カテゴリー「シアター・ドラマシティ」の47件の記事

2021年1月18日 (月)

観劇感想精選(379) 蜷川幸雄演出 唐沢寿明主演「コリオレイナス」

2007年2月14日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。シアター・ドラマシティで、「コリオレイナス」を観る。作:ウィリアム・シェイクスピア、演出:蜷川幸雄。出演は唐沢寿明、白石加代子、勝村政信、吉田鋼太郎、香寿たつき、瑳川哲朗ほか。

「コリオレイナス」はシェイクスピア作品の中でもとりわけマイナー部類に入る。シェイクスピア晩年の作品であるが、初演時から不評であり、その後も駄作扱いが続いている。ただ「優性論」という問題を考える上では現代にも通ずるところのあるテキストであると私個人は思っている。

舞台は紀元前5世紀のローマ。勇猛果敢にして高潔なローマ貴族、ケイアス・マーシアス(唐沢寿明)は、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚い。彼はヴァルサイ人の都市であるコリオライを陥落させた栄誉を称えられ、新たにコリオレイナスという名を与えられる。ローマの新執政官に推されたケイアス・マーシアス・コリオレイナスであるが、彼の高潔ゆえに俗悪なものを見下す性質、極度なまでのプライドの高さ、愛想をふりまくことが出来ない性格などが災いし、市民の代表である護民官のシシニアスとブルータスに毛嫌いされており、ローマ市民からも「傲慢でさえなければ、あれほど出来た人はいないのに」と惜しまれはするものの愛されてはいなかった。

執政官になるには選挙でローマ市民から票を集めなくてはいけないのだが、コリオレイナスはどうしても市民に頭を下げることが出来ず、謙虚であることも出来なかった。コリオレイナスの母ヴォラムニア(白石加代子)は、市民の前で演じるだけで良いとコリオレイナスを説得するが、病的にプライドの高いコリオレイナスは演じるということにさえ嫌悪を覚え……

優れた資質を持ちながら樫の木のように固い性格と渡世術の欠如が災いしたコリオレイナスの悲劇を描く。タイトルロールのコリオレイナスを演じる唐沢寿明は強面にするために頭を坊主に丸めての熱演である。

幕が上がると鏡張りのセットがあり、観客がその鏡張りのセットに映っている。4枚組の鏡の中央の2枚が開くと背後に急階段状の舞台が現れ、一番上の段では四天王の像が客席を睥睨している。
四天王の像があることからもわかるとおり、仏教風のデザインが多く用いられており、元老達やコリオレイナスの衣装も山法師風である。またローマといいながらも、コリオレイナスが大小の日本刀を差し、長刀で戦ったり、ヴォラムニアが清の西太后を思わせる衣装を纏うなど、アジア的要素を多く取り入れている。

良い舞台であった。演出も俳優も良いが(特に俳優陣の殺陣は迫力満点であった)、観ているうちに演出の工夫や演技の巧拙などは気にならなくなり、「コリオレイナス」という作品自体の良さが浮かび上がってくる。観客に「良い演出だ」、「良い演技だ」と思わせる舞台はまだまだ一級品には遠く、「良い作品」だと思わせるのが真に優れた舞台であるとするなら、今日観た「コリオレイナス」はその真に優れた舞台であった。
「コリオレイナス」の登場人物全員が私の分身のようにも見えてくる。それだけ人物が巧みに描かれているということであり、晩年とはいえ、シェイクスピアの筆がさほど衰えていたわけではない証拠ともいえる。もっとも演出で隠してあるが、冷静に考えると妙に雑な箇所があり、シェイクスピアの体調が万全ではなかったことも同時にうかがえるのだが。

民主主義と衆愚政治が隣り合わせであることが示されるが、「コリオレイナス」の悲劇は英雄達だけで成り立つものではなく、愚かだろうが何だろうが、市民が生み出したものであり、市民の存在の大きさと恐ろしさを同時に伝える。歴史の主役は良くも悪くも市民なのだ。
劇が始まる前と、終演後、鏡状のセットに観客達を映したのも、「劇の主役は実は観客=市民」という構図を際だたせるための工夫であると思われる。

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2021年1月 9日 (土)

フィリップ・ドゥクフレ来日公演「SOLO」2006大阪

2006年12月3日 シアター・ドラマシティにて

アルベールビル冬季オリンピック開会式&閉会式の演出を手掛けたことで知られるフランスの演出家・振付家のフィリップ・ドゥクフレの来日公演「SOLO」を観る。大阪のシアター・ドラマシティにて。
普段は振付か演出に専念しているドゥクフレが「久しぶりに踊ってみたい」ということで企画されたソロダンス公演。ただソロとはいっても、音楽の生演奏(トロンボーン&ウクレレ)や映像が入るため、全てをドゥクフレがやっているわけではない。

大阪ということで、ドゥクフレは大阪弁のセリフの書かれた紙を読み上げる。更にドゥクフレが書いたものを日本語訳したナレーションが録音で入る。ノンクレジットだったが、声でナレーターだ誰かすぐにわかる。2日前にドラマシティで「SOLO・LIVE」を行った吹越満だ。吹越はテレビのナレーションなども多く手掛けているので声に聞き覚えがあり、わかりやすい。

ドゥクフレは床のそばに小型カメラを置いて自身の足をクローズアップしたり、原色の照明を用いたり、影絵効果や映像によって自己の分身を作るなど、面白いことをやる。
いくつものドゥクフレの影や映像の分身を見ているうちに、どれが実体でどれが虚像なのか境界が曖昧になってくる。舞台上の生身のドゥクフレが次第に虚像に溶けていき、あるいは実像と虚像の重要性が等価になったり逆転するように見える。虚だから無意味であるという投げやりな常識が次第に軋み始めるのだ。

終演後、ドゥクフレらによるトークがある。観客からの質問にドゥクフレが答えるという形なのだが、抽象的な質問が多く、ドゥクフレは答えにくそうだった。かと思ったら、「体が柔らかくなる運動があったら教えて下さい」という作品とは何の関係もない注文を出す女性もいてドゥクフレ苦笑い。それでもちゃんといくつか簡単なトレーニングを紹介して見せた。

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2020年12月23日 (水)

観劇感想精選(378) 二兎社 「書く女」2006(初演)

2006年10月21日 大阪・茶屋町のシアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。午後6時よりシアター・ドラマシティで二兎社の公演「書く女」を観る。永井愛:作・演出。明治の女流作家・樋口一葉の話である。
永井愛さんは会場にいらっしゃっていて、休憩の合間に臨時サイン会なども行っていた。また客席には岩松了の姿もあった(ピッコロ劇団の演出を担当するので現在は関西にいるのだろう)。

休憩15分を含め3時間10分の大作。出演は、寺島しのぶ、筒井道隆、粟田麗(あわた・うらら)、江口敦子ほか。

障子や格子をモチーフにした巨大なセットがまずは印象的である。

樋口一葉こと樋口夏子(寺島しのぶ)が、作家・半井桃水(なからい・とうすい。筒井道隆)のもとを訪れる場面から始まる。長兄が若くして亡くなり、次兄はどこへともなく去り、姉はよそへ嫁ぎ、父親が死去。かくして若くして女戸主となってしまった樋口夏子。母と妹と三人暮らしだが、これではとてもやっていけないので小説を書くべく、半井桃水に弟子入りしたのだった……

今では一葉の師としてしか名前の残っていない半井桃水であるが、筒井道隆をキャスティングしているだけにかなりの好人物として描かれている。
一葉が通う歌塾「萩の舎(はぎのや)」の先輩で女流作家の魁となった田辺龍子(たなべ・たつこ。筆名は田辺花圃と書いて「たなべ・かほ」。石村実伽)、一葉の親友で同じ夏子という名前であることから「い夏」と呼ばれる伊東夏子(粟田麗。ちなみは一葉は「ひ夏」と呼ばれている)、一葉に半井桃水を紹介した野々宮菊子(江口敦子)、半井桃水の妹である半井幸子(なからい・こうこ。小澤英恵)、一葉最大の理解者といわれた斉藤緑雨(さいとう・りょくう。向井孝成)、一葉の小説に最初に注目した平田禿木(ひらた・とうぼく。中上雅巳)、一葉文学の研究者となった馬場孤蝶(ばば・こちょう。杉山英之)、泉鏡花と並び称されるほどの名声を得ながら39歳で自殺した川上眉山(かわかみ・びざん。細貝弘二)など、個性溢れる人々によって織りなされる明治文壇記(それにしても読みにくい名前の人が多いな)。

生活苦に喘ぐ樋口家の人々や、文学への希望に燃える人々、また文学に敗れる人々などが真摯な眼差しで、しかしユーモアも持って描かれる。

樋口一葉の半井桃水への思い。また、その創作が「感性」や「共感」からというよりも、「業」もしくは「怨念」のようなもの(日本語には適当な言葉が見つからない。韓国語の「恨(ハン。激しい心の動きを指す)」という言葉が一番合うかも知れない)に根ざしたものなのではないか、という解釈が目新しい。

脇役陣が演技はなかなか達者ながら個性に欠けるのがウィークポイントだが、見応えはあった。永井愛の微妙にテーマをスライドさせるやり方はいつもながら巧い。

観劇感想精選(180) 二兎社 「書く女」2016(黒木華主演版)

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2020年12月 3日 (木)

観劇感想精選(371) 「開放弦」

2006年8月3日 シアター・ドラマシティにて観劇

大阪のシアター・ドラマシティで「開放弦」を観る。ペンギンプルペイルパイルズの倉持裕:作、G2:演出。出演は水野美紀、大倉孝二、丸山智己、京野ことみ、河原雅彦、犬山イヌコ、伊藤正之。

東京から電車で2時間ほどの距離にある、とある農村。遠山(丸山智己)と恵子(旧姓:伊沢。水野美紀)の結婚式があった。二人は中学時代の幼なじみ。しかし互いのことを、「遠山君」、「伊沢」と呼ぶ妙な夫婦には当然裏があった。遠山の元彼女で同じバンドのメンバーである依代(京野ことみ)は二人の結婚に不快感を示し、同じくバンドメンバーの門田(大倉孝二)は猛反対したのに二人が結婚してしまったことに腹を立てている。
彼らが住む農村では、カモ農法といって、鴨を田んぼで飼い、雑草や害虫を食べさせ、またフンを肥料にするという農法を行っていた。カモ農法を取り入れることを提言したのは遠山で、最初は大成功したのだが、ある時から「食いしん坊」とあだ名される稲まで食べてしまうカモが現れ、繁殖したため、遠山は農村の皆から責められ、多大な借金を負うことになってしまっていた。

ある日、その農村に進藤(河原雅彦)、素江(犬山イヌコ)という漫画家夫婦が取材のためにやって来る。物語は、遠山の家の前で素江の運転する車が一羽の鴨を轢いてしまうことから始まる。遠山と恵子の結婚式の日であり、遠山の家には二人の結婚に立腹して式と披露宴を欠席した依代が一人で勝手に上がり込んでいた。轢いてしまった鴨が遠山の家で飼われているものだと勘違いした素江は依代に謝っている。
遠山、恵子、門田が披露宴を終えて帰ってくる。門田は当然不機嫌だ。

遠山、門田、依代がやっているバンドがネット配信した曲が爆発的にヒットし、ダウンロード料により1億円もの収入が見込めることがわかる。しかし、遠山と恵子はあること(芝居が進むに連れて何なのかわかるようになる)で大喧嘩してしまい、カッとなって家を飛び出した遠山は 江が運転していた車に轢かれて右手が不自由になってしまう。バンドの曲を作っていたのは遠山。しかしギターで作曲していた遠山はもうギターを弾くことが出来なくなる……。


まずは芝居の雰囲気に惹かれる。しっかりした脚本と演出により東京近郊の農村でのドラマがきちんと描かれる。出演者の演技も良い。水野美紀は舞台は4度目で現代物は初めてだということだが、演技の質は高く、またその場にいるだけで観る人を惹きつける力がある。
大倉孝二と犬山イヌコの「ナイロン100℃」コンビもいい味を出しており、丸山智己も格好いい。
京野ことみの演技はリアリティが今一つだが、まあいいだろう。

あらゆることが語られるのではなく、仄めかしに終わることも多いのだが、想像すれば大体のことはわかる。また、ヒントが徐々に与えられてわかりやすくもなる(進藤を演じた河原雅彦は以前、「徐々にわかっていくタイプの芝居は好きじゃない」とインタビューで語っていたはずだが、それは自分が書いたり演出したりする舞台のことなので、出演者として参加するぶんにはいいのだろう)。

人物設定も細かく書かれているのがわかる。特に遠山と恵子は中学時代からこれまでどのような人生を歩んできたか、こと細かく設定されているようで、偽装夫婦である彼らが互いに惹かれ合っていく心理描写にそれは生かされている。しかし、ラスト付近は作家が自らが設定した人物の性格に振り回されてしまった感あり(あとでパンフレットを読んでわかったことだが、倉持は普段は人物設定はフラットにし、流れを重視して書くタイプであるようだ。「10年ぐらい前、戯曲を書き始めときには〔人物〕履歴もある非常にリアルな話を書いていたんです。でも資料を集めたり、一人一人のことを考えてそれに縛られて書くのがつまらなくなった時期があって。そこから勇気を持って、何も決めないで書き始めたんです」“『開放弦パンフレット』、「G2×倉持対談」より。〔〕内は引用者による補足説明”と倉持は語っている。しかし今回はG2の要望により人物履歴を細かく決めて書いたそうだ。それが裏目に出たようである)。

遠山は車に二度も轢かれるのだが、一歩間違うとギャグになってしまう可能性はあった(芝居の雰囲気からして失笑がもれることはないと思うが)。また車に轢かれるという設定を二度も使うというのは最終場に持ち込む解決法としてある意味狡く、また拙いと思う。

途中までが良かっただけに最終場のイージーさは残念であった(ラストのラスト、恵子が開放弦のまま、たどたどしくギターを弾くところは良かったのだけれど)。

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2020年9月27日 (日)

観劇感想精選(354) 三谷幸喜 作・演出「君となら」2014

2014年9月17日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

※本来なら「観劇感想精選」には、私が優れていると認めた公演しか載せないのですが、竹内結子氏逝去につき、特別にこの記事を上梓します。彼女の名前がないというのは余りに寂しいことですので。もっと良く書いてあげることが出来れば良かったのですが、冷静に判断した結果です。書かなかったことで「素晴らしい」と思ったことはいくつもあるのですが、それは個人的なことですので、表さずにおきます。
不在がまたも増えてしまいました。


午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「君となら」を観る。作・演出:三谷幸喜。「君となら」は、斎藤由貴と佐藤慶の主演作として三谷幸喜の作、山田和也の演出で1995年に初演。その後、97年に再演されているが、それから、約17年を経ての再演である。佐藤慶はすでに4年前に他界しており、主演も含めて全て新キャストでの再演となる。演出も今回は三谷自身が手掛ける。出演:竹内結子、草刈正雄、イモトアヤコ、長野里美、長谷川朝晴、木津誠之、小林勝也。

舞台は90年代の東京である。客入れの音楽は、槇原敬之やプリンセスプリンセスらが歌ってた90年代のポップスであり、幕開けの音楽も90年代のヒットナンバーであるKANの「愛は勝つ」である。

年の差約50歳というカップルが誕生するのだが、成り行きで誤魔化さなくてはいけないようになり……、というストーリーで、三谷幸喜が90年代に書いたものの中でも特に完成度が高いと思われる作品の一つである。再演の時はテレビ収録が行われ、WOWOWで放送されたものを私は録画して何度も繰り返し観ている。

今日は、何の知識も入れないで観に出かけたので、故・佐藤慶がやっていた役を草刈正雄がやるのだと思い込んでいたのだが、最初の顔見世のシーンで草刈正雄が出てきたので、草刈正雄は竹内結子演じるヒロインの父親役であり、婚約相手を演じるのは小林勝也だと気付く。ただ、小林勝也には酷だが、佐藤慶は男が見ても良い男だと思うタイプであり、「佐藤慶ならひょっとしたらあり得るのではないか」と思えるのだが、小林の場合はそうではないと思われる。

ヒロインの父親役を初演時にやっていたのは角野卓造であり、それが草刈正雄になるのだから、これは佐藤慶→小林勝也以上にギャップのある配役である。
ヒロインは、相手が「実業家」だとしか言っていなかったのだが、家族全員がヒロインと同年代だと思っているので、「青年実業家」だと思い込み、特に母親の中ではその姿は「完全に草刈正雄になっている」というセリフが初演時からあるのだが、そのセリフを当の草刈正雄に言わせようということでこうした配役になったのだと思われる。初演は19年前なので、当時は草刈正雄も「青年」と呼ばれてもおかしくない歳だった。
事実、草刈正雄が、「草刈正雄だ!」というセリフを発した時には拍手喝采であった。

ヒロインの小磯あゆみを演じるのはこれが初舞台となる竹内結子であるが、完全に映像向けの演技になっており、小さく纏まっている。勿論、舞台のために身振り手振りを大きくしたり、表情を大袈裟にしたりということはやっているのだが、舞台で表現を行うには動きが細やかすぎるのだ。映像では心理描写のために有効な演技ではあり、竹内結子はそもそも映像向きの演技をする人なのかも知れないが、舞台でそうした演技を行うと単に神経質な人に見えてしまう。神経質な役だったらまだ良かったのだが。また、コメディエンヌが板に付いていないが、コメディエンヌの素質というのは生まれ持ったものに左右されることが大きいため、これに関しては竹内一人のせいではないだろう。
彼女は、「いよいよ私にも初舞台が回ってきた」と意欲を語っており、登場時には満面の笑みを浮かべて現れ、客席も拍手で出迎えた。

小林勝也はやはりミスキャストであるが、これはキャスティングした側の責任であると思う。

初演時の俳優を上回っていたのは、あゆみの妹である小磯ふじみを演じたイモトアヤコ。ふじみはそもそも狂言回し的な役割であるが、スラプスティックな要素を最も要求される役であるため、イモトには上手くはまっていた。

三谷幸喜の本は全て当て書きであり、俳優を変えて再演する際には演じる俳優に合わせてセリフを変えるのだが、前回は、ふじみを演じていた宮地雅子が言っていたセリフを、今日はあゆみ役の竹内結子が話すなど、セリフの割り振りも微妙に違ったりする。
ただ、セリフやト書きをいくら直しても限度はあり、初演時と再演時は小倉久寛がやっていた役を今回は長谷川朝晴が演じているのだが、小倉がやると滑稽に見えたことも長谷川がやると無理矢理笑いを取りに行っているように見えてしまう。そもそもオリジナルキャストのクオリティを今回のメンバーに求めること自体が間違いといえば間違いなのであるが。

「君となら」を今回初めて観る人には薦められる舞台だが、斎藤由貴&佐藤慶バージョンを観たことのある人には「イメージが崩れるから観なくても良い」としか言えない。私が感じたように「『君となら』って、こんな程度の芝居だったっけ?」と拍子抜けする可能性もあるためである。そして更に、常に当て書きをしてきた作家の限界を感じることになるかも知れない。

芝居の内容よりも強く感じられたのは、佐藤慶と、初演時・再演時に和田を演じていた伊藤俊人の不在感である。佐藤慶が他界してから今年で4年、伊藤俊人は12年にもなる。彼らはもうこの世には存在せず、彼らのような俳優が現れることも二度とないのだろうと思うと無常を感じずにはいられない。

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2019年11月17日 (日)

観劇感想精選(326) こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」2019

2019年11月8日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、こまつ座&ホリプロ公演「組曲虐殺」を観る。井上ひさしの劇作家としての遺作の上演。2010年に初演され、2012年に再演。それから久しぶりの再々演となる。演出は初演から引き続き栗山民也が手掛け、音楽&ピアノ演奏も小曽根真が担当する。出演:井上芳雄、高畑淳子、上白石萌音、神野美鈴、山本龍二、土屋佑壱。上白石萌音は石原さとみからのバトンタッチ、土屋佑壱は山崎一から役を引き継いでいるが、それ以外は初演時と同じキャストでの上演である。

「組曲虐殺」は、プロレタリア小説家として最も有名な人物と思われる小林多喜二を主人公とした音楽劇である。リーマンショック後の2010年頃は一大不況が全世界を覆っており、イタリア初とされるプレカリアートという言葉が紹介されるなどプロレタリア文学にも光が当たっていた時期で、「蟹工船」が映画化されたりもしている。

昭和5年(1930)5月下旬から昭和8(1933)年2月下旬までの2年9ヶ月が断続的に描かれる。

まず、小林多喜二が伯父が経営するパン屋で育ったことが紹介される。小林多喜二は小学校を皆勤賞の上、成績も最優秀ということで伯父に見込まれ、住み込みでパン屋を手伝いながら小樽商業学校と小樽高等商業学校(現在の国立大学法人小樽商科大学)を卒業。北海道拓殖銀行(1997年に経営破綻し、山一証券とともにバブル崩壊後不況の象徴となった)に勤務し、銀行員として働く傍ら、「蟹工船」などのプロレタリア小説を発表し、高く評価されたが、そのことが原因で拓銀を追われている。

小林多喜二の伯父が経営するパン屋(小林三ツ星パン)は最初は「小樽で一番のパン屋」と歌われるのだが、その後「北海道一のパン屋」に歌詞が変わり、最後は焼失かとしての小林多喜二の下地を生んだということで「日本で一番のパン屋」と歌われる。この小さいところから徐々に拡大していくセリフはその後も何度か登場する。
パン屋では代用パンが、安いにも関わらず売れない。小樽商業学校時代の小林多喜二(井上芳雄)は、誰かが「代用パンを買う金をくすねている」からだと考える。それが後の巨大資本や官僚批判へと繋がっていく。

多喜二は、酌婦(体を売る接待係)の田口瀧子(上白石萌音)と出会い、引き取ることにするのだが、「奥さんと許嫁の間」という中途半端なポジションであり、多喜二は奥手なので、「キスはしていて抱き合ってもいるが、生まれたままの状態でではない」というこれまた中途半端な付き合い方をしている。結局、瀧子とは籍を入れないままで終わった。

場面は大阪市の大阪府警島之内署の取調室に変わる。多喜二は大阪で講演を行った夜に、日本共産党への資金提供容疑で逮捕されたのだ。黙秘を続けていた多喜二だが、話が瀧子や伯父のことに及ぶやうっかり話し出してしまう。

豊多摩警察署の独房で、多喜二は自らの無力さを嘆くブルースを歌う(「独房からのラヴソング」)。

その後、多喜二は監視役の特高刑事である古橋(山本龍二)と山本(土屋佑壱)が杉並町馬橋の多喜二の借家に下宿するという形での不思議な生活を送る。多喜二の姉である佐藤チマ(高畑淳子)や瀧子も馬橋の家を訪ねてくる。瀧子は山野美容学校などに通い、美容学校の助手となっていたが、収入の問題で辞め、今は給仕をしている。瀧子はパーマネントの技術を身につけたのだが、当時、パーマネントの機械は日本に3台しかないということで、その腕を生かせずにいた。多喜二はそのことを嘆くのだが、これは「独房からのラヴソング」にも呼応している。多喜二は結局は同じ無産者活動家の伊藤ふじ子(神野美鈴)と結婚するのだが、それは瀧子を危険に巻き込みたくなかったからであり、不思議な距離の愛情は終生続くことになる。

酌婦に身を落とすしかなかった瀧子、美術学校に通い舞台美術家などを経て活動家となるふじ子など搾取される側にいる階級の女性が登場するが、憎むべき特高の刑事達も、上の命令に「犬」として従うしかないという苦みを歌い上げており、やはり下層にいる哀れむべき人々として描かれている。そこに井上独特の視点があるように思われる。

日本共産党員であった井上の政治観については、ここで私が書いても余り意味のないことであり、そうした面から語ることの出来る他の多くに人に任せた方が良いように思う。私がこの劇から感じたのは、「書くこと」「イメージすること」の重要性だ。多喜二は「体で書く」重要性を特高の山本に伝える。多くの人は手や頭や体の一部で文章を書くのだが、大切なのは体全体で書くことであり、体全体で書かれたものは、書き手そのものとなって残っていく。
小林多喜二は若くして虐殺されたが、「蟹工船」を始めとする作品は今も読まれ続け、時にはブームも巻き起こす。そのことで私達は小林多喜二その人に触れることも出来る。そして井上ひさしが全身で書いたこの戯曲も、井上が亡くなって間もなく10年が経とうとしている今も上演され、井上本人の肉声に触れるかのような体験を可能としている。

 

ミュージカルトップスターの井上芳雄の歌声が素晴らしいのは勿論だが、瀧子を演じた上白石萌音の歌声も予想を遙かに凌ぐ凄さ。彼女の声凄さは、耳にではなく心に直接染みこんでくることである。稀な歌唱力の持ち主とみていいだろう。ミュージカル映画「舞妓はレディ」の小春役で注目を浴びた上白石萌音。実は「舞妓はレディ」はミュージカル化されて博多座で上演されており、私も観に出掛けたのだが、その際は唯月ふうかが小春を演じている。唯月ふうかも若手ミュージカル女優としてはトップクラスなのだが、そのため却って「ああ、上白石萌音は別格なんだな」と実感することになった。

小曽根真のピアノと音楽も多彩な表情で芝居を彩る。クルト・ワイル風のワルツが登場したりするが、実は井上ひさしが「ロマンス」でクルト・ワイルの音楽に歌詞を付けていたそうで、その影響もあるのかも知れない。

井上ひさし本人が、これが最後の戯曲になるとわかっていたのかどうかは不明である。だが、井上の最後の戯曲らしい仕上がりとなったのも事実である。
これは悲劇であるが、「思いが残っていればいつかきっと」という希望と「不滅と広がりの予感」を歌い上げる祝祭劇でもある。

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2019年8月 1日 (木)

観劇感想精選(311) 黒柳徹子主演海外コメディシリーズ第29弾「ルーマーズ 口から耳へ、耳から口へ」2015

2015年6月4日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後4時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、黒柳徹子主演海外コメディシリーズ第29弾「ルーマーズ 口から耳へ、耳から口へ」を観る。喜劇王ニール・サイモンの戯曲の上演。黒柳徹子は今回の上演も含めて4度「ルーマーズ」の舞台で主演を務めているが、再演時と再々演時に演出を担当した高橋昌也が昨年逝去。しかし、今回の上演でも高橋の演出を踏襲して行われるため、演出と美術は高橋昌也とクレジットされている。演出補として演劇集団円の前川錬一(まえかわ・れんいち)が名を連ね、高橋の演出を尊重しつつ独自のカラーも出している。
テキスト日本語訳は黒田絵美子。
主演:黒柳徹子。出演:団時朗、かとうかず子、大森博史、茅島成美(かやしま・なるみ)、鶴田忍、平栗あつみ(ひらぐり・あつみ。演劇集団円会員)、石田登星(いしだ・とうせい。演劇集団円会員)、千葉ミハル(演劇集団円会員)、佐々木睦(ささき・むつみ。男性。演劇集団円会員)。
途中休憩を含めて上演時間2時間40分の大作である。

ニューヨークのチャールズ・ブロック(愛称はチャーリー)邸が舞台。ニューヨーク市長代理を務めているチャーリーと妻・マイラの結婚20周年を祝うパーティーが今夜ここで行われることになっていた。招待されたのは4組の夫婦、クリス(黒柳徹子)とケン(団時朗)のゴーマン夫妻、レナード(愛称はレニー、レン。大森博史)とクレア(かとうかず子)のガンツ夫妻、クッキー(茅島成美)とアーニーのキューザック夫妻、グレン(石田登星)とキャシー(本名はおそらくキャサリンだと思われる。平栗あつみ)のクーパー夫妻である。
まずチャーリー邸に着いたのは二人とも弁護士というゴーマン夫妻。しかし、チャーリー邸には夫人であるマイラはおらず、またフィリピン人のメイドも姿を消している。そして、2階の寝室で、チャーリーが左の耳たぶを拳銃で撃ち抜き、薬でフラフラになっているのを発見する。クリスはゴーマン家の主治医であるダドリー医師に電話をするのだが、このダドリー医師というのが尋常とは思えないほどの芝居好きで、今夜もブロードウェイでミュージカル「シカゴ」を観ており、劇場に電話をしても上演中ということでなかなか電話が繋がらない。何度か電話してようやくダドリー医師に電話が繋がるが、ケンは事を大きくしないために、拳銃で自殺を図ったのではなく、車から降りた際にすぐそばにあった階段から転げ落ちて頭を打ったということにしようと提案する。ただ、最初はクリスも「階段を駆け上がって頭を打った」とあり得ない状態を伝えてしまい、言い直す。ゴーマン夫妻はチャーリーのスキャンダルが広まらないよう、次にチャーリー邸を訪れたガンツ夫妻(来るときにレニーが運転している買ったばかりのBMWが横から飛び出してきたジャガーに追突され、レニーはむち打ち症を患う)にも最初は嘘を伝えるが、結局、状況を打ち明けることにする。レニーは公認会計士であり、チャーリーの主任会計士でもある。チャーリーの自殺未遂が巡り巡って自分の会計ミスという噂に繋がるかも知れない。ということで、ガンツ夫妻も三番目にチャーリー邸にやってきたキューザック夫妻に嘘をつく。ちなみにアーニー・キューザックは大学教授でもある精神科医、クッキー・キューザックは料理番組などでも活躍する料理専門家である。ゴーマン夫妻とガンツ夫妻は「サプライズで、チャーリーとマイラが1階に降りてくる前に皆で料理をする」と嘘をつく。だが、その時、拳銃の音のようなものが。チャーリーの拳銃を片付けようとしたケンが、けつまずいて耳のすぐそばで引き金を引いてしまったのだ。轟音により、ケンは一時的にではあるが耳が聞こえなくなってしまう。2階に行って状況を把握したレニーは、「ものが落ちた」と説明し、クリスやクレアは「ものが落ちて、シェービングの缶が暴発した」と補足をする。アーニーは「あれは拳銃の音だ」と納得しないが、結局は夫婦で料理をするためにキッチンに向かう。キッチンでも爆発が起こり、クッキーは手首に傷を負い、アーニーは指先を怪我する。だが、大したことはなかった。
そこにまた来客が。クリスもクレアもこれ以上状況がややこしくなるのは沢山なので二人でトイレに籠もってしまう。何度もチャイムが鳴る。キッチンからアーニーが出てきて、ドアを開ける。やってきたのはグレンとキャシーのクーパー夫妻。グレンは民主党に所属し、上院議員に立候補していた。そのクーパー夫妻であるが、互いに浮気を疑っており、仲が険悪である。チャーリー邸に入ってからも口喧嘩ばかり。キャシーは水晶を御守りとしていつも持っており、磨くためにトイレに入ろうとするが中から鍵が掛かっている。「誰かいるの?」と聞くキャシーにクリスが出てきて、キャシーとクリスは抱き合って挨拶する。だが、クリスが出てきてからもまたトイレには鍵が掛かっている。今度はクレアが中から出てきて……。

第2幕では、レニーがチャーリーが自殺未遂をしたようだということを全員に打ち明けた後からスタートするのだが、耳の聞こえないケンは「これ以上は我慢出来ない」と言って、レニーがしたのとほぼ同じと思われるような内容の告白をして笑いを誘う。
クーパー夫妻は相変わらず喧嘩を続けており、チャーリー邸を出て、グレンの車の中で口論をすることにする。キャシーはグレンの車に向かうついでにレニーのBMWを蹴っ飛ばす。
みな、何とか丸く収めようとしたが、なんとチャーリー邸にパトカーがやって来るのが見えた。4人の男達はうろたえて、「誰かがチャーリー役をやらねばならない」ということで、指を一本出すか二本出すかのゲームで、レニーがチャーリー役をやることになり、2階に上がっていた。ベン・ウェルシュ巡査(佐々木睦)とコニー・パドニー巡査(千葉ミハル)がチャーリー邸に入って来る。みな、状況を誤魔化そうとし、特にケンは弁護士であるためベンの言うことに一々文句を付ける。ケンは「少し時間をくれないか」といって、いったん警官二人を外に出す。だが、実は二人の警官がやって来たのはマイラがチャーリーにプレゼントしたジャガーが盗難に遭い、盗んで運転していた若い男がBMWと衝突事故を起こしたというので、BMWの持ち主であるレニーに話を伺うためだったのである。そのレニーがチャーリーということになっているため、この場にはいない。そこで今度はレニー役を誰かが演じる必要が生じ……。

9年前の2006年の公演も観ている芝居である。黒柳徹子も今年で82歳。「魔女」「黒船を見た女」などと呼ばれる黒柳も寄る年波には勝てず、セリフ回しも動きも以前に比べると弱っているのは否めない。

黒柳徹子は何をやっても黒柳徹子的ではあるが、私を含めて観客は「黒柳徹子を観に来ている」のであり、「黒柳徹子が黒柳徹子していること」はむしろ望ましい。
つかこうへいに見出され、小演劇で人気を得た平栗あつみも、もう結構な年である。9年前はまだ31歳になる直前だった私も初老になってしまった。
9年前にケンを演じていたのは喜劇を得意とする益岡徹である。団時朗のケンは益岡に比べるとコメディアン的演技は弱いが安定感はある。
演技のアンサンブルはまずまず。万全とはいえないかも知れないが、十分に楽しめる仕上がりになっている。なお、今日は最初のまだ舞台上には黒柳徹子と団時朗の二人だけのシーンで、黒柳徹子演じるクリスが民家用エレベーターで2階に上がり、2階バルコニーに足を置いた時に謎の巨大ブザー音が鳴り響いた。黒柳も団も客席も「?!」となったが、黒柳と団はそのまま演技を続けた。単なる音響のミスだったようである。

終演後、拍手は鳴り止まず、出演者達は4度のカーテンコールに応えた。大森博史は超長ゼリフを言うシーンがあるため、特別に一人だけ前に出て拍手を受けた。そして、黒柳徹子は昨年同様、人差し指で天を指し、天国の高橋昌也に敬意を表した。

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2019年2月 7日 (木)

観劇感想精選(291) 「テイキングサイド ~ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日~」

2013年2月23日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「テイキングサイド ~ヒトラーに翻弄された指揮者が裁かれる日~」を観る。「ドレッサー」「想い出のカルテット ~もう一度唄わせて~」の劇作家、ロナルド・ハーウッドの筆による作品。テキスト日本語訳:渾大防一枝、演出:行定勲。出演:筧利夫、福田沙紀、小島聖、小林隆、鈴木亮平、平幹二朗。

20世紀を代表する指揮者、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの第二次大戦中のナチ協力疑惑の取り調べを描いた、クラシックファンにとってはかなり有名な作品である。ただ、クラシックと歴史のことがわからないと内容把握はまず困難だと思われ、そのためか、後ろの方の席は空席が目立った。


ベートーヴェンの交響曲第5番第4楽章が鳴り響く中で劇は始まる。

1945年、第二次大戦後のベルリン。連合国側の米軍少佐、スティーヴ・アーノルド(筧利夫)は、非ナチ化審議に於いて、ドイツを代表する指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラー(平幹二朗)がナチ党員だったのではないかという疑いを持ち、予備審議を行うことにする。協力者は若いドイツ人のエンミ・シュトラウベ(福田沙紀)。エンミの父親はヒトラー暗殺計画を企んで処刑されたが、ヒトラー亡き今ではドイツ人から英雄視されている。スティーヴは音楽に対する教養はまるでないが、異常な記憶力の持ち主であり、見聞きしたことは全て忘れないという異能者である(どことなくAIを連想させる人物である)。

一方、エンミはドイツ音楽の愛好家であり、フルトヴェングラーを尊敬している。ベートーヴェンが好きで、特に好きなのは交響曲第8番。

フルトヴェングラーに対する取り調べの前に、スティーヴは、フルトヴェングラーが音楽監督を務めていたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者、ヘルムート・ローデ(小林隆)を呼ぶ。ローデは、フルトヴェングラーがナチ嫌いだったと語り、ヒトラーの御前演奏の前に、ヒトラー対する敬礼をしない工夫として、指揮棒を持ったままステージに上がるようフルトヴェングラーに進言したことがあると伝える。指揮棒を持ったまま敬礼をすると、最前列に座ったヒトラーの目を指揮棒の先端が刺してしまう。だから敬礼をしなくていいのだと。
しかし、スティーヴはフルトヴェングラーがヒトラーの御前で演奏したこと、また、ヒトラーとフルトヴェングラーが握手している写真を示し、ヒトラーとフルトヴェングラーが懇意であったのではないかと疑う。ヘルムートは、それはヒトラーが勝手に壇上に上がりフルトヴェングラーの手を取ったまでで、その場にいたカメラマンがそれを撮影したに過ぎないと疑惑を否定する。

エンミもまた、フルトヴェングラーが多くのユダヤ人演奏家(ヨーゼフ・クリップス、アーノルド・シェーンベルクの名が含まれる)の亡命に協力した事実を告げる。

スティーヴの元に新たに赴任した、デイヴィット・ウィルズ(鈴木亮平)は、ハンブルク生まれのユダヤ人で、ユダヤ人迫害を避け、アメリカに亡命。姓もユダヤ風のものからWASP風のウィルズに改姓している。ウィルズは、フルトヴェングラーが世界最高の指揮者であるとし、スティーヴに対してフルトヴェングラーの無実を訴える。

そんな中、タマーラ・ザックスという女性(小島聖)が尋問室にやって来る。タマーラは自身はドイツ人で旧姓はミュラーだが、ワルター・ザックスというピアニストに惚れて結婚。ワルターはピアノの腕をフルトヴェングラーに認められ、パリにザックス夫妻が亡命するための手続きを行ってくれたという。しかし、パリはナチスドイツ軍により陥落、ワルターは収容所に送られ、命を落としたという。だが、タマーラはフルトヴェングラーがかつての夫のためにしてくれたことを深く感謝しており、フルトヴェングラーがいかにユダヤ人に親切で、慈悲深い人であったかを切々と語る。

そしていよいよ本物のフルトヴェングラーが現れる。フルトヴェングラーは自分がナチに協力したことはないと断言し、二度もナチス党員になった若い指揮者(ヘルベルト・フォン・カラヤンのことである)が演奏活動を再開しているのに、なぜ自分が公的な音楽活動が出来ないのかと不満を語る。ヒトラーの御前演奏も、ヒトラーの誕生日の演奏も、ヨーゼフ・ゲッペルスやヘルマン・ゲーリングの根回しがあり、断ることは自分の力では不可能だったのだと告げる。また、ナチスが政権を取った1933年にフルトヴェングラーはナチスへの嫌悪からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を辞任しており(のちに復帰)、またユダヤ人と結婚したドイツ人作曲家、パウル・ヒンデミットの歌劇「画家マチス」が上演禁止になった際、ヒンデミットの擁護を行い、また新聞に「ヒンデミット事件」を寄稿していることを告げる。
第1回の審議は終わり、フルトヴェングラーは尋問室を去る。エンミは自分の好きな交響曲第8番のSPを掛け、第1幕は終わる。


第2幕。ベルリン・フィルの第2ヴァイオリン奏者であるヘルムート・ローデが実はナチ党員であり、自分がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の奏者になれたのも在籍していたユダヤ人奏者が追い出されて欠員が出たからだと告白する。またフルトヴェングラーはヘルベルト・フォン・カラヤンを嫌っていたという事実も口にする。フルトヴェングラーはカラヤンを憎む余り、カラヤンと名前で呼ばず、「K」と呼んでいた。差別的な人であったことは事実だと。また、デイヴィットもフルトヴェングラーが「反ユダヤ」であることを知っていたという(フルトヴェングラーはドイツ音楽至上主義者だった)。しかし、同時にデイヴィットは「反ユダヤ発言をしなかった非ユダヤ人はいない」とも発言する。

ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章アレグレットが流れる中、ナチスの収容所における映像が映し出される。積み重なるユダヤ人の死体。それを押しやるブルドーザー、穴に押し込まれるユダヤ人の遺体。これはスティーヴの夢であった。スティーヴは異常な記憶力の持ち主であったため、このかつて見た嫌な光景を毎晩、夢として見る羽目になっているのである。

フルトヴェングラーに対する二度目の尋問が行われる。ここで、スティーヴは二度もナチ党員になっていながら公的演奏活動(正式には録音のみの活動である)を行っているヘルベルト・フォン・カラヤンの名前を出す。フルトヴェングラーがカラヤンを嫌っていたのは事実であり、カラヤンこと「K」がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者になることを怖れて、ヒトラーの御前演奏会に臨んだのではないかとスティーヴは考える。そしてそれは実際、真実に最も近いであろう。

スティーヴは、ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーが1933年に亡命しているのに、なぜフルトヴェングラーは終戦直前まで亡命しなかったのかについて触れる。フルトヴェングラーは「ワルターもクレンペラーもユダヤ人であり、亡命せざるを得なかったのであり、自分は違う。自分はドイツに留まることでナチスと戦ったのだ」と言い張る。しかし、事実としては「K」がドイツ楽壇に君臨するのを怖れていたのではないかという疑惑が浮かぶ(実際、フルトヴェングラーは最晩年に自身の後任になるベルリン・フィルの指揮者について、「私がベルリン・フィルの指揮者としてふさわしくないと思っている男は一人だけ。あの男です」と暗にカラヤンが後任に抜擢されることを拒んでいる。だが、その後、フルトヴェングラーが怖れたことは現実となる。常任指揮者であったルーマニア人指揮者、セルジウ・チェリビダッケとベルリン・フィルが敵対関係になりつつあったことに加え、ベルリン・フィルのアメリカ・ツアーに同行できる独墺系指揮者がカラヤンしかおらず、そのカラヤンが「もし自分をベルリン・フィルの常任にしないならばアメリカ・ツアーには同行しない」と言ったことで、後任はカラヤンに決まった)。

スティーヴはブルックナーの交響曲第7番第2楽章アダージョのSPをエンミに掛けさせる。そしてフルトヴェングラーに聴く。「この曲は何ですか?」「ブルックナーの交響曲第7番アダージョだ」「誰の指揮ですか?」「誰のかって? 私のだよ」「これが流されたのはヒトラーが自殺した日です。追悼の音楽として」

実際問題として、ヒトラーはカラヤンを嫌っていた。理由はカラヤンは暗譜で指揮するのが常だったが、ヒトラーの御前上演となるオペラで、ソプラノがミスし、カラヤンは譜面を置いていなかったため、十分なフォローが出来ず、ヒトラーは「あの、若いのは何故譜面を持っていないんだ!」と激怒。以後、ヒトラーが愛する指揮者はフルトヴェングラーだけとなる。

スティーヴはヒトラーが愛したのはフルトヴェングラーの演奏であったと告げる。それに対してフルトヴェングラーは、「私はナチのために指揮したのではなく、ドイツ国民のために指揮したのだ」「芸術は中でも音楽は人間の内面を豊かにするために必要だ」と音楽論を展開する。
それに対して、スティーヴは「私生児は何人いますか?」と聞く。フルトヴェングラーの女好きは有名であり、自分の子供が何人いるのか自分でも把握できなかったと言われている。今でもフルトヴェングラーという姓の奴がいたら怪しいと言われるほどだ。

フルトヴェングラーは音楽の神聖さを強調し音楽と政治は無関係だとするが、実際はフルトヴェングラー自身は俗人であり、フルトヴェングラーに対しては批判的でカラヤンを「奇跡のカラヤン」と評した音楽評論家を政治力を用いてソビエト戦線に送ったり、ドイツを離れなかったのも、ドイツ国内のあちこちに愛人がいたからなのではないかと詰め寄られる。フルトヴェングラーはそれでも音楽の素晴らしさを強調するが、「1934年に亡命していたなら」と後悔の言葉を口にし、吐き気に襲われる。ヘルムートとエンミに抱えられながら退場するフルトヴェングラー。デイヴィットはフルトヴェングラーを「堕ちた偶像」と言いながらもフルトヴェングラーこそは世界最高の指揮者であり、あのような取り調べを行うべきではなかったのではないかとスティーヴに意見する。

ベートーヴェンの第九第1楽章が流れる中、劇は終わる。


様々な角度から再検討すると、何が正しくて何が間違っているのか、聖と俗とは何なんなのか、音楽は、そして演劇は我々にとって何をもたらすものなのか。人によって答えは違う、そう、人によって答えが違うからこそ、人生とは奥行があり、芸術とは価値があるのだと認識させられた舞台であった。


上演終了後に、演出の行定勲、デイヴィット役の鈴木亮平によるトークがある。司会は関西テレビの山本悠美子アナウンサー。

まず、「テイキングサイド」を上演することになったきっかけを行定勲が語る。行定勲が「テイキングサイド」の本を受け取ったのは、3.11の東日本大震災発生直後のことだったという。行定勲は映画の撮影をしていたのだが、大震災が起こったため、一度、撮影を全面的に中止にしたという。その後、仕事は再開したが、映画の撮影をするのはこの時期には不謹慎なのではないかという思いがこみ上げてきたし、周りも「不謹慎なのでは」という空気になったという。その時、「テイキングサイド」を読んで、戦後に行われた芸術を巡る審議という内容が、今、自分達の置かれている立場にリンクするのではないかと思い、引き込まれていったという。

また配役では、筧利夫と平幹二朗という、普通は舞台上で同時に観ることが想像しにくい組み合わせであるということから敢えてキャスティングしたという。筧利夫が演じるスティーヴ・アーノルドは芸術音痴で早口というクエンティン・タランティーノの映画に良く出てくるようなキャラクターを意識したという。そのことでセリフも聞き取りにくくなるし(筧利夫は普段使わない用語が沢山出てくる脚本に苦しんだのか、珍しく二回噛んだ)、内容も把握しにくくなるが、それも計算の内だという。

鈴木亮平は、今回のキャストの中で唯一オーディションで選ばれたという。オーディションは普通は数ページの台本によって行われるのだが、今回の作品ではデイヴィットのセリフ全てが渡され、それで審査されることになったそうで、鈴木は「うそーん」と思ったそうだ(行定勲の厳しさは映画界では有名である)。鈴木はカラオケボックスにこもってひたすらセリフを覚えてオーディションに臨み、あまり良い感触は得なかったそうだが選ばれたという。また鈴木は関西出身で、明日は両親と祖母と祖母の友人達が見に来る予定だという。

演技では筧利夫は想像通りの出来であり、平幹二朗はフルトヴェングラー役には残念ながら似合わないように思えた。わがままが過ぎて干され気味と噂の福田沙紀はまずまず可憐な演技を見せ、他の俳優も健闘していたように思う。

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2018年12月 8日 (土)

観劇感想精選(274) 椎名桔平主演「異人たちとの夏」

2009年7月28日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

大阪へ。梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで行われる「異人たちとの夏」を観るためである。

「異人たちとの夏」は午後7時開演。原作:山田太一、脚本・演出:鈴木勝秀。主演:椎名桔平。出演は、内田有紀、甲本雅裕、池脇千鶴、羽場裕一ほか。ほかといっても他には女優が一人出ているだけなのだが、パンフレットを買わなかったので名前はわからない。

映画「異人たちとの夏」は結構好きな作品で、これまで何度も観ている。

ライターの原田(椎名桔平)は都心のマンションで一人暮らし。離婚したばかりで、家を引き払い、仕事場だったマンションの一室に今は住んでいるのだ。原田が住んでいるマンションには企業が多く入っており、深夜になると静寂に支配される。ある夜、同じマンションに住む藤野桂(内田有紀)という女性が原田の部屋を訪ねてくる。シャンパンがあるのだが、一人では飲みきれないので一緒にどうかと桂はいうのだった……。

場面が移動するために、暗転が多くなるのが舞台版の欠点ではある。でもそれは舞台用に作られた作品ではないので仕方のないことだ。脚本、演出ともに良く工夫されており、物語を楽しむ上では何の問題もなかった。

主演の椎名桔平は出ずっぱり。ということもあってか、上演時間約2時間の作品であったが途中に休憩が入った。

役者陣は全員、熱演。前の方の席だったが、椎名桔平と池脇千鶴は細やかな表情の演技をする。内田有紀は大変な熱演だったが、セリフの間をもう少し開けるとより自然だったように思うのだが。彼女もブランクをまだ埋め切れていないのかも知れない。

特に新しい発見はなかったが、安定感のある舞台だったと思う。

ちなみにすき焼きを囲むシーンだが、その場で本当に煮て作っており、芳香が漂っていた。

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2018年9月 3日 (月)

観劇感想精選(257) 舞台「野球」~飛行機雲のホームラン~

2018年8月25日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後5時から梅田芸術芸場シアター・ドラマシティで舞台「野球」~飛行機雲のホームラン~を観る。作・演出:西田大輔。音楽:笹川三和。出演:安西慎太郎、多和田和弥、永瀬匡、小野塚勇人、松本岳、白又敦、小西成也、伊崎龍次郎、松井勇歩、永田聖一朗、林田航平、村田洋二郎、田中良子、竹内諒太、本間健大、書川勇輝、秋山皓郎、今井直人、田上健太、藤木孝。野球監修:桑田真澄。

第二次大戦中の中学野球(現在の高校野球に相当)を舞台に戦争と友情を主題にした群像劇が繰り広げられる。

 

伏ヶ丘商業学校の唐澤静(多和田和弥)と会沢商業学校の穂積均(安岡慎太郎)は小学校時代の友人にしてライバル。唐澤は甲子園の常連校である伏ヶ丘商業に進み、穂積は敢えて伏ヶ丘商業を避け、会沢商業に進んだ。1944年、戦争の激化のため、全国中等学校野球選手権は2年連続の中止が決定。予科練に進んだ野球部員は唐澤の神風特攻前日にかつての所属学校野球部ごとに分かれ、試合に臨む。南海軍(南海ホークス。英語が敵性言語であるとしてニックネームとしての使用も禁止されたための措置)に進むことが決まっていた唐澤だが、夢は絶たれた。肘を傷めていた唐澤だが、マウンドに上がるのは今日が最後であり、全力で投球する。

立ち上がりが不安定であるが、ストレートの威力は沢村栄治に匹敵するといわれる穂積。穂積が会沢商に進むきっかけとなった先輩の岡光司(永瀬匡)、併合当時は日本人とされたが差別も受けてきた朝鮮半島出身の伏ヶ丘・菱沼力(小野塚勇人)、唐澤の姉で新聞記者だったが反戦記事を書き続けたために解雇となった唐澤ユメ(田中良子)、ユメと共に狂言回しの役割を受け持つ海軍中佐の遠山貞昭(藤木孝)、新聞記者になること夢見て唐澤に関する記録を書き続けていた伏ヶ丘の三塁手・堂上秋之(松井勇歩)、会沢商業の監督に指名されるが野球には疎い街軍中尉の菊池勘三(名前の似ている菊池寛にちなんであだ名は「父帰る」である。演じるのは林田航平)らが時系列を飛ばす形でドラマを構成する。舞台後方には黒板状のスコアボードがあり、試合が進むごとに、出演者がチョークで得点を記していく。

 

八百屋飾りの舞台。マウンド、各塁、バッターボックスなどは特定の場所に置かれず、状況によって次々とフォーメーションを変えていく。客席通路も使用し内外野の守備が客席で行われることもある。

ボールは使用するが、投手役の俳優が直接投げることはない。なお、開演前に「本日は演出としてボールを使用いたします。ボールが客席に飛び込むことがあるかも知れませんが、ボールはスタッフが回収に伺いますので、くれぐれも客席に投げ返さないようお願いいたします」という影アナがあった。当然ながら劇場でそんなアナウンスを聞くのは初めてである。

 

PL学園時代に甲子園での高校通算最多勝記録となる20勝を挙げ、読売ジャイアンツとピッツバーグ・パイレーツで投手として活躍した桑田真澄が野球監修を手掛けており、そのためピッチャーの二人は桑田によく似た仕草をする。特に穂積均役の安西慎太郎は前屈みになったサインの見方、ワインドアップから右肩を下げながらのテイクバック、上体を捻って打者に背中を見せるところなどが桑田のフォームに瓜二つである。腕の使い方は桑田よりも元カープの池谷公二郎に似ているが、安西は世代的に池谷を知らないはずなので、たまたま似たのだと思われる。唐澤役の多和田和弥はサイン交換時のポーズは桑田や穂積と一緒だが、その後は違う。

 

俳優陣で私が知っているのはベテランの藤木孝だけ(最も重要なセリフを与えられているのも彼である)。若い俳優達に関してはほとんど知らないが、開場時間を予定より15分早めて行われたグッズ販売に女性が長蛇の列を作っており、相当な人気があることがうかがえる。後で調べたところミュージカル「テニスの王子様」の出演者が多いことがわかった。
私自身は「桑田真澄が野球監修をするなら」ということで観に行ったのだが、客席に男性はほとんどいない。劇場と球場に通う層はどうやら重なっていないようである。

戦時ということで野球自体が敵性競技として疎まれており、使用語はストライクが「良し!」、ボールが「駄目!」、ファールが「圏外球」、セーフが「安全」といった風に日本語に直され、アラビア数字も駄目で背番号は漢数字で書かれている。グローブも戦前戦中のものは現在と大きく異なるのだが(当時はスポットの浅い握るタイプのもの。挟み込むタイプの現在のものとは違い、片手を添えて両手で捕らないと取りこぼしてしまうことになる。日本では今でも「ボールは両手で捕る」が常識化しているのはこのためである)、客席にそこまでこだわる人はいないのと、ドラマ進行状に特に問題とはならないので、現代タイプのものを使用している。

漫画原作も手掛けるという西田大輔の本と演出はスピード感と視覚効果を大事にした上で外連味にも富むもの。一貫したストーリーよりもシャッフリングされた矢継ぎ早の展開を重視しており、各々のエピソードを絡めてラストへ持って行く形はラヴェルの「ボレロ」のようである。客席が女性中心ということで客席の各所からすすり泣きが聞こえ、上演としてはかなりの成功だと思える。

上演後は毎回アフタートークがあるようで、今日も永田聖一朗と伏ヶ丘商業の生徒達によるトークが行われる。天才エース・唐澤静役の多和田和弥は実は野球が大嫌いであったことを明かす。子供の頃のキャッチボールが顔に当たったことがトラウマになっており、野球が好きな人の気持ちが理解出来ないほどであったそうだが、この舞台をきっかけに野球が好きになったそうである。

 


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