カテゴリー「史の流れに」の12件の記事

2024年9月17日 (火)

史の流れに(12) 村井康彦最後の講義 寛永文化講座 村井康彦先生講演会「菊と葵ーー寛永文化の背景」

2024年9月7日 京都ブライトンホテル1階「雲の間」にて

京都ブライトンホテル1階「雲の間」で行われる、村井康彦の講演を聴きに出掛ける。2026年に行われる予定の「寛永御幸四百年祭」のプレイベントとして行われるものである。

京都ブライトンホテルは、大河ドラマ「光る君へ」で、この間亡くなった安倍晴明(あべのせいめい。劇中では、あべのはるあきら。演じたのはユースケ・サンタマリア。「光る君へ」で最初にセリフを発したのが安倍晴明である)の邸宅があった場所に建つと推定されている。具体的には南側の駐車場の一部が安倍晴明邸の跡地と考えられている。
晴明神社のある場所が安倍晴明の邸跡とされることもあるが、あの場所は当時、平安京の外にあるため、事実とは考えにくい。「安倍晴明は一条戻橋の下に式神を飼っていた」という伝説に基づく場所なのだろう。


村井康彦は、1930年山口県生まれ、京都大学文学部史学科に学び、同大大学院修士課程修了、同博士課程中退(1964年に論文で博士号取得)。中退と同時に京都女子大学助教授となり、以後、京都の国際日本文化研究センターの教授、彦根の滋賀県立大学の教授、京都市歴史資料館館長などを歴任。京都造形芸術大学大学院長なども務めている。京都市芸術文化協会の理事長でもあった。

村井康彦先生には、京都造形芸術大学在学中に「京都学」の講義を受けており、卒業前には、造形大前の横断歩道の前で挨拶している。「私はもうやめます」と仰っていた。その後、京都コンサートホールで行われたジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団の来日公演の際にたまたま地下に向かう階段で出会い、言葉を交わしている。ちなみのそのコンサートはガラガラで(ジョナサン・ノットは東京交響楽団に着任する前でまだ知名度は低かった)、「早めにチケット取ったのに意外です」というようなことを仰られていた。ちなみに山口県立岩国高校出身で、友人の大先輩に当たる。


村井先生の講演は、「菊と葵ーー寛永文化の背景」というタイトルで、後水尾天皇と徳川和子(とくがわ・かずこ。東福門院和子。入内時に「まさこ」に読み方を変えている。「濁音のつく名前は雅やかでない」という理由で、現在も皇室には濁音のつく名前の方はいらっしゃらない)を中心としたものである。村井先生は最初「東福門院和子」を「かずこ」と読んでいて、幕末の和宮(親子。ちかこ)と対になると思ったそうだが違ったそうだ。
徳川和子が後水尾天皇に入内したのは、露骨に政略的理由である。徳川家康や秀忠が、徳川家が天皇の外祖父として振る舞えるようにと仕組んだものだ。結果的には、和子が生んだ後水尾天皇の男の子は全員早逝してしまい、女の子だけが残った。その中から明正天皇が生まれる。久々の女帝の誕生であり、諡号は奈良時代の元明天皇と元正天皇の二代続いた女帝から一字ずつ取られたものである。女帝は婚姻も出産も許されないため、一代限りとなる。そのため徳川の血を絶つ戦略でもあった。ただ明正天皇の妹達は摂関家に嫁いでおり、そこから天皇の后になった者も生まれているので、間接的にではあるが、徳川の血は天皇家に入っているそうである。

後水尾天皇は特殊な天皇で、水尾天皇を正式な諡号とする天皇はいない。清和天皇の陵墓が水尾山陵であることから、清和天皇は水尾帝という別名を持つ。ということで、後清和天皇でも良いところを敢えて後水尾天皇にしているのである。
そして、後水尾天皇は父親の諡号を後陽成天皇にしている。陽成天皇というのは、歴代の天皇の中でも屈指の危ない人で、宮中で殺人を犯したのではないかともされている。父親に後陽成とつけたことで、仲が悪かったことが分かる。元々、後陽成天皇は、桂離宮を営んだことで知られる八条宮智仁(としひと)親王に譲位する気であったが、智仁親王が豊臣秀吉の猶子となったことがあったため、徳川家から待ったがかかり、結果、智仁親王ではなく後水尾天皇が即位することになっている。

徳川和子の母親は、お江(達子。みちこ)。浅井長政とお市の方の三女である。お江与の方とも言われ、一般的には「おえよ」と読まれるが、実際には「おえど」であり、江戸の徳川将軍家に嫁いだのでこの名がある。そうでない限り別の名をつける意味は余りない。祖母は戦国一の美女とも呼ばれるお市の方(織田信長の妹)。ということで、その娘である浅井三姉妹も美女揃いで有名。徳川和子も美人であったことが予想される。
東福門院となった和子の陵墓は泉涌寺の月輪陵であるが、菩提寺が欲しいということで再興されたのが、鹿ヶ谷、今は哲学の道に近い光雲寺である。ここは観光寺ではなく、普段は非公開であるが、たまに一般公開される時があり、私も一般公開時に入っている。東福門院和子の座像があり、大変整った顔立ちである。お寺の方に、「美人でいらっしゃいますね」と話したところ、「初めて見た時に余りにも美人なので後水尾天皇が驚いたという話があります」と話してくれた。またたびたび「江戸に帰りたい」と口にしていたそうである。

村井先生は、特別公開時ではなく、鹿ヶ谷に住む友人がたまたま入れてくれたそうで、村井先生が注目したのは東福門院和子の座像ではなく、念持舎利塔で、この台座の下、一番下の部分に菊の御紋と葵の御紋が並んでいる。皇室と徳川家の紋である。しかし、古い写真を見ると、菊の御紋が真ん中にあり、それを左右から挟むように葵の御紋が二つあるそうで、「寅さんじゃないけど、『はて?』」(NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公で、伊藤沙莉が演じる佐田寅子の口癖)となったそうである。お寺の人に聞くと、「表と裏で紋の数が違うので、入れ替えたのだろう」とのことだったのだが、菊の御紋を葵の御紋が挟むというのは何か意味がありそうである。


続いて、京都御所と二条城の関係。天皇の住まいは元々は平安京の大内裏内にあった内裏であるが、次第に里内裏を用いることが多くなり、現在の京都御所は足利義満の時代に東洞院土御門殿と呼ばれた里内裏が正式な天皇の御在所として定まったものである。元の内裏と大内裏のあった場所は、大家(おおうち)、内野などと呼ばれるようになる。
二条城と呼ばれたことのある城郭は全部で4つある。二条通は上京と下京の境であるが、周囲には何もなかったため、巨大城郭を建てやすかったのである。現在、二条城と呼ばれているのは、徳川家康が建てた二条城で、家康は神泉苑の大半を潰し、豊富な水を堀に転じさせた。家康の二条城は現在の二の丸部分のみの単郭の城だったのだが、後水尾天皇の御幸に合わせて、西側に拡張。本丸を設置し、天守を伏見城から移している。それまでの天守は淀城に移した。これは今回の講座ではなく、奈良県の大和郡山市で聞いた話なのだが、二条城の最初の天守は、大和郡山城(郡山城)からの移築ではないかという話があるそうである。その大和郡山城の天守が二条城を経て淀城に移された。この淀城の天守は江戸中期まで残っていた。大和郡山城の天守が江戸時代まで残っていたというのは大和郡山市民のロマンだそうである。

二条城を築いたことで、大宮通が中断されることとなった。大宮通は平安時代から続く南北の通りの中では一番長かったそうだが、二条城築城によってその座を明け渡すことになったようである(現在、最も長いとされる南北の通りは油小路通)。現在の阪急大宮駅の近くに、後院通という、京都市内ではほぼ唯一の斜めに走る大通りがあるが、これは大宮通が遮られたので、大宮通と千本通を繋ぐバイパスとして作られたのではないかということだった。


後水尾天皇の寛永御幸(二条城御幸)は、寛永3年(1626)9月に行われた。この御幸のために、二の丸庭園の南に御幸御殿と女御殿が特別に建てられている。普請を行ったのは小堀遠州(政一)。築城の名手である藤堂高虎の義理の孫ということで作事奉行として有能さを発揮。作庭なども得意とし、二条城庭園の改修もこの時に行った小堀遠州は、茶道にも長けた文化人で、彼を通して、本阿弥光悦や野々村仁清、近衛信尋といった寛永の文化人が生まれることになる。
堀川通を行く行列を描いた(ちなみに堀川通まで出る際に、京都ブライトンホテルのある場所を突っ切っているそうである)「二条城行幸屏風」には、多くの人々が描かれている。後水尾天皇は9月6日から10日までの5日間、二条城に滞在し、徳川秀忠(当時、大御所)・家光(3代将軍就任済み)親子の歓待を受けた。


しかし、後水尾天皇には、困難が待ち受けていた。紫衣事件である。徳川幕府は、朝廷に対し、僧侶に対して承諾なしに紫衣(高僧であることを示す)を贈ることを禁じていたが、後水尾天皇は紫衣の勅許を出す。これを3代将軍の家光が許さず、勅許の取り消しを求める。背後には、黒衣の宰相こと金地院崇伝(以心崇伝)の進言があった。大徳寺の沢庵宗彭(沢庵漬けを始めたとされる人)らが抗議したが、幕府は沢庵を出羽国に流罪とする。そして後水尾天皇は、怒りのためか、娘の明正天皇に勝手に譲位して院政を敷く。ただ、紫衣事件により徳川将軍家の方が皇室よりも格上であることが示され、徳川の治世は盤石となっていくのであった。

村井先生は、8月28日に94歳になられたということで、耳がかなり遠いのであるが、講座は最後まで立派に務められた。これが村井先生の最後の講義となる。

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2024年8月26日 (月)

史の流れに(11) 京都国立博物館 豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」

2024年7月24日 東山七条の京都国立博物館・平成知新館にて

東山七条の京都国立博物館で、豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」を観る。3階建ての京都国立博物館平成知新館1階の3つの展示室を使って行われる比較的小規模な展示である。
豊臣秀吉の子である鶴松が幼くして亡くなり、実子に跡を継がせることを諦めた秀吉は、甥(姉であるともの長男)の秀次に関白職を譲り(この時、豊臣氏は、源平藤橘と並ぶ氏族となっていたため、秀次は豊臣氏のまま関白に就任。藤原氏以外で関白の職に就いた唯一の例となった。なお秀吉は近衛氏の猶子となり、藤原秀吉として関白の宣下を受けている)、秀次は聚楽第に入って政務を行い、秀吉は月の名所として知られた伏見指月山に隠居所(指月伏見城)を築いて、豊臣の後継者問題はこれで解決したかに思われた。
しかし、想定外のことが起こる。淀の方(茶々)が秀吉の子、それも男の子を産んだのだ。お拾と名付けられたこの男の子は後に豊臣秀頼となる。
どうしても実子に跡を継がせたくなった秀吉は、秀次排斥へと動き始める。

文禄4年(1595)、秀次に突如として謀反の疑いが掛けられる。秀次は、指月の秀吉の隠居所まで弁明に向かうが、城門は開くことなく、追い返される。やがて秀次の出家と高野山追放が決まり、切腹が命じられた。これには異説があり、出家した者に切腹が命じられることは基本的にないことから、秀次が命じられたのは出家と高野山追放のみであり、切腹は秀次と家臣が抗議のために自ら行ったという説である。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、こちらの説が採用されている(秀次を演じたのは新納慎也)。「真田丸」では、秀吉(小日向文世が演じた)が秀次の妻子を皆殺しにしたのは、勝手に切腹を行った秀次への怒りという説も採用されているが、これもあくまで一説である。ただ切腹を命じられなかったとしても、秀頼に跡を継がせるためには秀次は目障りな存在でしかない。即切腹とならなくても何らかの形で死を賜ることになったと思われる。
秀次の切腹を受けて、秀次の妻子は全員捕らえられ、三条河原で秀次の首と対峙させられた後、ことごとく切り捨てられた。その数、30名以上。老いも若きも区別はなかった。余りの残忍さに、京の人々も「太閤様の世も終わりじゃ」と嘆いたという。
秀次の妻子は三条河原に掘られた穴に投げ捨てられ、その上に塚を築き、塚の上に秀次の首を据えて、全体を「畜生塚」「秀次悪逆塚」と名付けた。これら一連の出来事を「秀次事件」と呼ぶ。晩年の秀吉は理性に問題があったという説があるが、これらの一連の出来事はその証左ともなっている。
「畜生塚」は、その後、顧みられることもなくなり、鴨川沿いということで何度も水害を受け、やがて朽ち果てた。近隣に邸宅を建てていた豪商・角倉了以が高瀬川の工事中に「畜生塚」の跡を発見し、立空桂叔を開山に秀次一族の菩提を弔う寺院を建立した。これが慈舟山瑞泉寺である。寺の名は秀次公の戒名「瑞泉寺殿」に由来する。


瑞泉寺に伝わる寺宝が並ぶ展覧会。「豊臣秀次および眷属像」(秀次公と殉死した家臣達、処刑された妻子の肖像が並ぶ)、絵巻物である「秀次公縁起」(秀次公が伏見指月山の秀吉公を訪ねるも入城を断られる場面に始まり、高野山への追放と切腹、三条河原での処刑と「畜生塚」が築かれるまでが描かれる)、秀次公による和歌(秀次公の字と伝わるが、字体的に桃山時代のものではないため、真筆ではない可能性が高いという)、妻子達の辞世の句(真筆とされるが、これも後世写されたものである可能性が極めて高いという)などが並ぶ。
武門に嫁いだからには、いつでも死を覚悟していたものと思われるが、せめて辞世の歌は良いものを詠みたい気持ちはあっただろう。だが、次々に秀次公の首の前に引きずり出されては辞世の歌を詠まされ、直ちに斬られたというから、十分に歌を考える暇もなかったと思われる。仏道への信心や極楽往生を願う同じような歌が多いのは、他のことを思い浮かべる余裕が時間的にも精神的にもなかったことを表しているようで、無念さが伝わってくる。
秀次公の妻の身分は様々で、公家や大名の娘から、僧侶や社家の子や庶民、中には一条で拾われた捨て子(おたけという名)などもいる。

処刑された女性の中で、最も有名なのは最上の駒姫であると思われる。出羽国の大名、最上義光(よしあき)の娘で、名はいま(おいま)。15歳であったという(19歳という説もある)。秀次との婚儀が決まり、上洛するが、秀次と顔も合わさぬまま夫は死に、自身は処刑されることが決まってしまう。流石にまずいと助命が入ったようだが、知らせは間に合わなかったという。瑞泉寺には何度も行ったことがあり、住職と息子さんの副住職さん(現在は住職さんになられているようである)とも話したことがあるが、今でも東北から「駒姫様可哀相」と弔いに訪れる人がいるという。駒姫は辞世に「罪なき身」と記しており、辞世の歌も「罪を斬る弥陀の剣」で始まっているが、「罪を斬る」は「罪を着る」つまり「濡れ衣」という意味の言葉に掛けられているようであり、怨念のようなものすら感じられる。
最上氏はこの事件を機に豊臣家と距離を置き始め、徳川家に近づいていくことになる。

秀吉の憎悪はこれでは収まらず、関白の政庁として自らが建て、秀次が居城としていた聚楽第を徹底的に破壊する。堀などの痕跡は流石に残ったが、建物などは釘一つ残さぬほどに破却。現在、京都市内には聚楽第の遺構とされる建物がいくつかあるが、一切残さなかった建造物の遺構があるとは思われず、伝承に過ぎないとされる。


秀次事件の翌年、伏見を大地震が襲う(慶長伏見地震)。伏見指月山の秀吉の隠居所も倒壊し、秀吉も危うく倒れてきた柱の下敷きになるところだった。人々は「秀次公の祟りだ」と噂したという。秀吉は残った木材を利用し、少し離れた木幡山に新たな城を築く(伏見城、木幡山伏見城)。指月山の伏見城とは異なり、木幡山の伏見城は大坂城を凌ぐほどの堅固な城であり、ここで後に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが起こって、大軍を率いた石田三成が僅かな手勢で守る城をなかなか落とせず大苦戦し(裏切り者が出て最終的には落城。鳥居元忠らが自刃した)、家康公が再建した伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、政務を行っている(後に俗に伏見幕府時代と呼ばれる)。実は慶長伏見地震が起こったのは、西暦でいうと、三条河原の惨劇が起こった丁度1年後(9月5日)に当たる。

秀次公は、近江八幡の礎を築いた人物である。山城である八幡山城を築き、その下に今も面影を残す美しい町並みを整備して、本能寺の変で主の織田信長を失った安土の人々を招いて楽市楽座を行い善政を敷いた。近江八幡は近江商人発祥の地であり、近江八幡を生み出した秀次公が名君でないわけがない。実際、近江八幡で秀次公を悪く言う人はいないという。


瑞泉寺は、三条木屋町という京都の中心部にある。浄土宗西山禅林寺派の寺院である。門の前を角倉了以が掘削させた高瀬川が流れ、寺紋は五七桐(豊臣家の家紋)。瑞泉寺は秀次公の汚名をすすぐことに尽力しており、東屋には秀次公に関するちょっとした資料が展示されている。
江戸時代に描かれた「瑞泉寺縁起」に、秀次公と一族の墓はすでに描かれているが、現在の墓所は、松下幸之助が創設した「豊公会」によって整備されたものである。
豊公会は地蔵堂も整備。秀次一族の処刑に引導を渡す役割を担った引導地蔵を祀り、地蔵堂に近づくと内側に灯りがともり、秀次公の眷属の姿が浮かび上がるようになっている。
街中ではあるが、訪れる者も少なく、落ち着いた感じの寺院で、お薦めの場所である。

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瑞泉寺豊臣秀次公一族の墓

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瑞泉寺 駒姫の墓

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瑞泉寺東屋にて

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2022年10月26日 (水)

史の流れに(10) 京都文化博物館 「新選組展2022」

2022年10月4日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「新選組展2022」を観る。
京都文化博物館で、「新選組展」が行われたのは2004年のこと。大河ドラマ「新選組!」放送を記念してのことだった。だがその時点では歴史学界では、松浦玲の『新選組』(岩波新書)によると「研究に値しない団体」と見なされていた。小説やマンガ、ゲームなどでは新選組は特に女子に人気で、当時流行り始めていた言葉を使うと幕末の「『イケメン』剣豪集団」としてもてはやされていた。だがそれらは全てフィクションの世界を主舞台としており、地道な研究の道には繋がりにくいものだったのである。それが大河ドラマ「新選組!」が契機となってようやく研究の俎上に乗り、以降の研究の成果が「新選組展2022」として発表されることになった。

文書が中心の展示であるため、比較的地味であり、私は崩し字は読めないということで、「真の成果」がどこにあるのか判別しがたい状態ではあるのだが、文書に記された「小島鹿之助」「佐藤彦五郎」といった多摩の人々の名前を見ると、久しぶりに出会った親戚のように思えて懐かしくなる。

新選組の土台を築いたのは、主に近藤勇が宗家を務める天然理心流の道場「試衛」一派と芹沢鴨ら水戸派の二派である。「試衛」と書いたが、実は近藤勇の道場を一般に知られる試衛館と記した史料は見つかっておらず、伝わっているのは試衛の2文字もしくは試衛場とした3文字だけである。主立った江戸の剣術道場、例えば千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館の三大道場などには全て「館」の字がつくため、「試衛の2文字だけでは不自然だから館が付いたのだろう」との推測によって試衛館とされているのである。ただ試衛館という名は現時点ではあくまでも想像上のものであるため、今回の展覧会の説明書きでは試衛の2文字で記されている。

新選組は、「京都守護職御預」と記されることも多いが、これも厳密にいうと誤りで、松平容保(松平肥後守)が約2ヶ月だけ京都守護職を離れて陸軍総裁となり、京都守護職が松平春嶽となった際も、松平春嶽ではなく容保の配下となっていることから、役職に従っていたのではなく、松平肥後守個人に従っていたことが分かるようである。そのため松平肥後守御預とした方が実態に近いようである。

新選組にはもう一つ、新撰組という表記もあり、これらは併用されていた。近藤や土方も両方の表記を用いている。当時は漢字などは「読めればいい」「分かればいい」という考えが一般的であったため、正式な表記というものもないということになっている。だが、研究の結果、正式な場では「新選組」表記がなされる傾向にあるということは分かったそうである。

土方歳三の愛刀は和泉守兼定、脇差が堀川国広ということはよく知られているが、根拠となっているのは近藤勇の書簡だそうで、今回の展覧会ではその書簡の現物も展示されている。
なお土方所蔵の和泉守兼定は現存しており、今回の展覧会でも展示されていたが、堀川国広は行方不明となっていて、本当に国広が打ったものなのかどうかは定かではない(近藤勇の愛刀である長曽根虎徹もまた見つかってはおらず真贋不明である)。

新選組の活躍を今に伝える史料として重要視されているものの一つに、永倉新八(本姓は長倉。維新後の名前は杉村義江)が書いた『新選組顛末記』(こちらは厳密に言うとインタビュー記事をまとめたもの)と『浪士文久報国記事』が挙げられる。いずれも最晩年の永倉が遺したもので、共に今も文庫版を手に入れて読むことが出来るが、残念ながらこの時代は今と違って編集者が内容を面白おかしく書き換えてしまうのが常識となっており、『新選組顛末記』の方は掲載された小樽新聞の記者が脚色した可能性が高く、『浪士文久報国記事』の方も永倉が記した原本は失われたままだが、『新選組顛末記』よりは永倉の実体験に近い内容が記されていると考えられているようである。

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2021年6月23日 (水)

史の流れに(9) 京都市京セラ美術館 国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」再訪

2021年6月17日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」を観る。二度目である。ビデオ映像など以外は写真撮影可であるが、前回はネフェルティティの頭部像のみ写真を撮った。それで十分だと思っていたのだが、「ピーコ&兵動のピーチケパーチケ」で中山優馬が色々と写真撮影しているのを見て、やはりいくつかはスマホに収めておこうと思い立ち、再び京都市京セラ美術館に赴くことになった。

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今回は前回よりも遅い時間だったが、人が比較的多めである。写真撮影可という情報もテレビなどで伝わっているようで、スマホやガラケーではなく、デジカメを持ってきて撮影している人もいる。

撮影対象として最も良いのがネフェルティティの頭像だというのは変わらないが、今度は横顔(プロフィール)も撮影してみる。ハトシェプスト女王のスフィンクスも被写体として絶好であり、仏像のようなアルカイックスマイルが良い。ハトシェプスト女王のスフィンクスも正面からの画も良いが、横顔は更なる美しさを湛えている。日本人とは違って鼻が高く、掘りも深めなので横顔が映えるのだ。
名前だけは有名だが、早逝したため正体がよく分からないツタンカーメン(トゥトアンクアメン)を描いたレリーフも写真に収める。
ツタンカーメンについては暗殺説が有名であるが、現在では暗殺は否定されつつある。遺伝子検査によるとツタンカーメンは生まれつき病弱で左足が不自由であり、マラリアに感染した時に不自由だった左足を骨折してしまったため免疫力が下がり、死に至った可能性が高いそうである。

前回は古代エジプトについて、特に知識を入れていかなかったが、今回は前回訪れた時に京都市京セラ美術館の売店で買ったエジプト神話に関する文庫本を読んでいったため、展示物やそれが示す意味の理解がある程度まで可能になっていた。予備知識は時には邪魔になることがあるが、やはり少し予習をして行った方が理解度が高まることは確かなようである。

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2021年6月 6日 (日)

史の流れに(8) 京都市京セラ美術館 国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」

2021年6月3日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎にある京都市京セラ美術館で、国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」を観る。日独交流160周年記念企画である。緊急事態宣言による臨時休館を行っていた京都市京セラ美術館だが、一昨日、6月1日から展示を再開している。

京都市美術館が京都市京セラ美術館になってから入るのは初めて。内部が大幅に変わっている。以前は京セラの本社内にあった展示スペースが京セラ美術館という名前だったが、紛らわしいということで、そちらは京セラギャラリーと名前を変えている。

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「古代エジプト展 天地創造の神話」の展示品の多くが石造りや金属製ということもあって、ほぼ全てが写真撮影可となっているが、「個人的に楽しむためのものとしてご使用下さい」となっているので、おそらくWeb上にアップするのはNGだと思われる。

雄のライオンの顔を持つセクメト女神が疫病退散の力を持っているようで、その像がエジプト版「アマビエ」として積極的に撮影するよう促されていたが、お守りとして待ち受け画面に使うことが推奨されているようである。

まず始めに冥界への導き手を務める神であるアビヌスの像が展示されており、続いてアニメーション上映のコーナーがあって、アビヌス(声の担当:荒牧慶彦)が語り手を務めるエジプト版天地創造の神話が語られる。アビヌスが登場するアニメーションは他の場所でも上映されているが、それらに関しては撮影も録画も禁止である。

日本の神話でも天照大神と素戔嗚尊が姉弟でうけいをする場面があるが、エジプトの神々も兄妹で愛し合い、子どもが生まれている。エジプトは歴史が古いので、プトレマイオス朝など紀元前の王朝でも近親婚が普通だったことが知られている。例えば、美女の代名詞の一人であるクレオパトラ7世の最初の夫は、彼女の実弟である。

エジプトの原初の神は、ナイル川をモデルにしたと思われるヌンである。「原初の水」という意味だそうで、ヘロドトスの「エジプトはナイルの賜物」という言葉が浮かぶ。
そこから太陽神であるアトゥムが生まれたが、アトゥムは両性具有の創造神だそうで、自慰によって、大気の神であるシューと湿気の女神であるテフヌトが生まれたという。シューとテフヌトの兄妹が交わることで、大地の神のゲブと天空の女神であるヌトが生まれたのだが、やはり兄妹で結婚したゲブとヌトの仲が余りに良いことに父親のシューが嫉妬し、ヌトの体をつかんで引き離そうとした。ヌトはゲブから完全に体を離そうとはせず、体が弧状に伸び、これが天穹となった。


今回の展示は、クレオパトラなどの実在の人物よりも、エジプト神話の世界の展示が中心となっているが、伝ハトシェプスト女王や、伝ネフェルティティ王妃の像(有名な胸像ではなく頭部の像)なども展示されている。ハトシェプスト女王は即位中は男装していたとされるため、その像も男性化されたスフィンクスとしての装飾を施されているが、顔は柔和で女性的である。エジプトの美女というとやはりクレオパトラ7世が世界的に名高いが、彼女の場合は聡明さなども含めての評価で、純粋な容姿でナンバーワンといわれるのがネフェルティティである。今回展示されている頭部の像なども、今の基準でいっても世界的な美女と評価されるのは確実だと思われる。一方で、ネフェルティティは正体がよくわからない謎の女性としても知られている。古代エジプトの話は、TBS系の「世界ふしぎ発見!」がよく取り上げており、ハトシェプストもネフェルティティも何度も登場している。京都に来てから「世界ふしぎ発見!」も見なくなってしまったが。

ネフェルティティは、古代エジプトの宗教改革者であるアメンホテプ4世王(アクエンアテン、イクナートン)の王妃である。ただ分かっているのは、そのこととアメンホテプ4世王との間に数人の子を設けたということだけである。それ以外の記録はほとんどない。そのため、早いうちに亡くなったという説が生まれたが、正確なところははっきりしていない。アメンホテプ4世王は、突如としてそれまでの多神教的だったエジプトの宗教性を覆し、アテン神(南中した太陽を表す神)1神のみを崇拝する一神教へと舵を切った人物であり、テーベからアケトアテンに遷都するなど、徹底した改革を行ったが、その死後には揺り戻しとしてアメンホテプ4世自身が否定される存在となり、その子とされるツタンカーメン(トゥトアンクアメン)らによって実際に多くの記録などが処分された。そのためその妃であったネフェルティティに関する情報もほぼ全て失われてしまっている。

あの世に再生するための指南書である「死者の書」については、アニメーションなども使って分かりやすく説明されている。死後、魂は試練を経てあの世に向かうのだが、あの世はその時代のエジプトと完全に同じ姿をしていると考えられたようである。死後の世界に行けなかった場合は、怪物アメミットに心臓を食べられて、その人物は消滅する。輪廻転生から逃れるための修行を重視する仏教においては無になることの方がむしろハッピーエンドに近いため、死に対する観念が大きく異なっているのが分かる。


ちなみに、エジプトには世界の終焉伝説があり、蛇に身を変えたアトゥム神とオシリス神が世界の終わりを見届けるという。ただ、世界は再生するそうだ。アトゥムは創造神であり、日没時の太陽を表す神であるが、同時に破壊も司るという、シバ神に似た性格を持っているようである。
アテフ冠を被ったオシリス神の小像の冠の部分には、アトゥム神だと思われる蛇の飾りが施されている。

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2021年4月24日 (土)

史の流れに(7) 京都文化博物館 「特別展 よみがえる承久の乱――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」

2021年4月16日 三条高倉の京都府京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館で、「特別展 よみがえる承久の乱 ――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」を観る。

来年の大河ドラマは、三谷幸喜の脚本で、小栗旬が主役である北条義時を演じる「鎌倉殿の13人」であるが、承久の乱はクライマックスとして描かれることが予想される。

三谷幸喜は、「新選組!」で香取慎吾演じる近藤勇を「最後の武士」として描き(野田秀樹演じる勝海舟が近藤を評して、「あれは本物の武士だよ。そして最後のな」と語るセリフがある)、「真田丸」では堺雅人演じる真田幸村(真田信繁)を「最後の戦国武将」として登場させた。最後をやったので今度は最初をやりたいということになったのだと思われるが、最初の武家政権とされる平清盛による政治は、平氏が公家化することで公家のトップである太政大臣として打ち立てており、本当の武家政権かというとそうでもない。源頼朝は京を離れた東国で鎌倉幕府を築いたが、征夷大将軍という位を朝廷から頂いており、朝廷のお墨付きで東国のみの支配として行われた政権である。その点、北条氏の政権は執権という朝廷から頂いたのではないポジションで行われており、しかも承久の乱で皇族や公家を屈服させて武士の優位を示した上で行われる公議制の全国的政権ということで、「真の武家政権」という見方も出来る。少なくとも三谷幸喜はそういう解釈をしているのだと思われる。

承久の乱に関する史料はそれほど多く残っているというわけでもないようで、「承久記」や「承久記絵巻」が最大の目玉であるが、いずれも江戸時代に想像で描かれたものであり、一次史料ではない。ということで、承久の乱に至るまでの武士の興隆の展示からスタートする。
保元の乱や平治の乱を描いた屏風絵、「平家物語絵巻」や源平合戦図屏風などが展示されている。

後鳥羽上皇は、承久の乱絡みか、法然や親鸞が流罪となった承元の法難でのみ知られているため、「タカ派」に見られやすいが、実際は歌道の名人で「新古今和歌集」の編纂を命じ、蹴鞠の得意とするなど文化人としての高い資質も示していた。藤原俊成やその息子の定家と親しく、藤原定家が小倉百人一首に自作として入れた、「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」の「来ぬ人」とは後鳥羽上皇のことだとする説がある。

鎌倉幕府の成立(以前は源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年に鎌倉幕府が起こったと見るのが主流だったが、現在は源氏が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝に守護・地頭を任ずる権利が与えられた1185年が鎌倉幕府成立の年と教えられるようである) から承久の乱に至るまでが「吾妻鏡」や「曽我物語絵巻」などで語られる。
藤原定家の日記である「明月記」の展示もあるが、頼朝が出家をした2日後に急死したことをいぶかる記述がある。

承久の乱の最初の重要地点となったのは美濃の墨俣である。後に羽柴秀吉が美濃攻めの足がかりとして一夜城を築いたことでも知られるが、昔から重要な場所であったことが分かる。また木曽義仲と源義経が戦った宇治川が次の決戦地となり、要衝の地は変化していない。

後鳥羽上皇が流された隠岐に関する展示は写真が中心。寂しいが史料がほとんど残っていないようである。ただ後鳥羽上皇は、隠岐にあっても「古今和歌集」の編纂に情熱を燃やしたらしいということが分かっているようだ。本質的には文人だったようである。

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2019年8月23日 (金)

史の流れに(6) 大谷大学博物館 2019年度夏季企画展「近代の東本願寺と北海道 開教と開拓」

2019年8月4日 大谷大学博物館にて

大谷大学博物館で、2019年度夏季企画展「近代の東本願寺と北海道 開教と開拓」を観る。開催期間は過ぎているが、昨日と今日はオープンキャンパスに合わせた特別開館が行われている。

寒冷地である北陸を布教の拠点としていた真宗大谷派は、維新後、蝦夷地と呼ばれていた北海道の開拓に協力しており、真宗開拓団として多くの北陸人が北海道に渡り、当時の法主であった現如自らが北海道に渡って布教を行ったほか、札幌と尾去別(現在の伊達市)を結ぶ本願寺道路の開削なども門徒が行っている。真宗大谷派は、札幌に別院を置くことが認められたばかりで、本願寺道路は、いわば北海道に於ける真宗のデモストレーションでもあった。

北海道の名付け親であり、「北海道人」という号も名乗った松浦武四郎(松浦弘、阿倍弘、源弘)が本願寺道路を築く際にアドバイスを行ったとされており、松浦武四郎が残した蝦夷地開拓の史料なども多く展示されている。

寛政三奇人の一人であり、「海国兵談」を著した林子平は、早くから蝦夷地の開拓とアイヌ人の同化政策を提唱しているのだが、展示されている「三国通覧図説」においてアイヌのことを、「その性、愚」としており、愚人を日本流に教化すべしという趣旨のことが書かれていて、かなり差別的であることがわかる。実際、東本願寺もこうしたアイヌへの蔑視に則って開拓や同化に協力しており、闇の土蜘蛛事件(東本願寺爆破事件)の遠因となっている。
もっとも、日本人以外は「夷狄」と見る時代にあっては、林子平らの考えも特段差別的と考えられていなかったと思われる。

松浦は、アイヌの人々の案内で、後に北海道と呼ばれる蝦夷地を探索している。松浦は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の郷士の家に生まれたが、浮世絵師をしていたこともあるということで、蝦夷地の自然や産物、アイヌの人々の家などを克明にスケッチしている。

東本願寺の北海道開拓とアイヌに対する姿勢については、2年ほど前に東本願寺のギャラリーで行われた展示を踏襲している。現如は北海道でアイヌに対する真宗の布教を行っているが、日本人が建物の中、一段高いところにいて、屋外の土にひざまずくアイヌに六字名号を授ける錦絵は、現在では差別的という捉え方をされているようだ。

午後4時少し前に大谷大学博物館に入り、50分ほど中にいて(最後の客であった)、入り口付近のモニターに映されているユーカラの録音が流れる映像を5分ほど見る。ユーカラは蓄音機に録音されたものであり、録音を行った北里闌(きたざと・たけし)は、北里柴三郎の従弟だそうである。

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2018年12月 5日 (水)

史の流れに(5) 京セラ美術館 鳥羽伏見の戦い150年記念展「維新の夜明け」

2017年12月3日 伏見区の京セラ美術館にて

伏見区の京セラ本社1階にある京セラ美術館で、鳥羽伏見の戦い150年記念展「維新の夜明け」を観る。

京セラ美術館は比較的小規模な美術館であるが、入館は基本的に無料である。

現在、大和大学准教授を務める友人の竹本知行氏(愛称は「竹ぽん」)も監修の一人として名を連ねており、映画「隠し剣鬼の爪」の特典映像として撮られた幕末という時代と武器の解説映像(竹本氏は武具や兵器の専門家である)も流れていた。上映時間53分ということで見ている時間はなかったが、竹本氏は声に特徴があるので、どこに出演しているのかはすぐにわかった。

展示数は余り多くないが、鳥羽伏見の戦いの戯画が数点、銃器や砲弾に銃弾、当時の伏見の図面、17歳で討ち死にした阿多孫二郎の鉢振や家族宛の書簡などが展示されている。阿多孫二郎は、17歳にして死を覚悟しており、両親と祖父母に向けて別れの書状をしたためている。その文には「さんずの川で会いましょう」や「もう(故郷に)帰ることはありません」「討ち死に以外の道は考えていません」という決意が述べられていた。

伏見奉行所跡地の近くにある魚三楼に今も銃弾の通り抜けた跡が残っており、鳥羽伏見の戦いの痕跡と伝わるも「伏見に師団があった頃に、その辺の若いのが発砲してつけたのではないか」という話もあるが、弾の大きさからいって銃弾ではなく伏見の戦いで使われた四斤山砲破裂砲弾の鉄弾子とみるのが適当なのだそうである。

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2018年11月22日 (木)

史の流れに(4) 京都府立京都学・歴彩館展示室 平成30年度「東寺百合文書展」

2018年10月25日 下鴨の京都府立京都学・歴彩館展示室にて

京都府立京都学・歴彩館展示室で、平成30年度「東寺百合文書展」を見る。
その中に、足利義政が長禄3年(1459)11月18日に花の御所に引っ越す際の祝いをどうするかの文書が展示されている。その頃、京の都は飢饉だったそうだが、上の階級は呑気なものである。「寺奉行加賀守に談合あるべく」とあるのだが、この加賀守とは誰だろう?

8年後に応仁の乱が始まるという年である。官職として名乗るならその資格があるのは冨樫氏か斯波氏である。ただ通称の場合はその限りではない。

スタッフに聞いたところ、学芸員の方が来てくれることになった。調べて貰ったところ、通称としての使用で、飯尾清房という人物のようである。残念ながら本保家の主君である冨樫氏ではないことが判明したが、ここで年代的に飯尾彦六左衛門尉と重なることに気づく。ただ関係があるのかはわからないという。

後で調べてみたところ、飯尾彦六左衛門尉の諱は常房もしくは清方というようで名前はよく似ている。渡来系氏族である三善氏の流れが飯尾氏であり、代々事務官僚を務めた家だとされる。一族ではあるようだが二人の関係はよくわからない。飯尾彦六左衛門尉は細川氏の家臣で、飯尾清房は反細川とのことなので、一門ながら対立していた可能性もある。今のところ、書籍に載るレベルの話はWeb上には見つからないのである。

戦国時代には、飯尾氏は現在の浜松に移り、引馬城主となったというから、先日訪れた浜松東照宮(元城町東照宮)のところに拠点を置いていたということになる。

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2017年4月29日 (土)

史の流れに(3) 京都文化博物館 「戦国時代展」

2017年4月11日 京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館へ。
    
京都文化博物館で現在行われているのは、「戦国時代展」。文書、日記、刀剣、鎧、絵図、屏風絵、肖像画などが展示されている。

まずは江戸城主であり、歌人としても知られる太田道灌の書状から展示は始まる。

足利将軍家が細川氏と六角氏に命令をしたことがわかる文書が展示されているのだが、本文には「六角」ではなく、「佐々木」と記されており、苗字ではなく氏(本姓)が用いられていたことがわかる(六角氏は佐々木源氏の流れである)。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人三人の発した文も展示されている。

昨年の大河ドラマは「真田丸」だったということで、真田氏の六文銭の旗や真田昌幸が使ったといわれる法螺貝などが展示されているほか、真田家の城として有名になった岩櫃城の絵図(珍しいことに立体図になっている)などもある。

城の図は他に、小谷城、吉田郡山城、そして大内氏の城下町である山口と後北条氏の城下町である小田原の絵図もある。

剣豪将軍としても知られる足利義輝の肖像画も展示されている。桐の紋が入った短刀を差しているのが確認出来た。

武田信玄の肖像画もあり、よく見かけるものとは異なるのだが、信玄の弟の筆によるものだそうである。こちらの肖像画の信玄は容姿は余りパッとしない。

武田信玄と上杉謙信が戦った川中島合戦図屏風も複数ある。いずれの絵でも穴山梅雪は目立っている。


小田原北条氏(後北条氏、北条氏)五代の肖像もある。後北条氏の初代である北条早雲(伊勢新九郎守時。早雲本人は北条を名乗ったことはないそうだ)は、伊勢氏の出だが、この伊勢氏は足利将軍の政所執事であった伊勢氏の流れであることが有力視されるようになっており、そうだとすると相当な名門の出ということになる。


上杉家文書が展示されているのも興味深く、上杉輝虎、武田晴信(信玄)、今川氏真、北条氏康・氏政連署、伊達輝宗、佐竹義重などの筆跡を知ることも出来る。


私自身が、「ひょっとしたらこの人が戦国最強なのではないか」とも思っている尼子経久の肖像画を見ることが出来たのも嬉しかった。

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