カテゴリー「京都芸術劇場春秋座」の29件の記事

2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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2020年8月 9日 (日)

コンサートの記(646) 春秋座室内楽公演「デュオの妙」2005 鈴木大介(ギター)&亀井良信(クラリネット)

2005年10月1日 京都芸術劇場春秋座にて

京都芸術劇場春秋座で、室内楽公演「デュオの妙」を聴く。ギタリスト・鈴木大介と、クラリネット奏者・亀井良信のデュオ。

ギターとクラリネットのための曲というのは、ほぼ皆無に等しいので他の楽器のために書かれた曲の編曲が中心である。
J・S・バッハの「インヴェンションとシンフォニア」のデュオや、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」の編曲など、曲目も面白い。
特にクラリネットは超絶技巧の連続なのがわかる。指使いが尋常ではない。

「アルペジオーネ・ソナタ」はチェロやヴィオラ、ピアノの伴奏で演奏されることが多いが、クラリネットで演奏すると音色が明るいこともあって、夢見るような心地良さを感じることが出来る。

そういえば、最近、シューベルトの音楽に急速に惹かれるようになっている。前から良く聴いてはいたが、自然とシューベルト作品のCDに手が伸びるようになったのは最近だ。シューベルトは31歳で早逝した。私も今年で31歳(2005年当時)。同年齢に達しようとしているが故に惹かれるのかどうか、それはわからないけれども、シューベルトの心境が何の理屈もなくわかるようになって来ている。

後半はアメリカの現代作曲家、エリオット・カーターのクラリネットソロ作品でスタート。クラリネットから硬質な響きや、サキソフォンのような音が出たりする。クラリネットの性能を追求した曲だ。興味深い。もう一度聴きたいとは思わないけれど。

次いで、プーランクの「ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ」を、クラリネットとギターで演奏するなど、無茶なことをしたりする。でもちゃんと聴かせてしまうのだから大したものだ。

アンコール演奏は2曲。ショーロというブラジルの大衆音楽からの1曲と、二人の共通の友人であるフルーティスト・荒川洋の作曲した、いずれもクラリネットとギターのための曲を演奏する。オリジナルだけに無理がない。いい音楽だ。

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2019年10月 1日 (火)

コンサートの記(596) 春秋座オペラ10周年記念ガラコンサート

2019年9月21日 京都芸術劇場春秋座にて

午後4時30分から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座オペラ10周年記念ガラコンサートを聴く。文字通り春秋座で毎年オペラが上演されるようになってから10年が経つのを記念してのガラコンサートである。午後1時開演と午後4時30分開演の2回公演で、出演者が多少異なるほか、曲目を担う歌手にも変動がある。

 

春秋座での公演はミラマーレ・オペラによる上演であることが多く、オーケストラもミラマーレ・オペラによる小編成の団体が手掛けていたが、今回は常設の京都フィルハーモニー室内合奏団が担う。指揮は奥村哲也。ステージ上での演奏である。
実は、春秋座でオーケストラが演奏を行ったことが一度だけある。2002年の初夏のことで、ルーマニアのトランシルヴァニア交響楽団(ドラキュラで有名な地方の団体)の来日公演であった。私もそれを聴いているのだが、中編成のオケではあったが、そもそもオーケストラが演奏することを想定して作られていないため、「新世界」交響曲ではずっと壁がビリビリ鳴っているという状態で、以後、春秋座ではオーケストラによる演奏は行われていない。京フィルは今年も春秋座で壮一帆とのジョイントコンサートを行ったりしているが、今日も第1ヴァイオリン4のサイズなので音響面で問題はない。足りない音は殿護弘美のピアノが補う。

一方、歌唱の響きに関しては理想的である。そもそも春秋座は三代目市川猿之助(現在の二代目市川猿翁)による上演を想定して作られているのだが、猿之助は歌舞伎は勿論、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「影のない女」やリムスキー=コルサコフの歌劇「金鶏」の演出を手掛けたこともあり、グランド形式ではないもののオペラの上演は最初から念頭に入れられていたといわれている。そのため声の通りも良いのだ。ただその分、誤魔化しは利かず、ちょっと上手くいかないと客席にすぐ伝わってしまう。

 

開演前にプロデューサーの橘市郎氏に挨拶したのだが、「入りが良くない」とのことだった。2階席にも人はいるようだったが、休憩時間に確認したところ極々まばら。1階席も前の方や中央列は埋まっているのだけれどという状況である。日本の場合はオペラが日常に根付いていないし、名士が聴きに来たり、ビジネスマンが幕間に商談を行うという習慣もない。西洋だとオペラが共通の教養になっていたりするのだが、ここは西洋でもない。ということで、基本的にはオペラが好きな人だけが来るのだが、当然ながらオペラが好きな日本人というのは圧倒的少数派である。ブランド志向なので海外の名門オペラ劇場の引っ越し公演があったりするとチケットが馬鹿高くても客は入るのだが、ブランドが目当てで音楽やオペラが好きなわけではないので、地元で何かあっても来ない。東京は毎年行われるオペラの森が盛況で、状況は変わりつつあるのかも知れないが、地方にはまだ波及していないのだと思われる。びわ湖ホールなどは子どものためのオペラ作品を上演しており、両親も含めたオペラファン発掘に努力している。

 

曲目は、ビゼーの「カルメン」より前奏曲、ヴェルディの「椿姫」より“ああ、そはかの人か~花から花へ”(西田真由子)、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」より“今の歌声は”(高嶋優羽)、“俺は町の何でも屋”(奥村哲)、プッチーニの「ラ・ボエーム」より“冷たき手を”(笛田博昭)、“私の名はミミ”(稲森慈恵)、“幸せだったあの場所に戻ります”(江口二美)、“もう本当に終わってしまったの”(江口二美、山本欣也、三輪千賀、鶴川勝也)、モーツァルトの「魔笛」より“燃え立つ復讐の炎”(川越塔子)、“ああ消え去った恋の幸せ”(高嶋優羽)、“パパパ”(西田真由子&奥村哲)、プッチーニの「蝶々夫人」より“ある晴れた日に”(川越塔子)、“さらば愛の家よ”(笛田博昭)、ビゼーの「カルメン」より“恋は野の鳥(ハバネラ)”(並河寿美)、“闘牛士の歌”(片桐直樹)、“うまい話があるぞ”(岡村彬子、三輪千賀、西田真由子、山本欣也、奥村哲)、“花の歌”(井藤航太)、ヴィルディの「椿姫」より“乾杯の歌”(全員)。進行はミラマーレ・オペラ代表理事の松山郁雄が務める。

 

歌手がオーケストラの前に出て歌うスタイルであるため、歌とオーケストラの間にズレが生じることも多いのだが、これはいわゆるオペラ上演と異なるので仕方のないところである。
日本語のセリフを入れての上演だったが、ちゃんと言えている人がほとんどいないというのが問題点である。音大でも演技の指導はちゃんと行っているはずなのだが、二の次にされているのかも知れない。ドイツには演劇音楽大学が多く、オペラを学ぶのに理想的な環境だと思われるのだが(実際にどうなのかは知らない)、日本の場合は、音楽と演劇の両方があるのは日藝と大阪芸術大学だけだろうか。両方ともクラシック音楽には強くない。

 

歌手はやはり関西出身者や関西で学んだ人が多いが、それ以外の人を紹介する。
春秋座オペラの常連である川越塔子は「東大卒のオペラ歌手」して知られているが、井藤航太も東大卒である(出身は大阪府)。東大を出てオペラ歌手になるのが流行っているのだろうか? オペラでなくても東大卒で音楽方面に行く人には文学部出身者が多いと思われるのだが(加藤登紀子や小沢健二など)、川越は法学部卒(同期に豊田真由子や山尾志桜里がいるという凄い学年)、井藤は医学部卒(医学科ではなく健康総合科学科というところ)である。
江口二美(えぐち・つぐみ)は、愛知県立芸術大学と同大学院修了。
岡村彬子は、熊本県出身で国立音楽大学卒、東京学芸大修士課程修了。
笛田博昭は、名古屋芸術大学と同大学院修了である。
鶴川勝也は、国立音楽大学卒で、現在も東京在住であるが、春秋座オペラのオーディションには毎回参加して役を勝ち取っていたそうである。

 

岡村彬子は、“うまい話があるぞ”でカルメンを歌っていたが、見た目も声の質もカルメンによく合っている。
笛田博昭は朗々とした歌唱で、歌唱終了後の拍手も最も大きかった。
残念なのはお客さんの少なさで、これではステージと客席とに一体感が生まれない。京フィルもファンは多いのだが、今回はその効果を発揮出来なかったようである。

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2019年6月26日 (水)

コンサートの記(569) 春秋座「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」2014

2014年12月5日 京都芸術劇場春秋座にて

午後6時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」という公演を聴く。ミラノ大聖堂聖歌隊が来日してグレゴリオ聖歌を歌い(指揮:クラウディオ・リヴァ)、福岡の真言宗僧侶を中心に結成された真言宗青教連法親会が真言宗の声明を歌うという企画。前半が真言宗声明、後半がグレゴリオ聖歌の歌唱で、ラストに両者のコラボレートがある。

グレゴリオ聖歌というと、20年ほど前にブームがあり、ヒットチャートにグレゴリオ聖歌のCDが入るという異常事態が発生し、「グレゴリアン・チャント」という言葉が定着したりもしたのだが、ブームはあっという間に過ぎ去ってしまったため、今の大学生はおそらくグレゴリオ聖歌ブームを知らないと思われる。ということもあって、京都芸術劇場のある京都造形芸術大学の学生は、チケット料金が3分の2で聴けるにも関わらず、二十歳前後の人すら数えるほどという状況であった。聴きに来ているのはやはりグレゴリオ聖歌ブームを知っている世代であり、私と同世代以上である。入りは良く、1階席はほぼ埋まっていた。


まずは真言宗声明。密教であるため密具が台の上に置かれている。法螺貝を吹きながら僧侶達が登場。天台宗だったら僧兵を思い浮かべるところだが、同じ密教でも今回は真言宗である。読経の中に「弘法大師」という言葉も登場する。

インドの古典語である梵語による「庭讃(にわのさん)」に始まり、「散華」、「唱礼」、「光明真言行動(こうみょうしんごんぎょうどう)」、「称名礼」と続く。厳粛な空気が漂い。自然とありがたい気持ちになる。 グレゴリオ聖歌であるが、普段は残響がコンサート専門ホールのもの(約1・5秒から2秒)の倍ほどあるカテドラル(大聖堂)で歌われるのが普通であり、カテドラルで歌われた場合は声が天井から降ってくるようになって、CD録音でも豊かな残響が収められている場合が多いのだが、春秋座は残響ゼロである。残響ゼロでグレゴリオ聖歌を聴くと思ったよりも神聖な感じがしない。普通の合唱である。ヨーロッパに行くと、大聖堂が至るところにあるが、やはり教会音楽の神々しさを高める上では長い残響が不可欠であるため、音に配慮した結果、聖堂が巨大化した可能性もある。 ということで、聴き終えた後の感銘は自分でも意外であるが真言宗声明の方が上であった。グレゴリオ聖歌を存分に味わいたいなら少なくとも音響設計のしっかりしたところで聴かないと駄目なようだ。 グレゴリオ聖歌といっても膨大な量があるが、今日歌われたのは賛課(朝の祈り)の賛歌「永遠の創造主よ」、「待降節第4のマニフィカト・アンティフォナ「あなたは幸いなかたマリア」とマニフィカト、待降節第4の主日の応唱「天使ガブリエルの口によって」、ミサのグロリア「天のいと高きところには神に栄光」、主の御降誕のミサからアレルヤ唱「幼子が私たちのために生まれた」、主の御降誕のミサ奉納唱「見よ、神殿は開かれ」、主の御降誕のトランジトリウム(拝領唱)「喜び、歓喜しよう」、公現節の晩課(夕の祈り)の賛歌「いと高きものよ、輝かせ」、公現節の晩課(夕の祈り)のアンティフォナ「すべての父祖らは」、公現節後4主日のトランジトリウム(拝領唱)「あなたを賛美します」以上であった。グレゴリオ聖歌というと、ベルリオーズやラフマニノフが引用したことで知られる「怒りの日」が最も有名であるが、今日のプログラムのそぐわないためか、歌われることはなかった。 真言宗声明とグレゴリオ聖歌によるコラボレーション。まず真言宗声明が「露地偈(ろじのげ)」とグレゴリオ聖歌がアンティフォナ(交唱)「異邦の者が我に逆らいて立ち」詩編54編「主よ、御名によって」が同時に歌われる。勿論、一緒に歌った噛み合う楽曲選んでいるのだから歌唱に問題はない。聞き比べると真言宗の僧侶達は野太い声で歌い、ミラノ大聖堂聖歌隊の隊員の声は僧侶達に比べるとずっとマイルドである。 続いて真言声明「理趣経善哉譜(るりしゅきょうせんざいふ)」とグレゴリオ聖歌「第4のキリエ」。 日本の僧侶達が何を歌っているかわからないのに、ミラノ大聖堂聖歌隊は「キリエ・エリソン(主よ、哀れみ給え)」を繰り返しているため、ラテン語の方は意味がわかるという不思議な世界になった。 アンコールでは、まず、真言宗青教連法親会が歌う。コンサートホールだと、終演後にアンコール曲目がホワイトボードに書かれたり張り出されてたりするのだが、春秋座でコンサートが行われることは滅多にないため、そうしたサービスは行われず、曲名はわからなかった。 続いて、ミラノ大聖堂聖歌隊による「きよしこの夜」。これは誰が聴いても曲名はわかる。 ラストは両団体による斉唱「いろは歌」。「けふ」は慣例通り「きょう」と読まれる。「あさきゆめみし」は、「あさきゆめみじ」という否定形が採用されていた。私自身は濁音でない肯定系の方が好きなのだが。

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2019年4月30日 (火)

観劇感想精選(298)「伝統芸能の今」2014

2014年5月11日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時30分から京都芸術劇場春秋座で、「伝統芸能の今」2014を観る。「ゴールドリボン+世界の子どもにワクチンを」チャリティー企画である。今回は三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)に続き、春秋座の二代目芸術監督に就任した四代目市川猿之助によるプログラムである。出演は、市川猿之助の他に、上妻宏光(三味線プレイヤー)、茂山逸平(能楽師狂言方)、亀井広忠(能楽師囃子方)、田中傳次郎(歌舞伎囃子方)ら。

開演前に出演者がホワイエで、パンフレットを売ったり募金を募ったりしている。

まず、上妻宏光による津軽三味線独奏で、「津軽じょんがら節」、上妻の作曲による「紙の舞」(スパニッシュギターからの影響が感じられる曲である)。上妻の津軽三味線であるが、クラシックギター奏者でさえも凌ぐほど左手の動きが大きく、速い。人間の指の動きとは思えないほどに迅速である。
続いて、茂山逸平の舞と上妻宏光、亀井広忠、田中傳次郎によるコラボ奉納舞「三番三(さんばそう)」。茂山逸平の動きは極めてスムースであり、メリハリもくっきりしている。

次は、市川猿之助と上妻宏光、田中傳次郎による舞「空破(くうは)」。猿之助のしなやかな舞を堪能できた。

前半最後は、猿之助が二代目市川亀治郎時代に武田信玄役で出演した大河ドラマ「風林火山」にインスパイアされて、猿之助自身が振付を行った創作舞踊「風林火山」。上妻宏光の津軽三味線生演奏と、オーケストラ演奏の録音による大河ドラマ「風林火山」メインテーマ(作曲は、京都芸術劇場春秋座を持つ京都造形芸術大学の先代の学長だった千住博の実弟・千住明である)に乗せて猿之助が舞う。甲斐武田氏というと騎馬武者軍団が有名であり、荒事を取り入れた勇壮な踊りになるかと予想したが、実際はそれとは正反対のたおやかな舞いであった。

10分の休憩を挟んで、メインの4人によるトーク。福山雅治から贈られた襲名披露記念幕をバックに、会話が行われる。春秋座では、四代目猿之助の芸術監督襲名に当たり、イメージキャラクターを作ろうと企画が立ち上がり、瓜生山学園(京都造形芸術大学+京都芸術デザイン専門学校)の学生が描いたキャラクターの中から事前に11点が選ばれ、観客に投票用紙が配られて、良いと思ったキャラクターに投票して貰い、得票数の多かったキャラクター3つの中から猿之助自身が採用するものを決める。キャラクターというと可愛らしい画が採用されやすいので、造形大のマンガコースの学生が描いたものが多い。

トップ3は、エントリーナンバー1の源九郎狐をキャラクターにしたもの、エントリーナンバー5の鼓に猿の顔を描いたもの、エントリーナンバー10の猿之助が舞う姿をマンガタッチで描いたもの(マンガコースの学生の作品である)であった。
ドラムロール後に猿之助から発表が行われるのであるが、ドラムロールが太鼓によるもので、猿之助は「これじゃお化けだよ」と言う。
選ばれたのは情報デザインコースの女学生二人組の作成によるエントリーナンバー1の源九郎狐をモチーフにしたものであった。人間らしさが一番希薄なキャラクターではあるが、猿之助は「京都には伏見稲荷もあり、これが一番京都らしい」と選定理由を述べた(実際は、京都人の意識としては伏見稲荷はあくまで伏見のもので京都とは別というものも根強いようである)。

邦楽というものは、ミニマルミュージックに近いものがあり、同じ音型が何回も繰り返されるため、演奏する側も舞う側も「どこで終わるんだろう」と勘定を付けるのが難しいという。茂山逸平は笛の音型でどこまで進んだかを把握しているそうだ。上妻宏光は劇伴の経験は少ないが、「三番三」のラスト近くで狂言方が飛び上がる場面があるので、そこから推測しているようである。
ちなみに、チャリティーのために集まった募金額は、初日である昨日が48万円台、今日の第1回目の公演が47万円ちょっとであるが、今日2回目の公演となる今回は26万円程度しか集まっておらず、田中傳次郎は、「あと20万円ぐらい集まらないと、この後、猿之助さん出てきません」と言う(昨日と今日の1回目の公演は、休憩時間と終演後に行われた募金も多いだろうから、この回だけ吝嗇家が集まったというわけではないと思われる)。

後半、歌舞伎と狂言による「石橋(しゃっきょう)」。「石橋」は狂言と歌舞伎の両方であるが、内容は少し違う。今回は前半が茂山逸平による仙人を主人公にした狂言、後半が猿之助による浄土の獅子の舞となる。前半と後半に関連性が余りないが、ストーリーで魅せる作品ではないので特に気にはならない。
天竺から来た仙人(茂山逸平)が、唐の清涼山にある文殊菩薩の浄土の入り口に辿り着く。現世と清涼山の間にあるのが、自然が作り上げた石橋(しゃっきょう)だ。幅は一尺(約30cm)ほどしかなく、橋の上は苔むしていて鳥でさえ滑って留まることは出来ないという。仙人は石橋に挑もうとするが結局諦める。
その後、清涼山に住む獅子(市川猿之助)が現れ、蝶二匹(猿之助の弟子が務める)を従えながら舞う。春秋座は歌舞伎用の劇場なのでセリがあり、今回の「伝統芸能の今」2014ツアーの中で唯一、春秋座でだけ猿之助はセリを使って現れる。「石橋」は「連獅子」のモチーフになった作品だけに、猿之助は首を何度もグルグルと回して観客からの喝采を浴びた(猿之助自身が以前、テレビ番組で話していたことだが、「連獅子」をやると目が回ってしまい、終演後に嘔吐してしまうことも珍しくないという)。

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2019年2月 3日 (日)

観劇感想精選(290) 「春秋座 能と狂言」2019

2019年1月27日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、「春秋座 能と狂言」を観る。今年で10年目を迎える、春秋座お馴染みの企画。

今年の演目は、狂言が「二人袴」、能が「自然居士(じねんこじ)」である。


上演の前に、片山九郎右衛門(観世流シテ方)、渡邊守章(演出家、東京大学名誉教授)、天野文雄(能楽研究、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター所長)によるプレトークがある。
能「自然居士」の解説が主になる。自然居士は鎌倉時代に実在した禅僧で、南禅寺開山の大明国師の弟子に当たる。あえて破戒ともいえる芸能者まがいの言動を取る僧侶だったそうだ。演じるに当たっては、喝食(かつじき)の面という前髪の垂れた美少年の面が用いられるのだが、これは非僧非俗をも表しているそうだ。

能「自然居士」は、観阿弥の作。観阿弥の作品を「春秋座 能と狂言」で取り上げるのは初になるそうだ。「自然居士」は、足利義満の前に観阿弥によって演じられ、義満からの絶賛を受けたと伝わっている。
片山九郎右衛門は、父親からと観世静夫の二人から「自然居士」を教わっているのだが、それぞれが異なった自然居士像を持っていたために戸惑っていたという話をし、演じられる自然居士の年齢を16、7歳ではないかと述べる。若い僧侶の話なのである。
片山は、自然居士を室町時代の人だと思い込んでいたそうだが、実際は鎌倉時代の人物。ということで、破戒僧として知られた一休宗純の先輩格に当たる人だということを天野文雄が述べていた。

狂言の「二人袴」は、三段之舞としての上演。通常の狂言では鳴り物は入らないのだが、三段之舞と書かれている場合は、能楽が入る。ただ、三段之舞とした場合は、普通は上演時間が長くなるのだが、渡邊守章によると野村萬斎が工夫を行ったそうで、通常の狂言と同じぐらいの上演時間にまとめられているという。

ちなみに、野村万作は、今回は狂言ではなく能「自然居士」のアイとしての参加。渡邊守章によると、野村万作が能のアイをやるのは久しぶりなので、かなり張り切っていたそうである。


狂言「二人袴」三段之舞。出演:野村萬斎(シテ)、石田幸雄(アド)、高野和憲(小アド)、中村修一(小アド)。太鼓:亀井広忠、太鼓:前川光範、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。

聟(中村修一)が、舅(石田幸雄)に挨拶に行くのだが、心細いので父親(野村萬斎)についてきて貰うという話である。この聟というのが世間知らずで、袴を履いたことがない。そこで、父親に袴を着けて貰うのだが、紐を胸の前で結ぼうとするなどとんちんかんである。そして履いたら履いたで上手く歩けない。結局、舅の家の前まで親についてきて貰った聟。そのため、親も舅に呼ばれるのだが、袴が一つしかないため、履き替えていく。そして遂には二人いっぺんに呼ばれたため、袴を二つに引き裂き、前掛けのようにして挨拶するという笑い話である。

見慣れた俳優だからということもあるのかも知れないが、野村萬斎は他の俳優に比べて才気というか、エネルギー量というか、とにかく違うものを発していることが感じられる。その正体はよくわからないのだが、彼が特別な存在だということだけはよくわかる。今の狂言界は野村萬斎なしには語れない。

「二人袴」に関しては、とにかく笑える作品なのだが、ラストは特にオチらしいオチはなく、普通に終わってしまう曲というところが惜しい。


能「自然居士」。出演は、観世銕之丞(シテ)、宝生欣哉(ワキ)、則久英志(ワキヅレ)、梅田晃煕(子方)、野村万作(アイ)。太鼓:亀井広忠、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。地謡:観世淳夫、鵜澤光、分林道治、片山伸吾、味方玄、古橋正邦、片山九郎右衛門、河村博重。

東山雲居寺で説法をしている自然居士(観世銕之丞)の下に、少女(梅田晃煕)がやってくる。雲居寺門前の者(野村万作)が少女を見かけ、自然居士に少女から預かった文を渡す。少女は両親を弔うため、身を人商人に売り、布施を渡しに来たのだった。そこへ人商人(宝生欣哉)とその仲間(則久英志)がやって来て、少女を見つけて連れ去ってしまう。そこで自然居士は、説法を中断し、少女を連れ戻しに向かう。

自然居士は、少女を救うために様々な舞を行うのだが、仏法や仏道と能楽が重ね合わされており、大和国の地方芸能でしかなかった自身の能楽を義満が崇める禅に伍するまでに高めたいと願う観阿弥の心意気に感心させられる。

無料パンフレットには、「自然居士」の詞章の現代語訳が載っているのだが、今日は視覚中心に観たかったため、それに目を配ることはなし。セリフを聞き取るのは難しかったが、人商人と対峙する自然居士役の観世銕之丞が醸し出す静かな迫力を味わうことが出来た。



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2018年12月28日 (金)

観劇感想精選(283) 「なにわバタフライN・V」

2010年3月13日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後4時から、京都芸術劇場春秋座で「なにわバタフライN・V」を観る。三谷幸喜:作・演出の戸田恵子による一人芝居。2004年の初演以来6年ぶりの再演である。N・VはNEW VERSIONの略であり、その通り、観た印象はずいぶんと異なる、といっても初演を観たときの私の記憶はすっかり飛んでしまっていたのだが。

会場に入ると、舞台上に巨大な風呂敷包みがある。初演時のセットは楽屋風のものだったが、今回のニューバージョンではセットらしいセットはなく、背後に幕が下りるだけのものになっていた。

上手袖から戸田恵子がひょっこりと顔を出して上演開始。まず戸田が客席に語りかけ、お客さんに手伝って貰いながら風呂敷を由佳に敷きつめる作業を行う(作業を手伝ったお客さんには握手とお菓子のプレゼントがあった)。

ミヤコ蝶々をモデルにした女芸人の一代記。女芸人が見えない記者に自分の人生を物語るというスタイルで一人芝居が進められていく。

女芸人の人生を彩る男達は折りたたみ式の額縁で表現され、戸田恵子は部分的に例外はあるものの、女芸人一人を演じていく。

照明と音響による場面転換もわかりやすく、三部形式の幕間には戸田が客席に語りかけるなど、親しみやすさが増しているように思えた。

ユーモラスでチャーミングな戸田の演技も素晴らしく、初演時にあったやらずもがなの演出も整理されていて、楽しくも説得力のある芝居になっていたように思う。

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2018年12月 6日 (木)

「破壊の子ら ―演出家・筒井潤とダンサー4人の野望」

2018年12月1日 京都芸術劇場春秋座にて

午後3時30分から、京都芸術劇場春秋座で、ダンス公演「破壊の子ら ―演出家・筒井潤とダンサー4人の野望}を観る。演出家の筒井潤が、演出と振付を行う公演。企画:山田せつ子。出演:倉田翠(akakilike)、野田まどか、福岡まな実、松尾恵美。

春秋座の舞台上に設けられた仮設席が上手と下手から空間を挟むように設置されている。両サイド(本来の客席側と舞台奥側)からカーテンが下りており、演じるスペースは細長(短冊形)になっている。開演30分前からロビー開場が行われ、客席入場は10分前から整理番号順に行われる。

午後3時30分になると、客席側にダンサー4人の舞台奥側に男性の影絵が現れる。男性がレバーを回すと回り舞台が回転を始め、女性ダンサー達の影が大きくなってから左右に分かれ始める。

ダンサーが1人ずつ回転舞台に運ばれるようにして登場し、ダンスが始まる。

「破壊の子ら」というタイトルに従って物語を読み取ることは前半に関しては出来る。女性しかわからない下ネタは、生殖行為に繋がり、女性に取っては人生で最も大切なことの一つなのだが、リアルに男と女とでは洒落にならない。しかし、女性同士なら笑いになるのである。途中で、稽古中に取られた声が入り、筒井が「何で笑ってるの?」と言っていたりする。
そして突き破って出てくるという行為は「破壊」と見ることも出来るだろう。昔は出産は死に繋がりやすく、3人が横になった1人を担ぎ上げて歩く様を「葬送」に見立てることはたやすい。動きの類似性と象徴性に鑑み「生死」を描いた、そう取ることも可能である。
ただ、後半は特にストーリー性はなく、ダンスの動きそのものに焦点を当てている。前半も物語めいたことはあったが、それも「そう見えた」というだけの可能性も高い。

私自身は、「ダンスは音楽と物語から自由になるべきだ」と考えており、ダンスの独立性を支持しているため、夾雑物になりかねない物語と音楽を排した公演であるということも納得がいく。ただ、動きのみでどれだけ見る者を魅了出来るかということでもあるのだが。


そしてこれを観た後で、「ダンス批評というのは果たして本当に必要か?」という疑問が浮かぶ。私もダンスはそれほど好きではないが、観て感想は書くし、文章として残しておくことも重要だと思っている、記録としてなら。ただダンスそのものを言葉で置き換えることは出来ないし、する意味もないとは思っている。そもそもダンスというのは他者に伝達するために始まったものではないだろう。
ダンス批評なるものを読むと、単なる公開自慰に陥ってるものがあり、薄気味悪かったりするのだが、彼らはダンスを感覚的で自己完結的な文章に置き換えることに対してなんの羞恥心も感じていないように思える。


終演後に、ポスト・パフォーマンス・トークがある。出演者は筒井潤と演劇批評家の高橋宏幸。高橋は名前をひっくり返すとミュージシャンの高橋幸宏と同姓同名になるが、今日も「高橋幸宏さん」と紹介されるも頷いていた。多分、間違えられることがかなり多いのだろう。

筒井潤は、コンテンポラリーダンスで「強度」が求められることに対して疑問を抱いたそうで、それとは違うダンスを指向したという。コンテンポラリーダンスにおける「強度」という言葉の用い方は人によって違うだろうが、動きのシャープさや迫力などを指していることが多いだろう。そうした密なものに対するある種の緩さを求めたそうだ。

筒井はダンスの経験はほとんどないため、振付自体も変なものになるそうで(本格的なダンスはしたことがないので身体的な発想が出来ない)、4人のダンサーが独自に変えたり進化させたりという作業が必要になる。ただ、そうした一種の翻訳作業を演出家である自分には教えないよう筒井は求めたそうで、そこに一種の化かし合いが起こることになる。

いわゆる「境界」にあるダンス作品である。

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2018年11月13日 (火)

コンサートの記(452) 春秋座オペラ第9弾 「蝶々夫人」2018楽日

2018年11月4日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座オペラ第9弾、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。例年通りNPO法人ミラマーレ・オペラによる上演。指揮は樋本英一(ひもと・ひでかず)、演奏はミラマーレ室内管弦楽団。

これまでの春秋座オペラではエレクトーン入りの編成でオーケストラピットに入っていたミラマーレ管弦楽団であるが、今回はピット内下手端、花道の下にグランドピアノを置いた編成である。第1ヴァイオリン第2ヴァイオリン共に2人、ヴィオラ、チェロ、コントラバスが1人ずつという配置。管はフルート、クラリネット、ホルン、トランペットが2管編成である。Ettore Panizzaのリダクションによるオーケストレーションでの演奏。
全楽器が生の音ということで、小編成ながら迫力がある。

演出:今井伸昭。公演監督は松山郁雄。松山は字幕翻訳も手掛けている。出演は、藤井泰子(蝶々夫人)、マッシミリアーノ・ピサピア、片桐直樹(シャープレス)、糀谷栄里子(こうじたに・えりこ。スズキ)、大淵基丘(おおふち・もとく。ゴロー)、服部英生(ボンゾ)、萩原泰介(ヤマドリ/神官)、愛知智絵(ケイト)。合唱はミラマーレ・オペラ合唱団。所作指導:井上安寿子。公演プロデューサー:橘市郎。


指揮の樋本英一は、1954年生まれ。都立新宿高校を経て東京芸術大学卒という経歴は坂本龍一と完全に一緒である。東京芸大では声楽科を卒業した後に指揮科を卒業。芸大は中途編入を認めていないため、一から受験し直したのだと思われる。主に声楽の指揮者として活躍しており、母校の芸大を始め、桐朋学園短期大学、二期会オペラ研修所、日本オペラ振興会オペラ歌手育成部などの講師も務めている。
ドラマティックな音楽作りに長けており、耽美的な音も上手く引き出す。

演出の今井伸昭は、日本大学藝術学部写真科中退後、木村光一に演出を学び、更に栗山昌良に師事して演出助手も務めたということで、春秋座では「ラ・ボエーム」の演出を手掛けた岩田達宗の兄弟弟子になるらしい。現在は、東京音楽大学や桐朋学園大学の非常勤講師でもある。


タイトルロールを務める藤井泰子は、私やダブルキャストで蝶々夫人を演じた川越塔子と同じ1974年生まれ。広島県福山市出身。音楽好きの両親の元に生まれ、幼少時からピアノやフルートを習い、高校時代から声楽のレッスンを開始して、慶應義塾大学総合政策学部卒業後に日本オペラ振興会育成部を修了。政府給費にてイタリアのボローニャ元王立音楽院に学び、国際コンクールでの優勝経験もある。イタリアではYasuko名義でクイズバラエティーに出演して人気を博している。なんでも出題者としての登場で、イタリアの曲を日本語で歌ってなんの曲か当てさせるコーナー担当だったらしい。見たことはないので詳細は不明。
オペラデビュー作が「蝶々夫人」だったそうだ。

マッシミリアーノ・ピサピアはイタリアのトリノの生まれ。フランコ・コレッリらに師事し、「蝶々夫人」のピンカートン役でデビューしている。ピンカートンは十八番であるようだ。

回り舞台を使用。最初の場では、背後にアーチ状もしくは太鼓橋状の階段が掛かっており、初めてここに来る人は基本的にこのアーチの上を通る。
蝶々夫人は、親戚一同をあたかも運命のように引き連れながらやって来る。
この場では桜の木が中央で枝を拡げている。
回り舞台を使ったもう一つの場は、蝶々のように羽根を拡げた形の壁がある舞台セットである。この場では影絵が用いられる。特徴的なのは星条旗が見当たらないことである。星条旗が立っていそうな場所にはやはり桜の木があり、常に光を浴びている。

視覚面での特徴は、なんといっても第二幕で蝶々さんが洋装していること。鹿鳴館で山川捨松や陸奥亮子がしていそうな格好である。外見を洋風にするというのは時代の流れの表現でもあるだろうが、やはり気持ちがピンカートンと共にあるということを示しているのだろう。可能性は低いが、あるいはケイトが現れなければ、ピンカートンの横に収まっていたのかも知れない。少なくとも蝶々さんはそう望んだいたわけで、それだけに自分と同じ洋装のケイトが突然現れた衝撃はいや増しに増したことだろう。

今回は、蝶々さんが武家の娘であることが強調されており、親戚達も蝶々さんが芸者に身をやつしたことを嘆いている。ただ、彼女がそのことのプライドを持っていなければ最悪の事態は免れたのかも知れないと思える。
通常の演出なら星条旗のあるべき場所に桜の木があるということは、彼女がアメリカや帝国主義に裏切られたのではなく、日本では美徳とされている精神によって殺されたことを表していると取ることも出来る。潔く散るのをよしとする国でなかったならということである。今回の蝶々さんはピョンピョン跳ぶなど十代相応の幼さが表われているのも特徴であり、若さが招いた悲劇ともいえる。

ラストでは、自らの胸を刺した蝶々さんにピンカートンが抱きつき、蝶々さんが息子がケイトに懐いたのを見て安心しながらピンカートンに口づけしつつ息絶えるという演出がなされている。息子とケイト、そしてそれを見守るスズキの姿は、おそらくいまわの際の蝶々さんが見た幻覚であり希望なのだろう。


ピンカートン役のマッシミリアーノ・ピサピアは、朗々とよく響く歌唱を披露。日本人歌手とは体格や肺活量が違うということも大きいと思われる。

タイトルロールの藤井康子は、良く変わる表情と細やかな表現が魅力的であった。

その他の出演者では、バカ殿ような格好をしたヤマドリ役の萩原泰介が面白く、スズキを演じた糀谷栄里子の丁寧な心理描写も秀でていた。



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2018年10月21日 (日)

観劇感想精選(265) 京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 ウースターグループ 「タウンホール事件」

2018年10月14日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から京都芸術劇場春秋座で、ニューヨークの前衛劇団であるウースターグループの「タウンホール事件」(クリス・ヘジダスとD・A・ペネベイガーによる映画「タウン・ブラッディ・ホール」に基づく)を観る。英語上演日本語字幕付。上演時間約65分の中編である。演出:エリザベス・ルコンプト。

1971年にニューヨークのタウンホールで行われたフェミニズムのためのパネルディスカッションの様子を収めたドキュメンタリー映画「タウン・ブラッディ・ホール」の映像を流しながら演劇も同時に上演される。

開演の15分前開場であったが、開演するまでの間、ヘッドホンを装着した若いアジア系スタッフ役の若い女性が舞台と客席の間をうろうろするなど臨場感を演出している。

パネルディスカッション(討論会)出席者の後ろにモニターがあり、そこに1971年のタウンホール内での模様が映し出される。

1971年の討論会に出席したのは、自称フェミニストだが実際は男性至上主義的なノンフィクション作家、ノーマン・メイラー、ウーマン・リブ運動の王道を行くような思想の持ち主である作家のジャーメイン・グリア、レズビアンである作家のジル・ジョンストン、女性という言葉で一括りにされるのを嫌う文芸評論家のダイアナ・トリリングらである。

今回の上演では、アリ・フリアコスとスコット・シェパードという二人の男優がノーマン・メイラーを交互に演じる。どちらかが出演出来なくなる可能性を考えて、二人に台本を送ったのだが、二人とも出演可能になったため二人一役にしたそうである。もっとも、男優一人対複数の女優という構図にした場合、誤解を招く恐れもあったため男優二人システムを採用したとも考えられる。男優二人が取っ組み合いの喧嘩をする挿話(ノーマン・メイラーが手掛けた映画のワンシーンらしい)を入れているが、これも男優二人でないと成立しないことだろう。

女性達はウーマン・リブだのフェミニズムだので一括りにされがちだが、主張や立場はそれぞれ異なる。

芝居はまずジルの一人語りで始まるのだが、これはジルが書いた『レズビアン・ネーション』に出てくるタウンホールでの討論会の記憶に忠実に基づいているようだ。ジルは自分がいかにアピール出来るかに掛けており、最初から場の空気を乱す気満々である。
「女は全員レズビアンだ」という主張を繰り広げる。

ジャーメイン・グリアは『去勢された女』という本で成功を収めたのだが、彼女を引き立てようとしたのが他ならぬノーマン・メイラーだったようである。
男性の詩人と女性の詩人を比較し、男性詩人はその活動が名誉に繋がるが、女性詩人の場合は逆に男性から敬遠されるということで、成功する女性詩人が生まれるためには女性の立場の向上が必須であると考えている。
また女は聖女か侍女のどちらかにしかなれないことを問題視している。

ノーマン・メイラーは、女性の人権を認めてはいるが、それは天賦のものではないと考えているようで、「努力で勝ち取るべき」としている。

ダイアナ・トリリングを演じているのは男優のグレッグ・マーテン。ダイアナは、オーガズムが一人一人違うように同じ女性でも思想が個々に異なるとして、安易に女性の立場を代表するようなスタンスを取ってはならないと考えている。また彼女は左翼思想の持ち主だが、ノーマンは「左翼全体主義は地獄」と考えており、思想面でまず対立している。

俳優のみが見られるモニターが3つほどあり、そこに流れる映像や字幕、俳優がつけているイヤホンなどを通して聞こえるセリフなどの情報の中から俳優が適宜選択をして表現していくという手法を取っている。効果的なのかどうかは見た限りでは判然としない。
ドキュメンタリー映画の映像と目の前にいる俳優が同じ仕草をしたり、声が重なったりするのは視覚的には面白いが、それだけといえばそれだけのような気がする。今目の前で起こっているという感覚にはどうしてもなれなかった。


この作品は基本的にジルの視点を主体に描かれており、女対男、女対女、急進派対伝統主義の構図で争いが起こってる間にもジルは女性同士で愛し合うなど、一人だけ上のステージにいるような立場にあるのは当然ともいえる。ジルにだけは自己愛でない愛があるようだ。実際にどうだったのかはわからないが。

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