カテゴリー「美術」の39件の記事

2021年11月 1日 (月)

2346月日(35) 京都府立京都学・歴彩館 「吉川観方と風俗史考証の世界―コレクションの写真を中心に―」

2021年10月18日

下鴨にある京都府立京都学・歴彩館(京都府立大学の校舎と併用されている)の展示室で、「吉川観方と風俗史考証の世界―コレクションの写真を中心に―」を観る。

京都市に生まれ、幼時に大津で暮らした他は京都で生涯を過ごした日本画家、吉川観方(よしかわ・かんぽう。1894-1979)。京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高校の前身。今は下鴨にあるが、往時は京大に隣接した吉田近衛町にあった)卒業後、京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)予科に進み、同時期に江馬務主催の風俗研究会に参加している。京都市立絵画専門学校本科に進み、卒業後は松竹合名会社に入社して、南座で舞台意匠顧問として主に衣装などを手掛けるようになる。松竹退社後も業務提携を結び、映画などで衣装の監修を手掛けた。京都市立絵画専門学校はその後も研究科に通い、卒業後は大阪・道頓堀の劇場街で衣装考証なども手掛けている。京都の画家としては初めて大錦判の役者絵の版画を制作したとされ、今回の展覧会でも初代中村鴈治郎、二代市川左團次、十二代片岡我童の役者絵が展示されている。

有職故実の研究に始まり、江戸時代の小道具(鏡箱、鼻紙台などには丸に十字の島津の家紋が入っているが、大名の島津家のものなのかどうかは不明)などの収集に興味を持った観方は、江戸時代の習慣や装束などを復活させて写真に収めるという活動を行うようになる。1932年制作のペリー来航を描いた映画「黒船」の撮影に参加している写真が展示されているが、監督の名前がジョン・ヒューストンとジョージ・ヒューストンとに分かれている。ジョン・ヒューストン(「アフリカの女王」や「許されざる者」の監督のようである)が正解で、ジョージ・ヒューストンは誤記のようであった。ちなみにジョージ・ヒューストンという有名人物も実在していて、1930年代に西部劇の映画俳優として活躍していたようである。

先日、NHKアーカイブのFacebookが「島原おいらん道中復活」というモノクロの映像を配信していたが(島原にいるのは太夫であり、花魁はいないので誤りだが、当時の東京ではそうした情報は正確には把握出来ていなかったのだろう)、1947年に太夫道中を復活させたのも吉川観方であるようだ。

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2021年10月 9日 (土)

美術回廊(69) 京都国立近代美術館 「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ー外から見る/外へ見せるー」&コレクション・ギャラリー 浅井忠「御宿海岸」ほか

2021年10月2日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡﨑の京都国立近代美術館で、「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ―外から見る/外へ見せるー」を観る。明治時代に来日したお雇い外国人の画家や、彼らと同じ時代を生きた明治時代の日本人画家達の作品を集めた展覧会。

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明治時代に日本にやって来て、洋画を教えたお雇い外国人、ワーグマン、ウィアー、ベレスフォードらが日本人が見落としていた日本の優れた風景を描き、それを見た日本人の画家達が日本の美質を再発見することになる。

1867年に始まり、1912年に終わった明治という年号。45年(43年間)という、昭和(64年。62年間)に次いで長い年号であり、前半と後半では大きく異なっている。

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1860年代は、フランスで後に印象派と呼ばれる絵画の作風が生まれた時代である。後に活躍するほとんどの画家が多かれ少なかれ印象派の影響を受けることになるのだが、お雇い外国人の画家達も、印象派のことは念頭に置いていたようで、彼らが描いた明治の日本は、光の降り注ぎ方が鮮やかである。

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また、描写の緻密さも特筆事項である。お雇い外国人として日本にやって来た外国人画家達は、日本人に洋画の手法を教え、自らのインスピレーションを深めると同時に、祖国へ未知の国「日本」を教えるという役目を担っていた。そのため、光の加減こそ印象派風であるが、描写スタイルそのものは印象派とは異なっている。写真を思わせるかのようなリアルなタッチの作品が多い。

最も展示作品が多い日本人画家は五姓田義松(ごせだ・よしまつ)である。ワーグマンやフォンタネージに師事した義松は、明治天皇御付画家の名誉を得ており、北陸地方や東海道への御幸に同行して訪れた場所の風景画をいくつも描いている。これらのうち、長野・善光寺、越前敦賀港、伊豆・三嶋大社の絵などを観ることが出来る。ワーグマンに師事していた時代には高橋由一と同門だったという五姓田義松。洋画と日本画の融合が試みられた時代であり、高橋に似た作風であるのもうなずける。

明治時代に風景画の第一人者とされた吉田博の作品も当然多い。光の移り変わりを題材にした版画なども多く手掛けた吉田博。写実的で動画的でもあるという、西洋と日本の融合への試みが、今回展示された作品のいくつかから伝わってくる。

古くから「子守」の文化があった日本だが、その様子は西洋人の目には面白く映ったようで、お雇い外国人画家達が子守の様子を描き、それが日本人画家による子守の再発見に繋がる。浮世絵が盛んであった江戸時代には子守を題材にした絵はほとんどなかったが、明治に入ると子守は重要な題材となる。

最後は日本の風景の至る所に配された花の絵で終わる。江戸時代から、日本の家々では園芸が盛んになり、庶民も家の片隅に花を植えていた。日本人は余り意識していないが、こうした風景は世界的には珍しいようで、これもまた海外からの視点を通して再発見された日本の美質といえるようだ。


「発見された日本の風景」は個人のコレクションによる展示会であり、4階のコレクション・ギャラリーでは、それを補う美術作品が展示されている。

まずは、ブーダン、シスレー、シニャック、マルケという、日本でいう幕末から明治時代に掛けて活躍した画家の作品が並び、お雇い外国人画家達への影響や同時代性を窺うことが出来る。

その後は、「発見された日本の風景」には登場しなかった日本人画家の作品が展示されている。いずれも京都国立近代美術館蔵のものだが、新たに購入した作品などもある。

浅井忠の「御宿海岸」は、千葉県の御宿(保養地として知られ、芥川龍之介など多くの文人が滞在している。全国的には童謡「月の沙漠」の舞台として有名である)を描いたものだが、この作品は長い間行方不明になっていたものだそうで、発見後初の展示となるようである。

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2021年8月28日 (土)

美術回廊(68) 京都文化博物館「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」

2021年8月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」を観る。
京都府立の施設である京都文化博物館も緊急事態宣言発出により、明日から休業に入るのだが、「小早川秋聲」展だけは引き続き展示が行われる予定である。

1885年生まれの小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)。鳥取県日野郡日野町の真宗大谷派の寺院・光徳寺の住職の子として生まれた秋聲(本名:盈麿。みつまろ)。母親は摂津三田(さんだ)元藩主・九鬼隆義の養妹であり、幼時を母の実家である神戸で過ごした。7歳から仏典を教わった秋聲は、父親が出世により本山である京都・東本願寺の事務局長となったため、共に京都に移住。9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。いったんは鳥取に戻った秋聲だったが、画家を志して二十歳の時に再び上洛。以降、88歳で他界するまで京都を本拠地として作品制作に取り組んだ。とはいえ、旅好きであった秋聲は、中国を皮切りにヨーロッパやアメリカまで出掛けて作品を残しており、旅を愛し、旅に生きた画家でもあった。

幸野楳嶺の門下である谷口香嶠に師事した秋聲は、谷口が京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の前身)の教師になったため、同校に入学しているが、南画や文人画など中国を本場とする絵画に憧れていたこともあって、すぐに退学して中国に渡り、水墨画を学んだ。
秋聲の絵は、中国絵画からの影響が濃厚である。そうした画風を持ちつつ、欧米の風物を描いたことが強い個性へと繋がっているように思える。

満州事変以降、中国や東南アジアに渡って戦争画を作成した小早川だが、1974年に没すると急速に忘れ去られてしまう。彼の名前が再び脚光を浴びるのは、戦争画の一つである「國之楯」が戦争画展で注目を浴びたここ数年のことであるという。ということで、小早川秋聲の回顧展は今回が初めてとなる。「國之楯」で注目されたが、他の作品が全く知られていないという事実が、今回の展覧会開催の端緒となったようだ。

戦争画と関連のある絵画と見ることも出来る「山中鹿介三日月を排する之図」で展示はスタートする。題材は日本であるが、画風は典型的な南画の系列に入る。歴史的人物を描いた絵としては他に「楠公父子」という作品があり、楠木正成と楠木正行が描かれている。忠臣を描くことが好きだったのかどうかは分からない。

京都市立絵画専門学校時代の習作であるという「するめといわし」は、日本画のタッチで西洋的な描写も視野に入れるということで、高橋由一の作風によく似ている。

中央の火の明かりが周囲の人々を浮かび上がらせる「露営之図」の技法はその後も何度も用いられることになる。


海外を題材にした絵としては、満州吉林、蒙古ゴビ砂漠、台湾(当時日本領)、香港(当時英国領)、インド(当時英国領)のタージマハール、エジプト(当時英国領)、イタリア・ナポリ、ローマ、南仏ニース、グリーンランド、パリ、アメリカ・グランドキャニンなどを描いた作品が展示されている。いずれも西洋的な技術や視点とは異なるスタイルが取られているのが興味深い。
小早川は、ヨーロッパの夕景を好んだそうで、光と影の配分に力を入れているという点で、日本の伝統的な絵画の技術も受け継いでいることが分かる。
一見、暖かでユーモラスなタッチで描かれている「巴里所見」も描かれているのは大道芸人達ということで下層階級の人々だそうである。

一方で、「國之楯」と共に展覧会のポスターにも採用されている「長崎へ航(ゆ)く」 は、長崎の出島へ向かうオランダ商船をオランダ人が見送るという構図を持った作品で、日本人的でない発想力を持った人だったことも分かる。

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出征家族に送ることを想定した戦争画では勇ましい日本男児の姿が描かれているが、戦場で眠る日本兵士を描いた「虫の音」などはユーモラスであり、小早川の個性が窺われる。

戦死した日本軍兵士を描いた「國之楯」は、構図も内容も衝撃的である。戦死した日本人を描くのは好ましいとはされなかったようで、依頼した陸軍省から一度は受け取りを拒否されたという。

敗戦後、戦犯とされるのは覚悟の上だったという小早川だが、従軍中に体調を崩しており、京都で依頼される仏画などを描いて晩年を過ごす。真宗大谷派の寺の出身ということで、蓮如上人を題材としていたり、無量寿経(大経)に出てくる「天下和順(てんげわじゅん)」をイメージした絵画を制作している。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起(天下は治まり、日や月が煌々と輝く 風雨は相応しい時に立ち、災害や疫病も起こることがない)」

 

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2021年8月13日 (金)

美術回廊(67) 京都国立近代美術館 「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)&京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年 第2回コレクション展」

2021年8月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)と京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年度 第2回コレクション展」を観る。

「モダンクラフトクロニクル」は、工芸品を中心とした展覧会。工芸品はどちらかというとアーティスト(芸術家)よりもアルチザン(職人)寄りであるため、芸術品と評価されない時代が長かった。特に日本では職人芸と芸術が引き離された形で発展したため、「工芸家は工芸家」と見なされることが今でも少なくない。

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1階に海外の作家による作品が並べられているが、これはこれまでに京都国立近代美術館で行われた工芸展に出展されたものが中心となっているようだ。

工芸作品には疎いため、知っている作家の名前を見つけることがほとんど出来ないが、理解するのではなく、「そういうもの」を受け入れる形で楽しむべき作品が多いことは分かる。理屈を言い出した途端に面白くなくなる作品群である。

ただ、想像と知識でもって理解すべき作品も勿論あって、里中英人の「シリーズ:公害アレルギー」は、水道の蛇口が徐々に破損されていく様を描いており、象徴的である。

益田芳徳の「1980年5月」という作品は、1980年5月のとある一日の新聞の一面が球状のケースの中に押し込まれているが、紙面ははっきりとは見えない。1980年5月を後で調べると、光州事件、日本のモスクワオリンピック不参加決定といった出来事が起こっていたことが分かる。また5月にはWHOが天然痘の根絶を宣言していた。
ただ、実際に一面を飾っていたのは、大平正芳内閣総理大臣とジミー・カーター米大統領の共同声明だったことが分かる。その直後、内閣不信任案が自民党内の反大平派が黙認したことによって通過し、衆議院は解散。翌6月12日に大平は過労が元で急死している。


第4章の「古典の発見と伝統の創出」には、河井寛次郎、北大路魯山人などのビッグネームが登場する。近藤正臣の親戚である近藤悠三の作品も展示されている。近藤悠三は人間国宝に指定されたが、近藤正臣の話によると、その途端に作品の値が跳ね上がったはいいが、高すぎて売れなくなってしまったそうで、「名誉は手にしたがお金は」という状態だったそうである。


4階展示室に場を移した第6章「図案の近代化 浅井忠と神坂雪佳を中心に」。現在の千葉県佐倉市出身(生まれは江戸の佐倉藩邸内)で、京都高等工芸学校(国立大学法人京都工芸繊維大学の前身)の教授としての活躍や、関西美術院の創設と後進の育成に尽力したことで知られる浅井忠。私が生まれ育った千葉県では郷土の偉人として教科書に載っていたり、小学校の廊下に肖像画が掛けられていたりする。京都での活躍でも知られるのだが、実際に京都で過ごしたのは死ぬまでの6年間ほどだそうで、決して長くはない。
フランスからの帰国後の京都時代に浅井は、当時のフランスで流行していたアールヌーヴォーを取り入れた陶芸作品の図案をいくつも作成。日仏工芸の融合に貢献したようである。


「令和3年度 第2回コレクション展」の展示では、冒頭に置かれた「西洋近代美術作品選」のアーシル・ゴーキーという画家の作品が面白い。

1904年、オスマントルコ統治下のアルメニアで生まれたアーシル・ゴーキーは、11歳の時にアルメニア人大虐殺によって母親を殺害され、アメリカに渡っていた父を頼って渡米。ボストンの美術学校に学び、抽象派やシュルレアリスムの影響を受けた独自の手法で高く評価されたが、少年期のトラウマに加え、度重なる怪我や病気を苦にして44歳の時に自ら命を絶っている。
「令和3年度 第2回コレクション展」のポスターにも選ばれた「バースデイ・グリーティング」は、いたずら書きのような自在感の中に、赤と緑の対抗色などを含めた計算された配置が存在感を放っている。

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2021年8月 9日 (月)

美術回廊(66) 京都市京セラ美術館 「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」

2021年7月30日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館・東山キューブにて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館の新館、東山キューブで、「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」を観る。京都市美術館が改修工事を経て京都市京セラ美術館となる際に、本館の東側に新設された東山キューブ。入るのは初めてである。

藤子・F・不二雄の代表作「ドラえもん」にインスパイアされた若手アーチスト達の作品を並べた「THE ドラえもん展」。東京では何度か開催されているようだが、京都で行われるのは初めてである。

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現在、東山キューブのみならず京都市京セラ美術館の各所にほぼ等身大(129.3cm)のドラえもん像がいくつも設置されており、自由に写真を撮ることが出来るが、「THE ドラえもん展」もいくつかの作品(映像作品が主になる)を除いて写真撮影可である。

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「ドラえもん」は1969年に連載開始、SF(少し不思議な)マンガとして構想されたことは有名である。アニメ第1シリーズは私が生まれる前年の1973年に始まっているが、半年後に制作会社が倒産して打ち切り。今に至るまで続いている第2シリーズは1979年に始まっているが、この第2シリーズは私は第1回放送から見ており(予告編も見た記憶がある)、アニメ「ドラえもん」と共に成長した世代に当たる。マンガも各誌に連載されており、単行本も買って読んでいた。


様々な作品が展示されているが、最初に飾られている村上隆の2つの作品がオリジナルのドラえもんに最も近い。タイトルは「あんなこといいな 出来たらいいな」で微妙に間違っている(「ドラえもんのうた」の歌詞は「こんなこといいな 出来たらいいな あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど」である。敢えて変えたのかも知れないが)。この作品は「ドラえもん」の名場面のパラフレーズで、藤子・F・不二雄が登場している場面や、「ドラえもん」ファンにはお馴染みのジャイアンのリサイタルシーンなども取り入れられている。

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蜷川幸雄の娘で、写真家・映画監督である蜷川実花の作品は、ドラえもんを理想の恋人に見立てて、女の子とデートする姿が捉えられてる。


後半は、映画版「ドラえもん」(大長編「ドラえもん」)に取材した作品が並ぶ。


1996年生まれの若手、れなれなの作品は、「のび太の新魔界大冒険」のクライマックス近くの場面を「黒板アート」として描いたものだが、黒と白墨のコントラストが絶妙であり、芸術性が高い。


ラストを飾るのは、坂本友由の「僕らはいつごろ大人になるんだろう」。タイトルは、武田鉄矢が歌った大長編「ドラえもん のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)」の主題歌「少年期」の歌詞に由来している。

「のび太の宇宙小戦争」のしずかちゃんを描いたものだが、顔はローティーンではなくハイティーンの少女風に変わり、スカートをたくし上げて絞るという構図はセクシーにしてエロティックである。
アニメ「ドラえもん」を子供の頃から見ている世代の男にとっては、しずかちゃんは初めて知る「可愛い」「理想的な」女の子であり、いわば擬似的な「初恋の女の子」になりうる存在である。そんな「女の子」が「女」に変わる瞬間、男側から見れば「女の子」でなく「女」と感じる瞬間というものを、この作品は上手く捉えているように思われる。

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2021年7月30日 (金)

美術回廊(65) 京都市京セラ美術館 「フランソワ・ポンポン展」

2021年7月23日 京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、フランソワ・ポンポン展を観る。

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京都市美術館をリニューアルした京都市京セラ美術館。展示会場が増え、現在、6つの展覧会が同時進行で行われている。

「古代エジプト展」も「上松松園」展も、北回廊1階の展示室で行われているが、フランソワ・ポンポン展は、北回廊の2階が会場である。展覧会を見終えてから、東山キューブのバルコニーに出て、ウエスティン都ホテルなどを眺めた。

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フランソワ・ポンポン(1855-1933)は、フランスに生まれ、活躍した彫刻家である。遅咲きであり、全仏にその名が知れ渡ったのは67歳の時。それまでは彫刻家の下彫り職人をしながら自作を発表していたが、人物彫刻では十分な評価を得られず、51歳で動物彫刻に転向。巨大なシロクマ像を発表して話題になり、「売れている」と見なされるまでにはそれからまだ時間が掛かるが、巨大シロクマ像発表の前年である1922年に、東久邇宮稔彦(後に史上初にして唯一の宮家出身首相となる)がポンポンの作品を買い上げているそうである。

巨大シロクマ像は移動させることが大変であるため、展示はされていないが、小型のシロクマ像はいくつか展示されており、そのうちの一つは写真撮影可となっている。また展示場内売店にポンポンの巨大シロクマ像の模型が展示されており、記念撮影をすることが出来る。

なお、紙に印刷された作品リストは存在せず、QRコードを読み取って、スマホで確認することになる。コロナ対策なのか、今後は作品リストはこうしたタイプのものが主流になるのか、現時点では判断保留である。

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フランス中央部、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれたフランソワ・ポンポン。父親は高級木工家具職人であり、ポンポンも幼時から父親の仕事を手伝っている。将来彫刻家になる素養はこの父親と成育環境から受け継いだものだと思われる。
15歳の時に地元の司祭に才能を認められたポンポンは奨学金を得て、ブルゴーニュ地方のより大きな都市であるディジヨンに移り、墓石を掘る大理石職人として働きながら美術学校の夜間部で本格的に彫刻を学び始める。ディジヨンの彫刻コンクールで1等賞を得たポンポンは兵役に就くためにパリに出て、短期間で軍務を終えた後は、パリのモンパルナスに住み、やはり墓石の大理石職人をしながらプティット・エコール(ポンポンが入学した年に国立装飾美術学校に改名)の夜間部で学ぶ。ここでは動物彫刻家のピエール=ルイ・ルイヤールが教えており、ポンポンにパリの植物園内の動物園で動物の観察をするようポンポンに勧めたそうだが、この時はポンポンは人物の彫刻家を目指していたため、助言を聞き入れなかったようである。

1890年から5年ほど、ポンポンはオーギュスト・ロダンの工房で下彫り職人を務め、最終的には工房長にまでなる。当時、彫刻家として並ぶ者のいないほどの名声を得ていたロダンの「動き」に着目する技法にポンポンは影響を受ける。ロダンの下を離れてからは、ルネ・ド・ポール・ド・サン=マルソーという彫刻家の下彫り職人として働き、夏場はノルマンディー地方のキュイ=サン==フィアクルという小さな村で過ごしたサン=マルソーに従って、ポンポンもキュイ=サン=フィアクルに家を買い、サン=マルソーの仕事を手伝ったのだが、キュイ=サン=フィアクルの農場で飼われている動物達の姿がポンポンのインスピレーションを刺激することになる。

当時のフランスの彫刻界では、人物の彫刻像が主流。それも文学作品に出てくる人物を彫るのが流行りであった。ポンポンも『レ・ミゼラブル』のコゼット像などを彫っており、好評で本人も自信があったそうだが、国による買い上げは認められず、これを機にポンポンは本格的に動物彫刻の道へと進んでいく。動物彫刻は人物彫刻よりも格下と見られていた時代だったが、20世紀初頭には動物彫刻の再評価が始まっており、ポンポンもこの潮流に乗ることが出来た。

ポンポンの後期の動物彫刻は、磨き抜かれたフォルムが特徴で、これは墓石の大理石職人をしていた影響が強いと思われる。表面は陶器か漆器のようであり、現実なのか非現実なのか、リアルなのか象徴なのか、その絶妙の間でポンポンが作成した彫刻は生命力を見せつける。

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有名なシロクマシリーズなども、足が太く、足の運び方も現実とは異なっているのだが、「今まさに移動している最中のような」躍動感を上手く面に出すことに成功している。「ノッシノッシ」という擬音が聞こえてくるかのようだ。現実ではあり得ないが、よりリアル(切実)である。目で見たものそれ自体よりも目で感じたこととして彫刻作品を作り上げている。またこの時代にフランスではアールデコが流行っており、ポンポンもアールデコに基づくデザイン性を取り入れた動物彫刻を作成している。
「休んでいる冠鶴」などはその典型で、細部をデザイン化することで、「そのもの」からは遠くなるが、フォルムと生命感を抽出した作品となっており、「そのもの」が持つ力はより先鋭化されるというアンビバレントが技巧が用いられている。

ポンポンは、パリ旧王立植物園付属動物園に足繁く通っていたようで、ついには動物園の動物達がポンポンになついてしまったという。そうした動物への愛情が、動物も持つであろう心情やエネルギーをいわば理想化しつつ誠実に読み込み、彫刻作品として昇華することを可能にさせたのだと思われる。

ポンポンが理想の一つとしたのだが、古代エジプトの動物彫刻だそうで、シンプル且つ生命力豊かという古代エジプト芸術に感銘を受けたようだ。

ポンポンが売れる直前の1921年に、苦楽をともにした妻のベルトが死去。ポンポンは彼女の墓にコンドルの像を飾った。同じ形のコンドル像が展示されているが、ポンポンは古代エジプトでは、コンドルに似たハゲワシが冥界の守護神となっていることを知っており、妻のあの世での安寧を期して、コンドル像を飾ったことが推測される。1933年、78歳の誕生日を3日後に控えて他界したポンポンは、コンドル像のある墓所で妻と共に眠っている。


ポンポンの作品は、ソーリューのフランソワ・ポンポン美術館、ディジヨン美術館、パリのオルセー美術館などの他に群馬県立館林美術館が多く所蔵しており、館林美術館所蔵のものが数多く展示されている。また、今年の11月からは、館林美術館でフランソワ・ポンポン展が開催される予定である。

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2021年7月28日 (水)

美術回廊(64) 京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」

2021年7月20日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」を観る。なお、ポスターなどに用いられている重要文化財「序の舞」は、8月17日から始まる後期のみでの展示となる。

近世京都画壇の重要人物の一人である上村松園(1875-1949)。京都の街中である四条御幸町西入ル奈良物町(現在はビックカメラのある辺り)に生まれた彼女は、幼い頃から絵が好きで、京都市立開智小学校(跡地に現在は京都市学校歴史博物館が建つ)卒業後、京都府画学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)で鈴木松年(しょうねん)に円山派の絵画を学び、「松」の字を譲り受けて松園と名乗る。松年が画学校を退職すると松園も退学して、松年の私塾で学ぶ。元々、美人画を描きたいと考えていた松園は、幸野楳嶺に師を変え、楳嶺が2年後に死去すると、楳嶺の一番弟子で現在も京都画壇の最重要人物と目されている竹内栖鳳に師事するようになる。その後は主に市井の女性を題材とした絵で注目され、死の前年には女性として初めて文化勲章を受章。死後には従四位に叙せられている。門徒でもあり、墓は大谷祖廟の東大谷墓地(展示されていた年表では大谷本廟となっていたが誤り)にある。息子は日本画家の上村松篁(しょうこう)、孫も日本画家の上村淳之(あつし。京都四條南座の緞帳も手掛けている)。

初期は表面的な美人画を描いていた松園だが、次第に内面の描写へと傾いていく。

初期作品の一つである「清少納言」は、清少納言が中宮定子に「香炉峰の雪はどう見るの?」と問われて御簾を掲げる場面が描かれているのが、全く同じ題材の「清少納言」を松園を大正時代に入った二十数年後に描き上げている。画風は大きく異なる。初期に書かれた「清少納言」は、床など余白とされる部分が大きく、清少納言の表情も何を考えているのかよく分からない。一方、大正時代に描かれた「清少納言」は清少納言の姿が大きく描かれ、迫力からして異なる。また清少納言の顔は、この場面には相応しくないほどの憂いに満ちている。大正期の「清少納言」の次に展示されているのは、「焔」という作品であるが、これは、紫式部の「源氏物語」に登場する六条御息所をモデルにした作品で、やはり強い憂愁の表情を浮かべている。その横に並ぶのは「紫式部之図」で、紫式部は和やかな面持ちである。歴史的に清少納言は皇后の座争いに負けた中宮定子側、紫式部は勝った中宮彰子側である。これはそう見えるようにキュレーターが並べているので、実際に松園が清少納言の憂いに何を込めたのかは分からない。御簾を掲げる場面は、清少納言が己の教養の高さを示すために「枕草子」に自慢気に書いたもので、その場で憂鬱な顔をしていたとは考えにくい。大正時代の「清少納言」が描かれた時期は、松園がスランプに陥っていた時代のようだが、己の姿を清少納言に重ねたのであろうか。

初期の松園の絵は、伝統的な日本画に多い、S字カーブの構図を用いているのも特徴。「花のにぎわい」など、同じモチーフで描かれている一連の作品は、崩れそうなバランスを敢えて取ることで、一瞬の華やぎを上手くすくい取っている。後年の作品ではS字カーブはあまり見られなくなり、代わって垂直の構図が多く用いられるようになる。

「表面的で内面描写に乏しい」というのが、初期の松園が受けた評価であった。これを受けて松園も心情が一目見て分かるような描写を心がけるようになり、先に挙げた「清少納言」や「焔」はそうした時代を代表するものである。だが松園はその後、直接的な描写ではなく、主人公以外の要素を描くことで、心象が間接的に伝わる技法へと転換していく。

昨年、京都国立近代美術館で行われた「京(みやこ)のくらし」展でも観た「虹を見る」(京都国立近代美術館所蔵)では母親と赤子、そしてもう一人の若い女性がタイトル通り虹を見上げているところを描いた絵であるが、目に映る虹は三者三様であることが察せられ、観る者の想像力をくすぐる。
また亡くなった母に捧げたとされる「母子」(重要文化財指定。前期のみの展示)では、赤子を抱いている母親の横顔が描かれているのだが、赤子は向こうを向いているので表情は見えない。だが母親の方は清々しい表情を浮かべているため、赤子も良い表情をしていることが察せられる。このように松園は直接的な描写でなく観る者の想像力に委ねる画風を確立する。「楚蓮香」など、蝶々が華やかさを演出している絵が何枚かあるが、やがてそれが憂いの蛍へと変わっていく。描かれている女性は特に憂鬱な感じではないのだが、蛍を追っていることで、自然に儚さが出ている。後期になると再び余白の部分も大きくなる。

松園の絶筆とされる「初夏の夕」(京都市美術館所蔵)も蛍を目で追う女性を描いたものだ。だがこの作品では女性は柔らかな微笑みを浮かべており、蛍が憂鬱の象徴から懐古の念を起こさせるものに変化したことが受け取れる。憂いさえも微笑んで受け入れる松園円熟の境地である。

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2021年7月 4日 (日)

コンサートの記(727) 京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」

2021年6月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」を聴く。

緊急事態宣言発出のため、4月25日から5月31日まで臨時休館していたロームシアター京都。今日の公演が再スタートとなる。

京都市出身の芥川賞受賞作家である藤野可織と京都市交響楽団によるコラボレーション。藤野の新作小説の朗読と、パリゆかりの作曲家の作品による新たな表現が模索される。指揮は三ツ橋敬子。

朗読を担当するのはAKB48出身の川栄李奈であるが、企画発表時には出演者はまだ決まっておらず、しばらく経ってから川栄の出演が公にされた。

演奏曲目は、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第1曲〈プレリュード〉、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「カルタ遊び」より抜粋、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈夜への前奏曲〉、シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第2曲〈フォルラーヌ〉、サティ作曲ドビュッシー編曲の「ジムノペディ」第2番(表記の揺れのある楽曲で、ここではピアノ版のジムノペディ第1番のオーケストラ用編曲を指す)、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈マラゲーニャ〉、ドビュッシーの「夜想曲」より〈雲〉、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。シベリウスを除いて、パリゆかりの作曲家の作品が並んでいる。


藤野可織は、1980年、京都市生まれの小説家。同志社大学文学部卒業、同大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了とずっと京都市で生きてきた人である。大学院修了後は、京都市内にある出版社でのアルバイトをこなしながら小説の執筆を開始。2006年に「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞し、2013年には「爪と目」で第149回芥川賞を受賞。2014年には『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞を受賞している。
藤野は、今回の企画を持ちかけられてから、初めてロームシアター京都メインホールを訪れたそうで、4階席から舞台を見下ろした時に作品の構想を得たようである。


今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。シベリウスの「悲しきワルツ」演奏後に20分の休憩が入るが、出演者は見た限りでは前半後半ともに変わらない。首席クラリネット奏者の小谷口直子は今日は降り番。他の管楽器パートは首席奏者がほぼ顔を揃えている。

藤野可織の「ねむらないひめたち」は、9歳の少女を主人公とした作品で、新型コロナウイルス流行に絡めた「昏睡病」がまん延する近未来の話である。近未来ではスマートフォンではなくスマート眼鏡というもので情報をやり取りするようになっており、パソコンはまだ用いられているが、キーボードはバーチャルのものに置き換わっているようである。
なお、「ねむらないひめたち」のテキストは、「新潮」7月号に掲載されている。「新潮」7月号には野田秀樹の新作戯曲「フェイクスピア」も載ってるため、舞台芸術好きにはお薦めであるが、野田秀樹の戯曲は多くの場合、上演よりもテキストの方が勝ってしまうため、観る予定のある方は、舞台を鑑賞後にテキストを読むことを勧めたい。

上演前にまず藤野可織が登場して挨拶を行い、この作品が朗読とオーケストラが奏でる音楽とが一体となったものであるため、曲ごとの拍手はご遠慮頂きたい旨を述べる。京都市の生まれ育ちということで、柔らかな京言葉で話し、雅やかな印象を受ける。おそらくこうした話し方や雰囲気を「はんなり」と言うのだと思われる。

京都市交響楽団に客演する機会も多い三ツ橋敬子。バトンテクニックの高い非常に器用な指揮者だが、今に至るまでオーケストラのポストは得られないでいる。平均点の高いタイプながら、何が得意なのか分からない指揮者でもあったが、これまで聴いた限りでは、現代音楽、モーツァルトなどで好演を示しており、フランスものも合っているようである。

朗読担当の川栄李奈。AKB48在籍中は、お勉強が不得意なお馬鹿キャラとして知られたが、握手会で襲撃されて負傷。トラウマにより「握手会にはもう出られない」としてAKBを卒業した。その直後から本格的な女優活動に入るが、CMや映画、テレビドラマなどで、「あのお馬鹿キャラの川栄」とは思えないほどの才気煥発ぶりを発揮。上り調子の時にできちゃった結婚で休業に入ってしまい、「ああ、やっぱり」と思わせたりもしたが、復帰後も活躍はめざましく、大河ドラマ「青天を衝け」に一橋慶喜正室の美賀君役で出演し、怪演を展開中。次期NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のヒロインの一人を演じることも決まっている。女優は天職なのだろう。
声優としても活動しており、映画「きみと、波にのれたら」では主演声優を務めている。

舞台後方にスクリーンがあり、三好愛のイラストと、藤野可織の「ねむらないひめたち」のテキストが映し出される。

主人公の「あたし」は、タワーマンションの37階に住んでいる。年齢は9歳で、今年13歳になる姉がいる。
姉妹が両親と住むマンションの部屋にはバルコニーがあるのだが、バルコニーにはいつも嵐のような強風が吹き荒れており、母親は、「嵐はすごく危険」「だからバルコニーには出ちゃいけません」と言う。だが、姉妹は学校から帰るとバルコニーに出て、姉は双眼鏡で外を覗き、妹のあたしは機関銃タイプの水鉄砲で姉が指示した人物に向かって狙撃を行った。「射殺」したのだが、当然ながら水鉄砲で人は殺せない。殺し屋ごっこである。マンションの周りには様々なタイプの人がいたが、スパイだの異星人だの、不思議な人々もいる。もっとも、これは姉の見立てによるもので、実際にスパイや異星人がいた訳ではないと思われる。

そうしているうちに、人々が昏睡状態になるという謎の病が流行し、人々は感染を避けるため外出せずに家に籠もるようになる。姉妹が通う学校も休校になり、両親もリモートワークでいつも家にいるようになる。両親は姉妹に好きなだけ映画を観ることを許可し、姉妹は、暗殺者ものの映画を観まくるようになる。だが、予想に反して暗殺者達の仕事そのものよりもロマンスに焦点を当てた作品が多いことに気づく。
やがて両親が昏睡病に感染。砂色の飴で覆われたようにコチコチに固まってしまう。
あたしは、新たにアカウントを開設。「ソラコ」という名で自撮りの写真などを載せたが、誤って住所も見えるように載せてしまったため、奇妙な男達が何人も「君を助けたい」と言ってタワーマンションの下までやって来るようになる。姉妹は、カップアンドソーサーのカップやジャムの瓶などをバルコニーから落とすことで彼らを次々に殺していき……。


選ばれた楽曲を見ると、「死」に直結するイメージをもった作品が多いことに気づく。
射殺ごっこが、本物の殺人へと変わり、映画で観るような暗殺者の恋愛の代わりに、異様な人々の来訪があるという展開が高度に情報化された現実社会の不気味さを表しているかのようである。
やがて舞台はコンサートホールの4階席へと移り、未来への希望と不信がない交ぜになったまま再び殺し屋としての社会との対峙が始まる。

設定が近未来ということで、不思議な話が展開されるが、外部の危機的状況とそんな中でもネット上や現実社会で繰り広げられる不穏さが描かれている。そんな中で未来の夢や漠然とした期待に浸ることなく目の前を見つめ続けること、今を生き続けることと、引いては小説を書くことの意義が仄かに浮かび上がる。


川栄李奈の朗読であるが、予想よりも遙かに上手い。地の文とセリフの使い分け、感情の描き分け、抑揚やメリハリの付け方などが巧みで、声自体も美しい。女優の朗読に接する機会は多くはないながらもあるが、少なくともこれまでに聴いた二十代の女優の中ではトップだと思われる。全身が表現力に満ちあふれており、表現者としてのエネルギーやパワーの総体が同世代の他の女優よりも大きいことが察せられる。やはりこの人は女優が天職なのであろう。

三ツ橋敬子指揮する京都市交響楽団も煌びやかな演奏を展開。ドビュッシーやラヴェルの音楽ということで、浮遊感や典雅さの表現が重要になるが、これも十分にクリアしている。後は奥行きだが、これは更に年齢を重ねないと表出は難しいようにも感じる。


本編終了後にアフタートークがある。司会は、京都市交響楽団からロームシアター京都の音楽事業担当部長に異動になった柴田智靖。三ツ橋敬子、藤野可織、川栄李奈、会田莉凡の女性4人が参加する。

曲目は、ロームシアター京都から提案されたものが中心だったようだが、三ツ橋敬子は、普段余りフランス音楽を演奏しない京都市交響楽団で、元々別の物語性を持つ音楽を奏でることの難しさを語った。ちなみにリハーサル時と本番とではオーケストラの色彩が大きく異なっていたため驚いたそうである。

藤野可織は、小説家の仕事は自己完結であるが、こうしてオーケストラとのコラボレーションという協働作業の機会を得られたことへの面白さを語る。ちなみに司会の柴田は、表現したかったことを藤野に聞いていたが、「それを小説家に聞いちゃ駄目でしょ」と思う。

川栄李奈は朗読で緊張したことを語り、手の汗でページがめくれないんじゃないかとヒヤヒヤしたことを打ち明ける。また、個人的に京都の街が大好きだそうで、お土産をいっぱい買って帰りたいと笑顔で話していた。

会田莉凡も、京都市交響楽団でフランス音楽の演奏を行う難しさと新型コロナ流行下での演奏活動の困難さを語り、更には京都市交響楽団の活動の宣伝も忘れなかった。

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2021年6月23日 (水)

史の流れに(9) 京都市京セラ美術館 国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」再訪

2021年6月17日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」を観る。二度目である。ビデオ映像など以外は写真撮影可であるが、前回はネフェルティティの頭部像のみ写真を撮った。それで十分だと思っていたのだが、「ピーコ&兵動のピーチケパーチケ」で中山優馬が色々と写真撮影しているのを見て、やはりいくつかはスマホに収めておこうと思い立ち、再び京都市京セラ美術館に赴くことになった。

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今回は前回よりも遅い時間だったが、人が比較的多めである。写真撮影可という情報もテレビなどで伝わっているようで、スマホやガラケーではなく、デジカメを持ってきて撮影している人もいる。

撮影対象として最も良いのがネフェルティティの頭像だというのは変わらないが、今度は横顔(プロフィール)も撮影してみる。ハトシェプスト女王のスフィンクスも被写体として絶好であり、仏像のようなアルカイックスマイルが良い。ハトシェプスト女王のスフィンクスも正面からの画も良いが、横顔は更なる美しさを湛えている。日本人とは違って鼻が高く、掘りも深めなので横顔が映えるのだ。
名前だけは有名だが、早逝したため正体がよく分からないツタンカーメン(トゥトアンクアメン)を描いたレリーフも写真に収める。
ツタンカーメンについては暗殺説が有名であるが、現在では暗殺は否定されつつある。遺伝子検査によるとツタンカーメンは生まれつき病弱で左足が不自由であり、マラリアに感染した時に不自由だった左足を骨折してしまったため免疫力が下がり、死に至った可能性が高いそうである。

前回は古代エジプトについて、特に知識を入れていかなかったが、今回は前回訪れた時に京都市京セラ美術館の売店で買ったエジプト神話に関する文庫本を読んでいったため、展示物やそれが示す意味の理解がある程度まで可能になっていた。予備知識は時には邪魔になることがあるが、やはり少し予習をして行った方が理解度が高まることは確かなようである。

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2021年6月16日 (水)

2346月日(33) 京都文化博物館 京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」&「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」

2021年6月11日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」と「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」を観る。

「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」は、修復された寺町・誓願寺の門前町を描いた屏風絵の展示が中心となる。豊臣秀吉によって築かれた寺町。その中でも本能寺などと並んでひときわ巨大な伽藍を誇っていたのが誓願寺である。

落語発祥の地としても名高い浄土宗西山深草派総本山誓願寺。明治時代初期に槇村正直が新京極通を通したために寺地が半分以下になってしまったが、往時は北面が三条通に面するなど、京都を代表する大寺院であった。
この「誓願寺門前図屏風」作成の中心となった人物である岩佐又兵衛は、実は織田信長に反旗を翻したことで知られる荒木村重の子である(母親は美女として知られた、だしといわれるがはっきりとはしていないようである)。荒木村重が突然、信長を裏切り、伊丹有岡城に籠城したのが、岩佐又兵衛2歳頃のこととされる。使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉するなど、徹底抗戦の姿勢を見せた荒木村重であるが、その後、妻子を残したまま有岡城を抜け出し、尼崎城(江戸時代以降の尼崎城とは別の場所にあった)に移るという、太田牛一の『信長公記』に「前代未聞のこと」と書かれた所業に出たため、有岡城は開城、村重の妻子は皆殺しとなったが、又兵衛は乳母によってなんとか有岡城を抜け出し、石山本願寺で育った。その後、暗君として知られる織田信雄に仕えるが、暗君故に信雄が改易となった後は京都で浪人として暮らし、絵師としての活動に入ったといわれる。

誓願寺門前図屏風は、1615年頃の完成といわれる。大坂夏の陣のあった年である。翌1616年頃に又兵衛は越前福井藩主・松平忠直に招かれて、福井に移っているため、京都時代最後の大作となる。又兵衛一人で描いたものではなく、弟子達との共作とされる。又兵衛は福井で20年を過ごした後、今度は二代将軍・徳川秀忠の招きによって江戸に移り、その地で生涯を終えた。又兵衛は福井から江戸に移る途中、京都に立ち寄ったといわれている。

岩佐又兵衛について研究している京都大学文学研究科准教授の筒井忠仁出演の13分ちょっとの映像が、「誓願寺門前図屏風」の横で流されており、「誓願寺門前図屏風」に描かれた京の風俗や修復の過程で判明したことなどが語られる。

経年劣化により、かなり見にくくなっていた「誓願寺門前図屏風」。修復の過程で、二カ所に引き手の跡が見つかり、一時期は屏風ではなく襖絵として用いられたことが確認されたという。

『醒睡笑』の著者で落語の祖とされる安楽庵策伝が出たことで、芸能の寺という側面を持つ誓願寺には今も境内に扇塚があるが、「誓願寺門前図屏風」にも誓願寺のそばに扇を顔の横にかざした女性が描かれている。

また、三条通と寺町通の交差する北東角、現在は交番のある付近には、扇子を売る女性が描かれているが、彼女達は夜は遊女として働いていたそうである。また、今は狂言で女性役を表すときに使う美男鬘を思わせるかづきを被った女性などが描かれている。

誓願寺は和泉式部が帰依した寺ということで、和泉式部の塚も以前は誓願寺にあったようだ(現在は少し南に位置する誠心院に所在)。誓願寺は女人往生の寺であるため、女性の姿も目立つ。
一方、三条寺町では馬が暴れて人が投げ出されていたり、喧嘩というよりも決闘が行われていたり、物乞いがいたりと、当時の京都の様々な世相が描かれている。

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その他には、茶屋氏、角倉氏と並ぶ京の豪商だった後藤氏関係の資料が展示されている。後藤氏の邸宅は現在、新風館が建つ場所にあった。かなり広大な面積を持つ屋敷だったようで、往時の後藤氏の勢力が窺える。
作庭家や茶人としても有名な小堀遠州(小堀遠江守政一)や、豊臣家家老でありながら大坂を追われることになった片桐且元、加賀金沢藩2代目の前田利光(後の前田利常)、熊本城主・加藤清正らが後藤家の当主に宛てた手紙が残されており、後藤家の人脈の広さも分かる。虎狩りで知られる加藤清正だが、清正から後藤氏に出された手紙には、虎の毛皮を送られたことへの感謝が綴られており、清正が虎狩りをしたのではなく虎皮を貰った側ということになるようだ。


元々、下京の中心は四条室町であったが、江戸時代には町衆の中心地は、それよりやや東の四条烏丸から四条河原町に至る辺りへと移っていく。
出雲阿国の一座が歌舞伎踊りを披露した四条河原は、京都を代表する歓楽地となり、紀広成と横山華渓がそれぞれに描いた「四条河原納涼図」が展示されている。紀広成は水墨画の影響を受けたおぼろな作風であり、一方の横山華渓は横山華山の弟子で華山の養子に入ったという経歴からも分かる通り描写的で、描かれた人々の声や賑わいの音が聞こえてきそうな生命力溢れる画風を示している。

後半には四条河原町付近の住所である真町(しんちょう)の文書も展示されている。面白いのは、四条小橋西詰の桝屋(枡屋)喜右衛門の名が登場することである。万延元年(1860)の文書で、灰屋という家の息子である源郎が、桝屋喜右衛門の家に移るという内容の文書と、転居したため宗門人別改にも変更があり、河原町塩谷町にあった了徳寺という寺院の宗門人別改帳への転籍が済んだことが記載されている。

実はこの翌年、または2年後に、桝屋の主であった湯浅喜右衛門に子がなかったため、近江国出身で山科毘沙門堂に仕えていた古高俊太郎が湯浅家に養子として入り、桝屋喜右衛門の名を継いでいる。古高俊太郎は毘沙門堂に仕えていた頃に梅田雲浜に師事しており、古高俊太郎が継いで以降の桝屋は尊皇討幕派の隠れアジトとなって、後の池田屋事件の発端へと繋がっていくことになる。ということで、灰屋源郎なる人物も古高俊太郎と会っていた可能性があるのだが、詳細はこれだけでは分からない。

 

3階では、「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催されている。
シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎が独立美術協会を立ち上げたのが1930年。その後、四条河原町の雑居ビルの2階に独立美術京都研究所のアトリエが設置され、京都でも新しい美術の可能性が模索されるようになる。だが戦時色が濃くなるにつれてシュルレアリスムなどの前衛芸術などは弾圧されていく。そんな中で現在の京都府京丹後市出身である小牧源太郎は、仏画を題材とした絵画を制作することで土俗性や精神性を追求していったようである。

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