カテゴリー「兵庫県立芸術文化センター」の82件の記事

2022年3月28日 (月)

コンサートの記(771) 日本オペラプロジェクト2022 團伊玖磨 歌劇「夕鶴」西宮公演

2022年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、團伊玖磨の歌劇「夕鶴」を観る。木下順二の代表的戯曲を「セリフの一字一句に至るまで変更しない」という約束の下、オペラ化した作品で、日本が生んだオペラとしては最高の知名度を誇っている。今回は2013年に初演されたプロジェクトの再々演(三演)である。2013年の公演は私は観ていないが、2018年に行われた再演は目にしている。

演出は引き続き岩田達宗が担当。美術も故・島次郎のものをそのまま踏襲している。
今回の指揮者は、1989年生まれの若手、粟辻聡(あわつじ・そう)。京都市生まれで京都市少年合唱団出身。2015年に第6回ロブロ・フォン・マタチッチ国際指揮者コンクールで第2位に入賞。京都市立芸術大学、グラーツ芸術大学大学院、チューリッヒ芸術大学大学院においていずれも首席を獲得して卒業している。京都市立芸術大学では広上淳一に師事。現在は奈良フィルハーモニー管弦楽団の正指揮者を務める。大阪音楽大学講師。
演奏は、大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団(コンサートマスター:赤松由夏)。

つうと与ひょうはいずれもダブルキャストで、今日は老田裕子(おいた・ゆうこ。ソプラノ)と中川正崇(テノール)のコンビとなる。運ずは晴雅彦(バリトン)、惣どに松森治(バス)。少年合唱は、夙川エンジェルコール。

開演前にホワイエで、岩田さんに前回観た「夕鶴」の解釈について質問したりした。上演内容自体は、今回もほとんど変わりない(プログラムノートも同一である)。

「夕鶴」は、人間と鶴とのすれ違いを描いた悲恋と観るのが一番面白いように私は思う。
実は互いは互いにとって最高のパートナーともいえる関係にある。押しかけ女房のつう(正体は鶴)は、矢で射られて倒れていたところを与ひょうから治療を受けて、その感動から人間となって与ひょうの前に現れる。冒頭の少年合唱による童謡のシーンでメンバーの一人が弓矢遊びをしているが、当時は鶴の数も多く、天然記念物という概念もなく、あったとしてもそれには該当せず、鶴は普通に狩りの対象であった。そんな鶴に優しくしてくれた与ひょうは人間に化けたつうにも当然ながら優しい。
この与ひょうというのがかなり不思議なキャラクターであり、金銭というものにほとんど興味を示さない。示すとしてもそれはつうのためになることだけである。つうが織った千羽織が売れて、熱心に働くことを止めてしまったようだが、それは働くのが嫌になったというよりも、つうと一緒にいる時間を増やしたいからであろう。与ひょうはそれほどつうのことを愛しているのである。

千羽織も、元は与ひょうに求められて織ったのではない。つうの方から織って与ひょうに贈ったのである(民話「鶴の恩返し」とは違い、恩返しのために織った訳ではない)。つうは与ひょうに喜んで貰って嬉しい。ただ、ここはちょっと引っ掛かる。つうの正体は鶴である。「正体がばれたら捨てられる」。つうは当然ながらそう思っただろう。正体が露見する危険を冒しながら、それでも敢えて自分の身を傷つけて千羽織を作るのであるが、そうでもしない限り与ひょうに捨てられるという恐怖を抱き続けていたのではないだろうか。子供達と「かごめかごめ」の遊びをした時の必要以上の動揺を始めとして、常に別れにおびえているような印象を受ける。そうであるが故に、与ひょうのちょっとした変化に敏感になりすぎてしまったのではないか。客観的に見ると与ひょうは終始一貫しておおらかな性格であり(惣どと運ずに、「千羽織をもっと織らせるように」と言われたときも、「(出来の良い)千羽織はつうが作った」とのろけており、金銭欲はほとんど感じられない)、全てはつうの勘違いであった可能性が高い。そのままでいようと思えばいられたかも知れないのだが、怖れが逆に別れへの道を開いてしまった。

与ひょうはつうに千羽織を作るよう頼むが、それはつうと一緒に都に出掛けるためである(「つうも都に行きたいと思っているはず」だと勝手に思い込んでもいるのだが)。だが、つうはそれ以前の与ひょうの「金がいる」という内容の言葉の数々に耳をふさいでしまったため、肝心の「つうと都に行く」ためという、理由となる言葉を聞き逃してしまうという演出を岩田は施す。
ラストで同じ内容の言葉が出て、つうは与ひょうの本心を初めて知るのだが、時すでに遅しである。更には、つうの正体が鶴であったと分かっても与ひょうはそれを受け容れる気でいた。そんな男は他にはいないだろう。だがつうの体はもうボロボロ、そして当時の通念からすれば、恥を掻かされた以上は、死ぬか別れるか、あるいはその両方かしか残されていない。つうは千羽織を二反作った(岩田の解釈では千羽織は二人の「子供」であるが、見る側はそれに従っても従わなくても良いように思う)。一つは売って金にするために、もう一つは自分の形見として。二反織ったためにつうは精も根も尽き果ててしまったのだが、与ひょうはつうと別れる気はさらさらなく、形見として一反余計に織る必要は全くなかったのである。最愛のパートナーとして末永く暮らせる可能性がありながら、分かり合えなかったという悲劇が浮かび上がる。誰もが一度は経験する最愛の人から理解されないという孤独。
単なるストーリーで出来ている訳ではない戯曲とそれを説明するだけでない音楽。木下順二も團伊玖磨もやはり偉大な芸術家である。

粟辻聡の指揮に本格的に接するのは初めてであるが、ドラマティックなうねりと雄大なフォルムを築くことに長けた指揮者である。オペラにはかなり向いていそうだ。

つう役の老田裕子のハリのある声と体全体を使った巧みな心理描写、穏やかな佇まいと柔らかな声を持つ与ひょう役の中川正崇も実に良い。役にはまっている。晴雅彦と松森治の安定感も良かった。

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2022年2月26日 (土)

観劇感想精選(428) 大竹しのぶ主演「ザ・ドクター」

2021年12月4日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「ザ・ドクター」を観る。作:ロバート・アイク、テキスト日本語訳:小田島恒志、演出:栗山民也。出演は、大竹しのぶ、橋本さとし、村川絵梨、橋本淳、宮崎秋人、那須凜、天野はな、久保酎吉、明星真由美、床嶋佳子、益岡徹。

イギリスを舞台とした作品である。

芝居はまず、ルース・ウルフ(大竹しのぶ)の録音された声から始まる。彼女が目の前に死体が横たわっているのを見つけたのでどうすればいいのかを聞いている。しかし、必要なのは「救急車ではありません」「それははっきりしています」と語る。「私は医師ですから」

ルースは、エリザベス(医療)研究所の創設者であり、所長でもある。いわばエリートだ。一方で、同性愛者でもあり、チャーリーというパートナー(床嶋佳子)がいる。

ある日、エリザベス研究所に、堕胎に失敗して敗血症となったエミリーという14歳の女の子が運ばれてくる。主治医は所長で教授でもあるルースが受け持つが、もう長くないことは明らかであった。そこにジェイコブ・ライス(益岡徹)という黒人の神父がやって来る(戯曲の指定もあるが、黒人のメイクはしていない)。エミリーの両親から臨終の儀式を行うよう頼まれたのだ。ルースは医学的見地からジェイコブの面会を拒否。エミリーが「自分は死ぬ」と察してパニックになるのを防ぐ意味もあった。だが、熱心なカトリック信者であるエミリーの両親は、臨終の儀式を行わないと地獄に落ちると信じており、自分達は飛行機に乗って移動中であるため間に合わないが、ジェイコブには絶対に臨終に立ち会うよう言っていた。ジェイコブも責任を感じ、エミリーの病室に向かおうとしてルースと揉み合いになる。ジェイコブは裁判になった時の証拠になるよう、その模様を録音していた。結局、ジェイコブの立ち会いは拒否され、エミリーは混乱の内に他界。ジェイコブは怒り心頭。その後に研究所にやって来たエミリーの父であるローナン(益岡徹二役)も、「娘を地獄に落とされた」と抗議を行う。やがてネット署名も始まって、自体は深刻化する。

一つには宗教の問題がある。ルースは無神論者のようだが、両親はユダヤ教徒。エリザベス研究所にもユダヤ系が多いということで、宗教的な贔屓があるのではないかと疑われた。広報のレベッカ(村川絵梨)もユダヤ系である。また500名の研究所員のうち65%が女性ということで、女性優遇があるのではないかという疑問も生まれる。また新たに薬理学系の教授候補となったユダヤ系女性と黒人男性のうち、採用されたのがユダヤ系女性のファインマンであったことも疑いを加速させる。

結局、ルースは所長の座を辞すのだが、ルースを追求する声は日増しに大きくなり、自宅の前に停めておいた車にもハーケンクロイツの傷を付けられるなど、魔女のような扱いを受ける。そしてルースは「ザ・ディベート」という番組に出演することになるのだが……。

前半は宗教観やジェンダーを巡るシリアスで重い展開となるが、後半はヒューマンドラマへと変わっていく。

「ザ・ドクター」というタイトルがルースのアイデンティティそのものを示している。彼女は女やユダヤ教徒の娘、そして人間である前に「ドクター」である。生まれながらにしてドクターに相応しい気質を持っているのだ。性別、人種、信条によって様々なイメージが生まれ、実体を占領する。だが、彼女には揺るぎない自己像と医師としての誇りと信念がある。ラスト近くのジェイコブやチャーリーとの会話に、それがはっきり表れていた。

大竹しのぶや益岡徹の存在感が見もの。また村川絵梨を舞台で見るのは久しぶりだが、いい女になっていて驚かされた。

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2022年1月 8日 (土)

コンサートの記(757) 沼尻竜典指揮 「オーケストラ・キャラバン~オーケストラと心に響くひとときを~」 九州交響楽団西宮公演

2021年12月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後7時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、「オーケストラ・キャラバン~オーケストラと心に響くひとときを~」九州交響楽団西宮公演を聴く。指揮は沼尻竜典。

福岡を本拠地とする九州交響楽団。九州唯一のプロオーケストラである。人口からいえば政令指定都市である熊本市や中核市である鹿児島市にもフルサイズでなくても良いのでプロオーケストラがあっても良さそうだが、やはり難しいようである。


オール・チャイコフスキー・プログラムで、バレエ組曲「くるみ割り人形」より“小序曲”~“行進曲”、ヴァイオリン協奏曲ニ長調(ヴァイオリン独奏:神尾真由子)、交響曲第4番が演奏される。


九州交響楽団を聴くのは初めて。東京の有力オーケストラが関西で公演を行うことは比較的多いが、それ以外の地方のオーケストラは本拠内以外で公演を行うこと自体が余りない。東京での公演ならある程度集客が見込めるが、国内第2位の経済規模を誇る関西地方においても集客面で勝算があるとは言えない状況である。コロナ禍の最中ということもあるが、今日の公演も入りがいいとは言い難い。

九州交響楽団の響きは、これまでに聴いたことのある日本のオーケストラの中では日本フィルハーモニー交響楽団の音に比較的近いように思える。ただ音自体は日フィルより渋めである。

ドイツ式の現代配置での演奏。クラリネット首席に京都市交響楽団の小谷口直子が客演で入っている。


バレエ組曲「くるみ割り人形」より“小序曲”~“行進曲”。沼尻らしい明晰でシャープな音作りで、愉悦感もよく出ている。スケールはやや小さめであるが、この曲に関してはそれで一向に構わない。
チャイコフスキーのオーケストレーションは視覚面でも楽しい。


ヴァイオリン協奏曲ニ長調。ソリストである神尾真由子の十八番の一つである。
白いドレスで登場した神尾は、万全の演奏を聴かせる。メカニックが抜群なだけではなく、タメや細やかな表情付けに由来する彼女ならでは味わいが耳に心地よい。本当に良い曲であり、良い演奏だと思える。沼尻指揮の九州交響楽団も巧みな伴奏を聴かせる。


神尾のアンコール演奏は、シューベルトの「魔王」(おそらくエルンスト編曲版)。ゲーテの詩に作曲した「魔王」は語り手、父親、子供、魔王の4役を一人で歌い分ける楽曲であるが、ヴァイオリン独奏版も同様の一種の演技力が必要となってくる。高度な技術が要求される曲だが、子供が歌う部分の痛切さが印象的な演奏となっていた。


チャイコフスキーの交響曲第4番。解釈面での見直しが進むチャイコフスキーの楽曲。それまでに完成させた3つの交響曲がいずれも抒景詩的であったのに対し、交響曲第4番から第6番「悲愴」に至るまでの後期3大交響曲ではいずれも私小説のような趣を醸し出しており、作曲者の心境の変化が感じられる。

衝撃的に演奏されることが多い第1楽章の冒頭だが、沼尻は悲劇性を抑え、純音楽的な美音で奏でる。のどかに感じられるほどだが、これはその後の展開への伏線だった。
第1楽章も中盤に入ってから、沼尻は大きなギアチェンジを見せ、聴いていて胸が苦しくなるほどの慟哭を歌い上げる。前半との対比により、この曲の異様さがクッキリと浮かび上がる。あたかも地獄を見続けながら必死で正気を保っているような陰惨さが波濤のように押し寄せる。見事な設計である。

第2楽章の孤独に満ちた表情も痛烈。リアルな響きである。私にとっての「リアル」とは「切実である」ということだ。

チャイコフスキーはこの曲を完成させた後、交響曲作曲家としてはスランプに陥る。バレエ音楽などの劇音楽は作曲しており、また憧れの作曲家であったモーツァルトの楽曲研究を行うなど、それなりに有意義には過ごしていたようだが、自身の本領である交響曲が書けないという焦りは常にチャイコフスキーの中にあった。それまでの感情を全て吐露してしまったのが交響曲第4番であり、作曲を終えて空っぽになってしまったのかも知れない。

第3楽章での徹底したピッチカート演奏など、アイデアに溢れているが、どうも音楽の方から勝手にチャイコフスキーの下にやって来たような印象もあり、作曲家自身が制御し切れていない部分も多いように感じる。
交響曲第5番や第6番「悲愴」も同傾向にあるが、この2曲は第4番に比べればまだ抑制が効いているように感じられる。交響曲第4番の荒れっぷりはやはり尋常ではない。

沼尻はスケールや輪郭をきっちりと決めて、その範囲内で音楽の密度や精度を高めていくことの多い指揮者であるが、交響曲第4番においては、そうした自身の得意とするスタイルではなく、この楽曲が持つ異常性を炙り出すことに腐心しているように感じられた。ラストは本当に「狂気のパレード」という印象である。


アンコール演奏は、チャイコフスキーの弦楽セレナードから第2曲「ワルツ」。爽やかな演奏で、交響曲第4番の後で心のざわめきが少しだけ穏やかになったように感じられた。

九州交響楽団。また聴いてみたいオーケストラである。

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2021年12月20日 (月)

観劇感想精選(417) 「Home,I’m Darling~愛しのマイホーム~」

2021年11月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「Home,I'm Darling~愛しのマイホーム~」を観る。2019年の英国ローレンス・オリヴィエ賞5部門にノミネートされ、ベスト・ニュー・コメディ賞を受賞したブリティッシュ・コメディの日本初演である。作:ローラ・ウェイド、テキスト日本語訳:浦辺千鶴、演出:白井晃。東宝の製作である。出演は、鈴木京香、高橋克実、江口のりこ、青木さやか、袴田吉彦、銀粉蝶。
最近話題になることの多い江口のりこは姫路市の出身であるため、今回が凱旋公演ということになる。

ロンドン近郊の一軒家が舞台。ジュディ(鈴木京香)は、元々は部下が6人いるキャリアウーマンだったのだが、会社の経営が傾き、自主退職者が募られた時に、「クビになるのは確実だからその前に」と申し込み、以後は専業主婦になっている。ジュディの母親であるシルヴィア(銀粉蝶)は、娘が専業主婦になったことに納得がいっておらず、ジュディの下をたびたび訪れては不満を漏らす。ジュディの夫であるジョニー(高橋克実。カツラを付けての演技)は、不動産会社に勤務。ジュディはバーミンガム大学卒であるが、ジョニーは大学入学資格試験の日にインフルエンザに罹ったという不運も重なって高校で学業を終えている。高卒ということで、会社では最古参であるにも関わらずなかなか出世出来ないでいるのだが、ジュディにはどうしてもジョニーに出世して貰いたい理由があった。

ジュディの趣味である1950年代風に統一された家の内装。ジュディも50年代風の衣装を好んで着る。「最高に幸せ」という雰囲気で始まる芝居だが、ジュディもジョニーも内心には不満を秘めている。

ジョニーの上司が変わる。若いアレックスという人物だ。ジュディはアレックスというファーストネームから男だと信じていたのだが、実は女性である(江口のりこが演じる)。
部下のことをよく知りたいというアレックス。ジュディとジョニーはアレックスを自宅に招くことにする。ジョニーとアレックスは実に相性が良い。アレックスはロンドン大学のスクール・オブ・エコノミクス(英タイムズ紙による2022年版英国内ランキング5位)を卒業したインテリで、バーミンガム大学(同じく2022年版英国内ランキング25位)出身のジュディよりも高学歴。ジョニーとのやり取りも親密で、ジュディは嫉妬を覚え……。

第2幕冒頭には、会社を辞める前のジュディとジョニーのシーンが挿入されており、ジョニーがキャリアウーマンタイプの女性を好んでおり、ジュディを結婚相手に選んだ理由が仄めかされている。

ストーリー的には特に目新しい展開も、特筆すべき事件も起こらないのだが、夫婦が再び互いに恋するという話でもあり、鈴木京香演じるジュディと高橋克実演じるジョニーが愛らしく、微笑ましい夫婦として映る。特段に優れた舞台という訳でもないのだが、「良いものを観たな」と思える大人のための演劇である。

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2021年8月18日 (水)

観劇感想精選(408) 「森 フォレ」

2021年8月8日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「森 フォレ」を観る。作:ワジディ・ムワワド、テキスト翻訳:藤井慎一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。出演:成河(ソン・ハ)、瀧本美織、栗田桃子、前田亜季、岡本玲、松岡依都美(まつおか・いずみ)、亀田佳明、小柳友(こやなぎ・ゆう。男性)、大鷹明良(おおたか・あきら)、岡本健一、麻実れい。

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ワジディ・ムワワドは、1968年、レバノンの首都ベイルートに生まれた劇作家。幼い頃にレバノンの内戦を避けるためにフランスに亡命し、その後、カナダのフランス語圏であるケベック州に移住している。レバノンはフランスの文化受容が盛んな国のようだ。ケベック州は緻密な心理描写を特徴とする作品の数々が「ケベック演劇」と呼ばれて世界的な注目を浴びている場所であるが(日本で上演された有名作に、井上靖原作・中谷美紀主演の「銃口」や白井晃の一人芝居である「アンデルセン・プロジェクト」などがある)、ムワワドの作風は「ケベック演劇」の本流とは少し距離があるようで、むしろ血脈を描くことが多いスペイン文学や、マジックリアリズムなど独特の手法で評価される南米スペイン語圏の文学と親和性があるように見える。
2000年に「岸 Littoral(リトラル)」でカナダ総督文学賞(演劇部門)を受賞。その後、「岸 Littoral」に始まる「約束の地」4部作で高く評価された。今回上演される「森 フォレ」は、「約束の地」4部作の第3作に当たる。日本では第2作の「炎 アンサンディ」がまず上演され、次いで第1作である「岸 リトラル」が上演されているが、私はいずれも観る機会はなかった。有料パンフレットに「炎 アンサンディ」と「岸 リトラル」のあらすじが記載されているが、「森 フォレ」と共通する部分が多いようである。双子の主題が出てきたり、両親の過去の謎が前2作では描かれているようだが、「森 フォレ」ではそれらを発展させつつ、重層的構造の作品として構築している。

舞台は、ケベック州最大の都市モントリオール、ドイツ領時代のストラスブール(当時はドイツ読みでシュトラウスブルク)、第1次世界大戦中のアルデンヌの森、カナダ北部・マタン、フランスのメッスなどに飛ぶ。時系列も複雑である。
シーン表が有料パンフレットに記載されているが、演劇というより現代音楽のプログラムのようである。

ファーストシーンでは雪が舞い散る中、モントリオールに住むエメという女性(栗田桃子)が自己紹介も含めた長大なモノローグを行う。自分は余りものを覚えるのが得意ではないこと(おそらくワーキングメモリに関する話)、ただ教えられたことに関する記憶力は良いこと、今が1989年の11月16日であること、1週間前の11月9日にベルリンの壁が崩壊したこと、ただそのことに自身が何の興味も抱いていないことが明かされる。語り口と知識の豊かさからエメが聡明な女性であることが分かる。エメの両親は幼いエメを養子に出しており、エメは両親の顔を知らない。
他の人が登場し、11月9日がベルリンの壁崩壊だけでなく「水晶の夜」(1938年11月9日、ドイツ全土でナチスがユダヤ人の商家などを襲撃した事件)の日であるということも告げる。
エメはフランス人脱走兵の幻影を見たということで、精神科医の診察を受ける。

エメは、バチスト(岡本健一)と結婚し、子を授かったのだが、脳腫瘍を患っていることが判明する。今すぐどうこうというはないが余命は15年ほど。しかも脳の腫瘍と思われたものは、胎内にいる双子の片方が脳へと向かい、硬化したものであるということが分かる(この辺はマジックリアリズム的である)。ただ仮に堕胎したならエメの余命が伸びると医師に言われたエメとバチストの夫妻は、一度は堕ろすことに決めるが、そんな時にモントリオール理工科大学虐殺事件が起こる。同年12月6日のことだった。名門・モントリオール理工科大学に銃を持った若い男が押し入り、女子学生ばかり14名が射殺された。生まれてくる子供の性別が女であるということを知っていたエメは、「私は15人目を(堕胎という形で)殺したくない」と語り、出産することに決める。生まれた娘は、ルー(瀧本美織)と名付けられた。だがエメはその後に意識を失う。20年後、パンクロッカーのような格好を好む反抗的な女性に成長したルーは、5年前に亡くなった母親のエメの遺体を父親のバチストが埋葬しようとせず、冷凍保存していることに疑問を抱く。またエメの母、つまりルーの祖母であるリュス(麻実れい)やその先祖にまつわる謎が次々と沸いてくる。ルーはフランス人古生物学者のダグラス・デュポンテル(成河)と共に、先祖に関する調査を行い始める。ダグラスは、第二次大戦中のナチスによる虐殺の被害者の頭蓋骨を鑑定したのだが、その骨がエメの脳腫瘍となった双子の片方の骨と一致することを確認していた。


成河、瀧本美織以外の俳優は、血脈を強調するためだと思われるが複数の役を演じ、また時間と場所が次々と移るため、簡単に把握出来るような内容にはなっていない。だが先祖がどこで何をしており、その結果何が起こったかを辿ることは困難というほどでもない。ただ、名前などの由来などに裏設定があるようで、こうした情報は有料パンフレットを買わないと手に入らない。

時系列順に並び替えると、大元は、1871年、ドイツ・ストラスブール(シュトラウスブルク)に始める。アレクサンドル・ケレールー(大鷹明良)の息子で獣医のアルベール(岡本健一)は、オデット(栗田桃子二役)と結婚し、エドモンという子を設けるが、アレクサンドルがオデットとの間に生んだ(オデットは「見知らぬ男に強姦された」と嘘をついている)義理の娘に当たるエレーヌ(岡本玲)と性的関係を持つ。エレーヌはエドガー(小柳友)と二卵性双生児として生まれたが、エレーヌはエドガーとも性的関係を持つという、かなりグチャグチャドロドロの展開である。やがてエレーヌは双子を産むが、父親がアルベールなのかエドガーなのかは分からない。双子の男の子の方は怪物で、エレーヌを襲い、洞窟のようなところに閉じこもってしまう。女の子の方はレオニー(岡本玲二役)と名付けられ、アルベールがアルデンヌの森の奥に築いた「森」という組織で暮らすようになる。レオニーは第一次大戦中に森に逃げ込んだフランス人脱走兵のリュシアン(亀田佳明)と結ばれて、リュディヴィーヌ(松岡依都美)という女の子を産む。第二次大戦中に、リュディヴィーヌは、サミュエル(岡本健一二役)らが立ち上げたレジスタンス軍団「コウノトリ・ネットワーク」に所属し、反ナチス活動に身を投じる。リュディヴィーヌの親友だったサラ(前田亜季)はサミュエルと結婚。女の子を設ける。実はこの女の子がルーの祖母であるリュスである。

血脈を辿る旅であったが、ルーが確かめたかったリュディヴィーヌとの血縁の輪は、繋がってはいなかった。更にリュディヴィーヌは両性具有者(「リング」シリーズの貞子もそうであることがよく知られている)であり、子供を産むことは不可能で、繋がっている可能性も途切れていた。

だが、この話は血脈が繋がっていなかったという調査報告では勿論、終わらない。リュスが自分のことをリュディヴィーヌの娘だと思ったのには訳がある。「母親の名はリュディヴィーヌという」と伝えられていたのだ。だがリュディヴィーヌの正体はサラであった。「コウノトリ・ネットワーク」に加わったサラとリュディヴィーヌは、アジトを発見されそうになる。リュディヴィーヌは偽名の証明書を持っていたが、サラは本名の証明書しか持っていない。ゲシュタポは「コウノトリ・メンバー」の本名のリストは手に入れており、このままではサラは確実に殺される。サラはこの時すでにリュスを宿していたため、リュディヴィーヌは、サラの証明書とそれに張られている写真を自身の偽造証明書と交換することを提案。結果、リュディヴィーヌとなったサラはアメリカ兵に救助されてカナダへと渡ったが、本物のリュディヴィーヌはダッハウの強制収容所に送られて殺害された。自らを犠牲にして親友とその娘を救おうという「思い」。それがエメを通してルーにまで伝わっていた。血は絶えていたが「思い」はそうではない。

話は複雑だがメッセージはシンプルで力強い。そして観客も含めたここにいる全員が、「思い」をリレーするのだという決意が示されて劇は終わった。


出演者の多くは、他の舞台でもよく見る人達なのだが、瀧本美織の演技を生で見るのはおそらく初となる。朝ドラ出身の女優で、真面目で優等生的な性格といわれている瀧本美織だが、今回はそれとは真逆のタイプの女性を演じる。演技は達者であり、余裕を持って演じているように見える。真面目タイプゆえにどうしても「地味」と捉えられてしまう傾向があるようだが、彼女の場合は器用で華もあり、これからも様々な役柄で活躍出来そうである。

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2021年7月24日 (土)

コンサートの記(733) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2021 レハール 喜歌劇「メリー・ウィドウ」

2021年7月18日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2021 レハールの喜歌劇(オペレッタ)「メリー・ウィドウ」を観る。なお、「メリー・ウィドウ」では劇中に選挙の話が出てくるが、今日は兵庫県知事選の投票日で、兵庫県立芸術文化センターの周りを投票を呼びかける選挙カーが回っていた。

佐渡裕の指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団の演奏で行われる毎夏恒例のオペラ公演。昨年の「ラ・ボエーム」はコロナ禍のため、2022年に延期となったが、今年は無事に開催される運びとなった。ダブルキャストで、明日と23日は休演となるが、それ以外は1日おきに出演者が変わる。

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今日の出演は、高野百合絵(ハンナ・グラヴァリ)、折江忠道(ミルコ・ツェータ男爵)、高橋維(たかはし・ゆい。ヴァランシエンヌ)、黒田祐貴(ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵)、小堀勇介(カミーユ・ド・ロシヨン)、小貫岩夫(おぬき・いわお。カスカーダ子爵)、大沼徹(ラウール・ド・サンブリオッシュ)、泉良平(ボクダノヴィッチ)、香寿たつき(シルヴィアーヌ)、桂文枝(ニエグシュ)、志村文彦(ブリチッチュ)、押見朋子(プラスコヴィア)、森雅史(もり・まさし。クロモウ)、鈴木純子(オルガ)、鳥居かほり(エマニュエル)、高岸直樹&吉岡美佳(オペラ座のエトワール)、佐藤洋介(パリのジゴロ=ダンサー)、伊藤絵美、糀谷栄里子、四方典子(よも・のりこ。以上3人は踊り子)。踊り子役の3人は、関西では比較的名の知れた若手歌手なのだが、ひょうごプロデュースオペラ合唱団の中で踊りも担当する役ということで、無料パンフレットには個別のプロフィールは記載されていない。その他にダンサーとして、高岸、吉岡、佐藤も含めた16人の名前がパンフレットに載っており、助演名義で14人が出演する。

演出は、広渡勲(ひろわたり・いさお)。日本語訳詞・字幕付での上演。訳詞を手掛けたのは森島英子。演出の広渡が日本語台本を手掛けている。プロデューサーは小栗哲家(俳優・小栗旬の実父)。

グランドピアノをイメージしたセットが組まれており、ミニチュアセットが兵庫県立芸術文化センター内の「ポッケ」というスペースに展示されていて、写真を撮ることも出来る。
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オーケストラピットを囲うようにスペースが設けられており(宝塚歌劇でいうところの銀橋)、そこでも歌唱やダンスなどが行われる。

佐渡裕が登場し、客席に顔を見せて振り返ったところで入り替わりがあり、タクトを振り上げてから客席を振り返った指揮者は桂文枝に代わっていて、「いらっしゃーい」というお馴染みの言葉が客席に向かって放たれる。文枝が務めるのは、架空の国であるポンテヴェドロ王国(モンテネグロ公国がモデルである)の大使館書記のニエグシュとストーリーテラー(狂言回し)である。

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ポンテヴェドロ王国の資産を握るほどの大富豪が死去したことから問題が起こる。

その前にまず主人公であるハンナとダニロの関係から。二人は元々は恋人で、結婚を誓ったほどの仲だったのだが、ダニロが伯爵であるのに対して、ハンナは平民の娘。身分違いの恋ということで二人は引き離されることとなったのだ。
その後、ハンナはポンテヴェドロ王国の大富豪の老人と結婚。ところが、十日も経たないうちに(正式には八日後ということになっている)老人が死去。文枝は、「最近、和歌山で同じようなことがありまして、田辺の方だったでしょうか。あちらは事件性がありますが、こちらはございません」と、現在に至るまでのあらすじを語り、ハンナもパリに出てきて、陽気な未亡人(メリー・ウィドウ)として暮らしているのだが、彼女がフランス人と再婚すると、受け継いだ大富豪からの遺産がフランスのものになってしまうということで、元恋人であるダニロに白羽の矢が立つのだが、ダニロはプライドが邪魔する上に、財産目当てと見られることを嫌い、その気になれない。ハンナと別れてからのダニロは駐仏大使館の一等書記官となるも荒れた生活を送っており、有名バー・レストラン「マキシム」に入り浸る毎日を過ごしている。

一方、ポンテヴェドロ王国駐仏公使のツェータ男爵の夫人であるヴァランシエンヌに、パリの伊達男であるカミーユが懸想し、ヴァランシエンヌの扇に「愛している」と書き込んだのだが、その扇をヴァランシエンヌが紛失してしまったことから一騒動起こる。扇は大使館員の手で拾われ、話題になるのだが、ツェータ男爵は自分の妻が関係しているとは夢にも思っていない。

ということで、ハンナとダニロ、ヴァランシエンヌとツェータとカミーユによる騒動を描いたドタバタである。オペレッタということで、筋書きも単純だが、音楽と「人を愛することの素晴らしさ」を存分に味わうことが出来る。音楽によって舞台上と客席が一体になる様は、オペラやオペレッタならではのものである。

歌手達の歌唱と演技も上等。新劇と宝塚歌劇の中間のような演技をする人が多いので、作りものっぽさが気になる人もいるかも知れないが、日本人歌手による日本語上演としてはかなり健闘しているように思う。桂文枝は落語家なので、語りや演技スタイルが浮いているが、そもそもがそうした要素を求められてのキャスティングである。文枝に名演技を期待している人も余りいないだろう。


育成型のオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)は、在籍期間最長3年ということで、個性のある団体にはならないのだが、見方を変えるとどんな音楽にも順応しやすいということで、「メリー・ウィドウ」でもウィーンとパリの良さを合わせたレハールの音楽を洒落っ気たっぷりに演奏する。コンサートマスターは元大阪フィルハーモニー交響楽団コンサートマスターで、現在は日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務める田之倉雅秋だが、元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団第2ヴァイオリン首席奏者のペーター・ヴェヒターを招き、ウィーン情緒の醸成に一役買って貰っているようである。佐渡の生き生きとした音楽作りも良い。

全体的に野球ネタがちりばめられており、ダニロが通う「マキシム」は甲子園店という設定で、文枝が「毎晩、虎になる」という話をするが、ツェータ男爵は巨人ファンだったという謎の設定である。また、ダニロが酔っ払って、「佐藤(輝明。西宮市出身である)、オールスターで打った」と寝言を言ったり、ハンナが「ダニロ」と言うのかと思ったら、そうではなくて「ダルビッシュ」だったりする。


3幕の前に、文枝が客席通路を喋りながら銀橋に上がり、「私と香寿たつきさんとで面白いことやってくれと言われまして。香寿たつきさんはいいですよ、歌って踊れる。私は話しか出来ない」ということで、花月などでもやったことのある病院ネタの創作落語を、今日は立ったまま行う。「病院で薬を貰うようになってから体調が悪化した」という老人の話。元々酒豪で、医師から「1日1合まで」と決められたのだが、それでも体調が悪くなる。医師は、酒の他に「煙草も1日2本まで」と決めたのだが、「元々煙草は飲まない」そうで、無理して朝晩1本ずつ吸うようにしたら頭がクラクラして体調が悪化したとのこと。更に、右脚が悪くなり、医師から「年だ」と言われるも、「左脚も同い年なんですけれど」「左右共に一緒に学校に通ったりしてたんですけれど」と粘るも、「直に追いつく」などと言われる内容であった。
文枝は、佐渡にも病院ネタの話をして貰うのだが、「脚を骨折した」「溝に落ちて骨折した」「病院に予約しないで行ったら、『佐渡さんだ! 佐渡さんだ!』と騒がれた」「脚の診察を終えたが、顔にも傷が出来てきたので、『頭のレントゲンも撮った方が良いですよ!』と医者に言われるも」「医者は興奮していて、自分の骨折した方の足を思いっ切り踏んでいた」という佐渡の話に、「私より面白い話してどうしまんのん?」とつぶやく。

一方の香寿たつきは、十八番である「すみれの花咲く頃」を歌って踊る。ちなみに佐渡裕は、昨年、コロナ禍を乗り切るために「すみれの花咲く頃」の歌声映像や音声を募集して、合唱作品を作り上げている


「メリー・ウィドウ」の「ダニロの登場の歌」は、ショスタコーヴィチが交響曲第7番「レニングラード」の第1楽章の「戦争の主題」の一部に取り入れられているとされる。「メリー・ウィドウ」はヒトラーが好んだオペレッタとして有名で、ショスタコーヴィチがヒトラーを揶揄する意味で取り入れたのではないかとする説もある。


本編終了後におまけがあり、まずレハールのワルツ「金と銀」抜粋に合わせて、高岸と吉岡がパ・ド・ドゥを行い、その後に「メリー・ウィドウ」のハイライトが上演される。最後はステージ上に登場した佐渡が「さて女というものは」を歌い、文枝がPACオーケストラを指揮して伴奏を行うなど、遊び心に溢れた上演となった。

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2021年6月13日 (日)

観劇感想精選(401) 「イリアス」

2010年10月2日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後5時から西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「イリアス」を観る。

開場の1時間前に着いてしまったのだが、丁度、芸術文化センター設立5周年セレモニーをすぐ下の高松公園でやっており、佐渡裕(感極まって涙していた)指揮のスーパー・キッズ・オーケストラがヴィヴァルディの「四季」より「秋」、ルロイ・アンダーソンの「フィドル・ファドル」、更に題名はわからないがもう1曲を演奏していた。


「イリアス」は、ギリシャのホメロスの叙事詩を原作とし、木内宏昌の脚本、栗山民也の演出での上演。出演は、内野聖陽、池内博之、高橋和也、馬渕英俚可、新妻聖子、チョウ・ソンハ、木場勝己、平幹次郎ほか。舞台下手袖にバンドが控えていて生演奏が行われる。音楽担当は金子飛鳥。


トロイア戦争が舞台。踵の弱点以外は不死身の肉体を持つアキレウス(内野聖陽)はトロイア戦争に参戦しているが、大将であるアガメムノン(木場勝己)に反発して戦場には出ていない。そんな中、アキレウスの親友であるパトロクロ(チョウ・ソンハ)がトロイアの武将であるヘクトル(池内博之)に惨殺されてしまう。激怒したアキレウスは、トロイアの城門の前でヘクトルと対決する…...

5人の女優がコロスの代わりとなって、状況説明をする。


最大の見所は内野と池内による殺陣。特に内野は年齢を感じさせない体のキレがある。

原作の「イリアス」がヘクトルの死で終わってしまうので、この舞台もそれを踏襲しているが、そのために中途半端な終わり方をするのが唯一の難点である。

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2021年5月18日 (火)

観劇感想精選(397) 野田秀樹 作・熊林弘高 演出 「パンドラの鐘」2021@兵庫県立芸術文化センター

2021年5月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「パンドラの鐘」を観る。今でも野田秀樹の代表作の一つに挙げられる名戯曲の上演である。演出は熊林弘高。出演:門脇麦、金子大地、松尾諭(まつお・さとる)、柾木玲弥(まさき・れいや)、木山廉彬(きやま・ゆきあき)、長南洸生(ちょうなん・こうき)、八条院蔵人、松下優也、緒川たまき。比較的若い俳優がキャスティングされているが、名前を見ただけで若い世代の人が多いということが分かる(芸名の人も勿論いる。意図されたのかどうかはわからないが、門脇麦と緒川たまきの名前と役のイメージがひっくりかえっているのも面白い)。声の出演:野田秀樹。野田秀樹が芸術監督を務める東京芸術劇場の制作で、野田秀樹本人が許可を出した新演出版での上演となる。
今回の新演出では、ラスト付近が改変されているのが最大の特徴である。

1999年の暮れに初演された「パンドラの鐘」。同一の戯曲を野田秀樹の自作自演と蜷川幸雄演出の2バージョンでほぼ同時期に上演されたことで話題を呼んだ。野田秀樹演出版は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、蜷川幸雄演出版は渋谷の東急Bunkamuraシアター・コクーンで上演されている。「シアターガイド」などの演劇専門誌や、「ぴあ」などの情報誌にも野田秀樹や蜷川幸雄のインタービューが載り、野田秀樹は「あっちは渋谷でこっちは三軒茶屋。その時点で負けている」と言っていたり、蜷川幸雄がこれまでの野田の演出を評して、「あいつは綺麗にやり過ぎる。だから駄目なんだ」と口撃していたりと、言動でも盛り上がっていた。
すぐそこに迫った2000年は「ミレニアム」という名称を新たに与えられており、華やいだ雰囲気がまだあった。

「パンドラの鐘」とは、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」と広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」(鐘を説明する「鐘に童」の「童」である)、長崎の鐘などのイメージを重ねたものであり、「戦争責任」という重いテーマを扱った作品である。夢の遊眠社時代は、今聴くと面映ゆくなるほど詩的な言葉選びと、掛詞などを中心とした言葉遊び、古典的な作品からの引用などをちりばめて、イメージの世界を拡大した野田秀樹だが、イギリス留学をきっかけに社会的なテーマを題材に選ぶようになっており、戦争、天皇制、差別、貧困、暴力、アウトローなどを独自の筆致で描くようになる。
昭和天皇の戦争責任というきわどい問題に触れながら、当時の右翼に絶賛されたことでも話題になった。

実際のところは、私は世田谷パブリックシアターにもシアターコクーンにも行けなかったのだが(当時はまだインターネットが十分に発達しておらず、チケットの購入は電話か店頭のみで、人気公演のチケットを手に入れるのはかなり難しかった)、共に収録されたものがNHKBSで放送されており、比較が可能になった。
アクションと見立て重視の軽妙な野田演出に対して、蜷川幸雄の演出はあたかもシェイクスピア作品に挑むかのような重厚なものであった。蜷川がシェイクスピア作品のような演出を行ったのには訳があり、「パンドラの鐘」ではシェイクスピアの「ハムレット」が重要なモチーフとして使用されているのである。題材とされているのは他に、「古事記」などに描かれる日本の神話、邪馬台国などの古代国家、大正天皇知的障害者説、二・二六事件、統帥権問題、長崎原爆、長崎を舞台としたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」などである。
1936年の長崎と、古代の長崎にあった王国とが交互に描かれるのが最大の特徴。

野田版でも蜷川版でも一人二役はあったが、今回の熊林版ではそれがかなり徹底されており、タマキとヒメ女を門脇麦が、オズとミズヲを金子大地が、カナクギ教授と狂王を松尾諭が、イマイチと古代の未来の参謀を柾木玲弥が、ピンカートン未亡人とヒイバアを緒川たまきが演じており、過去と未来とが一対(生まれ変わりに相当する可能性を残す)になるよう工夫されていて、「歴史は繰り返す」の構図が見やすくなっている。ちなみに野田秀樹演出版では、野田秀樹がヒイバアを演じており、先王の葬儀の演出をしたヒイバアにミズヲが「つまらない演出」と難癖を付けて、ヒイバアを演じる野田秀樹が「この私が演出した葬式がつまらないっていうの?!」と怒るセリフで爆笑の嵐が起こっていた。ただ蜷川版でも熊林版でもそれは特に意味のないセリフとなっている。なお今回はヒイバアにアラフィフとはいえバアと呼ぶにはまだ若い緒川たまきをキャスティングしたことで、ハンニバル(松下優也)とヒイバアが男女の関係であるという演出が出来るようになっている。

1936年、国をひっくりかえそうとした二・二六事件が起こる直前のこととして物語は始まる。長崎の遺跡発掘現場で、オズ(「オズの魔法使い」に登場する島国、オズ王国が由来か)とカナクギ教授が「ひっくりかえった古代の舟」のようなものとそのそばにあった釘や人骨などを発見する。それが邪馬台国とは異なる、ヒメ女(ひめじょ)という女王を頂く古代国家発見の可能性へと繋がるのだが、カナクギ教授は教授の肩書きを得ているものの、自分の意見や考えといったものは持っておらず、ほぼ全て他人のものを剽窃して上り詰めてきた男である。今回も助手であるオズの意見を悉くパクリ、オズの恋人まで奪い、論文もオズが書いたものを自身とタマキの共著であるとして発表する。
そういうことを許してしまうオズというのが、実に鈍い男であり、恋人であるはずのタマキがカナクギ教授と関係を持ったことを仄めかしても何一つ気がつかない。古代に向かう想像力は豊かだが、目の前のことは何も見えていないのである。
だが、オズが書き、カナクギ教授が発表しようとした説は、古代から来たハンニバルによって阻止される。今、国のために犠牲になった王がいたということが明らかになれば、国体が保てない。

ヒメ女は14歳で即位。この14歳というのが実は重要である。シェイクスピア劇に登場するオフィーリアやコーディリアといった有名ヒロインが14歳前後という設定なのである。シェイクスピア劇にはあと2週間で14歳の誕生日を迎える13歳のジュリエットなど、他にも年齢の近いヒロインが何人か登場する。当時の結婚適齢期がこれぐらいの年齢ということもあるが、シェイクスピアの時代には男性しか舞台に上がることが出来なかったため、ヒロインは少年が演じたのだが、少年が演じてそれっぽく見えるのは声変わりを迎える前の14歳前後が限界だったという事情もあったようである。同じような年齢のヒロインが多いのはそのためだ。ヒメ女は「柳の下で」で始まる幽霊とのダブルミーニングの象徴的なセリフで自身のモチーフがオフィーリアであることをさりげなく知らせる。

今回の演出では即位したばかりのヒメ女がハンニバルやヒイバアの操り人形(傀儡)であることが強調されている。実はここに新しい解釈を入れる余地があると思うのだが、今のところそうした解釈を分かるように入れた演出は存在していないようである。

最初は言われるがままだったヒメ女であるが次第に自立していき、ハンニバルとヒイバアもヒメ女を怖れるようになる。ちなみにヒイバアがヒメ女の性格を「ちょっと言い過ぎ」と言いつつ絶賛する場面があるが、これもオフィーリアがハムレットの資質を讃える場面のパロディーであると思われる。

「ハムレット」では、主人公のハムレットが佯狂を演じる場面が有名だが、「パンドラの鐘」ではこのパロディーがヒメ女の兄である先王が狂ったという設定で登場する。狂ったということを民衆に悟られないために先王はハンニバルとヒイバアによって幽閉される。公には先王は死んだということにされ、葬儀が行われ、ミズヲら墓掘り人達(「ハムレット」にも墓掘り人達による有名な場面がある)によって埋葬されることになるのだが、棺桶の中に入っていたのは実は猫の死体であった。
口封じのために生き埋めにされるはずだったミズヲ達だが、ミズヲの挑発にヒメ女が乗ったことで生きながらえる。ミズヲは生きている人間よりも死体の方がよっぽど人間らしいと考えおり、また死んだ人間が化けて出てきたら再会したことを喜ぶべきだと説く(幽霊に関するセリフは、先王ハムレットの幽霊登場の場面を踏まえていると思われる)。
ヒメ女の王国は、デンマークを含むスカンジナビアの国家のように海賊(ヴァイキング)行為を行うことで国力を付けてきた。ヒメ女の王国があった長崎の地下からは世界中から集められた様々な遺物が見つかり、博物館のようになっている。このあたりは、カナクギ教授の人物像、引いては野田秀樹自身の作風へのカリカチュアとなっているようにも思われる。
その海賊行為によって、オズとカナクギ教授が発見するようになる「ひっくり返った船のようなもの」もミズヲによって長崎へと運ばれていた。ヒメ女の王国の人々もその正体が分からず、パンドラという都市の辺りで見つけたものだが、これは「なにかね?」ということでパンドラの鐘と名付けることにする。
実はヒメ女の王国は見えない敵と戦争中なのだが、最近では連戦連敗。ハンニバルとヒイバアはそれを隠すため、偽のニュースを流し、海岸の打ち寄せた死体を海へと投げ戻すよう命じていた。

野田版でも蜷川版でもパンドラの鐘は舞台上に置かれていたが、今回はそれらしき部分がある背景は置かれているものの、パンドラの鐘そのものを表すセットは存在せず、パンドラの鐘を描写した部分のト書きを野田秀樹が朗読している音声が流れる。

ヒメ女には、オフィーリアの他に卑弥呼や天照大神のイメージが重ねられているが、真の意味でのモデルは性別はひっくりかえっているが昭和天皇である。狂王の次の王ということなのだが、昭和天皇の父親である大正天皇には、その在位中から「知的水準に問題があるのではないか」という噂が流れていた。「遠めがね事件」など有名な話もあり、この作品でも狂王のモデルが大正天皇であることが分かるよう取り入れられている。実際には大正天皇は文学の才能にも秀でており、「明治天皇に比べると」ということだったようだが、病弱だったのは確かであり、皇太子だった裕仁親王が摂政に立ったことで噂は更に広がることになった。皇室の系統に、冷泉帝や陽成帝といったちょっとおかしな天皇が存在することもそれに輪を掛けたであろう。
性別がひっくりかえっていることについては、ヒメ女と昭和天皇の他に、いざなぎいざなみをモデルにしたような話でも同様の場面があるなど、何度も用いられている。

タマキの母親のピンカートン未亡人は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」に登場するピンカートンの孫の妻という設定であるため、タマキ(「蝶々夫人」で世界的なスターとなった三浦環がその名の由来であると思われる)はピンカートンのひ孫ということになる。ピンカートン未亡人は祖父のピンカートンが日本の幼い娘を自身のせいで自殺に追い込んでしまったことを悔い、ピンカートン財団を築いて長崎の発掘事業に貢献していることを語る。ただ、ピンカートン未亡人もタマキも蝶々夫人の自殺については否定的である。野田版と蜷川版で最も解釈が異なったセリフは、タマキが蝶々夫人を評した「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」というものだったと思われるが、今回はこのセリフが発せられる場面が変更されていたため、全くと言っていいほど目立たなかった。これはミズヲの「生きるべきか死ぬべきかそれは問題じゃない、どう死ぬのか、それがが葬式屋の問題だ」という「ハムレット」由来のセリフにも呼応する重要なセリフであるため、ちょっと物足りなく感じた。
蝶々夫人は「恥をかかされたら死ぬしかない」という日本の倫理観の犠牲になったのであるが、ここで問われているのは、責任を取って死ぬべきかということであり、「死を持って詫びる」ことを美徳とする日本人の意識であり、戦争責任を取って死を受け入れるという可能性のことを指してもいる。ただ、当時の日本の上層部に戦争責任を取らされることを拒んだ人達がかなり多かったというのも事実で、終戦間際の時点で、すでの江戸時代からの美意識は崩れつつあったようにも思う。そうした上層部の意識も戦争の責任と昭和天皇の退位とを結びつけることになる。

同音異義語などを多用する言葉遊びは今も変わらず野田演劇の特徴だが、今回は若手俳優中心のキャストということが災いしたようで、アクセントを間違えたために意味が通じないセリフになっていたり(「彼方(あなた)」を「貴方」の発音で言うなど)、言葉で情景を描くためにセリフにメリハリを付ける必要があるのだが上手くいかなかったりと、野田版や蜷川版の豪華キャストの演技を知っている人にとっては歯がゆい出来となった。これまた野田演劇の特徴である早口によるセリフ回しが今回も行われていたが、相手のセリフとの間を詰めすぎたため、人の言うことを聞かずに話し始めてしまう人々のように見えたのはかなりのマイナスである。相手を見ないと成立しないはずのやり取りが対面しないまま行われたのも意図がよく分からない。ミュージシャンの名を挙げる場面で、1999年当時に全盛を誇っていた小室哲哉ではなく、小室は小室でもミュージシャンではなく皇室絡みで話題のあの人の名前に変えていたりしたが、ここも余り意味はなかったように思う。
ただ、演技面では十分とはいえなかったが、緊急事態宣言発出の中で熱演を繰り広げた俳優達を、終演後は多くの人がスタンディングオベーションで讃えた。こういう時なので、出来不出来は横に置き、芝居に出演してくれるだけでも尊敬に値すると思う。

ラストであるが、本来のラストとその前のシーンをひっくりかえすというかなり大胆なものである。本来のラストは「パンドラの箱」に掛けた希望を語るミズヲの独白で終わるのだが、今回は古代のヒメ女の王国ではなく、1941年12月8日の長崎をラストシーンとする。オズがアメリカに向かうタマキに、「この戦争が終わったら、また長崎で逢いましょう。天主堂(爆心地のそばにあった浦上天主堂のこと)の前に流れる浦上川の畔で必ず」と再会の約束をする場面である。歌劇「蝶々夫人」とは立場がひっくりかえっており、女の方が長崎を去り、男が帰りを待つのである。本来のラストでミズヲは未来の話をした。今回の演出ではその未来の話として、タマキとオズのシーンをラストに回した。歴史そのままなら浦上で待ち続けたオズは長崎原爆により間違いなく命を落とす。ラストに流れる音楽は、マーラーの交響曲第5番よりアダージェット。様々な解釈が可能な曲だが、「愛と死」がない交ぜになったイメージが強い。棺桶にも使われたセットの中にミズヲは自ら身を沈めていき、タマキは背後のセットの一番高い部分、ひっくりかえったアーチのような場所(本来なら船の舳先なのだが、ひっくりかえった浦上天主堂のアーチに見える)にしばし佇む。本来はここで発せられるセリフが、先に挙げた「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」なのだが、更に前のシーンに置き換えられたため、事実上、カットされたことになり、オズの言葉にタマキは応えない。ここでそのセリフを言ってしまうと答えを出したことになるためカットするということになったのだろう。
後ろを向いたままのタマキは、前後をひっくりかえしたマリア像のようにも見える。少なくとも色は一致している。
答えが用意されない祈りのような風景によって、今回の「パンドラの鐘」は幕を下ろした。

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2021年4月27日 (火)

観劇感想精選(394) 井上芳雄主演「十二番目の天使」

2019年4月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「十二番目の天使」を観る。原作:オグ・マンディーノ、翻訳:坂本貢一、台本:笹部博司、演出:鵜山仁。出演:井上芳雄、栗山千明、六角精児、木野花、辻萬長ほか。東宝と新潟市のりゅーとぴあの製作。

ビジネスマンとして活動しつつベストセラー作家にもなったオグ・マンディーノの同名小説の舞台化である。

ジョン・ハーディング(井上芳雄)は、三十代にして大手コンピューター会社の社長にまで上り詰めたエリート。子供の頃から地元の英雄視されており、大学で怪我をするまではメジャーリーグのスカウトからも注目されるほどの野球選手だった。

前途洋々に思えたジョンの人生だが、妻のサリー(栗山千明)と息子のリックを事故で喪ったことで希望を失い、社長の座を辞することを決める。辞任は認められず、4ヶ月の休職が決まったが、心は晴れず、拳銃自殺をしようとまで思い悩むが、幼馴染みのビル(六角精児。「俺たちは同級生だ。誰も信じてくれないけど」というセリフあり)から「リトルリーグの監督にならないか」と誘われる。

リトルリーグは1チーム12人の編成で行われる。ジョンが監督になったエンジェルスは4つのチームからなるリーグに所属しており、選手獲得はウェーバー制によって行われる。

4チームの監督がくじを引き、1を引いた監督が最初の選手を指名することが出来るが、2巡目は逆に1を引いた監督が4番目に指名することになり、1を引いたジョンは投打に長けたトッドを獲得するが、12巡目の最後まで残ったティモシーも引き取ることになる。リトルリーグのルールではベンチ入り12人全員が1試合に1度は出場しなければならず、1度は必ず打席に入り、6つのアウト分は守備につかねばならない。つまり上手い子だけ出すのは駄目で全員を戦力として育てる必要がある。
ティモシーは亡くなった息子のリックにそっくりだが、1年前までサッカー大国のドイツで暮らしていたということもあって走攻守全てで劣る存在。ただ前向きでひたむきで、「諦めるな諦めるな、絶対、絶対、絶対諦めるな」(ウィンストン・チャーチルのモットーとしても有名である)「日々なにもかもが良くなっている」を信条に懸命に練習に取り組んでいた。

 

オグ・マンディーノは自己啓発系の小説を書く人であり、いかにもそれらしい展開とセリフが鏤められている。小説の舞台化ということで内容を観客に知らせるためのナレーションが多く、余り演劇らしくないが、その手法を取らないと上演時間が恐ろしく長くなってしまうため、こうした端折り方も納得のいくものではある。

ストーリー自体はこれまで映画やドラマなどで何回も観たことのある類いのものであり、特にひねりもないため既視感を覚えるが、野球を主題にした作品ということで野球好きにとっては悪くない芝居である。

井上芳雄主演の舞台ということで、ラストに井上が歌う場面が用意されている。ほかのキャストも合唱で参加し、なかなか楽しい。

 

終演後、井上芳雄、栗山千明、六角精児によるアフタートークがある。「先ほどまで、皆さんお気づきだと思いますが、一番セリフの量が多かった私、井上芳雄が司会を務めるという光栄に浴しまして、愚痴を言ってるわけじゃないですよ」ということで井上芳雄を中心に話を進める。

六角精児は姫路生まれということで、客席に向かって「ただいま!」とやる。生後6年ほどは兵庫県内に住んでいたそうだ。井上芳雄が香川県生まれの福岡県育ちであり、今回は香川公演と福岡公演があったため、両方で「ただいま!」と言ったそうで、その影響を受けてのことらしい。井上芳雄は、「香川生まれということはむしろ隠して、福岡県出身としておいた方がメジャーなので」と冗談を言う。今回は、栗山千明の出身地である茨城県でも公演があったのだが、香川公演よりも先で、「私ごときがやっていいのか」と思っていたため、「ただいま」発言はしなかったそうである。
ちなみに香川県から福岡県に移動する際、大半の人は岡山まで出て新幹線で博多に向かったのだが、六角は地方列車に乗るのが好きということで、JR予讃線で松山に向かい、道後温泉で一泊。その後、八幡浜に向かい、船で臼杵に渡って大分経由の在来線で福岡入りしたそうである。

名古屋では井上がラストで歌うときのためのこめかみにつけるマイクが汗によって駄目になるというハプニングがあり、代わりとして普通のハンドマイクを渡されたそうだが、溶明時にいきなりマイクを持っているのは変だとの判断から腹の前まで下げてボールで隠しながら歌ったそうである。それでも案外ばれなかったそうだ。

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2021年4月23日 (金)

コンサートの記(712) 広上淳一指揮京都市交響楽団西宮公演2021

2021年4月25日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後3時から、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、広上淳一指揮京都市交響楽団の西宮公演を聴く。

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新型コロナの感染は留まるところを知らず、大阪府内では1日の最多記録を更新する1220名の新規感染者が出た。昨日は梅田とその北の茶屋町に行ったのだが、梅田駅構内と茶屋町はそれなりに人がいたが(それでも平時の半分程度)梅田芸術劇場の入る茶屋町アプローズの前は本当に人がいなかった。大阪市民が手をこまねいているというわけでも、感染拡大防止のための努力を怠っているというわけでもないと思われるのだが、変異によって感染力が強まったのだろうか。

今日の京都市交響楽団の西宮公演に関しても、「大阪から兵庫に行くわけにはいかない」という自粛コメントをTwitterなどでしている人が多い。兵庫県立芸術文化センターもホームページにおいて今日付で、「症状が無くても自粛したいという人に関してはチケット料金払い戻しに応じる」という旨の発表を行った。

 

今回の京都市交響楽団の西宮公演は、本来なら1年前に行われているはずだったのだが、コロナ禍により開催が見送られ、同一プログラムによる演奏会が組まれることになった。状況的に再度中止もしくは延期になってもおかしくなかったが、開催されることになった。
本来なら緊急事態宣言が出されてもおかしくないのだが、東京オリンピックが関係しているのかそうでないのか、「まん延防止等重点措置」に留められている。それにしても略称「まん防」ではユーモラスで深刻さが感じられないが、そんなレベルの人が作っているという証でもある。

行きの阪急電車でも淡路駅では、「不急不要の外出はお控え下さい」とのアナウンスがあった。
コンサートホールの入り口に置かれたチラシの束(コロナの感染を考慮してスタッフからの手渡しでなく、積み置かれたものを聴衆が自分で取るというシステムになっている)の中にも、井戸敏三兵庫県知事からの「座席配置の工夫又はアクリル板の設置、消毒液の設置等の感染対策を行っていない飲食店、カラオケ店など、リスクのある場所への出入りを自粛してください」という要請が記された紙が含まれている。

そんな中でのコンサート。曲目は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:金川真弓)とマーラーの交響曲第5番。共に指揮者としても大活躍した作曲家、というよりもマーラーに関しては当代一の指揮者として評価されたが、作曲家としての名声が高まったのは死後であり、生前は指揮者としてのみ評価されていた。マーラーも自身の交響曲が聴衆から容易に受け入れられないということは心得ており、指揮者としての名声が下がるのを避けるため、自作の初演は本拠地であるウィーン以外で行っている。

偶然ではあるが、先週、広上と京響が行った「スプリング・コンサート」のメインが「死」を描いたチャイコフスキーの「悲愴」交響曲で、その次となる今回の演奏会のメインが「死からの復活」を描いたマーラーの交響曲第5番という並びになった。

今日のコンサートマスターは泉原隆志。フォアシュピーラーに尾﨑平。第2ヴァイオリンの客演首席には神戸室内管弦楽団の西尾恵子が入る。テューバも武貞茂夫の後任が決まらず客演奏者を招くことが続いているが、今日は仙台フィルハーモニー管弦楽団のピーター・リンクが初めて入った。
今日はクラリネット首席の小谷口直子が全編に出演する。フルート首席の上野博昭、ホルン首席の垣本昌芳、トランペット首席のハラルド・ナエスなどはマーラーのみの出演である。

今日もドイツ式の現代配置だが、ティンパニが指揮者の真正面に置かれ、金管奏者はその前に横一列(向かって左側がホルン、向かって右側にトランペット)に並ぶという布陣である。マーラーの交響曲第5番で活躍するハープの松村衣里はチェロの第1プルトの後ろという指揮者に近い場所で演奏した。

 

今日は3階席3列目のほぼ正面。チケット発売時は収容最大観客数の半分までという基準だったため、発売日の午後にはもう通常の手段ではチケットは手に入らず、いつもとは異なる手段でチケットを買った(勿論、正規のルートである)。その後、満員でもOKとなったため追加発売が行われたが、自重した人も多く、空席も比較的多めである。

 

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調(通称:メンコン)。ソリストの金川真弓(かながわ・まゆみ)は、2019年のチャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で4位入賞、2018年のロン=ティボー国際音楽コンクール・ヴァイオリン部門では第2位&最優秀協奏曲賞を受賞というコンサート歴を誇る若手。それほど知名度の高くないコンクールでは1位も獲得している。1994年、ドイツ生まれ。幼時に日本に戻り、4歳でヴァイオリンを開始。その後、ニューヨーク、ロサンゼルスでの生活を経てドイツに戻り、ベルリン・ハンス・アイスラー音楽大学でコリヤ・ブラッハーに師事。現在もベルリンを拠点に活動している。

金川のヴァイオリンを聴くのは初めてだが、美音でスケールも大きい。それだけのヴァイオリニストなら数多いが、音の強弱の付け方がきめ細やかで、名古屋で聴いた諏訪内晶子独奏のメンコンを想起させる。時折見せる弱音の抜き方は諏訪内同様、日本人的な感性による演奏と取ることも出来るだろう。
一方で、高貴な印象の諏訪内のヴァイオリンに対して金川はかなりエモーショナルであり、第1楽章のカデンツァなどでは情熱全開の演奏を聴かせる。
富豪の家に生まれたメンデルスゾーン。育ちの良さと同時に、指揮者としてJ・S・バッハの「マタイ受難曲」を復活初演させるなど、意欲的な音楽活動を行った。そうした彼の多面性が、様々な演奏を聴くことで明らかになっていくようだ。
広上指揮の京都市交響楽団も表現力豊かな伴奏を聴かせる。

金川のアンコール演奏は、J・S・バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。美音とスケールの大きさはそのままに、確かな構築力も感じさせる優れた出来であった。今後がかなり期待出来そうなヴァイオリニストである。

 

マーラーの交響曲第5番。トランペットの独奏で始まる曲だが、広上は出だしだけ示して、後は首席トランペットのハラルド・ナエスに任せる。余談だが、兵庫県立芸術文化センターのポッケと呼ばれる展示スペースでは現在、兵庫芸術文化センター管弦楽団(通称:PACオーケストラ)の卒団生からのメッセージが展示されているのだが、その中にハラルド・ナエスのものもあった。ナエスにとっては凱旋公演ということでもある。

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マーラーも得意レパートリーとする広上淳一。第1楽章前半などは、これまで聴いてきたマーラーの演奏に比べると今回はややタイトな印象を受けたが、第2楽章や第3楽章、第5楽章のいずれも終盤においてはスケールを拡大し、師であるレナード・バーンスタイン指揮のマーラーを念頭に置いたような巨大な音像を構築する。日本人指揮者と日本のオーケストラで、ここまでスケールを拡げても高密度であるため大風呂敷にならないというのは大したものという他ない。
広上の指揮姿は今日もユーモラスで、指揮台の上でステップを踏んだり、右から左へと両手を素早く振ったりする。肩で指揮をすることが多いのも広上の最近の特徴である。

有名な第4楽章のアダージェットも、ユダヤ系のマーラー指揮者によるものとは違って濃厚さはないが、ノスタルジアや儚さ、淡い憧れなどが浮かび上がる出来で、これも一つの解釈として納得のいくものである。アダージェットについては、マーラーと親交のあったウィレム・メンゲルベルクによる、「妻であるアルマに向けてマーラーが書いた音楽によるラブレター」という解釈がよく知られており、またレナード・バーンスタインがジョン・F・ケネディ大統領追悼演奏の一つに加えたことから「死」に繋がるというイメージも生まれたが、それらとはまた違った味わいである。ちなみにアダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」で使われて有名となったが、主人公のアッシェンバッハ(トーマス・マンの原作では作家、映画ではマーラーをモデルとした作曲家となっている)は疫病で死ぬということになっており、今と重なる。
第5楽章もスケール雄大で、響きも磨き抜かれており、全てのパートが雄弁。マーラーの交響曲の重層性も明らかになっていく。

金川がアンコールで演奏したバッハの時代の音楽がどちらかというと抒景詩寄りで「神からの恩寵」的であったのに比べ、メンデルスゾーンの時代には人間の内面が音楽の主題となり、マーラーに至ると無意識にまで視点が向けられるようになる。実際にマーラーはジークムント・フロイトから精神分析を受けたことがあり、グスタフ・クリムトに代表されるウィーン分離派など、世紀末芸術の深層心理重視の作風にも近いものが感じられる。
結果として演奏だけでなく、ドイツ語圏の音楽や文化の歴史の流れを確認するという点でも興味深い演奏会となった。

演奏終了後、広上はまず冒頭のトランペット独奏などを吹いたハラルド・ナエスを立たせ、次いで第3楽章で活躍したホルン首席の垣本昌芳を立たせる。その後、各パートの首席奏者を立たせた後で、パート全員に起立を指示するが、打楽器はティンパニの中山航介(打楽器首席)を除くメンバーを立ち上がらせたため、中山が左右の手で自分を指さして、「僕も! 僕も! 僕も立たせて! 今立たせて!」というようにアピール。事情を知っている人達からの笑い声が起こる。広上は「後でね」という風に手で制して、今日も中山をトリとして立たせ、指揮台の上から拍手を送った。最近、このショートコント(?)が定番となりつつある。

 

広上は、「このような状況の中、このように沢山の方にお越し下り、『感謝!』です。感染にお気を付けて、でも演奏会には来て下さい」と言って、アンコール楽曲、リヒャルト・シュトラウスの歌劇「カプリッチョ」から月光の音楽の演奏が始まる。美演であった。

ちなみに広上さんは、YouTubeで「週刊かんべぇ」という企画を始めるようである。

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