カテゴリー「京都芸術劇場春秋座」の33件の記事

2021年9月 9日 (木)

観劇感想精選(412) TFACTORY 「4」

2021年8月28日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時30分から、京都芸術劇場春秋座で、TFACTORYの「4」を観る。作・演出:川村毅。出演は、今井朋彦、加藤虎ノ介、池岡亮介、川口覚、小林隆。

モノローグを積み重ねる演劇として2011年に構想され、リーディングなどを経て2012年に東京のシアタートラムで初演された作品であり、ニューヨークでもジョン・ジェスランの演出でリーディング公演が行われるなど、デンマーク語、韓国語などによる翻訳上演が重ねられてきた。いわゆる演劇の本公演としての上演は今回が2度目で、再演ということになり、川村毅が自身で演出も手掛けるバージョンとしては初演ということになるらしい。

本来は、5月に東京で、6月に京都で上演が行われる予定だったのだが、コロナ禍によって延期となっていた。

壁のセットがある他は、椅子の上に箱が置かれているだけの舞台。やがて5人の男が現れ、箱の中に手を入れてくじ引きを行う。小林隆だけは舞台を去り、残った4人は下手手前、下手奥、上手奥、上手手前に分かれて陣取り、やがて一人ずつモノローグを行う。
くじで割り当てられた役を即興で演じるという設定であり、演じ手の性格と演じられる人物の性格は必ずしも一致しない。
裁判員裁判の話ではないが、後述するように彼らは全員裁判員の欠格事項に触れており、割り振られた役も欠格事項に該当する人物が多く、裁判員になれない人の声を拾う役割を担っている。

一巡目は、今井朋彦演じる男(一応、4を意味するFOREに由来する「F」という役名があるが、この芝居では役名は特に意味を持たない)が裁判員に選ばれた大学職員、加藤虎ノ介が死刑執行命令を出す法務大臣、池岡亮介が刑務官、川口覚が無差別殺人で5人を殺害した未決囚(ここでは死刑が執行される前の死刑囚という意味)として、それぞれ長大なモノローグを行う。
5人が殺害されたということで、5人の正体が被害者の身内であることが察せられるようになっている。
死刑は執行されたようだが、死刑囚が犯した罪と身内が殺されるという各々の不幸を受け入れるためにシミュレーションが行われているようだ。謎に迫ることで、死刑囚との距離も微妙に変化していく。話しているうちに、自分の見知らぬ場所にたどり着いてしまうこともある。

そして途中で、役柄チェンジ。今井朋彦が刑務官に、池岡亮介が裁判員に選ばれた大学職員に、加藤虎ノ介が未決囚に、川口覚が法務大臣になる。

刑務官が初めて未決囚の首に縄を掛ける時に、慣れないために浅くしてしまい、下にいて未決囚(死刑執行がされた瞬間に死刑囚となるわけだが)の体を支えたり引っ張ったりする役割のMに負担を掛けてしまう。Mは首を絞めて死刑囚を殺すのだが、そのことがトラウマとなって配置転換となり、刑務官も辞めて実家に戻るが、やがて精神病院に入るという設定が、今井朋彦演じる刑務官が演じるという形で語られる。

池岡亮介が扮した大学職員が語る話も、Sという同僚が駅で飛び込み自殺を図ったという展開になり、あるいは自分がSの背中を押したのではという疑念を抱くなど、闇の世界へと階段を一歩ずつ降りていくことになる。この辺は心理スリラー的な味わいがあり、「死」や「死刑」についての問いがなされる。

ただ、淵にまで来てしまったということで、再び元の配役に戻ってシミュレーションが続けられる。なお、法務大臣が語った、「古書店街の真ん中にある大学」で「刑事博物館」があり、「展望レストラン」が存在すると語られる場所があるのだが、これは明らかに明治大学駿河台キャンパスのことである。少なくても日本には、この三つ全てに該当する大学のキャンパスは他には存在しない。それぞれの名称は、「神田古書店街(神田神保町古書店街)」「明治大学博物館」「スカイラウンジ暁」である。ただ京都での公演ということで、その場所が明治大学駿河台キャンパスだと気づいたのは、おそらく私だけであったと思われる。気づいたからといってどうということはないのだが。

ちなみに小林隆だけは、前半には全くセリフがなく、ラスト近くになって長大なモノローグが用意されているのだが、それまでの4人の横糸とは異なり、法廷だったら発言を慎むよう注意される類いの感情的な縦の糸を与えるという重大な役目を担っている。なお、小林隆と川村毅はほぼ同じ時期に明治大学に在籍していたはずで、川村毅は在学中に第三エロチカを旗揚げしているが、小林隆は学生時代はヨット部に所属しており、演劇活動はほとんど行っていなかったはずなので、学生時代に互いに面識があったのかどうかは分からない。

川村毅は基本的にストーリーの人であり、ストーリーテリングの才能を見せると同時に、「演劇ならでは」の底深さが感じられないという欠点も合わせ持つ。アングラ第三世代の中で今はちょっと埋もれた印象を受けるのもそのためだろう。今回も小林隆が一度目に下した判断やラストは弱めに感じられた。モノローグということで私小説的な語りが続くのだが、良くも悪くも文学的であり、虚構を演じるという最も演劇的な要素を用いながら「あるいは映像でも可能な表現」と思われる構造を持ってもいる(川村毅は映画マニアである)。あるいはレーゼドラマでも構わないような気もする。

出演者達は超長ゼリフを情感豊かに語り、巧みな表現を見せるが、劇場の音響のためか空間が広いからか、セリフが聞き取りにくい場面が多く、こちらも入り込むのが難しかった。

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2020年12月20日 (日)

森山開次:演出・振付・出演「星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙―」

2020年12月6日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、森山開次:演出・振付・出演による「星の王子さま―サン=テグジュペリからの手紙―」を観る。サン=テグジュペリの代表作で舞台化されることも多い「星の王子さま」をダンス公演として上演するという試み。原作は小説であるため、言葉を使わずに上演することは難しいのだが、象徴的な場面を連続させるという絵巻物風手法で、この大人のための童話を描き出す。哲学性を語る限界はあり、ビジュアルでの勝負となるが、「星の王子さま」の鍵となる想像力を駆使する楽しさはある。

出演は、森山開次の他に、アオイヤマダ、小尻健太、酒井はな、島地保武、坂本美雨、池田美佳、碓井菜央、大宮大奨(だいすけ)、梶田留以、引間文佳(ひきま・あやか)、水島晃太郎、宮河愛一郎。
音楽:阿部海太郎(うみたろう)。演奏:佐藤公哉、中村大史(ひろふみ)。美術:日比野克彦、衣装:ひびのこずえ。KAAT 神奈川芸術劇場の制作である。

 

第1幕が11、第2幕が13のシーンに分かれている。

まず幕が上がると、坂本美雨演じるコンスエロ(サン=テグジュペリの妻である)が舞台中央にしゃがみ込み、音楽に合わせて手をくゆらせながら踊っている。背後には半円形のセットが置かれ、他の出演者達がセットの裏にある階段を上手側から登り、下手側へと降りる。坂本美雨は全編に渡ってヴォーカルを担当。歌詞のないヴォカリーズのものが多いが、たまに歌詞も登場し、進行役も受け持つ。美声であり、聴いていてとても心地良い。

飛行士役の小尻健太が現れ、他のダンサーと共に踊る。ダンサーが手足を高く上げる兵隊の歩き方を真似るシーンがあり、戦争が暗示される。やがて頭にライトを付けたダンサーが現れ、夜間飛行に入ったことを告げる。そして飛行機はサハラ砂漠へと不時着する。
猫のような格好をした王子さま(アオイヤマダ)が現れ、羊の絵を描いてくれるよう飛行士に頼む(「羊、シープ」というセリフは坂本美雨が手掛ける)。
飛行士は、紙で作られたミニチュアの飛行機をペン代わりにして描いたり綴ったりといった行為を行う。箱入り羊は穴が空いた布製(だと思う)の箱を使って表現される。

月が現れると共に、音楽はケルティクなものへと変わっていく。阿部海太郎は、「地中海沿岸の音色を集め」たと語るが、シャンソン、スパニッシュといった地中海に面した国の音楽の他に、オーストリアの民族音楽風のものが登場したり、マイケル・ナイマンを思わせるイギリス風のミニマルミュージックが流れたりと、幅広い作風の音楽が奏でられる。

渡り鳥は風船を巨大な袋で束ねたもので表される。「星の王子さま」の口絵がヒントになっていると思われる。

王子さまが星を出るきっかきを作ったバラは日本を代表するバレエ&コンテンポラリーダンサーの一人である酒井はなが踊っている。バレエの技巧を生かしたダイナミックにして可憐な舞である。バラはまず王子さまとパドドゥを踊った後で、飛行士ともパドドゥを行う。

第2幕冒頭では、王子さまが地球に辿り着くまでの遍歴がシーンごとに描かれる。自己中心的で尊大な王様、うぬぼれ屋(ここでスペイン風の音楽が流れる。「りょう手で、ぱちぱちとやってみな。」(大久保ゆう訳「あのときの王子くん」青空文庫)や「手をたたくんだよ」(河野万里子訳。新潮文庫)という言葉で表現される強制された称賛の拍手はフラメンコの手拍子に置き換えられている)、呑み助、実業家、点灯夫、地理学者。彼らは人間の典型例なのだが、その性質をダンスのみで描くのはやはり難しいように思われた。

賢者であるキツネは、着ぐるみではなく、尻尾だけを付けた島地保武が踊る。優れた跳躍力がいかにもキツネらしい。

ラストは、しゃがみ込んで手を広げた飛行士の後ろで、バラがルルベを行いながら回転しているところで幕となる。バラは女性の象徴である(妻のコンスエロがモデルという説がある)と同時に、自分が最も大事にしたいと思いながら手放してしまったものを表している。それが何かは各個人によって異なるが、「帰るべき場所」「想像力のない者には理解し得ない聖域」の象徴としてすっくと立ち続ける酒井はなの姿はその象徴として鮮やかに映った。

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2020年12月 6日 (日)

観劇感想精選(374) 「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演2020

2020年11月29日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演を観る。
2年に1度のペースで春秋座で公演が行われている「琉球舞踊と組踊」。今回の琉球舞踊は、琉球王朝時代ではなく、廃藩置県や琉球処分による日本の沖縄県となった後で生まれた芸能が披露される。

まず、国立劇場おきなわの芸術監督である嘉数道彦が、ウチナーグチによる挨拶を行い、それをヤマトグチに直す。今年は平年よりも気温は高めだが、「やはり京都は寒い」とのことである。
そして沖縄芸能の歴史について話す。琉球舞踊は、元々は宮中の祝賀や年中行事で披露されていたものであり、庶民は観る機会がほとんどなかったのだが、王朝時代が終わり、沖縄県になると、上演の場を芝居小屋に移すことになる。ただ王族や貴族向けの内容であったため洗練され過ぎている上に一定の教養がないとわからないということで、客足が絶えるようになってしまう。そこで生み出されたのが雑踊(ぞうおどり)というものであり、庶民を主人公とし、市井の風俗を描いた平易な作風であるため人気を博するようになった。今回は前半に雑踊作品が並んでいる。

第一部・琉球舞踊。演目は、「鳩間節」(踊り手:田口博章)、「むんじゅる」(踊り手:山城亜矢乃)、「金細工(かんぜーくー)」(指導:宮城能鳳。踊り手:石川直也、新垣悟、阿嘉修)、「木花風(むとぅはなふう)」(踊り手:宮城能鳳)、舞踊喜劇「戻り駕篭」(踊り手:金城真次、玉城匠、山城亜矢乃)。日本語(というと変かも知れないが、いわゆる大和言葉)字幕付きでの上演である。

地謡は、西江喜春(にしえ・きしゅん。地謡指導兼)、花城英樹、玉城和樹(たましろ・かずき)、和田信一(わだ・のぶかず。以上、歌三線)、安慶名久美子(あげな・くみこ。箏)、宮城英夫(笛)、平良大(たいら・だい。胡弓)、久志大樹(太鼓)。

 

日本舞踊もそうだが、琉球舞踊も身体全体を大きく見せているが、手や足は実は最短距離を通っており、無駄がない。演者は全て「最高賞受賞」「新人賞受賞」「師範」など華麗な経歴や肩書きを誇る人々で、沖縄の優れた芸能を堪能することが出来る。

沖縄県になってから生まれた雑踊ということで日本本土の芸能が積極的に取り入れられており、空手、かっぽれ、チャンバラ、狂言などお馴染みの芸が登場する。

「金細工(かんぜーくー)」は、芝居仕立てである。金細工(鍛冶屋のことだそうだ)の加那兄は、遊女の真牛を一月も連れ回してる。本当は身請けしたいのだが金がない。ということで商売道具を売ろうとするのだが上手くいかず、身をはかなんで身投げしようとしたところに左官の長兵衛が、とはならない。真牛が揚げ代は自分で払うということで、ハッピーエンドへと向かっていくという話である。

「本花風(むとぅはなふう)」は、非常にゆったりとした踊りであり、前半の演目の中では異色である。踊り手の宮城能鳳(みやぎ・のうほう)は人間国宝指定保持者であり、今回の「本花風」の振付も手掛けている。男との別れを描いた作品であり、さりげない仕草に哀感がにじむ。
登場する際も退場の際も同じようなゆっくりとした足取りだが、前者は別れへの怖れ、後者は去りがたき未練にように見え、全体をかなり緻密に練り上げているという印象を受ける。

舞踊喜歌劇「戻り駕篭」は歌舞伎舞踊「戻籠」の一部を原作に、今日も出演する玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)が創作した作品で、タイトル通りの舞踊劇となっている。駕篭かき二人が、美女を乗せた駕篭を走らせているのだが、やがて取り合いとなる。駕篭かき二人は杖を刀代わりにチャンバラを行うなど外連味も十分。この作品では、踊り手がセリフを発し、地謡が同じ言葉を返すという趣向が特徴となっている。美女だと思っていたら実は……、という展開は狂言の「吹取」や「業平餅」と同様である。

 

第二部・組踊。演目は「二童敵討(にどうてきうち)」。まずは嘉数道彦による解説がある。タイトル通り、二人の童が敵を討つ話なのだが、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が、1719年に中国(当時は清王朝)からの冊封使をもてなすために創作した最初の組踊二編のうちの一編だそうである(もう一編は「道成寺」の翻案である「執心鐘入」)。昨年は組踊の初演から300年ということで琉球芸能にとって特別な年となったようだ。
組踊は、歌舞劇の一種であるが、琉球オペラや琉球ミュージカルとも言われており、地謡に特徴があるという。
玉城朝薫は、当時琉球が二重朝貢として使者を送っていた薩摩、更には江戸にも滞在し、能や狂言、歌舞伎などに触れたことがあるそうで、組踊創作の際に影響を受けたと思われる。

冊封使をもてなす場で上演されるということで、往時の組踊は士族の男子のみが演じることを許されていたそうである。

兄弟が父親の敵を討つという話であり、「曾我兄弟」を思い起こさせるが、「二童敵討」に登場する鶴松と亀千代の年齢はそれぞれ13歳と12歳で、曾我兄弟よりも更に若い。

出演は、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ。あまおへ)、田口博章(鶴松)、金城真次(きんじょう・しんじ。亀千代)、宮城能鳳(母)、石川直也(供一)、新垣悟(あらかき・さとる。供二)、阿嘉修(あか・おさむ。供三)、玉城匠(たまき・たくみ。きやうちやこ持ち)。立方指導は宮城能鳳。

勝連の阿麻和利(あまおへ)は、中城(なかぐすく)の護佐丸氏の一族を滅ぼし、首里城に攻め込む準備をしているが、吉日だというので、家臣の者を連れて野原へ遊びに出掛ける。
あまおへが一族根絶やしにしたと思っていた護佐丸氏だが、13歳になる鶴松と12歳の亀千代は生きており、「親の敵を討ち取れば、二人がともに死んだとしても国がある限りは名が残る」と父を殺したあまおへに復讐する機会を窺っていた。

自己紹介などの説明や、ちょっとしたやり取りなどは、「ドミファソシド」の琉球音階を上がり下がりするだけの単純な節回しで行われるが、表に出ない心の声は、地謡がコブシたっぷりに歌い上げ、メロディーをなぞる胡弓が哀切な響きを奏でる。
鶴松、亀千代が母と対面する場面では、二人の決意と、母親の我が子を心配する気持ちが地謡で切々と歌われる。

鶴松と亀千代は、あまおへが家臣と遊んでいる野原を訪れ、自慢の舞を行い始める。二人の舞はすぐにあまおへの目にとまり、あまおへは家臣に命じて二人を呼び寄せ、目の前で舞うよう命令する。
鶴松と亀千代は、最初の内はそうでもなかったが、次第にあまおへの顔から目を逸らさずに舞うようになり、緊迫感が増す。
だが、あまおへは油断しているのか、二人の視線には気がつかず、褒美として軍配、大小の刀、羽織などを与え、更に家臣達を下がらせ、鶴松と亀千代の踊りを真似て上機嫌。そこで二人は名乗りを上げ、見事、あまおへを討ち果たすのだが、殺害の場面はギリシャ悲劇同様、見えない場所で行われる。冊封使歓待の劇で殺害シーンを見せるというのは、やはり憚られたのだろうか。

酒宴での踊り子に化けての暗殺は日本武尊の熊襲襲撃伝説に繋がる。
兄弟による仇討ちや、酒宴の場での殺害などは演劇において決して珍しい場面ではないが、「曾我兄弟の仇討ち」や日本武尊の話を朝薫が日本滞在中に知り、自作に取り入れた可能性は高い。オリジナリティが尊重されるのはもっとずっと後の時代であり、往時は「オリジナリティ」は、「勝手な思いつき」でしかなく、観る方は「なんでお前の思いつきにつき合わねばならんのだ」となる方が普通であったと思われる。実際に起こった歴史上の出来事や古くから伝わる話の方が迫真性があるという考え方は確かに納得のいくものである。

嘉数道彦の話によると、「二童敵討」は、中国からの冊封使に見せるということで、中国で盛んな儒教の要素、「君に忠、親に孝」を取り入れているとのことだったが、要は「勧善懲悪」の面白さであり、日本の時代劇と同じ要素で出来ている。「勧善懲悪もの」のテレビ時代劇は今は数がかなり少なくなってしまっているが、BSやCSなどでは流されており、また「『半沢直樹』は時代劇だ」という言葉が聞こえてくるなど、現代劇であっても人々は勧善懲悪の物語を求めている。明らかな悪が退治される話に胸がすくというのは、世界中どこへいってもそう変わらないだろう。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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2020年8月 9日 (日)

コンサートの記(646) 春秋座室内楽公演「デュオの妙」2005 鈴木大介(ギター)&亀井良信(クラリネット)

2005年10月1日 京都芸術劇場春秋座にて

京都芸術劇場春秋座で、室内楽公演「デュオの妙」を聴く。ギタリスト・鈴木大介と、クラリネット奏者・亀井良信のデュオ。

ギターとクラリネットのための曲というのは、ほぼ皆無に等しいので他の楽器のために書かれた曲の編曲が中心である。
J・S・バッハの「インヴェンションとシンフォニア」のデュオや、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」の編曲など、曲目も面白い。
特にクラリネットは超絶技巧の連続なのがわかる。指使いが尋常ではない。

「アルペジオーネ・ソナタ」はチェロやヴィオラ、ピアノの伴奏で演奏されることが多いが、クラリネットで演奏すると音色が明るいこともあって、夢見るような心地良さを感じることが出来る。

そういえば、最近、シューベルトの音楽に急速に惹かれるようになっている。前から良く聴いてはいたが、自然とシューベルト作品のCDに手が伸びるようになったのは最近だ。シューベルトは31歳で早逝した。私も今年で31歳(2005年当時)。同年齢に達しようとしているが故に惹かれるのかどうか、それはわからないけれども、シューベルトの心境が何の理屈もなくわかるようになって来ている。

後半はアメリカの現代作曲家、エリオット・カーターのクラリネットソロ作品でスタート。クラリネットから硬質な響きや、サキソフォンのような音が出たりする。クラリネットの性能を追求した曲だ。興味深い。もう一度聴きたいとは思わないけれど。

次いで、プーランクの「ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ」を、クラリネットとギターで演奏するなど、無茶なことをしたりする。でもちゃんと聴かせてしまうのだから大したものだ。

アンコール演奏は2曲。ショーロというブラジルの大衆音楽からの1曲と、二人の共通の友人であるフルーティスト・荒川洋の作曲した、いずれもクラリネットとギターのための曲を演奏する。オリジナルだけに無理がない。いい音楽だ。

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2019年10月 1日 (火)

コンサートの記(596) 春秋座オペラ10周年記念ガラコンサート

2019年9月21日 京都芸術劇場春秋座にて

午後4時30分から、京都芸術劇場春秋座で、春秋座オペラ10周年記念ガラコンサートを聴く。文字通り春秋座で毎年オペラが上演されるようになってから10年が経つのを記念してのガラコンサートである。午後1時開演と午後4時30分開演の2回公演で、出演者が多少異なるほか、曲目を担う歌手にも変動がある。

 

春秋座での公演はミラマーレ・オペラによる上演であることが多く、オーケストラもミラマーレ・オペラによる小編成の団体が手掛けていたが、今回は常設の京都フィルハーモニー室内合奏団が担う。指揮は奥村哲也。ステージ上での演奏である。
実は、春秋座でオーケストラが演奏を行ったことが一度だけある。2002年の初夏のことで、ルーマニアのトランシルヴァニア交響楽団(ドラキュラで有名な地方の団体)の来日公演であった。私もそれを聴いているのだが、中編成のオケではあったが、そもそもオーケストラが演奏することを想定して作られていないため、「新世界」交響曲ではずっと壁がビリビリ鳴っているという状態で、以後、春秋座ではオーケストラによる演奏は行われていない。京フィルは今年も春秋座で壮一帆とのジョイントコンサートを行ったりしているが、今日も第1ヴァイオリン4のサイズなので音響面で問題はない。足りない音は殿護弘美のピアノが補う。

一方、歌唱の響きに関しては理想的である。そもそも春秋座は三代目市川猿之助(現在の二代目市川猿翁)による上演を想定して作られているのだが、猿之助は歌舞伎は勿論、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「影のない女」やリムスキー=コルサコフの歌劇「金鶏」の演出を手掛けたこともあり、グランド形式ではないもののオペラの上演は最初から念頭に入れられていたといわれている。そのため声の通りも良いのだ。ただその分、誤魔化しは利かず、ちょっと上手くいかないと客席にすぐ伝わってしまう。

 

開演前にプロデューサーの橘市郎氏に挨拶したのだが、「入りが良くない」とのことだった。2階席にも人はいるようだったが、休憩時間に確認したところ極々まばら。1階席も前の方や中央列は埋まっているのだけれどという状況である。日本の場合はオペラが日常に根付いていないし、名士が聴きに来たり、ビジネスマンが幕間に商談を行うという習慣もない。西洋だとオペラが共通の教養になっていたりするのだが、ここは西洋でもない。ということで、基本的にはオペラが好きな人だけが来るのだが、当然ながらオペラが好きな日本人というのは圧倒的少数派である。ブランド志向なので海外の名門オペラ劇場の引っ越し公演があったりするとチケットが馬鹿高くても客は入るのだが、ブランドが目当てで音楽やオペラが好きなわけではないので、地元で何かあっても来ない。東京は毎年行われるオペラの森が盛況で、状況は変わりつつあるのかも知れないが、地方にはまだ波及していないのだと思われる。びわ湖ホールなどは子どものためのオペラ作品を上演しており、両親も含めたオペラファン発掘に努力している。

 

曲目は、ビゼーの「カルメン」より前奏曲、ヴェルディの「椿姫」より“ああ、そはかの人か~花から花へ”(西田真由子)、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」より“今の歌声は”(高嶋優羽)、“俺は町の何でも屋”(奥村哲)、プッチーニの「ラ・ボエーム」より“冷たき手を”(笛田博昭)、“私の名はミミ”(稲森慈恵)、“幸せだったあの場所に戻ります”(江口二美)、“もう本当に終わってしまったの”(江口二美、山本欣也、三輪千賀、鶴川勝也)、モーツァルトの「魔笛」より“燃え立つ復讐の炎”(川越塔子)、“ああ消え去った恋の幸せ”(高嶋優羽)、“パパパ”(西田真由子&奥村哲)、プッチーニの「蝶々夫人」より“ある晴れた日に”(川越塔子)、“さらば愛の家よ”(笛田博昭)、ビゼーの「カルメン」より“恋は野の鳥(ハバネラ)”(並河寿美)、“闘牛士の歌”(片桐直樹)、“うまい話があるぞ”(岡村彬子、三輪千賀、西田真由子、山本欣也、奥村哲)、“花の歌”(井藤航太)、ヴィルディの「椿姫」より“乾杯の歌”(全員)。進行はミラマーレ・オペラ代表理事の松山郁雄が務める。

 

歌手がオーケストラの前に出て歌うスタイルであるため、歌とオーケストラの間にズレが生じることも多いのだが、これはいわゆるオペラ上演と異なるので仕方のないところである。
日本語のセリフを入れての上演だったが、ちゃんと言えている人がほとんどいないというのが問題点である。音大でも演技の指導はちゃんと行っているはずなのだが、二の次にされているのかも知れない。ドイツには演劇音楽大学が多く、オペラを学ぶのに理想的な環境だと思われるのだが(実際にどうなのかは知らない)、日本の場合は、音楽と演劇の両方があるのは日藝と大阪芸術大学だけだろうか。両方ともクラシック音楽には強くない。

 

歌手はやはり関西出身者や関西で学んだ人が多いが、それ以外の人を紹介する。
春秋座オペラの常連である川越塔子は「東大卒のオペラ歌手」して知られているが、井藤航太も東大卒である(出身は大阪府)。東大を出てオペラ歌手になるのが流行っているのだろうか? オペラでなくても東大卒で音楽方面に行く人には文学部出身者が多いと思われるのだが(加藤登紀子や小沢健二など)、川越は法学部卒(同期に豊田真由子や山尾志桜里がいるという凄い学年)、井藤は医学部卒(医学科ではなく健康総合科学科というところ)である。
江口二美(えぐち・つぐみ)は、愛知県立芸術大学と同大学院修了。
岡村彬子は、熊本県出身で国立音楽大学卒、東京学芸大修士課程修了。
笛田博昭は、名古屋芸術大学と同大学院修了である。
鶴川勝也は、国立音楽大学卒で、現在も東京在住であるが、春秋座オペラのオーディションには毎回参加して役を勝ち取っていたそうである。

 

岡村彬子は、“うまい話があるぞ”でカルメンを歌っていたが、見た目も声の質もカルメンによく合っている。
笛田博昭は朗々とした歌唱で、歌唱終了後の拍手も最も大きかった。
残念なのはお客さんの少なさで、これではステージと客席とに一体感が生まれない。京フィルもファンは多いのだが、今回はその効果を発揮出来なかったようである。

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2019年6月26日 (水)

コンサートの記(569) 春秋座「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」2014

2014年12月5日 京都芸術劇場春秋座にて

午後6時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「グレゴリオ聖歌&真言宗声明」という公演を聴く。ミラノ大聖堂聖歌隊が来日してグレゴリオ聖歌を歌い(指揮:クラウディオ・リヴァ)、福岡の真言宗僧侶を中心に結成された真言宗青教連法親会が真言宗の声明を歌うという企画。前半が真言宗声明、後半がグレゴリオ聖歌の歌唱で、ラストに両者のコラボレートがある。

グレゴリオ聖歌というと、20年ほど前にブームがあり、ヒットチャートにグレゴリオ聖歌のCDが入るという異常事態が発生し、「グレゴリアン・チャント」という言葉が定着したりもしたのだが、ブームはあっという間に過ぎ去ってしまったため、今の大学生はおそらくグレゴリオ聖歌ブームを知らないと思われる。ということもあって、京都芸術劇場のある京都造形芸術大学の学生は、チケット料金が3分の2で聴けるにも関わらず、二十歳前後の人すら数えるほどという状況であった。聴きに来ているのはやはりグレゴリオ聖歌ブームを知っている世代であり、私と同世代以上である。入りは良く、1階席はほぼ埋まっていた。


まずは真言宗声明。密教であるため密具が台の上に置かれている。法螺貝を吹きながら僧侶達が登場。天台宗だったら僧兵を思い浮かべるところだが、同じ密教でも今回は真言宗である。読経の中に「弘法大師」という言葉も登場する。

インドの古典語である梵語による「庭讃(にわのさん)」に始まり、「散華」、「唱礼」、「光明真言行動(こうみょうしんごんぎょうどう)」、「称名礼」と続く。厳粛な空気が漂い。自然とありがたい気持ちになる。 グレゴリオ聖歌であるが、普段は残響がコンサート専門ホールのもの(約1・5秒から2秒)の倍ほどあるカテドラル(大聖堂)で歌われるのが普通であり、カテドラルで歌われた場合は声が天井から降ってくるようになって、CD録音でも豊かな残響が収められている場合が多いのだが、春秋座は残響ゼロである。残響ゼロでグレゴリオ聖歌を聴くと思ったよりも神聖な感じがしない。普通の合唱である。ヨーロッパに行くと、大聖堂が至るところにあるが、やはり教会音楽の神々しさを高める上では長い残響が不可欠であるため、音に配慮した結果、聖堂が巨大化した可能性もある。 ということで、聴き終えた後の感銘は自分でも意外であるが真言宗声明の方が上であった。グレゴリオ聖歌を存分に味わいたいなら少なくとも音響設計のしっかりしたところで聴かないと駄目なようだ。 グレゴリオ聖歌といっても膨大な量があるが、今日歌われたのは賛課(朝の祈り)の賛歌「永遠の創造主よ」、「待降節第4のマニフィカト・アンティフォナ「あなたは幸いなかたマリア」とマニフィカト、待降節第4の主日の応唱「天使ガブリエルの口によって」、ミサのグロリア「天のいと高きところには神に栄光」、主の御降誕のミサからアレルヤ唱「幼子が私たちのために生まれた」、主の御降誕のミサ奉納唱「見よ、神殿は開かれ」、主の御降誕のトランジトリウム(拝領唱)「喜び、歓喜しよう」、公現節の晩課(夕の祈り)の賛歌「いと高きものよ、輝かせ」、公現節の晩課(夕の祈り)のアンティフォナ「すべての父祖らは」、公現節後4主日のトランジトリウム(拝領唱)「あなたを賛美します」以上であった。グレゴリオ聖歌というと、ベルリオーズやラフマニノフが引用したことで知られる「怒りの日」が最も有名であるが、今日のプログラムのそぐわないためか、歌われることはなかった。 真言宗声明とグレゴリオ聖歌によるコラボレーション。まず真言宗声明が「露地偈(ろじのげ)」とグレゴリオ聖歌がアンティフォナ(交唱)「異邦の者が我に逆らいて立ち」詩編54編「主よ、御名によって」が同時に歌われる。勿論、一緒に歌った噛み合う楽曲選んでいるのだから歌唱に問題はない。聞き比べると真言宗の僧侶達は野太い声で歌い、ミラノ大聖堂聖歌隊の隊員の声は僧侶達に比べるとずっとマイルドである。 続いて真言声明「理趣経善哉譜(るりしゅきょうせんざいふ)」とグレゴリオ聖歌「第4のキリエ」。 日本の僧侶達が何を歌っているかわからないのに、ミラノ大聖堂聖歌隊は「キリエ・エリソン(主よ、哀れみ給え)」を繰り返しているため、ラテン語の方は意味がわかるという不思議な世界になった。 アンコールでは、まず、真言宗青教連法親会が歌う。コンサートホールだと、終演後にアンコール曲目がホワイトボードに書かれたり張り出されてたりするのだが、春秋座でコンサートが行われることは滅多にないため、そうしたサービスは行われず、曲名はわからなかった。 続いて、ミラノ大聖堂聖歌隊による「きよしこの夜」。これは誰が聴いても曲名はわかる。 ラストは両団体による斉唱「いろは歌」。「けふ」は慣例通り「きょう」と読まれる。「あさきゆめみし」は、「あさきゆめみじ」という否定形が採用されていた。私自身は濁音でない肯定系の方が好きなのだが。

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2019年4月30日 (火)

観劇感想精選(298)「伝統芸能の今」2014

2014年5月11日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時30分から京都芸術劇場春秋座で、「伝統芸能の今」2014を観る。「ゴールドリボン+世界の子どもにワクチンを」チャリティー企画である。今回は三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)に続き、春秋座の二代目芸術監督に就任した四代目市川猿之助によるプログラムである。出演は、市川猿之助の他に、上妻宏光(三味線プレイヤー)、茂山逸平(能楽師狂言方)、亀井広忠(能楽師囃子方)、田中傳次郎(歌舞伎囃子方)ら。

開演前に出演者がホワイエで、パンフレットを売ったり募金を募ったりしている。

まず、上妻宏光による津軽三味線独奏で、「津軽じょんがら節」、上妻の作曲による「紙の舞」(スパニッシュギターからの影響が感じられる曲である)。上妻の津軽三味線であるが、クラシックギター奏者でさえも凌ぐほど左手の動きが大きく、速い。人間の指の動きとは思えないほどに迅速である。
続いて、茂山逸平の舞と上妻宏光、亀井広忠、田中傳次郎によるコラボ奉納舞「三番三(さんばそう)」。茂山逸平の動きは極めてスムースであり、メリハリもくっきりしている。

次は、市川猿之助と上妻宏光、田中傳次郎による舞「空破(くうは)」。猿之助のしなやかな舞を堪能できた。

前半最後は、猿之助が二代目市川亀治郎時代に武田信玄役で出演した大河ドラマ「風林火山」にインスパイアされて、猿之助自身が振付を行った創作舞踊「風林火山」。上妻宏光の津軽三味線生演奏と、オーケストラ演奏の録音による大河ドラマ「風林火山」メインテーマ(作曲は、京都芸術劇場春秋座を持つ京都造形芸術大学の先代の学長だった千住博の実弟・千住明である)に乗せて猿之助が舞う。甲斐武田氏というと騎馬武者軍団が有名であり、荒事を取り入れた勇壮な踊りになるかと予想したが、実際はそれとは正反対のたおやかな舞いであった。

10分の休憩を挟んで、メインの4人によるトーク。福山雅治から贈られた襲名披露記念幕をバックに、会話が行われる。春秋座では、四代目猿之助の芸術監督襲名に当たり、イメージキャラクターを作ろうと企画が立ち上がり、瓜生山学園(京都造形芸術大学+京都芸術デザイン専門学校)の学生が描いたキャラクターの中から事前に11点が選ばれ、観客に投票用紙が配られて、良いと思ったキャラクターに投票して貰い、得票数の多かったキャラクター3つの中から猿之助自身が採用するものを決める。キャラクターというと可愛らしい画が採用されやすいので、造形大のマンガコースの学生が描いたものが多い。

トップ3は、エントリーナンバー1の源九郎狐をキャラクターにしたもの、エントリーナンバー5の鼓に猿の顔を描いたもの、エントリーナンバー10の猿之助が舞う姿をマンガタッチで描いたもの(マンガコースの学生の作品である)であった。
ドラムロール後に猿之助から発表が行われるのであるが、ドラムロールが太鼓によるもので、猿之助は「これじゃお化けだよ」と言う。
選ばれたのは情報デザインコースの女学生二人組の作成によるエントリーナンバー1の源九郎狐をモチーフにしたものであった。人間らしさが一番希薄なキャラクターではあるが、猿之助は「京都には伏見稲荷もあり、これが一番京都らしい」と選定理由を述べた(実際は、京都人の意識としては伏見稲荷はあくまで伏見のもので京都とは別というものも根強いようである)。

邦楽というものは、ミニマルミュージックに近いものがあり、同じ音型が何回も繰り返されるため、演奏する側も舞う側も「どこで終わるんだろう」と勘定を付けるのが難しいという。茂山逸平は笛の音型でどこまで進んだかを把握しているそうだ。上妻宏光は劇伴の経験は少ないが、「三番三」のラスト近くで狂言方が飛び上がる場面があるので、そこから推測しているようである。
ちなみに、チャリティーのために集まった募金額は、初日である昨日が48万円台、今日の第1回目の公演が47万円ちょっとであるが、今日2回目の公演となる今回は26万円程度しか集まっておらず、田中傳次郎は、「あと20万円ぐらい集まらないと、この後、猿之助さん出てきません」と言う(昨日と今日の1回目の公演は、休憩時間と終演後に行われた募金も多いだろうから、この回だけ吝嗇家が集まったというわけではないと思われる)。

後半、歌舞伎と狂言による「石橋(しゃっきょう)」。「石橋」は狂言と歌舞伎の両方であるが、内容は少し違う。今回は前半が茂山逸平による仙人を主人公にした狂言、後半が猿之助による浄土の獅子の舞となる。前半と後半に関連性が余りないが、ストーリーで魅せる作品ではないので特に気にはならない。
天竺から来た仙人(茂山逸平)が、唐の清涼山にある文殊菩薩の浄土の入り口に辿り着く。現世と清涼山の間にあるのが、自然が作り上げた石橋(しゃっきょう)だ。幅は一尺(約30cm)ほどしかなく、橋の上は苔むしていて鳥でさえ滑って留まることは出来ないという。仙人は石橋に挑もうとするが結局諦める。
その後、清涼山に住む獅子(市川猿之助)が現れ、蝶二匹(猿之助の弟子が務める)を従えながら舞う。春秋座は歌舞伎用の劇場なのでセリがあり、今回の「伝統芸能の今」2014ツアーの中で唯一、春秋座でだけ猿之助はセリを使って現れる。「石橋」は「連獅子」のモチーフになった作品だけに、猿之助は首を何度もグルグルと回して観客からの喝采を浴びた(猿之助自身が以前、テレビ番組で話していたことだが、「連獅子」をやると目が回ってしまい、終演後に嘔吐してしまうことも珍しくないという)。

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2019年2月 3日 (日)

観劇感想精選(290) 「春秋座 能と狂言」2019

2019年1月27日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、「春秋座 能と狂言」を観る。今年で10年目を迎える、春秋座お馴染みの企画。

今年の演目は、狂言が「二人袴」、能が「自然居士(じねんこじ)」である。


上演の前に、片山九郎右衛門(観世流シテ方)、渡邊守章(演出家、東京大学名誉教授)、天野文雄(能楽研究、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター所長)によるプレトークがある。
能「自然居士」の解説が主になる。自然居士は鎌倉時代に実在した禅僧で、南禅寺開山の大明国師の弟子に当たる。あえて破戒ともいえる芸能者まがいの言動を取る僧侶だったそうだ。演じるに当たっては、喝食(かつじき)の面という前髪の垂れた美少年の面が用いられるのだが、これは非僧非俗をも表しているそうだ。

能「自然居士」は、観阿弥の作。観阿弥の作品を「春秋座 能と狂言」で取り上げるのは初になるそうだ。「自然居士」は、足利義満の前に観阿弥によって演じられ、義満からの絶賛を受けたと伝わっている。
片山九郎右衛門は、父親からと観世静夫の二人から「自然居士」を教わっているのだが、それぞれが異なった自然居士像を持っていたために戸惑っていたという話をし、演じられる自然居士の年齢を16、7歳ではないかと述べる。若い僧侶の話なのである。
片山は、自然居士を室町時代の人だと思い込んでいたそうだが、実際は鎌倉時代の人物。ということで、破戒僧として知られた一休宗純の先輩格に当たる人だということを天野文雄が述べていた。

狂言の「二人袴」は、三段之舞としての上演。通常の狂言では鳴り物は入らないのだが、三段之舞と書かれている場合は、能楽が入る。ただ、三段之舞とした場合は、普通は上演時間が長くなるのだが、渡邊守章によると野村萬斎が工夫を行ったそうで、通常の狂言と同じぐらいの上演時間にまとめられているという。

ちなみに、野村万作は、今回は狂言ではなく能「自然居士」のアイとしての参加。渡邊守章によると、野村万作が能のアイをやるのは久しぶりなので、かなり張り切っていたそうである。


狂言「二人袴」三段之舞。出演:野村萬斎(シテ)、石田幸雄(アド)、高野和憲(小アド)、中村修一(小アド)。太鼓:亀井広忠、太鼓:前川光範、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。

聟(中村修一)が、舅(石田幸雄)に挨拶に行くのだが、心細いので父親(野村萬斎)についてきて貰うという話である。この聟というのが世間知らずで、袴を履いたことがない。そこで、父親に袴を着けて貰うのだが、紐を胸の前で結ぼうとするなどとんちんかんである。そして履いたら履いたで上手く歩けない。結局、舅の家の前まで親についてきて貰った聟。そのため、親も舅に呼ばれるのだが、袴が一つしかないため、履き替えていく。そして遂には二人いっぺんに呼ばれたため、袴を二つに引き裂き、前掛けのようにして挨拶するという笑い話である。

見慣れた俳優だからということもあるのかも知れないが、野村萬斎は他の俳優に比べて才気というか、エネルギー量というか、とにかく違うものを発していることが感じられる。その正体はよくわからないのだが、彼が特別な存在だということだけはよくわかる。今の狂言界は野村萬斎なしには語れない。

「二人袴」に関しては、とにかく笑える作品なのだが、ラストは特にオチらしいオチはなく、普通に終わってしまう曲というところが惜しい。


能「自然居士」。出演は、観世銕之丞(シテ)、宝生欣哉(ワキ)、則久英志(ワキヅレ)、梅田晃煕(子方)、野村万作(アイ)。太鼓:亀井広忠、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。地謡:観世淳夫、鵜澤光、分林道治、片山伸吾、味方玄、古橋正邦、片山九郎右衛門、河村博重。

東山雲居寺で説法をしている自然居士(観世銕之丞)の下に、少女(梅田晃煕)がやってくる。雲居寺門前の者(野村万作)が少女を見かけ、自然居士に少女から預かった文を渡す。少女は両親を弔うため、身を人商人に売り、布施を渡しに来たのだった。そこへ人商人(宝生欣哉)とその仲間(則久英志)がやって来て、少女を見つけて連れ去ってしまう。そこで自然居士は、説法を中断し、少女を連れ戻しに向かう。

自然居士は、少女を救うために様々な舞を行うのだが、仏法や仏道と能楽が重ね合わされており、大和国の地方芸能でしかなかった自身の能楽を義満が崇める禅に伍するまでに高めたいと願う観阿弥の心意気に感心させられる。

無料パンフレットには、「自然居士」の詞章の現代語訳が載っているのだが、今日は視覚中心に観たかったため、それに目を配ることはなし。セリフを聞き取るのは難しかったが、人商人と対峙する自然居士役の観世銕之丞が醸し出す静かな迫力を味わうことが出来た。



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2018年12月28日 (金)

観劇感想精選(283) 「なにわバタフライN・V」

2010年3月13日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後4時から、京都芸術劇場春秋座で「なにわバタフライN・V」を観る。三谷幸喜:作・演出の戸田恵子による一人芝居。2004年の初演以来6年ぶりの再演である。N・VはNEW VERSIONの略であり、その通り、観た印象はずいぶんと異なる、といっても初演を観たときの私の記憶はすっかり飛んでしまっていたのだが。

会場に入ると、舞台上に巨大な風呂敷包みがある。初演時のセットは楽屋風のものだったが、今回のニューバージョンではセットらしいセットはなく、背後に幕が下りるだけのものになっていた。

上手袖から戸田恵子がひょっこりと顔を出して上演開始。まず戸田が客席に語りかけ、お客さんに手伝って貰いながら風呂敷を由佳に敷きつめる作業を行う(作業を手伝ったお客さんには握手とお菓子のプレゼントがあった)。

ミヤコ蝶々をモデルにした女芸人の一代記。女芸人が見えない記者に自分の人生を物語るというスタイルで一人芝居が進められていく。

女芸人の人生を彩る男達は折りたたみ式の額縁で表現され、戸田恵子は部分的に例外はあるものの、女芸人一人を演じていく。

照明と音響による場面転換もわかりやすく、三部形式の幕間には戸田が客席に語りかけるなど、親しみやすさが増しているように思えた。

ユーモラスでチャーミングな戸田の演技も素晴らしく、初演時にあったやらずもがなの演出も整理されていて、楽しくも説得力のある芝居になっていたように思う。

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