カテゴリー「京都コンサートホール」の281件の記事

2026年2月28日 (土)

コンサートの記(949) ヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮京都市交響楽団第708回定期演奏会

2026年2月13日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第708回定期演奏会を聴く。
今日の指揮者は、京都市交響楽団首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーント。ウィーン室内管弦楽団首席指揮者、ノルウェーのベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団のアーティスティック・パートナーも務めている。

曲目は、シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」とブルックナーの交響曲第3番(初稿/1873年)。
いずれも作曲者の精神状態に危うさが感じられる曲であるが、デ・フリーントはそうした理由ではなく、ウィーンで暮らした二人の作曲家の交響曲を並べるという意図があったようだ。
両曲とも、ある程度の知名度はあるのだが、「好きで好きで仕方ない」という人には会ったことがないという演目であるためか、入りは4割行かないかも知れない。

午後6時30分頃から、デ・フリーントによるプレトーク。英語でのスピーチである(通訳:小松みゆき)。
デ・フリーントは、「悲劇的」について、「そんなに悲しい曲ではありません」と述べる(実はかなりの苦みを感じる曲である)。作曲時、シューベルトは19歳で、デ・フリーントは、「信じがたい」と述べるが、確かにこれだけの曲を書くことの出来る19歳は凄いというより異常だろう。
「悲劇的」は作曲者の命名であるが、19歳の若者にとっての悲劇とは何なのか気になるところである。現代の日本なら生育環境に始まり、いじめ、教職員などの行き過ぎた指導、病気や事故、受験、就職などで悲劇に見舞われることはある。
デ・フリーントは、シューベルトがハイドンの指揮で演奏したり、モーツァルトから直接教わったことなどを述べ、この曲の主題がベートーヴェンの弦楽五重奏曲から取られたということも指摘する。シューベルトはベートーヴェンとも会っている。
実はシューベルトの主任教師と呼べる存在なのは、アントニオ・サリエリなのであるが、それについては触れることはなかった。

ブルックナーの交響曲第3番は、「ワーグナー」の愛称で呼ばれることがある。今回は、ワーグナー風の旋律を取り入れた初稿での演奏。ブルックナーの交響曲第3番(初稿)の演奏は、90年代にヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団の定期演奏会で聴いており、「とにかく長い」という印象を受けた。その後、ブロムシュテットは、カペルマイスターを務めたライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とのライブ録音BOXを出し、それにもブルックナーの交響曲第3番(初稿)が含まれていたが、その時の印象も「長い」であった。
ブルックナーの交響曲第3番は、第2稿が決定稿となり、この稿で録音したものが多い。朝比奈/大フィル(キャニオン・クラシックス)、クラウス・テンシュテット/バイエルン放送響なども第2稿の演奏で、この2つが私が推せるブルックナーの交響曲第3番のツートップである。
ブルックナーの交響曲第3番(初稿)は、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されることになるが、リハーサルで、「長い」「難しい」「退屈だ」との意見が出て、演奏を拒否されてしまう。
ブルックナーはオルガンの名手で、オルガンの手法を管弦楽に置き換えたものが多いのだが、当時の音楽界にあっては異様な音楽であり、理解を得るのは難しかった。
通常ならすぐに改訂に入るところだが、初演の話よりも前に心酔していたワーグナーに会っており、献呈を申し出ている。ビールを飲みながらの会談で、交響曲第2番と第3番のどちらかを献呈することになり、ワーグナーは2曲とも気に入ったのだが、飲み過ぎたせいで二人とも眠ってしまい、どちらの曲を献呈するのか忘れてしまって、結果的にはワーグナーの楽曲からの引用が多い交響曲第3番が選ばれ、作曲家自身により「ワーグナー交響曲」と名付けられた。ワーグナーに気に入られたためか、改訂作業に入るのは遅めとなった。

それから9年が経ち、ブルックナーは交響曲作曲家として評価されるようになっていたが、もうワグネリアン(ワーグナー信奉者)ではなくなっていた。ということで、ワーグナーの旋律をどけて新たなる版を作った。ちなみに他人の曲の旋律を用いることは、今では著作権法違反となるが、当時はリスペクトと捉えられており、ヨハン・シュトラウスⅡ世も他人の作品の旋律を多くの作品で取り入れている。
さて、第2稿の演奏は、作曲者指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が受け持ったが、ウィーン・フィルが非協力的だったこともあって、失敗している。評価は初稿のリハーサル時にウィーン・フィルの団員が抱いたものとほぼ同じだった。ただ、若き日のグスタフ・マーラーはこの曲の真価を見抜き、フィンランドからウィーンに留学していたシベリウスもこの曲に感銘を受け、ブルックナーに師事しようとして断られている。
第3稿により、三度目の正直で大成功を収めた。この時も演奏はウィーン・フィルである。大巨匠であるハンス・リヒターの指揮であったことも大きかったかも知れない。
なお、ブルックナーの交響曲第3番の日本初演を行ったのは、ハンス・ヨアヒム・カウフマン(京響第2代常任指揮者)指揮の京都市交響楽団であった。1962年5月23日のことである。
1977年に初稿が日の目を見て高く評価され、4、5年前にデ・フリーントは知り合いから、「ブルックナーの交響曲第3番の初稿を知っているか?」と言われ、「初稿の存在は知っているけれど」と答えたが、いざ初稿のスコアを見てみると強く引き込まれるものがあったという。

 

今日のコンサートマスターは、京響ソロコンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。ドイツ式の現代配置での演奏である。ティンパニが2種類用意されていて、シューベルトではバロックティンパニが、ブルックナーではモダンティンパニが共に中山航介によって叩かれた。
首席客演ヴィオラ奏者は、安藤裕子。

デ・フリーントは背が高いため、指揮台を用いずノンタクトでの指揮である。総譜は随時確認する。

 

シューベルトの交響曲第4番「悲劇的」。私はヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデンによる「シューベルト交響曲全集」(ドイツ・シャルプラッテン)でよく聴いている。ということでブロムシュテット繋がりの2曲である。
デ・フリーントが生み出す演奏はピリオドを援用しており、ブロムシュテットのものとは趣が異なる。毒のある音楽を生み出したシューベルトであるが、ピリオドで聴くと力強さの方が印象的になる。ただ時折現れる狂気のようなものが、あちらの世界の音楽のような印象を強くする。
ピナ・バウシュだったか、ドイツのダンスカンパニーがこの曲を効果的に用いていたのを覚えている。
19歳で悲劇的な音楽を書こうと思ったシューベルトの真意は今となっては分からないが、異色の生き方をした作曲家であるシューベルトの一面を知ることが出来る。「悲劇的」というより鬱のような曲想の部分があり、やがて焦燥へと変わる。間違いなく天才作曲家であるシューベルトであっても若き日にこれほど追い詰められているかのような曲を書いていることは、多くの人々の慰めになるかも知れない。
弦楽のビブラートであるが、完全ノンビブラートではなく、旋律の始まりの部分などにビブラートを掛ける傾向のあることが見て取れた。
プレトークで、デ・フリーントが、「終わった時に拍手が来るかも知れない」と語った第3楽章は短いものである。
左右の手を交互に挙げて、泳いでいるかのような仕草をしたデ・フリーントの指揮姿はユニークであった。

 

ブルックナーの交響曲第3番(初稿)。初稿の実演に接するのはブロムシュテット以来2度目である。やはり長く、同じような旋律が何度も繰り返されたり、かと思ったら本道をそれて脇道を延々と進んだりと、バランスはやはり良くない。戸惑う人が多かったというのもよく分かる。
冒頭はミステリアスであり、「まっとうな精神ではないのではないか」という危うい感じを受ける。一方で、ブルックナーの交響曲の中でも最も格好良い冒頭であるとも思える。
ワーグナーの引用としては、第2楽章に出てくる「タンホイザー」からの引用が最も分かり易い。この時期、ウィーンではエドゥアルト・ハンスリックという大物音楽評論家がブラームスを崇拝し、ワーグナーを否定するということが起こっていた。ワーグナー崇拝者であったブルックナーは当然、評価を得られない。そのワーグナーであるが借金踏み倒しに始まり、自身のファンだったルートヴィッヒ2世王をたぶらかして自身の作品上演のためだけの劇場をバイロイトに作らせるなど、作曲家としては歴史に残る存在だったが人間としては褒められた人ではなかった。ブルックナーがワーグナーから離れたのも、ワーグナーの性格によるところが大きかったのか。
そんなワーグナーの旋律を取り入れた初稿。急に別世界が現れるようで、面白さと違和感の両方を覚える。
これまで聴いてきて「長い」としか感じられなかったブルックナーの交響曲第3番(初稿)であるが、ミニシカゴ交響楽団のような輝かしく陽性なブラスの威力、残響が長く、音が美しいまま天井に留まっている京都コンサートホールの響きなどがプラスになり、今日は「長い」と感じずに聴くことが出来た。失敗を重ねた作品だが、ブルックナーだけに時折、神々しい旋律が顔を覗かせる。
ブルックナーの曲はゲネラルパウゼ(ブルックナーの場合は特に「ブルックナー休止」とも言う)が特徴なのだが、交響曲第3番(初稿)は特にブルックナー休止が多い。ブルックナーの演奏に京都コンサートホールは向いているようである。デ・フリーントは時折、天井を見上げる仕草をしていたが、京都コンサートホールの響きの特性に感心していたのかも知れない。

 

なお、天井からマイクが下がっていたほか、舞台上にも本格的なマイクセッティングがあった。どちらか、あるいは両曲をライヴ録音しているのかも知れない。

Dsc_9612

| | | コメント (0)

2026年2月13日 (金)

コンサートの記(947) 広上淳一指揮京都市交響楽団第707回定期演奏会

2026年1月23日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第707回定期演奏会を聴く。

京都コンサートホールの周りには雪の固まりが残っている。京都の中心部では降らなかったが、北山では雪が降ったのかも知れない。北山近辺の道は濡れていなかったが、北大路通は濡れているところもあった。京都はほんの少し違っただけで天気が変わるため、一口に「京都市の天気」と言えないところがある。

今日の指揮者は、「京都市交響楽団 広上淳一」という肩書きの広上淳一。

曲目は、準オール・アメリカ・プログラム。レナード・バーンスタインの「スラヴァ!(政治的序曲)」、バルトークのピアノ協奏曲第3番(ピアノ独奏:三浦謙司)、コープランドの交響曲第3番。
有名曲がないため(バルトークのピアノ協奏曲第3番は、強いて言えばバルトークのピアノ協奏曲の中では有名な方)客の入りは悪く、おそらく半分行っていない。1席の前の方と2階席と3階席のステージ脇両サイドは人がいるが、他は入っていない。

 

6時30分頃から、広上淳一と京響ゼネラルマネージャーの森貴之によるプレトークがある。森が、「雪が降ったところの皆さん、大変なところをよくぞお越し頂きました」と述べたため、北山や北大路以外にも雪が降ったところがあることが分かる。
広上は、「死にかけた」という話をする。大晦日に家族で伊豆高原に旅行に行き、ビール3杯などを飲んで風呂に入ったところ意識をなくし、奥さんが気付いて救急車を呼んで助かったという。医者に「こっぴどく怒られました」だそうで、「皆さん、お酒飲んで風呂に入ったら駄目ですよ」と語った。奥さんからも「こんなところから葬式出すの嫌だからね」と言われたそうである。
そして家に戻って、沖澤のどかが「ボレロ」を振るカウントダウンに間に合ったそうである。

レナード・バーンスタインの「スラヴァ!(政治的序曲)」もコープランドの交響曲第3番も政治色が強い曲目である。
「スラヴァ」は、チェリスト&指揮者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチの愛称である。彼がソ連からの亡命に成功し、ワシントンD.C.のナショナル交響楽団の音楽監督に就任したのを記念してバーンスタインが書いたものである。バーンスタインによる選挙大会の政治演説や聴衆の歓声が録音で流される。
コープランドの交響曲第3番は、第4楽章に「市民のためのファンファーレ」が流れるのだが、この曲は指揮者のユージン・グーセンスが1942年8月に「アメリカの戦争遂行の愛国的なファンファーレ」として18人の作曲家に依頼したファンファーレの一つであるため、広島のようにアメリカによる甚大な被害を受けた街では「市民のためのファンファーレ」もコープランドの交響曲第3番も演奏出来ないそうである。
バルトークのピアノ協奏曲第3番のソリストである三浦謙司に関しては、「ベルリンに住む上手いピアニスト」と語っていた。
京都市交響楽団の成長については広上は、コンセルトヘボウ・アムステルダム(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)、チェコ・フィル、フィンランドのラハティ(交響楽団)、スウェーデン放送響、バンベルク交響楽団に似たオーケストラになったと語るが、これはあくまでも広上が振った時。指揮者によって音が変わる。そういう意味では広上淳一と沖澤のどかは対極にいる指揮者かも知れない。鬼束ちひろが、「音楽性は生まれた土地の気候によって決まる」と若い頃に記していたが、東京生まれの広上と青森生まれの沖澤とでは音楽性が違ってくるのは当たり前かも知れない。

 

今日のコンサートマスターは「組長」こと石田泰尚。フォアシュピーラーに泉原隆志。ドイツ式の現代配置による演奏である。客演首席ヴィオラ奏者には新日本フィルの森野開、客演首席チェロ奏者には新日本フィルの櫃本瑠音(ひつもと・るね)、首席客演トロンボーン奏者には都響の風早宏隆。風早という苗字はマンガ・映画「君に届け」で有名になっているが、風早氏は本流は数少ない平氏系の公家である。京都市内に風早町という住所があるが、御所近辺の公家街に移る(移される)まではその近辺に屋敷を置いていた公家だ。風早宏隆がどこまで公家の風早氏と近いのかは不明である。
コープランドの交響曲第3番は、大編成であり、打楽器に客演奏者がずらりと並ぶ。

 

バーンスタインの「スラヴァ!(政治的序曲)」。広上はバーンスタインに直接指揮を学んでいる。今の時代には巨匠にして教育者という指揮者は少ない。良き時代に教育を受けたと言える。
「スラヴァ!(政治的序曲)」は、ドイツ・グラモフォンから、作曲者がイスラエル・フィルを指揮した録音が出ているが、今は積極的にイスラエル・フィルを聴きたいという状況ではない。ただ広上と京響の演奏の方がバーンスタインらしさがはっきり分かる。バーンスタインは優れた指揮者であったが、音楽にのめり込みやすいという性格であり、客観的に彼の音楽を聴きたいのなら他の指揮者による演奏を選んだ方が良いのかも知れない。幸い弟子は数えられないほどいる。
甘く澄んだ弦、輝きのあるブラス、抜けの良い音など、広上の良さが十全に出ている。
エレキギターが浮かび上がるなど、いかにもバーンスタインらしい曲想(エレクトリックギター演奏:山田岳)。最後は、楽団員の「スラヴァ!」の言葉で締める。これはロストロポーヴィチの愛称であると同時にロシア語で「栄光あれ!」の意味を持つ。

 

バルトークのピアノ協奏曲第3番。ハンガリーを代表する作曲家であるバルトークであるが、ナチスの台頭を嫌い、アメリカに亡命する。しかしアメリカの水が合わなかったようで、引きこもりのようになり、作曲よりも民族音楽研究に取り込むことが多くなる。ただこれでは音楽で稼ぐことは出来ない。見かねたボストン交響楽団の音楽監督であるセルゲイ・クーセヴィツキーが作品を依頼。出来上がった管弦楽のための協奏曲はバルトークの代表作の一つとなった。だが白血病を患い、気難しい性格が災いして対人関係に悩むなど、最後までアメリカになじむことはなかった。最後は服装も浮浪者のようになって、デイヴィッド・ジンマン少年に石を投げられる(直接投げつけたという話と、住んでいる家の窓にぶつけたという話があり、どちらなのか、あるいは両方なのか不明)など惨憺たる有り様で、在米5年で他界している。
ピアノ協奏曲第3番は、バルトークのアメリカ時代の作品である。

ソリストの三浦謙司は、1993年、神戸生まれのピアニスト。13歳で英国政府奨学金を得てロンドン・パーセル・スクールに入学。2011年からはベルリン芸術大学で学ぶも、翌年に中退。日本で様々な仕事をしながらボランティア活動を行う。2014年に再び渡独。ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンに入り、卒業後は同校の教員としても活動している。第4回マンハッタン国際音楽コンクール金賞受賞、第1回Shigeru Kawai国際ピアノコンクール優勝。スタインウェイコンクールベルリン第1位、2019年のロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門優勝及び3つの特別賞を獲得して名を挙げている。

ジャネットにネクタイ姿で現れた三浦。右肩を落として構える癖のあるピアニストである。広上指揮の京響が奏でる伴奏であるが、昨日聞いた歌劇「青ひげ公の城」とは明らかに異なる洒脱でモダンな響きがする。バルトークがアメリカに滞在した月日は短かったが、アメリカ的なるものを確実に吸収していたことが分かる。単に引きこもっていただけではなかったようだ。
三浦の難所も軽やかに乗り越えるピアノも聴き応えがある。クリアな音色も魅力的だ。
バルトークもアメリカの影響を受けた、あるいは受けざるを得なかったことが分かる楽曲でもある。

三浦のアンコール演奏は、シューマンの「子供の情景」から“詩人のお話”。技巧的には平易な曲で、あるいは私も昔弾いたことがあったかも知れない。
「子供の情景」も決定的名盤が存在しない楽曲である。そもそも録音が余り多くない。個人的に好きなのは、録音は古いがホロヴィッツ盤。こんな小品集であってもホロヴィッツのひらめきは冴えている。アルゲリッチ盤は彼女にしては大人しいが、そもそも彼女に向いている楽曲ではないような気がする。

 

コープランドの交響曲第3番。コープランドは同性愛者、バーンスタインは両性愛者で、二人は短い間だったがパートナーであった。バーンスタインに指揮者になるよう進言したのもコープランドであったと言われる。
それはそれとして、コープランドの交響曲第3番は大傑作である。いかにもアメリカ的な広がりとノスタルジアを兼ね備えた旋律が巨大なモニュメントを打ち立てていく。
京響が奏でる音はたおやかで立体的であり、印象派に影響を受けたと思われるグラデーションも美しさに満ちているが、楽章が進むにつれて大音響へと変わっていく。最後列にずらりと並んだ打楽器群が進軍を後押しする。ピアノ、チェレスタ、2台のハープなども威力を加える。
第4楽章に「市民のためのファンファーレ」が登場。この曲は、広上が京響の常任指揮者に就任して初めてのコンサートの第1曲として演奏したものである。そんなことも思い出しつつ、強烈な音を堪能する。
東にN響あれば西に京響あり。広上と地元オーケストラの実力を堪能した夜であった。

Dsc_9554

| | | コメント (0)

2026年1月28日 (水)

コンサートの記(943) ミコラ・ジャジューラ指揮ウクライナ国立歌劇場管弦楽団・合唱団 ベートーヴェン「第九&運命」@京都コンサートホール

2026年1月15日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団・合唱団 ベートーヴェン「第九&運命」を聴く。

膠着状態が続くロシアとウクライナの戦争。ウクライナの男性バレリーナが軍服を着て前線に立つ姿が新聞に載ったりしたが、かつてG8に入っていたロシアに比べるとウクライナは財政面で弱い。戦闘が長期化すれば尚更、というわけで、前線にいた男性バレリーナも戻ったのかどうかは分からないが、豊かな土壌を持つウクライナの音楽で外貨を稼いだ方が、バレリーナを前線に送るよりも有効ということで、ウクライナ国立歌劇場が日本で引っ越し公演、それもバレエ(ウクライナ国立バレエ。旧キエフ・バレエ)、オペラ(ウクライナ国立歌劇場。旧キエフ・オペラ)、コンサート(ウクライナ国立フィルハーモニー交響楽団。旧キエフ国立フィルハーモニー交響楽団)と全てを行う音楽の吶喊作戦である。

今回の京都でのコンサートは、ウクライナ国立フィルハーモニー交響楽団名義の方が適当なのかも知れないが、第九にウクライナ国立歌劇場合唱団が加わるため、全て含めてウクライナ国立歌劇場管弦楽団・合唱団にしたのであろう。

 

京都市の姉妹都市であるキーウ。ということで、以前にもキエフ国立フィルハーモニー交響楽団時代のウクライナ国立フィルハーモニー交響楽団が京都コンサートホールで演奏会を開いたことがある。その時は、19世紀のヴァイオリン技法を今に伝えるイヴリー・ギトリスが主役であり、ギトリスがカーテンコールにも登場したほどだったが、キエフ国立フィルの質も高かった。なんだかんだでソ連は音楽に力を入れていた。

その時の指揮者は、ミコラ・ジャジューラであったが、今回もジャジューラが指揮する。ジャジューラは、1961年、キーウ生まれ。チャイコフスキー記念キエフ(キーウ)国立高等音楽院でボン・ベートーヴェン管弦楽団の音楽監督としても活躍したローマン・コフマンに師事。1989年から正指揮者としてキエフ国立歌劇場での仕事を始めている。その後、2011年に同団体の音楽監督兼首席指揮者に就任。キエフ国立フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者兼芸術監督には1996年に就任している。
東京国際音楽コンクール・指揮部門(現・東京国際指揮者コンクール)とブダペスト国際指揮者コンクールで入賞(無料パンフレットにはいずれも「優勝」とあるが誤り)。タングルウッド音楽祭で小澤征爾に師事し、レナード・バーンスタインとアンドレ・プレヴィンにも学んでいる。
国外では、韓国のソウル市交響楽団の音楽監督を務め、韓国国立オペラとも仕事をしている。
2005年に、フランス共和国文化勲章を受章。
今日は譜面台を用いず、2曲とも暗譜での指揮である。

 

ウクライナ国立歌劇場管弦楽団(ウクライナ国立フィルハーモニー交響楽団)は、1834年創設と歴史は長い。チャイコフスキーを招いて彼のオペラ(「エフゲニー・オネーギン」、「スペードの女王」など)を彼の指揮で自作自演したりもしている。20世紀に活躍したソ連の作曲家の多くが自作を指揮をした経験があり、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場、モスクワのボリショイ劇場に次ぐ実力と評価された。

 

曲目は、タイトル通り、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第9番「合唱付き」であるが、どちらかだけでも難曲なのに、2曲連続上演とはかなりのスタミナである。このコンサートだけならまだしも、まだ他の場所でオペラやバレエを上演するのである。タフとしか言い様がないが、これが戦争状態にある国の現実なのかも知れない。

 

チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置での演奏。ティンパニは視覚面もあって、指揮者の正面ではなく、下手端に位置する。

 

ベートーヴェンの交響曲第5番。フェルマータは短めである。1回目より2回目の方が短い。ジャジューラは2回目のフェルマータを左手で切る。
弦のビブラートは、音を伸ばすときだけに使用。ピリオドを意識した演奏である。そのためか、テンポは一貫して速め。特に第4楽章はかなり速く、ピッコロ奏者がもたつきそうになったが何とか持ち直した。そのピッコロの音型からベーレンライター版使用だと思われる。
第2楽章などは様々な音が鳴り響いており、西欧とも日本とも違った大地の響きである。ティンパニはモダンティンパニだったが(バロックティンパニを使いたくとも今回の演奏のためだけに持ってくる訳にもいかないだろう)、硬めの音で強打を見せ、この曲が初演されたときに聴衆が感じたであろう異様さがなんとなく感じ取れる。

 

ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」。ウクライナ国立歌劇場合唱団は上段に男声歌手達が、下段に女声歌手達が並ぶ。女声歌手達は全員、ウクライナの民族衣装を纏っている。男声歌手達は燕尾服姿。
ソプラノ独唱:リリア・グレヴツォヴァ、メゾ・ソプラノ独唱:アンジェリーナ・シヴァチカ、テノール独唱:ドミトロ・クジミン、バス独唱:セルゲイ・コヴニール。ウクライナ人は男性の平均身長が高いため、本当のバス歌手がいる。日本人男性は白人に比べると平均身長が低いため、低い声は出ず、本物のバスはいないと言われる。バスとして活躍している日本人も白人に比べるとバリトンになるらしい。昔、黛敏郎が司会をしていた頃の「題名のない音楽会」で、「テノール馬鹿にバリトンすけべ」という言葉が紹介されているが、ここでも日本人男声歌手の低音の代表がバスではなくてバリトンであることが分かる。

日本と違い、頻繁に第九が演奏される訳ではないので、独唱者も合唱団も全員譜面を見ながらの歌唱である。「独唱者も合唱団も全員暗譜で“歓喜に寄す”を歌う国がある」と知ったら向こうの人は驚くのではないだろうか。

ジャジューラは、この曲でもピリオド援用で、テンポは速めである。冒頭のヴァイオリンはノンビブラートで音を切りながら進む。ただ第3楽章では、弦楽器奏者の多くがビブラートを用いるなど、曲調に合わせて使い分けているようである。
速めのテンポにも関わらず、ずっしりとした手応えのあるベートーヴェン。普段、日本のオーケストラで洗練されたベートーヴェンを聴いているため、余計にパワー重視の演奏に聞こえる。
第2楽章も、ウクライナ紛争が頭にあると、戦場の音楽に聞こえてくる。前線の進軍の音楽だ。
一方で、第3楽章はロマンティックというよりも癒やしの音楽。戦勝の夢を見て目覚めるかのようだ。

第4楽章。この楽章にしか登場しない打楽器3人(シンバル、トライアングル、大太鼓)は板付き。合唱も板付きで。独唱者は第2楽章と第3楽章の間に登場した。
独唱者も合唱団もかなりパワフルで、天井の高い京都コンサートホールに声が留まる。
洗練されている訳ではないが、「歓喜に寄す」を歌うにはこれほどのパワーがやはり必要になるのかも知れない。欧米の古いホールなどはステージが狭いので合唱団も限られ、一方、日本はステージが広めなので大人数の合唱を載せることが可能だが、個々のパワーでは、日本人の歌手はウクライナ人歌手に勝てそうにない。体格が違う。
合唱もオーケストラの音も巨大な音の塊としてホールを満たしていた。

今、ウクライナ国内で第九を歌うことは無理なのかも知れない。だがいずれ来るウクライナで第九が上演する日を先取りして聴いているような気分になった。

カーテンコールでは、テノールのクジミンとバスのコヴニールが掲揚サイズのウクライナの国旗を掲げる。

 

なお、ウクライナ国立バレエ芸術監督で「情熱大陸」にも出た寺田宜弘の母親である高尾美智子(寺田バレエ・アートスクール校長)が逝去したということで、寺田宜弘が演奏開始前に舞台上に登場して、この公演が「寺田バレエ・アートスクール 高尾美智子先生追悼公演」となることを告げる。

ホワイエではウクライナの民芸品が売られ、高尾美智子の展示も行われていた。

Dsc_9505

| | | コメント (0)

2025年12月30日 (火)

コンサートの記(935) 沖澤のどか指揮 京都市交響楽団特別演奏会 第九コンサート 2025

2025年12月28日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団特別演奏会 第九コンサートを聴く。指揮者は京都市交響楽団第14代常任指揮者の沖澤のどか。沖澤が京響の第九に登場するのは今回が初めてである。

ドイツ式の現代配置をベースにした配置だが、中央(第2ヴァイオリンとチェロの背後)に木管楽器が陣取り、その後ろの階段状の台に合唱団が乗る(合唱は京響コーラス。上手側が男声、下手側が女声である)。金管楽器が下手寄りに斜めに並び、下手奥隅に中山航介が叩くティンパニがある。ティンパニは見た目では分からなかったが、音を聴いてバロックティンパニだと確認出来た。木のバチ、先端に毛糸を巻いたマレット、両方を使用。上手寄り、チェロの奥にはファゴット群が布陣する。
ステージを擂り鉢状にしての演奏である。

コンサートマスターは京響ソロコンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。フォアシュピーラーに泉原隆志。客演首席ヴィオラに笠川恵(かさかわ・めぐみ)、客演首席トロンボーンには吉田英恵(はなえ)。
今年は第九1曲勝負である。ソプラノ:嘉目真木子(よしめ・まきこ)、メゾ・ソプラノ:小泉詠子(えいこ)、テノール:小原啓楼(おはら・けいろう)、バリトン:山本悠尋(ゆきひろ)。今年は読みにくい名前の人が揃う。

沖澤のどかの指揮であるが、各楽章の冒頭は中庸でも自然にスピードアップしていくのが特徴。第3楽章では特にこの傾向が顕著であった。
第1楽章であるが、スケールを拡げずスマートなフォルム。転調の時のティンパニも抑え気味だったが、ティンパニも徐々に強打させることが多くなっていく。
第2楽章も適度に揃えたアンサンブル。アンサンブルを徹底して磨くと宇宙の鳴動のように聞こえる音楽だが、沖澤はそこまでせず、人間ドラマの側に立った第九を描き出す.
第2楽章の終わりを、沖澤は、広上淳一や川瀬賢太郎が行ったように柔らかな音で締める。

音色であるが、やはりいつもの京響とは違い、旧東独のオーケストラのような燻し銀の響きを出していた。ベルリン・フィル・カラヤン・アカデミーで学び、ベルリン・フィルの芸術監督であるキリル・ペトレンコのアシスタントを務めた沖澤だが、インターナショナル化したベルリン・フィルの響きよりも、よりドイツ的な響きを理想としているのかも知れない。ドイツの東西分裂は悲劇だったかも知れないが、結果として旧東独の地域にはドイツのローカルな響きが残ることになった。
広上淳一が指揮する京都市交響楽団は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のような響きだが、沖澤のどかが紡ぎ出す京響の響きはライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に近くなる。指揮者が変わるだけで、音色がここまで変わるというのも興味深い。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮のCDで何度も聴き、横浜で耳にしたあの音を今ここで聴いているような気分。

京響コーラスは板付き。独唱者とフルートのサード(ピッコロ)、ティンパニ以外の打楽器は、第2楽章終了後にステージに登場する。

第3楽章もロマンティシズムより見通し重視の美演。ドラマよりも音にものを言わせる演奏である。
第4楽章。沖澤は第3楽章が終わるとアタッカで突入する。低弦のエッジが立っているのが特徴である。8分の6拍子のクライマックスの部分は4つ振りと2振りで処理する。
ここでもスケールよりは造形美重視。テンポは速いが勢いで突き進むタイプの第九ではない。神がベートーヴェンを通して書いたような第九の演奏もあるが、今日はあくまでもベートーヴェンという人間による人間讃歌だ。

ヴァイオリン、ヴィオラ、ティンパニにこれまで聴いた第九とは異なる部分があったので、「ブライトコプフ新版かな?」とも思ったが、沖澤が最後に掲げた総譜の表紙は茶色だったため、ベーレンライター版であった可能性が高い(オーケストラのライブラリアンなどが表紙にカバーを掛けてしまう場合があるので実際には分からない)。他の指揮者が採用しないベーレンライター版の部分を採用したのだろうか。付け加えたという部分はヴィオラを除いてはないと思う。なお、ラストのピッコロは一般的なベーレンライター版での演奏と比べて控えめであった。


今日の京響の響きをライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に例えたが、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団といえば年末の第九の元祖。擬似ライプツィッヒ気分である。

Dsc_9395

| | | コメント (0)

2025年12月14日 (日)

コンサートの記(932) ジャン=クリストフ・スピノジ指揮 京都市交響楽団第706回定期演奏会

2025年11月29日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第706回定期演奏会を聴く。指揮は、ジャン=クリストフ・スピノジ。

ジャン=クリストフ・スピノジ。いかにもベートーヴェン好きになりそうな名前であり、フランス・コルシカ島出身ということでナポレオンと同郷である。ベートーヴェンは「ウェリントンの勝利」を書いているけれども。
詳しい経歴などは無料パンフレットには載っていないが、クラシック音楽における「アンファン・テリブル(恐るべき子ども)」と呼ばれていたり、「並外れたリズム感と身体能力を持ち合わせた。音楽家=振付師」と称されてもいるようだ。

2007年に自ら組織したアンサンブル・マテウスと共にシャトレ劇場で珍しいものも含むオペラをいくつも上演。客演指揮者として、ベルリン・ドイツ交響楽団、パリ管弦楽団、hr交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、ウィーン交響楽団などと定期的に共演し、2021年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台にも立っている。

開演30分前からプレトークがあるが、スピノジは、フランス語で比較的長めのトークを行っていた。事前に打ち合わせはしていたと思うが、通訳泣かせではある。内容は楽曲の解説が中心。「田園」交響曲については、日本人の独自の自然観についても述べていた(私の認識とは多少異なっていたが)。

 

曲目は、ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」、ハイドンの交響曲第82番「熊」、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」

 

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の町田琴和(まちだ・ことわ。女性)が客演コンサートマスターとして入る。町田姓は圧倒的に鹿児島県出身者が多いのだが、彼女は東京生まれのようである。ちなみに私には京都出身の町田姓の友人が二人いる。
フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に石橋直子、チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。管の首席奏者の大半はベートーヴェンのみの出演である。クラリネット首席の小谷口直子は、老眼鏡をかけて出演した。私も近頃は老眼に悩むようになっている。

チェロが客席側に来るアメリカ式の現代配置での演奏。実のところ、ドイツ式の現代配置でもアメリカ式の現代配置でも大した違いはないとこれまでは思ってきたが、「田園」交響曲を聴いてその認識が誤りであることが分かった。

 

指揮台の前に譜面台はなく、スピノジは全て暗譜によるノンタクトでの指揮を行う。拍を刻むことは稀で、基本的には音型を両手で示してみせる。

 

ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」。ピリオドによる弦楽の響きの透明さがプラスに働き、管も快活で楽しい演奏になる。

問題はここからである。
ハイドンの交響曲第82番「熊」。最近、熊が日本のあちこちに出没しているが、「タイムリー」などとは言えないタイトルである(後記:令和7年の今年の漢字は「熊」に決まった)。タイトルの由来はよく分かっていないが、第4楽章の音型が熊の鳴き声に聞こえた説などがある。ハイドンによる命名ではない。

ロッシーニにはティンパニのパートがなく、この曲から中山航介がバロックティンパニを担当するが、ティンパニは指揮者の真正面ではなく、後列の中で一番上手寄りに陣する。

交響曲第82番「熊」は、ロヴロ・フォン・マタチッチがNHK交響楽団の定期演奏で取り上げたときの放送用音源がCD化されているので、それで親しんだ人も多いかも知れない。
だが、スピノジの「熊」は一般的な「熊」交響曲とは別物。緩急、強弱の幅が著しく、「これが俺の考える『熊』だ!」と思い切り提示してみせる。常日頃の京響では追いつけない解釈で、そこでスピノジと共演経験のある町田琴和が客演コンサートマスターとして呼ばれたのだろう。

かなり即興的であり、再創造的であるが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどは「音楽は即興的でなければならない」と考えており、同じ演奏は二度としなかったし、朝比奈隆もその時々によって演奏を変えていた。だからスピノジが前例のないことをした訳でもない。

良い演奏かどうかは人によって意見が分かれると思うが、私は、「遊んでるな」と微笑ましく見ていた。

ハイドンは交響曲第90番で、「全曲終わったと見せかけてまだ終わってない」を繰り返すのだが、スピノジは「熊」で同じことをやる。勿論、スピノジが切ったところで曲が終わるわけはないのだが、客席からは、「クレイジー!」という言葉が飛び(演奏中に言葉が飛ぶのはかなり珍しい)、演奏が終わってからはブーイングも響いた。

ハイドンは古典派なので、格調高く演奏すべきという考えは分かる。ただそうした考えがハイドンの人気を下落させ、ピリオド・アプローチが盛んになってから復活したということを考えると、「べき」演奏は作曲家の魅力を下げることに繋がらないと言い切れるだろうか。

 

ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。

第1楽章はやはり緩急を付けた演奏。同じフレーズでも急に遅くなったり速くなったりアゴーギクを多用する。ゲネラルパウゼも長め。この楽章ではそうする必要を強くは感じなかったが、第2楽章ではほぼインテンポによる細やかな演奏を聴かせる。小川のせせらぎを描いているのでそんなに急に遅くなったり速くなったりする訳はない。
第3楽章は「風景」よりも「心情」を表出。沸き立つ気分が描かれる。そして「嵐」であるが、ここで客席側に配置されたチェロがエッジの立った音を聴かせる。チェロは音が前に飛ぶ楽器なので、ドイツ式の現代配置のようにオーケストラの内側にあった方が有利なような気がするのだが、アメリカ式の現代配置のように指揮者のすぐ横にあった方が操りやすい。ストコフスキーも単に録音用に配置をした訳ではないようである。
第1ヴァイオリンの響きも電光を表していることがいつも以上によく分かる。
そして「嵐」のラストの方は引き延ばされ、嵐が去って行く様が描かれる(実際、第5楽章に入る直前までチェロは雷鳴の響きを奏で続けている)。
第5楽章は非常に明るい演奏であるが、最後の方で、「ここから去りたくない」というメッセージをスピノジは見つけていた。

 

老年になると穏健派になってしまう指揮者も多いが、スピノジにはこれからも暴れまくって欲しいものである。

Dsc_9195

| | | コメント (0)

2025年11月 3日 (月)

コンサートの記(929) パスカル・ロフェ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会2025

2025年10月19日 京都コンサートホールにて

京都コンサートホールまで、大阪フィルハーモニー交響楽団の京都特別演奏会を聴きに出掛ける。午後3時開演。

まず事務局長の福山修さんにトーマス・ダウスゴーがピリオドを習ったのはノーマン・デル・マーとフランコ・フェラーラの二人からである可能性が高いことを伝える。

今回の指揮者は、お馴染みのパスカル・ロフェ。音楽に没入するレナード・バーンスタインの対極に位置する、作品をいったん突き放して解析するタイプの指揮者である。2022年からはクロアチア放送交響楽団の音楽監督を務めている。
アンサンブル・アンテルコンタンポランを指揮していた時代にピエール・ブーレーズの指揮に影響を受けたことは明白で、指揮棒は持たず、総譜を読みながら指揮する。ブーレーズは指揮棒否定派で、記者から「オペラの際は、白い指揮棒が光って歌手から見やすいという声がありますが」との問いかけに、「そんなことはありませんよ」と一笑に付し、総譜を短時間で記憶出来る能力がありながら、「暗譜は時間の無駄。その時間があるならレパートリーを増やしますよ」と話している。

フランスも指揮者不足だが、ベルトラン・ド・ビリーに次ぐ才能があるのがパスカル・ロフェであると思われる。ただ現状ではメジャーオーケストラのポストは得ていない。

 

オール・ブラームス・プログラムで、ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)と交響曲第4番が演奏される。

人気若手ヴァイオリニストの辻彩奈が出演するということもあってか中々の入りである。コンサートマスターは崔文洙。大フィルの基本であるドイツ式の現代配置での演奏である。なお、天井からデッカツリーが下がり、舞台上にも前半はマイクが何本も立っていたことから、ブラームスのヴァイオリン協奏曲のみ何らかの形で収録が行われることが分かる。京都コンサートホールは録音が難しく、広上と京響ほかのヴェルディ「レクイエム」や井上と京響のブルックナー交響曲第9番など、失敗録音が多いが大丈夫だろうか。辻彩奈は演奏終了後にSNSを更新し、CD用の録音であることを明かしている。

定期演奏会ではないということで、男性楽団員は背広にネクタイと燕尾服よりもラフな格好。女性奏者は普段通りのドレスで、指揮者のパスカル・ロフェはジャケットにノーネクタイでの指揮である。

 

今や若手のみならず、全世代を通して最も高い評価を受けているヴァイオリニストの一人となった辻彩奈。昨年、アクロス福岡シンフォニーホールでの九州交響楽団の定期演奏会でも聴いたが、オーケストラからも室内楽からも共演引く手あまたのようである。
1997年、岐阜県生まれ。YouTube番組での質問コーナーで、「岐阜の良いところはどこですか?」との質問に、「良いところかどうか分からないですけれど、夏は暑いです」と答えていて、「それ良いところじゃない」と突っ込みたくなった。昨年も同じことを書いたが、そんな子である。
2016年にモントリオール国際音楽コンクール・ヴァオリン部門で1位になり、他にも複数の賞を獲得。学費全額免除の特別奨学生として東京音楽大学付属高校と東京音楽大学を卒業。大学冬の時代にあって伸び盛りの東京音楽大学の象徴の一人ともなっている。

 

純白のドレスで登場した辻彩奈。体も小さめで華奢に見えるが、ヴァイオリンはスケール豊かで逞しい。
辻の良さはまず音の美しさ。音が結晶化されており、ちょっとした経過句であっても美音を保つ。力強いというほどではないが、ブラームスが書いた音楽の大きさも示してみせる。

ロフェは、ヴァイオリン協奏曲ではポケットスコアを見ながらの指揮。ロフェは眼鏡を掛けているので、「あんな小さい譜面で見えるのだろうか?」と疑問を覚えたが、普通に見ながら指揮をして、ページを繰っていた。

ドイツものに強い大フィル。音の密度も濃く、優れた伴奏である。

第2楽章の冒頭付近でオーボエソロが吹くメロディーをソリストは変奏された形で弾くのだが、その後のオーボエとヴァイオリンのやり取りも印象的である。
辻彩奈はロフェと再三アイコンタクトを行っての演奏。独奏だからということで自由に弾くのではなく、オーケストラと一体になった演奏を心がけているのだろう。

第3楽章は、辻とロフェ、大フィルの掛け合いでノリの良い演奏になった。
演奏終了後、辻はロフェと、コンサートマスターの崔とハグを行う。

 

辻のアンコール演奏は、スコット・ウィラーノの「アイソレーション・ラグ ~ギル・シャハムのために~」。昨年の福岡でのアンコールと同一曲目である。ジャジーな甘いメロディーも出てくるが、基本的には超絶技巧てんこ盛りの難曲で、左手ピッチカート、両手ピッチカート、左手でピッチカートしながら右手で弾いてすぐに右手ピッチカートなど恐ろしいほど高度な技術が立て続けに出てくる。
それでも見た目は楽しそうに演奏してみせた辻彩奈。これからも伸びていきそうだ。

 

ブラームスの交響曲第4番。人気曲だが、曲調が暗いことでも知られる。ブラームスはブルックナー同様、女性ファンが少ないことで知られるが、暗い作風の作品が多いのもその一因だろう。
脱線するが、村上春樹の『ノルウェイの森』のヒロインである直子が好きなのが、このブラームスの交響曲第4番で、書き手の僕(ワタナベトオル)は、ブラームスの交響曲第4番をメインにしたコンサートに直子を誘うのだが、当日、直子は会場に現れなかった。この曲を聴くたびにそれが思い起こされ、今日は「君の来ぬホールに響くブラームス第4番の音の夕暮れ」という短歌が浮かんだ。

ため息のように始まる第1楽章であるが、ロフェは冷静を保ち、感傷的にさせない。こうすることで主題が戻った時により寂寥感が増して聞こえる。
この楽章に限らず、ロフェが作る音楽には、終結部に明るさが感じられるものである。
虚ろな第2楽章もリアルな陰鬱さを感じるが同じ旋律でも明るさを感じさせるものもあり、大きな流れの中で一体となっていく。
やるせなさ漲るような第4楽章「パッサカリア(シャコンヌ)」も、葛藤を持って進む中に古典音楽への憧憬を忍ばせ、古典とロマン的な音楽の結合を企てているような趣がある。ロフェが突き放した解釈をするからこそ分かることだ。
ラストは「どうだ!」と見得を切るかのよう。単なる感傷に陥らない良いブラームスだ。

 

アンコール演奏は、ブラームスのハンガリー舞曲第1番。昔はブラームスの「ハンガリー舞曲」といえば第5番が定番だったが、ブラームス自身のオーケストレーションではないため、他の曲が演奏される機会の方が増えているように思う。第1番は、正真正銘、ブラームス本人による編曲だ。
ロフェと大フィルのハンガリー舞曲第1番は、ジプシー的なスウィング感こそなかったが、スマートで大フィルの機能美が生きた演奏となっていた。

Dsc_8964

| | | コメント (0)

2025年10月24日 (金)

コンサートの記(927) ジャン=エフラム・バヴゼ ピアノ・リサイタル「モーリス・ラヴェル生誕150年記念 ピアノ独奏曲全曲演奏会」@京都

2025年10月9日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて

午後6時から、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタ(通称:ムラタホール。ムラタは長岡京市の村田製作所ではなく京都市のムラテックこと村田機械のことである)で、ジャン=エフラム・バヴゼ ピアノ・リサイタル モーリス・ラヴェル生誕150年記念 ピアノ独奏曲全曲演奏会を聴く。文字通り、ラヴェルが作曲したピアノ独奏曲を一晩で演奏してしまおうという試み。上演時間は、アンコールと2度の休憩を含んで約3時間である。
3時間というのはピアノ・リサイタルとしては長いので、ラヴェルのファンしか集まらない。だが、まずまずの入りである。
ラヴェルのピアノ独奏曲全曲演奏会はもう一つ京都コンサートホールで行われていて、京都在住のロシア人ピアニストであるイリーナ・メジューエワが2回に分けてムラタホールで行う。2回に分けた方が聴きやすいので、メジューエワの方が人気が高いかも知れないが、バヴゼは本場フランス人ピアニストということでこちらを選ぶ人も多いはずである。おそらく両方に行くラヴェル好きも少なくはないはずである。

ジャン=エフラム・バヴゼは、パリ音楽院でピエール・サンカンに師事。1995年にサー・ゲオルグ・ショルティ指揮パリ管弦楽団の演奏会でデビュー。「ショルティが見出した最後の逸材」とも呼ばれた。ただ個人的には母国であるフランスのピアノ音楽に目覚めるのは遅く、三十代半ばになってからだそうだ。フランス人ピアニストだからフランス音楽を愛さなければならないなどいう法も規則もないので、それはそれで良いだろう。日本人だけれど、洋楽の方が好きという人も多いのだから。
ただ、バヴゼはラヴェルの音楽だけは若い頃から弾いており、共感を抱いてきたそうだ。

 

モーリス・ラヴェルは、ドビュッシーと同じ印象派に分類される作曲家だが、曲調はドビュッシーとは大きく異なり、響き重視のドビュッシーに対して、ラヴェルはメロディーラインも明確であり、初心者にはドビュッシーよりも取っつきやすい作風である。

 

曲目は、「グロテスクなセレナード」、「古風なメヌエット」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」、「水の戯れ」、ソナチネ、「鏡」、「ハイドンの名によるメヌエット」、「高雅で感傷的なワルツ」、「夜のガスパール」、「ボロディン風に」、「シャブリエ風に」、前奏曲(プレリュード)、「クープランの墓」

以前は、演奏家といえば、ドイツ人かフランス人。加えるにロシア人とイタリア人。イギリス人は古楽という感じだったのだが、ドイツとフランスは音楽大国からすでに脱落。めぼしい指揮者は一人ずつしかいないという状態で、器楽奏者も数が限られる。祖国の音楽を演奏や録音するアーティストが多いため、その国の音楽の知名度や人気が上がったが、ドイツもフランスも現状では苦しい。指揮者大国となったフィンランドは、出身指揮者が必ずシベリウスを演奏するため、「シベリウス交響曲全集」リリースラッシュが何年も続いている。アメリカ出身の指揮者も増えたので、アイヴスやレナード・バーンスタイン作品を耳にする機会が増えた。日本出身の演奏家も健闘しており、武満作品などは着実に演奏回数を増やしている。

そんな下り坂ともいえるフランスピアノ界であるが、フランス人ピアニストには他の国にはない特徴がいくつかある。どちらかといえば即物的な解釈、強く硬めのタッチ、ダイナミックレンジの広さなどで、いずれもエスプリ・ゴーロワに通じるものがある。
エスプリというと、典雅なエスプリ・クルトワがイメージされるが、もう一つエスプリ・ゴーロワがあり、野卑で力強く、豪放磊落というものである。フランス人トランペッターは力強く吹くので優れた奏者が多いと言われるのもエスプリ・ゴーロワによるものだろう。作曲に関してはエスプリ・クルトワ重視だが、演奏になるとエスプリ・ゴーロワが出てくるのが面白い。
ということで我々が思い浮かべる理想のフランス音楽の演奏はフランス人演奏家によるものでない場合が多い。フランス音楽演奏のスペシャリストであったエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団などいずれもフランス語圏ではあるがフランスの指揮者とオーケストラのコンビではない。彼らはエスプリ・ゴーロワの要素を巧みに薄めているため(あるいはフランス人ではないのでエスプリ・ゴーロワを身につけなくても良いため)、一般的にフランス的と思われる演奏が可能だったのだと思われる。サティのスペシャリストといわれたアルド・チッコリーニは甘美なカンタービレが特徴だが、チッコリーニはイタリアからフランスに帰化したピアニストで、カンタービレはイタリアの血が生んだものだ。純粋なフランス人ピアニストによるサティ演奏は案外素っ気ない。

と、長々書いたが、バヴゼのピアノもフランスの正統派で、これまでに書いた要素を全て含むが、日本人好みのラヴェル演奏家かというと人によるとしか書きようがない。

日本でも人気の「亡き王女のためのパヴァーヌ」も日本人ピアニストによるものよりも突き放した解釈で構造重視という印象を受ける。

「水の戯れ」は圧倒的なピアニズムが発揮され、水が鍵盤から溢れる様が見えるような演奏。5月に聴いたアルゲリッチの演奏を連想させる。

「鏡」はテクニック勝負。基本的にダンパーペダルは踏んだままで、音を濁らせたくない時だけ踏み換える。
オーケストラ曲としても親しまれている第4曲の“道化師の朝の歌”は白熱した演奏で、曲が終わった後に拍手が起こりそうになったが、バヴゼは右手の人差し指を立てて、「まだ1曲あるよ」と示し、笑いを誘っていた。第2部第3部ともに当初の曲目順から変更があるが、第2部は確かに「夜のガスパール」で終わった方がいいだろう。
「夜のガスパール」はオカルトな内容で、エドガー・アラン・ポーやモーパッサンなどが好きな人にお薦めの曲である。また筒井康隆がこの曲にインスパイアされた『朝のガスパール』を書いている。
超絶技巧が必要とされる曲だが、バヴゼは余裕を持って弾きこなしているように見える。

「ボロディン風に」はパストラル的、「シャブリエ風に」はワルツであるが、個人的には「亡き王女のためのパヴァーヌ」にも似たパストラルの方がシャブリエ的であるような気がする。

前奏曲は、初見で弾くための審査用に作曲された作品。技巧的には平易で、私も何度か弾いたことがあるが(初見では無理だった)、私が弾くときに「繊細に滑らかに詩的に」と心がけたものとは明らかに異なる、一音一音を大きな音で弾く「小さいが巨大な曲」として再現したのが面白かった。プロと比べるのも無粋だが、同じ音符を見て弾いているのにここまで違うとは。

ラストは「クープランの墓」。これもオーケストラ版で有名である。バヴゼのピアノからは、オーケストラ版からは聞こえない一種の切なさのようなものを感じた。フランス映画のラストによくあるあの切なさに似たもの。
音の透明度は高く、巨大な「クープランの墓」であった。

 

アンコール演奏は、「ラ・ヴァルス」ピアノ独奏版。低音から始まり、典雅なワルツが聞こえ始める。そして舞踏会は盛り上がるのだが……。
ラヴェルの曲は、「最後にとんでもないことが起こる」ものが多いが、「ラ・ヴァルス」もその1曲である。貴族階級の終わりを描いたのかも知れないが、こういうラストにした意図は不明である。

 

全てのプログラムが終わり、複数名がスタンディグオベーションを行うなど客席は沸き、バヴゼも満足そうな笑みを浮かべていた。

Dsc_8871_20251025001301

| | | コメント (0)

2025年10月10日 (金)

コンサートの記(923) ジョン・アクセルロッド指揮 京都市交響楽団第699回定期演奏会

2025年4月19日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第699回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は、元京都市交響楽団首席客演指揮者のジョン・アクセルロッド。
首席客演指揮者時代は、コロナ期と重なってしまったため、十分な活動を行えなかったが、渡航制限が続く中、首席客演指揮者としての任務を果たすため危険を冒して来日して指揮を行うなど、京都市交響楽団に貢献した。現在は、スイス国立管弦楽団音楽監督兼首席指揮者とルーマニアのブカレスト交響楽団首席指揮者を兼任している。
ハーヴァード大学音楽学部とサンクトペテルブルク音楽院に学び、レナード・バーンスタインとイリヤ・ムーシンに師事。出身地のヒューストンでは、当時、ヒューストン交響楽団の音楽監督だったクリストフ・エッシェンバッハに師事している。

曲目は、チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」(ソプラノ:森麻季)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。作曲家最後の作品が2つ並ぶという興味深いプログラムである(リヒャルト・シュトラウスは実際には「4つの最後の歌」の後にも曲を書いていたようである)。

今日は都合によりプレトークには間に合わなかった。

今日のコンサートマスターは、特別名誉友情コンサートマスターの豊嶋泰嗣。フォアシュピーラーに泉原隆志。ヴィオラの客演首席に大島亮。チェロの客演首席にルドヴィート・カンタ。ドイツ式の現代配置での演奏。トランペット首席のハラルド・ナエスは降り番。フルート首席の上野博昭はリヒャルト・シュトラウスからの、クラリネット首席の小谷口直子は「悲愴」のみの出演である。

 

チャイコフスキーの幻想序曲「ハムレット」。チャイコフスキーがシェイクスピアの作品にインスピレーションを受けた作品としては、某有名作にも影響を与えた「ロメオとジュリエット」が有名で、「ハムレット」は余り演奏されない。「ハムレット」を題材にした音楽を書くようチャイコフスキーに勧めたのは、弟のモデストで、プランも合わせて提示したのだが、作曲が行われることはなかった。その後、10年以上経ってから、フランスの俳優であるリュシアン・ギトリを招いてサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場で「ハムレット」の上演が企画され、チャイコフスキーが劇音楽を書くという企画が持ち上がる。上演は実現しなかったが、チャイコフスキーはこれを期に幻想序曲「ハムレット」を書くことになった。
ハムレットを表すと言われる重苦しい主題の後に、躍動感溢れる旋律が現れる。チャイコフスキーは具体的に何を書いたのかをほとんど書き記していないが、対比させるのだとしたらレアティーズだろうか。オフィーリアとフォーティンブラスの主題に関しては書かれているようである。
オーボエがジャズのスタンダードナンバー「枯葉」によく似た主題を吹くのが面白い。作曲されたのはチャイコフスキーが先である。この旋律は二度登場するため、おそらく何かもしくは誰かを表しているのだと思われるが、具体的に何を描いているのかは分からない。
アクセルロッドは優れたバトンテクニックを生かして、京響から輝かしくもドラマティクな音を引き出す。

 

リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。リヒャルト・シュトラウスが1948年に書いた最晩年の作品であり、評価は極めて高い。日本でもお馴染みのヘルマン・ヘッセの詩を用いているということでも興味深い曲である。

失敗したのは、ポディウム席を選んだため、森麻季の声が余り届かないということである。やはり歌曲の場合、声が届かないのでは書きようがない。ということで、この作品に関する批評は行わないこととする。

 

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。21世紀に入ってから大幅に解釈が変わった曲である。増田良介によるプログラムノートでは、自殺説について「否定されている」と書いているが、異様な構成は何らかの形で「死」を意識したものとして見た方が自然なように思われる。

アクセルロッドは、中庸のテンポでの演奏。「若く良き日の回想」のように甘美な第1楽章第2主題は、2度目をやや弱く演奏してメリハリを付ける。
第2楽章、4分の5拍子は、3拍子目を跳ね上げるように振ることで処理。4分の5拍子のワルツは、ロシアでは珍しくないようである。ただ曲調は第1楽章の「若く良き日の回想」を受け継いでいるようである。
第3楽章は4分の4拍子であるが行進曲風。アクセルロッドはの師であるレナード・バーンスタインは、この楽章の後に拍手が来るのを喜んだそうだが、現在は当時とは解釈が異なる。
威勢の良い曲調だが、やけになっているようにも聞こえる。交響曲第5番で、ベートーヴェンの運命主題を多用したチャイコフスキーだが、この楽章でも進もうとすると運命主題に似た音型が立ちはだかる。ラストのピッコロの狂騒はベルリオーズの幻想交響曲のようだ。
アクセルロッドは二度目のシンバルの後にテンポをグッと落とし、異様さを強調する。

最終楽章はそれほど慟哭は強調しないが、自然ににじみ出る哀感が伝わってくる演奏である。この楽章でも「若く良き日の回想」が形を変えて出てくる。これほど執拗に回想の趣が出てくるということは、「死」はやはり意識されていたものと見るのが自然である。もっとも、チャイコフスキーは交響曲第4番からの3つの交響曲全てで異様な緊張感と狂騒を書き続けており、「悲愴」を遺書のつもりで書いたのかどうかは分からない。
オーケストラを鳴らす術に長けたアクセルロッド。京響の機能美を上手く生かした演奏であった。

Dsc_83682

| | | コメント (0)

2025年10月 4日 (土)

コンサートの記(921) ヤン・ヴィレム・デ・フリーント指揮京都市交響楽団第703回定期演奏会

2025年8月29日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団の第703回定期演奏会を聴く。指揮は京響首席客演指揮者のヤン・ヴィレム・デ・フリーント。なお、今日付で、デ・フリーントの首席客演指揮者の肩書きが2028年3月31日まで延長となることが発表された。世界的な知名度こそ低いが、紛うことなき名指揮者であるだけに朗報である。現代音楽をプログラムに入れることの多い沖澤のどかと古典に強いデ・フリーントがいれば京響の更なる躍進は約束されたも同然であろう。

 

曲目は、ドヴォルザークの「ロマンス」(ヴァイオリン独奏:HIMARI)、ヴィエニャフスキの「ファウスト幻想曲」(ヴァイオリン独奏:HIMARI)、モーツァルトの「レクイエム」(ジュスマイヤー版)

プレトークでは、デ・フリーントは、ヴィエニャフスキがパガニーニを意識して作曲したということに振れたが、モーツァルトの「レクイエム」については、弟子ジュスマイヤーの補筆が上手すぎて、「モーツァルトが書いたとしか思えない」とデ・フリーントは語る。デ・フリーントはどうも複数の作曲家による補筆ではないかと考えているようだが、ウィーンではなくザルツブルクに曲想があって、補筆者はそれを取り入れたのではないかとの類推を行っていた。ただそれだと時間的には厳しい。そしてジュスマイヤーがモーツァルトの弟子というのは近年では否定されつつある。フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤーは一介の売れない作曲家であり、モーツァルトの妻であるコンスタンツェの不倫相手であった。モーツァルトの次男は実はモーツァルトの子ではなく、ジュスマイヤーとコンスタンツェの子で、モーツァルトはそれを察して、次男にフランツ・クサヴァーと命名している。
コンスタンツェは、「レクイエム」を完成させないと報酬を全額手に入れることが出来なくなるため、複数の知り合いの実力派作曲家を当たったが断られ、すぐそばにいたジュスマイヤーに補筆完成を頼んだのである。しかし、自身がジュスマイヤーの愛人というのは世間的に困る。またモーツァルトが最後の曲を妻の愛人に補筆完成させたとあっては世間体が悪い。そこでコンスタンツェは嘘をつき、ジュスマイヤーをモーツァルトの弟子としたのである。夫の弟子なら、コンスタンツェのすぐそばにいてもおかしくない。
その後、ジュスマイヤーは売れっ子になっていく。

 

天才ヴァイオリン少女として注目されているHIMARI。現在、14歳だが、すでにベルリン・フィルなど世界的名門オーケストラとの共演経験がある。11歳でフィラデルフィアのカーティス音楽院に史上最年少での入学。アメリカ国内やヨーロッパの名門オーケストラとの共演を重ねている。天才少女の登場ということで、チケットは完売である。

今日のコンサートマスターは、泉原隆志。フォアシュピーラーに、尾﨑平。ヴァイオリン両翼の古典配置をベースとしているが、中山航介君が叩くティンパニは上手端の一段高いところに置かれている。中山君の背後にもう一つ小型のティンパニがあり、モーツァルトで使われるバロックティンパニであることが分かる。
管の首席だが、フルート首席の上野博昭はヴィエニャフスキから、クラリネット首席の小谷口直子はモーツァルトのみの参加である。トランペット首席のハラルド・ナエスは降り番であった。客演首席ヴィオラ奏者に大野若菜、客演首席チェロ奏者に水野優也、客演首席トロンボーン奏者に清澄貴之が入る。

デ・フリーントは、背が高いということもあり、指揮台を置かずステージ上に直接立っての指揮である。ノンタクトであり、拍と音型の両方を表す時もある。

 

ドヴォルザークの「ロマンス」。HIMARIは、白いドレスで登場。透明感のある京響の伴奏を受けて、温かみのある音を奏でる。温かみがあるのにシルキーという非常に珍しいヴァイオリンを奏でる人だ。

ヴィエニャフスキのファウスト幻想曲では、一転して切れ味鋭い表現を聴かせる。音のパレットが非常に豊かという印象を受けた。京響もデ・フリーントの指揮の下、非常にアグレッシブな伴奏を聴かせた。

 

アンコール演奏は、イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番。ヴァイオリンで出来ることを極限まで突きつめたかのような曲だが、鮮やかに弾きこなしてみせる。

スタンディングオベーションを送る男性が何人もおり(女性はおそらくいない)。最前列の一人は、ステージ上のHIMARIに花束を渡していた。

さて今後であるが、一度、コンサートから距離を置いて練習とレッスンに励むのが良いと思われる。ユーディ・メニューインという神童ヴァイオリニストがいて、若い頃から世界中のオーケストラや名指揮者と共演し、リサイタルを開いたが、練習やレッスンに当てる時間がほとんどなくなったため、後年も有名ヴァイオリニストではあったが、超一流ヴァイオリニストには届かず、晩年は指揮者としての活動の方が増えていた。
諏訪内晶子はそうした先例を知っていたため、チャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で優勝した後もジュリアード音楽院での研鑽に没頭している。井上道義が、チャイコフスキー国際コンクール優勝直後に共演を申し出たことがあるそうだが、「私、勉強します」と首を縦に振らなかったという。

 

モーツァルトの「レクイエム」(ジュスマイヤー版)。合唱は京響コーラス。独唱は、石橋栄実(えみ。ソプラノ)、中島郁子(メゾ・ソプラノ)、山本康寛(テノール)、平野和(やすし。バス・バリトン)。
オーケストラ団員が黒の衣装なのは普通だが、京響コーラスも全員黒い衣装。指揮者のデ・フリーントも黒の上下で、男性歌手はタキシードだが、女性歌手二人も黒のドレスで喪服のようである。ということでステージ上が黒づくめになる。しかも独唱者は、舞台の中央におらず、男性歌手はステージ上手端、女性歌手は下手端に座っていて、独唱の時だけステージ中央に向かい、歌が終わったら去るということで、あたかもモーツァルトの葬儀に参列したような気分になる。
徹底したピリオド・アプローチであり、テンポもかなり速め、合唱が立体的で非常にうねりが強い。
最初の独唱者はソプラノの石橋栄実だが、喪服に似たドレスで下手端からゆっくり歩いて来て中央付近で歌うので、弔辞を行っているように見える。今月は広島交響楽団とマーラーの交響曲第4番のソリストとして全国を回った石橋栄実だが、その時とは大きく異なる、空気を切り裂くような鋭い歌声である。独唱者が歩んでは去るという光景が繰り返され、シアトリカルな演奏となった。
初めて接するピリオド・アプローチによるモーツァルトの「レクイエム」であり、デモーニッシュさが更に増した恐るべき音楽を聴くことになった。

演奏終了後、デ・フリーントは、下手の高くなった段の上を走って京響コーラスに近づき、健闘を称えると同時に若さをアピールしていた。

Dsc_8640

Dsc_8641_20251004030701

| | | コメント (0)

2025年9月27日 (土)

コンサートの記(919) 沖澤のどか指揮京都市交響楽団第704回定期演奏会

2025年9月19日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第704回定期演奏会を聴く。指揮は京都市交響楽団第14代常任指揮者の沖澤のどか。

曲目は、L・ファランクの交響曲第3番とリムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」

なお、沖澤と京響はこのプログラムで日本縦断ツアーを行う。西宮、福井、長野、東京、そして沖澤の故郷である青森県の八戸市と青森市での演奏会も行う。沖澤は三沢市生まれの青森市育ちだが、ベルリン・フィルのカラヤン・アカデミーで学ぶ姿に密着したドキュメンタリー中の英語によるナレーションでは、三沢市の知名度が低いためか、「Aomori City」の出身だと語っている。三沢市にはそれほど長くいなかったのかも知れない。
またコロナ禍中に山田和樹と行ったYouTube遠距離対談では、「青森だとプロのオーケストラを聴く機会は年に1度あるかないか」と話していたが、この秋は青森で京響が聴けることになる。
ちなみに京都公演のチケットは今日明日共に完売である。東京公演も完売した。

プレトークで、沖澤は、「こんばんは。やっと涼しくなりましたね」と切り出す。自宅のあるベルリンでの仕事を終え、東京に飛び、新幹線で京都入りしたのだが、「京都駅のホームに降りた瞬間、『ああ、また夏だ』」と思ったそうである。ベルリンはもうセーターが必要な気温だそうだ。
曲目について、「L・ファランクの交響曲第3番を生で聴いたことあるぞという方」と聴衆に問いかけるが手は一つも挙がらない。変な曲を聴いていることが多い私もこの曲を聴くのは今日が初めてである。YouTubeに誰かが演奏を上げているかも知れないし、NAXOSのライブラリーに入っているかも知れないが、先入観を避けるために敢えて聴かないで来た。
「私もつい最近まで知らなかったんですけど」と沖澤は続け、「(スイスの)バーゼル交響楽団に伺った時に、『良い曲があるよ』と教えられ」て、それから取り組むようになったそうである。
なお、沖澤は女性作曲家の作品をよく取り上げる傾向があるが、L・ファランクも女性作曲家である。フルネームは、ルイーズ・ファランク。1804年生まれというからベートーヴェン(1770-1827)がまだ存命中で新進気鋭の作曲家と目されていた頃に生を受けたことになる。そのため、L・ファランクは古典派とロマン派の間に位置づけられるが、確かにそのような印象は受ける。ただし、やや古典派寄りである。ファランクは結婚後の苗字で、生家の姓はデュモン。15歳でパリ音楽院に入学し、ピアノを学ぶが、当時のパリ音楽院では女性は作曲を正式に学ぶことが許されなかったため、アントニーン・レイハという作曲家にプライベートレッスンを受けている。
ピアニスト兼作曲家として活動し、母校であるパリ音楽院のピアノ科教授も務めるが、当初は女性教授の報酬は男性教授よりも低く、ファランクは何度も抗議して、男性教授と同一賃金を勝ち取ったようである。
50代の時に愛娘でピアニストであったヴィクトリーヌが30代で早逝すると、以後は作曲と演奏の活動をほとんどしなくなり、音楽アンソロジーの編纂と教育に専念するようになったようである。

「シェエラザード」の思い出としては、「京都市交響楽団をこのホールで指揮者としてではなく、一聴衆として聴いたことは余りなんですけれど、『シェエラザード』」はあるという話をしていた。広上淳一が「シェエラザード」を2回取り上げているが(後で調べたところ、そのうちの1回は京都コンサートホールではなく、大阪のザ・シンフォニーホールで演奏されたものだった)、ジョン・アクセルロッドなど他の指揮者もプログラムに載せているので、どの演奏会なのかは、はっきり分からない。
また、「シェエラザード」を取り上げた理由として、「日本各地の海、長野は海ないんですど」様々な海をその地の聴衆に思い浮かべて欲しいという意図があったようである。ちなみに京都人と呼ばれる人にとっては、京都とは京都市のこと(更に狭く取る人もいる)なので、「京都も海ないで」と思う人もいそうである。かく言う私も京都府の海は見たことがない。天橋立や「海の京都」に行ってみたい気はあるが実現していない。私にとっての海は、九十九里浜の豪快な波である。

沖澤は来年以降のプランとして、「プロコフィエフの交響曲を全曲演奏します。3回! 3回に分けてですよ。録音もします」ということで、「プロコフィエフ交響曲全集」が完成しそうである。
沖澤「プロコフィエフの交響曲は、1番、5番、7番などはよく演奏されますが、他の曲はあんまり。何故かと言えば難しいから。皆さんにではなくて演奏する側が」

 

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団ソロコンサートマスターの「組長」こと石田泰尚。もう一人のソロコンサートマスターの肩書きを持つ会田莉凡(りぼん)がフォアシュピーラーとして入り、泉原隆志と尾﨑平がファーストヴァイオリンの第2プルトとして陣取る。ドイツ式の現代配置だが、ファランクの時はティンパニの中山航介が第2ヴァイオリンのすぐ後ろでティンパニ(見た目では分からなかったがバロックティンパニかも知れない)を叩く。「シェエラザード」では中山は指揮者の真向かいに回った。
ヴィオラ首席に京都市交響楽団ソロ首席ヴィオラ奏者の店村眞積(たなむら・まづみ)が入るなど、強力な布陣である。
L・ファランクの交響曲第3番は金管はホルンだけという特殊な編成であるため、管の首席奏者は「シェエラザート」のみの参加である。

 

L・ファランクの交響曲第3番。無料パンフレットで音楽評論家の増田良介が、「モーツァルトの交響曲第40番との類似」を指摘しているが、確かにそんな感じである。
金曜ナイトドラマ第1作「TRICK」のオープニングテーマに少しだけ似た旋律でスタート。古典派とロマン派の間を行く作風だが、ロマン派ほどには羽ばたかない。
第2楽章。モーツァルトの交響曲第40番の第2楽章は、モーツァルトが無人の野を行くような澄み切った孤独感が印象的だが、L・ファランクの交響曲第3番の第2楽章もモーツァルトほどではないが孤独の哀しみが浮かび上がる。
第3楽章と第4楽章は、当時ヨーロッパで流行っており、鬼束ちひろが好きな言葉として挙げていることでも知られる(?)「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)」の作風。
時代的にピリオドでも構わないはずだが、モダンのアプローチである。ただ中山航介が先が木製のバチでティンパニを強打するなど、ピリオドの要素も入れていた。中山は先端に糸が巻かれた普通のマレットでも叩いており、それが「古典派とロマン派の間」を表しているようでもあった。

 

後半、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」。昨年の大河ドラマ「光る君へ」で「シェエラザード」のヴァイオリン独奏に似た旋律が用いられており(作曲は冬野ユミ)、それが終盤で紫式部(まひろ/藤式部。吉高由里子)が病気で寝込んでいる藤原道長(柄本佑)に、毎日、連続ものの短い物語を語るという「音楽の伏線」になっていたことで話題になっている。ちなみに芥川龍之介が、『千夜一夜物語(千一夜物語、千と一夜物語)』の続編を書いているが、恐ろしくつまらないので読む必要はない。芥川さん、どうしてあんなの書いちゃったんですか?

かなりハイレベルの演奏である。ヴァイオリンソロを取る石田泰尚の演奏も妖艶且つ典雅で雄弁だ。
沖澤の解釈はおそらくロシア音楽ということよりもアラビアンナイトの音楽であるということを意識したもので、濃厚な音楽を紡ぎ上げる。広上と京響の「シェエラザード」が水彩画だとすれば、沖澤と京響の「シェエラザード」は絵の具を何重にも重ねた油絵の「シェエラザード」である。ロシアがフランスを手本にしていたということもあり、音楽でもフランス音楽とロシア音楽は親和性があって、フランスものを得意としている指揮者は大体ロシアものも得意としているが、水彩画系演奏の代表として広上の他にスイス・フランス語圏出身のデュトワ(モントリオール交響楽団との演奏が名盤として名高いが、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との新盤は更に良い)がいるとすれば、油絵系演奏はロシア生まれのロストロポーヴィチなどが代表格であろうか。とにかく同じ京響の「シェエラザード」なのに印象は大きく異なる。
カロリーたっぷりで、耳が満杯。大満足の出来である。ただ聴いていて疲れるところはある。

沖澤の指揮姿は端正で「これぞ指揮者」といったところ。人気があるのも頷ける。今日は背中は燕尾服風であるが前は閉じるという服(小澤征爾がよく着ていたような服だが何というのだろう?)に白いネクタイのようなものを巻いていたが、ネクタイのようなものが揺れる様がエレガントで、視覚効果面でも優れていた。指揮棒は縦振りがほとんどで横に振るときは小さいのが特徴である。

日本のどこに行っても受けること間違いなしのコンビ。沖澤と京響の未来は間違いなく明るい。

 

今日はアンコール演奏がある。カプレ編曲のドビュッシーの「月の光」管弦楽版。繊細で淡い音の月夜で、今夜は朧月のようである。沖澤と京響の多面性を示していた。

Dsc_8720_20250927020101

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

2346月日 AI DVD MOVIX京都 NHK交響楽団 THEATRE E9 KYOTO YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール よしもと祇園花月 アップリンク京都 アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オムニバス映画 オンライン公演 カナダ ギリシャ悲劇 グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コント コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント トーク番組 ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ポーランド映画 ミステリー ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロシア映画 ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都シネマ 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇場 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都市京セラ美術館 京都府立府民ホールアルティ 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 写真 劇評 動画 千葉 南米 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 宗教音楽 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本フィルハーモニー交響楽団 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画リバイバル上映 映画音楽 映画館 時代劇 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 柳月堂にて 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 浮世絵 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 講談 趣味 追悼 連続テレビ小説 邦楽 配信ドラマ 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 音楽番組 食品 飲料 香港映画