カテゴリー「朗読劇」の16件の記事

2022年2月21日 (月)

観劇感想精選(427) 文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」@びわ湖ホール

2022年2月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」を観る。作:アントン・チェーホフ、台本・演出:松本修(MODE)。

滋賀県が、令和2年3月に作成した「滋賀県障害者文化芸術活動推進計画」に基づいて行われる、「障害のある人やない人、年齢のちがう人、話す言葉がちがう人など、さまざまな人が支えあうことで、だれもが自分らしく活躍できる滋賀県をつくる」ために発足した「文化芸術×共生社会プロジェクト」の一つとして行われる公演である。

出演者は、数人のプロフェッショナルや演技経験者を除き、オーディションで選ばれたキャストによって行われる。オーディションは、演技経験や障害の有無を問わずに行われ、約3ヶ月の稽古を経て本番を迎える。一つの役に複数の俳優(読み手)が扮し、幕ごとに役が交代となる。朗読劇であるが、座ったまま読むだけでなく、立ち上がって動きを付けたり、経験豊富な俳優は一般上演さながらの演技も行う。

出演は、花房勇人、吉田優、保井陽高、山下佐和子(以上、トレープレフ)、木下菜穂子(元俳優座)、齋藤佳津子、住田玲子(以上、アルカージナ)、廣田誠一、江嶋純吉、山口和也(以上、トリゴーリン)、平川美夏、高木帆乃花、服部千笑、西田聖(以上、ニーナ)、大辻凜、西山あずさ、飯田梨夏子、伊東瑛留(以上、マーシャ)、大田新子、梅下節瑠、横田明子、藤野夏子(以上、ポリーナ)、孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)、小田実(以上、シャムラーエフ)、布浦真(ドールン)、清水亮輔、佐藤海斗(以上、メドヴェージェンコ)、HERO、森川稔(以上、ソーリン)。
ナレーター:孫高宏&清水洋子。ピアノ演奏:松園洋二。松園は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」などのロシア音楽を中心に演奏。第4幕のトレープレフが舞台裏でピアノを弾くという設定の場面では、ショパンの夜想曲第20番(遺作)を奏でた。

聴覚障害者のため、舞台下手側で手話通訳があり、背後のスクリーンにもセリフが字幕で浮かぶ。また視覚障害者のためには、点字によるパンフレットが配布された。

湖のほとりを舞台とした芝居であるチェーホフの「かもめ」。それに相応しい湖畔の劇場であるびわ湖ホール中ホールでの上演である。
また、スクリーンには、滋賀県内各地で撮られた琵琶湖の写真が投影され、雰囲気豊かである。

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新劇の王道作品の一つである「かもめ」であるが、接する機会は思いのほか少なく、論外である地点の公演を除けば、新国立劇場小劇場で観たマキノノゾミ演出の公演(北村有起哉のトレープレフ、田中美里のニーナ)、今はなきシアターBRAVA!で観た蜷川幸雄演出の公演(藤原竜也のトレープレフ、美波のニーナ)の2回だけ。マキノノゾミ演出版はそれなりに良かったが、蜷川幸雄演出版は主役の藤原竜也が文学青年にはどうしても見えないということもあり、あらすじをなぞっただけの公演となっていて、失敗であった。蜷川は文芸ものをかなり苦手としていたが、「かもめ」も省略が多いだけに、表現意欲が大き過ぎると空回りすることになる。

今回の「かもめ」であるが、演技経験を問わずに選ばれたキャストだけに、発声などの弱さはあったが(字幕があったためになんと言ったか分かったことが何度もあった)、きちんとテキストと向き合ったことで、セリフそのものが持つ良さがダイレクトに届きやすいという点はかなり評価されるべきだと思う。テキストそのものに力があるだけに、余計なことをしなければ、「かもめ」は「かもめ」らしい上演になる。第4幕などはかなり感動的である。涙が出たが、人前で泣くのは嫌いなので指で拭って誤魔化した。


「かもめ」は、「余計者」の系譜に入る作品である。主人公のコンスタンチン・トレープレフは、有名舞台女優のアルカージナの息子であり、教養も高く、天分にもそれなりに恵まれた青年であるが、これといってやることがなく、日々を無為に過ごしている。彼が湖畔の仮設舞台で、ニーナを出演者として上演した演劇作品は、生き物が全くいなくなった世界で、それまでの生物の魂が一つになるという、先端的な思想を取り入れたものであり、観念的であるが、注意深く内容を探ってみると、トレープレフ本人が他の多くの人間よりも優れているという自負を持って書いたものであることが分かる。トレープレフが凡人を見下したセリフは実際に第3幕で吐かれる。トレープレフは、恋人であるニーナも当然ながら見下している。大した才能もないのに女優を夢見る世間知らずのお嬢ちゃん。おそらくそう受け止めていただろう。

「かもめ」でよく指摘されるのが、片思いの連鎖である。トレープレフはニーナと恋人関係にあるが、ニーナはトレープレフよりも売れっ子作家であるトリゴーリンへと傾いていく。管理人であるシャムラーエフとポリーナの娘であるマーシャはトレープレフのことが好きだが、トレープレフはマーシャの行為を受け容れないどころか迷惑がっている。そんなマーシャを愛しているのが、目の前の事柄にしか注意が向かない、教師のメドヴェージェンコである。マーシャはトレープレフの芸術気質に惚れているので、当然ながら給料が足りないだの煙草代が必要だのとシミ垂れたことをいうメドヴェージェンコのことは好みではない。

通常は、「片思いの連鎖」という状況の理解だけで終わってしまう人が多いのだが、それが生み出すのは壮絶なまでの孤独である。分かって欲しい人、その人だけ分かってくれれば十分な人から、分かっては貰えないのである。
トレープレフは、女優である母親から自作を理解されず(トレープレフがエディプスコンプレックスの持ち主であることは、直接的には関係のない場面でさりげなく示唆される)、ニーナもトリゴーリンの下へと走る。ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに出たはいいが、トリゴーリンは文学には関心があるものの演劇は見下しており、あっけなく捨てられる。マーシャは結局はメドヴェージェンコと結婚するのだが、その後もメドヴェージェンコを完全に受け容れてはおらず、トレープレフに未練がある。

そうした状況の中で、トレープレフは作家としてデビューすることになるのだが、評価は決して高くなく、中島敦の小説の主人公達のように「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にさいなまれている。作家にはなったが成長出来ていない。相変わらず他人を見下しているが、その根拠がないことに自身でも気付いている。
そこにニーナがふらりと訪ねてくる。同じ町に宿泊していたのだが、会いたくてなんどもトレープレフの家に足を運んでいたのだ(かつて自身がトレープレフの台本で演じた仮説舞台で泣いていたのをメドヴェージェンコに見られていたが、メドヴェージェンコはそれを幽霊か何かだと勘違いしていた)。
一時、追っかけのようなことをしていたため、ニーナの演技力について知っていたトレープレフは、相変わらずの何も分からない女の子だと、ニーナのことを見なしていた。それは一種の、そして真の愛情でもある。少なくとも劇の始まりから終わりに至るまで、彼がニーナを愛していない時間などただの1秒もないのであるが、至らない女性であるニーナは自分の下に戻ってくると高をくくっていたかも知れない。
だが、目の前に現れたニーナは、精神的に追い詰められていたが、自立した女性へと変身していた。トレープレフはいつの間にか追い抜かれていたのである。そして自分より上になったニーナはもう自分のものにはならない。こうなると小説家になったのもなんのためだったのか分からなくなる。

ロシアの「余計者」文学の系譜、例えばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン(私が読んだ岩波文庫版のタイトルは『オネーギン』)』などでもそうだが、当初は見下してた女性が、気がついたら手の届かない存在になっており、絶望するというパターンが何度も見られる。余計者であるが故の鬱屈とプライドの高さが生む悲惨な結末が、男女関係という形で現れるからだろうか。他の国の文学には余り見られないパターンであるため不思議に感じる(相手にしなかった男が出世しているという逆のパターンは良くあるのだが)。
ただ言えるのは、それが遠のいた青春の象徴であるということある。あらゆる夢が詰まっていた青春時代。多くの選択肢に溢れていたように「見えた」季節の終わりを、観る者に突きつける。その胸をえぐられるような感覚は、多くの人が感じてきたはずのことである。

庶民を主人公としたために初演が大失敗に終わった「かもめ」。だが、我々現代人は登場人物達の中に自身の姿を発見する。そうした劇であるだけに、「かもめ」は不滅の命を与えられているといえる。

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2021年12月23日 (木)

上七軒文庫ツイキャス配信「おはなしLeiture」vol.2

2021年11月14日

午後1時30分から、上七軒文庫のツイキャスでの配信「おはなしLeiture」vol.2を観る。
お話と絵、朗読による物語配信である。
原作:るか子。音楽:法太。朗読:鹿田ひさこ、田ノ口リコ、東村洋子。着付け協力:中村千佳子。イラストは田ノ口リコが兼任する。

泉鏡花や芥川龍之介や内田百閒の短編小説を彷彿とさせる、秋から冬にかけてのノスタルジックで不思議なお話全13編からなる配信公演。明治時代に造られた町家である上七軒文庫からの配信に相応しい内容である。配信のみではなく、上七軒文庫を会場にした公演も行えるなら建物自体の雰囲気にもマッチしてより良いものになりそうだが、その場合は上演のスタイルを変えないといけないため(絵は、ボードの上に置かれたものがクローズアップされる。会場での公演の場合は、それをモニターに映す必要があるが、臨場感は却って出にくいかも知れない)難しいだろう。
ともあれ、長い歴史と底知れぬ深さを持つ関西という場所を中心とした、迷宮を彷徨うような物語は、子供からお年寄りまで、多くの視聴者の琴線に触れるものであることは間違いない。多くの歴史や記憶が積み重なった重層都市である京都。そこで紡がれて送り届けられる物語には抗いがたい魅力がある。

これらの作品の絵本バージョンも読んでみたくなる公演内容であった。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年7月 4日 (日)

コンサートの記(727) 京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」

2021年6月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」を聴く。

緊急事態宣言発出のため、4月25日から5月31日まで臨時休館していたロームシアター京都。今日の公演が再スタートとなる。

京都市出身の芥川賞受賞作家である藤野可織と京都市交響楽団によるコラボレーション。藤野の新作小説の朗読と、パリゆかりの作曲家の作品による新たな表現が模索される。指揮は三ツ橋敬子。

朗読を担当するのはAKB48出身の川栄李奈であるが、企画発表時には出演者はまだ決まっておらず、しばらく経ってから川栄の出演が公にされた。

演奏曲目は、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第1曲〈プレリュード〉、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「カルタ遊び」より抜粋、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈夜への前奏曲〉、シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第2曲〈フォルラーヌ〉、サティ作曲ドビュッシー編曲の「ジムノペディ」第2番(表記の揺れのある楽曲で、ここではピアノ版のジムノペディ第1番のオーケストラ用編曲を指す)、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈マラゲーニャ〉、ドビュッシーの「夜想曲」より〈雲〉、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。シベリウスを除いて、パリゆかりの作曲家の作品が並んでいる。


藤野可織は、1980年、京都市生まれの小説家。同志社大学文学部卒業、同大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了とずっと京都市で生きてきた人である。大学院修了後は、京都市内にある出版社でのアルバイトをこなしながら小説の執筆を開始。2006年に「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞し、2013年には「爪と目」で第149回芥川賞を受賞。2014年には『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞を受賞している。
藤野は、今回の企画を持ちかけられてから、初めてロームシアター京都メインホールを訪れたそうで、4階席から舞台を見下ろした時に作品の構想を得たようである。


今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。シベリウスの「悲しきワルツ」演奏後に20分の休憩が入るが、出演者は見た限りでは前半後半ともに変わらない。首席クラリネット奏者の小谷口直子は今日は降り番。他の管楽器パートは首席奏者がほぼ顔を揃えている。

藤野可織の「ねむらないひめたち」は、9歳の少女を主人公とした作品で、新型コロナウイルス流行に絡めた「昏睡病」がまん延する近未来の話である。近未来ではスマートフォンではなくスマート眼鏡というもので情報をやり取りするようになっており、パソコンはまだ用いられているが、キーボードはバーチャルのものに置き換わっているようである。
なお、「ねむらないひめたち」のテキストは、「新潮」7月号に掲載されている。「新潮」7月号には野田秀樹の新作戯曲「フェイクスピア」も載ってるため、舞台芸術好きにはお薦めであるが、野田秀樹の戯曲は多くの場合、上演よりもテキストの方が勝ってしまうため、観る予定のある方は、舞台を鑑賞後にテキストを読むことを勧めたい。

上演前にまず藤野可織が登場して挨拶を行い、この作品が朗読とオーケストラが奏でる音楽とが一体となったものであるため、曲ごとの拍手はご遠慮頂きたい旨を述べる。京都市の生まれ育ちということで、柔らかな京言葉で話し、雅やかな印象を受ける。おそらくこうした話し方や雰囲気を「はんなり」と言うのだと思われる。

京都市交響楽団に客演する機会も多い三ツ橋敬子。バトンテクニックの高い非常に器用な指揮者だが、今に至るまでオーケストラのポストは得られないでいる。平均点の高いタイプながら、何が得意なのか分からない指揮者でもあったが、これまで聴いた限りでは、現代音楽、モーツァルトなどで好演を示しており、フランスものも合っているようである。

朗読担当の川栄李奈。AKB48在籍中は、お勉強が不得意なお馬鹿キャラとして知られたが、握手会で襲撃されて負傷。トラウマにより「握手会にはもう出られない」としてAKBを卒業した。その直後から本格的な女優活動に入るが、CMや映画、テレビドラマなどで、「あのお馬鹿キャラの川栄」とは思えないほどの才気煥発ぶりを発揮。上り調子の時にできちゃった結婚で休業に入ってしまい、「ああ、やっぱり」と思わせたりもしたが、復帰後も活躍はめざましく、大河ドラマ「青天を衝け」に一橋慶喜正室の美賀君役で出演し、怪演を展開中。次期NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のヒロインの一人を演じることも決まっている。女優は天職なのだろう。
声優としても活動しており、映画「きみと、波にのれたら」では主演声優を務めている。

舞台後方にスクリーンがあり、三好愛のイラストと、藤野可織の「ねむらないひめたち」のテキストが映し出される。

主人公の「あたし」は、タワーマンションの37階に住んでいる。年齢は9歳で、今年13歳になる姉がいる。
姉妹が両親と住むマンションの部屋にはバルコニーがあるのだが、バルコニーにはいつも嵐のような強風が吹き荒れており、母親は、「嵐はすごく危険」「だからバルコニーには出ちゃいけません」と言う。だが、姉妹は学校から帰るとバルコニーに出て、姉は双眼鏡で外を覗き、妹のあたしは機関銃タイプの水鉄砲で姉が指示した人物に向かって狙撃を行った。「射殺」したのだが、当然ながら水鉄砲で人は殺せない。殺し屋ごっこである。マンションの周りには様々なタイプの人がいたが、スパイだの異星人だの、不思議な人々もいる。もっとも、これは姉の見立てによるもので、実際にスパイや異星人がいた訳ではないと思われる。

そうしているうちに、人々が昏睡状態になるという謎の病が流行し、人々は感染を避けるため外出せずに家に籠もるようになる。姉妹が通う学校も休校になり、両親もリモートワークでいつも家にいるようになる。両親は姉妹に好きなだけ映画を観ることを許可し、姉妹は、暗殺者ものの映画を観まくるようになる。だが、予想に反して暗殺者達の仕事そのものよりもロマンスに焦点を当てた作品が多いことに気づく。
やがて両親が昏睡病に感染。砂色の飴で覆われたようにコチコチに固まってしまう。
あたしは、新たにアカウントを開設。「ソラコ」という名で自撮りの写真などを載せたが、誤って住所も見えるように載せてしまったため、奇妙な男達が何人も「君を助けたい」と言ってタワーマンションの下までやって来るようになる。姉妹は、カップアンドソーサーのカップやジャムの瓶などをバルコニーから落とすことで彼らを次々に殺していき……。


選ばれた楽曲を見ると、「死」に直結するイメージをもった作品が多いことに気づく。
射殺ごっこが、本物の殺人へと変わり、映画で観るような暗殺者の恋愛の代わりに、異様な人々の来訪があるという展開が高度に情報化された現実社会の不気味さを表しているかのようである。
やがて舞台はコンサートホールの4階席へと移り、未来への希望と不信がない交ぜになったまま再び殺し屋としての社会との対峙が始まる。

設定が近未来ということで、不思議な話が展開されるが、外部の危機的状況とそんな中でもネット上や現実社会で繰り広げられる不穏さが描かれている。そんな中で未来の夢や漠然とした期待に浸ることなく目の前を見つめ続けること、今を生き続けることと、引いては小説を書くことの意義が仄かに浮かび上がる。


川栄李奈の朗読であるが、予想よりも遙かに上手い。地の文とセリフの使い分け、感情の描き分け、抑揚やメリハリの付け方などが巧みで、声自体も美しい。女優の朗読に接する機会は多くはないながらもあるが、少なくともこれまでに聴いた二十代の女優の中ではトップだと思われる。全身が表現力に満ちあふれており、表現者としてのエネルギーやパワーの総体が同世代の他の女優よりも大きいことが察せられる。やはりこの人は女優が天職なのであろう。

三ツ橋敬子指揮する京都市交響楽団も煌びやかな演奏を展開。ドビュッシーやラヴェルの音楽ということで、浮遊感や典雅さの表現が重要になるが、これも十分にクリアしている。後は奥行きだが、これは更に年齢を重ねないと表出は難しいようにも感じる。


本編終了後にアフタートークがある。司会は、京都市交響楽団からロームシアター京都の音楽事業担当部長に異動になった柴田智靖。三ツ橋敬子、藤野可織、川栄李奈、会田莉凡の女性4人が参加する。

曲目は、ロームシアター京都から提案されたものが中心だったようだが、三ツ橋敬子は、普段余りフランス音楽を演奏しない京都市交響楽団で、元々別の物語性を持つ音楽を奏でることの難しさを語った。ちなみにリハーサル時と本番とではオーケストラの色彩が大きく異なっていたため驚いたそうである。

藤野可織は、小説家の仕事は自己完結であるが、こうしてオーケストラとのコラボレーションという協働作業の機会を得られたことへの面白さを語る。ちなみに司会の柴田は、表現したかったことを藤野に聞いていたが、「それを小説家に聞いちゃ駄目でしょ」と思う。

川栄李奈は朗読で緊張したことを語り、手の汗でページがめくれないんじゃないかとヒヤヒヤしたことを打ち明ける。また、個人的に京都の街が大好きだそうで、お土産をいっぱい買って帰りたいと笑顔で話していた。

会田莉凡も、京都市交響楽団でフランス音楽の演奏を行う難しさと新型コロナ流行下での演奏活動の困難さを語り、更には京都市交響楽団の活動の宣伝も忘れなかった。

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2020年10月31日 (土)

観劇感想精選(362) 森山未來リーディングパフォーマンス『「見えない/見える」ことについての考察』

2020年10月27日 阪神尼崎駅近くのあましんアルカイックホール・オクトにて観劇

尼崎へ。午後7時30分から、あましんアルカイックホール・オクトで、森山未來のリーディングパフォーマンス公演「『見えない/見える』ことについての考察」を観る。関西出身の森山未來による全国ツアーであるが、関西公演はフェニーチェ堺と、あましんアルカイックホール・オクトの2カ所で行われることになった。森山未來はロームシアター京都でもダンス公演に出演しているが、残念ながら今回は京都公演はなしである。初演は2017年で、この時は東京芸術大学上野キャンパス内のみでの公演となったが、森山未來初のソロ全国ツアー作品として再演が行われることになった。

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(翻訳:雨沢泰。河出書房新社)とモーリス・ブランショの『白日の狂気』(翻訳:田中淳一ほか。朝日出版社)をテキストに用いているが、断片的であり、新型コロナウイルスの流行の喩えとして用いられていることがわかるようになっている。演出と振付は森山未來自身が担当する。企画・キュレーションは、長谷川祐子(東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科教授)。

あましんアルカイックホール・オクトのコロナ対策であるが、チケットの半券に名前と電話番号を記入。兵庫県独自の追跡サービス(メールを用いるものとLINEを使ったものの二種類)への登録も強制ではないが勧められているようである。今回は整理番号順による全席自由(午後7時開場)で、友人や夫婦同士で隣に座ったとしても一向に構わないようになっている。入場時に検温があり、手指の消毒が求められる。

客層であるが、当然というべきか、女性客が大半である。また余り積極的に宣伝がされていなかったためか、あるいは規制のためか、観客はそれほど多くはない。

入場口で音声ガイドが配られる。片耳に引っかけるタイプのイヤホンであるが、セリフや音楽などが流れ、劇場内でも他のセリフや音楽が鳴っているためラジオの混線のような効果が生まれている。

間に15分ほどの休憩を挟む二部構成の作品であり、共に上演時間30分ほどだが、第2部は第1部を手法を変えて繰り返すという形態が選ばれていた。第1部では森山未來がマイクを使って語ったセリフが、第2部ではマイクを使わずに発せられたり、その場で発せられていたセリフが録音になっていたり、その逆であったりと、中身はほぼ同じなのだが、伝達の仕方が異なる。これによって重層性が生まれると同時に、同じセリフであっても印象が異なることを実感出来るよう計算されている。

 

話は、ある男が、車を運転していた時に視力を失うという事件で始まる。視野が暗闇ではなく真っ白になり、まるで「ミルクの海」の飲み込まれたかのようと例えられる。同じ日に、子どもと16歳の売春婦が視界が白くなる病に冒され、病院に運ばれてきた。眼科医は、「失明は伝染しない。死がそうであるように。だが誰でもいつかは死ぬんだけどね」

だが、白の失明は蔓延するようになり、罹患した者はことごとく隔離される。他の多くの伝染病でも同様の措置がなされて来たわけだが、パンデミックを題材にしたテキストということで、新型コロナウイルスの騒動を直接想起させる形となっている。

断片的であるため分かりにくいが、戒厳令が敷かれ、軍部にも罹患する人が現れ、殺害事件まで起こり、それに反対する人々が反乱を起こすという展開になる。新型コロナでも似たようなことが起こっており、新型コロナ以外でもやはり同じようなことは起こっている。

第1部では、「見えなくなった? 見えなくなったっていつから? 最初から見えなかったんじゃないの? 私は最初から見えない状態で見ていた」というセリフが印象的である。コロナでも盲目的な行動が確認されたことは記憶に新しいが、新型コロナが蔓延してから急に人間性や国民性が変わったということではなく、今まで意識されていなかったことが可視化出来るようになったということである。同時にこれまで当たり前と思ったことが闇に飲み込まれ、見えなくなってしまっていたりもする。そうしたことは史上何度も起こってきたのだが、それでも変われないほど人間は愚かしく、世界は単純にして複雑である。
あましんアルカイックホール・オクトのエントランスで撮られた写真や上演中に撮影された客席の写真がスクリーンに映り、今行われているパフォーマンスが他人事ではないことが示唆される。

iPhoneを始めとするスマホの着信音が鳴り、その中で森山未來が踊る。情報化社会の中でもがき、サーバイブする姿のようだ。
それとは対称的に、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリアが音声ガイドから流れ、高雅にして悲痛なダンスがダイナミックに展開されたりもした。

第2部でも音楽は同じだが、ストーリーの結末は異なる。ストーリーと書いたが、「物語はやめてくれ」というセリフがある。今のこの状況は危険な物語に溢れている。
「街はあった」という救いともそうでないとも取れる言葉でパフォーマンスは終わるのであるが、容易に答えが出せないというのもまさに「今」であると思える。人智を超えた状況であり、本来はそのことに恐怖すべきなのだが、なぜか国同士や人種間もしくは同じ人種同士で争いが起こってしまっており、これまた妙な状況を生んでしまっている。生んでしまっているというより曖昧だったものがはっきり見えるようになってしまったというべきか。全ては「無知」が原因なのだが、人類はそれに対して謙虚になれないでいる。バッハはおそらく「己を超えた存在」に対して謙虚であった人物だと思われるが。

構成が良く、テキストや展開が抽象的であるのもまた良く、森山未來のキレのあるダンスが間近で見られて、見終わった後でも考えさせられる。これは観ておくべき公演だったと思う。

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2020年8月19日 (水)

配信公演 「女々しき力プロジェクト」序章 オフィス3○○(さんじゅうまる)リーディング公演「片づけたい女たち」

2020年8月10日 東京都杉並区の座・高円寺1からの配信

午後3時から、e+のStreaming+で、オフィス3○○のリーディング公演「片づけたい女たち」のオンライン生配信を観る。永井愛の本を渡辺えり子が演出。出演は、3軒茶屋特別婦人会(笹井英介、深沢敦、大谷亮介)。ト書き朗読&ウクレレ演奏:草野とおる。ヴァイオリン演奏:会田桃子、ダブルベース演奏:川本悠自。東京都杉並区にある座・高円寺1での上演である。

高校時代、女子バスケットボール部の同期部員だった3人の50代の女性が主人公である。
舞台はツンコ(深沢敦)が住むデザイナーズマンション。そこに、おチョビ(笹井英介)とバツミ(大谷亮介)が訪ねてくる。元々片付けが苦手なツンコであったが、おチョビとバツミが部屋に入るとものが山積みになっており、二人は驚く。
片づけられない性質であることをバツミは、なんとかいう精神病の一種(ADHDのことだと思われる。実際、『片づけられない女たち』というADHDに取材したサリ・ソルデン著、ニキリンコ翻訳の本がベストセラーになっており、この舞台作品も同著作に影響を受けて書かれたものだと思われる)だと説明し始めるが、これはこの作品においてはメインのストーリーには絡まない。話は片づけ続けることによって掘り起こされる様々な思い出と、過去の呪縛のようなものである。

とにかく部屋がとっちらかっているので、どこに何を分類しなければならないか、から始めるのだが、高校の同級生で50を待たずに亡くなった人が把握しているだけで15人以上いるという話になる。病気、自殺など死因は様々だが、高校時代は健康と元気の塊だったような男性がもう他界しており、クラス一の美女で玉の輿間違いなしと思われていた千代美も不幸が重なり、もうこの世の人ではない。
だが、この千代美という女性、美貌が災いして、女子バスケットボール部の顧問から今でいうセクハラを受けていたのだが、女子バスケットボール部の部員全員が、それを見て見ぬ振りをしていた。そのことについて、「どうしようもなかったのよ」「あの頃はセクハラなんて言葉もなかったし」と正当化しようとするが、「見て見ぬ振り」をしていたことが、引っかかりを生む。

バツミは主婦、おチョビは夫と共に場末の食堂を経営しているが、ツンコは現役の会社員である。同僚の女性社員でライバルでもあった稲竹(いなたけ)さんに先を越される形になっていたが、その後、稲竹さんを巡る意外な事実が、ツンコの心を波立たせていることがわかる。

ツンコの部屋のドアの隙間に、ある日こんなことが書かれた紙が挟んであった。「あなたの犯した誰にも告発されない罪を私は心底軽蔑します」。ツンコは紙に文章を書いてドアの隙間に挟んだのは稲竹さんではないかと疑っているのだが……。


50を超え、同級生にもう他界した人物も多く、自身も死を意識しなければならない3人の女性の会話劇。すでに癌に冒されている人もこの中にいる。映画「死ぬまでにしたい10のこと」の話が出てくるなど、自らの半生と向き合う話であるが、それらの中で「見て見ぬ振りをした」、あるいは「見なかったことにした」、二つの罪が最も心残りなこととして浮かんでくる。


終演後の挨拶には演出の渡辺えりも登場。渡辺は大谷に「リーディングなので余り動かないで」と言ったが、大谷は結構、オーバージェスチャーで朗読。大谷は「他の二人も動くだろうと思ったが、全く動かないので意外だった」というようなことを述べていた。

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2020年5月10日 (日)

配信公演 12人の優しい日本人を読む会「12人の優しい日本人」(文字のみ)

2020年5月6日

YouTubeLiveで、「12人の優しい日本人を読む会」の公演、「12人の優しい日本人」を観る。近藤芳正の呼びかけで、東京サンシャインボーズの代表作である「12人の優しい日本人」をZoomを使った朗読公演として再現するという試み。作・三谷幸喜、演出・冨坂友(アガリスクエンターテイメント)。出演:甲本雅裕(陪審員1号)、相島一之(陪審員2号)、小林隆(陪審員3号)、阿南健治(陪審員4号)、吉田羊(陪審員5号)、近藤芳正(陪審員6号)、梶原善(陪審員7号)、妻鹿ありか(Prayers Studio。陪審員8号)、西村まさ彦(陪審員9号)、宮地雅子(陪審員10号)、野仲イサオ(陪審員11号)、渡部朋彦(Prayers Studio。陪審員12号)、小原雅人(守衛)。

このうち、甲本雅裕、相島一之、小林隆、阿南健治、近藤芳正、梶原善、西村まさ彦(旧芸名および本名:西村雅彦)、宮地雅子、野仲イサオ、小原雅人が再々演時と同じ役である。野仲イサオは客演。そして呼びかけ人である近藤芳正も、最後の方の作品には毎回出ていたが、実は東京サンシャインボーイズ団員だったことは実は一度もなく、ずっと客演であった。94年頃に発行された演劇雑誌に、「あれ、でも近藤さん、この前、オーディションで『東京サンシャインボーイズの近藤芳正です』って言ってましたよ」なんて証言が載っていたが(誰の証言だったかは忘れた。東京サンシャインボーイズのメンバーだったと思うのだが、正確には記憶していない)、真偽は不明である。団員でなかったことは確かである。ぱっと見でわかるが、東京サンシャインボーイズの団員は、名前に「雅」という字の入るメンバーが多いことも特徴であった。


「12人の優しい日本人」は、「12人の怒れる男」を念頭に置いて書かれた作品である。12人の陪審員と守衛、ピザの配達員の14人で上演される「密」室劇であり、推理劇であり、会話劇であり、人間ドラマである。

私が「12人の優しい日本人」という作品を知ったのは、実は映画のシナリオにおいてである。「シナリオ」誌が年間の優秀シナリオを纏めて本として販売していたのだが、そこに映画化された「12人の優しい日本人」のシナリオが載っていたのである。作者の名義は三谷幸喜と東京サンシャインボーイズであった。当時、私は高校生だったが、「変なタイトルの映画だなあ」を思いながら読んだのを覚えている。その次に接した「12人の優しい日本人」は実は原作戯曲なのである。三谷幸喜は戯曲は表に出さないことで有名だが、「12人の優しい日本人」と「ショウ・マスト・ゴー・オン」だけは雑誌に掲載されたことがあるのである。これも複数分の雑誌を纏めて書籍にしたものを明治大学の図書館で発見して、「ショウ・マスト・ゴー・オン」と共に読んでいる。
次は映画版「12人の優しい日本人」である。演劇版の「12人の優しい日本人」を観たのは2005年になってから、大阪・梅田のシアター・ドラマシティでの公演においてだった。


「12人の優しい日本人」は、シアターサンモールで初演された後、東京サンシャインボーイズの本拠地ともいうべきTHEATER/TOPSでの再演を経て、今回と同一キャストが多い再々演(三演)がパルコ劇場の上にあったパルコスペースパート3といった小さな空間で上演されている。パルコスペースパート3には私も1994年の5月だったか、1度だけ行ったことがある。「SWEET HOME」という芝居で、作者の柳美里と演出の鈴木勝秀が町田町蔵(現・町田康)が演じるはずだった役を巡って対立、町田町蔵は降板し、柳と鈴木による訴訟にまで発展した曰く付きの作品であるが、本当に小さなスペースで、篠井英介、椎名桔平、松重豊(実は東京サンシャインボーイズの元メンバーである)ら後に大物俳優になる人が無名時代に出演していたが、本当に客席の最前列の目の前に役者がいるような場所である。私は隅の方だったが最前列だったため、たまに俳優と目が合って、互いに気恥ずかしいので逸らすというそんな場所で上演されていた。「12人の優しい日本人」も少ないお客さんを前にして行うことが前提の芝居だったのである。

だが、2005年の再演時には三谷幸喜はメジャーになっていたため、会場も東京は(旧)パルコ劇場、大阪ではシアター・ドラマシティという大きめの劇場を使用した。ただ、問題が発生。私はキャパ800のシアター・ドラマシディで観たのだが、この劇を上演するには観客が多すぎるのである。陪審員9号を演じていた小日向文世のセリフで(どのセリフだったか)客席から一斉に爆笑が起こったためセリフが聞こえなくなり、小日向さんはセリフを止めて、笑い声が収まるのを待ってから続けていた。つまり大劇場で上演するには不向きであり、パルコスペースパート3のような小スペースでしか本来の上演は出来ないのだが、三谷幸喜の作品を豪華キャストで小劇場でというのはもう無理な話である。例え小さな劇場で行われる機会があったとしてもチケットが手に入るとは思えない。もう上演を観ることはないだろなと思っていたのだが、新型コロナウイルスの影響で俳優が一斉に仕事を失うという状況が発生し、それなら、というので近藤芳正が企画したのが今回の上演である。客席からの笑い声も空気も一体感も得られない上演であり、本当の意味での演劇作品とはいえないと思うが、オリジナルキャストが何人も揃う公演が突如予告された。


「12人の優しい日本人」は、1幕1場場転なし上演時間約2時間半弱である。12人の陪審員は出ずっぱりであるため、役者には酷である。2005年公演の有料パンフレットには、やはりリハーサルの時などは途中でトイレに行きたくなる人も出てしまったということが書かれていた。
今回はそれに加えてリーディングの公演。しかも画面には全員映ったままなので表情の演技は続けなければならず、しかも体は余り動かせないということで役者への負担は更に多くなるため、2部構成での上演となった。第1部が午後2時スタートで約1時間半、第2部が午後6時スタートの1時間弱の上演となる。


ちなみに映画版にも東京サンシャインボーイズの団員が何人か出演しているが、西村まさ彦も当然キャスティングされるつもりでいたがされず、酷く落ち込んでいたということを後に三谷幸喜がエッセイに書いている。ちなみに映画版には休憩のシーンがあったはずである。

 

三谷幸喜作品と久々の真剣勝負ということで、私は午後1時過ぎから体操を始め、神経を集中させる時に行うシャドウピッチングも繰り返すなど、万全の体制を整える。

 

午後2時、YouTubeの画面が作動する。まずは提案者の近藤芳正の挨拶である。リハーサルの時には、そもそもZoomに入るのに手間取る人が多く、全員が画面上に揃ったのはリハーサル初日は開始から1時間、2日目が20分経った頃だそうで、全員の顔が映った時には拍手が起こったそうである。自宅からZoomに参加しているので、宅配便のチャイムが鳴ったり、「石焼き芋」の声が響いたりということもあったそうである。本番では救急車のサイレンが聞こえただけで、特に障害になる物音は鳴らなかった。


近藤芳正は、「芝居の質とか、そういうことはもう期待しないで下さい。何があってもどんなことがあってもみんなで繋いでいく、最後まで終える(ショウ・マスト・ゴー・オン)、グダグダになってもやっていく」と言っていたが、ここで作者の三谷幸喜が別画面で割り込む。長い間自宅から出ていないそうで、口髭顎髭頬髭が伸び放題。しかも染めていないので髪も含めて白いものが目立つ。「よくこんな面倒くさいことやろうと思ったよね」「でもね、大体面白いものって面倒くさいからね」「グダグダって言ってましたけども僕はそんなの認めないですから。『12人の優しい日本人』といえば僕らの劇団(東京サンシャインボーズ)の代表作ですから」といういつもの調子である。その後、三谷は「12人の優しい日本人」について説明する。初演から30年、2005年の上演から数えても15年が経過しているわけで、そもそも「12人の優しい日本人」という作品を知らないという若い人も多いと思われる。

初演時のテキストを使用していると思われ、若い人には何のことかわからないこともそのまま読み上げられる。大手結婚相談所と思われるものは、2005年時には婚活サイトのようなものに置き換わっていたはずだが、今回は置き換えはない。若花田、貴花田(共に今では一発変換不可)という四股名も当時のままで、「わく」から始まる名前の女優として和久井映見の話が出るが、今だと「わく」から思い浮かぶ女性は、女優ではないがNHKの和久田麻由子アナウンサーだと思われる。そう思うと時の経過を実感せずにはいられない。


Zoomを使ってのWeb上演であるため、タイムラグが生じたり、音響に問題のある場面があったり、間が開きすぎたりという難点は当然ながら発生するが、上演形態としては面白い。「12人の優しい日本人」は本来は俳優が円卓を囲って座る形で行われる上演であり、顔が見えない人が結構いるということになる。シアター・ドラマシティでの上演はアリーナではなくステージと客席という一般的なスタイルでの上演であったため、顔が見えない場面の多い人が3分の1ぐらいはいたと記憶している。だが、今回はZoomでの上演であるため全員の顔が見える。小日向さんと温水さんは客席に背を向ける配置であった(「ハイチで会った」と変換されたのだが、なんか楽しそうだな)。常に表情の演技を続けなければならない俳優には酷な上演形態であるが、観る側としては純粋に興味深かったりはする。

 

初演時には日本には裁判員制度はなく、陪審員制度のある架空の日本という設定であったが、2005年の上演は裁判員制度開始が目前に迫っていたため、有料パンフレットには裁判員制度に関する紹介と説明が載っていた。


第1部上演終了後から第2部開始までの間が長いが、ネットで他のページを見ると集中力が途切れるため、読書のみを行って待つ。


12人の個性を生かす形で書かれた本である。「こういう人っているよなあ」という人が何人も登場し、それぞれの立場からのセリフを話す。「数学は出来ないけど理系」を自称する三谷らしいセリフの配置術が巧みに行われる。どのタイミングでどのセリフを振るのがベストかという計算が万全になされている。
こちらはおおよその内容は知っているので、セリフでないパスを受ける人がどういう表情をするのかも確認して楽しんだ。やはりみんな上手い。


東京サンシャインボーイズの全メンバーが揃う最後の公演として行った、1994年の「ショウ・マスト・ゴー・オン」(紀伊國屋ホール)が、私が観た初めての本格的な芝居だったが、その際に購入したパンフレットに、三谷が「良い芝居の作り方」というようなエッセイを載せていた。パンフレット自体は京都にも持ってきているので探せばあると思うが、記憶を紐解くと、おおよそ以下のような内容であった。劇作法に関しては一切書かれておらず、東京サンシャインボーイズとその時の客演のメンバーの人柄に触れたもので、「この人はこうこうこういう性格だが、こういうセリフや役を振ってあげると喜ぶ」だとか「この人はセリフの数が少ないと落ち込むので、なるべくセリフの数を多くしてあげる」といった内容で、役者の個性の尊重は徹底されている。だからこの芝居でも全員が主役になれる場面がある。いい加減な役が存在しないということである。論理が立つ人間から見下される役も、その人がいたからこその展開が後になされるのである。


吉田羊が演じる陪審員5号は、得た知識や情報を意見として語ってしまうタイプの人で、自分で考えた意見は余り持っていないのだが、この役は観る者に議題の内容を提示するという重要な役割を果たしている。基本的に美形女優が演じる役で、2005年の上演では石田ゆり子が演じていた。

野仲イサオが演じる陪審員11号は、一番美味しい役であり、男前俳優が演じる。映画では豊川悦司、2005年の上演ではこれが初舞台となる江口洋介という配役であった。

一番難しい役だと思われるのは、気弱なスタイルを通し続けねばならない陪審員10号。オリジナルキャストである宮地雅子はずっと泣きそうな顔で演じており、見事だった。
2005年の上演でこの役を演じていたのは、劇団四季出身の堀内敬子。彼女は私より4つ上なので、2005年にはまだ30代半ばだったはずだが、50代に見えるおばちゃんを好演。三谷幸喜によると観客や関係者には、本当に50代ぐらいのおばちゃんだと思い込んでいる人が多かったそうで、その演技力に惚れた三谷は彼女を主役とした「コンフィダント・絆」を書き、同作で堀内敬子は数々の演劇賞を受賞することになる。

最重要人物だと思われるのは相島一之が演じる陪審員2号である。相島一之は映画でもこの役を演じているが、三谷が常に当て書きということもあり、填まり役である。人間の悲しさを背負っている役でもあり、上演が終わった時に漂う切ない感じは、相島の好演に負っている部分も多いと思われる。


ちなみに三谷幸喜はドミソピザの配達員役で出演。ただ持ってきたのが少なくともピザではない何か(ドミソピザということで、五線紙上のド・ミ・ソの部分に音符の入った帽子を被っていたため、持ってきたものも譜面のように見える)で、出演者からも「これピザ?」という声が上がり、三谷も「何だこの空気は?」という言葉を発していた。


見終わって心地よい疲れを感じる。実に良い。ただ休憩のないバージョンも観たかったので、アーカイブ化された映像を、午後8時過ぎからもう一度観た。


この芝居は、小さなスペースで、俳優と観客が密集してこそ生きるものである。いわば小演劇の王道作品である。今回はWebでの上演ということで観客がおらず、やはり本当の意味での演劇にはならない。空間の共有がここにはない。それ故に、劇場での演劇という他では味わえないものの良さを真に確認出来たともいえる。
吉本ばなな風に書くと、「私がこの世で一番好きな場所は劇場である」ということも。


「僕の書く劇は誰かが嘘をついていることが多い」という事を三谷は以前にテレビ番組で語っていたと思うが、この芝居でも進行上重要な役割を担う人物が大きな嘘をついている。そしてその嘘と嘘の経験が鍵を握っている。

フィクションの重要性、俳優という存在の素晴らしさがここに提示されているように思う。


12人の優しい日本人を読む会 https://12nin-online.jimdofree.com/

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2019年8月16日 (金)

観劇感想精選(312) “あきらめない、夏”2019 大阪女優の会 Vol.17 朗読劇「あの日のこと」

2019年8月10日 大阪・大手前のドーンセンター1Fパフォーマンススペースにて観劇

午後5時から、大阪・大手前のドーンセンター1Fパフォーマンススペースで、“あきらめない、夏”2019 大阪女優の会 Vol.17 朗読劇「あの日のこと」(『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』『空が、赤く、焼けて 原爆で死にゆく子たちとの8日間』より)を観る。構成・演出:棚瀬美幸。出演:秋津ねを(ねをぱぁく)、河東けい(関西芸術座)、金子順子(コズミックシアター)、木下菜穂子、佐藤榮子(劇団息吹)、嶋まゆみ、条あけみ(あみゅーず・とらいあんぐる)、田中敏子(劇団MAKE UP JELL)、鼓美佳(劇団MAKE UP JELL)、長澤邦恵(tsujitsumaぷろでゅ~す)、服部桃子、原口志保(演劇ユニット月の虹)、桝井美香、南澤あつ子(劇団EN)、山本つづみ。“あきらめない、夏”公演の創設者の一人である河東けいは今回の公演をもって勇退するという。


1941年12月8日午前7時のラジオニュースで流れた米英との開戦報告に続いて、開戦を知った当時の著名人による記述や回想(『朝、目覚めると戦争が始まっていました』収録)が述べられる。顔写真と当時の年齢、役職も背後のスクリーンに投映される演出。登場するのは、吉本隆明、鶴見俊輔(ハーバード大学在学中であるため、日付が12月7日となっている)、ピストン堀口、新美南吉、岡本太郎、野口冨士男、中島敦、火野葦平、河東けい、坂口安吾、伊藤整、神山茂夫、阿部六郎、古川ロッパ、中野重治、神林暁、井伏鱒二、横光利一、金子光晴、獅子文六、青野季吉、室生犀星、折口信夫、秋田雨雀、高村光太郎、正宗白鳥、永井荷風、真崎甚三郎、幸田露伴。現在、93歳である河東けいも、開戦時はまだ16歳。何が起こったのかよく把握出来ていなかったが、二人の兄が欣喜雀躍していたのを覚えているそうである。
奥田貞子の広島原爆体験記『空が、赤く、焼けて』、1942年に発表された太宰治の短編小説「十二月八日」(これも『朝、目覚めると戦争が始まっていました』収蔵だそうである)、『朝、目覚めると戦争が始まっていました』に収められた著名人の記述によって編まれたテキストが、女優達によって読み上げられていく。


日米開戦の報はどう受け止められたのか。実は多くの著名人は興奮や感動をもって受け止めている。当時の日本はABCD包囲陣などによって経済封鎖を受けており、極めて苦しい状態にあった。開戦によってこれから開放されるという希望があったのかも知れない。あるいは、日米開戦に壮大なロマンを描いていた人もいる。火野葦平は、「新たな神話の始まり」と評しており、ある意味では日本が世界の主人公となる壮大な物語の誕生が多くの人に渇望されていたのかも知れない。すでに日露戦争で「有色人種が白人に勝つ」というロマンを体現していた日本にとって、更なる神話の出発として歓迎されていたのだ。もちろん、開戦を歓迎する人ばかりではなく、金子光晴は開戦の報を聞いて「馬鹿野郎!」と口走り、老境に達していた幸田露伴は若者達のことを思って涙を流したそうだ。欧米をよく知る永井荷風は、開戦に浮かれて素人が駅で演説を始めたことに呆れている。

しかし、その始まりに比して、悲惨な結末の落差は余りにも大きい。男達が広げに広げた大風呂敷は、もはや畳むに畳めない状態となり、空回しした大きな物語の傍らで多くの子供達の死という小さな物語を記し続けることになる。虚妄が生む悲劇はこうして起こり、繰り返されるのである。

太宰治の「十二月八日」は、ごくごく短い作品であるが、後に書かれる『斜陽』と同じ趣向を辿っており、淡々とした日常風景の中に利いた風なことをいう無知な男の姿が冷笑的に語られている。帰りの電車の中で青空文庫で読んでみたが、朗読に採用されなかった部分では、シリアスな状況がそうとは悟られないように明るくユーモラスに描かれており、流石は太宰と感じ入る出来である。
ちなみに、「十二月八日」は本当にその日に書かれた私小説やリアリズム文学ではなく、その証拠に開戦の日だというのに主人公の女性はすでに空襲のことを心配している。未来への不安を感じられるタイプであり、夫の楽天的で無責任な態度との対比が鮮やかである。

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2019年6月16日 (日)

観劇感想精選(303) リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」兵庫公演2日目 「菓子袋」「収集」&「愛について語るときに我々の語ること」

2019年5月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」を観る。
1980年代に村上春樹が多くの小説を翻訳したことで知られる存在になったレイモンド・カーヴァー(レイ・カーヴァー)。労働者の街で育ち、16歳で結婚。地方大学の大学院を出て大学の文芸創作の教員となるが、アイビーリーグに代表される名門私立大学出身者が大勢を占めるアメリカ文壇では異端視される。短編の名手であり、自身が書いた短編小説を更に短くリライトすることも度々で、小説に関しては「短ければ短いほど良い」というポリシーを持っていたようである。1988年に50歳の若さで死去。日常に潜んだ歪みや波立ちを描き、チェーホフにも例えられた。
1993年にレイモンド・カーヴァーの複数の短編小説で構成されたロバート・アルトマン監督の映画「ショート・カッツ」が制作され、私も観てはいるのだが、正直好きになれなかったのを覚えている。

昨日今日と2日間の公演である。昨日は手塚とおるのリーディングによる「ダンスしないか?」と「もうひとつだけ」、仲村トオルのリーディングによる「コンパートメント」が上演され、今日は矢崎広が「菓子袋」と「収集」を、平田満が「愛について語るときに我々の語ること」を読み上げる。村上春樹翻訳によるテキストを使用。演出は谷賢一。作曲&ピアノ演奏は阿部篤志。

朗読劇は演劇の中でも特別で、演じ手がほとんど動かないため、観る側にも言葉からの想像力と設定を頭に入れつつ追うための記憶力と集中力が必要となる。とはいえ動的な要素がないため面白い上演になる可能性が高いとはいえず、今日も平田満が出るというのに阪急中ホールの1階席は前半分しか埋まっていない。


矢崎広朗読による「菓子袋」と「収集」。矢崎広に関してはよく知らなかったが、なかなか良い俳優であり、引きつけられる。
「菓子袋」は、シカゴ在住の出版社のセールスマンが生まれ故郷であるカリフォルニア州サクラメントの空港で長い間会っていなかった実父に会うという話である。仕事でロサンゼルスに出向き、そのついでにカリフォルニア州の州都であるサクラメントにも寄るという設定なのだが、久しぶりに会った父親は主人公に向かって、かつての浮気の話を打ち明け始める。
その浮気が原因で両親は離婚することになるのだが、主人公は詳しいいきさつは知らされておらず、親の性的な面を詳しく知りたいと思う人は余りいない、ということで久しぶりの再会にも関わらず親子の隙間はむしろ広がることになり、父親が主人公の妻と娘のためにとくれた菓子袋も空港に置き忘れてきてしまうが、特に惜しいとも思わない。
歩み寄ろうとして却って傷口を広げてしまう人間存在の愚かしさが告発調でなく描かれているという、カーヴァーらしい作品である。


「収集」の主人公は失業中であり、雨の日に自宅で北から来る手紙を待っている。ところがやって来たのは郵便配達夫ではなく、奇妙な老人。以前に住んでいた人が懸賞に当たったということで、無料での掃除サービスを行い始める。主人公は一種の押し売りかと思ったのだが、そうでもないらしい。老人は「体の一部が毎日落ちていっている」ということで、その体の一部の染みこんだ枕だのカーペットだのを掃除していく。

どうやら老人は「過去」を収集しているようであるが、主人公が特に重要だと思う過去でもないため、結局、なにがなんだかわからないまま二人は別れることになる。
これは過去に限らないのだが、忘れてしまったものの中に、あるいは特に重要視されていないものの中に、実は大切な何かが潜んでいる可能性があり、にも関わらず気にとめていないという日常の死角が示されているようにも思える。
ひょっとしたら致命的な何かが起こっているのかも知れないが、知覚出来ないという不気味さ。こうした捉え方とすると、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」にも繋がるように思う。


平田満の朗読による「愛について語るときに我々の語ること」。二組のカップルによる会話を描いた小説である。
語り手の「僕」とローラは付き合い始めてそれほど時間が経っていない。一方、医師であるメルと妻のテリは夫婦だが共にバツイチ。テリは前夫のエドからDVを受けていたが、それは愛ゆえだとの確信を語り、メルは否定する。メルは精神的な愛について語るのだが、実は別れた前妻とその再婚相手のために多額の資金援助をする羽目になっており、前妻を愛したかつての自分の鑑識眼について疑いを持っていた。

自身が理想とする精神的な愛に裏切られ、否定すべき暴力的愛にすら勝てない悲惨な人間像が描かれているのだが、カーヴァーの特徴として感傷的な要素は極力排されている。


終演後に、谷賢一、平田満、矢崎広によるアフタートークがある。村上春樹による直訳的な翻訳についても語られたのだが(谷賢一は翻訳家でもある)、これらの作品は日常の些細なズレなどを描いており、翻訳者の体と心を通した翻訳ではそうした要素が伝わりにくくなってしまうために敢えて素材の文章に余り手を加えずに訳しているのではないかと私は想像するのだが、カーヴァーの小説を英語で読んだことはないため、仮説とせざるを得ない。
平田満は、「僕が配役されるとしたらエドだろうな」と語り、やはり駄目で一途で人間くさい男をやりたいようである。矢崎は配役されるとしたら「僕」ではないかと平田は言うのだが、確かにそんな感じではある。

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2019年1月13日 (日)

観劇感想精選(286) 紺野美沙子の朗読座「新春公演2019 源氏物語の語りを愉しむ ―紫のゆかりの物語」@びわ湖ホール

2019年1月5日 びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時30分から、びわ湖ホール中ホールで、紺野美沙子の朗読座の公演「新春公演2019 源氏物語の語りを愉しむ ―紫のゆかりの物語」を観る。出演は、紺野美沙子(朗読とおはなし)、陣野英則(解説。早稲田大学文学学術院教授)、中井智弥(二十五絃箏、箏)、相川瞳(パーカッション)。演出は篠田伸二。

『源氏物語』から、第一ヒロイン的存在である紫の上(紫式部という通称の由来とされている)を中心とした恋物語のテキスト(早稲田大学名誉教授である中野幸一による現代語訳である『正訳 源氏物語』を使用)を用いた朗読公演である。

まずオープニング「新春を寿ぐ」と題した演奏がある。中野智弥作曲・演奏による箏曲「プライムナンバー」という曲が演奏され、その後、主役である紺野美沙子が現れて、中野とトークを行う。紺野美沙子は『源氏物語』ゆかりの帯を締めて登場。その写真が後方のスクリーンに映される。昨日、西宮の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで公演を行ったのだが、「もっと近くで帯の柄を見たい」という声があったため、今日は写真をスクリーンに投影することにしたそうである。前側が「浮舟」、後ろ側がおそらく葵祭の車争いの場面の絵柄である。着物の柄も平安時代を意識したもので、貝合の貝を入れる貝桶の絵が鏤められている。紺野は、『源治物語』の現代語訳を多くの人が行っているという話をするが、瀬戸内寂聴の紹介は物真似で行っていた。
中野が、「プライムナンバー」という曲名の解説を行う。「プライムナンバー」は「素数」という意味で(紺野美沙子はにこやかに、「素数。ありましたね」と語る)、4分の2拍子、4分の3拍子などの2や3が素数であると語り、素数の拍子を用いたこと、また箏は13弦で13は素数であることなどを語る。

ちなみに、『源氏物語』の主人公である光源氏は箏の名手であり、演奏を聴いた女性達が涙を流して感動したという話を中野がすると、紺野は、「あら? じゃあ、中野さんは、平成の光源氏?」と冗談を言い、中野も「そうだと嬉しいんですが。ローラースケートを履いてる方(光GENJI)じゃなく」と冗談で返す。紺野は、「次の時代もご活躍を」と更に畳みかけていた。

それから、二十五絃箏の紹介。邦楽は通常はペンタトニック(五音階)であるが、二十五絃箏は西洋のドレミの十二音階を奏でることが出来るそうである。

その後、パーカッショニストの相川瞳も登場。今日は25種類の打楽器を使うそうで、日本生まれの打楽器として木魚と鳥笛を紹介していた。

紺野美沙子は、有閑マダム層が使うような言葉遣いであったが、意識していたのかどうかはわからない。

その後、第1部のトークセッションに移る。ゲストは早稲田大学文学学術院教授の陣野英則。今日使用するテキストの現代語訳を行った中野幸一の弟子だそうである。
陣野は、『源氏物語』を長編大河小説と位置づける(紺野美沙子 「橋田壽賀子もびっくり」)。1000年前にこれほど大部の恋愛フィクションが書かれた例は海外にも存在せず、しかも作者が女性というのが凄いという話になる。海外ではこの時代、歴史書や叙事詩、戦争物や回顧録、エッセイ、日記文学などは書かれていたが、大部のフィクションの名作が現れるのはずっと後になってからである。

『源氏物語』がわかりにくいのは、古文ということもあるが、人間関係が入り組んでいるということを上げる。登場人物は450名ほどに上り、主人公の光源氏があちらと関係を持ち、こちらとも契りを結びということをやっているため、男女関係が滅茶苦茶になっている。ただ、陣野によると光源氏が素晴らしいのは、関係を持った全ての女性の面倒を見ることだそうで、ドン・ファンなど他の好色家には見られないことだとする。
スクリーンに人物関係図や男女関係図を投影しての説明。わかりやすい。
紺野美沙子は、「私、慶應義塾大学文学部国文科卒ということで、色々わからないといけないんですが、資料が多いもので、大和和紀先生の漫画『あさきゆめみし』で読んだ」と伝えると、陣野は、「今の学生は、ほぼ全員、『あさきゆめみし』から入っています」と答えていた。

第2部が今日のメインとなる「朗読と演奏」になる。

二十五絃箏の中井智弥は、東京藝術大学音楽学部邦楽科卒。伝統的な箏や地歌三絃の演奏も行いつつ、二十五絃箏の演奏をメインに行っている。2016年には三重県文化奨励賞を受賞。

パーカッションの相川瞳も東京藝術大学音楽学部出身。2007年にブルガリアで開催されたプロヴディフ国際打楽器コンクールDuo部門で2位入賞(1位なし)。大友良英 with あまちゃんスペシャルビッグバンドのメンバーとして紅白歌合戦に出場したこともあり、2019年の大河ドラマ「いだてん」オープニングテーマの演奏にも加わっている。

「いづれのおんときか女御更衣あまたさぶらいける中に、いとやんごとなききわにはあらねど、すぐれてときめきたもふありけり」の出だしからスタート。
光源氏と紫の上の出会い(といっていいのかな?)である「若紫」、光源氏と紫の上との初枕が出てくる「葵」、光源氏が須磨へと下り、紫の上と離ればなれになる「須磨」、源氏と結ばれた明石の君と、明石の姫君が大堰へと上る「松風」、光源氏と帝の娘である女三の宮が結婚することになるという「若菜上」、紫の上がみまかる「御法」と光源氏の死が暗示される「幻」の各帖から選ばれた文章が読まれ、和歌とその現代語訳が読み上げられる。映像も多用され、想像力の補完を行う。

紺野美沙子の朗読に凄みはないが、的確な読み上げは流石は一流女優の技である。テキストの背後にある心理をもさりげなく炙り出してみせる。

紫の上という女性の「女であることの哀感」と、光源氏の紫の上への愛と、愛するが故の切なさがありありと伝わってくる朗読であり、聞いていて一途に悲しくなったりもする。これが大和心の真髄の一つである「もののあはれ」だ。
哀しみと同時に、日本という国で生まれ育ったことの喜びが胸を打つ公演でもあった。

バラ色に彩られた雲が覆う琵琶湖の湖畔を歩いて帰途に就く。

 

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