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2020年9月22日 (火)

コンサートの記(656) 兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会「佐渡裕 アルプス交響曲」

2020年9月19日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口にある兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会「佐渡裕 アルプス交響曲」を聴く。リヒャルト・シュトラウス最後の交響詩となったアルプス交響曲1曲勝負の演奏会である。

ドイツ・ロマン派最後の巨匠といわれたリヒャルト・シュトラウス。管弦楽法の名手として、30代までに数々の傑作交響詩をものにしているが、40代以降はオペラに力を入れるようになり、オーケストラ曲を書く機会は減っていたが、51歳の時に完成させたのがアルプス交響曲である。交響曲とあるが、いわゆる交響曲ではない。リヒャルト・シュトラウスは長命で85歳まで生きており、51歳というのはまだ人生を振り返るような年齢ではないが、それまでに書かれた交響詩の要素を取り込みながら登山に人生を重ね合わせるという作品になっており、情景と心情をオーケストラで描くというショー的要素と独特の深みを合わせ持っている。フリードリヒ・ニーチェの著作に影響を受けた交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を代表作の一つとしているリヒャルト・シュトラウスだが、アルプス交響曲もニーチェの「アンチクリスト(反キリスト主義者)」にインスパイアされたことを作曲家自ら明かしている。

 

兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ。PACは、Performing Arts Centerの略)は、元々今月の定期演奏会のメイン楽曲としてアルプス交響曲を演奏する予定であったが、コロナで全てが白紙となり、それでも演奏活動が再開されたら大編成のものをやりたいと、芸術監督の佐渡裕が希望を出していたそうだ。

現在、オーケストラのコンサートでネックとなっているのは、楽団員がソーシャルディスタンスを確保しなければいけないということであり、大編成の楽曲はステージ上が密になるため変更せざるを得ない状態となっている。だが、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールは、元々オペラ対応劇場として設計されているため4面舞台を持っており、反響板を後方に7m下げてメインステージを拡げ、両サイドの舞台との風通しを良くすることで換気対策を十分に取り、管楽器や打楽器はひな壇に乗せて視界を確保することで演奏会に漕ぎ着けた。

今日のコンサートマスターは豊嶋泰嗣。チェロが手前に来るアメリカ式の現代配置を基本としている。ゲスト・トップ・プレーヤー及びスペシャル・プレーヤーとして水島愛子(元バイエルン放送交響楽団ヴァイオリン奏者、兵庫芸術文化センター管弦楽団ミュージック・アドヴァイザー)、戸上眞理(東京フィルハーモニー交響楽団第2ヴァイオリン首席)、石橋直子(名古屋フィルハーモニー交響楽団首席ヴィオラ奏者)、林裕(元大阪フィルハーモニー交響楽団首席チェロ奏者)、石川滋(読売日本交響楽団ソロ・コントラバス奏者)、中野陽一朗(京都市交響楽団首席ファゴット奏者)、五十畑勉(東京都交響楽団ホルン奏者)、高橋敦(東京都交響楽団首席トランペット奏者)、倉田寛(愛知県立芸術大学トロンボーン科教授)、奥村隆雄(元京都市交響楽団首席ティンパニ)の名がクレジットされているほか、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団フルート奏者の江戸聖一郞、関西フィルハーモニー管弦楽団首席トランペット奏者の白水大介(しろず・だいすけ)、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明、元京都市交響楽団首席テューバ奏者の武貞茂夫らの名を見ることが出来る。
KOBELCO大ホールにはパイプオルガンがないため、電子オルガンの演奏を室住素子が行った。

1階席の中央通路前の席に譜面台が並び、ここで金管のバンダが演奏する。2階下手サイド席ステージそばも空席となっており、ここにはトロンボーン奏者2人が陣取ってバンダ演奏を行った。

客席は左右最低1席空けのソーシャルディスタンス対応。KOBELCO大ホール入り口ではサーモグラフィーを使った検温と手のアルコール消毒が必要となり、チケットも自分でもぎって半券を箱に入れる。また強制ではないが、兵庫県独自の追跡サービスにもQRコードを使って登録出来るようになっている。コンサートスタッフは全員、フェイスシールドを付けての対応である。

 

演奏前に、佐渡裕が一人で登場してマイクを手に挨拶を行う。春から、中止、延期、払い戻しなどが相次いだが、6月からコンサート再開に向けての実験や検証が行われ、9月に演奏会が再開されると決まった時には全員が、「アルプス交響曲は何が何でも演奏しよう」と意気込んでいたという。ステージ上でのソーシャルディスタンスがやはり問題となったが、「6月頃には、2mから2m半が必要といわれたが、うちの楽団、それだけ離れていても、アルプス交響曲、なんとかなるやろ」ということで上演のための努力を続けてきたそうだ。佐渡はご存じない方のためにKOBELCO大ホールが4面舞台であるという話をし、ひな壇については、「見た目もアルプス交響曲っぽい」と冗談を交えた話をしていた。一番上のティンパニが置かれている段は、ステージから約2mの高さがあるという。

兵庫芸術文化センター管弦楽団がアルプス交響曲を演奏出来ることになったのは、その名の通り劇場付きのオーケストラであることが大きいと佐渡は語る。貸し館での演奏となるとリハーサルが十分に行えないため、通常とは異なる配置での演奏は諦めざるを得ないのだが、ここは本番と同じホールでリハーサルが何日も行えるため、万全の体制を整えることが出来たという。
佐渡は、「今、アルプス交響曲を演奏出来るのは日本でここだけ」と自信を見せていた。
またアルプス交響曲が人生を描いているという解釈も語り、リヒャルト・シュトラウスに関しては、「今の時代に生きていたら、ジョン・ウィリアムズのような映画音楽を沢山書いたんじゃないか」「ジョン・ウィリアムズもリヒャルト・シュトラウスから影響を受け、リヒャルト・シュトラウスもベートーヴェンの『田園』などに影響された」と法灯のように受け継がれていた音楽の生命力にも触れていた。

 

本当に久しぶりの大編成オーケストラ生体験となる。兵庫芸術文化センター管弦楽団は、オーディション合格後、最大3年在籍可能という育成型オーケストラである。オーディションは毎年行われて楽団員が入れ替わるため、独自のカラーが望めない一方で、指揮者の個性が反映されやすいという特徴を持つ。

ゲスト・プレーヤーを何人も入れたPACオーケストラの響きは輝かしく、佐渡の基本的には陽性の音楽作りがよく伝わってくる。活動再開後初の特別演奏会ということで、オーケストラメンバー達も気合いが入っており、雄渾な音楽が奏でられる。配置の問題もあって、金管が強すぎる場面もあったが、やり過ぎという感じははなく、むしろ祝祭性が伝わってくる。佐渡は若い頃とは違い、丁寧な音楽作りが特徴となっている。描写力にも長けており、滝や草原の場面での抒情性や清々しさの表出も十分である。嵐の場面の大迫力もいかにも佐渡らしいが、日没は音色が明るすぎ、まだ日が高いように思えてしまう。ここのみならず陰影の付け方には物足りないものも感じた。
佐渡は、エピローグ以降は指揮棒を置いてノンタクトでの指揮。ここでも風景描写以上のものを感じ取るのは難しい。

前半がかなり好調だっただけに終盤の描き方に不満も感じてしまうのだが、全体を通せば今の時期に貴重な「特別な演奏」となっていたように思う。大編成の楽曲を演奏することは他ではまだ難しいため、「フルオーケストラの響き自体」が何よりも素晴らしいものに感じられた。

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2020年9月 2日 (水)

観劇感想精選(350) 大竹しのぶ主演「母・肝っ玉とその子供たち 三十年戦争年代記」

2005年11月15日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

兵庫県立芸術文化センター中ホールで、「母・肝っ玉とその子供たち 三十年戦争年代記」を観る。「肝っ玉おっ母とその子供たち」というタイトルで知られるベルトルト・ブレヒトの戯曲を谷川道子が新たに翻訳したテキストを使用。音楽は初演時と同じパウル・デッサウの曲を使う。演出は栗山民也。出演は、大竹しのぶ、山崎一、秋山菜津子、中村美貴、永山たかし他。衣装:ワダエミ。

中ホールに入るのは初めてだが、思っていたよりも空間が小さい。1階席は埋まっていたようだが、私の座った2階席はガラガラ。当日券でも余裕で入れる。

舞台上には石の荒野のセット。塹壕のような穴があり、そこがオーケストラピットになっている。

栗山さん演出の舞台は何度か観ているが、これまで感心したことは一度もなかった。それで今回もやや不安だったのだが、嬉しいことに予想を超えて良い出来であった。何よりも役者達のアンサンブルがしっかりしている。

「母・肝っ玉」を演じる大竹しのぶの歌が、バンドの音にかき消されて歌詞が聞き取れなかった他は全て納得のいく水準。照明やセットの使い方は好みではなかったが、効果的であることは確かだし、私の好みなど正直どうでもいい。お薦めの舞台である。

舞台上手に鳥居のような形のセットが置かれていたせいで、前半は「肝っ玉」という言葉が、「靖×のは△」という言葉に重なって聞こえた。もちろん、そういった演出意図はないだろうし、後半では鳥居は半分に割れてしまい、「肝っ玉」の言葉の意味も変わってくるので解釈としても間違いなのだろうが、現在の時代状況に鑑み、もし私がこの本を演出するとしたなら本物の鳥居を出すかも知れない。

牧師(山崎一)のセリフにある「(戦争は)自由を与える」という言葉からはイラク戦争のコードネーム「イラクの自由」が連想される(他の翻訳では「解放する」という言葉が用いられている)。今の時期に「肝っ玉」を舞台にかけた背景には当然イラク戦争があるだろうから、意図的にわかりやすく翻訳したのだろう。

ブレヒト自身は「異化効果」がどうのこうのと言っているが、観客は基本的にはそんなものを意識する必要はない。観ていれば十分に面白いし感動出来る。ブレヒトは「母・肝っ玉」ことアンナの愚かさを伝えたいという意図を持ち、感動されることを好まなかったようだが、感動できない「肝っ玉」に意義はあるのだろうか?

有名俳優以外では、口のきけない長女・カトリンを演じた中村美貴の清潔感と、次男・シュワイツェルカス(スイスチーズ)役の永山たかしの感性の瑞々しさを感じさせる演技が特に印象的。

上演時間約3時間(20分の途中休憩時間を含む)の大作だが、長さは全く気にならなかった。

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2020年8月16日 (日)

コンサートの記(648) 佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団 兵庫県立芸術文化センター大ホール杮落とし公演「第九」

2005年10月27日 兵庫県立芸術文化センター大ホール(現在のKOBELCO大ホール)にて

兵庫県立芸術文化センター大ホール柿落とし公演の「第九」を聴くために出かける。西宮という街の空気と雰囲気を知るために少し早めに出かける。

最寄り駅は、阪急西宮北口駅。地元の人は気にしないのだろうが、西宮北口(通称は西北)というのも変わった駅名である。西宮市の北口という場所にあるので西宮北口駅という即物的な名称で、阪急には西宮駅という駅はないから混同することはないが、関西以外の人は阪神西宮駅北口やJR西ノ宮駅北口と勘違いするかも知れない。


午後6時開場。午後7時開演。

兵庫県立芸術文化センター大ホールの内装は、壁全てに木を使った落ち着いたもの。変形シューボックススタイルで天井は高い。4階席は遥か上にあり、ステージからかなり遠い。
トイレは各階にあるがやや狭い。
私は1階サイド席、舞台の左手やや後方(LC9番の席)に座ったのだが、現代のホールにしては通路が狭く、また椅子がずらりと連なっているため、真ん中付近の席を買った人は、たどり着くまで難儀しそうである。後方、壁の後ろにも通路があるのだが、設計の関係でホール側の壁が斜めになっており、目の錯覚で体のバランスを崩しそうになる。

オペラ対応であるため、パイプオルガンはない。

兵庫県立芸術文化センター、柿落とし公演で演奏するのは、兵庫芸術文化センター管弦楽団というそのままの名前のオーケストラである。わかりやすくはある。誰が聞いてもどこのどんなオーケストラかわかる。略称はPAC(Peforming Arts Centerの略)。
兵庫芸術文化センター管弦楽団は、新たに結成されたプロオーケストラ。日本唯一の育成型プロオーケストラでもあり、厳しいオーディションを勝ち抜いた、日本を含む13の国出身の35歳以下のメンバー(平均年齢は27歳)からなる若い楽団である。芸術監督は佐渡裕で、今回の指揮も当然、佐渡が担当する。

合唱は、神戸市混声合唱団(プロの合唱団である)とオープニング記念第9合唱団(オーディションによって選ばれた、今回の第9演奏会のためだけに参加するメンバー達)。
ソリストは、ソプラノがロシアのマリア・コスタンツァ・ノチェンティーニ。メゾ・ソプラノが日本の手嶋眞佐子。テノールがアメリカのポール・ライオン、バリトンが韓国のキュウ=ウォン・ハン。オーケストラ同様、国際色豊かな顔ぶれである。

兵庫県立芸術文化センターの響きは、残響の少ないシンプルなものである。残響を重視するなら良いホールとは呼べないだろうが、その分、音の動きが細部までよくわかる。音楽ホールの響きが安定するまでには、最低でも竣工から2年程度はかかるとされているため、今後、響きが大きく変わる可能性もある。


第1楽章。弦の響きが薄いのが気になる。結成後間もないオーケストラということもあるのだろう。しかし最近流行りの古楽器奏法を取り入れた演奏だと考えれば、違和感は和らぐ。歴史のないオーケストラだからこそ、佐渡の音楽性がよくわかるということもある。

今回の佐渡の第九の特長は、一拍目を強調し、アクセントを与えて、そこからなだらかに歌へと変化させていくということ。メリハリが利いている。
途中、フェンシングの選手のような格好になったり、しゃがみ込むような素振りを見せたり、腰を振ったりと、佐渡の指揮は視覚的にも楽しい。
テンポは速めだったが、第3楽章をじっくり歌ったことと、第4楽章で、歓喜の主題を登場させるまでに間を長く取ったりしたため、「速い」という印象があったわりには、トータルタイムは平均的であった。

オーケストラも、音外しや、アインザッツが揃わなかったりというミスはあったものの健闘。アンサンブルは予想していたものより遥かに緻密である。

歓喜の歌はやはり、生で聴くに限る。人間の声の圧倒的な迫力はCDでは味わえない。二つの合唱団のレベルはかなり高い。

ラスト。佐渡は、「限界を超えているのでは?」と思えるほどの快速テンポを要求。フルトヴェングラーのバイロイト盤をも凌ぐほどの猛烈な追い込みだ。バイロイトは最後の最後で音が潰れてしまったが(実際は録音の問題であった可能性が高いことが後にわかっている)、兵庫芸術文化センター管弦楽団は乱れることなく最後まで弾き通した。
感動よりも興奮するベートーヴェン。完璧でも重厚でもないが、フレッシュな第九であった。

第九の後で何かを演奏するということは少ないが、今回は特別に「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」(「パッピーバースデー、ディア名ホール!」と歌われた)が演奏され、新ホールと新オーケストラの門出を祝った。

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2020年4月 3日 (金)

観劇感想精選(345) 「夢の劇|ドリーム・プレイ」

2016年5月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「夢の劇 | ドリーム・プレイ」を観る。
スウェーデンを代表する劇作家であるヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(もっともストリンドベリ以外に著名なスウェーデン人劇作家はほとんどいないのだが)の読むための戯曲を長塚圭史が上演用台本に纏め、白井晃の演出で上演する。

出演:早見あかり、田中圭、江口のりこ、玉置玲央、那須佐代子、森山開次、山崎一、長塚圭史、白井晃、久保貫太郎、今里真(いまざと・まこと)、宮河愛一郎、高瀬瑤子、坂井絢香、引間文佳(ひきま・あやか)。
音楽:阿部海太郎、mama!milk(生駒祐子&清水恒輔)、トウヤマタケオ。
振り付け:森山開次。

もともとストリンドベリが「悪夢」を主題に、上演を予定していない肘掛け椅子の演劇(読む戯曲、レーゼ・ドラマ)として書いただけでに混沌とした要素がある。

舞台上には原色系の低い段が上から見て八角形に近くなるよう組まれ、天井からはロープなどが吊り下がっている。舞台奥はオーケストラスペースとなり、ここで生演奏が行われる。


ストリンドベリはキリスト教徒であり、作品中でもキリスト教的要素がメインになっているが、仏教など東洋思想にも造詣が深く、仏教的側面もこの作品には出ている。


舞台は、神インドラ(ナレーション:白井晃)の娘・アグネス(早見あかり)が「伸びる城」を伝って地球に降り立つところから始まる。実はインドラというのはバラモン教の神様だそうで、最初から一ひねりある。
インドラは人間の世界は陰鬱だという。アグネスは人間の世界でそれを確認しようとするが、人間達は本当に気の滅入るような話しかしていない。
リーナ(江口のりこ)はバレエ劇場の華だったが、今では人気凋落し、26年間もショールを編み続けている。バレエ劇場の現在の花形はヴィクトリア(高瀬瑤子)であるが、ヴィクトリアに惚れている若年の士官(玉置玲央)は、ヴィクトリアに花を届けようとするも、楽屋へと通じるクローバー形をした磨りガラスの窓のある扉をこれまで開けたことがない。
このクローバーの形をした磨りガラスの窓のある扉が開いているのを見たことがあるものは一人もいないようだ。そこで扉を強引に開けようとするが、警官(宮河愛一郎)が制し、訴訟のための弁護士(長塚圭史)が現れる。
この弁護士(博士として月桂冠を貰える予定がなぜか貰えなかった)とアグネスは結婚することになり、瞬く間に1年が過ぎて(何しろ夢の中なので)、二人の間には子供が出来た。だが弁護士はつまらない訴訟を沢山抱え、アグネスも育児には向いていないようである。ということで、アグネスの結婚経験はあっさりと破綻するのだった。

そんな時、本当に幸せな結婚式が行われたが、新郎新婦の乗った船は幸福のフェルランドではなく、地獄に流れ着いてしまう。

アグネスの前に詩人(田中圭)が現れる。詩人は普段は周りからごろつき同然に見られているのだが、この世の現象を言葉にする力があるという。

アグネスは問う。「どうして人間は醜く争いあうの?」。「それしか知らないからさ」、詩人は答える。アグネスは詩人に、「どうしてみんなこの世の中をもっと良くしようとしないの?」と聞くが、詩人は「しようとした奴はいたさ。だが磔になって殺された(イエス・キリストのこと)」。アグネスは「一人一人はとてもいい人達なのに集団になった途端に酷くなってしまう」と集団心理(群集心理)を嘆く。この社会は「悲惨であり」、人間は「哀れ」であると。
アグネスと詩人は共にこの世界のもっと奥へと進もうとするのだが……。


ラストではアグネスは「この世界に来て最も辛かったこと」として「人間として生きること」を挙げ、「生老病死」的な仏教的要素が顔を出す。実は舞台が始まってすぐに、「花は汚いところに咲く」という言葉が出てきており、アグネスが「伸びる城」に上るラスト(アグネスはこの世界を離れるに当たり、「嬉しいような申し訳ないような」というアンビバレントな感情を抱いている)でも天上に続く「伸びる城」に上がったアグネスの前に大輪の花が咲く。仏教の蓮の思想のようだ。一見すると「厭離穢土欣求浄土」的な物語なのだが、この世にも救いはあるようだ。

夢を彩りあるものに描くために白井晃は、バレエ、天井から下がった縄を使ってのサーカス、ダンスなどを巧みに用いる。「悲惨な祝祭感」という奇妙な雰囲気だ。だが、あるいは人間社会そのものもまた悲惨な祝祭の連続なのかも知れないのだが。

初舞台となる早見あかりであるが安定感のある演技を見せ、十分に合格点である。

阿部海太郎、mama!milk、トウヤマタケオによる音楽は時にお洒落、時に幻想的で、舞台の雰囲気作りと観客の想像喚起に大いに貢献していた。


終演後、白井晃、早見あかり、田中圭によるアフタートークがある。白井晃はちょっとテンションが低めだったが(横浜、松本、西宮とツアーが続いているので疲れているのかも知れない)、田中圭は逆にハイテンション。
まず初舞台となった早見あかり(元ももいろクローバー)であるが、稽古は3月から週6、1日7時間みっちりと行い、ツアーも明日が最後で、終わるという実感がまだないそうだ。ただ、もしお話を頂いてもすぐには舞台の仕事を受けるつもりはないという。稽古期間中、1日11時間睡眠だったそうで、それぐらい眠れないと稽古に耐えられなかったという。しばらくそうした毎日からは遠ざかりたいという気持ちもあるようだ。
田中圭はプロンプター役と詩人役であり、詩人は後半の主役といってもいい役なのだが、前半に振られたプロンプター役はセリフが少なく、詩人は後半からしか出てこないということで、「前半にもっとセリフを喋りたかった」と物足りなそうであった。

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2020年2月 5日 (水)

観劇感想精選(341) オフィス・RENプロデュース「かげぜん」

2020年1月29日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、オフィス・RENプロデュース「かげぜん」を観る。作・出演・演出補:増澤ノゾム、演出:林海象。出演:上遠野太洸(かみとおの・たいこう)、相良伊織(女性)、八神蓮、桜岡あつこ、椎名茸ノ介、織田あいか、梶野稔、佐藤みきと、斉藤とも子。
「かげぜん」というのは、出征した人の無事を祈って留守宅で備えられる膳のことである。

「かげぜん」は10年前となる2010年に初演された作品で、今回は映画監督の林海象が舞台の演出をするのが売りの公演であり、出演俳優に名の知られた人は余りいない。にも関わらずチケット料金は安くはないため、そもそも客の入りもそれほど見込めない。東京・新宿の紀伊國屋ホール(小演劇の上がりといわれた劇場で、私が初めて本格的な観劇をしたのもここである)で7回公演を行ってから、兵庫入りして1回だけ大千秋楽となる公演を行う。林監督が京都在住で、斉藤とも子が兵庫県出身ということもあるのだろう。

私も林海象監督に軽く挨拶をしたが(「ここには30回ぐらい来てます」と話したが、過少申告で、実際は50回以上は来ているはずである。本当のことを言うのは余りね)他の人も林監督の友人や知り合い、関係者が多いと思われる。劇場固定のファンもいるだろう。誰か知り合いがいるかなと思ったが、残念ながら会うことはなかった。

戦中の東京が舞台である。不幸な生い立ちが元でまともに生きられず、結婚詐欺師などをしている神代大吾(上遠野太洸)は、犯罪者達の情報交換の場となっている酒場経営のコウゾウ(椎名茸ノ介)から、「小野寺造船の目の見えない未亡人が、豪邸を処分して小さな家に引っ越している。きっと裏金があるに違いない」という情報を得る。その未亡人である小野寺みつ(斉藤とも子)の息子はガダルカナル島で戦死し、息子の妻も八幡(現在の北九州市)で空襲に遭い、息子で22歳になる正二を祖母に当たるみつに託したいという手紙を残してほどなく他界している。その正二もいざこざに巻き込まれて刺殺されたのだが、みつはそれを知らず、みつ宛ての手紙をコウゾウから受け取った大吾は、正二に成り済まして裏金を探り当てようと企み、まんまと小野寺家に正二として乗り込むことに成功する。
一方、小野寺の戦友である河野(増澤ノゾム)の娘であるたえ(相良伊織)は、戦死した父の命により、正二とお見合いをするために青森から東京に出てくるのだが、上野駅を出てから小野寺家に向かう途中で迷ってしまい、途方に暮れているところを特別高等警察(特高)の宮下(八神蓮)に救われる。実はたえは宮下の妹である時枝(相良伊織二役)にそっくりであった。生まれつき病弱だった時枝は「ガラスの動物園」のローラのようにずっと家で療養生活を送っていたが、大吾に惚れ込んでしまい、働きに出て給料を大吾に貢いでいたのだ。時枝を棄てた大吾を宮下は憎んでいた。正二に成り済ました大吾とたえは小野寺家で出会うのだが、たえを助けた宮下も同行しており……。

実際の正二は理系の大学で量子力学を専攻していたということで、正二に成り済ました大吾も古本屋で専門書を手に入れ、意味も分からず暗記することで乗り切る。量子力学について、「見えないものを探る」学問だと規定するセリフがあるのだが、これはみつの姿とも重なる。たえと時枝を相良伊織が二役で演じており、大吾は最初は開き直って語った「夢を与える」行為と、戦中の「戦場で散るのが男の本懐」とする与えられた夢もまた相似形であり、特に「夢」の対称的にして対極的でもある相似形は重要なメッセージを持つ。
大吾がみつや時枝に与えた夢は嘘でもあるわけだが、演劇人や映画人というのもまた嘘を夢として売る仕事であり、正二に成り済ました大吾を単純な悪として描くことはない。ある意味、大吾は彼らを代表する人物でもある。嘘の夢によって生かされるものは確かにある。

今もまたそうだが、大きな話に人は流される。美しくいうと神話に加わるのであるが、所詮、そうした夢は自分のものではない誰かの夢である。そしてそれは風向き一つで180度変わってしまう信じるに値しないものである。大吾とみつとたえが築いた疑似家族の夢は甘く、脆く、偽りに満ちたものかも知れないが、この時代にあって最上の幸せも紡いだ。だから自分の夢を命懸けで守れという、青臭いかも知れないが揺るぎない価値を持つメッセージを受け取ることが出来たように思う。

 

映画監督の林海象が演出したからというわけではないが、場面は結構動き、映像的な展開となっている。犯罪者の情報交換の場となっている酒場は二階建てになった舞台の上手にある。二階にあるということで「濱マイク」シリーズを思い出したりもしたが、余り関係はないと思われる。一階部分は小野寺みつの家の居間だが、これが背景を変えることにより河野たえの青森の実家(背後にひまわりが咲いている)になったり、特高の宮下の実家の部屋(ガラス戸である)へと変化する。また小野寺家の出入り口は舞台下手にあるのだが、いったん下手袖に隠れて遠回りをする形で表の通りに出るスタイルを取っており、通りと小野寺家の居間は隔てられているという見立てが行われている。上手にある勝手口も居間からは見えないという設定である。また上から幕が下りてきて居間が隠れるとそこは遠く離れた街頭ということになる。ということで上演時間約2時間5分でセットの転換は余りないが場所は移り変わっている。

相良伊織は、元乃木坂46のメンバーだそうだがよく知らない。まだ21歳で、これが初舞台だそうだが、才能はありそうな印象は受けた。
上遠野太洸は、今やイケメン俳優の登竜門となった仮面ライダーシリーズ出身だそうである。キザな悪人とスマートな人情家の二つの面を上手く出していたように思う。
斉藤とも子の味のある演技も素晴らしかった。

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2020年1月 9日 (木)

観劇感想精選(336) 二兎社 「私たちは何も知らない」

2020年1月4日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、二兎社の「私たちは何も知らない」を観る。作・演出:永井愛。出演は、朝倉あき、藤野涼子、大西礼芳(おおにし・あやか)、夏子、富山えり子、須藤蓮、枝元萌。

「空気を読まない女たちがマジで議論した『青鞜』編集部の日々」という副題があり、その通り日本における女性運動の先駆けとなった雑誌「青鞜」を巡る人々を描いた群像劇である。

平塚らいてうの名で知られる平塚明(はる。朝倉あき)、大杉栄との愛人関係で知られ、関東大震災後の混乱の中で甘粕正彦に扼殺されることになる伊藤野枝(藤野涼子)、作家である岩野泡鳴との契約関係が話題となった岩野清(せい。大西礼芳)、長沼智恵子(後の高村智恵子)に代わって「青鞜」の表紙絵を手掛けるも余りの奔放さから追放されるようになる尾竹紅吉(夏子)、「青鞜」の実務全般を受け持つも結婚を機に離れることになる保持研(やすもち・よし)、平塚らいてうと事実婚関係にありながら籍を入れることは終生なかった画家の奥村博(後に博史に改名。須藤蓮)、17歳で自立を目指して渡米するも騙されて娼婦となり(劇中で明かされることはない)、その後、サンフランシスコで語学塾を開いていた山田嘉喜と結婚、「青鞜」でエレン・ケイらの女性社会学者の文章を翻訳することになる山田わか(枝元萌)が主な登場人物である。明治時代が舞台となるが、出演者はみな現代の若者と同じ様な服装をしている。

島村抱月の翻訳・演出、松井須磨子主演によるイプセンの「人形の家」がヒットしていた時代。女性たちも新しいスタイルの生き方に憧れるようになっていた。そんな中、平塚らいてう率いる「青鞜」が注目を浴びる。劇は、らいてうが書いた「青鞜」発刊の言葉をラップで歌い上げる音楽が流れてスタートする。その後もドラムなどの音が響く場面があり、これがノスタルジックな演劇ではないことが示唆される。

注目を浴びたは良いが、「青鞜」は順調とは言えない。編集部はメンバーである物集(もずめ)和子の実家の一室を間借りしていたが、検閲により発禁処分になるなどしたため、お寺の一室やメンバーの家などを転々とすることになる。

まず編集部を訪ねて来たのは、尾竹紅吉。本名は尾竹一枝である。東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)は男子しか入学を許されなかったため、女子美術学校(女子美術大学の前身)に入るも中退し、森田草平が平塚らいてうとの心中未遂を描いた小説『煤煙』を読んで青鞜社入社を希望して来たのだ。その後、紅吉は平塚らいてうとの同性による恋などを小説に書いたり、「青鞜」のメンバーで吉原に繰り出したりしたことなどを著して、一大スキャンダルを招くことになる。
岩野清と山田わかは劇の途中からの入社となるため、始めの内は額縁の中での登場となる。
その岩野清は、岩野泡鳴の不倫による別居と養育費の未払いにより、日本初の離婚裁判を闘うことになった女性である。清はらいてうに何度も編集室に籠もっていないで行動を行うよう訴えかける。

「青鞜」への偏見は酷く、編集室には石が投げ込まれ、罵声が浴びせられる。また「青鞜」を批判する者は女性の割合が比較的高いのも特徴である。

彼女たちが行った三大論争といわれるものがある。貞操観念の問題(守るべきもの)、堕胎の是非(なくてもいい命はあるか)、売春論争(賤業について)であるが、今の時代から見ると観念的ではある。ただこれらの問題は形を変えて今も存続している。日本における女性の社会進出は現在でも世界最低水準であるが、ことは女性問題(#MeToo運動などもあったが)に限らず性別や人種を超えた世界的レベルにまで規模が拡大している。明治時代には女性だけへの差別問題だったかも知れないが、今はより複雑化されて人類としてのあらゆる差別や排除や分断の問題が噴出しているのである。

そして欧州戦争(のちに第一次世界大戦と呼ばれることになる)が勃発し、日本はドイツに宣戦布告して青島などのドイツ領に攻め込む。

ラストは、らいてうの悪夢である。奥村と千葉県の御宿で静養していたらいてうは、野枝が関東大震災後に虐殺されたことを知らされる。だが時はまだ明治である。らいてうは関東大震災を知らない。更に第二次大戦の勃発、元青鞜社員も戦争協力に積極的な者が出る一方で、「青鞜」を追われた紅吉が敢然と戦争に反対表明を行ったことを知らされる。

奥村の呼び掛けにより、それが白昼夢だと悟るらいてうであったが、全てはまだ知らないだけで実際に起こることである。目の前のことに必死になるあまり、時代の流れについて行けないのは彼女たちだけの誤りではない。全人類の宿命である。

平成時代に二度の震災を経験した我々の知り得ない未来に何が待ち受けているのか。ある意味これは恐怖演劇である。

らいてうを演じた朝倉あき。主演デビューしたドラマや映画など映像方面では伸び悩みも感じられるが、柔らかで張りのある声がとても良く、舞台女優として最も優れた武器を手にしている印象である。

京都造形芸術大学映画俳優コース出身である大西礼芳は、映画にも多く出演しているが、悪女役をやらせたらかなりいいところまで行けそうな力の持ち主である。菜々緒のように悪女専門ではなく役を広げる上で取り組んで貰いたい。

黒一点となった須藤蓮。育ちの良さそうな容姿であり、草彅剛や筒井道隆のような善人キャラ路線での活躍も出来そうな感じである。

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2020年1月 5日 (日)

観劇感想精選(334) 「月の獣」

2019年12月29日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「月の獣」を観る。作:リチャード・カリノスキー、テキスト日本語訳:浦辺千鶴。出演は、眞島秀和、岸井ゆきの、久保酎吉、升水柚希。2019ブレイク女優の一人である岸井ゆきの出演の注目の舞台である。とても静かな会話劇であった。

アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキーが舞台であるが、アラム・トマシヤン(眞島秀和)とセタ・トマシヤン(岸井ゆきの)の夫婦はアルメニアからの亡命者である。

まず、久保酎吉扮する老人が、オスマントルコによるアルメニア人迫害の歴史を話す。トルコ人は隣人であるアルメニア人をあるいは砂漠に追いやって餓死させ、あるいはその場で殺害した。そのため、多くのアルメニア人が亡命を余儀なくされており、アラムとセタもそのうちの二人であった。

アラムとセタは、恋愛結婚でもなんでもなく、ミルウォーキーに着いたファーストシーンでアラムがセタに自分たちが夫婦になったことを告げる。しかも、それには手違いがあり、本来はアラムは別の女性を妻に選んだはずだったのだ。アラムが選んだ本来の花嫁は、病気のためすでに他界していた。

アラム・トマシヤンはカメラマンであり、新天地のアメリカでもカメラマンとして働くつもりでいた。一方のセタはファーストシーンではまだ15歳であり、人形を手にしている(岸井ゆきのは「まんぷく」で26歳にして16歳の役を演じたが、今回も少女を演じることになった)。

ミルウォーキーの家には、イーゼルの上に、アラン・トマシヤンの家族の写真が飾られている。しかし全員が顔の部分を切り取られていた。アランの家族のほとんどは殺害されており、アランはその喪失感を描くために顔の部分を切り取っていたのだ。アラムは父親の顔のところにアラム本人の顔を貼る。

アラムとセタのこれまでの人生が、老人によって語られる。アランは写真家にして政治家の息子であり、自身も父親の職業である写真家を継いでいた。セタは弁護士の父と教師の母の間に生まれている。
アラムとセタは、アルメニア人としての自己が抱えている喪失感を埋めるために子作りに励むようになるのだが、セタは不妊症であり、またセタはなかなかアラムを夫として受け入れることが出来ずに引きつった表情を浮かべることが多く、彼のことを「トマシヤンさん」と呼ぶ(これは岸井ゆきのが主演した映画「愛がなんだ」を連想させる)。セタが夫のことを「アラム」とファーストネームで呼ぶようになるのは、第1幕のラストまで待たねばならない。

第2幕では、タイトルである「月の獣」の意味が老人によって語られる。1893年、トルコで月食が観測される。当時のオスマントルコでは月食の原因が解明されておらず、「月の獣」が悪さしているのだとして、月に向かって砲撃が行われたそうである。今から見ると滑稽に見えるが、その2年後、オスマントルコは今度はアルメニア人に対する砲撃を開始する。それはジハード(聖戦)と呼ばれた。「月の獣」は、オスマントルコに襲撃されたもの達の例えである。

そして、ヴィンセントというイタリア系の孤児(升水柚希)が、トマシヤン家で食事をしている場面に移る。セタがヴィンセントを家に上げたのである。
イーゼルの上の写真には、奥さんの顔が現れている。セタである。
老人の正体は、老いた日のヴィンセントであり、ヴィンセントはトマシヤン家の養子となってアルメニアの誇りを受け継いでいくことになる。
アラムはアメリカの大企業とカメラマンとして契約することに成功し、アメリカ社会で生きていく道を切り開く。そして最後は失われたアルメニアの家族に代わり、アラム、セタ、ヴィンセントが肖像に収まることで、個々のトラウマと断絶されそうになった歴史を乗り越えていく。

 

岸井ゆきのはとても細やかな演技をする女優であり、表情も豊かである。今日は前から3列目の真ん中の席であったため、彼女の表情がよく見えてとても魅力的に映ったが、離れた席から見た場合でも彼女の魅力が伝わるのかどうかはわからない。舞台よりは映像向きの演技なのかも知れないが、一挙一動が雄弁であり、女優としての可能性が感じられる。

眞島秀和は、岸井ゆきのとは対照的にどっしりとした安定感と存在感を示す。アラムとセタの性格の対比を描く上でも有効な演技であった。


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2019年12月14日 (土)

観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」

舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。

開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。

ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。

最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。

アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。

それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。

ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。

子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。

ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。

原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。

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映画「おとなのけんか」
2019年12月7日

配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。

英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。

アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。

ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。

子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。

舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。

 

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2019年8月17日 (土)

観劇感想精選(313) オフィス3○○ 音楽劇「私の恋人」

2019年8月9日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、オフィス3○○(さんじゅうまる)の音楽劇「私の恋人」を観る。原作:上田岳弘(たかひろ)、脚本・演出・衣装・出演:渡辺えり。出演:小日向文世、のん、多岐山壮子、松井夢、山田美波、那須野恵。ミュージシャン:三枝伸太郎。歌唱指導:深沢敦。

のんはこれが初舞台。兵庫県出身ということで(そもそも能年という苗字は兵庫県固有のものである)凱旋公演となる。東京の東大和市でプレビュー公演が行われたが、本編の上演は今日が初日となる。

3○○にちなみ、主演俳優3人が30の役を演じるという音楽劇である。

まず、下手客席入り口から小日向文世と渡辺えりが登場。小日向文世は、「歌なんか歌いたくないよ」と文句を言い、「ミュージカルみたいに突然歌い出すの? 変だよ、みっともないよ」と続ける。渡辺えりが、「それは偏見」と言うべきところを「それは先見」と言ってしまって言い直す。初日ということでまだセリフが完全にものになっていないようで、小日向文世も中盤の「おやじが死んで」と言うべきセリフを「俺が死んで……、俺は死んでないよな」と言い直していた。

冒頭に戻るが、小日向文世がぐずるので渡辺えりが一人で歌おうとするが、まさに第一声を発しようとした瞬間にのんが上手から駆け込んできて、奪うようにして歌い始めてしまう。のんは渡辺えりに譲りそうな気配を見せるも、結局、全編歌う。渡辺えりが、「あんた誰?」と聞くと、のんは「まだ誰でも」と答える。
その場に歌いたい女が二人、歌いたくない男が一人でということで、のんが「ならば、踊ろう!」と提唱してダンスが始まる。

 

メインとなるのは、井上由祐(のん)と主治医の高橋(小日向文世)の物語である。井上は前世ではナチ圧制下のドイツで過ごしたユダヤ人、ハインリッヒ・ケプラーであり、そのまた前世は10万年前のクロマニヨン人であった。由祐は10万年前の前前世から「私の恋人」を探しているのだが、まだ見つかってはいない。

一方、由祐の主治医でありながらどう見ても精神を病んでいそうな高橋は、二度の行き止まりを迎えた人類の旅を切実に体験するため、絶滅した優秀なタスマニア人が見た景色を求めてオーストラリアに旅に出る。道中、高橋はキャロライン(キャリー)という女性と出会うが、のちに由祐は彼女こそが「私の恋人」であると見なすことになる。

由祐の双子の弟である時生(渡辺えり)は、子供の頃からずっと引きこもりであり、良い大学から良い企業へと就職した兄に劣等感を抱いていた。二人の父親(小日向文世)は東北で時計屋を営んでいる。時生は「断捨離」を提唱するのだが、父親が残してきた雑多なものは断捨離などしなくても東日本大震災の津波で全て失われてしまうことになる(渡辺えり独自の視点だと思われるが、日本に於ける一度目の行き止まりが敗戦で、二度目が東日本大震災とされているようである)。

やがて老境に達した由祐(小日向文世)の下(もと)に未来の由祐(のん)がやって来る。小日向文世が演じる由祐は今もまだ「私の恋人」に出会えていないが、それは実は未来の由祐が未来からの操作を行っていたことが原因であった。

なぜ、過去を操ろうとするのか?

ラストでは、高橋が神の視点からの発言も行う。看護師の川上(渡辺えり)は、「狂っている」と一蹴するが、高橋は「神は狂っている」と断言する。

 

のんは初舞台の初日ということで、セリフが舞台に馴染んでいない印象を受ける。想像通りの演技をする人で才気を感じるタイプではなく、よく言えば等身大の演技をする人だが、元々が女優としては特別美人でも飛び抜けて可愛いというわけでもなく、同級生にいそうなタイプというポジションにいた人だけにこうした演技があるいは彼女の真骨頂なのかも知れない。「のんはのんだった」ということである。
歌手としても活動しているのん。歌は特段上手いということはないが、美声である。

 

2016年の大河ドラマ「真田丸」放送時に、若い頃の写真が堺雅人に似ていると話題になった小日向文世。今日は様々なかつらをかぶって色々な役をこなしていたが、髪があると今でも小日向文世は堺雅人に似ている。骨格が似ているということもあってか、声も同じ系統であるようだ。

 

カーテンコールで、渡辺えりから、初舞台の初日を地元の兵庫で迎えた感想を聞かれたのんは、「素直に嬉しいです」と答えていた。

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2019年7月22日 (月)

コンサートの記(580) サー・ネヴィル・マリナー指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団第79回定期演奏会

2015年5月15日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団の第79回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、この4月に91歳を迎えたサー・ネヴィル・マリナー。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、月に1度同一演目3回の定期演奏会を行っており、今日は初日である。
曲目は、ハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、ティペットの2つの弦楽オーケストラのための協奏曲、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。イギリスを共通項としたプログラムである(スコットランドがイギリスから独立していたら演目も変わっていたのだろうか?)。

指揮のサー・ネヴィル・マリナーは日本でもお馴染みの存在。1924年、イングランド・リンカーン生まれ。映画「アマデウス」の音楽監督を務めたことでも知られる。フィリップス、DECCA、EMIなどに膨大な量の録音を行っており、「史上最もレコーディングの多い指揮者」といわれたこともあるが、90年代の世界的不況以降は録音には恵まれているとはいえない。フィリップス・レーベルにはモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームスの交響曲全集を録音しているが、フィリップスは現在ではDECCAに吸収合併され、レーベルとしては消滅している。
マリナーは当初はヴァイオリニストとして音楽活動をスタート。ロンドン王立音楽院とパリ音楽院でヴァイオリンを学び、マーティン弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ロンドン交響楽団の第2ヴァイオリン奏者として活躍。イートン校でヴァイオリン教師をしていた時に指揮者のピエール・モントゥーと知り合い、師事する。1959年にアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(アカデミー室内管弦楽団)を組織し、指揮者兼コンサートマスターとして活動を開始。のちに指揮に専念する。指揮者としてロサンジェルス室内管弦楽団とミネソタ管弦楽団の音楽監督、シュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者などを務めた。レパートリーはバロック以前から現代音楽まで幅広いが、特にモーツァルトには定評がある。

今日の兵庫芸術文化センター管弦楽団のゲスト・コンサートマスターは田野倉雅秋(大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター、名古屋フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター)。コントラバスにNHK交響楽団の吉田秀が、ファゴットに京都市交響楽団の中野陽一郎が参加する。チェロにはゲスト・トップ・プレーヤーとしてマーティン・スタンツェライト(広島交響楽団首席チェロ奏者)が参加しているため、六人いる奏者の中で純粋な日本人は一人だけである(ハーフの奏者が一人いる)。

マリナー登場。91歳と高齢だけにゆったりとした歩みであるが元気そうである。

ハイドンの交響曲第96番「奇蹟」。
今日は前から2列目、上手の端に近い席であるが、KOBELCO大ホールはオペラ対応であるため天井が高く反響板もない。ということでステージに近い割りにはさほど音が良く聞こえないし(音が上に行ったまま帰ってこないため)、バランスも悪い。弦楽奏者で演奏中に顔がはっきり見えるのはコンサートマスターの田野倉雅秋だけ。アメリカ式現代配置であるためチェロ奏者は背中しか見えない(ティペットの弦楽オーケストラのための演目があるためティンパニは指揮者の正面ではなく上手奥)。管楽器奏者で顔がはっきり見えるのはファゴットの中野陽一郎だけ。その代わり、マリナーの指揮は良く見える。

そのマリナーの指揮であるが、指示がかなり細かい。通常の演奏なら指揮者がオーケストラのある程度任せることもあるのだが、今日のマリナーは100%、自身の棒で操ろうとする。兵庫芸術文化センター管弦楽団は日本で唯一の育成型オーケストラであるが、そのこととマリナーの棒捌きに関係があるのかわからない。ただ、伝統ある強者揃いのオーケストラを一人で完全に制御しようとすれば反発を受ける可能性があり、下手をすると喧嘩になる怖れもある。育成型オーケストラなら平均年齢が若く、メンバーが入れ替わるため伝統のようなものも築かれない。
格調が高く、明るめの音色による演奏。ピリオド奏法が話題になる前からピリオド的なアプローチを行っていたマリナーであるが、他の指揮者による流線型の演奏に比べると表情は穏健であり、刺激には乏しい。

ティペットの2つの弦楽オーケストラのための協奏曲。ヴァイオリンが両翼配置に変わり、ヴィオラがそれに挟まれる形になる。その背後に横一列にチェロ、更に後ろにコントラバスが並ぶ。シンメトリーの構図である。
颯爽とした演奏である。マリナーの指揮は相変わらずかなり細かい。第2楽章では左手でビブラートの長さも指示する。

音が良いとは言えない席ということもあって、前半は音楽を聴いたというよりもマリナーの指揮棒の細やかさを見たという印象が強い。

メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。音色が明るめであり、特にトランペットの音が輝かしいが、音の重心が全体的に高めであり、音が軽い印象を受けるため、この曲が持つ荘重な一面が余り出ない。マリナーの採ったテンポがかなり速めということもあり、曲の魅力が十全に引き出されたとは言えない演奏である。
ただ弦のハーモニーは美しく、マリナーがヴァイオリン奏者出身、それもオーケストラに所属していたということがプラスに作用したのかも知れない。

今日はアンコールがある。メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」より第3楽章。この曲の演奏は渋みがあって良かった。
マリナーは曲が終わる毎にガッツポーズをしてみせ、最後はコンサートマスターである田野倉の手を取って一緒に退場した。

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