カテゴリー「京都芸術センター」の15件の記事

2022年7月 4日 (月)

コンサートの記(785) ヤニック・パジェ 弦理論交響曲第2楽章「量子/QUANTUM」

2022年6月24日 京都芸術センターフリースペースにて

京都芸術センターフリースペースで、ヤニック・パジェ作曲の弦理論交響曲第2楽章「量子/QUANTUM」を聴くことにする。

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演奏は午後7時から始まるが、フリースペースでは演奏会の前に展示が行われており、演奏に使われる黒川徹制作のオブジェや鉄琴、ドラムスなどを見ることが出来る。録音された音楽も流れているが、アンビエント系でありながら鋭いという独自のものである。

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フランス出身のヤニック・パジェ。パリ国立高等音楽院で指揮とパーカッション、作曲を学び、イギリスの王立音楽大学でも指揮を学ぶ。ラムルー管弦楽団では、佐渡裕のアシスタントを5年に渡って務めた。2005年に佐渡裕の要請を受けて来日し、兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の客員指揮者に就任。その後、京都に拠点を置き、演奏団体N‘SO KYOTO(ニューサウンドオーケストラ京都の略)を結成。2008年からは大阪教育大学の教授も務めている。指揮者としては、海外ではプロオーケストラも指揮しているが、日本では現在のところ、主にアマチュアオーケストラ相手の活動を行っている。
今年に入ってからは、京都府立府民ホールアルティで、アンサンブル九条山を指揮した。

弦理論交響曲は、第1楽章「相対性/I.RELATIVITY」が京都大学大学院理学研究所附属花山天文台前で野外パフォーマンスとして行われ(聴衆はロームシアター京都前に集合してバスで花山天文台まで向かったようである)、今後第3楽章が今年の9月にインスタレーションとして行われ(会場はまだ決まっていないようだ)、第4楽章は建仁寺の塔頭である両足院で10月にチェロ独奏で、第5楽章は会場未定ながら12月に40人の音楽家という大編成によって行われる予定である。

弦理論交響曲という難しそうなタイトルが付いているが、ヤニック・パジェと京都大学教授で理論物理学の研究者である橋本幸士による共同音楽プロジェクトとして、音楽と物理学の融合を目指して書かれたものである。


今回の第2楽章は、ヤニック・パジェのパーカッション独奏と、それをその場で録音して再生するシステムを利用した重奏演奏として展開される。スピーカーはフリースペース内の各所に配置されている。

最初に橋本幸士による影アナがあり、物質と反物質、二重スリット実験という3つの楽章の説明が行われるが、正直、何のことかよく分からない。それらがどう音楽に反映されるのかも分からないのだが、音楽として聞ければそれで十分という気もする。

まず、ヤニック・パジェが何かをもみしだく音で始まり(映像がモニターに映っていたが詳しくは確認出来ず)、続いて皿を金属製の小型のバチで叩いて音を出す。その後、鉄琴をヴァイオリンの弓で弾くという特殊奏法を行い、オブジェを次々に叩いた後に、ドラムセットを叩いて熱い音楽を生み出す。

上演時間は約1時間。即興の部分も多くあったと思われるが、全体の構成のバランスも良く、パジェの演奏の高揚感や、音響的な面白さなども伝わり、貴重な音楽空間の共有となった。

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2021年4月28日 (水)

観劇感想精選(395) 青年団国際演劇交流プロジェクト2009日仏交流企画「鳥の飛ぶ高さ」

2009年6月12日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

午後7時から京都芸術センターフリースペースで青年団国際演劇交流プロジェクト2009日仏交流企画「鳥の飛ぶ高さ」を観る。ミシェル・ヴィナヴェール作、アルノー・ムニエ演出、翻案&演出協力:平田オリザ。出演は、山内健司、ひらたよーこ、松田弘子、志賀廣太郎、永井秀樹ほか。

猿渡商会という便器専門会社を舞台に、フランスの家具会社に押されつつある日本の会社の奮闘を描く。

企業もの、それも買収や合併話が絡む話というとドロドロとした劇になりがちだが、この劇は比較的さっぱりとした味わいである。

会社内、営業担当とその娘と娘がつきあうルアンダ人、会社社長の息子とフランス人の恋人など、いくつかのストーリーが交錯するが複雑な劇ではなく、歌など交えた楽しさもある。

役者では、独特の雰囲気を醸し出すひらたよーこ(平田オリザの当時の奥さん。2012年に離婚)が特に印象的であった。

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2020年10月28日 (水)

観劇感想精選(361) 五反田団 「ふたりいる景色」

2006年5月27日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

京都芸術センターへ。フリースペースで東京の劇団である「五反田団」が公演を行うのだ。

五反田団の「ふたりいる景色」は午後7時30分開演。作・演出:前田司郎。
セットも照明も最小限のものに留めたシンプルな舞台である。

いい年をして何をするでもなく部屋に閉じこもっている男(金替康博)と、その男を愛してしまい、同棲している女(後藤飛鳥。役名はヒトミだが、配役表には単に「女1」としか記されていない)。男は食事もろくに摂らず、胡麻ばかり食べている。悪い男ではないのだろう。むしろ人柄は良いかも知れない。しかし、社会能力が完全に欠如している。
胡麻だけを食べて、「即身仏になる」などと男は言い、女はそんな男に呆れながらも離れることが出来ない……。

駄目な男(かつては今ほど駄目男ではなかったのだろうが)を愛してしまった女のこんがらがってしまった感情や切ない思いが惻々とこちらの胸に迫る。「何故?」、「どうして?」と内面で自問しながらも男のことが好きで好きで離れられない女。しかし、男は無邪気というのか、想像力に欠けるというべきか、視線も興味も自分自身にだけ向いている。自己本位で完結していればまだ良いのだが、男は本当の孤独は苦手のようだ。男は誰かを求めているのだが、それは心からヒトミを求めているということではないようだ。愛さえも曖昧な「意識」。

実は男の元彼女である、ヒトミの親友(女2)や、胡麻の精である妙な女(女3)なども登場し、話が暗くなりすぎたり、一本調子になったりするのを避け、観客が男に対して持つ可能性のあるイライラ感も絶妙に逸らしている。

ラストで旅行に出かける二人。問題は解決せず、二人は袋小路のような所に追いつめられているのだが(はっきりと示されてはいないが)、暗さを感じさせないのもまた良し。

正真正銘の駄目男に見事に成りきってみせた金替康博の演技は説得力もあり、流石と思わせる。

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2020年8月 5日 (水)

京都芸術センター ティディエ・テロン 「ラスコリニコフの肖像」

2005年8月28日 京都芸術センターフリースペースにて

京都芸術センターのフリースペースで、フランス人のダンサー、ディディエ・テロンの公演がある。テロンは今年5月に、アトリエ劇研で行われた、「GEKKEN dance selection」にも参加しており、詰め襟の学生服を着たユニークなダンスで会場を沸かせている。
今回、テロンが演じるのは、「ラスコリニコフの肖像」という作品。なによりもタイトルに惹かれる。というより、タイトルが気になって見に行ったようなものだ。ラスコーリニコフ(ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公)は、私がもっとも関心を寄せている小説中の人物の一人である。

「ラスコリニコフの肖像」の上演時間は25分ほど。テロンは滑らかで勢いのある「動」の部分と、緊張感漲る「静」の部分を演じ分ける。ノイズが観客の耳の中に入り込んできて、ラスコリニコフの焦燥感が、こちらの心にもダイレクトに伝わるかのようだ。もちろん、テロンのことなので、ユーモアにも欠けていない。
そして、突然、ノイズをかいくぐるように、J・S・バッハの『マタイ受難曲』の冒頭部分、「来たれ、娘達よ。我とともに嘆け」が流れ始め、やがてその曲が会場を支配する。殺人を犯した自分への慰めなのか、救いの響きなのか。

『罪と罰』という小説の中で、最も印象深かった、大地への口づけのシーンがあったのかなかったのかはわからない。それらしいシーンはあったが、あくまで、「それらしい」シーンであった。ただ、それが大地への口づけでなかったとしても、慚愧と悔恨の(ような)感情は上手く表現されていたと思う。

ラストでジーン・ケリーの「雨に唄えば」が流れるのは、少々、能天気な気がするが、演出意図はなんとなくわかる。


舞台公演を観るというのは疲れるものだ。何といっても舞台上から演じ手のエネルギーがビュンビュン飛んでくる。それを受け止めなけれならない。当然、こちらにも相応のエネルギーは必要であり、疲弊する。

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2020年2月 3日 (月)

観劇感想精選(340) 下鴨車窓 「散乱マリン」

2020年1月23日 京都芸術センター講堂にて観劇

午後7時30分から、京都芸術センター講堂で、下鴨車窓の「散乱マリン」を観る。作・演出:田辺剛。5年前に「Scattered(deeply)」というタイトルで初演された作品の再演。無料パンフレットに載っている田辺さんのコメントに「“scattered”とは『散らかった』という意味で作品の核になるコンセプトではあるのですが、この英語が読みにくいしそんな単語ふつう知らないということもあり、このたびタイトルを変えました」とある。個人的には、“scattered”は馴染みのある英単語である。バーブラ・ストライサンドのヒット曲で映画の主題歌でもある「追憶(The Way We Were)」の歌詞に“Scattred Pictures”という実際の光景と心象風景の二つを現す印象的な言葉が登場するためである。私の場合は、この劇から“scattered”よりも“split”という単語を思い浮かべた。

出演は、北川啓太、福井菜月(ウミ下着)、澤村喜一郎(ニットキャップシアター)、岡田菜見(fullsize)、西村貴治、西マサト(B級演劇王国ボンク☆ランド/努力クラブ)、坂井初音、F・ジャパン(劇団衛星)。

東日本大震災の影響を受けて書かれた作品であるが、それ以外の見方をした方がわかりやすくもある。

佐藤マキ(福井菜月)の自転車が盗まれる。有料のロックがかかる自転車置き場に駐輪しておいたのに盗まれてしまったそうだ。盗難届を出し、自転車が見つかったので職員の真下シンジ(北川啓太)と一緒に取りに行くという場面から劇は始まる。劇が始まるまでスピーカーからは風の吹き荒れる音がずっと流れている。
自転車が保管されていたのは、なぜか周りに何もない平地のど真ん中。そこにバラバラになった自転車が積み上げられている。ということでマキも真下も呆然としている。真下は「台風のせい」ではないかというのだが、勿論、そんなはずはない。明らかに人為的に組み立てられたもので、まるでオブジェ。なのだが、実際にオブジェであることが次のシーンでわかる。ビエンナーレ出展のために、伊佐原リョウタ(西村貴治)が主任となって田広ツトム(澤村喜一郎)や野村ミカ(岡田菜見)らが作成した“scatterd”という現代芸術作品なのだ。無論、勝手によそから自転車を持ってきて制作したものではない。リアルのレベルで行くと、行き違いがあったということになる。だが、真下やマキには、伊佐原、田広、ミカの姿は野犬に見え、逆に伊佐原らの美術チームからは真下やマキはカラスに見えるという不可思議な世界へと突入する。比喩ではなく、実態が動物というわけでもなく、本当に見えているようだ。ただ、一方で、人間であるという認識もちゃんとあることが後に分かってくる。

東日本大震災後に起こった分断を描いた作品である。残念ながらというべきなのかどうかはわからないが、私は福島を訪れることが出来ないでいるが、福島をはじめとする東北地方に通っている浄慶寺の住職である中島浩彰氏によると、福島の住民同士の間でも意見の相違が目立って来ているそうで、福島を諦めて出て行ってしまう人と、福島に残る人でまず分断があり、残った人の間でも健康へのこだわりや生活の指向などで意見が食い違い、ちょっとした争いが絶えないとのことである。福島を出た人も福島にこだわりを持ち続けている人と忘れようとする人に分かれる。原発に関する意識にも違いが出ている。
国際社会に目を転じれば、残念ながら日本はかつての信頼を取り戻せなくなっているという悲しい現実がある。経済で存在感をなくし、原発の責任もうやむやということで、東京オリンピックや大阪万博を控えているが、アカルイミライは一向に見えてこない。
復興のシンボルともなるはずだった新国立競技場建設のゴタゴタと予想外の建築費、東京五輪開催への不透明ないきさつと予想の数倍にものぼる巨大な出費などによって、被災地への人と金が回らなくなるということも起こっており、東京オリンピック開催そのものへの不信も拭えてはいない。おまけになぜかアメリカのメディアのために真夏の開催となるなど、誰のための大会なのかわからなくなってしまっている。

 

マキの自転車は、実は祖母の形見のようなものであり、それはマキの恋人(なのか親しい友人なのか。少なくとも同居はしているようであるが)の瀬田ユウヤの口から明かされる。だが、瀬田はそうして真下を責めておきながら、「弁償しろ」と言う。マキにしてみれば「それは違う」と思うだろう。祖母との思い出を取り戻したいのであって、それは弁償という形は取れない。金や新しい自転車が欲しいわけではないのだ。結局のところ、やはりわかり合えてはいないようである。マキは、瀬田がAVを見ていたことを咎め出す。「アナと雪の女王」のDVDを観ようと思ったら、映ったのは変態系のAVであったことで怒ったようである。男なので仕方がないのかも知れないが、彼氏がいる場合は「私がありながら」ということで怒る女性の気持ちもわかる。ということで価値観の違いが顕著である。

美術チームは美術チームで、田広はミカに気があるのだが、ミカは田広を男とは思ってはおらず、そんな二人に伊佐原は不満げで、亀裂が生じている。

 

“scatterd”は、マキにしてみれば祖母との大事な思い出がズタズタにされてしまったものだが、伊佐原らの美術チームにしてみれば原型をなくしたもので造り上げた大切な芸術作品であり、同じものではあるが価値観が完全に異なり、分裂している。マキが自転車を取り戻そうとする行為は美術チームから見れば作品を散らかして蔑ろにする行いである。同じ人間でありながら、互いが別の生き物に見えてしまうほど、価値観の違いが顕著である。そしてそれぞれの言い分が共に納得のいくものであるため、却ってややこしくなる。

 

福島の問題と考えると、実感が沸きにくい人もいるかも知れないが、2010年代に入って顕著になった分断は、例えば日本に近隣においても起きている。日本が独自の領土であると主張する場所、主に3カ所あるが、それに対するやり取りは分断以外の何ものでもない。歴史的正しさを主張しても答えは出ないし、実効支配をどう転換するかが課題なのだが、ネットでは「人間ではない」という意味の、ここではとても書けないような言葉を使うなどして憎み合うだけで進展する気配がない。進みそうになっても超大国同士の方向転換があったり、2人の大統領が勝手に上陸して領土宣言をしたり、国内に「戦争」という言葉を口にする政治家が現れて泥沼化するなど、にっちもさっちも行かないような状況である。
また日本国内にも他国の領土があり、「移転しろ」だの「されると困る」だのと意見が割れて新たないがみ合いが生まれてしまっている。
中国と香港に目を転じても、状況は悪いとしか言い様がないが、民主主義の恩恵を受けている日本人が一方的に香港を応援する声を聞くと、中共が嫌いな私でも酷く違和感を覚える。実は情報に偏りがあるのも把握はしており、どちらも正義を名乗ることは出来ないのが実相のようである。

伊佐原が参加しているビエンナーレの担当キュレーターは、小田ケイコという若い女性(坂井初音。タレントの稲村亜美に雰囲気が似ている)なのだが、直前になって代理として受け持つことが決まるも、企画書はきちんと読んでいない、主任である伊佐原の名前を間違える、作品のタイトルも十分に把握していないなど、かなり問題のある人であることがわかる。iPodで音楽を聴きながら脳天気な感じで歩いており、責任感も当事者意識も完全に欠けているように見える。こういう人は選挙には……、まあ、いいや。

野犬対策として、真下が狩人の佐竹シンヤ(F・ジャパン)を連れてくる。「パワー」を象徴するような存在であり、佐竹は瀬田や真下におもちゃのナイフを渡して、野犬を威嚇するように勧める。ただし、「威嚇」である。「威嚇」を超えてしまった場合は……。

 

このところ、似たような傾向を持つ演劇作品を目にすることが多くなった。それだけ状況が切迫していることを実感している演劇人が多いということでもある。

ただ、「私達は理解するという姿勢を本当に取っているだろうか?」。ちゃんと読めているだろうか、ちゃんと聞けているだろうか。「わかっている」と肩を聳やかした瞬間に理解に至る道を遮断してしまっているというのに、なぜ「わかっている」という前提を取ってしまうのか。

私は三振したのにバッターボックスに立ち続けているような愚か者ではありたくないと思う。

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2019年11月 3日 (日)

美術回廊(42) KYOTO EXPERIMENT 2019 グループ展「ケソン工業団地」

2019年10月26日 京都芸術センターにて

京都芸術センターへ。現在、館内各所で京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT、KEX)2019参加作品である「ケソン工業団地」の展示が行われている。エントランスに映像展示と説明文があり、ギャラリー南では、ケソン工業団地で働いていた南側と北側の人々の写真展示がある。

南北朝鮮の協働によって開発されたケソン工業団地。北朝鮮国内で最も南に位置する大都市のケソン(開城)の経済特区に置かれ、北朝鮮が土地と労働力を韓国が技術と資本を提供して2004年にスタートした。いわゆる金大中の太陽政策の一環であり、北側と南側の人々が一緒に働くこの場所は、「南北統一の先駆け」と評価されたという。普段は一般市民は国境を越えることは出来ないが、ケソン工業団地に勤める韓国側の人々は、日々国境を越えて通勤していたという。
だが、2013年に北朝鮮が核開発を行ったことで韓国側が撤退を表明。2016年には操業がストップして、南北朝鮮が見た夢は12年の歴史で幕を下ろすことになった。

「ケソン工業団地」は、そこで働いていた一人一人に焦点を当てた3人のアーティスト(イ・ブロク、イム・フンスン、ユ・ス)による展示会であり、2018年の夏にソウルでの展示会が行われ、このたび京都でも開催されることになった。

 

ギャラリー南には、ケソン工業団地で働いていた人々の等身大と思われるパネルがある。入って来た側に並んでいるのが北朝鮮の人々、裏側が韓国の人々である。ぱっと見では北側の人なのか南側の人なのかはわからない。顔は勿論、服装でもである。
誰が見ても美少女と思えるような若い女性の写真もある。胸に金日成のバッジを着けており、北側の人だとわかるのだが、余り北っぽさはない。北朝鮮は美人の産地として知られており、ここのパネルでは北側の女性の方が綺麗に見えるが、サンプル数が少ないので「北側の方が美人」と断言は出来ない。意図的に綺麗な人が選ばれた可能性もある。
背後にはケソンの一帯の風景写真が壁一面に広がっていた。

 

講堂では映像展示が行われている。中央にスクリーンが立ち、両側から別々の映像が照射されている。入り口に近い方は棺桶を担いで歩く人物の映像、裏側はニュースなどを中心とした映像である。両方の映像は時折クロスする。

その奥の大広間には、ケソン工業団地の内部を再現したコーナーが設けられている。大広間は畳敷きであるが、今回は畳は取りのけられており、板敷きでの公開となっていた。ミシンがずらりと並び、キャビネットにはハングル文字の書かれた袋に入ったお菓子などが並んでいる。

 

3階のミーティングルーム2では、ケソン工業団地で作られた布袋の展示や、写真資料、映像展示などが行われている。布袋にはいかにも共産圏らしいデザインのものもあるが、中には偶然東京ヤクルトスワローズカラーになっているものもあって微笑ましい。

 

南北共通の夢が、短い間ではあったが達成されたことを物語る貴重な展示であった。

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2019年11月 2日 (土)

観劇感想精選(325) 神里雄大/岡崎藝術座 「ニオノウミにて」

2019年10月26日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

午後7時から、京都芸術センターフリースペースで、神里雄大/岡崎藝術座の「ニオノウミにて」を観る。英語のタイトルは「Happy Prince Fish」である。作・演出:神里雄大。

ニオノウミというのは琵琶湖の別名(ニオというのは滋賀県の県鳥になっているカイツブリのこと)である。日本三大弁財天の一つを祀る竹生島を舞台とした異人との遭遇を巡る物語。能の「竹生島」がモチーフとなっている。出演は、浦田すみれ、重実紗果(しげみ・さやか)、嶋田好孝。

京都国際舞台芸術祭参加作品としての上演であり、舞台上方(天井の近く)にセリフの英訳が投映されての上演である。意味としては似通っているが、思考パターンが異なるためニュアンスに大きな隔たりが出ているのを見るのも楽しい。

まず、薄明の中で舞台上にタブレット端末が置かれてスタートする。
治安の悪い国からやって来た男が滋賀県にたどり着く。日本に希望を持ってやって来たのだが、日本語をきちんと話せないことで(セリフ自体はきちんとした日本語として語られている)日本人から見下されており、日本人が嫌になって日本語の学習もやめてしまっていた。男は琵琶湖に釣りをしにやって来たのだが、そこで琵琶(タブレット端末から竿状のものが伸びており、画面に琵琶の腹部が映されている)を拾う。背後で若い女の声がする。女は「それは私の琵琶です。返してください」と男に言う。女は「じじい」と呼んでいる祖父と二人暮らし。両親は離婚して家を出て行き、兄が一人いるが東京に出たまま一度も帰ってこない。漁師をしている「じじい」と共に女は毎晩、漁に出ている。種明かしをするとこの女の正体は弁財天なのだが、共に竹生島に渡ろうと女は男に提案する。

琵琶湖では、ブラックバスやブルーギルという外来魚が固有種を食い荒らしてしまうため、問題となっている。「じじい」は外国人観光客を外来魚になぞらえて罵り始め、「下等動物」とまで呼んで怖れている。
ブルーギルは実は明仁上皇が皇太子時代に外遊先のシカゴで市長から贈られたものを持ち帰ったのが最初である。ブルーギルは水産庁淡水区水産研究所が食用研究の対象として飼育していたのだが、淡水真珠養殖で母貝として用いるイチョウガイの養殖場でイチョウガイ幼生の宿主としてブルーギルが利用され、逃げ出したものが琵琶湖で繁殖するようになった可能性が高いようである。実はブルーギル繁殖のきっかけを作ったことについて、上皇陛下が天皇であられた時に謝罪なされたことがある。

3つの場からなる芝居だが、1場が終わった後で10分間の休憩が入る。お弁当付きの前売り券があった他、少数だが当日申し込み用のお弁当も用意されており、スナック菓子やお茶も売られる。
客席もフリースペースの段差を利用した椅子状のものと座布団を敷き詰めた床席が用意されており、自由なスタイルで芝居を観ることが出来るようになっている。観劇に「多様性」を持たせたいという神里の意思である。

 

異人と外来種を「じじい」が語る(録音された声による)が、今度はブルーギルが謝罪と自己弁護を述べることになる。ブルーギルは食用にも適さず、臭く、何の取り柄もないと自分を卑下するが、一方で、明仁上皇がやはり皇太子時代にやはり外来種のティラピアをタイに食用として贈り、現在ではティラピアはブラーニンという名で国民食として愛されているという話もする。同じ外来種でもティラピアは食用として役に立つから良く、役に立たないブルーギルは差別されて当然なのかという問いがある。近年の日本では「実用性」ばかりが叫ばれ、差別や区別が当然のように論じられているがこれは正しいことなのか。外国人に限っても安くて便利な労働力として重宝する一方で治安が問題視され、観光客となると「観光公害」として排斥運動が起こる直前の情勢になっていたりする。これは雇用の調整弁と見なされた日本人においても同様である。

3つの楽器がキーとして登場する。まずは琵琶湖の名の由来にもなった琵琶。ペルシャが起源であり、シルクロードを伝わって奈良時代に日本に渡来し、琵琶法師や仏話の際に用いる楽器として広まった。2つめは三線である。沖縄の民族楽器として有名だが、中国由来の楽器である。これが関西地方に伝わって生まれたのが三味線で、胴体にはニシキヘビの皮ではなく手に入りやすい猫や犬の皮を用い、琵琶のようにバチを使って弾く。日本は海外から様々な文化要素を取り入れ、それを吸収してオリジナルへと昇華させるという歴史を歩んできた。しかも元も文化を否定せず、共生させる。楽器に限らず、言葉から演劇から音楽からあらゆることにおいてそうであり、これこそが日本の伝統なのである。無料で配られた用語集に「琵琶湖周航の歌」がさらっと入っていて、休憩時間に流れていたが、実は「琵琶湖周航の歌」はオリジナルではなく、第三高等学校(現在の京都大学)の生徒が書いた詩を「ひつじぐさ」のメロディーに乗せたものなのだが、これが今では滋賀県のご当地ソングとして愛されるまでになっている。また「琵琶湖哀歌」も用語集に入っていて、「琵琶湖周航の歌」の後で流されたが、これまた「琵琶湖周航の歌」のメロディーを転用したものである。だが、そのまま受け入れられている。こうした懐の深さが日本人にはあったのだ。
ところが現代の日本は取り込むことを止めて排斥へと変化している。それは「男性的」と呼ばれる刹那の喜びのために行われるブラックバスフィッシングのキャッチアンドリリースにも例えられる(ネット用語の「釣り」も関連しているのかも知れないが)。伝統的ではない状態なのに排外に回る人は自身を伝統的な保守主義者だと勘違いまでしている。そういった状態に無関心の人も多く、とにかく選挙にも行かない。権利を行使しなかったわけだが、その結果生まれた社会を意思を示さなかった人々が本当に受け入れられるのかどうか。
日本だけが正義で被害者というわけでもない。オセアニアやヨーロッパでは、日本や朝鮮半島では食用として愛されているわかめが侵略的な外来種として問題になっていることが用語集には書かれ、劇中でも仄めかされている。

弁財天である女は仏教の十善戒から6つを唱えるが、もうそれは死んだしまった人間の言葉だとつぶやく。無宗教者が大多数を占める今の日本では仏教も神仏習合時代の言葉も心に届かない。そして女は男に自分の座を譲ろうとまでする。弁財天から渡された三味線の歴史が語られ、特に救いらしい救いもなく、不毛の未来が提示されて黙示録的に終わる。弁財天は男の良き未来を祈り、「またどこかでお会いすることがあるといいですね」と言うも、「でもわかりません」と続ける(英語字幕では、ビートルズやMr.Childrenの歌でお馴染みの「Tomorrow never knows」と表示されていた)。

芝居では答えは示されなかったが、日本人はどうすればいいのか? まずは本当の伝統を知ることである。受け入れ、止揚し、自らのものとしていった日本の歴史。それを断ち切らせることがあってはならない。「排除」を「正義」にしてはならない。三味線に見られるような「昇華」と「共生」を可能としてきた希有な伝統をもう一度振り返る必要がある。

我々は幕末の志士達よりも賢いはずだと思いたい。

 

内容は当然ながら異なるのだが同じ「共生」への意識を描いた黒沢清監督の「カリスマ」を見直してみたくなった。

 

内容が気に入り、台本が500円で売っていたので購入し、読む。「いいね!」。いや「いいね!」だけでは駄目なのだが。

 

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2019年7月 9日 (火)

楽興の時(30) 「Kyo×Kyo Today vol.5」

2015年1月30日 京都芸術センター講堂にて

午後7時から、京都芸術センター講堂で、「Kyo×Kyo Today vol.5」を聴く。京都芸術センターで京都市交響楽団のメンバーが室内楽を演奏するという企画。毎年1回、冬の時期に行われていて、今年が5年目で5回目の演奏会になるが、1回から4回まではこうした催しがあることすら知らなかった。昨年、やはり京都芸術センター講堂で、30回有効のパスポートを観たとき、開場前に京都芸術センターのチケット売り場で「Kyo×Kyo Today」のことを知ったのである。

ちなみに京都芸術センターは旧・明倫小学校の校舎を利用しているが、講堂と体育館が別であったことがわかる。講堂は2階にあるが体育館は1階にあり、今はフリースペースとして使われている。体育館が講堂も兼ねているのが普通なので(私が卒業した小学校も、様々な催しが行われる木屋町通沿いの元・立誠小学校もそうである)、旧・明倫小はかなり珍しいケースである。

今日の出演者は、長谷川真弓(ヴァイオリン)、山本美帆(ヴァイオリン)、金本洋子(かなもと・ようこ。ヴィオラ)、木野村望(きのむら・のぞみ。ヴィオラ)、ドナルド・リッチャー(チェロ)、垣本昌芳(ホルン)、小谷口直子(クラリネット)。

オール・モーツァルト・プログラムで、弦楽五重奏第6番、ホルン五重奏曲、クラリネット五重奏曲「シュタードラー」。5回目の公演ということに掛けて全て5重奏の曲が選ばれている。

なお、京都市交響楽団は現在、小学生を対象とした音楽鑑賞教室を京都コンサートホールで行っており(指揮は京都市交響楽団の首席常任客演指揮者の高関健)、今日は午前10時20分からの公演と午後2時からの公演があり、更に夜もこの公演があるということで、弦楽奏者達は今日は一日中弾きっぱなしということになるそうだ。

まず、第1ヴァイオリンを務める長谷川真弓によるマイクを使った挨拶がある。いかにも良家のお嬢さんという感じの声と話し方である(弦楽奏者は楽器が高い上に小さな頃からのレッスン料金もバカにならないので、ほぼ100%、親が金持ちだといわれている。一方、管楽器は中学校の吹奏楽部で初めて楽器に触り、というケースが多く、楽器は学校持ちでレッスンは先輩達が教えてくれるため、必ずしも良家出身とは限らないそうだ。以上は、NHK交響楽団の首席オーボエ奏者である茂木大輔のエッセイによる。茂木によると、N響の場合でも弦楽器奏者と管楽器奏者とでは雰囲気が違うそうである)。

弦楽五重奏曲第6番。第1ヴァイオリン:長谷川真弓、第2ヴァイオリン:山本美帆、第1ヴィオラ:金本洋子、第2ヴィオラ:木野村望、チェロ:ドナルド・リッチャー。
リッチャーが中央に陣取り、下手に長谷川と山本のヴァイオリン奏者、上手に木野村、金本のヴィオラ奏者が並ぶ。
元々小学校の講堂ということで残響はないが、シャンデリアの下がるお洒落な内装の講堂の雰囲気はモーツァルトの音楽に合っている。音の通りも申し分ない。ただ、両サイドは磨りガラスであるため、オーケストラの演奏は無理そうだ。
1956年の創設直後に「モーツァルトの京響」という評判を取った京都市交響楽団。創設当時のメンバーは当然ながらもういないが、モーツァルト演奏時に重要となる緻密なアンサンブルは今も生きている。

 

ホルン五重奏曲。ヴィオラの金本洋子が降り、代わりにホルンの垣本昌芳が加わる編成。舞台下手から、時計回りに、長谷川、山本、リッチャー、木野村、垣本という布陣。
モーツァルトの時代のホルンは、唇と管の中に突っ込んだ手のみによって音程を変える、今ではナチュラルホルンと呼ばれるものだったため超絶技巧が必要とされたが、現代のホルンはピストンが付いているため、ナチュラルホルンよりは演奏がしやすい。このホルン五重奏曲も、ホルン協奏曲4曲を献呈されたホルン奏者、ロイトゲープのための作曲されたとされる。モーツァルトはイタズラ好きであったため、わざとナチュラルホルンでは演奏の困難なメロディーを書いたりしているが、垣本の技術に遺漏はなく、優れた室内楽演奏となる。

 

クラリネット五重奏曲「シュタードラー」。今日演奏される曲の中で一番有名な曲である。喫茶店などのBGMとしてもよく用いられる曲であるため、聴くと「ああ、知ってる」となる人も多いと思われる。

演奏前にクラリネット奏者の小谷口直子がマイクを持って挨拶をする。クラリネットは楽器の歴史の中では比較的若い楽器であり、モーツァルトの晩年になってようやく普及したため、モーツァルトが書いたクラリネットのための曲も多くはないのだが、クラリネット協奏曲と、今日演奏するクラリネット五重奏曲を書いてくれたお陰でクラリネット奏者は至福の時を味わうことが出来ると小谷口は語る。小谷口は2010年より文化庁派遣芸術家在外研修員としてウィーン国立音楽大学に留学したが、「ウィーンは京都によく似たところがある」という。ウィーン市民の排他的なところと京都人の排他性は似ているが、小谷口はそれには触れず(触れたら怒る人もいるだろうし)、芸術と街が一体になった雰囲気や、京都なら御所、ウィーンなら宮殿を中心として発展しているところ、カフェ文化が街に根付いていることなどを挙げる。モーツァルトの音楽というと小谷口はウィーンのメランジュという泡立てコーヒーの味を思い出すそうだ。モーツァルトの曲調を例えるのに「夢のように」という言葉を使いたいという小谷口だが、ウィーンには「悪夢のように甘すぎるケーキ」や「悪夢のように不味い飯」などもあったそうである。「最近はクラリネットを吹くよりも喋る方が得意になった」と言って、客席を笑わせる。

弦楽のメンバーはホルン五重奏曲の時と一緒。垣本と小谷口が入れ替わるが、小谷口は中央に正面を向いて座り、舞台上手に木野村、リッチャーが陣取る。

小谷口のクラリネットは伸びやかで、典雅さにも欠けていない。弦楽奏者4人も緻密なアンサンブルで聴かせ、はんなりとした演奏となる。

アンコールとしてクラリネット五重奏曲の第4楽章よりアレグロの部分が再度演奏された。

客席であるが、オール・モーツァルト・プログラムということもあってか、若い女性も多い。京都堀川音楽高校の生徒だろうか、制服を着た女子高生達もいる。一方で、男性の方は白髪頭の人が目立つ。あるいはクラシックの聴衆の世代交代は女性よりも男性の方が上手くいっていないのかも知れない。

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2019年2月21日 (木)

京都芸術センター「継ぐこと・伝えること62 『享楽×恍恍惚惚』―男舞・女舞―」 中村壱太郎

2019年2月11日 京都芸術センター講堂にて

午後2時から京都芸術センター講堂で、「継ぐこと・伝えること62 『享楽×恍恍惚惚』―男舞・女舞―」を観る。出演は中村壱太郎(かずたろう)。若手を代表する女方(女形)の一人である。

中村壱太郎は、四代目中村鴈治郎の長男である。1990年生まれ。本名は林壱太郎。
中村鴈治郎家は上方の名跡だが、すでに東京に移住しており、壱太郎も東京生まれの東京育ちである。屋号は成駒屋で、私が観た時には、「小成駒!」という声が掛けられてもいた。2014年に、日本舞踊吾妻流の七代目家元、吾妻徳陽(あづま・とくよう)を襲名している。

プログラムは、創作長唄「藤船頌(とうせんしょう)」、レクチャー・ワークショップ「日本舞踊とは」(中村壱太郎&広瀬依子)、休憩を挟んでレクチャー「日本舞踊の音楽について」(中村壱太郎&中村壽鶴)、長唄「島の千歳」


創作長唄「藤船頌」。歌詞は事前に観客に配られている。唄:杵屋禄三、今藤小希郎。三味線:杵屋勝七郎、今藤長三朗。立鼓:中村壽鶴。笛:藤舎伝三。
主人公はお公家さんだそうである。春の海辺を謳ったもので、藤の紫と海の青が一体となって賛嘆される。

壱太郎は、紋付き袴で登場。強靱な下半身に支えられていると思われるブレのない舞踊を行う。西洋の舞踊は体を大きく見せる方向に行きがちだが、日本舞踊は両手や体を最短距離で動かす無駄のない動きが特徴的であり、好対照である。
扇には表に墨絵の藤、裏に波の絵が描かれている。藤が墨絵なのは、彩色すると「女っぽく見えてしまうから」「藤が面に出過ぎるから」という2つの理由があるらしい。


元「上方芸能」誌の編集長、広瀬依子を進行役としたレクチャー・ワークショップ「日本舞踊とは」。壱太郎は私物だというMacのノートパソコンを使ってスライドを投影し、解説を行う。

まずは歌舞伎の歴史から解説。出雲阿国の阿国歌舞伎から若衆歌舞伎を経て、現在まで続く野郎歌舞伎に至るまでの歴史が簡単に解説される。
歌舞伎の元祖は出雲阿国による阿国歌舞伎で、これは舞踊である。女性が男装をした舞うものだったのだが、「風紀が乱れる」ということで廃止になり、若衆歌舞伎へと移行する。若衆歌舞伎は、壱太郎曰く「ジャニーズ系」のようなもので、「美しいものを見たいが、女性は駄目となると未成年の男性」に目が行くということだったのだが、この時代は同性愛は一般的なことであるため、やはり風紀上よろしくないとのことで禁止され、「成人男性によるちゃんとしたお芝居なら良い」ということで野郎歌舞伎が生まれる。
歌舞伎は江戸の歌舞伎と上方の歌舞伎に分かれるが、江戸が英雄を登場させてポーズで見せるという外連を重視するのに対し、上方歌舞伎は庶民が主人公で日常を主舞台にするという違いがある。

日本舞踊、吾妻流についても解説が行われる。吾妻流は日舞の中では傍系で、元々は女性の歌舞伎踊りとして始まり、現在も門人の99%は女性だそうだ。ただ、その家元となった壱太郎(=吾妻徳陽)が男性ということで複雑なことになっているらしい。
吾妻流は、江戸時代中期に始まっているがいったん途絶えている。再興されたのは昭和に入ってからで、十五代目市村羽左衛門の娘である藤間春枝が吾妻春枝として興したのだが、十五代目市村羽左衛門の実父は白人とされており、壱太郎にも白人の血が流れているかも知れないというロマンがあるそうである。
壱太郎の大叔父に当たる五代目中村富十郎が吾妻徳隆(とくりゅう)を名乗っており、壱太郎の舞踊名も漢字が似たようなものをということで、徳陽になったそうだ。舞踊名にはもう一つ候補があって、壱太郎が慶應義塾出身ということで、「徳応ではどうか」というものだったのだが、壱太郎は「徳応だと偉そうな感じがする」というので徳陽に決まったそうだ。
「陽」の字はご年配の方の名前には余りつかないということで若々しさも感じられる良い名前だと思う。

その後、韓国で収録されたという壱太郎による舞踊「鷺娘」の映像がスクリーンに投影される。女方にとって映像、それも4Kを超えて8Kとなると女ではないことがはっきりわかるので困ったことになってしまうそうだ。
「鷺娘」は衣装の早替えがあるのだが、海外で上演すると拍手が貰えないという。「Wow!」という驚嘆の反応になってしまうそうだ。
女方の理想は、「女になり切って演じるのではなく、女らしさを追求する」というもので、「矛盾した」難しいものである。女らしさを演じるために腰を落とした上で良い姿勢を保つことが肝要なようである。女らしい仕草をするために常に内股であることを心がけてもいるそうだ。


休憩後、立鼓の中村壽鶴と壱太郎によるレクチャー「日本舞踊の音楽について」。壽鶴は鼓をばらしてみせる。普段はばらした形で持ち歩いているそうだ。
鼓の皮は何の皮を使っているかということがクイズ形式で観客に出され、壱太郎が、「土日の新聞をチェックしている人はわかるかも知れません」とヒントを出し、壽鶴も「淀駅に行く方はわかるかも知れません」と続ける。淀駅は京都競馬場の最寄り駅である。ということで正解は馬の皮。往時は馬が最も身近な動物だったようである。ちなみに今日、壽鶴が持っている鼓の胴は江戸時代製、皮の部分は安土桃山時代に作られたもので、かなりの値打ちもののようだ。
鼓は乾燥すると音が高くなるため、息を吹きかけて湿らせ、音を調整するそうである。


長唄「島の千歳」。唄は杵屋禄三と今藤小希郎、三味線が杵屋勝七郎と今藤長三朗、立鼓が中村壽鶴である。
白拍子を主人公とした女舞。白拍子に見せるため、壱太郎は長絹を纏っての登場である。
白拍子も阿国歌舞伎同様、男装した女性が舞を行うものだが、男性である壱太郎が男装した女性を演じるということで、幾重にも転倒した状況を生んでいる。抒情と艶を二つながら生かした典雅で妖しい舞となる。



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2019年1月27日 (日)

観劇感想精選(289) 神里雄大/岡崎藝術座 新作パフォーマンス「いいかげんな訪問者の報告」京都公演

2019年1月18日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

午後7時から、京都芸術センターフリースペースで、神里雄大/岡崎藝術座の新作パフォーマンス「いいかげんな訪問者の報告」京都公演を観る。沖縄系ペルー移民の子である神里雄大が、自身のルーツである南米を訪れた時の様子をレクチャー形式で語るパフォーマンスである。神里はアサード(南米の焼き肉料理)を焼きながら映像をスクリーンに投影し、音楽をパソコンで出しつつ語りや説明を行う。

フリースペースの中央に長机が縦2横4になるよう向かい合わせで並んでおり、計24人が椅子に座る。それぞれの前には紙皿にフォークとナイフが置かれており、アサードが焼けたらこれに取り分けて食べる。その他におにぎりも用意されている。

まず、南米の地理関係の説明(「南米のチリ関係」と変換された。確かに正しいが)。南米は日本の真裏。つまり、日本から行くには最も遠い場所にあるということであり、南米から日本に来るのも同時に大変である。昔、宮沢和史が手掛けた南米を舞台にした歌詞に「たどり着いた地図の裏側 最果ての街」という一節があったのを思い出す。

日本人初のペルー移民が日本を旅立ったのは、今から120年前の1899年のこと。当時は、仕事にあぶれている者が多く、4年契約の出稼ぎ感覚で出掛けた人が多かったようだ。そのこともあってペルーに向かったのは全員男性だった。しかし、現地に着くや話が違うことがわかる。プランテーションでの仕事はきつく、賃金未払いは当たり前。衛生状況も悪く、死者も続出した。それでも日本に返すだけの金はないので、奥地にあるゴムの木の森に向かわせることになるのだが、そのうちの約半数はその後、行方がたどれなくなっているそうである。そもそもペルーが移民を募集したのは、1850年代に奴隷制度が廃止され、奴隷の代わりとなる労働力が必要となったからであり、労働条件は最悪に近いものであった。最初は中国人移民を募り、次いで日本人の移民を集めようとしたのだが、日本人を集めようとした理由は中国人と容貌が似ているというそれだけのことだったようだ。当時のペルーでは、日本人移民は見かけからして異物であり、「治安が悪くなる」という理由で排斥されたりもした。第二次世界大戦が始まると、日本人移民は敵性外国人として苦難の日々を歩むことになり、日本語の使用も自主的に控えたそうだ。
当時の日本政府は、ペルーに渡って苦心している移民のことを事実上、見捨てている。

昔のペルー移民の話だが、今の日本を巡る状況にも似ている。こうしたことをレクチャー形式のパフォーマンスで伝えるという発想力がまず良い。

戦後におけるペルーへの日本人移民(私の記憶違いがありました。神里雄大氏ご本人からのご指摘によるとペルーではなく南米各地への日本人移民で、ペルーへの移民は日系排斥運動が強かったために行われなかったとのことです)は戦後すぐに募集が行われ、日本社会が混乱していたということもあり、大人気で抽選が行われたところもあったそうだ。彼らは戦前の日本人移民とは違い、日本人というだけで抑圧される環境にあったわけではないので、日本語でのやり取りを今も行っている。

セリフはエッセイ風のもの、手記の一節、手紙類などを元にしたもので、スペイン語での語りもあった(スクリーンに日本語字幕が出る)。

後半には、長きに渡る滞在を経て、南米にいることの窮屈さを語ったりもする。

映像では沖縄県からの南米移民によるお祭りの映像が流れる。地球の裏側にあるもう一つの沖縄。先週観た「高丘親王航海記」に出てくる「アンチポデス」という言葉が浮かぶ。

ラストは、アルゼンチンの日本人学校(ここも私の記憶違いで、神里氏によると日本人学校ではなく日本語学校だそうです)での卒業式兼終業式の催しとして、皆がアサードとおにぎりを食べる中、神里が一人でパフォーマンスを行い、ビンゴゲームが行われる。私は1個差で1位通過はならず。1位通過者にはチョコボールがプレゼントされた。

独自のエンターテインメントだが、単なる消費になっていないところに好感が持てる。

 

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