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2024年11月27日 (水)

「PARCO文化祭」2024 2024.11.17 森山未來、大根仁、リリー・フランキー、伊藤沙莉、カネコアヤノ、神田伯山

2024年11月17日 東京・渋谷公園坂のPARCO劇場にて

東京へ。渋谷・公園坂のPARCO劇場で、「PARCO文化祭」を観るためである。

午後6時から、渋谷のPARCO劇場で、「PARCO文化祭」を観る。俳優・ダンサーの森山未來と、「TRICK」シリーズや「モテキ」などで知られる映像作家・演出家の大根仁がプレゼンターを務める、3夜に渡る文化祭典の最終日である。

新しくなったPARCO劇場に入るのは初めて。以前のPARCO劇場の上の階にはパルコスペースパート3という小劇場もあり、三谷幸喜率いる東京サンシャインボーイズが公演を行っていたりしたのだが(個人的には柳美里作の「SWEET HOME」という作品を観ている。結構、揉めた公演である)。今のPARCO劇場の上の階には劇場ではなく、アート作成スペースのようなものが設けられている。また、大きな窓があり、渋谷の光景を一望出来るようにもなっている。

PARCO劇場の内装であるが、昔の方が個性があったように思う。今は小綺麗ではあるが、ごく一般的な劇場という感じである。ただ、屋外テラスがあって、外に出られるのはいい。
PARCO劇場の内部は赤色で統一されていたが、それは現在も踏襲されている。

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今日はまず森山未來らによるダンスがあり(3夜共通)、リリー・フランキーと伊藤沙莉をゲストに迎え、森山未來と大根仁との4人によるトーク、そしてシンガーソングライターのカネコアヤノによるソロライブ、神田伯山による講談、ZAZEN BOYSによるライブと盛りだくさんである。神田伯山の講談とZAZEN BOYSによるライブの間に休憩があるのだが、ZAZEN BOYSのライブを聴いていると今日中に京都に戻れなくなってしまうため、休憩時間中にPARCO劇場を後にすることになった。

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森山未來らによるダンス。出演は森山未來のほかに、皆川まゆむ(女性)、笹本龍史(ささもと・りょうじ)。楽曲アレンジ&演奏:Hirotaka Shirotsubaki。音楽の途中に「PARCO」という言葉が入る。森山未來がまず一人で上手から現れ、服を着替えるところから始まる。照明がステージ端にも当たると、すでに二人のダンサーが控えている。ここからソロと群舞が始まる。ソロは体の細部を動かすダンスが印象的。群舞も力強さがある。振付は森山未來が主となって考えられたと思われるが、洗練されたものである。
森山未來は神戸出身ということもあって関西での公演にも積極的。今後、京都でイベントを行う予定もある。

大根仁が登場して自己紹介を行い、「もう一人のプレゼンター(森山未來)は今、汗だくになっている」と説明する。程なくして森山未來も再登場した。

そのまま、リリー・フランキーと伊藤沙莉を迎えてのトーク。伊藤沙莉であるが、リリー・フランキーに背中を押されながら、明らかに気後れした態度で上手からゆっくり登場。何かと思ったら、「観客とコール&レスポンス」をして欲しいと頼まれてコールのリハーサルまで行ったのだが、どうしても嫌らしい。楽屋ではうなだれていたようである。伊藤沙莉というと、酒飲んで笑っている陽気なイメージがあるが、実際の彼女は気にしいの気い遣い。人見知りはするが一人行動は苦手の寂しがり屋という繊細な面がある。リリー・フランキーが、「私が目の中に入れて可愛がっている沙莉」と紹介し、「(コール&レスポンスが)どうしても嫌だったら、やらなくていいんだよ」と気遣うが、伊藤沙莉は、「やらないと終わらないし」と言って、結局はやることになる。作品ごとに顔が違う、というより同じ映画の中なのに出てくるたびに顔や声が違うという、「どうなってんの?」という演技を行える人であるが、実物は丸顔の可愛らしい人であった。丸顔なのは本人も気にしているようで、SNSに加工ソフトを使って顔を細くし、脚を長くした写真を載せたところ、友人の広瀬アリスが激やせしたのかと心配して、「沙莉、どうした?」と電話をかけてきたという笑い話がある。「めっちゃ、はずかった」らしい。
丸顔好きで知られる唐沢寿明に気に入られているんだから別にいいんじゃないかという気もするが。

なお、リリー・フランキーと伊藤沙莉は、「誰も知らないドラマで共演していて、誰も知らない音楽番組の司会をしていて、誰も知らないラジオ番組をやっている」らしい。伊藤は、「FOD(フジテレビ・オン・デマンド)」と答えて、配信されているのは把握しているようだが、地上波でやっているのかどうかについては知らないようであった。ちなみに、誰も知らないドラマで伊藤沙莉の母親役に、丸顔の山口智子が選ばれたらしいが、顔の形で選んでないか? すみません、「丸顔」でいじりまくってますけど、Sなんで好きなタイプの人には意地悪しちゃうんです。

伊藤沙莉が嫌がるコール&レスポンスであるが、大根がまず見本としてやってみせる。客席の該当する人は、「Yeah!」でレスポンスする。
リリー・フランキーが大根に、なんでコール&レスポンスをするのか聞く。
PARCO文化祭の初日のトークのゲストがPerfumeのあ~ちゃんで、「Perfumeのコール&レスポンスがある」というので、まずそれをやり、2日目のトークのゲストの小池栄子にコール&レスポンスの打診をしたところ、「やります」と即答だったので、3日目は伊藤沙莉にやって貰うことにしたらしい。リリー・フランキーは、「あ~ちゃんは歌手でしょう。小池栄子は割り切ってやる人でしょ」と言っていた。確かに小池栄子は仕事を断りそうなイメージがない。若い頃はそれこそなんでもやっていたし。
で、伊藤は本当はやりたくないコール&レスポンスだが、仕事なのでやることになる。
「男の人!」「女の人!」「それ以外の人!」で、「それ以外の人!」にもふざけている人が大半だと思うが反応はある。リリー・フランキーは、「今、ジェンダーの問題」と言っていた。
その後も続きがあって、「眼鏡の人!」「コンタクトの人!」「裸眼の人!」「老眼の人!」と来て、最後に「『虎に翼』見てた人!」が来る。「虎に翼」を見ていた人は思ったよりも多くはないようだった。
伊藤は、この後残るとまた何かやらされそうで嫌なので、出番が終わった後すぐに行く必要のある仕事を入れたそうである。

ここで椅子が運ばれてくるはずだったのだが、運ばれてきたのは椅子ではなく箱馬を重ねたもの(「箱馬」が何か分からない人は検索して下さい。演劇用語です)。レディーファーストなのか、伊藤沙莉のものだけ、上にクッションが乗せられていた。大根が、「出演者にお金を掛けたので、椅子に使う金がなくなった」と説明していたが、まあ嘘であろう。

建て替えられる前のPARCO劇場についてだが、伊藤沙莉は朗読劇の「ラヴ・レターズ」を観に来たことがあるという。旧PARCO劇場には出る機会がなく、新しくなったPARCO劇場には、「首切り王子と愚かな女」という舞台で出演しているので、背後のスクリーンに「首切り王子と愚かな女」(作・演出:蓬莱竜太)の映像が映し出される、WOWOWで放送されたものと同一の映像だと思われる。面白いのは、男性3人は座ったまま後ろを振り返って映像を見ているのだが、伊藤沙莉だけは、客席とスクリーンの間にいるので気を遣ったということもあるだろうが、椅子代わりの箱馬から下り、床に膝をついてクッションに両手を乗せ、食い入るように映像を見つめていたこと。この人は映像を見るのが本当に好きなのだということが伝わってくる。リリー・フランキーは、長澤まさみの舞台デビュー作である「クレイジー・ハニー」(作・演出:本谷有希子)で旧PARCO劇場の舞台に立っており、「クレイジー・ハニー」の映像も流れた。ちなみにリリー・フランキーは舞台作品に出演したことは2回しかないのに2回とも旧PARCO劇場であったという(私は名古屋の名鉄劇場で「クレイジー・ハニー」を観ている。大阪の森ノ宮ピロティホールでの公演のチケットも取ったのだが都合で行けず、ただ「長澤まさみの舞台デビュー作は観ておかないといけないだろう」ということで名古屋公演のチケットを押さえた。カーテンコールで長澤まさみは嬉し泣きしていた)。

伊藤沙莉は笑い上戸のイメージがあるが、実際に今日もよく笑う。ただPARCOの話になり、千葉PARCOについて、「何売ってんの? 何か売ってんの?」とリリー・フランキーが聞いた時には、「馬鹿にしないで下さい!」と本気で怒り、郷土愛の強い人であることが分かる。実際、千葉そごうの話だとか、JR千葉駅の話などをしてくれる芸能人は伊藤沙莉以外には見たことがない。100万近い人口を抱えているということもあり、千葉市出身の芸能人は意外に多いが、余り地元のことを話したがらない印象がある。木村拓哉も若い時期を過ごした時間が一番長いのは千葉市で、実家も千葉市にあるのに、千葉の話をしているのは聞いたことがない。プロフィールでも出身地は出生地である東京となっている。しばしば神奈川愛を語る中居正広とは対照的である。原田知世も千葉県佐倉市に住んでいた頃は、よく千葉そごうに買い物に来ていたようだが、そんな話も公でしているのは聞いたことがない。郷土愛の強さからいって、これからは千葉市出身の芸能人の代表格は伊藤沙莉ということになっていくのだろう。

なお、残念ながら千葉PARCOは現在は存在しない。千葉市のショッピングというと、JR千葉駅の駅ビル「ペリエ」、その南側にある千葉そごう、JR千葉駅および京成千葉駅から京成千葉中央駅まで京成千葉線とJR外房線の高架下に延びる屋内商店街(C・ONEっていったかな?)、千葉駅前大通りに面した富士見町(旧千葉そごうで今はヨドバシカメラが入っていた塚本大千葉ビルと千葉三越など。千葉三越は撤退済み)、千葉駅からモノレール及びバスで少し行った中央三丁目(バス停はそのまま「中央三丁目」、千葉都市モノレールは葭川公園駅。千葉銀座商店街がある)などが主な場所だが、中央三丁目にあったセントラルプラザと千葉PARCOはいずれも営業を終えており、セントラルプラザがあった場所には高層マンションが建っている。セントラルプラザ(略称は「センプラ」。創業時は奈良屋。火災に遭ったことがあり、奈良屋の社長が亡くなっている)は、CX系連続ドラマで、真田広之と松嶋菜々子が主演した「こんな恋のはなし」に、原島百貨店の外観として登場し(内装は別の場所で撮影)、原島百貨店の屋外に面したディスプレイの装飾を手掛けている松嶋菜々子とそれを見守る真田広之の背後に、東京という設定なのに千葉都市モノレールが映っていた。「こんな恋のはなし」は松嶋菜々子の代表作と呼んでもよい出来で、おそらくこの作品出演時の彼女は他のどの作品よりも美しいと思われるのだが、残念ながらソフト化などはされておらず、今は見られないようである。
千葉PARCO跡地にも高層マンションが建つ予定だが、PARCOの系列である西友が入ることになっている。
なお、大阪では、大丸心斎橋店北館が心斎橋PARCOになり、そごう劇場として誕生した小劇場兼ライブスペースが大丸心斎橋劇場を経てPARCO SPACE14(イチヨン)と名を変えて使用されている。
森山未來が、「神戸にはPARCOはない」と言い、リリー・フランキーも「北九州にある訳がない。暴力団しかいない」と言い、大根が「工藤會」と続けて、伊藤が「そんな具体的な」と笑っていた。

ちなみに、伊藤沙莉は森山未來からのオファーで呼ばれたようで、二人は映画&Netflix配信ドラマ「ボクたちはみんな大人になれなかった」で共演していて、濃厚なあれあれがあるのだが、そういう人と別の仕事をする時はどういう気持ちになるのだろう。なお、撮影は渋谷一帯を中心に行われており、ラストシーンはすぐそこのオルガン坂で撮られたのだが、渋谷名所のスペイン坂などと違い、オルガン坂は余りメジャーな地名ではないので、森山未來も伊藤沙莉もオルガン坂の名を知らなかったようである。

大根が、「毎日リアルタイムで見てました。『虎の翼』」とタイトルを間違え、リリー・フランキーに訂正される。リリー・フランキーは、「今年のドラマといえば、『虎に翼』か(大根が監督し、リリー・フランキーが出演している)『地面師たち』。でも『「地面師たち」見てます』と言ってくる人、反社ばっか」と嘆いていた。

伊藤沙莉が紅白歌合戦の司会者に選ばれたという話。リリー・フランキーは、「歌うたえよ、上手いんだから。『浅草キッド』うたえよ」と具体的な曲名まで挙げてせがんでいるそうだ。伊藤本人は歌うことには乗り気でないらしい。
リリー・フランキーは紅白歌合戦の審査員を務めたことがあるのだが、トイレ休憩時間が1回しかなく、それも短いので、時間内に戻ってこられなかったそうだ。伊藤に、「どうする? おむつする?」と言って、「流石にそれは」という表情をされるが、「衣装どうしようか迷ってるんですよ」とは話していた。
紅白で失敗すると伝説になるから気を付けるようにという話にもなり、「都はるみを美空ひばりと間違えて紹介」、加山雄三が「少年隊の『仮面舞踏会』」と紹介すべきところを「少年隊の『仮面ライダー』」と言ったという話などが挙げられる。加山雄三の「仮面ライダー」はYouTubeなどにも上がっていて、見ることが出来る。


続いてカネコアヤノのソロライブ。昨日、島根でライブを行い、今日、東京に移動してきたそうだ。アコースティックギターを弾きながらソウルフルな歌声と歌詞を披露する。ギターも力強く、同じメロディーを繰り返すのも特徴。ただ、歌い終えて森山未來と大根仁とのトークになると、明るく爽やかで謙虚な人であることが分かる。作品と人物は分けて考えた方がいい典型のようなタイプであるようだ。


講談師(「好男子」と変換された)の神田伯山。「今、最もチケットの取れない講談師」と呼ばれている。森山も、「(PARCO文化祭も)伯山さんだけで一週間持つんじゃないですか?」と語っていた。
私は、上方の講談は何度か聞いているが、江戸の講談を聞くのはおそらく初めてである。同じ講談でも上方と江戸ではスタイルが大きく異なる。
「PARCO劇場では、落語の立川志の輔師匠がよく公演をされていますが、落語と講談は少し違う」という話から入る。
講談は早口なのでよく間違えるという話をする。出てくるのは徳川四天王の一人で、「蜻蛉切」の槍で有名な本多平八郎忠勝(上総大多喜城主を経て伊勢桑名城主)。「本多平八郎忠勝。槍を小脇に、馬を駆け巡らせ」と言うべきところを、つい「本多平八郎忠勝、馬を小脇に、槍を駆け巡らせ」と言ってしまうも講談師本人は気付いていないということがあるそうである。

信州松本城主、松平丹波守が、参勤交代で江戸に向かう途中、碓氷峠で紅葉を眺めていた時のこと。妙なる音色が聞こえてきたので、「あれは何だ?」と聞くと、「江戸で流行りの浄瑠璃というもののようでございます」というので、浄瑠璃を謡い、奏でていた二人が呼ばれる。伯山は、「浄瑠璃は今でいうヒット曲、あいみょんでございます。と言ったところ、あいみょんのファンから『お前にあいみょんの何がわかる』と苦情が来た」という話をしていた。
その、江戸のあいみょんに浄瑠璃の演奏を頼む松平丹波守。二人は迷ったが演奏を行い、松平丹波守からお褒めの言葉を賜る。ただ、二人は松平伊賀守の家臣で、他の大名の前で浄瑠璃を演奏したことがバレると色々とまずいことになるので、内密にと願い出る。ただ松平丹波守は、江戸で松平伊賀守(信州上田城主)に碓氷峠で面白いことがあったと話してしまい、口止めされていたことを思い出して、「尾上と中村というものが猪退治を行った」と嘘をつく。そこで松平伊賀守は、家臣の尾上と中村を見つけ出し、猪退治の話をするよう命じる。なんでそんなことになったのか分からない尾上と中村であったが、即興で猪退治の講談を行い、松平伊賀守にあっぱれと言われたという内容である。
伯山の講談であるが、非常にメロディアスでリズミカル。江戸の人々は今のミュージカルを聴くような感覚で講談を聴いていたのではないかと想像される。江戸の講談を聴くのは今日が初めてなので、他の人もこのようにメロディアスでリズミカルなのかどうかは分からないが、これに比べると上方の講談はかなり落ち着いた感じで、住民の気質が反映されているように思える。

森山未來が登場し、「伯山さんの講談を是非聴きに行って下さい。チケット取れませんけどね」と語った。


ちなみに私は、旧PARCO劇場を訪れたのは数回で余り多くはない。1990年代には、芸術性の高い作品は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで上演されることが多く、三茶によく行っていた。
旧PARCO劇場で良かったのは、何と言っても上川隆也と斎藤晴彦版の初演となった「ウーマン・イン・ブラック」。上川と斎藤版の「ウーマン・イン・ブラック」は、その後、大阪で2回観ているが、ネタを知った上での鑑賞となったので、PARCO劇場での初演が一番印象的である。私がこれまで観た中で最も怖い演劇で、見終わってからも1週間ほど家族に「上川隆也良かったなあ」と言い続けていた記憶がある。

朗読劇「ラヴ・レターズ」は、妻夫木聡のものを観ている。相手の女優の名前は敢えて書かない。検索すればすぐに出てくると思うが。ラストシーンで妻夫木聡は泣いていた。
朗読劇も劇に入れるとした場合、この作品が妻夫木聡の初舞台となる。

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2024年11月13日 (水)

おとの三井寺 vol.3 「二十四節気の幻想劇」

2024年11月2日 滋賀県大津市の三井寺勧学院客殿(国宝)にて

大津へ。三井寺こと園城寺の国宝・勧学院客殿で、「おとの三井寺 vol.3 『二十四節気の幻想劇』」を観る。作曲家の藤倉大が、三井寺の委嘱を受けて作曲した「Four Seasons(四季)」~クラリネット、三味線と和歌詠唱のための~を軸に、藤倉作品と藤倉が選曲に関わったと思われる作品の演奏に、串田和美によるテキスト、朗読、演出を加えた幻想劇として構成したものである。

午後2時開演で、開場は午後1時30分から。少し早めに三井寺に着いたので、三井寺の唐院灌頂堂、三重塔、金堂などを訪ねた。
三井寺には、延暦寺僧兵時代の武蔵坊弁慶が奪って延暦寺へと引き摺って歩いたという伝説のある弁慶引き摺り鐘などがある。

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三井寺勧学院客殿で行われる「おとの三井寺 vol.3 『二十四節気の幻想劇』」。勧学院客殿は造営に豊臣秀頼と毛利輝元が関わっており、桃山時代を代表する客殿として国宝に指定されている。
床の間(で良いのだろうか)の前に台が用意されて、下手側から順に三味線・謡の本條秀慈郎、クラリネットと選曲・構成の吉田誠、テキスト・朗読・演出の串田和美の順に席に座る。
串田の「じゃ、やろうか」の声でスタート。

藤倉大の作曲と、おそらく選曲も手掛けた曲目は、藤倉大の「Autumn」(園城寺委嘱作品)、バルトークの44の二重奏曲から第36番「バグパイプ」、虫の音による即興、ドビュッシーの「月の光」~スティングの「バーボン・ストリートの月」、ジョン・ケージの「ある風景の中で」、ドナトーニのClair(光)から第2曲、ドビュッシーの「雪の上の足跡」、クルタークの「The Pezzi」からアダージョ、藤倉大の「Winter」(園城寺委嘱作品/世界初演)、端唄「淡雪」(編曲:本條秀太郎)、端唄「梅は咲いたか」、藤倉大の「Spring」(園城寺委嘱作品)、端唄「吹けよ川風」、藤倉大のタートル・トーテム~クラリネット独奏のための、端唄「夜の雨」、藤倉大の「Neo」~三味線独奏のための、坂本龍一の「honji Ⅰ」、藤倉大の「Summer」(園城寺委嘱作品/世界初演)、Aphex Twinの「Jynweythek」、ドビュッシーの「月の光」、藤倉大の「Autumn」(園城寺委嘱作品)のリピート。
楽曲構成は「おとの三井寺」の芸術監督である吉田誠が行い、串田和美の手によるテキストは「詩」とされている。

串田和美が読み上げるのは未来からの回想。かつて日本には四季と呼ばれる四つの季節があり(未来にはなくなっているらしい)、それを更に細分化した二十四節気というものも存在したと告げる。「幻想劇」と銘打っているため、テキストもリアリズムからは遠いものであり、ノスタルジアを感じさせつつ、季節が登場人物になったり、冬の寒さが原因で殺人事件が起こったり(カミュの『異邦人』へのオマージュであろうか)と、異世界のような場所での物語が展開される。だが、四季とは最初からあったのか、人間が決めたものではないのかとの問いかけがあり、人間は賢かったのか愚かだったのかの答えとして、「賢いは愚か、愚かは賢い」というシェイクスピアの「マクベス」の魔女達の言葉の変奏が語られたりした。夏休みの宿題の締め切りが、人類が抱えている課題への締め切りになったりもする。その上で、目の前の現実と、頭の中にある出来事、どちらが重要なのかを問いかけたりもした。フィクションやイマジネーション、物語の優位性や有効性の静かな訴えでもある。

今回メインの楽曲となっている藤倉大の「Four Seasons」~クラリネット、三味線と和歌詠唱のための~は、園城寺の委嘱作品であるが、「Autumn」と「Spring」は昨年初演され、「Winter」と「Summer」は、今日が世界初演で、全曲演奏も今日が初演となる。
季節ごとに鍵となる和歌が存在しており、「Autumn」は、大田垣蓮月(尼)の「はらはらと おつる木の葉に 混じり来て 栗のみひとり 土に声あり」、「Spring」も大田垣蓮月の「うかれきし 春のひかりの ながら山 花に霞める 鐘の音かな」、「Winter」は大僧正行尊(三井寺長吏)の、「(詞書:月のあかく侍りける夜、そでのぬれたりけるを)春くれば 袖の氷も 溶けにけり もりくる月の やどるばかりに」、「Summer」が源三位頼政の「(詞書:水上夏月)浮草を 雲とやいとふ 夏の池の 底なる魚も 月をながめば」。平氏に仕えながら、以仁王に平家打倒の令旨を出させた源頼政であったが、作戦は平家方に露見。以仁王は三井寺に逃げ込み、頼政もそれを追って三井寺に入っている。両者は宇治平等院の戦いで敗れているが、当時、平等院は三井寺の末寺であったという。
和歌のように無駄を省いた楽曲であり、音という素材そのもので勝負しているような印象も受ける。
吉田のクラリネットも本條の三味線も上手いだけでなく、勧学院客殿の雰囲気に合った音を生み出していたように思う。


最後に、三井寺第164代長吏・福家俊彦のお話がある。福家長吏は、この作品が四季を題材にしたものであることから、道元禅師の「春は花、夏ほととぎす秋は月冬雪せえて冷し(すずし)かりけり」を引用し、串田の詩の内容を受けて、最近は理性や理屈が力を持っているが、理性はある意味、危険。理性ばかりが大切ではないことを教えてくれるのが芸術、といったようなことを述べていた。

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2024年10月27日 (日)

観劇感想精選(473) 京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」

2024年10月20日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」を観る。京都芸術大学舞台芸術学科の教授となった松尾スズキが若い俳優達と取り組むプロジェクトの一つである。
松尾スズキとつかこうへいは同じ九州人にして福岡県人ではあるもののイメージ的には遠いが、実際には松尾スズキは九州産業大学芸術学部在学中に、つかこうへいの「熱海殺人事件」を観て衝撃を受け、芝居を始めたというありがちなコースをたどっていることを無料パンフレットで明かしている。ただ、つかこうへいとは生涯、面識がなかったようだ。

作:つかこうへい。いくつか版があるが昭和57年4月25日初版発行の『戯曲 蒲田行進曲』を使用。演出:松尾スズキ。出演は、上川周作、笠松はる、少路勇介(しょうじ・ゆうすけ)、東野良平(ひがしの・りょうへい)、末松萌香、松浦輝海(まつうら・てるみ)、山川豹真(ひょうま。ギター)。


映画でもお馴染みの「蒲田行進曲」。蒲田行進曲と銘打ちながら、舞台は大田区蒲田ではなく京都。東映京都撮影所が主舞台となる。実は映画版の「蒲田行進曲」は松竹映画で、松竹映画でありながら東映京都撮影所で収録を行っているという変わった作品である。

末松萌香と松浦輝海がト書きを全て朗読するという形での上演。二人は、セリフの短い役(坂本龍馬や近藤勇など)のセリフも担当する。


上川周平による前説。「どうも、こんにちは。上川周平です。京都芸術大学映画俳優コース出身者として黒木華の次に売れています(格好をつける)。嘘です。土居(志央梨)さんの方が売れています。土居さんとは同級生です。今日は京都の山奥の劇場へようこそ。まだ外国人観光客に発見されていない日本人だけの場所。朗読劇なのに5500円。これは僕らかなり頑張らないといけません。演出の松尾(スズキ)さんは、役者がセリフを噛むとエアガンで撃ちます。まさに演劇界の真○よ○子」と冗談を交えて語る。

上川周平は、今年前期のNHK連続テレビ小説「虎に翼」で、主人公の猪爪寅子(伊藤沙莉)の実兄にして、寅子の女学校時代からの親友である花江(森田望智)の夫にして二児の父、日米戦争で戦死するという猪爪直道役を演じ、口癖の「俺には分かる」も話題になっている(「俺には分かる」と言いながら当たったことは一度もなかった)。


東映京都撮影所では、新選組を主人公にした映画が撮られている。まず坂本龍馬(松浦輝海)の大立ち回り。龍馬は土方歳三の恋人にも手を出そうとして、駆けつけた土方に止められる。土方役の銀四郎(銀ちゃん。少路勇介)の脇に控えているのが、銀ちゃんの大部屋時代の後輩である村岡安治(ヤス。上川周作)。銀ちゃんは大部屋からスターになり、土方歳三役という大役を演じているが、ヤスは大部屋俳優のままである。実はヤスも「当たり屋」という低予算映画に主演したことがあるのだが、大部屋の脇役俳優が主役になっても勝手が分からず、セリフが出てこなかったりと散々苦労した思い出がある。その後も、ヤスは銀ちゃんが取ってくるセリフもないような役をやったりと、弟分を続けていた。
銀ちゃんには、小夏という彼女(笠松はる)がいる。2年前まではそれなりの役を貰っていた女優だったのだが、2年のブランクがあって今は良い役にありつけない。小夏は30歳。今でこそ、30歳は女優盛りであるが、往年は「女優は二十代が華」の時代。30歳になるとヒロインは難しく、出来る役は限られてしまう。女優とは少し異なるが、「女子アナ30歳定年説」というものがつい最近まであった。今は30代でも40代でも既婚者でも子持ちでも人気の女子アナはいるが、ほんの少し前まではそうではなかったのである。30歳を機に、女優や女子アナを辞める人がいた。そう考えると時代はかなり変わってきている。

芸能界で、女優が30歳になることを初めて肯定的に捉えたのはおそらく浅野ゆう子で、彼女は「トランタン」というフランス語で30歳を意味する言葉を使ってイメージ改善に励んでいる。その後、藤原紀香が「早く30歳になりたかった」宣言をして30歳の誕生日をファンを集めて盛大に祝ったり、蒼井優が「生誕30年祭」と銘打っていくつかのイベントを行ったりと、女優陣もかなり努力している印象を受ける。

ただこれは、女優の限界30歳の時代の話。小夏は銀ちゃんの子を妊娠しているが、銀ちゃんは小夏をヤスと結婚させるという、酷い提案を行う。結局、小夏とヤスは籍を入れる。昭和の祇園女御である。映画版だとヤス(平田満が演じた)が小夏(松坂慶子)の大ファンだったという告白があるのだが、舞台版ではそれはないようだ。
ちなみに銀ちゃんは白川(おそらく北白川のこと。京都芸術劇場と京都芸術大学が北端にある場所で、京都屈指の高級住宅街)に住んでいるようで、すぐそばでの話ということになっている。小夏は銀ちゃんの5階建てのマンションを訪れ、合鍵を使って中に入り、銀ちゃんの部屋で泣く。


新選組の映画では、池田屋での階段落ちが名物になっているが、危険なので誰もやりたがらない。銀ちゃんはやる気でいるが止められる。警察がうるさいというのだが、銀ちゃんは、「東映は何のためにヤクザを飼ってるんだい」とタブーを言う(東映の任侠ものは本職に監修を頼んでいた。つまり撮影所に本職が何人もいたのである。誰か明言はしないがヤクザの娘が大女優であったりする)。
15年前の「新選組血風録」で階段落ちを行った若山という俳優は、その後、下半身不随になったという。
小夏のお産の費用を捻出するため、ヤスが階段落ちを申し出る(ちなみに階段落ちする志士のモデルは、龍馬の友人である土佐の本山七郎こと北添佶摩という説があり、彼が池田屋の階段を降りて様子を見に行ったというのがその根拠だが、それ自体誰の証言なのかはっきりしない上、階段落ち自体がフィクションの可能性も高いのでなんとも言えない)。
階段落ちの談義の場面では、ニーノ・ロータの「ロミオとジュリエット」のテーマ音楽が流れるが、何故なのかは不明。また京都が舞台なのに、マイ・ペースの「東京」が何度も流れるのも意図はよく分からない。

ヤスは、小夏を連れて故郷の熊本県人吉市に行き、親に小夏を合わせる。ちなみに小夏は茨城県水戸市出身の関東人である。歓迎される二人だったが、小夏の子の親がヤスでないことは見抜かれていた。

ヤスと小夏の結婚式に銀ちゃんが乱入(ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」のパロディーで、「サウンド・オブ・サイレン」が流れる)するというハプニングがあったりするが、ヤスの男を見せるための階段落ちへの決意は変わらず、その日を迎えるのだった。


つかこうへいの演劇の特徴は長台詞が勢いよく語られるところにあり、アクションを入れるのも確かに効果的なのだが、台詞だけでも聞かせられるだけの力があるため、松尾スズキも朗読劇というスタイルを採ったのだろう(役者が動き回るシーンは少しだけだが入れている)。見応えというより聞き応えになるが、確かにあったように思う。

「蒲田行進曲」に納得のいかなかった松竹の井上芳太郎は、「キネマの天地」という映画を制作している。中井貴一と有森也実の出世作であり、渥美清演じる喜八の最期がとても印象的な映画となっている。また、映画「キネマの天地」に脚本家の一人として参加した井上ひさしは戯曲「キネマの天地」を発表。私も観たことがあるが、趣が大きく異なって心理サスペンスとなっている。


今回使用された「蒲田行進曲」のテキストは、風間杜夫の銀ちゃん、平田満のヤスという映画版と同じキャストでの上演を念頭に改訂されたもので、二人の出会いが「早稲田大学の演劇科」であったりと、事実に沿った設定がなされているのが特徴でもある。

親分肌の銀ちゃんと、舎弟キャラのヤスの友情ともまた違った関係が興味深く、そこに落ち目の女優との恋愛話を絡めてくるのが巧みである。銀ちゃんに何も言えないヤスであるが、ラストに階段落ちを見せることで男気を示す。

ちなみに、映画版で私が一番好きなやり取りは、キャデラックの車内で銀ちゃんが、
「おい、俺にも運転させろ!」と言い、
「銀ちゃん、免許持ってないじゃない」との返しに(今と違って、危ないので俳優には運転免許を取らせないという方針の事務所が多かった)、
「ばっきゃろう!! キャデラックは免許いらねえんだよ!!」と啖呵を切るシーンで(啖呵を切ろうが免許がないと運転出来ないのだが)あるが、舞台なのでキャデラックのシーンがなく、当然ながらこのやり取りも入っていない。


実は、東京の小劇団による「蒲田行進曲」の上演を観たことがある。1994年のことで、場所は銀座小劇場という地下の劇場。東京灼熱エンジンというアマチュア劇団の上演であった。「週間テレビ番組」という雑誌の懸賞に母が応募して当たったのである。
東京灼熱エンジンは、階段落ちのシーンで照明を明滅させて、ヤスをスローモーションで見せるという工夫をしていたが、今回は小夏役の笠松はるが、箱馬を積み重ねたような木の箱をスティックで叩くという、音響的な演出がなされていた。ただ正直、音響だけでは弱いように思われる。


若い俳優達も熱演。演技力が特段高いということはないが、つかの演劇に要求されるのは巧さよりもパワー。力強さの感じられるしなやかな演技が展開される。ラストで、俳優陣が「蒲田行進曲」を歌う演出もあるが、今回は音楽が流れただけで歌うことはなかった。

カーテンコールには松尾スズキも姿を見せた。

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2024年9月21日 (土)

観劇感想精選(469) 佐野史郎&山本恭司&小泉凡 「小泉八雲 朗読のしらべ 龍蛇伝説~水に誘われしものたち~」

2024年9月6日 大阪・谷町4丁目の山本能楽堂にて

午後6時から、谷町4丁目の山本能楽堂で、「小泉八雲 朗読のしらべ 龍蛇伝説~水に誘われしものたち~」を観る。小泉八雲が愛した松江出身の佐野史郎がライフワークとして続けている朗読公演。二夜連続で小泉八雲作品の公演に接することとなった。
原作:小泉八雲、監修・講演:小泉凡、脚本・朗読:佐野史郎、構成・音楽:山本恭司、翻訳:平井星一、池田雅之。

佐野史郎と山本恭司は松江南高校の同級生である。

今回の演目は、『知られぬ日本の面影』より「杵築」、『知られぬ日本の面影』より「美保の関」、『知られぬ日本の面影』より「日本海に沿って」河童の詫び証文、『天の川奇譚』より「鏡の乙女」、『霊の日本』より「振袖火事」、『怪談』より「おしどり」、『東の国から』より「夏の日の夢」


まず、小泉八雲の曾孫である小泉凡が登場。ちょっとした講演を行う。今年は小泉八雲の没後120年、そして代表作『怪談』出版120周年に当たるメモリアルイヤーだという。更に、来年のNHK連続テレビ小説が小泉八雲の妻である小泉節(小泉セツ、小泉節子)をモデルにした「ばけばけ」に決まり、会う人会う人みな一様に「おめでとうございます」と言ってくるという話をする。小泉節を主役級として描いた作品としては、八雲との夫婦生活を描いた「日本の面影」(1984年、NHK総合。原作・脚本:山田太一。小泉節を演じたのは檀ふみ。小泉八雲を「ウエストサイド物語」のジョージ・チャキリスが演じているという異色作である。私も子どもの頃に見てよく覚えている)以来となる。小泉凡が子どもの頃、家の奥に姿見があったそうだが、それが小泉節の遺品だったそうだ。鏡の右の部分が少し色あせたような感じだったので、「なんであそこだけあんなになってるの?」と聞くと、「おばあちゃん(小泉節)、いつもあそこに手ぬぐい掛けてたからよ」と母親が答えたそうである。ちなみに小泉凡が小学校に上がり、おもちゃのサッカーボールを買って貰って家の中で遊んでいたところ、その姿見に思い切りボールをぶつけてしまって、ひびが入り、その後はテープで留めてあるという。今回は井戸が鏡になるという話が出てくるのだが、ラフカディオ・ハーンが青年期を過ごしたアイルランドにも聖なる泉が沢山あり、そこに不思議な姿が映るという話が数多くあるそうだ。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、来日当初は、東京や横浜、特に外国人居留区のあった横浜に長く滞在していたのだが、鎌倉や江ノ島(よく勘違いされるが、江ノ島は鎌倉市ではなく藤沢市にある)に出掛け、水泳が得意なのでよく泳いでいたそうだが、江ノ島の龍の像や龍神伝説を知って感銘を受けているという。ということで、今回は龍蛇を題材にした作品でランナップの組むことになった。

ちなみに出雲地方にはウミヘビが打ち上がるそうで、出雲の西の方では出雲大社に、出雲の東の方では佐太(さだ)神社に打ち上がったウミヘビを龍神として毎年奉納していたのだが、地球温暖化の影響で、ここ10年ほどはウミヘビが打ち上げられることがなくなってしまったそうである。出雲の沖には寒流が流れ込んでおり、それに行方を遮られたウミヘビが浜に打ち上げられるのだが、寒流がなくなってしまったため、男鹿半島の方まで行かないとウミヘビが打ち上がる様子は見られなくなってしまったそうである。
なお、「ばけばけ」とは全く関係なしに、現在、小泉八雲記念館では、「小泉セツ―ラフカディオ・ハーンの妻として生きて」という企画展をやっていることが紹介される。


佐野史郎は羽織袴姿で登場。山本恭司はエレキギターの演奏の他、効果音も担当する。舞台正面から見て左手(下手)に佐野史郎が、右手(上手)に山本恭司が陣取る。

佐野史郎は声音や声量を使い分けての巧みな朗読を見せる。音楽好きということもあって音楽的な語り口を聞かせることもある。だが、技術面よりも八雲への愛に溢れていることが感じられるのが何よりも良い。


ラフカディオ・ハーンは、素戔嗚尊が詠んだ日本初の和歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」にちなんで八雲と名乗ったとされており、今回の佐野史郎が解説を担当した無料パンフレットにもそう書かれているが、日本ではハーンが、「ハウン」に聞こえ、「ハウンさん」と呼ばれたことから、「ハ=八、ウン=雲」にしたという説もある。

「杵築」は、八雲が出雲大社を参拝する時の記録で、宍道湖を船で渡っている時に見た、お隣、鳥取の大山の描写があるなど、旅情と詩情に溢れた文章である。

「美保の関」。美保関の神様は鶏を嫌うという。ついでに卵も嫌うという。ある日、船旅に出た一行は美保関で強風に遭う。誰か卵を持っていないかなどと言い合う人々。実は煙管に鶏の絵を入れた男がおり、それで美保関の神様が機嫌を損ねたのではないかという話になっている。この話には、大国主命の国譲りの神話が関与しているようである。美保関(美保神社)の神様はえびす様で事代主のこととされている。えびすは商売の神様としてお馴染みだが、実は蛭子(身体障害者)として流されており、祟り神でもある。
事代主自体は大国主の子とされ、鹿島神こと建御雷神に国譲りを迫られた大国主が事代主に聞くように言い、事代主が承諾したという展開になる。一方、弟神の建御方神は抵抗して建御雷神に敗れ、信州へと逃れ、諏訪大社に根付いている。建御雷神は藤原氏の氏神であるため、何らかの勢力争いが背景にあると思われる。
鶏というと、島根県の隣に鳥取県があるが、「鳥が騒がしい」と鳥取で乱が起こっているような描写が『古事記』に登場する。関係があるのかどうかは分からない。
大国主は、大神神社の大物主と同一視されることがあり、佐野史郎は、大神神社には卵が備えられることから、「大物主は蛇?」と記しているが、大物主が蛇なのは神話でも語られている。佐野は「卵は蛇の好物」としている。ということで、事代主は大国主=大物主とは逆の性質を持っていることが分かる。
鶏を嫌うことに関しては、折口信夫が面白い説を出しているが、鶏は朝を告げる鳥であり、太陽神である天照大神を最高神とする大和朝廷への反骨心があるのではないかと私は見ている。えびすが大和朝廷から捨てられた神であることもここに関係してくるのではないか。


日本各地にある河童の話。河童は馬を好むのだが、川に入った馬を掴んだところ、そのまま引きずり出され、人間達に捕らえられてしまう。そこで詫び状を書くという話である。
舞台は出雲の川津なのだが、小泉節は出雲弁がきつかったため、「かわづ」と発音できず、「かわぢ」と発音し、八雲は「河内」と聞き取り、そのまま記している。八雲は日本語はそれほど達者ではなかったため、節さんが頼りだったようだが、節さんが間違えるとそのまま間違えるということになっている。


『天の川奇譚』より「鏡の乙女」。京都が舞台である。ある日、男が井戸に飛び込んで死ぬという事件が起こる。
神官の松村が、京都にやってきて寺町に住み、老朽化した社殿復興の資金調達に奔走する。日照りがあり、京の水も涸れるのだが、松村の家の前の井戸だけは水が潤沢である。ある日、松村が井戸を覗くと、そこに絶世の美女が映っていた。余りに美しいので、松村は気を失い、危うく井戸に落ちるところであった。その美女がある日、松村の家を訪れる。美女は弥生という名の鏡の妖精で、毒蛇に捕らえられ、操られていたが、毒蛇は信州へと逃げた(つまり建御方神か?)という。井戸をさらうと鏡が見つかる。大分古びていたが、磨くと見事なものとなった。三月に作られたものであり、美女が弥生と名乗った意味も分かる。
弥生が再び現れる。百済からやってきた弥生は、藤原家の所有する鏡となったという。やはりここでも、藤原氏と建御方神の対立があるようだ。弥生の鏡は足利義政に献上され、義政は松村に金子を渡し、これで社殿の復興が叶うこととなった。


『霊の日本』より「振袖火事」。江戸時代初期、娘が町で色男を見かける。すぐに見失ってしまったが、色男の姿が脳裏に焼き付いた。色男の着物に似た色の振袖を着れば色男にまた会えるのではないかと考えた娘は、当時の流行りであった袖の長い青の振袖を作って貰い、それを常に着るようになる。だが、色男とは再会出来ない。娘は「南無妙法蓮華経」と唱え続ける。しかし恋の病のために次第に痩せ細り、ついには亡くなってしまう。振袖は娘の菩提寺に預けられたのだが、この寺の住職が高く売れると見込んで売りに出す。果たして、先の娘と同じ年頃の若い女性が振袖を結構な値段で買う。しかし、その女性もすぐにやつれて亡くなってしまう。振袖は寺に戻されるが、住職はまた売りに出す。また高値で売れ、買った若い女性がやつれて亡くなる、ということが繰り返される。流石に住職も、「この振袖には何かある」ということで、焼却処分しようとしたのだが、振袖は大いに燃え上がり、「南無妙法蓮華経」の七文字が火の玉となって江戸の町に飛び散る。延焼が延焼を生み、ついには江戸のほとんどが焼けてしまう。これが「振袖火事」こと明暦の大火である。火元となったのは、本郷の日蓮宗(法華宗)本妙寺であった。実は色男の正体は蛇であったという。

『怪談』より「おしどり」。陸奥国田村の郷、赤沼(現在の福島県郡山市に地名が残る)が舞台。村允(そんじょう)という鷹匠が狩りに出るが獲物を捕まえることが出来ない。ふと見ると、赤沼につがいのおしどりがいる。村允は空腹を満たすため、おしどりのオスを射る。メスの方は葦の中に逃げ去る。
その夜、村允の枕元に美しい女が現れる。女はおしどりのメスであることを明かし、なぜ罪もない夫を殺したのかと村允をなじる。そして赤沼に来いとの歌を詠む女。
翌朝、村允は赤沼に出向き、おしどりのメスを見つける。おしどりのメスは村允めがけて泳いできて、くちばしを自分に刺して自害して果てた。その後、村允は頭を丸めて僧侶となった。

『東の国から』より「夏の夜の夢」。浦島太郎の物語を翻案したものである。
大坂の住之江が舞台。漁師の倅である浦島太郎は、船で漁に出て釣り糸を垂らすが、かかったのは一匹の亀のみ。亀は千年万年生きるとされる縁起物である上に龍王の使い。殺す訳にはいかず、浦島太郎は亀を逃がす。すると水面を渡って美しい女がこちらに近づいてくる。女は龍王の娘であり、龍王の使いである亀を助けてくれたお礼に常夏の島にある父の宮殿、竜宮城へ共に行って、お望みならば花嫁となるので永遠に一緒に楽しく暮らそうと浦島太郎に言い、浦島太郎もそれに従った。二人で共に櫓を取り、竜宮城へと進む。
3年の楽しい月日が流れた。しかしある日、浦島太郎は、「両親の顔が見たいので戻りたい」と女に告げる。女は「もう会えなくなるから」と止めるが、浦島太郎は「顔を見て帰るだけだから」と聞かない。女は絹の紐で結んだ玉手箱を浦島太郎に渡し、「これが帰る助けになりましょうが、決して開けてはなりませぬ。どんなことがあっても!」と浦島太郎に念押しする。
浦島太郎は元いた浜に戻るが、全てが異なっている。老人に話を聞き、浦島太郎だと名乗ると老人は、「浦島太郎なら400年前に遭難したよ」と呆れる。古い墓を訪れた浦島太郎は、自分の墓を発見。一族の墓もそばにあった。落胆して帰路に就く浦島太郎。しかし、玉手箱を開ければ何かが変わるのではと思ってしまい……。

異国人の目が捉えた美しい日本が、日本語の名人にして小泉八雲の良き理解者である佐野史郎によって語られる。贅沢な夜となった。

なお、松江での公演が決定しており、『怪談』出版120年ということで、『怪談』からの話を多く取り上げ、いつもより上演時間も長く取った特別バージョンで行うという。興味深いが松江は遠い。

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2024年5月26日 (日)

コンサートの記(845) ローム クラシック スペシャル 2024 「日本フィル エデュケーション・プログラム 小学生からのクラシック・コンサート」 グリーグ 劇音楽「ペール・ギュント」より@ロームシアター京都サウスホール

2024年5月6日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、海老原光指揮日本フィルハーモニー交響楽団によるローム クラシック スペシャル「心と体で楽しもう!クラシックの名曲 2024 日本フィル エデュケーション・プログラム 小学生からのクラシック・コンサート」を聴く。上演時間約70分休憩なしの公演。演目はグリーグの劇音楽「ペール・ギュント」より抜粋で、江原陽子(えばら・ようこ)がナビゲーターを務める。

毎年のようにロームシアター京都で公演を行っている日本フィルハーモニー交響楽団。夏にもロームシアター京都メインホールで主に親子向けのコンサートを行う予定がある。

昔から人気曲目であったグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」であるが、2つの組曲で演奏されることがほとんどであった。CDでは、ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団による全曲盤(ドイツ・グラモフォン)、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団(DECCA)やネーメの息子であるパーヴォ・ヤルヴィ指揮エストニア国立交響楽団の抜粋盤(ヴァージン・クラシックス)などが出ているが、演奏会で組曲版以外が取り上げられるのは珍しく、シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団の定期演奏会で取り上げられた全曲版が実演に接した唯一の機会だろうか。この時は歌手や合唱も含めた演奏だったが、今回はオーケストラのみの演奏で、前奏曲「婚礼の場にて」、「夜の情景」、「婚礼の場にて」(前半部分)以外は2つの組曲に含まれる曲で構成されている。

ヘンリック・イプセンの戯曲「ペール・ギュント」は、レーゼドラマ(読むための戯曲)として書かれたもので、イプセンは上演する気は全くなかったが、「どうしても」と頼まれて断り切れず、「グリーグの劇音楽付きなら」という条件で上演を許可。初演は成功し、その後も上演を重ねるが、やはりレーゼドラマを上演するのは無理があったのか、一度上演が途切れると再演が行われることはなくなり、グリーグが書いた音楽のみが有名になっている。近年、「ペール・ギュント」上演復活の動きがいくつかあり、私も日韓合同プロジェクトによるものを観た(グリーグの音楽は未使用)が、ゲテモノに近い出来であった。
近代社会に突如現れた原始の感性を持った若者、ペール・ギュントの冒険譚で、モロッコやアラビアが舞台になるなど、スケールの大きな話だが、ラストはミニマムに終わるというもので、『イプセン戯曲全集』に収録されているほか、再編成された単行本なども出ている。

今回の上演では、海老原光、江原陽子、日フィル企画制作部が台本を纏めて共同演出し、老いたソルヴェイグが結婚を前にした孫娘に、今は亡き夫のペール・ギュントの昔話を語るという形を取っている。江原陽子がナレーターを務め、「山の魔王の宮殿にて」では聴衆に指拍子と手拍子とアクションを、「アニトラの踊り」ではハンカチなどの布を使った動きを求めるなど聴衆参加型のコンサートとなっている。


指揮者の海老原光は、私と同じ1974年生まれ。同い年の指揮者には大井剛史(おおい・たけし)や村上寿昭などがいる。鹿児島出身で、進学校として全国的に有名な鹿児島ラ・サール中学校・高等学校を卒業後に東京芸術大学に進学。学部を経て大学院に進んで修了した。その後、ハンガリー国立歌劇場で研鑽を積み、2007年、クロアチアのロヴロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで3位に入賞。2010年のアントニオ・ペドロッティ国際指揮者コンクールでは審査員特別賞を受賞している。指揮を小林研一郎、高階正光、コヴァーチ・ヤーノシュらに師事。日フィルの京都公演で何度か指揮をしているほか、日本国内のオーケストラに数多く客演。クロアチアやハンガリーなど海外のオーケストラも指揮している。2019年に福岡県那珂川市に新設されたプロ室内オーケストラ、九州シティフィルハーモニー室内合奏団の首席指揮者に就任し、第1回と第2回の定期演奏会を指揮した(このオーケストラはその後、大分県竹田市に本拠地を移転し、改組と名称の変更が行われており、シェフ生活は短いものとなった)。

ナビゲーターの江原陽子は、東京藝術大学(東京芸術大学は国立大学法人ということもあり、新字体の「東京芸術大学」が登記上の名称であるが、校門やWeb上で使われている旧字体の「東京藝術大学」も併用されており、どちらを使うかはその人次第である)音楽学部声楽科を卒業。現在、洗足学園音楽大学の教授を務めている。藝大在学中から4年間、NHKの番組で「歌のおねえさん」を務め、その後、教職や自身の音楽活動の他に、歌や司会でクラシックコンサートのナビゲーターとしても活躍している。日フィルの「夏休みコンサート」には1991年から歌と司会で参加するなど、コンビ歴は長い。


舞台後方にスクリーンが下がっており、ここに江原のアップや客席、たまにオーケストラの演奏などが映る。

海老原光の演奏に接するのは久しぶり。私と同い年だが、にしては白髪が目立つ。今年で50歳を迎えるが、指揮者の世界では50歳はまだ若手に入る。キビキビした動きで日フィルから潤いと勢いのある響きを引き出す。ビートは基本的にはそれほど大きくなく、ここぞという時に手を広げる。左手の使い方も効果的である。

日フィルは、創設者である渡邉暁雄の下で、世界初のステレオ録音による「シベリウス交響曲全集」と世界初のデジタル録音による「シベリウス交響曲全集」をリリースし、更にはフィンランド出身のピエタリ・インキネンとシベリウス交響曲チクルスをサントリーホールで行って、ライブ録音を3度目の全集として出すなどシベリウスに強いが、渡邉の影響でシベリウス以外の北欧ものも得意としている。北欧出身者ではないが、フィンランドの隣国であるエストニアの出身で北欧ものを得意としているネーメ・ヤルヴィ(現在は日フィルの客員首席指揮者)を定期的に招いていることもプラスに働いているだろう。

音楽は物語順に演奏され、合間を江原のナレーションが繋ぐ。降り番の楽団員やスタッフも進行に加わる。演奏曲目は、前奏曲「婚礼の場にて」、「イングリットの嘆き」、「山の魔王の宮殿にて」、「オーゼの死」、「朝(朝の気分)」、「アラビアの踊り」、「アニトラの踊り」、「ペール・ギュントの帰郷」、「夜の情景」、「ソルヴェイグの歌」、そしてペール・ギュントとソルヴェイグの孫娘の結婚式があるということで「婚礼の場にて」の前半部分が再び演奏される。

ロームシアター京都サウスホールは、京都会館第2ホールを改修したもので、特別な音響設計はなされておらず、残響もほとんどないが、空間がそれほど大きくないので音はよく聞こえる。日フィルも音色の表出の巧みさといい、全体の音響バランスの堅固さといい、東京芸術劇場コンサートホールやサントリーホールで聴いていた90年代に比べると大分器用なオーケストラへと変わっているようである。
江原陽子のナビゲートも流石の手慣れたものだった。


演奏終了後に撮影タイムが設けられており(SNS上での宣伝に使って貰うためで、スマホやタブレットなどに付いているカメラのみ可。ネットに繋げない本格的な撮影機材は駄目らしい)多くの人がステージにカメラを向けていた。

終演後には、海老原光と江原陽子によるサイン会があったようである。

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2022年2月21日 (月)

観劇感想精選(427) 文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」@びわ湖ホール

2022年2月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」を観る。作:アントン・チェーホフ、台本・演出:松本修(MODE)。

滋賀県が、令和2年3月に作成した「滋賀県障害者文化芸術活動推進計画」に基づいて行われる、「障害のある人やない人、年齢のちがう人、話す言葉がちがう人など、さまざまな人が支えあうことで、だれもが自分らしく活躍できる滋賀県をつくる」ために発足した「文化芸術×共生社会プロジェクト」の一つとして行われる公演である。

出演者は、数人のプロフェッショナルや演技経験者を除き、オーディションで選ばれたキャストによって行われる。オーディションは、演技経験や障害の有無を問わずに行われ、約3ヶ月の稽古を経て本番を迎える。一つの役に複数の俳優(読み手)が扮し、幕ごとに役が交代となる。朗読劇であるが、座ったまま読むだけでなく、立ち上がって動きを付けたり、経験豊富な俳優は一般上演さながらの演技も行う。

出演は、花房勇人、吉田優、保井陽高、山下佐和子(以上、トレープレフ)、木下菜穂子(元俳優座)、齋藤佳津子、住田玲子(以上、アルカージナ)、廣田誠一、江嶋純吉、山口和也(以上、トリゴーリン)、平川美夏、高木帆乃花、服部千笑、西田聖(以上、ニーナ)、大辻凜、西山あずさ、飯田梨夏子、伊東瑛留(以上、マーシャ)、大田新子、梅下節瑠、横田明子、藤野夏子(以上、ポリーナ)、孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)、小田実(以上、シャムラーエフ)、布浦真(ドールン)、清水亮輔、佐藤海斗(以上、メドヴェージェンコ)、HERO、森川稔(以上、ソーリン)。
ナレーター:孫高宏&清水洋子。ピアノ演奏:松園洋二。松園は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」などのロシア音楽を中心に演奏。第4幕のトレープレフが舞台裏でピアノを弾くという設定の場面では、ショパンの夜想曲第20番(遺作)を奏でた。

聴覚障害者のため、舞台下手側で手話通訳があり、背後のスクリーンにもセリフが字幕で浮かぶ。また視覚障害者のためには、点字によるパンフレットが配布された。

湖のほとりを舞台とした芝居であるチェーホフの「かもめ」。それに相応しい湖畔の劇場であるびわ湖ホール中ホールでの上演である。
また、スクリーンには、滋賀県内各地で撮られた琵琶湖の写真が投影され、雰囲気豊かである。

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新劇の王道作品の一つである「かもめ」であるが、接する機会は思いのほか少なく、論外である地点の公演を除けば、新国立劇場小劇場で観たマキノノゾミ演出の公演(北村有起哉のトレープレフ、田中美里のニーナ)、今はなきシアターBRAVA!で観た蜷川幸雄演出の公演(藤原竜也のトレープレフ、美波のニーナ)の2回だけ。マキノノゾミ演出版はそれなりに良かったが、蜷川幸雄演出版は主役の藤原竜也が文学青年にはどうしても見えないということもあり、あらすじをなぞっただけの公演となっていて、失敗であった。蜷川は文芸ものをかなり苦手としていたが、「かもめ」も省略が多いだけに、表現意欲が大き過ぎると空回りすることになる。

今回の「かもめ」であるが、演技経験を問わずに選ばれたキャストだけに、発声などの弱さはあったが(字幕があったためになんと言ったか分かったことが何度もあった)、きちんとテキストと向き合ったことで、セリフそのものが持つ良さがダイレクトに届きやすいという点はかなり評価されるべきだと思う。テキストそのものに力があるだけに、余計なことをしなければ、「かもめ」は「かもめ」らしい上演になる。第4幕などはかなり感動的である。涙が出たが、人前で泣くのは嫌いなので指で拭って誤魔化した。


「かもめ」は、「余計者」の系譜に入る作品である。主人公のコンスタンチン・トレープレフは、有名舞台女優のアルカージナの息子であり、教養も高く、天分にもそれなりに恵まれた青年であるが、これといってやることがなく、日々を無為に過ごしている。彼が湖畔の仮設舞台で、ニーナを出演者として上演した演劇作品は、生き物が全くいなくなった世界で、それまでの生物の魂が一つになるという、先端的な思想を取り入れたものであり、観念的であるが、注意深く内容を探ってみると、トレープレフ本人が他の多くの人間よりも優れているという自負を持って書いたものであることが分かる。トレープレフが凡人を見下したセリフは実際に第3幕で吐かれる。トレープレフは、恋人であるニーナも当然ながら見下している。大した才能もないのに女優を夢見る世間知らずのお嬢ちゃん。おそらくそう受け止めていただろう。

「かもめ」でよく指摘されるのが、片思いの連鎖である。トレープレフはニーナと恋人関係にあるが、ニーナはトレープレフよりも売れっ子作家であるトリゴーリンへと傾いていく。管理人であるシャムラーエフとポリーナの娘であるマーシャはトレープレフのことが好きだが、トレープレフはマーシャの行為を受け容れないどころか迷惑がっている。そんなマーシャを愛しているのが、目の前の事柄にしか注意が向かない、教師のメドヴェージェンコである。マーシャはトレープレフの芸術気質に惚れているので、当然ながら給料が足りないだの煙草代が必要だのとシミ垂れたことをいうメドヴェージェンコのことは好みではない。

通常は、「片思いの連鎖」という状況の理解だけで終わってしまう人が多いのだが、それが生み出すのは壮絶なまでの孤独である。分かって欲しい人、その人だけ分かってくれれば十分な人から、分かっては貰えないのである。
トレープレフは、女優である母親から自作を理解されず(トレープレフがエディプスコンプレックスの持ち主であることは、直接的には関係のない場面でさりげなく示唆される)、ニーナもトリゴーリンの下へと走る。ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに出たはいいが、トリゴーリンは文学には関心があるものの演劇は見下しており、あっけなく捨てられる。マーシャは結局はメドヴェージェンコと結婚するのだが、その後もメドヴェージェンコを完全に受け容れてはおらず、トレープレフに未練がある。

そうした状況の中で、トレープレフは作家としてデビューすることになるのだが、評価は決して高くなく、中島敦の小説の主人公達のように「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にさいなまれている。作家にはなったが成長出来ていない。相変わらず他人を見下しているが、その根拠がないことに自身でも気付いている。
そこにニーナがふらりと訪ねてくる。同じ町に宿泊していたのだが、会いたくてなんどもトレープレフの家に足を運んでいたのだ(かつて自身がトレープレフの台本で演じた仮説舞台で泣いていたのをメドヴェージェンコに見られていたが、メドヴェージェンコはそれを幽霊か何かだと勘違いしていた)。
一時、追っかけのようなことをしていたため、ニーナの演技力について知っていたトレープレフは、相変わらずの何も分からない女の子だと、ニーナのことを見なしていた。それは一種の、そして真の愛情でもある。少なくとも劇の始まりから終わりに至るまで、彼がニーナを愛していない時間などただの1秒もないのであるが、至らない女性であるニーナは自分の下に戻ってくると高をくくっていたかも知れない。
だが、目の前に現れたニーナは、精神的に追い詰められていたが、自立した女性へと変身していた。トレープレフはいつの間にか追い抜かれていたのである。そして自分より上になったニーナはもう自分のものにはならない。こうなると小説家になったのもなんのためだったのか分からなくなる。

ロシアの「余計者」文学の系譜、例えばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン(私が読んだ岩波文庫版のタイトルは『オネーギン』)』などでもそうだが、当初は見下してた女性が、気がついたら手の届かない存在になっており、絶望するというパターンが何度も見られる。余計者であるが故の鬱屈とプライドの高さが生む悲惨な結末が、男女関係という形で現れるからだろうか。他の国の文学には余り見られないパターンであるため不思議に感じる(相手にしなかった男が出世しているという逆のパターンは良くあるのだが)。
ただ言えるのは、それが遠のいた青春の象徴であるということある。あらゆる夢が詰まっていた青春時代。多くの選択肢に溢れていたように「見えた」季節の終わりを、観る者に突きつける。その胸をえぐられるような感覚は、多くの人が感じてきたはずのことである。

庶民を主人公としたために初演が大失敗に終わった「かもめ」。だが、我々現代人は登場人物達の中に自身の姿を発見する。そうした劇であるだけに、「かもめ」は不滅の命を与えられているといえる。

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2021年12月23日 (木)

上七軒文庫ツイキャス配信「おはなしLeiture」vol.2

2021年11月14日

午後1時30分から、上七軒文庫のツイキャスでの配信「おはなしLeiture」vol.2を観る。
お話と絵、朗読による物語配信である。
原作:るか子。音楽:法太。朗読:鹿田ひさこ、田ノ口リコ、東村洋子。着付け協力:中村千佳子。イラストは田ノ口リコが兼任する。

泉鏡花や芥川龍之介や内田百閒の短編小説を彷彿とさせる、秋から冬にかけてのノスタルジックで不思議なお話全13編からなる配信公演。明治時代に造られた町家である上七軒文庫からの配信に相応しい内容である。配信のみではなく、上七軒文庫を会場にした公演も行えるなら建物自体の雰囲気にもマッチしてより良いものになりそうだが、その場合は上演のスタイルを変えないといけないため(絵は、ボードの上に置かれたものがクローズアップされる。会場での公演の場合は、それをモニターに映す必要があるが、臨場感は却って出にくいかも知れない)難しいだろう。
ともあれ、長い歴史と底知れぬ深さを持つ関西という場所を中心とした、迷宮を彷徨うような物語は、子供からお年寄りまで、多くの視聴者の琴線に触れるものであることは間違いない。多くの歴史や記憶が積み重なった重層都市である京都。そこで紡がれて送り届けられる物語には抗いがたい魅力がある。

これらの作品の絵本バージョンも読んでみたくなる公演内容であった。

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2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年7月 4日 (日)

コンサートの記(727) 京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」

2021年6月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」を聴く。

緊急事態宣言発出のため、4月25日から5月31日まで臨時休館していたロームシアター京都。今日の公演が再スタートとなる。

京都市出身の芥川賞受賞作家である藤野可織と京都市交響楽団によるコラボレーション。藤野の新作小説の朗読と、パリゆかりの作曲家の作品による新たな表現が模索される。指揮は三ツ橋敬子。

朗読を担当するのはAKB48出身の川栄李奈であるが、企画発表時には出演者はまだ決まっておらず、しばらく経ってから川栄の出演が公にされた。

演奏曲目は、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第1曲〈プレリュード〉、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「カルタ遊び」より抜粋、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈夜への前奏曲〉、シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第2曲〈フォルラーヌ〉、サティ作曲ドビュッシー編曲の「ジムノペディ」第2番(表記の揺れのある楽曲で、ここではピアノ版のジムノペディ第1番のオーケストラ用編曲を指す)、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈マラゲーニャ〉、ドビュッシーの「夜想曲」より〈雲〉、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。シベリウスを除いて、パリゆかりの作曲家の作品が並んでいる。


藤野可織は、1980年、京都市生まれの小説家。同志社大学文学部卒業、同大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了とずっと京都市で生きてきた人である。大学院修了後は、京都市内にある出版社でのアルバイトをこなしながら小説の執筆を開始。2006年に「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞し、2013年には「爪と目」で第149回芥川賞を受賞。2014年には『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞を受賞している。
藤野は、今回の企画を持ちかけられてから、初めてロームシアター京都メインホールを訪れたそうで、4階席から舞台を見下ろした時に作品の構想を得たようである。


今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。シベリウスの「悲しきワルツ」演奏後に20分の休憩が入るが、出演者は見た限りでは前半後半ともに変わらない。首席クラリネット奏者の小谷口直子は今日は降り番。他の管楽器パートは首席奏者がほぼ顔を揃えている。

藤野可織の「ねむらないひめたち」は、9歳の少女を主人公とした作品で、新型コロナウイルス流行に絡めた「昏睡病」がまん延する近未来の話である。近未来ではスマートフォンではなくスマート眼鏡というもので情報をやり取りするようになっており、パソコンはまだ用いられているが、キーボードはバーチャルのものに置き換わっているようである。
なお、「ねむらないひめたち」のテキストは、「新潮」7月号に掲載されている。「新潮」7月号には野田秀樹の新作戯曲「フェイクスピア」も載ってるため、舞台芸術好きにはお薦めであるが、野田秀樹の戯曲は多くの場合、上演よりもテキストの方が勝ってしまうため、観る予定のある方は、舞台を鑑賞後にテキストを読むことを勧めたい。

上演前にまず藤野可織が登場して挨拶を行い、この作品が朗読とオーケストラが奏でる音楽とが一体となったものであるため、曲ごとの拍手はご遠慮頂きたい旨を述べる。京都市の生まれ育ちということで、柔らかな京言葉で話し、雅やかな印象を受ける。おそらくこうした話し方や雰囲気を「はんなり」と言うのだと思われる。

京都市交響楽団に客演する機会も多い三ツ橋敬子。バトンテクニックの高い非常に器用な指揮者だが、今に至るまでオーケストラのポストは得られないでいる。平均点の高いタイプながら、何が得意なのか分からない指揮者でもあったが、これまで聴いた限りでは、現代音楽、モーツァルトなどで好演を示しており、フランスものも合っているようである。

朗読担当の川栄李奈。AKB48在籍中は、お勉強が不得意なお馬鹿キャラとして知られたが、握手会で襲撃されて負傷。トラウマにより「握手会にはもう出られない」としてAKBを卒業した。その直後から本格的な女優活動に入るが、CMや映画、テレビドラマなどで、「あのお馬鹿キャラの川栄」とは思えないほどの才気煥発ぶりを発揮。上り調子の時にできちゃった結婚で休業に入ってしまい、「ああ、やっぱり」と思わせたりもしたが、復帰後も活躍はめざましく、大河ドラマ「青天を衝け」に一橋慶喜正室の美賀君役で出演し、怪演を展開中。次期NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のヒロインの一人を演じることも決まっている。女優は天職なのだろう。
声優としても活動しており、映画「きみと、波にのれたら」では主演声優を務めている。

舞台後方にスクリーンがあり、三好愛のイラストと、藤野可織の「ねむらないひめたち」のテキストが映し出される。

主人公の「あたし」は、タワーマンションの37階に住んでいる。年齢は9歳で、今年13歳になる姉がいる。
姉妹が両親と住むマンションの部屋にはバルコニーがあるのだが、バルコニーにはいつも嵐のような強風が吹き荒れており、母親は、「嵐はすごく危険」「だからバルコニーには出ちゃいけません」と言う。だが、姉妹は学校から帰るとバルコニーに出て、姉は双眼鏡で外を覗き、妹のあたしは機関銃タイプの水鉄砲で姉が指示した人物に向かって狙撃を行った。「射殺」したのだが、当然ながら水鉄砲で人は殺せない。殺し屋ごっこである。マンションの周りには様々なタイプの人がいたが、スパイだの異星人だの、不思議な人々もいる。もっとも、これは姉の見立てによるもので、実際にスパイや異星人がいた訳ではないと思われる。

そうしているうちに、人々が昏睡状態になるという謎の病が流行し、人々は感染を避けるため外出せずに家に籠もるようになる。姉妹が通う学校も休校になり、両親もリモートワークでいつも家にいるようになる。両親は姉妹に好きなだけ映画を観ることを許可し、姉妹は、暗殺者ものの映画を観まくるようになる。だが、予想に反して暗殺者達の仕事そのものよりもロマンスに焦点を当てた作品が多いことに気づく。
やがて両親が昏睡病に感染。砂色の飴で覆われたようにコチコチに固まってしまう。
あたしは、新たにアカウントを開設。「ソラコ」という名で自撮りの写真などを載せたが、誤って住所も見えるように載せてしまったため、奇妙な男達が何人も「君を助けたい」と言ってタワーマンションの下までやって来るようになる。姉妹は、カップアンドソーサーのカップやジャムの瓶などをバルコニーから落とすことで彼らを次々に殺していき……。


選ばれた楽曲を見ると、「死」に直結するイメージをもった作品が多いことに気づく。
射殺ごっこが、本物の殺人へと変わり、映画で観るような暗殺者の恋愛の代わりに、異様な人々の来訪があるという展開が高度に情報化された現実社会の不気味さを表しているかのようである。
やがて舞台はコンサートホールの4階席へと移り、未来への希望と不信がない交ぜになったまま再び殺し屋としての社会との対峙が始まる。

設定が近未来ということで、不思議な話が展開されるが、外部の危機的状況とそんな中でもネット上や現実社会で繰り広げられる不穏さが描かれている。そんな中で未来の夢や漠然とした期待に浸ることなく目の前を見つめ続けること、今を生き続けることと、引いては小説を書くことの意義が仄かに浮かび上がる。


川栄李奈の朗読であるが、予想よりも遙かに上手い。地の文とセリフの使い分け、感情の描き分け、抑揚やメリハリの付け方などが巧みで、声自体も美しい。女優の朗読に接する機会は多くはないながらもあるが、少なくともこれまでに聴いた二十代の女優の中ではトップだと思われる。全身が表現力に満ちあふれており、表現者としてのエネルギーやパワーの総体が同世代の他の女優よりも大きいことが察せられる。やはりこの人は女優が天職なのであろう。

三ツ橋敬子指揮する京都市交響楽団も煌びやかな演奏を展開。ドビュッシーやラヴェルの音楽ということで、浮遊感や典雅さの表現が重要になるが、これも十分にクリアしている。後は奥行きだが、これは更に年齢を重ねないと表出は難しいようにも感じる。


本編終了後にアフタートークがある。司会は、京都市交響楽団からロームシアター京都の音楽事業担当部長に異動になった柴田智靖。三ツ橋敬子、藤野可織、川栄李奈、会田莉凡の女性4人が参加する。

曲目は、ロームシアター京都から提案されたものが中心だったようだが、三ツ橋敬子は、普段余りフランス音楽を演奏しない京都市交響楽団で、元々別の物語性を持つ音楽を奏でることの難しさを語った。ちなみにリハーサル時と本番とではオーケストラの色彩が大きく異なっていたため驚いたそうである。

藤野可織は、小説家の仕事は自己完結であるが、こうしてオーケストラとのコラボレーションという協働作業の機会を得られたことへの面白さを語る。ちなみに司会の柴田は、表現したかったことを藤野に聞いていたが、「それを小説家に聞いちゃ駄目でしょ」と思う。

川栄李奈は朗読で緊張したことを語り、手の汗でページがめくれないんじゃないかとヒヤヒヤしたことを打ち明ける。また、個人的に京都の街が大好きだそうで、お土産をいっぱい買って帰りたいと笑顔で話していた。

会田莉凡も、京都市交響楽団でフランス音楽の演奏を行う難しさと新型コロナ流行下での演奏活動の困難さを語り、更には京都市交響楽団の活動の宣伝も忘れなかった。

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2020年10月31日 (土)

観劇感想精選(362) 森山未來リーディングパフォーマンス『「見えない/見える」ことについての考察』

2020年10月27日 阪神尼崎駅近くのあましんアルカイックホール・オクトにて観劇

尼崎へ。午後7時30分から、あましんアルカイックホール・オクトで、森山未來のリーディングパフォーマンス公演「『見えない/見える』ことについての考察」を観る。関西出身の森山未來による全国ツアーであるが、関西公演はフェニーチェ堺と、あましんアルカイックホール・オクトの2カ所で行われることになった。森山未來はロームシアター京都でもダンス公演に出演しているが、残念ながら今回は京都公演はなしである。初演は2017年で、この時は東京芸術大学上野キャンパス内のみでの公演となったが、森山未來初のソロ全国ツアー作品として再演が行われることになった。

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(翻訳:雨沢泰。河出書房新社)とモーリス・ブランショの『白日の狂気』(翻訳:田中淳一ほか。朝日出版社)をテキストに用いているが、断片的であり、新型コロナウイルスの流行の喩えとして用いられていることがわかるようになっている。演出と振付は森山未來自身が担当する。企画・キュレーションは、長谷川祐子(東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科教授)。

あましんアルカイックホール・オクトのコロナ対策であるが、チケットの半券に名前と電話番号を記入。兵庫県独自の追跡サービス(メールを用いるものとLINEを使ったものの二種類)への登録も強制ではないが勧められているようである。今回は整理番号順による全席自由(午後7時開場)で、友人や夫婦同士で隣に座ったとしても一向に構わないようになっている。入場時に検温があり、手指の消毒が求められる。

客層であるが、当然というべきか、女性客が大半である。また余り積極的に宣伝がされていなかったためか、あるいは規制のためか、観客はそれほど多くはない。

入場口で音声ガイドが配られる。片耳に引っかけるタイプのイヤホンであるが、セリフや音楽などが流れ、劇場内でも他のセリフや音楽が鳴っているためラジオの混線のような効果が生まれている。

間に15分ほどの休憩を挟む二部構成の作品であり、共に上演時間30分ほどだが、第2部は第1部を手法を変えて繰り返すという形態が選ばれていた。第1部では森山未來がマイクを使って語ったセリフが、第2部ではマイクを使わずに発せられたり、その場で発せられていたセリフが録音になっていたり、その逆であったりと、中身はほぼ同じなのだが、伝達の仕方が異なる。これによって重層性が生まれると同時に、同じセリフであっても印象が異なることを実感出来るよう計算されている。

 

話は、ある男が、車を運転していた時に視力を失うという事件で始まる。視野が暗闇ではなく真っ白になり、まるで「ミルクの海」の飲み込まれたかのようと例えられる。同じ日に、子どもと16歳の売春婦が視界が白くなる病に冒され、病院に運ばれてきた。眼科医は、「失明は伝染しない。死がそうであるように。だが誰でもいつかは死ぬんだけどね」

だが、白の失明は蔓延するようになり、罹患した者はことごとく隔離される。他の多くの伝染病でも同様の措置がなされて来たわけだが、パンデミックを題材にしたテキストということで、新型コロナウイルスの騒動を直接想起させる形となっている。

断片的であるため分かりにくいが、戒厳令が敷かれ、軍部にも罹患する人が現れ、殺害事件まで起こり、それに反対する人々が反乱を起こすという展開になる。新型コロナでも似たようなことが起こっており、新型コロナ以外でもやはり同じようなことは起こっている。

第1部では、「見えなくなった? 見えなくなったっていつから? 最初から見えなかったんじゃないの? 私は最初から見えない状態で見ていた」というセリフが印象的である。コロナでも盲目的な行動が確認されたことは記憶に新しいが、新型コロナが蔓延してから急に人間性や国民性が変わったということではなく、今まで意識されていなかったことが可視化出来るようになったということである。同時にこれまで当たり前と思ったことが闇に飲み込まれ、見えなくなってしまっていたりもする。そうしたことは史上何度も起こってきたのだが、それでも変われないほど人間は愚かしく、世界は単純にして複雑である。
あましんアルカイックホール・オクトのエントランスで撮られた写真や上演中に撮影された客席の写真がスクリーンに映り、今行われているパフォーマンスが他人事ではないことが示唆される。

iPhoneを始めとするスマホの着信音が鳴り、その中で森山未來が踊る。情報化社会の中でもがき、サーバイブする姿のようだ。
それとは対称的に、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリアが音声ガイドから流れ、高雅にして悲痛なダンスがダイナミックに展開されたりもした。

第2部でも音楽は同じだが、ストーリーの結末は異なる。ストーリーと書いたが、「物語はやめてくれ」というセリフがある。今のこの状況は危険な物語に溢れている。
「街はあった」という救いともそうでないとも取れる言葉でパフォーマンスは終わるのであるが、容易に答えが出せないというのもまさに「今」であると思える。人智を超えた状況であり、本来はそのことに恐怖すべきなのだが、なぜか国同士や人種間もしくは同じ人種同士で争いが起こってしまっており、これまた妙な状況を生んでしまっている。生んでしまっているというより曖昧だったものがはっきり見えるようになってしまったというべきか。全ては「無知」が原因なのだが、人類はそれに対して謙虚になれないでいる。バッハはおそらく「己を超えた存在」に対して謙虚であった人物だと思われるが。

構成が良く、テキストや展開が抽象的であるのもまた良く、森山未來のキレのあるダンスが間近で見られて、見終わった後でも考えさせられる。これは観ておくべき公演だったと思う。

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