カテゴリー「兵庫県立芸術文化センター」の71件の記事

2021年2月20日 (土)

観劇感想精選(384) 大竹しのぶ主演「フェードル」(再演)

2021年2月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「フェードル」を観る。作:ジャン・ラシーヌ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:栗山民也。出演:大竹しのぶ、林遣都、瀬戸さおり、谷田歩(男性)、酒向芳(さこう・よし)、西岡美央、岡崎さつき、キムラ緑子。
ラシーヌ最後の戯曲であり、ギリシャ悲劇「ヒッポリュトス」を題材に、当時のフランスの世相などを加えて書き上げたという重層的構造を持つ作品である。大竹しのぶのフェードル、栗山民也の演出による上演は2017年に行われ、今回は再演となる。

オペラやミュージカル上演時にはオーケストラピットとなるスペースが、客席側の壁を取り払う形でしつらえられており、階段が2つ下りていて、大竹しのぶ演じるフェードルがピットの部分に下りて嫉妬心を語るシーンがある。また菱形を重ねた舞台装置であるが、登場人物がその縁スレスレを歩く場面があり、不安定感が表現される。また、ライトによって舞台床面に十字架のようなものが浮かぶ場面があり、フェードルが両手を伸ばして磔になったかのように見える仕掛けが施されていたりもする。

ギリシャのペロポネソス半島の街、トレゼーヌが舞台である。アテナイ(アテネ)の王であるテゼが消息を絶つ。テゼは勇猛果敢な王であり、数々の戦勝によって英雄視されているが、「英雄、色を好む」を地で行く人物であり、とにかく女癖が悪く、至る所に愛妾を設けていた。
現在のテゼの王妃がフェードル(ギリシャ悲劇ではパイドラという名前である。演じるのは大竹しのぶ)である。クレタ島の王家の出。ミノス王の娘で、ミノタウロスとは異母姉弟、そしてゼウスの孫にして太陽神の家系という複雑な環境に生を受けている。フェードルが恋路について、ミノタウルスが幽閉されたラビリンスに例える場面が劇中に登場し、テゼとアリアドネの話も仄めかされる。テゼはフェードルを寵愛し、フェードルを妻にして以降は女遊びも止めている。だが、そんなテゼがいなくなった。
フェードルにもテゼとの間に子どもがあるが、テゼと先の王妃、アンティオペとの間に生まれたのがイッポリット(林遣都)である。女であれば誰もが一目見て恋に落ちるほどの美男子だ。アンティオペはアマゾン国の女王出身であり(つまりアマゾネスである)、今はもう他界しているが、人々の話から激しい性格であったことが察せられる。そのためイッポリットは女を憎むようになっていた。イッポリットはテゼを探しに、この場所から外へと飛び出そうとしているのだが、侍臣のテラメーヌ(酒向芳)から、「どうも王が死んだようだ」と聞かされる。
フェードルも、イッポリットを一目見て恋い焦がれてしまったのだが、血は繋がっていないとはいえ、義理の親子であるため、近親相姦と見なされる可能性が高い。そのため、フェードルは敢えてイッポリットに冷たく当たり、イッポリットもフェードルの恋心に気づいてはいない。フェードルは、イッポリットへの恋の病で伏せるようになる。

イッポリットはイッポリットで、かつてテゼに反抗したアテナイ王族の娘で、今は保護観察処分となっているアリシー(瀬戸さおり)に恋をしている。こうして「片思いの連鎖」が生まれているのだが、イッポリットは男前なので、アリシーもイッポリットを恋慕っていた。アリシーは7人兄妹だったようだが、自分以外の6人は全てテゼによって殺害されたそうである。

さて、テゼが亡くなったとされたため、王位継承の候補として、フェードルの子、イッポリット、アリシーの3人が挙がる。フェードルは忍ぶ恋の相手だったイッポリットを選ぼうとし、最後は自分の思いを打ち明けてしまうのだが、イッポリットからは当然ながらというべきか色よい返事が貰えない。イッポリットはアリシーに王座を譲ることを考えていた。若者二人、恋の障壁といえば現在の身分の違いである。だが、もしアリシーがアテナイの女王となった場合、全ての障害は取り除かれる。
そんな時、テゼ(谷田歩)が生きており、まもなく帰還するという情報がもたらされる。その他の人物の努力が、このテゼの帰還によって水泡に帰する危険があった。

フェードルは、イッポリットへの復讐として、乳母で相談役のエノーヌ(キムラ緑子)と共に、イッポリットが自身を誘惑したという真逆の情報をテゼに伝えようと謀る。
だが、イッポリットが自分ではなくアリシーを愛しているということを知ったフェードルは嫉妬の炎に燃え上がる。

 

テゼが王宮を不在にしたことを発端として巻き起こる悲劇である。テゼがそのまま留まり続けていれば起きなかった悲劇とも考えることが出来る。
イッポリットは呪いによって命を落とし、エノーヌはフェードルの裏切りによって海中に身を投げるのだが、これらはギリシャ悲劇らしく伝聞によって語られる。悲劇は見えないところで起きるのだが、ラシーヌはフェードルの服毒死だけは舞台上で行われるようアレンジしている(原作ではフェーデルことパイドラが落命するシーンはないそうである)。ここがギリシャ悲劇とは違ったラシーヌらしさである。

かつてある映画(どの映画かは忘れてしまった)で、大竹しのぶと桃井かおりの二人の「魔女」と言われる女優が路上で喧嘩しているシーンを撮っている時に、本当に雷が落ちて、映画にもそのまま収められたという有名な話があり、監督が「魔女二人が一緒に画面に入っちゃ駄目!」と言ったという話があるが、今回の舞台は、大竹しのぶとキムラ緑子という二人の「魔女」系女優の共演となった。ただ王妃とその乳母という関係であり、一部を除いては激しいやり取りもなく、落雷も起こらず(当然だが)、キムラ緑子の悲哀の表現の上手さが引き立っていた。

余談だが、キムラ緑子が、「さんまのまんま」に出演したことがあるのだが、キムラ緑子は、明石家さんまの話をほとんど聞かず、思いついたことを即行動に移してしまうため、さんまが、「言葉のキャッチボールって分かる?」「良い女優さんって、どうしてみんな変なんやろ? 俺に大竹しのぶは無理やったんやわ」と嘆いていたことが今も思い出される。

タイトルロールを演じる大竹しのぶであるが、セリフが極めて音楽的である。大竹しのぶは舞台出演も多いため、接する機会も多いのだが、近年になってセリフがより音楽的なものへの傾斜していることが実感される。おそらく本人も意識しているはずである。
大竹しのぶは、女優だけでなく歌手としても活動しており、コンサートなども開いている。また、エディット・ピアフの生涯を描いた「ピアフ」では、タイトルロールとして見事な歌唱を聴かせ、評価も高い。ということで音楽と親和性の強い台詞回しの追求が可能な女優である。
今回の「フェードル」でも三連符の連続のような節回しや、バロック音楽の装飾音のように華麗な口調、声の高さによって操られる情感や業に至るまでの多彩な表現を繰り広げる。真に音楽として聴くことの出来るセリフであり、大竹しのぶはさながら「セリフのマエストラ」と称賛すべき存在となっている。音楽好きの人にも是非見て聴いて貰いたいセリフ術だ。ちなみに今最も人気のあるピアニストである反田恭平が、東京で「フェードル」を観たようで、Twitterで大竹しのぶの演技を絶賛していた。

子役から成長した林遣都。子役の時は、映画「バッテリー」でピッチャー役を務めており、そのことからも分かる通り運動神経抜群で、高校生の頃に箱根駅伝を題材にした映画に出演した際は、指導を行った桐蔭横浜大学陸上部の監督に才能を見込まれ、「進路はどうなってるの? うちに来ないか?」とスカウトを受けたという話が残っている。駅伝の選手になりたいわけではなかったので当然ながら断っているが。
今回もイッポリットを凜々しく演じているが、運動神経が良いので、それを生かした演技も今後見てみたくなる。

今回は「魔女」ではない役のキムラ緑子(そうした要素が全くない訳ではないが、他者によって伝聞として語られるだけであり、演技では面には余り出ない)。セリフなしで佇んでいるだけでも雄弁という、ザ・女優の演技で見る者を惹きつけていた。

 

カーテンコールでは、客席がオールスタンディグオベーションとなり、俳優達は何度も舞台に登場。最後は大竹しのぶが、「ありがとうしか言えないんですけれど。こんな状況の中、お越し下さって感謝しております」と語り、その後、観客だけではなくスタッフや関係者へのお礼を述べた後で、「でも一番は、客席に来て下さった方のために」と感謝を伝え、「演劇が永遠に続きますように。頑張ります」と言って締めた。

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2021年1月20日 (水)

コンサートの記(685) ジャナンドレア・ノセダ指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団第7回定期演奏会

2007年2月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター大ホールにて

西宮北口にある兵庫県立芸術文化センター大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団の第7回定期演奏会を聴く。指揮はイタリア出身で、ゲルギエフ門下のジャナンドレア・ノセダ。1964年生まれと若く、今後が期待されている指揮者の一人である。

兵庫芸術文化センター管弦楽団は、2月にこのノセダを呼び、3月定期にはネーメ・ヤルヴィの次男で、パーヴォ・ヤルヴィの弟であるクリスチャン・ヤルヴィを指揮台に招く。なかなか豪華な顔ぶれである。ノセダのチケットは取れたが、父も兄も名指揮者ということで期待の高いクリスチャン・ヤルヴィのチケットは瞬く間に完売になってしまったようで入手出来なかった。

さて、ジャナンドレア・ノセダ指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏会。前半がヴェーベルンとシェーンベルクという新ウィーン学派の作曲家の作品を並べ、後半にはウィーン生まれの作曲家、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」を置くという、「ウィーン」をテーマにしたプログラムである。

ヴェーベルン編曲(J・S・バッハ作曲)の「音楽の捧げもの」より《6声のリチェルカーレ》とシェーンベルクの室内交響曲第2番は、いずれもノセダの優れた音楽性を示した演奏であった。特にシェーンベルクは室内交響曲第2番では、ゾッとするほど美しい音を楽譜とオーケストラから引き出し、ノセダという指揮者がただ者でないことがわかる。
ただ、ノセダの指揮姿は、指揮棒を上げ下げするだけの単調なもので、プロらしくない。


シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」は情熱に溢れ、剛胆な迫力に満ちた演奏。ただ情熱一辺倒の感は否めず、ところにより暑苦しさを覚える。また会場にいる他の誰よりもノセダ本人が音楽に夢中になってしまっているのがわかるため、こちらがうまく音楽に酔えないもどかしさもある。
それにしてもノセダの指揮は妙だ。指揮棒の上げ下げを繰り返すだけかと思ったら、腰を振ったり、飛び上がったり、片足に重心を置いて斜めになりながら指揮したりと、指揮法をちゃんと学んだことがあるのか疑問に思えるほど個性的。棒を縦に振り、腰を揺すっている後ろ姿はまるで卓球選手のよう。ノセダの作る音楽もラケットで音を次々と跳ね返していくようなスポーツじみたところがある。
とはいえ、スケールは大きく、推進力、爆発力ともに抜群であり、また聴いてみたいと思える指揮者であった。

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2021年1月 6日 (水)

コンサートの記(679) クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」

2020年12月25日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

午後3時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、クリスマス・オペラ「アマールと夜の訪問者たち」を観る。台本と作曲は、ジャン=カルロ・メノッティ。演出と日本語訳詞は岩田達宗(いわた・たつじ)。岩田さんはこのところ、メノッティのオペラの演出を手掛けることが多い。出演は、古瀬まきを(ソプラノ)、福原寿美枝(ふくはら・すみえ。メゾ・ソプラノ)、総毛創(そうけ・はじめ。テノール)、福嶋勲(バリトン)、武久竜也(バス)、水口健次(テノール)。合唱は、堺シティオペラ記念合唱団と宝塚少年少女合唱団。ダンサーとして宮原由紀夫(振付兼任)、佐藤惟(さとう・ゆい。男性)が出演する。日本語歌唱、字幕付きの上演であり、歌手達はマウスシールドを付けて歌う。
兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールは、前から4列目の後ろに中央通路があるのだが、その中央通路より前は全て空席となっており、舞台からの飛沫を観客が浴びないよう工夫されている。

オーケストラは園田隆一郎編曲による室内楽編成であり、指揮はオペラのスペシャリストである牧村邦彦が担当する。演奏するのは3人だけで、關口康祐(せきぐち・こうすけ。ピアノ)、蔭山晶子(かげやま・あきこ。クラリネット)、福田奈央子(チェロ)という顔触れである。アンサンブルは舞台の下手端に陣取って演奏する。
今や関西を代表するソプラノ歌手の一人となった古瀬まきをの主演、母親役をこれまた関西ではお馴染みの福原寿美枝が務め、大阪音楽大学客員教授でもある岩田達宗の演出ということもあって、関西では有名なオペラ歌手も結構観に来ている。

作曲のジャン=カルロ・メノッティ(1911-2007)は、名前からもわかる通り、イタリア出身である。11歳にして初めてのオペラを自らの台本によって書いた神童であり、ミラノ音楽院に学んだ後で、同郷の大指揮者であるトスカニーニに誘われる形で渡米。フィラデルフィアのカーティス音楽院でも学んでいる。メノッティは同性愛者であったが、カーティス音楽院在学中に同じく同性愛者であるサミュエル・バーバーと知り合い、パートナーの関係になっている。当時はアメリカにおいても同性愛は認められにくい傾向にあり、バーバーは生涯そのことに悩まされることになるが、おそらくメノッティの場合も同様であり、また足に障害があったということもあって、生きることの苦悩が作品に反映されている。


「アマールと夜の訪問者たち」は、1950年にNBCから依頼を受けてテレビ用オペラとして書かれた作品であり、最初からテレビ用のオペラとして書かれた史上初の作品である。メノッティはメトロポリタン美術館で出会った絵画「東方三博士の礼拝」にインスピレーションを受けてこのオペラを完成させている。

「アマールと夜の訪問者たち」は、上演時間約50分と短いため、本編上演の前に第1部として、同じ西宮市内に本部のある関西学院大学神学部助教で関西学院宗教センター宗教主事も務める井上智(いのうえ・さとし)のトークと、宝塚少年少女合唱団(今日は女の子のみの出演。合唱指導・指揮:笠原美保)による讃美歌の合唱がある。
東方三博士ということで、3という数字がキーになっており、宝塚少年少女合唱団が歌った讃美歌も3曲全てが三拍子、本編の演奏は3人で行われ、セットも三角屋根のテントや頂点がオベリスクのように三角形になった背景が使用されている。アムールが初めて歌うアリアも三拍子で、設定上も3は重要な数となる。ただストーリーやメッセージは3が軸になるものではない。

井上智の話は、「暗闇の中で見る光」をテーマにしたもので、関西学院大学大学院修了後に岩手県での教会活動に従事した時の思い出に始まり、今自分であることの幸せをこのオペラの中に見出すという解釈を示した。ちなみにクリスマスは12月25日であるが、イエスの生まれた日も季節もはっきりとはわかっておらず(馬小屋で生まれたというのが本当なら少なくとも寒い季節ではなかったはずである)、冬至を過ぎて日が少しずつ長くなる頃が相応しいということで取り敢えず12月25日に決まった。ただ国や地域によっては1月6日をクリスマスとするところもあるという。
一応日本でも有名であるが、詳しいことは知られていない東方の三博士についても解説し、三博士は最初から三博士と決まっていたわけではなく、古い宗教画などを見ると、東方から集団でやって来る博士(王、占い師などそのほかのパターンもある)が描かれていたりもするという。ただ贈りものが三種類であったため、最終的には三人ということになり、今に到っているそうである。また、この三人は人間の人生における形態、つまり、青年、壮年、老年を表し、更に当時知られていた3つの大陸、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの三つの象徴でもあるとされたそうである。王だったり博士だったり占い師だったりするのは理由があり、占術に長けた者が王として君臨することになった神託政治の時代があり(日本の邪馬台国なども「鬼道をこととしよく衆を惑わす」卑弥呼が王座にあるなど似た状況の時代は存在した。弓削道鏡と和気清麻呂の宇佐八幡宮託宣事件なども同じような部類に入ると思われる)、同一視されていたという。

 

主人公の少年、アマール(初演時はボーイソプラノが演じたが、演技力が必要であるため、現在ではソプラノ歌手が務めることが多い。演じるのは古瀬まきを)は、片方の足が不自由だが、想像力豊かな少年である。ただ母親(福原寿美枝)は単なる虚言癖だと見做しており、厄介に思っている。クリスマス直前のある日、アマールは巨大な星を見つけ、それに想像を加えて話すが、母親はアマールに早く寝るよう言いつける。アマールは、当時最下層の仕事である羊飼いをしており、極貧生活を強いられていた。その羊飼いも羊が死んでしまったことで続けられなくなりそうであり、母親は乞食になるしかないと嘆く。やがて、従者に導かれた三人の王様がアマール達の前に現れる。一人は黒人、一人は白人、一人はアジア人(アラブ系)で、みなそれらしい格好をしている。アラブ系の王であるカスパール(総毛創)は老人であり、耳が遠い。
三人の王様は、特別な子を探してやって来たと言い、その子の特徴を語る。その子の特徴はアマールにも当てはまるので、母親はそのことを歌う。やがて村人達(村人達は口の前に布を垂らし、頭巾を被るという大谷吉継スタイルのコロナ対策であるが、いかにも異境の人という見た目であり、自然に見える)が現れ、王達に贈りものをして歓迎の宴が始まる。アラブ風の格好の青年二人がアクロバティックなダンスを披露するなどかなり盛り上がる。ステージの上に階段4つ分の高さのステージがあるダブルステージなのだが、アマールは下のステージに降りて牧童の笛を吹き、一緒に盛り上がる(バッハのようだが「音楽の贈りもの」と受け取ることも出来る)。一方、母親は自分だけが贈りものすら出来ないため輪に加われず、上のステージの下手奥に一人所在なげに佇んでいる。三人の王様が寝静まった深夜、母親は貧困の身である苦悩を歌い、富豪達の想像力の欠如を嘆き、恨む。そして王達の財宝を盗もうとするのだが、従者に見つかってしまい……

ストーリー自体は子どもでもわかるシンプルなものであり、主人公のアマールが少年ということもあって共感も得やすいはずである。ただ、一見するとハッピーエンドに思えるストーリーの裏に、生きることの苦しみが宿っているようにも思える。
なくてはならはいはずの松葉杖を贈りものにしようとしたことで奇跡が起こり、アマールの足が治る。だが、アマールは松葉杖を贈りものとして持って、三人の王(全ての人種と全ての世代の象徴である)と共に星が告げる救世主の下に向かうことを母親に告げ、母親も松葉杖をアマールに背負わせる。補助や導きの役割と同時に不自由と苦しみの象徴である松葉杖を背負って旅をするということは、多くの人々の人生のメタファーであり、旅路は決して前途洋々としたものではないかも知れない。だがそれでもアマールは向かう。

15歳の頃、『巴里の憂鬱』というタイトルに惹かれてボードレールの詩集を購入した。その中にある「人皆キメールを背負えり」という詩が気に入った。不可解さを背負いつつ生き続ける人間存在への確かな眼差しが、その詩には描かれていた。松葉杖を背負って果てしない旅へと向かうアマールの姿が、ボードレールの詩に重なった。
天空を一人で支えるアトラスのように、全人類の悲しみを支える興福寺阿修羅像のように、とまではいかないが、彼こそが希望であり、我々の分身でもあり、代表でもある。それ故に心が躍る。豊かな想像力を武器とすれば、苦悩と宿命を背負ってはいても我々は希望へと到るために歩き続けることが出来る。
私の座右の銘は徳川家康公遺訓だが、最初の行である「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」はこの物語にも繋がる。人種や時代は違えど人間の本質はそう大きく異なるものではないし、異なるはずがない。

例年なら日本の年末のクラシックシーンは第九一色になるが、第九の「歓喜の歌」もこれに似たメッセージを持っている。あれは「歓喜! 歓喜! 万歳! 万歳!」という能天気な内容ではなく、共に苦難を生きる人類の旅路を歌ったものであり、まだ訪れていない輝かしい未来への讃歌である。1年の終わりに自分だけでなく全人類の未来を夢見る儀式のようなものがあるというのは、おそらく良いことなのだと思われる。

 

日本社会においてはオペラは根付くのに時間が掛かっており、観たことのない人からは、「外国語を使った高尚で近づきがたい存在」か、「太った男女がわけのわからないことを歌っているへんちくりんなもの」という両極端なイメージで語られてしまうことも多いのだが、オペラとは今に到るまで作品が生き続けている偉大な作曲家のメッセージが込められたものであり、生きるための糧となるものが得られる豊穣なる時間の果実である。

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2020年12月16日 (水)

コンサートの記(672) 兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」

2020年12月12日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会 ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕音楽の贈りもの PAC with ベートーヴェン!第2回「佐渡裕 第九」を聴く。タイトルが長いが、要するに第九の演奏会である。

合唱は飛沫が危険ということで、今年の第九演奏会は取りやめになるところが多く、例えば京都市交響楽団は第九の演奏会を中止し、代わりにチャイコフスキー・ガラを行うことが決まっている。PACオーケストラこと兵庫芸術文化センター管弦楽団は、今年から来年に掛けてベートーヴェン交響曲全曲演奏会を予定しており、第九は例年どおり年末に合わせている。公演自体は行われるが、新型コロナ感染者が増えているということもあり、希望者にはチケット料金払い戻しにも応じるという形態が取られている。

演奏の前に指揮者の佐渡裕が現れて、マイクを手にトークを行う。昨日、兵庫県立芸術文化センターの開館15周年記念コンサートがあり、第九の第4楽章とオペラの前奏曲やアリアなどが演奏され、今日明日は第九全曲の演奏となるが、全てチケット完売であり、沢山の拍手をいただけることを幸せに思うという話から入る。春先から演奏会の中止とチケットの払い戻しが続いたが、7月には歌入りのコンサートも行えて嬉しかったこと、それに先駆けて、オンライン参加型で宝塚歌劇の「すみれの花咲くころ」の演奏を佐渡とPACオーケストラで行い、好評を得たことなどを話す。
佐渡は、今月6日に行われた大阪城ホールでの「サントリー1万人の第九コンサート」の指揮者も務めたが、1万人は流石に無理だというので、千人に絞り、無観客公演とすることにしたものの、それでも厳しいというので、最終的には抽選による500人限定の参加とし、他は動画での投稿を募ることになったという。投稿者は音声をイヤホンで聴きながら歌ったものを録画して送るシステムだったようだが、佐渡はそれに合わせて予め決まったテンポで現場の合唱やオーケストラを誘導する必要があったようで、「リモートに合わせるのは大変だった」と語った(予め決まったテンポに合わせて指揮する大変さについては、フィルムコンサートなどを多く指揮しているジョン・マウチェリの著書『指揮者は何を考えているか』が参考になる)。
兵庫県立芸術文化センター大ホールの杮落としとPACオーケストラのデビューが佐渡の指揮する第九であり私も聴きに行ったが、佐渡はPACの年末の第九のうち、5周年と10周年を指揮、そして5年おきということで今年指揮台に立つことになったと語った。
「歓喜の歌」については、「歓喜の歌とはいっても、初演された当時は社会全体が厳しい状態で、そういう時代を喜ぶ歌ではなかった」と語り、合唱の合間やラストにシンバルや太鼓が叩かれる場面があるが、あれは「人類への応援歌」であり、人類への信頼とその先にある歓喜を歌ったものとの解釈を示した。

今日のコンサートマスターは、元大阪フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターで、2019年9月からは日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートマスターを務める田野倉雅秋。チェロが上手手前側に来るアメリカ式の現代配置での演奏である。ゲスト・プレーヤーとして水島愛子(元バイエルン放送交響楽団ヴァイオイリン奏者、兵庫芸術文化センター管弦楽団ミュージック・アドヴァイザー)、中野陽一朗(京都市交響楽団首席ファゴット奏者)、五十畑勉(東京都交響楽団ホルン奏者)らが参加している。
合唱はひょうごプロデュースオペラ合唱団(マウスシールドを付けての歌唱)。独唱は、並河寿美(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、行天祥晃(ぎょうてん・よしあき。テノール)、甲斐栄次郎(バリトン)。バリトンは当初、キュウ・ウォン・ハンが務める予定だったが、新型コロナ流行による外国人入国規制によって参加出来ず、甲斐が代役を務めることになった。
合唱と独唱者、そしてピッコロ奏者は、第2楽章終了後にステージに登場する。

9月にアルプス交響曲を演奏した時と同様、反響板を後ろに下げることでステージを広くし、ひな壇を設けて、管楽器奏者や独唱者、合唱はかなり高い場所で演奏に加わることになる。

字幕付きの演奏会であり、ステージの左右両側、ステージからの高さ4メートル程のところに字幕表示装置が設置されている。なお、兵庫芸術文化センター管弦楽団の字幕を一人で担当してきた藤野明子が11月に急逝したそうで、おそらくこの第九の字幕が最後の仕事になったと思われる。

若い頃はエネルギッシュな演奏を持ち味とした佐渡裕だが、ここ数年は細部まで神経を行き届かせた丁寧な音楽作りへと変わりつつある。佐渡も還暦間近であり、成熟へと向かっているということなのであろうが、長年に渡って海外と日本を往復する生活が続いているためか、表情が疲れているように見えるのが気になるところである。

第1楽章は、悲劇性というよりもこの楽章が持っている鬱々とした曲調に焦点を当てたような演奏である。ドラマ性を強調せずにむしろ均したような印象を受けるが、おそらく第4楽章に頂点が来るように計算もしているのだと思われる。PACオーケストラは育成型であり、そのためどうしても個性には欠ける。音色の輝かしさはあるのだが、渋みは育成型オーケストラで生むのは難しいだろう。
佐渡もHIPを取り入れており、ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団)と行った第九のツアーでは速めのテンポを採用していたように記憶しているが、今回はテンポは中庸である。低音部をしっかり築くことで安定感を増す手法は、手兵であるトーンキュンストラー管弦楽団を始めとするドイツ語圏のオーケストラとの共演で身につけたものだろう。
第4楽章ではヴィオラ奏者に完全ノンビブラートで演奏させることでハーディ・ガーディのような音色を生むなど、面白い工夫が施されていた。

第2楽章も緻密なアンサンブルが特徴で、宇宙の鳴動を描いたかのような神秘的な音の運動を鮮やかに示している。

第3楽章も自然体の演奏で、音楽が持つ美しさをそのままに引き出す。各楽器が美音を競う。

第3楽章からほぼ間を置かずに突入した第4楽章。第1楽章から第3楽章までの旋律が否定された後で、歓喜の歌のメロディーが登場するのだが、ドラマの描き方や盛り上げ方は最上とはいえないものの優れた出来である。
佐渡は最初の合唱の部分を締めくくる音をかなり長く伸ばす。
新型コロナ対策として、合唱も前後左右を開けた市松配置ということでステージに上がるのは40人であり、日本の年末の第九としては少なめであるため、迫力面では例年に比べると物足りないが、合唱の精度自体は高い。
最後の追い込みは佐渡はかなり速めのテンポを採るのが常だが、PACオーケストラの技術は高く、余裕すら感じさせるアンサンブルであった。

疫病の蔓延した年に第九を演奏する意義についてだが、シラーが書いた詩に出てくる「薔薇」というのは、華やかな薔薇ではなく、どうやら茨のことのようで、ここで描かれているのはバラ色の道を行くのではなく、皆で試練の道を乗り越える過程のようである。確かにシラーがお花畑な詩を書くとは思えない。そして自然が与えた茨とのことなので、今の状況下にも当てはまる。
天使も出てくるが、ここでいう天使とはエンジェルではなく、半獣半人の智天使ケルビムであり、楽園の前に立ちはだかる存在である。ただ、ケルビムに会えているということは、人類が楽園の一歩手前まで来ていることを示してもおり、理想社会実現の可能性がこの先にあるということでもある。ただそれは試練の時でもあり、救済はまだ訪れていない。
21世紀も序盤から中盤に入りつつあるが、ここに来て人類は全て平等で自由な社会から大きく遠ざかってしまったように思う。日本に関しては希望に乏しく、暗い未来を描くのは容易いが明るい未来は現実味がないというのが現状ではある。だが、コロナ禍という茨の道を全世界で乗り越えた暁には、可能性は低くとも新たな地平が待ち受けているような、そんな希望をシラーとベートーヴェンは照らし続けてくれているよう思う。

アンコールとして、ヴェルディの歌劇「椿姫」より“乾杯の歌”が演奏される。「楽園」繋がりである。ベートーヴェンの楽園とヴェルディの楽園とでは言葉は同じであっても意味するものは異なるが、音楽という美しくも儚い楽園に浸る喜びとして私は楽しんだ。

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2020年12月 5日 (土)

観劇感想精選(373) 『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』

2020年11月28日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』を観る。原案:小熊節子Schedlbauer(シュードゥルバウアー)、脚本:木内宏昌、演出:栗山民也、音楽・ピアノ演奏:新垣隆。出演は、一路真輝、田代万里生、神尾佑(かみお・ゆう)、前田亜季、安藤瞳、万里紗(まりさ)、春海四方(はるみ・しほう)、石田圭祐、久保酎吉(くぼ・ちゅうきち)。声の出演:段田安則。

ベートーヴェンが残した宛先不明の「不滅の恋人」への手紙を題材にした作品。一路真輝と田代万里生をキャスティングしていることからも分かる通り歌のシーンもあるが、それほど多くはない。また新型コロナ対策のため、歌うシーンでは他の俳優が飛沫が掛からない程度には遠ざかっている必要があり、それを観客からあからさまに悟られないように、また不自然でないように見せる工夫もいる。

舞台の中央にピアノがあり、今やすっかり有名になった新垣隆が演奏を行う。新垣はベートーヴェンが作曲した作品も演奏するが、多くは自己流にアレンジしてあり、楽譜そのままに演奏することはほとんどない。

タイトルにある「Op.110(オーパス110。作品番号110)」は、具体的には、ピアノ・ソナタ第31番のことを指している。ピアノ・ソナタ第31番は献呈者がなく、ベートーヴェンが「不滅の恋人」のために作曲したのではないかという説があって、今回の劇でもその説が採用されている。新垣隆は、ピアノ・ソナタ第31番だけは譜面通り演奏する。

「不滅の恋人」の正体は今もはっきりとはしておらず、今後も重要な史料が発見されない限り、特定される可能性は低いと思われるが、以前は数多くいた「不滅の恋人」候補が今では2人に絞られており、誰かというよりもどちらの可能性が高いのかが焦点となっている。その2人とはアントニー・ブレンターノとジョゼフィーネ・ブルンスヴィックである。共に夫がいたため、ベートーヴェンは秘めた恋として正体を明かさない恋文を綴り、投函することなく保管し続けたとされる。「不滅の恋人」への手紙は、現在では1812年7月6日から7日に掛けて、チェコ・ボヘミア地方の温泉町、テプリッツで書かれたことがわかっている。その直前の7月3日にベートーヴェンは「不滅の恋人」とプラハで直接会っていたとされるのだが、その時期にプラハにいたのがアントニーとジョゼフィーネなのである。確実にプラハにいたことが分かっているのはアントニーであるが、この時はイタリア系の豪商の夫、フランツ・ブレンターノと一緒。このフランツはベートーヴェンの親しい友人の一人である。また、残されたベートーヴェンの手紙からは、アントニーへの「友情」が語られており、アントニーを女性として意識していなかったのではないかという説もある。一方のジョセフィーネは、プラハに行く意思を日記に記し、姉のテレーゼにも伝えているが、1812年7月の正確な記録はなく、おそらくはプラハにいたであろうが確証はないという状態であった。どちらも決め手には欠ける。

今回の『Op.110 ベートーヴェン「不滅の恋人」への手紙』では、アントニー・ブレンターノ(一路真輝)が「不滅の恋人」であるという説を採用しており、ジョゼフィーネ(前田亜季)もベートーヴェンと肉体関係を持ち、ベートーヴェンの子を宿した女性として登場する。どちらも貴族階級に生まれたがための不自由を嘆く女性である。
アントニーへのベートーヴェンの「友情」であるが、愛は友情の上に成り立つという解釈を採用している。アントニーはフランクフルト(・アム・マイン)にある嫁ぎ先の家を出て、ウィーンで別居生活を送る様になり、やがてベートーヴェンへの恋心を夫のフランツ・ブレンターノ(神尾佑)に打ち明ける。フランツはアントニーへの愛とベートーヴェンとの友情ゆえにそれを許し、ベートーヴェンとアントニーの手紙のやり取りも認める(ただし読み終えた後に破棄することを条件とする)。またベートーヴェンにボヘミア旅行を提案したのもフランツという設定になっている。フランツには商人の習慣に従ってアントニーを「子どもを産むための道具」にせざるを得なかったという負い目がある。

なお、今回の劇にはベートーヴェン本人は登場せず、段田安則がベートーヴェンの声として「不滅の恋人」への手紙の一節を朗読した録音が流れる。

まず新垣隆が登場し、ピアノを弾く。後方のスクリーンに「遺書 1802年」という文字が現れ、田代万里生扮するフェルディナント・リースが、ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」を朗読する。フェルディナント・リースは、ベートーヴェンの弟子であり、ベートーヴェンの伝記を共同で著した人物でもある。物語は、リースがベートーヴェンの伝記執筆の取材のため、人々に証言を聞いて回るというスタイルで進んでいく。
「不滅の恋人」が書かれたチェコへの旅の最中に作曲されたのが交響曲第8番であるが、この曲はベートーヴェンが自身の交響曲の中で「最も好き」と明言している作品であり、9つある交響曲の中で唯一誰にも献呈していない。実際にそうなのかどうかは分からないが、この劇の中では「不滅の恋人」との愛の喜びを書いた曲とされている。

コロナ下の演劇として書かれたということもあるが、モノローグが多く、それにダイアローグがいくつか積み重なって劇は進行する。3人以上での対話が行われるというシーンはほぼない。ダイアローグも一部を除いて「不自然ではない」と思われる程度のディスタンスを取って行われることが多い。

第九のメロディーも「不滅の恋人」への手紙が書かれた頃にはすでにスケッチが出来上がっていたということで、「歓喜の歌」も「不滅の恋人」への愛に繋げている。かなり強引ではある。

原案の小熊節子Schedlbauerは、ウィーン・ミュージカル「エリザベート」の日本公演権を獲得した実業家で、元々は桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園芸術短期大学とは別物で、現存しない)に在学中の1960年にウィーン国立音楽アカデミー(現・ウィーン国立音楽大学)ピアノ演奏科に留学し、卒業した音楽家の卵だったが、ワインの貿易商へと転身し、その後にミュージカル・ライセンスのプロジェクションコーディネーターも務めるようになった人物である。
15年以上前に作家の青木やよいが「不滅の恋人」の有力候補を探し当てたということを知り、興味を持って自分でも研究を行い、栗山民也にベートーヴェンに関する芝居を作りたいと提案したのがこの劇が生まれた発端だという。栗山民也も学生時代からベートーヴェンファンだということでこの話に乗り、木内宏昌に台本執筆を依頼したようだ。「ベートーヴェンが登場しない」という発想は栗山民也によるものだそうである。

ベートーヴェンと「不滅の恋人」との恋。そしてなぜそれが成就しなかったのかが主軸となるが、時代と音楽がラブストーリー以上に重要な地位を占めている。貴族の時代が終焉へと近づき、ベートーヴェンが一般聴衆や市民の味方であるということが、芝居展開上はやや強引ではあるが語られる。ただ実際、ベートーヴェンが音楽を貴族の専有物から全ての人類のためのものへと拡大する意志を持ち、実現したのは事実である。ベートーヴェンを舞台に出さなかったのは、上手くいったかどうかは別として、時代と音楽とを見えない主役とし、ベートーヴェンをそれに重ねるという意図もあったのかも知れない。また登場人物がそれぞれのベートーヴェン像を持っており、それを語る上で一人のベートーヴェンを登場させない方が有効だったということも考えられる。また、ベートーヴェンが夢見た新時代によって自由になるのは市民だけではなく貴族も含まれると解釈されていることがステーリー展開から読み取れる。

今年は合唱の飛沫が危険ということで、年末の第九の演奏が中止になるケースが少なくない。兵庫県立芸術文化センターでは第九の演奏は予定されているが、京都コンサートホールでの京響の第九は中止となり、チャイコフスキー・ガラへと変更になった。だが、この芝居の中では第九の「歓喜の歌」はちゃんと歌われる。芸術家役、貴族役、ブルジョワ役、庶民役の全員が「歓喜の歌」を歌う。プロレベルの歌唱が行えるのは田代万里生(第九のテノールパートを務めた経験あり)と一路真輝だけであるが、それでも「歓喜の歌」(「換気の歌」と誤変換されたが、今年に限っては正しいようで複雑な気分になる)が聴けるというのはいいものだ。

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2020年11月25日 (水)

観劇感想精選(368) 野田秀樹潤色 シルヴィウ・プルカレーテ演出「真夏の夜の夢」

2020年11月20日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」を観る。シェイクスピアの書いた喜劇の中で最も有名な同名作を野田秀樹が自由に作り替えた作品の上演で、初演は1992年、野田秀樹本人の演出によって行われている。野田秀樹のシェイクスピア作品潤色作品には他にも「リチャード三世」を原作とする「三代目、りちゃあど」などがあり、また「贋作・罪と罰」、「贋作・桜の森の満開の下」といった一連の「贋作」ものにも繋がっている。

一応、白水社から出ている小田島雄志翻訳のテキストの潤色と表記されているが、実際にはストーリーの骨子以外は大きく変わっており、舞台が日本に置き換えられている他、シェイクスピア作品よりも後の時代の海外文学(『ファウスト』や『不思議の国のアリス』)などが加わるなど、悪い言い方をすると雑多な内容となっている。

演出は、佐々木蔵之介主演の「リチャード三世」などを手掛けたシルヴィウ・プルカレーテ。舞台美術・照明・衣装:ドラゴッシュ・ブハジャール、音楽:ヴァシル・シリー、映像:アンドラシュ・ランチ。全員、ルーマニアの出身である。

新型コロナウィルス流行で、外国人入国規制が続いていたため、ルーマニア勢はなかなか入国の許可が下りず、当初は遠隔による稽古が行われていたが、9月末になってようやくプルカレーテとブハジャールの2人に入国許可が下り、2週間の隔離経過観察を経て、舞台稽古に合流したという。

出演は、鈴木杏、北乃きい、今井朋彦、加藤諒、加治将樹、矢崎広、手塚とおる、壌晴彦(じょう・はるひこ)、長谷川朝晴、山中崇、河内大和(こうち・やまと)、土屋佑壱、浜田学、茂手木桜子、八木光太郎、吉田朋弘、阿南健治、朝倉伸二。

 

溶暗の中、虫と獣の鳴き声が聞こえ、やがてリコーダーの旋律が聞こえ始める。上手から下手へと、ベルトコンベアに乗って靴が流れ、上手から現れた、そぼろ(原作のヘレナに相当。鈴木杏)が森の不思議について語る。不思議な出来事は気のせいではなく、木の精によるものだと宣言したところで、紗幕が透け、「割烹料理ハナキン」の場面となる。野田秀樹潤色による「真夏の夜の夢」が初演されたのは1992年で、バブルの崩壊が始まったばかりであるが、「ハナキン」という店名が、いかにもバブルといった感じである。

ハナキンの主人(阿南健治。原作のイージーアスに相当)と、娘のときたまご(原作のハーミアに相当。北乃きい)との親子喧嘩が始まっている、ハナキンの主人は包丁を振り上げて、「お前を殺して俺も死ぬ」と啖呵を切る。ハナキンの主人は、ときたまごを板前デミ(原作のディミートリアスに相当。加治将樹)と結婚させるつもりだったのだが、ときたまごは密かに板前ライ(原作のライサンダーに相当。矢崎広)と恋仲になっており、父親が決めた婚礼を拒否したのだ。
ときたまごは、板前デミと共に富士山の麓にある森(おそらく青木ヶ原樹海は意識されていると思われる)へと駆け落ちすることに決める。

実は、板前デミは、以前はそぼろに夢中で、熱心なラブレターなども送っており、そぼろもそぼろで板前デミに思いを寄せていて相思相愛であったのだが、今では板前デミのそぼろに対する熱はすっかり冷めてしまい、まだ思いを捨て切れていないそぼろをゴミか何かのように邪険に扱う。

一方、妖精の森では、妖精の王であるオーベロン(壌晴彦)と王妃であるタイテーニア(加藤諒)が喧嘩の真っ只中である。拾ってきた子どもを取り合ったのが原因だ(なお、かなり長い名前の子どもであり、言い終わるとなぜかインド風のBGMが流れる)。オーベロンは、妖精パック(手塚とおる)を使い、秘薬を用いた悪戯を仕掛ける……。

兵庫県立芸術文化センター(Hyogo Performing Arts Center)の愛称がPACであり、座付きオーケストラである兵庫芸術文化センター管弦楽団の愛称もPACオーケストラである。兵庫芸術文化センター管弦楽団は発足時に、PACが「真夏の夜の夢」のパックに由来することを明記している。私が兵庫県立芸術文化センターで「真夏の夜の夢」を観るのは今回が初めてとなるが、内容がシェイクスピアの「真夏の夜の夢」とは大きく異なるため、本当の意味でのPACでの「真夏の夜の夢」体験は今後に持ち越しとなりそうである。

悪戯好きの妖精、パックが大活躍する「真夏の夜の夢」であるが、野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」では、今井朋彦演じるメフィストがパックの役割をパクり、各々のアイデンティティの崩壊をもてあそぶというダークな展開を生み出す。

人間の持つ不気味さや醜さを炙り出すスタイルであるプルカレーテの演出であるが、野田秀樹の本との相性は余り良くないように思われる。ヴァシル・シリーもおどろおどろしい音楽を作曲していたが、登場人物のセリフと合致していないように感じられる場面も多い。例えるなら落語をホラーにしたようなちぐはぐな印象である。「カノン」などに顕著だが、おどろおどろしい場面を逆に美しく描くのが野田作品の特徴である。
タイテーニアが異形のものに恋する場面も、不用意に不気味にしてしまった印象を受ける。あそこは、シェイクスピアの原作もそうだが、野田の本でもおそらく笑いを取る場所だったと思うのだが。

誰も知らない「知られざる森」は、その場所に行ったことはあっても森を出る頃には忘れてしまう場所だそうで、無意識領域を描いているようでもある。また、言葉に出来なかったこと、しなかったことなどが話の中心となる場面があり、表に出されなかった言葉が形作る世界が語られている(この辺は夢というものの役割をも語っているようでもある)。そこに溜まった感情を顕在化させるという契約をメフィストは言葉を使わない方法で結んでいた。そもそもメフィストは、ある人物の「影」の部分に導かれて登場したことが明らかにされている。
やがて憎悪が森を焼き尽くそうとするのだが、「物語」がそれを救うことになる。更生を重視する刑務所に取材したドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」でも物語が語られる場面が冒頭に置かれているが、世界を見つめる視点を持つために、物語は極めて有効且つ重要だ。

今井朋彦演じるメフィスト。好演だったが、本来はもっと飄々とした人物として設定されていたように思う。そうでないと整合性が取れない場面がある。

アンドラシュ・ランチの映像を巨大な戸板風の壁に投影する演出は、華麗で分かりやすくもあるのだが、映像を使った演出が往々にしてそうなるように映像頼りになってしまう部分も多い。ある意味、映像の方が舞台上の俳優よりも効果的に使われてしまうため、生身の人間が舞台上にいることで生まれる価値が薄くなるようにも思われてしまう。おそらく予期していたわけではないと思うが、そうした映像の使い方がメフィスト的であると言えば言える。映像に魂を売ったように見えなくもないからだ。

今や日本を代表する舞台女優となった鈴木杏のバレエの動きを取り入れたエネルギッシュな演技が魅力的。コンスタントにというわけではないが舞台に出続けている北乃きいの可憐さも良かった。
この劇では、いいところはみんなメフィストに持って行かれてしまうパックであるが、それでも手塚とおるは存在感を出せていたように思う。

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2020年9月22日 (火)

コンサートの記(656) 兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会「佐渡裕 アルプス交響曲」

2020年9月19日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口にある兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、兵庫芸術文化センター管弦楽団特別演奏会「佐渡裕 アルプス交響曲」を聴く。リヒャルト・シュトラウス最後の交響詩となったアルプス交響曲1曲勝負の演奏会である。

ドイツ・ロマン派最後の巨匠といわれたリヒャルト・シュトラウス。管弦楽法の名手として、30代までに数々の傑作交響詩をものにしているが、40代以降はオペラに力を入れるようになり、オーケストラ曲を書く機会は減っていたが、51歳の時に完成させたのがアルプス交響曲である。交響曲とあるが、いわゆる交響曲ではない。リヒャルト・シュトラウスは長命で85歳まで生きており、51歳というのはまだ人生を振り返るような年齢ではないが、それまでに書かれた交響詩の要素を取り込みながら登山に人生を重ね合わせるという作品になっており、情景と心情をオーケストラで描くというショー的要素と独特の深みを合わせ持っている。フリードリヒ・ニーチェの著作に影響を受けた交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を代表作の一つとしているリヒャルト・シュトラウスだが、アルプス交響曲もニーチェの「アンチクリスト(反キリスト主義者)」にインスパイアされたことを作曲家自ら明かしている。

 

兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ。PACは、Performing Arts Centerの略)は、元々今月の定期演奏会のメイン楽曲としてアルプス交響曲を演奏する予定であったが、コロナで全てが白紙となり、それでも演奏活動が再開されたら大編成のものをやりたいと、芸術監督の佐渡裕が希望を出していたそうだ。

現在、オーケストラのコンサートでネックとなっているのは、楽団員がソーシャルディスタンスを確保しなければいけないということであり、大編成の楽曲はステージ上が密になるため変更せざるを得ない状態となっている。だが、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールは、元々オペラ対応劇場として設計されているため4面舞台を持っており、反響板を後方に7m下げてメインステージを拡げ、両サイドの舞台との風通しを良くすることで換気対策を十分に取り、管楽器や打楽器はひな壇に乗せて視界を確保することで演奏会に漕ぎ着けた。

今日のコンサートマスターは豊嶋泰嗣。チェロが手前に来るアメリカ式の現代配置を基本としている。ゲスト・トップ・プレーヤー及びスペシャル・プレーヤーとして水島愛子(元バイエルン放送交響楽団ヴァイオリン奏者、兵庫芸術文化センター管弦楽団ミュージック・アドヴァイザー)、戸上眞理(東京フィルハーモニー交響楽団第2ヴァイオリン首席)、石橋直子(名古屋フィルハーモニー交響楽団首席ヴィオラ奏者)、林裕(元大阪フィルハーモニー交響楽団首席チェロ奏者)、石川滋(読売日本交響楽団ソロ・コントラバス奏者)、中野陽一朗(京都市交響楽団首席ファゴット奏者)、五十畑勉(東京都交響楽団ホルン奏者)、高橋敦(東京都交響楽団首席トランペット奏者)、倉田寛(愛知県立芸術大学トロンボーン科教授)、奥村隆雄(元京都市交響楽団首席ティンパニ)の名がクレジットされているほか、ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団フルート奏者の江戸聖一郞、関西フィルハーモニー管弦楽団首席トランペット奏者の白水大介(しろず・だいすけ)、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明、元京都市交響楽団首席テューバ奏者の武貞茂夫らの名を見ることが出来る。
KOBELCO大ホールにはパイプオルガンがないため、電子オルガンの演奏を室住素子が行った。

1階席の中央通路前の席に譜面台が並び、ここで金管のバンダが演奏する。2階下手サイド席ステージそばも空席となっており、ここにはトロンボーン奏者2人が陣取ってバンダ演奏を行った。

客席は左右最低1席空けのソーシャルディスタンス対応。KOBELCO大ホール入り口ではサーモグラフィーを使った検温と手のアルコール消毒が必要となり、チケットも自分でもぎって半券を箱に入れる。また強制ではないが、兵庫県独自の追跡サービスにもQRコードを使って登録出来るようになっている。コンサートスタッフは全員、フェイスシールドを付けての対応である。

 

演奏前に、佐渡裕が一人で登場してマイクを手に挨拶を行う。春から、中止、延期、払い戻しなどが相次いだが、6月からコンサート再開に向けての実験や検証が行われ、9月に演奏会が再開されると決まった時には全員が、「アルプス交響曲は何が何でも演奏しよう」と意気込んでいたという。ステージ上でのソーシャルディスタンスがやはり問題となったが、「6月頃には、2mから2m半が必要といわれたが、うちの楽団、それだけ離れていても、アルプス交響曲、なんとかなるやろ」ということで上演のための努力を続けてきたそうだ。佐渡はご存じない方のためにKOBELCO大ホールが4面舞台であるという話をし、ひな壇については、「見た目もアルプス交響曲っぽい」と冗談を交えた話をしていた。一番上のティンパニが置かれている段は、ステージから約2mの高さがあるという。

兵庫芸術文化センター管弦楽団がアルプス交響曲を演奏出来ることになったのは、その名の通り劇場付きのオーケストラであることが大きいと佐渡は語る。貸し館での演奏となるとリハーサルが十分に行えないため、通常とは異なる配置での演奏は諦めざるを得ないのだが、ここは本番と同じホールでリハーサルが何日も行えるため、万全の体制を整えることが出来たという。
佐渡は、「今、アルプス交響曲を演奏出来るのは日本でここだけ」と自信を見せていた。
またアルプス交響曲が人生を描いているという解釈も語り、リヒャルト・シュトラウスに関しては、「今の時代に生きていたら、ジョン・ウィリアムズのような映画音楽を沢山書いたんじゃないか」「ジョン・ウィリアムズもリヒャルト・シュトラウスから影響を受け、リヒャルト・シュトラウスもベートーヴェンの『田園』などに影響された」と法灯のように受け継がれていた音楽の生命力にも触れていた。

 

本当に久しぶりの大編成オーケストラ生体験となる。兵庫芸術文化センター管弦楽団は、オーディション合格後、最大3年在籍可能という育成型オーケストラである。オーディションは毎年行われて楽団員が入れ替わるため、独自のカラーが望めない一方で、指揮者の個性が反映されやすいという特徴を持つ。

ゲスト・プレーヤーを何人も入れたPACオーケストラの響きは輝かしく、佐渡の基本的には陽性の音楽作りがよく伝わってくる。活動再開後初の特別演奏会ということで、オーケストラメンバー達も気合いが入っており、雄渾な音楽が奏でられる。配置の問題もあって、金管が強すぎる場面もあったが、やり過ぎという感じははなく、むしろ祝祭性が伝わってくる。佐渡は若い頃とは違い、丁寧な音楽作りが特徴となっている。描写力にも長けており、滝や草原の場面での抒情性や清々しさの表出も十分である。嵐の場面の大迫力もいかにも佐渡らしいが、日没は音色が明るすぎ、まだ日が高いように思えてしまう。ここのみならず陰影の付け方には物足りないものも感じた。
佐渡は、エピローグ以降は指揮棒を置いてノンタクトでの指揮。ここでも風景描写以上のものを感じ取るのは難しい。

前半がかなり好調だっただけに終盤の描き方に不満も感じてしまうのだが、全体を通せば今の時期に貴重な「特別な演奏」となっていたように思う。大編成の楽曲を演奏することは他ではまだ難しいため、「フルオーケストラの響き自体」が何よりも素晴らしいものに感じられた。

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2020年9月 2日 (水)

観劇感想精選(350) 大竹しのぶ主演「母・肝っ玉とその子供たち 三十年戦争年代記」

2005年11月15日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター中ホールにて観劇

兵庫県立芸術文化センター中ホールで、「母・肝っ玉とその子供たち 三十年戦争年代記」を観る。「肝っ玉おっ母とその子供たち」というタイトルで知られるベルトルト・ブレヒトの戯曲を谷川道子が新たに翻訳したテキストを使用。音楽は初演時と同じパウル・デッサウの曲を使う。演出は栗山民也。出演は、大竹しのぶ、山崎一、秋山菜津子、中村美貴、永山たかし他。衣装:ワダエミ。

中ホールに入るのは初めてだが、思っていたよりも空間が小さい。1階席は埋まっていたようだが、私の座った2階席はガラガラ。当日券でも余裕で入れる。

舞台上には石の荒野のセット。塹壕のような穴があり、そこがオーケストラピットになっている。

栗山さん演出の舞台は何度か観ているが、これまで感心したことは一度もなかった。それで今回もやや不安だったのだが、嬉しいことに予想を超えて良い出来であった。何よりも役者達のアンサンブルがしっかりしている。

「母・肝っ玉」を演じる大竹しのぶの歌が、バンドの音にかき消されて歌詞が聞き取れなかった他は全て納得のいく水準。照明やセットの使い方は好みではなかったが、効果的であることは確かだし、私の好みなど正直どうでもいい。お薦めの舞台である。

舞台上手に鳥居のような形のセットが置かれていたせいで、前半は「肝っ玉」という言葉が、「靖×のは△」という言葉に重なって聞こえた。もちろん、そういった演出意図はないだろうし、後半では鳥居は半分に割れてしまい、「肝っ玉」の言葉の意味も変わってくるので解釈としても間違いなのだろうが、現在の時代状況に鑑み、もし私がこの本を演出するとしたなら本物の鳥居を出すかも知れない。

牧師(山崎一)のセリフにある「(戦争は)自由を与える」という言葉からはイラク戦争のコードネーム「イラクの自由」が連想される(他の翻訳では「解放する」という言葉が用いられている)。今の時期に「肝っ玉」を舞台にかけた背景には当然イラク戦争があるだろうから、意図的にわかりやすく翻訳したのだろう。

ブレヒト自身は「異化効果」がどうのこうのと言っているが、観客は基本的にはそんなものを意識する必要はない。観ていれば十分に面白いし感動出来る。ブレヒトは「母・肝っ玉」ことアンナの愚かさを伝えたいという意図を持ち、感動されることを好まなかったようだが、感動できない「肝っ玉」に意義はあるのだろうか?

有名俳優以外では、口のきけない長女・カトリンを演じた中村美貴の清潔感と、次男・シュワイツェルカス(スイスチーズ)役の永山たかしの感性の瑞々しさを感じさせる演技が特に印象的。

上演時間約3時間(20分の途中休憩時間を含む)の大作だが、長さは全く気にならなかった。

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2020年8月16日 (日)

コンサートの記(648) 佐渡裕指揮兵庫芸術文化センター管弦楽団 兵庫県立芸術文化センター大ホール杮落とし公演「第九」

2005年10月27日 兵庫県立芸術文化センター大ホール(現在のKOBELCO大ホール)にて

兵庫県立芸術文化センター大ホール柿落とし公演の「第九」を聴くために出かける。西宮という街の空気と雰囲気を知るために少し早めに出かける。

最寄り駅は、阪急西宮北口駅。地元の人は気にしないのだろうが、西宮北口(通称は西北)というのも変わった駅名である。西宮市の北口という場所にあるので西宮北口駅という即物的な名称で、阪急には西宮駅という駅はないから混同することはないが、関西以外の人は阪神西宮駅北口やJR西ノ宮駅北口と勘違いするかも知れない。


午後6時開場。午後7時開演。

兵庫県立芸術文化センター大ホールの内装は、壁全てに木を使った落ち着いたもの。変形シューボックススタイルで天井は高い。4階席は遥か上にあり、ステージからかなり遠い。
トイレは各階にあるがやや狭い。
私は1階サイド席、舞台の左手やや後方(LC9番の席)に座ったのだが、現代のホールにしては通路が狭く、また椅子がずらりと連なっているため、真ん中付近の席を買った人は、たどり着くまで難儀しそうである。後方、壁の後ろにも通路があるのだが、設計の関係でホール側の壁が斜めになっており、目の錯覚で体のバランスを崩しそうになる。

オペラ対応であるため、パイプオルガンはない。

兵庫県立芸術文化センター、柿落とし公演で演奏するのは、兵庫芸術文化センター管弦楽団というそのままの名前のオーケストラである。わかりやすくはある。誰が聞いてもどこのどんなオーケストラかわかる。略称はPAC(Peforming Arts Centerの略)。
兵庫芸術文化センター管弦楽団は、新たに結成されたプロオーケストラ。日本唯一の育成型プロオーケストラでもあり、厳しいオーディションを勝ち抜いた、日本を含む13の国出身の35歳以下のメンバー(平均年齢は27歳)からなる若い楽団である。芸術監督は佐渡裕で、今回の指揮も当然、佐渡が担当する。

合唱は、神戸市混声合唱団(プロの合唱団である)とオープニング記念第9合唱団(オーディションによって選ばれた、今回の第9演奏会のためだけに参加するメンバー達)。
ソリストは、ソプラノがロシアのマリア・コスタンツァ・ノチェンティーニ。メゾ・ソプラノが日本の手嶋眞佐子。テノールがアメリカのポール・ライオン、バリトンが韓国のキュウ=ウォン・ハン。オーケストラ同様、国際色豊かな顔ぶれである。

兵庫県立芸術文化センターの響きは、残響の少ないシンプルなものである。残響を重視するなら良いホールとは呼べないだろうが、その分、音の動きが細部までよくわかる。音楽ホールの響きが安定するまでには、最低でも竣工から2年程度はかかるとされているため、今後、響きが大きく変わる可能性もある。


第1楽章。弦の響きが薄いのが気になる。結成後間もないオーケストラということもあるのだろう。しかし最近流行りの古楽器奏法を取り入れた演奏だと考えれば、違和感は和らぐ。歴史のないオーケストラだからこそ、佐渡の音楽性がよくわかるということもある。

今回の佐渡の第九の特長は、一拍目を強調し、アクセントを与えて、そこからなだらかに歌へと変化させていくということ。メリハリが利いている。
途中、フェンシングの選手のような格好になったり、しゃがみ込むような素振りを見せたり、腰を振ったりと、佐渡の指揮は視覚的にも楽しい。
テンポは速めだったが、第3楽章をじっくり歌ったことと、第4楽章で、歓喜の主題を登場させるまでに間を長く取ったりしたため、「速い」という印象があったわりには、トータルタイムは平均的であった。

オーケストラも、音外しや、アインザッツが揃わなかったりというミスはあったものの健闘。アンサンブルは予想していたものより遥かに緻密である。

歓喜の歌はやはり、生で聴くに限る。人間の声の圧倒的な迫力はCDでは味わえない。二つの合唱団のレベルはかなり高い。

ラスト。佐渡は、「限界を超えているのでは?」と思えるほどの快速テンポを要求。フルトヴェングラーのバイロイト盤をも凌ぐほどの猛烈な追い込みだ。バイロイトは最後の最後で音が潰れてしまったが(実際は録音の問題であった可能性が高いことが後にわかっている)、兵庫芸術文化センター管弦楽団は乱れることなく最後まで弾き通した。
感動よりも興奮するベートーヴェン。完璧でも重厚でもないが、フレッシュな第九であった。

第九の後で何かを演奏するということは少ないが、今回は特別に「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」(「パッピーバースデー、ディア名ホール!」と歌われた)が演奏され、新ホールと新オーケストラの門出を祝った。

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2020年4月 3日 (金)

観劇感想精選(345) 「夢の劇|ドリーム・プレイ」

2016年5月14日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「夢の劇 | ドリーム・プレイ」を観る。
スウェーデンを代表する劇作家であるヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(もっともストリンドベリ以外に著名なスウェーデン人劇作家はほとんどいないのだが)の読むための戯曲を長塚圭史が上演用台本に纏め、白井晃の演出で上演する。

出演:早見あかり、田中圭、江口のりこ、玉置玲央、那須佐代子、森山開次、山崎一、長塚圭史、白井晃、久保貫太郎、今里真(いまざと・まこと)、宮河愛一郎、高瀬瑤子、坂井絢香、引間文佳(ひきま・あやか)。
音楽:阿部海太郎、mama!milk(生駒祐子&清水恒輔)、トウヤマタケオ。
振り付け:森山開次。

もともとストリンドベリが「悪夢」を主題に、上演を予定していない肘掛け椅子の演劇(読む戯曲、レーゼ・ドラマ)として書いただけでに混沌とした要素がある。

舞台上には原色系の低い段が上から見て八角形に近くなるよう組まれ、天井からはロープなどが吊り下がっている。舞台奥はオーケストラスペースとなり、ここで生演奏が行われる。


ストリンドベリはキリスト教徒であり、作品中でもキリスト教的要素がメインになっているが、仏教など東洋思想にも造詣が深く、仏教的側面もこの作品には出ている。


舞台は、神インドラ(ナレーション:白井晃)の娘・アグネス(早見あかり)が「伸びる城」を伝って地球に降り立つところから始まる。実はインドラというのはバラモン教の神様だそうで、最初から一ひねりある。
インドラは人間の世界は陰鬱だという。アグネスは人間の世界でそれを確認しようとするが、人間達は本当に気の滅入るような話しかしていない。
リーナ(江口のりこ)はバレエ劇場の華だったが、今では人気凋落し、26年間もショールを編み続けている。バレエ劇場の現在の花形はヴィクトリア(高瀬瑤子)であるが、ヴィクトリアに惚れている若年の士官(玉置玲央)は、ヴィクトリアに花を届けようとするも、楽屋へと通じるクローバー形をした磨りガラスの窓のある扉をこれまで開けたことがない。
このクローバーの形をした磨りガラスの窓のある扉が開いているのを見たことがあるものは一人もいないようだ。そこで扉を強引に開けようとするが、警官(宮河愛一郎)が制し、訴訟のための弁護士(長塚圭史)が現れる。
この弁護士(博士として月桂冠を貰える予定がなぜか貰えなかった)とアグネスは結婚することになり、瞬く間に1年が過ぎて(何しろ夢の中なので)、二人の間には子供が出来た。だが弁護士はつまらない訴訟を沢山抱え、アグネスも育児には向いていないようである。ということで、アグネスの結婚経験はあっさりと破綻するのだった。

そんな時、本当に幸せな結婚式が行われたが、新郎新婦の乗った船は幸福のフェルランドではなく、地獄に流れ着いてしまう。

アグネスの前に詩人(田中圭)が現れる。詩人は普段は周りからごろつき同然に見られているのだが、この世の現象を言葉にする力があるという。

アグネスは問う。「どうして人間は醜く争いあうの?」。「それしか知らないからさ」、詩人は答える。アグネスは詩人に、「どうしてみんなこの世の中をもっと良くしようとしないの?」と聞くが、詩人は「しようとした奴はいたさ。だが磔になって殺された(イエス・キリストのこと)」。アグネスは「一人一人はとてもいい人達なのに集団になった途端に酷くなってしまう」と集団心理(群集心理)を嘆く。この社会は「悲惨であり」、人間は「哀れ」であると。
アグネスと詩人は共にこの世界のもっと奥へと進もうとするのだが……。


ラストではアグネスは「この世界に来て最も辛かったこと」として「人間として生きること」を挙げ、「生老病死」的な仏教的要素が顔を出す。実は舞台が始まってすぐに、「花は汚いところに咲く」という言葉が出てきており、アグネスが「伸びる城」に上るラスト(アグネスはこの世界を離れるに当たり、「嬉しいような申し訳ないような」というアンビバレントな感情を抱いている)でも天上に続く「伸びる城」に上がったアグネスの前に大輪の花が咲く。仏教の蓮の思想のようだ。一見すると「厭離穢土欣求浄土」的な物語なのだが、この世にも救いはあるようだ。

夢を彩りあるものに描くために白井晃は、バレエ、天井から下がった縄を使ってのサーカス、ダンスなどを巧みに用いる。「悲惨な祝祭感」という奇妙な雰囲気だ。だが、あるいは人間社会そのものもまた悲惨な祝祭の連続なのかも知れないのだが。

初舞台となる早見あかりであるが安定感のある演技を見せ、十分に合格点である。

阿部海太郎、mama!milk、トウヤマタケオによる音楽は時にお洒落、時に幻想的で、舞台の雰囲気作りと観客の想像喚起に大いに貢献していた。


終演後、白井晃、早見あかり、田中圭によるアフタートークがある。白井晃はちょっとテンションが低めだったが(横浜、松本、西宮とツアーが続いているので疲れているのかも知れない)、田中圭は逆にハイテンション。
まず初舞台となった早見あかり(元ももいろクローバー)であるが、稽古は3月から週6、1日7時間みっちりと行い、ツアーも明日が最後で、終わるという実感がまだないそうだ。ただ、もしお話を頂いてもすぐには舞台の仕事を受けるつもりはないという。稽古期間中、1日11時間睡眠だったそうで、それぐらい眠れないと稽古に耐えられなかったという。しばらくそうした毎日からは遠ざかりたいという気持ちもあるようだ。
田中圭はプロンプター役と詩人役であり、詩人は後半の主役といってもいい役なのだが、前半に振られたプロンプター役はセリフが少なく、詩人は後半からしか出てこないということで、「前半にもっとセリフを喋りたかった」と物足りなそうであった。

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