カテゴリー「フェスティバルホール」の92件の記事

2022年4月20日 (水)

コンサートの記(774) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第557回定期演奏会

2022年4月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフィエスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第557回定期演奏会を聴く。今日の指揮は大阪フィルハーニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:藤田真央)とエルガーの交響曲第2番。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の独奏は、元々はフランス人ピアニストであるアンヌ・ケフェレックが担う予定であったが、コロナ禍により来日不可となったため、気鋭の若手ピアニストとして知名度を上げている藤田真央が代役に指名された。


今日のコンサートマスターは崔文洙、フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置による演奏である。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
ちょっと風変わりな青年であるが、天衣無縫の音楽性を持つピアニストである藤田真央(有名人ではあるが一応注釈を入れておくと男性ピアニストである)。冒頭の天国的な響きから聴衆を魅了する。音楽は次第に思索を深めていくが、藤田真央のピアノはピアノの音そのものよりも高い音楽性で聴かせる。「いいピアノだ」という印象よりも「なんて素敵な音楽なのだろうと」、ベートーヴェンの音楽性の高さをありありと示すことが出来るのである。まだ若い故に時にムラッけが出ることもあるが、リリシズムやロマンティシズム、この上ない喜びなどを自在に奏でてみせるのだからその実力に疑問の余地はない。
尾高指揮の大フィルも、ピリオドを取り入れた深くて格好の良い伴奏を聴かせた。


藤田真央のアンコール演奏は、J・S・バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」よりガヴォット(ラフマニノフ編)。チャーミングにして愉悦感に飛んだ演奏であった。


エルガーの交響曲第2番。
大英帝国の栄耀栄華を描いたような交響曲第1番で名声を博したエドワード・エルガー。彼の交響曲第2番も大いに期待されたが、1911年5月24日にクイーンズホールで行われた作曲者自身の指揮による初演は、演奏終了後に困惑が広がったという。聴衆は交響曲第1番のような壮麗な楽曲を期待していたのだと思われるが、交響曲第2番は旋律も短めで、しかも何度も同じ音型が繰り返されるというものであり、交響曲第1番に比べてモダンな印象も受けるが、その余りの落差に、初めて聴いた聴衆が戸惑ったのもむべなるかなという気もする。

全ての楽章で、当時、大英帝国の首都として世界一の賑わいを見せていたロンドンの街の種々雑多な賑わいが描かれているようであり、楽しい曲ではあるのだが、作風がモダンすぎたのかも知れない。
第2楽章は、「故エドワード7世陛下の想い出に捧ぐと」記された追悼曲であるが、それにしては明るめの印象を受ける。一説には、エルガーが親しくしていた人物の他界に寄せた楽曲でもあるといわれているようだ。
第4楽章のラストは、「高揚」というよりも、「次の時代へと続く」という「その先」を感じさせる終わり方で、効果的である。

エルガーの交響曲第1番は英国音楽史上に燦然と輝く名曲だが、交響曲第2番も、ヴォーン=ウィリアムズを始め、その後の英国人交響曲作曲家に繋がるような曲調であり、英国音楽史上重要な音楽作品と見ることが出来るだろう。

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2022年2月14日 (月)

コンサートの記(764) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第555回定期演奏会 ブルックナー 交響曲第5番

2022年2月10日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第555回定期演奏会を聴く。曲目はブルックナーの交響曲第5番(ノヴァーク版)で、徹底して5が並ぶ。指揮は大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

日本でもまだ「ブルックナーってあれ音楽なの?」と言われていた時代から積極的にブルックナーの交響曲を取り上げてきた尾高忠明。尾高はシベリウスの演奏でも日本の第一人者だが、ブルックナーを得意とする指揮者は基本的にシベリウスも得意であることが多い。若き日にウィーンに留学したシベリウスが、交響曲作曲家としてはまだ評価されていなかったブルックナーに師事しようとして断られたということがあったようだが、シベリウスはブルックナーの楽曲の本質を見抜いていたようである。ブルックナーを尊敬していたもう一人の音楽家、グスタフ・マーラーとシベリウスは後に会談しているが、物別れに終わっている。

ブルックナーはオルガニストとして出発。特に即興演奏を得意としており、ドイツ語圏最大のオルガニストとして尊敬されていたのだが、そんな彼が40代も半ばを過ぎてから交響曲の作曲に取り組むようになる。最初の内はさっぱり。自己評価に厳しく(この辺りはシベリウスにも繋がる)、気弱な性格だったということもあって、オーケストラに演奏を断られてもすごすご退散。「もっと良くすれば演奏して貰える」との思いから改訂に取り組み、その結果、版がいくつも存在するという状況になってしまっている。

今日演奏される交響曲第5番は、ブルックナーの交響曲の中でも人気のある作品、おそらく後期3大交響曲の次に来る作品だと思われるが、実はブルックナーは生前にこの曲の演奏を聴いたことはないとされる。完成したはいいものの、例によって演奏される機会がないまま歳月が流れてしまっていたが、交響曲第7番が成功したことで名声が徐々に高まり、生前に第5が演奏される機会も何度か訪れた。だが、ブルックナーは演奏会場に足を運ぶことはなかったようだ。

世界初演は、世界的な指揮者であったフランツ・シャルクのタクトによって行われたが、シャルクは交響曲第5番を「長すぎる」と感じたようで、独自のカットした版で演奏している。作品が理解された訳ではなかったことが分かる。


今日のコンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。第1ヴァイオリン17、第2ヴァイオリン15という大編成、ドイツ式の現代配置での演奏である。


ブルックナーの交響曲第5番は、非常にミステリアスな雰囲気で始まる。漆黒の闇の中を手すりだけを頼りに進んでいくような序奏に続き、突然前方に広大な世界が現れたかのようなスケール豊かな音楽が鳴り渡る。その後、森羅万象の美しさを愛でるかのような曲調となるが、次第に憂いが忍び寄ってくる。
この陰鬱なムードは第1楽章から第3楽章まで一貫して続き、第4楽章の冒頭で第1楽章から第3楽章までの主題が過ぎた日の追憶のように再現される。

交響曲第5番は、作曲家にとって特別な数字である。世界で最も有名な交響曲がベートーヴェンの第5番、日本では「運命」と呼ばれる楽曲である。本当に運命を描いたのかどうかは定かではないが、最終楽章で圧倒的な凱歌が奏でられるのが特徴で、多くの作曲家がそれを模倣した。ショスタコーヴィチが一番有名であるが、シベリウス、チャイコフスキー、プロコフィエフ、マーラーなどがベートーヴェンの第5を意識した曲調を自身の交響曲第5番に盛り込んでいる。おそらくブルックナーの交響曲第5番もこの路線で、ラストで強烈な鬨を上げている。それまでの3つの楽章は、挫折が多く、精神を病んだりもした自画像のようにも感じられる。ブルックナーの交響曲はどちらかというと抒景詩的だが、第5番だけは別のように思う。


尾高と大フィルによるブルックナーの交響曲第5番の演奏であるが、まずフォルムがほぼ完璧であることに圧倒される。スケール、音の純度、輪郭、いずれもが理想的である上に、強弱をミリ単位で変えてくる。こうした音楽作りは、日本人指揮者としては小澤征爾が得意としているが、今日の尾高もそれに近いものを感じる。少なくともブルックナーの音楽は完全に自分のものにしている。

大フィルのアンサンブルも好調で、弦楽器の透明度のある輝き、金管の節度ある咆哮など、ブルックナーに必要なものは全て音に込められている。ここまでのブルックナーを聴く機会は、外来のオーケストラを含めても余り多くないだろう。

明るめの音による演奏であるが、ブルックナーの私小説的な憂いの表現にも遺漏はなく、今現在の日本で聴ける最高のブルックナー演奏の一つであることは間違いない。尾高と大フィルのブルックナーは、これまでにも何度か聴いているが、今日が最高の出来であったように思う。

盟友である井上道義が、2024年をもって指揮者からの引退を表明するなど、世代交代が進んでいる日本人指揮者界であるが、尾高さんにはこれからも名演を生んで貰いたい。そして出来るなら、大フィルとシベリウスの交響曲チクルスもやって欲しい。

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2022年1月26日 (水)

コンサートの記(760) 大植英次指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第554回定期演奏会

2022年1月21日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時からフェスティバルホールで大阪フィルハーモニー交響楽団の第554回定期演奏会を聴く。当初はウェイン・マーシャルが客演する予定だったが、外国人が基本的に日本に入国出来なくなったため、大フィル桂冠指揮者の大植英次が指揮台に上がる。曲目も一部変更になった。

オール・アメリカ・プログラムで、ガーシュウィンのキューバ序曲、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」(ピアノ独奏:中野翔太)、ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲、グローフェのミシシッピ組曲、ガーシュウィンの交響的絵画「ポーギーとベス」(ベネット編)が演奏される。

今日のコンサートマスターは須山暢大。

昨年の1月、出町柳の名曲喫茶・柳月堂でガーシュウィンの組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」をリクエストで入れて聴き、「アメリカ音楽はカラッとしていて新年に合うなあ、例年なら」と思ったが、たまたま今年の大フィルの1月定期はオール・アメリカ・プログラムとなった。

二十歳でアメリカに渡り、タングルウッド・ミュージック・センターとニューイングランド音楽院に学び、レナード・バースタインに師事した大植英次。アメリカ音楽も得意である。

大植は大フィルの分厚い音色を生かしたシンフォニックな演奏を築きつつ、キレや華にも欠けない理想的な音像を引き出す。


ガーシュウィンのキューバ序曲。この曲と交響的絵画「ポーギーとベス」は、シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団によるDECCA盤で初めて聴いて大好きになっている。大植と大フィルはデュトワとモントリオールのラテン的なノリとは異なるが爽快な演奏を展開する。


ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。ファーディ・グローフェがオーケストレーションした最も有名な版による演奏である。
ピアノ独奏の中野翔太は、1999年からジュリアード音楽院プレカレッジに学び、その後に同音楽院と同音楽院大学院を修了。それ以前の1996年には第50回全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国1位及び野村賞を受賞している。

冒頭のクラリネットが少しデフォルメされた音型を吹いてスタート。アメリカ音楽の中では演奏頻度の比較的高い楽曲だけに、大フィルも慣れた演奏を聴かせる。

中野は、作曲、編曲、ジャズ演奏も行っているだけに、即興性にも富んだ演奏を展開。特にカデンツァではモダンジャズとカントリーの間を往来するような音楽を奏でた後で、「イパネマの娘」を主題とした変奏を展開。洗練されていてお洒落であった。

演奏終了後、中野は何度もカーテンコールに応えたが、最後は大植英次が共に登場。鍵盤を白い布で拭い、アンコール演奏を要請するというパフォーマンスを行う。
中野はガーシュウィンの「A Foggy Day」を自身で編曲したものを演奏した。


ガーシュウィンの「ガール・クレイジー」序曲。有名な「アイ・ガッタ・リズム」を含むミュージカル作品の序曲で、「アイ・ガッタ・リズム」も効果的に用いられている一方で、全体的に洗練された旋律とお洒落なオーケストレーションが印象的な楽曲である。
大植も、「どうです? お洒落でしょ?」という風に客席を振り向いたりする。


グローフェのミシシッピ組曲。日本テレビ系で放送されていた「アメリカ横断ウルトラクイズ」の勝ち抜けの音楽に第2曲の「ハックルベリー・フィン」と第4曲「マルディ・グラ」が使用されていたことで知られているが、コンサートで取り上げられることはほとんどなく、録音点数も多くはない。私はNAXOSのアメリカ音楽シリーズの一つであるウィリアム・ストロンバーグ指揮ボーンマス交響団の演奏で聴いている。

比較対象が余りないのだが、大植はストロンバーグよりはやや遅めのテンポを採用し、堂々たる演奏を展開する。年代的にだが、多分、大植さんは「ウルトラクイズ」を見たことはないと思われる。
日本ではアメリカのクラシック音楽は余り重要視されておらず、アメリカ音楽がプログラムに載ることも少ないため、オーケストラも慣れていないことが多い。大フィルの個性もアメリカ音楽からは遠めであるが、かなり健闘しているように思える。

日本だけでなく、日本が範とする独墺系のオーケストラもアメリカ音楽は不得手で、録音は少なく、その少ない録音も出来は今ひとつのものが多い。


ガーシュウィン作曲、ベネット編の交響的絵画「ポーギーとベス」。「サマータイム」が一番有名だが、その他にもよく知られたメロディーがいくつも含まれている。バンジョー(演奏:福田晃一)が往時のアメリカ南部の雰囲気を上手く描き出している。

ガーシュウィンの歌劇「ポーギーとベス」は、サイモン・ラトル指揮によるオペラ映画を観ているが、感動的な出来となっていた。これまで接したオペラの中で実演、映像含めて最も感動したかも知れない。日本でも歌劇「ポーギーとベス」を観てみたいが、オール黒人キャストである必要があるため、難しいと思われる。日本人が外面を黒人に見せることは現在では宜しくないとされているため実現することはないであろう。

最後に大植が総譜を掲げて曲に敬意を表し、演奏会はお開きとなった。

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2021年12月31日 (金)

コンサートの記(755) ガエタノ・デスピノーサ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」2021

2021年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団「第9シンフォニーの夕べ」を聴く。昨年の「第9シンフォニーの夕べ」では、指揮台に立つ予定だったラルフ・ワイケルトがコロナ禍で来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代役を務めた。今年の「第9シンフォニーの夕べ」の指揮者にもワイケルトは再び指名されたが、オミクロン株の流行などによる外国人の入国規制強化によってまたも来日不可となり、入国規制が強化される前に来日して、日本滞在を続けているガエタノ・デスピノーサが代役として指揮台に立つことになった。なお、来年の大フィル「第9シンフォニーの夕べ」は尾高忠明の登壇が決まっており、ワイケルトの第九は流れてしまったようである


1978年生まれと、指揮者としてはまだ若いガエタノ・デスピノーサ。イタリア・パレルモに生まれ、2003年から2008年まで、名門・ドレスデン国立歌劇場のコンサートマスターを務めた、同時代にドレスレデン国立歌劇場の総監督であったファビオ・ルイージの影響を受けて指揮者に転向。2013年から2017年までミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の首席客演指揮者を務めている。

独唱は、三宅理恵(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、福井敬(テノール)、山下浩司(やました・こうじ。バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。

今日のコンサートマスターは、須山暢大。フォアシュピーラーにはアシスタント・コンサートマスターの肩書きで客演の蓑田真理が入る。ドイツ式の現代配置での演奏だが、通常とは異なり、昨年同様ホルンが上手奥に位置し、通常ホルンが陣取ることが多い下手奥には打楽器群が入る。独唱者4人はステージ下手端に置かれた平台の上で歌うというスタイルである。


デスピノーサはフォルムを大切にするタイプのようで、先日聴いた広上淳一指揮京都市交響楽団の第九とは大きく異なり、古典的造形美の目立つスッキリとして見通しの良い演奏が行われる。
朝比奈隆時代に築かれた豊かな低弦の響き、俗に言う「大フィルサウンド」を特徴とする大阪フィルハーモニー交響楽団であるが、デスピノーサがイタリア人指揮者ということもあって音の重心は高め。通常のピラミッド型とは異なる摩天楼型に近いバランスでの演奏が行われる。大フィルならではの演奏とはやや異なるが、こうしたスタイルによる第九も耳に心地よい。
全編を通して軽やかな印象を受け、ラストなども軽快な足取りで楽園へと進んでいく人々の姿が目に見えるようであった。

大阪フィルハーモニー合唱団は、今年も「歌えるマスク」を付けての歌唱。ザ・シンフォニーホールでの大フィル第九では、指揮台に立つ予定だった井上道義が「歌えるマスク」での歌唱に反発して降板したが(井上さんはコロナでの音楽活動縮小やマスクを付けての歌唱に元々反対だった上に、「歌えるマスク」がKKKことクー・クラックス・クランに見えるということで、降板している。KKKは、白人至上主義暴力肯定団体で、映画「国民の創生」や、シャーロック・ホームズ・シリーズの「5つのオレンジの種」などに描かれている。現在も活動中であり、先日、公園で集会を開いて周囲の住民と揉み合いになった)、マスクを付けていても歌唱は充実。フェスティバルホールの響きも相俟って堂々たる歌声を響かせていた。

演奏終了後に照明が絞られ、福島章恭指揮によるキャンドルサービスでの「蛍の光」が歌われる。再三に渡るリモートワークを強いられるなど、去年以上に大変であった今年の様々な光景が脳裏をよぎった。

日本語詞の「蛍の光」は別れを歌ったものであり、寂しいが、第九同様に明日へと進む人々の幸せを願う内容であり、目の前に迫った来年への活力となるようにも感じられた。

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2021年9月29日 (水)

コンサートの記(745) 松本宗利音指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第551回定期演奏会

2021年9月24日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第551回定期演奏会を聴く。

本来は、アンガス・ウェブスターの指揮、ベンヤミン・シュミットをヴァイオリン独奏者に迎えて行われるはずだった演奏会だが、新型コロナウイルスによる外国人入国規制により来日不可となったため、代役として、1993年生まれの指揮者である松本宗利音(しゅうりひと)と1997年生まれのヴァイオリニストである辻彩奈の若い二人が登場する。

松本宗利音は、大阪府豊中市出身。両親が名指揮者のカール・シューリヒトのファンであったことから、シューリヒト夫人に名付け親となってもらい、宗利音と命名されている。京都市立堀川音楽高校を経て、東京藝術大学音楽学部指揮科で尾高忠明、高関健らに師事。卒業時には最優秀の証であるアカンサス賞を受賞している。在学中に、ダグラス・ボストックとパーヴォ・ヤルヴィのマスタークラスも受講した他、ヴァイオリンも藝大の学長として知られる澤和樹に師事している。
2019年4月から札幌交響楽団指揮者として活躍。同じ藝大出身で、札幌繋がりの太田弦(札幌市出身)と共に、二十代の日本人指揮者としては最も注目を浴びる存在である。

昨年の夏に、山科区の京都市東部文化会館ほかで行われた京都市交響楽団みんなのコンサート2020を指揮しているが、その時はまだステージ上で密になるのを避けるため、京響は室内オーケストラ編成であった。特に音響設計がなされている訳でもないホールで小編成の楽団の演奏ということで、その時はこちらも実力の把握は出来ていない。

辻彩奈は、若手ではトップクラスの知名度を誇るヴァイオリニストで、関西で聴く機会も多い。岐阜県生まれ。2016年のモントリオール国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門で1位を獲得して話題となる。特別特待奨学生として東京音楽大学に入学して卒業。現在は東京音楽大学のアーティストディプロマに引き続き特別特待奨学生として籍を置きながら、フランスでの活動も増えている。


曲目は、アーノルドの序曲「ピータールー」、ブリテンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:辻彩奈)、チャイコフスキーの交響曲第5番。
プログラム自体に変更はなしである。


ワクチンが普及したためか、新型コロナの感染者が劇的に減っているが、大阪では揺り戻しの微増傾向で外出が避けられている上に、松本宗利音の知名度がまだそれほど高くないということもあってか空席が目立つということで、残響はいつもよりかなり長めとなっている。

今日のコンサートマスターは崔文洙。ドイツ式の現代配置による演奏。松本宗利音は、全編ノンタクトでの指揮である。


アーノルドの序曲「ピータールー」。1819年8月16日にイギリスのマンチェスターで起こった「ピータールーの虐殺」から100年が経過したことを記念して書かれた作品である。

マルコム・アーノルドは、クラシックの作品以上に映画音楽の作曲家として知られ、「戦場にかける橋」などの音楽を手掛けている(最も有名な「クワイ河マーチ」はアーノルドのオリジナルではなく、アルフォード作曲の「ボギー大佐」の編曲)。

ピータールーというのは、ナポレオンが大敗を喫したワーテルロー(英語では「ウォータールー」)の戦いに、マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで起こった英国軍による労働者階級の弾圧事件を掛けた名称である。死者は15名以上、重傷者は600名以上とされている。

いかにもイギリス音楽らしいノーブルな響きでスタートするが、途中でスネアドラムが鳴り響き、他の打楽器も加わって英国軍の介入が描かれる。やがて響きは凄絶なものへと変わる。
ティンパニが「春の祭典」によく似た音型を響かせたり、ショスタコーヴィチの作品を思わせる部分があったりと、アーノルドが生きた20世紀の様々な音楽的要素が取り入れられていることが分かる音楽である。ラストは凱歌になるのだが、皮相というべきか通俗的に過ぎるというべきか、とにかく前半に比べると落ちるというのが正直な感想である。

松本は大阪フィルから引き締まった音を引き出す。指揮者としてのセンスは相当に高いことが窺われる。


ブリテンのヴァイオリン協奏曲。第二次大戦中に書かれた作品である。
同性愛者であったベンジャミン・ブリテンは、パートナーであるテノール歌手のピーター・ピアーズと共に徴兵逃れの意味もあって渡米。1939年の夏に避暑のために訪れたと思われるカナダでこの曲が書かれている。初演は、1940年3月27日、ジョン・バルビローリの指揮、アントニオ・プローサのヴァイオリンによるニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現在のニューヨーク・フィルハーモニック)の定期演奏会で行われている。

ヴァイオリンが独奏し、オーケストラが伴奏する通常のヴァイオリン協奏曲とは異なる形で書かれており、独奏ヴァイオリンとオーケストラの掛け合いや、互いが互いのメロディーを奏でる部分が多い。

辻彩奈のヴァイオリンは磨き抜かれた音が美しく、疾走感と音の厚みもあって、ブリテン同様に「才気煥発」という言葉がよく似合う。

ヴァイオリンが輝かしくスタートするが、オーケストラは同じ音型を何度も繰り返し、不穏さや悲劇性が増していく。第2楽章では独奏ヴァイオリンのピッチカートをオーケストラが受け継ぐなど、かなり特異なスタイルである。
第3楽章の途中から、調性がメジャーへと移行するが、その後も不安定な曲調が続き、第二次大戦勃発間もない先行き不透明な時代が反映されているようでもある。

辻と松本は聴衆の拍手に応えて何度も登場するが、最後は辻が両手を掲げて、「バイバイ」のポーズを行った。


チャイコフスキーの交響曲第5番。
札幌に拠点を持っているからという訳でもないだろうが、松本は大フィルからチャイコフスキーに合ったヒンヤリとした音を引き出す。
スケールも大きく、雄渾だが、まだ音の輪郭作りは明瞭ではないようで、今日のフェスは響きすぎるということもあるのだが、音が強すぎて飽和してしまう場面も何度かあった。だが全般的には端正にしてエネルギー放出量も高い見事なチャイコフスキーとなる。

弦楽の冷たい響きは、チャイコフスキーの心境を反映して、聴いていてひたすら悲しくなる。

最終楽章。疑似ラストを終えてからの、以前なら「凱歌」とされた場面も歌を抑え、「悲しい夢」として表現する。「鉄のカーテン」によって情報が遮断されていたソ連時代にはチャイコフスキーに関する史料も西側では十分には手に入らなかった。そのため、長い間、単純な凱歌として演奏されてきたのだが、ソ連の崩壊と情報化社会の到来により、今日のような解釈による演奏が増えている。ラストの「ジャジャジャジャン」も借用だと分かるように音を切ってはっきりと演奏させていた。


二十代でプロオーケストラのポジションを得た実力が伊達ではないことを証明した演奏会。大フィルのメンバーも松本に敬意を払って立ち上がらず、松本一人が喝采を浴びていた。

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2021年7月21日 (水)

コンサートの記(731) カーチュン・ウォン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第550回定期演奏会

2021年7月16日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第550回定期演奏会を聴く。指揮は日本でもお馴染みの存在となったカーチュン・ウォン。本来は、ミシェル・タバシュニクが指揮台に立つという渋い人選だったのだが、新型コロナウイルスによる入国制限により来日不可となり、カーチュン・ウォンが代役を務めることになった。

シンガポール出身のカーチュン・ウォン。1986年生まれ。シンガポールで作曲を学んだ後でドイツに渡り、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学で指揮を学ぶ。クルト・マズアに師事し、2016年にはグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝。直後にグスターボ・ドゥダメルに招かれて、ロサンゼルス・フィルハーモニックにおいて彼のアシスタントを務めた。現在は、ニュルンベルク交響楽団首席指揮者の座にある。
2019年に京都市交響楽団に客演した際には、プレトークで簡単な日本語も披露していたカーチュン・ウォン。「俊英」という言葉が最もよく似合うタイプである。

曲目は、リストの交響詩「レ・プレリュード(前奏曲)」、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。前半にハンガリーゆかりの作曲家が並んでいる。


リストの「レ・プレリュード」とムソルグスキーの「展覧会の絵」はドイツ式の現代配置で演奏されたが、バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」は独自の配置。指揮者の正面上手寄りにハープ、下手寄りに蓋を取り払った形のピアノが演奏者が指揮者や客席側に顔を向けられるようにセッティングされ、その上手側つまりハープの後ろにチェレスタが置かれる。ピアノとチェレスタの後ろにティンパニが置かれ、その横や後ろに様々な打楽器奏者が並ぶ。

カーチュン・ウィンは、今日は「レ・プレリュード」と「展覧会の絵」では譜面台を置かず、暗譜での指揮。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」では譜面台と総譜を用意しており、譜面をめくりながらの指揮だったが、視点は常に演奏者達を捉えていて、「一応、総譜は用意してめくる形での」暗譜による指揮であった。


リストの交響詩「レ・プレリュード」。コロナ感染者が再び増加を続けている大阪。客席が十分に埋まっていないということもあってか、金管がやや響きすぎの気もしたが、きちんとした造形美と優れた推進力で、この曲の魅力を十全に引き出す。大フィルの音色も美しい。
カーチュン・ウォンは長めの指揮棒を使用し、ピアニシモを示すときに完全にしゃがみ込んで指示するなど、個性的な指揮姿である。


バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」。チェレスト独奏は仲香織、ピアノ独奏は長尾洋史。

バルトークの「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」は、「音楽の友」誌などで行われる「20世紀が生んだ最高の楽曲」アンケートの上位常連曲である。
コダーイなどと共にハンガリー民謡の採譜なども行っていたバルトークが東洋的な情緒も込めて(ハンガリーのフン族は、元々東洋系の民族である)作曲した作品で、日本でいうと伊福部昭などにも繋がるような、土俗的な迫力にも満ちている。
4つの楽章から鳴るが、第1楽章は「夢への墜落」と名付けたくなるような独特のミステリアスな楽想が個性的である。一方、第4楽章は快活で、民族舞踊的な素朴で味わい深い迫力が興奮を呼ぶ。
ウォンの理知的で計算された音運びと、それを超えた音楽の喜びがこぼれ出るような演奏で、聴いているこちらの頬も緩む。

演奏終了後、ウォンは楽団員に立つよう指示するも、大フィルのメンバーはウォンに敬意を表して座ったまま拍手、のはずが、下手側のチェロ奏者二人が立ってしまい、顔を見合わせ苦笑いして座り直していた。こういうハプニングも楽しい。


メインであるムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)。
冒頭のトランペットが力んで音が濁ったのが残念だったが、以後は金管は輝かしい音を響かせ続ける。
色彩感抜群の美演で、ラヴェル寄りの演奏であったが、特に弦楽器の響きなどは「マジカル」の領域に達している。風が吹き抜けるような音を出したり、人間の声のように響いたりと、これまで実演や録音で聴いたどの「展覧会の絵」とも異なる演奏で、ウォンの実力の高さは疑いようがない。
「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」や「キエフの大門」などではラスト付近の音型が通常とは異なっているように聞こえたが、どの版を用いたのかも気になるところである。
迫力も十分ながら、音の輝かしさと彩りの豊かさ、純度の高さなど全てが新鮮で、新時代の「展覧会の絵」の誕生に立ち会ったかのような爽快さを覚えた。

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2021年2月15日 (月)

2346月日(29) 「フェスティバルホール×大阪大学 フェスティバルホール音響体験スペシャルツアー」2021.2.8(後半のみ映像あり)

2021年2月8日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後6時30分から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、「フェスティバルホール×大阪大学 フェスティバルホール音響体験スペシャルツアー」に参加する。文学部や大学院文学研究科に芸術研究系の専攻を持つ大阪大学が、中之島一帯で行っている「クリエイティブアイランド中之島-創造的な実験島-」という9つの芸術&情報系イベントの一つである。ただ新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発出中であるため、プログラムのいくつかはオンラインのみに切り替わり、「フェスティバルホール音響体験スペシャルツアー」に関しては、トーク部分のみオンライン配信が行われることになった。

司会進行は、大阪大学の加藤浩介(専門は音響学)。大阪フィルハーモニー交響楽団のチェロ・トップ奏者である近藤浩志(こんどう・ひろし)がステージ上でチェロを弾き、ツアー参加者が席を移動しながら響きの違いを確かめるというもの。

まず1階席前列に参加者が着座して近藤のチェロを聴く。全席自由であるが、コロナ対策として両隣を1席か2席空けるのが好ましいとされる(夫婦や知り合い同士の場合は隣に座っても構わないようである)。
私は新しいフェスティバルホールの最前列で2回ほど大阪フィルのコンサートを聴いたことがあるのだが、フェスティバルホールステージの前方は弧を描いており、いずれも端の席であったため指揮者の姿が見えないという状態であった。今日は前から3列目の真ん中付近に座る。その後、1階席後方と3階席に移動して近藤のチェロを聴くのだが、1階席後方と3階席には何度も座っているため、特に良い席で聴く必要はなく、適当な席に座った。

曲目は、3回ともアイルランド民謡「ダニーボーイ」のチェロ独奏版。

1階席前方で聴くと、キャッチコピー通りの「天から音が降り注ぐ」という感覚がよく分かる。音の広がり方も自然である。

1階席後方。左手、中央、右手の3つの別れているが、後ろ寄りの左手の席に座る。音響は1階席前方とは異なり、重低音のずっしりとした響きが印象的。おそらくステージに跳ね返った音が届いてくるのだと思われる。

3階席も左手、前から3列目に座る(全員、エレベーターを使う必要があるので、エレベーターに近い右手の方が席が埋まりやすい)。3階は1階で聴いた広がりとはまた違ったストレートな音色となり、音の通りが良く感じられる。三者三様の良さがあるが、チェロということもあり、重低音が豊かに感じられる1階席後方の音響が最も気に入った。他のお客さんの好みもそれぞれで、加藤浩介が挙手によって行ったアンケートでは、三つ等しくという程ではないが、いずれの席も人気であることが分かった。

その後、1階席に戻り、中央通路より後ろ側の席に着座して、演奏者がステージ上で場所を変えて弾くチェロの音色に耳を傾ける。曲目は、サン=サーンスの「白鳥」。ラスト付近の演奏である。
まずは、ステージの真ん真ん中での演奏。上方へと飛んでいく音が多いように感じられる。続いて、ステージ一番前での演奏。通常、チェロがこんな場所で演奏することはない。上へ飛ぶ音が減り、低音が豊かに感じられる。今度は、ステージ最後列、壁を背にしての演奏である。後ろの壁にも音が当たって前に飛んでくるため、自然な広がりが感じられる。チェロと同時にホールの響きの豊かさも実感出来るため、私はこの位置での音が最も気に入った(ただし、チェロがステージ最後方で演奏することはまずない)。最後はステージ上手奥のコーナーでの演奏。音響は最も豊かであるが、響きすぎるため、私のいた右手(上手側)の席ではハウリングも多く聞こえる。
アンケートでは、好きな音響はやはり人それぞれであることがわかる。1階席後方といっても、フェスティバルホールは間口も広いため、席によって聞こえる音も大分異なるはずである。


その後、加藤浩介と近藤浩志によるミニトークが行われ、近藤浩志はフェスティバルホールの音響について、「全ての席が良い」と語っていた。昔、東急が「全ての席をS席に」というキャッチフレーズで、東急Bunkamuraオーチャードホールを使ったテレビCMを制作していたが、オーチャードホールは「S席がない」と言われるほど響きが悪いため、演奏家には余り人気がない。使い勝手も悪いようで、N響首席オーボエ奏者時代の茂木大輔がエッセイでけなしていた渋谷のホールというのはおそらくオーチャードホールであると思われる。フェスティバルホールは、「全ての席がS席」と言っても過言ではないと思われる。ただし、音響に関してはで、視覚面では3階席は遠く、傾斜も急である。そして真に音の良い「正真正銘のS席」がフェスティバルホールには存在する。

今日は近藤はフェスティバルホールの音響を意識せずに弾くことを心がけたそうだが、実際はステージ上で弾く際には、どこで弾くかによって演奏法を微妙に変えるという。チェロの場合、ドイツ式の現代配置の時は指揮者の正面付近上手側、アメリカ式の現代配置の時は客席に近い方、古典配置の際はドイツ式の現代配置の真逆で正面付近下手側で弾くことになり、全体の音響のバランスを考えると、「どのポジションでも同じ弾き方」にならないことは察せられる。またホールや曲によっても奏法は当然ながら変わってくる。

その後、加藤浩介と大阪大学の下倉亮太による「音響学の観点より解説」。下倉亮太も専門は音響学であり、加藤とは先輩後輩の間柄だそうだ。共に大阪大学ではなく神戸大学の出身だそうで、下倉亮太の方が1年先輩になるという。一緒に大学院で学んでいたのだが、師事していた先生が退官したため、音響学の研究所自体が閉鎖されてしまったそうで、その代わりとなる進路が二つ示されたそうだ。一つは熊本大学大学院で、加藤浩介はこちらに転籍した。もう一つはイタリアのボローニャ大学大学院の研究科で、下倉は「失恋したばかりでむしゃくしゃしていた」ということもあり、思い切ってイタリアに渡ったという。
ボローニャでは、クラシック音楽が日常の一部となっており、ボローニャに着いた時に、「歓迎」ということで地元のオーケストラコンサートに連れて行って貰ったという。下倉は時差ボケで眠かったのだが、なんとか最初の1曲を聴いた。隣の席に座った指導担当の教授(だったかな?)は始まってすぐに寝始めてしまったそうだが、1曲目が終わると同時に起き上がり、「あんなつまらない音楽を聴いてたのか、お前は?」と呆れていたそうである。クラシック音楽に日常的に触れているため、出来の良し悪しには敏感で、またよくいわれる通り、ヨーロッパの聴衆というのはシビアで、有名な演奏家でも「悪い」と思ったらすぐ帰ってしまうという話がある。1曲目の演奏も招待した側なので帰りはしなかったということなのかも知れない。

フェスティバルホールの内装は、数多くの凹凸があるのが特徴であるが、これは拡散体と呼ばれるもので、その名の通り音を拡散させる効果があるという。クラシック対応のコンサートホールの場合、音が響きすぎるといけないので、吸音材を使うのが一般的なのだが、フェスティバルホールの場合は、拡散体をつけることによって音響障害が発生するのを防ぐという特徴があるようだ。
ちなみにフェスティバルホールの残響は、空席時が2.2秒、満席時が1.8秒だが、コンサートのおける理想の残響は1.8秒だそうで、「フェスティバルホールさんは強気です。満席時がデフォルトです」と下倉は解説した。

コロナ禍により、空席の多いフェスティバルホールでのオーケストラ公演もあるが、残響過多になったり、使い慣れていない声楽の団体が演奏会やオペラで声を張り上げると壁がビリビリいってしまうのは残業が長めに設計されているためだと思われる。フェスティバルホールは残響からいってオーケストラコンサート向け、ロームシアター京都メインホールや兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールは、残響はそれほど長くはなく、オペラ向けの音響であると思われる(音響は全て永田音響設計が手掛けている)。

世界最古のホールは、紀元前のギリシャの劇場であるが、当時は科学が発達していなかったため、「反射音は悪魔の所業」と思われており、残響のない屋外劇場でギリシャ悲劇などが上演された。その際、海のそばに劇場を建て、海がステージの後ろに来るよう設計し、セリフが海風に乗って客席に届きやすくなるよう工夫が凝らされていたそうである。
紀元後のローマ帝国の時代になると、「残響が悪魔の声」などというのはまやかしだと気づくようになり、壁を立てることで音が響きやすくなる構造の劇場に変化していったという。

下倉は、日本にいた時はオペラには興味がなく、観たことすらなかったそうだが、イタリアはオペラの本場ということで、留学時代にオペラに嵌まり、オペラハウスに足繁く通ったそうである。オペラは歌手が主役で、声や歌詞やセリフをハッキリ聞き取れることが最優先、オーケストラは脇役か盛り上げ役であり、声を聴き取るには残響が長いと不利ということで、残響は1.2秒から1.6秒程度とコンサートホールに比べると短くなるよう設計されている。日本でも純粋なクラシック専用ホールと、オペラ対応多目的ホールを聞き比べるとこれは分かる。
残響については、ハーバード大学の教授であったウォーレル・セイビンが、ハーバード大のフォッグ講堂だけ声が聴き取りにくいという学生の声を受けて、音響を測ることにしたのがその始まりとされる。オルガンを使っての測定で、フォッグ講堂だけが他の講堂に比べて残響が長かったそうだ。残響というものが人類史上初めて意識されたのは、音楽ではなく講義だったのである。


最後は、近藤浩志のチェロ独奏によって締められる。演奏されるのは、J・S・バッハの無伴奏チェロ組曲第3番よりサラバンド。更にアンコールとしてカタルーニャ民謡(カザルス編曲)の「鳥の歌」が演奏された。

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2021年2月 1日 (月)

コンサートの記(689) エリアフ・インバル指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団第544回定期演奏会

2021年1月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第544回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、エリアフ・インバル。外国人指揮者による演奏を聴くのは久しぶりである。

1936年生まれのエリアフ・インバル。この年は指揮者の当たり年で、シャルル・デュトワやズービン・メータが同い年である。小澤征爾が一つ年上、ネーメ・ヤルヴィが一つ年下という世代だ。インバルというのは芸名で、本姓はヨーゼフという平凡なものであるため芸名を用いたのだが、息子で指揮者のダニエルもインバルという芸名を継いでいる。

エリアフ・インバルは、マーラーとブルックナーの両方で名演を行うことの出来る、史上ほぼ唯一の指揮者として名高い。マーラー指揮者はブルックナーを不得手とする場合が多く、逆も同様なのだが、インバルだけは両方の交響曲全集を作成し、共に高い評価を得ている。
日本への客演も多いが、私はまず90年代にN響の指揮台に立った際の実演に接している。N響との相性は実際のところ今ひとつのように思えたが、その後、インバルは東京都交響楽団と親密な関係を築くようになり、特別客演指揮者やプリンシパル・コンダクター(一般的には「常任指揮者」と訳されるが、この時は横文字のままの肩書きとなった)として大評判を得ている。近年、大阪フィルにも度々客演するようになっているが、相性はかなり良い。

 

曲目は、プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」とショスタコーヴィチの交響曲第10番。

インバルはショスタコーヴィチも得意としており、ウィーン交響楽団を指揮してDENONに入れた録音の評価も高いが、ショスタコーヴィチを得意とする指揮者は基本的にプロコフィエフも得意である場合が多いため、期待が高まる。
なお、プロコフィエフとショスタコーヴィチが犬猿の仲であったことは有名で、共通の友人であったムスティスラフ・ロストロポーヴィチは、それぞれの家に招かれて遊ぶことも多かったが、プロコフィエフの前では「ショスタコーヴィチ」という名は禁句であり、ショスタコーヴィチの家でも「プロコフィエフ」の名を出すことすら出来なかったと回想している。プロコフィエフもショスタコーヴィチも初期の頃は一緒に音楽活動もしていたのだが、いつからか疎遠になっている。性格の不一致というよりも互いの実力を怖れたのではないかと思われる。音楽史上屈指の天才が同じ時代の同じ国、しかもすぐ間近にいるという例は余りないように思う。

今日はチェロが舞台上手客席寄りに来るアメリカ式の現代配置(ストコフスキー・シフト)での演奏である。コンサートマスターは崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。トランペットに京都市交響楽団の西馬健史が客演しており、2曲とも出演した。

新型コロナの流行により、外国人入国制限が続いているが、エリアフ・インバルは東京都交響楽団と親密な関係にあるということで、2週間の隔離とPCR検査を受け入れて、まず都響と演奏会を行い、次いで事前の予定通り、大フィルの指揮台へとやって来た。久しぶりの外国人指揮者の登場だが、大阪ではコロナの感染拡大が進んでいるため、来場を避けた人も多いようで、入りは良いとは言えない。インバルクラスなら満員御礼で当たり前なので、危機感を持つ人もかなり多いようだ。

 

プロコフィエフの交響曲第1番「古典交響曲」。プロコフィエフが「ハイドンが今の時代に交響曲を書いたなら」という想定の下に書き上げた、諧謔精神に溢れる個性的な交響曲である。ハイドンが頭にあるため、編成も小さめで演奏時間も15分ほどという小型の交響曲である。最初の交響曲にこうした題材を選ぶのだから、プロコフィエフはやはりただ者ではない。単純に古典的な交響曲を書いたのではなく、プロコフィエフの生きた今とハイドンの時代をオーバーラップさせる効果も狙っている。

曲調的に、フランス系の指揮者に名演が多いのだが、イスラエル出身のインバルも洗練とキレを兼ね備えた洒脱な演奏を聴かせる。弦も管も音に浮遊感があるが、瞬発力にも優れ、若きプロコフィエフの才気と一種の悪童ぶりを見事に表してみせる。インバルらしい溜めがあるのも個性的だ。

実は、私が最初に読んだ作曲家の本格的な伝記は、プロコフィエフのものであった。高校1年生の時に、昼休みに図書室に通って読み終えている。プロコフィエフが斬新さに取り憑かれたような作曲家だったことがわかる本であった。そしてプロコフィエフが、1891年生まれであり、これはモーツァルトの没後100年目であるため、メモリアルイヤーはモーツァルトの陰に隠れてしまい、亡くなった日が1953年3月5日と、スターリンの死と完全に同じ日であるため、命日もまたスターリンの陰に隠れる宿命にあるという悲劇性も著されていた。

 

ショスタコーヴィチの交響曲第10番。ヘルベルト・フォン・カラヤンが唯一、レパートリーとしたショスタコーヴィチの交響曲として知られる。ライバルであったレナード・バーンスタインはモスクワでショスタコーヴィチの交響曲第5番を作曲者の前で演奏し、絶賛されているが、カラヤンは交響曲第10番をモスクワで演奏して壇上で作曲者と握手を交わしている。カラヤンはバーンスタインに対抗意識を抱いており、ポピュラーな第5番ではなく敢えて第10番に取り組み続けたと言われている。

非常にミステリアスな楽曲としても知られている。純音楽ではあるが、他のショスタコーヴィチの交響曲同様、背後に何か別の意図を宿している。
一昨年に、フェニーチェ堺で、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による名演に接しているが、大阪フィルも流石にコンセルトヘボウ管には音の輝きでもパワーでも敵わない。だが、大フィルのヴィオラの音色もなかなか雄弁であり、時折、人間の慟哭に近い音を出すなど、インバルの指揮に触発されて別次元の演奏を聴かせる瞬間もある。

インバルは第1楽章と第2楽章、第3楽章と第4楽章をアタッカで繋ぐ。

第1楽章のラスト、ピッコロ2本がユニゾンを奏でるという珍しい場面があるが、やがてピッコロ1本となり、孤独の内に楽章は閉ざされる。
「スターリンの肖像」ともいわれる第2楽章の凶暴な表情の描き方も優れているが、この演奏を聴くとどことなく、回想の中での凶暴さという印象も受ける。現在と過去のパースペクティブが行われているような感じと書くと分かりやすいだろうか。

第3楽章のホルンの、強弱による印象の変化も、恐怖の絶頂を振り返るかのような趣があるように聞こえる。
第4楽章は、諧謔、というよりもどことなく人を食ったような旋律が登場し、ここがプロコフィエフの「古典交響曲」と繋がるような気もする。ショスタコーヴィチは本音を明かさないまま自らの署名入りによる「歓喜への予感」を抱かせる終わり方を選んでいるが、大フィルの打楽器陣も冴えまくっており、インバルの開放感に満ちた音楽作りもラストに説得力を持たせていたように思う。
これで音に更なる洗練が加われば、世界レベルが見えてくるかも知れない。

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2020年12月31日 (木)

コンサートの記(677) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団ほか 「第9シンフォニーの夕べ」2020

2020年12月29日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後5時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の「第9シンフォニーの夕べ」に接する。

本来は今年の大阪フィルの第九は、ラルフ・ワイケルトが指揮する予定だったが、新型コロナウイルスの流行による外国人入国規制により来日不可となり、音楽監督の尾高忠明が代わって指揮台に立つことになった。
ワイケルトが京都市交響楽団の定期演奏会に客演した時に、大阪フィルの事務局次長(事務方トップ)の福山修氏がいらしていて、私も挨拶したのだが、その後に大阪フィルの定期演奏会のプレトーク(フェスティバルホールのホワイエで福山さんが行っている)で、やはり京響の定期で福山さんを見かけた方から、「なんで京響の定期にいらしてたんですか?」と質問があり、福山さんは「実はワイケルトさんを大フィルにお呼びしたいと思っておりまして」と明かしていた。それが今回の第九への客演依頼だったのだが、残念ながら今回は流れてしまった。

コロナ禍にあって、第九の演奏会が中止になるところも少なくなかったが、大フィルはなんとか6月以降は定期演奏会も含めて本拠地のフェスティバルホールでの演奏会はほぼ行うことが出来た。ただ、それ以外のコンサートは中止になったものも多く、クラウドファンディングが始まっている。年末の第九も本来は2回公演になるはずだったが、今日1回きりに減っている。

 

今日のコンサートマスターは、須山暢大。第1ヴァイオリン16という大編成での演奏である。ドイツ式の現代配置をベースにしているが、コロナ対策のため、通常とは布陣が異なる。
オーケストラと背後の合唱のためのひな壇の間には、平台と同じ大きさと思われる透明のボードが横に18枚、ずらりと並んでいる。ティンパニは指揮者の正面ではなくやや下手寄り、第3楽章以降にステージに登場する打楽器奏者がその更に下手に並ぶ。下手にいることが多いホルンは上手側奥、チェロの背後に配置される。ステージ下手端に平台が斜めに並べられており、そこが独唱者が歌うスペースになる。独唱者は、髙橋絵理(ソプラノ)、富岡明子(アルト)、福井敬(テノール)、青山貴(バリトン)。合唱は大阪フィルハーモニー合唱団。
ソリストと合唱、シンバルやトライアングルなどの打楽器奏者は第2楽章が終わってからの登場。合唱団員は各々前後左右にスペースを取り、口の前に布を垂らしている。おそらくあれが東京混声合唱団が開発した「歌えるマスク」なのだろう。

2700席のフェスティバルホールに、今日は約2300人が来場の予定だそうで、コロナ下にあってはまずまずの入りである。1階席の前の方の席は飛沫を考慮して発売されていない。

 

中庸かやや速めのテンポでスタート。弦楽器はかなりビブラートを抑えての演奏であり、冒頭などは音型がクッキリしているため、第2ヴァイオリンの音などはかなり不吉に響く。ティンパニはバロックタイプのものではないが、時折、硬い音を出し、ピリオドの響きを意識しているようである。
尾高さんもこのところはフォルム重視というより内容を抉り出すような音楽を好むようになってきているように思われるが、今回も音を磨くよりもベートーヴェンの先鋭性を的確に浮かび上がらせるような演奏を行う。以前だったら第3楽章などはテンポを落としてじっくり歌ったと思うが、今日はスッキリした運びで、音の動きの特異性などを明らかにしていたように思う。同じくNHK交響楽団正指揮者で、同じように関西にポジションを持つ外山雄三も最近はそうしたスタイルに変えているようで、ベテランであっても最新の研究成果を取り入れることに熱心であるようだ。スッキリしているといっても旋律美自体は大事にしており、ベートーヴェンを一面だけから語るということは避けている。

第4楽章も巧みな音運びで、独唱者も充実。尾高さんには珍しくアゴーギクなども行う。ソーシャルディスタンス配置による合唱であるが、例年よりは歌声に隙間が生じた感じになってしまうのは致し方ないところである。周りの声が聞こえにくい配置とマスクというハンデを考えればかなり充実した歌唱であり、世界で唯一、年末が第九一色に染まる国、日本の合唱団のレベルの高さを示していた。

今年は世界史上に永久に残るほどの「大変な年」であり、来年が今年よりも良くなるという保障もどこにもない。人類は大きな危機に直面しているといえる。ただそんな年であっても日本では第九が演奏され、「歓喜の歌」が歌われる。
人類は未だ楽園には到達していないが、そこに到る歩みを止めてはいない。ベートーヴェンとシラーの吶喊を受けて、来年と、楽園へ辿り着くいつかに思いをはせながら、「歓喜の歌」に身を浸した。ラストの未来へと続く行進に私も加わっている思いだった。

 

今年も第九の後に、福島章恭(ふくしま・あきやす)指揮大阪フィルハーモニー合唱団によるキャンドルサービスの「蛍の光」が歌われ、「大変な年」にひとまずの句点が打たれたことを感じる。生きているだけで幸運という年になったが、2021年が今年よりは良い年になることを願わずにはいられない。


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2020年11月18日 (水)

コンサートの記(668) 尾高忠明指揮大阪フィルハーモニー交響楽団第543回定期演奏会

2020年11月13日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後7時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団の第543回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督の尾高忠明。

曲目は、グレース・ウィリアムズの「海のスケッチ」と、マーラーの交響曲第5番。

今日のコンサートマスターは、崔文洙。フォアシュピーラーに須山暢大。ドイツ式の現代配置での演奏。マーラーでの弦はファーストヴァイオリン14型であり、フル編成での演奏となる。

グレース・ウィリアムズ(1906-1977)は、ウェールズ出身の女流作曲家である。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックでヴォーン・ウィリアムズに師事し、その後、カーディフのBBCウェールズに勤務していたという。
尾高がグレース・ウィリアムズの存在は知ったのは、BBCウェールズ交響楽団の首席指揮者を務めていた時代(1987-1995)で、楽団員から「海のスケッチ」を良い曲だと薦められ、BBCウェールズ響と演奏しているという。尾高はその後、2001年に当時音楽監督を務めていた札幌交響楽団を指揮してこの曲の日本初演を行っており、新日本フィルハーモニー交響楽団、九州交響楽団、読売日本交響楽団とも同曲を演奏しているそうである。

弦楽オーケストラのための作品で、「強風」「航海の歌」「セイレーン海峡」「砕ける波」「夏の穏やかな海(平和な海)」の5部からなっている。
ウェールズはイングランドとは文化が少し異なるが、同じ英国(U.K.)ということもあり、イギリス的な音楽であることは間違いない。海の様々な表情を描いており、波の動きを描写した部分もあれば、海よりも風の要素が強い箇所もある。荒さは余り感じられず、ノーブルな作風であるというところがいかにも英国の作曲家の作品らしい。
なお、ラストに当たる「夏の穏やかな海(平和な海)」は、マーラーの交響曲第5番より第4楽章「アダージェット」に旋律や印象が似ており、マーラーの交響曲第5番をメインとするコンサートの前半に入れられた理由がわかる。

 

マーラーの交響曲第5番。人気曲であり、コンサートで聴く機会は多いが、フェスティバルホールで聴くのはあるいは初めてかも知れない。大阪フィルはエリアフ・インバルを招いたフェスティバルホールでの定期演奏会で、この曲を演奏しているが、私自身はその演奏会は聞き逃している。

尾高忠明というと、フォルムを大切にする音楽作りが特徴で、日本における正統派指揮者というイメージであり、実際にそうだったのだが、このところは表現主義的な演奏に傾きつつあり、この曲でも外観を損ねてでも内容をえぐり出すという、ある意味、マーラーのユダヤ的要素に光を当てた演奏となる。
スケールは大きく、バランス感覚にも秀でているが、それ以上にマーラーの苦悩や戦きを炙り出すことに焦点を当てており、チェロを強く奏でることで意図的に構図を不自然にするなど、マーラーの異様な部分をそのままに描き出す。強弱の対比も鮮やかであり、速度を上げることで、他の演奏では単なる旋律でしかなかったものが崩壊の描写として確認出来るようになっている。

マーラーの交響曲第5番は、第1楽章と第2楽章が第1部、第3楽章が第2部、第4楽章と第5楽章が第3部と作曲者によって指示されている。それに従わない指揮者もかなり多いのだが、尾高は指示通り、第2楽章と第3楽章の間、第3楽章と第4楽章の間に比較的長めの休止を取り、第1楽章と第2楽章の間、第4楽章と第5楽章の間は逆にほぼアタッカで演奏を行った。

マーラーの生前からマーラー作品を高く評価していたウィレム・メンゲルベルクにより、「妻アルマへのラブレター」と評された第4楽章「アダージェット」であるが、この曲全体がベートーヴェンの交響曲第5番に範を取った英雄の物語と解釈すると、「アダージェット」はアルマとは余り関係のない、英雄のまどろみのようなものであり、第5楽章の冒頭で夢から醒めた英雄が勝利へと向かうという筋書きが見えてくる。第5楽章冒頭のホルンはどう聴いても目覚めを促す声であるため、マーラーがアダージェットをまどろみとして書いた可能性は結構高いはずである。
昨今ではスッキリとしたテンポによるアダージェットの演奏も多いが、尾高は中庸からやや遅めのテンポを取り、適度な甘美さでこの楽章を歌った。

続く第5楽章も尾高としては比較的テンポを動かす演奏であり、終盤に向けての高揚感も鮮やかである。大フィルも細かな傷はあるが、内からエネルギーが溢れ出す様がハッキリと見えるようなパワフルな演奏を展開。この楽団の長所が存分に発揮された秀演となった。

尾高は最後に客席に向かって、「コロナに負けずに頑張りましょう」とコメントし、コンサートはお開きとなった。

ちなみに、渋沢栄一を主人公とする来年の大河ドラマ「青天を衝け」のオープニングテーマの指揮は、渋沢栄一の子孫の一人でもある尾高忠明が務めるようである。

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