カテゴリー「大阪フィルハーモニー交響楽団」の108件の記事

2022年12月 4日 (日)

コンサートの記(817) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団 「交響曲No.1」@兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール

2022年11月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサート「交響曲№1」を聴く。

「作曲家が最初に作曲した交響曲の中で最も完成度が高いのは誰のものか?」という話題がたまにネット上で話題になることがあるが、今回はその「完成度の高い交響曲」の最右翼候補であるシベリウスの交響曲第1番とブラームスの交響曲第1番が並ぶという意欲的なプログラムである。

今日のコンサートマスターは須山暢大。フォアシュピーラー(アシスタント・コンサートマスター)には客演の川又明日香が入る。KOBELCO大ホールを本拠地としている兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)からは、6月まで在籍していたオーボエの上品綾香や、トランペットのガイルス彩乃(ハーフではなく、東京都交響楽団のトロンボーン奏者であるザッカリー・ガイルスの奥さん)らが客演として参加する。なお、大フィル首席コントラバス奏者のサイモン・ポレジャノフはPACオーケストラの出身であり、今度兵庫県立芸術文化センターで凱旋となるリサイタルを行う予定だそうである。


後にショスタコーヴィチと共に「ベートーヴェン以降最大のシンフォニスト」と呼ばれることになるジャン・シベリウスの最初の交響曲は彼が33歳の時に初演された。ティンパニのロールの上にクラリネットが孤独なモノローグをつぶやき、やがて弦の響きが巨大なうねりとなって広がっていく。

現在の日本においてシベリウス演奏の大家とも言える存在である尾高忠明。札幌交響楽団と「シベリウス交響曲全集」を完成させており、極めて高い水準を示していたが、今日も大フィルから澄んだ涼しげな音色を引き出す。
スケールの大きさ、寂寥感などの表出にも長けており、ティンパニの強打も印象的である。木管楽器のくっきりとした響きなどもシベリウスの優れた肖像を描き出す。


ブラームスの交響曲第1番は、おそらく交響曲第1番の中では最も有名な作品であり、個人的にもコンサートで最も多く接した楽曲である。
20代前半で交響曲の着想を得たブラームスであるが、慎重に慎重を重ね、43歳の時に交響曲第1版を完成させた。実に20年以上の歳月を掛けている(上には上がいて、バラキレフは交響曲第1番を完成させるのに30年以上の歳月を要した)。その間に別の交響曲の着想も得ていたが、結局、交響曲として完成させることが出来ず、他のジャンルの曲に転用している。

尾高は冒頭の悲劇性を強調せず、流れの良い音楽を築く。その後に音楽は白熱して行くわけだが、尾高は熱よりもアンサンブルの構築を重視。「流麗」とも呼べる弦の響きが印象的である。
ロマンティシズムの表出に長けた第2楽章と第3楽章を経て第4楽章も流れの良い音像を浮かび上がらせる。ベートーヴェンの「第九」の歓喜の歌に似た主題も愉悦感たっぷりに弾かれ、幸福な雰囲気がホールを満たしていた。


最後に尾高忠明は、「やっとお招きいただきました。素晴らしいホールです。そしてお世辞ではなく素晴らしいお客さんです」と語り、「西宮北口という駅には初めて降りました。北口と付く駅の名前は珍しいと思います。待ち合わせ場所を聞いたら『西宮北口の南口で』と言われて」と語って客席から笑いを引き出していた。

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2022年9月25日 (日)

コンサートの記(805) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第561回定期演奏会

2022年9月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第561回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

オール・ワーグナー・プログラムで、歌劇「リエンツィ」序曲、ヴェーゼンドンク歌曲集(メゾ・ソプラノ独唱:池田香織)、楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲。ブリュンヒルデの自己犠牲のメゾ・ソプラノ独唱は池田香織)


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。


歌劇「リエンツィ」序曲。トランペットのソロ(信号ラッパを表している)に続く弦楽の典雅な響きは、尾高の指揮ということもあってエルガーの音楽のように聞こえる。「ノーブル」という言葉が最も似合う音だ。ただ、ワーグナーの音楽の特徴は聖と俗の混交にあるため、「上品すぎるかな」とも思ったのだが、金管などには俗な要素も振っており、尾高の解釈の確かさが感じられる。


ヴェーゼンドンク歌曲集。「天使」「とどまれ」「温室にて」「苦しみ」「夢」の5曲からなる歌曲である。チューリッヒでワーグナーと出会い、愛人関係となったマティルデ・ヴェーゼンドンクという絹織物商人の夫人のために書かれた歌曲で、歌詞はマティルデが書いたものである。
ワーグナーは「夢」のみに小規模オーケストラのための編曲を施しており、残りの4曲はフェリックス・モットルによる編曲で演奏されるのが一般的であるが、今回は全5曲をハンス・ヴェルナー・ヘンツェが1976年に編曲したものが採用されている。ヘンツェの編曲も小規模オーケストラのために行われたもので、今日は第1ヴァイオリン6、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが各4、コントラバスが2という弦楽編成。管楽器はフルートとホルンが2管編成である。

日本を代表するワーグナー歌手の一人である池田香織。喉の調子が絶好調という訳ではなかったようだが、落ち着いた声による情感豊かな歌声を聞かせていた。


楽劇「神々の黄昏」より(夜明けとジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの葬送行進曲~ブリュンヒルデの自己犠牲)。
朝比奈隆以来のワーグナー演奏の伝統を持つ大阪フィルハーモニー交響楽団。「大フィルサウンド」と呼ばれる重厚な響きもワーグナーには似つかわしい。

尾高はスケール雄大で厚みと輝きのあるワーグナーサウンドを大フィルから弾き出すが、この音は尾高と今の大フィルが出したというよりも、これまでドイツ音楽に徹底して取り組んできた大フィルの長い歴史が生んだものであり、大フィルの歴史が背景のようにそそり立つのが見えるかのようだ。伝統によってもたらされた重層的な響きである。
大フィルの歴史が生んだ音を生かしつつ、尾高は彼らしい見通しの良い演奏を行う。毒こそ控えめだが、堅牢なフォルムと煌びやかな音色がワーグナーそのものの山脈を築き上げていく。
ブリュンヒルデの自己犠牲で独唱を務めた池田香織。池田はブリュンヒルデを当たり役としている。ヴェーゼンドンク歌曲集の時よりもずっと生き生きして見えるのは決して偶然ではないだろう。声に中にブリュンヒルデの命が息づいている。
歌い終えてすっくと佇む池田の姿はまるで慈母のような格好良さであった。

ワーグナーの良さを堪能出来る夜となった。

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2022年7月27日 (水)

コンサートの記(792) ユベール・スダーン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第560回定期演奏会

2022年7月22日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第560回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、日本でもお馴染みの存在であるユベール・スダーン。

オランダ出身のスダーン。東京交響楽団の音楽監督時代に注目を集め、現在は同楽団の桂冠指揮者。オーケストラ・アンサンブル金沢の首席客演指揮者でもある。安定感抜群のイメージがあるが、オランダ出身ということで古楽にも強く、2019年の京響の第九ではピリオド・アプローチ(HIP)を援用したノリの良い演奏を築いていた。
今日は指揮台を使わず、ノンタクトでの指揮。


曲目は、ロベルト・シューマンの「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」(いずれもマーラー編曲)、ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏第1番ト短調で、編曲もの3連発という意欲的な試みが行われる。

ドイツ・ロマン派を代表する作曲家であるシューマンであるが、本格的に作曲家を目指すのが遅かったということもあり、「オーケストレーションに難がある」というのが定説であった。くすんだ音色で鳴りが余り良くないのである。20世紀初頭までは、オーケストレーションに難ありとされた楽曲は指揮者がアレンジするのが一般的であり、当代一の指揮者でオーケストラの響きを知悉していたグスタフ・マーラーがアレンジした「マンフレッド」序曲と交響曲第1番「春」の譜面が残っていて、今回はそれを使用した演奏となる。スダーン自身がシューマンのオーケストレーションに疑問を持っており、それを氷解させてくれたのがマーラーによるアレンジ版だったようだ。

ブラームスのピアノ四重奏曲第1番ト短調に関しては、シェーンベルク自身が疑問を抱いていたようである。シェーンベルクはこの曲が大好きだったが、「ピアノが響きすぎて他の楽器が聞こえない」という不満を持っていた。そこで理想的なピアノ四重奏曲第1番ト短調の響きを求めて、アメリカ時代に編曲したのが今日演奏される管弦楽バージョンである。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置の演奏である。
だが、「マンフレッド」序曲では、舞台下手端にバロックティンパニが据えられており、視覚的にも異様な感じだったが、演奏するとバロックティンパニの響きは異物と捉えられる。

さて、その「マンフレッド」序曲であるが、すっきりとした響きになっている。シューマンのオーケストレーションについては擁護者もいて、例えば黛敏郎は、[あの音色はあのオーケストレーションでないと出ない」とシューマンの望んだ響きを誰より知っているのはシューマンという立場を鮮明にしている。マーラー編曲版は毒気が抜けた感じだが、それを補う形で、スダーンはバロックティンパニを舞台下手端で叩かせたのかも知れない。「マンフレッド」という話自体が異様な内容だけに、それを示唆する要素があるのも良いだろう。


交響曲第1番「春」。冒頭のトランペットの響きが明らかに低いのが一聴して分かる。実はシューマンは当初は今日演奏された音程でトランペットの旋律を書いたのだが、当時のナチュラルトランペットでは上手く吹くことが出来なかったため、改訂する際に音を3つ上げている。現在演奏されるシューマンの「春」はほぼ全てこの改訂版の譜面を採用しており、モダントランペットが華々しく鳴るのだが、ヨーロッパの長い冬が終わって春となった直後を描いていると考えた場合、明るすぎるとシューマンは考えたのかも知れない。マーラーはシューマンの初稿を尊重して音程を元に戻している。
やはり見通しが良くなり、音のパレットが豊富である。非常に情熱的で、シューマンの一面をよく表してもいる。主旋律でない部分の音の動きが分かりやすくなったのもプラスである。第2楽章の冒頭の弦楽の響きなどは、マーラーのアダージェットを思わせ、マーラーの個性も刻印されている。
一方で、やはりシューマンの渦巻くような怨念は一歩後退したような印象を受ける。音の動きがはっきり捉えられる分、原曲の響きが伝えていた不安定感や毒が薄れるのである。シューマンよりは大分年下(丁度50歳差)のマーラーであるが、指揮者だったということもあって旋律や構築はシューマンよりもあるいは古典的。「響かないことで伝わるもの」に関しては、やはり指揮者だけに注意が及ばなかったと思われる。
ともあれ、マーラーの編曲もやはり面白いものであることには間違いない。スダーンと大フィルの造形美も見事である。


ブラームス作曲・シェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番ト短調。スダーンの設計の巧みさと、大フィルの上手さが光る演奏となった。

オーケストラの団員が揃い、チューニングが行われ、会場の誰もがスダーンを待つことになったが、そのスダーンがなかなか現れない。舞台下手側の入り口は開け放たれているのだが、誰かが現れる気配もない。そうしている内に舞台上手側の入り口が開いて、ここからスダーン登場。どういう意図なのか理由なのか、あるいは意図も理由もないのかは不明だが、取り敢えずスダーンは、上手から舞台の中央へと進む。

シェーンベルクの編曲であるが、自身の個性を出すのは勿論、やはりブラームスを崇拝していたエルガーのような高貴さ、フランス印象派のような浮遊感など、同時代の音楽技法を意図的にかどうかは分からないが取り入れている形になっているのが面白い。民族的な旋律は、ブラームスが採集して編曲した「ハンガリー舞曲」との繋がりも感じられるが、シェーンベルクの編曲は、ドヴォルザークやバルトークといった国民楽派の作曲家からの影響もおそらく濃厚である。特に第4楽章は民族音楽的、舞曲的で痛快である。安定感抜群の音楽を作るスダーンであるが、京響との第九同様、熱く高揚感のある音作りで大フィルの機能を目一杯使う。興奮を誘う音楽で、演奏終了後の拍手も一際大きかった。

大フィルのメンバーもスダーンに敬意を払って立たず、スダーン一人が喝采を浴びる。
最後はスダーンが客席に投げキッスを送って、演奏会はお開きとなった。

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2022年6月 5日 (日)

コンサートの記(780) シャルル・デュトワ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第558回定期演奏会

2022年5月31日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第558回定期演奏会を聴く。指揮はお馴染みのシャルル・デュトワ。

デュトワと大フィルが初共演したのが、2019年の5月定期。大好評で、早速、翌2020年5月の定期演奏会にもデュトワが招かれることになったのだが、コロナ禍により中止に。この頃は大阪だけでなく、日本中そして世界中の演奏会で中止が相次いだ。2021年5月の定期演奏会の指揮台にもデュトワが立つ予定だったのだが、緊急事態宣言によりまたも中止。今回、三度目の正直で、デュトワが大フィルの5月定期を指揮することになった。

昨年はセイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)にも参加したデュトワ。有観客公演は果たせなかったが、演奏会はネットで生配信され、大好評であった。その後、新型コロナウイルスに罹患したことが報じられたりもしたが、無事復帰している。OMFには今年も参加する予定である。

プログラムも2020年5月に予定されていた曲目から変更はなし。ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)。


今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。ハイドンとラヴェルは小さめの編成での演奏。「ペトルーシュカ」は客演奏者を多く招いての大編成での演奏である。「ペトルーシュカ」のピアノは、ソリストとしても人気の北村朋幹(ともき)が務める。


ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。フランスもののスペシャリストというイメージのあるデュトワだが、ハイドンの交響曲のレコーディングも行っていたはずである。
20世紀末にはかなり人気を落としたハイドンだが、21世紀に入ると交響曲全集がいくつも登場したり、全集まではいかなくても選集や人気指揮者による話題盤が作成されたりと持ち直している。大阪でも飯森範親が手兵の日本センチュリー交響楽団を指揮した「ハイドン・マラソン」の演奏会と録音を継続中である。。
デュトワの指揮するハイドンは、流石というべきか響きがお洒落である。小粋さや大見得を切るいたずら心などが伝わってくる。ゲネラルパウゼでの仄かな寂寥感の漂わせ方も上手い。HIPを援用した演奏で、ビブラートを抑えた弦楽の透明な響きも印象的である。


デュトワの十八番であるラヴェル。デュトワはモントリオール交響楽団を指揮してDECCAレーベルに「ラヴェル管弦楽曲全集」を録音しており、デュトワとモントリオール響の出世盤となった。同コンビは、その後、ドビュッシーの主要管弦楽曲や歌劇「ペレアスとメリザンド」などもレコーディングも行っているが、こちらは全集にまでは至らなかった。

「クープランの墓」では、音の洗練が際立つ。まるで生き物のように自在な変化を見せる音。NHK交響楽団の学生定期会員をやっていた時代、正確にはその少し前から何度も接してきたデュトワの音楽作りであるが、本当に独特であり、少なくともフランスものでこうした演奏を行う指揮者の実演に接したことは他にない。「クープランの墓」は人気曲というほどではないが、演奏曲目に組み入れられる機会は比較的多めではある。ただ今日のデュトワと大フィルの演奏は、別格級の一つとみて間違いないだろう。スコアに書かれている以上の音楽を無理なく引き出す術は「驚嘆」の域に達している。
ドイツ的な重厚な響きを特徴とし、時には野暮ったい演奏をすることもある大阪フィルだが、今日の響きは匂うような上品さである。まだマスクで鼻を覆う必要があるが、耳を通して芳香は伝わってくる。


ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)は、音のエッジが立ち、描写力が高く、大フィルの弦の輝きも「光」そのものに限りなく近くなる。「極彩色」「光彩陸離」「光輝みつ」といった表現が全て陳腐に思えるほどの眩しさを放っていた。日本のオーケストラがこうした響きを奏でることはかなり珍しい。そうした中で音のグラデーションも見事であり、輝き一辺倒の演奏ではない。登場人物の心理状況なども含めて細部に至るまで神経が行き届いており、「ペトルーシュカ」単体でも、今日のプログラム全体を通しても、まるで「音による映画」を観ているような気分にさせられる。音楽が単なる音楽にとどまらない。そうした特別な時間が過ぎていった。
ピアノの北村朋幹の技術も高く、客演3人を招いた打楽器陣の上手さも光っていた。

客席に向かって「バイバイ」ポーズを送ることで知られるデュトワであるが、今日は大フィルのメンバーに向かって「バイバイ」のポーズをしていたのが印象的であった。

これまではエルボータッチやグータッチ、リストタッチやエアによるタッチを行う指揮者が多かったが、デュトワはコンサートマスターの須山暢大と何度も握手。組曲「クープランの墓」演奏終了後に、冒頭のソロを吹くオーボエソロにわざわざ握手しに向かった。そして最後は弦楽最前列の奏者全員と握手を交わした。

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2022年4月20日 (水)

コンサートの記(774) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第557回定期演奏会

2022年4月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフィエスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第557回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:藤田真央)とエルガーの交響曲第2番。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の独奏は、元々はフランス人ピアニストであるアンヌ・ケフェレックが担う予定であったが、コロナ禍により来日不可となったため、気鋭の若手ピアニストとして知名度を上げている藤田真央が代役に指名された。


今日のコンサートマスターは崔文洙、フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置による演奏である。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ちょっと風変わりな青年であるが、天衣無縫の音楽性を持つピアニストである藤田真央(有名人ではあるが一応注釈を入れておくと男性ピアニストである)。冒頭の天国的な響きから聴衆を魅了する。音楽は次第に思索を深めていくが、藤田真央のピアノはピアノの音そのものよりも高い音楽性で聴かせる。「いいピアノだ」という印象よりも「なんて素敵な音楽なのだろうと」、ベートーヴェンの音楽性の高さをありありと示すことが出来るのである。まだ若い故に時にムラッけが出ることもあるが、リリシズムやロマンティシズム、この上ない喜びなどを自在に奏でてみせるのだからその実力に疑問の余地はない。
尾高指揮の大フィルも、ピリオドを取り入れた深くて格好の良い伴奏を聴かせた。


藤田真央のアンコール演奏は、J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」よりガヴォット(ラフマニノフ編)。チャーミングにして愉悦感に飛んだ演奏であった。


エルガーの交響曲第2番。
大英帝国の栄耀栄華を描いたような交響曲第1番で名声を博したエドワード・エルガー。彼の交響曲第2番も大いに期待されたが、1911年5月24日にクイーンズホールで行われた作曲者自身の指揮による初演は、演奏終了後に困惑が広がったという。聴衆は交響曲第1番のような壮麗な楽曲を期待していたのだと思われるが、交響曲第2番は旋律も短めで、しかも何度も同じ音型が繰り返されるというものであり、交響曲第1番に比べてモダンな印象も受けるが、その余りの落差に、初めて聴いた聴衆が戸惑ったのもむべなるかなという気もする。

全ての楽章で、当時、大英帝国の首都として世界一の賑わいを見せていたロンドンの街の種々雑多な賑わいが描かれているようであり、楽しい曲ではあるのだが、作風がモダンすぎたのかも知れない。
第2楽章は、「故エドワード7世陛下の想い出に捧ぐと」記された追悼曲であるが、それにしては明るめの印象を受ける。一説には、エルガーが親しくしていた人物の他界に寄せた楽曲でもあるといわれているようだ。
第4楽章のラストは、「高揚」というよりも、「次の時代へと続く」という「その先」を感じさせる終わり方で、効果的である。

エルガーの交響曲第1番は英国音楽史上に燦然と輝く名曲だが、交響曲第2番も、ヴォーン=ウィリアムズを始め、その後の英国人交響曲作曲家に繋がるような曲調であり、英国音楽史上重要な音楽作品と見ることが出来るだろう。

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2022年2月14日 (月)

コンサートの記(764) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第555回定期演奏会 ブルックナー 交響曲第5番

2022年2月10日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第555回定期演奏会を聴く。曲目はブルックナーの交響曲第5番(ノヴァーク版)で、徹底して5が並ぶ。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

日本でもまだ「ブルックナーってあれ音楽なの?」と言われていた時代から積極的にブルックナーの交響曲を取り上げてきた尾高忠明。尾高はシベリウスの演奏でも日本の第一人者だが、ブルックナーを得意とする指揮者は基本的にシベリウスも得意であることが多い。若き日にウィーンに留学したシベリウスが、交響曲作曲家としてはまだ評価されていなかったブルックナーに師事しようとして断られたということがあったようだが、シベリウスはブルックナーの楽曲の本質を見抜いていたようである。ブルックナーを尊敬していたもう一人の音楽家、グスタフ・マーラーとシベリウスは後に会談しているが、物別れに終わっている。

ブルックナーはオルガニストとして出発。特に即興演奏を得意としており、ドイツ語圏最大のオルガニストとして尊敬されていたのだが、そんな彼が40代も半ばを過ぎてから交響曲の作曲に取り組むようになる。最初の内はさっぱり。自己評価に厳しく(この辺りはシベリウスにも繋がる)、気弱な性格だったということもあって、オーケストラに演奏を断られてもすごすご退散。「もっと良くすれば演奏して貰える」との思いから改訂に取り組み、その結果、版がいくつも存在するという状況になってしまっている。

今日演奏される交響曲第5番は、ブルックナーの交響曲の中でも人気のある作品、おそらく後期3大交響曲の次に来る作品だと思われるが、実はブルックナーは生前にこの曲の演奏を聴いたことはないとされる。完成したはいいものの、例によって演奏される機会がないまま歳月が流れてしまっていたが、交響曲第7番が成功したことで名声が徐々に高まり、生前に第5が演奏される機会も何度か訪れた。だが、ブルックナーは演奏会場に足を運ぶことはなかったようだ。

世界初演は、世界的な指揮者であったフランツ・シャルクのタクトによって行われたが、シャルクは交響曲第5番を「長すぎる」と感じたようで、独自のカットした版で演奏している。作品が理解された訳ではなかったことが分かる。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。第1ヴァイオリン17、第2ヴァイオリン15という大編成、ドイツ式の現代配置での演奏である。


ブルックナーの交響曲第5番は、非常にミステリアスな雰囲気で始まる。漆黒の闇の中を手すりだけを頼りに進んでいくような序奏に続き、突然前方に広大な世界が現れたかのようなスケール豊かな音楽が鳴り渡る。その後、森羅万象の美しさを愛でるかのような曲調となるが、次第に憂いが忍び寄ってくる。
この陰鬱なムードは第1楽章から第3楽章まで一貫して続き、第4楽章の冒頭で第1楽章から第3楽章までの主題が過ぎた日の追憶のように再現される。

交響曲第5番は、作曲家にとって特別な数字である。世界で最も有名な交響曲がベートーヴェンの第5番、日本では「運命」と呼ばれる楽曲である。本当に運命を描いたのかどうかは定かではないが、最終楽章で圧倒的な凱歌が奏でられるのが特徴で、多くの作曲家がそれを模倣した。ショスタコーヴィチが一番有名であるが、シベリウス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、マーラーなどがベートーヴェンの第5を意識した曲調を自身の交響曲第5番に盛り込んでいる。おそらくブルックナーの交響曲第5番もこの路線で、ラストで強烈な鬨を上げている。それまでの3つの楽章は、挫折が多く、精神を病んだりもした自画像のようにも感じられる。ブルックナーの交響曲はどちらかというと抒景詩的だが、第5番だけは別のように思う。


尾高と大フィルによるブルックナーの交響曲第5番の演奏であるが、まずフォルムがほぼ完璧であることに圧倒される。スケール、音の純度、輪郭、いずれもが理想的である上に、強弱をミリ単位で変えてくる。こうした音楽作りは、日本人指揮者としては小澤征爾が得意としているが、今日の尾高もそれに近いものを感じる。少なくともブルックナーの音楽は完全に自分のものにしている。

大フィルのアンサンブルも好調で、弦楽器の透明度のある輝き、金管の節度ある咆哮など、ブルックナーに必要なものは全て音に込められている。ここまでのブルックナーを聴く機会は、外来のオーケストラを含めても余り多くないだろう。

明るめの音による演奏であるが、ブルックナーの私小説的な憂いの表現にも遺漏はなく、今現在の日本で聴ける最高のブルックナー演奏の一つであることは間違いない。尾高と大フィルのブルックナーは、これまでにも何度か聴いているが、今日が最高の出来であったように思う。

盟友である井上道義が、2024年をもって指揮者からの引退を表明するなど、世代交代が進んでいる日本人指揮者界であるが、尾高さんにはこれからも名演を生んで貰いたい。そして出来るなら、大フィルとシベリウスの交響曲チクルスもやって欲しい。

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2022年1月26日 (水)

コンサートの記(760) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第554回定期演奏会

2022年1月21日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時からフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第554回定期演奏会を聴く。当初はウェイン・マーシャルが客演する予定だったが、外国人が基本的に日本に入国出来なくなったため、大フィル桂冠指揮者の大植英次が指揮台に上がる。曲目も一部変更になった。

オール・アメリカ・プログラムで、ガーシュウィンのキューバ序曲、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」(ピアノ独奏:中野翔太)、ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲、グローフェのミシシッピ組曲、ガーシュウィンの交響的絵画「ポーギーとベス」(ベネット編)が演奏される。

今日のコンサートマスターは須山暢大。

昨年の1月、出町柳の名曲喫茶・柳月堂でガーシュウィンの組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」をリクエストで入れて聴き、「アメリカ音楽はカラッとしていて新年に合うなあ、例年なら」と思ったが、たまたま今年の大フィルの1月定期はオール・アメリカ・プログラムとなった。

二十歳でアメリカに渡り、タングルウッド・ミュージック・センターとニューイングランド音楽院に学び、レナード・バースタインに師事した大植英次。アメリカ音楽も得意である。

大植は大フィルの分厚い音色を生かしたシンフォニックな演奏を築きつつ、キレや華にも欠けない理想的な音像を引き出す。


ガーシュウィンのキューバ序曲。この曲と交響的絵画「ポーギーとベス」は、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団によるDECCA盤で初めて聴いて大好きになっている。大植と大フィルはデュトワとモントリオールのラテン的なノリとは異なるが爽快な演奏を展開する。


ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。ファーディ・グローフェがオーケストレーションした最も有名な版による演奏である。
ピアノ独奏の中野翔太は、1999年からジュリアード音楽院プレカレッジに学び、その後に同音楽院と同音楽院大学院を修了。それ以前の1996年には第50回全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国1位及び野村賞を受賞している。

冒頭のクラリネットが少しデフォルメされた音型を吹いてスタート。アメリカ音楽の中では演奏頻度の比較的高い楽曲だけに、大フィルも慣れた演奏を聴かせる。

中野は、作曲、編曲、ジャズ演奏も行っているだけに、即興性にも富んだ演奏を展開。特にカデンツァではモダンジャズとカントリーの間を往来するような音楽を奏でた後で、「イパネマの娘」を主題とした変奏を展開。洗練されていてお洒落であった。

演奏終了後、中野は何度もカーテンコールに応えたが、最後は大植英次が共に登場。鍵盤を白い布で拭い、アンコール演奏を要請するというパフォーマンスを行う。
中野はガーシュウィンの「A Foggy Day」を自身で編曲したものを演奏した。


ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲。有名な「アイ・ガッタ・リズム」を含むミュージカル作品の序曲で、「アイ・ガッタ・リズム」も効果的に用いられている一方で、全体的に洗練された旋律とお洒落なオーケストレーションが印象的な楽曲である。
大植も、「どうです? お洒落でしょ?」という風に客席を振り向いたりする。


グローフェのミシシッピ組曲。日本テレビ系で放送されていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」の勝ち抜けの音楽に第2曲の「ハックルベリー・フィン」と第4曲「マルディ・グラ」が使用されていたことで知られているが、コンサートで取り上げられることはほとんどなく、録音点数も多くはない。私はNAXOSのアメリカ音楽シリーズの一つであるウィリアム・ストロンバーグ指揮ボーンマス交響団の演奏で聴いている。

比較対象が余りないのだが、大植はストロンバーグよりはやや遅めのテンポを採用し、堂々たる演奏を展開する。年代的にだが、多分、大植さんは「ウルトラクイズ」を見たことはないと思われる。
日本ではアメリカのクラシック音楽は余り重要視されておらず、アメリカ音楽がプログラムに載ることも少ないため、オーケストラも慣れていないことが多い。大フィルの個性もアメリカ音楽からは遠めであるが、かなり健闘しているように思える。

日本だけでなく、日本が範とする独墺系のオーケストラもアメリカ音楽は不得手で、録音は少なく、その少ない録音も出来は今ひとつのものが多い。


ガーシュウィン作曲、ベネット編の交響的絵画「ポーギーとベス」。「サマータイム」が一番有名だが、その他にもよく知られたメロディーがいくつも含まれている。バンジョー(演奏:福田晃一)が往時のアメリカ南部の雰囲気を上手く描き出している。

ガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」は、サイモン・ラトル指揮によるオペラ映画を観ているが、感動的な出来となっていた。これまで接したオペラの中で実演、映像含めて最も感動したかも知れない。日本でも歌劇「ポーギーとベス」を観てみたいが、オール黒人キャストである必要があるため、難しいと思われる。日本人が外面を黒人に見せることは現在では宜しくないとされているため実現することはないであろう。

最後に大植が総譜を掲げて曲に敬意を表し、演奏会はお開きとなった。

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2021年12月31日 (金)

コンサートの記(755) ガエタノ・デスピノーサ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2021

2021年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。昨年の「第9シンフォニーの夕べ」では、指揮台に立つ予定だったラルフ・ワイケルトがコロナ禍で来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代役を務めた。今年の「第9シンフォニーの夕べ」の指揮者にもワイケルトは再び指名されたが、オミクロン株の流行などによる外国人の入国規制強化によってまたも来日不可となり、入国規制が強化される前に来日して、日本滞在を続けているガエタノ・デスピノーサが代役として指揮台に立つことになった。なお、来年の大フィル「第9シンフォニーの夕べ」は尾高忠明の登壇が決まっており、ワイケルトの第九は流れてしまったようである


1978年生まれと、指揮者としてはまだ若いガエタノ・デスピノーサ。イタリア・パレルモに生まれ、2003年から2008年まで、名門・ドレスデン国立歌劇場のコンサートマスターを務めた、同時代にドレスレデン国立歌劇場の総監督であったファビオ・ルイージの影響を受けて指揮者に転向。2013年から2017年までミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の首席客演指揮者を務めている。

独唱は、三宅理恵(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、福井敬(テノール)、山下浩司(やました・こうじ。バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。フォアシュピーラーにはアシスタント・コンサートマスターの肩書きで客演の蓑田真理が入る。ドイツ式の現代配置での演奏だが、通常とは異なり、昨年同様ホルンが上手奥に位置し、通常ホルンが陣取ることが多い下手奥には打楽器群が入る。独唱者4人はステージ下手端に置かれた平台の上で歌うというスタイルである。


デスピノーサはフォルムを大切にするタイプのようで、先日聴いた広上淳一指揮京都市交響楽団の第九とは大きく異なり、古典的造形美の目立つスッキリとして見通しの良い演奏が行われる。
朝比奈隆時代に築かれた豊かな低弦の響き、俗に言う「大フィルサウンド」を特徴とする大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、デスピノーサがイタリア人指揮者ということもあって音の重心は高め。通常のピラミッド型とは異なる摩天楼型に近いバランスでの演奏が行われる。大フィルならではの演奏とはやや異なるが、こうしたスタイルによる第九も耳に心地よい。
全編を通して軽やかな印象を受け、ラストなども軽快な足取りで楽園へと進んでいく人々の姿が目に見えるようであった。

大阪フィルハーモニー合唱団は、今年も「歌えるマスク」を付けての歌唱。ザ・シンフォニーホールでの大フィル第九では、指揮台に立つ予定だった井上道義が「歌えるマスク」での歌唱に反発して降板したが(井上さんはコロナでの音楽活動縮小やマスクを付けての歌唱に元々反対だった上に、「歌えるマスク」がKKKことクー・クラックス・クランに見えるということで、降板している。KKKは、白人至上主義暴力肯定団体で、映画「国民の創生」や、シャーロック・ホームズ・シリーズの「5つのオレンジの種」などに描かれている。現在も活動中であり、先日、公園で集会を開いて周囲の住民と揉み合いになった)、マスクを付けていても歌唱は充実。フェスティバルホールの響きも相俟って堂々たる歌声を響かせていた。

演奏終了後に照明が絞られ、福島章恭指揮によるキャンドルサービスでの「蛍の光」が歌われる。再三に渡るリモートワークを強いられるなど、去年以上に大変であった今年の様々な光景が脳裏をよぎった。

日本語詞の「蛍の光」は別れを歌ったものであり、寂しいが、第九同様に明日へと進む人々の幸せを願う内容であり、目の前に迫った来年への活力となるようにも感じられた。

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2021年10月30日 (土)

コンサートの記(750) NISSAY OPERA 2021 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」日本語訳詞版上演@フェニーチェ堺

2021年10月23日 フェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、フェニーチェ堺大ホールで、NISSAY OPERA 2021 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。本業はバリトン歌手であるが、演出家、音楽学者、翻訳家など多分野で活躍し、『職業:宮本益光』という著作も出している才人、宮本益光の翻訳による日本語上演・字幕付きである。

指揮は園田隆一郎、演出は伊香修吾(いこう・しゅうご)という、今月上旬にびわ湖ホールでやはりプッチーニの歌劇「つばめ」を手掛けたコンビが続けての登場となる。演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団。フェニーチェ堺の最寄り駅は南海堺東駅であるが、大阪フィルが事務所を構える大阪フィルハーモニー会館の最寄り駅である南海天下茶屋駅から堺東までは各駅停車で7駅と近い。余談だが、大阪フィルハーモニー会館は、元々は南海の工場があった場所に建っており、南海の社長だったか重役だったかが、当時の大阪フィルの音楽監督だった朝比奈隆と京都帝国大学時代の友人だったという縁で建設が実現している。

出演は、迫田美帆(さこだ・みほ。ミミ)、岸浪愛学(きしなみ・あいがく。ロドルフォ)、冨平安希子(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、近藤圭(ショナール)、山田大智(やまだ・たいち。コッリーネ)、清水良一(ベノア)、三浦克次(アルチンドロ)、工藤翔陽(くどう・しょうよう。パルピニョール)。合唱は、C.ヴィレッジシンガーズ。

数あるオペラ作品の中でも屈指の人気を誇る「ラ・ボエーム」であるが、ボヘミアン(ボエーム)を描いているということもあって女性の出演者が少なく、対立のドラマが(見かけ上は)存在しないという特殊なオペラでもある。


今回の上演では、ミミが最初から舞台中央のソファベッドにおり、それを表すかのような第4幕の音楽が前奏として付けられているのが最大の特徴である。ミミはほぼ出ずっぱりである(ミミがこの部屋から出ることは一度もない。第1幕のラストでもドアの外までは出るが、階段を降りることはない。また本来の登場の場面も、ドアから入ってくるのではなくではなく、窓際に不意に立っているという設定になっている)が、他の出演者にミミの姿が見えないという場面が存在(特に最初の方は、ラ・ボエーム達がミミの姿に気づかないまま話が展開していく)しているため、リアルな女性ではないということが分かる。あの世へ行ったミミの回想のドラマというコンセプトらしいのだが、芸術家の卵達を描いた作品ということで、ミミを「ミューズ」と見立てたという解釈が一番面白いように思う。これなら単なる「視座」ではなく、「見守る女神」の視点となり、ミミの死が芸術家達の青春の終わりに繋がって、より効果的であり、私ならそうするが、中途半端なのを見ると(第4幕ではムゼッタも見えない存在として登場してしまう)そうでもないようである。ミミがずっといるからミミに焦点を当てたドラマになるということでもないため、それならばふいに現れては去って行くミミの儚さを強調した方が良いように思われる。あるとすれば、実はミミではなく、この部屋つまり彼らの青春の空間が主人公であり、ミミがその象徴としての役割を持つという可能性である。これならまあまあ面白いかも知れない。コロナ対策として取られた演出という面もあったようなのだが、6月の日生劇場の公演での評判を受けての堺公演でかなりの不入りということで、観客に受け入れられなかった可能性もある。

上演は基本的には全て室内で行われる。第2幕のカルチェ・ラタンの群衆の声は窓の外から聞こえ、第1幕でラ・ボエーム達が集っていた部屋(画家のマルチェッロが家主である)がそのままカフェ・モミュスに移行するというわけで、ムゼッタとアルチンドロは下手にある窓から屋内へ入って来て、ボエーム達も窓から退場する。リアルな演出でないため、これでも良いわけである。第3幕冒頭のアンフェール(インフェルノ)門の場面も屋外ではなく、部屋がそのまま移行して関税徴収所の内部として描かれる(舞台美術:二村周作)。

日本語による上演であるが、歌詞が日本語になったからといって聴き取りやすくなったということもなく(イタリア語に比べれば分かりやすい場面も多いが)やはり字幕に頼る場面も多かった。

フェニーチェ堺大ホールに来るのは二度目で、初のオペラ上演体験となるが、空間自体がそれほど大きくはないため(3階席の最前列で観たが、視界も良好である)、オペラには音響面でも「ジャストフィット」という印象である。オーケストラの音も通りやすく、歌声も聴きやすくて、声を張り上げても壁がびりつくということもない。歌手達の演技も上質だったように思う。

大阪フィルは、ドイツ音楽に特化した低音豊かな音が特徴だが、これがあたかもバリトンのカンタービレのように響き、こうしたイタリア音楽の再現も悪くない。園田隆一郎の音作りも「手慣れ」を感じさせつつ新鮮という理想的なものであった。

なかなか感動的な「ラ・ボエーム」であったが、演出が前衛と正統の中間であるため、どっちつかずの印象も受けてしまったのも確かである。

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2021年9月29日 (水)

コンサートの記(745) 松本宗利音指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第551回定期演奏会

2021年9月24日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第551回定期演奏会を聴く。

本来は、アンガス・ウェブスターの指揮、ベンヤミン・シュミットをヴァイオリン独奏者に迎えて行われるはずだった演奏会だが、新型コロナウイルスによる外国人入国規制により来日不可となったため、代役として、1993年生まれの指揮者である松本宗利音(しゅうりひと)と1997年生まれのヴァイオリニストである辻彩奈の若い二人が登場する。

松本宗利音は、大阪府豊中市出身。両親が名指揮者のカール・シューリヒトのファンであったことから、シューリヒト夫人に名付け親となってもらい、宗利音と命名されている。京都市立堀川音楽高校を経て、東京藝術大学音楽学部指揮科で尾高忠明、高関健らに師事。卒業時には最優秀の証であるアカンサス賞を受賞している。在学中に、ダグラス・ボストックとパーヴォ・ヤルヴィのマスタークラスも受講した他、ヴァイオリンも藝大の学長として知られる澤和樹に師事している。
2019年4月から札幌交響楽団指揮者として活躍。同じ藝大出身で、札幌繋がりの太田弦(札幌市出身)と共に、二十代の日本人指揮者としては最も注目を浴びる存在である。

昨年の夏に、山科区の京都市東部文化会館ほかで行われた京都市交響楽団みんなのコンサート2020を指揮しているが、その時はまだステージ上で密になるのを避けるため、京響は室内オーケストラ編成であった。特に音響設計がなされている訳でもないホールで小編成の楽団の演奏ということで、その時はこちらも実力の把握は出来ていない。

辻彩奈は、若手ではトップクラスの知名度を誇るヴァイオリニストで、関西で聴く機会も多い。岐阜県生まれ。2016年のモントリオール国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門で1位を獲得して話題となる。特別特待奨学生として東京音楽大学に入学して卒業。現在は東京音楽大学のアーティストディプロマに引き続き特別特待奨学生として籍を置きながら、フランスでの活動も増えている。


曲目は、アーノルドの序曲「ピータールー」、ブリテンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)、チャイコフスキーの交響曲第5番。
プログラム自体に変更はなしである。


ワクチンが普及したためか、新型コロナの感染者が劇的に減っているが、大阪では揺り戻しの微増傾向で外出が避けられている上に、松本宗利音の知名度がまだそれほど高くないということもあってか空席が目立つということで、残響はいつもよりかなり長めとなっている。

今日のコンサートマスターは崔文洙。ドイツ式の現代配置による演奏。松本宗利音は、全編ノンタクトでの指揮である。


アーノルドの序曲「ピータールー」。1819年8月16日にイギリスのマンチェスターで起こった「ピータールーの虐殺」から100年が経過したことを記念して書かれた作品である。

マルコム・アーノルドは、クラシックの作品以上に映画音楽の作曲家として知られ、「戦場にかける橋」などの音楽を手掛けている(最も有名な「クワイ河マーチ」はアーノルドのオリジナルではなく、アルフォード作曲の「ボギー大佐」の編曲)。

ピータールーというのは、ナポレオンが大敗を喫したワーテルロー(英語では「ウォータールー」)の戦いに、マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで起こった英国軍による労働者階級の弾圧事件を掛けた名称である。死者は15名以上、重傷者は600名以上とされている。

いかにもイギリス音楽らしいノーブルな響きでスタートするが、途中でスネアドラムが鳴り響き、他の打楽器も加わって英国軍の介入が描かれる。やがて響きは凄絶なものへと変わる。
ティンパニが「春の祭典」によく似た音型を響かせたり、ショスタコーヴィチの作品を思わせる部分があったりと、アーノルドが生きた20世紀の様々な音楽的要素が取り入れられていることが分かる音楽である。ラストは凱歌になるのだが、皮相というべきか通俗的に過ぎるというべきか、とにかく前半に比べると落ちるというのが正直な感想である。

松本は大阪フィルから引き締まった音を引き出す。指揮者としてのセンスは相当に高いことが窺われる。


ブリテンのヴァイオリン協奏曲。第二次大戦中に書かれた作品である。
同性愛者であったベンジャミン・ブリテンは、パートナーであるテノール歌手のピーター・ピアーズと共に徴兵逃れの意味もあって渡米。1939年の夏に避暑のために訪れたと思われるカナダでこの曲が書かれている。初演は、1940年3月27日、ジョン・バルビローリの指揮、アントニオ・プローサのヴァイオリンによるニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現在のニューヨーク・フィルハーモニック)の定期演奏会で行われている。

ヴァイオリンが独奏し、オーケストラが伴奏する通常のヴァイオリン協奏曲とは異なる形で書かれており、独奏ヴァイオリンとオーケストラの掛け合いや、互いが互いのメロディーを奏でる部分が多い。

辻彩奈のヴァイオリンは磨き抜かれた音が美しく、疾走感と音の厚みもあって、ブリテン同様に「才気煥発」という言葉がよく似合う。

ヴァイオリンが輝かしくスタートするが、オーケストラは同じ音型を何度も繰り返し、不穏さや悲劇性が増していく。第2楽章では独奏ヴァイオリンのピッチカートをオーケストラが受け継ぐなど、かなり特異なスタイルである。
第3楽章の途中から、調性がメジャーへと移行するが、その後も不安定な曲調が続き、第二次大戦勃発間もない先行き不透明な時代が反映されているようでもある。

辻と松本は聴衆の拍手に応えて何度も登場するが、最後は辻が両手を掲げて、「バイバイ」のポーズを行った。


チャイコフスキーの交響曲第5番。
札幌に拠点を持っているからという訳でもないだろうが、松本は大フィルからチャイコフスキーに合ったヒンヤリとした音を引き出す。
スケールも大きく、雄渾だが、まだ音の輪郭作りは明瞭ではないようで、今日のフェスは響きすぎるということもあるのだが、音が強すぎて飽和してしまう場面も何度かあった。だが全般的には端正にしてエネルギー放出量も高い見事なチャイコフスキーとなる。

弦楽の冷たい響きは、チャイコフスキーの心境を反映して、聴いていてひたすら悲しくなる。

最終楽章。疑似ラストを終えてからの、以前なら「凱歌」とされた場面も歌を抑え、「悲しい夢」として表現する。「鉄のカーテン」によって情報が遮断されていたソ連時代にはチャイコフスキーに関する史料も西側では十分には手に入らなかった。そのため、長い間、単純な凱歌として演奏されてきたのだが、ソ連の崩壊と情報化社会の到来により、今日のような解釈による演奏が増えている。ラストの「ジャジャジャジャン」も借用だと分かるように音を切ってはっきりと演奏させていた。


二十代でプロオーケストラのポジションを得た実力が伊達ではないことを証明した演奏会。大フィルのメンバーも松本に敬意を払って立ち上がらず、松本一人が喝采を浴びていた。

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