カテゴリー「びわ湖ホール」の51件の記事

2022年12月 1日 (木)

コンサートの記(816) 沼尻竜典オペラセレクション NISSAY OPERA 2022 ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」@びわ湖ホール

2022年11月27日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典オペラセレクション NISSAY OPERA 2022 ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」を観る。演奏は、沼尻竜典指揮日本センチュリー交響楽団。演出は粟國淳。出演はWキャストで、今日の出演は、小堀勇介(アルマヴィーヴァ伯爵)、山下裕賀(やました・ひろか。ロジーナ)、黒田祐貴(フィガロ)、久保田真澄(バルトロ)、斉木健詞(ドン・バジリオ)、守谷由香(ベルタ)、川野貴之(フィオレッロ)、木幡雅志(隊長)、宮本俊一(みやもと・としかず。アンブロージョ)、及川貢(公証人)。ギター演奏:黄敬(こう・けい)。チェンバロ演奏:平塚洋子。合唱:C.ヴィレッジシンガーズ。

オペラ作曲家として一大ブームを築きながら、37歳の若さで引退したということもあり、多くの作品が序曲のみが知られるだけの存在となっているジョアキーノ・ロッシーニ。20世紀も後半になると作品の見直しが始まり、いくつかの作品は上演されたり録音されたりするようになっているが、生前から途切れることなく上演されているのは、「セビリアの理髪師」だけである。

「セビリアの理髪師」は、ボーマルシェによるフィガロ三部作の第1弾である。第2作の「フィガロの結婚」は先にモーツァルトが作曲しており、オペラ作品の中でも1、2を争うほどの人気作となっているが、「セビリアの理髪師」も「フィガロの結婚」効果が影響したのか否かは正確には不明であるが、「フィガロの結婚」の前日譚ということで人気を集めた可能性は大いにあると思われる。

フィガロは、理髪師ということになっているが、「私は街のなんでも屋」というアリアが示すとおり、理髪だけではなく外科手術や遺体の処理なども行う卑賤の身分である。フィガロは自分の店を持っているようだが(演出によってはフィガロの妄想ということになったりもする)基本的にはホームレスで生活している人々であり、バルトロ博士が内科医でエリートである一方で、同じ医術を扱っていてもこの当時の外科関係者(理髪師が兼ねていた。今も理髪店には外科関係を扱っていた時の名残であるサインポールが設置されていることが多い)は他人の体に触れる仕事ということで被差別民の扱いであった。
このオペラには伯爵身分であるアルマヴィーヴァ伯爵、貴族身分を表す「ドン」の付くバルトロやバジリオなどが登場するが、そうした身分差をはねのけて活躍するフィガロの姿が痛快であったりする。

粟國淳の演出は、テント小屋内(赤テント風)を表すような背景と回り舞台(美術:横田あつみ)を駆使したもので、物語が図式化される部分があるなど、分かりやすいように工夫がなされ、またテント芝居や見世物小屋のような活気を舞台上にもたらしていた。出演者達の踊り(振付:伊藤範子)や身のこなしなども楽しい。

歌唱もかなり充実。若手中心のキャストだと思われるが、声量に声の張りと艶、心理描写の巧みさなど、私の想像する日本人オペラ歌手の歌唱を超えたレベルで歌われており、かなり頼もしい。

沼尻の指揮する日本センチュリー響も、イタリアオペラらしいカンタービレや音のキレ、迫力満点のロッシーニクレッシェンドなど、かなり上質の演奏を展開しており、沼尻の円熟とセンチュリー響の成長を実感させる出来となっていた。

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2022年8月 2日 (火)

コンサートの記(794) びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」

2022年7月18日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」を観る。

ヴェルディ最後のオペラとなった「ファルスタッフ」。シェイクスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作に、作曲家としても名高いアッリーゴ・ボーイトが台本を手掛け、一度は引退を決意していたヴェルディが最後の情熱を燃やして作曲した作品としても知られる。ボーイトの台本にヴェルディはかなり魅了されたようだ。
ヴェルディは、悲劇作家であり、喜劇オペラ(オペラ・ブッファ)は、2作品しか残さなかった。そのうちの1つが「ファルスタッフ」である。


園田隆一郎指揮大阪交響楽団(コンサートマスター:林七奈)の演奏。演出は、国立音楽大学を経てミラノ・ヴェルディ音楽院に学び、多くの著名演出家の演出助手として活躍した経験を持つ田口道子。出演はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーを中心としたWキャストで、今日はB組の出演。青山貴(ファルスタッフ)、市川敏雅(フォード)、清水徹太郎(フェントン。本来出演予定だった有本康人が体調不良で降板したため、A組の清水が出演)、古屋彰久(カイウス)、奥本凱哉(おくもと・ときや。バルドルフォ)、林隆史(はやし・たかし。ピストーラ)、山岸裕梨(やまぎし・ゆり。アリーチェ。インスペクター兼任)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。ナンネッタ)、藤居知佳子(クイックリー夫人)、坂田日生(さかた・ひなせ。メグ・ペイジ)。合唱も、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが出演する。


上演の前にまず、演出家の田口道子によるお話がある。新型コロナがまた勢いを増しているということでマスクを付けてのトークである。
ヴェルディが「ファルスタッフ」を作曲しようと思い立ったきっかけ(ボーイトの台本の存在感)、ヴェルディが初めて手掛けた喜劇オペラが上演最中に打ち切りになったこと、ヴェルディのその時の心境(妻と娘を亡くした中で喜劇オペラを作曲していた)などが語られる。
またオペラが総合芸術であり、あらゆる芸術が詰め込まれた豪華なものであること。一方で、初めて観る人にも分かりやすい演出を心がけたことなどが語られた(後方のスクリーンに映像を投影させる(「紙芝居のような」演出であった)。


実は、原作となったシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房達たち」は、シェイクスピア作品のワースト争いの戯曲として知られている。偽作説まであるほどだが、エリザベス女王の御前上演会のために短期間で書かれたこと、そもそも本格上演用ではなく余興用の台本だったことなどがマイナスに作用したという説が有力である。猥語の頻用、奇妙なフランスなまりの英語、子どもだましのような展開など、「偽作」と言われるだけの要素が多いが、この作品のオペラ化を試みた作曲家もヴェルディのみに留まらず、ファルスタッフという人物が多くの人々を魅了してきたことも窺える。
ボーイトは、オペラ用台本ということで、当然ながら筋や登場人物をカットしたものを書いているのだが、それが上手くいったようである(同じような場面をカットした効果は大きい)。初演時から好評を得ており、今に至るまでヴェルディ屈指の人気作となっている。


ガーター亭で過ごしているファルスタッフが、金策のためにアリーチェ・フォードとメグ・ペイジという金持ちの夫人二人に恋文を送ろうとするところから始まる(シェイクスピアの原作はそれよりも前に色々な展開があるのだがカットされている)。バルドルフォとピストーラという使用人になぜか拒否されるが、恋文はアリーチェとメグに届く。
ところが文面が全く同一のものであったため、アリーチェとメグは激怒。ファルスタッフを懲らしめてやることにする。一方、アリーチェの娘であるナンネッタはフェントンに恋しているのだが、父親のフォードは、金持ちの医者であるカイウスと娘の結婚を画策していて……。


恋と嫉妬、復讐を果たすまでの頭脳戦と予期せぬドタバタ、道ならぬ恋など、オペラで受けそうな要素が満載である。やはり演劇と歌劇とでは客受けの良いものが微妙に異なっている、というよりも客に受けそうな要素だけでボーイトが脚本を編んだのが良かったようだ。常識的に考えて変な場面も実は多いのだが、そこは音楽の力で増強増補していく。

田口道子の演出は、滑稽な動きを強調したものであり、特にファルスタッフ役の青山貴とクイックリー夫人役の藤居知佳子の演技は、チャーミングでもあり、コメディの要素も生かし切っていた。
アリーチェ役の山岸裕梨とメグ・ペイジ役の坂田日生の安定感、またナンネッタ役の熊谷綾乃の可憐さを強調した演技も説得力があった。

園田隆一郎指揮大阪交響楽団も活きの良い演奏を聴かせる。大阪交響楽団は、大阪府内に本拠地を置くコンサートオーケストラの中で最も歴史が浅く、演奏会ではたまに非力さを感じさせたりもするのだが、びわ湖ホール中ホールは空間がそれほど広くないということもあって、迫力も万全である。
イタリアオペラを指揮することの多い園田隆一郎の絶妙のカンタービレも流石であった。

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2022年3月18日 (金)

コンサートの記(767) 沼尻竜典指揮京都市交響楽団ほか びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナー 舞台神聖祝典劇「パルジファル」

2022年3月6日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後1時から、びわ湖ホール大ホールで、びわ湖ホール プロデュースオペラ ワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」を観る。ワーグナー最後の舞台音楽作品となっており、ワーグナー自身はバイロイト祝祭劇場以外での上演を認めなかった。

中世ドイツ詩人のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩「パルチヴァール」が現代語訳(当時)が出版されたのが1842年。ワーグナーはその3年後にこの本を手に入れているが、これを原作とした舞台神聖祝典劇という仰々しい名のオペラ作品として完成させるのは、1882年。40年近い歳月が流れている。

セミ・ステージ形式での演奏。指揮は沼尻竜典、演奏は京都市交響楽団(コンサートマスター:泉原隆志)。演出は伊香修吾。出演は、青山貴(アムフォルタス)、妻屋秀和(ティトゥレル)、斉木建詞(グルネマンツ)、福井敬(パルジファル)、友清崇(クリングゾル)、田崎尚美(クンドリ)、西村悟、的場正剛(ともに聖杯の騎士)、森季子(第1の小姓)、八木寿子(第2の小姓、アルトの声)、谷口耕平(第3の小姓)、古屋彰久(第4の小姓)、岩川亮子、佐藤路子、山際きみ佳、黒澤明子、谷村由美子、船越亜弥(以上、クリングゾルの魔法の乙女たち)。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル。合唱はマスクを付けての歌唱である。

ステージ前方に白色のエプロンステージが設けられており、同じ色の椅子が並んでいる。出演者達はここで歌い、演技する。客席の1列目と2列目に客は入れておらず、プロンプターボックスの他にモニターが数台並んでいて、これで指揮を確認しながら歌うことになる。
ステージ後方には階段状の二重舞台が設けられており、短冊状の白色の壁が何本も立っていて、ここに映像などが投影される。
小道具は一切使用されず、槍なども背後の短冊状の壁に映像として映し出される。

びわ湖ホールで何度も印象的な演出を行っている伊香修吾だが、セミ・ステージ形式での上演ということで思い切った演出は出来なかったようで、複雑な工夫はしていない。


「パルジファル」に先だって、ワーグナーは当時傾倒していた仏教と輪廻転生をテーマにした「勝利者たち」という楽劇を書く予定であった。実現はしなかったが、「勝利者たち」のヒロインがその後に、「パルジファル」のクンドリの原型となっている。


ワーグナー最後のオペラとなった「パルジファル」であるが、何とも謎めいた作品となっている。聖杯伝説が基になっており、キリストが亡くなった時にその血を受けた聖杯と十字架上のキリストを刺したといわれる聖槍(「エヴァンゲリオン」シリーズでお馴染みのロンギヌスの槍である)が重要なモチーフとなっている。モンサルヴァートの城の王であるアムフォルタスは、キリストをなぞったような性質の人物であり、聖槍を受けて、その傷が治らないという状態は、危殆に瀕したキリスト教という当時の世相が反映されている。
中世には絶対的な権威を誇ったキリスト教であるが、19世紀も末になると無神論が台頭するなど、キリスト教の権威は失墜の一途を辿っていた。

「アムフォルタスの傷を治す」と予言された「苦しみを共に出来る聖なる愚か者」に当たる人物がパルジファルである。モンサルヴァートの森で白鳥を射落として取り押さえられた男こそパルジファルであるが、彼は自分の名前も、出自も何一つ知らないという奇妙な人物である。白鳥が神の化身であることは「ローエングリン」で描かれているが、パルジファルは特に理由もなく白鳥を射落としている。

「これこそ救済を行う聖なる愚か者なのではないか」と思い当たった騎士長のグルネマンツは、パルジファルに聖杯の儀式を見せる。だがパルジファルは儀式の意味を理解出来ず、グルネマンツによって城から追い出される。

モンサルヴァートの城にはクンドリという不思議な女性がいる。最初は聖槍によって傷つけられたアムフォルタスのために薬を手に入れたりしているのだが、クンドリにはもう一つの顔があり、第2幕では魔術師のクリングゾルに仕えてモンサルヴァートの騎士達の破滅を狙う魔女として登場する。クリングゾルも元々は騎士団に入ることを希望する青年だったのだが、先王ティトゥレルに拒絶され、妖術使いへと身を堕としていた。ただ妖術の力は確かなようであり、魔の園に迷い込んだパルジファルの正体を最初から見抜いている。第2幕ではクリングゾルに命じられたクンドリがパルジファルに言い寄って破滅させようとするのだが、逆にパルジファルは覚醒してしまい、アムフォルタスに共苦する。パルジファルはクリングゾルが放った聖槍を奪い、魔の園を後にする。
そして長くさすらった後で、モンサルヴァート城に戻り、救済者となる。最後の歌は、合唱によるもので「救済者に救済を!」という意味の言葉で終わる。


かなり複雑で不可解な進行を見せる劇であり、最後に歌われる「救済者」というのがイエス・キリストなのかパルジファルなのかもはっきり分かるようには書かれておらず、様々な説がある。

分かるのは、旧来のキリスト教に代わり、あるいはキリスト教を補助する形で新たなる信仰が生まれるということである。少なくとも誰もが疑いを持たずにキリストを信仰出来る時代は終わっている。新たなる何かが必要で、それを象徴するのがパルジファルである。最初は無垢で無知だったのに、突如目覚めて賢人となり、キリストの後を継ぐもの。それは何か。おそらく「音楽」が無関係ということはないだろう。この時代、音楽はすで文学や政治と絡むようになっており、ただの音楽ではなくなっている。
新たなる信仰の誕生、そこに音楽や芸術が関わってくるというのは、決して突飛な発想ではないように思う。
クンドリの原型が仏教を題材にしているということで、仏教がキリスト教を補完するという、おそらく正統的な形についても考えてみる。四門出遊前のゴータマ・シッダールタは、シャカ族の王子として何も知らぬよう育てられた。父王が聖者から「出家したらブッダになる」と預言され、国のことを考えた場合、王ではなくブッダになると困るので、世間を知らせぬようにとの措置だった。だが、四門出遊(ゴータマが王城の4つの門から出て、この世の現実を知るという出来事)により「生病老死」の「四苦」を知り、出家。「抜苦与楽(慈悲)」へと行き着く。そうしたゴータマからブッダになる過程をパルジファルが担い、イエスの化身ともいうべきアムフォルタスの苦を除く。ストーリーとしてはあり得なくもないが、木に竹を接ぐ感は否めない。当時のヨーロッパにおける仏教理解はかなりの誤解を含んでいたと思われる。


沼尻の音楽作りは、いつもながらのシャープでキレのあるもので、スケールをいたずらに拡げず、細部まで神経を通わせている。おどろおどろしさは余りないが、その方が彼らしい。

京都市交響楽団も音色に華があり、威力も十分であった。沸き続ける泉のように音に生命力がある。

歌手達も充実。動き自体は余り多くなかったが、その分、声の表情が豊かであり、神秘的なこの劇の雰囲気を的確に表現していた。

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2022年3月16日 (水)

観劇感想精選(432) 野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』@びわ湖ホール2022春

2022年3月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後5時から、びわ湖ホール中ホールで、野村万作・野村萬斎狂言公演『名取川』『止動方角』を観る。「名取川」は、先日、茂山千五郎家の公演で観たばかりなので、比較が出来る。

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まず高野和憲による解説がある。「カラスと雀が親子という話があります。カラスが『コカー、コカー』と鳴き、雀が『チチ、チチ』と応える。これで笑えないと狂言では笑えません」といった話から、狂言における約束事、更に「名取川」と「止動方角」の内容の紹介を行い、「伝統芸能なので、パンフレットに書かれていること以外は起こりません」と語る。「止動方角」には馬が登場し、歌舞伎と違って一人で演じる必要があるのだが、無理な姿勢を続ける必要があり、更に「止動方角」の上演時間は一般的な狂言の演目よりかなり長く、40分ほどあるため、かなり大変だという話もしていた。
最後に高野は、「今苦しい思いをなさっている方もいらっしゃるかも知れません。今日、狂言を観ても何も変わりません。ただ、狂言に出てくる人は失敗ばかりする。それでもたくましく生きている」ということがメッセージになれば、という意味の話で締めた。


「名取川」。出演は、野村万作(僧)、内藤連(名取の何某)。地謡:野村萬斎、高野和憲、野村裕基。後見:石田幸雄。地謡が3人いるのが、茂山千五郎家(大蔵流)と和泉流の違いである。

大蔵流では、シテの僧が自己紹介をする前に謡と舞を行っていたが、和泉流ではそれはない。
遠国(名取川という地名から奥州出身であることが分かる)出身の僧が、受戒をしないと正式な僧侶と認められないというので、比叡山まで出て、戒を授かった。その後、ある寺の大稚児と小稚児から僧としての名前を付けて貰うことにする。僧は大稚児から「希代坊」、小稚児から替え名である「不肖坊」という名を授かる。大蔵流では名の意味が説明されるのだが、和泉流ではそれはない。僧は記憶力が悪いため、大稚児と小稚児に頼んで、名を袖に墨で書き付けて貰った。それでも思い出せないと困るというので、様々な節を付けて謡いながら進む。そうしている内に、現在の宮城県名取市と仙台市の間を流れる名取川という川に差し掛かった僧は、「水かさが増して濁っているが、徒歩で渡れる」と見て、そのまま川へと入るのだが、中央付近は思いのほか深く、水に飲まれてしまう。流されたものはないかと確認し、ものは紛失していないことが分かって一安心の僧であったが、袖に書き付けて貰った僧侶としての名は流れてしまっていた。僧は、「まだ掬えるかも知れない」となぜか思い、笠で名を掬おうとする。これで地謡が「川づくし」の謡を行い、僧が舞う。野村万作は今年で91歳。流石にキレは失せたが、年齢を考えると驚異的に体が動く。

そこに名取の何某が現れ、「名は掬えず雑魚ばかり」とこぼしている僧を、「殺生を行っている」と勘違いして詰め寄る。訳の分からぬことを述べる僧に、名取の何某は、「希代」「不肖」の独り言を述べて、僧が名を思い出すという趣向である。


「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村裕基(主)、石田幸雄(伯父)、飯田豪(馬)。後見は内藤連。

京の東山で茶くらべがあるというので、主が太郎冠者に、「伯父のところへ行って、極上の茶と太刀、それに馬を借りてこい」と命じる。主の家にも茶はあるのだが、「まだ封を切っていない」という謎の理由で借りてこいと命じる、ということでかなりの吝嗇家であることが分かる。一人で借りてこいという命令に、野村萬斎演じる太郎冠者は例によって言い方にアレンジを加え、不承不承であることや主に呆れていることを表す。

上手いこと伯父から茶、太刀、馬を借りることに成功した太郎冠者であるが、伯父から、「この馬は後ろで咳をすると暴れ出す」というので、馬を鎮めるための「寂蓮童子、六万菩薩、鎮まり給え、止動方角」という呪文を授かる。

大成功ということで、意気揚々と戻ってきた太郎冠者であるが、主に「遅い!」と叱責され……。

主を馬に乗せ、わざと背後で咳をして落としたり、立場を入れ替えることになったり(主が太郎冠者になり、太郎冠者が主という設定で進める)という太郎冠者のいたずらが見所。無理無体を言う主に対する復讐劇であるが、太郎冠者も意地が悪そうなのがリアルである。

王子系のルックスである野村裕基、立ち振る舞いも凜々しく、メディアへの露出が増えるにつれて狂言界のアイドルとなりそうな予感がある。

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2022年2月21日 (月)

観劇感想精選(427) 文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」@びわ湖ホール

2022年2月13日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて観劇

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、文化芸術×共生社会フェスティバル 朗読劇「かもめ」を観る。作:アントン・チェーホフ、台本・演出:松本修(MODE)。

滋賀県が、令和2年3月に作成した「滋賀県障害者文化芸術活動推進計画」に基づいて行われる、「障害のある人やない人、年齢のちがう人、話す言葉がちがう人など、さまざまな人が支えあうことで、だれもが自分らしく活躍できる滋賀県をつくる」ために発足した「文化芸術×共生社会プロジェクト」の一つとして行われる公演である。

出演者は、数人のプロフェッショナルや演技経験者を除き、オーディションで選ばれたキャストによって行われる。オーディションは、演技経験や障害の有無を問わずに行われ、約3ヶ月の稽古を経て本番を迎える。一つの役に複数の俳優(読み手)が扮し、幕ごとに役が交代となる。朗読劇であるが、座ったまま読むだけでなく、立ち上がって動きを付けたり、経験豊富な俳優は一般上演さながらの演技も行う。

出演は、花房勇人、吉田優、保井陽高、山下佐和子(以上、トレープレフ)、木下菜穂子(元俳優座)、齋藤佳津子、住田玲子(以上、アルカージナ)、廣田誠一、江嶋純吉、山口和也(以上、トリゴーリン)、平川美夏、高木帆乃花、服部千笑、西田聖(以上、ニーナ)、大辻凜、西山あずさ、飯田梨夏子、伊東瑛留(以上、マーシャ)、大田新子、梅下節瑠、横田明子、藤野夏子(以上、ポリーナ)、孫高宏(兵庫県立ピッコロ劇団)、小田実(以上、シャムラーエフ)、布浦真(ドールン)、清水亮輔、佐藤海斗(以上、メドヴェージェンコ)、HERO、森川稔(以上、ソーリン)。
ナレーター:孫高宏&清水洋子。ピアノ演奏:松園洋二。松園は、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」などのロシア音楽を中心に演奏。第4幕のトレープレフが舞台裏でピアノを弾くという設定の場面では、ショパンの夜想曲第20番(遺作)を奏でた。

聴覚障害者のため、舞台下手側で手話通訳があり、背後のスクリーンにもセリフが字幕で浮かぶ。また視覚障害者のためには、点字によるパンフレットが配布された。

湖のほとりを舞台とした芝居であるチェーホフの「かもめ」。それに相応しい湖畔の劇場であるびわ湖ホール中ホールでの上演である。
また、スクリーンには、滋賀県内各地で撮られた琵琶湖の写真が投影され、雰囲気豊かである。

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新劇の王道作品の一つである「かもめ」であるが、接する機会は思いのほか少なく、論外である地点の公演を除けば、新国立劇場小劇場で観たマキノノゾミ演出の公演(北村有起哉のトレープレフ、田中美里のニーナ)、今はなきシアターBRAVA!で観た蜷川幸雄演出の公演(藤原竜也のトレープレフ、美波のニーナ)の2回だけ。マキノノゾミ演出版はそれなりに良かったが、蜷川幸雄演出版は主役の藤原竜也が文学青年にはどうしても見えないということもあり、あらすじをなぞっただけの公演となっていて、失敗であった。蜷川は文芸ものをかなり苦手としていたが、「かもめ」も省略が多いだけに、表現意欲が大き過ぎると空回りすることになる。

今回の「かもめ」であるが、演技経験を問わずに選ばれたキャストだけに、発声などの弱さはあったが(字幕があったためになんと言ったか分かったことが何度もあった)、きちんとテキストと向き合ったことで、セリフそのものが持つ良さがダイレクトに届きやすいという点はかなり評価されるべきだと思う。テキストそのものに力があるだけに、余計なことをしなければ、「かもめ」は「かもめ」らしい上演になる。第4幕などはかなり感動的である。涙が出たが、人前で泣くのは嫌いなので指で拭って誤魔化した。


「かもめ」は、「余計者」の系譜に入る作品である。主人公のコンスタンチン・トレープレフは、有名舞台女優のアルカージナの息子であり、教養も高く、天分にもそれなりに恵まれた青年であるが、これといってやることがなく、日々を無為に過ごしている。彼が湖畔の仮設舞台で、ニーナを出演者として上演した演劇作品は、生き物が全くいなくなった世界で、それまでの生物の魂が一つになるという、先端的な思想を取り入れたものであり、観念的であるが、注意深く内容を探ってみると、トレープレフ本人が他の多くの人間よりも優れているという自負を持って書いたものであることが分かる。トレープレフが凡人を見下したセリフは実際に第3幕で吐かれる。トレープレフは、恋人であるニーナも当然ながら見下している。大した才能もないのに女優を夢見る世間知らずのお嬢ちゃん。おそらくそう受け止めていただろう。

「かもめ」でよく指摘されるのが、片思いの連鎖である。トレープレフはニーナと恋人関係にあるが、ニーナはトレープレフよりも売れっ子作家であるトリゴーリンへと傾いていく。管理人であるシャムラーエフとポリーナの娘であるマーシャはトレープレフのことが好きだが、トレープレフはマーシャの行為を受け容れないどころか迷惑がっている。そんなマーシャを愛しているのが、目の前の事柄にしか注意が向かない、教師のメドヴェージェンコである。マーシャはトレープレフの芸術気質に惚れているので、当然ながら給料が足りないだの煙草代が必要だのとシミ垂れたことをいうメドヴェージェンコのことは好みではない。

通常は、「片思いの連鎖」という状況の理解だけで終わってしまう人が多いのだが、それが生み出すのは壮絶なまでの孤独である。分かって欲しい人、その人だけ分かってくれれば十分な人から、分かっては貰えないのである。
トレープレフは、女優である母親から自作を理解されず(トレープレフがエディプスコンプレックスの持ち主であることは、直接的には関係のない場面でさりげなく示唆される)、ニーナもトリゴーリンの下へと走る。ニーナはトリゴーリンと共にモスクワに出たはいいが、トリゴーリンは文学には関心があるものの演劇は見下しており、あっけなく捨てられる。マーシャは結局はメドヴェージェンコと結婚するのだが、その後もメドヴェージェンコを完全に受け容れてはおらず、トレープレフに未練がある。

そうした状況の中で、トレープレフは作家としてデビューすることになるのだが、評価は決して高くなく、中島敦の小説の主人公達のように「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にさいなまれている。作家にはなったが成長出来ていない。相変わらず他人を見下しているが、その根拠がないことに自身でも気付いている。
そこにニーナがふらりと訪ねてくる。同じ町に宿泊していたのだが、会いたくてなんどもトレープレフの家に足を運んでいたのだ(かつて自身がトレープレフの台本で演じた仮説舞台で泣いていたのをメドヴェージェンコに見られていたが、メドヴェージェンコはそれを幽霊か何かだと勘違いしていた)。
一時、追っかけのようなことをしていたため、ニーナの演技力について知っていたトレープレフは、相変わらずの何も分からない女の子だと、ニーナのことを見なしていた。それは一種の、そして真の愛情でもある。少なくとも劇の始まりから終わりに至るまで、彼がニーナを愛していない時間などただの1秒もないのであるが、至らない女性であるニーナは自分の下に戻ってくると高をくくっていたかも知れない。
だが、目の前に現れたニーナは、精神的に追い詰められていたが、自立した女性へと変身していた。トレープレフはいつの間にか追い抜かれていたのである。そして自分より上になったニーナはもう自分のものにはならない。こうなると小説家になったのもなんのためだったのか分からなくなる。

ロシアの「余計者」文学の系譜、例えばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン(私が読んだ岩波文庫版のタイトルは『オネーギン』)』などでもそうだが、当初は見下してた女性が、気がついたら手の届かない存在になっており、絶望するというパターンが何度も見られる。余計者であるが故の鬱屈とプライドの高さが生む悲惨な結末が、男女関係という形で現れるからだろうか。他の国の文学には余り見られないパターンであるため不思議に感じる(相手にしなかった男が出世しているという逆のパターンは良くあるのだが)。
ただ言えるのは、それが遠のいた青春の象徴であるということある。あらゆる夢が詰まっていた青春時代。多くの選択肢に溢れていたように「見えた」季節の終わりを、観る者に突きつける。その胸をえぐられるような感覚は、多くの人が感じてきたはずのことである。

庶民を主人公としたために初演が大失敗に終わった「かもめ」。だが、我々現代人は登場人物達の中に自身の姿を発見する。そうした劇であるだけに、「かもめ」は不滅の命を与えられているといえる。

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2022年1月30日 (日)

コンサートの記(761) 沼尻竜典作曲・指揮 歌劇「竹取物語」2022@びわ湖ホール(セミ・ステージ形式)

2022年1月23日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

大津へ。琵琶湖岸から見る比叡山や比良山系、東の三上山などには霞やもやが掛かり、文人画のような趣がある。曇り空を反映した湖面も穏やかであり、カイツブリ以外に動くものは見受けられない。

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午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、沼尻竜典作曲・指揮による歌劇「かぐや姫」を観る。オーケストラピットを囲む形でエプロンステージを設け、そこで歌手達が演じるセミ・ステージ形式での上演。オーケストラピットの後方には間口の広い階段状のステージがあり、合唱(びわ湖ホール声楽アンサンブル)が歌う。その背後にはスクリーンがあり、竹取翁の家や都の大内裏の絵、月などが投影される。

日本最古の物語とされる「竹取物語」を題材としたオペラ。沼尻が手掛けた台本は原典の流れに比較的忠実であるが、オペラ的な要素も当然ながら取り込んでいる。

演奏は日本センチュリー交響楽団。演出は栗山昌良。栗山が高齢ということで中村敬一が演出補として入っている。出演は、砂川涼子、迎肇聡(むかい・ただとし)、森季子(もり・ときこ)、松森治、谷口耕平、市川敏雅、平欣史、晴雅彦、美代開太、有本康人、八木寿子、久保田考揮(大津児童合唱団)ほか。

沼尻が作曲した音楽は、日本的な「よな抜き」も用いた調性音楽であるが、たまに不協和音なども加わる。かぐや姫に求婚した公達達が成果を発表する場では、アコーディオンを加えたシャンソン風のものが奏でられたり、派手なブロードウェイミュージカル風のナンバーが加わったり、ハナ肇とクレイジーキャッツ風のコミカルソングが出てきたりと多彩な表情を持つ。

竹取の翁(迎肇聡)が光る竹の中に赤子を見つける場面から始まり、媼(森季子)と共に娘として育てることに決め、名付けを住職に頼もうとする。
瞬く間に成長したかぐや姫(砂川涼子)に婿を取らせようとする翁と媼であるが、かぐや姫はずらりと揃った5人の公達達一人ひとりに難題を与える。おそらくこの場面でのかぐや姫の態度は、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」をなぞる形で書かれていると思われる。沼尻が2015年に書いたプログラムノートの「冷たい心を持ったかぐや姫」という文言からもそれは察せられる。求婚してくる者に同じ謎かけをし、答えられなかった者(全員であるが)の首を容赦なくはねたトゥーランドット姫。一方で、かぐや姫の場合は、無理難題を言うが、個別に、というところが特徴である。トゥーランドット姫のように1つの難題を与えて5人に競わせるという形でも一向に構わないと思われるのだが、そうしないところに私はかぐや姫の優しさを見る。原作の解釈も同様で良いと思われるのだが、1つの難題を与えて競わせると、当然ながら諍いが生じてしまう。場合によっては殺し合いなどに発展する可能性もある。かぐや姫は個別に難題を与えることでそれを避けたのではないか、と私はこれまでも思ってきた。

難題を与えたのは、そうすれば全員が諦めると思ったからと推察する。だが、実際は、かぐや姫を手に入れるために公達達は奮闘、転落して命を落としてしまう者も出る。そのことに対するかぐや姫の態度の記述は原作にはなかったと思われるが、今回のオペラでは落命する者が出たことにかぐや姫は激しく動揺する。

かぐや姫は、罪を犯して月から追放され、地球に「再生」という形でやってくるのだが、おそらく月に帰るための試練を与えられていたと思われる。「罪」については実は明かされることはないのだが、おそらくは「男と情を交わした」のだろうと推測される。月の住人には寿命がなく、永遠に生きることが出来るのだが、その場合は子孫を設ける必要がない。ということは異性と良い仲になる必要がないということであり、それを破った場合は「罪あり」とされるのではないかとの推理が成り立つ。そして地球に落とされたかぐや姫には懸想する男達を交わすというミッションが与えられているのではないだろうか。
ただそれ以上に、「月に戻る身なのだから、所帯を持った場合、夫を傷つけることになる」とわきまえての行動だったのではないかという気が私にはしている。よくある「かぐや姫=わがまま女説」は私は支持しない。帝の寵愛を受ける好機が訪れてもそれを固辞するのも私は同様の優しさであると捉えている。

そうして、ミッション遂行のために心を閉ざしていたかぐや姫が、帝と和歌のやり取りを重ねる内に地球への愛着を持っていく過程が歌われる。その経過は、ある意味「トゥーランドット」よりも鮮やかである。「去りがたいのに去らねばならない」というジレンマのドラマがあるが、それはこの世界への肯定にも繋がっている。


昨日は幸田浩子が歌ったかぐや姫を今日は砂川涼子が歌う。声の質自体は、個人的には幸田浩子の方が好みだが、砂川涼子のクリアな歌声もかぐや姫の一種の儚さを却って引き立たせていたように思う。狂言回しとコミックリリーフの役目を合わせ持った翁と媼を演じる迎肇聡と森季子の存在感も印象的。トゥーランドット姫のような衣装を纏った月よりの使者役の八木寿子の威厳ある佇まいも、月世界のトゥラーンドット姫的冷たさと、日本版トゥーランドット姫からきめ細かな心遣いが出来る女性へと変わったかぐや姫との対比を鮮やかに見せてくれる。

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2021年10月14日 (木)

コンサートの記(748) びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニ 歌劇「つばめ」2021.10.10

2021年10月10日 大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニの歌劇「つばめ」を観る。園田隆一郎指揮大阪交響楽団の演奏。演出は伊香修吾。なお、園田と伊香は、今月下旬にフェニーチェ堺大ホールで日本語訳詞によるプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を上演する予定である(演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団)。
ダブルキャストで今日の出演は、中村恵理(マグダ)、熊谷綾乃(リゼット)、谷口耕平(ルッジェーロ)、宮城朝陽(プルニエ)、平欣史(ランバルド)、市川敏雅(ペリショー)、有本康人(ゴバン)、美代開太(クレビヨン)、山岸裕梨(イヴェット)、阿部奈緒(ビアンカ)、上木愛李(スージィ)ほか。原語(イタリア語)歌唱、日本語字幕付きでの上演。字幕担当は藪川直子。伊香修吾が字幕監修も行っている。

なお、東京ヤクルトスワローズにマジックナンバーが点灯しているが、「つばめ」ということで、舞台袖ではつば九郎の人形が見守っていることがSNSで紹介されていた。

上演開始前に、伊香修吾によるお話がある。注目の若手オペラ演出家である伊香修吾。東京大学経済学部を経て、同大学院経済学研究修士課程を修了するが、そのまま経済学やビジネス方面には進まず、英国ミドルセックス大学大学院舞台演出科修士課程を修了し、ザルツブルク音楽祭、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フォルクスオーパーなどで研鑽を積んだという比較的変わった経歴の持ち主である。びわ湖ホール オペラへの招待では、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の演出を手掛けている。

伊香は、まず「つばめ」が初演された時代の背景について、ココ・シャネルをモデルに語る。ココ・シャネル(「ココ」は愛称で、本名はガブリエル・シャネル)が、パリにサロンを開いたのが、今から丁度100年前の1921年のこと。シャネルのサロンには、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが出入りしていたという。
行商人の娘として生まれたシャネルは、12歳の時に母親を亡くし、父親はフランス中を旅していてそばにいられないということで教会が運営する孤児院に入れられ、そこで育つことになる。その後、22歳の時にキャバレーで歌手としてデビュー。この時代にはまだ歌手や女優というのは売春婦と同義語であり、シャネルも元将校の愛人となって、歌手として大成は出来なかったものの、後にデザイナーとして頭角を現していくことになる。シャネルだけが特別なのではなく、この時代は資産家の愛人となる以外に資金を得たり自立したりといった術はほとんどなく、今とは女性の存在価値自体が大きく異なっていた。これが「つばめ」が初演された時代のパリである。

「ラ・ボエーム」と背景が似ているといわれる「つばめ」であるが、シャネルの例からもわかる通り、この時代のフランスは女性の地位が著しく低く、貴族階級の生き残りや新興のブルジョワジーなどの良家や資産家に生まれなかった女性は、低賃金労働に従事せざるを得ず、それでも搾取の対象で、どれだけ働いても生活するのに十分な金銭を稼ぐことは到底無理であり、愛人として囲われたり、売春をして日銭を稼ぐしかなかった。その中で特に寵愛を得た者は高級娼婦(クルティザンヌ)となっていく。「椿姫」のヴィオレッタ(原作ではマルグリット)が特に有名だが、「つばめ」のヒロインであるマグダも銀行家のランバルドをパトロンとする高級娼婦である。

「つばめ」は、プッチーニの歌劇の中でも人気がある方ではなく、上演される機会も少ない。ということで伊香は、プッチーニが上演の機会に恵まれない「つばめ」のことを気に掛けながら亡くなったということを紹介してから、「これが『オペラへの招待』のみではなく『つばめ』への招待となるように」「皆様が『つばめ』のようにびわ湖ホールに舞い戻って来られますように」という話もしていた。タイトルとなっている「つばめ」は、マグダの性質を燕に重ねたものである。渡り鳥である燕は、遠く海を越えた場所へと飛び去っていくが、1年後に元の巣へと戻ってくることで知られている。

3幕からなる歌劇。第1幕はマグダのサロン、第2幕はブリエの店(ダンスホール)、第3幕は南仏コート・ダジュールが舞台となっている。今回の上演では舞台となる時代は、第二帝政期から1920年代に置き換えられている。

サロンの運営者であるマグダは、豪奢な生活を送っている。不満も述べるマグダだが、他の夫人からは、「貧乏していないから分からないのよ」とたしなめられる。マグダは少女時代に、ブリエの店(今もその名残はあるが、この頃のダンスホールはちゃんとした身分の人はほとんどいない場所である)で若い男性に一目惚れする。まだ男を知らなかったマグダは恐怖心を抱いて逃げてしまったため、この初恋は2時間しか持たなかったが、マグダはまたあの時のようなときめきを味わいたいと語る。
サロンに出入りする詩人のプルニエは、戯曲なども書いているようで、2時間のみの恋を題材にした作品を書こうと語ったりするのだが、手相も見られるようで、マグダの手相を見て、「運命に導かれ、つばめのように海を越え、愛を目指すだろう」(伊香修吾の訳)と診断する。そこにランバルドの旧友の息子であるルッジェーロがやって来る。パリは初めてのルッジェーロが「パリを観光するならまずどこに」と聞くと、プルニエは、「ブリオの店だ」と即答し……。

高級娼婦というのは、愛人の援助を受けて、場合によっては社会的な成功を収めることも可能だが、基本的に好きな男性と結婚することは出来ない。マグダも身分を隠したままルッジェーロと恋に落ちるが、身分故に最初から結婚に行き着くことは不可能であり、また元の場所へと戻っていく。その姿が「つばめ」に重ねられている。

「高級娼婦は好きな人と結婚出来ない」。このことは初演が行われた時代には常識であり、「当たり前のことが上演されている退屈なオペラ」と見られるのも必然であったように思う。悲恋でもなんでもなかった。ただ、身分違いの恋は、初演から100年を経た今現在では十分に悲恋の要素をはらんでいるように見受けられる。実際、「つばめ」の日本での上演は21世紀に入ってから大幅に増えているようだ。


伊香修吾は、常に紗幕が降りているという演出を採用。紗幕に様々な映像が投影され、モノクロの映画を観ているような気分を味わえる。実はこのことは説明的な要素だけでなく伏線ともなっていて、第2幕には、自転車に二人乗りしたルッジェーロとマグダがパリの名所(凱旋門、ノートルダム大聖堂、エッフェル塔など)を回るという、本来にはない場面が用意されているのだが、これが名画「ローマの休日」の名場面に重なって見える。おそらくかなり意識していると思われるのだが、「つばめ」にはもう一組、これまたオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」(原作はバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』)を連想させるカップルが登場する。詩人のプルニエと、マグダの女中であるリゼットで、プルニエはリゼットに詩人の恋人に相応しい行いをするように命じている。結果としてこのピグマリオンは失敗に終わるのだが、そこからの連想で「ローマの休日」へと繋げるアイデアが生まれたのかも知れない。これが当たっているのかどうかは分からないが、「ローマの休日」ならぬ「パリの休日」の場面は本当に微笑ましく(俗にいう「キュンキュンする」場面である)、第1幕で歌われる「ドレッタの美しい夢」そのものである。ちなみにドレッタというのはプルニエが書いた詩劇のヒロインのことである。

「つばめ」自体は知名度の高いオペラとはいえないが、「ドレッタの美しい夢(ドレッタの素晴らしい夢)」は、40代以上の方は聞き覚えはあると思われる。1990年頃だったと思うが、当時新進ソプラノであった中丸三千繪がこの曲を得意としており、テレビCMにも採用されていた。

評価の高いソプラノ、中村恵理の歌は本当に圧倒的。スケールといい、声の艶と輝きといい文句なしの歌唱である。

「つばめ」の登場するもう一組のカップルであるプルニエとリゼットは実はもっと注目されても良いように思われる。ピグマリオンに失敗して別れるかと思った二人なのだが、プルニエはそのままのリゼットを受け入れるのである。それまでには余り見られなかったタイプのキャラクターだ。プルニエという人物は、進歩的であると同時に一連の出来事の仕掛け人的立場であり、かなり魅力的である。

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2021年8月 8日 (日)

コンサートの記(735) 沼尻竜典オペラセレクション ビゼー作曲 歌劇「カルメン」@びわ湖ホール 2021.8.1

2021年8月1日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール大ホールで、ビゼーの歌劇「カルメン」を観る。沼尻竜典オペラセレクションとして、沼尻が芸術監督を務めるびわ湖ホールと、東京・初台の新国立劇場との提携オペラ公演として上演される。今日がびわ湖2日目にして楽日。公演全体としても大千穐楽を迎える。


指揮は沼尻竜典。演奏は日本のオーケストラとしては最もオペラ経験が豊かであると思われる東京フィルハーモニー交響楽団が担う。
ダブルキャストによる公演で、今日の出演は、山下牧子(カルメン。メゾソプラノ)、村上敏明(ドン・ホセ。テノール)、須藤慎吾(エスカミーリョ。バリトン)、石橋栄実(ミカエラ。ソプラノ)、大塚博章(スニガ。バス)、星野淳(モラレス。バリトン。両日とも出演)、成田博之(ダンカイロ。バリトン)、升島唯博(レメンダード。テノール)、平井香織(フラスキータ。ソプラノ)、但馬由香(メルセデス。メゾソプラノ)ほか。合唱は、びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団、大津児童合唱団。
演出は、アレックス・オリエ。舞台美術は、アルフォンス・フローレス。

先に新国立劇場オペラパレスで大野和士の指揮により上演されているが、舞台を現代のキャバレーやライブハウスに置き換えたアレックス・オリエの演出がかなりの不評であり、気にはなっていたが、自分の目で確かめないことには何ともいえない。

無料パンフレントに記載されたオリエの演出ノートを読むと、オリエがカルメンを27クラブ(27歳で他界したミュージシャン達を指す言葉。ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンなどなぜか数が多く、「27」は不吉な数字とされている)の一人であるエイミー・ワインハウスに重ねていることが分かる。エイミーは十代で成功を収めるも、酒とドラッグに溺れ、晩年は酔ったままステージに立って、まともな歌唱が行えないことで酷評を受けたりした(タモリがこの時のことを「笑っていいとも」で語っており、「名前がエイミー・ワインハウス」だからとネタにしていた)。その後に事故か自殺か分からない形でエイミーは他界している。

今日は4階席の中央通路より後ろで、出演者の顔などははっきりとは見えず、字幕の文字も小さめに感じられたが、音響的にはまずまずである。


沼尻はかなり速めのテンポを採用。迫力は増すが、特に合唱、重唱などでは歌手達がテンポに付いていけず、粗めになった場面が多かったことも否めない。

オーケストラピットで演奏する機会が多い東京フィルハーモニー交響楽団。ただ、びわ湖ホールでの演奏経験はそれほど多くなく、勝手が分からないためだと思われるが、第1幕などでは音が散り気味であった。

びわ湖ホール大ホールは、近年ワーグナー作品を立て続けに上演して、「日本のバイロイト」「オペラの殿堂」とも呼ばれるようになっているが、4面舞台を備えたオペラ対応劇場ではあるものの、基本的にはコンサートホール寄りの音響であるため残響も長く、今日も歌声で壁などがビリビリいう場面が何度もあった。兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールやロームシアター京都メインホールは、逆にオペラ寄りの音響であり、オーケストラ演奏よりも声楽に向いている。

アルフォンス・フローレスの美術は、鉄パイプを網の目に張り巡らせたセットを効果的に用いており、同じ風景がライトによって街頭、闘牛場の壁、牢獄などに変容していく。


舞台を現代に置き換えているということで、衣装なども現代風(衣装デザイン:リュック・カステーイス)。カルメンは煙草工場で働きながら密輸盗賊集団の一味として暗躍するというジプシー(ロマ)ではなく、ライブハウスなどで歌う人気歌手(ボヘミアン)で、よくあるように裏でマフィアとのパイプを持つという設定に変わっている。一方のドン・ホセは、捜査4課あるいは組対5課の私服刑事もしくは厚労省の麻薬取締官で、元の設定よりも公務員的印象が増している。
現代に置き換える必要性がどこまであったのかは疑問だが、私服刑事ということでドン・ホセがカルメンに抱く恨みが伝わりやすくなっているように思われる。
一方で、洗練され過ぎたことで、ドン・ホセがたやすくカルメンに籠絡される馬鹿男以外に見えなくなり、なぜそれほど簡単にカルメンに惚れるのかも納得しにくくなる。カルメンがドン・ホセの何が良いと思ったのかも同様に伝わりにくい。元々の歌劇「カルメン」にあった一種の土臭さが、こうした謎を中和していたのだが、舞台を現代に置き換えたことで理屈に合わないように見えてしまう。恋に落ちるのに理屈はいらないが、生涯未婚率が高くなった現代社会にはマッチしていない演出のように思われる。だがその他の本質の部分は変えていないため、全般的には満足のいく上演となっていた。


「面白いがなんか変」な場面はいくつもあり、カルメン登場の場面では、カルメンはステージの上でスタンドマイクに向かって「ハバネラ」を歌い、ビデオカメラで撮影された映像が背後のスクリーンに映る。これによってドン・ホセのカルメンに対する思いは、「歌姫への恋」となるのだが、これがその後の展開と余り結びつかない。

第3幕第2場では鉄パイプのセットが金色に照らされ、闘牛場らしく見えるセットの前に敷き詰められたレッドカーペットの上を出演者達が歩き、フラッシュがたかれる。映画祭の一場面のようになっているが、特になくてもいい演出のようにも思える。

ただ、この第3幕第2場での心理表現は優れている。カルメンのせいで公務員、しかも私服刑事という花形から追われる羽目になったドン・ホセは復讐のために現れてもいいのだが、実際はカルメンに復縁を迫る。カルメンはカルメンで、ホセから貰った指輪をはめたままである。本当に100%エスカミーリョに靡いたなら、ホセから貰った指輪を身につけたり所持していたりはしないはずで、カルメンも実はホセに未練があるのだと思われる。これは愛と葛藤の話なのである。演出によってはこれが上手く伝わってこなかったりするのだが、オリエはカルメンとホセの姿勢によって心情を観る者に悟らせる演出を施していた。奇抜なだけでなくきちんとした演出が出来る人であることもここで分かる。
闘牛場の中から聞こえてくる「闘牛士の歌」の合唱は、ビゼーが仕掛けたホセとカルメンの好対照な心理を暴き出す巧みな装置であるが、今回の演出は、合唱、ホセ、カルメンの演技の三つがはまって愚かしくも切ない人間ドラマが表れていた。かなり感動的である。ここさえしっかり描けていれば、現代に舞台を置き換えたことで発生したマイナスも気にする必要はないように思われる。人間が描けていればそれで良い。


歌手では、びわ湖ホールへの出演回数も多い石橋栄実が、繊細さと迫力を兼ね備えた歌声で魅せる。ミカエラのキャラクターもあるが、彼女はびわ湖ホール大ホールの音響を把握しているためか、迫力は出しても壁をビリビリ鳴らすことはなかった。

タイトルロールを務めた山下牧子も知情意のバランスの取れた歌唱で、カルメンを単なる「自由」に憧れる向こう見ずな女とはせず、「揺れ動く女性」として再現していて説得力がある。

女性陣に比べると、男性陣は歌声が大き過ぎたり、身振りが大仰だったりとマイナスも多いが、沼尻のテンポとの相性が悪かった可能性もある。


観る度に発見のある歌劇「カルメン」。やはり永遠の名作である。

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2021年5月12日 (水)

コンサートの記(720) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021 石橋栄実&藤井快哉「もしあなたと一緒になれたなら」+福原寿美枝&船橋美穂「女の想い~シューマン歌曲集」+砂川涼子&河原忠之「ベルカント!」

2021年5月2日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

今日もびわ湖ホールで、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021がある。今日が2日目にして楽日である。

今日は午前中に、児玉姉妹の姉である児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏があるのだが、午前中からベートーヴェンの音楽を聴くのは気が引けたたため、ソプラノの石橋栄実、メゾソプラノの福原寿美枝、ソプラノの砂川涼子が立て続けに登場する3つのコンサートのみを聴くことにする。

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今日も昨日同様、雨がパラつく天気だったのだが、びわ湖ホールに着く直前に太陽が顔を覗かせる。

 

午後12時40分開演の、公演ナンバー2-L-3「もしあなたと一緒になれたなら」。出演は石橋栄実(ソプラノ)と藤井快哉(ピアノ)。

2019年の「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」では、体調不良で降板した砂川涼子の代役としてプーランクのモノオペラ「声」に出演し、大成功を収めた石橋栄実(いしばし・えみ)。大阪音楽大学声楽科卒業、同専攻科を修了。大阪舞台芸術奨励賞、音楽クリティック・クラブ奨励賞、坂井時忠音楽賞、咲くやこの花賞などを受賞。現在は大阪音楽大学の教授と大阪音楽大学付属音楽院の院長も務めている。

藤井快哉(ふじい・よしや)は、大阪音楽大学を経て同大学院を修了。インディアナ大学音楽学部アーティストディプロマ課程修了。坂井時忠音楽賞、兵庫県芸術奨励賞、佐治敬三賞、神戸灘ライオンズクラブ音楽賞などの受賞歴があり、現在は大阪音楽大学の教授を務めている。

曲目は、ベネディクトの「四十雀(しじゅうから)」、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」より“もしあなたと一緒になれたなら”、プーランクの歌劇「ティレジアスの乳房」より“いいえ、旦那様”、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」より“与ひょう、体を大事にしてね”、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」よりムゼッタのワルツ“私が街を歩くと”。

ベネディクトは、ドイツ出身のイギリスの作曲家だそうである。石橋栄実のトークによると、選曲した時には「今頃(「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021開催の頃)は、色々と大変だったことが過去になって、『良かったね』という状況で歌いたい」ということで1曲目に選んだのだが、残念ながらコロナ禍は却って深刻さを増してしまっている。

昨年の「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」では、小ホールで全曲日本の歌曲によるプログラムを歌う予定だったのだが中止になってしまい、本来は今年も日本の歌曲を歌う予定だったのだが、会場が大ホールになり、「オペラの殿堂ということでオペラの曲を並べることにした」そうである。
ベートーヴェン歌劇「フィデリオ」より“もしあなたと一緒になれたなら”は、男装してフィデリオと名を変えたレオノーレを本当に男だと勘違いして恋をしてしまう娘、マルツェリーネのアリアである。石橋栄実は、典型的なリリック・ソプラノであり、声が澄んでいて可憐、ただ芯がしっかりしており、私が最も好むタイプの声質の持ち主である。

藤井快哉によるプーランクのピアノ曲「エディット・ピアフを讃えて」の独奏。「エディット・ピアフを讃えて」は、若手ピアニストの牛田智大がアンコールなどで好んで取り上げる楽曲である。藤井快哉が演奏前に解説を行い、エディット・ピアフがシャンソンの名歌手であることや、プーランクがピアフの大ファンだったことなどを語り、「私も石橋栄実さんの大ファンです」と言って、プーランクとピアノの関係を重ねたりする。

続く曲は、歌劇「ティレジアスの乳房」より“いいえ、旦那様”なのであるが、「エディット・ピアフを讃えて」の演奏前、いったん退場する際に石橋が、「なんていうタイトルなんでしょうと思いますが、女性が、『自分はフェミニストだ!』と言って、掃除やら洗濯やら家事一般が女性の仕事とされることに納得がいかず、兵士になりたいとか弁護士ですとか、当時、男性しか就けない仕事に就けるよう要求するのですが、すると顎にひげが生えて、胸の膨らみが飛んでいっちゃって」と解説する。
「エディット・ピアフを讃えて」演奏終了後に、石橋は胸の前に風船を二つ付けて登場。ヘリウムガスで膨らませた風船であるため、胸の膨らみを否定する場面では、風船が上に浮かぶ。その後、石橋は風船を二つとも割る。演奏前に風船を割るという演出の説明をしなかったのは、事前に言うと風船を割ることだけを意識してしまう人がいそうだったからだそうで、風船が割れる音を嫌う人もいるので、怖がらせたらまずいとも思っていたそうだ。「皆さん、こういう演出見たことあります?」と客席にも聞いていた。無反応だったので、見たことがある人はほとんどいないようであったが、私はたまたま川越塔子が青山音楽記念館バロックザールでのリサイタルでそれに近いことをしていたのを覚えている。もう4年も前なので、正確には記憶していないが、変わった演出だったので、それらしきことをしていた映像がぼんやりとではあるが浮かぶ。
演奏終了後に、藤井は、「尊敬している方にああいうことをされると結構な衝撃で」と語っていた。リハーサル時にも風船は使っていたが、割ったのは本番だけだったそうである。

切々と歌われる團伊玖磨の歌劇「夕鶴」より“与ひょう、体を大事にしてね”は、今のコロナ禍を念頭に置いて選ばれたと思われ、「ラ・ボエーム」よりムゼッタのワルツ“私が街を歩くと”では一転してコケティッシュな歌声を聴かせた。「夕鶴」と「ラ・ボエーム」ということで振り幅がかなり広い。

日本歌曲を予定していたのに、團伊玖磨の1曲だけになってしまったということで、アンコールとして中田喜直の「歌をください」が歌われた

 

午後2時10分開演の、公演ナンバー2-L-4「女の想い~シューマン歌曲集」。出演は、福原寿美枝(メゾソプラノ)、船橋美穂(ピアノ)。

福原寿美枝は、京都市立芸術大学卒業、同大学院修了。平成25年神戸市文化奨励賞、2015年度音楽クリティック・クラブ賞受賞などの受賞歴がある。現在は武庫川女子大学音楽学部教授を務め、京都市立芸術大学でも後進の指導に当たっている。

船橋美穂(ふなはし・みほ)も京都市立芸術大学出身。大学卒業後に渡米し、エール大学大学院音楽科講師などを務めた。2002年藤堂音楽褒賞、第29回京都芸術祭京都府知事賞などの受賞歴がある。

曲は、いずれもシューマンのリートで、「女の愛と生涯」と「メアリー・スチュワート女王への詩」

歌唱の前に福原は、「緊張で心臓がバクバクしてる。飛び出そう」と語り(なんでもコンサートでリートを歌うのは約30年ぶりだそうである)、また年齢を重ねるにつれて声が低くなってきているので、低音版の楽譜で歌うことを告げる。

「女の愛と生涯」は、愛しい人との出会いと結婚生活、出産、死別を描いたシャミッソーの詩に基づく歌曲で、背景にはシューマンのクララとの結婚がある。歌う前に「声が低いので、可愛らしい女の人にはなりません」と語った福原だが、これはこれで若き日を回顧する趣があり、味わい深い。

「メアリー・スチュワート女王への詩」。生後まもなくスコットランド女王に即位し、あらゆる才能に恵まれながらも様々な男性との恋に破れ、最終的にはエリザベス女王により追い込まれて処刑された悲劇の女王であるメアリー・スチュワート。その生涯は様々な文学作品や映画や芝居で描かれ、多くの人が知るところとなっている。
「メアリー・スチュワート女王への詩」に関しては事前に歌詞をチェックしていかなかったのだが、シューマンらしい個性に満ちた旋律を味わうことが出来た。
シューマンは、晩年は梅毒に起因する精神障害が進み、作曲活動が思うようにはかどらなくなっていた。シューマンが自身をメアリー・スチュワートに重ねても不思議ではない気はするが、「重ねている」という絶対的な根拠は当然ながらないようである。


午後3時30分開演の、公演ナンバー2-L-5「ベルカント!」。出演は、砂川涼子(ソプラノ)と河原忠之(ピアノ)。「ベルカント!」は砂川の最新アルバムのタイトルでもあるようだ。
びわ湖ホール大ホールの2階席(びわ湖ホールの1階席と2階席は繋がっている)の後ろの方では、本番を終えた石橋さんと福原さんが並んで聴いているのが確認出来た。

砂川涼子(すなかわ・りょうこ)は、沖縄県生まれ。ということで、「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」でもオール沖縄民謡によるリサイタルを行ったことがある。武蔵野音楽大学と同大学院を修了。ミラノに渡って研鑽を積み、第34回日伊声楽コンコルソで優勝。第69回日本音楽コンクール声楽部門でも第1位を獲得している。第12回R・ザンドナイ国際声楽コンクールではザンドナイ賞を受賞。現在は藤原歌劇団団員であると共に、母校の武蔵野音楽大学で講師を務めている。

河原忠之は、歌手の伴奏ピアニストとして高い評価を受けている。太メン4人によるユニットIL DEVU(イル・デーヴ)のピアノメンバーであり、指揮者としても活躍している。国立(くにたち)音楽大学と同大学院を修了。母校の大学院教授を務めると同時に、新国立(こくりつ)劇場オペラ研修所シニアコレペティトゥアとしても活躍している。

曲目は、いずれも砂川のニューアルバム「ベルカント!」に収録されているもので、ロッシーニの「ヴェネツィアの競艇」、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」より“おいでください、膝をついて”、ビゼーの歌劇「カルメン」より“何も恐くないといったけれど”、ドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」より“妙薬よ!僕のものだ”~“ラララの二重唱”(清水徹太郎との共演)、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」より“あなたの愛の叫ぶ声に”、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」より“氷のような姫君の心は”。

プッチーニの歌劇「トーランドット」より“氷のような姫君の心は”は、女奴隷であるリューのアリアであるが、砂川は一昨年にびわ湖ホール大ホールで行われた大野和士指揮バルセロナ交響楽団ほかによる歌劇「トゥーランドット」にリュー役で出演している。

砂川涼子は見た目は可憐であるが、ドラマティックソプラノであり、声量豊かでスケールも大きい。トークでも河原に、「見た目と歌声が一致しない」と言われていた。

ロッシーニの「ヴェネツィアの競艇」は初めて聴く曲である。思ったよりも長い。
歌劇「フィガロの結婚」より“おいでください、膝をついて”は、スザンナが幼いケルビーニを無理矢理伯爵夫人に見立てようとするいたずら心たっぷりの歌で、そうした心持ちを存分に発揮する。

ビゼーの歌劇「カルメン」より“何も恐くないといったけれど”はミカエラのアリア。砂川はミカエラを得意レパートリーの一つとしているが、今年の夏にびわ湖ホールで行われる「カルメン」でもミカエラを歌い、次の曲で登場する清水徹太郎(ドン・ホセ役)と共演するそうである。

ドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」より“妙薬よ!僕のものだ”~“ラララの二重唱”。愛の妙薬が手に入ったと勘違いしたドタバタの場面である。演技付きでの演奏。ユーモラスな演技が客席の笑いを誘う。

プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」より“あなたの愛の呼ぶ声に”と歌劇「トゥーランドット」より“氷のような姫君の心は”。同じプッチーニ作品であるが、求められるものは真逆である。実際にびわ湖ホール大ホールで上演を観たことのある“氷のような姫君の心は”がダイナミックでとても良い。
“氷のような姫君の心は”は、プッチーニが最後に書き上げたアリアであり、リューはプッチーニ版の「トゥーランドット」にのみ登場する役で、実際にプッチーニに仕えていた女召使いがモデルになっているとも言われている。

 

びわ湖ホールを出ると、晴れ間が覗く中に雨粒がポツリポツリと落ちてくるという天気で、三上山の方を振り返ると、巨大な虹が架かっているのが見えた。

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2021年5月11日 (火)

コンサートの記(719) 「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021 高木綾子「神秘の無伴奏」+前橋汀子&松本和将「踊るヴァイオリン」+舘野泉「多彩なる左手の音楽2」

2021年5月1日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール大ホールにて

びわ湖ホール大ホールで行われている「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」2021。午後2時10分からは、公演ナンバー1-L-4「神秘の無伴奏」というコンサートがある。高木綾子のフルート独奏である。

高木綾子は、愛知県豊田市生まれ。3歳でピアノ、8歳でフルートを始める。東京藝術大学附属高校、東京藝術大学音楽学部、同大学院を修了。1995年に毎日新聞主催全日本学生音楽コンクール東京大会フルート部門で第1位を獲得した頃に、主にルックスで注目を浴び、テレビなどでも取り上げられたが、音楽家としてそうした見られ方をするのはやはり本意ではなかったようで、1997年の神戸フルート国際フルートコンクール奨励賞受賞を皮切りに、宝塚ベガコンクール優勝、日本フルートコンベンションコンクール優勝及オーディエンス賞受賞、第17回日本管打楽器コンクール・フルート部門第1位及び特別賞、第70回日本音楽コンクールフルート部門第1位獲得、ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール第3位入賞、神戸国際フルートコンクール第3位入賞など、数多くのコンクールに出場して好成績を収めている。現在は、東京藝術大学准教授、洗足学園音楽大学、日本大学藝術学部、武蔵野音楽大学、桐朋学園大学の非常勤講師も務めている。

曲目は、ドビュッシーの「シリンクス」、武満徹の「VOICE」、ドンジョンの「サロン・エチュード」より1番「エレジー」、2番「セレナーデ」、5番「ジーク」、7番「いたずら好きな妖精」、メルカダンテの『ドン・ジョヴァンニ』より「奥様お手をどうぞ」の主題による変奏曲、クーラウの「3つのファンタジー」より第1番、ヴァスクスの「鳥のいる風景」

フルート独奏曲として、クラシック好きならまず上げるのがドビュッシーの「シリンクス(「シランクス」とも表記する)」だと思われる。というよりフルート独奏曲で世界的に知られているのは、「シリンクス」ぐらいしかない。
高木綾子はスマートな音色でこの神秘的な楽曲を奏でる。

武満徹の「VOICE」は、タイトル通り、フルートを吹くと同時に声やセリフを加えて演奏するという作品である。声を加えるというアイデアはひとまず置くとして、尺八や篠笛といった和楽器を意識した節回しが聴かれるという武満らしい楽曲である。ちなみに武満の遺作はフルート独奏のための「エア」であった。

ドンジョンの「サロン・エチュード」。8曲が残されているが、1番から6番までと7番、8番は別人の作品である。苗字は共にドンジョンなので、「親子ではないか」と推測されているが、確かなことは分からないようだ。いずれにせよ粋な作風の楽曲が並ぶ。

イタリアの作曲家であるメルカダンテの『ドン・ジョヴァンニ』より「奥様お手をどうぞ」の主題による変奏曲と、デンマークの宮廷作曲家であったクーラウの「3つのファンタジー」より第1番は、共に「ドン・ジョヴァンニ」の「奥様お手をどうぞ」の主題をモチーフにした作品。正統的なメルカダンテの変奏曲と、抒情美が特徴的なクーラウ作品の聴き比べの妙がある。

トークで高木は、「神秘の無伴奏ということで、物語性のある曲を選んだ」と語る。

ラストに演奏されるヴァスクスの「鳥のいる風景」。武満の「VOICE」もフルートを吹きながら声を出す作品であったが、「鳥のいる風景」は旋律を声でなぞりつつフルートでも重ねるという特徴を持つ。少し趣は異なるが、1990年頃に流行ったホーミーの神秘性を連想させる。ただ30年前の流行りということで、今の若い人はもうホーミーを知らないかも知れない。声とフルートの音色により表現に奥行きが出ていた。

高木のフルートはいつもながらキレとクッキリとした輪郭、軽やかさが特徴。フルート独奏のみによる演奏会に接する機会は余りないため、貴重な体験ともなった。

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午後3時30分開演の、公演ナンバー1-L-5「踊るヴァイオリン」。出演は、前橋汀子(ヴァイオリン)と松本和将(ピアノ)。

日本を代表するベテランヴァイオリニスト、前橋汀子(まえはし・ていこ)。非常に人気の高いヴァイオリニストで、録音の数も多いが、私は実演に接するのは初めてである。自分でも意外である。ヴァイオリン協奏曲やヴァイオリン・ソナタなど大作も当然ながら弾くが、小品の演奏も得意としており、今日はヴァイオリン小品の名曲が並ぶ。今回の「近江の春 びわ湖クラシック音楽祭」は誰もが知るような曲が演奏されることは思いのほか少ないが、前橋の演奏会は有名曲揃いということで入りも良い。びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーもたまたま私の隣の席で聴いていた。

ピアノの松本和将は、1998年に19歳で第67回日本音楽コンクールで優勝。2001年にはブゾーニ国際ピアノコンクール第4位入賞、2003年のエリーザベト王妃国際音楽コンクールで5位に入賞している。

曲目は、ドヴォルザーク(クライスラー編曲)の「わが母の教え給いし歌」とスラヴ舞曲 Op.72-2(第10番)、マスネの「タイスの瞑想曲」、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」、ブラームス(ヨアヒム編曲)のハンガリー舞曲第1番と第5番。

近年の若手ヴァイオリンストは皆、美音を競うようなところがあるが、前橋は敢えてハスキーな音を出したり、歌い崩しをしたり、パウゼを長めに取ったりと表現主義的であり、19世紀以来のヴァイオリニストの伝統を受け継いだ演奏を展開する。名人芸的なヴァイオリンともいえる。高音が独自の妖しさを放っており、理屈ではなく本能に訴えるところのある音楽作りである。

アンコールがあり、サラサーテの編曲によるショパンの夜想曲第2番と、フォーレの「夢のあとに」が演奏される。ロマンティックな演奏であった。

 

午後5時開演の、公演ナンバー1-L-6「多彩なる左手の音楽2」。出演は、舘野泉(ピアノ)。
若くしてフィンランドに渡り、「フィンランドで最も有名な日本人」となった舘野泉。ダンディーな風貌も相まって人気ピアニストとなる。フィンランドで当地の女性と結婚。息子は山形交響楽団第2ヴァイオリン首席奏者や長岡京室内アンサンブルのメンバーとしても活躍するヤンネ舘野である。
フィンランドを代表する作曲家であるシベリウスのピアノ曲や、日本で学んだフィンランド人作曲家であるノルドグレンの作品、フランスの作曲家であるセヴラックのピアノ曲を得意演目としていたが、2002年、演奏会の最中に脳溢血で倒れ、以降は右半身不随となる。舘野が選んだのは引退ではなく、左手のピアニストとして活躍することであった。
ラヴェルに左手のためのピアノ協奏曲を委嘱したパウル・ヴィトゲンシュタイン(哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの実兄。戦争で右手を負傷)など、左手のピアニストとして活躍した先例は何人かいたが、舘野は多くの作曲家に左手のためのピアノ楽曲の作曲を委嘱し、レパートリーの拡大に努めている。

今回の演奏曲目も全て舘野が委嘱したり献呈されたりした作品で、パブロ・エスカンデの『悦楽の園』、新実徳英の『夢の王国』より「夢のうた」と「夢階段」、光永浩一郎の左手ピアノ独奏のためのソナタ“苦海浄土によせる”より第1楽章「海の嘆き」と第3楽章「海と沈黙」である。

演奏の前に、舘野が作曲家と作品の紹介を行う。
パブロ・エスカンデは、アルゼンチンのブエノスアイレス生まれの作曲家で、生まれてからの20年をブエノスアイレスで過ごし、その後、古楽器の演奏を学ぶために古楽の盛んなオランダに渡り、そこでも20年を過ごす。そして今は日本に移住し、京都に居を構えているという。
『悦楽の園』は、ヒエロニムス・ボスの三連祭壇画にインスピレーションを受けた幻想曲。導入部「天地創造の第3日目」、パネル1「楽園でのアダムとイブ」、パネル2「悦楽の園」、パネル3「地獄」の4部からなる新作。
前半は印象派の音楽に近いものを感じたが、その後はジャズを感じさせるような曲想へと転換していく。「地獄」は低音の強打とバッハのようなシンプルにして構造的な旋律の対比が印象的。ちなみに、今日は空がめまぐるしく変わる天気だったが、舘野がびわ湖ホールに向かうためにホテルを出たときは空が真っ暗で、天地創造の第3日目、光が出来る前の漆黒の闇を連想した舘野は、「わあ、地獄に行っちゃう」と思ったそうである。

ちなみに、エスカンデには小学校1年生の娘さんがいるそうなのだが、『悦楽の園』の中では、「私、『地獄』が一番好きよ」と言っていたそうである。

新実徳英の『夢の王国』。4つのプレリュードからなる作品であるが、今回は第2曲の「夢のうた」と第3曲の「夢階段」が演奏される。『夢の王国』も昨年の3月に完成したという新しい作品である。
「夢のうた」は、シンプルで懐かしい旋律が繰り返されるという構図を持つ。一方、「夢階段」ではドミソではない音楽が上っていくというアンバランスな感覚が特徴となっている。

熊本の作曲家、光永浩一郎の作品、左手ピアノ独奏のためのソナタ“苦海浄土によせる”より第1楽章「海の嘆き」と第3楽章「海と沈黙」。2018年の作品である。石牟礼道子の『苦海浄土』を基に、水俣病の苦しみに隠れキリシタンの苦難なども加えて描いた作品だそうで、第3楽章「海と沈黙」の「沈黙」は、遠藤周作の小説『沈黙』を意識したものだという。波のうねりの描写のような旋律が続くが、ドビュッシーの「海」を意識したような和音が現れるのも特徴である。いずれの楽章も最後の音はダンパーペダルを踏み続け、余韻が長くなるよう設計されていた。

舘野は、「予定時間より長くなったようで、まだ何か弾こうとも思いましたが、疲れたので」と言ってアンコールなしで終演となった。

 

帰路。琵琶湖は湖面の色彩が次々と変わる時間帯であり、見る者の目を楽しませてくれた。

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