カテゴリー「京都芸術劇場春秋座」の51件の記事

2025年2月12日 (水)

観劇感想精選(483) 渡邊守章記念「春秋座 能と狂言」令和七年 狂言「宗論」&能「二人静」立出之一声

2025年2月8日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、渡邊守章記念「春秋座 能と狂言」を観る。毎年恒例となっている能と狂言の上演会である。今回の狂言の演目は「宗論」、能は「二人静」立出之一声である。

片山九郎右衛門(観世流シテ方)と天野文雄(大阪大学名誉教授)によるプレトークでは、能「二人静」立出之一声の演出についての話が展開される。『義経記』を元に静御前の霊を描いた「二人静」。静御前は日本史上最も有名な女性の一人であるが、その正体についてはよく分かっておらず、不自然な存在でもあるため、架空の人物ではないかと思われる節もある。正史である『吾妻鏡』には記されているが、公家の日記や手紙など、一次史料とされるものにその名が現れることはない。『義経記』は物語で、史料にはならない。
「二人静」は、元々はツレの菜摘の女と、後シテの静の霊が同じ舞を行うという趣向だったのだが、宝生九郎が「舞の名手を二人揃えるのは大変」ということで宝生流では「二人静」を廃曲とし、観世元章も同じような考えも持つに至った。ただ廃する訳にはいかないので、立出之一声という新しい演出法を行うことにしたという。立出之一声を採用しているのは観世流のみのようである。
二人とも狂言に関する解説は行わなかった。

 

狂言「宗論」。宗派の違う僧侶同士が論争を行うことを宗論という。仏教が伝来した奈良時代から行われており、最澄と徳一の三一権実論争などが有名だが、史上、たびたび行われており、時には天下人を利用したり利用されたりもしている(安土宗論など)。現在の仏教界は共存共栄路線を取っているので、伝統仏教同士で争うことは少ないが、昔は宗派による争いも絶えず、時に武力に訴えることもあった。
出演は、野村万作(浄土僧。シテ)、野村萬斎(法華僧。シテ)、野村裕基(宿屋。アド)。三世代揃い踏みである。
京・日蓮宗大本山本国寺(現在は本圀寺の表記で山科区にあるが、以前は洛中にあった。山科に移る前は西本願寺の北にあり、塔頭は今もその周辺に残るため、再移転の案もある。江戸時代には水戸藩との結びつきが強く、水戸光圀より圀の名を譲られて本圀寺の表記となっている)の僧で、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺(甲斐国、現在の山梨県にある。日蓮は鎌倉幕府から鎌倉か京都に寺院を建立しても良いとの許可を得たが、これを断って、僻地の身延山に本山を据えた)に詣でた法華僧(野村萬斎)は、都への帰り道で、同道してくれる都の僧侶を探すことにする。丁度良い感じの僧(野村万作)が見つかったが、よく話を行くと、東山の黒谷(浄土宗大本山の金戒光明寺の通称)の僧で、信濃の善光寺から京に帰る途中だという。
共に有名寺院の僧侶であったことから、宿敵に近い関係であることがすぐに分かる。
浄土宗と日蓮宗は考え方が真逆である。往生を目的とするのは同じなのだが、「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えれば極楽往生出来るとするのが浄土宗、「妙法蓮華経」を最高の経典として日々の務めに励むのが日蓮宗である。日蓮宗の宗祖である日蓮は、『立正安国論』において、「今の世の中が悪いのは(浄土宗の宗祖である)法然坊源空のせいだ」と名指しで批判しており、浄土宗への布施をやめるよう説いていたりする。

互いに自宗派の優位を説く法華僧と浄土僧。法華僧は、嫌になって「在所に用がある」「何日も、数ヶ月も掛かるかも知れない」といって、同道をやめようとするが(「法華骨なし」という揶揄の言葉がある)、浄土僧は「何年でも待ちまする」とかなりしつこい(「浄土情なし」という揶揄が存在する)。
何とかまいて、宿屋へと逃げ込む法華僧だったが、浄土僧も宿屋を探り当て、同室となる……。

法華僧が論争にそれほど積極的ではないのに、扇子で床を打つ様が激しく、浄土僧も扇子で床を叩くが言葉の読点を置くようにだったりと、対比が見られる。性格と態度が異なるのも面白いところである。浄土僧は法然から授かった数珠を持っており、法華僧は日蓮から下された数珠を手にしているということで、かなりの高僧であることも分かる。本圀寺と金戒光明寺という大本山の僧侶なのだから、その辺の坊主とは違うのであろう。
最後は、浄土僧が「南無阿弥陀仏(狂言では「なーもーだー」が用いされる)」、法華僧が「妙法蓮華経」を唱えるが、いつの間にか逆転してしまうという笑いを生むのだが、それ以前から逆転の現象は起こっているため、最後だけとってつけたように逆転を起こしている訳ではないことが分かる。

 

能「二人静」立出之一声。出演は、観世銕之丞(前シテ、里女。後シテ、静御前)、観世淳夫(菜摘女。ツレ)、宝生常三(勝手宮神主。ワキ)。鳴り物は、亀井広忠(大鼓)、大倉源次郎(小鼓)、竹市学(笛)。

大和国吉野。神主が菜摘女に、菜摘川に若菜を採りに行くよう命じる。菜摘女は菜摘川の近くで、不思議な女に声を掛けられる。罪業が重いので、社家の人々に弔ってくれるよう伝えて欲しいというのだ、菜摘女は憑依体質のようで、女が取り憑き、判官殿(源九郎判官義経)の身内と名乗り出る。
春秋座は歌舞伎対応の劇場なので、花道があり、途中にセリがある。静御前の霊は、このセリを使って現れる。
しばらくは共に大物浦や吉野山の話(義経関連のみではなく、後に天武天皇となる大海人皇子の宮滝落ちの話なども出てくる。ちなみに天武天皇も天智天皇の「弟」である)などをしていた菜摘女と静御前の霊であるが、互いに舞い始める。最初は余り合っていないが、次第に二人で一人のようになってくる。
ただ、頼朝の前での舞を再現するときは、菜摘女のみが舞い、静御前は動かない。おそらく頼朝の前で舞を強要された屈辱から、同じ舞を行うことを拒否しているのだと思われる。その他の理由は見当たらない。そして「しづやしづ賤の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな」から再び静は菜摘女と一体になり、存在を示す。

近年のドラマは、ストーリーよりも「伏線回収」が重視されているような印象を受けるが(物語は謎解きではないので必ずしも良い傾向だとは思えない)、今日観た狂言と能の演目は、伏線のしっかりした作品である。ただし、ある程度の知識がないと伏線が伏線だと分からないようにはなっている。

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2024年12月21日 (土)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program2

2024年12月8日 京都芸術劇場春秋座

午後1時から、京都芸術劇場春秋座で、「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program2に接する。今日上映されるのは、「エンドゲーム」、「フィルム」、「ハッピーデイズ」の3本。
司会進行役は昨日に引き続き、小崎哲哉が務める。


「エンドゲーム」は、目が見えず椅子に座ったままの主人公・ハム(演じるのは、「ハリー・ポッター」シリーズのマイケル・ガンボン)と、下半身を失いバケツに入れられたその両親、そしてその使用人で足の悪いグロヴ(デヴィッド・シューリス)である。監督はコナー・マクファーレン。
グロヴが部屋の両方にある窓にかかったカーテンを開けるところからスタート。
グロヴは常にこの部屋にいるわけではなく、厨房などに行っている場合もある。
セリフは情報量が多い上に早口で、こちらが字幕を読み終わらない間に次の字幕に移行してしまうことも多い。
様々なことが語られるが、一貫性がないというのも特徴。あたかも時間を言葉で埋める作業をしているかのようだ。
バケツに入っているという奇妙な設定の両親であるが、出番やセリフは余りなく、ハムとグロヴとのやり取りが中心となる。
出演者全員が障害者であるが、使用人のグロヴが次第に雇い主で暴君のハムよりも優勢になっていくように見えるのが、タイトルである「エンドゲーム」(チェスの用語で、チェックメイトが近い終盤戦のこと)を表しているようである。


「フィルム」はバスター・キートン主演映画。チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドと共に三大喜劇人の一人に数えられるバスター・キートン。ベケットはこの映像作品の脚本と総合製作を担当しているが、様々なアドバイスをしていることから、実質共同監督と見なされている。監督はアラン・シュナイダー。上映時間24分の短編である。ベケットが唯一、映画だけのために脚本を書いた作品でもある。
ベケットは、当初はチャップリンに出演依頼をしたが、チャップリンは自身が監督した作品にしか出ないということもあって断られ、バスター・キートンに話が回った。キートンも依頼を受けたときは特に興味を示さなかったようだが依頼は引き受けている。

キートンの目のクローズアップから始まり、キートンが目を閉じたときに出来る襞に似た模様を持つ壁が立った公園内を走るキートンの後ろ姿に繋がる。
一組の男女をキートンは追い抜くのだが、そこから先に何かがあったようで、男女は顔をしかめる。
とある建物に入るキートン。階段を老女が降りてくるのを見て姿を隠すのだが、この老女が何かを発見したのか、もの凄い表情をする。その間にキートンは老女の横をすり抜けて階段を上がる。
部屋に入ったキートン。落ち着かない様子であるが、椅子に腰掛けた時に初めてキートンの顔が正面から捉えられる。キートンは片方の目を黒い眼帯で隠している。
そして現れるキートンのドッペルゲンガー。
「ドッペルゲンガーを見た者は死ぬ」と言われているので、キートンも最期を迎えることになると思われるのだが、キートンを追っていたカメラは実はドッペルゲンガーの視点なのではないかと思われるところもある。


ここで、映画批評家で、京都芸術大学映画学科主任の北小路隆志を迎え、小崎哲哉が聞き手となるゲストトークの時間となる。
北小路もベケットについては特に詳しくはないとのことだったが、「映画と演劇は別物」とした上で、先ほど上映した「フィルム」や昨日上映された「ねえ、ジョー」は映画作品として成功しているが、「エンドゲーム」や昨日上映された「クラップの最後の録音」は、役者の演技が前に出すぎているため、ベケット作品の映画化としては上手くいっているとはいえないのではないかとの感想を述べた。ベケットの理想を考えれば、もっと「機械的」になった方が良いという。


最後に上映されるのは、「ハッピーデイズ」。老女が第1幕は腰まで埋もれ、第2幕は首まで埋まりながら話し続けるという奇妙な設定の作品であるが、埋まれば埋まるほど死が近いというメタファーはよく分かる。監督:ジャン=ポール・ルー。出演:マドレーヌ・ルノー、レジス・ウタン。
体が埋まっているという不自由な状態でありながら、「今日もハッピーな1日」と語るセリフが興味深い。言葉と体の分離が行われているようである。回想が語られることが多いが、カバンの心配をしたり、手がまだ自由な第1幕ではピストルを取り出したり、パラソルを差したりと、まだ体の動きが表現出来ることは多いのだが、第2幕になるとそれもなくなっていく。死を意識したようなセリフも出てくるのだが決して悲観的にはなっていないのが印象的である。


小崎哲哉による締め。「昨日、ゲストに来ていただいた森山未來さんから、『ベケット、1日3本はきついっすね』と言われましたが、皆さんお疲れ様でした」と語り、京都芸術大学舞台芸術学科主任の平井愛子からも挨拶があった。

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2024年12月20日 (金)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program1 ゲスト:森山未來

2024年12月7日 京都芸術劇場春秋座にて

午後1時から、京都芸術劇場春秋座で、「疫病・戦争・災害の時代に―― サミュエル・ベケット映画祭」2024 program1に接する。2019年のベケット没後30年のサミュエル・ベケット映画祭に続く二度目のサミュエル・ベケット映画祭である。前回は京都造形芸術大学映写室での上映会がメインだったが、今回はキャパの大きい春秋座での開催である。
先にオープニングイベントがあり、今日が本編の初日となる。今日は、「ゴドーを待ちながら」、「ねえ、ジョー」、「クラップの最後の録音」の3作品が上映される。またトークの時間が設けられ、俳優・ダンサーの森山未來が登場する。森山未來を生で見るのは、先月17日のPARCO文化祭以来、と書くと不思議と長そうに思えるが、半月ちょっとぶりなので、同一の有名人に接する期間としては比較的短い。
総合司会兼聞き手は、京都芸術大学大学院芸術研究科教授の小崎哲哉(おざき・てつや)。


まずベケットの代表作である「ゴドーを待ちながら」が上映されるのだが、その前に小崎による解説がある。ベケットが長身で男前だったこと、語学の才に長け、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などを操ったことを紹介する。性格的には怖い人だったようである。また人前に出るのが嫌いで、ノーベル文学賞を受賞しているが、授賞式には出なかったという。また、下ネタが好きで、「高尚なものから下品なものまで描くのが芸術」だと考えていたようである。便器を「泉」というタイトルで芸術作品にしたマルセル・デュシャンとは仲が良かったようである。


「ゴドーを待ちながら」は、2019年のサミュエル・ベケット映画祭で、京都造形芸術大学映写室で上映されたものと同一内容だと思われる。この時は再生トラブルがあり、途中で中断があって、デッキを交換して上映を続けている。この時はこうした手際の悪さに呆れて以降に上映された作品は観ていない。この大学のいい加減さを象徴するような出来事であった。

「ゴドーを待ちながら」は、エストラゴン(ゴゴ)とウラディミール(ジジ)が一本の木が生えた場所で、ゴドーなる人物を待ち続けるという作品である。途中で、資本家の権化のようなパッツオと、奴隷のラッキーとのやり取りが2回ある。
監督:マイケル・リンゼイ=ホッグ。出演:バリー・マクガヴァン、ジョニー・マーフィーほか。マイケル・リンゼイ=ホッグ監督は、瓦礫だらけの場所を舞台に設定している。明らかに第二次大戦後の荒廃した光景を意識している。
エストラゴンとウラディミールという二人の浮浪者については、余り分かりやすいセリフではないのだが、いい加減に生きてきたから浮浪者になっているのではなく、頑張ってやるだけのことはやったが結局努力が実らなかったことが察せられるものがある。そして二人の人生はもうそれほど長くはない。大人の男の寂寥感が漂っている。ベケットは黒人による「ゴドー」の上演は強化したが、女優による「ゴドー」の上演は禁じている。「女性差別じゃないか」との批判もあったが、ベケットは「女性には前立腺がないから」というをその理由としている。ただ女性二人組にした場合、寂寥感は出ないかも知れない。男性でしか表現出来ないもの、女性にしか表現不可能なものは確かにある。
資本家のポッツォと奴隷のラッキーであるが、こうした組み合わせは戦前までは当たり前のように存在していた構図でもある。法律上は禁止されていても、金持ちが貧乏人がいいように扱うというのは一般的で、今でもある。世界の縮図がこの二人の関係に表れている。
人生そのものを描いたかのような「ゴドーを待ちながら」。何があるのか分からないのだが、とにかく待って生き続けるしかない。


上映終了後、15分の休憩を挟んで、森山未來を迎えてのトークがある。先に書いたとおり、聞き手は小崎哲哉が務める。

小崎はベケットと森山の共通点として、「多領域で活躍し」「格好いい(森山は「イヤイヤ」と首を振る)」などを挙げていた。森山はこれまでベケット作品にはほとんど触れてこなかったそうで、「初心者です」と述べていた。
「ゴドーを待ちながら」は、事前に映像データを貰っていたのだが、冒頭をパソコンで観て、「これはパソコンで観られる作品ではない」と感じ、知り合いの神戸の喫茶店がスクリーン完備だというので、そこを貸してもらって観たそうだ。「見終わって体力的に疲れた」という。
小崎が「ゴドー」が人生を描いたものという説を紹介し、森山も「人生暇つぶし」というよくある解釈が思い浮かんだようだ。

NHK大河ドラマ「いだてん」では森山は落語家の古今亭志ん生の若い頃を演じ、老成してからの志ん生は北野武が演じたが、入れ替わりになるので接点はなかったそうである。ただ、小崎は北野武はベケットから影響を受けているのではないかと指摘する。監督4作目の「ソナチネ」で、沖縄のヤクザに戦いを挑んだ弱小ヤクザ軍団が見事に敗れ、離島に逃げて何もやることがないので時間を潰すというシーンがあるのだが、これは「ゴドー」を念頭に置いているのではないかとのことだった。
なお、落語家の演技は、亡くなった中村勘三郎が抜群に上手かったそうだが、実は勘三郎は、立川談志の楽屋を訪れて弟子入りを志願したそうで、談志に実際に師事していたそうである。また殺陣は勝新太郎に習っていたそうだ。

ベケットの作品は自身の戦争体験が基になっているということで、ダンサーの田中泯の話になる。田中泯は、1945年3月10日、東京の西の方で生まれている。実はこの日、東京の東の方では、いわゆる東京大空襲があり、田中泯自身には東京大空襲の記憶はないだろうが、その日に生まれたということで様々な話を聞かされたのではないかと小崎は語っていた。

小崎は、森山が2020年に行った朗読劇「『見えない/見える』ことについての考察」の話をする。実は小崎はこの公演は観ていないようだが(私は尼崎での公演を観ている)、使われたテキストの作者、ジョゼ・サラマーゴとモーリス・ブランショは共にベケットから強い影響を受けた作家とのことだった。森山未來はそのことについては知らなかったという。


森山未來は神戸市東灘区の出身である。11歳の時に阪神・淡路大震災に被災。しかし東灘区は神戸市内でも特に被害が大きかった場所であるにもかかわらず、森山未來の自宅付近は特に大きな被害はなく、周囲に亡くなった人もいないということで、当事者でありながら周縁者という自覚があり、コンプレックスになっているそうだ。「ゴドー」を観てそんなことを思い出したりしたそうだが、小崎に「ラッキーをやってみたらどうですか? 合うと思いますよ」と言われてちょっと迷う素振りを見せた。

なお、阪神・淡路大震災発生30年企画展「1995-2025 30年目のわたしたち」が兵庫県立美術館で今月21日から開催されるが、森山未來も梅田哲也と共に出展している。


続けて「ねえ、ジョー」の上映。上映時間16分の短編である。監督:ミシェル・ミトラニ、出演:ジャン=ルイ・バロー。声の出演:マドレーヌ・ルノー。
モノクロの映像。男が室内を歩き回り、やがてこちら向きに腰掛ける。そこへ女の声がする。「ねえ、ジョー」と呼びかける女の声は、ジョーのこれまでの人生などを語る。ジョーは涙を流す。
声と表情を分離したテレビ作品である。


「クラップの最後の録音」。ベケット作品の中でも知名度は高い部類に入る。
監督:アトム・エゴヤン。出演:ジョン・ハート。
69歳になる老人、クラップは、これまで毎年、誕生日にテープレコーダーにメッセージを吹き込んできた。30年前に録音した自分の声を聞いたクラップはその余りの内容の乏しさに、自身の人生の空虚さを感じ、悔いを語るメッセージを残すことにする。
小さめのオープンリールのテープレコーダーを使用。実際には民生用のテープ録音機材が発売されてから間もない時期に書かれているため、30年前の録音テープが残っているというのはフィクションである。
老年の寂しさ、生きることの虚しさなどが伝わってくるビターな味わいの作品である。


最後に森山未來が登場。「皆さん、これ3本観るわけでしょう。体力ありますね」と述べていた。

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2024年12月 7日 (土)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024オープニングイベント@京都芸術劇場春秋座 ゲスト:やなぎみわ&岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授、早稲田大学演劇博物館前館長)

2024年11月23日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、「サミュエル・ベケット映画祭」2024のオープニンイベントに参加する。司会は小崎哲哉(おざき・てつや。京都芸術大学大学院芸術研究科教授)。出演は、美術作家・舞台演出家のやなぎみわと、早稲田大学文学学術院教授で早稲田大学演劇博物館前館長の岡室美奈子。

まず、小崎が、サミュエル・ベケットという人物の概要を説明する。サミュエル・ベケット(1906-1989)は、アイルランドのダブリン県に生まれた劇作家、小説家、詩人である。母語は英語であるが、フランス語を習得し、パリに移住。英語とフランス語の両方で著述を行っている。アイルランドを代表する作家のジェイムズ・ジョイスとは友人である。
「ゴドーを待ちながら」が特に有名で、おそらく20世紀に書かれた戯曲としては最も上演回数が多いのではないかと思われる。また、鴻上尚史の「朝日のような夕陽をつれて」や別役実の「やってきたゴドー」など、「ゴドー」にインスパイアされた作品も多い。
「ゴドーを待ちながら」は、ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者が、一本の木の下でひたすらゴドーを待つという話である。途中、ポッツォと従者のラッキーが通りかかるのだが、それだけである。
なんのかんのと暇つぶしをし、首つり自殺をしようとするが失敗し、とにかく「ゴドーを待つんだ」ということで待ち続ける。やがて少年が現れ、「ゴドーさんは来ません」と告げる。これが二度繰り返される。

私は「ゴドーを待ちながら」の上演を観たのは3度。緒形拳と串田和美らがシアターコクーンステージ内に設置した小劇場のTHE PUPAで行った上演。近畿大学文芸学部芸能専攻の卒業公演、そしてアイルランドの演劇劇団マウス・オン・ファイアによる英語上演である。

いずれもとにかく何も起こらない上演である。近畿大学の学生による上演ではいかにも「暇つぶし」といったように羽根を足で蹴り続けて遊ぶという場面が追加されていた。またラッキーを演じたのは女子学生で、卑猥な言葉をつぶやき続けるという演出であった。

人生そのものを描いたような作品だが、新訳で読むともっと切羽詰まったような印象を受ける。浮浪者の二人だが、何もせず人生に失敗した訳ではなく、ありとあらゆる手を尽くして駄目だったことが分かるようになっている。そして人生の残りの日は少ない。かなり焦燥感に駆られる感じになっていたが、人生において失敗経験の少ない人は、こうした切迫感は感じることが出来ないだろう。

その他の有名な作品としては、「クラップの最後の録音(最後のテープ)」が挙げられる。これは今はなきアトリエ劇研で上演されたものを観ている。男が毎年誕生日にテープに録音を行い、何年も経ってからそれを聞き返して、出来の悪さに気が滅入っていくという話である。実際は、「クラップの最後の録音」が書かれた数年前に家庭用の録音テープが発売されたばかりで、何年にも渡って録音が残っているというのはフィクションだそうである。ベケットは新しいもの好きで、新しいものをすぐ自作に取り入れたがる傾向があったようだ。

「ハッピーデイズ」も紹介される。女性が腰まで埋まりながら喋り、第二幕では首まで埋まりながらセリフを発するという妙なシチュエーションの劇であるが、語られる内容自体は明るい。


やなぎみわを迎え、自身がベケットの影響を受けて作り上げた演劇作品「ゼロ・アワー ~東京ローズ最後のテープ~」の映像が上映される。太平洋戦争時に、日本の放送局が米兵に向けて調略のために行ったラジオ放送「ゼロ・アワー」と、出演していた東京ローズと呼ばれた女性アナウンサーの物語である。東京ローズは複数人おり、演劇作品「ゼロ・アワー」では、5人いたということになっている。実は6人目がいたのだが、これは東京ローズの仕掛け人である男が自身の肉声をテープに吹き込み、加工して女性の声のように聞こえるようにして流していたという設定になっている。
ベケットのチェスを題材にした作品「エンドゲーム(勝負の終わり)」を意識し、東京ローズの女性達がマスゲームのようなものを繰り広げるシーンがある。
ちなみにB29に東京ローズのイメージ画が描かれた機体が存在しており、東京ローズがB29の隠語になっている場合もある。

第2部では、岡室美奈子を迎えて、ベケット作品に関するフリートークが行われる。サミュエル・ベケット映画祭は、2019年に京都造形芸術大学でベケット没後30年を記念した小規模なものが行われており、岡室はそれに出演予定だったのだが、体調を崩してしまいキャンセル。今回はリベンジという感じできたのだが、風邪を引いてしまい、咳などは治まったのだが、「念のため」ということでマスクをしての参加になった。
なお、「サミュエル・ベケット映画祭」2024は、京都芸術劇場春秋座で3回行われた後で、東京の早稲田大学小野記念講堂に場所を移して1回行われる予定である。

まず、緒形拳と串田和美による「ゴドーを待ちながら」(私が東京で観たものと同一内容だと思われる)を網走刑務所で上演したところ、ラッキーが怒濤のように喋り出すシーンで、囚人達が大喝采を送ったという話になる。抑圧されていた者が、突如解放されたように見えるのが心に響いたのではないかと岡室は感じたそうだ。

岡室によると、ベケット作品は、俳優の声を通して聞くと案外エロティックだという。ベケット自身女好きで、女にもよくモテ、正式な奥さんの他に愛人ともずっと関係を保つという暮らしを送っていたそうである。そうしたベケットの女好きの部分が彼の演劇作品や映画作品には現れているそうである。ちなみにベケットは小説家でもあるが、小説はこの限りではないようだ。
ちなみにベケットは最晩年まで女にモテたがったそうで、ダイエットのために野菜しか食べない生活を送っていたという。ベジタリアンと誤解されているが、実際はダイエットのための菜食だったようだ。

岡室は、ベケットに影響を受けた日本の芸術家として、映画監督の濱口竜介の名を挙げる。代表作の「ドライブ・マイ・カー」には、西島秀俊が演じる主人公の舞台俳優で演出家の家福(かふく。カフカみたいな名前である)が、「ゴドーを待ちながら」と「ワーニャ伯父さん」を交互に演じ続けているシーンがある。また家福は奥さん(霧島れいかが演じた)に相手役のセリフをカセットテープに吹き込んで貰い、車中でセリフの練習をするという習慣を持っている。岡室は、あそこはやはりカセットテープでないといけないという。テープの持つ質感が大事なのだそうだ。ディスクになるとブラックボックス化してしまい、どこにどの音声が入っているのか分からなくなるが、カセットテープなら大体どの部分にどの音声が入っているのかが分かる。それが重要だという。

「ゴドーを待ちながら」は男ならではの悲哀を描いた作品である。実際には蜷川幸雄や鴻上尚史が女性版「ゴドーを待ちながら」を有名女優を使って行っており、評判も良かったようなのだが、悲哀はそれほど出なかったのではないかと予想される。

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2024年10月27日 (日)

観劇感想精選(473) 京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」

2024年10月20日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」を観る。京都芸術大学舞台芸術学科の教授となった松尾スズキが若い俳優達と取り組むプロジェクトの一つである。
松尾スズキとつかこうへいは同じ九州人にして福岡県人ではあるもののイメージ的には遠いが、実際には松尾スズキは九州産業大学芸術学部在学中に、つかこうへいの「熱海殺人事件」を観て衝撃を受け、芝居を始めたというありがちなコースをたどっていることを無料パンフレットで明かしている。ただ、つかこうへいとは生涯、面識がなかったようだ。

作:つかこうへい。いくつか版があるが昭和57年4月25日初版発行の『戯曲 蒲田行進曲』を使用。演出:松尾スズキ。出演は、上川周作、笠松はる、少路勇介(しょうじ・ゆうすけ)、東野良平(ひがしの・りょうへい)、末松萌香、松浦輝海(まつうら・てるみ)、山川豹真(ひょうま。ギター)。


映画でもお馴染みの「蒲田行進曲」。蒲田行進曲と銘打ちながら、舞台は大田区蒲田ではなく京都。東映京都撮影所が主舞台となる。実は映画版の「蒲田行進曲」は松竹映画で、松竹映画でありながら東映京都撮影所で収録を行っているという変わった作品である。

末松萌香と松浦輝海がト書きを全て朗読するという形での上演。二人は、セリフの短い役(坂本龍馬や近藤勇など)のセリフも担当する。


上川周平による前説。「どうも、こんにちは。上川周平です。京都芸術大学映画俳優コース出身者として黒木華の次に売れています(格好をつける)。嘘です。土居(志央梨)さんの方が売れています。土居さんとは同級生です。今日は京都の山奥の劇場へようこそ。まだ外国人観光客に発見されていない日本人だけの場所。朗読劇なのに5500円。これは僕らかなり頑張らないといけません。演出の松尾(スズキ)さんは、役者がセリフを噛むとエアガンで撃ちます。まさに演劇界の真○よ○子」と冗談を交えて語る。

上川周平は、今年前期のNHK連続テレビ小説「虎に翼」で、主人公の猪爪寅子(伊藤沙莉)の実兄にして、寅子の女学校時代からの親友である花江(森田望智)の夫にして二児の父、日米戦争で戦死するという猪爪直道役を演じ、口癖の「俺には分かる」も話題になっている(「俺には分かる」と言いながら当たったことは一度もなかった)。


東映京都撮影所では、新選組を主人公にした映画が撮られている。まず坂本龍馬(松浦輝海)の大立ち回り。龍馬は土方歳三の恋人にも手を出そうとして、駆けつけた土方に止められる。土方役の銀四郎(銀ちゃん。少路勇介)の脇に控えているのが、銀ちゃんの大部屋時代の後輩である村岡安治(ヤス。上川周作)。銀ちゃんは大部屋からスターになり、土方歳三役という大役を演じているが、ヤスは大部屋俳優のままである。実はヤスも「当たり屋」という低予算映画に主演したことがあるのだが、大部屋の脇役俳優が主役になっても勝手が分からず、セリフが出てこなかったりと散々苦労した思い出がある。その後も、ヤスは銀ちゃんが取ってくるセリフもないような役をやったりと、弟分を続けていた。
銀ちゃんには、小夏という彼女(笠松はる)がいる。2年前まではそれなりの役を貰っていた女優だったのだが、2年のブランクがあって今は良い役にありつけない。小夏は30歳。今でこそ、30歳は女優盛りであるが、往年は「女優は二十代が華」の時代。30歳になるとヒロインは難しく、出来る役は限られてしまう。女優とは少し異なるが、「女子アナ30歳定年説」というものがつい最近まであった。今は30代でも40代でも既婚者でも子持ちでも人気の女子アナはいるが、ほんの少し前まではそうではなかったのである。30歳を機に、女優や女子アナを辞める人がいた。そう考えると時代はかなり変わってきている。

芸能界で、女優が30歳になることを初めて肯定的に捉えたのはおそらく浅野ゆう子で、彼女は「トランタン」というフランス語で30歳を意味する言葉を使ってイメージ改善に励んでいる。その後、藤原紀香が「早く30歳になりたかった」宣言をして30歳の誕生日をファンを集めて盛大に祝ったり、蒼井優が「生誕30年祭」と銘打っていくつかのイベントを行ったりと、女優陣もかなり努力している印象を受ける。

ただこれは、女優の限界30歳の時代の話。小夏は銀ちゃんの子を妊娠しているが、銀ちゃんは小夏をヤスと結婚させるという、酷い提案を行う。結局、小夏とヤスは籍を入れる。昭和の祇園女御である。映画版だとヤス(平田満が演じた)が小夏(松坂慶子)の大ファンだったという告白があるのだが、舞台版ではそれはないようだ。
ちなみに銀ちゃんは白川(おそらく北白川のこと。京都芸術劇場と京都芸術大学が北端にある場所で、京都屈指の高級住宅街)に住んでいるようで、すぐそばでの話ということになっている。小夏は銀ちゃんの5階建てのマンションを訪れ、合鍵を使って中に入り、銀ちゃんの部屋で泣く。


新選組の映画では、池田屋での階段落ちが名物になっているが、危険なので誰もやりたがらない。銀ちゃんはやる気でいるが止められる。警察がうるさいというのだが、銀ちゃんは、「東映は何のためにヤクザを飼ってるんだい」とタブーを言う(東映の任侠ものは本職に監修を頼んでいた。つまり撮影所に本職が何人もいたのである。誰か明言はしないがヤクザの娘が大女優であったりする)。
15年前の「新選組血風録」で階段落ちを行った若山という俳優は、その後、下半身不随になったという。
小夏のお産の費用を捻出するため、ヤスが階段落ちを申し出る(ちなみに階段落ちする志士のモデルは、龍馬の友人である土佐の本山七郎こと北添佶摩という説があり、彼が池田屋の階段を降りて様子を見に行ったというのがその根拠だが、それ自体誰の証言なのかはっきりしない上、階段落ち自体がフィクションの可能性も高いのでなんとも言えない)。
階段落ちの談義の場面では、ニーノ・ロータの「ロミオとジュリエット」のテーマ音楽が流れるが、何故なのかは不明。また京都が舞台なのに、マイ・ペースの「東京」が何度も流れるのも意図はよく分からない。

ヤスは、小夏を連れて故郷の熊本県人吉市に行き、親に小夏を合わせる。ちなみに小夏は茨城県水戸市出身の関東人である。歓迎される二人だったが、小夏の子の親がヤスでないことは見抜かれていた。

ヤスと小夏の結婚式に銀ちゃんが乱入(ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」のパロディーで、「サウンド・オブ・サイレン」が流れる)するというハプニングがあったりするが、ヤスの男を見せるための階段落ちへの決意は変わらず、その日を迎えるのだった。


つかこうへいの演劇の特徴は長台詞が勢いよく語られるところにあり、アクションを入れるのも確かに効果的なのだが、台詞だけでも聞かせられるだけの力があるため、松尾スズキも朗読劇というスタイルを採ったのだろう(役者が動き回るシーンは少しだけだが入れている)。見応えというより聞き応えになるが、確かにあったように思う。

「蒲田行進曲」に納得のいかなかった松竹の井上芳太郎は、「キネマの天地」という映画を制作している。中井貴一と有森也実の出世作であり、渥美清演じる喜八の最期がとても印象的な映画となっている。また、映画「キネマの天地」に脚本家の一人として参加した井上ひさしは戯曲「キネマの天地」を発表。私も観たことがあるが、趣が大きく異なって心理サスペンスとなっている。


今回使用された「蒲田行進曲」のテキストは、風間杜夫の銀ちゃん、平田満のヤスという映画版と同じキャストでの上演を念頭に改訂されたもので、二人の出会いが「早稲田大学の演劇科」であったりと、事実に沿った設定がなされているのが特徴でもある。

親分肌の銀ちゃんと、舎弟キャラのヤスの友情ともまた違った関係が興味深く、そこに落ち目の女優との恋愛話を絡めてくるのが巧みである。銀ちゃんに何も言えないヤスであるが、ラストに階段落ちを見せることで男気を示す。

ちなみに、映画版で私が一番好きなやり取りは、キャデラックの車内で銀ちゃんが、
「おい、俺にも運転させろ!」と言い、
「銀ちゃん、免許持ってないじゃない」との返しに(今と違って、危ないので俳優には運転免許を取らせないという方針の事務所が多かった)、
「ばっきゃろう!! キャデラックは免許いらねえんだよ!!」と啖呵を切るシーンで(啖呵を切ろうが免許がないと運転出来ないのだが)あるが、舞台なのでキャデラックのシーンがなく、当然ながらこのやり取りも入っていない。


実は、東京の小劇団による「蒲田行進曲」の上演を観たことがある。1994年のことで、場所は銀座小劇場という地下の劇場。東京灼熱エンジンというアマチュア劇団の上演であった。「週間テレビ番組」という雑誌の懸賞に母が応募して当たったのである。
東京灼熱エンジンは、階段落ちのシーンで照明を明滅させて、ヤスをスローモーションで見せるという工夫をしていたが、今回は小夏役の笠松はるが、箱馬を積み重ねたような木の箱をスティックで叩くという、音響的な演出がなされていた。ただ正直、音響だけでは弱いように思われる。


若い俳優達も熱演。演技力が特段高いということはないが、つかの演劇に要求されるのは巧さよりもパワー。力強さの感じられるしなやかな演技が展開される。ラストで、俳優陣が「蒲田行進曲」を歌う演出もあるが、今回は音楽が流れただけで歌うことはなかった。

カーテンコールには松尾スズキも姿を見せた。

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2024年7月28日 (日)

京都芸術劇場春秋座 「立川志の輔独演会」2024 「試し酒」&「文七元結」

2024年5月19日 京都芸術劇場春秋座にて

午後1時から、京都芸術劇場春秋座で、「立川志の輔独演会」に接する。春秋座での志の輔の独演会は、今年で16年目となる。

今回も満員の盛況で、今日は上手側サイドの補助席で観た。

まず、志の輔の七番弟子である立川志の麿による「初天神」が打たれる。
父親が天神詣でに向かうが、女房から息子も連れて行って欲しいとせがまれる。「あれが欲しい、これが欲しいとせがむから駄目だ」と父親は言うが、結局は共に初天神に向かうことになる。息子が、「あれが欲しい、これが欲しいと言わなかったから褒美に飴買って頂戴」と言い、父親は飴屋で飴を探すのだが、一つ取り上げては息子に「違う」と言われて戻し、指を舐めて、その手で次の飴を取り上げるを繰り返したため、飴屋の主に注意される。
続いては団子屋。「あんこと蜜どちらがいいか」と聞かれた息子は蜜を選ぶが、父親は蜜を付けた団子の蜜を全て舐めて壺に入った蜜に再び浸ける。息子もそれを真似て同じことをするという内容である。

続いて、志の輔の六番弟子である志の太郎による「釜泥」。「釜泥棒」の略である。
泥棒達の間で石川五右衛門は尊敬されているのだが、「天下の大泥棒、石川五右衛門」ではなく、「釜ゆでの刑にされた石川五右衛門」として広まってしまっている。そこで江戸中の釜を盗んで釜ゆでを連想出来ないようにして五右衛門の名誉を回復しようということになり、江戸の泥棒達が総出で釜を盗むようになる。まず釜飯屋が狙われ、釜飯が作れなくなった釜飯屋は路地裏に下がって飯屋をやるようになる。「これがうらめしや(恨めしや)」
そば屋や豆腐屋といった釜を使う店も狙われた。豆腐屋の会合に出てきた豆腐屋の爺さんは、「釜の中に入って、釜泥棒が釜を盗みに来たら中から飛び出して、『石川や浜の真砂は尽きぬとも我泣きぬれて蟹とたわむる』と叫んで飛び出せば(豆腐屋の婆さんに石川が違う〈石川啄木のこと〉と言われる)、泥棒達も『五右衛門の幽霊が出た!』と逃げ出すに違いない」と考え実行する。
さてその夜、豆腐屋の爺さんが釜の中に入っていると、二人組の泥棒が釜を盗みに来る。釜を縛り、天秤棒で担ぎ上げて表に出るが、爺さんは酔っていて気がつかない。外は満天の星と月で泥棒も良い気分になるが、起きた爺さんが婆さんを呼ぶ。当然ながら返事はないが、そこで怒った爺さんが大声を上げて飛び出すと、泥棒達は「お化けだ!」と言って逃げ出す。
満天の星と月を見て爺さんは、「しまった、家を盗まれた」とつぶやくのだった。


志の輔登場。「試し酒」をやる。
「今日が3日間の公演の3日目ということで、今日のために昨日一昨日と2日間、リハーサルをして参りました」と冗談を言う。
まず枕として、京都が外国人だらけという話をする。小さな路地にも外国人は我々とは感性が違うのか入っていくが、冷静に考えると「あれ、迷ってるんじゃないか?」
桜の季節は外国人が多いので押し合いへし合い、紅葉の季節もまた押し合いへし合い、ゴールデンウィークを避ければ5月は大丈夫なんじゃないかと思ったが、それでもまだ外国人観光客が多いという。「その京都にこんなに多くの日本人がいたとは」と客席を見回して笑いを取る。京都はどこに行っても観光客が多いが、「京都にはなんでもあるが一つだけないものがある。富士山」。京都に富士山があれば外国人観光客は皆、富士山に行って他のところが空くのではないかという。
富士山観光も外国人には人気で、それも富士山のみではなく、富士山と麓のコンビニを一緒に撮るのが定番だそうである。志の輔は毎年のように東南アジアで公演を行っており、今年もベトナムのハノイで独演会を開くそうだが、ハノイのコンビニは日本のそれとは違い、「とりあえずある」という感じで、それに比べると日本のコンビニはハイクラスであり、それが外国人には珍しいらしい。コンビニ側も対策として黒い幕で店を覆ったりしているそうだ。

東山七条の京都国立博物館で、「雪舟伝説」という展覧会を観てきた志の輔であるが、「入っていきなり国宝。次も国宝、その次も国宝」と驚くが、「5点ぐらい国宝が続くと飽きる」そうである。また「雪舟伝説」は「雪舟伝説」と銘打ちながら雪舟の作品は全体の3分の1程度で、残りは雪舟に影響を受けた絵師や画家の作品。志の輔は最初気づかず、雪舟作品だと思って見ていたが、違うことに気づき、これまでの道を引き返して、最初の雪舟の作品でない絵に戻って、半ば2周することになったそうである。
そんなこんな色んなことがあっても大谷翔平がヒットを打っている姿を見ると落ち着くそうで、そこからもう一人の天才、藤井聡太の話になる。100手先が読めるということで、朝を起きてからのその日の100手を読むと、夜にベッドに入るまでが全て分かって困るということで、「(皆さん)平凡で良かったですね」と言う。藤井聡太と渡辺名人との対局で、藤井聡太は一手打つのに2時間28分掛けたという話をする。藤井聡太も渡辺名人も手を読んでいるからいいが、審判員の3人、モニターを見ている記者達などは2時間28分何も起こらないのにじっと見ていなければならない。その点、落語はずっと喋ってるので、「将棋よりは楽しい2時間28分」と語る。

「試し酒」。店の主が、近江屋の主人から酒を勧められるが、体調が万全ではないとして断る。近江屋の主人は店の表に連れてきた手代の久蔵を待たせているが、久蔵は大酒飲みで、近江屋の女房によると五升を飲み干すらしい。そこで主は、久蔵を呼び、「五升飲み干したら金子をやろう」と提案する。しかし、飲み干せなかった場合は、「箱根への温泉旅行に行かせて貰う」。勿論、旅費は近江屋の主人が出す。久蔵は、「主人に金は出させられねえ」と言って表に出て行ってしまうが、しばらくして戻ってきて、五升飲むことに挑戦する。
主の「酒よりも好きなものはあるのか?」との問いに、「金でさあ」と答える久蔵だったが、金は田畑を買ったりするのではなく、酒を買うために使うので、結局は酒が一番であることを明かしたり、「酒は体に毒というが、百薬の長だぞ」などと、あれやこれやと言いながら五升飲み干した久蔵。店の主は、何か酒が飲める薬でもあるのか、まじないでもやるのかと問うが、久蔵は、「今まで酒を五升飲んだことがないので、そこの酒屋で試しに五升飲んできた」


「文七元結(ぶんしちもっとい)」。元は落語だが、歌舞伎の演目としても有名な話である。歌舞伎版の「人情噺文七元結」は、女優が出ても構わない数少ない歌舞伎の演目で、波乃久里子や松たか子が、お久役で出演している。歌舞伎座で行われた「人情噺文七元結」の公演を観ていた脚本家の市川森一が、「やけに綺麗な女形が出ているな」と気づき、後にそれが九代目松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)の次女である松たか子(当時16歳)だと知り、自らが脚本を手掛けた大河ドラマ「花の乱」で主人公である日野富子の少女時代役に抜擢したという話がある。
歌舞伎版の「人情噺文七元結」は、南座の耐震工事期間中にロームシアター京都メインホールで行われた顔見世の演目で観ている。中村芝翫の長兵衛で、お久を演じたのは女形の中村壱太郎であり、中村芝翫の襲名披露公演ということで途中で口上が述べられた。

まず枕。志の輔は、酒は365日飲む。入院したこともあるが、それでも隠れて飲む。強いわけではないが飲むことが好きである。今はやめたがゴルフに嵌まっていたこともあり、春秋座での独演会を終えた翌日に、狂言の茂山千五郎家の人々と一緒に滋賀県でゴルフをしたこともあるそうだ。
もう一つ嵌まっているものとして中古レコード収集があり、京都に来るたびに中古レコード店に行くのが習慣になっているという。ただ京都で一番大きい中古レコード店が宝塚市に移転してしまったため、仕方なく小さな中古レコード店を2件訪ねたのだが、いずれも品揃えが貧弱。困っていると弟子がネット検索して「髙島屋の4階にあります」と教えてくれたという。「髙島屋って、あの髙島屋? 家賃どうしてるの?」と気になったらしいが、今朝、四条河原町の京都髙島屋に行ってみたそうだ。思いのほか広いスペースを誇る中古レコード店で、東京のディスクユニオンなどとは比べものにならないが、品揃えもまずまずで、808円の中古レコードを買ったそうだ。そのレコードを東京の自宅に持って帰って棚に入れると同じレコードが12枚並ぶ。ということで同じレコードでも何枚も買っているらしい。その中には「葬儀の時に棺桶に入れて貰うために」封も切っていないレコードもあるらしい。東京では中古レコード店を巡ることはなく、自分でも不思議だったのだが、「きっと飲みに行っているからでしょうね」と結論づける。
中毒と言えば、「今は9割の人がそうなんじゃないか」というスマホ中毒が挙げられ、「スマホがないとえらいことになる。今、スマホがないことに気づいた人は落語聞いてる場合じゃない、探さないと」
「でも大谷翔平も野球中毒でしょう。彼に『半年間バットを持たないでくれ』と言ったら気が狂うと思う。藤井聡太も将棋中毒でしょう」

左官頭の長兵衛は、腕は良いが博打好きで、多額の借金をこさえており、それでも懲りずに博打に出掛けて身ぐるみ剥がれて帰ってきた。家は真っ暗。女房によると油を買う金もないという。女房は娘のお久が出て行ったことを長兵衛に告げる。吉原の大店、佐野槌(さのづち)に買って貰い、親の借金を返そうとしていたのだ。
それを知った長兵衛は佐野槌に向かおうとするが、身ぐるみ剥がれてしまったため、半纏とふんどししか身につけておらず、このままでは吉原には行けない。そこで女房の衣装を引き剥がし、それを纏って吉原へと向かう。佐野槌に着いた長兵衛は、女将から五十両の借金をする。返済の期限は来年の大晦日。それまでに返せなかったら、お久は女郎として店に出すという。
五十両を受け取って帰路についた長兵衛だが、吾妻橋に差し掛かったところで、隅田川に身投げしようとしている青年がいることに気づく。なんとか止める長兵衛。青年は鼈甲商尾張屋に奉公している文七で、石川屋から金を受け取り、店に帰る途中、枕橋で人相の悪い男とすれ違いざまに五十両を盗まれてしまったのだという。このままでは店に帰れないと身投げをすることに決めたのだ。
何度も説得したあげく、長兵衛は虎の子の五十両を文七に譲ることにする。「吉原の大店、佐野槌にいる娘が店に出て客を取る。病気をするかも知れない。か○わになるかも知れない。が、死ぬわけじゃない。そうならないよう、観音様かお不動さんに祈っとけ」と言って長兵衛は去る。
店に帰った文七は、五十両を差し出すが、主は、文七が碁に嵌まっていることを知っており、石川屋でも店先で主人と夢中になって碁を打ち、五十両を忘れて帰って行ったと先方から使いが来て、五十両を先に受け取っていた。五十両は盗まれたのではなかったのだ。
主は、五十両をくれた男について、「商人(あきんど)には出来ないことだ」と感心。早速、五十両を渡した男の正体を探ることになる。文七は男の娘が吉原の大店にいることは覚えていたが、店の名前が思い出せない。主は吉原には詳しくなく、番頭もお堅い男だという。主は最初の一文字でも思い出せないかと、一音ずつ発するが、「さ」が出たところで、「さの」が出て、番頭が躍り上がって「佐野槌!」と言い、店の位置まで唱える。お堅いと思わせていたのは表面だけで、実際は遊んでいたらしい。
ということで、男の正体が長兵衛だと分かり、一行は日本橋達磨町の長兵衛の長屋に行く。町の者に聞くと、夫婦仲が悪く、いつも「バカヤロー!」と罵声が聞こえるのが長兵衛の長屋だという。すぐに分かった。着るもののない女房を屏風の裏に隠し、対応する長兵衛。「一度やったものは受け取れない」と突っぱねる長兵衛だったが、それを諫める声が屏風の向こうから聞こえる。「誰かいるのか?」となるが長兵衛は誤魔化す。結果的には、長兵衛は金を受け取り、お久も尾張屋の主に身請けされて戻り、文七とお久は夫婦となって元結(髷を結う紐)屋を始めたという。

志の輔の語りはしかるべき言葉がしかるべき場所に嵌まっていく見事なものである。いずれも古典落語であるが、志の輔が作った落語のように聞こえてくるのが面白く、話を完全に自分のものにしているのが分かる。


なお、志の輔の一番弟子である立川晴の輔が「笑点」の大喜利レギュラーになったそうである。「何枚座布団を貰うんでしょう。私は一枚だけ」
今度、WOWOWでPARCO劇場でやった公演が放送されるそうであるが、今はYouTubeで様々な映像が出回っており、許可を得ずに録音した落語の音声が流れているそうで、「アンケートに書いてありました。『私の前の席の人が録音してました』。その時、言えって!」。録音している人の特徴は分かっているそうで、「自分の声が入るといけないので笑わない」そうである。
2時間ほど喋ったが、藤井聡太はまだ一手も打っていないという話もする。
来年の1月にもまたPARCO劇場で1ヶ月公演をやるそうだが、「3日やるだけでも苦しいのに1ヶ月。京都で言う話ではないかも知れませんが、1ヶ月もやるんだから観に来ない理由はありませんわな」と締めていた。

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2024年4月22日 (月)

第七十四回京おどり in 春秋座 「時旅京膝栗毛」全九景

2024年4月14日 京都芸術劇場春秋座にて

京都芸術劇場春秋座で、第七十四回京おどり in 春秋座を観る。午後4時30分開演だが、お茶菓子付きの券なので、早めに行って、京都芸術大学のギャルリ・オーブという展示スペースを使ったお茶席で、抹茶と和菓子を味わう。菓子皿は持って帰ることになる。
点茶出番はローテーション制で、今日は、とし七菜さんと叶朋さんというパンフレットにも写真が載っている二人が出演した。

京おどりは宮川町の春のをどりであるが、宮川町歌舞練場が現在、建て替え工事中であるため使用出来ず、一昨年の河原町広小路の京都府立文化芸術会館での公演を経て、昨年と今年は都をどりが行われたこともある京都芸術劇場春秋座が会場に選ばれた。来年は公演休止で、再来年に新しい宮川町歌舞練場に戻って京おどりを行う予定である。

今年の京おどりは、「時旅京膝栗毛(ときのたびみやこひざくりげ)」全九景というタイトルで、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次喜多が、22世紀の夫婦、夫のヤジと妻のキタという設定になり、22世紀には普及している携帯式のタイムマシーンを使って江戸時代を訪れ、お伊勢参りをするが、タイムマシーンが壊れて様々な時代へと勝手にワープすることになるという設定である。それだけで十分怪しいが、果たして出来は良くなかった。

作・演出:北林佐和子、作曲:四世・今藤長十郎、作調:田中傳次郎、笛作調:藤舎名生、作舞:若柳吉蔵、指導:若柳由美次。
出演者は、三つの組によるローテーション制で、今日は三組が出演する。第一部に出演者の重複は少ないが、第二部は出演者が重なっている場合も多く、「月に舞う」の立方は三組とも、ふく葉一人が務める。

二部構成で、第一部第一景が「元禄の藤」、第二景が「平安の雪」、第三景が「応仁の乱」、第四景が「風流踊」、第二部の第五景が「水に色めく」、第六景が「風を商う」、第七景が「月に舞う」、第八景が「花暦」、第九景フィナーレが「宮川音頭」となっている。

まず幕にアニメーションが投影される。セリフはRPG風に枠に囲われたものが映る。「奥様は魔女」を真似たナレーション風の字幕も出てくる。京都芸術大学の学生が作成したものなのだが、それ以降の舞踊の雰囲気と全く合っておらず、完全に浮いてしまっている。そもそもアニメーションと伝統芸能を合わせるのには無理がある。都をどりでも当時の京都造形芸術大学はアニメーションを使って不評だったが、今回も同じ間違いが繰り返される。

「元禄の藤」は、「藤娘」と同様、藤の枝を小道具として行われる舞である。ヤジ役とキタ役の二人が登場して、藤娘達と絡んでいく。
「平安の雪」は、小野小町と深草少将の百夜通いの話で、深草少将はヤジとキタに小野小町との仲立ちを頼む。そこで二人の仲を叶えてしまったことから歴史が変わってしまい、何故か応仁の乱が始まってしまう。「応仁の乱」では芸妓達が閉じた扇を太刀に見立てて斬り合いの舞を演じる。迫力十分である。ちなみに歌詞に「先の戦」という言葉が出てくるが、本気で用いているのかどうかは分からない。
続く「風流踊」では、鳥居の前で舞が行われるのだが、京都芸術大学作成のねぶたがタイムマシーンとして登場。しかしこれが余りにチャチで見栄えが悪い。これでOKを出したら駄目だと思う。
その後に幕が下りて、またアニメーションが投影されるのだが、2024年の宮川町の町並みを歩くヤジとキタが映るだけで、単なる今の宮川町の描写に留まる。
「時旅京膝栗毛」はここで終わりとなるようである。音源はスピーカーから聞こえているようで、あるいは録音だったのかも知れない。プログラムに地方の記載もない。

第二部の「水に色めく」「風を商う」「月に舞う」は芸妓による正統的な舞で、こうしたものだけで十分のはずである。地方も舞台上手に現れる。「風に商う」は扇売りや投扇興の場面、屋島の戦いでの那須与一(扇を拡げて弓に見立てる)や五条大橋西詰の平敦盛ゆかりの扇塚なども登場する花街の演目らしい楽しさがある。
舞妓達による「花暦」。宮川町は祇園甲部などに比べて格下と見られていたが、芸妓ではなく、見習いとしか見られていなかった舞妓を前面に出すことで人気を上げ、メディアとも積極的にコラボレーションを行ってきた。舞妓シアターなるものまで存在したほどである。
舞妓を前面に出す手法は現在も続いているようで、春秋座のある京都芸術大学のエントランスホールの一角にほぼ等身大の舞妓達が写ったパネルがあり、一人ひとりへのインタビュー記事や自作のエッセイが書かれたしおりが置かれていて、自由に持ち帰ることが出来るようになっている。
舞妓に力を入れているだけあって、「花暦」の舞も可憐。センター(でいいのかな?)の女の子は広末涼子系の顔立ちの、誰が見ても「可愛い」と思える子で、やはり容姿も重要視されているようである。

第九景フィナーレの「宮川音頭」(作曲:三世・今藤長十郎)は、京おどりの名物で、出演者総出で行われる舞と調べは華やかさと儚さが同居しており、煌びやかにして切ないという京の町や花街の一面を色濃く描いている。

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2023年2月26日 (日)

観劇感想精選(455) 渡邊守章記念 春秋座「能と狂言」2023 「花盗人」&「隅田川」

2023年2月4日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、渡邊守章記念 春秋座「能と狂言」を観る。

まず観世流シテ方の片山九郎右衛門と舞台芸術センター特別教授である天野文雄によるプレトークがあり、狂言「花盗人」と能「隅田川」が上演される。

片山九郎右衛門と天野文雄によるプレトークであるが、「隅田川」の内容解説などが中心となる。「隅田川」には子方といって子役が登場するのだが、片山九郎右衛門も子どもの頃に「隅田川」の子方を何度も務めているという。ずっと塚を表す室の中に隠れているのだが、ずっと正座しているそうで、それだけでも大変さが伝わってくる。
「隅田川」は救いのない悲劇として知られているが、子方の「南無阿弥陀仏」の称名が救いなのかどうか、また「隅田川」の作者である観世元雅と父親の世阿弥との間で行われたという『申楽談儀』の「子方論争」というものがあり、世阿弥が子方を出すべきではないと主張して、元雅はそれに反対したという経緯があるのだが、今では子方は基本的に出すことになっている。片山九郎右衛門が出演した「隅田川」でも観世銕之丞が出演した「隅田川」でも子方は必ず出ていたそうだ。ただそうではない演出も実は今でもあるそうである。


狂言「花盗人」。桜の花を盗みに来た男(野村万作)が、何某(野村萬斎)に捕らえられるが、歌道の妙技で危機を切り抜けたばかりか、桜の枝まで贈られるという展開で、芸能の妙技が称えられている。野村万作の動きのキレはやはり90代の高齢であることを感じさせない。


能「隅田川」。一昨年に横須賀でも観ている演目である。
子方梅若丸:安藤継之助、シテ狂女:観世銕之丞、ワキ渡守:森常好、ワキヅレ商人:舘田善博。
京都芸術劇場のある北白川に住む女が、息子の梅若丸をさらわれ、東国に連れて行かれたという噂を聞いて、武蔵国と下総国の国境である隅田川まで狂女となって落ちていく。
狂人に「狂え」と人が命令する能の演目はいくつかあるそうだが、それらはいずれも芸能者に「芸を披露しろ」と命ずるものだそうで、芸能者でないものに命令するのは珍しいそうである。

片山九郎右衛門は、梅若丸の姿が母親である狂女以外にも見えるという解釈を支持しているそうだが、確かに視覚全盛の現代の上演ということを考えれば、そうした解釈の方が似つかわしいように感じられる。

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2022年11月29日 (火)

立川志の輔独演会@春秋座2022 「ハナコ」&「帯久」

2022年11月7日 京都芸術劇場春秋座にて

午後6時から、京都芸術劇場春秋座で、立川志の輔独演会を聴く。

まず前座として志の輔の七番弟子である志の麿による「桃太郎」が語られる。昔の子どもと今の子どもでは様々なことに対する態度が違い、昔の子どもは寝る前の絵本の読み聞かせをちゃんと聞いて寝たが、今の子どもは色々文句を言うという。
読まれる絵本は「桃太郎」。今の子どもは、民俗学的立場から桃太郎の話を解釈してみせるという話である。

志の輔の落語は2曲あるが、まず新作落語の「ハナコ」が語られる。ハナコというのは牛の名前である。
志の輔は、「ようこそいらっしゃいました。こっちの方が遠くから来ているんですが」と語った後で、東京では、コロナの第八波が来るのでは囁かれているが、日本人はもうコロナに対する予めの準備が出来ているというところから、「予め」に関する話となり、「私の落語は創作落語で、他にやる人がいないんです。こうした800人入る劇場で全員が面白いと思うかどうかは分からないということを予め申し上げておきます」と述べてから本編に入る。
温泉宿の話。3人の男性客がやってきて、それを女将が出迎えるのだが、「今日はマエダスミコが休みでございます」と謎の女性の名前を挙げる。マエダスミコというのはこの宿の仲居らしい。何かあって遅れても、「ああマエダスミコが休みだからか」思って貰えるよう、予め話しておいたのだという。
客の一人が床の間に掛かっている絵を「雪舟の絵だ」と言う。実は、「なんでも鑑定団」の収録があった時に、旅館からはこの雪舟の絵を出品したのだが、「3000円」だったそうで、真っ赤な偽物である。ただ絵になにかあっても心配無用と言うことで、予め偽物だと明かしておいたのである。
泊まり客が露天風呂に行くというので、仲居のキョウコが案内するのだが、外に出て源泉を見に行くも、露天風呂時代は泊まり客の部屋の隣にあって、かなりの遠回りをしてしまったことが明らかになる。
さて、泊まり客の一人が、露天風呂から庭を見ていると、竹藪をかき分けて女将がスコップ(実は関東と関西では「スコップ」という言葉から連想するものが異なる。関東では大きめのものが「スコップ」で小さいものが「シャベル」なのだが、関西では真逆である)を持って出てくる。女将が何をしているのかについて、泊まり客達の予想は割れる。
温泉から出た後は、黒毛和牛の食べ放題なのであるが、黒毛の牛であるハナコが引っ張ってこられる。本当に黒毛和牛なのか疑う人がいるので、まず捌く前のものを予め見せるというのだが、泊まり客達から「もう食べられないよ」と不興を買う。
さて、なぜ女将がスコップを持って歩いていたのか、についてだが、ここでは明かさないでおく。


第2部では、「帯久」が語られる。本町というところの二丁目に呉服屋を構える和泉屋与兵衛と四丁目で帯屋を営む帯屋久七の話である。帯屋は商売が上手くいっておらず、「売れず屋」などと陰口を叩かれている。

帯屋久七が和泉屋与兵衛のところへ何度も借金に来る。借りては1ヶ月経たないうちに返すのだが、段々借りる額が増えていき、11月の頭に百両借りてからは1ヶ月以上立っても返しに来なかった。大晦日の日に帯屋は百両を返しに来たのだが、与兵衛は外に出る用事があり、帯屋は返すはずの百両と共に残された。この時、帯屋に魔が差し、百両を返さずに懐に入れて和泉屋を後にする。正月になると帯屋はバーゲンセールを開始、「あこぎ」と呼ばれる商法で売り上げを伸ばす。

和泉屋与兵衛はその後、災難続き、娘が病死し、妻も病死し、しかももらい火で和泉屋が全焼する。与兵衛は、ショックで病に倒れ、番頭の武兵衛の看病を受けるのだった。そうして10年が過ぎ、与兵衛は帯屋に借金を申し出るのだが、あえなく追い出される。帯屋の裏庭で煙草を吸った与兵衛は、火玉をかんなくずの中に投げ入れる。悪気があったわけではないが、火付けということで南奉行所に訴えられ、というところから大岡政談が始まる。志の輔は、「大岡越前」のテーマ曲を口ずさむ。

五十両を年賦一両ずつで五十年掛けて返すという下りからは、幕末の薩摩藩家老である調所広郷のアイデアが連想されるが、おそらく関係はないのであろう。

志の輔の語りは今日も絶妙。観る者を引きつける強力な引力を発しているようでもある。

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2022年8月 7日 (日)

観劇感想精選(441) マームとジプシー 「COCOON」(再々演)@京都芸術劇場春秋座

2022年7月31日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後1時から、京都芸術劇場春秋座でマームとジプシーの公演「COCOON」を観る。今日マチ子が沖縄戦を題材に描いたマンガを藤田貴大の作・演出で舞台した作品。今回が再々演(三演)であるが、演出をかなり変えたようである。

出演:青柳いずみ、菊池明明、小泉まき、大田優希、荻原綾、小石川桃子、佐藤桃子、猿渡遙、須藤日奈子、高田靜流、中嶋有紀乃、仲宗根葵、中村夏子、成田亞佑美、石井亮介、内田健司、尾野島愼太朗。映像:召田実子。文献調査:橋本倫史、青柳いずみ。音楽:原田郁子。

今日マチ子の原作は、サンとマユ(マユは実は兵役逃れのために女装した男である)の二人が主人公の話であるが、舞台版の「COCOON」は他の登場人物にも光を当てた群像劇に近い形になっている(原作で役名のない登場人物は、出演者の名前をそのまま振っている)。同じシーンを何度も繰り返すリフレインの手法を特徴とする藤田貴大の演出であるが、他のキャストの情報を分厚くすることは、その手法を生かす上でも効果的であり、なによりあからさまな「脇役」を減らすのにも役立っている。

ただ、群像劇にするための学園の場面を増やしたことは諸刃の剣であって、登場人物が魅力的に見えやすくなるのと同時に、全体のバランスを欠きやすい。原作と違って、平和時の部分がかなり長くなっていたが、「ちょっと長すぎる」と感じたのも事実である。平時の華やかな女学生生活と戦時の悲惨さがより鮮やかに対比されるようになってはいたが、色々と詰め込みすぎで、そこまで長くする必要はなかったように感じられてしまうのである。結果として上演時間2時間半越えという大作になっていた。

女学生を演じるキャスト陣が魅力的ということもあって、見終わっての感想はなかなかの好印象であったが、演出が余りにも演劇的なのには疑問符が浮かぶ。「演劇のための演劇」をしてしまっているのである。フレームを用いる演出は、マンガのコマを象徴するようでもあり、そうした見方をすればある程度の必然性は感じられるのだが、馬跳びや縄跳びなども加えた展開は余りにも煩瑣であり、ガマ(洞窟、自然の防空壕)での女学生の「いっせいの、せ!」というセリフのリフレインも句読点的に用いすぎたがために途中で、「長台詞を不自然に感じさせないための手法」としか聞こえなくなる。技法が技法として手法が手法として見えるのは「余りに演劇的」であり、「演劇でしかない演劇」を見せられているようで、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということわざが浮かぶ。

舞台上を所狭しと走り続ける出演者達の体力は見事で、やはり煩瑣ではあるのだが戦時の混乱と戦きを上手く表していたように思う。役者が若いからこそ出来る表現で、アングラの正統を受け継いでいるようでもある。もし冒頭の学園の部分を落ち着いた表現にして少し短めにしていれば、より切実さは増したと思われるが、若い人のエネルギーをダイレクトに受け取れる公演はそれだけで良いものだとも思える。この作品のリフレインは夢のような儚さと懐かしさを浮かび上がらせる点でかなり効果的で、原作よりも舞台版の方を好む人も多いだろう。

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