カテゴリー「大阪フィルハーモニー交響楽団」の104件の記事

2022年4月20日 (水)

コンサートの記(774) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第557回定期演奏会

2022年4月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフィエスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第557回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:藤田真央)とエルガーの交響曲第2番。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の独奏は、元々はフランス人ピアニストであるアンヌ・ケフェレックが担う予定であったが、コロナ禍により来日不可となったため、気鋭の若手ピアニストとして知名度を上げている藤田真央が代役に指名された。


今日のコンサートマスターは崔文洙、フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置による演奏である。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ちょっと風変わりな青年であるが、天衣無縫の音楽性を持つピアニストである藤田真央(有名人ではあるが一応注釈を入れておくと男性ピアニストである)。冒頭の天国的な響きから聴衆を魅了する。音楽は次第に思索を深めていくが、藤田真央のピアノはピアノの音そのものよりも高い音楽性で聴かせる。「いいピアノだ」という印象よりも「なんて素敵な音楽なのだろうと」、ベートーヴェンの音楽性の高さをありありと示すことが出来るのである。まだ若い故に時にムラッけが出ることもあるが、リリシズムやロマンティシズム、この上ない喜びなどを自在に奏でてみせるのだからその実力に疑問の余地はない。
尾高指揮の大フィルも、ピリオドを取り入れた深くて格好の良い伴奏を聴かせた。


藤田真央のアンコール演奏は、J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」よりガヴォット(ラフマニノフ編)。チャーミングにして愉悦感に飛んだ演奏であった。


エルガーの交響曲第2番。
大英帝国の栄耀栄華を描いたような交響曲第1番で名声を博したエドワード・エルガー。彼の交響曲第2番も大いに期待されたが、1911年5月24日にクイーンズホールで行われた作曲者自身の指揮による初演は、演奏終了後に困惑が広がったという。聴衆は交響曲第1番のような壮麗な楽曲を期待していたのだと思われるが、交響曲第2番は旋律も短めで、しかも何度も同じ音型が繰り返されるというものであり、交響曲第1番に比べてモダンな印象も受けるが、その余りの落差に、初めて聴いた聴衆が戸惑ったのもむべなるかなという気もする。

全ての楽章で、当時、大英帝国の首都として世界一の賑わいを見せていたロンドンの街の種々雑多な賑わいが描かれているようであり、楽しい曲ではあるのだが、作風がモダンすぎたのかも知れない。
第2楽章は、「故エドワード7世陛下の想い出に捧ぐと」記された追悼曲であるが、それにしては明るめの印象を受ける。一説には、エルガーが親しくしていた人物の他界に寄せた楽曲でもあるといわれているようだ。
第4楽章のラストは、「高揚」というよりも、「次の時代へと続く」という「その先」を感じさせる終わり方で、効果的である。

エルガーの交響曲第1番は英国音楽史上に燦然と輝く名曲だが、交響曲第2番も、ヴォーン=ウィリアムズを始め、その後の英国人交響曲作曲家に繋がるような曲調であり、英国音楽史上重要な音楽作品と見ることが出来るだろう。

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2022年2月14日 (月)

コンサートの記(764) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第555回定期演奏会 ブルックナー 交響曲第5番

2022年2月10日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第555回定期演奏会を聴く。曲目はブルックナーの交響曲第5番(ノヴァーク版)で、徹底して5が並ぶ。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

日本でもまだ「ブルックナーってあれ音楽なの?」と言われていた時代から積極的にブルックナーの交響曲を取り上げてきた尾高忠明。尾高はシベリウスの演奏でも日本の第一人者だが、ブルックナーを得意とする指揮者は基本的にシベリウスも得意であることが多い。若き日にウィーンに留学したシベリウスが、交響曲作曲家としてはまだ評価されていなかったブルックナーに師事しようとして断られたということがあったようだが、シベリウスはブルックナーの楽曲の本質を見抜いていたようである。ブルックナーを尊敬していたもう一人の音楽家、グスタフ・マーラーとシベリウスは後に会談しているが、物別れに終わっている。

ブルックナーはオルガニストとして出発。特に即興演奏を得意としており、ドイツ語圏最大のオルガニストとして尊敬されていたのだが、そんな彼が40代も半ばを過ぎてから交響曲の作曲に取り組むようになる。最初の内はさっぱり。自己評価に厳しく(この辺りはシベリウスにも繋がる)、気弱な性格だったということもあって、オーケストラに演奏を断られてもすごすご退散。「もっと良くすれば演奏して貰える」との思いから改訂に取り組み、その結果、版がいくつも存在するという状況になってしまっている。

今日演奏される交響曲第5番は、ブルックナーの交響曲の中でも人気のある作品、おそらく後期3大交響曲の次に来る作品だと思われるが、実はブルックナーは生前にこの曲の演奏を聴いたことはないとされる。完成したはいいものの、例によって演奏される機会がないまま歳月が流れてしまっていたが、交響曲第7番が成功したことで名声が徐々に高まり、生前に第5が演奏される機会も何度か訪れた。だが、ブルックナーは演奏会場に足を運ぶことはなかったようだ。

世界初演は、世界的な指揮者であったフランツ・シャルクのタクトによって行われたが、シャルクは交響曲第5番を「長すぎる」と感じたようで、独自のカットした版で演奏している。作品が理解された訳ではなかったことが分かる。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。第1ヴァイオリン17、第2ヴァイオリン15という大編成、ドイツ式の現代配置での演奏である。


ブルックナーの交響曲第5番は、非常にミステリアスな雰囲気で始まる。漆黒の闇の中を手すりだけを頼りに進んでいくような序奏に続き、突然前方に広大な世界が現れたかのようなスケール豊かな音楽が鳴り渡る。その後、森羅万象の美しさを愛でるかのような曲調となるが、次第に憂いが忍び寄ってくる。
この陰鬱なムードは第1楽章から第3楽章まで一貫して続き、第4楽章の冒頭で第1楽章から第3楽章までの主題が過ぎた日の追憶のように再現される。

交響曲第5番は、作曲家にとって特別な数字である。世界で最も有名な交響曲がベートーヴェンの第5番、日本では「運命」と呼ばれる楽曲である。本当に運命を描いたのかどうかは定かではないが、最終楽章で圧倒的な凱歌が奏でられるのが特徴で、多くの作曲家がそれを模倣した。ショスタコーヴィチが一番有名であるが、シベリウス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、マーラーなどがベートーヴェンの第5を意識した曲調を自身の交響曲第5番に盛り込んでいる。おそらくブルックナーの交響曲第5番もこの路線で、ラストで強烈な鬨を上げている。それまでの3つの楽章は、挫折が多く、精神を病んだりもした自画像のようにも感じられる。ブルックナーの交響曲はどちらかというと抒景詩的だが、第5番だけは別のように思う。


尾高と大フィルによるブルックナーの交響曲第5番の演奏であるが、まずフォルムがほぼ完璧であることに圧倒される。スケール、音の純度、輪郭、いずれもが理想的である上に、強弱をミリ単位で変えてくる。こうした音楽作りは、日本人指揮者としては小澤征爾が得意としているが、今日の尾高もそれに近いものを感じる。少なくともブルックナーの音楽は完全に自分のものにしている。

大フィルのアンサンブルも好調で、弦楽器の透明度のある輝き、金管の節度ある咆哮など、ブルックナーに必要なものは全て音に込められている。ここまでのブルックナーを聴く機会は、外来のオーケストラを含めても余り多くないだろう。

明るめの音による演奏であるが、ブルックナーの私小説的な憂いの表現にも遺漏はなく、今現在の日本で聴ける最高のブルックナー演奏の一つであることは間違いない。尾高と大フィルのブルックナーは、これまでにも何度か聴いているが、今日が最高の出来であったように思う。

盟友である井上道義が、2024年をもって指揮者からの引退を表明するなど、世代交代が進んでいる日本人指揮者界であるが、尾高さんにはこれからも名演を生んで貰いたい。そして出来るなら、大フィルとシベリウスの交響曲チクルスもやって欲しい。

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2022年1月26日 (水)

コンサートの記(760) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第554回定期演奏会

2022年1月21日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時からフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第554回定期演奏会を聴く。当初はウェイン・マーシャルが客演する予定だったが、外国人が基本的に日本に入国出来なくなったため、大フィル桂冠指揮者の大植英次が指揮台に上がる。曲目も一部変更になった。

オール・アメリカ・プログラムで、ガーシュウィンのキューバ序曲、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」(ピアノ独奏:中野翔太)、ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲、グローフェのミシシッピ組曲、ガーシュウィンの交響的絵画「ポーギーとベス」(ベネット編)が演奏される。

今日のコンサートマスターは須山暢大。

昨年の1月、出町柳の名曲喫茶・柳月堂でガーシュウィンの組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」をリクエストで入れて聴き、「アメリカ音楽はカラッとしていて新年に合うなあ、例年なら」と思ったが、たまたま今年の大フィルの1月定期はオール・アメリカ・プログラムとなった。

二十歳でアメリカに渡り、タングルウッド・ミュージック・センターとニューイングランド音楽院に学び、レナード・バースタインに師事した大植英次。アメリカ音楽も得意である。

大植は大フィルの分厚い音色を生かしたシンフォニックな演奏を築きつつ、キレや華にも欠けない理想的な音像を引き出す。


ガーシュウィンのキューバ序曲。この曲と交響的絵画「ポーギーとベス」は、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団によるDECCA盤で初めて聴いて大好きになっている。大植と大フィルはデュトワとモントリオールのラテン的なノリとは異なるが爽快な演奏を展開する。


ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。ファーディ・グローフェがオーケストレーションした最も有名な版による演奏である。
ピアノ独奏の中野翔太は、1999年からジュリアード音楽院プレカレッジに学び、その後に同音楽院と同音楽院大学院を修了。それ以前の1996年には第50回全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国1位及び野村賞を受賞している。

冒頭のクラリネットが少しデフォルメされた音型を吹いてスタート。アメリカ音楽の中では演奏頻度の比較的高い楽曲だけに、大フィルも慣れた演奏を聴かせる。

中野は、作曲、編曲、ジャズ演奏も行っているだけに、即興性にも富んだ演奏を展開。特にカデンツァではモダンジャズとカントリーの間を往来するような音楽を奏でた後で、「イパネマの娘」を主題とした変奏を展開。洗練されていてお洒落であった。

演奏終了後、中野は何度もカーテンコールに応えたが、最後は大植英次が共に登場。鍵盤を白い布で拭い、アンコール演奏を要請するというパフォーマンスを行う。
中野はガーシュウィンの「A Foggy Day」を自身で編曲したものを演奏した。


ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲。有名な「アイ・ガッタ・リズム」を含むミュージカル作品の序曲で、「アイ・ガッタ・リズム」も効果的に用いられている一方で、全体的に洗練された旋律とお洒落なオーケストレーションが印象的な楽曲である。
大植も、「どうです? お洒落でしょ?」という風に客席を振り向いたりする。


グローフェのミシシッピ組曲。日本テレビ系で放送されていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」の勝ち抜けの音楽に第2曲の「ハックルベリー・フィン」と第4曲「マルディ・グラ」が使用されていたことで知られているが、コンサートで取り上げられることはほとんどなく、録音点数も多くはない。私はNAXOSのアメリカ音楽シリーズの一つであるウィリアム・ストロンバーグ指揮ボーンマス交響団の演奏で聴いている。

比較対象が余りないのだが、大植はストロンバーグよりはやや遅めのテンポを採用し、堂々たる演奏を展開する。年代的にだが、多分、大植さんは「ウルトラクイズ」を見たことはないと思われる。
日本ではアメリカのクラシック音楽は余り重要視されておらず、アメリカ音楽がプログラムに載ることも少ないため、オーケストラも慣れていないことが多い。大フィルの個性もアメリカ音楽からは遠めであるが、かなり健闘しているように思える。

日本だけでなく、日本が範とする独墺系のオーケストラもアメリカ音楽は不得手で、録音は少なく、その少ない録音も出来は今ひとつのものが多い。


ガーシュウィン作曲、ベネット編の交響的絵画「ポーギーとベス」。「サマータイム」が一番有名だが、その他にもよく知られたメロディーがいくつも含まれている。バンジョー(演奏:福田晃一)が往時のアメリカ南部の雰囲気を上手く描き出している。

ガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」は、サイモン・ラトル指揮によるオペラ映画を観ているが、感動的な出来となっていた。これまで接したオペラの中で実演、映像含めて最も感動したかも知れない。日本でも歌劇「ポーギーとベス」を観てみたいが、オール黒人キャストである必要があるため、難しいと思われる。日本人が外面を黒人に見せることは現在では宜しくないとされているため実現することはないであろう。

最後に大植が総譜を掲げて曲に敬意を表し、演奏会はお開きとなった。

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2021年12月31日 (金)

コンサートの記(755) ガエタノ・デスピノーサ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2021

2021年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。昨年の「第9シンフォニーの夕べ」では、指揮台に立つ予定だったラルフ・ワイケルトがコロナ禍で来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代役を務めた。今年の「第9シンフォニーの夕べ」の指揮者にもワイケルトは再び指名されたが、オミクロン株の流行などによる外国人の入国規制強化によってまたも来日不可となり、入国規制が強化される前に来日して、日本滞在を続けているガエタノ・デスピノーサが代役として指揮台に立つことになった。なお、来年の大フィル「第9シンフォニーの夕べ」は尾高忠明の登壇が決まっており、ワイケルトの第九は流れてしまったようである


1978年生まれと、指揮者としてはまだ若いガエタノ・デスピノーサ。イタリア・パレルモに生まれ、2003年から2008年まで、名門・ドレスデン国立歌劇場のコンサートマスターを務めた、同時代にドレスレデン国立歌劇場の総監督であったファビオ・ルイージの影響を受けて指揮者に転向。2013年から2017年までミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の首席客演指揮者を務めている。

独唱は、三宅理恵(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、福井敬(テノール)、山下浩司(やました・こうじ。バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。フォアシュピーラーにはアシスタント・コンサートマスターの肩書きで客演の蓑田真理が入る。ドイツ式の現代配置での演奏だが、通常とは異なり、昨年同様ホルンが上手奥に位置し、通常ホルンが陣取ることが多い下手奥には打楽器群が入る。独唱者4人はステージ下手端に置かれた平台の上で歌うというスタイルである。


デスピノーサはフォルムを大切にするタイプのようで、先日聴いた広上淳一指揮京都市交響楽団の第九とは大きく異なり、古典的造形美の目立つスッキリとして見通しの良い演奏が行われる。
朝比奈隆時代に築かれた豊かな低弦の響き、俗に言う「大フィルサウンド」を特徴とする大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、デスピノーサがイタリア人指揮者ということもあって音の重心は高め。通常のピラミッド型とは異なる摩天楼型に近いバランスでの演奏が行われる。大フィルならではの演奏とはやや異なるが、こうしたスタイルによる第九も耳に心地よい。
全編を通して軽やかな印象を受け、ラストなども軽快な足取りで楽園へと進んでいく人々の姿が目に見えるようであった。

大阪フィルハーモニー合唱団は、今年も「歌えるマスク」を付けての歌唱。ザ・シンフォニーホールでの大フィル第九では、指揮台に立つ予定だった井上道義が「歌えるマスク」での歌唱に反発して降板したが(井上さんはコロナでの音楽活動縮小やマスクを付けての歌唱に元々反対だった上に、「歌えるマスク」がKKKことクー・クラックス・クランに見えるということで、降板している。KKKは、白人至上主義暴力肯定団体で、映画「国民の創生」や、シャーロック・ホームズ・シリーズの「5つのオレンジの種」などに描かれている。現在も活動中であり、先日、公園で集会を開いて周囲の住民と揉み合いになった)、マスクを付けていても歌唱は充実。フェスティバルホールの響きも相俟って堂々たる歌声を響かせていた。

演奏終了後に照明が絞られ、福島章恭指揮によるキャンドルサービスでの「蛍の光」が歌われる。再三に渡るリモートワークを強いられるなど、去年以上に大変であった今年の様々な光景が脳裏をよぎった。

日本語詞の「蛍の光」は別れを歌ったものであり、寂しいが、第九同様に明日へと進む人々の幸せを願う内容であり、目の前に迫った来年への活力となるようにも感じられた。

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2021年10月30日 (土)

コンサートの記(750) NISSAY OPERA 2021 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」日本語訳詞版上演@フェニーチェ堺

2021年10月23日 フェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、フェニーチェ堺大ホールで、NISSAY OPERA 2021 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。本業はバリトン歌手であるが、演出家、音楽学者、翻訳家など多分野で活躍し、『職業:宮本益光』という著作も出している才人、宮本益光の翻訳による日本語上演・字幕付きである。

指揮は園田隆一郎、演出は伊香修吾(いこう・しゅうご)という、今月上旬にびわ湖ホールでやはりプッチーニの歌劇「つばめ」を手掛けたコンビが続けての登場となる。演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。フェニーチェ堺の最寄り駅は南海堺東駅であるが、大阪フィルが事務所を構える大阪フィルハーモニー会館の最寄り駅である南海天下茶屋駅から堺東までは各駅停車で7駅と近い。余談だが、大阪フィルハーモニー会館は、元々は南海の工場があった場所に建っており、南海の社長だったか重役だったかが、当時の大阪フィルの音楽監督だった朝比奈隆と京都帝国大学時代の友人だったという縁で建設が実現している。

出演は、迫田美帆(さこだ・みほ。ミミ)、岸浪愛学(きしなみ・あいがく。ロドルフォ)、冨平安希子(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、近藤圭(ショナール)、山田大智(やまだ・たいち。コッリーネ)、清水良一(ベノア)、三浦克次(アルチンドロ)、工藤翔陽(くどう・しょうよう。パルピニョール)。合唱は、C.ヴィレッジシンガーズ。

数あるオペラ作品の中でも屈指の人気を誇る「ラ・ボエーム」であるが、ボヘミアン(ボエーム)を描いているということもあって女性の出演者が少なく、対立のドラマが(見かけ上は)存在しないという特殊なオペラでもある。


今回の上演では、ミミが最初から舞台中央のソファベッドにおり、それを表すかのような第4幕の音楽が前奏として付けられているのが最大の特徴である。ミミはほぼ出ずっぱりである(ミミがこの部屋から出ることは一度もない。第1幕のラストでもドアの外までは出るが、階段を降りることはない。また本来の登場の場面も、ドアから入ってくるのではなくではなく、窓際に不意に立っているという設定になっている)が、他の出演者にミミの姿が見えないという場面が存在(特に最初の方は、ラ・ボエーム達がミミの姿に気づかないまま話が展開していく)しているため、リアルな女性ではないということが分かる。あの世へ行ったミミの回想のドラマというコンセプトらしいのだが、芸術家の卵達を描いた作品ということで、ミミを「ミューズ」と見立てたという解釈が一番面白いように思う。これなら単なる「視座」ではなく、「見守る女神」の視点となり、ミミの死が芸術家達の青春の終わりに繋がって、より効果的であり、私ならそうするが、中途半端なのを見ると(第4幕ではムゼッタも見えない存在として登場してしまう)そうでもないようである。ミミがずっといるからミミに焦点を当てたドラマになるということでもないため、それならばふいに現れては去って行くミミの儚さを強調した方が良いように思われる。あるとすれば、実はミミではなく、この部屋つまり彼らの青春の空間が主人公であり、ミミがその象徴としての役割を持つという可能性である。これならまあまあ面白いかも知れない。コロナ対策として取られた演出という面もあったようなのだが、6月の日生劇場の公演での評判を受けての堺公演でかなりの不入りということで、観客に受け入れられなかった可能性もある。

上演は基本的には全て室内で行われる。第2幕のカルチェ・ラタンの群衆の声は窓の外から聞こえ、第1幕でラ・ボエーム達が集っていた部屋(画家のマルチェッロが家主である)がそのままカフェ・モミュスに移行するというわけで、ムゼッタとアルチンドロは下手にある窓から屋内へ入って来て、ボエーム達も窓から退場する。リアルな演出でないため、これでも良いわけである。第3幕冒頭のアンフェール(インフェルノ)門の場面も屋外ではなく、部屋がそのまま移行して関税徴収所の内部として描かれる(舞台美術:二村周作)。

日本語による上演であるが、歌詞が日本語になったからといって聴き取りやすくなったということもなく(イタリア語に比べれば分かりやすい場面も多いが)やはり字幕に頼る場面も多かった。

フェニーチェ堺大ホールに来るのは二度目で、初のオペラ上演体験となるが、空間自体がそれほど大きくはないため(3階席の最前列で観たが、視界も良好である)、オペラには音響面でも「ジャストフィット」という印象である。オーケストラの音も通りやすく、歌声も聴きやすくて、声を張り上げても壁がびりつくということもない。歌手達の演技も上質だったように思う。

大阪フィルは、ドイツ音楽に特化した低音豊かな音が特徴だが、これがあたかもバリトンのカンタービレのように響き、こうしたイタリア音楽の再現も悪くない。園田隆一郎の音作りも「手慣れ」を感じさせつつ新鮮という理想的なものであった。

なかなか感動的な「ラ・ボエーム」であったが、演出が前衛と正統の中間であるため、どっちつかずの印象も受けてしまったのも確かである。

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2021年9月29日 (水)

コンサートの記(745) 松本宗利音指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第551回定期演奏会

2021年9月24日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第551回定期演奏会を聴く。

本来は、アンガス・ウェブスターの指揮、ベンヤミン・シュミットをヴァイオリン独奏者に迎えて行われるはずだった演奏会だが、新型コロナウイルスによる外国人入国規制により来日不可となったため、代役として、1993年生まれの指揮者である松本宗利音(しゅうりひと)と1997年生まれのヴァイオリニストである辻彩奈の若い二人が登場する。

松本宗利音は、大阪府豊中市出身。両親が名指揮者のカール・シューリヒトのファンであったことから、シューリヒト夫人に名付け親となってもらい、宗利音と命名されている。京都市立堀川音楽高校を経て、東京藝術大学音楽学部指揮科で尾高忠明、高関健らに師事。卒業時には最優秀の証であるアカンサス賞を受賞している。在学中に、ダグラス・ボストックとパーヴォ・ヤルヴィのマスタークラスも受講した他、ヴァイオリンも藝大の学長として知られる澤和樹に師事している。
2019年4月から札幌交響楽団指揮者として活躍。同じ藝大出身で、札幌繋がりの太田弦(札幌市出身)と共に、二十代の日本人指揮者としては最も注目を浴びる存在である。

昨年の夏に、山科区の京都市東部文化会館ほかで行われた京都市交響楽団みんなのコンサート2020を指揮しているが、その時はまだステージ上で密になるのを避けるため、京響は室内オーケストラ編成であった。特に音響設計がなされている訳でもないホールで小編成の楽団の演奏ということで、その時はこちらも実力の把握は出来ていない。

辻彩奈は、若手ではトップクラスの知名度を誇るヴァイオリニストで、関西で聴く機会も多い。岐阜県生まれ。2016年のモントリオール国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門で1位を獲得して話題となる。特別特待奨学生として東京音楽大学に入学して卒業。現在は東京音楽大学のアーティストディプロマに引き続き特別特待奨学生として籍を置きながら、フランスでの活動も増えている。


曲目は、アーノルドの序曲「ピータールー」、ブリテンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)、チャイコフスキーの交響曲第5番。
プログラム自体に変更はなしである。


ワクチンが普及したためか、新型コロナの感染者が劇的に減っているが、大阪では揺り戻しの微増傾向で外出が避けられている上に、松本宗利音の知名度がまだそれほど高くないということもあってか空席が目立つということで、残響はいつもよりかなり長めとなっている。

今日のコンサートマスターは崔文洙。ドイツ式の現代配置による演奏。松本宗利音は、全編ノンタクトでの指揮である。


アーノルドの序曲「ピータールー」。1819年8月16日にイギリスのマンチェスターで起こった「ピータールーの虐殺」から100年が経過したことを記念して書かれた作品である。

マルコム・アーノルドは、クラシックの作品以上に映画音楽の作曲家として知られ、「戦場にかける橋」などの音楽を手掛けている(最も有名な「クワイ河マーチ」はアーノルドのオリジナルではなく、アルフォード作曲の「ボギー大佐」の編曲)。

ピータールーというのは、ナポレオンが大敗を喫したワーテルロー(英語では「ウォータールー」)の戦いに、マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで起こった英国軍による労働者階級の弾圧事件を掛けた名称である。死者は15名以上、重傷者は600名以上とされている。

いかにもイギリス音楽らしいノーブルな響きでスタートするが、途中でスネアドラムが鳴り響き、他の打楽器も加わって英国軍の介入が描かれる。やがて響きは凄絶なものへと変わる。
ティンパニが「春の祭典」によく似た音型を響かせたり、ショスタコーヴィチの作品を思わせる部分があったりと、アーノルドが生きた20世紀の様々な音楽的要素が取り入れられていることが分かる音楽である。ラストは凱歌になるのだが、皮相というべきか通俗的に過ぎるというべきか、とにかく前半に比べると落ちるというのが正直な感想である。

松本は大阪フィルから引き締まった音を引き出す。指揮者としてのセンスは相当に高いことが窺われる。


ブリテンのヴァイオリン協奏曲。第二次大戦中に書かれた作品である。
同性愛者であったベンジャミン・ブリテンは、パートナーであるテノール歌手のピーター・ピアーズと共に徴兵逃れの意味もあって渡米。1939年の夏に避暑のために訪れたと思われるカナダでこの曲が書かれている。初演は、1940年3月27日、ジョン・バルビローリの指揮、アントニオ・プローサのヴァイオリンによるニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現在のニューヨーク・フィルハーモニック)の定期演奏会で行われている。

ヴァイオリンが独奏し、オーケストラが伴奏する通常のヴァイオリン協奏曲とは異なる形で書かれており、独奏ヴァイオリンとオーケストラの掛け合いや、互いが互いのメロディーを奏でる部分が多い。

辻彩奈のヴァイオリンは磨き抜かれた音が美しく、疾走感と音の厚みもあって、ブリテン同様に「才気煥発」という言葉がよく似合う。

ヴァイオリンが輝かしくスタートするが、オーケストラは同じ音型を何度も繰り返し、不穏さや悲劇性が増していく。第2楽章では独奏ヴァイオリンのピッチカートをオーケストラが受け継ぐなど、かなり特異なスタイルである。
第3楽章の途中から、調性がメジャーへと移行するが、その後も不安定な曲調が続き、第二次大戦勃発間もない先行き不透明な時代が反映されているようでもある。

辻と松本は聴衆の拍手に応えて何度も登場するが、最後は辻が両手を掲げて、「バイバイ」のポーズを行った。


チャイコフスキーの交響曲第5番。
札幌に拠点を持っているからという訳でもないだろうが、松本は大フィルからチャイコフスキーに合ったヒンヤリとした音を引き出す。
スケールも大きく、雄渾だが、まだ音の輪郭作りは明瞭ではないようで、今日のフェスは響きすぎるということもあるのだが、音が強すぎて飽和してしまう場面も何度かあった。だが全般的には端正にしてエネルギー放出量も高い見事なチャイコフスキーとなる。

弦楽の冷たい響きは、チャイコフスキーの心境を反映して、聴いていてひたすら悲しくなる。

最終楽章。疑似ラストを終えてからの、以前なら「凱歌」とされた場面も歌を抑え、「悲しい夢」として表現する。「鉄のカーテン」によって情報が遮断されていたソ連時代にはチャイコフスキーに関する史料も西側では十分には手に入らなかった。そのため、長い間、単純な凱歌として演奏されてきたのだが、ソ連の崩壊と情報化社会の到来により、今日のような解釈による演奏が増えている。ラストの「ジャジャジャジャン」も借用だと分かるように音を切ってはっきりと演奏させていた。


二十代でプロオーケストラのポジションを得た実力が伊達ではないことを証明した演奏会。大フィルのメンバーも松本に敬意を払って立ち上がらず、松本一人が喝采を浴びていた。

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2021年8月12日 (木)

コンサートの記(737) 下野竜也指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第451回定期演奏会

2011年9月21日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第451回定期演奏会を聴く。指揮は日本人指揮者若手ナンバーワンの呼び声も高い下野竜也。

曲目は、J・S・バッハ=ベリオ編曲「フーガの技法」よりコントラプンクトゥスX IX、ボッケリーニ=ベリオ編曲「マドリードの夜の帰営のラッパ」の4つの版、ブルックナーの交響曲第2番(1872年/キャラガン版)。なお、バッハとボッケリーニの曲をベリオが編曲した2曲は下野の意向により、休憩なしで演奏される。

下野の指揮であるが、曲目がメジャーでないためか、台風の影響か、客席は満員にはならなかった。

全曲、アメリカ式の現代配置での演奏である。

バロックの作品をイタリアの現代の作曲家、ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)が編曲した2曲。バッハの遺作「フーガの技法」を取り入れた曲(コントラプンクトゥスとは対位法の複数形)は照明を絞って、ヴィオラとチェロによる開始。音色は渋く、旋律は哀感に溢れている。やがて管とヴァイオリンが加わり、バッハらしい深い音楽が展開される。ハープが「BACH(シ♭・ラ・ド・シ)」の主題を奏で、それが変奏されていく。不協和音の響きが流れ、バッハの死が暗示される。

ボッケリーニの時は照明も曲も一転して明るくなる。行進曲風に始まる、親しみやすい旋律が流れる楽しい曲だ。トランペットとトロンボーンがミュートを付けてユーモラスな音を吹いた後で、ミュートを取って、同じ旋律を吹くと堂々とした凱歌に変わる。下野と大フィルは煌びやかな音で旋律を奏で、リズム感も良く、好演となった。


メインであるブルックナーの交響曲第2番。第1楽章のヴァイオリンの刻み、チェロの歌う主旋律ともに鮮明である。全体的に速めのテンポが採用され、若々しいブルックナーになった。ただ、第1楽章では必要以上にドラマティックになったりする場面もある。

大フィルはブルックナーを演奏する時には、良く言うと澄んだ、悪く言うと無機質な音を出す。非常に明快な演奏だが、ブルックナーはもっとモヤモヤしていてもいいから温かい響きで聴きたいという気もする。

第4楽章も音の動きはよくわかるが、緩やかな場面では、下野ならもっと歌えるはずだ、とも思う。

若い指揮者によるブルックナーの初期交響曲の演奏としては十分高い水準の演奏だったと思うが、この曲の演奏には優れた録音がいくつもあり、また前半の出来に比べると下野と曲との相性が若干落ちるかなという気はする。

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2021年7月21日 (水)

コンサートの記(731) カーチュン・ウォン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第550回定期演奏会

2021年7月16日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第550回定期演奏会を聴く。指揮は日本でもお馴染みの存在となったカーチュン・ウォン。本来は、ミシェル・タバシュニクが指揮台に立つという渋い人選だったのだが、新型コロナウイルスによる入国制限により来日不可となり、カーチュン・ウォンが代役を務めることになった。

シンガポール出身のカーチュン・ウォン。1986年生まれ。シンガポールで作曲を学んだ後でドイツに渡り、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学で指揮を学ぶ。クルト・マズアに師事し、2016年にはグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝。直後にグスターボ・ドゥダメルに招かれて、ロサンゼルス・フィルハーモニックにおいて彼のアシスタントを務めた。現在は、ニュルンベルク交響楽団首席指揮者の座にある。
2019年に京都市交響楽団に客演した際には、プレトークで簡単な日本語も披露していたカーチュン・ウォン。「俊英」という言葉が最もよく似合うタイプである。

曲目は、リストの交響詩「レ・プレリュード(前奏曲)」、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。前半にハンガリーゆかりの作曲家が並んでいる。


リストの「レ・プレリュード」とムソルグスキーの「展覧会の絵」はドイツ式の現代配置で演奏されたが、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」は独自の配置。指揮者の正面上手寄りにハープ、下手寄りに蓋を取り払った形のピアノが演奏者が指揮者や客席側に顔を向けられるようにセッティングされ、その上手側つまりハープの後ろにチェレスタが置かれる。ピアノとチェレスタの後ろにティンパニが置かれ、その横や後ろに様々な打楽器奏者が並ぶ。

カーチュン・ウィンは、今日は「レ・プレリュード」と「展覧会の絵」では譜面台を置かず、暗譜での指揮。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」では譜面台と総譜を用意しており、譜面をめくりながらの指揮だったが、視点は常に演奏者達を捉えていて、「一応、総譜は用意してめくる形での」暗譜による指揮であった。


リストの交響詩「レ・プレリュード」。コロナ感染者が再び増加を続けている大阪。客席が十分に埋まっていないということもあってか、金管がやや響きすぎの気もしたが、きちんとした造形美と優れた推進力で、この曲の魅力を十全に引き出す。大フィルの音色も美しい。
カーチュン・ウォンは長めの指揮棒を使用し、ピアニシモを示すときに完全にしゃがみ込んで指示するなど、個性的な指揮姿である。


バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」。チェレスト独奏は仲香織、ピアノ独奏は長尾洋史。

バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」は、「音楽の友」誌などで行われる「20世紀が生んだ最高の楽曲」アンケートの上位常連曲である。
コダーイなどと共にハンガリー民謡の採譜なども行っていたバルトークが東洋的な情緒も込めて(ハンガリーのフン族は、元々東洋系の民族である)作曲した作品で、日本でいうと伊福部昭などにも繋がるような、土俗的な迫力にも満ちている。
4つの楽章から鳴るが、第1楽章は「夢への墜落」と名付けたくなるような独特のミステリアスな楽想が個性的である。一方、第4楽章は快活で、民族舞踊的な素朴で味わい深い迫力が興奮を呼ぶ。
ウォンの理知的で計算された音運びと、それを超えた音楽の喜びがこぼれ出るような演奏で、聴いているこちらの頬も緩む。

演奏終了後、ウォンは楽団員に立つよう指示するも、大フィルのメンバーはウォンに敬意を表して座ったまま拍手、のはずが、下手側のチェロ奏者二人が立ってしまい、顔を見合わせ苦笑いして座り直していた。こういうハプニングも楽しい。


メインであるムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。
冒頭のトランペットが力んで音が濁ったのが残念だったが、以後は金管は輝かしい音を響かせ続ける。
色彩感抜群の美演で、ラヴェル寄りの演奏であったが、特に弦楽器の響きなどは「マジカル」の領域に達している。風が吹き抜けるような音を出したり、人間の声のように響いたりと、これまで実演や録音で聴いたどの「展覧会の絵」とも異なる演奏で、ウォンの実力の高さは疑いようがない。
「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」や「キエフの大門」などではラスト付近の音型が通常とは異なっているように聞こえたが、どの版を用いたのかも気になるところである。
迫力も十分ながら、音の輝かしさと彩りの豊かさ、純度の高さなど全てが新鮮で、新時代の「展覧会の絵」の誕生に立ち会ったかのような爽快さを覚えた。

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2021年4月29日 (木)

コンサートの記(713) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第430回定期演奏会

2009年7月29日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時から、ザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第430回定期演奏会に接する。今日の指揮は音楽監督の大植英次。

曲目は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン独奏:クリストフ・バラーティ)とサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」(オルガン独奏:室住素子)。


パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番のソリストを務めるクリストフ・バラーティは、1979年、ハンガリーのブダペストに生まれ、ベネズエラに育った若手ヴァイオリニスト。祖国であるハンガリーのフランツ・リスト音楽院に学んだ俊英である。

パガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番は曲としてはそれほど面白いものではなく、特にオーケストラパートは貧弱だが、「ヴァイオリンの魔神」パガニーニだけに、ソロは華麗であり、それなりに気も利いていて楽しめる。

バラーティのヴァイオリンは音色が煌びやかで情熱的だ。汚い音を出すこともなく、技術も極めて高い。良いヴァイオリニストである。

バラーティは、アンコールとして、イザイの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番」より第1楽章と、J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ」第2番より“サラバンド”を弾く。バッハはもっと奥行きがあると良かったが、それでも優れた演奏である。


サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」。

第2楽章の第2部は大植のヒロイックな音楽作りが発揮され、高揚感のある聴き応えのある演奏となった。ただその他の部分では、音の洗練、技術ともにもっと高いものが望まれる。金管は破裂するような音を出した箇所があっただけに特に。


完璧ではなかったが、楽しめる演奏会ではあった。

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2021年2月27日 (土)

コンサートの記(697) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第413回定期演奏会

2007年12月6日 大阪・福島のザ・シンフォニーホールにて

午後7時より、大阪・福島のザ・シンフォニーホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第413回定期公演を聴く。
今日の指揮者は音楽監督の大植英次。曲目はブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン独奏:ルノー・カプソン)とラフマニノフの交響曲第2番。いずれも耽美的な作品である。

大植英次指揮大阪フィルの定期公演といえば、これまでは毎回補助席が出るほどの大盛況だったが、大植が今年に入って定期公演を2度もキャンセルした影響からか、今日の演奏会はほぼ満員にはなったが補助席が出るほどではなかった。

ルノー・カプソンは1976年生まれのフランス人ヴァイオリニスト。ベルリンで学び、クラウディオ・アバドの招きでグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラのコンサートマスターを務めた後、ソリストとしての活躍を始めたという。

カプソンのヴァイオリンは雅やかな音を出す。技術も高く、第3楽章の冒頭で、敢えてひっかくような音を出した他は、汚い音を一切出さない。また、演奏スタイルも面白く、時に体を後ろに思いっきり傾けてヴァイオリンを奏でる。上体をこれだけ後ろに反らせる人を見るのは荒川静香以来である。

大植指揮の大阪フィルも特にファースト・ヴァイオリンが素晴らしく、カプソンに負けじと美しい音を出していた。管は弦に比べると不調で、ホルンは音がずれる場面があったが、これは毎度のことなので気にしても仕方ない。


ラフマニノフの交響曲第2番は、今でこそラフマニノフの最高傑作と評価も高いが、真価が認められるまでにかなりの時間を要した。ロシアでの初演時は大好評を得たが、「長すぎる」との不満も聞かれたため、ラフマニノフはより短いバージョンを作った。その後は長いこと短縮されたバージョンが演奏されてきたのだが、前衛の時代となり、余りにも甘美なこの曲は「ジャムでベトベトの交響曲」などと酷評されることが多くなり、ラフマニノフの死後はコンサートの曲目に載ることも減っていった。

この曲の再評価のきっかけを作ったのはアンドレ・プレヴィンである。彼はこの曲を積極的に取り上げ、カットを廃した完全全曲版をレコーディングするなど曲の普及に努める。
CDの時代になり、CD1枚に収めるのに適当な長さを持つ完全全曲版によるラフマニノフの交響曲第2番は、それまでの不遇が嘘のように人気交響曲となる。前衛の時代も過ぎ去り、甘美なメロディーへの抵抗が少なくなっていたのも大きいだろう。

甘美なメロディーと壮大なスケールを持つラフマニノフの交響曲第2番は、大植の師であるレナード・バーンスタインが好みそうな曲であるはずだが、曲の評価が再び上がり始めていた1990年にバーンスタインが亡くなってしまったためか、それとも他の理由があるのか、バーンスタインはこの曲を録音していない。

ロマン派を得意とする大植の指揮だけに名演が期待される。
冒頭から弦楽は好調、管も健闘する。スケールは大きく、立体感も抜群だ。最も有名な第3楽章で、大植は旋律を粘って歌い、必要以上にアッチェレランドをかけるなどして効果を上げようとしていたが、逆に作為が目立ってしまった。もっと自然に歌った方が美しさが生きると思うのだが。
第4楽章ではお祭り騒ぎのように派手に音が鳴りすぎる場面があった。大植は不満だったようで、再び盛り上がりを迎えたところで今度は抑制を利かせ、完璧に決める。大植は親指を上げて、オーケストラに「グッド」とサインを送った。
問題が全くないわけではないけれど、優れた演奏。音があとちょっと垢抜ければ世界レベルでも通用すると思う。


演奏終了後、爆発的な拍手が大植と大阪フィルを讃える。大植は何度も指揮台に呼び戻され、最後は「もうこれまで」というように大植が客席に向かって手を振り、コンサートマスターの長原幸太が一礼して、演奏会はようやく終わった。大阪の聴衆は素直で、良いときは盛んに拍手するし、そうでないときはそれなりの拍手をする。わかりやすい。純粋に音楽が好きな人が聴きに来ているから、こうした拍手になるのだろう。これが大阪で音楽を聴く楽しみの一つである。

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