジの立った音を聴かせる。チェロは音が前に飛ぶ楽器なので、ドイツ式の現代配置のようにオーケストラの内側にあった方が有利なような気がするのだが、アメリカ式の現代配置のように指揮者のすぐ横にあった方が操りやすい。ストコフスキーも単に録音用に配置をした訳ではないようである。
第1ヴァイオリンの響きも電光を表していることがいつも以上によく分かる。
そして「嵐」のラストの方は引き延ばされ、嵐が去って行く様が描かれる(実際、第5楽章に入る直前までチェロは雷鳴の響きを奏で続けている)。
第5楽章は非常に明るい演奏であるが、最後の方で、「ここから去りたくない」というメッセージをスピノジは見つけていた。

 

老年になると穏健派になってしまう指揮者も多いが、スピノジにはこれからも暴れまくって欲しいものである。

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2025年10月10日 (金)

コンサートの記(923) ジョン・アクセルロッド指揮 京都市交響楽団第699回定期演奏会

2025年4月19日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第699回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、元京都市交響楽団首席客演指揮者のジョン・アクセルロッド。
首席客演指揮者時代は、コロナ期と重なってしまったため、十分な活動を行えなかったが、渡航制限が続く中、首席客演指揮者としての任務を果たすため危険を冒して来日して指揮を行うなど、京都市交響楽団に貢献した。現在は、スイス国立管弦楽団音楽監督兼首席指揮者とルーマニアのブカレスト交響楽団首席指揮者を兼任している。
ハーヴァード大学音楽学部とサンクトペテルブルク音楽院に学び、レナード・バーンスタインとイリヤ・ムーシンに師事。出身地のヒューストンでは、当時、ヒューストン交響楽団の音楽監督だったクリストフ・エッシェンバッハに師事している。

曲目は、チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノ:森麻季)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。作曲家最後の作品が2つ並ぶという興味深いプログラムである(リヒャルト・シュトラウスは実際には「4つの最後の歌」の後にも曲を書いていたようである)。

今日は都合によりプレトークには間に合わなかった。

今日のコンサートマスターは、特別名誉友情コンサートマスターの豊嶋泰嗣。フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に大島亮。チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。ドイツ式の現代配置での演奏。トランペット首席のハラルド・ナエスは降り番。フルート首席の上野博昭はリヒャルト・シュトラウスからの、クラリネット首席の小谷口直子は「悲愴」のみの出演である。

 

チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」。チャイコフスキーがシェイクスピアの作品にインスピレーションを受けた作品としては、某有名作にも影響を与えた「ロメオとジュリエット」が有名で、「ハムレット」は余り演奏されない。「ハムレット」を題材にした音楽を書くようチャイコフスキーに勧めたのは、弟のモデストで、プランも合わせて提示したのだが、作曲が行われることはなかった。その後、10年以上経ってから、フランスの俳優であるリュシアン・ギトリを招いてサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場で「ハムレット」の上演が企画され、チャイコフスキーが劇音楽を書くという企画が持ち上がる。上演は実現しなかったが、チャイコフスキーはこれを期に幻想序曲「ハムレット」を書くことになった。
ハムレットを表すと言われる重苦しい主題の後に、躍動感溢れる旋律が現れる。チャイコフスキーは具体的に何を書いたのかをほとんど書き記していないが、対比させるのだとしたらレアティーズだろうか。オフィーリアとフォーティンブラスの主題に関しては書かれているようである。
オーボエがジャズのスタンダードナンバー「枯葉」によく似た主題を吹くのが面白い。作曲されたのはチャイコフスキーが先である。この旋律は二度登場するため、おそらく何かもしくは誰かを表しているのだと思われるが、具体的に何を描いているのかは分からない。
アクセルロッドは優れたバトンテクニックを生かして、京響から輝かしくもドラマティクな音を引き出す。

 

リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。リヒャルト・シュトラウスが1948年に書いた最晩年の作品であり、評価は極めて高い。日本でもお馴染みのヘルマン・ヘッセの詩を用いているということでも興味深い曲である。

失敗したのは、ポディウム席を選んだため、森麻季の声が余り届かないということである。やはり歌曲の場合、声が届かないのでは書きようがない。ということで、この作品に関する批評は行わないこととする。

 

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。21世紀に入ってから大幅に解釈が変わった曲である。増田良介によるプログラムノートでは、自殺説について「否定されている」と書いているが、異様な構成は何らかの形で「死」を意識したものとして見た方が自然なように思われる。

アクセルロッドは、中庸のテンポでの演奏。「若く良き日の回想」のように甘美な第1楽章第2主題は、2度目をやや弱く演奏してメリハリを付ける。
第2楽章、4分の5拍子は、3拍子目を跳ね上げるように振ることで処理。4分の5拍子のワルツは、ロシアでは珍しくないようである。ただ曲調は第1楽章の「若く良き日の回想」を受け継いでいるようである。
第3楽章は4分の4拍子であるが行進曲風。アクセルロッドはの師であるレナード・バーンスタインは、この楽章の後に拍手が来るのを喜んだそうだが、現在は当時とは解釈が異なる。
威勢の良い曲調だが、やけになっているようにも聞こえる。交響曲第5番で、ベートーヴェンの運命主題を多用したチャイコフスキーだが、この楽章でも進もうとすると運命主題に似た音型が立ちはだかる。ラストのピッコロの狂騒はベルリオーズの幻想交響曲のようだ。
アクセルロッドは二度目のシンバルの後にテンポをグッと落とし、異様さを強調する。

最終楽章はそれほど慟哭は強調しないが、自然ににじみ出る哀感が伝わってくる演奏である。この楽章でも「若く良き日の回想」が形を変えて出てくる。これほど執拗に回想の趣が出てくるということは、「死」はやはり意識されていたものと見るのが自然である。もっとも、チャイコフスキーは交響曲第4番からの3つの交響曲全てで異様な緊張感と狂騒を書き続けており、「悲愴」を遺書のつもりで書いたのかどうかは分からない。
オーケストラを鳴らす術に長けたアクセルロッド。京響の機能美を上手く生かした演奏であった。

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2025年10月 4日 (土)

コンサートの記(921) ヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮京都市交響楽団第703回定期演奏会

2025年8月29日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第703回定期演奏会を聴く。指揮は京響首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーント。なお、今日付で、デ・フリーントの首席客演指揮者の肩書きが2028年3月31日まで延長となることが発表された。世界的な知名度こそ低いが、紛うことなき名指揮者であるだけに朗報である。現代音楽をプログラムに入れることの多い沖澤のどかと古典に強いデ・フリーントがいれば京響の更なる躍進は約束されたも同然であろう。

 

曲目は、ドヴォルザークの「ロマンス」(ヴァイオリン独奏:HIMARI)、ヴィエニャフスキの「ファウスト幻想曲」(ヴァイオリン独奏:HIMARI)、モーツァルトの「レクイエム」(ジュスマイヤー版)

プレトークでは、デ・フリーントは、ヴィエニャフスキがパガニーニを意識して作曲したということに振れたが、モーツァルトの「レクイエム」については、弟子ジュスマイヤーの補筆が上手すぎて、「モーツァルトが書いたとしか思えない」とデ・フリーントは語る。デ・フリーントはどうも複数の作曲家による補筆ではないかと考えているようだが、ウィーンではなくザルツブルクに曲想があって、補筆者はそれを取り入れたのではないかとの類推を行っていた。ただそれだと時間的には厳しい。そしてジュスマイヤーがモーツァルトの弟子というのは近年では否定されつつある。フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤーは一介の売れない作曲家であり、モーツァルトの妻であるコンスタンツェの不倫相手であった。モーツァルトの次男は実はモーツァルトの子ではなく、ジュスマイヤーとコンスタンツェの子で、モーツァルトはそれを察して、次男にフランツ・クサヴァーと命名している。
コンスタンツェは、「レクイエム」を完成させないと報酬を全額手に入れることが出来なくなるため、複数の知り合いの実力派作曲家を当たったが断られ、すぐそばにいたジュスマイヤーに補筆完成を頼んだのである。しかし、自身がジュスマイヤーの愛人というのは世間的に困る。またモーツァルトが最後の曲を妻の愛人に補筆完成させたとあっては世間体が悪い。そこでコンスタンツェは嘘をつき、ジュスマイヤーをモーツァルトの弟子としたのである。夫の弟子なら、コンスタンツェのすぐそばにいてもおかしくない。
その後、ジュスマイヤーは売れっ子になっていく。

 

天才ヴァイオリン少女として注目されているHIMARI。現在、14歳だが、すでにベルリン・フィルなど世界的名門オーケストラとの共演経験がある。11歳でフィラデルフィアのカーティス音楽院に史上最年少での入学。アメリカ国内やヨーロッパの名門オーケストラとの共演を重ねている。天才少女の登場ということで、チケットは完売である。

今日のコンサートマスターは、泉原隆志。フォアシュピーラーに、尾﨑平。ヴァイオリン両翼の古典配置をベースとしているが、中山航介君が叩くティンパニは上手端の一段高いところに置かれている。中山君の背後にもう一つ小型のティンパニがあり、モーツァルトで使われるバロックティンパニであることが分かる。
管の首席だが、フルート首席の上野博昭はヴィエニャフスキから、クラリネット首席の小谷口直子はモーツァルトのみの参加である。トランペット首席のハラルド・ナエスは降り番であった。客演首席ヴィオラ奏者に大野若菜、客演首席チェロ奏者に水野優也、客演首席トロンボーン奏者に清澄貴之が入る。

デ・フリーントは、背が高いということもあり、指揮台を置かずステージ上に直接立っての指揮である。ノンタクトであり、拍と音型の両方を表す時もある。

 

ドヴォルザークの「ロマンス」。HIMARIは、白いドレスで登場。透明感のある京響の伴奏を受けて、温かみのある音を奏でる。温かみがあるのにシルキーという非常に珍しいヴァイオリンを奏でる人だ。

ヴィエニャフスキのファウスト幻想曲では、一転して切れ味鋭い表現を聴かせる。音のパレットが非常に豊かという印象を受けた。京響もデ・フリーントの指揮の下、非常にアグレッシブな伴奏を聴かせた。

 

アンコール演奏は、イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番。ヴァイオリンで出来ることを極限まで突きつめたかのような曲だが、鮮やかに弾きこなしてみせる。

スタンディングオベーションを送る男性が何人もおり(女性はおそらくいない)。最前列の一人は、ステージ上のHIMARIに花束を渡していた。

さて今後であるが、一度、コンサートから距離を置いて練習とレッスンに励むのが良いと思われる。ユーディ・メニューインという神童ヴァイオリニストがいて、若い頃から世界中のオーケストラや名指揮者と共演し、リサイタルを開いたが、練習やレッスンに当てる時間がほとんどなくなったため、後年も有名ヴァイオリニストではあったが、超一流ヴァイオリニストには届かず、晩年は指揮者としての活動の方が増えていた。
諏訪内晶子はそうした先例を知っていたため、チャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で優勝した後もジュリアード音楽院での研鑽に没頭している。井上道義が、チャイコフスキー国際コンクール優勝直後に共演を申し出たことがあるそうだが、「私、勉強します」と首を縦に振らなかったという。

 

モーツァルトの「レクイエム」(ジュスマイヤー版)。合唱は京響コーラス。独唱は、石橋栄実(えみ。ソプラノ)、中島郁子(メゾ・ソプラノ)、山本康寛(テノール)、平野和(やすし。バス・バリトン)。
オーケストラ団員が黒の衣装なのは普通だが、京響コーラスも全員黒い衣装。指揮者のデ・フリーントも黒の上下で、男性歌手はタキシードだが、女性歌手二人も黒のドレスで喪服のようである。ということでステージ上が黒づくめになる。しかも独唱者は、舞台の中央におらず、男性歌手はステージ上手端、女性歌手は下手端に座っていて、独唱の時だけステージ中央に向かい、歌が終わったら去るということで、あたかもモーツァルトの葬儀に参列したような気分になる。
徹底したピリオド・アプローチであり、テンポもかなり速め、合唱が立体的で非常にうねりが強い。
最初の独唱者はソプラノの石橋栄実だが、喪服に似たドレスで下手端からゆっくり歩いて来て中央付近で歌うので、弔辞を行っているように見える。今月は広島交響楽団とマーラーの交響曲第4番のソリストとして全国を回った石橋栄実だが、その時とは大きく異なる、空気を切り裂くような鋭い歌声である。独唱者が歩んでは去るという光景が繰り返され、シアトリカルな演奏となった。
初めて接するピリオド・アプローチによるモーツァルトの「レクイエム」であり、デモーニッシュさが更に増した恐るべき音楽を聴くことになった。

演奏終了後、デ・フリーントは、下手の高くなった段の上を走って京響コーラスに近づき、健闘を称えると同時に若さをアピールしていた。

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2025年9月27日 (土)

コンサートの記(919) 沖澤のどか指揮京都市交響楽団第704回定期演奏会

2025年9月19日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第704回定期演奏会を聴く。指揮は京都市交響楽団第14代常任指揮者の沖澤のどか。

曲目は、L・ファランクの交響曲第3番とリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」

なお、沖澤と京響はこのプログラムで日本縦断ツアーを行う。西宮、福井、長野、東京、そして沖澤の故郷である青森県の八戸市と青森市での演奏会も行う。沖澤は三沢市生まれの青森市育ちだが、ベルリン・フィルのカラヤン・アカデミーで学ぶ姿に密着したドキュメンタリー中の英語によるナレーションでは、三沢市の知名度が低いためか、「Aomori City」の出身だと語っている。三沢市にはそれほど長くいなかったのかも知れない。
またコロナ禍中に山田和樹と行ったYouTube遠距離対談では、「青森だとプロのオーケストラを聴く機会は年に1度あるかないか」と話していたが、この秋は青森で京響が聴けることになる。
ちなみに京都公演のチケットは今日明日共に完売である。東京公演も完売した。

プレトークで、沖澤は、「こんばんは。やっと涼しくなりましたね」と切り出す。自宅のあるベルリンでの仕事を終え、東京に飛び、新幹線で京都入りしたのだが、「京都駅のホームに降りた瞬間、『ああ、また夏だ』」と思ったそうである。ベルリンはもうセーターが必要な気温だそうだ。
曲目について、「L・ファランクの交響曲第3番を生で聴いたことあるぞという方」と聴衆に問いかけるが手は一つも挙がらない。変な曲を聴いていることが多い私もこの曲を聴くのは今日が初めてである。YouTubeに誰かが演奏を上げているかも知れないし、NAXOSのライブラリーに入っているかも知れないが、先入観を避けるために敢えて聴かないで来た。
「私もつい最近まで知らなかったんですけど」と沖澤は続け、「(スイスの)バーゼル交響楽団に伺った時に、『良い曲があるよ』と教えられ」て、それから取り組むようになったそうである。
なお、沖澤は女性作曲家の作品をよく取り上げる傾向があるが、L・ファランクも女性作曲家である。フルネームは、ルイーズ・ファランク。1804年生まれというからベートーヴェン(1770-1827)がまだ存命中で新進気鋭の作曲家と目されていた頃に生を受けたことになる。そのため、L・ファランクは古典派とロマン派の間に位置づけられるが、確かにそのような印象は受ける。ただし、やや古典派寄りである。ファランクは結婚後の苗字で、生家の姓はデュモン。15歳でパリ音楽院に入学し、ピアノを学ぶが、当時のパリ音楽院では女性は作曲を正式に学ぶことが許されなかったため、アントニーン・レイハという作曲家にプライベートレッスンを受けている。
ピアニスト兼作曲家として活動し、母校であるパリ音楽院のピアノ科教授も務めるが、当初は女性教授の報酬は男性教授よりも低く、ファランクは何度も抗議して、男性教授と同一賃金を勝ち取ったようである。
50代の時に愛娘でピアニストであったヴィクトリーヌが30代で早逝すると、以後は作曲と演奏の活動をほとんどしなくなり、音楽アンソロジーの編纂と教育に専念するようになったようである。

「シェエラザード」の思い出としては、「京都市交響楽団をこのホールで指揮者としてではなく、一聴衆として聴いたことは余りなんですけれど、『シェエラザード』」はあるという話をしていた。広上淳一が「シェエラザード」を2回取り上げているが(後で調べたところ、そのうちの1回は京都コンサートホールではなく、大阪のザ・シンフォニーホールで演奏されたものだった)、ジョン・アクセルロッドなど他の指揮者もプログラムに載せているので、どの演奏会なのかは、はっきり分からない。
また、「シェエラザード」を取り上げた理由として、「日本各地の海、長野は海ないんですど」様々な海をその地の聴衆に思い浮かべて欲しいという意図があったようである。ちなみに京都人と呼ばれる人にとっては、京都とは京都市のこと(更に狭く取る人もいる)なので、「京都も海ないで」と思う人もいそうである。かく言う私も京都府の海は見たことがない。天橋立や「海の京都」に行ってみたい気はあるが実現していない。私にとっての海は、九十九里浜の豪快な波である。

沖澤は来年以降のプランとして、「プロコフィエフの交響曲を全曲演奏します。3回! 3回に分けてですよ。録音もします」ということで、「プロコフィエフ交響曲全集」が完成しそうである。
沖澤「プロコフィエフの交響曲は、1番、5番、7番などはよく演奏されますが、他の曲はあんまり。何故かと言えば難しいから。皆さんにではなくて演奏する側が」

 

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団ソロコンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。もう一人のソロコンサートマスターの肩書きを持つ会田莉凡(りぼん)がフォアシュピーラーとして入り、泉原隆志と尾﨑平がファーストヴァイオリンの第2プルトとして陣取る。ドイツ式の現代配置だが、ファランクの時はティンパニの中山航介が第2ヴァイオリンのすぐ後ろでティンパニ(見た目では分からなかったがバロックティンパニかも知れない)を叩く。「シェエラザード」では中山は指揮者の真向かいに回った。
ヴィオラ首席に京都市交響楽団ソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積(たなむら・まづみ)が入るなど、強力な布陣である。
L・ファランクの交響曲第3番は金管はホルンだけという特殊な編成であるため、管の首席奏者は「シェエラザート」のみの参加である。

 

L・ファランクの交響曲第3番。無料パンフレットで音楽評論家の増田良介が、「モーツァルトの交響曲第40番との類似」を指摘しているが、確かにそんな感じである。
金曜ナイトドラマ第1作「TRICK」のオープニングテーマに少しだけ似た旋律でスタート。古典派とロマン派の間を行く作風だが、ロマン派ほどには羽ばたかない。
第2楽章。モーツァルトの交響曲第40番の第2楽章は、モーツァルトが無人の野を行くような澄み切った孤独感が印象的だが、L・ファランクの交響曲第3番の第2楽章もモーツァルトほどではないが孤独の哀しみが浮かび上がる。
第3楽章と第4楽章は、当時ヨーロッパで流行っており、鬼束ちひろが好きな言葉として挙げていることでも知られる(?)「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)」の作風。
時代的にピリオドでも構わないはずだが、モダンのアプローチである。ただ中山航介が先が木製のバチでティンパニを強打するなど、ピリオドの要素も入れていた。中山は先端に糸が巻かれた普通のマレットでも叩いており、それが「古典派とロマン派の間」を表しているようでもあった。

 

後半、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。昨年の大河ドラマ「光る君へ」で「シェエラザード」のヴァイオリン独奏に似た旋律が用いられており(作曲は冬野ユミ)、それが終盤で紫式部(まひろ/藤式部。吉高由里子)が病気で寝込んでいる藤原道長(柄本佑)に、毎日、連続ものの短い物語を語るという「音楽の伏線」になっていたことで話題になっている。ちなみに芥川龍之介が、『千夜一夜物語(千一夜物語、千と一夜物語)』の続編を書いているが、恐ろしくつまらないので読む必要はない。芥川さん、どうしてあんなの書いちゃったんですか?

かなりハイレベルの演奏である。ヴァイオリンソロを取る石田泰尚の演奏も妖艶且つ典雅で雄弁だ。
沖澤の解釈はおそらくロシア音楽ということよりもアラビアンナイトの音楽であるということを意識したもので、濃厚な音楽を紡ぎ上げる。広上と京響の「シェエラザード」が水彩画だとすれば、沖澤と京響の「シェエラザード」は絵の具を何重にも重ねた油絵の「シェエラザード」である。ロシアがフランスを手本にしていたということもあり、音楽でもフランス音楽とロシア音楽は親和性があって、フランスものを得意としている指揮者は大体ロシアものも得意としているが、水彩画系演奏の代表として広上の他にスイス・フランス語圏出身のデュトワ(モントリオール交響楽団との演奏が名盤として名高いが、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との新盤は更に良い)がいるとすれば、油絵系演奏はロシア生まれのロストロポーヴィチなどが代表格であろうか。とにかく同じ京響の「シェエラザード」なのに印象は大きく異なる。
カロリーたっぷりで、耳が満杯。大満足の出来である。ただ聴いていて疲れるところはある。

沖澤の指揮姿は端正で「これぞ指揮者」といったところ。人気があるのも頷ける。今日は背中は燕尾服風であるが前は閉じるという服(小澤征爾がよく着ていたような服だが何というのだろう?)に白いネクタイのようなものを巻いていたが、ネクタイのようなものが揺れる様がエレガントで、視覚効果面でも優れていた。指揮棒は縦振りがほとんどで横に振るときは小さいのが特徴である。

日本のどこに行っても受けること間違いなしのコンビ。沖澤と京響の未来は間違いなく明るい。

 

今日はアンコール演奏がある。カプレ編曲のドビュッシーの「月の光」管弦楽版。繊細で淡い音の月夜で、今夜は朧月のようである。沖澤と京響の多面性を示していた。

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