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2021年2月15日 (月)

2346月日(29) 「フェスティバルホール×大阪大学 フェスティバルホール音響体験スペシャルツアー」2021.2.8(後半のみ映像あり)

2021年2月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、「フェスティバルホール×大阪大学 フェスティバルホール音響体験スペシャルツアー」に参加する。文学部や大学院文学研究科に芸術研究系の専攻を持つ大阪大学が、中之島一帯で行っている「クリエイティブアイランド中之島-創造的な実験島-」という9つの芸術&情報系イベントの一つである。ただ新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発出中であるため、プログラムのいくつかはオンラインのみに切り替わり、「フェスティバルホール音響体験スペシャルツアー」に関しては、トーク部分のみオンライン配信が行われることになった。

司会進行は、大阪大学の加藤浩介(専門は音響学)。大阪フィルハーモニー交響楽団のチェロ・トップ奏者である近藤浩志(こんどう・ひろし)がステージ上でチェロを弾き、ツアー参加者が席を移動しながら響きの違いを確かめるというもの。

まず1階席前列に参加者が着座して近藤のチェロを聴く。全席自由であるが、コロナ対策として両隣を1席か2席空けるのが好ましいとされる(夫婦や知り合い同士の場合は隣に座っても構わないようである)。
私は新しいフェスティバルホールの最前列で2回ほど大阪フィルのコンサートを聴いたことがあるのだが、フェスティバルホールステージの前方は弧を描いており、いずれも端の席であったため指揮者の姿が見えないという状態であった。今日は前から3列目の真ん中付近に座る。その後、1階席後方と3階席に移動して近藤のチェロを聴くのだが、1階席後方と3階席には何度も座っているため、特に良い席で聴く必要はなく、適当な席に座った。

曲目は、3回ともアイルランド民謡「ダニーボーイ」のチェロ独奏版。

1階席前方で聴くと、キャッチコピー通りの「天から音が降り注ぐ」という感覚がよく分かる。音の広がり方も自然である。

1階席後方。左手、中央、右手の3つの別れているが、後ろ寄りの左手の席に座る。音響は1階席前方とは異なり、重低音のずっしりとした響きが印象的。おそらくステージに跳ね返った音が届いてくるのだと思われる。

3階席も左手、前から3列目に座る(全員、エレベーターを使う必要があるので、エレベーターに近い右手の方が席が埋まりやすい)。3階は1階で聴いた広がりとはまた違ったストレートな音色となり、音の通りが良く感じられる。三者三様の良さがあるが、チェロということもあり、重低音が豊かに感じられる1階席後方の音響が最も気に入った。他のお客さんの好みもそれぞれで、加藤浩介が挙手によって行ったアンケートでは、三つ等しくという程ではないが、いずれの席も人気であることが分かった。

その後、1階席に戻り、中央通路より後ろ側の席に着座して、演奏者がステージ上で場所を変えて弾くチェロの音色に耳を傾ける。曲目は、サン=サーンスの「白鳥」。ラスト付近の演奏である。
まずは、ステージの真ん真ん中での演奏。上方へと飛んでいく音が多いように感じられる。続いて、ステージ一番前での演奏。通常、チェロがこんな場所で演奏することはない。上へ飛ぶ音が減り、低音が豊かに感じられる。今度は、ステージ最後列、壁を背にしての演奏である。後ろの壁にも音が当たって前に飛んでくるため、自然な広がりが感じられる。チェロと同時にホールの響きの豊かさも実感出来るため、私はこの位置での音が最も気に入った(ただし、チェロがステージ最後方で演奏することはまずない)。最後はステージ上手奥のコーナーでの演奏。音響は最も豊かであるが、響きすぎるため、私のいた右手(上手側)の席ではハウリングも多く聞こえる。
アンケートでは、好きな音響はやはり人それぞれであることがわかる。1階席後方といっても、フェスティバルホールは間口も広いため、席によって聞こえる音も大分異なるはずである。


その後、加藤浩介と近藤浩志によるミニトークが行われ、近藤浩志はフェスティバルホールの音響について、「全ての席が良い」と語っていた。昔、東急が「全ての席をS席に」というキャッチフレーズで、東急Bunkamuraオーチャードホールを使ったテレビCMを制作していたが、オーチャードホールは「S席がない」と言われるほど響きが悪いため、演奏家には余り人気がない。使い勝手も悪いようで、N響首席オーボエ奏者時代の茂木大輔がエッセイでけなしていた渋谷のホールというのはおそらくオーチャードホールであると思われる。フェスティバルホールは、「全ての席がS席」と言っても過言ではないと思われる。ただし、音響に関してはで、視覚面では3階席は遠く、傾斜も急である。そして真に音の良い「正真正銘のS席」がフェスティバルホールには存在する。

今日は近藤はフェスティバルホールの音響を意識せずに弾くことを心がけたそうだが、実際はステージ上で弾く際には、どこで弾くかによって演奏法を微妙に変えるという。チェロの場合、ドイツ式の現代配置の時は指揮者の正面付近上手側、アメリカ式の現代配置の時は客席に近い方、古典配置の際はドイツ式の現代配置の真逆で正面付近下手側で弾くことになり、全体の音響のバランスを考えると、「どのポジションでも同じ弾き方」にならないことは察せられる。またホールや曲によっても奏法は当然ながら変わってくる。

その後、加藤浩介と大阪大学の下倉亮太による「音響学の観点より解説」。下倉亮太も専門は音響学であり、加藤とは先輩後輩の間柄だそうだ。共に大阪大学ではなく神戸大学の出身だそうで、下倉亮太の方が1年先輩になるという。一緒に大学院で学んでいたのだが、師事していた先生が退官したため、音響学の研究所自体が閉鎖されてしまったそうで、その代わりとなる進路が二つ示されたそうだ。一つは熊本大学大学院で、加藤浩介はこちらに転籍した。もう一つはイタリアのボローニャ大学大学院の研究科で、下倉は「失恋したばかりでむしゃくしゃしていた」ということもあり、思い切ってイタリアに渡ったという。
ボローニャでは、クラシック音楽が日常の一部となっており、ボローニャに着いた時に、「歓迎」ということで地元のオーケストラコンサートに連れて行って貰ったという。下倉は時差ボケで眠かったのだが、なんとか最初の1曲を聴いた。隣の席に座った指導担当の教授(だったかな?)は始まってすぐに寝始めてしまったそうだが、1曲目が終わると同時に起き上がり、「あんなつまらない音楽を聴いてたのか、お前は?」と呆れていたそうである。クラシック音楽に日常的に触れているため、出来の良し悪しには敏感で、またよくいわれる通り、ヨーロッパの聴衆というのはシビアで、有名な演奏家でも「悪い」と思ったらすぐ帰ってしまうという話がある。1曲目の演奏も招待した側なので帰りはしなかったということなのかも知れない。

フェスティバルホールの内装は、数多くの凹凸があるのが特徴であるが、これは拡散体と呼ばれるもので、その名の通り音を拡散させる効果があるという。クラシック対応のコンサートホールの場合、音が響きすぎるといけないので、吸音材を使うのが一般的なのだが、フェスティバルホールの場合は、拡散体をつけることによって音響障害が発生するのを防ぐという特徴があるようだ。
ちなみにフェスティバルホールの残響は、空席時が2.2秒、満席時が1.8秒だが、コンサートのおける理想の残響は1.8秒だそうで、「フェスティバルホールさんは強気です。満席時がデフォルトです」と下倉は解説した。

コロナ禍により、空席の多いフェスティバルホールでのオーケストラ公演もあるが、残響過多になったり、使い慣れていない声楽の団体が演奏会やオペラで声を張り上げると壁がビリビリいってしまうのは残業が長めに設計されているためだと思われる。フェスティバルホールは残響からいってオーケストラコンサート向け、ロームシアター京都メインホールや兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールは、残響はそれほど長くはなく、オペラ向けの音響であると思われる(音響は全て永田音響設計が手掛けている)。

世界最古のホールは、紀元前のギリシャの劇場であるが、当時は科学が発達していなかったため、「反射音は悪魔の所業」と思われており、残響のない屋外劇場でギリシャ悲劇などが上演された。その際、海のそばに劇場を建て、海がステージの後ろに来るよう設計し、セリフが海風に乗って客席に届きやすくなるよう工夫が凝らされていたそうである。
紀元後のローマ帝国の時代になると、「残響が悪魔の声」などというのはまやかしだと気づくようになり、壁を立てることで音が響きやすくなる構造の劇場に変化していったという。

下倉は、日本にいた時はオペラには興味がなく、観たことすらなかったそうだが、イタリアはオペラの本場ということで、留学時代にオペラに嵌まり、オペラハウスに足繁く通ったそうである。オペラは歌手が主役で、声や歌詞やセリフをハッキリ聞き取れることが最優先、オーケストラは脇役か盛り上げ役であり、声を聴き取るには残響が長いと不利ということで、残響は1.2秒から1.6秒程度とコンサートホールに比べると短くなるよう設計されている。日本でも純粋なクラシック専用ホールと、オペラ対応多目的ホールを聞き比べるとこれは分かる。
残響については、ハーバード大学の教授であったウォーレル・セイビンが、ハーバード大のフォッグ講堂だけ声が聴き取りにくいという学生の声を受けて、音響を測ることにしたのがその始まりとされる。オルガンを使っての測定で、フォッグ講堂だけが他の講堂に比べて残響が長かったそうだ。残響というものが人類史上初めて意識されたのは、音楽ではなく講義だったのである。


最後は、近藤浩志のチェロ独奏によって締められる。演奏されるのは、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第3番よりサラバンド。更にアンコールとしてカタルーニャ民謡(カザルス編曲)の「鳥の歌」が演奏された。

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2021年2月 1日 (月)

コンサートの記(689) エリアフ・インバル指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第544回定期演奏会

2021年1月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第544回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、エリアフ・インバル。外国人指揮者による演奏を聴くのは久しぶりである。

1936年生まれのエリアフ・インバル。この年は指揮者の当たり年で、シャルル・デュトワやズービン・メータが同い年である。小澤征爾が一つ年上、ネーメ・ヤルヴィが一つ年下という世代だ。インバルというのは芸名で、本姓はヨーゼフという平凡なものであるため芸名を用いたのだが、息子で指揮者のダニエルもインバルという芸名を継いでいる。

エリアフ・インバルは、マーラーとブルックナーの両方で名演を行うことの出来る、史上ほぼ唯一の指揮者として名高い。マーラー指揮者はブルックナーを不得手とする場合が多く、逆も同様なのだが、インバルだけは両方の交響曲全集を作成し、共に高い評価を得ている。
日本への客演も多いが、私はまず90年代にN響の指揮台に立った際の実演に接している。N響との相性は実際のところ今ひとつのように思えたが、その後、インバルは東京都交響楽団と親密な関係を築くようになり、特別客演指揮者やプリンシパル・コンダクター(一般的には「常任指揮者」と訳されるが、この時は横文字のままの肩書きとなった)として大評判を得ている。近年、大阪フィルにも度々客演するようになっているが、相性はかなり良い。

 

曲目は、プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」とショスタコーヴィチの交響曲第10番。

インバルはショスタコーヴィチも得意としており、ウィーン交響楽団を指揮してDENONに入れた録音の評価も高いが、ショスタコーヴィチを得意とする指揮者は基本的にプロコフィエフも得意である場合が多いため、期待が高まる。
なお、プロコフィエフとショスタコーヴィチが犬猿の仲であったことは有名で、共通の友人であったムスティスラフ・ロストロポーヴィチは、それぞれの家に招かれて遊ぶことも多かったが、プロコフィエフの前では「ショスタコーヴィチ」という名は禁句であり、ショスタコーヴィチの家でも「プロコフィエフ」の名を出すことすら出来なかったと回想している。プロコフィエフもショスタコーヴィチも初期の頃は一緒に音楽活動もしていたのだが、いつからか疎遠になっている。性格の不一致というよりも互いの実力を怖れたのではないかと思われる。音楽史上屈指の天才が同じ時代の同じ国、しかもすぐ間近にいるという例は余りないように思う。

今日はチェロが舞台上手客席寄りに来るアメリカ式の現代配置(ストコフスキー・シフト)での演奏である。コンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。トランペットに京都市交響楽団の西馬健史が客演しており、2曲とも出演した。

新型コロナの流行により、外国人入国制限が続いているが、エリアフ・インバルは東京都交響楽団と親密な関係にあるということで、2週間の隔離とPCR検査を受け入れて、まず都響と演奏会を行い、次いで事前の予定通り、大フィルの指揮台へとやって来た。久しぶりの外国人指揮者の登場だが、大阪ではコロナの感染拡大が進んでいるため、来場を避けた人も多いようで、入りは良いとは言えない。インバルクラスなら満員御礼で当たり前なので、危機感を持つ人もかなり多いようだ。

 

プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」。プロコフィエフが「ハイドンが今の時代に交響曲を書いたなら」という想定の下に書き上げた、諧謔精神に溢れる個性的な交響曲である。ハイドンが頭にあるため、編成も小さめで演奏時間も15分ほどという小型の交響曲である。最初の交響曲にこうした題材を選ぶのだから、プロコフィエフはやはりただ者ではない。単純に古典的な交響曲を書いたのではなく、プロコフィエフの生きた今とハイドンの時代をオーバーラップさせる効果も狙っている。

曲調的に、フランス系の指揮者に名演が多いのだが、イスラエル出身のインバルも洗練とキレを兼ね備えた洒脱な演奏を聴かせる。弦も管も音に浮遊感があるが、瞬発力にも優れ、若きプロコフィエフの才気と一種の悪童ぶりを見事に表してみせる。インバルらしい溜めがあるのも個性的だ。

実は、私が最初に読んだ作曲家の本格的な伝記は、プロコフィエフのものであった。高校1年生の時に、昼休みに図書室に通って読み終えている。プロコフィエフが斬新さに取り憑かれたような作曲家だったことがわかる本であった。そしてプロコフィエフが、1891年生まれであり、これはモーツァルトの没後100年目であるため、メモリアルイヤーはモーツァルトの陰に隠れてしまい、亡くなった日が1953年3月5日と、スターリンの死と完全に同じ日であるため、命日もまたスターリンの陰に隠れる宿命にあるという悲劇性も著されていた。

 

ショスタコーヴィチの交響曲第10番。ヘルベルト・フォン・カラヤンが唯一、レパートリーとしたショスタコーヴィチの交響曲として知られる。ライバルであったレナード・バーンスタインはモスクワでショスタコーヴィチの交響曲第5番を作曲者の前で演奏し、絶賛されているが、カラヤンは交響曲第10番をモスクワで演奏して壇上で作曲者と握手を交わしている。カラヤンはバーンスタインに対抗意識を抱いており、ポピュラーな第5番ではなく敢えて第10番に取り組み続けたと言われている。

非常にミステリアスな楽曲としても知られている。純音楽ではあるが、他のショスタコーヴィチの交響曲同様、背後に何か別の意図を宿している。
一昨年に、フェニーチェ堺で、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による名演に接しているが、大阪フィルも流石にコンセルトヘボウ管には音の輝きでもパワーでも敵わない。だが、大フィルのヴィオラの音色もなかなか雄弁であり、時折、人間の慟哭に近い音を出すなど、インバルの指揮に触発されて別次元の演奏を聴かせる瞬間もある。

インバルは第1楽章と第2楽章、第3楽章と第4楽章をアタッカで繋ぐ。

第1楽章のラスト、ピッコロ2本がユニゾンを奏でるという珍しい場面があるが、やがてピッコロ1本となり、孤独の内に楽章は閉ざされる。
「スターリンの肖像」ともいわれる第2楽章の凶暴な表情の描き方も優れているが、この演奏を聴くとどことなく、回想の中での凶暴さという印象も受ける。現在と過去のパースペクティブが行われているような感じと書くと分かりやすいだろうか。

第3楽章のホルンの、強弱による印象の変化も、恐怖の絶頂を振り返るかのような趣があるように聞こえる。
第4楽章は、諧謔、というよりもどことなく人を食ったような旋律が登場し、ここがプロコフィエフの「古典交響曲」と繋がるような気もする。ショスタコーヴィチは本音を明かさないまま自らの署名入りによる「歓喜への予感」を抱かせる終わり方を選んでいるが、大フィルの打楽器陣も冴えまくっており、インバルの開放感に満ちた音楽作りもラストに説得力を持たせていたように思う。
これで音に更なる洗練が加われば、世界レベルが見えてくるかも知れない。

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2020年12月31日 (木)

コンサートの記(677) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか 「第9シンフォニーの夕べ」2020

2020年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の「第9シンフォニーの夕べ」に接する。

本来は今年の大阪フィルの第九は、ラルフ・ワイケルトが指揮する予定だったが、新型コロナウイルスの流行による外国人入国規制により来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代わって指揮台に立つことになった。
ワイケルトが京都市交響楽団の定期演奏会に客演した時に、大阪フィルの事務局次長(事務方トップ)の福山修氏がいらしていて、私も挨拶したのだが、その後に大阪フィルの定期演奏会のプレトーク(フェスティバルホールのホワイエで福山さんが行っている)で、やはり京響の定期で福山さんを見かけた方から、「なんで京響の定期にいらしてたんですか?」と質問があり、福山さんは「実はワイケルトさんを大フィルにお呼びしたいと思っておりまして」と明かしていた。それが今回の第九への客演依頼だったのだが、残念ながら今回は流れてしまった。

コロナ禍にあって、第九の演奏会が中止になるところも少なくなかったが、大フィルはなんとか6月以降は定期演奏会も含めて本拠地のフェスティバルホールでの演奏会はほぼ行うことが出来た。ただ、それ以外のコンサートは中止になったものも多く、クラウドファンディングが始まっている。年末の第九も本来は2回公演になるはずだったが、今日1回きりに減っている。

 

今日のコンサートマスターは、須山暢大。第1ヴァイオリン16という大編成での演奏である。ドイツ式の現代配置をベースにしているが、コロナ対策のため、通常とは布陣が異なる。
オーケストラと背後の合唱のためのひな壇の間には、平台と同じ大きさと思われる透明のボードが横に18枚、ずらりと並んでいる。ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄り、第3楽章以降にステージに登場する打楽器奏者がその更に下手に並ぶ。下手にいることが多いホルンは上手側奥、チェロの背後に配置される。ステージ下手端に平台が斜めに並べられており、そこが独唱者が歌うスペースになる。独唱者は、髙橋絵理(ソプラノ)、富岡明子(アルト)、福井敬(テノール)、青山貴(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
ソリストと合唱、シンバルやトライアングルなどの打楽器奏者は第2楽章が終わってからの登場。合唱団員は各々前後左右にスペースを取り、口の前に布を垂らしている。おそらくあれが東京混声合唱団が開発した「歌えるマスク」なのだろう。

2700席のフェスティバルホールに、今日は約2300人が来場の予定だそうで、コロナ下にあってはまずまずの入りである。1階席の前の方の席は飛沫を考慮して発売されていない。

 

中庸かやや速めのテンポでスタート。弦楽器はかなりビブラートを抑えての演奏であり、冒頭などは音型がクッキリしているため、第2ヴァイオリンの音などはかなり不吉に響く。ティンパニはバロックタイプのものではないが、時折、硬い音を出し、ピリオドの響きを意識しているようである。
尾高さんもこのところはフォルム重視というより内容を抉り出すような音楽を好むようになってきているように思われるが、今回も音を磨くよりもベートーヴェンの先鋭性を的確に浮かび上がらせるような演奏を行う。以前だったら第3楽章などはテンポを落としてじっくり歌ったと思うが、今日はスッキリした運びで、音の動きの特異性などを明らかにしていたように思う。同じくNHK交響楽団正指揮者で、同じように関西にポジションを持つ外山雄三も最近はそうしたスタイルに変えているようで、ベテランであっても最新の研究成果を取り入れることに熱心であるようだ。スッキリしているといっても旋律美自体は大事にしており、ベートーヴェンを一面だけから語るということは避けている。

第4楽章も巧みな音運びで、独唱者も充実。尾高さんには珍しくアゴーギクなども行う。ソーシャルディスタンス配置による合唱であるが、例年よりは歌声に隙間が生じた感じになってしまうのは致し方ないところである。周りの声が聞こえにくい配置とマスクというハンデを考えればかなり充実した歌唱であり、世界で唯一、年末が第九一色に染まる国、日本の合唱団のレベルの高さを示していた。

今年は世界史上に永久に残るほどの「大変な年」であり、来年が今年よりも良くなるという保障もどこにもない。人類は大きな危機に直面しているといえる。ただそんな年であっても日本では第九が演奏され、「歓喜の歌」が歌われる。
人類は未だ楽園には到達していないが、そこに到る歩みを止めてはいない。ベートーヴェンとシラーの吶喊を受けて、来年と、楽園へ辿り着くいつかに思いをはせながら、「歓喜の歌」に身を浸した。ラストの未来へと続く行進に私も加わっている思いだった。

 

今年も第九の後に、福島章恭(ふくしま・あきやす)指揮大阪フィルハーモニー合唱団によるキャンドルサービスの「蛍の光」が歌われ、「大変な年」にひとまずの句点が打たれたことを感じる。生きているだけで幸運という年になったが、2021年が今年よりは良い年になることを願わずにはいられない。


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2020年11月18日 (水)

コンサートの記(668) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第543回定期演奏会

2020年11月13日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第543回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、グレース・ウィリアムズの「海のスケッチ」と、マーラーの交響曲第5番。

今日のコンサートマスターは、崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏。マーラーでの弦はファーストヴァイオリン14型であり、フル編成での演奏となる。

グレース・ウィリアムズ(1906-1977)は、ウェールズ出身の女流作曲家である。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでヴォーン・ウィリアムズに師事し、その後、カーディフのBBCウェールズに勤務していたという。
尾高がグレース・ウィリアムズの存在は知ったのは、BBCウェールズ交響楽団の首席指揮者を務めていた時代(1987-1995)で、楽団員から「海のスケッチ」を良い曲だと薦められ、BBCウェールズ響と演奏しているという。尾高はその後、2001年に当時音楽監督を務めていた札幌交響楽団を指揮してこの曲の日本初演を行っており、新日本フィルハーモニー交響楽団、九州交響楽団、読売日本交響楽団とも同曲を演奏しているそうである。

弦楽オーケストラのための作品で、「強風」「航海の歌」「セイレーン海峡」「砕ける波」「夏の穏やかな海(平和な海)」の5部からなっている。
ウェールズはイングランドとは文化が少し異なるが、同じ英国(U.K.)ということもあり、イギリス的な音楽であることは間違いない。海の様々な表情を描いており、波の動きを描写した部分もあれば、海よりも風の要素が強い箇所もある。荒さは余り感じられず、ノーブルな作風であるというところがいかにも英国の作曲家の作品らしい。
なお、ラストに当たる「夏の穏やかな海(平和な海)」は、マーラーの交響曲第5番より第4楽章「アダージェット」に旋律や印象が似ており、マーラーの交響曲第5番をメインとするコンサートの前半に入れられた理由がわかる。

 

マーラーの交響曲第5番。人気曲であり、コンサートで聴く機会は多いが、フェスティバルホールで聴くのはあるいは初めてかも知れない。大阪フィルはエリアフ・インバルを招いたフェスティバルホールでの定期演奏会で、この曲を演奏しているが、私自身はその演奏会は聞き逃している。

尾高忠明というと、フォルムを大切にする音楽作りが特徴で、日本における正統派指揮者というイメージであり、実際にそうだったのだが、このところは表現主義的な演奏に傾きつつあり、この曲でも外観を損ねてでも内容をえぐり出すという、ある意味、マーラーのユダヤ的要素に光を当てた演奏となる。
スケールは大きく、バランス感覚にも秀でているが、それ以上にマーラーの苦悩や戦きを炙り出すことに焦点を当てており、チェロを強く奏でることで意図的に構図を不自然にするなど、マーラーの異様な部分をそのままに描き出す。強弱の対比も鮮やかであり、速度を上げることで、他の演奏では単なる旋律でしかなかったものが崩壊の描写として確認出来るようになっている。

マーラーの交響曲第5番は、第1楽章と第2楽章が第1部、第3楽章が第2部、第4楽章と第5楽章が第3部と作曲者によって指示されている。それに従わない指揮者もかなり多いのだが、尾高は指示通り、第2楽章と第3楽章の間、第3楽章と第4楽章の間に比較的長めの休止を取り、第1楽章と第2楽章の間、第4楽章と第5楽章の間は逆にほぼアタッカで演奏を行った。

マーラーの生前からマーラー作品を高く評価していたウィレム・メンゲルベルクにより、「妻アルマへのラブレター」と評された第4楽章「アダージェット」であるが、この曲全体がベートーヴェンの交響曲第5番に範を取った英雄の物語と解釈すると、「アダージェット」はアルマとは余り関係のない、英雄のまどろみのようなものであり、第5楽章の冒頭で夢から醒めた英雄が勝利へと向かうという筋書きが見えてくる。第5楽章冒頭のホルンはどう聴いても目覚めを促す声であるため、マーラーがアダージェットをまどろみとして書いた可能性は結構高いはずである。
昨今ではスッキリとしたテンポによるアダージェットの演奏も多いが、尾高は中庸からやや遅めのテンポを取り、適度な甘美さでこの楽章を歌った。

続く第5楽章も尾高としては比較的テンポを動かす演奏であり、終盤に向けての高揚感も鮮やかである。大フィルも細かな傷はあるが、内からエネルギーが溢れ出す様がハッキリと見えるようなパワフルな演奏を展開。この楽団の長所が存分に発揮された秀演となった。

尾高は最後に客席に向かって、「コロナに負けずに頑張りましょう」とコメントし、コンサートはお開きとなった。

ちなみに、渋沢栄一を主人公とする来年の大河ドラマ「青天を衝け」のオープニングテーマの指揮は、渋沢栄一の子孫の一人でもある尾高忠明が務めるようである。

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2020年10月21日 (水)

コンサートの記(661) 小林研一郎指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第542回定期演奏会

2020年10月13日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第542回定期演奏会を聴く。当初はイタリア系アメリカ人のロバート・トレヴィーノ(京都市交響楽団に客演したことがあり、その時はイタリア風のロベルト・トレヴィーノ表記であった)が指揮台に立つ予定だったが、新型コロナウイルス流行による外国人入国規制ということで、小林研一郎が代役として登場する。

曲目も一部が変更になり、ジョン・アダムズの「ハーモニウム」に代わってベートーヴェンの交響曲第2番、そしてチャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」(マンフレッド交響曲)が演奏される。

小林研一郎は、1940年生まれということで、今年で傘寿を迎えた。東京で傘寿記念として交響曲「マンフレッド」を含むチャイコフスキー交響曲チクルスを行う予定があったのだが、延期となっている。そんな中、たまたま交響曲「マンフレッド」の演奏を行う予定だった大阪フィルの指揮者が来日不可となったため、小林が代役を引き受けることになったのだと思われる。

東京ではベートーヴェンの交響曲全曲を一日で演奏するという企画に何度も挑んでいる小林であるが、関西で小林の指揮するベートーヴェンを聴く機会はそう多くない。大フィルのサマーコンサートには毎年登場して、「未完成」「運命」「新世界」を指揮しているがそれぐらいである。


今日のコンサートマスターは崔文洙、フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏である。今日はベートーヴェンが第1ヴァイオリン14、チャイコフスキーが第1ヴァイオリン16という大編成での演奏となる。

チューニングが終わってすぐに、小林が猫背の早足で登場。コンサートマスターの崔とフォアシュピーラーの須山とエルボータッチを行った後で、「本日はお越し下さりありがとうございます。こんな状況ですが、チャイコフスキーのマンフレッドに感銘を受けました」と語り、「大阪フィルのメンバーの情熱」と「お越し下さった皆様方のオーラを受け取って」演奏を行うと述べた。


ベートーヴェンの交響曲第2番。譜面台は置かれているがその上に総譜は乗っておらず、暗譜で指揮となる。ピリオド援用スタイルの演奏であり、弦楽はビブラートを抑え、ボウイングもHIPの様式で行う。ただテンポは昨今の演奏としてはやや遅めであり、時に豪快でスケール豊かな演奏が展開される。
小林は大フィルから極めて瑞々しい音を引き出す。第2楽章冒頭のヴァイオリンの響きの繊細さなどは、耳の疾患の予兆に苦しみながら創作を続けたベートーヴェンの心の震えや憧れなどを伝える。
テンポが遅めであるため、音型の細部まで聴き取ることが可能で、面白さにも溢れたベートーヴェンとなった。一方で密度は薄めで、テンポ設定の難しさが感じられる。両立は困難であるため、どちらかを選択することになるのだが、小林の個性を考えると今回の判断は正しかったと思える。


チャイコフスキーの交響曲「マンフレッド」。標題作品であり、交響曲でなく交響詩と捉えられることもある曲であるが、チャイコフスキーの交響曲としては知名度が低く、「チャイコフスキー交響曲全集」などにも含まれないことが多い。交響曲第4番と第5番の間という、チャイコフスキーの創作が今ひとつ乗らなかった時期に作曲されており、作曲者自身も後に第1楽章以外を破棄しようとしたり、作り替えたりしようとして果たせずに終わっている。
大阪フィルは、2013年にウラディーミル・フェドセーエフの指揮で交響曲「マンフレッド」を演奏しているが、その時はラストにオルガンの入らない「原典版」での演奏であった。今回はオルガン入りの演奏であり、電子オルガンを関西ではお馴染みの桑山彩子が弾く。

小林は、名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮した交響曲「マンフレッド」のCDをリリースしており、ベスト盤に挙げたいほど出来が良かっただけに期待が高まる。

交響曲「マンフレッド」は、ロシア五人組のリーダーであったバラキレフがチャイコフスキーに持ちかけた企画だという。バラキレフは最初はベルリオーズに提案を行ったが、断られたため、話がチャイコフスキーに行ったようだ。ベルリオーズに提案を行ったということで、バラキレフが幻想交響曲のようなものを期待していたことが窺えるが、チャイコフスキー自身も当然ながら幻想交響曲を念頭に置いて作曲を行ったと思われる。だが最終的には叙事詩や物語というよりも4つの場面の風景画のようなものとして作曲、結果としてまとまりに欠ける印象の作品となった。チャイコフスキーが残した手紙から、躁鬱状態で作曲された可能性が分かっており、まとまりのなさに繋がっているのかも知れない。メロディー的にはチャイコフスキーらしい美しさがあるのだが、旋律が浮かんでは消え、浮かんでは消えといった印象でとりとめがない。

譜面台の上にマンフレッド交響曲の総譜が乗っていることは確認出来るのだが、小林がそれに手を伸ばすことはなく、やはり暗譜での指揮となった。

小林の指揮する大フィルは、ベートーヴェンの交響曲第2番の時と同様、瑞々しい音色がまず印象に残る。スケールも大きく、細部の描き方も丁寧である。楽曲の弱さは否めないが、大フィルの長所を十分に弾き出し、演奏自体は充実したものとなる。
ラストにオルガンが高みからの響きのように奏でられ、オーケストラがそれに寄り添っていく。いかにも仰々しく、取って付けたような救いにも感じられる場面なのだが、こうしたコロナ禍の中で聴くと、「こういうラストも案外良いかも」と思われてくる。聴く状況によっても音楽の印象は変わってくる。「歌は世につれ世は歌につれ」というが、あるいは時代と音楽が突如マッチする瞬間というものもあるのかも知れない。

演奏終了後、小林は弦楽最前列の奏者全員とエルボータッチを行い、コントラバス奏者の下にも歩み寄って2人とエルボータッチ。管楽器奏者のトップにも足を運んで演奏を讃える。その後、パートごとに声を出して紹介して、拍手を受けさせた。

小林はマイクを手にスピーチを行う。「80歳にもなると昔と違って上手く頭が回らなくなります」と言いつつ、大フィルの演奏を「人間業を超えた音」と讃えた。
「大きな声を出すことが出来ないということで、残念に思われてる方もいらっしゃるでしょうが、代わりに私が言っておきます。素晴らしかったよ!」

今年はサマーコンサートも中止となり、年齢も80になったということで、大フィルへの客演も「もうこれで」と、今回が最後となりそうなことを仄めかしたりもしたが、最後は「明日もまたいらっしゃって下さい」と言って笑いも取っていた。

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2020年8月21日 (金)

コンサートの記(649) シャルル・デュトワ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団来日演奏会2005大阪

2005年11月12日 大阪・中之島の(旧)フェスティバルホールにて

大阪のフェスティバルホールで、シャルル・デュトワ指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴く。曲目はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」より抜粋と、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。ロシアのバレエ音楽を並べたプログラムだ。

フェスティバルホールに行くのは久しぶり。3年半近く行っていなかった。しかも前回は演劇の公演(三谷幸喜の「オケピ!」の再演版)だったので、フェスティバルホールでコンサートを聴くのは初めてである。

フェスティバルホールはかっては大阪を代表するホールとして、大阪フィルを始め、多くのオーケストラがここで定期公演を行い、海外の演奏家やオーケストラも大阪で公演するときは必ずここを使った。

今は、大阪のクラシック音楽シーンの中心は、ザ・シンフォニーホールに移っているが(2005年当時)、観客が多数詰めかけることが予想されるコンサート、例えばウィーン・フィルの演奏会などは、よりキャパの広いフェスティバルホールを使うことが多い。
今回のコンサートもチェコ・フィルとデュトワという珍しい顔合わせなのでフェスティバルホールを選んだのだろう。

フェスティバルホールの内装は古ぼけてはいるが、ちょっと昔にタイムスリップしたようで雰囲気はいい。ただ、古いホールだけに、残響がほとんどなく、音には不満がある。

プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は、フェスティバルホールのマイナス面が出てしまった。チェコ・フィルのメンバーもホールの空間の大きさを気にしたのか、本来の力を出せていないようである。弦楽は艶やかに鳴る「場面もあった」が、管、特に金管は低調である。
弦が艶やかに鳴る場面もあった、と書いたがこれは異例のことで、チェコ・フィルといえば、弦楽合奏の美しさで有名なのだ。その弦の力をそれほど感じなかったということは、ホールもそうだが、曲との相性も良くないのだろうか。

後半はデュトワの十八番、「春の祭典」。フェスティバルホールの乾いた音もこの曲には向いている。金管は思ったほど良くならなかったが、弦はプロコフィエフの時とは打って変わって生き生きしている。フェスティバルホールの天井桟敷で聴いたので、真の迫力が私の席まで届かなかったのは残念だが、名演であることは間違いない。ちなみに曲の最後の最後、フルートの後の一撃の時に、デュトワが勢い余って指揮棒を取り落とし、床を「カタカタン」と鳴らすというハプニングがあった。デュトワもチェコ・フィルのメンバーも聴衆も苦笑いという珍しい場面であった。

今回、チェコ・フィルを聴いて、「やはり中欧ナンバーワンオーケストラだけのことはある。凄い」という印象と、「こんな程度のものなのか?」という感想を同時に持った。音に厚みと温もりがある。密度も濃い。輝きもある。ただ、メカニックや、曲への適応力は、日本のオーケストラと大差ない。むしろデュトワが指揮するならNHK交響楽団の方が良い演奏をしたのではないか? と思える箇所もあった。

アンコールはチャイコフスキーの「白鳥の湖」よりワルツ。この曲にはトランペットの長く優雅なソロがあるが、どういうわけか、チェコ・フィルのトランペットソロは音程が怪しい上に、曲への共感が乏しいように見えた。デュトワは、ソロの聴かせどころではいつもするように他の楽器の音を抑えて、トランペットソロを浮かび上がらせていたが、このソロには不満だっただろう。

デュトワは日本でもお馴染みの名指揮者であり、私が最も好きな音楽家の一人である。チェコ・フィルも中欧、東欧含めて間違いなくトップオーケストラである。それだけに期待していたのだが、この組み合わせは思ったほど良くはなかった。チェコ・フィルはロシアものはあまり得意ではないのかも知れないし、ホールも影響していただろう。

ただ、一流の指揮者と一流のオーケストラが組めば即ち名演というわけではないことも確認出来た。いいものは自分で探さなくてはならない。ブランドに目をくらませることなく虚心坦懐になって。何事においてもそうだ。

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2020年6月29日 (月)

コンサートの記(643) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第539回定期演奏会

2020年6月27日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第539回定期演奏会を聴く。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団桂冠指揮者の大植英次。大植英次はドイツ在住であるため、新型コロナウイルス対策として日本に入ってから2週間の隔離生活を行う必要があったが、それを乗り切って指揮台に立つことになった。他のオーケストラだっらそんな面倒なことに耐えてまで指揮したいとは思えなかったかも知れないが、それが大植にとっての大フィル愛なのだろう。

約4ヶ月ぶりのフェスティバルホール。大阪市内で「過ごす」といっても良いほど長時間滞在するのも約4ヶ月ぶりである。

曲目に変更がある。当初はリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」、レナード・バーンスタインの「ウエスト・サイド物語」よりシンフォニック・ダンスと組曲「キャンディード」が演奏される予定であった。特に「ウエスト・サイド物語」よりシンフォニック・ダンスは、1990年に行われたレナード・バーンスタイン指揮ロンドン交響楽団の来日演奏会東京公演で、当初はバーンスタインの自作自演となるはずが、当日になってこの曲だけを当時無名だった大植が指揮することがアナウンスされ、演奏は成功したのに、バーンスタインの自作自演を期待していた聴衆から叩かれまくったという因縁の曲であり、聴くのが楽しみであったのだが、やはり当初の曲目だとオーケストラプレーヤー間のディスタンスが十分に確保出来ないということで、ベートーヴェンの交響曲第4番と第5番が休憩なしで演奏されることになった。2曲共に今の状況下で演奏するに相応しい作品だと思われる。

曲目変更に納得出来ない場合は払い戻し可であり、また客席もディスタンス確保のため両隣一席空けでの対応が必要となり、事前に購入したチケットに記載された席には座ることが出来ず、入場前に新たに割り振られた座席券への引き換えが行われる。
私は2階席の8列目(最後列)下手端から、同6列目ほぼ真ん真ん中の席に移る。音響的には良い席に変わったことになる。

「ブラボー!」など大きな声を上げることは禁止。会話等もなるべく行わないことが推奨される。入場時に手のアルコール消毒を行うほか、サーモグラフィシステムを使っての体温検査も行われる。ビュッフェは閉鎖。飲料水のサーバも使用中止で、飲み物は7階(ホール3階)の自販機で買い求める必要がある。

 

コンサートマスターは須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏であるが、ティンパニは指揮者の正面ではなく左寄りに配置される。

トランペット奏者やオーボエ奏者が演奏開始前にステージ上で練習を行っていたが、集客が通常よりもかなり少なめということもあって音がよく響く。

 

開演前に大阪フィルハーモニー交響楽団事務局次長の福山修氏がマイクを持って登場し、曲目の変更や席の移動などを受け入れてくれたことへの感謝を述べ、弦楽奏者やティンパニ奏者はマスクをしての演奏であること、また奏者の間も通常より広く取っており、そのために予定されていた曲目が演奏不可となったことを詫びていた。

譜面台であるが、プルトで1台ではなく各自1台であり、なるべく距離を保てるよう工夫されている。また管楽器奏者は交響曲第4番と第5番で総入れ替えとなり、同一人物の飛沫が長時間飛ぶことのないよう工夫されていた。

普段とは異なり、オーケストラメンバーがステージ上に登場した瞬間からずっと拍手が起こる。

 

ベートーヴェンの交響曲第4番。大植は、コンサートマスターの須山暢大と握手をする前に右手に白い手袋を嵌め、客席からの笑いを誘う。

合奏の練習が出来ないということで演奏水準の低下が心配されたが、細かな傷はあったものの、一定水準は確保出来ており、安心する。

 

交響曲第4番は、「ベートーヴェンの交響曲の中では比較的小型で女性的」というイメージがあるが、大植は昨今の同曲演奏の一般的なテンポよりは少し遅めのものを採用し、第1楽章後半や第2楽章、最終楽章後半などではHIPを生かした一音ごとの強調や生命力を表に出して、重厚にして雄渾という男性的な第4を描いていく。闇の中を手探り状態で進んでいくような第1楽章序奏は、おそらく今現在の状況に重ねられているのだろう。
響き過ぎるためか、輪郭がややぼやけ気味なのが気になったが、渋い音による大フィルならではのベートーヴェン演奏となった。

 

交響曲第5番。大植は指揮棒を振り下ろして体の前で止めた時に運命主題が鳴るという振り方を採用する。フォルムはスタイリッシュだが、奥にマグマを秘めているという大植らしい音楽作り。大植はマーラー指揮者であり、ベートーヴェンの演奏では「成功」という評価をなかなか得られなかったが、今日は「コロナ禍を乗り越える」という精神で挑んだためか、密度の濃いなかなかのベートーヴェン像を提示する。
この曲でもビブラートを控えめにしたり、音の分離をくっきりさせるためのボウイングを用いたりとピリオドを援用。ピリオドであることを強調こそしないが、ピリオドならではの効果も随所で上げる。ホルンを警告としてかなり強く吹かせているのも特徴である。第4でもそうだったが、管による内声部が浮き上がる場面があり、採用した版が気になる。

最終楽章で第2ヴァイオリン奏者の楽器の弦がミシッという音を立てて切れ、リレーを行って最後列の奏者が弦の切れたヴァイオリンを持って退場するハプニングがあったが、演奏そのものには特に影響しなかった。

新型コロナに対する人類の勝利を祈念したかのような盛り上げ方も鮮やかであり、テンポの伸縮など、大植らしい外連も発揮されていた。

演奏終了後、大植はオーケストラプレーヤーに立つように命じたが、大フィルの楽団員は大植に敬意を表して立たず、大植が一人で客席からの拍手を受ける。大植は白手袋を嵌めてコンサートマスターの須山と握手。その後、弦楽最前列の奏者全員とグータッチを、コントラバス首席奏者とはエルボータッチを行い、客席を盛り上げた。

 

危機を迎えた時には何よりもベートーヴェンの音楽が良い薬になるということを実感した演奏会でもあった。ベートーヴェンの音楽に接する機会のある限りは、人類はいかなる危機であっても乗り越えられる、少なくとも新型コロナウイルスごときに容易く屈しはしないという勇気が胸の奥からふつふつと湧き上がってくるのを感じた。

 

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2020年4月 5日 (日)

コンサートの記(631) 佐渡裕指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団来日演奏会2016大阪

2016年5月28日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後2時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、佐渡裕指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の来日演奏会を聴く。今日も3階席に陣取る。外来オーケストラは良い席は値段が高すぎて買う気になれない。外来オーケストラの料金設定が高いことが「クラシックコンサート=料金が高い」という誤解を生むもととなっている(基本的にはだが、日本の有名ポピュラーアーティストのコンサートの方が国内の一流クラシックコンサートに比べても料金が高めである)。

佐渡裕は海外ではパリのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者を1993年から2010年まで長く務めていたが、2015年の9月からウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現在の正式名称は、「トーンキュンストラー管弦楽団」もしくは「ニーダーエスターライヒ・トーンキュンストラー管弦楽団」である。ウィーンのムジークフェラインザールでも定期演奏会を行っているが本拠地ではない)の音楽監督に就任。佐渡にとって海外で二つ目のチーフポストとなる。ウィーンでの活動が増えるため佐渡は「題名のない音楽界」の司会を卒業している。

ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の来日演奏会は、佐渡の前の前の同管弦楽団の音楽監督であったクリスチャン・ヤルヴィの指揮で聴いたことがある。ザ・シンフォニーホールでの公演であった(調べたらもう8年も前のことだった)。ベートーヴェンの交響曲第5番がメインであったが、聴いている間は「まあまあだ」と思ったものの、帰りに梅田駅まで歩く間にどんな演奏だったか思い出せなくなってしまった。
クリスチャン・ヤルヴィは大阪フィルハーモニーに客演してラフマニノフの交響的舞曲などを指揮しているが、こちらの演奏も同傾向であったため、作る音楽の傾向がスポーティーに寄りすぎているようだ。


私自身2度目となるトーンキュンストラー管弦楽団の演奏会。曲目は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:レイ・チェン)とリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」


開演5分ほど前に佐渡裕がマイクを片手に現れ、自身のウィーンでの思い出を語る。

佐渡が初めて海外で生活した街がウィーンだった。ウィーンに渡ったのは25年前のこと。本当は師であるレナード・バーンスタインにもっと教えを請うためにニューヨークに行くつもりだったのだが、当のバーンスタインから「ウィーンに行け! そしてお前は英語も下手くそだけどドイツ語も勉強しろ!」と言われてウィーンで暮らすことになった。ウィーンではバースタインによる全ての演奏会や録音に立ち会った他、ウィーン国立歌劇場やムジークフェラインザールに通い詰めたそうである。当時は、ウィーン国立歌劇場の立ち見席は日本円に換算して僅か150円ほど、ムジークフェラインザールの立ち見席も300円ほどで買うことが出来たという。その代わり長時間並ぶ必要があったようだが。カルロス・クライバー指揮によるウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートの当日券を求めて友人と二人でムジークフェラインザールの前で3日並んだこともあるという。ちゃんと並んでいるかどうか定期的に職員による点呼があったそうだ。
ただ、結局、3年に渡るウィーンでの生活の間に佐渡はこの街の指揮台に立つことはなかった。その後もドイツのオーケストラからは声が掛かったが、ウィーンの楽団の指揮台は遠かった。
ところが、佐渡が指揮したベルリン・ドイツ管弦楽団の演奏会を耳にしたウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の事務局長が佐渡を気に入り、客演指揮者として招聘。佐渡とトーンキュンストラー管のコンサートは大成功を収め、そのたった1回の客演で佐渡が次期音楽監督に決まったのだという。「立ち見席から指揮台へ。なかなか座らせてくれない」と佐渡が語ったところで笑い声が起こったので、「大阪はこういうところでちゃんと笑ってくれるんですね」と佐渡は続け、会場から更なる笑いと拍手が起こった。

最後に熊本地震支援のために募金を行い(熊本の音楽関連の復興に当てる予定)、その際、佐渡も募金のために出口付近に立つので、「あまり早めに帰らないようお願いします」と述べた。


ドイツ式の現代配置による演奏だが、ティンパニは指揮者の正面ではなく上手奥にいる。ステージの一番奥には小型のカメラが設置してあるが、これは「英雄の生涯」の時にトランペットがバンダとして下手袖で吹く際に佐渡の指揮をモニターに映す役割があると思われる。


ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏のレイ・チェンは1989年台湾生まれ。男性である。15歳で米国フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学し、2008年にメニューイン・ヴァイオリン・コンクールで優勝。翌年にはエリザベート王妃国際コンクール・ヴァイオリン部門でも優勝。こちらは同コンクール史上最年少での優勝であった。

佐渡とトーンキュンストラー管弦楽団は完全なピリオド・アプローチを採用。テンポも速めであり、ビブラートを抑え、ボウイングもピリオドのものだ。古楽的奏法を上手く取り入れた伴奏で、佐渡の器用さが出ている。
レイ・チェンのヴァイオリンもビブラートというより「揺らす」という感じの奏法であり、やはりHIP(Historicallyl Informed Performance)によるものなのかも知れない。ヴァイオリンの音は磨き抜かれ、スケールも中庸で、古楽的奏法によるベートーヴェンとして満足のいくものになっている。


演奏終了後、レイ・チェンは、「どうもありがとうございました」「アンコールに、バッハ、サラバンドを弾きます」と日本語で語ってからアンコール演奏。気高さがあり、ベートーヴェンよりもバッハの方に向いているように感じた。

リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。トーンキュンストラー管弦楽団は女性楽団員の割合が40%と高く、これはウィーンの主要オーケストラの中でトップだというが(何しろ、ウィーン・フィルは長年に渡って女性奏者の入団を認めなかった)、金管奏者はやはり男性楽団員の方が圧倒的に多い。大編成による曲なのでエキストラが何人も入っているのかも知れないが。

なお、公演パンフレットは無料ながら充実しているが(有料パンフレットの販売はなし)、指揮者、ソリスト、楽団の紹介はあるものの楽曲解説が一切なく、クラシック初心者には不親切な仕上がりになっている。

最近は日本のオーケストラの技術が急上昇し、メカニックならトーンキュンストラー管弦楽団とも十分に張り合えるようになっている。ただ、トーンキュンストラー管が出す音の美しさ、輝きなどには悔しいが及ばない。あるいはこれはテクニックではなく、音や和音に対する感性の違いが大きいのかも知れないが。
とにかくトーンキュンストラー管のシルキーな輝きの弦、燦々と鳴り響く金管などは美しさの限りである。

佐渡の指揮であるが、パートパートの描き方は優れているが、総体として見たときにパースペクティヴが十分かというとそうは言い切れない。見通しは今一つなのだ。
ただ、舞台下手袖でバンダが鳴り、「英雄の戦い」の場面になってからの迫力は佐渡の長所が生きていた。
オーケストラを響かせるのは上手だが、音楽の語り部としてはもう一つというのが現在の佐渡の立ち位置だろうか。


アンコールは2曲。まずはヨハン・シュトラウスⅡ世の「ピッチカート・ポルカ」。大編成の弦での演奏なので音が強めだが、雅やかな味わいは出ていたように思う。

ラストはリヒャルト・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」よりワルツ。ゴージャスな演奏で、出来はかなり良かった。

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2020年4月 3日 (金)

コンサートの記(630) クシシュトフ・ウルバンスキ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第498回定期演奏会

2016年5月20日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第498回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は芸術大国ポーランド出身の俊英、クシシュトフ・ウルバンスキ。

曲目は、チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏:アンナ・ヴィニツカヤ)、ルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲。


ベルリン・フィルやニューヨーク・フィルといった世界的オーケストラへの客演が続くクシシュトフ・ウルバンスキ。1982年生まれ。現在、米インディアナポリス交響楽団音楽監督やノルウェーのトロンハイム交響楽団首席指揮者の座にあり、北ドイツ放送交響楽団の首席客演指揮者も務めている。東京交響楽団首席客演指揮者でもあり、東京の聴衆にとってはお馴染みの指揮者でもある。
大阪フィルハーモニー交響楽団事務局次長企画室長の福山修氏によると、ウルバンスキは、フォトグラフメモリー(写真記憶)といって、一目見たものを写真に撮るように頭に収めて記憶してしまうという特殊能力の持ち主だそうで、譜面は一度見ただけで覚えてしまうため、全て暗譜で指揮するそうだ。
フォトグラフメモリーの持ち主として知られた指揮者にはロリン・マゼールやピエール・ブーレーズがいるが、実は二人とも暗譜には否定的であった。二人揃って否定的ということは何らかの理由があるのだろう。

小学生の頃からホルンを吹いていたというウルバンスキだが、指揮者に目覚めたのは中学生の時だそうで、友人に誘われて聴きに行ったアントニ・ヴィト(ポーランドを代表する指揮者で、NAXOSレーベルの看板指揮者でもある)指揮のコンサートで感激。「自分も指揮者になろう」と決意。その後、ワルシャワのショパン音楽アカデミーでそのヴィトに指揮を師事。その後、ヴィトの下でワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団のアシスタント・コンダクターも務めている。


今日のコンサートマスターは田野倉雅秋。ドイツ式の現代配置による演奏である。

ウルバンスキ登場。相変わらず見るからに才子という風貌である。


チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」。スッキリとしたスタイルによる演奏で、健康的に過ぎる気もしたが、「恋の主題」の演奏はこれまでに聴いた実演、録音を通して最もロマンティック。ここぞという時の感情表現に長けている。


ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。深紫のドレスで登場したアンナ・ヴィニツカヤは、ロシアのノボロシースク出身の若手ピアニスト。セルゲイ・ラフマニノフ音楽院高等部を経てハンブルク音楽大学を卒業。数々のピアノコンクールで栄冠を手にし、2007年のエリザベート王妃国際音楽コンクール・ピアノ部門で優勝。翌2008年にはレナード・バーンスタイン賞を受賞している。

ウルバンスキ指揮の大阪フィルはチャイコフスキーの時とは違い、仄暗い響きを奏でる。ヴィニツカヤのグレートーンの響きもラフマニノフの相応しい。ただ、ヴィニツカヤのピアノが大フィルの伴奏に埋もれてしまうことも多く、ピアノのエッジももっと効いていて欲しいと思うところがある。第2楽章はヴィニツカヤのピアノも良かったが、それ以上にウルバンスキ指揮する大阪フィルのイメージ喚起力が素晴らしい。曲調を丁寧に追った結果だろう。
第3楽章ではヴィニツカヤが抜群の技巧を披露。ウルバンスキと大フィルも熱い伴奏を聴かせ、情熱的な快演となった。

ヴィニツカヤのアンコール演奏は、ショスタコーヴィチの「ワルツ スケルツォ」。チャーミングな演奏であった。


ウルバンスキの祖国、ポーランドの作曲家であるルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲。
大阪フィルの音色は輝かしく、威力も技術も抜群である。
ウルバンスキのオーケストラコントロールも鮮やか。それほど派手な指揮ではないが、しなやかな動きで、大フィルから次々に美音を引き出していく。
ルトスワフスキの管弦楽の協奏曲はありとあらゆる音楽要素を詰め込んだ力作であるが、ウルバンスキの楽曲分析の成果もあって、立体的な秀作として耳に届いた。


終演後にCD購入者限定でウルバンスキとヴィニツカヤのサイン会があり、ウルバンスキのサインを貰った。

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2020年3月28日 (土)

コンサートの記(629) 尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第496回定期演奏会

2016年3月11日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第496回定期演奏会を聴く。今日の指揮者は尾高忠明。

大阪フィル首席指揮者の井上道義とは長年に渡る友人である尾高忠明。二人とも学生時代は腕白で、二人合わせて「悪ガキ・イノチュウ」と呼ばれていた。井上道義は今もいたずら小僧の面影があるが、尾高さんは大分ジェントルになった。

1947年に指揮者・作曲家の尾高尚忠の次男として生まれ、桐朋学園大学を卒業。東京フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団の常任を経て、昨年の3月まで札幌交響楽団の音楽監督を務めた。札響との音楽監督としてのラストステージは東京のサントリーホールでの演奏会であり、私はその演奏会を聴いている。
海外ではイギリスのBBSウェールズ・ナショナル管弦楽団(ウェールズは厳密にいうとイギリス=イングランドではないが)の首席指揮者を務めており、現在は桂冠指揮者の称号を贈られている。BBCウェールズ・ナショナル管とはレコーディングでも高く評価されている。
2010年よりNHK交響楽団の正指揮者に就任(現在は外山雄三との二人体制)。

今日の大阪フィルのコンサートマスターは首席客演コンサートマスターの崔文洙。ドイツ式の現代配置での演奏である。


曲目は、リャードフの交響詩「魔法にかけられた湖」、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(ヴァイオリン独奏:諏訪内晶子)、ラフマニノフの交響曲第2番。


リャードフの交響詩「魔法にかけられた湖」。ホワイエでプレトークを行った大阪フィルハーモニー交響楽団事務局次長の福山修氏によると「大阪フィルがこの曲を演奏するのはおそらく初めて」だそうであるが、私もこの曲を生で聴くのは初めてである。
ペテルブルク音楽院の教師としてプロコフィエフなどを教えたことで知られるリャードフであるが、作曲家としてはかなりの遅筆であり、ディアギレフが新作バレエの作曲をリャードフに依頼するも出来上がる気配がまるでないので、作曲家をストラヴィンスキーに変更。出来上がったバレエが「火の鳥」である。
そんな調子だったため、寡作というほどではないが残された作品は余り多くなく、またピアノ曲など小品が占めるパーセンテージが高いのも特徴である。

幻想的な絵画を描くのを好んだというリャードフ。「魔法にかけられた湖」は、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」やドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を思わせるような神韻縹渺とした雰囲気を持つ佳編である。
全曲ノンタクトで振った尾高と、大阪フィルの演奏もこの曲が持つ独自の趣をよく表していたように思う。


プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番。真っ赤なドレスで現れた諏訪内晶子。どちらかというと曲調に合わせて機械的に弾かれることの多いこの曲を丁寧且つ繊細に、儚げな美しささえ感じさせる独特のヴァイオリンで弾き切る。諏訪内の持ち味は他の国のヴァイオリニストからは余り聴かれないものであり、彼女が良い意味でとても日本的なヴァイオリニストであることが再確認出来る。諏訪内も若い頃は美音の技巧派だったが、その後、徐々に日本的な個性を持つヴァイオリニストへと変貌してきている。名古屋でパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンと共演し、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いた際、演奏終了後にパーヴォがFacebookに「諏訪内晶子とのスペシャルなメンデルスゾーン」というメッセージをアップしていたが、おそらく「もののあわれ」的な諏訪内のメンデルスゾーンはパーヴォには新鮮だったのであろう。

諏訪内はアンコールとして、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタより“アンダンテ”を弾く。諏訪内の奏でるバッハは「高貴」の一言だ。


ラフマニノフの交響曲第2番。尾高はこの曲をBBCウェールズ・ナショナル管弦楽団やメルボルン交響楽団とレコーディングしており、十八番としている。
大阪フィルもメカニックは十分なのだが、長年ドイツものをレパートリーの柱にしてきたため、どちらかというと渋い響きを出しており、ラフマニノフとの相性は必ずしも良いとはいえないようだ。本来なら音のパレットはもっと豊富であった方が良い(曲が長く感じられてしまう)。ただ、こうした黒光りするようなラフマニノフもたまには悪くない。
大フィルというとホルンがネックだったのだが、今日の演奏ではホルンを始め金管群が充実。オーケストラとしての確かな成長を感じさせてくれる。


演奏終了後、尾高はマイクを手に登場。「こういう日(3・11)なので黙祷をなさった方、祈りを捧げられた方もいらっしゃると思います。もう5年経ってしまいましたが、先日、仙台で演奏会を行い、泊まっていたホテルから海の方を見てみたのですが、何も変わっていませんでした。復興はまだされていません。大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会ではアンコール演奏はしませんし、私もラフマニノフの交響曲第2番を演奏した後でアンコール演奏をするのは嫌なのですが、こういう日なので」
ということで、エルガーの「エニグマ変奏曲」より第9変奏“ニムロッド”がアンコールとして捧げられる。やはり尾高指揮のイギリスものは良い。崇高にして力強い演奏であった。

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