カテゴリー「教育」の16件の記事

2021年5月 6日 (木)

NHKオンデマンド 「100分de名著 『歎異抄』」

2021年4月26日

NHKオンデマンド「100分de名著 『歎異抄』」を4回連続で見る。2016年の放送。ナビゲーターは釈徹宗。
最も人気のある宗教書の一つとして知られる『歎異抄(たんにしょう)』。だが、「誤解を招く」として封印されてきた歴史があり、一般的に知られるようになったのは明治時代以降である。明治期に、清沢満之(きよざわ・まんし)、暁烏敏(あけがらす・はや)ら真宗大谷派の仏教学者が「歎異抄」の再評価を行い、特に暁烏敏は『歎異抄』を真宗の最重要書に選んでいる。今は、お東お西ともに『歎異抄』は重要視しているが、原則的にはお東(真宗大谷派)で研究された歴史の方が長い。

作者は正確には分かっていないが、常陸出身の唯円であるとされる(文章の中に唯円の名が登場するため)。ちなみに、親鸞の弟子に唯円という名の人は二人いたそうで、そこからしてややこしくなっている。

親鸞亡き後、真宗の教えはすぐに親鸞が残したものと異なる解釈が幅をきかせるようになり、それを嘆いた唯円が、「異なったことを嘆く」という意味で『歎異抄』を著した。

宗祖亡き後に、異なる意見が現れ、悶着が起こるというのは定番で、釈迦入滅後も意見が割れるのを防ぐために「結集」という、釈迦の教えを確認する会議が何度か行われたが、実際には、釈迦本人の言葉ではない経典が数多く創作され、今、日本に入ってきている経典は、そうした「理想の釈迦の言葉」を目指して創作されたものが大半である。創作というと「捏造」のようにも感じるが、自らが理想とする釈迦の言葉を、人生の伴侶とする形で歴代の人々が紡いでいったものであり、歴史的な価値がある。

だが、宗祖亡き後に、本来と異なると思われる教えが広まることに懸念を示すのも当然の心理である。真宗とは真逆の立場にある日蓮宗でもそれは起こっており、日蓮の高弟の一人であった日興は「日蓮聖人の教えが守られなくなった」として身延山を下り、大石寺を建てている。大石寺は、現在は日蓮正宗の総本山となっており、日蓮正宗は扱いとしては新宗教であるが、歴史は長い(日蓮宗富士門流からの分離)。

真宗の場合は、親鸞本人が新宗派を起こしたという考えを持っていなかったため、更にややこしくなる。
親鸞は承元の法難で越後に流罪となり(越後が流罪の国でなかったため異説もあり)、その後、関東に赴いて師である法然の教えを広め、更に深めていく。研究する上で、参考文献が必要になるのだが、当時の東国は田舎で、書籍は思うように手に入らない。そのことが親鸞が京都に戻る一因となったとされる。さて、京都に戻った親鸞であるが、東国で彼が広めた教えが様々に解釈されるようになり、侃々諤々の様相を呈する。親鸞がかつて本拠を置いていた常陸国は、筑波山があることから修験道の要地でもあり、修験道的な教えが念仏に混じるようになることは想像に難くない。ということで、親鸞は長男である善鸞(ぜんらん)を東国に送ったのだが、善鸞自身が呪術的な要素に染まるようになり、「父から自分だけが受け継いだ奥義」があると喧伝するようになる。親鸞は善鸞をやむなく義絶した。
実は善鸞は真宗出雲路派では、今も二代目に位置づけられていたりする。

実の子が教義を違えたため義絶することになった八十代の親鸞が唯円に語ったことを纏めたのが『歎異抄』である。実の子を見捨てざるを得なかったという親鸞の気持ちはおそらく反映されていると思われる。

「悪人正機説」が最も有名であるが、ここでいう「悪人」とは今でいう悪人とは異なる。
仏教というのは個人的な宗教であり、修行して解脱を目指すのが本道である。だが、日本において修行のみで生きることが出来るのは特別な立場にいる人だけである。僧侶がそうだが、実は当時の僧侶というのはある程度の身分のある人のエリートコースへの階段であり、親鸞も中級から下級の公家であるが日野氏という藤原北家の貴族の血筋に生まれている。日野氏からは後に日野重子や日野富子が生まれているが、それ以前にも足利将軍家に女子を送り込むなど、出家のための戦略に長けた家である。中級から下級であるため公家のままでは大した出世は望めないが、比叡山で僧侶になれば、あわよくば天台座主の座(今でいうと文部科学省大臣兼東京大学学長のような立場)も狙える。ということで親鸞の兄弟は全員、比叡山に入って仏道での出世を望まれるようになった。実際、親鸞の弟などはかなり出世している。
だが、親鸞は9歳で出家し、29歳まで20年間厳しい修行を行うも、一向に悟りの開ける気配を感じ取ることが出来ず、日毎比叡山を下りて六角堂に百日参詣を行う。そこで夢告を得て、吉水の法然坊源空に師事して、易行の道へと進むことになる。

修行に励まなければ極楽往生出来ないというのでは、救われるのは僧侶や僧侶になれる身分の人々だけということになってしまう。善人というのは僧侶などのことで、悪人というのはそうでない人のことである。僧侶以外は救われないという教えは仏教ではないと考えた親鸞が説いたのが、俗に言う「悪人正機説」である。自ら往生出来る人(声聞など)は自ら往生すれば良く、それが出来ない人々を救うのが阿弥陀の本願というわけである。当然といえば当然だが、西洋の「天は自ら助くる者を助く」という発想にはならない。
東国にいた頃、親鸞は貧しい人々とも積極的に接した。動物を殺して生きる猟師や漁師、当時は卑しい階級とされていた商人らが悪人と呼ばれた人々である。このような自ら往生出来ない人を救うことこそが弥陀の本願なのである。
親鸞が生きたのは激動の時代である。親鸞が生まれたのは西暦1173年であるが、その20年ほど前に保元の乱と平治の乱があり、武士階級が台頭。実は親鸞の母親は源氏出身ともいわれており、親鸞本人も武士階級の台頭や源平合戦と無縁ではなかった。戦になると武士や戦場に駆り出された庶民は人殺しをしなくてはならない。これでは往生など出来るはずもないのだが、そうした人々を救うのも阿弥陀如来の本願なのである。

こうしたことに関してはおそらく異論は出なかったであろうが、「南無阿弥陀仏と唱えれば全ては許される」などといったカトリックでいう免罪符に似た極論が出てきたため、こうした異論をたしなめるべく記されたのが『歎異抄』である。だが、極論を排して中道を行く精神が根本にあるため、どうにもフワフワとしてわかりにくいという印象を抱かせることになっている。仏教なので、点検することが一々多いのである。「どうせ救われるのだから何をしても良い」と考える「本願ぼこり」と呼ばれる極論を唱える人々が現れるのだが、「本願ぼこりは往生出来ない」という考え方もまた極論として退けられるのである。ただ、こうした考えは唯円オリジナルと見る向きもあり、それらもまた複雑さの原因となっているようである。

私自身は、五木寛之訳の『私訳 歎異抄』と光文社古典文庫から出た関西弁訳の『歎異抄』を読んでいるのだが、「理解は出来るが納得は出来ない」というのが今の立場である。

なお、ナレーションは昨年4月に亡くなった志賀廣太郎が行っており、落ち着いた語り口を楽しむことが出来る。

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2021年4月 6日 (火)

コンサートの記(705) 「岩田達宗道場 Vol.2 オペラハイライトコンサート」@宝塚ベガ・ホール

2021年3月30日 宝塚市立文化施設ベガ・ホールにて

午後6時から、宝塚ベガ・ホールで、「岩田達宗道場 Vol.2 オペラハイライトコンサート」を聴く。

「岩田達宗道場」といわれても何のことか分からない人の方が多いと思われるが、オペラ演出家の岩田達宗(たつじ)とテノール歌手の迎肇聡(むかい・ただとし)が2020年6月に創設した若い演奏家のための鍛錬の場で、リモートにより講義や実技が行われた。有料であるが聴講も可能なので、参加しても良かったのだが、こちらもスケジュールが合わない日の方が多いため、見送っていた。ということで、オペラコンサートも当初は行く予定はなかったのだが、岩田さんが演出する予定の「ラ・ボエーム」の西宮公演と、堺での「愛の妙薬」がいずれもコロナの影響で中止になってしまったため、オペラを聴く予定がポッカリ空いてしまい、また宝塚ベガ・ホールにはまだ行ったことがないため、興味を引かれた。

ただ、今は時差出勤で、今週は早番であるため通常なら早めに終わるが、急な予定が入る可能性も否めないため、予約は入れず、当日券で入ることにする。

阪急清荒神駅の目の前にある宝塚ベガ・ホール(正式名称は「宝塚市立文化施設ベガ・ホール」)は、1980年竣工ということで、なかなか年季が入ったホールなのだが、レンガ造りのように見える(実際はどうなのかわからない)壁面とパイプオルガン、高い格子天井というお洒落な内装が特徴で、今回は舞台セットなしでの演奏であるが、セットなしでも各場面がドラマティックに見えるという利点がある。阪神間ロマンの重要地点であった宝塚市が持つ文化の奥深さを実感させられる施設である。ホール前には、2002年にウィーン市から贈られたというヨハン・シュトラウスⅡ世の像が建ち、最高の出迎えとなっている。

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岩田達宗道場は、岩田達宗の名が入っているが、代表は迎肇聡が務めるという変則的なものであるが、共同代表という形と見て良いと思われる。今回のコンサートも演出とナビゲーターは岩田達宗が担当している。

全席自由であるが、前から4列目までは飛沫対策として使用出来ないようになっており、また歌手達はマウスシールドをしての歌唱となる。演技と衣装付きでの歌唱。伴奏はピアノの掛川歩美が全曲一人で担当する。

歌手は総勢18名が登場するが、コロナによって会うこともままならない状態が続いており、18名全員が顔を合わせるのは今回が初めてだという。出演は、岩田達宗と迎肇聡が共に大阪音楽大学の教員ということもあって、全員が大阪音楽大学の学部や大学院や専攻科で学んだことのある若者達である。中には大阪音楽大学の大学院在学中という人もいる。将来が期待される若手達であるが、すでにコンクールで優秀な成績を上げていたり、関西歌劇団やびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーとして活躍している人もいる。

 

曲目は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」、ドニゼッティの歌劇「ランメルモールのルチア」、モーツァルトの歌劇「魔笛」からのハイライトで、いずれ約1時間ほどのハイライト上演、合間に10分の休憩を挟んで合計で3時間以上と長丁場である。

出演者は、東里桜(あずま・りお)、乾彩子、岡田彩菜(あやな)、奥村哲(さとる)、田口絵理、中井百香(ももか)、中村理子(みちこ)、長太優子(なごう・ゆうこ)、難波孝、野尻友美(ともみ)、芳賀健一、福西仁(じん)、森千夏(ちなつ)、安井裕子(ゆうこ)、山村麻依、山本千尋、吉本朱里(あかり)、脇阪法子。女声は安井裕子だけがメゾ・ソプラノで、他は全員ソプラノ。男声は福西仁だけがテノールで、他はバリトンである。

客席も大阪音楽大学の関係者が多く、関西のオペラ好きなら知っている大物歌手も聴きに来ている(もっとも、出演者と師弟関係だったりもする)。

字幕なしでの原語歌唱による上演だが、演奏前に演出兼ナビゲーターの岩田達宗が舞台上であらすじや場面の内容などを、時代背景や自らの解釈を踏まえつつ紹介するため、「なにがなにやら」ということにはならない(といっても、オペラというものを一度も観たことのない人にとっては苦しいと思われるが、そうした人が今回のコンサートにふらりとやって来るとは思えないため、問題はないだろう)。

「魔笛」は、演技は日本語で、歌唱はドイツ語で行われる。今の若い歌手達が第一線で活躍する頃には日本語によるオリジナルオペラが今よりも盛んに上演されている可能性が高いため、若いうちに日本語での演技力も高めておきたいところである。ドイツ語圏には、国立の演劇音楽大学というものがいくつもあって、声楽専攻の人も演劇の実技を受けられたりするようだが、日本の場合は、演劇とクラシック音楽の専攻の両方があるのは、日大藝術学部や大阪芸術大学など数える程度で、他専攻の授業をどれだけ取れるのかも不明である。大阪音楽大学も勿論、オペラ向けの演技指導は行っているが、あくまでオペラ向けの演技である。「魔笛」のセリフと歌唱を聴いても思ったのだが、セリフと歌唱の表現力は必ずしも一致しないようである。

若さとはやはり特権であり、みなパワーがあり、声が瑞々しい。まだまだ怖いもの知らずでいられる時期ということもあり、思いっきりの良い歌唱と演技が見られる。窮地に陥っている音楽界であるが、こうした活きの良い歌手が大勢いるなら、コロナなど恐るるに足らずと思えてくる。とにかく音楽に関しては日本の未来は明るいようである。客席も身内が多いということで温かな空気に満ちており、出演者達の溌剌とした演技と歌唱を支えていた。私自身は大阪音楽大学とは特に関係はないが、良い体験になったと思う。

勿論、若さ全てがプラスに働くというわけではなく、演技も歌唱も未熟な部分があるのは確かで、今日のよう実質的なホームではなく、アウェイになった場合にどこまで通用するのか未知数という不安もある。だが、それを乗り越えていけそうなパワーを彼らから感じた。今日はそのアリアは歌われなかったが、「恐れるな若者よ」と歌いたくなる――ソプラノの曲なので実際には歌えないわけであるが――気分であった。モーツァルトやベートーヴェンも確信していた最高の武器、「音楽」を彼らは手にしているのである。

アンコールとしてモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」よりフィナーレが上演される。音楽をする喜びに溢れた出演者達の顔を見ていると、こちらも自然と笑顔になる。

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2021年2月22日 (月)

これまでに観た映画より(251) ロビン・ウィリアムズ主演「いまを生きる」

2021年2月20日

配信でアメリカ映画「いまを生きる」を観る。1989年の制作。シンセサイザーを使ったモーリス・ジャールの音楽が時代を感じさせる。ピーター・ウィアー監督作品。ロビン・ウィリアムズ主演作。脚本のトム・シュルマンが、第62回アカデミー賞で脚本賞を受賞している。内気な少年、トッド・アンダーソン役でイーサン・ホークが出演。ニール・ペリー役のロバート・ショーン・レナードとイーサン・ホークは後に劇団を結成したりもしたようだ。

1959年、バーモント州にある名門寄宿学校、ウェルトン学院(ウェルトン・アカデミー)が舞台である。卒業生の約75%がアイビーリーグ(アメリカの大学に詳しくない人のために、字幕では「8名門大学」と訳されている。ハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学、ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ペンシルベニア大学の8つの東海岸北部の私立大学)に進むという進学校だが、ウェルトン学院に掛けてヘルトン学院(地獄学院)と生徒達に揶揄されるほど厳格な校風である。

ウェルトン学院に英語教師(日本でいう英語の教師ではなく、国語の教師とも違い、文学指導の先生である)、ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)が赴任してくる。ウェルトン学院のOBであるが、それまではロンドンのチェルシーにある学校で教師をしていた。
ジョン・キーティングは、アカデミックな詩の教育ではなく、自らが主体となる文学を授けるべく、教室だけではなく、学校の廊下や中庭などでも独自の授業を開始する。人生の短さにも触れ、「いまを生きる」ことの大切さを生徒達に教え、自身のことも「キーティング先生」と呼んでもいいが、ホイットマンがリンカーンに捧げた「おお、キャプテン! 我がキャプテン!」にちなんで「キャプテン」と呼んでも良いと生徒達に伝える。生徒達はキーティングのことを「キャプテン」と慕い始める。

学年トップの成績を誇るニール(ロバート・ショーン・レナード)がキーティングがウェルトン学院に在学していた時の年鑑を見つける。ケンブリッジ大学に進学希望で、「死せる詩人の会」というサークルに所属していたことを知った生徒達は、詩の朗読や創作を行うサークルであった「死せる詩人の会」を復活させ、キーティング在籍時代の「死せる詩人の会」も根拠地としていた洞窟の中で自由な青春を謳歌する。内気な少年であったトッド・アンダーソン(イーサン・ホーク)も「その場にいるだけ」という条件で「死せる詩人の会」に参加する。

やがて「死せる詩人の会」メンバー達の生活に変化が起こる。ノックスは、他の高校に通うクリスという女の子(チアリーディングを行うなど、なかなか活発な女子のようである。演じるのはアレクサンドラ・パワーズ)に一目惚れし、彼女に捧げる詩を作る。
詩の創作に乗り気でなかったトッドもキーティングの前で即興で詩を作ることになり、内面が解放されていく。
ニールは、俳優になりたいという夢を見つけ、「真夏の夜の夢」の舞台公演のオーディションに参加、一番人気であるパック役に抜擢される。
だが、そうした自由さはウェルトン学院の校風にそぐわず、やがていくつかの悲劇が訪れることになる。

硬直した校風のエリート校に風穴を開ける教師と、それまでとは違った価値観を見出すことになる若者達の物語である。文学作品、特に詩が主軸となっており、実学とは異なり「人生を豊かにする」文学作品の素晴らしさが語られる。ただ一方で、文学作品の自由な解釈に関しては私は懐疑的で、内容を把握する努力を怠る危険性を感じたりもするのだが、21世紀に入ってから文学軽視の風潮は世界的により高まっており、こうした映画によって言葉で語り、表現し、受け取ることの素晴らしさを人々に広めて貰えたらとも思っている。

名門大学進学のために「今」を犠牲にする風潮も、私達の世代ほどではないが、現在も日本では根強い。実は青春時代に身につけておかなければならないことは勉強以外にも数多い。きちんと語り、受け取る技術もそれで、若い時代に身につけておかないと挽回は難しい。この映画が制作された1989年や舞台となった1959年とは比べものにならないほどの情報社会が訪れ、文章による伝達の機会も多くなったが、青年期に文学作品にきちんと向かい合う人が少ないため、極々初歩的なやり取りも成立せず、勘違いに勘違いが重なるケースが後を絶たない。「自分自身で考える」「自分の言葉を用いる」ということは、当たり前のようでいて実は難度はかなり高い。相手がいる以上、自己流を貫いてばかりでは伝達は成立しない。そこには人文的素養が必ず必要になってくる。

劇中で、キーティングが机に上に立って視点を変えることを奨励する場面が出てくる。ラストではキーティングはウェルトン学院を去ることになるのだが、彼の志は何人かの生徒に確実に受け継がれるであろうことが見て取れる。1年前に他界した野村克也は、後藤新平の「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」という格言を愛したが、キーティングは進学実績を残す前に学院を去るも人を遺すことには成功したのだ。人に教える人間としては、「上」であったと言える。

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2021年2月21日 (日)

観劇感想精選(385) 佐藤隆太主演 舞台「いまを生きる」(再演)

2021年2月13日 大阪・西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後1時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、舞台「いまを生きる」を観る。ロビン・ウィリアムズ主演の名画の舞台化で、今回は再演となる。主演は佐藤隆太。

佐藤隆太主演の「いまを生きる」が再演されるという情報は得ていたのだが、チケットの取り扱いがイープラスとローソンチケットとぴあの電話予約だったということもあり、いつどこで上演されるのかまでは掴んでいなかった。先月、野村万作萬斎の狂言公演を観に行った際に、サンケイホールブリーゼエントランス近くのチラシコーナーで「いまを生きる」のチラシを見つけ、「佐藤君主演だったら観なきゃな。『エブリ・ブリリアント・シング』では良い経験させて貰ったし」というわけでイープラスでチケットを取った。

佐藤隆太も女性のファンが多い俳優だが、それに加えて、ジャニーズJr.のメンバーが出演するため、客席の大半は若い女性である。

今回の「いまを生きる」は、オフブロードウェイで上演された作品の日本語上演版である。「いまを生きる」には、生徒が自殺するシーンがあるのだが、映画から起こした台本を使って高校演劇として上演されたことがあり、その高校で数ヶ月前に自殺事件が発生していたため、「倫理的にどうか」と疑問視されたことがある。ただ、今回はそれとは別のバージョンである。

脚本:トム・シュルマン(映画版脚本。第62回アカデミー賞脚本賞受賞)、演出・上演台本:上田一豪(うえだ・いっこう。東宝演出部所属)。
出演は、佐藤隆太、佐藤新(ジャニーズJr.)、瀬戸利樹、影山拓也(ジャニーズJr.)、基俊介(ジャニーズJr.)、三宅亮輔、市川理矩、日向なる、飯田基祐、佐戸井けん太。

日本初演は2018年で、3年ぶりの再演となる。

舞台となるのは、アメリカ北東部、バーモント州にある寄宿学校(ボーディングスクール)、ウェルトン・アカデミーである。アイビーリーグに多くの生徒を送り出している名門校であるが、その手の学校にありがちなように、保守的で厳格な校風であり、教師や親からの「幸福の押しつけ」が起こりやすい環境である。
そこに赴任して来た新人英語教師(日本のように非英語圏の人に英語を教えるわけではないので、日本でいう国語教師に近い。ただアメリカには当然ながら本当の意味での古文や漢文などはないので、教えるのは文学作品中心である)のジョン・キーティング(佐藤隆太)。ウェルトン・アカデミーのOBである。初登場シーンでは、口笛でベートーヴェンの「歓喜の歌」を吹きながら現れる(原作映画では別の曲である)。まず最初の「詩とは何か」の定義で教科書に書かれていることを否定し、真の意味での優れた文学教育や人間教育に乗り出していく。ただ、寄宿学校に通う生徒の両親は、往々にして金持ちだが保守的で息子の進路を勝手に決めてしまうというタイプが多いため、ジョンのやり方は次第に非難を浴びるようになっていく。ウェルトン・アカデミーの校長であるポール・ノーラン(佐戸井けん太)も自由さや独自性を重視するジョンのやり方を問題視するようになっていった。

ジョンは、生徒達に詩作を行うことを薦める。最初の内は戸惑っていた生徒だが、次第にジョンに共鳴するようになり、クラスで首席を取りながら、親が決めた道に進まざるを得ない状況となったニール(瀬戸利樹)も、ジョンに触発されて以前から興味のあった俳優の仕事に興味を持ち、他校で行われる「真夏の夜の夢」のオーディションに参加、一番の人気役であるパックにキャスティングされて大喜びである。
ジョンは、生徒達に机の上に立って、視点を変えるといったような発想法の転換などを中心に教えていく。

思春期の男の子達ということで、一番の話題はやはり恋愛。寄宿学校は男子生徒のみであり、女子との接点は少ないのだが、ノックス(影山拓也)は、パーティーで知り合ったクリス(日向なる)に一目惚れ。何かと話題にしている。

男子生徒達は、ウェルトン・アカデミー在学時代のジョンに興味を示し、残された文集やデータなどから、ジョンがウェルトン時代に「死せる詩人の会」という詩の朗読サークルに所属していたことを知る。現在は残っていないサークルだったが、生徒達は再興することを決め、文学と自由を謳歌するようになるのだが……。

ニールは「真夏の夜の夢」に出て好評を得たが、父親のペリー(飯田基祐)から、俳優などやらず、ハーバード大学の医学部に進み、医者になるよう強制される。それが代々のペリー家の男子の生き方だったようだ。苦悩するニールは最終的には拳銃自殺を選んでしまうという、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の系譜に列する作品でもあり、子ども達への「愛情」のあり方が問われている。

ジョンが最初に生徒に教えたのは、ホイットマンがリンカーン大統領の思い出に捧げた「おおキャプテン! わがキャプテン!」であり、ジョンも教師というよりキャプテンであることを生徒に印象づける。この「おおキャプテン! わがキャプテン!」は、亡くなったリンカーンを死にゆく船長になぞらえたもので、内容自体は不吉であり、ジョンのその後を予言する結果となっている。

結局、ジョンは、保守的な学校体制には勝てず、寄宿学校を去ることになるのだが、最後に生徒達は机の上に立ち上がり、「おおキャプテン! わがキャプテン!」と唱えて、ジョンを支持するのであった。

 

アメリカの学園もの映画の中では、「いまを生きる」以外に、リチャード・ドレイファス主演の「陽のあたる教室」なども好きなのだが、「陽のあたる教室」も日本でも舞台化されており、まだ東京に通っていた頃なので、私は世田谷パブリックシアターで観ている。主演は水谷豊で、大阪ではシアター・ドラマシティで公演が行われたようである。息子役が黒田勇樹であったのが良かったのか悪かったのか今となっては微妙に思える。

 

カーテンコールでは佐藤隆太が、本日の話し手として、リチャード・キャメロン役の市川理矩を指名。キャメロンは、生徒達が「おおキャプテン! わがキャプテン!」でジョンを讃えている時に、自己保身のため一人だけ立ち上がることの出来ない生徒なのだが、市川が「机の上に立ってみたかった」と言ったため、特別にキャメロンも立ち上がるバージョンのラストシーンが演じられることになる。途中で自殺してしまうニール役の瀬戸利樹も冗談で参加しようとするが、佐藤隆太が、「いや、ニールがいるのはおかしい」と突っ込んだためすぐに退場する。
キャメロンが机の上に立って、「おおキャプテン! わがキャプテン!」をやった時には、客席が若い女の子中心ということで、黄色い声や笑い声、拍手などが鳴り響いた。

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2021年2月 6日 (土)

コンサートの記(692) 「京都・国際音楽学生フェスティバル2007」フィンランド&フランスDay

2007年5月28日 京都府立府民ホールアルティにて

午後6時30分から、京都府立府民ホールALTIで、「京都・国際音楽学生フェスティバル2007」フィンランド&フランスDayを聴く。全席自由、1000円均一の公演。チケットの安い公演は、「何か知らないけれど来てしまいました」という、マナーとは無縁の客が入ってきてしまうことが多いのだが、今日もそうした方がちらほら。

「京都・国際音楽学生フェスティバル」は、ALTIで毎年開かれており、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリアという音楽大国の学生を始めとする有名音楽院の学生が参加している。

今日は、フィンランドのシベリウス音楽院(シベリウス・アカデミー。旧ヘルシンキ音楽院)と、「のだめカンタービレ」でもおなじみ(?)フランスのパリ国立高等音楽院(コンセールヴァトワール・パリ)の選抜学生による室内楽をメインとした演奏会である。

プログラムは、まずシベリウス音楽院の学生によるシベリウスの弦楽四重奏曲「親愛なる声」が演奏され、次いでパリ国立高等音楽院の学生によるフォーレのチェロ・ソナタ第1番と「エレジー」。そして、シベリウス音楽院、パリ国立高等音楽院、京都市立芸術大学の学生による弦楽合奏で、ドビュッシーの「小組曲」より“小舟にて”と“バレエ”、そして「夜想曲」(管弦楽のための「夜想曲」ではなく、ピアノ曲の編曲。いずれも篠田聡史による弦楽合奏版編曲による演奏である)、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ(祝祭アンダンテ)」、「弦楽のためのプレスト」、1981年生まれの若き作曲家ハルティカイネン(シベリウス音楽院に在籍)の新作「ルーメン(光)」(世界初演)が演奏される。

いずれもコンクールなどで優秀な成績を修めている学生達だが、あくまで学生であり、こちらも名演は期待していない。


シベリウス音楽院の学生による弦楽四重奏曲「親愛なる声」。ファーストヴァイオリン、セカンドヴァイオリン、ヴィオラは女の子で、どういうわけか全員眼鏡をかけている。チェロだけ男の子。トーマス・ヨアキム・ヌニエス=ガルセ君という長い名前の男の子だ。
祖国の大作曲家シベリウスの作品とはいえ、「親愛なる声」は深い音楽であり、学生では表現できないのではないかと思う。案の定、曲の把握が徹底されていない演奏であった。単に音が鳴っているだけの箇所が多い。それでも第3楽章などは哀切で透明な音楽を再現することに成功していたように思う。
アンコールとして、コッコネンの弦楽四重奏曲第3番より第2楽章が演奏される。シャープな演奏であった。

パリ国立高等音楽院在籍の女性チェリスト、オレリアン・ブラウネールさんは、高い技術力を持ち、豊かな音色による淀みない歌を奏でる。なかなかの実力者と見た。
フォーレの2曲は、いずれも若さに似合わない奥行きのある演奏であり、アンコールの「白鳥」(サン=サーンス作曲)でも優雅な音楽を奏でた。ピアノのエマニュエル・クリスチャン君も煌めくような音色の持ち主であり、好演だった。

弦楽合奏。京都市立芸術大学からの出演者は全員女の子。ということで、ステージ上の男性メンバーは先ほど名前を出したトーマス君ただ1人である。
コンサートミストレスはシベリウス音楽院のシニ・マーリア・ヴァルタネンさん。
ドビュッシーの「小組曲」よりと「夜想曲」も良かったが、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」と「弦楽のためのプレスト」はより優れた演奏。時に勢いに流されそうにはなるが、若々しさ溢れる演奏に好感を持った。

「ルーメン(光)」のハルティカイネン氏は会場に来ており、演奏前に簡単な楽曲解説を行った。
現代音楽であるため奏者だけでの演奏は難しく、この曲だけミラノ・ヴェルディ音楽院在籍のアンドゥレーア・ラッファニーニ氏が指揮を務める。
「ルーメン(光)」は、ヴァイオリンがグラスハープのような音を奏でるなど、繊細な音のグラデーションを特徴とする。しかし、この手の曲は全て武満徹作品のように聞こえてしまうのは気のせいなのか。

アンコールはシベリウスの「カンツォネッタ」。これも若さがプラスに作用した好演であった。

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2021年2月 5日 (金)

コンサートの記(691) 下野竜也指揮 第16回京都市ジュニアオーケストラコンサート

2021年1月31日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、第16回京都市ジュニアオーケストラコンサートを聴く。これまで広上淳一が指揮台に立つことが多かったが、今回は下野竜也が初めてジュニアオーケストラを振ることになった。コロナの影響は避けられず、演目を変更しての開催である。

午後1時開場であるが、全席自由ということもあり、開場前に行列が出来るのを防ぐために時差入場を実施しており、私が買ったチケットには午後1時20分以降の入場と記されていた。午後1時15分頃に京都コンサートホールの入り口に着いたので、5分待つことにしたが、レセプショニストさんによると、行列が出来ていないので、もう入場可とのことだった。

最優先されるのは、やはりジュニアオーケストラメンバーの親御さんだと思われるのだが、見渡したところ、両親に当たる年齢の男女(私と同世代が多いはずである)のコンビは余り見当たらなかった。客層としては京都市交響楽団の定期演奏会のそれに近い。1階席は埋まっている席が多かったため、3階席へ向かう。京都コンサートホールの2階席はサイド席しかなく、音が今ひとつだが、3階席はステージからは遠めだが音はビビッドに届く。今日はヴァイオリニストの小林美樹がソリストとして3曲に登場するということで、Rサイド(RIGHT、右側席)の、ソロヴァイオリンの音像が結ばれやすい席に座る。開演10分ほど前に、「こっちの方が見やすいよね」といった内容の話をしている男性二人組が後ろを通り過ぎたが、そのうちの一人が、1階席の入りを確認するために、ひょいっと顔を覗かせる。背の低い、頭の輝く男性で、マスクと眼鏡を掛けていたが、すぐに広上淳一だと分かった。

京都市ジュニアオーケストラは、2005年の結成。京都市内在住もしくは通学の青少年からなるオーケストラで、入団するには選抜試験を通過する必要がある。必ずしも音楽家志望の子達が入団しているという訳ではないが、「医師免許を持つヴァイオリニスト」として有名になった石上真由子は、初期の京都市ジュニアオーケストラでコンサートミストレスを務めていた。広上淳一が、「音楽家を目指している子ばかりではなく、お医者さんを目指している子がいたり」と紹介していたことがある「お医者さんを目指している子」というのはおそらく石上真由子のことであったと思われる。

各楽器の指導には京都市交響楽団の楽団員が当たり、合奏指導は広上の弟子の一人である大谷麻由美が行った。

 

曲目は、コープランドの「市民のためのファンファーレ」、リヒャルト・シュトラウスの13管楽器のためのセレナード、マスネの「タイスの瞑想曲」(ヴァイオリン独奏:小林美樹)、サラサーテの「カルメン幻想曲」(ヴァイオリン独奏:小林美樹)、J・S・バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲(独奏第1ヴァイオリン:小林美樹、独奏第2ヴァイオリン:山﨑祥恩)、シューマンの交響曲第4番。

ステージ上で密になる時間をなるべく短くするため、第1曲に金管楽器と打楽器のみによる「市民のためのファンファーレ」を置き、2曲目に木管楽器主体の13管楽器のためのセレナードが続く。

いずれの曲でも充実した響きが奏でられ、京都市ジュニアオーケストラの技術と表現力の高さが感じられる。下野も拍をきっちり振るなど、いつも以上に明快な指揮を行っているように見えた。

 

マスネの「タイスの瞑想曲」とサラサーテの「カルメン幻想曲」でソロを受け持つ小林美樹は、若手人気ヴァイオリニストの一人。1990年生まれ。2011年に第14回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールで第2位を受賞し、注目を浴びる。桐朋女子高校音楽科、桐朋学園大学ソリストディプロマコース(学科授業はなく、プロのヴァイオリン奏者を本気で志す者のみが入学を許される育成コース)に特待生として入学し、その後、明治安田クオリティオブライフ及びロームミュージックファンデーションから全額奨学金を得てウィーン私立音楽大学に学んでいる。

以前、京都市交響楽団の大阪定期公演にソリストとして登場した時に聴いたことがあるが、女性としては高身長で、海老反りになって弾くことが多いのが印象的であった。
今日はターコイズブルーのドレスで登場。やはり時折、海老反りになって弾く。磨き抜かれた美音が最大の特徴であるが、メカニックも上質である。童顔系の可愛らしい顔をした女性なのだが、見かけとは異なり、「カルメン幻想曲」ではかなり情熱的な演奏を繰り広げる。

下野指揮の京都市ジュニアオーケストラも色彩豊かな演奏を繰り広げた。

 

後半、小林美樹と京都市ジュニアオーケストラのメンバーである山﨑祥恩(やまざき・しょうおん)の独奏によるJ・S・バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲。
山﨑祥恩は、現在、京都市立堀川音楽高校の1年生。小学5年生から京都市ジュニアオーケストラに参加し、コンクールでも金賞や奨励賞、優秀賞などの受賞歴がある。近年では、第29回日本クラシック音楽コンクール全国大会中学校の部で第2位(1位なしで最高位となる)、第74回全日本学生音楽コンクール大阪大会高校の部2位という成績を残しており、この子は確実にプロ志望だと思われる。

柔らかさも持った小林と、鋭さと正確さを武器とする山﨑の柔と剛の対比という趣があり、面白いバッハ演奏となった。京都市ジュニアオーケストラは、弦楽がほぼノンビブラートのピリオド奏法による伴奏を行った。若い人達なので、ピリオドにまだ十分に馴染んでいない感じだったが、総体的には優れた伴奏である。

 

ロベルト・シューマンの交響曲第4番。下野の的確な指揮棒に導かれ、仄暗さや幻想的な曲調も十全に表現した演奏となる。シューマンはオーケストレーションが独特であるため、演奏が難しいことで知られるが、第1ヴァイオリン13名、第2ヴァイオリン11名と大きめの編成での演奏ということもあって、鳴りも十分であり、聴く者を納得させるだけの出来を示した。

 

アンコール1曲目は、シューマンの「トロイメライ」(弦楽合奏版。編曲者不明)。ノスタルジックな叙情美に溢れた演奏であった。

「トロイメライ」演奏後、下野はマイクを手にして再登場。「京都『市立(しりつ)』芸術大学教員の下野竜也です」と「市立」を強調した自己紹介をして客席の笑いを誘う(京都造形芸術大学が一方的に京都芸術大学に校名変更を行ったため、訴訟に発展している)。「ちょっと前までは京都市交響楽団の指揮者もしていた訳ですが」と語った後で下野は京都市ジュニアオーケストラの定期演奏会(定期演奏会という名こそ付いていないが、毎年1月にメインのコンサートを行うので実質的な定期演奏会である)を指揮するのが初めてであること、コロナの影響によりトレーニングの期間が例年の半分ほどしか取れず、曲目も変更せざるを得なかったことを明かし、また京都市ジュニアオーケストラを音楽エリートに育てようという気は毛頭ないことを語る。京都市ジュニアオーケストラは何より「人間形成の場」と捉えているそうで、そのためリハーサルもスパルタで行っていることを明かす。「罵詈雑言こそ浴びせませんでしたが、出来ていない時は出来ていないとハッキリ言いました。出来てもいないのに、『出来てる上手い』と褒める風潮に疑問を感じていた」と語る。音程も含めた音を合わせることに最も傾注したが、「音程を合わせるというのは思いやり」であると述べる。「これは師である広上淳一先生からも何度も言われたことです。相手の音を聴いて、『あれ、自分、外れてないかな』と思いやること」と、周囲の音を聴くことの重要さに触れていた。

 

アンコールの2曲目は、ドヴォルザークのスラヴ舞曲第15番であり、ステージ後方やポディウムにも管楽器奏者が登場して、大編成での演奏となるのだが、下野は指揮は自分ではなく、合奏指導を行った大谷麻由美が務めることを明かす。
「彼女(大谷)も京都市立芸術大学の出身です。愛媛県出身ですが、ミスみかんにも輝いたことのある美貌の持ち主です。(自分とは違って)スラッとしたの出てきますんで。僕はもう出てきません。さよなら!」と言って下野はステージを後にする。

 

大谷麻由美の指揮によるドヴォルザークのスラヴ舞曲第15番。
下野は大谷麻由美を「京都市立芸術大学出身」と紹介したが、実は大谷は近畿大学商経学部を卒業後に会社員として働き、三十代に入ってから指揮者を志して京都市立芸術大学に入学したという経歴の持ち主である。プロの指揮者として成功することは難度がかなり高いため、一度は諦めたが、再度挑戦という人は結構多い。日本を代表する指揮者であった朝比奈隆がそうした経歴を持つということも再挑戦組が多い理由だと思われる。下野竜也も実は高校卒業時に「中学の吹奏楽から音楽を始めたからプロの指揮者になるなんて無理だろう」ということで音大には進学せず、音楽教師を目指して地元の鹿児島大学教育学部音楽科に入るも卒業間近になっても夢を諦められず、「齋藤メソッド」の映像を何度も見て独学し、卒業後に桐朋学園大学付属指揮教室に通ったという再挑戦組である。

その大谷の音楽作りであるが、編成が大きくなったということも影響しているが、音の輪郭を上手く形作ることが出来ず、飽和状態になることが多い。やはり下野のようにはいかないようだ。強弱やニュアンスを細やかに変えることの出来る下野の実力が改めて明らかになる。下野は60年代後半生まれの日本人指揮者としてはおそらくナンバーワンであり、NHK交響楽団に可愛がられて、毎年のように大河ドラマのオープニングテーマの指揮者として指名されていたのも納得である。

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2020年12月29日 (火)

2346月日(26) 東京芸術劇場オンライン「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦――芸術と矯正の融合を目指して――」

2020年12月21日

東京芸術劇場のオンラインイベント、「ドイツ アウフブルッフによる刑務所演劇の挑戦 ――芸術と矯正の融合を目指して――」を視聴。約3時間の長丁場である。事前申し込み制で、当初定員は先着100名であったが、申し込みが多かったため、150名に増えている。

事前に、稽古やワークショップの様子や、本番のダイジェスト映像、資料などにアクセスするURLが書かれたメールが送られて来ており、それに目を通すことで、内容がわかりやすくなるようになっている。

ドイツで刑務所の受刑者に演技指導をして上演するという活動を続けているアウフブルッフ(ドイツ語で「出発」という意味)の芸術監督で舞台美術家のホルガー・ズィルベによるレクチャーと、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」にも出演していた毛利真弓(同志社大学心理学部准教授、元官民協働刑務所民間臨床心理士)による日本の刑務所で矯正のために行われている治療共同体(Therapeutic Community。頭文字を取ってTCと呼ばれる)の活動報告、そしてホルガー・ズィルベと毛利真弓の対談「矯正教育による芸術の可能性」からなるオンラインイベントである。モデレーターは、明治大学国際日本学部教授の萩原健(専門はドイツの演劇及びパフォーマンスと日本の演劇及びパフォーマンス)。

アウフブルッフは、刑務所演劇を専門に行っている団体ではなく、フリーのプロ演劇カンパニーだそうで、1996年に結成。翌1997年から刑務所演劇に取り組みようになったという。

アウフブルッフが本拠地を置くベルリン都市州は大都市ということもあって犯罪率も高めだが、「移民が多い」「教育水準の低い人が多い」「再犯率が高い」という特徴があるそうで、刑務所演劇によって再犯率が低くなればという狙いもあったようだが、演劇を行ったことで再犯率に変化があったかどうかの立証は不可能であるため、統計も取られていないようである。
「移民で教育水準が低い」と悪条件が重なった場合はドイツ語も喋れないため、犯罪に手を出す確率は高くなることは容易に想像される。また職業訓練も上手く受けられない場合も多いようだ。そうした状態にある人に芸術でのアプローチを試みたのが、ズィルベ率いるアウフブルッフである。アウフブルッフは、ドイツの他にもロシアやチリの刑務所での上演も行っているようだ。

刑務所演劇の意義として、刑務所のマイナスイメージに歯止めをかけることが挙げられる。受刑者以外で刑務所に入ったことのある人は余り多くないため、その中やそこから出てきた人に対するイメージはとにかく悪い。ただ、刑務所で受刑者が演じる演劇を観て貰うことで、両者を隔てる壁が少しだけ低くなるような効果は生まれる。少なくとも「断固拒絶すべきスティグマ」ではなくなるようである。
1997年にドイツ最大の男性刑務所であるテーゲル司法行刑施設での、「石と肉」という作品で上演が始まり、今に到るまでベルリンの全ての刑務所で公演を行ったほか、外部プロジェクトとして元受刑者で今は社会に出ている人などをキャスティングし、プロの俳優や市民と共同で上演を行う混成アンサンブルによる上演が、博物館、裁判所、教会、ベルリンの壁記念碑の前などで行われているそうである。

ちなみに小さい刑務所の場合は上演を行うスペースがないため、代わりに演劇のワークショップなどを行っているという。

キャストであるが、刑務所側が止めた場合(暴行罪や暴力癖のある人)を除くと希望者がトレーニングを受けて本番に臨むというスタイルのようである。アウフブルッフ側は敢えて受刑者の知識は入れないようにしており、罪状なども一切知らないで稽古を進めるようだ。最初は1回4時間の稽古を4~6回行い、その先に行きたい希望者向けに計300時間ほどの稽古を行うという。刑務作業以外の自由時間は全て稽古に費やす必要がある。無断欠席を3回行った場合は脱落者と見做されるそうである。

ラップや合唱など、コーラスを使った演出も特徴で(演出は全てペーター・アタナソフが行っている)、その他にもセリフの稽古、書き方のワークショップなどが音楽の練習と並行して行われる。本番は6回から14回ほど、キャパは75人から250人までだそうである。受刑者には芸術に触れた経験も興味もない人も多いため、最初は暇つぶしのために参加したり、人から勧められて参加したりと、前向きな理由で加わる人はほとんどいないそうだが、稽古を重ねるうちに社会性が高まる人もおり、更に本番では観客からの拍手を受けるのだが、それが生まれて初めての称賛だったという人も多いそうで、「人生で初めて何かを最後までやり遂げた」と感激の表情を浮かべる受刑者もかなりの数に上るそうである。これにより自信を付け、自己肯定感を得て再犯率も減り……、だといいのだが先に書いたとおり、再犯率低下に演劇が貢献しているのかどうかまではわからないようである。
ただ、刑務所に入るまでに抱き続けていた劣等感は、仮にたった一時であったとしても振り払えるため、何らかの形での再生に繋がっている可能性は否定出来ないように思う。
稽古の終わりに、毎回、キャスト全員で反省会を行い、各々の意見を述べるのだが、これも受刑者がそれまでの人生で余りやってこなかったことであり、人間関係と他者の存在とその視点を知るという意味では有意義なように思われる。

ズィルベによると犯罪者はいずれ社会復帰することになるため、社会の側も刑務所演劇を観ることで受刑者に対する新たな見方を得て彼らを受け入れるための準備をすることが出来る。そうした意味での刑務所演劇の可能性も語られた。

 

毛利真弓による刑務所の報告。「プリズン・サークル」の舞台となった島根あさひ社会復帰促進センターという半官半民の刑務所で臨床心理士をしていた毛利だが、島根あさひ社会復帰促進センターでTCを受けた人の再犯率は9.5%と、TCを受けていない人達の19.6%より優位に低かったそうである。
日本の刑務所は、あくまで収監し、懲役を行うのが主目的で、社会復帰のための教育は遅れているのが現状であり、職業訓練などはあるが、再犯防止のための教育策は基本、取られてこなかった。それでも2006年から少しだけ風向きが変わっているという。

島根あさひ社会復帰促進センターでは、アミティという海外で考え出されたプログラムを使い、イメージトレーニングや加害者と被害者を一人二役で演じる自己内対話を経て他者の視点を得る訓練、また受刑者が受刑者に教えるというシステムもあり、他者と接する機会を多く設けている。これまでの日本の刑務所は他者と触れ合うこと自体が禁じられていることも多かったため、画期的なことであったといえる。

島根あさひ社会復帰促進センターは、初犯の男性受刑者のみが収監されるが、それまでの人生で他者と向き合う機会がほとんどなかったという人も少なくなく、「他者を通して自己と向き合う」「生身の人間のリアルに触れる」ことを目標としたトレーニングが組まれているようである。

ホルガー・ズィルベが島根あさひ社会復帰促進センターの情報を得て、「社会と繋がっていないように感じる」と述べたが、やはり日本の場合、受刑者が社会と直接的な繋がりを持つのは難しいだろう。刑務所演劇の場合は、目の前で受刑者が演技を行い、終演後に観客と受刑者が会話を交わすことも許されているようだが、日本の場合は受刑者という存在に対するスティグマがかなり強いため、少なくともドイツと同様というわけにはいかないように思う。

「犯罪の加害者と上演をしているが、被害者とはどうなんだ?」という視聴者からの質問が来ていたが、被害者とは接点が持てないそうで、まず被害者同士で纏まるということもなく、接触も禁じられているため、手を打とうにも打てないようである。加害者が出演している芝居を観た被害者から一度連絡が来たことがあったそうだが、その一例だけのようである。

刑務所演劇も稽古や上演に到るまで、何ヶ月にも渡って行政と話し合いを持ったそうだが、最終的には「やってやる!」というズィルベの意志が勝ったそうで、毛利も「日本では(刑務所演劇は)難しい」ということを認めながら、「違いを超える」必要性を説いていた。

折しも、日本では第九の季節である。シラーとベートーヴェンが唱えたように「引き裂かれていたものが再び結び合わされる」力にもし演劇がなれるとしたのなら、それに携わる者としてはこの上ない喜びである。

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2020年11月 8日 (日)

これまでに観た映画より(225) メル・ギブソン&ショーン・ペン 「博士と狂人」

2020年11月5日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド合作映画「博士と狂人」を観る。久しぶりとなるスクリーン1(京都シネマは、スクリーン1、スクリーン2、スクリーン3という3つの上映空間からなっており、番号が若いほど大きい)での鑑賞となる。

言語を網羅化したものとしては世界最高峰の辞典『オックスフォード英語大辞典』編纂に纏わる実話を基にした物語の映画化。原作:サイモン・ウィンチェスター。脚本・監督:P.B.シェムラン。出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマン、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガンほか。2018年の制作である。

英語に関する単語や表現、由来や歴史などを集成した『オックスフォード英語大辞典』。19世紀に編纂が始まり、完成までに70年を要した大著であるが、その編纂初期に取材したサイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを映画化したのが、この「博士と狂人」である。サイモン・ウィンチェスターの著書は1998年に発売されたが、映画化の権利獲得に真っ先に名乗りを挙げたのがメル・ギブソンであり、当初はメル・ギブソン自身が監督する案もあったそうだが、最終的にはメル・ギブソンは主演俳優に専念することになった。構想から完成まで20年を費やした力作である。

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教師として働くジェームズ・マレー(メル・ギブゾン)は、スコットランドの仕立屋の子として生まれたが、生家が貧しかったため、14歳で学業を終えて働き始めた(先日亡くなったショーン・コネリーに生い立ちが似ている)。その後、独学で語学を学び、ヨーロッパ圏の言語ほとんどに通じる言語学の第一人者と認められるまでになるが、大学を出ていないため当然学士号は持っておらず、話し方もスコットランド訛りが強いということで白眼視する関係者もいる。『オックスフォード英語大辞典』はその名の通り、オックスフォード大学街で編纂が行われるが、マレーの案で、イギリスとアメリカ、そして当時のイギリスの植民地などに在住する英語話者からボランティアを募り、単語や言い回し、その歴史や出典などを手紙で送って貰って、それらをマレー達が中心になって取捨選択し編纂するという形を取る。その中に、一際英語に詳しい人物がいた。アメリカ出身の元軍医で、今はイギリスのバークシャー州に住むウィリアム・G・マイナー博士(ショーン・ペン)である。マレーはその住所からマイナーのことを精神病院の院長だと思い込むのだが、実際はマイナーは殺人事件を起こし、幻覚症状が酷いことから死刑を免れて刑事精神病院に措置入院させられている人物であった。マイナーは、南北戦争に軍医として従軍。敵兵の拷問に関与したのだが、その時の記憶がトラウマとなり、今では拷問を受けた人物が殺意を持って自分を追いかけてくると思い込む強迫神経症に陥っていた。敵が自分を監視していると思い込んだマイナーは、その場を通りかかったジョージ・メレットを誤認識し、射殺してしまっていたのだ。精神病院でもマイナーは幻覚に苛まれる(後に統合失調症との診断が下る)。

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マイナーが実は精神病患者で殺人犯だと気付いたマレーだが、学識豊かなマイナーと英語に関する知識を交換し、すぐに友情で結ばれるようになる。二人のやり取りは、これまで互いに理想としてきた人物との邂逅の喜びに溢れていた。
『オックスフォード大辞典』の第1巻が完成し、その功績によりマレーは言語学の博士号を送られ、正式な博士となる。
だが、アメリカ人の殺人犯が権威ある英語辞典の編纂に関与していることが知られてスキャンダルとなり、マイナーの病状も徐々に悪化して、異様な行動も目立つようになる。

『オックスフォード英語大辞典』編纂の物語ということで、派手な展開ではないが、しっかりとした構造を持つヒューマンドラマに仕上がっている。マレーとマイナーの友情の物語、またメレット夫人(イライザ・メレット。演じるのはナタリー・ドーマン)とマイナーとの男女の物語が平行して進むのだが、文盲であったメレット夫人がマイナーの指導によって読み書きの能力を身につけていく過程は、メレット夫人の成長とマイナーとの歩み寄りの物語でもある。「許すとは何か」がここで問い掛けられている。メレット夫人を単なる悲劇のヒロインや復讐に燃える女性としないところも良い(マイナーとメレット夫人のシーンはフィクションの部分が多いようだが)。

単にヒューマンドラマとして観てもいいのだが、マレーがスコットランド出身であることや学歴がないことで見下されたり、追い落とされそうになるところ、またマイナーがアメリカ人で(今でこそイギリスとアメリカではアメリカの方が優位だが、19世紀当時のアメリカは「ヨーロッパの落ちこぼれが作った未開の国」でイギリスへの裏切り者というイメージだった)しかも精神病に冒されているということで異端視されるなど、差別と偏見がしっかりと描かれている。こうした傾向は、19世紀よりはましになったが、今に到るまで続く問題であり、単なる「知られざる偉人の物語」としていないところに奥行きが感じられる。

ちなみに、若き日のウィンストン・チャーチルが登場する場面がある。世界史好きの方はご存じだと思われるが、チャーチルも生涯に渡って精神病に悩まされた人物であった。実際に映画で描かれているようなことがあったのかどうかは分からないが、ある意味、象徴的な役割を果たしている。

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2020年10月 2日 (金)

YouTubeLive「ポーランド・フェスティバル2020 ONLINE」(アーカイブ動画掲載)

2020年9月26日

午前11時から、YouTubeLiveで、「ポーランド・フェスティバル2020 ONLINE」が配信されるので見てみる。

毎年、東京で行われているポーランド・フェスティバルであるが、今年はコロナのために配信で行われることになった。ポーランド・フェスティバルには興味があるのだが、そのために東京に行くわけにもいかず、しかも私がポーランドについて興味があるのは主に映画と音楽であり、他のことに興味が持てるからどうかの自信もない。
というわけで行くに行けないという状態だったのだが、今年は配信となったので家にいながら色々と楽しむことが出来た。

まず、簡単なポーランド語講座があるのだが、どうにも覚えられそうにない。語学の才能のある人はちょっと目にするだけで単語や言葉を記憶出来たりするのだが(私の場合は物語的な記憶はかなり強いが、単純暗記は向いていない)、私の場合はアルファベットを使った言語というだけでお手上げになってしまう。「そのまま読む」とのことだったが、どう見ても変則的な読みをしているようにしか見えない。
ユダヤ系ポーランド人のザメンホフは、英語を学習してその余りの簡単さに驚き、ルールを簡約化した言語は作れるということでエスペラントを生み出した。だが、私の場合は英語は全く出来ないため、英語が簡単だと思う感覚がわからない。ポーランド語はスラブ系の言語ということで怖ろしく複雑だと思われ、私では入り口に立つことさえ出来ないだろう。


続いて、ポーランドの絵本朗読のコーナー。「ミツバチのはなし」という邦訳も出ている(3千円以上するのでちょっと高い)絵本を、ポーランド語と日本語で同一内容を交互に朗読していく。
ミツバチが恐竜の時代よりも以前から地球に存在したという話に始まり、元々はスズメバチなどと同様、肉食だったと思われるのだが、花粉を運ぶ役割を虫に託していた花々の計略(?)により、蜜を吸って花から花へと移ることで花粉を運ぶ役割を担うのと同時に主食も変わって食糧事情が安定するという、花とミツバチにとってWin-Winの関係に変わったことなどが語られる(あくまでも一つの説だと思われるが)。
その他に蜂蜜の種類が紹介されたり、宗教方面に蜂蜜が影響したことなど、興味深い内容が盛り込まれている。元々、大人も子どもも楽しめる絵本として書かれたもののようだ。


ポーランドシベリア孤児100年の話。100年前、日本の敦賀港にシベリアからポーランド系の孤児達がたどり着いた。1920年、ロシア革命が起こった3年後である。中世には強国であったポーランドだが、その後は他国に侵略される歴史を繰り返す。
20世紀前半にはポーランド独立のためにロシアで活動していた人々が政治犯としてシベリア流刑となっていた。その後、第一次世界大戦でポーランドはドイツとロシアとが戦う戦場となったため、シベリアに逃げてきた人もそれに加わり、シベリア移民は一説には20万人にも達したという。シベリアでの生活は苦しく、特に孤児となった子ども達への救助要請が出されたのだが、それを受けたのが日本赤十字社であったという。孤児達の受け入れには今も東京都渋谷区広尾にある福田(ふくでん)会という育児院が大きな役割を果たしたということである。


ずっと見ているわけにも行かないので、その後は配信を離れたが、ポーランド国立民族舞踊合唱団「シロンスク」の新作上演の紹介と、ポーランド映画祭の話が行われる時間にパソコンに前に戻る。
私は昨年、「シロンスク」の公演を大阪のフェスティバルホールで観ており、昨年は京都でも行われたポーランド映画祭も同志社大学寒梅館と出町座で作品を目にしている。

ポーランド映画祭は今年は東京のみで行われるようだが、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の大作「デカローグ」が上演されるようだ。また、昨年は同志社大学寒梅館クローバーホールでの「バリエラ」上映の前に舞台挨拶を行ったイエジー・スコリモフスキ監督もビデオレターでの出演を果たす。ビデオレターは急遽届いたものだという。

「シロンスク」は、昨年の日本ツアーではポーランドの伝統舞踊を中止とした公演を行ったが、今年は一転してコンテンポラリーダンスで別の面を披露する予定だったという。残念ながらコロナで来日公演は出来なくなってしまったが、収録録された映像を東京、大阪を始め、札幌など日本各地で上映する計画があるそうだ。予告編はすでに出来上がっていたので流されたが、シャープで格好いいダンスである。


昨年の「シロンスク」では、日本でもお馴染みのポーランド民謡「森へ行きましょう」が歌われていたが、ポーランド語の発音を片仮名にしたものを字幕として出し、みんなで歌うというコーナーも設けられている。配信なので合唱にはならないわけだが、参加しやすい試みになっていたように思う。

その後、グルメなどの話になるのだが、あんまり興味はないのでパソコンの前から離れ、ポーランドのクラクフとワルシャワからの映像が流れる午後6時30分からのコーナーが始まるまで待つ。

「ポーランドの京都」に例えられることがある古都・クラクフからの生中継。留学してクラクフで学ぶ日本人の女性や、日本について学んでいるポーランド人女子大学生などが出演する。クラクフには日本美術技術“マンガ”館があり、そこからの配信である。日本人留学生である女性が、アンジェイ・ワイダ監督が、ウッジ映画大学に転学する前にクラクフ美術大学で日本画の影響を受けた絵を描いていたという話をして、美術技術館に展示されているワイダ監督が若い頃に描いた絵を紹介するのだが、スタッフが小声で言った言葉をそのまま繰り返していることが分かるため、かなり頼りない。まあ、芸能活動などを行っていない一般的女子大生のレポート能力はこんなものだと思われるが。

そしてワルシャワの映像。こちらは収録されたものである。ポーランドが生んだ世界的作曲家、フレデリック・フランソワ・ショパンゆかりの地を訪ねるというもので、合間にはショパンのピアノ曲も演奏された。

「ポーランド・フェスティバル2020 ON-LINE 」は、来年の6月頃までアーカイブを残す予定だという。


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2019年11月16日 (土)

美術回廊(44) 大丸ミュージアム京都 「かこさとしの世界」展

2019年11月11日 大丸京都店6階大丸ミュージアム京都にて

大丸京都店6階の大丸ミュージアム京都で、「かこさとしの世界」展を観る。
昨年、92歳で亡くなった日本を代表する絵本作家であるかこさとし(加古里子。本名:中島哲)の絵本原画を集めた展覧会。私も子どもの頃は、毎週図書館でかこさとしの絵本を借りてきて、夢中で読んだものである。

 

1926年、福井県武生(現在の越前市)に生まれたかこさとし。幼い頃から画才を発揮。大日本帝国に尽くそうと、パイロットを目指すが、視力が悪いために断念。ならば技術力で貢献しようと東京帝国大学工学部に入学するが、在学中に敗戦を迎える。復学して、新制となった東京大学を卒業し、大手企業の社員というエリートとなったかこだが、戦争に協力しようとした愚かさを恥じ、自分のような過ちを犯さないよう子ども達を導こうとの思いから、セツルメントの一環として川崎市内の自宅のそばの公園で紙芝居上演を始め、その後、絵本作家に転じている。

入ってすぐの所にモニターが設置してあり、かこが子ども相手の紙芝居を始めた頃のエピソードなどを語る映像が流れている。約20分の映像であるが、全部見てみる。さしものかこでもすぐに子どもの心を捉えられたというわけではなく、最初は紙芝居を始めても、一人去り、二人去り、すぐそばの多摩川で虫取り遊びに興じ始めるということが普通の状態であったが、次第に子ども達の心を掴むようになる。上演された紙芝居の中には「どろぼうがっこう」の原型となる作品もあったようだ。

「からすのパン屋さん」シリーズは、どちらかといえば嫌われ者であるカラスを主人公にしている。カラスの賢さに注目し、水平の眼差しを忘れなかったかこらしい着想でもある。

京都の四季を題材にした作品もあり、かこの目を通した、葵祭、祇園祭、時代祭の京都三大祭を描いた絵を京都で楽しめるの趣がある。

 

絵本の他に、子ども達に科学を教えるために描いた絵もある。東京大学工学部応用化学科などで学んだ理系の知識が生かされているようだ。
また子ども達に芸術を教えるために描かれた絵本もある。絵画と彫刻の各1冊ずつで、ダヴィンチ、ピカソ、葛飾北斎、ミケランジェロ、ロダンのなどの作品がわかりやすく解説されており、大人が読んでも大変勉強になる。絵は有名だが名前をそれほど知られていない「ヴォルガの船引」のイリヤ・レーピンを取り上げているのもかこらしいといえる。前を見据えている一人の青年の姿は、まさに未来ある子ども達の理想そのものだ。

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