2020年1月23日 京都芸術センター講堂にて観劇
午後7時30分から、京都芸術センター講堂で、下鴨車窓の「散乱マリン」を観る。作・演出:田辺剛。5年前に「Scattered(deeply)」というタイトルで初演された作品の再演。無料パンフレットに載っている田辺さんのコメントに「“scattered”とは『散らかった』という意味で作品の核になるコンセプトではあるのですが、この英語が読みにくいしそんな単語ふつう知らないということもあり、このたびタイトルを変えました」とある。個人的には、“scattered”は馴染みのある英単語である。バーブラ・ストライサンドのヒット曲で映画の主題歌でもある「追憶(The Way We Were)」の歌詞に“Scattred Pictures”という実際の光景と心象風景の二つを現す印象的な言葉が登場するためである。私の場合は、この劇から“scattered”よりも“split”という単語を思い浮かべた。
出演は、北川啓太、福井菜月(ウミ下着)、澤村喜一郎(ニットキャップシアター)、岡田菜見(fullsize)、西村貴治、西マサト(B級演劇王国ボンク☆ランド/努力クラブ)、坂井初音、F・ジャパン(劇団衛星)。
東日本大震災の影響を受けて書かれた作品であるが、それ以外の見方をした方がわかりやすくもある。
佐藤マキ(福井菜月)の自転車が盗まれる。有料のロックがかかる自転車置き場に駐輪しておいたのに盗まれてしまったそうだ。盗難届を出し、自転車が見つかったので職員の真下シンジ(北川啓太)と一緒に取りに行くという場面から劇は始まる。劇が始まるまでスピーカーからは風の吹き荒れる音がずっと流れている。
自転車が保管されていたのは、なぜか周りに何もない平地のど真ん中。そこにバラバラになった自転車が積み上げられている。ということでマキも真下も呆然としている。真下は「台風のせい」ではないかというのだが、勿論、そんなはずはない。明らかに人為的に組み立てられたもので、まるでオブジェ。なのだが、実際にオブジェであることが次のシーンでわかる。ビエンナーレ出展のために、伊佐原リョウタ(西村貴治)が主任となって田広ツトム(澤村喜一郎)や野村ミカ(岡田菜見)らが作成した“scatterd”という現代芸術作品なのだ。無論、勝手によそから自転車を持ってきて制作したものではない。リアルのレベルで行くと、行き違いがあったということになる。だが、真下やマキには、伊佐原、田広、ミカの姿は野犬に見え、逆に伊佐原らの美術チームからは真下やマキはカラスに見えるという不可思議な世界へと突入する。比喩ではなく、実態が動物というわけでもなく、本当に見えているようだ。ただ、一方で、人間であるという認識もちゃんとあることが後に分かってくる。
東日本大震災後に起こった分断を描いた作品である。残念ながらというべきなのかどうかはわからないが、私は福島を訪れることが出来ないでいるが、福島をはじめとする東北地方に通っている浄慶寺の住職である中島浩彰氏によると、福島の住民同士の間でも意見の相違が目立って来ているそうで、福島を諦めて出て行ってしまう人と、福島に残る人でまず分断があり、残った人の間でも健康へのこだわりや生活の指向などで意見が食い違い、ちょっとした争いが絶えないとのことである。福島を出た人も福島にこだわりを持ち続けている人と忘れようとする人に分かれる。原発に関する意識にも違いが出ている。
国際社会に目を転じれば、残念ながら日本はかつての信頼を取り戻せなくなっているという悲しい現実がある。経済で存在感をなくし、原発の責任もうやむやということで、東京オリンピックや大阪万博を控えているが、アカルイミライは一向に見えてこない。
復興のシンボルともなるはずだった新国立競技場建設のゴタゴタと予想外の建築費、東京五輪開催への不透明ないきさつと予想の数倍にものぼる巨大な出費などによって、被災地への人と金が回らなくなるということも起こっており、東京オリンピック開催そのものへの不信も拭えてはいない。おまけになぜかアメリカのメディアのために真夏の開催となるなど、誰のための大会なのかわからなくなってしまっている。
マキの自転車は、実は祖母の形見のようなものであり、それはマキの恋人(なのか親しい友人なのか。少なくとも同居はしているようであるが)の瀬田ユウヤの口から明かされる。だが、瀬田はそうして真下を責めておきながら、「弁償しろ」と言う。マキにしてみれば「それは違う」と思うだろう。祖母との思い出を取り戻したいのであって、それは弁償という形は取れない。金や新しい自転車が欲しいわけではないのだ。結局のところ、やはりわかり合えてはいないようである。マキは、瀬田がAVを見ていたことを咎め出す。「アナと雪の女王」のDVDを観ようと思ったら、映ったのは変態系のAVであったことで怒ったようである。男なので仕方がないのかも知れないが、彼氏がいる場合は「私がありながら」ということで怒る女性の気持ちもわかる。ということで価値観の違いが顕著である。
美術チームは美術チームで、田広はミカに気があるのだが、ミカは田広を男とは思ってはおらず、そんな二人に伊佐原は不満げで、亀裂が生じている。
“scatterd”は、マキにしてみれば祖母との大事な思い出がズタズタにされてしまったものだが、伊佐原らの美術チームにしてみれば原型をなくしたもので造り上げた大切な芸術作品であり、同じものではあるが価値観が完全に異なり、分裂している。マキが自転車を取り戻そうとする行為は美術チームから見れば作品を散らかして蔑ろにする行いである。同じ人間でありながら、互いが別の生き物に見えてしまうほど、価値観の違いが顕著である。そしてそれぞれの言い分が共に納得のいくものであるため、却ってややこしくなる。
福島の問題と考えると、実感が沸きにくい人もいるかも知れないが、2010年代に入って顕著になった分断は、例えば日本に近隣においても起きている。日本が独自の領土であると主張する場所、主に3カ所あるが、それに対するやり取りは分断以外の何ものでもない。歴史的正しさを主張しても答えは出ないし、実効支配をどう転換するかが課題なのだが、ネットでは「人間ではない」という意味の、ここではとても書けないような言葉を使うなどして憎み合うだけで進展する気配がない。進みそうになっても超大国同士の方向転換があったり、2人の大統領が勝手に上陸して領土宣言をしたり、国内に「戦争」という言葉を口にする政治家が現れて泥沼化するなど、にっちもさっちも行かないような状況である。
また日本国内にも他国の領土があり、「移転しろ」だの「されると困る」だのと意見が割れて新たないがみ合いが生まれてしまっている。
中国と香港に目を転じても、状況は悪いとしか言い様がないが、民主主義の恩恵を受けている日本人が一方的に香港を応援する声を聞くと、中共が嫌いな私でも酷く違和感を覚える。実は情報に偏りがあるのも把握はしており、どちらも正義を名乗ることは出来ないのが実相のようである。
伊佐原が参加しているビエンナーレの担当キュレーターは、小田ケイコという若い女性(坂井初音。タレントの稲村亜美に雰囲気が似ている)なのだが、直前になって代理として受け持つことが決まるも、企画書はきちんと読んでいない、主任である伊佐原の名前を間違える、作品のタイトルも十分に把握していないなど、かなり問題のある人であることがわかる。iPodで音楽を聴きながら脳天気な感じで歩いており、責任感も当事者意識も完全に欠けているように見える。こういう人は選挙には……、まあ、いいや。
野犬対策として、真下が狩人の佐竹シンヤ(F・ジャパン)を連れてくる。「パワー」を象徴するような存在であり、佐竹は瀬田や真下におもちゃのナイフを渡して、野犬を威嚇するように勧める。ただし、「威嚇」である。「威嚇」を超えてしまった場合は……。
このところ、似たような傾向を持つ演劇作品を目にすることが多くなった。それだけ状況が切迫していることを実感している演劇人が多いということでもある。
ただ、「私達は理解するという姿勢を本当に取っているだろうか?」。ちゃんと読めているだろうか、ちゃんと聞けているだろうか。「わかっている」と肩を聳やかした瞬間に理解に至る道を遮断してしまっているというのに、なぜ「わかっている」という前提を取ってしまうのか。
私は三振したのにバッターボックスに立ち続けているような愚か者ではありたくないと思う。

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