史の流れに(12) 村井康彦最後の講義 寛永文化講座 村井康彦先生講演会「菊と葵ーー寛永文化の背景」
2024年9月7日 京都ブライトンホテル1階「雲の間」にて
京都ブライトンホテル1階「雲の間」で行われる、村井康彦の講演を聴きに出掛ける。2026年に行われる予定の「寛永御幸四百年祭」のプレイベントとして行われるものである。
京都ブライトンホテルは、大河ドラマ「光る君へ」で、この間亡くなった安倍晴明(あべのせいめい。劇中では、あべのはるあきら。演じたのはユースケ・サンタマリア。「光る君へ」で最初にセリフを発したのが安倍晴明である)の邸宅があった場所に建つと推定されている。具体的には南側の駐車場の一部が安倍晴明邸の跡地と考えられている。
晴明神社のある場所が安倍晴明の邸跡とされることもあるが、あの場所は当時、平安京の外にあるため、事実とは考えにくい。「安倍晴明は一条戻橋の下に式神を飼っていた」という伝説に基づく場所なのだろう。
村井康彦は、1930年山口県生まれ、京都大学文学部史学科に学び、同大大学院修士課程修了、同博士課程中退(1964年に論文で博士号取得)。中退と同時に京都女子大学助教授となり、以後、京都の国際日本文化研究センターの教授、彦根の滋賀県立大学の教授、京都市歴史資料館館長などを歴任。京都造形芸術大学大学院長なども務めている。京都市芸術文化協会の理事長でもあった。
村井康彦先生には、京都造形芸術大学在学中に「京都学」の講義を受けており、卒業前には、造形大前の横断歩道の前で挨拶している。「私はもうやめます」と仰っていた。その後、京都コンサートホールで行われたジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団の来日公演の際にたまたま地下に向かう階段で出会い、言葉を交わしている。ちなみのそのコンサートはガラガラで(ジョナサン・ノットは東京交響楽団に着任する前でまだ知名度は低かった)、「早めにチケット取ったのに意外です」というようなことを仰られていた。ちなみに山口県立岩国高校出身で、友人の大先輩に当たる。
村井先生の講演は、「菊と葵ーー寛永文化の背景」というタイトルで、後水尾天皇と徳川和子(とくがわ・かずこ。東福門院和子。入内時に「まさこ」に読み方を変えている。「濁音のつく名前は雅やかでない」という理由で、現在も皇室には濁音のつく名前の方はいらっしゃらない)を中心としたものである。村井先生は最初「東福門院和子」を「かずこ」と読んでいて、幕末の和宮(親子。ちかこ)と対になると思ったそうだが違ったそうだ。
徳川和子が後水尾天皇に入内したのは、露骨に政略的理由である。徳川家康や秀忠が、徳川家が天皇の外祖父として振る舞えるようにと仕組んだものだ。結果的には、和子が生んだ後水尾天皇の男の子は全員早逝してしまい、女の子だけが残った。その中から明正天皇が生まれる。久々の女帝の誕生であり、諡号は奈良時代の元明天皇と元正天皇の二代続いた女帝から一字ずつ取られたものである。女帝は婚姻も出産も許されないため、一代限りとなる。そのため徳川の血を絶つ戦略でもあった。ただ明正天皇の妹達は摂関家に嫁いでおり、そこから天皇の后になった者も生まれているので、間接的にではあるが、徳川の血は天皇家に入っているそうである。
後水尾天皇は特殊な天皇で、水尾天皇を正式な諡号とする天皇はいない。清和天皇の陵墓が水尾山陵であることから、清和天皇は水尾帝という別名を持つ。ということで、後清和天皇でも良いところを敢えて後水尾天皇にしているのである。
そして、後水尾天皇は父親の諡号を後陽成天皇にしている。陽成天皇というのは、歴代の天皇の中でも屈指の危ない人で、宮中で殺人を犯したのではないかともされている。父親に後陽成とつけたことで、仲が悪かったことが分かる。元々、後陽成天皇は、桂離宮を営んだことで知られる八条宮智仁(としひと)親王に譲位する気であったが、智仁親王が豊臣秀吉の猶子となったことがあったため、徳川家から待ったがかかり、結果、智仁親王ではなく後水尾天皇が即位することになっている。
徳川和子の母親は、お江(達子。みちこ)。浅井長政とお市の方の三女である。お江与の方とも言われ、一般的には「おえよ」と読まれるが、実際には「おえど」であり、江戸の徳川将軍家に嫁いだのでこの名がある。そうでない限り別の名をつける意味は余りない。祖母は戦国一の美女とも呼ばれるお市の方(織田信長の妹)。ということで、その娘である浅井三姉妹も美女揃いで有名。徳川和子も美人であったことが予想される。
東福門院となった和子の陵墓は泉涌寺の月輪陵であるが、菩提寺が欲しいということで再興されたのが、鹿ヶ谷、今は哲学の道に近い光雲寺である。ここは観光寺ではなく、普段は非公開であるが、たまに一般公開される時があり、私も一般公開時に入っている。東福門院和子の座像があり、大変整った顔立ちである。お寺の方に、「美人でいらっしゃいますね」と話したところ、「初めて見た時に余りにも美人なので後水尾天皇が驚いたという話があります」と話してくれた。またたびたび「江戸に帰りたい」と口にしていたそうである。
村井先生は、特別公開時ではなく、鹿ヶ谷に住む友人がたまたま入れてくれたそうで、村井先生が注目したのは東福門院和子の座像ではなく、念持舎利塔で、この台座の下、一番下の部分に菊の御紋と葵の御紋が並んでいる。皇室と徳川家の紋である。しかし、古い写真を見ると、菊の御紋が真ん中にあり、それを左右から挟むように葵の御紋が二つあるそうで、「寅さんじゃないけど、『はて?』」(NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公で、伊藤沙莉が演じる佐田寅子の口癖)となったそうである。お寺の人に聞くと、「表と裏で紋の数が違うので、入れ替えたのだろう」とのことだったのだが、菊の御紋を葵の御紋が挟むというのは何か意味がありそうである。
続いて、京都御所と二条城の関係。天皇の住まいは元々は平安京の大内裏内にあった内裏であるが、次第に里内裏を用いることが多くなり、現在の京都御所は足利義満の時代に東洞院土御門殿と呼ばれた里内裏が正式な天皇の御在所として定まったものである。元の内裏と大内裏のあった場所は、大家(おおうち)、内野などと呼ばれるようになる。
二条城と呼ばれたことのある城郭は全部で4つある。二条通は上京と下京の境であるが、周囲には何もなかったため、巨大城郭を建てやすかったのである。現在、二条城と呼ばれているのは、徳川家康が建てた二条城で、家康は神泉苑の大半を潰し、豊富な水を堀に転じさせた。家康の二条城は現在の二の丸部分のみの単郭の城だったのだが、後水尾天皇の御幸に合わせて、西側に拡張。本丸を設置し、天守を伏見城から移している。それまでの天守は淀城に移した。これは今回の講座ではなく、奈良県の大和郡山市で聞いた話なのだが、二条城の最初の天守は、大和郡山城(郡山城)からの移築ではないかという話があるそうである。その大和郡山城の天守が二条城を経て淀城に移された。この淀城の天守は江戸中期まで残っていた。大和郡山城の天守が江戸時代まで残っていたというのは大和郡山市民のロマンだそうである。
二条城を築いたことで、大宮通が中断されることとなった。大宮通は平安時代から続く南北の通りの中では一番長かったそうだが、二条城築城によってその座を明け渡すことになったようである(現在、最も長いとされる南北の通りは油小路通)。現在の阪急大宮駅の近くに、後院通という、京都市内ではほぼ唯一の斜めに走る大通りがあるが、これは大宮通が遮られたので、大宮通と千本通を繋ぐバイパスとして作られたのではないかということだった。
後水尾天皇の寛永御幸(二条城御幸)は、寛永3年(1626)9月に行われた。この御幸のために、二の丸庭園の南に御幸御殿と女御殿が特別に建てられている。普請を行ったのは小堀遠州(政一)。築城の名手である藤堂高虎の義理の孫ということで作事奉行として有能さを発揮。作庭なども得意とし、二条城庭園の改修もこの時に行った小堀遠州は、茶道にも長けた文化人で、彼を通して、本阿弥光悦や野々村仁清、近衛信尋といった寛永の文化人が生まれることになる。
堀川通を行く行列を描いた(ちなみに堀川通まで出る際に、京都ブライトンホテルのある場所を突っ切っているそうである)「二条城行幸屏風」には、多くの人々が描かれている。後水尾天皇は9月6日から10日までの5日間、二条城に滞在し、徳川秀忠(当時、大御所)・家光(3代将軍就任済み)親子の歓待を受けた。
しかし、後水尾天皇には、困難が待ち受けていた。紫衣事件である。徳川幕府は、朝廷に対し、僧侶に対して承諾なしに紫衣(高僧であることを示す)を贈ることを禁じていたが、後水尾天皇は紫衣の勅許を出す。これを3代将軍の家光が許さず、勅許の取り消しを求める。背後には、黒衣の宰相こと金地院崇伝(以心崇伝)の進言があった。大徳寺の沢庵宗彭(沢庵漬けを始めたとされる人)らが抗議したが、幕府は沢庵を出羽国に流罪とする。そして後水尾天皇は、怒りのためか、娘の明正天皇に勝手に譲位して院政を敷く。ただ、紫衣事件により徳川将軍家の方が皇室よりも格上であることが示され、徳川の治世は盤石となっていくのであった。
村井先生は、8月28日に94歳になられたということで、耳がかなり遠いのであるが、講座は最後まで立派に務められた。これが村井先生の最後の講義となる。
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