カテゴリー「シェイクスピア」の50件の記事

2026年3月15日 (日)

観劇感想精選(510) 小早川保隆演出 C.T.Tプロデュース公演「オセロー」

2005年12月9日 河原町広小路の京都府立文化芸術会館にて観劇

京都府立文化芸術会館でC.T.Tプロデュース公演「オセロー」を観る。原作:ウィリアム・シェイクスピア、翻訳:福田恆存(ふくだ・つねあり 新潮文庫刊)、脚色・演出:小早川保隆。
京都の新劇と小劇場劇団から選ばれたメンバーによる公演である。

ショパンの夜想曲第20番(遺作)のソプラノ編曲版が流れ、幕が上がる。いきなり本来のラストシーンであるオセローのデズデモーナ殺しと自殺の場から始まってしまう。そこから時間が遡行していくという描き方である。
「オセロー」を観たことも読んだこともない人の中には途中まで展開がわからなかった方もいるかも知れない。巨大な時計の文字盤がセットにあったので、それを左右逆にしておけば、内面的時間における再構成ドラマとして、もっとわかりやすく見せられただろう。
率直に言ってしまえば、これは「オセロー」ではなく(少なくとも悲劇「オセロー」ではなく)、「イアーゴー」と名付けた方が適当な劇であった。
思い切った脚色と演出で試みとしては面白かったけれど、「オセロー」を観たことがない人が、「『オセロー』とはこういう芝居なのか」と誤解してしまう可能性があるのが少し恐い。それに、結果から冒頭に進む形態にしてしまうと、イアーゴー以外の人物が愚かに見えて仕方がない。

更に徹底して脚色し、ピカレスク・ロマン「イアーゴー」と銘打って公演してしまうのも一つの手であっただろう。もともとイアーゴーはオセロと並んで人気のある役であり、オセロー俳優を喰ってしまうイアーゴー役者も歴史上には沢山いた。

1番前の席だったので、各々の役者が演技をする上で何を大切にしているのかがわかり過ぎてしまい、演技の方に注意が行ってしまって、ストーリーになかなか入り込めなかった。
心理を重視する人は、ジョギングに例えると気ばかりが走って体が前のめりになり、今にも足がもつれそうな演技だったし、文化芸術会館の広さを気にする人は(特に小劇場の俳優は)声が通るように滑舌に気を配ったり、姿勢を含めた見た目に注意が行ったりで、心理面がフラットになってしまっている。ナチュラルな演技を心がけている人も周りの演技スタイルからは浮いている。別に統一感がある必要はないけれど、スタイルに差がありすぎるのは気になる。

ラストはテレビドラマでよくやるような、視覚的に美しいものだったが、やはりイアーゴーがオセローを憎む理由を強化して、ピカレスクな終わり方にした方が全体の統一感が出て、より効果的だったと思う。「イアーゴー」として観た方が楽しめる劇であった。

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2026年3月 9日 (月)

これまでに観た映画より(431) National Theatre Live「ハムレット」(2025)@ナショナル・シアター・リトルトン劇場,ロンドン

2026年2月18日 大阪ステーションシティシネマにて

大阪ステーションシティシネマで、National Theatre Live(NFL、NFLive)「ハムレット」を観る。ハムレットはカットして上演しても3時間掛かるという大作だけに途中に15分間の休憩があり、実際の上演と近い形になっている。なお、「ハムレット」の創作に迫った「ハムネット」という映画が4月10日に公開予定で、ややこしいことになっているが、「ハムネット」の内容も面白そうである。

「多様性」に気を配ったと思われる配役である。出演:ヒラン・アベイセケラ、アストリー・ペトリ、アイーシャー・ダルカール、フランチェスカ・ミルズ、テッサ・ウォンほか。演出は、シェフィールズ劇場芸術監督時代にローレンス・オリヴィエ賞最優秀新作ミュージカル賞を2度受賞した演出家であるロバート・ヘイスティ。現在は英国ナショナル・シアターの副芸術監督である。

2025年9月25日に、ロンドンのナショナル・シアター・リトルトン劇場で行われた上演の収録である。

まず、タイトルロールを演じる、ヒラン・アベイセケラからしてアングロサクソン系ではなく、スリランカ出身である。またオフィーリアを演じるフランチェスカ・ミルズは、小人症である。人に「ダウン」を言わせる場面があるため、ダウン症でもあるのかも知れないが、見た目でははっきり分からない。ただ演劇や映画、テレビドラマなどに出演するプロの俳優である。蜷川幸雄が、小人症の人を墓掘り人役で「ハムレット」に出演させたことがあるが、ヒロインであるオフィーリア役への抜擢ということで、それよりも大胆である。フランチェスカ・ミルズであるが、短めのタンクトップを着るシーンがあるのだが、腹筋が鍛えられているのが分かり、プロの俳優としての誇りがありそうだ。

ガートルード役のアイーシャー・ダルカールもイギリス国籍で、はっきりしたことは分からないが、中東の女性によく似ている。

テッサ・ウォンは女性であるが、ホレイシオを演じる。この他にも本来男性だが女性が演じる役がいくつかある。ウォンは、王(ワン)の広東語読みなので、広東省か香港の出身だと思われる。20世紀だったら、中国本国の人は簡単に国から出られなかったので香港人だと分かったが、今は好きに出られるので、広東省出身なのか香港出身なのか分からない。ブリストル・オールド・ヴィック演劇学校に学んでいる。

ホレイシオを女性にするという変更はかなり効果的である。今回のハムレットとホレイシオは男女の関係ではないはずだが、男女の親友であり、物語を受け継ぐのが女性というのは、稗田阿礼(男性説と女性説があるが、稗田氏は代々女性が宮中に勤めに出るという家であり、女性でないと辻褄が合わない)や清少納言、紫式部、赤染衛門という女性が記すという伝統があった日本にも馴染みやすい(稗田阿礼は記憶するだけで筆は太安万侶が執ったが、おそらく女性なので文字が書けなかったのだろうと思われる)。

とにかく多国籍で、性別も異なる「ハムレット」である。オーソドックスな演出ではなく、着ているものも現代のそれだが、物語の進行においては、人種はさほど気にならない。
小人症のオフィーリアだが、王妃になるのは難しいと思われるが、この世界ではそうしたことも気にされてはいないようだ。佯狂のハムレットが元に戻るよう神に祈るシーンでは、余り痛切さが感じられなかったが、狂乱の場では独特の迫力があった。

「生か死かそれが問題だ」は一番オーソドックスな訳を採用。ただオーソドックスと言いながらこの言葉が用いられている翻訳戯曲は1冊だけである。小田島雄志の「このままでいいのかいけないのか、それが問題だ」も有名である。
この言葉は、そのまま取ると父王ハムレットの言葉通り復讐を果たすべきか、という場面で用いられているため、単純なことを言っている可能性もある。

クローディアスとガートルードのことをハムレットが、「一心同体」と評する場面がある。クローディアスを殺すとガートルードをも殺す、つまり母親殺しになってしまうという考えである。これは、ハムレットがクローディアスと勘違いしてポローニアスを殺害する場面があるため、「名答」とはならないのだが、今回の演出はどうもクローディアスとは思わずにポローニアスを殺している(指ピストルでである)ようであり、「一心同体」説が通る余地がある。今回のハムレットはこれまでの中でもかなり露骨にマザコンである。今回は上手く通じたように思う「母親がいるから」という「一心同体」説だが、1回だけでは有力説には上がってこないかも知れない、何しろハムレットについて書かれた論文は、文学史上最も膨大であるとされており、「ハムレット学者は、ハムレットに関する論文を読むのに忙しくて、『ハムレット』を読む暇がない」というブラックジョークがあったりする。
ただこの「一心同体」説が通れば、ハムレットについては、「うじうじ悩んでばかりで行動しない『ハムレット型性格』(対義語は『ドン・キホーテ型性格』)」という汚名をそそぐことが出来るかもしれない。

ラストは、女性に見取られて英雄が亡くなるシーンである。多くの主人公達がこうして最期を遂げた。世界のミステリー小説家の中にはハムレットの悲劇の黒幕がノルウェーのフォーティンブラスとする説を唱える人がいるようだが、それはない。ただデンマークの王室全滅で、フォーティンブラスが何もしないで領土を獲得するのも事実である。
しかし、描かれているのはあくまでデンマーク王室の悲劇だ。元々デンマーク王室は人が足りないという状態であり、そんな中で欲に駆られてことを行うと、結末は悲惨ということである。

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2026年1月25日 (日)

コンサートの記(942) 阪哲朗指揮 紀尾井ホール室内管弦楽団第144回定期演奏会大阪公演

2025年9月16日

午後7時から、住友生命いずみホールで、紀尾井ホール室内管弦楽団第144回定期演奏会大阪公演を聴く。指揮は京都市出身で、今は大津市に住み、びわ湖ホールの芸術監督を務めるという阪哲朗。

紀尾井ホール室内管弦楽団は、以前は紀尾井シンフォニエッタ東京を名乗っていた団体で、紀尾井坂上の日本製鉄紀尾井ホールを本拠地としている。常設の団体ではなく、普段は別のプロオーケストラの楽団員やソリストとして活躍してるメンバーが集まって演奏会を作り上げる。紀尾井シンフォニエッタ東京時代の演奏を紀尾井ホールで聴いたことがあるが、紀尾井町・四ツ谷、上智大学のすぐそばという土地だからか、見るからに「私、良家の娘です」というタイプの若い女性の聴衆が多いのが印象的であった。

会場の住友生命いずみホールに来るのは久しぶり。来る前に大阪城公園内にある豊國(ほうこく)神社に参拝。豊臣秀吉公の像は完成したばかりの頃から見ているが、経年により細かな傷なども目立ち、色も以前より薄めになった。「お互い年を取りましたなあ」と心の中で呟く。
大阪城公園内は外国人観光客が目立つが、国旗をモチーフにしたものを着たり持ったりしている人も多く、「トルコか」、「ベトナムか」と分かる。

日本人の女性二人が、「中国では少し残す」という話をしていたのが耳に入るが、すぐにピンとくる。中国では出された食事を全部食べずに残すのがマナーである。全部食べてしまうと、「量が足りなかった」という意味になる。京都が生んだ女優である中村玉緒さんの著書を読むと、昔は京都でも少し残すのが礼儀という時代があったようである。

 

さて、住友生命いずみホールでの紀尾井ホール室内管弦楽団のコンサートであるが、入りは余り良くない。全て横向きの席である2階のバルコニー席はほぼ埋まっているが、1階席は6割行くか行かないかといったところ。いずみホールでは、いずみシンフォニエッタ大阪というこれも非常設の団体が定期演奏会を行っており、新鮮味がなかったのかも知れない。1階席には数人分丸ごと空いている席があるが、おそらく招待客が来てくれなかったのだと思われる。

 

曲目は、ヴェーバーの歌劇「オベロン」序曲、コルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲(ピアノ独奏:阪田知樹)、メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」(ナレーションなしで、一部を割愛してのほぼ全曲演奏。ソプラノ独唱:三宅理恵&山下裕賀。合唱:大阪すみよし少年少女合唱団)

「夏の夜の夢」だけ聴きたい人もいたようで、後半には1階席の後ろの方の聴衆が少し増えていた。
聴衆が少ない理由としては、「コルンゴルトって誰?」という人が多いのと、「関西なら阪さんはいつでも聴ける」という2つが考えられる。

コンサートマスターは玉井菜摘。玉井さんのお母さんは京都市交響楽団の第2ヴァイオリン奏者であったようだ。
ヴァイオリン両翼の古典配置を採用しているが、演奏スタイルは全てモダンである。

 

いずみホールも京都コンサートホール同様、反響板がないので、1階席は音が降りてこないように感じることがある。今日の2階バルコニー席で聴いた。

 

ヴェーバーの歌劇「オベロン」序曲。比較的、演奏会の第1曲に選ばれやすい曲である。今日プログラムされた3曲には盛り上げ方が似ているという共通点がある。

紀尾井ホール室内管弦楽団は、腕利きが揃っているだけに常設ではないのにアンサンブルも緻密で、音も輝かしい。室内管弦楽団としては、オーケストラ・アンサンブル金沢と日本のトップを争う力を持っているように感じた。ただ、紀尾井ホール室内管弦楽団は非常設故メンバーが入れ替わるので、演奏会ごとに出来が違うということもあり得るかも知れない。前に聴いた演奏も今日の演奏も優れたものだったが。

 

コルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲。戦場で右手を負傷したピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン(哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの実兄)が、多くの作曲家に依頼して書いて貰った左手のためのピアノ作品の一つである。
コルンゴルトは、幼時から楽才を発揮し、ミドルネームがヴォルフガングということもあって、「モーツァルトの再来」と絶賛された。23歳で書いた歌劇「死の都」は大ヒットしている。ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」をミュージカル化したり、メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」を編曲したりと、舞台劇方面でも活躍。しかしコルンゴルトはユダヤ系であったため、ナチスから逃れるためのアメリカに渡る。
アメリカでは映画音楽の作曲を数多くこなし、現代では「映画音楽の礎を築いたコルンゴルト」と讃えられることもあるが、当時は劇伴はクラシックよりも下と見なされており、また彼のクラシック音楽のロマンティックな作風がウィーンでも「時代遅れ」と受け取られるようになり、晩年は不遇だった。死後はその名が一度、消えかかったが、1990年代半ばにアンドレ・プレヴィンやフランツ・ヴェルザー=メストらが指揮したコルンゴルト作品のCDが立て続けに発売され、「コルンゴルトブームが起こるか」と思った矢先に世界的なピアソラブームが起こってしまい、コルンゴルトの名は吹き飛ばされてしまった。
それでも近年は「死の都」が日本でも上演されるなど、再評価の動きはある。

コルンゴルトの左手のためのピアノ協奏曲は、弦楽器のロマンティシズムに鋭さを隠した音色をバックに、個性的な旋律が展開される。今でも新しく聞こえる部分があるなど、コルンゴルトの確かな才気が感じる。そして盛り上げ方は「オベロン」序曲や「夏の夜の夢」序曲などにも通じるものがある。
ソリストの阪田知樹は技巧派ピアニストとして名声を高めており、大阪フィルハーモニー交響楽団の宇治公演で聴いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のシャープなピアノが記憶に新しいが、今日は音楽の大枠をガッシリと捉えた男性的なピアニズムを示す。高音がトイピアノのように聞こえる場面もあり、ハッとさせられる。
珍しい曲ということで譜面を用意し、自分でめくりながらの演奏であった。
以前は男性ピアニストというと、遊び人やボヘミアンも多かったが、聞くところによると、阪田知樹はアスリートのようにストイックな生活を送っているそうである。

アンコール演奏は、メンデルスゾーンの「無言歌」より“紡ぎ歌”。私はメンデルスゾーンの「無言歌」の全曲盤を持っているのだが、余り耳に残らなかった曲。ただコルンゴルトの後で聴くと、メンデルスゾーンの革新性を聴き取ることが出来る。
メンデルスゾーンが38歳の若さで亡くならなかったら、もっと音楽を推し進めていたかも知れない。

 

メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」。短い曲とナレーションをカットしたバージョンである。メンデルスゾーンの劇附随音楽「夏の夜の夢」は人気が高まる傾向にあり、檀ふみのナレーション、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団の演奏、幸田浩子と林美智子の独唱で聴いたことがある。この演奏はライブ録音され、CDとなってリリースされている。
もう大分経ったので書いてもいいと思うが、泉鏡花の「夜叉ヶ池」がオペラ化され、演出が岩田達宗さんで、主役の百合を歌うのが幸田さんということで、東京・初台の新国立劇場中劇場まで観に出掛けたのだが、檀ふみさんがいらしていた。無闇に話しかけられないようにだと思うが、お付きの男性とずっと話していて、「有名人も大変だな」と思ったものである。
京都市交響楽団も昨年、オーケストラ・ディスカバリーの曲目として、鈴木優人の指揮、ウエンツ瑛士のナレーションほかで、劇附随音楽「夏の夜の夢」を演奏する予定だったのだが、「台風接近」との予報により公演中止となっている。

前半は指揮棒を使っていた阪哲朗であるが、「夏の夜の夢」はノンタクトでの指揮。総譜は譜面台の上に開かれているが、ほぼ暗譜の指揮で、譜面をめくらずに立て続けに指揮した時には、数ページまとめてめくっていた。
演奏は活力に富み、メカニックの高さもあって、大変優れた出来であった。阪のキビキビとした音運びがこの曲に相応しいということもあるが、メンデルスゾーンの実力にも改めて感服することになり、充実した演奏会となった、三宅理恵と山下裕賀(ひろか)の独唱者二人と、大阪すみよし少年少女合唱団も澄んだ声で演奏に彩りを施した。

 

プログラムが長めであるが、更にアンコール演奏がある。ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。アンコールとしては長めの曲だが、賑やかさと仄かな哀愁が印象的な演奏であった。この曲も終盤は盛り上がる。

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2026年1月 4日 (日)

グスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユースオーケストラ レナード・バーンスタイン 「ウエスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス

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2025年10月10日 (金)

コンサートの記(923) ジョン・アクセルロッド指揮 京都市交響楽団第699回定期演奏会

2025年4月19日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第699回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、元京都市交響楽団首席客演指揮者のジョン・アクセルロッド。
首席客演指揮者時代は、コロナ期と重なってしまったため、十分な活動を行えなかったが、渡航制限が続く中、首席客演指揮者としての任務を果たすため危険を冒して来日して指揮を行うなど、京都市交響楽団に貢献した。現在は、スイス国立管弦楽団音楽監督兼首席指揮者とルーマニアのブカレスト交響楽団首席指揮者を兼任している。
ハーヴァード大学音楽学部とサンクトペテルブルク音楽院に学び、レナード・バーンスタインとイリヤ・ムーシンに師事。出身地のヒューストンでは、当時、ヒューストン交響楽団の音楽監督だったクリストフ・エッシェンバッハに師事している。

曲目は、チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノ:森麻季)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。作曲家最後の作品が2つ並ぶという興味深いプログラムである(リヒャルト・シュトラウスは実際には「4つの最後の歌」の後にも曲を書いていたようである)。

今日は都合によりプレトークには間に合わなかった。

今日のコンサートマスターは、特別名誉友情コンサートマスターの豊嶋泰嗣。フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に大島亮。チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。ドイツ式の現代配置での演奏。トランペット首席のハラルド・ナエスは降り番。フルート首席の上野博昭はリヒャルト・シュトラウスからの、クラリネット首席の小谷口直子は「悲愴」のみの出演である。

 

チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」。チャイコフスキーがシェイクスピアの作品にインスピレーションを受けた作品としては、某有名作にも影響を与えた「ロメオとジュリエット」が有名で、「ハムレット」は余り演奏されない。「ハムレット」を題材にした音楽を書くようチャイコフスキーに勧めたのは、弟のモデストで、プランも合わせて提示したのだが、作曲が行われることはなかった。その後、10年以上経ってから、フランスの俳優であるリュシアン・ギトリを招いてサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場で「ハムレット」の上演が企画され、チャイコフスキーが劇音楽を書くという企画が持ち上がる。上演は実現しなかったが、チャイコフスキーはこれを期に幻想序曲「ハムレット」を書くことになった。
ハムレットを表すと言われる重苦しい主題の後に、躍動感溢れる旋律が現れる。チャイコフスキーは具体的に何を書いたのかをほとんど書き記していないが、対比させるのだとしたらレアティーズだろうか。オフィーリアとフォーティンブラスの主題に関しては書かれているようである。
オーボエがジャズのスタンダードナンバー「枯葉」によく似た主題を吹くのが面白い。作曲されたのはチャイコフスキーが先である。この旋律は二度登場するため、おそらく何かもしくは誰かを表しているのだと思われるが、具体的に何を描いているのかは分からない。
アクセルロッドは優れたバトンテクニックを生かして、京響から輝かしくもドラマティクな音を引き出す。

 

リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。リヒャルト・シュトラウスが1948年に書いた最晩年の作品であり、評価は極めて高い。日本でもお馴染みのヘルマン・ヘッセの詩を用いているということでも興味深い曲である。

失敗したのは、ポディウム席を選んだため、森麻季の声が余り届かないということである。やはり歌曲の場合、声が届かないのでは書きようがない。ということで、この作品に関する批評は行わないこととする。

 

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。21世紀に入ってから大幅に解釈が変わった曲である。増田良介によるプログラムノートでは、自殺説について「否定されている」と書いているが、異様な構成は何らかの形で「死」を意識したものとして見た方が自然なように思われる。

アクセルロッドは、中庸のテンポでの演奏。「若く良き日の回想」のように甘美な第1楽章第2主題は、2度目をやや弱く演奏してメリハリを付ける。
第2楽章、4分の5拍子は、3拍子目を跳ね上げるように振ることで処理。4分の5拍子のワルツは、ロシアでは珍しくないようである。ただ曲調は第1楽章の「若く良き日の回想」を受け継いでいるようである。
第3楽章は4分の4拍子であるが行進曲風。アクセルロッドはの師であるレナード・バーンスタインは、この楽章の後に拍手が来るのを喜んだそうだが、現在は当時とは解釈が異なる。
威勢の良い曲調だが、やけになっているようにも聞こえる。交響曲第5番で、ベートーヴェンの運命主題を多用したチャイコフスキーだが、この楽章でも進もうとすると運命主題に似た音型が立ちはだかる。ラストのピッコロの狂騒はベルリオーズの幻想交響曲のようだ。
アクセルロッドは二度目のシンバルの後にテンポをグッと落とし、異様さを強調する。

最終楽章はそれほど慟哭は強調しないが、自然ににじみ出る哀感が伝わってくる演奏である。この楽章でも「若く良き日の回想」が形を変えて出てくる。これほど執拗に回想の趣が出てくるということは、「死」はやはり意識されていたものと見るのが自然である。もっとも、チャイコフスキーは交響曲第4番からの3つの交響曲全てで異様な緊張感と狂騒を書き続けており、「悲愴」を遺書のつもりで書いたのかどうかは分からない。
オーケストラを鳴らす術に長けたアクセルロッド。京響の機能美を上手く生かした演奏であった。

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2025年9月 6日 (土)

コンサートの記(916) 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第1回「音楽と物語と」 鈴木優人指揮 ウエンツ瑛士(語り)

2025年6月15日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2025「発見!メモリアルイヤーの作曲家」第1回「音楽と物語と」を聴く。

これまでのオーケストラ・ディスカバリーは年4回の公演を4人の指揮者で振り分けていたのだが、今年度は前半2回を鈴木優人が、後半2回を京響常任指揮者である沖澤のどかが受け持ち、二人で振り分ける。

タイトルにあるようにメモリアルイヤーの作曲家をフィチャーするプログラム。今回は、ビゼー、ヨハン・シュトラウスⅡ世、クライスラーの作品が取り上げられ、今後も芥川也寸志、ラヴェル、ショスタコーヴィチ、ルロイ・アンダーソン、フォーレ、サン=サーンス、ファリア、ウェーバー、ベンジャミン・ブリテンの作品がプログラムに載る予定である。

今日の演目は、ビゼー(没後150年)の歌劇「カルメン」前奏曲、サラサーテの「カルメン幻想曲」(ヴァイオリン独奏:大石彩代)、クライスラー(生誕150年)の「ウィーン奇想曲」(ヴァイオリン独奏:古川真弥)、メンデルスゾーンの「夏の世の夢」より“スケルツォ”“夜想曲”“結婚行進曲”、ヨハン・シュトラウスⅡ世(生誕200年)のポルカ「雷鳴と電光」(指揮者体験コーナーあり)、プロコフィエフの交響的物語「ピーターとおおかみ」
ナビゲーターと「ピーターとおおかみ」の語りはウエンツ瑛士が務める。

 

バッハ・コレギウム・ジャパンの首席指揮者として、また関西フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者、読売日本交響楽団の指揮者としてお馴染みの鈴木優人。父親の鈴木雅明も若白髪だったが、彼もその血を受け継ぎ、最初は前の方だけだったが白髪がどんどん拡大。今や若くして総白髪である。眼鏡をかけている時もあるが、今日は眼鏡なしで登場した。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーは尾﨑平。ドイツ式の現代配置での演奏である。オーボエ首席の髙山郁子とクラリネット首席の小谷口直子は降り番である。ヴィオラの客演首席には須藤三千代が入る。

今日の鈴木優人は全編指揮棒を使っての指揮である。

ビゼーの歌劇「カルメン」前奏曲。リズム感の鮮やかな情熱的な力強い音が奏でられる。時折、タメを作るのが鈴木らしい個性となっていた。

昨年、オーケストラ・ディスカバリーにナビゲーターとして登場した時には、曲目数が少なかったということもあって、台本を手にせず、全て暗記してやり取りを行っていたウエンツ瑛士だが、今回は曲も出演者も多く、「ピーターとおおかみ」では語りも務めるということで台本を抱えて登場した。

 

新しい試みとして、まだ学生のヴァイオリン奏者をソリストとして迎える。
「カルメン幻想曲」でヴァイオリン独奏を務める大石彩代(さよ)は、京都市立芸術大学大学院修士課程1回生。学部も京都市立芸術大学だが弦楽専攻を首席で卒業している。第4回みおつくし音楽祭クラシックコンクール弦楽器中学生の部第1位・金賞及び大阪府知事賞、第10回あおによし音楽コンクール奈良2023でプロフェッショナルステージ第1位・グランプリ・総務大臣賞、第47回全日本ジュニアクラシック音楽コンクールヴァイオリン部門大学生の部第1位といった優勝歴の他、高位での入賞歴もある。また小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩⅩへも参加した。

クライスラーの「ウィーン奇想曲」でヴァイオリン独奏を務める古川真耶は、2011年、デュッセルドルフ生まれ。その後、日本に戻って音楽教育を受けている。現在、中学2年生で、京都市立芸術大学音楽学部音楽教育研究会「京都子どもの音楽教室」に在室している。なお、鈴木優人が初めてオーケストラを指揮したのも中学2年生の時で、ベートーヴェンの交響曲だったが、教師から「(取り組むには)まだ早いね」と言われたそうである。
古川も、2023年に行われた第35回京都子供のためのヴァイオリンコンクール金賞及び奨励賞を受賞している。
ウエンツ瑛士が、「ヴァイオリン以外に好きなものある」と聞くと、「K-POP」という答えが帰って来た。だが、「K-POP、ヴァイオリンで弾いたりする?」とのウエンツの問いには「弾かない」と答えていた。

大石彩代が独奏を務める「カルメン幻想曲」は、スペインや南仏的な濃い色彩こそないもの、安定した技巧が楽しめる。一方で、まだまだ弾くだけで精一杯のようにも見えた。
「ロマの踊り」のアッチェレランドの部分で、鈴木は「ついてこられるかな?」と大石の方を見るが、大石はきちんとついて行った。
なお、大石は、鈴木優人が指揮する京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会に、ヴァイオリンではなくヴィオラのトップとして出演し、再度共演する予定だそうである。

クライスラーの「ウィーン奇想曲」。19世紀末から20世紀前半にヴァイオリニスト兼作曲家として活躍したフリッツ・クライスラー。だが、自身が作曲した作品の多くを、「図書館で見つけた古典」などとして演奏。「大作曲家のものに違いない!」と言われたりした。一方で、クライスラー名義で作曲した作品の評価はさっぱり。クライスラーも最終的には打ち明け、大騒ぎとなるのだが、人の評価が当てにならない一例証となっている。
「ウィーン奇想曲」は、クライスラー本人が作曲者であることを明かして発表した曲の一つである。
古川のヴァイオリンは素直なもので、この手の曲にありがちな耽美的な表情を付けたりはしない。技巧も安定している。
なお、古川は、京都市交響楽団第2ヴァイオリン副首席奏者の杉江洋子(今日も首席第2ヴァイオリン奏者のフォアシュピーラーとして参加)に師事しているようである。

 

メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」から“スケルツォ”“夜想曲”“結婚行進曲”
鈴木は、「まず台風の話からしないといけないのですか」と語り始める。昨年の9月1日にロームシアター京都メインホールで行われる予定だったオーケストラ・ディスカバリーが台風の接近により中止になってしまったのだが、その時の指揮者が鈴木優人で語りを務めるのがウエンツ瑛士のはずだったのだ。女性歌手2名を招いての本格的な公演になる予定だったが、今回、規模は縮小したが演奏出来る喜びを鈴木は語った。

京響は鈴木の棒への反応も良く、生命力豊かな上質の演奏を聴かせる。“結婚行進曲”におけるブラスの輝きも効果的であった。

 

ヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と電光」。指揮者体験コーナーがある。
まず鈴木がショートバージョンを京響とお手本として演奏する。その後、指揮体験をしたい子どもを募る。客席で手を挙げた子の中からウエンツが選ぶ。ウエンツは、「我こそは子どもだぞという大人の方もどうぞ」と呼びかけるが、流石に大人で手を挙げる人はいない。
3人の子どもが選ばれるのだが、なぜか舞台に上がって来た子が更に2人。ウエンツは「日本も変わりましたね」と語るが、一人は「眼鏡の子」と言われたので間違えて来てしまい、もう一人はなぜかよく知らないが上がってきてしまったようだ。
結局、5人全員に指揮してもらう。5人中4人が女の子である。
二つに刻む指揮をしたのは一人だけで、後は円を描くような指揮。テンポも速すぎたり、遅すぎたり、伸び縮みしたりと、京響のメンバーも演奏が難しそうである。快速テンポで振った子の後ではウエンツは、「京響の意地を感じました。なんとしてもついて行ってやる」

前半も押したようだが、後半も指揮者体験が3人のはずが5人になったので更に押す。

ポルカ「来面と電光」は。最後に鈴木と京響がカットのないバージョンを演奏して終えた。プロの指揮者なのでメリハリが利いている。

 

最後の曲目となるプロコフィエフの交響的物語「ピーターとおおかみ」。ウエンツは、指揮台の前、下手寄りに据えられた椅子に腰かけて朗読を行う。
まずどの楽器が何を表すのかを説明してから演奏開始。
今年はロームシアター京都サウスホールで園田隆一郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団の演奏による「ピーターとおおかみ」も聴いているが、ホールが違うとはいえ、鈴木と京響の演奏は音がやや渋めでエッジが聞いており、表現の引き出しがより多い感じである。
ウエンツ瑛士の語りも流石で、子どもだけでなく大人をもうっとりとさせてしまう声と朗読術の巧みさが聴く者の想像力に働きかけてきた。

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2025年7月19日 (土)

観劇感想精選(493) 彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vo2 「マクベス」 藤原竜也・土屋太鳳主演

2025年6月28日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vol.2 「マクベス」を観る。彩の国さいたま芸術劇場大ホールで、蜷川幸雄の演出により、シェイクスピア作品の上演を続けた彩の国シェイクスピア・シリーズ。蜷川幸雄亡き後は吉田鋼太郎が演出を受け継ぎ、全作品を上演、完走した。そして2週目が吉田鋼太郎の演出でスタート。その2作目が四大悲劇の一つ「マクベス」である。

翻訳:小田島雄志、演出・上演台本・出演:吉田鋼太郎、音楽:東儀秀樹。
出演:藤原竜也、土屋太鳳、河内大和、廣瀬友祐、井上祐貴、たかお鷹ほか。

魔女の予言、マクベスノック、バンクォーの幽霊、手洗いを止められないマクベス夫人、バーナムの森が動くなど、数々の名場面で知られるマクベス。終盤の展開が速いため、締め切りが間近で筆を急いだのではないかという説があるが、上演されたものを観て「展開が速い」と思ったことはない。台本を読んだ時と上演したものを観た時の印象が異なるのかも知れないが、戦の展開がもっとゆったりだったり緩んだ可能性も高い。

音楽が東儀秀樹の担当ということで篳篥や笙を使ったものが流れる。蜷川幸雄と異なり、日本的な演出をしているわけではないので、合っているのか合っていないのかは微妙だが、音楽自体はいいように思う。

蜷川幸雄の「ハムレット」でタイトルロールを演じたのを観ている藤原竜也。今回はマクベスに挑戦だが、ハムレットを演じるのと同じスタンスでマクベスを演じているため、ハムレットがマクベスを演じているように見える。ハムレットは「悩める青年」だが、マクベスは魔女の予言らしくものに引きずられるスコットランドを代表する猛将であり、ナイーブな青年にするとこの人物の特性が違ってきてしまうように思う。

マクベスは果たして魔女達の予言に引きずられたのか。情勢は全てマクベスを唆すように移行していく。ダンカン王がマクベス邸に泊まりに来ることになり、暗殺する機会が訪れた。だが暗殺を行わないという選択もあるはずだ。スコットランドの寵臣として重用されており、遭えて王位を狙う必然性はどれほど高かったのか。予言に従うだけならそれだけの話だが、苦悩が生まれるところに「マクベス」という作品の面白さがある。

吉田鋼太郎は、魔女の一人として登場。野村萬斎が以前、「日本で『マクベス』をやると魔女達が化け物になってしまう」という話をしていて、野村萬斎は特殊な動きをする暗黒舞踏の人達を魔女役に起用したが、おじさん達が女装をして魔女をやると確かに化け物になってしまう。ユーモラスになる工夫はしていたが。
客席通路を頻繁に使う演出だったが、シアター・ドラマシティは客席通路が全て階段、しかも段差が場所によって異なるということで、冒頭でそれが突っ込まれていた。また客いじりがあり、舞台の上まで上がって貰っていた。

実力がありながら、何故かなかなか人気が上がらない土屋太鳳。森山未來主演の舞台「プルートゥ PLUTO」で一人二役を演じ、見事な演技を披露。彼女は日本女子体育大学舞踏学専攻でダンスを学んでおり、ダンスが行われるのは舞台、ということで演劇においてもステージでこそ本領が発揮されるのかも知れない。
私はマクベス夫人に関しては違う解釈をしているのだが、今回、土屋が演じるマクベス夫人はオーソドックスな悪女。土屋は声を変え、毒々しさすら湛えながらマクベスの背中を押す烈女を演じていく。彼女は153㎝と身長が低いので、本来は迫力はあまり出ないはずだが、そこは体の動きで補う。手を洗い続ける場面の強迫神経症の演技も大仰にならずリアルティを出すことに成功していたように感じられる。
The悪女という解釈としては、土屋太鳳は最良の演技を行っていたように思う。
今は「隠れ演技派」のようになっている土屋太鳳だが、もっともっと評価されても良い女優だと思う。

藤原竜也を始め、出演者たちの殺陣のレベルは高く、迫力ある舞台となっていた。

「マクベス」の最大の疑問は、魔女達は導いたのか、予言は絶対だったのかということである。宙に浮かぶ短剣も先導の形となっている。なのだとすれば人間は運命に抗えないということになるが。
マクベスが冷静な判断をしていればどうなっていたのかと考えると想像が膨らむ。魔女達もそのまま引き下がったりするまい。マクベスが魔女達に打ち克つことは可能なのか、あるいはこれよりももっと悲惨な筋書きが用意されていたのか。「マクベス」はシェイクスピア作品の中で最も興味深いものの一つである。

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2025年6月 4日 (水)

観劇感想精選(490) 望海風斗主演「マスタークラス」

2025年4月13日 西梅田のサンケイホールブリーゼにて観劇

午後2時から、西梅田のサンケイホールブリーゼで、「マスタークラス」を観る。マリア・カラスが引退後にジュリアード音楽院で行ったマスタークラス(公開授業)を聴講した経験と講義録を基に、テレンス・マクナリーが書いた戯曲を森新太郎が演出。1939年に生まれ、コロンビア大学在学中から劇作を始めたテレンス・マクナリー。2020年にコロナに罹患して亡くなったという。ゲイであり、キリストと弟子達をゲイとして描いたことで抗議運動を起こされたこともあったようだ。
「マスタークラス」は、1995年にアメリカのフィラデルフィアで初演され、日本では翌1996年に黒柳徹子主演で銀座セゾン劇場において初演が行われている。黒柳徹子版は1999年にも再演されているが、以後、「マスタークラス」を取り上げる日本人女優は現れず、久々の上演となった。出演:望海風斗(のぞみ・ふうと)、池松日佳瑠(いけまつ・ひかる)、林真悠美(藤原歌劇団)、有本康人(藤原歌劇団、びわ湖ホール声楽アンサンブル)、石井雅登、谷本喜基(たにもと・よしき。音楽監督兼任)。テキスト日本語訳:黒田絵美子。

出演者は6人いるが、マリア・カラス役は延々と喋り続けるため、実質一人芝居と変わらない量のセリフをこなす必要がある。上演時間は15分の休憩を含んで2時間20分ほどなので、2時間近くは喋ることになる。これだけの量のセリフをこなすだけでも大変なのに、短いが歌うシーンもある。マリア・カラス役なので引退した時分とはいえそれなりの説得力は必要となる。関西テレビの「ピーチケパーチケ」というエンターテインメント&芸術紹介番組で演出の森新太郎が、「この役をやりたいという女優がいたら少しおかしい」と語っていたが、出来る女優がなかなかいない(余り歌うイメージはないが、黒柳徹子は東京音楽大学の前身である東洋音楽学校声楽科卒であり、本格的な声楽の教育を受けている)。今回は宝塚歌劇団元雪組トップスターの望海風斗がマリア・カラス役に挑むことになった。他の出演者も全員、音楽を専門的に学んでいる。池松日佳瑠は、東京音楽大学声楽演奏家コース卒で元劇団四季、林真悠美は、武蔵野音楽大学大学院修了で第23回万里の長城杯国際音楽コンクール声楽部門1位獲得。藤原歌劇団所属だが、その前にはミュージカルにも出演していた。ホームページを見ると、ストレートプレーを学んだ経験もあるようである。有本康人は、昭和音楽大学声楽科ポピュラーヴォーカルコース卒、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部門第37期修了。藤原歌劇団に所属しているが、大学でも学んだと思われるJ-POPにも取り組んでいる。石井雅登は、今回は音楽に興味を示さない音楽院の道具係役であるが、東京藝術大学音楽学部卒業、在学中に小澤征爾音楽塾塾頭を経験、劇団四季で主役を務めるなど、音楽の素養は十分である。今回は地味な役だが、いざというときにはテナーのカバーも務めることになっている。音楽監督兼任でピアノ独奏を担当するの谷本喜基は、東京芸術大学声楽科卒業。現在は合唱指導者のほか、指揮者、ピアニスト、歌手、アレンジャーなど多方面で活躍。音楽団体「イコラ」の代表、ヴォーカルグループカペラのメンバーである。声楽科の出身者であるが、ピアノとチェンバロ、通奏低音奏法なども修めているようだ。
スウィングという形で、岡田美優(おかだ・みゆう。ソプラノ役両方のカバー)と中田翔真(道具係役のカバー/プロンプター)の名がクレジットされているが、岡田美優は、東京音楽大学卒、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部修了で、藤原歌劇団に所属している。

 

開演前には、ピアノ独奏用にアレンジされた名アリアの数々が流れている。
おそらくニューヨーク・ジュリアード音楽院の教室または講堂が舞台。公開講義なので聴衆がいる。最初のうちは客電が明るいままだが、マリア・カラス役の望海風斗が客いじりをする場面があるためである。

プリマドンナの代名詞的存在であるマリア・カラス。ギリシャ系のアメリカ人でニューヨーク生まれである。最初のうちは容姿に問題があった。100キロを超す巨体の持ち主で、容姿をあげつらう声もあった。マリア・カラスは減量を行い、体重を半分にすることに成功する。カラス本人は「菜食によるもの」としていたが、わざとサナダムシを体内で飼い、体重を減らしたとする「サナダムシ説」も今も有力である。実際、サナダムシがいたことは確かなようだが、それが減量のためなのか、たまたま体の中に入ってしまったのか、真相は分からないようである。
こうして容姿の問題を解決したカラス。視力が悪いという問題もあったが、劇中で、「視力が悪いのも悪くない。指揮者の指示が目に入らなかったということに出来る」という意味のセリフがあり、難点を難点としなかったようだ。

オペラを題材にした芝居ということで、フランコ・ゼフィレッリ、ルキノ・ヴィスコンティ、レナード・バーンスタイン、ヴィクトル・デ・サバタ、ジョーン・サザーランドなどビッグネームが登場する。
カラスは、「私は同業者の悪口は絶対に言わない」と言いながら、サザーランドが長身であることをくさすなど、毒舌を発揮。マリア・カラスは、性格的には良いとは言えない人であるが、そのために人生がドラマティックになったという一面はある。

カラスは、まず「見た目」が大事だという。ピアニストのマニー(エマニュエル。ユダヤ系の名前である。演じるのは谷本喜基)にも、最初に会った時の赤いセーターのようなインパクトがあればと言う。そして客席を、「あなたは見た目に気を使っているとは言えないわね」「その後ろの人も見た目に気を使っているとは言えないわね」といじる。「見た目を良くするのは、歌を良くするより簡単」と断言する。

最初のレッスン生であるソフィー(池松日佳瑠)も、田舎娘のような格好で、見た目がいまいちである。苦労知らずの子のようで、苦労についても「いや、それぐらいは全員」ということしかいえない。ソフィーはギリシャ系イタリア人であるが、譜面に書かれたイタリア語の指示を読めないため、少なくとも育ちはアメリカで、イタリア語はネイティブではないのだと思われる。歌うのはベッリーニの歌劇「夢遊病の女」より“ああ、信じられない”。
まずピアノ伴奏を聴いていないという指摘をカラスから受けるソフィー。作曲家は音符に全てを書いているので、それを聞き逃してはならない。そして演技をしてはならない。なぞるのではない。「感じる、本当にそうなる。それが私達の仕事です」
そうしたアドバイスを書き留めなければならないのだが、ソフィーは鉛筆を持っていない。カラスは若い頃の話をする。カラスが若い頃は鉛筆は高級品だった。ある日、鉛筆とオレンジが並んだ場所で売られていた。オレンジはカラスの大好物であったが、「(歌手として成功したら)後で好きなだけ買える」ので鉛筆を選んだ。
ちなみにソフィーの好きなソプラノ歌手は、サザーランドであるが、ここで先に書いたサザーランドの悪口が出る(「熊みたい」)。カラスは「夢遊病の女」のアミーナを歌い継いできた歌手のことを思い浮かべ、歴史を感じて歌うようアドバイス。ソフィーは、「サザーランドは入りませんか?」と聞いてカラスににらまれる。オペラ界は嫉妬とやっかみの世界である。
ソフィー役(本にはソプラノ1とある)も歌うシーンが短いがあるので、やはりソプラノ歌手としての訓練を積んだ者でないと演じることは出来ない。

レッスン生2人目。シャロン(林真悠美)。ソプラノである(本にはソプラノ2と書かれている)。ドレスアップして登場。緑の美しいドレスなのだが、これから行われるのは本番ではなくて授業である。ということで、TPOに問題がある。カラスは、「あなたは何系?」と聞くが、シャロンは答えない。シャロン・グレアムという、ファーストネームもファミリーネームもWASP系だが、本名を名乗る必要もないので(マリア・カラスも本名ではない。本名は、マリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス)不明のままである。仮にWASPだったとしても、ギリシャ移民系のカラスに「WASPです」とは言えないだろう(俗に言う「マウントを取った」ことになる)。
ヴェルディの歌劇「マクベス」からマクベス夫人のアリア“勝利の日に私は~さあ急いでいらっしゃい!”を歌う。シャロンに、シェイクスピアの「マクベス」を読んだことはあるかと聞くカラス。シャロンは、「18歳の時に」と大分前の話として答えるが、「ヴェルディが『マクベス』を読まずにオペラを書いたと思ってるの?」と不勉強を責める。
ラブレターを読むシーンから入るのだが、ちゃんと読んでいるようには見えない。カラスがやってみせるが、カラスは読まない。これは、「ラブレターを何度も読んでもう暗記しているので読む必要がない」という解釈だそうである。
一度退場して、登場することになるシャロン。カラスによると「登場があって退場がある。その間に芸術がある」
しかし、シャロンは戻ってこない。様子を見に行ったカラスは、「いない」
カラスは若い頃に、ミラノ・スカラ座でマクベス夫人を歌った時のことを思い返す。フランコ・ゼフィレッリの演出、ヴィクトル・デ・サバタの指揮。高所にいるという演出である。ここでの成功で、カラスはスターへの道を歩み始める。
背景には鏡が市松模様になる形で埋め込まれているが、この時は背景にスカラ座の内部が投影される。

3人目のレッスン生は、トニー(アントニー。有本康人)である。テノール。南カリフォルニア大学で声楽を学び、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の大学院で声楽の修士獲得。この時代は今よりも東海岸と西海岸の差が激しかったはずである。
プッチーニの「トスカ」のマリオのアリア“妙なる調和”を歌う。ちょっと軽い感じの男であるが、歌は確かである。カラスは情景描写を行う。実際には台本に書かれていないことも想像力で把握していく。画家であるマリオが描いている絵の題材まで言い当てる。
カラスはトニーの歌に感銘を受けたように見えるが、実際は、マリオの相手であるトスカに自己同一化して思い出に浸っていたようである。「アリー」と愛称で呼ばれるその男、海運王、アリストテレス・オナシスである。オナシスは金持ちであるが、芸術に理解のない居丈高の男としてカラスが演じてみせる。実際のところ、オナシスがカラスに好意を持ったのは、彼女が自分と同じギリシャ系の世界最高のソプラノ歌手だったからで、別に音楽が好きだったからではない。オナシスは、カラスにオペラではなくて売春宿で歌われるような民謡を要求する。
オナシスは、その後、カラスを捨ててジャクリーン・ケネディと結婚する。ジャクリーンと結婚したのもやはりアクセサリー集め感覚だったようで、すぐに不仲になり、離婚後はまたカラスと付き合うようになるが、カラスの引退を早めた一因がオナシスにもあったように思われる。

シャロンが戻っている。体調不良となり、化粧室で嘔吐してしまったが、再びマクベス夫人に挑む。カラスに解釈を否定されつつも歌い終えるシャロンだったが、「あなたは自分が分かっていない」と言われる。カラスは、マクベス夫人には向いていないとして、いわゆるリリック・ソプラノが起用される役を提案。しかし、これにシャロンは激怒。「大嫌い!」「若い才能を潰したいだけ」と捨て台詞を吐いて出て行く。

最初の夫であるバティスタと、愛人のオナシスの思い出。ここで、バティスタとオナシスの顔写真が背景に投影されるのだが、これは余り趣味が良くないように感じた。語りすぎるくらいに語るので、それ以外は余計な要素である。
実はバティスタは、カラスより30歳年上。親子程もしくはそれ以上の差である。それが次第に耐えられなくなる。この作品中では語られないが、マネージャーでもあったバティスタはカラスに技巧的に難度の高い歌が登場するオペラへの出演を引き受けさせ、その結果、カラスは喉の故障で40歳そこそこで引退せざるを得なくなっている。オナシスの下へと走ったカラスだが、不倫だったためバッシングを浴び、離婚。オナシスと再婚したかったが、オナシスはジャクリーン・ケネディを選んだ。

ジュリアード音楽院でのマスタークラスを始める前に、カラスは映画に出演している。パゾリーニ監督の「王女メディア」。この映画は、何年か前にリバイバル上映されているが、劇中でカラスが歌うことはない。映画の内容も、回想や想像の場面がそれと示されずに突然挿入されるという抽象性の高いもので難解であり、またパゾリーニ監督作品ということで残虐シーンもあるなど少々悪趣味で、興行的には成功していない。

 

オペラのマスタークラスを描いた作品であるが、描かれるのは芸術論である。オペラだけではない。
「この世から『椿姫』がなくなっても、お日様はちゃんと昇ります。オペラ歌手なんていなくても世界は回っていきます。でも私達がいると、その世界が少し、豊かに、そして賢くなるんじゃないかって」
「肝心なのは、あなたがたが学んだことを、どう生かすかってことです。言葉をどう表現するか、どうしたらはっきり伝わるか、自分の中にある魂をどう震わせるか。どうか正しく、そして素直な気持ちで歌を歌って下さい」
正しく素直。これは実はかなり難度の高いことなのだが、おそらく講義録からの言葉でカラスはそこを目指していたのだろう。

 

最後には、マリア・カラスの肖像が、キャットウォークから降りてきて、望海風斗は膝を折ってマリア・カラスに敬意を表した。

 

望海風斗は鼻が高く、風貌がカラスに似ている。少なくとも同系統でカラス役には最適である。膨大なセリフを淀みなく喋る至芸を披露。歌声も美声である。
他の出演者も音楽家ということで、音楽的に充実していた。林真悠美と有本康人は、演技を見て、「この人達はオペラの人かな?」と思ったが、実際にそうであった。オペラの登場人物は――オテロ、蝶々夫人、トゥーランドット、ポーギーとベスなど例外も多いが――白人であることが多いため、オペラ歌手は白人のような身のこなしをすることに慣れている。それが舞台俳優との一番の違いである。新劇は西洋の戯曲の上演も多いので、その時は白人のような身のこなしをするが、オペラ歌手の場合はそれともちょっと違う。

 

近く、マリア・カラスを主人公にした「Maria」(原題)という映画が日本で公開される予定である。マリア・カラスを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー。これまた癖のある女優が選ばれている。

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2025年1月21日 (火)

コンサートの記(880) 神戸文化ホール開館50周年記念事業 ヴェルディ:オペラ「ファルスタッフ」

2024年12月21日 大倉山の神戸文化ホールにて

午後2時から、大倉山にある神戸文化ホールで、神戸文化ホール開館50周年記念事業 ヴェルディ:オペラ「ファルスタッフ」を観る。ジュゼッペ・ヴェルディ最後のオペラで、唯一の喜劇成功作となっている(ヴェルディは喜劇は好きであったが、若い頃に発表した「1日だけの王様」が大失敗に終わり、以後は喜劇に手を出せないでいた)。
「ファルスタッフ」の原作はシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」で、この作品はシェイクスピア最大の駄作と言われている。そもそも正式な公演用ではなく、王室での余興用に書かれた本である可能性が高いそうだ。それでもオットー・ニコライがオペラ化しており、ヴェルディもボーイトが書き換えた「ファルスタッフ」をオペラの題材に選んでいる。タイトルロールのファルスタッフは、元騎士だがビア樽体型の悪党であり、二人の女性を同時に唆そうとする食えない男である。

指揮は佐藤正浩、演出は岩田達宗。出演は、黒田博(ファルスタッフ)、西尾岳史(フォード)、小堀勇介(フェルトン)、谷口文敏(カイウス)、福西仁(じん。バルドルフォ)、松森治(ピストーラ)、老田裕子(アリーチェ)、福原寿美枝(クイックリー夫人)、内藤里美(ナンネッタ)、林真衣(メグ。体調不良の山田愛子の代役)、森本絢子、福嶋勲ほか。

管弦楽は神戸市室内管弦楽団。コンサートマスターの高木和弘が体調不良で降板したため、森岡聡が代わりにコンサートマスターを務める。
神戸市室内管弦楽団は、1981年に神戸市により神戸室内合奏団として発足。当初は弦楽アンサンブルであったが、2018年に管楽奏者を正式に加入させて神戸市室内管弦楽団に改称。2021年に鈴木秀美を音楽監督に迎えている。鈴木さんとはホワイエですれ違った。
神戸文化ホールの専属団体である。なお、神戸市にはフル編成のプロオーケストラは存在しない。

合唱は神戸市室内合唱団。神戸市が設立したプロの合唱団である。

神戸文化ホールは開館50周年ということで私より一つ上で、東京・渋谷区神南のNHKホールと同い年である。この時代に建てられたホールは比較的多いが、その多くが寿命を迎えており、1975年竣工の神奈川県民ホール(NHKホールを模したホールである)は無期限休館に入る予定である。神戸文化ホールも閉鎖して、三宮に新しいホールを建てる計画があり、当初は、来年に新ホールがオープンする予定であったが、計画が遅れている。
古いホールなのでホワイエなども手狭で、客席間も狭いので移動に難がある。響き自体は悪くはない。階段が多く、エレベーターなどはないのでバリアフリーには対応していない。

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指揮者の佐藤正浩は初めて聞く名前だが、福島県出身で東京藝術大学に学び、ジュリアード音楽院のピアノ伴奏科に進んで修士課程を修了。歌劇場のコレペティトゥア(ピアノ伴奏者)として欧米で活躍した後にオペラ指揮者に転向。神戸市混声合唱団音楽監督、新国立劇場オペラ研修所所長を務めている。オペラ専門の指揮者のようだ。
日本の場合、12月になると有名な指揮者はほぼ全員第九を指揮しているので、第九以外の催しはなかなかオファーが出来ないという事情がある。

昨年の年末には、びわ湖ホール中ホールで「天国と地獄」の演出をしていた岩田達宗。年末には馬鹿騒ぎが似合うということなのか、今年もラストで馬鹿騒ぎがある「ファルスタッフ」を選んでいる。岩田達宗演出の「ファルスタッフ」は、9年前に下野竜也が指揮したものを大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで観たことがある。

本編開始前に、神戸文化ホール開館50周年を祝う吉本新喜劇風寸劇が行われる。

今回は階段状の舞台を用い、回り舞台を用いてガーター亭とウィンザーの光景が交互に現れるようになっている。
字幕もユーモアに富み、「だめよだめだめ」という今では古くなった流行語(以前の下野竜也指揮の公演でも用いられていて、それほど受けていなかったが)なども用いられている。
神戸文化ホールは、左右に花道があり、それを効果的に使っているのだが、ホールの横幅が広いので必要以上に遠くにいるように感じられるところがあった。
滑稽なダンスのような動きを取り入れているのも特徴。ロビンは、9年前の上演同様、大阪音楽大学ミュージカル科出身の森本絢子が務めており、キレのある動きを見せていた。

「メタボ」と呼ばれるファルスタッフ。しかし、ファルスタッフ自身は脂肪があることに誇りを持っているようであり、テムズ川に落とされた時には、脂肪のせいで浮かんで助かったと冗談を言っている。特に意味はないと思われるのだが、何らかのメタファーとして見た場合、あるいは面白いかも知れない。片方が蔑んでいることを片方が誇っているということがあり得るのは「年齢」であろうか。ファルスタッフは若い頃は自称・痩せた美青年だったようである。
そして老年のファルスタッフと対比されるように若い恋人が登場する。

プレトークで岩田達宗は、虐げられた女性像について語っていたが、「ファルスタッフ」は女性が男性に復讐する、それも暴力的でなく成し遂げるという様を描いていることについて触れていた。男性の復讐は暴力的であるが、女性の復讐は必ずしも暴力的ではない。
またヴェルディは奥さんや子どもを相次いで亡くすという悲劇に見舞われているが、奥さんの名前はマルゲリータ、あだ名はメグで、「ファルスタッフ」に登場するメグのモデルになっているのではないかという。メグは、特に何もしないというオペラにあっては珍しい人物である。またヴェルディは家族を描くことに腐心していたとも語っていた。

 

ファルスタッフがアリーチェとメグを同時に誘惑しようとし(恋文を書くが、宛名以外は全て一緒という手抜きである)、アリーチェの夫であるフォードが「泉」という偽名でガーター亭に乗り込んでくるなど、ドタバタの要素が多く、痛い目にあったのに、公園での逢い引きに応じてしまうファルスタッフは滑稽である。
最後の「世の中はみな冗談」は、老境の人間による人間賛歌であり、最後はガーター亭に全ての人が記念写真のように収まるという演出が施されていた(ここが前回の演出とは大きくに違うところであった)。

二幕と三幕の間に岩田さんに挨拶。来年、びわ湖ホールで上演されるコルンゴルトの歌劇「死の都」についても伺ったのだが、びわ湖ホールが出している情報によると岩田さんが栗山昌良の演出を再現するかのように書かれているが、実際は他の人が再現の演出を行うそうで、「何かあった時のためにいるだけ」だそうである。


なお、カーテンコールのみ写真撮影可であった。

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2025年1月20日 (月)

観劇感想精選(481) 絢爛豪華 祝祭音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」2024-25

2025年1月6日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時から、梅田芸術劇場メインホールで、絢爛豪華 祝祭音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」を観る。作:井上ひさし、演出:藤田俊太郎。出演:浦井健治、大貫勇輔、唯月ふうか、土井ケイト、阿部裕、玉置孝匡、瀬奈じゅん、中村梅雀、章平、猪野広樹、綾凰風、福田えり、梅沢昌代、木場勝己ほか。音楽:宮川彬良。振付:新海絵里子。

日生劇場の制作。セリフの方が多いため、音楽劇となっているが、ミュージカル界の若手を代表する俳優が配役されている。2020年に上演されるもコロナで東京公演は途中で打ち切り、大阪公演は全て中止となっており、リベンジの上演となる。だが2020年上演の目玉だった高橋一生は今回は出演しない。そしてミュージカル俳優は舞台が主戦場となるため、一般の知名度はそう高くなく、そのためか空席がかなり目立った。ただ実力的にはやはり高いものがある。

浦井健治はこれまで観たミュージカルの中では、「アルジャーノンに花束を」が印象に残っており、唯月ふうかは博多座で「舞妓はレディ」を観ている(共に主役)。

 

「十二夜」を除くシェイクスピアの全戯曲からの抜粋と、「天保水滸伝」の「ハイブリッド」作品である。

この作品の説明が木場勝己によって講談調で語られた後で、シェイクスピアに関する情報が出演者全員で歌われる。「シェイクスピアがいなかった演目に困る」「英文学者が食べていけない」「全集が出せないので出版社が儲からない」「シェイクスピアがいなかったら女が弱き者とされることもなかった」「バンスタイン(レナード・バーンスタインのこと)が、名作(「ロミオとジュリエット」の翻案であるミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」のこと)を書くこともない」「ツーナイトツーナイト(「Tonight」のこと。実際にバーンスタインの「Tonight」のメロディーで歌われる)というヒット曲が生まれることもない」「シェイクスピアはノースペア」といった内容である。

「十二夜」を除くシェイクスピアの全戯曲からの抜粋であるが、四大悲劇と「ロミオとジュリエット」、「リチャード三世」、「間違いの喜劇」だけを抑えておけば作品の内容は分かる。

舞台となるのは下総国清滝(現・千葉県旭市清滝)。私の母方の実家が旭市であるが、清滝は旧・海上郡海上町(かいじょうぐんうなかみまち)にあり、平成の大合併により旭市に編入されている。銚子のすぐそばであり、作中にも銚子の名は登場する。現在の千葉県内であるが、「東のとっぱずれ」と称される銚子のそばだけに、江戸からはかなり遠い。

まずは「リア王」に始まる。清滝宿の旅籠を仕切る侠客・鰤の十兵衛(中村梅雀)の三女のお光(おみつ。唯月ふうか)が「愛情表現が足りない」という理由で家を追われる(「リア王」と違い、それなりに表現は出来ているのだが)。ちなみにお光がコーディリアに当たることはセリフで明かされる。
長女のお文(瀬奈じゅん)と次女のお里(土井ケイト)がそれぞれに派閥を作り、これがモンタギュー家(紋太)とキャピュレット家の関係に繋がる。
なお、お文とお里は傍白を語るときに体の向きを変えなかったため、本音の後におべっかを使ったということが分かりにくくなっていた。お光を演じる唯月ふうかは体の向きを変えていたが、演出ではなく自主的に向きを変えたのだろう。シェイクスピア好きなら傍白であることは分かるし、シェイクスピアのことを何にも知らない人がこの芝居を観に来る可能性も低いので敢えて変えなかったのだろうが、やはり傍白の時は体の向きを変えて分かりやすくした方が良かったように思う。

ハムレットは「き印の王次」の名で登場し(大貫勇輔)、リチャード三世は佐渡の三世次(浦井健治)として登場する。「マクベスノック」として有名なノック(障子を叩いているので実際にはノックとは呼べないが)を行うのも三世次である。
役名を変えずに何役も兼ねている場合があるが(尾瀬の幕兵衛というオセロとマクベスを合わせた名前の人物もいる)、お光とおさちは双子という設定で唯月ふうかが衣装早替えで演じている。
「オセロ」に出てくるハンカチは櫛に替えられている。
「ハムレット」の有名なセリフ、「To be or not to be,That's the Question.」は、様々な翻訳者による訳が紹介される(登場する中では、ちくま文庫収蔵の松岡和子による訳が最も新しいと思われる)。一般に知られる「生か死かそれが問題だ」は、実は文章自体は有名であるが、「ハムレット」の戯曲の翻訳に採用されるのは、21世紀に入ってからの河合祥一郎訳が初めてである。「ハムレット」のテキスト翻訳はその後も行われており、内野聖陽のハムレットと貫地谷しほりのオフィーリアという大河ドラマ「風林火山」コンビによる上演では全く違う表現が用いられていた。
お冬(綾凰華)という女性がオフィーリアに相当し、「尼寺へ行け!」や狂乱の場などはそのまま生かされている。お冬は新川という川に転落して命を落とすが、実はこの新川(新川放水路)は、私の母親が幼い時分に流されそうになった川である。
ラストは「リチャード三世」の展開となり、「馬をくれ!」というセリフはそのまま出てくるが、三世次は国王でも将軍でも天皇でもないので、「馬をくれたら国をやる」とはならず、転落死を選ぶ。

いわゆるパッチワークだが、繋ぎ方は上手く、「流石は井上ひさし」とうなる出来である。若手トップレベルのミュージカル女優でありながら、「舞妓はレディ」の時は、「(原作映画で同じ役を演じている)上白石萌音に比べるとね」と相手が悪かった唯月ふうかだが、やはり華と実力を兼ね備えた演技と歌唱を披露していた。
他の俳優も殺陣や歌唱に貫禄があり、好演である。

ラストは全員が1階客席通路に出て、「シェイクスピアがいなかったら」を再度歌い、大いに盛り上がった。

 

宮川彬良率いるバックバンドはステージの奥で演奏。基本的には見えないが、第2部冒頭では演奏する姿を見ることが出来るようになっていた。

 

梅田芸術劇場開場20周年ということで、終演後に、藤田俊太郎(司会)、浦井健治、大貫勇輔によるアフタートークがある。20年前にも劇場はあったのだが、経営が変わり、梅田芸術劇場という名称になってから20年ということである。以前は、梅田芸術劇場メインホールは梅田コマ劇場といった。シアター・ドラマシティは名前はそのままだが正式名称が梅田芸術劇場シアター・ドラマシティに変わっている。

梅田芸術劇場メインホールでの思い出深い公演として、浦井健治は「ロミジュリ(ロミオとジュリエット)」、大貫勇輔は「北斗の拳」を挙げた。なお、大貫勇輔は、き印の王次の「き印」が何のことか分からず、最初は「雉のことかな」と思っていたそうである。
元梅田コマ劇場ということで、梅田芸術劇場メインホールでは宙乗りが行える。浦井健治も宙乗りをしたことがあるそうだが、Wキャストで出ていた柿澤勇人(昨年、「ハムレット」で大当たりを取ったため、浦井も大貫も「ハムレット俳優」と呼んだ)は高所恐怖症であったため、宙乗りはしたが、「もう二度とやらない」と言っていたそうである。

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