カテゴリー「シェイクスピア」の31件の記事

2021年9月12日 (日)

コンサートの記(743) 広上淳一指揮 京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」

2021年9月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時30分から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×石丸幹二 音楽と詩(ことば) メンデルスゾーン:「夏の夜の夢」を聴く。指揮は、京都市交響楽団常任指揮者兼芸術顧問の広上淳一。

メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」をメインとしたコンサートは、本来なら昨年の春に、広上淳一の京都市交響楽団第13代常任指揮者就任を記念して行われる予定だったのだが、新型コロナの影響により延期となっていた。今回は前半のプログラムを秋にちなむ歌曲に変えての公演となる。

出演は、石丸幹二(朗読&歌唱)、鈴木玲奈(ソプラノ)、高野百合絵(メゾソプラノ)、京響コーラス。

曲目は、第1部が組曲「日本の歌~郷愁・秋~詩人と音楽」(作・編曲:足本憲治)として、序曲「はじまり」、“痛む”秋「初恋」(詩:石川啄木、作曲:越谷達之助)&“沁みる”秋「落葉松(からまつ)」(詩:野上彰、作曲:小林秀雄。以上2曲、歌唱:鈴木玲奈)、間奏曲「秋のたぬき」、“ふれる”秋「ちいさい秋みつけた」(詩:サトウハチロー、作曲:中田喜直)&“染める”秋「紅葉」(詩:高野辰之、作曲:岡野貞一。以上2曲、歌唱:高野百合絵)、間奏曲「夕焼けの家路」、“馳せる”秋「曼珠沙華(ひがんばな)」(詩:北原白秋、作曲:山田耕筰)&“溶ける”秋「赤とんぼ」(詩:三木露風、作曲:石丸幹二。以上2曲、歌唱:石丸幹二)。
第2部が、~シェイクスピアの喜劇~メンデルスゾーン:劇付随音楽「夏の夜の夢」(朗読付き)となっている。

ライブ配信が行われるということで、本格的なマイクセッティングがなされている。また、ソロ歌手はマイクに向かって歌うが、クラシックの声楽家である鈴木玲奈と高野百合絵、ミュージカル歌手である石丸幹二とでは、同じ歌手でも声量に違いがあるという理由からだと思われる。
ただ、オペラ向けの音響設計であるロームシアター京都メインホールでクラシックの歌手である鈴木玲奈が歌うと、声量が豊かすぎて飽和してしまっていることが分かる。そのためか、高野百合絵が歌うときにはマイクのレンジが下げられていたか切られていたかで、ほとんどスピーカーからは声が出ていないことが分かった。
石丸幹二が歌う時にはマイクの感度が上がり、生の声よりもスピーカーから拡大された声の方が豊かだったように思う。

足本憲治の作・編曲による序曲「はじまり」、間奏曲「秋のたぬき」、間奏曲「夕焼けの家路」は、それぞれ、「里の秋」「虫の声」、「あんたがたどこさ」「げんこつやまのたぬきさん」「証誠寺の狸囃子」、「夕焼け小焼け」を編曲したもので、序曲「はじまり」と間奏曲「秋のたぬき」は外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を、間奏曲「夕焼けの家路」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(通称:「家路」)を意識した編曲となっている。

佐渡裕指揮の喜歌劇「メリー・ウィドウ」にも出演していたメゾソプラノの高野百合絵は、まだ二十代だと思われるが、若さに似合わぬ貫禄ある歌唱と佇まいであり、この人は歌劇「カルメン」のタイトルロールで大当たりを取りそうな予感がある。実際、浦安音楽ホール主催のニューイヤーコンサートで田尾下哲の構成・演出による演奏会形式の「カルメン」でタイトルロールを歌ったことがあるようだ。

なお、今日の出演者である、広上淳一、石丸幹二、鈴木玲奈、高野百合絵は全員、東京音楽大学の出身である(石丸幹二は東京音楽大学でサックスを学んだ後に東京藝術大学で声楽を専攻している)。


今日のコンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。首席第2ヴァイオリン奏者として入団した安井優子(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団からの移籍)、副首席トランペット奏者に昇格した稲垣路子のお披露目演奏会でもある。

同時間帯に松本で行われるサイトウ・キネン・オーケストラの無観客配信公演に出演する京響関係者が数名いる他、第2ヴァイオリンの杉江洋子、オーボエ首席の髙山郁子、打楽器首席の中山航介などは降り番となっており、ティンパニには宅間斉(たくま・ひとし)が入った。


第2部、メンデルスゾーンの劇付随音楽「夏の夜の夢」。石丸幹二の朗読による全曲の演奏である。「夏の夜の夢」本編のテキストは、松岡和子訳の「シェイクスピア全集」に拠っている。
テキスト自体はかなり端折ったもので(そもそも「夏の夜の夢」は入り組んだ構造を持っており、一人の語り手による朗読での再現はほとんど不可能である)、上演された劇を観たことがあるが、戯曲を読んだことのある人しか内容は理解出来なかったと思う。

広上指揮の京響は、残響が短めのロームシアター京都メインホールでの演奏ということで、京都コンサートホールに比べると躍動感が伝わりづらくなっていたが、それでも活気と輝きのある仕上がりとなっており、レベルは高い。

石丸幹二は、声音を使い分けて複数の役を演じる。朗読を聴くには、ポピュラー音楽対応でスピーカーも立派なロームシアター京都メインホールの方が向いている。朗読とオーケストラ演奏の両方に向いているホールは基本的に存在しないと思われる。ザ・シンフォニーホールで檀ふみの朗読、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団による「夏の夜の夢」(CD化されている)を聴いたことがあるが、ザ・シンフォニーホールも朗読を聴くには必ずしも向いていない。

鈴木玲奈と高野百合絵による独唱、女声のみによる京響コーラス(今日も歌えるマスクを付けての歌唱)の瑞々しい歌声で、コロナ禍にあって一時の幸福感に浸れる演奏となっていた。

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2021年8月 2日 (月)

観劇感想精選(406) NODA・MAP第24回公演「フェイクスピア」

2021年7月24日 大阪・上本町の新歌舞伎座にて観劇

午後6時から、大阪・上本町の新歌舞伎座で、NODA・MAP第24回公演「フェイクスピア」を観る。上演時間約2時間5分、途中休憩なしである。作・演出・出演:野田秀樹。出演:高橋一生、川平慈英、伊原剛志、前田敦子、村岡希美、白石加代子、橋爪功ほか。衣装:ひびのこづえ。音楽・効果:原摩利彦

「フェイクスピア」は戯曲が「新潮」1398号(2021年7月号)に掲載されており、私も同号を藤野可織の「ねむらないひめたち」を読むために買っているのだが、これまで野田秀樹の戯曲を読んでから上演を観た場合、がっかりすることが多かったので(野田秀樹の戯曲は上演前に雑誌に発表されることも多い)、今回も読まずに本番に挑んだ。あらすじや何が描かれているのかも知れないままである。
私の場合、有料パンフレットを買うことは少ないのだが、野田秀樹作品の場合は買うことも多く、今日も手に入れたのだが、そこにもネタバレは全くと言っていいほど書かれていない。

ただ、今回は始まってすぐに何の話かは分かった。8月12日という日付と、高橋一生演じるmonoが唐突に繰り出す「頭下げろ!」というセリフによってである。年配の方、特に東京と大阪の方はこれだけでピンとくる方も多いと思われるが、描かれているのは、1985年8月12日に起きたJAL123便墜落事故(日本航空123便墜落事故、日航123便墜落事故)である。今回のNODA・MAP(野田地図)の公演は、コロナの影響もあってか、東京と大阪のみで行われるが、JAL123便が羽田空港発大阪空港(伊丹空港)行きだったということもあり、犠牲者のかなりの割合を、東京と阪神地域も含めた大阪の方が占めており、東京と大阪で上演する意義のある題材を選んだということになる。

「フェイクスピア」という、「フェイク」と「シェイクスピア」を掛けたタイトルであることから、フェイクが仕込まれていることが多いが(12日も「十二夜」に繋がるが関係はない)、JAL123便墜落事故もフェイクニュースがネットなどでたびたび流れる。

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幕が上がると、アンサンブルキャストが手前から奥に向かって並んでいる。その前に一人、高橋一生演じるmonoだけが床に座って小箱(戯曲では「パンドラの匣」」などにちなみと思われる「匣」表記である)のようなものを開ける。舞台は青森県の恐山。匣からは次々を言葉が漏れ(アンサンブルキャストが一人一人、何かを言っていく)……。
というところで板付のメンバーはいったん退場し、白石加代子が一人で登場する。白石加代子は白石加代子としての登場である。「白石加代子です。女優をやっております。……そんなこと知ってるよ、ですよね。でも私が女優を始める前の職業はご存じないでしょう。実は私は、高校卒業後、青森県の恐山でイタコの修行をしておりました」と語るのだが、これは思いっ切りフェイクである。白石加代子の前職はその意外性もあってよく知られている。実は彼女は、高校卒業後、東京都の職員(港区役所勤務)をしていた、つまり公務員だったのである。ただ白石加代子は、役所広司とは違ってそれらしい芸名を付けてもいないし、ほぼ舞台にしか出ないということでお茶の間で彼女を見ることも少ない。ということで、あるいは本当にイタコの修行をしていたと思い込む人もいたかも知れない。ちなみにイタコは俳優のメタファーとしても分かりやすく示される。

イタコの才能には欠けていた白石は、恐山を去ることになる(という設定)のだが、「午後6時56分28秒(JAL123便が御巣鷹尾根に墜落した時刻)」に予約を入れた不思議な客がいたことを語る。そこから白石加代子は、白石本人ではなく、「アタイは50年間もイタコの見習いをやっている」皆来(みならい)アタイに変じる。
予約を入れたのは、monoと楽(たの。橋爪功)の二人、細かすぎる予約だったのに、ダブルブッキングとなってしまう。ここで突然、monoが「頭下げろ!」と言い出す。

JAL123便のボイスレコーダーに記録されていたコックピットの音声は、ナレーションによる再現音声として、事故発生の数日後から何度もテレビ等で流され、一定以上の年齢の方には、機長が何度も発する「頭下げろ!(「機首を下ろせ!」という意味)」という言葉は、記憶に強烈に焼き付いているはずである。
monoは実は、JAL123便の機長であり、亡くなってからも息子の楽(橋爪功演じる楽の方がmonoよりも年上だろうと思わせるのもフェイクである)を思って恐山に留まっていたのである。冒頭のシーンでmonoが手にしていたのもJAL123便のボイスレコーダーである。JAL123便のボイスレコーダーの音声はその後に一部が流出するが、録音が不鮮明ということもあって様々な憶測を呼び、多くのフェイクがまかり通ることになる。

「頭下げろ!」だけでJAL123便の話だと分かった人も少なくなかったはずだが、若い人は、JAL123便墜落事故が起きた1985年当時は幼かったか、まだ生まれていなかったという人が多数であるため、少しずつネタを明かしていくというミステリー仕立てになっている。ちなみに私は、1985年には小学校5年生であるが、8月に生まれて初めて飛行機に乗って北海道へ家族旅行に行っている。北海道は連日32度以上を記録する歴史的な猛暑で、8月11日に千歳空港から羽田空港に帰ってきたら、東京は25度だったということで、わざわざ暑い場所に行っていたことになる(北海道で連日32度を超える猛暑が「歴史的」だったり、東京の最高気温が25度というところに時代を感じる)。私達が乗ったのは全日空機(ANA)だったが、JAL123便墜落事故が起こったのは、私が羽田に帰ってきた翌日のことであった。

JAL123便墜落事故を題材にした演劇作品としては、劇団離風霊船(りぶれせん)の「赤い鳥逃げた…」が有名であり、私も2005年に大阪市立芸術創造館で劇団離風霊船による上演を観ているが、「もはや時代遅れ」というのが正直な印象で、離風霊船も2005年以降は「赤い鳥逃げた…」を上演していない(2005年もJAL123便墜落事故20年ということで特別に上演されたものである)。ちなみに「赤い鳥」というのはJALの赤い鶴丸のことであるが、今回の「フェイクスピア」では、赤い鳥ではなく白いカラス(日航機の機体をイメージしたものだと思われる)で、前田敦子が演じている。前田敦子は星の王子様なども演じているが、こちらもやはり飛行機絡みである。初登場は皆来アタイの母親の伝説イタコという設定であったが、飛行機や包丁(演劇好きは笑うところ)の話をして、アンサンブルキャストに抱えられ、飛行機で飛ぶような格好で退場していく。

monoや楽が、皆来アタイについた霊を見たり、逆にmonoや楽に霊がついたりして、シェイクスピアの四大悲劇(登場順に「リア王」「オセロ」「マクベス」「ハムレット」)の断片やパロディーが演じられる(高橋一生と橋爪功による二人芝居となる)が、「ハムレット」のセリフである「To be or not to be」の「To be」をローマ字読みで「飛べ」と読みたかったのと、亡き父の亡霊が息子に語るといったような構造的な理由からで、それ以上の深い意味はないようである。
monoは天界から火を盗んだプロメテウスの従兄だそうで、自分も「火」を盗むつもりだったが、江戸っ子だったため「ひ」が「し」になってしまい、「死」を盗むことになった。

ちなみに、神の使者であるアブラハム(川平慈英)や三日坊主(伊原剛志)が出会うのは、「永遠プラス36年ぶり(戯曲では舞台は2051年ということになっているため、「永遠プラス66年ぶり」となっている)」なのであるが、36年前は1985年である。実は彼らはJAL123便の副操縦士であり、実際には神の「使者」ではなく「死者」だったということになるようだ。

先に書いた通り、JAL123便はフェイクニュースの題材となることが多く、「最大の陰謀論」と呼ばれるまでになっている。普通に考えれば陰謀も何も存在しない飛行機事故なのであるが、話が膨らみ、機長に対するいわれなき暴言もネット上には存在するようで、野田秀樹はそうしたいい加減な気持ちで書かれたフェイクに対する違和感から、死に近づいた人間の「ノンフィクション」「神のマコトノ葉(「言の葉」との掛詞)」「ネットに書き込まれる言葉ではなく肉声=目に見えない大切なもの(肉声をそのまま届けられる演劇が念頭にあるのは間違いないだろう)」として、終盤ではボイスレコーダーに残された言葉がほぼそのまま再現される。本当は息子のために最後の言葉を残したかったのだが、乗客を救うために優先させた言葉という設定であり、これも当然ながらフェイクなのであるが、客席からはすすり泣きがここかしこから響くなどかなり感動的である。いわば有効なるフェイクだ。「頭を上げろ」は本来の意味からは外れるが、息子へのメッセージとなる。この辺りはフェイクニュース批判を超えた「演劇礼賛」と見ても良さそうである。

これまでの野田秀樹の作品と比べると、完成度はやや落ちるようにも感じられたのだが、満足は行く出来であり、最後は客席は総立ち、私も真っ先に近い時点で立って拍手を送った。
JAL123便墜落事故で多くの犠牲者が出た大阪での上演ということもあり、拍手は鳴り止まず、カーテンコールは4度に及んだ。


子役からキャリアをスタートさせた高橋一生。若い頃からそこそこの人気はあり、私も彼の舞台を観るのは3度目であるが、今回が初の主役である。それまでの2作品ではそれほど重要な役ではなく印象にも余り残っていなかったが、連続ドラマ「カルテット」でのブレイク以降、評価はうなぎ登り。アラフォーとしては最も重要な日本人俳優の一人にまで成長した。

これまでの30年近い観劇経験の中で、最高の舞台俳優は、主役を演じることの多い中堅男優に限れば内野聖陽と上川隆也がツートップで、その下に僅差で堺雅人、阿部寛、佐々木蔵之介らが追いかけるという構図を描いていたが、高橋一生は内野聖陽と上川隆也の二人を猛追する位置に一気に駆け上ったという印象を受ける。身のこなし、存在感、笑顔が印象的なのにどこか影を感じるところなど、舞台映えのする名優である。

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2021年6月 3日 (木)

観劇感想精選(399) 井上芳雄主演 ミュージカル「ハムレット」

2012年2月27日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後1時から、梅田芸術劇場シアタードラマシティで、ミュージカル「ハムレット」を観る。原作:ウィリアム・シェイクスピア、脚本・作曲・作詞:ヤネック・レデツキー、演出:栗山民也。出演は、井上芳雄、昆夏美、伊礼彼方、成河(ソン・ハ)、阿部裕、山路和弘、涼風真世、村井国男ほか。

ストレートプレーだと上演時間3時間を超える大作である「ハムレット」を2時間に短縮してミュージカル化したもの。

開演前、舞台上にはデンマークの国旗が下4分の1ほどが何かに被さる形で垂れている。

上演開始、先王ハムレットの葬儀のシーンから始まり、デンマークの国旗が被さっていたものが、先王の棺であることがわかる。ハムレット(井上芳雄)は棺が運ばれていく様を憂鬱な表情で見つめている。

舞台は一転して、オフィーリア(昆夏美)が明るい表情で登場。ハムレットからの恋文を読み上げて浮き浮きしている。

そしてクローディアス(村井国男)とガートルード(涼風真世)の婚儀のシーンとなり、皆は愛の美しさを歌い上げるが、ハムレットは「愛は全てを駄目にする」と語る。

その後、ハムレットがガートルードに向かって言う「弱き者、汝の名は女」、そしてポローニアスがハムレットのことを「He is crasy」だと歌い上げるナンバー(このナンバーは同じ旋律でハムレットによる「Who is crasy」としてポローニアス殺害後に歌われる)を挟んで、ハムレットがオフィーリアに向かって放つ「尼寺へ行け!」のセリフが出てくる。

なお、有名な「To be,or not to be」は日本語に訳されることなく、英語のまま、後半の冒頭の歌詞に登場する。

役者では井上芳雄が抜群の出来。動きにキレがあるし、歌声も、特に高音の伸びが素晴らしい。オフィーリアを演じた昆夏美も小柄な体型からは想像出来ないほどパワフルな歌声を発し、後半の狂気の場面での演技力も高い。

ただ、ミュージカルとしてはまずまずの出来であったが、「ハムレット」としてはやや不満が残る。カットした部分が多いため、心理描写が今一つで、あらすじを追っているだけに思える場面もあった。また追加された場面もさして効果的とは思えなかった。音楽や俳優は充実していただけにそれが残念である。

栗山民也の演出は、ラストでデンマークの国旗が十字架に見えるという仕掛けがなかなか良かったように思う。


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2021年5月18日 (火)

観劇感想精選(397) 野田秀樹 作・熊林弘高 演出 「パンドラの鐘」2021@兵庫県立芸術文化センター

2021年5月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「パンドラの鐘」を観る。今でも野田秀樹の代表作の一つに挙げられる名戯曲の上演である。演出は熊林弘高。出演:門脇麦、金子大地、松尾諭(まつお・さとる)、柾木玲弥(まさき・れいや)、木山廉彬(きやま・ゆきあき)、長南洸生(ちょうなん・こうき)、八条院蔵人、松下優也、緒川たまき。比較的若い俳優がキャスティングされているが、名前を見ただけで若い世代の人が多いということが分かる(芸名の人も勿論いる。意図されたのかどうかはわからないが、門脇麦と緒川たまきの名前と役のイメージがひっくりかえっているのも面白い)。声の出演:野田秀樹。野田秀樹が芸術監督を務める東京芸術劇場の制作で、野田秀樹本人が許可を出した新演出版での上演となる。
今回の新演出では、ラスト付近が改変されているのが最大の特徴である。

1999年の暮れに初演された「パンドラの鐘」。同一の戯曲を野田秀樹の自作自演と蜷川幸雄演出の2バージョンでほぼ同時期に上演されたことで話題を呼んだ。野田秀樹演出版は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、蜷川幸雄演出版は渋谷の東急Bunkamuraシアター・コクーンで上演されている。「シアターガイド」などの演劇専門誌や、「ぴあ」などの情報誌にも野田秀樹や蜷川幸雄のインタービューが載り、野田秀樹は「あっちは渋谷でこっちは三軒茶屋。その時点で負けている」言っていたり、蜷川幸雄がこれまでの野田の演出を評して、「あいつは綺麗にやり過ぎる。だから駄目なんだ」と口撃していたりと、言動でも盛り上がっていた。
すぐそこに迫った2000年は「ミレニアム」という名称を新たに与えられており、華やいだ雰囲気がまだあった。

「パンドラの鐘」とは、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」と広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」(鐘を説明する「鐘に童」の「童」である)、長崎の鐘などのイメージを重ねたものであり、「戦争責任」という重いテーマを扱った作品である。夢の遊眠社時代は、今聴くと面映ゆくなるほど詩的な言葉選びと、掛詞などを中心とした言葉遊び、古典的な作品からの引用などをちりばめて、イメージの世界を拡大した野田秀樹だが、イギリス留学をきっかけに社会的なテーマを題材に選ぶようになっており、戦争、天皇制、差別、貧困、暴力、アウトローなどを独自の筆致で描くようになる。
昭和天皇の戦争責任というきわどい問題に触れながら、当時の右翼に絶賛されたことでも話題になった。

実際のところは、私は世田谷パブリックシアターにもシアターコクーンにも行けなかったのだが(当時はまだインターネットが十分に発達しておらず、チケットの購入は電話か店頭のみで、人気公演のチケットを手に入れるのはかなり難しかった)、共に収録されたものがNHKBSで放送されており、比較が可能になった。
アクションと見立て重視の軽妙な野田演出に対して、蜷川幸雄の演出はあたかもシェイクスピア作品に挑むかのような重厚なものであった。蜷川がシェイクスピア作品のような演出を行ったのには訳があり、「パンドラの鐘」ではシェイクスピアの「ハムレット」が重要なモチーフとして使用されているのである。題材とされているのは他に、「古事記」などに描かれる日本の神話、邪馬台国などの古代国家、大正天皇知的障害者説、二・二六事件、統帥権問題、長崎原爆、長崎を舞台としたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」などである。
1936年の長崎と、古代の長崎にあった王国とが交互に描かれるのが最大の特徴。

野田版でも蜷川版でも一人二役はあったが、今回の熊林版ではそれがかなり徹底されており、タマキとヒメ女を門脇麦が、オズとミズヲを金子大地が、カナクギ教授と狂王を松尾諭が、イマイチと古代の未来の参謀を柾木玲弥が、ピンカートン未亡人とヒイバアを緒川たまきが演じており、過去と未来とが一対(生まれ変わりに相当する可能性を残す)になるよう工夫されていて、「歴史は繰り返す」の構図が見やすくなっている。ちなみに野田秀樹演出版では、野田秀樹がヒイバアを演じており、先王の葬儀の演出をしたヒイバアにミズヲが「つまらない演出」と難癖を付けて、ヒイバアを演じる野田秀樹が「この私が演出した葬式がつまらないっていうの?!」と怒るセリフで爆笑の嵐が起こっていた。ただ蜷川版でも熊林版でもそれは特に意味のないセリフとなっている。なお今回はヒイバアにアラフィフとはいえバアと呼ぶにはまだ若い緒川たまきをキャスティングしたことで、ハンニバル(松下優也)とヒイバアが男女の関係であるという演出が出来るようになっている。

1936年、国をひっくりかえそうとした二・二六事件が起こる直前のこととして物語は始まる。長崎の遺跡発掘現場で、オズ(「オズの魔法使い」に登場する島国、オズ王国が由来か)とカナクギ教授が「ひっくりかえった古代の舟」のようなものとそのそばにあった釘や人骨などを発見する。それが邪馬台国とは異なる、ヒメ女(ひめじょ)という女王を頂く古代国家発見の可能性へと繋がるのだが、カナクギ教授は教授の肩書きを得ているものの、自分の意見や考えといったものは持っておらず、ほぼ全て他人のものを剽窃して上り詰めてきた男である。今回も助手であるオズの意見を悉くパクリ、オズの恋人まで奪い、論文もオズが書いたものを自身とタマキの共著であるとして発表する。
そういうことを許してしまうオズというのが、実に鈍い男であり、恋人であるはずのタマキがカナクギ教授と関係を持ったことを仄めかしても何一つ気がつかない。古代に向かう想像力は豊かだが、目の前のことは何も見えていないのである。
だが、オズが書き、カナクギ教授が発表しようとした説は、古代から来たハンニバルによって阻止される。今、国のために犠牲になった王がいたということが明らかになれば、国体が保てない。

ヒメ女は14歳で即位。この14歳というのが実は重要である。シェイクスピア劇に登場するオフィーリアやコーディリアといった有名ヒロインが14歳前後という設定なのである。シェイクスピア劇にはあと2週間で14歳の誕生日を迎える13歳のジュリエットなど、他にも年齢の近いヒロインが何人か登場する。当時の結婚適齢期がこれぐらいの年齢ということもあるが、シェイクスピアの時代には男性しか舞台に上がることが出来なかったため、ヒロインは少年が演じたのだが、少年が演じてそれっぽく見えるのは声変わりを迎える前の14歳前後が限界だったという事情もあったようである。同じような年齢のヒロインが多いのはそのためだ。ヒメ女は「柳の下で」で始まる幽霊とのダブルミーニングの象徴的なセリフで自身のモチーフがオフィーリアであることをさりげなく知らせる。

今回の演出では即位したばかりのヒメ女がハンニバルやヒイバアの操り人形(傀儡)であることが強調されている。実はここに新しい解釈を入れる余地があると思うのだが、今のところそうした解釈を分かるように入れた演出は存在していないようである。

最初は言われるがままだったヒメ女であるが次第に自立していき、ハンニバルとヒイバアもヒメ女を怖れるようになる。ちなみにヒイバアがヒメ女の性格を「ちょっと言い過ぎ」と言いつつ絶賛する場面があるが、これもオフィーリアがハムレットの資質を讃える場面のパロディーであると思われる。

「ハムレット」では、主人公のハムレットが佯狂を演じる場面が有名だが、「パンドラの鐘」ではこのパロディーがヒメ女の兄である先王が狂ったという設定で登場する。狂ったということを民衆に悟られないために先王はハンニバルとヒイバアによって幽閉される。公には先王は死んだということにされ、葬儀が行われ、ミズヲら墓掘り人達(「ハムレット」にも墓掘り人達による有名な場面がある)によって埋葬されることになるのだが、棺桶の中に入っていたのは実は猫の死体であった。
口封じのために生き埋めにされるはずだったミズヲ達だが、ミズヲの挑発にヒメ女が乗ったことで生きながらえる。ミズヲは生きている人間よりも死体の方がよっぽど人間らしいと考えおり、また死んだ人間が化けて出てきたら再会したことを喜ぶべきだと説く(幽霊に関するセリフは、先王ハムレットの幽霊登場の場面を踏まえていると思われる)。
ヒメ女の王国は、デンマークを含むスカンジナビアの国家のように海賊(ヴァイキング)行為を行うことで国力を付けてきた。ヒメ女の王国があった長崎の地下からは世界中から集められた様々な遺物が見つかり、博物館のようになっている。このあたりは、カナクギ教授の人物像、引いては野田秀樹自身の作風へのカリカチュアとなっているようにも思われる。
その海賊行為によって、オズとカナクギ教授が発見するようになる「ひっくり返った船のようなもの」もミズヲによって長崎へと運ばれていた。ヒメ女の王国の人々もその正体が分からず、パンドラという都市の辺りで見つけたものだが、これは「なにかね?」ということでパンドラの鐘と名付けることにする。
実はヒメ女の王国は見えない敵と戦争中なのだが、最近では連戦連敗。ハンニバルとヒイバアはそれを隠すため、偽のニュースを流し、海岸の打ち寄せた死体を海へと投げ戻すよう命じていた。

野田版でも蜷川版でもパンドラの鐘は舞台上に置かれていたが、今回はそれらしき部分がある背景は置かれているものの、パンドラの鐘そのものを表すセットは存在せず、パンドラの鐘を描写した部分のト書きを野田秀樹が朗読している音声が流れる。

ヒメ女には、オフィーリアの他に卑弥呼や天照大神のイメージが重ねられているが、真の意味でのモデルは性別はひっくりかえっているが昭和天皇である。狂王の次の王ということなのだが、昭和天皇の父親である大正天皇には、その在位中から「知的水準に問題があるのではないか」という噂が流れていた。「遠めがね事件」など有名な話もあり、この作品でも狂王のモデルが大正天皇であることが分かるよう取り入れられている。実際には大正天皇は文学の才能にも秀でており、「明治天皇に比べると」ということだったようだが、病弱だったのは確かであり、皇太子だった裕仁親王が摂政に立ったことで噂は更に広がることになった。皇室の系統に、冷泉帝や陽成帝といったちょっとおかしな天皇が存在することもそれに輪を掛けたであろう。
性別がひっくりかえっていることについては、ヒメ女と昭和天皇の他に、いざなぎいざなみをモデルにしたような話でも同様の場面があるなど、何度も用いられている。

タマキの母親のピンカートン未亡人は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」に登場するピンカートンの孫の妻という設定であるため、タマキ(「蝶々夫人」で世界的なスターとなった三浦環がその名の由来であると思われる)はピンカートンのひ孫ということになる。ピンカートン未亡人は祖父のピンカートンが日本の幼い娘を自身のせいで自殺に追い込んでしまったことを悔い、ピンカートン財団を築いて長崎の発掘事業に貢献していることを語る。ただ、ピンカートン未亡人もタマキも蝶々夫人の自殺については否定的である。野田版と蜷川版で最も解釈が異なったセリフは、タマキが蝶々夫人を評した「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」というものだったと思われるが、今回はこのセリフが発せられる場面が変更されていたため、全くと言っていいほど目立たなかった。これはミズヲの「生きるべきか死ぬべきかそれは問題じゃない、どう死ぬのか、それがが葬式屋の問題だ」という「ハムレット」由来のセリフにも呼応する重要なセリフであるため、ちょっと物足りなく感じた。
蝶々夫人は「恥をかかされたら死ぬしかない」という日本の倫理観の犠牲になったのであるが、ここで問われているのは、責任を取って死ぬべきかということであり、「死を持って詫びる」ことを美徳とする日本人の意識であり、戦争責任を取って死を受け入れるという可能性のことを指してもいる。ただ、当時の日本の上層部に戦争責任を取らされることを拒んだ人達がかなり多かったというのも事実で、終戦間際の時点で、すでの江戸時代からの美意識は崩れつつあったようにも思う。そうした上層部の意識も戦争の責任と昭和天皇の退位とを結びつけることになる。

同音異義語などを多用する言葉遊びは今も変わらず野田演劇の特徴だが、今回は若手俳優中心のキャストということが災いしたようで、アクセントを間違えたために意味が通じないセリフになっていたり(「彼方(あなた)」を「貴方」の発音で言うなど)、言葉で情景を描くためにセリフにメリハリを付ける必要があるのだが上手くいかなかったりと、野田版や蜷川版の豪華キャストの演技を知っている人にとっては歯がゆい出来となった。これまた野田演劇の特徴である早口によるセリフ回しが今回も行われていたが、相手のセリフとの間を詰めすぎたため、人の言うことを聞かずに話し始めてしまう人々のように見えたのはかなりのマイナスである。相手を見ないと成立しないはずのやり取りが対面しないまま行われたのも意図がよく分からない。ミュージシャンの名を挙げる場面で、1999年当時に全盛を誇っていた小室哲哉ではなく、小室は小室でもミュージシャンではなく皇室絡みで話題のあの人の名前に変えていたりしたが、ここも余り意味はなかったように思う。
ただ、演技面では十分とはいえなかったが、緊急事態宣言発出の中で熱演を繰り広げた俳優達を、終演後は多くの人がスタンディングオベーションで讃えた。こういう時なので、出来不出来は横に置き、芝居に出演してくれるだけでも尊敬に値すると思う。

ラストであるが、本来のラストとその前のシーンをひっくりかえすというかなり大胆なものである。本来のラストは「パンドラの箱」に掛けた希望を語るミズヲの独白で終わるのだが、今回は古代のヒメ女の王国ではなく、1941年12月8日の長崎をラストシーンとする。オズがアメリカに向かうタマキに、「この戦争が終わったら、また長崎で逢いましょう。天主堂(爆心地のそばにあった浦上天主堂のこと)の前に流れる浦上川の畔で必ず」と再会の約束をする場面である。歌劇「蝶々夫人」とは立場がひっくりかえっており、女の方が長崎を去り、男が帰りを待つのである。本来のラストでミズヲは未来の話をした。今回の演出ではその未来の話として、タマキとオズのシーンをラストに回した。歴史そのままなら浦上で待ち続けたオズは長崎原爆により間違いなく命を落とす。ラストに流れる音楽は、マーラーの交響曲第5番よりアダージェット。様々な解釈が可能な曲だが、「愛と死」がない交ぜになったイメージが強い。棺桶にも使われたセットの中にミズヲは自ら身を沈めていき、タマキは背後のセットの一番高い部分、ひっくりかえったアーチのような場所(本来なら船の舳先なのだが、ひっくりかえった浦上天主堂のアーチに見える)にしばし佇む。本来はここで発せられるセリフが、先に挙げた「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」なのだが、更に前のシーンに置き換えられたため、事実上、カットされたことになり、オズの言葉にタマキは応えない。ここでそのセリフを言ってしまうと答えを出したことになるためカットするということになったのだろう。
後ろを向いたままのタマキは、前後をひっくりかえしたマリア像のようにも見える。少なくとも色は一致している。
答えが用意されない祈りのような風景によって、今回の「パンドラの鐘」は幕を下ろした。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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2021年1月18日 (月)

観劇感想精選(379) 蜷川幸雄演出 唐沢寿明主演「コリオレイナス」

2007年2月14日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、「コリオレイナス」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、演出:蜷川幸雄。出演は唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、吉田鋼太郎、香寿たつき、瑳川哲朗ほか。

「コリオレイナス」はシェイクスピア作品の中でもとりわけマイナー部類に入る。シェイクスピア晩年の作品であるが、初演時から不評であり、その後も駄作扱いが続いている。ただ「優性論」という問題を考える上では現代にも通ずるところのあるテキストであると私個人は思っている。

舞台は紀元前5世紀のローマ。勇猛果敢にして高潔なローマ貴族、ケイアス・マーシアス(唐沢寿明)は、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚い。彼はヴァルサイ人の都市であるコリオライを陥落させた栄誉を称えられ、新たにコリオレイナスという名を与えられる。ローマの新執政官に推されたケイアス・マーシアス・コリオレイナスであるが、彼の高潔ゆえに俗悪なものを見下す性質、極度なまでのプライドの高さ、愛想をふりまくことが出来ない性格などが災いし、市民の代表である護民官のシシニアスとブルータスに毛嫌いされており、ローマ市民からも「傲慢でさえなければ、あれほど出来た人はいないのに」と惜しまれはするものの愛されてはいなかった。

執政官になるには選挙でローマ市民から票を集めなくてはいけないのだが、コリオレイナスはどうしても市民に頭を下げることが出来ず、謙虚であることも出来なかった。コリオレイナスの母ヴォラムニア(白石加代子)は、市民の前で演じるだけで良いとコリオレイナスを説得するが、病的にプライドの高いコリオレイナスは演じるということにさえ嫌悪を覚え……

優れた資質を持ちながら樫の木のように固い性格と渡世術の欠如が災いしたコリオレイナスの悲劇を描く。タイトルロールのコリオレイナスを演じる唐沢寿明は強面にするために頭を坊主に丸めての熱演である。

幕が上がると鏡張りのセットがあり、観客がその鏡張りのセットに映っている。4枚組の鏡の中央の2枚が開くと背後に急階段状の舞台が現れ、一番上の段では四天王の像が客席を睥睨している。
四天王の像があることからもわかるとおり、仏教風のデザインが多く用いられており、元老達やコリオレイナスの衣装も山法師風である。またローマといいながらも、コリオレイナスが大小の日本刀を差し、長刀で戦ったり、ヴォラムニアが清の西太后を思わせる衣装を纏うなど、アジア的要素を多く取り入れている。

良い舞台であった。演出も俳優も良いが(特に俳優陣の殺陣は迫力満点であった)、観ているうちに演出の工夫や演技の巧拙などは気にならなくなり、「コリオレイナス」という作品自体の良さが浮かび上がってくる。観客に「良い演出だ」、「良い演技だ」と思わせる舞台はまだまだ一級品には遠く、「良い作品」だと思わせるのが真に優れた舞台であるとするなら、今日観た「コリオレイナス」はその真に優れた舞台であった。
「コリオレイナス」の登場人物全員が私の分身のようにも見えてくる。それだけ人物が巧みに描かれているということであり、晩年とはいえ、シェイクスピアの筆がさほど衰えていたわけではない証拠ともいえる。もっとも演出で隠してあるが、冷静に考えると妙に雑な箇所があり、シェイクスピアの体調が万全ではなかったことも同時にうかがえるのだが。

民主主義と衆愚政治が隣り合わせであることが示されるが、「コリオレイナス」の悲劇は英雄達だけで成り立つものではなく、愚かだろうが何だろうが、市民が生み出したものであり、市民の存在の大きさと恐ろしさを同時に伝える。歴史の主役は良くも悪くも市民なのだ。
劇が始まる前と、終演後、鏡状のセットに観客達を映したのも、「劇の主役は実は観客=市民」という構図を際だたせるための工夫であると思われる。

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2020年12月20日 (日)

これまでに観た映画より(236) アンソニー・ホプキンス主演作「タイタス」

2006年9月27日

DVDでアメリカ映画「タイタス」を観る。シェイクスピアの戯曲「タイタス・アンドロニカス」が原作。ジュリー・テイモア監督作品。アンソニー・ホプキンス主演。

残酷劇「タイタス・アンドロニカス」はシェイクスピアが残した戯曲の中でも最も人気のない作品の一つ。残酷過ぎ、また文章の格調が高くないことから、シェイクスピアの真作かどうか疑われた時期もあった。シェイクスピア存命中は人気があったようだが、長く忘れられ、また20世紀に入ってからの上演でも、クライマックスで失笑が起きるなど失敗が多く、問題作とされる。

「ライオン・キング」の演出家として知られるジュリー・テイモアは、シェイクスピアの原典を大筋では守りつつ、古代ローマの話なのに、自動車が出て来たり、ゲームセンターがあったりと、古典一色になるのを避け、美しい映像で残酷さを彩ってみせる。冒頭の仕掛けと、ローマ兵の物々しさで、まず観る者の度肝を抜くのも効果的だ。

ラストの残酷シーンも上手く切り抜けた。というより、良く計算された演出を施した。そのため却って原作の限界が見えてしまった部分もあるのだが。

主人公であるタイタス・アンドロニカス役のアンソニー・ホプキンスの怪演も見事である。

イギリスの映画だったら、人間の抱える闇にもっと奥行きが出たのかも知れないが、アメリカ風の「生まれながらの悪人」像もこうした映画で観るなら悪くはない。

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2020年11月25日 (水)

観劇感想精選(368) 野田秀樹潤色 シルヴィウ・プルカレーテ演出「真夏の夜の夢」

2020年11月20日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」を観る。シェイクスピアの書いた喜劇の中で最も有名な同名作を野田秀樹が自由に作り替えた作品の上演で、初演は1992年、野田秀樹本人の演出によって行われている。野田秀樹のシェイクスピア作品潤色作品には他にも「リチャード三世」を原作とする「三代目、りちゃあど」などがあり、また「贋作・罪と罰」、「贋作・桜の森の満開の下」といった一連の「贋作」ものにも繋がっている。

一応、白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストの潤色と表記されているが、実際にはストーリーの骨子以外は大きく変わっており、舞台が日本に置き換えられている他、シェイクスピア作品よりも後の時代の海外文学(『ファウスト』や『不思議の国のアリス』)などが加わるなど、悪い言い方をすると雑多な内容となっている。

演出は、佐々木蔵之介主演の「リチャード三世」などを手掛けたシルヴィウ・プルカレーテ。舞台美術・照明・衣装:ドラゴッシュ・ブハジャール、音楽:ヴァシル・シリー、映像:アンドラシュ・ランチ。全員、ルーマニアの出身である。

新型コロナウィルス流行で、外国人入国規制が続いていたため、ルーマニア勢はなかなか入国の許可が下りず、当初は遠隔による稽古が行われていたが、9月末になってようやくプルカレーテとブハジャールの2人に入国許可が下り、2週間の隔離経過観察を経て、舞台稽古に合流したという。

出演は、鈴木杏、北乃きい、今井朋彦、加藤諒、加治将樹、矢崎広、手塚とおる、壌晴彦(じょう・はるひこ)、長谷川朝晴、山中崇、河内大和(こうち・やまと)、土屋佑壱、浜田学、茂手木桜子、八木光太郎、吉田朋弘、阿南健治、朝倉伸二。

 

溶暗の中、虫と獣の鳴き声が聞こえ、やがてリコーダーの旋律が聞こえ始める。上手から下手へと、ベルトコンベアに乗って靴が流れ、上手から現れた、そぼろ(原作のヘレナに相当。鈴木杏)が森の不思議について語る。不思議な出来事は気のせいではなく、木の精によるものだと宣言したところで、紗幕が透け、「割烹料理ハナキン」の場面となる。野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」が初演されたのは1992年で、バブルの崩壊が始まったばかりであるが、「ハナキン」という店名が、いかにもバブルといった感じである。

ハナキンの主人(阿南健治。原作のイージーアスに相当)と、娘のときたまご(原作のハーミアに相当。北乃きい)との親子喧嘩が始まっている、ハナキンの主人は包丁を振り上げて、「お前を殺して俺も死ぬ」と啖呵を切る。ハナキンの主人は、ときたまごを板前デミ(原作のディミートリアスに相当。加治将樹)と結婚させるつもりだったのだが、ときたまごは密かに板前ライ(原作のライサンダーに相当。矢崎広)と恋仲になっており、父親が決めた婚礼を拒否したのだ。
ときたまごは、板前デミと共に富士山の麓にある森(おそらく青木ヶ原樹海は意識されていると思われる)へと駆け落ちすることに決める。

実は、板前デミは、以前はそぼろに夢中で、熱心なラブレターなども送っており、そぼろもそぼろで板前デミに思いを寄せていて相思相愛であったのだが、今では板前デミのそぼろに対する熱はすっかり冷めてしまい、まだ思いを捨て切れていないそぼろをゴミか何かのように邪険に扱う。

一方、妖精の森では、妖精の王であるオーベロン(壌晴彦)と王妃であるタイテーニア(加藤諒)が喧嘩の真っ只中である。拾ってきた子どもを取り合ったのが原因だ(なお、かなり長い名前の子どもであり、言い終わるとなぜかインド風のBGMが流れる)。オーベロンは、妖精パック(手塚とおる)を使い、秘薬を用いた悪戯を仕掛ける……。

兵庫県立芸術文化センター(Hyogo Performing Arts Center)の愛称がPACであり、座付きオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団の愛称もPACオーケストラである。兵庫芸術文化センター管弦楽団は発足時に、PACが「真夏の夜の夢」のパックに由来することを明記している。私が兵庫県立芸術文化センターで「真夏の夜の夢」を観るのは今回が初めてとなるが、内容がシェイクスピアの「真夏の夜の夢」とは大きく異なるため、本当の意味でのPACでの「真夏の夜の夢」体験は今後に持ち越しとなりそうである。

悪戯好きの妖精、パックが大活躍する「真夏の夜の夢」であるが、野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」では、今井朋彦演じるメフィストがパックの役割をパクり、各々のアイデンティティの崩壊をもてあそぶというダークな展開を生み出す。

人間の持つ不気味さや醜さを炙り出すスタイルであるプルカレーテの演出であるが、野田秀樹の本との相性は余り良くないように思われる。ヴァシル・シリーもおどろおどろしい音楽を作曲していたが、登場人物のセリフと合致していないように感じられる場面も多い。例えるなら落語をホラーにしたようなちぐはぐな印象である。「カノン」などに顕著だが、おどろおどろしい場面を逆に美しく描くのが野田作品の特徴である。
タイテーニアが異形のものに恋する場面も、不用意に不気味にしてしまった印象を受ける。あそこは、シェイクスピアの原作もそうだが、野田の本でもおそらく笑いを取る場所だったと思うのだが。

誰も知らない「知られざる森」は、その場所に行ったことはあっても森を出る頃には忘れてしまう場所だそうで、無意識領域を描いているようでもある。また、言葉に出来なかったこと、しなかったことなどが話の中心となる場面があり、表に出されなかった言葉が形作る世界が語られている(この辺は夢というものの役割をも語っているようでもある)。そこに溜まった感情を顕在化させるという契約をメフィストは言葉を使わない方法で結んでいた。そもそもメフィストは、ある人物の「影」の部分に導かれて登場したことが明らかにされている。
やがて憎悪が森を焼き尽くそうとするのだが、「物語」がそれを救うことになる。更生を重視する刑務所に取材したドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」でも物語が語られる場面が冒頭に置かれているが、世界を見つめる視点を持つために、物語は極めて有効且つ重要だ。

今井朋彦演じるメフィスト。好演だったが、本来はもっと飄々とした人物として設定されていたように思う。そうでないと整合性が取れない場面がある。

アンドラシュ・ランチの映像を巨大な戸板風の壁に投影する演出は、華麗で分かりやすくもあるのだが、映像を使った演出が往々にしてそうなるように映像頼りになってしまう部分も多い。ある意味、映像の方が舞台上の俳優よりも効果的に使われてしまうため、生身の人間が舞台上にいることで生まれる価値が薄くなるようにも思われてしまう。おそらく予期していたわけではないと思うが、そうした映像の使い方がメフィスト的であると言えば言える。映像に魂を売ったように見えなくもないからだ。

今や日本を代表する舞台女優となった鈴木杏のバレエの動きを取り入れたエネルギッシュな演技が魅力的。コンスタントにというわけではないが舞台に出続けている北乃きいの可憐さも良かった。
この劇では、いいところはみんなメフィストに持って行かれてしまうパックであるが、それでも手塚とおるは存在感を出せていたように思う。

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2020年9月14日 (月)

アラン・クック演出「リア王」(日本ビクター「シェイクスピア全集」より)

2005年11月24日

アラン・クック演出の「リア王」を観る。日本ビクターから出ているシェイクスピア全集の中の1本で、VHS3巻。約3時間の長編である。
スタジオ演劇であり、セットはかなり簡素。エドマンドがカメラ目線で話しかけ、ナルシストぶりを強調する演出などは面白いが、演劇的ではない。あくまでビデオ作品として割り切るべきだろう。
比較的、淡々とした進行を見せる。日本人によるシェイクスピア上演のように大袈裟な演技が目立つということもない。
コーディリアと道化は、シェークスピアの時代には男優が一人二役で演じていたようだ。それ故、道化とコーディリアが同じ舞台上にいることはない。

姉たちが発するうわべだけの父王への賛辞に不誠実なものを感じ、敢えてお世辞を言わなかったコーディリア。それが父王リアの逆鱗に触れる。
そもそもリア王が娘3人に領地を分け与えるなどというのも茶番なのだから、リア王を養う気なら、お世辞を言ってそれなりの所領を受け取って父を迎えるのが一番良いのだが、コーディリアは誠実過ぎて、偽りを言うことに耐えられなかったのだろう。茶番を演じているリア王とゴネリルとリーガンも愚かなことこの上ないが、コーディリアにも全く非がないとは言えない気がする。

「リア王」はこうした人間の愚かさをこれでもかとばかりにえぐり出した作品である。娘二人に騙されて、発狂するリア王。非嫡出子エドマンドに騙されて転落していくエドマンドの父グロスター卿とエドマンドの腹違いの兄エドガー(嫡出子)は、好一対である。勿論、戯曲上の技法である。

エドマンドはダーティーヒーローになる可能性を秘めた人物だと思うが、今日観た映像ではただの腹黒い男にしか見えなかった。葛藤が強調されていなかったためであろう。

コーディリアと道化が一人二役というのも役者が足りなかったからという理由からではないようで、コーディリアが言えなかったことを道化が代弁しているかのようである。かっては小人や、知的、身体的に障害があるものが宮廷に呼ばれ、王族のペットのような役割を演じていたことがわかっている。道化もその中の一人である。頭が固く、讒言に耳を貸さないリア王も、道化の言葉は聞く。道化のように知的障害のあるものが鋭い視点を持っているということを知ってか知らずか、面白半分に聞いている。真正面から反論するという形を取らないが故にリア王も話を聞くのだろう。

コーディリアが言おうとして言えなかったことが、道化によって語られる。リアが発狂し、思い上がった心を捨てるようになると、道化はいつの間にかいなくなる。そして最後まで出てこない。かなり不自然な退場であるが、色々な話術を使う必要がなくなったので、道化の後をコーディリアが受けても大丈夫になっている。ここはシェイクスピアがどれだけ計算していたのか謎なのだが。

ラストまで悲劇の連続なのだが、たまにユーモアも挟まれており、ホッとさせられる。

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2020年4月24日 (金)

これまでに観た映画より(167) 「もうひとりのシェイクスピア」

配信で映画「もうひとりのシェイクスピア」を観る。イギリス・ドイツ合作作品。監督:ローランド・エメリッヒ。出演:リサ・エヴァンス、ジェイミー・キャンベル・バウアー、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン、セバスチャン・アルメスト、レイフ・スポール、デヴィッド・シューリス、エドワード・ホッグ、ゼイヴィア・サミュエル、サム・リード、パオロ・デ・ヴィータ、トリスタン・グラヴェル、デレク・ジャコブほか。

シェイクスピア別人説に基づいて作られたフィクションである。

世界で最も有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアであるが、正体については実のところよく分かっていない。当時のイギリスの劇作家は、この映画に登場するベンジャミン・ジョンソン(ベン・ジョンソン)にしろ、クリストファー・マーロウにしろきちんとした高等教育を受けているのが当然であったが、シェイクスピア自身の学歴は不明。というより少なくとも高学歴ではないことは確実であり、古典等に精通していなければ書けない内容の戯曲をなぜシェイクスピアが書けたのかという疑問は古くから存在する。実は正体は俳優のシェイクスピアとは別人で、哲学者のフランシス・ベーコンとする説や、クリストファー・マーロウとする説などがある。これが「シェイクスピア別人説」である。この映画では、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアをシェイクスピアの名を借りて戯曲を書いた人物としている。

二重の入れ子構造を持つ作品である。ブロードウェイでシェイクスピアの正体を解き明かす作品が上演されるという設定があり、前説をデレク・ジャコブが語る。劇中劇として行われるエリザベス朝の世界はベン・ジョンソン(セバスチャン・アルメスト)が事実上のストーリーテラーになるという趣向である。ストラットフォード・アポン・エイボンで生まれたいわゆるウィリアム・シェイクスピアはこの映画では文盲に近い低劣な人物として描かれている。

エリザベス朝においては、演劇は低俗な娯楽として禁じられることも多かった。当時の演劇は、社会や政治風刺と一体となっており、貴族階級はそれを嫌っていたからだ。
その貴族階級に属するオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(リス・エヴァンス)が戯曲を発表するというわけにはいかず、匿名の台本での上演を行う。そして宮内大臣一座に所属していた三流の俳優であるウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)が調子に乗って「ヘンリー五世」の作者が自分であると観客に向かって宣言したことを利用する形で、オックスフォード伯エドワードは自身の戯曲にウィリアム・シェイクスピアと署名する。エドワードの書いた戯曲は当時の権力者である義父ウィリアム・セシル(デヴィッド・シューリス)やその息子のロバート・セシル(この映画では「リチャード三世」に見立てられた人物とする説を取っている。演じるのはエドワード・ホッグ)が行う言論弾圧や、スコットランド王ジェームズ(後のジェームズ6世。メアリー・ステュアートの息子)へのイングランド王継承を図っていることに対する批判や揶揄を含む内容であり、矢面に立つのを避ける意味もあった。実際に当時を代表する劇作家であったクリストファー・マーロウは謎の横死を遂げ、ベン・ジョンソンも逮捕、投獄の処分を受けている。最初はベン・ジョンソンと結託してその名を借りることを考えていたエドワードだが、シェイクスピアに白羽の矢を立てたことになる。次第に高慢な態度を取るようになるストラッドフォードのシェイクスピアとジョンソンは対立するようになるのだが、怒りに任せてジョンソンが行った密告により、エリザベス朝は悲劇を招くことになる。

複雑な歴史背景を描いた作品であり、歴史大作としても楽しめる映画だが、なんといってもシェイクスピアが書いた「戯曲」への敬意が主題となる。実際のところ内容が優れていればそれが誰の作であったとしても一向に構わない、とまではいかないが生み出された作品は作者に勝るということでもある。シェイクスピアの戯曲はシェイクスピアが書いたから偉大なのではなく、偉大な作品を生み出した人物がシェイクスピアという名前だったということである。仮にそれらがいわゆるシェイクスピアが書いたものではなかったとしてもその価値が落ちるということは一切ない。
ロバート・セシルは父親同様、演劇を弾圧しようとしたが、ジェームズ6世が演劇を敬愛したため、政治的にはともかくとして文化的および歴史的には演劇が勝利している。

ただこの映画に描かれるオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアという人物の生き方に魅せられるのもまた事実である。イングランドで一二を争う長い歴史を誇る貴族の家に生まれたエドワードだが政治的には全くの無能であり、戦争に参加して能力を発揮する機会もなかった。だが、当時は無意味と見做されていた文芸創作に命を懸け、結果として家は傾いたが、書き残したものは永遠の命を得た、というのは史実かどうかは別として文学者の本流の生き方でもある。

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