カテゴリー「兵庫県立芸術文化センター」の32件の記事

2020年4月 3日 (金)

観劇感想精選(345) 「夢の劇|ドリーム・プレイ」

2016年5月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「夢の劇 | ドリーム・プレイ」を観る。
スウェーデンを代表する劇作家であるヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(もっともストリンドベリ以外に著名なスウェーデン人劇作家はほとんどいないのだが)の読むための戯曲を長塚圭史が上演用台本に纏め、白井晃の演出で上演する。

出演:早見あかり、田中圭、江口のりこ、玉置玲央、那須佐代子、森山開次、山崎一、長塚圭史、白井晃、久保貫太郎、今里真(いまざと・まこと)、宮河愛一郎、高瀬瑤子、坂井絢香、引間文佳(ひきま・あやか)。
音楽:阿部海太郎、mama!milk(生駒祐子&清水恒輔)、トウヤマタケオ。
振り付け:森山開次。

もともとストリンドベリが「悪夢」を主題に、上演を予定していない肘掛け椅子の演劇(読む戯曲、レーゼ・ドラマ)として書いただけでに混沌とした要素がある。

舞台上には原色系の低い段が上から見て八角形に近くなるよう組まれ、天井からはロープなどが吊り下がっている。舞台奥はオーケストラスペースとなり、ここで生演奏が行われる。


ストリンドベリはキリスト教徒であり、作品中でもキリスト教的要素がメインになっているが、仏教など東洋思想にも造詣が深く、仏教的側面もこの作品には出ている。


舞台は、神インドラ(ナレーション:白井晃)の娘・アグネス(早見あかり)が「伸びる城」を伝って地球に降り立つところから始まる。実はインドラというのはバラモン教の神様だそうで、最初から一ひねりある。
インドラは人間の世界は陰鬱だという。アグネスは人間の世界でそれを確認しようとするが、人間達は本当に気の滅入るような話しかしていない。
リーナ(江口のりこ)はバレエ劇場の華だったが、今では人気凋落し、26年間もショールを編み続けている。バレエ劇場の現在の花形はヴィクトリア(高瀬瑤子)であるが、ヴィクトリアに惚れている若年の士官(玉置玲央)は、ヴィクトリアに花を届けようとするも、楽屋へと通じるクローバー形をした磨りガラスの窓のある扉をこれまで開けたことがない。
このクローバーの形をした磨りガラスの窓のある扉が開いているのを見たことがあるものは一人もいないようだ。そこで扉を強引に開けようとするが、警官(宮河愛一郎)が制し、訴訟のための弁護士(長塚圭史)が現れる。
この弁護士(博士として月桂冠を貰える予定がなぜか貰えなかった)とアグネスは結婚することになり、瞬く間に1年が過ぎて(何しろ夢の中なので)、二人の間には子供が出来た。だが弁護士はつまらない訴訟を沢山抱え、アグネスも育児には向いていないようである。ということで、アグネスの結婚経験はあっさりと破綻するのだった。

そんな時、本当に幸せな結婚式が行われたが、新郎新婦の乗った船は幸福のフェルランドではなく、地獄に流れ着いてしまう。

アグネスの前に詩人(田中圭)が現れる。詩人は普段は周りからごろつき同然に見られているのだが、この世の現象を言葉にする力があるという。

アグネスは問う。「どうして人間は醜く争いあうの?」。「それしか知らないからさ」、詩人は答える。アグネスは詩人に、「どうしてみんなこの世の中をもっと良くしようとしないの?」と聞くが、詩人は「しようとした奴はいたさ。だが磔になって殺された(イエス・キリストのこと)」。アグネスは「一人一人はとてもいい人達なのに集団になった途端に酷くなってしまう」と集団心理(群集心理)を嘆く。この社会は「悲惨であり」、人間は「哀れ」であると。
アグネスと詩人は共にこの世界のもっと奥へと進もうとするのだが……。


ラストではアグネスは「この世界に来て最も辛かったこと」として「人間として生きること」を挙げ、「生老病死」的な仏教的要素が顔を出す。実は舞台が始まってすぐに、「花は汚いところに咲く」という言葉が出てきており、アグネスが「伸びる城」に上るラスト(アグネスはこの世界を離れるに当たり、「嬉しいような申し訳ないような」というアンビバレントな感情を抱いている)でも天上に続く「伸びる城」に上がったアグネスの前に大輪の花が咲く。仏教の蓮の思想のようだ。一見すると「厭離穢土欣求浄土」的な物語なのだが、この世にも救いはあるようだ。

夢を彩りあるものに描くために白井晃は、バレエ、天井から下がった縄を使ってのサーカス、ダンスなどを巧みに用いる。「悲惨な祝祭感」という奇妙な雰囲気だ。だが、あるいは人間社会そのものもまた悲惨な祝祭の連続なのかも知れないのだが。

初舞台となる早見あかりであるが安定感のある演技を見せ、十分に合格点である。

阿部海太郎、mama!milk、トウヤマタケオによる音楽は時にお洒落、時に幻想的で、舞台の雰囲気作りと観客の想像喚起に大いに貢献していた。


終演後、白井晃、早見あかり、田中圭によるアフタートークがある。白井晃はちょっとテンションが低めだったが(横浜、松本、西宮とツアーが続いているので疲れているのかも知れない)、田中圭は逆にハイテンション。
まず初舞台となった早見あかり(元ももいろクローバー)であるが、稽古は3月から週6、1日7時間みっちりと行い、ツアーも明日が最後で、終わるという実感がまだないそうだ。ただ、もしお話を頂いてもすぐには舞台の仕事を受けるつもりはないという。稽古期間中、1日11時間睡眠だったそうで、それぐらい眠れないと稽古に耐えられなかったという。しばらくそうした毎日からは遠ざかりたいという気持ちもあるようだ。
田中圭はプロンプター役と詩人役であり、詩人は後半の主役といってもいい役なのだが、前半に振られたプロンプター役はセリフが少なく、詩人は後半からしか出てこないということで、「前半にもっとセリフを喋りたかった」と物足りなそうであった。

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2020年2月 5日 (水)

観劇感想精選(341) オフィス・RENプロデュース「かげぜん」

2020年1月29日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、オフィス・RENプロデュース「かげぜん」を観る。作・出演・演出補:増澤ノゾム、演出:林海象。出演:上遠野太洸(かみとおの・たいこう)、相良伊織(女性)、八神蓮、桜岡あつこ、椎名茸ノ介、織田あいか、梶野稔、佐藤みきと、斉藤とも子。
「かげぜん」というのは、出征した人の無事を祈って留守宅で備えられる膳のことである。

「かげぜん」は10年前となる2010年に初演された作品で、今回は映画監督の林海象が舞台の演出をするのが売りの公演であり、出演俳優に名の知られた人は余りいない。にも関わらずチケット料金は安くはないため、そもそも客の入りもそれほど見込めない。東京・新宿の紀伊國屋ホール(小演劇の上がりといわれた劇場で、私が初めて本格的な観劇をしたのもここである)で7回公演を行ってから、兵庫入りして1回だけ大千秋楽となる公演を行う。林監督が京都在住で、斉藤とも子が兵庫県出身ということもあるのだろう。

私も林海象監督に軽く挨拶をしたが(「ここには30回ぐらい来てます」と話したが、過少申告で、実際は50回以上は来ているはずである。本当のことを言うのは余りね)他の人も林監督の友人や知り合い、関係者が多いと思われる。劇場固定のファンもいるだろう。誰か知り合いがいるかなと思ったが、残念ながら会うことはなかった。

戦中の東京が舞台である。不幸な生い立ちが元でまともに生きられず、結婚詐欺師などをしている神代大吾(上遠野太洸)は、犯罪者達の情報交換の場となっている酒場経営のコウゾウ(椎名茸ノ介)から、「小野寺造船の目の見えない未亡人が、豪邸を処分して小さな家に引っ越している。きっと裏金があるに違いない」という情報を得る。その未亡人である小野寺みつ(斉藤とも子)の息子はガダルカナル島で戦死し、息子の妻も八幡(現在の北九州市)で空襲に遭い、息子で22歳になる正二を祖母に当たるみつに託したいという手紙を残してほどなく他界している。その正二もいざこざに巻き込まれて刺殺されたのだが、みつはそれを知らず、みつ宛ての手紙をコウゾウから受け取った大吾は、正二に成り済まして裏金を探り当てようと企み、まんまと小野寺家に正二として乗り込むことに成功する。
一方、小野寺の戦友である河野(増澤ノゾム)の娘であるたえ(相良伊織)は、戦死した父の命により、正二とお見合いをするために青森から東京に出てくるのだが、上野駅を出てから小野寺家に向かう途中で迷ってしまい、途方に暮れているところを特別高等警察(特高)の宮下(八神蓮)に救われる。実はたえは宮下の妹である時枝(相良伊織二役)にそっくりであった。生まれつき病弱だった時枝は「ガラスの動物園」のローラのようにずっと家で療養生活を送っていたが、大吾に惚れ込んでしまい、働きに出て給料を大吾に貢いでいたのだ。時枝を棄てた大吾を宮下は憎んでいた。正二に成り済ました大吾とたえは小野寺家で出会うのだが、たえを助けた宮下も同行しており……。

実際の正二は理系の大学で量子力学を専攻していたということで、正二に成り済ました大吾も古本屋で専門書を手に入れ、意味も分からず暗記することで乗り切る。量子力学について、「見えないものを探る」学問だと規定するセリフがあるのだが、これはみつの姿とも重なる。たえと時枝を相良伊織が二役で演じており、大吾は最初は開き直って語った「夢を与える」行為と、戦中の「戦場で散るのが男の本懐」とする与えられた夢もまた相似形であり、特に「夢」の対称的にして対極的でもある相似形は重要なメッセージを持つ。
大吾がみつや時枝に与えた夢は嘘でもあるわけだが、演劇人や映画人というのもまた嘘を夢として売る仕事であり、正二に成り済ました大吾を単純な悪として描くことはない。ある意味、大吾は彼らを代表する人物でもある。嘘の夢によって生かされるものは確かにある。

今もまたそうだが、大きな話に人は流される。美しくいうと神話に加わるのであるが、所詮、そうした夢は自分のものではない誰かの夢である。そしてそれは風向き一つで180度変わってしまう信じるに値しないものである。大吾とみつとたえが築いた疑似家族の夢は甘く、脆く、偽りに満ちたものかも知れないが、この時代にあって最上の幸せも紡いだ。だから自分の夢を命懸けで守れという、青臭いかも知れないが揺るぎない価値を持つメッセージを受け取ることが出来たように思う。

 

映画監督の林海象が演出したからというわけではないが、場面は結構動き、映像的な展開となっている。犯罪者の情報交換の場となっている酒場は二階建てになった舞台の上手にある。二階にあるということで「濱マイク」シリーズを思い出したりもしたが、余り関係はないと思われる。一階部分は小野寺みつの家の居間だが、これが背景を変えることにより河野たえの青森の実家(背後にひまわりが咲いている)になったり、特高の宮下の実家の部屋(ガラス戸である)へと変化する。また小野寺家の出入り口は舞台下手にあるのだが、いったん下手袖に隠れて遠回りをする形で表の通りに出るスタイルを取っており、通りと小野寺家の居間は隔てられているという見立てが行われている。上手にある勝手口も居間からは見えないという設定である。また上から幕が下りてきて居間が隠れるとそこは遠く離れた街頭ということになる。ということで上演時間約2時間5分でセットの転換は余りないが場所は移り変わっている。

相良伊織は、元乃木坂46のメンバーだそうだがよく知らない。まだ21歳で、これが初舞台だそうだが、才能はありそうな印象は受けた。
上遠野太洸は、今やイケメン俳優の登竜門となった仮面ライダーシリーズ出身だそうである。キザな悪人とスマートな人情家の二つの面を上手く出していたように思う。
斉藤とも子の味のある演技も素晴らしかった。

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2020年1月 9日 (木)

観劇感想精選(336) 二兎社 「私たちは何も知らない」

2020年1月4日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、二兎社の「私たちは何も知らない」を観る。作・演出:永井愛。出演は、朝倉あき、藤野涼子、大西礼芳(おおにし・あやか)、夏子、富山えり子、須藤蓮、枝元萌。

「空気を読まない女たちがマジで議論した『青鞜』編集部の日々」という副題があり、その通り日本における女性運動の先駆けとなった雑誌「青鞜」を巡る人々を描いた群像劇である。

平塚らいてうの名で知られる平塚明(はる。朝倉あき)、大杉栄との愛人関係で知られ、関東大震災後の混乱の中で甘粕正彦に扼殺されることになる伊藤野枝(藤野涼子)、作家である岩野泡鳴との契約関係が話題となった岩野清(せい。大西礼芳)、長沼智恵子(後の高村智恵子)に代わって「青鞜」の表紙絵を手掛けるも余りの奔放さから追放されるようになる尾竹紅吉(夏子)、「青鞜」の実務全般を受け持つも結婚を機に離れることになる保持研(やすもち・よし)、平塚らいてうと事実婚関係にありながら籍を入れることは終生なかった画家の奥村博(後に博史に改名。須藤蓮)、17歳で自立を目指して渡米するも騙されて娼婦となり(劇中で明かされることはない)、その後、サンフランシスコで語学塾を開いていた山田嘉喜と結婚、「青鞜」でエレン・ケイらの女性社会学者の文章を翻訳することになる山田わか(枝元萌)が主な登場人物である。明治時代が舞台となるが、出演者はみな現代の若者と同じ様な服装をしている。

島村抱月の翻訳・演出、松井須磨子主演によるイプセンの「人形の家」がヒットしていた時代。女性たちも新しいスタイルの生き方に憧れるようになっていた。そんな中、平塚らいてう率いる「青鞜」が注目を浴びる。劇は、らいてうが書いた「青鞜」発刊の言葉をラップで歌い上げる音楽が流れてスタートする。その後もドラムなどの音が響く場面があり、これがノスタルジックな演劇ではないことが示唆される。

注目を浴びたは良いが、「青鞜」は順調とは言えない。編集部はメンバーである物集(もずめ)和子の実家の一室を間借りしていたが、検閲により発禁処分になるなどしたため、お寺の一室やメンバーの家などを転々とすることになる。

まず編集部を訪ねて来たのは、尾竹紅吉。本名は尾竹一枝である。東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)は男子しか入学を許されなかったため、女子美術学校(女子美術大学の前身)に入るも中退し、森田草平が平塚らいてうとの心中未遂を描いた小説『煤煙』を読んで青鞜社入社を希望して来たのだ。その後、紅吉は平塚らいてうとの同性による恋などを小説に書いたり、「青鞜」のメンバーで吉原に繰り出したりしたことなどを著して、一大スキャンダルを招くことになる。
岩野清と山田わかは劇の途中からの入社となるため、始めの内は額縁の中での登場となる。
その岩野清は、岩野泡鳴の不倫による別居と養育費の未払いにより、日本初の離婚裁判を闘うことになった女性である。清はらいてうに何度も編集室に籠もっていないで行動を行うよう訴えかける。

「青鞜」への偏見は酷く、編集室には石が投げ込まれ、罵声が浴びせられる。また「青鞜」を批判する者は女性の割合が比較的高いのも特徴である。

彼女たちが行った三大論争といわれるものがある。貞操観念の問題(守るべきもの)、堕胎の是非(なくてもいい命はあるか)、売春論争(賤業について)であるが、今の時代から見ると観念的ではある。ただこれらの問題は形を変えて今も存続している。日本における女性の社会進出は現在でも世界最低水準であるが、ことは女性問題(#MeToo運動などもあったが)に限らず性別や人種を超えた世界的レベルにまで規模が拡大している。明治時代には女性だけへの差別問題だったかも知れないが、今はより複雑化されて人類としてのあらゆる差別や排除や分断の問題が噴出しているのである。

そして欧州戦争(のちに第一次世界大戦と呼ばれることになる)が勃発し、日本はドイツに宣戦布告して青島などのドイツ領に攻め込む。

ラストは、らいてうの悪夢である。奥村と千葉県の御宿で静養していたらいてうは、野枝が関東大震災後に虐殺されたことを知らされる。だが時はまだ明治である。らいてうは関東大震災を知らない。更に第二次大戦の勃発、元青鞜社員も戦争協力に積極的な者が出る一方で、「青鞜」を追われた紅吉が敢然と戦争に反対表明を行ったことを知らされる。

奥村の呼び掛けにより、それが白昼夢だと悟るらいてうであったが、全てはまだ知らないだけで実際に起こることである。目の前のことに必死になるあまり、時代の流れについて行けないのは彼女たちだけの誤りではない。全人類の宿命である。

平成時代に二度の震災を経験した我々の知り得ない未来に何が待ち受けているのか。ある意味これは恐怖演劇である。

らいてうを演じた朝倉あき。主演デビューしたドラマや映画など映像方面では伸び悩みも感じられるが、柔らかで張りのある声がとても良く、舞台女優として最も優れた武器を手にしている印象である。

京都造形芸術大学映画俳優コース出身である大西礼芳は、映画にも多く出演しているが、悪女役をやらせたらかなりいいところまで行けそうな力の持ち主である。菜々緒のように悪女専門ではなく役を広げる上で取り組んで貰いたい。

黒一点となった須藤蓮。育ちの良さそうな容姿であり、草彅剛や筒井道隆のような善人キャラ路線での活躍も出来そうな感じである。

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2020年1月 5日 (日)

観劇感想精選(334) 「月の獣」

2019年12月29日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「月の獣」を観る。作:リチャード・カリノスキー、テキスト日本語訳:浦辺千鶴。出演は、眞島秀和、岸井ゆきの、久保酎吉、升水柚希。2019ブレイク女優の一人である岸井ゆきの出演の注目の舞台である。とても静かな会話劇であった。

アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキーが舞台であるが、アラム・トマシヤン(眞島秀和)とセタ・トマシヤン(岸井ゆきの)の夫婦はアルメニアからの亡命者である。

まず、久保酎吉扮する老人が、オスマントルコによるアルメニア人迫害の歴史を話す。トルコ人は隣人であるアルメニア人をあるいは砂漠に追いやって餓死させ、あるいはその場で殺害した。そのため、多くのアルメニア人が亡命を余儀なくされており、アラムとセタもそのうちの二人であった。

アラムとセタは、恋愛結婚でもなんでもなく、ミルウォーキーに着いたファーストシーンでアラムがセタに自分たちが夫婦になったことを告げる。しかも、それには手違いがあり、本来はアラムは別の女性を妻に選んだはずだったのだ。アラムが選んだ本来の花嫁は、病気のためすでに他界していた。

アラム・トマシヤンはカメラマンであり、新天地のアメリカでもカメラマンとして働くつもりでいた。一方のセタはファーストシーンではまだ15歳であり、人形を手にしている(岸井ゆきのは「まんぷく」で26歳にして16歳の役を演じたが、今回も少女を演じることになった)。

ミルウォーキーの家には、イーゼルの上に、アラン・トマシヤンの家族の写真が飾られている。しかし全員が顔の部分を切り取られていた。アランの家族のほとんどは殺害されており、アランはその喪失感を描くために顔の部分を切り取っていたのだ。アラムは父親の顔のところにアラム本人の顔を貼る。

アラムとセタのこれまでの人生が、老人によって語られる。アランは写真家にして政治家の息子であり、自身も父親の職業である写真家を継いでいた。セタは弁護士の父と教師の母の間に生まれている。
アラムとセタは、アルメニア人としての自己が抱えている喪失感を埋めるために子作りに励むようになるのだが、セタは不妊症であり、またセタはなかなかアラムを夫として受け入れることが出来ずに引きつった表情を浮かべることが多く、彼のことを「トマシヤンさん」と呼ぶ(これは岸井ゆきのが主演した映画「愛がなんだ」を連想させる)。セタが夫のことを「アラム」とファーストネームで呼ぶようになるのは、第1幕のラストまで待たねばならない。

第2幕では、タイトルである「月の獣」の意味が老人によって語られる。1893年、トルコで月食が観測される。当時のオスマントルコでは月食の原因が解明されておらず、「月の獣」が悪さしているのだとして、月に向かって砲撃が行われたそうである。今から見ると滑稽に見えるが、その2年後、オスマントルコは今度はアルメニア人に対する砲撃を開始する。それはジハード(聖戦)と呼ばれた。「月の獣」は、オスマントルコに襲撃されたもの達の例えである。

そして、ヴィンセントというイタリア系の孤児(升水柚希)が、トマシヤン家で食事をしている場面に移る。セタがヴィンセントを家に上げたのである。
イーゼルの上の写真には、奥さんの顔が現れている。セタである。
老人の正体は、老いた日のヴィンセントであり、ヴィンセントはトマシヤン家の養子となってアルメニアの誇りを受け継いでいくことになる。
アラムはアメリカの大企業とカメラマンとして契約することに成功し、アメリカ社会で生きていく道を切り開く。そして最後は失われたアルメニアの家族に代わり、アラム、セタ、ヴィンセントが肖像に収まることで、個々のトラウマと断絶されそうになった歴史を乗り越えていく。

 

岸井ゆきのはとても細やかな演技をする女優であり、表情も豊かである。今日は前から3列目の真ん中の席であったため、彼女の表情がよく見えてとても魅力的に映ったが、離れた席から見た場合でも彼女の魅力が伝わるのかどうかはわからない。舞台よりは映像向きの演技なのかも知れないが、一挙一動が雄弁であり、女優としての可能性が感じられる。

眞島秀和は、岸井ゆきのとは対照的にどっしりとした安定感と存在感を示す。アラムとセタの性格の対比を描く上でも有効な演技であった。


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2019年12月14日 (土)

観劇感想精選(329)ヤスミナ・レザ「正しいオトナたち」&これまでに観た映画より(147)ヤスミナ・レザ+ロマン・ポランスキー「おとなのけんか」

舞台「正しいオトナたち」
2019年12月7日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「正しいオトナたち」を観る。作:ヤスミナ・レザ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。真矢ミキ、岡本健一、中島朋子、近藤芳正による四人芝居である。上演時間約1時間45分、1幕もの場面転換なし、リアルタイムでの展開である。2008年の初演で、2011年にはロマン・ポランスキーの監督で映画化もされている(タイトルは「おとなのけんか」)。

開場から開演まで、ずっとヴィヴァルディの「四季」が流れている。昨年、やはり上村聡史の演出で上演されたヤスミナ・レザの「大人のけんかが終わるまで」でも「四季」が流れていたが、上村の好みなのかレザの指定なのかは不明である。

ヴェロニック(真矢ミキ)とミシェル(近藤芳正)のウリエ家の居間が舞台である。
ヴェロニックとミシェルの11歳の息子であるブリュノが、アラン(岡本健一)とアネット(中島朋子)のレイユ夫妻の息子で同級生のフェルディナンに棒で顔を打たれ、前歯が欠けるという事件が起こる。片方の前歯の神経は抜けてしまい、18歳まではインプラントなどの施術も不可能であるため、当分の間はセラミックを被せた状態でいるしかない。ということでレイユ夫妻がウリエ夫妻に謝罪に来たのだ。だが、アランはヴェロニックが宣誓書で用いた「棒で武装し」という言葉に反対する。武装では計画的に殴りかかったような印象を受けるためだ。流れの中で偶発的かつ突発的にということにしたいようである。
何故、フェルディナンがブリュノを棒で叩いたのかについては、フェルディナンもブリュノも詳しくは言わないため不明である。だが、ブリュノがグループを作っており、フェルディナンが仲間はずれにあったらしいということは噂で聞こえてきたようだ。ブリュノがフェルディナンに「お前チクっただろう」と言ったらしいことはレイユ夫妻も把握している。

最初は冷静を装っていたウリエ夫妻とレイユ夫妻であるが、次第にいがみ合いが始まる。弁護士をしているアランは、薬害事件を起こした製薬会社の弁護に取り組んでおり、四六時中、製薬会社の重役や助手と携帯で通話をしているという状態でせわしなく、ウリエ夫妻は勿論、妻であるアネットも苛立ちを隠せない。そもそもが仕事人間のアランは子どもの喧嘩など訴訟の仕事に比べれば取るに足らないことと考えており、やる気がない。
ヴェロニックはアフリカ史関係の著書がある作家であり、歴史や美術関係の出版社でも働いているのだが、パート勤務だそうである。
ミシェルは金物を中心とした小さな家庭用品販売店を営んでいる。売り上げは余りないようだが、仕事に誇りを持っているようだ。
アネットは、投資関係のコンサルタントを行っているという。

アネットが突如気分を悪くして、嘔吐し、ヴェロニックの大切な美術書を汚してしまうなど、散々な展開。レイユ夫妻がバスルームに行っている間、ヴェロニカは、「あの二人は怖ろしい!」と言い、アランがアネットのことを「トゥトゥ」と呼んでいることをからかったりするのだが、それを戻ってきていたアランに聞かれるなど、更に険悪さが増す(余談だが、「トゥトゥ」というのは、「シェリーに口づけ」の冒頭に由来しているらしい)。

それでもなんとか丸く収まりそうになるのだが、ミシェルが前日ハムスターを路上に置き去りにしたという話を聞いていたアネットが、「ハムスターを殺した」となじったことから事態は更なる悪化を見せ……。

ちょっとした見解の相違から敵と味方が次々入れ替わり、それぞれの個性の強さが溝を生んだり、逆に接近したりと目まぐるしい展開を見せるヤスミナ・レザらしい心理劇である。

子どもの喧嘩が元なのだが、それぞれの親の持つ問題点が浮かび上がる仕掛けである。原因を作った子ども二人が舞台に登場することはなく、ある意味、主役不在で脇役が勝手な展開を見せていると捉えることも出来る。

ハムスターの話は、ラストでも出てくるのだが、劇は近藤芳正演じるミシェルの示唆的なセリフで終わる。男優3人の芝居である「ART」(来年、上演される予定がある)でもそうだったが、ヤスミナ・レザの劇は個性的なセリフで締められることが多い。

原題の「Le Dieu du carnage」は「修羅場、虐殺、殺戮」というような意味だそうだが、今回の邦題が「正しいオトナたち」、日本初演時の邦題が「大人は、かく戦えり」で、いずれも「大人」という言葉が入っている。基本的にヤスミナ・レザの作品は大人向けであり、内容もシリアスで渋めのものが多い。初めて観たヤスミナ・レザの作品は、昔のABCホール(ザ・シンフォニーホールよりも北にあったABCテレビ社屋内にあった。ほたるまちに移転したABCテレビ新社屋内にあるABCホールとは別物である)で観た「偶然の男」である。長塚京三とキムラ緑子の二人芝居であったが、あれはもう一度観てみたい。とても愛らしい大人のための寓話であった。

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映画「おとなのけんか」
2019年12月7日

配信で、映画「おとなのけんか」も観てみる。原題は、「God of Carnage(殺戮の神)」。ロマン・ポランスキー監督作品。原作:ヤスミナ・レザ。脚本:ヤスミナ・レザ&ロマン・ポランスキー。2011年の作品。フランス・ポーランド・ドイツ・スペイン合作。上映時間79分の中編である。出演は、ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。ポランスキー監督作品だけにかなり豪華である。ノンクレジットで少年達も登場し、木の棒で顔を殴るシーンも引きで撮られている。

英語圏の俳優を使っているため、舞台はパリからニューヨークのブルックリン地区に置き換えられており、役名もアラン(クリストフ・ヴァルツ)以外はアメリカ人風のものに変わっている。ミシェルは英語発音のマイケル(ジョン・C・ライリー)に変わっただけだが、ヴェロニックがペネロペ(ジョディ・フォスター)、アネットがナンシー(アンの愛称。ケイト・ウィンスレット)になっている。子ども達の名前も、フェルディナンがザカリーに、ブリュノがイーサンに変更になっている。だが、実際の撮影はパリで行われたそうだ(ポランスキー監督のアメリカ入国が困難だったため)。

アパートメントの一室が舞台であるが、映画であるだけに舞台の移動も可能で、一度だけだが全員が玄関を出てエレベーターの前まで出るシーンがある。また、舞台版では描くことの出来なかったトイレ(バスルーム)内でのシーンも撮影されている。

ヤスミナ・レザの作品はセリフの量が多いのだが、実際に狭いアパートメントの居間でこの量のセリフが語られると、情報過多の印象を受ける。少なくとも我々日本人はこれほど膨大な量で会話することは稀なので、空間が言葉で隙もなく埋められていくような窮屈さを覚える。だが、それこそがこの作品の本質であるため、居心地の悪さも含めて把握は出来る。
映画の場合、構造は舞台よりも把握はしやすくなっており、TPOをわきまえずに携帯で電話をしまくるアランがまず今この場所に向き合わないことで全員の気分を波立たせ、「大人として求められること。守らねばならないこと」の防波堤が崩れていく。他の登場人物も一言多いため、その余計な一言が波紋を呼んで、やらずもがなの行動を招いてしまう。「殺戮の神」という言葉は、アランがアフリカの情勢を語るときに登場するのだが、アフリカ史専門の著書のあるペネロペに向かってそうした言葉を用いて教授するような言い方をしたためペネロペの怒りを招くなど(専門家の前でさもわかったようなことを言ってはいけない)事態が悪化していく。

子どもの場合は活動の範囲が狭く、友人達と情報を共有した小さな世界で生きていることが多い。性差も大人ほどには大きく意識されず、世間のことについても詳しいとはいえない状態である。一方、大人の場合は好き好んだ場所に移動が可能で、それぞれ専門と呼べる分野を持っていることが多く、多くの場合矜持を伴っている。個人的な知識や経験も豊富で、それぞれに価値観と哲学がある。男女の指向性の違いも大きい。そのため、溝が出来ると子どもとは比べものにならないほど広く深くなり、収拾が付かなくなってしまう。ミニバベルの塔状態が簡単に生まれてしまうわけだ。

舞台版ではラストに登場するハムスターの話は映画版には登場しない。ネタバレになるのは避けるがケータイが鳴ることで「取り越し苦労が多かった」ことがわかるだけである。
ただエンドクレジットにハムスターが登場し、その後、公園で子ども達が遊ぶ姿が映される。ハムスターは子どもの寓意でもあるので、映像で表現出来るならということで会話は敢えて持ち出さなかったのであろう。

 

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2019年8月17日 (土)

観劇感想精選(313) オフィス3○○ 音楽劇「私の恋人」

2019年8月9日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、オフィス3○○(さんじゅうまる)の音楽劇「私の恋人」を観る。原作:上田岳弘(たかひろ)、脚本・演出・衣装・出演:渡辺えり。出演:小日向文世、のん、多岐山壮子、松井夢、山田美波、那須野恵。ミュージシャン:三枝伸太郎。歌唱指導:深沢敦。

のんはこれが初舞台。兵庫県出身ということで(そもそも能年という苗字は兵庫県固有のものである)凱旋公演となる。東京の東大和市でプレビュー公演が行われたが、本編の上演は今日が初日となる。

3○○にちなみ、主演俳優3人が30の役を演じるという音楽劇である。

まず、下手客席入り口から小日向文世と渡辺えりが登場。小日向文世は、「歌なんか歌いたくないよ」と文句を言い、「ミュージカルみたいに突然歌い出すの? 変だよ、みっともないよ」と続ける。渡辺えりが、「それは偏見」と言うべきところを「それは先見」と言ってしまって言い直す。初日ということでまだセリフが完全にものになっていないようで、小日向文世も中盤の「おやじが死んで」と言うべきセリフを「俺が死んで……、俺は死んでないよな」と言い直していた。

冒頭に戻るが、小日向文世がぐずるので渡辺えりが一人で歌おうとするが、まさに第一声を発しようとした瞬間にのんが上手から駆け込んできて、奪うようにして歌い始めてしまう。のんは渡辺えりに譲りそうな気配を見せるも、結局、全編歌う。渡辺えりが、「あんた誰?」と聞くと、のんは「まだ誰でも」と答える。
その場に歌いたい女が二人、歌いたくない男が一人でということで、のんが「ならば、踊ろう!」と提唱してダンスが始まる。

 

メインとなるのは、井上由祐(のん)と主治医の高橋(小日向文世)の物語である。井上は前世ではナチ圧制下のドイツで過ごしたユダヤ人、ハインリッヒ・ケプラーであり、そのまた前世は10万年前のクロマニヨン人であった。由祐は10万年前の前前世から「私の恋人」を探しているのだが、まだ見つかってはいない。

一方、由祐の主治医でありながらどう見ても精神を病んでいそうな高橋は、二度の行き止まりを迎えた人類の旅を切実に体験するため、絶滅した優秀なタスマニア人が見た景色を求めてオーストラリアに旅に出る。道中、高橋はキャロライン(キャリー)という女性と出会うが、のちに由祐は彼女こそが「私の恋人」であると見なすことになる。

由祐の双子の弟である時生(渡辺えり)は、子供の頃からずっと引きこもりであり、良い大学から良い企業へと就職した兄に劣等感を抱いていた。二人の父親(小日向文世)は東北で時計屋を営んでいる。時生は「断捨離」を提唱するのだが、父親が残してきた雑多なものは断捨離などしなくても東日本大震災の津波で全て失われてしまうことになる(渡辺えり独自の視点だと思われるが、日本に於ける一度目の行き止まりが敗戦で、二度目が東日本大震災とされているようである)。

やがて老境に達した由祐(小日向文世)の下(もと)に未来の由祐(のん)がやって来る。小日向文世が演じる由祐は今もまだ「私の恋人」に出会えていないが、それは実は未来の由祐が未来からの操作を行っていたことが原因であった。

なぜ、過去を操ろうとするのか?

ラストでは、高橋が神の視点からの発言も行う。看護師の川上(渡辺えり)は、「狂っている」と一蹴するが、高橋は「神は狂っている」と断言する。

 

のんは初舞台の初日ということで、セリフが舞台に馴染んでいない印象を受ける。想像通りの演技をする人で才気を感じるタイプではなく、よく言えば等身大の演技をする人だが、元々が女優としては特別美人でも飛び抜けて可愛いというわけでもなく、同級生にいそうなタイプというポジションにいた人だけにこうした演技があるいは彼女の真骨頂なのかも知れない。「のんはのんだった」ということである。
歌手としても活動しているのん。歌は特段上手いということはないが、美声である。

 

2016年の大河ドラマ「真田丸」放送時に、若い頃の写真が堺雅人に似ていると話題になった小日向文世。今日は様々なかつらをかぶって色々な役をこなしていたが、髪があると今でも小日向文世は堺雅人に似ている。骨格が似ているということもあってか、声も同じ系統であるようだ。

 

カーテンコールで、渡辺えりから、初舞台の初日を地元の兵庫で迎えた感想を聞かれたのんは、「素直に嬉しいです」と答えていた。

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2019年7月22日 (月)

コンサートの記(580) サー・ネヴィル・マリナー指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団第79回定期演奏会

2015年5月15日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団の第79回定期演奏会を聴く。今日の指揮は、この4月に91歳を迎えたサー・ネヴィル・マリナー。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、月に1度同一演目3回の定期演奏会を行っており、今日は初日である。
曲目は、ハイドンの交響曲第96番「奇蹟」、ティペットの2つの弦楽オーケストラのための協奏曲、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。イギリスを共通項としたプログラムである(スコットランドがイギリスから独立していたら演目も変わっていたのだろうか?)。

指揮のサー・ネヴィル・マリナーは日本でもお馴染みの存在。1924年、イングランド・リンカーン生まれ。映画「アマデウス」の音楽監督を務めたことでも知られる。フィリップス、DECCA、EMIなどに膨大な量の録音を行っており、「史上最もレコーディングの多い指揮者」といわれたこともあるが、90年代の世界的不況以降は録音には恵まれているとはいえない。フィリップス・レーベルにはモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、ブラームスの交響曲全集を録音しているが、フィリップスは現在ではDECCAに吸収合併され、レーベルとしては消滅している。
マリナーは当初はヴァイオリニストとして音楽活動をスタート。ロンドン王立音楽院とパリ音楽院でヴァイオリンを学び、マーティン弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、ロンドン交響楽団の第2ヴァイオリン奏者として活躍。イートン校でヴァイオリン教師をしていた時に指揮者のピエール・モントゥーと知り合い、師事する。1959年にアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(アカデミー室内管弦楽団)を組織し、指揮者兼コンサートマスターとして活動を開始。のちに指揮に専念する。指揮者としてロサンジェルス室内管弦楽団とミネソタ管弦楽団の音楽監督、シュトゥットガルト放送交響楽団の首席指揮者などを務めた。レパートリーはバロック以前から現代音楽まで幅広いが、特にモーツァルトには定評がある。

今日の兵庫芸術文化センター管弦楽団のゲスト・コンサートマスターは田野倉雅秋(大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター、名古屋フィルハーモニー交響楽団コンサートマスター)。コントラバスにNHK交響楽団の吉田秀が、ファゴットに京都市交響楽団の中野陽一郎が参加する。チェロにはゲスト・トップ・プレーヤーとしてマーティン・スタンツェライト(広島交響楽団首席チェロ奏者)が参加しているため、六人いる奏者の中で純粋な日本人は一人だけである(ハーフの奏者が一人いる)。

マリナー登場。91歳と高齢だけにゆったりとした歩みであるが元気そうである。

ハイドンの交響曲第96番「奇蹟」。
今日は前から2列目、上手の端に近い席であるが、KOBELCO大ホールはオペラ対応であるため天井が高く反響板もない。ということでステージに近い割りにはさほど音が良く聞こえないし(音が上に行ったまま帰ってこないため)、バランスも悪い。弦楽奏者で演奏中に顔がはっきり見えるのはコンサートマスターの田野倉雅秋だけ。アメリカ式現代配置であるためチェロ奏者は背中しか見えない(ティペットの弦楽オーケストラのための演目があるためティンパニは指揮者の正面ではなく上手奥)。管楽器奏者で顔がはっきり見えるのはファゴットの中野陽一郎だけ。その代わり、マリナーの指揮は良く見える。

そのマリナーの指揮であるが、指示がかなり細かい。通常の演奏なら指揮者がオーケストラのある程度任せることもあるのだが、今日のマリナーは100%、自身の棒で操ろうとする。兵庫芸術文化センター管弦楽団は日本で唯一の育成型オーケストラであるが、そのこととマリナーの棒捌きに関係があるのかわからない。ただ、伝統ある強者揃いのオーケストラを一人で完全に制御しようとすれば反発を受ける可能性があり、下手をすると喧嘩になる怖れもある。育成型オーケストラなら平均年齢が若く、メンバーが入れ替わるため伝統のようなものも築かれない。
格調が高く、明るめの音色による演奏。ピリオド奏法が話題になる前からピリオド的なアプローチを行っていたマリナーであるが、他の指揮者による流線型の演奏に比べると表情は穏健であり、刺激には乏しい。

ティペットの2つの弦楽オーケストラのための協奏曲。ヴァイオリンが両翼配置に変わり、ヴィオラがそれに挟まれる形になる。その背後に横一列にチェロ、更に後ろにコントラバスが並ぶ。シンメトリーの構図である。
颯爽とした演奏である。マリナーの指揮は相変わらずかなり細かい。第2楽章では左手でビブラートの長さも指示する。

音が良いとは言えない席ということもあって、前半は音楽を聴いたというよりもマリナーの指揮棒の細やかさを見たという印象が強い。

メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。音色が明るめであり、特にトランペットの音が輝かしいが、音の重心が全体的に高めであり、音が軽い印象を受けるため、この曲が持つ荘重な一面が余り出ない。マリナーの採ったテンポがかなり速めということもあり、曲の魅力が十全に引き出されたとは言えない演奏である。
ただ弦のハーモニーは美しく、マリナーがヴァイオリン奏者出身、それもオーケストラに所属していたということがプラスに作用したのかも知れない。

今日はアンコールがある。メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」より第3楽章。この曲の演奏は渋みがあって良かった。
マリナーは曲が終わる毎にガッツポーズをしてみせ、最後はコンサートマスターである田野倉の手を取って一緒に退場した。

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2019年7月20日 (土)

コンサートの記(577) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 レナード・バーンスタイン ミュージカル「オン・ザ・タウン」西宮公演

2019年7月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2019 ミュージカル「オン・ザ・タウン」を観る。佐渡の師であるレナード・バーンスタインが初めて作曲した舞台作品であり、某有名ドラマシリーズのタイトルの由来となったミュージカル映画「踊る大紐育」の原作としても知られている。

佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。演出・装置・衣装デザインは、イギリス出身で佐渡プロデュースオペラの「魔笛」と「真夏の夜の夢」でも演出を担当したアントニー・マクドナルド。合唱は特別編成である、ひょうごプロデュースオペラ合唱団(合唱指揮:矢澤定明)。
佐渡プロデュースオペラは、外国人キャストと邦人キャストの日が交互に来ることが多いが、今回はミュージカル作品でダンスも多いということで、ロンドンで行われたオーディションで選ばれた白人中心のキャストでの上演である。出演は、チャールズ・ライス(ゲイビー)、アレックス・オッターバーン(チップ)、ダン・シェルヴィ(オジー)、ケイティ・ディーコン(アイヴィ)、ジェシカ・ウォーカー(ヒルディ)、イーファ・ミスケリー(クレア)、スティーヴン・リチャードソン(ピトキン判事&ワークマン1)、ヒラリー・サマーズ(マダム・ディリー)、アンナ・デニス(ルーシー・シュミーラー)、フランソワ・テストリー(ダイアナ・ドリーム、ドロレス・ドロレス、老女)ほか。このほかにもアンサンブルダンサーとしてバレエやコンテンポラリーのダンサーが数多く出演している。振付はアシュリー・ペイジが担当。

ブルックリンの海軍造船所に停泊した船に乗る、ゲイビー、チップ、オジーの3人の水兵が初めて訪れたニューヨークでの24時間の休暇を楽しむべく、様々な観光地を巡る計画を立てている。今回のセットは全面にマンハッタン島を中心としたニューヨークのガイド地図が描かれたものだ。ゲイビーはニューヨークの女の子とデートがしたいと語る。
キャットウォークから様々なボードが降りてきたり、左右から地下鉄の車両内のセットや登場人物のアパートメントの部屋などが出てくるなど、コミック調の演出と舞台美術が特徴である。またニューヨーク市タクシー(通称:イエローキャブ)は実際に舞台上を走り回る。

ニューヨークの地下鉄の乗り込んだ3人の水兵。ゲイビーは車両内に飾られた「6月のミス改札口」に選ばれたアイヴィ・スミスのポスターを見て一目惚れ。ニューヨークに住んでいるはずのアイヴィを探し出そうとチップやオジーに提案。ポスターに書かれた情報を手がかりに3人で手分けしてアイヴィを探すことになる。
イエローキャブに乗ったチップは、女性運転手のヒルディ(本名はブルンヒルド・エスターハージ)に惚れられ、ポスターにあった「アイヴィはミュージアムで写生の勉強をするのを好む」という情報を頼りにミュージアムに向かったオジー(勘違いして美術館ではなく自然史博物館に行ってしまう)は、文化人類学者のクレアと出会い、恋に落ちる。そしてゲイビーは「アイヴィはカーネギーホールでオペラのレッスンをしている」という記述に従い、カーネギーホール(ゲイビーは「カニーギホール」と誤読している)のレッスン室でアイヴィを探し出す。

地下鉄内でゲイビーが「6月のミス改札口」のポスターを剥がすのを見とがめた老女がその後も執拗に水兵達を追いかけようと登場するのが特徴。「統一感を与えるため」らしいのだが、この老女はクロノスの象徴なのではないかと思われる。実際に24時間ひいては人生や青春の短さが登場人物によって何度も歌われており、若者達の行方を遮る時間がつまりはクロノスとして現れているのであろう。

「オン・ザ・タウン」が初演されたのは、1944年(大戦中である)。レナード・バーンスタインはまだ二十代。ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニックの指揮台に急遽上がって社会現象を巻き起こした翌年である。登場人物達とさほど変わらぬ年齢だったことになる。

 

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、任期3年の育成型オーケストラであり、独自の色は出せない団体だが、若いメンバーが多いということもあってかアメリカものやミュージカルには最適の熱く迫力のある音を奏でる。なお、今回のゲストコンサートマスターはベルリン・ドイツ交響楽団の第1コンサートマスターであるベルンハルト・ハルトーク、第2ヴァイオリン客演首席に元ウィーン・フィルハーモニー第2ヴァイオリン首席のペーター・ヴェヒター、ヴィオラ客演首席にウィーン室内管弦楽団首席のシンシア・リャオ、チェロ客演首席にウィーン室内管弦楽団首席のヨナス・クレイッチ、トランペット首席にジャズトランペッターの原朋直という強力な布陣である。

 

日本人も食生活の変化で体格がかなり良くなったが、やはり平均値では白人の方がスタイルは上で、ミュージカルには栄える。以前、劇団四季が上演した本場ブロードウェイと同じ振付による「ウエストサイド・ストーリー」を京都劇場で観たことがあるが、体操のお兄さん風になっており、まだ歴然とした差があるようだ。

台本と作詞を担当したベティ・コムデンとアドルフ・グリーンのコンビも当時二十代で、これが初ブロードウェイ作品ということで、アメリカ的ご都合主義があったりするのだが、パワフルでユーモアに富んだ流れが実に良い。

 

カーテンコールでは、佐渡裕がイエローキャブに跨がって登場。爆発的に盛り上がり、幕が下りてはまた上がるが繰り返された。

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2019年6月16日 (日)

観劇感想精選(303) リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」兵庫公演2日目 「菓子袋」「収集」&「愛について語るときに我々の語ること」

2019年5月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後2時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、リーディング・シアター「レイモンド・カーヴァーの世界」を観る。
1980年代に村上春樹が多くの小説を翻訳したことで知られる存在になったレイモンド・カーヴァー(レイ・カーヴァー)。労働者の街で育ち、16歳で結婚。地方大学の大学院を出て大学の文芸創作の教員となるが、アイビーリーグに代表される名門私立大学出身者が大勢を占めるアメリカ文壇では異端視される。短編の名手であり、自身が書いた短編小説を更に短くリライトすることも度々で、小説に関しては「短ければ短いほど良い」というポリシーを持っていたようである。1988年に50歳の若さで死去。日常に潜んだ歪みや波立ちを描き、チェーホフにも例えられた。
1993年にレイモンド・カーヴァーの複数の短編小説で構成されたロバート・アルトマン監督の映画「ショート・カッツ」が制作され、私も観てはいるのだが、正直好きになれなかったのを覚えている。

昨日今日と2日間の公演である。昨日は手塚とおるのリーディングによる「ダンスしないか?」と「もうひとつだけ」、仲村トオルのリーディングによる「コンパートメント」が上演され、今日は矢崎広が「菓子袋」と「収集」を、平田満が「愛について語るときに我々の語ること」を読み上げる。村上春樹翻訳によるテキストを使用。演出は谷賢一。作曲&ピアノ演奏は阿部篤志。

朗読劇は演劇の中でも特別で、演じ手がほとんど動かないため、観る側にも言葉からの想像力と設定を頭に入れつつ追うための記憶力と集中力が必要となる。とはいえ動的な要素がないため面白い上演になる可能性が高いとはいえず、今日も平田満が出るというのに阪急中ホールの1階席は前半分しか埋まっていない。


矢崎広朗読による「菓子袋」と「収集」。矢崎広に関してはよく知らなかったが、なかなか良い俳優であり、引きつけられる。
「菓子袋」は、シカゴ在住の出版社のセールスマンが生まれ故郷であるカリフォルニア州サクラメントの空港で長い間会っていなかった実父に会うという話である。仕事でロサンゼルスに出向き、そのついでにカリフォルニア州の州都であるサクラメントにも寄るという設定なのだが、久しぶりに会った父親は主人公に向かって、かつての浮気の話を打ち明け始める。
その浮気が原因で両親は離婚することになるのだが、主人公は詳しいいきさつは知らされておらず、親の性的な面を詳しく知りたいと思う人は余りいない、ということで久しぶりの再会にも関わらず親子の隙間はむしろ広がることになり、父親が主人公の妻と娘のためにとくれた菓子袋も空港に置き忘れてきてしまうが、特に惜しいとも思わない。
歩み寄ろうとして却って傷口を広げてしまう人間存在の愚かしさが告発調でなく描かれているという、カーヴァーらしい作品である。


「収集」の主人公は失業中であり、雨の日に自宅で北から来る手紙を待っている。ところがやって来たのは郵便配達夫ではなく、奇妙な老人。以前に住んでいた人が懸賞に当たったということで、無料での掃除サービスを行い始める。主人公は一種の押し売りかと思ったのだが、そうでもないらしい。老人は「体の一部が毎日落ちていっている」ということで、その体の一部の染みこんだ枕だのカーペットだのを掃除していく。

どうやら老人は「過去」を収集しているようであるが、主人公が特に重要だと思う過去でもないため、結局、なにがなんだかわからないまま二人は別れることになる。
これは過去に限らないのだが、忘れてしまったものの中に、あるいは特に重要視されていないものの中に、実は大切な何かが潜んでいる可能性があり、にも関わらず気にとめていないという日常の死角が示されているようにも思える。
ひょっとしたら致命的な何かが起こっているのかも知れないが、知覚出来ないという不気味さ。こうした捉え方とすると、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」にも繋がるように思う。


平田満の朗読による「愛について語るときに我々の語ること」。二組のカップルによる会話を描いた小説である。
語り手の「僕」とローラは付き合い始めてそれほど時間が経っていない。一方、医師であるメルと妻のテリは夫婦だが共にバツイチ。テリは前夫のエドからDVを受けていたが、それは愛ゆえだとの確信を語り、メルは否定する。メルは精神的な愛について語るのだが、実は別れた前妻とその再婚相手のために多額の資金援助をする羽目になっており、前妻を愛したかつての自分の鑑識眼について疑いを持っていた。

自身が理想とする精神的な愛に裏切られ、否定すべき暴力的愛にすら勝てない悲惨な人間像が描かれているのだが、カーヴァーの特徴として感傷的な要素は極力排されている。


終演後に、谷賢一、平田満、矢崎広によるアフタートークがある。村上春樹による直訳的な翻訳についても語られたのだが(谷賢一は翻訳家でもある)、これらの作品は日常の些細なズレなどを描いており、翻訳者の体と心を通した翻訳ではそうした要素が伝わりにくくなってしまうために敢えて素材の文章に余り手を加えずに訳しているのではないかと私は想像するのだが、カーヴァーの小説を英語で読んだことはないため、仮説とせざるを得ない。
平田満は、「僕が配役されるとしたらエドだろうな」と語り、やはり駄目で一途で人間くさい男をやりたいようである。矢崎は配役されるとしたら「僕」ではないかと平田は言うのだが、確かにそんな感じではある。

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2019年5月 4日 (土)

観劇感想精選(299) 野村萬斎構成・演出・主演「マクベス」2014西宮

2014年7月1日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後7時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野村萬斎構成・演出・主演の「マクベス」を観る。シェイクスピアの四大悲劇の一つ「マクベス」を出演者5人のみで上演するというもの。
野村萬斎は、シェイクスピアの「リチャード三世」を基にした「国盗人」で優れた出来を示していただけに期待が高まる。
出演:野村萬斎、秋山菜津子、高田恵篤(たかた・けいとく)、福士惠二、小林桂太。野村萬斎がマクベスを、秋山菜津子がマクベス夫人を演じる。他の三人は、魔女役とされているが、バンクォーやマクダフなどの主要登場人物も兼任する。
「国盗人」では、舞台を日本に移していた野村萬斎であるが、「マクベス」ではスコットランドのままである。ただ着物に日本刀、長刀など、様式は全て和風である。今回の上演では能の謡や笛、鼓の音などが要所要所で流れる。上演時間90分、途中休憩なしである。上演終了後に野村萬斎によるポストトークがある。

舞台中央には、〇がくり抜かれた衝立が一つ。〇は地球を表現していると野村萬斎はポストトークで打ち明けた。
「きれいは汚い、汚いはきれい」という魔女達の言葉が有名な「マクベス」であるが、登場人物が現れる前に、「森羅万象」という言葉で始まる役者達によるセリフが流れる。「地球の屑、屑の地球、大地のゴミ、ゴミの大地、空気の澱(おり)、澱の空気、人間のクズ、クズの人間」という、逆にすると意味の変わる言葉で、「きれいは汚い、汚いはきれい」を模したものである。この世界が持つ両義性を表現しようという意図のようだ。
野村萬斎の演出は、幕を効果的に使ったもので、日本の伝統演劇を良い形で取り入れており、オリジナリティのある「マクベス」に仕上がっている。今回のツアーでは日本で上演する前にルーマニアやフランスなどを回ったというが、当地での評価はかなり高かったようだ。
バンクォーの亡霊の場では、血糊の付いた能面を使っており、狂言師である野村萬斎ならではの効果を上げている。
マクベスとマクベス夫人が即位する場以降、背後の幕には蜘蛛の巣を描いたものが用いられるが、これは「マクベス」を基にした黒澤明の映画「蜘蛛巣城」へのオマージュであろう。

 

運命に操られているのか、運命を切り開いているのか、どうとも取れる「マクベス」という作品は人間という存在の矛盾というものを描いているようでもある。恐妻として知られるマクベス夫人も最後は精神を侵されて自殺することになるという強いのか弱いのかわからない女性である。マクベスも王の座を勝ち取ったようでありながら、実際は魔女の手の上で転がされているだけのように思える。

 

高田恵篤、福士惠二、小林桂太らは、寺山修司の天井桟敷などで活躍していた俳優達で、アングラ第一世代。還暦越えの役者もいる。その世代の特性を生かして、暗黒舞踏などを披露。魔女の持つ異様さを表現する。

 

野村萬斎の演技は、狂言をイメージした形式的なものだが、相手役の秋山菜津子が新劇スタイルの優れた演技をしているということもあっていささか不自然さが目立つのが難。大河ドラマの「軍師官兵衛」で片岡鶴太郎が、暗君・小寺政織をかなりデフォルメして演じていたが、丁度あれに似た印象である。だが、構成力と演出力は確かなものがあった。

 

大量の紙吹雪などを用いた耽美的な演出であり、絵になる芝居であった。「国盗人」の方が出来はずっと上であるが、「マクベス」もなかなか見応えがある。

 

ポストトークで、野村萬斎は、まず今回の「マクベス」が朗読劇スタイルに始まり、今回の形に仕上がるまで大分時間を要したことを語る。上演スタイルの初演時には、萬斎は地球をイメージした球形のセットを組ませたそうだが、大掛かりな装置であったため東京でしか上演出来なかったという。海外で上演したいという希望を持っていた萬斎は、狂言のような簡素な舞台装置にすれば簡単に持って行けるということで、再演時からは布を主体にした今回のようなスタイルに変えたという。そして、ルーマニアで上演することが決まった今回の再々演では、東欧は電気が不安定だということで照明効果の代わりに、能の謡いなどを入れることで場の雰囲気を変えることにしたという。
マクダフ一家皆殺しの場はカットされていたが、これについて萬斎は「マクベスを悪人と決めつけたくなかったから」と述べる。
最後に萬斎は、「パリで上演を行ったので、次回はもうドーバー海峡を越えて、本場であるイギリスに討ち入るだけじゃないかと、舞台になったスコットランドのエディンバラ演劇祭でやってみたいなと思っております」という抱負を語って締めた。

 

野村萬斎構成・演出・主演「マクベス」2016西宮

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