カテゴリー「京都コンサートホール」の127件の記事

2019年12月15日 (日)

コンサートの記(613) 沼尻竜典指揮 京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第162回定期演奏会

2019年12月9日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科第162回定期演奏会を聴く。指揮はびわ湖ホール芸術監督としても有名な沼尻竜典。京都市交響楽団(この度、英語名をバーミンガム市交響楽団に倣ってか、City of Kyoto Symphony Orchestraに変更することになった)への客演も多いが、京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会へは初登場となる。

曲目は、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲、ブラームスの「運命の歌」、マーラーの交響曲第1番「巨人」。京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団の演奏。「運命の歌」での合唱は京都市立芸術大学音楽学部・大学院合唱団。ソプラノパートには、以前、浄慶寺での「テラの音」コンサートの参加していた女の子がいる。更にヴァイオリンパートとアルトパートの両方に名前が載っている女の子もいるのだが、これは本当に兼ねているのだろうか?

芸術大学の音楽学部や音楽大学は女子の割合が約9割であり、今日の京都市立芸術大学音楽学部・大学院管弦楽団のヴァイオリンパートはなんと男の子は一人だけで、他は全員女の子である。コントラバスやテューバなど、比較的男性の多い楽器(大きいので持ち運ぶのに力がいる)は京芸でも男子の方が多いが、近年女性奏者の進出が著しいホルンはやはり男子は一人だけで他は女子が演奏を行う。京都市交響楽団などはトロンボーンは現在全員男性奏者であるが、京芸は女子の方が多い。
京都市立芸術大学にはハープの専攻はないようで、京都市交響楽団の松村衣里が客演で入る。松村衣里はハープ専攻のある大阪音楽大学で講師をしているようだ。

客席には、下野さんや京響の早坂さんなど、京芸で教える音楽家の姿も見受けられる。

 

ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」序曲。弦楽パートの方が優秀である。始めは学生オーケストラにしては渋い音で演奏していたが、クライマックスでは明るめで輝かしい音色に転じ、威力もある。管楽器も技術はあるのだが、各々がそれぞれの音楽を奏でるという領域には達していない。まあ学生だしね。
日本の芸術大学や音楽大学でのHIP教育がどれほど行われているのかはよくわからないが、そうしたものはほとんど意識はしていないようである。「ほとんど」と書いたのは全く意識していないというわけでもないからである。ビブラートも掛けながらの演奏であるが、その後のブラームスやマーラーに比べると明らかに抑え気味ではある。またバロックティンパニこそ使用していなかったが、先端が木製のバチなども使って硬めの音を出させており、無理をしない程度に取り入れようとしていることは感じられる。

 

ブラームスの「運命の歌」。合唱はポディウムに陣取る。
オーケストラが非常に温かい音を出し、合唱も予想以上にレベルが高い。沼尻の過不足のない表現もこの曲に合っているように思われた。
パンフレットに歌詞対訳が載っているとありがたかったのだが、京都市はあんまりお金がないので省いたのかも知れない。無料パンフレットでは音楽学専攻の学生が解説を手掛けており、ドイツ語翻訳も出来る学生はいるはずなので独自のものを出してくれると嬉しい。

 

マーラーの交響曲第1番「巨人」。マーラーはオーケストラに威力がないと話にならないため、実力が試される。実は京都市立芸術大学音楽学部・大学院音楽研究科の定期演奏会では、これまでマーラーが取り上げられることが余りなかったそうなのだが、マーラーがオーケストラレパートリーの王道となった今ではそれはまずいということもあってか、マーラーも得意としている沼尻に振って貰うことにしたのかも知れない。ちなみに沼尻は来年は京都市交響楽団を指揮して「巨人」の演奏を行う予定がある。

各パートとも技術はしっかりしているのだが、最初のうちは上手く噛み合わず、全楽器の合奏時には雑然とした印象も受ける。ただ流石は沼尻で各楽器を上手く捌いて次第に見通しの良い演奏となる。
第2楽章はメリハリも利き、音にも爆発力があってなかなかのマーラーとなる。
先にコントラバスは男子の方が多いと書いたが、第3楽章のコントラバスのソロを取るのは女子である。鄙びた感じを上手く出した優れたソロを奏でていた。中間部の憧れを奏でる部分は、若者ならではの瑞々しさの感じられる演奏となり、ある意味理想的だったと言える。
第4楽章の迫力も優れたものであり、沼尻のオーケストラ捌きの巧みさが光る。フォルムをきっちり固める人なので、余り好きなタイプではないのだが、統率力に関してはやはり日本人指揮者の中でも最上位を争う一人だと思われる。

チケットが安いということもあるが客の入りも良く、若い人を見守る雰囲気も温かで、京都市民であることの幸せが感じられるコンサートであった。

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2019年11月25日 (月)

コンサートの記(608) シルヴァン・カンブルラン指揮 京都市交響楽団第640回定期演奏会

2019年11月17日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第640回定期演奏会を聴く。今日の指揮は読売日本交響楽団の前・常任指揮者、現・桂冠指揮者として日本でもお馴染みのシルヴァン・カンブルラン。

現代音楽の世界的な名解釈者としても知られるシルヴァン・カンブルラン。1999年から2011年までバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団の首席指揮者の座にあり、現代音楽アンサンブルであるクラングフォーラム・ウィーンの首席客演指揮者なども務めた。現在は、日本でも人気と評価の高いバンベルク交響楽団の首席指揮者に就任している。
オペラでも活躍しており、2012年から2018年までシュトゥットガルト歌劇場の総監督を務めた。ちなみに私が初めてカンブルランの演奏に触れたソフトは、1999年のザルツブルク音楽祭でオペラ形式で上演されたベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」である。
日本では、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの後任として読売日本交響楽団の常任指揮者を9年間務め、今年の4月からは同楽団の桂冠指揮者の称号を得ている。また、2002年からはドイツ・マインツのヨハネス・グーテンベルク大学で指揮科の招聘教授を務めている。

 

曲目は、武満徹の「夢の時~オーケストラのための」、ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」

 

今日のコンサートマスターは、客演の豊嶋泰嗣。泉原隆志がフォアシュピーラーに回る。テューバの一人として京響を定年退職した武貞茂夫が招聘されているのも興味深い。第2ヴァイオリンの客演首席は大森潤子、チェロの客演首席にはルドヴィート・カンタが入る。
ドイツ式現代配置での演奏。木管楽器の首席奏者は、小谷口直子が全編に出演。その他は後半のストラヴィンスキーのみの参加である。ホルンは前半が副首席の水無瀬一成がトップの位置に入り、首席ホルン奏者の垣本昌芳はストラヴィンスキーのみの出演となる。トランペットは、武満がハラルド・ナエスと早坂宏明のコンビ、ハイドンが稲垣路子と西馬健史の二人で、ストラヴィンスキーでは全員が出演し、更に客演の小和将太が加わった。

 

プレトークでカンブルランは、楽曲の解説を行う。ストラヴィンスキーの「春の祭典」はバレエ音楽であるため、リズムやテンポが協調される。ハイドンの交響曲もリズムやテンポに独特のものがあり、また独特の楽器の扱い方を行うというところにストラヴィンスキーとの共通点があるとする。ハイドンとモーツァルトは同時代人であるが、モーツァルトは独特の楽器の使用法を追い求めることはなかったとする。
一方、武満徹の音楽は、ストラヴィンスキーやハイドンとは一線を画しており、リズムやテンポなどが曖昧になっており、独特の音像の築き方をする。
カンブルランは、「三者三様の音楽を楽しんで欲しい」というようなことを言って、いったんステージを後にする。

 

武満徹の「夢の時~オーケストラのための」。ネザーランド・ダンス・シアターとその芸術監督であるイリ・キリアンの委嘱によって書かれたものであり、「春の祭典」同様、舞踊のための音楽である。ただストラヴィンスキーとは大きく異なり、精妙なテクスチュアがたゆたうようなある意味、東洋的な趣を持つ。押すのではなく絶えず引き続けるような音楽だ。ドビュッシーを思わせるようなところもあるが、それもまた武満のイディオムに昇華されており、武満にしか書き得ない地点にまで達している。
現代音楽のスペシャリストであるカンブルランの「最適」を探り当てて行く巧みな再構築性が光る演奏であった。
武満はティンパニという楽器が好きではなかったので、この曲ではティンパニは用いられておらず、普段ティンパニを演奏することの多い京都市交響楽団首席打楽器奏者の中山航介はヴィブラフォンを担当。ヴィブラフォンを弦の弓で引いて音を出すという特殊奏法も行っていた。

 

ハイドンの交響曲第104番「ロンドン」。ハイドン最後の交響曲である。
テンポは中庸かやや速め。バロックティンパニを採用しており、中山航介の思い切った強打が効果的。意気軒昂なハイドンとなる。
弦であるが、ビブラートを抑え気味の人とそうでない人がいるという折衷スタイルであり、響きとしてはモダンに近いが、豊嶋のソロは徹底した古楽的技法で弾かせて他の弦楽器から浮かび上がらせるなど、対比を鮮やかにつけていた。

 

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。カンブルラン指揮の「春の祭典」は、以前、読売日本交響楽団の大阪定期公演で聴いたことがある。
京響の力強さが印象的な「春の祭典」。だが現代音楽の明解釈者であるカンブルランの指揮ということで、初演時のスキャンダルを忘れさせるかのような、よくこなされた演奏が展開される。打楽器の大音量もどことなくまろやかであり、鮮烈という印象よりも音楽的な充実の方がより耳に届く。
ある意味、ベートーヴェンの音楽に接するのと同じ感覚で聴くことの出来る「春の祭典」である。こうした演奏を聴くと、「春の祭典」もいよいよ古典の領域に達したことを実感させられる。もはや特異な印象を受ける現代音楽ではなく、普通にクラシックの王道として楽しめる馴染み深い音楽にまで消化されたのだ。

ラストも鮮やかに決めたカンブルラン。聴衆も大いに沸き、京都の人々にその実力を知らしめることに成功したようである。

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2019年11月21日 (木)

コンサートの記(607) 「Thanks,Mr.Contrabass ゲイリー・カー コントラバス・リサイタル」@アンサンブルホールムラタ

2019年11月15日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて

午後7時から、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで、第23回京都の秋音楽祭「Thanks,Mr.Contrabass! ゲイリー・カー コントラバス・リサイタル」を聴く。

ジャズのベース奏者でスターというのは珍しくないが、クラシックのコントラバス奏者でスターといえばただ一人、ゲイリー・カーをおいて他にない。実はゲイリー・カーは2001年に引退を表明し、その後は指導者に徹していたのだが、日本でのツアー公演を行うために現役復帰し、ムラタホールのステージにも立つことになった。

ゲイリー・カーは、1941年、ロサンゼルス生まれ。9歳からコントラバスを弾き始め、ヘルマン・ラインスハーゲンの下で研鑽を積む。南カリフォルニア大学、アスペン音楽学校、ジュリアード音楽院などで学び、1961年にシカゴ・リトル交響楽団の演奏会で独奏者としてデビュー。翌62年には、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックと共演。その演奏を聴いて感動したセルゲイ・クーセヴィツキーの夫人から、クーセヴィツキーが生前愛用したアマティのコントラバスを譲り受けている。

コントラバスという楽器は、オーケストラの中でも黒子に徹することが多く、主旋律を単独で受け持つということ自体が少ないのだが、ゲイリー・カーは黒子の楽器であるコントラバスの独奏者となる。そもそもコントラバスで独奏者になろうという発想自体が存在しなかったのだから画期的なことであった。チェロ用やヴァイオリン用の楽曲をコントラバスで演奏するほか(J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲やドヴォルザークのチェロ協奏曲をコントラバス用にアレンジしたものを弾いていたりする)、1971年以降はピアニストのハーモン・ルイスと組んで、デュオの演奏を数多く行う。今回はそのハーモン・ルイスとの共演である。
現在はカナダのブリティッシュ・コロンビア州ヴィクトリアに住み、ヴィクトリア・サマー・ミュージック・フェスティバルなどに参加。同時期にコントラバス奏者のためのサマースクール「KarrKamp」を主催している。

 

今から22、3年前になると思うが、サントリーホールで行われた小林研一郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートでゲイリー・カーの演奏を聴いている。正確な日付は忘れてしまったが、日曜日のマチネーだったはずである。誰のものかは忘れてしまったが、コントラバスの協奏曲作品。ゲイリー・カーは茶目っ気のある人で、コントラバスのソロが入るところでわざと弾かず、小林が「ん?」という顔でカーの方を見た瞬間に弾き出すということをやって、聴衆の笑いを誘っていた。

 

曲目は、エレックスのソナタ イ短調(ヴァイオリン・ソナタの編曲)、グリーグのソナタ イ短調(チェロ・ソナタの編曲)より第1楽章、メンデルスゾーンの「無言歌」集より「そよ風」「旅人の歌」「夢」「タランテラ」、ガーシュウィンの前奏曲第2番と「ベースを叩け」、ラヴェルの「ハバネラ」、ボッテシーニの「夢」「タランテラ」、サン=サーンスの「白鳥」、ゲーンズのスケルツォ、カナダ民謡「朝起きたら」、クーセヴィツキーの「アンダンテ」「小さなワルツ」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」、カタロニア民謡「鳥の歌」、パガニーニのロッシーニの歌劇「エジプトのモーゼ」の主題による幻想曲。

 

ピアノのハーモン・ルイスは、ミシシッピ州の生まれ。インディアナ大学で音楽修士号と博士号を得ている。現在は、カナダのブリティッシュ・コロンビア州ヴィクトリアに在住。この30年間に自らが編曲してきた作品を全て録音するというプロジェクトに取り組んでいる。

 

当然といえば当然だが、ゲイリー・カーの見た目も随分変わった。京都コンサーホールの螺旋状のスロープには、京都コンサートホールで演奏したことのある名演奏家の写真が並んでいるのだが、実はその中にゲイリー・カーのものもある。京都コンサートホールが完成した1995年の11月24日に佐渡裕指揮新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した時のものである。当時は髪のボリュームが多く、頬がふくよかだが、今では白髪になり痩せている。

 

コンサート活動を離れて18年が経過しているということで、流石に超絶技巧に豊穣な美音というわけにはいかない。音程も結構甘めである。ただ、かつての腕利きぶりの名残は今でも時折発揮される。超弱音などはその例である。
陽気なヤンキー気質の持ち主であるカーは今日も遊び心全開。コントラバスにキスしながら弾いたり、ステップを踏みながら弾いたり、ゲーンズのスケルツォの開放弦の場所では左手を思いっ切り離して客席に向かっておどけた表情をしながら弾いたりする(同じことをしているのを昔、テレビで見たことがある)。相変わらずのショーマンぶりである。
音楽家の場合、性格と音楽性が一致しないことも多いのであるが(あの陽気な広上淳一は、シリアスな解釈を取ることが多い)カーの音楽性は割と素直であり、根っからの明るさや老境が音楽に現れている。

 

アンコールは2曲。まず「ロンドン・デリー・エア」(「ダニー・ボーイ」)が演奏される。その後、コントラバスを持たずに登場して、ハーモン・ルイスと共に喝采を受けたカーだが、いったん引っ込んでから、コントラバスを持って客席を窺うように顔を出す。
2曲目は、ロレンツィオの「象とハエ」(カーは日本語で曲名を言う)。左手ピッチカートの際に舌を出し、コントラバスの最高音が弾かれるなど、カーのユーモアと表現の幅の広さを最大限に生かした演奏となった。

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2019年11月10日 (日)

コンサートの記(605) 宮川彬良指揮 京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2019「オーケストラへようこそ!」第3回「オーケストラ七変化」

2019年11月4日 京都コンサートホールにて

午後2時から、京都コンサートホールで、京都市交響楽団 オーケストラ・ディスカバリー2019「オーケストラへようこそ!」第3回「オーケストラ七変化」を聴く。今日の指揮は宮川彬良。ナビゲーターはガレッジセール。

曲目は、バリー・グレイ作曲(宮川彬良編曲)の「サンダーバード」からメインタイトルほか、ハワード・グリーンフィールド&ジャック・ケラー作曲(宮川彬良編曲)の「奥様は魔女」、ヨハン・シュトラウスⅡ世(宮川彬良編曲)のワルツ「美しく青きドナウ」、ブラームス(シュメリング編曲)のハンガリー舞曲第5番、宮川彬良編曲による宮川版ハンガリー舞曲第5番、ベートーヴェン作曲(宮川彬良編曲)の「エリーゼのために」、レノン=マッカートニーの「ビートルズメロディー」(「ア・ハード・デイズ・ナイト」&「レディ・マドンナ」)、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番「運命」第1楽章。

 

コンサートマスターは泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平。
今回は宮川彬良による楽曲解説がメインとなるため、演奏時間は短く、管楽器の首席奏者はトランペットのハロルド・ナエス(降り番)以外はほぼ全編に出演する。

 

京響のメンバーが登場し、全員がステージ上に揃わないうちに青のベストを着た宮川彬良も登場。実は本編前にお客さんと打ち合わせをするために早めに現れたのである。1曲目は「サンダーバード」メインテーマなのだが、カウントダウンがあるため、それをお客さんにやって貰いたかったのだ。
宮川「『サンダーバード』大好き! 素敵! という方はおそらく50代以上だと思われます」と語る。確かにその通りで、私でも「サンダーバード」のメインテーマは広上淳一がレコーディングしたCDで初めて本格的に聴いている。勿論、有名な音楽なのでどこかで耳にしたことはあるのだが、「サンダーバード」を見たこともない。

ということで、お客さんがカウントダウンを行い、まずは宮川が「ジャン!」と言って返す。「ファイブ」「ジャン!」「フォー」「ジャン!」「スリー」「ジャン!」「ツー」「ワン! あ、間違えました。ジャン!」という形でやり取りがあり、「Thunderbirds are go!」の部分はもっと低い声で言うようお願いする。

その後、宮川はいったん退場し、オーケストラがチューニングを行ってから再登場する。

自ら単なる作曲家ではなく「舞台音楽家」を名乗る宮川。この手の音楽はお手の物である。
「オーケストラ七変化」というテーマであり、同じ音楽でも様々な要素によって違いが出る秘密を宮川が解き明かしていく。テーマは首席ヴィオラ奏者の小峰航一がボードを掲げて聴衆に示す。宮川は小峰のことを「小峰大先生」と呼ぶ。最初のボードに書かれているのは「指揮」。

宮川は、「サンダーバード」メインテーマを厳かに指揮したことを語り、そのことにも意味があるとする。続いて、窮地の場面の音楽。今度は宮川は指揮棒を細かく動かす。最後は、サンダーバードの南国の基地の場面での緩やかな音楽。指揮棒をゆっくりと移動させる。指揮棒によって音楽が変わるということで、宮川は「指揮棒は魔法の杖」と語る。

魔法使いといえば子どもということで、宮川は「誰か勇気のある子」と客席に呼びかけ、手を挙げた女の子がステージに呼ばれる。今日はステージに上がる階段が設置されているのだが、女の子は靴を脱いで上がろうとし、宮川は「京都の子はお上品だから」と感心する。8歳のNちゃんという女の子であったが、宮川は「丁度良い子が来てくれた」と喜ぶ。開演前に「8歳ぐらいの子が来てくれたらいいな」と周りと話していたそうだ。
子どもが指揮棒で魔法が使えるかということで、Nちゃんに指揮台の上で指揮棒を振って貰う。Nちゃんが指揮棒を前に下ろすと、ハープと鉄琴が反応し、いかにも魔法といった感じの音がする。
続いては、「お父さんにも魔法が使えるか」ということで、客席の前の方にいた37歳の男性がステージに上がる。指揮棒を振って貰ったが、ギャグの場面で使われるようなとぼけた打楽器の音がした。
最後は、「次の曲には奥様が必要」ということで、奥様が呼ばれる。女性なので年は聞かなかったが、まだ若そうである。奥様が指揮棒を振ると「奥様は魔女」の魔法がかかる場面の音が鳴る。ここでガレッジセールの二人が、魔法使いがかぶるようなとんがり帽子とマント、更に小さなステッキを持って登場。奥様に魔法使いの格好をして貰い、川ちゃんは記念写真も撮る。
宮川が奥様の手を取って一緒に指揮を開始し、「奥様は魔女」の演奏が行われた。

ゴリが、「宮川さんは本当に面白い。本当に音楽が好きなんだなとわかる」と語る。

次の曲は、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」。宮川が編曲した少し短いバージョンでの演奏である。
宮川は、「三拍子というと三角形を書くようなイメージが」と語り、ゴリが「僕が学校でそう習いました」と返す。だが、ウインナワルツは三角形を書くように指揮しては駄目だそうで、宮川は三角形を描きながら「美しく青きドナウ」のメロディーを口ずさみ、「これじゃアヒルの行水みたい」と評する。ウインナワルツは丸を描くように指揮するのが基本だそうで、三角形を書くようにすると踊れる音楽にはならないそうだ。
宮川は指揮について語ったが、ゴリは「宮川さんだと僕らどうしても顔を見ちゃう。顔が面白い」と言い、宮川も「65%ぐらいは顔」と認める。
弦の刻みなどによる序奏の部分などはカットし、本格的なワルツが始まるところからスタートする。宮川は本職の指揮者ではないが、しっかりとした演奏に仕上げる。

 

次のテーマのテーマは、「オーケストレーション」。宮川が様々な管弦楽法を読み込んだ結果を、ボードに示して説明する。ボードは京響のスタッフが運んでくる。

まずハンガリー舞曲第5番の冒頭を普通に演奏した後で、弦楽、木管、金管に分けて演奏する。ゴリは、「木管だけだと楽しく聞こえる」と言い、宮川は「弦楽だけだと渋いでしょ」と返す。弦楽のユニゾンによる演奏も行われた。
続いて、楽器同士の相性。冒頭部分を第1ヴァイオリンとクラリネットで演奏する。第1ヴァイオリンとクラリネットは相性バッチリだそうである。吹奏楽の場合はオーケストラでは弦楽が演奏するパートをクラリネットが担当することが多いので、これはまあそうだと思える。
続いて、第1ヴァイオリンとオーボエによる演奏。これは相性が良くないとされる。宮川は「京都市交響楽団は伝統あるオーケストラなので」第1ヴァイオリンとオーボエでも溶け合って聞こえるが、「第1ヴァイオリンはメロディーを担当することが多い、オーボエもメロディーと担当することが多い楽器なので張り合いになる」そうである。ということで今度は互いが「主役はこっち」という感じで演奏して貰う。オーボエの髙山郁子は身を乗り出してベルアップしながら演奏していた。
続いては、チェロとホルンによる演奏。男性的な感じがする。
続いて、愛人のような関係。いつも一緒にやるわけではないが、たまになら上手くいくというパターン。オーボエとホルンが演奏するが、ゴリは「これ二人でこそこそホテル探してますね」と言う。

そしてブラームスのハンガリー舞曲第5番の全編の演奏。ハンガリー舞曲は、ブラームスがハンガリーのロマの舞曲を採取して、連弾用ピアノ作品にまとめたものであり、ブラームス自身も最初から連弾用編曲として楽譜を出版している。オリジナル曲でないということもあって、ブラームス自身がオーケストレーションを行っている曲は少なく、第1番、第3番、第10番だけである。最も有名なものは第5番だが、これも他者によるいくつかの編曲によって演奏が行われている。

ちなみにガレッジセールの二人は、宮川に勧められてピアノの椅子(今日はピアノは指揮台とオーケストラの間に置かれている)に腰掛けて演奏を聴くことになる。宮川は「狭いので半ケツ」でと言い、ゴリが「それか俺が普通に座って、お前が腿の上に乗る?」、川ちゃん「なんでだよ?!」

ということで演奏。アゴーギクを多用する指揮者も多いが、宮川は本職の指揮者ではないのでそこまではしない。

ゴリが、「いや、この席、12万ぐらい出す価値ありますね。でもなんか宮川さんの顔が音楽の麻薬にやられてるというか、とにかく面白い。みんなに見せて下さいよ」というので、宮川は客席の方を向いて指揮する。なんだがダニー・ケイがニューヨーク・フィルハーモニックを指揮したコンサートの時のようである。だが、
ゴリ「僕らが見てたのと全然違う。盛ったでしょ」
宮川「盛りました」
ということで、指揮をしている時の顔はポディウム席からでないと見られないようだ。ちなみにオーケストラ・ディスカバリーでは、ポディウム席は自由席となっている。

 

今度は宮川彬良が編曲を行ったハンガリー舞曲第5番の演奏。先に示した通りコントラバスを除く全ての弦楽器が主旋律を弾くなど、ダイナミックな仕上がりとなっていた。

 

休憩を挟んで宮川彬良のピアノと京響の伴奏による「エリーゼのために」。宮川は後半は赤のベストに着替えて登場する。サン=サーンス風の序奏があったり、チャイコフスキー風に終わったりと、かなり色を加えたアレンジである。

「編曲」がテーマであり、ボードを掲げた小峰は「へん」に掛けた変顔を行う。宮川は、「京都市交響楽団の皆さん、変な方が多いんです。良い意味でですよ。つまらない人ばっかりじゃ面白くない」

ビートルズナンバーから、「ア・ハード・デイズ・ナイト」と「レディ・マドンナ」の編曲。
宮川は編曲には2種類あると語り、「ア・ハード・デイズ・ナイト」は、忙しく働いた日の夜ということで、文学的描写を取り入れた編曲での演奏となる。本物の目覚まし時計の音が鳴ってスタート。出掛けるための準備やラッシュ時の慌ただしさなどを描写し、会社での仕事のシーンでは、ルロイ・アンダーソンの「タイプライター」が挟み込まれ、パソコンを使ったオフィスワークを描く。そして疲労困憊となり、疲れ切ってのフェードアウトで終わる。

「レディ・マドンナ」は物語描写は入れず、ビートルズによるボーカル、ギター、ベース、ドラムスをそのままオーケストラに置き換えた編曲である。ドラムセットは舞台上にあるが、この曲では使わず、ティンパニ、大太鼓、スネアドラム、シンバルの4つの楽器でドラムセットでの演奏を模す。

最後のテーマは「作曲」。小峰はボードを掲げながら足をクロスさせ、ゴリが「お、デューク更家になりました。あるいはラウンドガールか」と言う。
ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第1楽章が演奏されるのだが、その前に、スタッフと京響の降り番の奏者達が「運命」第1楽章冒頭の主旋律が書かれた巨大譜面(3枚組)を手に登場。なぜベートーヴェンの交響曲第5番が「運命」や悲劇的な印象を受けるのかを説明する。
三連符の後で音が下がるからだそうで、冒頭に「下がるぞ下がるぞ下がるぞ」と歌詞を入れていく。
悪い要素は続くという話から、ゴリが「吉本も今、負の連鎖です。悪いことばっかり」と言ったため、冒頭部分は「吉本の現状」ということになる(?)。
「成績が下がるぞ、給料が下がるぞ」となるのだが、ホルンの響きのところで、「よく見てみろ!」となり、第2主題は「上がるから下がる」と少し前向きになると説明する。

本編の演奏。最近はピリオドスタイルでの演奏が増えているが、宮川はそうした要素は取り入れない。そもそも最初からピリオドやHIPまでやってしまうと話がややこしくなる。

宮川は、「このオーケストラ・ディスカバリーは画期的。子どものためのコンサートをやっているオーケストラは色々あるけど、これだけお客さんが入ることはそうそうない」と語り、ゴリは、「僕ら今まで色々な指揮者の方とご一緒しましたけど、宮川さんが一番画期的な指揮者です」
川ちゃん「今日が一番笑いました」

 

アンコールは、宮川彬良のシンフォニック・マンボ No.5。ベートーヴェンの交響曲第5番とマンボNo.5を一緒に演奏する曲で、広上淳一も京響と演奏したことがある。
宮川は、マンボNo.5の冒頭をピアノで奏で、「ハー!」と言ってコンサートマスターの泉原に無茶ぶり。泉原は少し遅れて「ウ!」と答えた。
京響の楽団員は、掛け声や歌などを混ぜて演奏する。打楽器の真鍋明日香がやたらと可愛らしくマラカスを振るなどエンターテインメント性溢れる仕上がりであった。

 

レナード・バーンスタインの仕事をダニー・ケイの才能でこなすことの出来る宮川彬良。音楽の裾野を広げる才能は、現在の日本の音楽人の中でトップに位置すると思われる。

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2019年11月 9日 (土)

コンサートの記(604) ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団来日演奏会2019京都

2019年11月3日 京都コンサートホールにて

午後3時から京都コンサートホールで、ヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団の来日演奏会を聴く。

アメリカのBIG5と呼ばれる5つの名門オーケストラのうちの1つとして知られるフィラデルフィア管弦楽団。古都(といっても10年ほどだったため、余りそうした取られ方はしないが)にして独立宣言起草の地であるフィラデルフィアに1900年に創設されたオーケストラである。フィラデルフィアには名門のカーティス音楽院があり、楽団員の多くが同音楽院の出身である。

レオポルド・ストコフスキーを音楽監督に頂いていた時代には、ディズニー映画「ファンタジア」の演奏を担当したことで知られ、後任のユージン・オーマンディの時代には「フィラデルフィア・サウンド」と呼ばれた世界で最も輝かしい音色を武器に人気を博している。ストコフスキーとオーマンディの時代にはラフマニノフとたびたび共演。録音も多く残している。オーマンディは後に「フィラデルフィア・サウンドなんてなかった。あったのはオーマンディ・サウンドだ」と述懐しているが、オーマンディ退任後のリッカルド・ムーティ時代には演奏の傾向も少し変わる。当時、天下を狙う勢いだったムーティは、「ベートーヴェン交響曲全集」なども作成しているが、お国ものであるレスピーギなどが高く評価された他は思うような実績が残せなかった。ムーティは、アメリカにオペラが浸透していないことや「世界最悪の音響」として有名だった本拠地のアカデミー・オブ・ミュージックに不満を漏らし、在位12年でフィラデルフィアを去っている。経営陣が後釜として狙っていたのはサイモン・ラトルであったが、ラトルには断られ、代わりにラトルが強く推薦するウォルフガング・サヴァリッシュが音楽監督となる。純ドイツ的な音楽作りで知られたサヴァリッシュとフィラデルフィア管弦楽団の相性を当初は疑問視する声もあったが、フィラデルフィア管弦楽団の弱点であった独墺もののレパートリーが拡大され、好評を得ている。2001年にはアカデミー・オブ・ミュージックに変わる新しい本拠地としてヴィライゾンホールが完成。音楽的な環境も整った。
サヴァリッシュの退任後は、独墺路線の踏襲ということでクリストフ・エッシェンバッハが音楽監督に選ばれたが、エッシェンバッハは多忙を極めており、在位は5年間に留まった。エッシェンバッハの退任後は音楽監督は置かず、「音の魔術師」シャルル・デュトワを首席指揮者兼芸術顧問に指名し、往年のフィラデルフィア・サウンド復活を目指すが、リーマンショックのあおりも受けて2011年に破産。世界トップレベルのオーケストラの破産は衝撃を持って受け止められた。その後、再建し、2012年からはヤニック・ネゼ=セガンを音楽監督に迎えている。

そのヤニック・ネゼ=セガンは、1975年、カナダ・モントリオールに生まれた注目株。ケベック音楽院モントリオール校を経て、プリンストンのウエストミンスター・クワイヤー・カレッジで合唱指揮を学ぶ。この間、カルロ・マリア・ジュリーニに師事。2000年に出身地のモントリオール・オペラの音楽アドバイザーとグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任。グラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団は、就任当時全くの無名楽団であったが、レベルを急速に持ち上げ、レコーディングなども行うようになる。その功績により、現在では同楽団の終身芸術監督の座を得ている。ちなみに幼い頃からシャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団の演奏会に通っており、デュトワは憧れの人物であったが、そのデュトワからフィラデルフィア管弦楽団シェフのバトンを受け継ぐことになった。
ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を2008年から昨年まで務め、昨年からはメトロポリタン歌劇場の音楽監督も任されている。
ちなみにアメリカで活躍する指揮者にはよくあることだが、カミングアウトした同性愛者であり、現在はパートナーの男性と3匹の猫と一緒に暮らしていることを明かしている。

 

曲目は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:ハオチェン・チャン)とドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」

 

フィラデルフィア管弦楽団とストコフスキーが始めた現代配置、ストコフスキーシフトでの演奏である。
前半後半とも楽団員が思い思いに登場して練習を行い、最後にコンサートマスター(デイヴィッド・キムであると思われる)が登場して拍手という形である。

 

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。
ピアノ独奏のハオチェン・チャンは、上海出身のピアニスト。上海音楽院小学校で学んだ後、深圳芸術大学に進み、更に渡米してフィラデルフィアのカーティス音楽院でゲイリー・グラフマンに師事している。

チャンは、鍵盤に指を置いてからしばらく目を閉じて静止し、徐に弾き始める。冒頭はかなりテンポが遅く、音も弱く仄暗く、あたかも地獄の鐘の音を奏でているような趣がある。ダイナミックレンジを広く取った、ロマンティックで表現主義的な演奏。ネゼ=セガンも同傾向の伴奏を行うが、ネゼ=セガン自体はチャンよりも流れの良い演奏を好んでいるようでもあり、第1楽章では噛み合わない場面もあった。

フィラデルフィア管弦楽団というと、オーマンディやムーティ、デュトワらとの録音を聴いた限りでは「ザ・アメリカン・オーケストラ」という印象で、豪華で煌びやかな音色で押す団体というイメージを抱いていたが、実際に聴くと渋く憂いに満ちたサウンドが特徴的であり、アメリカというよりもライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ楽団といったヨーロッパの楽団に近い印象を受ける。世代交代が進み、オーマンディの時代とは別のオーケストラになっているわけだが、ムーティ、サヴァリッシュ、エッシェンバッハ、デュトワといったそれぞれ強烈な個性の持ち主をトップに頂いたことで、アンサンブルの質が変わってきたのかも知れない。

第2楽章では、チャンのしっとりとした語りとフィラデルフィア管弦楽団のマイルドな音色が絡み合って上質の演奏となる。
第3楽章は、チャンのエモーショナルな演奏と、フィラデルフィアがこれまで隠し持ってきた都会的でお洒落なサウンドが合致し、豪勢なラフマニノフとなった。

ハオチェン・チャンのアンコール演奏は、ブラームスの間奏曲op118-2。チャンは弱音の美しさを重視しているようで、この曲でも穏やかなリリシズムを丁寧に奏でていた。

 

ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」。コンサートプログラムに載る頻度が高く、「通俗名曲」という評価も受けているが、ネゼ=セガンとフィラデルフィア管弦楽団はこの曲に新たな風を吹き込む。
序奏は緩やかに展開。その後、テンポを上げていく。弦、管ともにパワフルであるが、むしろ澄み切った音色を前面に出した若々しい音楽作りを見せる。指揮者としてはまだ若いネゼ=セガンとの演奏ということでリズムの処理も上手い。「家路」や「遠き山に日は落ちて」というタイトルの歌曲となったことで知られる第2楽章の旋律も瑞々しく歌われる。
第4楽章は、下手をするとオーケストラの威力を示すだけになってしまう危険性のある音楽だが、ネゼ=セガンは曲調に込められたアメリカとヨーロッパの混交を明らかにしていく。その後に発達するロックのテイストの先取りや、ジョン・ウィリアムズに代表されるような映画音楽への影響、あくまでヨーロッパ的なノーブルさを保ちながらも発揮されるアメリカ的な躍動感など、中欧チェコの作曲家であるドヴォルザークがニューヨークで書いたからこそ成し得たハイブリッドな音楽が展開されていく。
実演で接した「新世界」交響曲の中では上位に来る仕上がりであった。面白さに関してはトップを争うかも知れない。

 

アンコール演奏は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」。磨き抜かれた美音とセンチメンタルに陥る手前で踏みとどまった表現が印象に残った。

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2019年10月28日 (月)

コンサートの記(600) 「時の響」2019 「金色に魅せられた日本とオーストリア 琳派からクリムト、そして現代への継承」 広上淳一指揮京都市交響楽団 第1部「オーストリア×日本 琳派 ゴールド」ウィーンの景色&第2部「古都京都の文化財世界遺産登録25周年」京都今昔物語

2019年10月20日 京都コンサートホールにて

午後1時から、京都コンサートホールで「時の響」2019を聴く。一昨年から始まった音楽文化祭典「時の響」。昨年は規模が拡大されて音楽祭となっていたが、今年は第1部第2部とも上演時間1時間ほどのコンサート2つ、更にアンサンブルホールムラタで西村由紀江らによるスペシャルコンサートがあるが、スペシャルコンサートには参加しない。

「時の響」本編「金色に魅せられた日本とオーストリア 琳派からクリムト、そして現代への継承」は、広上淳一指揮京都市交響楽団によるコンサートである。第1部は「オーストリア×日本 琳派 ゴールド」ウィーンの景色と称したコンサート。日本とオーストリアの国交150周年を記念し、オーストリアの首都ウィーンを題材にした曲目が並ぶ。ウィーンを代表する画家のクリムトと、日本の琳派が共に金を使った絵を残しているということで、ホワイエでは作品のレプリカの展示などがある。またホール内ポディウムには「豊国祭礼図屏風」の高精度複製が立てかけられている。余談だが、この「豊国祭礼図屏風」には嘘がある。豊臣秀吉七回忌として慶長9年(1604)に行われた豊国大明神臨時祭礼であるが、その2年前に方広寺の大仏殿は火災で焼失しており、「豊国祭礼図屏風」に描かれている大仏殿は焼失前のものを仏画などによく見られる異時同図で描いたもので、実際には祭礼が行われた時には大仏殿はなかったのだ。大仏殿の再建が始まるのは慶長13年に入ってからである。

曲目は、前半が「音楽の都『ウィーン』を想う」と題して、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」、ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」、ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章という曲が並ぶ。後半は「岸田繁『ウィーン』の景色」という題で、岸田繁が作曲した「心の中のウィーン」と「ジュビリー」が演奏される。「ジュビリー」は岸田のギター弾き語り入りである。ナビゲーターは栗山千明。

今日は客演のコンサートミストレス。顔に見覚えがあるような気もするが思い出せない。フォアシュピーラーに尾﨑平。

席であるが、最前列の指揮者のほぼ真後ろという、先日観た映画「レディ・マエストロ」のような状態。最前列は直接音が強すぎて音は余り良くない。管楽器のメンバーの顔も弦楽奏者の影になって窺えず、フルート首席の上野博昭が前半のみ、クラリネット首席の小谷口直子は前後半共に出演ということぐらいしかわからない。トランペットは第1部ではハラルド・ナエスの、第2部では稲垣路子と早坂宏明の顔が確認出来たが、全体としてどういう布陣だったのかは不明である。
栗山千明を間近で見られるのは嬉しかったけれど。

開演前に、「時の響」実行委員会に名を連ねている公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団と大日本印刷株式会社の代表者からの挨拶があった。

ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ「美しく青きドナウ」。ニューイヤーコンサートで演奏される類いのものとは違い、がっしりとしたシンフォニックな演奏で来たのが意外だった。中間部でテンポを落としてからアッチェレランドし、ステップを踏みながら踊るのが広上らしい。

演奏終了後に、ナビゲーターである栗山千明が登場。今回の演奏会は京都を前面に押し出しており、また公益財団法人京都和装産業振興財団による「きもの文化をユネスコ無形文化遺産に!」という推進運動もあって、着物着用の聴衆にはキャッシュバックがある。栗山千明もプログラムにわざわざ「きもの着用」と書かれており、その通りの格好で現れる(現れないとまずいが)。クリムトと尾形光琳の絵には金箔が用いられているということで、栗山千明の着物にも金が用いられているのだが、ぱっと見はよく分からない。広上が「金(きん)あるの?」と聞き、栗山が「あります」と答えていた。このやり取りは台本にはないそうである。
栗山千明で京都というと、まずフジテレビ系の深夜に放送されていた「0-daiba.com」の京都特別編「京都慕情」が思い浮かぶ。栗山千明演じる成瀬一美は、京都芸術センターや百万遍交差点などを訪れている。
また映画「鴨川ホルモー」では、オタクっぽい京大リケジョの「凡ちゃん」こと楠木ふみを演じている。

広上による楽曲解説。「美しく青きドナウ」はオーストリア(広上はオーストリーという呼び方をしていた)第2の国歌と呼ばれており、広上は「日本でいう『故郷』のようなもの」と語る。またウィーンは京都に似ているということで、京都に例えて「美しく青き桂川のような」と表現する。ドナウ川はウィーン市の郊外を流れているため、京都の町中を流れている鴨川はやはりちょっと違うだろうと思われる。東京だと隅田川ではなくて多摩川、大阪だと淀川じゃなくて……、大阪市の郊外には綺麗な川はあったかな? 大和川は絶対に違う。
ウィーンはハプスブルク家の都で魅力的な場所であり、昔から様々な人がそこをものにしようと狙って来た。そこも京都に似ていると広上は述べる。
またヨハン・シュトラウスⅡ世とⅠ世は親子で同じ名前だと紹介し、ヨハン・シュトラウスⅠ世は放蕩者だったため、Ⅱ世が15歳ぐらいの時によそに女を作って出て行ってしまったという話をする。Ⅱ世はそれまで本格的に音楽に取り組む気はなかったのだが、生活費を稼ぐために音楽を学んで成功。父とはライバル関係になって勘当されたりもしている。実はⅡ世も弟2人に作曲をするよう強要して兄弟仲まで悪くなってしまうのだが、それはまた別の話である。

栗山千明は、「ラデツキー行進曲」を「デラツキー行進曲」と間違えて紹介。広上がすぐ「ラデツキー行進曲は」と言い直して、ウィーンのニューイヤーコンサートでお客さんが手拍子を入れるという話をしたのだが、結局、その後も栗山千明は「デラツキー行進曲」と何度も間違え続けていた。「ラデツキー行進曲」も知らないという事は、クラシック音楽に関してほとんど何の知識もないということであり、ちょっとがっかりする。

「ラデツキー行進曲」では、広上はオーケストラよりも聴衆の拍手を中心に指揮した。カットありの版での演奏。

 

ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲。喜歌劇「こうもり」はウィーンでは年末に上演されることが恒例となっている。
華やかさとスケールの大きさ、ウイットを兼ね備えた演奏で、京響の響きも充実している。

演奏終了後に登場した栗山千明は、「先程は大変失礼いたしました。『ラデツキー行進曲』」と詫びていた。

モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」第1楽章。この曲では栗山はなぜか「ジュピター」というタイトルは一度も告げなかった。
広上が栗山に、「モーツァルトがどういう人だったかご存じ?」と聞き、「ごめんね、台本にないことばかり言って」と続ける。「実際に会ったわけじゃないんですが」と広上は前置きして、「ハリウッド映画で『アマデウス』という作品がありましたが、あれに出てくるモーツァルトはフィクションです。ただ書き残したものから、あれに近い人だったんじゃないかと言われています。人前では言えないようなことを書いていたり、女の子が『キャー!』とか『わあ!』とか言うと、『うひひひひ』と喜ぶような。小学生がそのまま大きくなったような、こういう人ってどう?」
栗山「仲良くなりやすいとは思います」(若干引き気味に見えたが気のせいだろうか)
広上「そういう人を喜ばせるのが好きな人だったと思います」

「ジュピター」を得意とする広上。澄んだ弦楽の響きを生かした純度の高い演奏を繰り広げる。弦のビブラートは各々で異なり、ピリオドを徹底させた演奏ではないが、途中で現れる音を切りながらの演奏は古楽を意識したものだろう。
モーツァルト本人はあるいは全く意識していなかったかも知れないが、今日のような演奏で聴くと本当に宇宙的な音楽に聞こえる。

 

くるりの岸田繁が登場しての後半。栗山千明が、くるりがウィーンでレコーディングを行った経験があることなどを紹介する。ウィーンについて岸田は「京都に似ている」と言い、広上は意見が合ったと喜ぶ。「人口も180万くらいで(京都市は147万人ほどだが昼間人口は増える)。まあ同じぐらい」「中心部は昔ながらの建物が残されていて(第二次大戦の戦災で焼失したものもあるが元通りに復元されている)、郊外には意外に工業地帯があったりする」。ドイツ語圏ではあるが言葉も違い、「おはよう」も「グーテンモルゲン」ではなく、「グリュースゴット」と言うと紹介する。ウィーンで初めて聞いた時は岸田は意味が分からず、「なにそれ?」と聞き、「いや、ウィーンではこうやって言うんだ」と主張された(?)そうである。「グリュースゴッド」は、「神があなたに挨拶しますように」という意味で、広上は「キザ」と形容する。
岸田は自身の事を述べる際には「僕はキザではないんですが」と断りを入れていた。

「心の中のウィーン」はワルツと4拍子を取り入れた曲であり、ウィンナコーヒーのような甘さを意図的に出している。

岸田繁のギター弾き語り入りの「ジュビリー」はウィーンで作曲されたというだけで、特にウィーン情緒を出した感じは受けなかった。

 

1時間ほどの休憩を入れて第2部スタート。休憩の間、私は一度外に出て自販機でカフェラテを買って飲んだ。特にウィーンを意識したわけではない。

 

第2部は、「古都京都の文化財世界遺産登録25周年」京都今昔物語と題したコンサートで、新作の世界初演2曲が続く。

開演前に門川大作京都市長の挨拶があり、文化庁の京都移転や京都駅東南地区を共生の街にするプランなどが話された。どちらもちょっと前までは明るい話題であったが、そこは京都ということか、何やら暗雲が垂れ込み始めている。
門川市長は、「日本が世界に誇れるもの、それは文化」と語っていたが、現状ではこれも疑問である。クラシック音楽の分野における日本の未来は明るいかも知れないが、その他は厳しいかも知れない。

 

まずは母校の京都市立芸術大学作曲科講師でもある酒井健治のヴィオラ協奏曲「ヒストリア」。ヴィオラ独奏は、京都市交響楽団首席ヴィオラ奏者の小峰航一が務める。
疾走するヴィオラをオーケストラが盛り立てていくような曲調である。メシアンにも近いがノーノ的にも聞こえる。ヴィオラ協奏曲ということで、ヴィオラ独奏がオーケストラのヴィオラパートと歌い交わす場面もあり、意欲的な作風だ。
緊迫感もあり、面白い楽曲である。ヴィオラ独奏はかなり難度が高そうであったが。

 

今日最後の曲は、岸田繁の作・編曲(共同編曲:足本憲治)による「朗読とオーケストラ 京のわらべうた変奏曲による『徒然草』」~京都生まれの日本哲学~。吉田兼好の「徒然草」を現代語訳したものを栗山千明が朗読し、背後のスクリーンには武蔵野美術大学出身の文字×映像ユニット宇野由希子+藤田すずかによる文字アニメーションが投映される。

岸田繁の音楽はタイトルの通り、「丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦」という京の通り名を挙げる「京のわらべうた」を変奏していくもので、オーケストラのパレットも次々変わる。酒井健治の作品とは対照的であるともいえる。
素朴で愛らしいメロディーを奏でるのだが、広上の指揮ということもあってか響きは意外に重厚で輝かしく、さながらベンジャミン・ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」の日本版のような趣である。
栗山千明が読み上げるテキストは、「人生の短さ」「物事を先延ばしにすることの愚かしさ」「想像力の大切さ」「先入観を捨てることの有効性(虚であるべきこと)」などを抜粋したもの。葵祭が終わった夕暮れの寂しさなども採用されている。
栗山千明は茨城県出身なので標準語とは少し異なるイントネーションである。明るめの声を生かし、「流石は国際派女優」のしっかりした朗読を披露した。

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2019年10月20日 (日)

コンサートの記(599) ラルフ・ワイケルト指揮 京都市交響楽団第639回定期演奏会

2019年10月11日 京都コンサートホールにて

午後7時から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第639回定期演奏会を聴く。今日の指揮者はオーストリアの名匠、ラルフ・ワイケルト。NHK交響楽団を始めとする東京のオーケストラへの客演でも知られており、派手さはないがドイツ本流の玄人好みの演奏をする指揮者である。

ブルックナーが眠るザンクト・フローリアン大聖堂のある、オーストリアのザンクト・フローリアンの生まれ。リンツ・ブルックナー音楽院に学んだ後、ウィーン国立音楽大学でハンス・スワロフスキーに指揮法を師事。1965年にコペンハーゲンで行われたニコライ・マルコ指揮者コンサートで優勝している。その後、ベートーヴェンの生地にあるボン歌劇場の音楽監督を務め、ザルツブルク・モーツァルティウム管弦楽団の首席指揮者やチューリッヒ歌劇場の音楽監督などを歴任。ドイツ語圏を始め、アメリカや北欧の歌劇場でも活躍を続けている。ワーグナーの演奏には定評があり、2004年から2015年までイギリスのワーグナー・フェスティバル・ウェールズの音楽監督を務めている。
私がNHK交響楽団の定期演奏会に足繁く通っていた頃にもN響に客演している。調べてみると1997年3月のことで、この月はABCと3つある定期演奏会の指揮者が全部違っている。よく通っていたC定期にはイヴァン・フィッシャーが客演、ブラームスの交響曲第1番などを振っている。この演奏はNHKホールで聴いたが、この頃のイヴァン・フィッシャーは音楽に夢中になりすぎてしまう癖があり、スマートではあったが奥行きに欠ける演奏だったのを覚えている。ワイケルトはB定期に登場し、オール・ワーグナー・プログラムを振っている。A定期を振ったのは実は朝比奈隆で、あの伝説のブルックナーの交響曲第8番の演奏がこの時であった。朝比奈のブルックナーだというので、私は1回券を買って3階席の上の方で聴いている。つまりこの月はワイケルトだけ聴いていなかったということになる。
ただ当時はNHKの定期演奏はBS2(現在のBSプレミアム)で全て放送されてたため、VHSで録画して(VHSの時代なんですね)、気に入った演奏のいくつかはミニディスクにダビングして(ミニディスクがまだ注目を浴びていた時代だったんですね)コンポのスピーカーで聴いていたのだが、その中にワイケルト指揮のワーグナーもあり、出来の良さに感心したのを覚えている。

 

曲目は、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」とブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(ノヴァーク版第2稿)。ちなみに今日はブルックナーの忌日である(1896年10月11日没)。

 

プレトークに登場したワイケルトは、まず京都の街を「美しくて興味深い(Beautiful and intresting)」と形容し、京都市交響楽団については「圧倒させられ、楽しい時を過ごすことが出来た」と喜ばしげに語った。
その後、生地であるザンクト・フローリアンゆかりのブルックナーと交響曲第4番の楽曲解説を行う。ザンクト・フローリアン大聖堂にはドイツ語圏最大級のパイプオルガンがあることを紹介し、オルガニストとしてのブルックナーはそこを拠点としていたことを語る。今では交響曲作曲家として知られるブルックナーだが、遅咲きであり、交響曲を書くようになったのは40歳を過ぎてから。それ以前は、ヨーロッパで最高のパイプオルガン奏者として尊敬されていたことなどを述べてから「ロマンティック」の内容に入る。第1楽章第1主題は全曲を通して登場すること、第2主題は鳥の鳴き声(シジュウカラらしい)であることや、第2楽章はシューベルトの楽曲との共通点のある行進曲だということ、第4楽章のラストは天国へのはしごを登っていく過程を描いていることなどを語る。
モーツァルトについては、「皆さんよくご存じでしょうから」ということで、ブルックナーほどには細密に語らなかったが、6楽章からなるセレナードの楽章を2つカットして交響曲に改めた曲で、第4楽章は「驚くほどの速さで」演奏するよう指定されていることなどを話した。ブルックナーの曲が長いので短めの交響曲を選んだという。
ワイケルトの著者の邦訳が最近出たため、その宣伝も行っていた。
最後にワイケルトは、通訳を務めた小松みゆきの手にキスして一緒に退場する。

 

コンサートマスターに泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平といういつもの布陣。ヴァイオリン両翼の古典配置での演奏だったが、モーツァルト、ブルックナー共に音の受け渡しがよく分かって効果的であった。ブルックナーが大曲だということで、管楽器の首席奏者のほとんどは後半の「ロマンティック」のみの参加であった。

 

モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」。指揮台の前に譜面台は置かれているが、総譜は乗っておらず、暗譜での指揮となる。
音の強弱とメリハリをはっきりつけた、完全な古典スタイルの演奏である。この曲ではバロックティンパニを使用し、強打させる。オーボエにかなり思い切ったベルアップを要求するのも特徴。テンポもかなり速めであり、反復を採用しているにも関わらず演奏時間が短くなる。典雅さの中に時折浮かび上がる暗い影を丁寧に描いているのも印象的である。

 

ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。「ロマンティック」はブルックナーの交響曲の中でも異色作であり、三十年ほど前まではブルックナー入門曲としてよく聴かれたのだが、近年ではブルックナーの交響曲というとなんといっても後期三大交響曲であり、ブルックナー入門曲も交響曲第7番に取って代わられた感がある。ただ下野竜也などブルックナーの初期交響曲を積極的に取り上げている指揮者はいるため、今後また人気を取り戻す可能性もある。
冒頭は中庸のテンポで良く歌うが、鳥の鳴き声だと紹介した第2主題ではグッと速度を上げるなど、ブルックナーがロマン時代を意識して作曲していることを強調した解釈である。近年ではパーヴォ・ヤルヴィが「ロマンティック」でこうした解釈を取り入れているが、パーヴォの場合は成功とはいえず、RCAへの録音は物議を醸している。ただワイケルトの場合はそれほど極端ではないため、説得力のあるブルックナー演奏へと昇華される。特筆すべきは詩情の豊かさである。ブルックナーが実際に見た景色を見て育ったからか、あるいは感性の豊かさ故か、「野人」などと称されることもあるブルックナーの詩人としての側面をはっきりと描いている。朴訥で小心だったといわれるブルックナーだが、それだけでは後世まで残る作品を書くことは出来なかったであろう。そういえば、ブルックナーの伝記を読んでいて、「誰かに似てるな」と思ったことがある。思い当たったのはハンス・クリスチャン・アンデルセンであった。
ブルックナーの金管の使い方に関しては「オルガンの音を模している」ことがよく知られており、京響のトロンボーンは第1楽章のクライマックスで本物とオルガンと見まがうほどの音色を生み出していたが、フルートやオーボエなどの木管も音を重ねることでオルガンの高音に似るよう工夫されていることも今日の演奏だとよく分かる。
京響も関西最強のブラスや輝きと透明感と威力のある弦楽(ブルックナーではヴィオラが重要になるのだが、京響はヴィオラも強い)、リリカルな木管などいずれも秀でており、「これは本物」と感服する出来のブルックナーに仕上がった。

 

ワイケルトの著書を買い、終演後はサイン会にも参加する。

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2019年10月18日 (金)

コンサートの記(598) 第23回京都の秋音楽祭『3つの時代を巡る楽器物語』第1章ショパンとプレイエル(フォルテピアノ:川口成彦)

2019年10月5日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタにて

午後3時から、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで第23回京都の秋音楽祭『3つの時代を巡る楽器物語』第1章ショパンとプレイエルを聴く。今年から足かけ3年に渡る企画の第1回である。ショパンが生きていた時代のプレイエル社製のフォルテピアノを使用してショパン作品を弾くという企画。ピアニストは、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位入賞者である川口成彦(なるひこ)が登場する。

川口成彦は、1989年盛岡市生まれ、横浜市育ちの若手ピアニスト。先に書いた第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール2位のほか、ブルージュ国際古楽コンクール・フォルテピアノ部門最高位、第1回ローマ・フォルテピアノ国際コンクール優勝という華麗なキャリアを誇っている。東京藝術大学と同大学院修了。二十歳の頃からフォルテピアノに触れるようになり、古楽の本場であるオランダのアムステルダム音楽院古楽科修士課程に進んで古楽を本格的に研究するようになる。現在もアムステルダム在住。フォルテピアノを弾くことが多い様だが、勿論、モダンのピアノフォルテも演奏する。

 

当然ながらオール・ショパン・プログラムである。前半はショパンがジョルジュ・サンドとノアンで過ごした時期に書かれたものを並べ、ワルツ第12番、夜想曲第15番、バラード第3番、前奏曲嬰ハ短調、即興曲第2番、「舟歌」が弾かれる。後半は、ショパンがサンドとマヨルカ島に滞在していた時期を中心に書かれた24の前奏曲の演奏である。

楽器は1843年製のプレイエル マホガニーケース 製造番号No.10456(タカギクラヴィア所有)のフォルテピアノが使用される。フォルテピアノであるが、製作時期が比較的新しいため、モーツァルトやベートーヴェンの時代のフォルテピアノとは響きがやや異なる。近年、ヨーロッパのピアニストを中心に、モダンピアノフォルテを使いながらペダリングやタッチを工夫して古楽風の音色を出すことが流行っているが、その音色に近い。

 

川口はマイクを手にトークを挟みながらの演奏を行う。ショパンは二十歳近辺の頃に(ショパンは正確な生年がわからない人である)ポーランドを離れてウィーンに渡るのだが、タイミングが悪かったのかウィーンでは活躍することが出来ずにパリに移る。そしてパリで出会ったのがフランスのピアノメーカーであるプレイエルのピアノである。プレイエル社もショパンを全面的にサポートし、マヨルカ島にショパンが渡った時にはピアニーノという小型のアップライトピアノをショパンに送っており、ショパンはその楽器で作曲を行ったとされる。また完成した24の前奏曲はその縁でプレイエル社のカミーユ・プレイエルに献呈されている。ノアンのサンドの邸宅にもプレイエル社はピアノを送っており、ショパンが作曲と演奏を行った。
ベートーヴェンやリストは作曲を行う際に虚勢を張るようなところがあるが、ショパンは素直にピアノに向かって音楽を語る人であり、その点でシューベルトに似ていると川口は語る。

残された記録によると、ショパン自身は毎回のように即興を取り入れており、楽譜通りに演奏されたことはほとんどなかったそうだが、川口のピアノも緩急自在であり、たまにであるが音を足すこともある。

モダンのピアノで弾くと、ロマンティシズムが前面に出されることの多いショパンの音楽であるが、フォルテピアノで聴くとある種の親密さが増し、等身大で語りかける音楽へと傾いてくるのが感じられる。ショパンの時代はまだコンサートホールでなくサロンなどで演奏されるのが一般的であったが、その意味では川口が奏でるのはサロン的なショパンともいえるだろう。

夜想曲第15番は、今日弾くフォルテピアノが製作された1843年に作曲された作品だそうである。ショパンは33歳か34歳。青年期を過ぎて、これからが更に期待される年齢であるが、ショパンは生まれつき体が弱く、すでに結核も患っていて、6年後の1849年に若くして他界することになる。

 

メインである24の前奏曲は24の調を使って書かれた意欲作。バッハに倣っての作曲であり、今でもピアノ作品の最高峰の一つに数えられる。一方で、難度や作風、長さなどがバラバラであり、表現が難しい。第2番、第4番、第6番(元々はこの曲が「雨だれ」だったとされる)などは、私も弾いたことがある技巧的には平易な曲であるが、いずれも沈鬱な曲調を持ち、場合によっては不気味だったりする。川口はそうした要素は意識はしているが大袈裟にはならないよう心がけた演奏を行っているように思われた。大時代的なショパン像は巨大ホールが出現した19世紀後半から20世紀初頭に掛けて形作られたもので、ショパンが生きていた頃には目の前の少数の聴衆を相手にしているということもあって、いい意味で抑制された演奏が行われていたのだと思われる。
「太田胃散の曲」として知られる(?)第7番では速めのテンポを採用。CMサイズの演奏とは違った自由感を出していた。
24の前奏曲の中で最も有名なのは「雨だれ」というタイトルのついた第15番だと思われる。この曲も私が弾けるほど技術的には平易なのだが、かなりドラマティックに演奏されることが多い。ショパンの名手として知られたアルフレッド・コルトーなどは、寝た子をあやす母親の前に悪魔が現れて子どもを襲おうとするというおどろおどろしい内容の詩をこの曲につけているが、そうした物語的な演奏をする人はコルトーに限らず多い。ただ川口の場合はショパン本人の声を探ることに徹しているように聞こえる。オーケストラ音楽もそうだったが、ピアノも古楽的な解釈が進むことによって演奏スタイルが今後もどんどん変わっていきそうな気がする。

アンコールは2曲。まずはワルツ第9番「別れのワルツ」。この曲はサンドではなく、ライプツィッヒで出会って一目惚れした女性と別れるときに書かれたとされる曲である。甘口だったり感傷的に弾かれることも多いが、川口の「別れのワルツ」は比較的さっぱりしている。フォルテピアノの音色も大きく影響しているだろう。

2曲目は、歌曲として書かれた「春」ト短調を自らピアノ用に編曲したものが弾かれる。過ぎた春を回顧する趣の楽曲であるが、川口の弾くフォルテピアノからはノスタルジックな音色と音型とイメージが次々と溢れ出てきていた。

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2019年10月14日 (月)

コンサートの記(597) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別公演2019

2019年10月6日 京都コンサートホールにて

午後3時から、京都コンサートホールで大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別公演を聴く。指揮は音楽監督の尾高忠明。癌の手術から復帰したばかりである。

曲目は、前半がモーツァルトのフルート協奏曲第2番と尾高尚忠のフルート協奏曲(フルート独奏:エマニュエル・パユ)、後半がチャイコフスキーの交響曲第5番。

今日のコンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。

エマニュエル・パユが登場するためか、男女ともに若い聴衆も多いのが特徴。ただ、大阪フィルのフェスティバルホールでの定期演奏会は、3階が学生限定席に指定されているため、普段はどれほどの入りなのかが把握出来ていなかったりする。

エマニュエル・パユは現役のフルーティストとしては世界中で最も有名だと思われる人物である。長くベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席フルート奏者を務めており、同楽団の顔の一人でもある。実演を聴くのは多分3回目であるが、前回と前々回は共に室内楽のコンサートであったため、オーケストラとの共演を聴くのは初めてになる。

 

モーツァルトのフルート協奏曲第2番。パユのフルートは音色が澄んでいるだけでなく、芳香を発するかのような気品に溢れている。人気があるのも当然である。
大フィルの弦はノンビブラートと音を細かく切る感じのピリオド奏法での演奏を行う。天井の高い京都コンサートホールなので、音が小さく聞こえてしまうが、モーツァルトを演奏するにはやはりピリオドの方が雅やかで合っている。

 

尾高尚忠のフルート協奏曲。
尾高尚忠は、尾高忠明の実父である。1911年生まれ、日本で作曲をスプリングスハイムに師事した後でウィーンに渡り、指揮をワインガルトナーに師事した。帰国後は日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)の常任指揮者となり、指揮に作曲に八面六臂の活躍を展開。現在は日本の年末の風物詩となった第九特別演奏会を始めた人物でもある(異説あり)。ただ過労がたたって、39歳の若さで逝去。新聞などには「日響(日本交響楽団)が尾高を殺した」という見出しが躍った。

演奏時間約15分という短い作品だが、目の前の世界を次々と広げつつ天翔るようなフルートの躍動が印象的な第1楽章、ピアノが入ったり、弦がコルレーニョ奏法で日本的なリズムを刻むなど独特の個性が光第2楽章など魅力的な要素に満ちている。
パユの自在感溢れるフルートは、日本の現代作品にも見事に適応。日本人のフルーティストが演奏するとまた違った印象になると思われるが、軽やかさと広がりにおいてはベストの出来を示す。

パユのアンコール演奏は、ニールセンのフルート独奏曲「子供たちが遊んでいる」。ニールセンの一般的イメージとは異なる作風で、聴いている時は古典派の楽曲のように聞こえた。

 

チャイコフスキーの交響曲第5番。尾高の指揮なので、端正な造形を予想し、実際に冒頭はそうだったが、途中で金管を強烈に吹かせる。立体感は出るものの本拠地ホールではないということもあって精度は今ひとつなるが、それよりも内容を重視したような演奏となる。演奏終了後に尾高は、「病上がりで、まだちょっと苦しい」と語っていたが、コントロールする力がまだ戻ってないためにこうした演奏になったのかはわからない。
第2楽章の最高難度で知られるホルンソロも完璧ではなかったがハイレベルであり、チャイコフスキーの憧れを描き尽くす。華やかな中に憂いを宿す第3楽章も美しい演奏であった。
第4楽章は、近年では解釈が変わりつつあるが、尾高は疑似ラストの後の凱歌を逡巡の中で歌い上げる。運命の主題を長調に変えた主旋律は華々しいのだが、実はそれ以外の部分は案外憂いを多分に含んでいるため、無理に笑顔を作っているような悲しさが吹き出してくる。これがチャイコフスキーが望んだ解釈だと思われるのだが、こうした演奏を聴いていると本当に胸が苦しくなる。自らの作曲した運命の主題を長調に変えて乗り切った後で、ベートーヴェンの運命動機で幕を下ろすところなど、ほとんど「悪魔的」を思えるほどだ。

 

アンコール演奏は、チャイコフスキーの「エレジー ~イワン・サマーリンの思い出に」が演奏される。この曲が演奏されるということは最後の凱歌の悲劇的解釈は尾高の体調不良によってなってしまったものではなく意図的になされたものなのだろう。
最後に尾高は、「素晴らしいホールと素晴らしい聴衆の皆様の前で演奏出来る」ことの感謝を述べて、「大阪のフェスも素晴らしいホールです」と宣伝し、「このオーケストラとは関係ないんですが、京都大学の交響楽団も指揮します」とユーモアを交えた告知で明るく終えた。

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2019年9月30日 (月)

コンサートの記(593) 下野竜也指揮京都市交響楽団第638回定期演奏会

2019年9月22日 京都コンサートホールにて

午後2時30分から、京都コンサートホールで京都市交響楽団の第638回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、京都市交響楽団常任首席客演指揮者の下野竜也。今回が、首席常任客演指揮者としては下野と京響の最後のステージとなる。

曲目は、ブルックナーの弦楽五重奏曲ヘ長調WAB112から「アダージョ」(スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ編曲)、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(ピアノ独奏:ヤン・リシエツキ)、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」

ヴァイオリン両翼、コントラバスがステージ最後列で横一線に並ぶ形の古典配置での演奏である。コンサートマスターに泉原隆志、フォアシュピーラーに尾﨑平といういつもの布陣。第2ヴァイオリンの客演首席には瀧村依里が入る。ヴィオラのトップには店村眞積が入り、今日は小峰航一は降り番である。ブルックナーは弦楽のための作品で、モーツァルトから入る管楽器の首席奏者はホルンの垣本昌芳とトランペットのハラルド・ナエス。トランペットはモーツァルト、ベートーヴェン共にハラルド・ナエスと稲垣路子の二人の出演であった。木管楽器の首席は全員、ベートーヴェンのみの出演である。

 

プレトークで下野竜也は、「今日は言ってみれば、普通の曲をやります」と始め、「田園」の楽曲解説に多くの時間を割く。ベートーヴェンの交響曲全9曲の中で「田園」が一番難しいというのが、下野や先輩の指揮者の共通の認識だそうである。考えてみれば「ベートーヴェン交響曲全集」は山のように出ているが、「田園」の名盤として誰もが推すものはワルターとベームぐらいしかない。ということで、下野は「ベートーヴェンの交響曲の中で『田園』が一番得意」という指揮者を信用しないことにしているそうである。高関健が、「僕、『田園』得意だよ」と下野に語ったことがあるそうだが、どうもジョークだったようだ。「運命」や「英雄」にはドラマというか出来事があるが、「田園」にそうしたものはなく、描かれているのは何気ない日常。朝起きて、食事をして、奥さんに「行ってきます」と言って家を出るような何気ない日常の幸せが描かれているそうである。下野も病気をしたことがあり、そんな時には「健康って幸せなことだなあ」と感じたそうだが、ドラマティックではない幸せを表現するのは難しいそうである。ドラマがないから45分だらだら演奏していればいいというわけにはいかない。

「田園」と「運命」とは双子の作品だということについても触れる。同じ日に同じ演奏会で初演されおり、その時は交響曲第5番「田園」で、「運命」こと第5が交響曲第6番として演奏されたのだが、共に少ない音で作曲されているという共通点がある。「運命」は、タタタターの4つの音だけで組み立てられたような作品で、下野が暇なときに数えたところ、第1楽章だけで491回「タタタター」の運命動機が出てきたそうだが、「田園」も第1楽章冒頭の主題が形を変えてコンポーズされているという話をする。
また、ラストではホルンがミュートで音を奏でるのだが、ホルンがミュートを使う時は、夜の描写に限られるそうで、「田園」に夜が来たことを表している。ただその後に「タ、ター」と2つ音がある。下野は「郭公の声かな?」と思っていたそうだが、ウィーンに留学していた問いに疑問が氷解したそうである。あれは、「Oh,God!」と言っているのだそうだ。「アーメン」や郭公の声ではなく、「オー! ゴッド!」で聴いて欲しいと下野は言う。

モーツァルトのピアノ協奏曲第24番は、モーツァルトが残したただ2曲の短調で書かれたピアノ協奏曲の1曲。ソリストのヤン・リシエツキと共演するのは今回が初めてではないようだが、優れたピアニストで一緒にやるのが楽しみだと語る。
ブルックナーの弦楽五重奏曲WAB112から「アダージョ」は、日本でも名指揮者として知られたスタニスラフ・スクロヴァチェフスキが弦楽オーケストラ用に編曲したものである。スクロヴァチェフスキは晩年に読売日本交響楽団の常任指揮者を務めており、読響の正指揮者を務めていた時代の下野の直接の上司に当たる。
下野は、「ブルックナーが嫌いな人は多いと思いますが」と切り出し、「何を描いているのかわかろうとすると難しいけれど、頭で考えるのではなく心で感じて欲しい」と述べた。

下野「『運命』などは当時は現代音楽だったわけで。『どっかおかしいんじゃないか?』と言われていた。それが次第に理解されるようになって200年ぐらいかけて定着した」ということで、今の現代音楽も毛嫌いせずに聴いてみることを勧めていた。終演後にも、「聴いて批判するのはご自由です。ただ聴かないでというのは駄目です」と念を押していた。

 

ブルックナーの弦楽五重奏曲ヘ長調WAB112より「アダージョ」。ブルックナーがウィーン音楽院の院長をしていた時代に、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヘルメスベルガーから委嘱された弦楽四重奏曲を結果的に弦楽五重奏曲として完成させた作品の第3楽章である。
ブルックナーは、ウィーン音楽院の教師や即興演奏を得意とする当代随一のオルガニストとして評価を得ていたが、作曲家としては生前には数えるほどしか成功を勝ち得ておらず、それが原因なのかどうかはわからないが、強迫性障害などの精神疾患にも苦しんだ。そんなブルックナーが精一杯、人生と世界を肯定したような清澄で優しい旋律と音色を特徴とする。弦楽五重奏曲自体はブルックナーの中期の作品なのだが、スクロヴァチェフスキの編曲もあってか「人生の夕映え」のような雰囲気も感じられる。
下野は細部まで念入りに構築した上で、淀みない流れを生んでいくという理想的なブルックナー演奏を展開。古典配置を採用したため、音の受け渡しも把握しやすい。京響の音色は分厚くて輝かしく、ノスタルジアの表出も素晴らしい。
ちなみに、「田園」の第1楽章に似た音型が登場し、そのためにプログラミングされたのかも知れない。

 

モーツァルトのピアノ協奏曲第24番。
ソリストのヤン・リシエツキは、1995年生まれの若手ピアニスト。ポーランド人の両親の下、カナダのカルガリーに生まれ、9歳でオーケストラとの共演を果たすという神童であった。2008年と2009年に両親の祖国であるポーランド・ワルシャワの「ショパンのそのヨーロッパ国際音楽祭」に招かれ、ショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番を演奏している。これらはライブレーコーディングが行われ、フランスのディアパゾン・ドールを受賞。201年には15歳という異例の若さでドイツ・グラモフォンとの専属契約を結んでいる。2013年にはグラモフォン・アワードでヤング・アーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

下野と京響はHIPを援用したアプローチ。弦楽のビブラートも現代風でなくここぞという時に細やかに用い、ボウイングは大きめ。ティンパニはバロックタイプのものではないが、かなり堅めの音で強打する。推進力があり、光と陰が一瞬で入れ替わる。

ヤン・リシエツキのピアノは、仄暗い輝きを奏でる。最近の白人ピアニストに多いが、音が深めである。ちょっと前までモーツァルトのピアノ演奏といえば、「真珠を転がすような」だとか「鍵盤を嘗めるような」と形容されるような美音によるものが多かったが、傾向が変わってきたようである。まだ若いという頃もあるが、いたずらに個性を出すことのない誠実なピアノで技術も高い。
余り指摘されているのを見たことはないが、第2楽章は「フィガロの結婚」のアリア「恋とはどんなものかしら」がこだましているように聞こえる。フィガロとピアノ協奏曲第24番はほぼ同じ時期に書かれており、ピアノ協奏曲第24番の初演の1ヶ月後にフィガロ初演の幕が上がっている。

リシエツキのアンコール演奏は、J・S・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」よりアリア。雅やかな祈りが京都コンサートホールを満たしていく。中間部で激しくなるところがあり、余り聴かれない解釈だったが、ロマンを込めようとしたのだろうか。

 

メインであるベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。自然体のスタートを見せる。弦主導の音楽作りであり、第1ヴァイオリン14型ということで迫力があるが、音の輪郭が十分に整わないため、モヤモヤとして聞こえて爽やかさには欠けるところがある。また弦の威力に管が掻き消される場面もあった。
ただ下野は最初から第5楽章に焦点を当てた解釈を行っており、4つの楽章をラストに至るまでの過程として描いている。
第2楽章の音の動きや第3楽章の土俗性などは意識的にブルックナー演奏から培ったものを援用しているようで、ソフィスティケートとは正反対の音の生命力を前面に押し出している。下野も芸風が広い。
第4楽章の嵐では、ティンパニの中山航介のティンパニの強打とコントラバスの轟々とした響きが迫力を生む。なお、トロンボーン奏者二人は、この楽章の途中で登場し、第5楽章で活躍する。
そして第5楽章。単にハイリゲンシュタットやウィーンやオーストリアやドイツ語圏に留まらない地球全体への感謝の思いが瑞々しく語られる。
最後は、プレトークで言っていた通りの「神と大いなる者への賛辞」で締めくくられた。

下野の京都市交響楽団常任首席客演指揮者としての最後のステージということで、門川大作京都市長が花束を持って現れ、下野への感謝を述べ、下野が京都市立芸術大学指揮科の教授として頑張っていることを紹介する。京都市交響楽団と京都市立芸術大学の間で協定が結ばれたそうで、今後、京都市の更なる音楽的発展が期待されているようだ。

昨日は下野は広上淳一から花束を受け取ったようだが、今日は今回のステージを最後に京響を退団する第2ヴァイオリン奏者の野呂小百合に、下野からリレーの形で手渡された。

下野は、自身が広島交響楽団の音楽総監督を務めていること。広島は平和の街で、カタカナでヒロシマと書くとまた別の意味を持つ街であること、その他に客演して回っている札幌、仙台、横浜、名古屋など全ての街に美術館や劇団があって文化が大切に育まれていることを語り、それも全て平和があるからこそで、平和のためにあるものでもあるとして、自身がオーケストラのために編曲したというプーランクの「平和のためにお祈りください」をアンコールとして演奏する。
「京都市交響楽団をこれからもよろしくお願いします」と下野は言って演奏スタート。切実な歌詞と哀感に満ちた旋律を持つ楽曲なのであるが、下野の編曲によって穏やかで安らぎを感じさせる素朴でささやかな祈りへと変わっていた。

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