カテゴリー「シェイクスピア」の26件の記事

2021年1月18日 (月)

観劇感想精選(379) 蜷川幸雄演出 唐沢寿明主演「コリオレイナス」

2007年2月14日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、「コリオレイナス」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、演出:蜷川幸雄。出演は唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、吉田鋼太郎、香寿たつき、瑳川哲朗ほか。

「コリオレイナス」はシェイクスピア作品の中でもとりわけマイナー部類に入る。シェイクスピア晩年の作品であるが、初演時から不評であり、その後も駄作扱いが続いている。ただ「優性論」という問題を考える上では現代にも通ずるところのあるテキストであると私個人は思っている。

舞台は紀元前5世紀のローマ。勇猛果敢にして高潔なローマ貴族、ケイアス・マーシアス(唐沢寿明)は、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚い。彼はヴァルサイ人の都市であるコリオライを陥落させた栄誉を称えられ、新たにコリオレイナスという名を与えられる。ローマの新執政官に推されたケイアス・マーシアス・コリオレイナスであるが、彼の高潔ゆえに俗悪なものを見下す性質、極度なまでのプライドの高さ、愛想をふりまくことが出来ない性格などが災いし、市民の代表である護民官のシシニアスとブルータスに毛嫌いされており、ローマ市民からも「傲慢でさえなければ、あれほど出来た人はいないのに」と惜しまれはするものの愛されてはいなかった。

執政官になるには選挙でローマ市民から票を集めなくてはいけないのだが、コリオレイナスはどうしても市民に頭を下げることが出来ず、謙虚であることも出来なかった。コリオレイナスの母ヴォラムニア(白石加代子)は、市民の前で演じるだけで良いとコリオレイナスを説得するが、病的にプライドの高いコリオレイナスは演じるということにさえ嫌悪を覚え……

優れた資質を持ちながら樫の木のように固い性格と渡世術の欠如が災いしたコリオレイナスの悲劇を描く。タイトルロールのコリオレイナスを演じる唐沢寿明は強面にするために頭を坊主に丸めての熱演である。

幕が上がると鏡張りのセットがあり、観客がその鏡張りのセットに映っている。4枚組の鏡の中央の2枚が開くと背後に急階段状の舞台が現れ、一番上の段では四天王の像が客席を睥睨している。
四天王の像があることからもわかるとおり、仏教風のデザインが多く用いられており、元老達やコリオレイナスの衣装も山法師風である。またローマといいながらも、コリオレイナスが大小の日本刀を差し、長刀で戦ったり、ヴォラムニアが清の西太后を思わせる衣装を纏うなど、アジア的要素を多く取り入れている。

良い舞台であった。演出も俳優も良いが(特に俳優陣の殺陣は迫力満点であった)、観ているうちに演出の工夫や演技の巧拙などは気にならなくなり、「コリオレイナス」という作品自体の良さが浮かび上がってくる。観客に「良い演出だ」、「良い演技だ」と思わせる舞台はまだまだ一級品には遠く、「良い作品」だと思わせるのが真に優れた舞台であるとするなら、今日観た「コリオレイナス」はその真に優れた舞台であった。
「コリオレイナス」の登場人物全員が私の分身のようにも見えてくる。それだけ人物が巧みに描かれているということであり、晩年とはいえ、シェイクスピアの筆がさほど衰えていたわけではない証拠ともいえる。もっとも演出で隠してあるが、冷静に考えると妙に雑な箇所があり、シェイクスピアの体調が万全ではなかったことも同時にうかがえるのだが。

民主主義と衆愚政治が隣り合わせであることが示されるが、「コリオレイナス」の悲劇は英雄達だけで成り立つものではなく、愚かだろうが何だろうが、市民が生み出したものであり、市民の存在の大きさと恐ろしさを同時に伝える。歴史の主役は良くも悪くも市民なのだ。
劇が始まる前と、終演後、鏡状のセットに観客達を映したのも、「劇の主役は実は観客=市民」という構図を際だたせるための工夫であると思われる。

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2020年12月20日 (日)

これまでに観た映画より(236) アンソニー・ホプキンス主演作「タイタス」

2006年9月27日

DVDでアメリカ映画「タイタス」を観る。シェイクスピアの戯曲「タイタス・アンドロニカス」が原作。ジュリー・テイモア監督作品。アンソニー・ホプキンス主演。

残酷劇「タイタス・アンドロニカス」はシェイクスピアが残した戯曲の中でも最も人気のない作品の一つ。残酷過ぎ、また文章の格調が高くないことから、シェイクスピアの真作かどうか疑われた時期もあった。シェイクスピア存命中は人気があったようだが、長く忘れられ、また20世紀に入ってからの上演でも、クライマックスで失笑が起きるなど失敗が多く、問題作とされる。

「ライオン・キング」の演出家として知られるジュリー・テイモアは、シェイクスピアの原典を大筋では守りつつ、古代ローマの話なのに、自動車が出て来たり、ゲームセンターがあったりと、古典一色になるのを避け、美しい映像で残酷さを彩ってみせる。冒頭の仕掛けと、ローマ兵の物々しさで、まず観る者の度肝を抜くのも効果的だ。

ラストの残酷シーンも上手く切り抜けた。というより、良く計算された演出を施した。そのため却って原作の限界が見えてしまった部分もあるのだが。

主人公であるタイタス・アンドロニカス役のアンソニー・ホプキンスの怪演も見事である。

イギリスの映画だったら、人間の抱える闇にもっと奥行きが出たのかも知れないが、アメリカ風の「生まれながらの悪人」像もこうした映画で観るなら悪くはない。

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2020年11月25日 (水)

観劇感想精選(368) 野田秀樹潤色 シルヴィウ・プルカレーテ演出「真夏の夜の夢」

2020年11月20日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」を観る。シェイクスピアの書いた喜劇の中で最も有名な同名作を野田秀樹が自由に作り替えた作品の上演で、初演は1992年、野田秀樹本人の演出によって行われている。野田秀樹のシェイクスピア作品潤色作品には他にも「リチャード三世」を原作とする「三代目、りちゃあど」などがあり、また「贋作・罪と罰」、「贋作・桜の森の満開の下」といった一連の「贋作」ものにも繋がっている。

一応、白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストの潤色と表記されているが、実際にはストーリーの骨子以外は大きく変わっており、舞台が日本に置き換えられている他、シェイクスピア作品よりも後の時代の海外文学(『ファウスト』や『不思議の国のアリス』)などが加わるなど、悪い言い方をすると雑多な内容となっている。

演出は、佐々木蔵之介主演の「リチャード三世」などを手掛けたシルヴィウ・プルカレーテ。舞台美術・照明・衣装:ドラゴッシュ・ブハジャール、音楽:ヴァシル・シリー、映像:アンドラシュ・ランチ。全員、ルーマニアの出身である。

新型コロナウィルス流行で、外国人入国規制が続いていたため、ルーマニア勢はなかなか入国の許可が下りず、当初は遠隔による稽古が行われていたが、9月末になってようやくプルカレーテとブハジャールの2人に入国許可が下り、2週間の隔離経過観察を経て、舞台稽古に合流したという。

出演は、鈴木杏、北乃きい、今井朋彦、加藤諒、加治将樹、矢崎広、手塚とおる、壌晴彦(じょう・はるひこ)、長谷川朝晴、山中崇、河内大和(こうち・やまと)、土屋佑壱、浜田学、茂手木桜子、八木光太郎、吉田朋弘、阿南健治、朝倉伸二。

 

溶暗の中、虫と獣の鳴き声が聞こえ、やがてリコーダーの旋律が聞こえ始める。上手から下手へと、ベルトコンベアに乗って靴が流れ、上手から現れた、そぼろ(原作のヘレナに相当。鈴木杏)が森の不思議について語る。不思議な出来事は気のせいではなく、木の精によるものだと宣言したところで、紗幕が透け、「割烹料理ハナキン」の場面となる。野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」が初演されたのは1992年で、バブルの崩壊が始まったばかりであるが、「ハナキン」という店名が、いかにもバブルといった感じである。

ハナキンの主人(阿南健治。原作のイージーアスに相当)と、娘のときたまご(原作のハーミアに相当。北乃きい)との親子喧嘩が始まっている、ハナキンの主人は包丁を振り上げて、「お前を殺して俺も死ぬ」と啖呵を切る。ハナキンの主人は、ときたまごを板前デミ(原作のディミートリアスに相当。加治将樹)と結婚させるつもりだったのだが、ときたまごは密かに板前ライ(原作のライサンダーに相当。矢崎広)と恋仲になっており、父親が決めた婚礼を拒否したのだ。
ときたまごは、板前デミと共に富士山の麓にある森(おそらく青木ヶ原樹海は意識されていると思われる)へと駆け落ちすることに決める。

実は、板前デミは、以前はそぼろに夢中で、熱心なラブレターなども送っており、そぼろもそぼろで板前デミに思いを寄せていて相思相愛であったのだが、今では板前デミのそぼろに対する熱はすっかり冷めてしまい、まだ思いを捨て切れていないそぼろをゴミか何かのように邪険に扱う。

一方、妖精の森では、妖精の王であるオーベロン(壌晴彦)と王妃であるタイテーニア(加藤諒)が喧嘩の真っ只中である。拾ってきた子どもを取り合ったのが原因だ(なお、かなり長い名前の子どもであり、言い終わるとなぜかインド風のBGMが流れる)。オーベロンは、妖精パック(手塚とおる)を使い、秘薬を用いた悪戯を仕掛ける……。

兵庫県立芸術文化センター(Hyogo Performing Arts Center)の愛称がPACであり、座付きオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団の愛称もPACオーケストラである。兵庫芸術文化センター管弦楽団は発足時に、PACが「真夏の夜の夢」のパックに由来することを明記している。私が兵庫県立芸術文化センターで「真夏の夜の夢」を観るのは今回が初めてとなるが、内容がシェイクスピアの「真夏の夜の夢」とは大きく異なるため、本当の意味でのPACでの「真夏の夜の夢」体験は今後に持ち越しとなりそうである。

悪戯好きの妖精、パックが大活躍する「真夏の夜の夢」であるが、野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」では、今井朋彦演じるメフィストがパックの役割をパクり、各々のアイデンティティの崩壊をもてあそぶというダークな展開を生み出す。

人間の持つ不気味さや醜さを炙り出すスタイルであるプルカレーテの演出であるが、野田秀樹の本との相性は余り良くないように思われる。ヴァシル・シリーもおどろおどろしい音楽を作曲していたが、登場人物のセリフと合致していないように感じられる場面も多い。例えるなら落語をホラーにしたようなちぐはぐな印象である。「カノン」などに顕著だが、おどろおどろしい場面を逆に美しく描くのが野田作品の特徴である。
タイテーニアが異形のものに恋する場面も、不用意に不気味にしてしまった印象を受ける。あそこは、シェイクスピアの原作もそうだが、野田の本でもおそらく笑いを取る場所だったと思うのだが。

誰も知らない「知られざる森」は、その場所に行ったことはあっても森を出る頃には忘れてしまう場所だそうで、無意識領域を描いているようでもある。また、言葉に出来なかったこと、しなかったことなどが話の中心となる場面があり、表に出されなかった言葉が形作る世界が語られている(この辺は夢というものの役割をも語っているようでもある)。そこに溜まった感情を顕在化させるという契約をメフィストは言葉を使わない方法で結んでいた。そもそもメフィストは、ある人物の「影」の部分に導かれて登場したことが明らかにされている。
やがて憎悪が森を焼き尽くそうとするのだが、「物語」がそれを救うことになる。更生を重視する刑務所に取材したドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」でも物語が語られる場面が冒頭に置かれているが、世界を見つめる視点を持つために、物語は極めて有効且つ重要だ。

今井朋彦演じるメフィスト。好演だったが、本来はもっと飄々とした人物として設定されていたように思う。そうでないと整合性が取れない場面がある。

アンドラシュ・ランチの映像を巨大な戸板風の壁に投影する演出は、華麗で分かりやすくもあるのだが、映像を使った演出が往々にしてそうなるように映像頼りになってしまう部分も多い。ある意味、映像の方が舞台上の俳優よりも効果的に使われてしまうため、生身の人間が舞台上にいることで生まれる価値が薄くなるようにも思われてしまう。おそらく予期していたわけではないと思うが、そうした映像の使い方がメフィスト的であると言えば言える。映像に魂を売ったように見えなくもないからだ。

今や日本を代表する舞台女優となった鈴木杏のバレエの動きを取り入れたエネルギッシュな演技が魅力的。コンスタントにというわけではないが舞台に出続けている北乃きいの可憐さも良かった。
この劇では、いいところはみんなメフィストに持って行かれてしまうパックであるが、それでも手塚とおるは存在感を出せていたように思う。

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2020年9月14日 (月)

アラン・クック演出「リア王」(日本ビクター「シェイクスピア全集」より)

2005年11月24日

アラン・クック演出の「リア王」を観る。日本ビクターから出ているシェイクスピア全集の中の1本で、VHS3巻。約3時間の長編である。
スタジオ演劇であり、セットはかなり簡素。エドマンドがカメラ目線で話しかけ、ナルシストぶりを強調する演出などは面白いが、演劇的ではない。あくまでビデオ作品として割り切るべきだろう。
比較的、淡々とした進行を見せる。日本人によるシェイクスピア上演のように大袈裟な演技が目立つということもない。
コーディリアと道化は、シェークスピアの時代には男優が一人二役で演じていたようだ。それ故、道化とコーディリアが同じ舞台上にいることはない。

姉たちが発するうわべだけの父王への賛辞に不誠実なものを感じ、敢えてお世辞を言わなかったコーディリア。それが父王リアの逆鱗に触れる。
そもそもリア王が娘3人に領地を分け与えるなどというのも茶番なのだから、リア王を養う気なら、お世辞を言ってそれなりの所領を受け取って父を迎えるのが一番良いのだが、コーディリアは誠実過ぎて、偽りを言うことに耐えられなかったのだろう。茶番を演じているリア王とゴネリルとリーガンも愚かなことこの上ないが、コーディリアにも全く非がないとは言えない気がする。

「リア王」はこうした人間の愚かさをこれでもかとばかりにえぐり出した作品である。娘二人に騙されて、発狂するリア王。非嫡出子エドマンドに騙されて転落していくエドマンドの父グロスター卿とエドマンドの腹違いの兄エドガー(嫡出子)は、好一対である。勿論、戯曲上の技法である。

エドマンドはダーティーヒーローになる可能性を秘めた人物だと思うが、今日観た映像ではただの腹黒い男にしか見えなかった。葛藤が強調されていなかったためであろう。

コーディリアと道化が一人二役というのも役者が足りなかったからという理由からではないようで、コーディリアが言えなかったことを道化が代弁しているかのようである。かっては小人や、知的、身体的に障害があるものが宮廷に呼ばれ、王族のペットのような役割を演じていたことがわかっている。道化もその中の一人である。頭が固く、讒言に耳を貸さないリア王も、道化の言葉は聞く。道化のように知的障害のあるものが鋭い視点を持っているということを知ってか知らずか、面白半分に聞いている。真正面から反論するという形を取らないが故にリア王も話を聞くのだろう。

コーディリアが言おうとして言えなかったことが、道化によって語られる。リアが発狂し、思い上がった心を捨てるようになると、道化はいつの間にかいなくなる。そして最後まで出てこない。かなり不自然な退場であるが、色々な話術を使う必要がなくなったので、道化の後をコーディリアが受けても大丈夫になっている。ここはシェイクスピアがどれだけ計算していたのか謎なのだが。

ラストまで悲劇の連続なのだが、たまにユーモアも挟まれており、ホッとさせられる。

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2020年4月24日 (金)

これまでに観た映画より(167) 「もうひとりのシェイクスピア」

配信で映画「もうひとりのシェイクスピア」を観る。イギリス・ドイツ合作作品。監督:ローランド・エメリッヒ。出演:リサ・エヴァンス、ジェイミー・キャンベル・バウアー、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン、セバスチャン・アルメスト、レイフ・スポール、デヴィッド・シューリス、エドワード・ホッグ、ゼイヴィア・サミュエル、サム・リード、パオロ・デ・ヴィータ、トリスタン・グラヴェル、デレク・ジャコブほか。

シェイクスピア別人説に基づいて作られたフィクションである。

世界で最も有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアであるが、正体については実のところよく分かっていない。当時のイギリスの劇作家は、この映画に登場するベンジャミン・ジョンソン(ベン・ジョンソン)にしろ、クリストファー・マーロウにしろきちんとした高等教育を受けているのが当然であったが、シェイクスピア自身の学歴は不明。というより少なくとも高学歴ではないことは確実であり、古典等に精通していなければ書けない内容の戯曲をなぜシェイクスピアが書けたのかという疑問は古くから存在する。実は正体は俳優のシェイクスピアとは別人で、哲学者のフランシス・ベーコンとする説や、クリストファー・マーロウとする説などがある。これが「シェイクスピア別人説」である。この映画では、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアをシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いた人物としている。

二重の入れ子構造を持つ作品である。ブロードウェイでシェイクスピアの正体を解き明かす作品が上演されるという設定があり、前説をデレク・ジャコブが語る。劇中劇として行われるエリザベス朝の世界はベン・ジョンソン(セバスチャン・アルメスト)が事実上のストーリーテラーになるという趣向である。ストラットフォード・アポン・エイボンで生まれたいわゆるウィリアム・シェイクスピアはこの映画では文盲に近い低劣な人物として描かれている。

エリザベス朝においては、演劇は低俗な娯楽として禁じられることも多かった。当時の演劇は、社会や政治風刺と一体となっており、貴族階級はそれを嫌っていたからだ。
その貴族階級に属するオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(リス・エヴァンス)が戯曲を発表するというわけにはいかず、匿名の台本での上演を行う。そして宮内大臣一座に所属していた三流の俳優であるウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)が調子に乗って「ヘンリー五世」の作者が自分であると観客に向かって宣言したことを利用する形で、オックスフォード伯エドワードは自身の戯曲にウィリアム・シェイクスピアと署名する。エドワードの書いた戯曲は当時の権力者である義父ウィリアム・セシル(デヴィッド・シューリス)やその息子のロバート・セシル(この映画では「リチャード三世」に見立てられた人物とする説を取っている。演じるのはエドワード・ホッグ)が行う言論弾圧や、スコットランド王ジェームズ(後のジェームズ6世。メアリー・ステュアートの息子)へのイングランド王継承を図っていることに対する批判や揶揄を含む内容であり、矢面に立つのを避ける意味もあった。実際に当時を代表する劇作家であったクリストファー・マーロウは謎の横死を遂げ、ベン・ジョンソンも逮捕、投獄の処分を受けている。最初はベン・ジョンソンと結託してその名を借りることを考えていたエドワードだが、シェイクスピアに白羽の矢を立てたことになる。次第に高慢な態度を取るようになるストラッドフォードのシェイクスピアとジョンソンは対立するようになるのだが、怒りに任せてジョンソンが行った密告により、エリザベス朝は悲劇を招くことになる。

複雑な歴史背景を描いた作品であり、歴史大作としても楽しめる映画だが、なんといってもシェイクスピアが書いた「戯曲」への敬意が主題となる。実際のところ内容が優れていればそれが誰の作であったとしても一向に構わない、とまではいかないが生み出された作品は作者に勝るということでもある。シェイクスピアの戯曲はシェイクスピアが書いたから偉大なのではなく、偉大な作品を生み出した人物がシェイクスピアという名前だったということである。仮にそれらがいわゆるシェイクスピアが書いたものではなかったとしてもその価値が落ちるということは一切ない。
ロバート・セシルは父親同様、演劇を弾圧しようとしたが、ジェームズ6世が演劇を敬愛したため、政治的にはともかくとして文化的および歴史的には演劇が勝利している。

ただこの映画に描かれるオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアという人物の生き方に魅せられるのもまた事実である。イングランドで一二を争う長い歴史を誇る貴族の家に生まれたエドワードだが政治的には全くの無能であり、戦争に参加して能力を発揮する機会もなかった。だが、当時は無意味と見做されていた文芸創作に命を懸け、結果として家は傾いたが、書き残したものは永遠の命を得た、というのは史実かどうかは別として文学者の本流の生き方でもある。

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2019年11月 1日 (金)

観劇感想精選(324) 野田地図(NODA・MAP)第23回公演「『Q』 A Night At The Kabuki」

2019年10月24日 大阪・上本町の新歌舞伎座にて観劇

午後7時から、大阪・上本町の新歌舞伎座でNODA・MAPの第23回公演「『Q』 A Night At The Kabuki」を観る。作・演出・出演:野田秀樹。出演は、松たか子、上川隆也、広瀬すず、志尊淳、橋本さとし、小松和重、伊勢佳世、羽野晶紀、竹中直人ほか。音楽:QUEEN、サウンドデザイン:原摩利彦、衣装:ひびのこづえ。

野田秀樹がクイーンのアルバム「オペラ座の夜」にインスパイアされて作り上げたという舞台。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」に地獄といわれたシベリア抑留などを絡ませて物語は進む。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」とは異なり、生き延びたそれからの愁里愛(じゅりえ。松たか子)とそれからの瑯壬生(ろみお。上川隆也)が、30年前の自分達である源の愁里愛(広瀬すず)と平の瑯壬生(志尊淳)の悲劇を避けるために介入していく。

時は平安末期、源平の騒乱の最中である。源義仲(橋本さとし)が源氏の統領となり、壁一枚隔てた平氏の館と冷戦が続いている。そんな中、平清盛(竹中直人)の息子である平の瑯壬生と源頼朝の妹である源の愁里愛は、一目で互いに恋に落ちた。全ての悲劇の発端となる出会いを思い起こし、それからの愁里愛とそれからの瑯壬生は、共にかつての自分に入れ知恵をする。まるでダブル「シラノ・ド・ベルジュラック」のように。

戦後、シベリアに抑留されていたそれからの瑯壬生は、実は30年前、都に帰ることになった平の凡太郎(竹中直人二役)に尼になったそれからの愁里愛への手紙を託していた。だが、30年かけてようやく平の凡太郎から愁里愛へと手渡された手紙は白紙だった。凡太郎は都に帰ってこられた嬉しさで遊び倒し、愁里愛に手紙を渡すことを30年も忘れていたと語るが、それは実は嘘であることがわかる。それからの瑯壬生は、通常の手紙とは異なる形のメッセージを凡太郎に託していたのだが、凡太郎はその内容に気後れがして、30年もの間、渡すことを躊躇していたのだ。

30年前、二人が出会い、たった5日間の愛を交わし合った日々。都では源氏が裏で操る「名を捨テロリスト」達とそれに反抗する平氏の「拾うヒロイズム」による抗争が続いていた。源の愁里愛は、平の瑯壬生が平氏の御曹司であることを嘆き、「名を捨てて」と願い、つぶやいた。愛も何も知らない少女のちょっとした思いつきが後の悲劇の始まりとなる。

 

「ロミオとジュリエット」のセリフを比較的忠実になぞる部分があるが(「平家物語」に出てくる言葉がそれに沿うように挟まれる)、ジュリエットが望んだ「名」つまり「属性」を捨てることの愚かさをある意味告発する内容である。

アノニマスとなりすましが日常的に行われている現在において、ネット上では匿名であるということが時に暴力に繋がるように、現代の戦争は匿名の兵士が人々を「名もなき存在」として殺していく。
生きながらえたそれからの瑯壬生は、「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい」と嘆くが、気を取り直して名もなき一兵卒として戦争に参加することを望み、名を平の平平(へいへい)と偽る。だが、名乗りを上げて一騎打ちのそれまでの戦とは違い、ロミオが加わった戦争は、どこからか誰ともわからぬ者達が一斉に打ちかけてくるというアノニマスな戦場だった。

一方、それからの愁里愛は尼となり、修道院へと向かう。修道院行きのバスで出会った「尼ぞねす」という団体には、源義仲を殺した瑯壬生への恨みを抱いたままの尼トモエゴゼ(伊勢佳世)や、世の中は色々なものが「混ざってるさ」ということでマザーッテルサと名乗る尼(羽野晶紀)がいた。それからの愁里愛は、彼女達と行動を共にするのだが、一行はいつの間にか看護師の団体として戦場に着いている。「尼ぞねす」達は、野戦病院の看護師として従軍、次々と運ばれてくる瀕死の兵士達を看護する。その野戦病院で瑯壬生と愁里愛は再会するのだが、瑯壬生は源義仲殺しのお尋ね者にして清盛亡き今では平氏の頭領ともなり得る人物で正体がバレれば即死罪は免れない。愁里愛は、今や為政者となった源頼朝(橋本さとし)の妹ということで正体が明らかになれば連れ戻される。そのため互いの名を呼ぶことが出来ない。
そしてそれからの瑯壬生は、シベリア送りとなり、名前をなくしたことで引き上げの際にも名前が呼ばれることはなく、戦友達が船出する中で俊寬のように一人シベリアに取り残されることになる。
そんな中、『夜と霧』のヴィクトール・フランクルのように愁里愛を想い続けてきた瑯壬生は、ある意外な内容の手紙を凡太郎に言付けた。回り回った表現で綴られた愁里愛への思い。凡太郎はそれを勘違いするが、愁里愛には確かに伝わる。想像の空間の中で二人は愛を成就させるのだが、「名」をなくした行いは重く、厳然たる現実が突きつけられて劇は終わりを告げる。平安絵巻の形を借りて、冷戦終結後30年の名もない時代、アノニマスとなりすましの時代である今が問われるのである。「名」を捨てて安易に暴力へと走って良いのか? 「誰か」になることで、己をむなしくしてはいないか?

 

日本における理知派俳優の代表格である松たか子と上川隆也の共演。1997年の元日にTBS系列で放送された正月ドラマ「竜馬がゆく」で坂本竜馬と千葉さなとして共演していた二人だが、舞台での共演を見るのは初めてである。理知派の二人であるが、野田秀樹の舞台ということもあって、頭で作り上げた演技よりもこれまで培ってきた俳優としての身体技術の高さの方が目に付く。上川隆也は、大河ドラマなど数々の時代劇への出演で身につけたキレのある動きと存在感、松たか子は40歳を超えてなお光る可憐さで魅了する。

広瀬すずは熱演だが、感情が先走りしすぎてセリフが追いつかない場面が散見される。ただ、まだ若いのだし、初舞台ということでこんなものなのかも知れない。志尊淳は見た目や立ち振る舞いは良いが、存在感においては先に挙げた三人には及ばないように思われた。キャリアの差かも知れない。

野田秀樹の舞台へは初出演となる竹中直人。いつもながらの竹中直人で安心する。竹中直人と松たか子という大河ドラマ「秀吉」(1996年)のコンビのやり取りが見られたのも嬉しい。竹中直人が主役である豊臣秀吉、当時まだ十代であった松たか子が淀殿を演じていた。

羽野晶紀と伊勢佳世は、共に男に媚びを売るぶりっこの演技も見せるのだが、関西でそうした演技をすると二人とも島田珠代に見えてしまう。キャラを確立している島田珠代が凄いということなのかも知れないが。

言葉遊びを多用する野田秀樹の手法はいつもながら冴えているが、シベリア抑留の生活を言葉だけで語る(「言葉、言葉、言葉」)となるとどうしても弱くなり、切実さが感じられない憾みもあった。クイーンの音楽の使い方も十分とは思えず、インスパイアされるのは良いが、劇中で「オペラ座の夜」に収録された音楽が流れると面映ゆく感じられもした。

途中20分の休憩を挟んで上演時間約3時間という、野田秀樹としては大作であり、平氏の一党がハカを踊るシーンがあったりと、詰め込みすぎの印象も拭えないが、野田秀樹の問いの鋭さと深いメッセージにはやはり感心させられる。

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2019年5月 4日 (土)

観劇感想精選(299) 野村萬斎構成・演出・主演「マクベス」2014西宮

2014年7月1日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野村萬斎構成・演出・主演の「マクベス」を観る。シェイクスピアの四大悲劇の一つ「マクベス」を出演者5人のみで上演するというもの。
野村萬斎は、シェイクスピアの「リチャード三世」を基にした「国盗人」で優れた出来を示していただけに期待が高まる。
出演:野村萬斎、秋山菜津子、高田恵篤(たかた・けいとく)、福士惠二、小林桂太。野村萬斎がマクベスを、秋山菜津子がマクベス夫人を演じる。他の三人は、魔女役とされているが、バンクォーやマクダフなどの主要登場人物も兼任する。
「国盗人」では、舞台を日本に移していた野村萬斎であるが、「マクベス」ではスコットランドのままである。ただ着物に日本刀、長刀など、様式は全て和風である。今回の上演では能の謡や笛、鼓の音などが要所要所で流れる。上演時間90分、途中休憩なしである。上演終了後に野村萬斎によるポストトークがある。

舞台中央には、〇がくり抜かれた衝立が一つ。〇は地球を表現していると野村萬斎はポストトークで打ち明けた。
「きれいは汚い、汚いはきれい」という魔女達の言葉が有名な「マクベス」であるが、登場人物が現れる前に、「森羅万象」という言葉で始まる役者達によるセリフが流れる。「地球の屑、屑の地球、大地のゴミ、ゴミの大地、空気の澱(おり)、澱の空気、人間のクズ、クズの人間」という、逆にすると意味の変わる言葉で、「きれいは汚い、汚いはきれい」を模したものである。この世界が持つ両義性を表現しようという意図のようだ。
野村萬斎の演出は、幕を効果的に使ったもので、日本の伝統演劇を良い形で取り入れており、オリジナリティのある「マクベス」に仕上がっている。今回のツアーでは日本で上演する前にルーマニアやフランスなどを回ったというが、当地での評価はかなり高かったようだ。
バンクォーの亡霊の場では、血糊の付いた能面を使っており、狂言師である野村萬斎ならではの効果を上げている。
マクベスとマクベス夫人が即位する場以降、背後の幕には蜘蛛の巣を描いたものが用いられるが、これは「マクベス」を基にした黒澤明の映画「蜘蛛巣城」へのオマージュであろう。

 

運命に操られているのか、運命を切り開いているのか、どうとも取れる「マクベス」という作品は人間という存在の矛盾というものを描いているようでもある。恐妻として知られるマクベス夫人も最後は精神を侵されて自殺することになるという強いのか弱いのかわからない女性である。マクベスも王の座を勝ち取ったようでありながら、実際は魔女の手の上で転がされているだけのように思える。

 

高田恵篤、福士惠二、小林桂太らは、寺山修司の天井桟敷などで活躍していた俳優達で、アングラ第一世代。還暦越えの役者もいる。その世代の特性を生かして、暗黒舞踏などを披露。魔女の持つ異様さを表現する。

 

野村萬斎の演技は、狂言をイメージした形式的なものだが、相手役の秋山菜津子が新劇スタイルの優れた演技をしているということもあっていささか不自然さが目立つのが難。大河ドラマの「軍師官兵衛」で片岡鶴太郎が、暗君・小寺政織をかなりデフォルメして演じていたが、丁度あれに似た印象である。だが、構成力と演出力は確かなものがあった。

 

大量の紙吹雪などを用いた耽美的な演出であり、絵になる芝居であった。「国盗人」の方が出来はずっと上であるが、「マクベス」もなかなか見応えがある。

 

ポストトークで、野村萬斎は、まず今回の「マクベス」が朗読劇スタイルに始まり、今回の形に仕上がるまで大分時間を要したことを語る。上演スタイルの初演時には、萬斎は地球をイメージした球形のセットを組ませたそうだが、大掛かりな装置であったため東京でしか上演出来なかったという。海外で上演したいという希望を持っていた萬斎は、狂言のような簡素な舞台装置にすれば簡単に持って行けるということで、再演時からは布を主体にした今回のようなスタイルに変えたという。そして、ルーマニアで上演することが決まった今回の再々演では、東欧は電気が不安定だということで照明効果の代わりに、能の謡いなどを入れることで場の雰囲気を変えることにしたという。
マクダフ一家皆殺しの場はカットされていたが、これについて萬斎は「マクベスを悪人と決めつけたくなかったから」と述べる。
最後に萬斎は、「パリで上演を行ったので、次回はもうドーバー海峡を越えて、本場であるイギリスに討ち入るだけじゃないかと、舞台になったスコットランドのエディンバラ演劇祭でやってみたいなと思っております」という抱負を語って締めた。

 

野村萬斎構成・演出・主演「マクベス」2016西宮

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2018年12月26日 (水)

観劇感想精選(282) 野村萬斎主演&演出 「国盗人(くにぬすびと)」2009@兵庫県立芸術文化センター

2009年12月16日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「国盗人(くにぬすびと)」を観る。シェイクスピアの「リチャード三世」を河合祥一郎が日本を舞台に翻案した、現代狂言ともいえる舞台。主演&演出:野村萬斎。出演は他に、白石加代子、山野史人、泉陽二、小田豊、大森博史、石田幸雄、若松力、中村美貴、じゅんじゅん等。

「国盗人」は2年前にやはり兵庫県立芸術文化センター中ホールで行われた初演版を観ている。その時は、今井朋彦が重要な役割を演じていたが、今回は今井が出演しないということもあって、テキストも大幅に書き換えての再演となった。
ヨーク家とランカスター家の戦いである薔薇戦争を背景にした「リチャード三世」を、白薔薇一族と赤薔薇一族との戦に置き換え、登場する主要な4人の女性を白石加代子が一人四役で演じ分ける。


白薔薇一族と赤薔薇一族との戦いが白薔薇一族の勝利に終わり、殺害された白薔薇一族の長の長男である一郎(山野史人)が王座に着く。しかし、三男の悪三郎(野村萬斎)は自身が王の座に就くことを密かに狙っていた。次兄の善二郎が入牢した機を狙って善二郎を暗殺し、長兄の一郎も心労によって崩御すると、次の王になるはずだった一郎の王子を退けて、悪三郎が戴冠する。更に悪三郎は自らの地位を盤石のものとするために一郎の王子を自ら殺害するなど悪事を重ねていく……。


初演の際にはあった笑いの部分が少し削られて、スッキリとした台本になっている。本がより整ったといえばいえるし、笑いが少なくなって物足りなくなったともいえる。
初演の時のインパクトが、こちら側の慣れにより薄まってしまったのも確かだ。
それでも現代狂言として「リチャード三世」を再現する試みとしては大変優れたものであることに違いはない。


主演の野村萬斎の演技は、劇の始まりこそ狂言の言い回し的なセリフが大仰に思われたが、劇が進むにつれてそれも気にならなくなり、生来の気品と、子供の頃から鍛え上げられた表現力で、魅力的な悪役である悪三郎を見事に演じきる。

萬斎による演出もスピード感があり、能の囃子方を使った音楽も効果的で、見応え十分であった。

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2018年11月18日 (日)

観劇感想精選(269) 第15回明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)「ヴェニスの商人」

2018年11月9日 東京・神田駿河台の明治大学駿河台キャンパス・アカデミーコモン3階アカデミーホールにて観劇

午後5時30分から、明治大学アカデミーコモン3階にあるアカデミーホールで、第15回明治大学シェイクスピアプロジェクト「ヴェニスの商人」を観る。一休さんのとんち的な解決が有名な作品。

アカデミーコモンは、私の在学中にはなかった建物である。明治大学の旧5号館(ゼミ棟)、6号館(文学部が主に使用)、7号館(政治経済学部が主に使用)、大学院棟の跡地に建てられている。地下にある明治大学博物館や阿久悠記念館には入ったことがあるが、上階に入るのは今日が初めてとなる。
私が卒業してからの明治大学に関してはそれほど多くを知っているわけではないのだが、講義は主にリバティタワーで行っており、アカデミーコモンは生涯学習の拠点になっているらしい。

明治大学は、文学部文学科に演劇学専攻があるが、ここはあくまでも学問としての演劇を研究する専攻であり、実践は演劇サークルに任せられていた。ただ、ライバルである早稲田大学の演劇専修が実技方面にも力を入れ出していたということもあり、アカデミーコモン竣工と同時に遅ればせながら追随を始めた結果始まったのが明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)である。
毎年1回、明治大学の学生のみの出演、演出、制作でシェイクスピア作品を上演するというもので、今回も原書テキストの日本語訳から学生が手掛けている。

監修に明治大学文学部兼任講師の青木豪、コーディネーターに文学部准教授の井上優、各部門の指導にはプロがスタッフが入るが、実際の上演に携わるのは学生のみである。

演出は文学部4年の山﨑心(女性)さん。プロデューサーは文学部2年の関口果穂さん。
テキスト日本語訳を手掛けているのはコラプターズという学生翻訳チーム。19名からなる団体で、既卒生や大学院生のメンバーも含まれる。今年度は、やはり文学部生が11名と圧倒的に多いが、国際日本学部(現在は中野キャンパス)、理工学部や農学部(いずれも生田キャンパス)、法学部の学生も名を連ねている。「ヴェニスの商人」では法律用語も重要になるので、法学部生の協力も必要になるだろう。
下訳チームと検討会チームに分かれて作業を行ったそうで、下訳に約半年掛け、その後、本公演のテキストを仕上げたそうである。シェイクスピアのセリフには掛詞が多いのだが、英語の掛詞を日本語に直訳しても単語が違うために掛詞にならない。ということで、かなり苦労したであろうことが察せられる。

バンドメンバーも全員明大生。楽器を演奏するということで、ここは所属学部がばらけている。オーケストラで使われる楽器を担当しているのは明治大学交響楽団のメンバーなのかも知れないが、パンフレットには書かれていないためよくわからない。

出演者は文学部在学生が最大派閥。そのほかの分野でも文学部在学生はやはり目立つ。所属専攻に関しては書かれていないためわからない。

舞台中央に一際高い台が設けられており、真ん中から階段が降りている。下手の高い場所はバンドスペース、上手の台はバルコニーに擬されている。セットは比較的シンプルだ。エリザベス朝演劇を意識しているのだと思われる。

舞台通路なども使った演出である。

まずは、バンドがエリザベス朝風の音楽を奏でる中、出演者全員のダンスでスタート。

アカデミーホールであるが、多目的の講堂であるため、声が通りにくかったり響きすぎて発声が不明瞭になったりするが、次第にこちらの耳も慣れてくる。
内観はロームシアター京都サウスホールの客席をやや多くしたようなものである。天井が高いため、出演者が声を飛ばすのは難しそうに感じた。

出演者であるが、俳優志望ではない学生達であるということを考えれば十分レベルは高い。配役に関してであるが、「見る目があるな」という印象を受ける。役が各々の演技にちゃんと合っている。
演技に関しては仕草が説明的すぎるところがあったり、漫画のキャラクター的動きになってしまっていることがあるが、無料公演でこれだけの仕上がりのものが出来上がるのだから大したものだ。明治大学というのはやはり凄い大学だと思う。客席には制服を着た高校生も多くいたが(女子ばかりだよね、やっぱり。高校時代は女子の方が優秀だから)、この人達にも是非明治大学に入ってMSPに参加して貰いたいと思う。

喜劇なので、ラストも大団円で本来は終わるのだが、今回の演出ではラストに悪夢のシーンが設けられている。
ユダヤ人の高利貸しシャイロックが悪役として有名な「ヴェニスの商人」であるが、シェイロックの憎悪を生んだのは他ならぬアントーニオの行いと、ヴェニスの人々による苛烈なユダヤ人差別であり、これを告発する意味があったと思われる。正直、やり過ぎだとは思うが、若いんだからこれぐらい暴れてくれるのは頼もしいとも思える。

 

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2018年8月22日 (水)

スペイン国立ダンスカンパニー 「ロミオとジュリエット(ロメオとジュリエット)」@びわ湖ホール大ホール

2008年11月29日 びわ湖ホール大ホールにて

午後3時から、大津市のびわ湖ホール大ホールで、ナチョ・ドゥアト芸術監督率いるスペイン国立ダンスカンパニーの公演、バレエ「ロミオとジュリエット」(音楽:セルゲイ・プロコフィエフ、振付:ナチョ・ドゥアト)を鑑賞。プロコフィエフの音楽を演奏するのは、ペドロ・アルカルデ指揮の関西フィルハーモニー管弦楽団。

ペドロ・アルカルデは作曲家でもあり、近年は1年に1作ずつバレエ音楽作品を発表しているようだ。
スペイン国立ダンスカンパニーは、1979年にスペイン国立クラシックバレエとして創設。その後、「クラシック・バレエを否定することなく、より現代的なスタイルを取り入れた」団体となり、名称も現在のものに変更された。

スペイン国立ダンスカンパニー芸術監督のナチョ・ドゥアトは、バレンシア地方の生まれ。ベルギーでモーリス・ベジャールに師事し、その後、ニューヨークに渡って更なる研鑽を積んで、1990年にスペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督となる。コンテンポラリーダンスに主軸を置いていて、クラシック・バレエの全曲作品の振付を手掛けたのは、「ロミオとジュリエット」が唯一だそうだ。

スペイン国立ダンスカンパニーは、さいたま市でも公演を行ったが、その時は、演奏してくれるプロオーケストラが確保できなかったのか、テープ録音によって音楽を流したとのこと。
今日の公演は生演奏で音楽が聴ける。もちろん、その場でオーケストラが演奏した方がずっと感動的である。

幕が開くと、ロミオ(ゲンティアン・ドダ)がベンチで休んでいる。やがて、友人のマキューシオ(フランシスコ・ロレンツォ)らがやってきてロミオと戯れるが、ロミオは、たまたまそばを通り過ぎた女性の後についていってしまう。どうも、今回のバレエでのロミオは遊び人という解釈のようだ。シェークスピアの原作でもロミオはいい加減な奴なので、こういうのもありだろう。

一方のジュリエット(ルイサ・マリア・アリアス)はというと、ピョンピョン跳びはねながら口うるさそうな婆やから逃げ回っている。かなりお転婆なジュリエットである。

さて、イタリア・ヴェローナの名門、モンタギュー家とキャピュレット家の争いというのが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の枠組みであるが、今日のバレエでは、モンタギュー家の人々は男女ともに庶民のような格好で、広場で踊るなどして楽しんでいる。そこへ正装のキャピュレット家の男達がやってきて、楽しんでいるモンタギューの人々にちょっかいを出し、剣を抜く。モンタギューの人々は鋤で応戦。ということは、スペイン国立ダンスカンパニーのバレエではモンタギュー家の人々はどうやら本当に庶民で、キャピュレット家が貴族であり、原作の権門争いではなく、階級闘争に設定が変えられているようだ。

キャピュレット家での舞踏会に、ロミオやマキューシオは仮面を付けて、道化に化けて忍び込み、手品をしたり悪ふざけをしたりしている。
そして、ジュリエットに一目惚れしてしまうロミオ。ジュリエットも無理矢理結婚相手に決められたパリス(アモリー・ルブラン)やジュリエットの親戚であるティボルト(クライド・アーチャー)ではなく、仮面のままのロミオと踊りたがる。露骨に悔しがるティボルト。
やがて、ジュリエットが一人になったところにロミオが現れ、仮面を取る。瞬く間に恋におちる二人……。

モンタギューの人々が広場で車座になり、中央で踊っているマキューシオが乗ってくると皆で同時に手を打つところなどは、まさに「オーレー!」で、スペイン的味わいが出ている。
モンタギューの人々の踊りがダイナミックで、マスゲームのように良く計算されているのも印象的。
幕、布、旗などの使い方も効果的である。

ラスト。仮死状態になったジュリエットを見て本当に死んでしまったと思い、短剣で胸を突くロミオ。ロミオが崩れ落ちるのとほぼ同時にジュリエットが目を覚ます。何てずるい演出なんだ。ストーリーを知っていても、「あー、ロミオがもっと迷っていれば上手くいっていたのに」と悔しくなる。
そして、ロミオが死んだことを知って自らも死を選ぶジュリエット。ここは音楽だけでも十分に美しくて悲しいのに、ジュリエットの動きが加わると、もう卑怯なほど美しくて悲しい。
こういうものを見てしまうと、それを言葉で語るのが馬鹿らしくなる。言葉なんてもう余計なものだ。プロコフィエフの音楽だけで十分である。
といいながら言葉で書いてしまっているけれど。

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