カテゴリー「美術」の5件の記事

2020年1月13日 (月)

美術回廊(47) 京都髙島屋7階グランドホール 「没後220年 京都の若冲とゆかりの寺―いのちの輝き―」

2020年1月8日 京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、「没後220年 京都の若冲とゆかりの寺―いのちの輝き―」という展覧会を観る。左京区岡崎にある細見美術館の若冲コレクションと京都府内にある寺院が所蔵する若冲作品を集めた展覧会。細見美術館のコレクションはこれまで数回に渡って観たことのあるものも含まれている。

近年、急速に再評価が進んでいる伊藤若冲(1716-1800)。京都錦小路の青物問屋に生まれ、23歳から実家の商いを継ぐも、40歳で弟に店を譲り、隠居の身として絵に打ち込んでいる(最近になってその後も町衆のために働いていたことも確認された)。鶏の絵を多く残していることでも有名だ。

伊藤若冲の弟子についてはこれまでほとんど知られていたかったが、頭に「若」を付ける系譜と、下の漢字に「冲」を当てるもう一種類の系譜があることが分かってきたという。今回の展覧会では、若冲の弟子の作品も展示される。


まず最初に展示されているのは、若冲の木版画である。描写よりも意匠が重視される作品であるが、その後、竹久夢二を経て和田誠にまで至るデザイン性をそこに見いだすことは容易である。というよりも当たり前でもある。絵画というよりもデザイン画の伝統は江戸時代からすでに始まっており、後世の者が先人の絵に学ぶのは当然だからである。良くも悪くも現代人は江戸時代の影響を受け続けているといわれるが、こうした一見、関連がなさそうなところにもそれが見出せるのが面白くもある。

細見美術館のコレクションからは、「雪中雄鶏図」、「糸瓜郡虫図」、「伏見人形図」などお馴染みの作品が並ぶ。「伏見人形図」などもデザイン画の先祖の系譜に入りそうな作品である。そのほかにも、禅の祖を描いた「朱達磨図」、軍神「関羽図」、一瞬を描いた「虻に双鶏図」、簡略の美が光る「群鶏図」、今年の干支で、私も年賀状に採用した「鼠婚礼図」などが展示されている。

寺院所蔵の絵画としては、慈照寺(銀閣寺)所蔵の「牡丹百合図」、「鯉図」、鹿苑寺(金閣寺)所蔵の「竹虎(ちっこ)図」、「玉熨斗図」、「亀図」、伊藤若冲の菩提寺である裏寺町の宝蔵寺所蔵の「髑髏図」、相国寺(慈照寺、鹿苑寺の本山)の「鱏(えい)図」、「鳳凰図」などが展示されている。「鱏図」が面白い。

伊藤若冲が壬生寺に奉納した狂言の面も展示されている。これは今でも壬生狂言で使われているそうである。

あっかんべーをしたユーモラスな「布袋図」や、千葉県の魚でもある鯛を描いた「鯛図」なども面白い。「鯛図」は釣り上げられた瞬間の鯛を描いたものだが、鯛が躍り上がっていることがわかり、躍動感が感じられる。釣り針と鯛を描いた絵であるが、「留守絵」と呼ばれるもので、主人公である恵比寿を敢えて描かない手法で描かれたものだという。

相国寺の「釈迦三尊像(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)」は色鮮やかだが、複製である。複製ではあるが、緻密な筆致を知ることが出来る。

屏風に描かれた鶏は実に生き生きしている。弟子である若演が描いた鶏の絵もあるが、生命力が違う。若冲が描いた鶏は今にも動き出しそうな生命力が宿っているが、若演が描いた鶏はやはり単純に描かれたものという印象を受ける。構図の問題も大きいが、細部の描き方も大きいと思われる。ある意味捻れたポージングが躍動感を生んでいるともいえる。

最後にMBS(毎日放送)が制作した上映時間約10分の若冲紹介映像が流れており、若冲と仏教、とりわけ伊藤家の宗派である浄土宗と若冲が障壁画や仏画を手がけた臨済宗相国寺派、若冲が晩年に関係を持つことになった黄檗宗との関わりなどが描かれていた。

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2019年12月20日 (金)

美術回廊(46) ジョーン・ジョナス京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」

2019年12月18日 御池通の京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて

御池通にある京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念展覧会「Five Rooms For Kyoto:1972-2019」を観る。
1936年生まれのジョーン・ジョナス。今月12日にロームシアター京都サウスホールでパフォーマンス「Reanimatio」が上演され、14日から京都市立芸術大学@KCUAのでの展覧会が行われている。年をまたいで来年の2月2日までの開催である。入場無料。

展覧会のタイトル通り、京都市立芸術大学@KCUAの5つの展示室を使って行われる展覧会。映像作品と美術の展示がある。
最初の部屋は、12日にロームシアター京都サウスホールで行われた「Reanimation」のものである。ジェイソン・モランの音楽も録音で流れてくる。
ジョナスは、歌舞伎や能を観て日本の表現形式に魅せられたそうだが、「Reanimation」では障子をスクリーンとして用いている。氷河の山脈の映像や、ドローイングの風景などが投影されている。
「Reanimation」の上演映像もモニターで流れている。セリフを書いた冊子が手前の椅子の上に置いており、自由に読むことが出来るようになっている。

2階に上がり、3つの部屋で行われる展示を眺める。最初の部屋に映されているのは、「Lines in the Sand」。パリスと結婚したとされるヘレネーの物語を題材としているが、ヘレネーはトロイアではなくエジプトに行ったとするアイスキュロスの戯曲を元にしており、エジプトに取材した作品である。ただ、ジョナスはエジプトには行かず、ピラミッドやスフィンクスの模倣品が街中にあるラスベガスに向かい、ラスベガスのそばの砂漠で砂にドローイングを行ったりしている。二重の意味で「本来ではない場所」での創造が行われるのである。
モニターには「ピロートーク」という題の、男女による語りの作品が映されていた。こちらは演劇性が高いものである。

2階の2つ目の部屋は、最も演劇性の高い実験映像である。「Organic Honey」と題された映像群で、最初期の作品である「Oranic Honey's Visual Telepathy」を始めとする6つの映像がスクリーンやモニターに流れている。何が映っているのかよくわからないものもある。

2階の3つ目の部屋は、ジョナスが取り組んでいる環境問題に題材を取った映像2つ(「Moving off the Land Ⅱ」と「Whale Video」)が流れている。人類と魚類の共通点が少年や少女によって語られ、「Reanimation」のラストに登場した魚は、やはり生物の原点という意味で扱われていたことがわかる。
ジョナスがスクリーンに映る海の生き物たちと一体になろうとしたり、自分の体に紙を押し当てて体型をなぞったものに吸盤を加えてタコと一体化したりと、生物の歴史を超えた融合を試みる場面が見られる。この作品でもジョナスがハンドベルを鳴らず場面があるが、自然破壊への「警鐘」そのものとして用いているようである。

階段を降りて、1階にある最後の展示室へ。この部屋ではジョナスの教育活動が紹介されている。4つのモニターが互いに背を向ける形で四方に並べられており、大学や美術アカデミーで行われたインプロビゼーション(即興)でのパフォーマンスが映し出されている。
ガラスケースの中には、ジョナスが授業の際に使用した指示書が展示されている。これも日本語訳テキストが壁に2冊ずつ下がっていて、手に取って読むことが出来る。詩や映像作品の組み立てを分析してパフォーマンスに生かすこともやっているようだが、日記を書いて、実際にあったことを表現するよう指示が出されたものもあった。

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観劇感想精選(330) ジョーン・ジョナス 京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」

2019年12月12日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、ジョーン・ジョナスの京都賞受賞記念パフォーマンス「Reanimation」を観る。

ジョーン・ジョナスは、1936年、ニューヨーク生まれ。現在も同市在住である。1960年代にパフォーマンスとビデオを融合させた新たな表現形式を創始し、現在もデジタルメディアとパフォーマンスとの関係を探求し続けている。

 

舞台中央に障子で出来たスクリーンが降りており、そこに映像が投影される。まず映されるのは寒冷地の街の映像であり、その後、アイスランドを描いた地図が映り(左下に首都のレイキャビクがある)、先程の映像がアイスランドのものであるらしいことがわかる。

舞台左手にグランドピアノがあり、その上にキーボードが乗せられている。演奏を行うのは、1975年、テキサス州生まれのピアニストで作曲家であるジェイソン・モラン。グランドピアノには坂本龍一のコンサートでよく見られるような自動演奏機能が付いており、モランはグランドピアノを自動演奏モードにしてキーボードを弾いたり、片手でキーボード、もう片方の手でピアノの演奏を行ったりする。ミニマルミュージックに始まり、即興演奏風になり、再びミニマルミュージックに戻ってくる。北欧の先住民であるサーミ人の伝統歌謡「ヨイク」も効果的に用いられている。

舞台上手にはテーブルが置かれ、助手が映像を映し出したり、ドローイングが行われたりする。

 

アイスランドの作家、ハルドル・ラクスネスの著作、特に『極北の秘教』に影響を受けたパフォーマンスである。近年、世界的な問題となっている氷河の融解を題材としているが、実はラクスネスは氷河がまだ溶け出していない1960年代に氷河の問題を取り上げているそうである。
ラクスネスの著作を題材にしたパフォーマンスは、まず2010年にジョナスが教鞭を執るマサチューセッツ工科大学(MIT)で制作され、講義形式の作品であったようだが、その後、ジェイソン・モランとのコラボレーションを行うようになり、完成形へと徐々に近づいていったようである。

ハルドル・ラクスネスは、1955年にノーベル文学賞を受賞しているが、彼が書いた戯曲のような小説『Under the Glacier(氷河の下で。邦題:極北の秘教)』が今回の公演の軸となっている。『極北の秘教』からのテキストをジョナスが朗読することで進んでいく。上演時間は約1時間。

ジョナスが、舞台中央やや下手寄りに立てられた板に掛かる黒板風のものにチョークで六角形の図形を並べた花のような絵を描き込んでいく。
「完全な死体となった全裸の女が目覚め、棺から出てアイルランド風のパンを焼き(どんなパンなのかはわからないが)、棺担ぎの男達に振る舞った」という民話風のミステリアスな蘇生(Reanimation)の話が冒頭で語られる。その後、北欧(アイスランドではなくノルウェーらしい)の光景である山々や動物達がスクリーンに映し出される。ジョナスは舞台上手のドローイングスペースに行って、映像の輪郭をなぞるような書き込みを行うが、完成する前に映像は先に進んでしまい、ジョナスが描き込んだ絵は残像のように残されることになる。「喪失」が強く印象づけられる。

ラクスネスによると氷河は世界の中心であり、昔、錬金術師に導かれて3人の男が氷河に覆われた火山の噴火口に降り、そこで世界の中心を見つけたという。

ノルウェーの氷に閉ざされた山の麓を走る列車から取られたと思われる映像が続き、ジョナスは草笛のようなものや、角笛のようなものを鳴らす。また紙をくしゃくしゃに丸める音を出す。それは氷河の溶解の音のようでもある。

「歴史は寓話、それも粗末な。それに絶えられず私は神学を学ぶことにした」だが、その神学もやがては信じられなくなるようである。新たな寓話が求められる。

嵐に耐えるユキホオジロの話も語られる。「完璧」の喩えとしてだ。人間がユキホオジロのように鳴き声を交わす生き物でないことを残念に思い、ならば沈黙を求めようとする。氷河は沈黙している。野の百合もまた。

やがて話は冒頭の全裸の女の死体の話に戻る。それは今や完全な死体である。幽霊の話も語られるが、幽霊は常に不完全な存在であり、「世界の流産」と形容される。これは氷河の融解に繋がるメタファーだと思われる。氷河の融解は進んでおり、時間を巻き戻すことは出来ない。それを食い止める夢を描いたとしても、それはかつての氷河の姿に由来する幽霊に過ぎないのではないか。

ただ、時間は解決のための有効な手段として今も考えられており、最後の結論として再度登場する。

「蘇生」を題材にした映像。池の中に白い影が映り込んでいる。やがてその白い影は白い服を着た女性だということがわかり、飛び込み台の上にいる女性はやがて池に飛び込み、泳ぎ出す。その後、映像はアザラシなど、氷河の海で暮らす生物達の映像に突然切り替わる。

タンポポとミツバチの話、ミツバチがタンポポの蜜を吸い、ミツバチがタンポポの花粉を体につけて他のタンポポに移り、受粉が行われることを「超交信」と呼ぶ。これが新たな宇宙的発展の希望と考えられているようである。

世界は悪魔が支配しているという話。ものが燃やされている映像。あるいは焚書を表しているのかも知れない。悪魔はいつまで経っても悪魔であり続けると考えたとしても、神を冒涜したことにはならないだろうという内容が読み上げられる。

山羊などアイスランドの家畜達が映った映像が流れた後で、ジョナスはカウベルなどを鳴らす。スクリーンにはすでに家畜はおらず、雪の畑を延々と歩き出す人の影が映し出されている。やがて右の方に北極海が見え、影は砂浜にたどり着く。

ジョナスは、最初は黒板のようなものが掛けられていた板に半紙を垂らし、墨で魚の絵を描く。

『極北の秘教』からの最後の引用が語られる。「時について」だ。「時の超越性は誰も知ることである。時はエネルギーでも物質でもないが、始まりと終わりを担っている。世界の創成のだ」
スクリーンには魚達の姿が映されている。あるいは他に意味があるのかも知れないが、「始まり」と「魚」は相性が良い。生物の始まりは魚だからである。
ジョーン・ジョナスは、教訓的な表現は行わない人だそうで、あるいは細分化して「意味」として受け取るのは間違っているのかも知れないが、「根源に戻ること」は何事においても重要なのかも知れない。我々はそもそも何を求めてどこからやって来たのかということだ。
キリスト教では、魚は特別な存在であり、題材からいってそちらの可能性もあるのだが、キリスト教徒の少ない日本においてはそうした解釈は真偽に限らず有効性を持たない。先の解釈の方が良いだろう。

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2019年12月18日 (水)

美術回廊(45) 京都国立近代美術館 「円山応挙から近代京都画壇へ」

2019年12月12日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で、「円山応挙から近代京都画壇へ」という展覧会を観る。
円山派の祖としてその名を残す円山応挙(1733-1795)。京都の四条通に面した家に住んでおり、弟子の多くも四条通沿いに居を構え、弟子の呉春は応挙の写実性と与謝蕪村の瀟洒さを兼ね備えた四条派を起こしている。

この展覧会ではまず応挙が最晩年に手掛けた大乗寺の障壁画が並んでいる。兵庫県の日本海側、美方郡香美(かみ)町にある大乗寺。円山応挙の名は全国に鳴り響いており、大乗寺もその名声を耳にして応挙とその弟子達に障壁画を依頼している。現在では大乗寺は「応挙寺」の別名でも知られているという。

円山応挙が描いた大乗寺の障壁画。まずは、「松に孔雀図」である。円山応挙は四条河原の見世物小屋で孔雀を見て惚れ込み、孔雀の絵を何枚も描いているが、これがおそらく応挙最後の孔雀絵である。細部まで極めて丁寧に描き込まれており、写実を得意とした応挙の真骨頂が発揮されてる。角になる部分に松を配して、松ヶ枝が降りかかってくるよう錯覚させる工夫がなされていることも、江戸時代の芸術らしい計算が感じられる。

孔雀は阿弥陀如来の乗り物であり、孔雀が描かれた襖を開けると、奥に大乗寺の阿弥陀如来像が現れる仕掛けとなっている。

呉春が描いた「巖上孔雀図」も展示されているが、肩の部分の盛り上がりなど、応挙に比べると立体感を重視しているように見受けられる。

相国寺が所蔵する円山応挙の「牡丹孔雀図」は可憐であり、極楽浄土の縮景として孔雀が描かれているかのようである。隣には岸駒(がんく)の「孔雀図」も展示されており、岸駒の孔雀も緻密な描写であるが、目の部分などはグロテスクさを隠さないほど写実的であり、特に極楽的なものを盛り込む意思が岸駒にはなかったと思われる。

円山応挙はありとあらゆるものを描いており、その点においては東の葛飾北斎と並ぶ西の雄であったと思われるのだが、躍動感や構図を重視する北斎に比べ、応挙は細部に至るまでの徹底した観察と描写を重視しており、同じものを様々な構図から描いているが、基本的には静物画指向である。その点において、応挙の方が北斎よりも西洋絵画に近いといえる。
「応挙漫画」ともいえる「写生図鑑」は、「それそのもの」を描くことのお手本である。

円山派・四条派の写実の力はとにかく傑出したものがあり、「どうやったらここまでリアルに描くことが出来るのか」と呆れてしまうほどである。この点においては現代の画家の筆致が稚拙に思われるほどであるが、映像が溢れている時代に往時のような描写力で勝負しようと思っても余り意味がない。ある意味、円山応挙とその弟子達が追い求めた絵画の世界は理想郷ではあったが、今となっては遠い場所となっている。上村松園は、応挙の世界を「理想的」と讃えていたが、その世界を再現する意志はなかったと思われる。

忠臣蔵の季節ということもあって、円山応挙による「大石良雄図」も展示されている。「おおいしよしお」と読むようである。「お軽と勘平」のお軽とのやり取りの場面である。この図を源琦が模写したものが並んでいる。着物が透けているというリアルな描写を応挙は行っているのだが、源琦はそれを更によくわかるよう再現している。

写実的な静物画を描いていた円山応挙であるが、「保津川図」では、水の流れが見えるような動的な描写を行っている。寛政7年(1795)応挙最後の年の作品である。動的な描写を旨とした江戸の絵画に影響を受けたのかどうかはわからないが、応挙もまた最後はダイナミズムと躍動感に溢れる絵画へと行き着いたということだろうか。動くはずのない絵の中に、あたかも動画と錯覚させるような流れを盛り込む技法。西洋絵画の影響を受けた応挙が、その西洋画壇を驚嘆させることになる日本画の系譜の中に、しっかりと入っていることが感じられる作品である。

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2019年12月 6日 (金)

2346月日(19) 「カルチャートーク Creator@Kamogawa」 第1部「場所の記憶」&第2部「ラ・長い息」 2019.11.30

2019年11月30日 荒神橋のゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川にて

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川で午後3時から「カルチャートーク Creator@Kamogawa」を聴くことする。
始まる前にゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川内にあるカフェ・ミュラーで食事。本格的な食事は2種類だけで、鳥料理のものを選ぶ。

 

ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川での「カルチャートーク Creator@Kamogawa」は1階のホール(ザール)での開催。ドイツの建築家・美術家であるミヒャエル・ヒルシュビヒラーと宗教人類学者の植島啓司の対談による第1部「場所の記憶」と、ドイツの美術家であるレニ・ホフマンと美術家の今井祝雄(いまい・のりお)との対談である第2部「ラ・長い息」の二本立てである。いずれも司会進行役は小崎哲哉が務める。イヤホン付きの機械を使うことで日独同時通訳音声を聞くことが出来る。

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第1部「場所の記憶」。ミヒャエル・ヒルシュビヒラーは、1983年生まれ。哲学と建築をベルリンとチューリッヒで学び、現在はミュンヘンとチューリッヒを拠点に美術と建築の境界領域で活動。パプアニューギニアでの調査や教育活動も行っている。

ヒルシュビヒラーは、「ナラティブな考古学」と称した調査探索をパプアニューギニアで行っており、パプアニューギニアに伝わる怪談話や口語伝承を現地の人から聞き取っているそうである。
また、アゼルバイジャンの首都バクーの油田では、石油を使って絵を描き、組み上げポンプの音を録音して音楽を作るという試みも行っている。実は、石油を使って絵を描いている時に、立ち入り禁止のところに入ってしまって逮捕されたこともあるそうだ。
石油で描いた絵をギャラリー内に再現するということも行っているそうだが、これらをアゼルバイジャンの外に持ち出すのは許可がいり、下りていないため、ヨーロッパでの再現はまだ果たされていないそうである。おそらくバクー市内のギャラリーでの再現に留まっているのだろう。

一方の植島啓司は、1947年東京生まれ。東京大学と同大学院博士課程修了。ニューヨーク・ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授などを歴任し、現在は京都造形芸術大学空間演出デザイン学科教授を務めている。熊野の民俗学や聖地の研究などを行っている。

植島は「聖地は自然発生的に出来るもので、個人が聖地を作り出すことは出来ない」と主張しており、全く反対の考え方をしている荒川修作と共に聖地調査を行ったこともあるそうだ。
植島は、世界的な聖地としてアルメニアに注目しているという。アルメニアのアララト山は、エデンの園のモデルとなったところだそうで、またアルメニア国内にはノアの箱舟伝説の最初期の形態が残っているという。
熊野に伝わる小栗判官の話などもする。地獄に落とされた小栗判官が蘇るという物語だが、このように非業の死を遂げた人を神様として祀るという習慣が日本にはある。京都での例として北野天満宮が挙げられていたが、京都にはそれ以外にも上御霊神社、下御霊神社、白峯神宮、崇道神社など、怨霊を神様として味方にするという風習がある。これは世界的に見ても珍しい習慣であることは間違いない。小崎によると、他の国では地獄に落ちた人が罰せられるという救いのない話になることが多いそうだ。ヒルシュビヒラーによると、パプアニューギニアにもそんな話はないそうである。パプアニューギニアに伝わるナラティブには、例えば、母親が留守の時に父親が息子を殺してバラバラにし、庭に撒くと草木や花が生えてきて、戻ってきた母親がそれを見て喜ぶという、論理も倫理道徳もない不思議な話が多いそうである。

ヒルシュビヒラーも、「個人で聖地を作ることは出来ない」という植島の意見には賛成するが、「聖地から影響を受けて新たなものを作り出すことは可能」という考えを持っているそうだ。京都に来て、様々な妖怪の話や怪談を集めて回っているが、文学からのアプローチでは、まず日本の古典を読むことを始めたそうで、上田秋成の『雨月物語』を読むことにした。それもドイツ語訳されたものではなく、日本語の文章をGoogle翻訳機にかけたもので読もうとしたそうだが、翻訳機能がまだ正確ではないので、わけのわからないものになったそうだ。ただその滅茶苦茶さが面白いという。これはパプアニューギニアで採取した物語のわけのわからなさにも繋がっているのだろう。
京都について、ヒルシュビヒラーは、「古いものと新しいものがこれほど渾然一体となっている都市は世界中を探しても存在しない」ということで、京都という場所の歴史的重層性を芸術作品にしようと、妖怪が描かれた絵巻物を、幽霊が出るという噂のあるトンネルの中に置き、一晩寝かせた状態のものを作品とするという試みなどを紹介する。トンネルというのは近年になってから出来たもので、絵巻物の上にはタイヤの跡などがついているが、自動車も古くからあったものではない。時代の異なるものが合わさったものを重層性のある芸術作品として捉えるというあり方である。

植島は曼荼羅が土地の代わりになるという日本の考え方を紹介する。これもある意味、土地が芸術作品を生み出す例と見ることも出来る。また記号の中に物語が展開される例があるとして、中央オーストラリアのワルビリ族のイコノグラフィーを紹介する。不思議な絵のようなものが並んでいるが、全てに意味があるそうで、見て感じる物語のようなものとなっているようである。また、蛇の物語が最初に置かれているのだが、この蛇の物語は世界中の至る所で見られるそうで、例としてメソポタミアの英雄マルドゥクと大地の精霊ティアマトの絵が資料に印刷されていたが、考えてみればエデンの園の物語で悪役となっているのは蛇であり、日本でも箸墓伝説など蛇が重要な役割を果たすものは枚挙にいとまがない。

あるいは、聖なる意識というものは人類の奥底で繋がっていて、それが特別な場所や手段を経て、人類の意識上において再結合するものなのかも知れない。

 

第2部「ラ・長い息」。タイトルは、レニ・ホフマンが決めたそうだが、ドイツ語で「LA LANGER」という語感で決めたそうである。レニ・ホフマンは、自らを「アナーキスト」と語っており、前衛芸術を生み出す人であるようだ。

レニ・ホフマンは、1962年生まれ。デュッセルドルフとカールスルーエを拠点に、サイトスペシフィック(場所に帰属する芸術)な創作活動を行っているそうである。2002年よりカールスルーエ芸術アカデミーの教授を務めている。レニ・ホフマンの芸術を捉えるには「パンク」や「遊び」が重要なワードとなるようだ。

対談相手の今井祝雄は、1946年生まれ。1965年に吉原治良が率いる具体美術協会の最年少会員となる。その後、大津市にある成安造形大学教授を経て現在は同大学の名誉教授の称号を得ている。
具体美術協会では、展覧会に出展する作品などは全て吉原治良が選定していたそうだが、評価に関しては「ええで」か「あかん」の二つだけだったそうで、「ええで」と言われた時はいいが、「あかん」と言われたときは理由がわからず、悶々とすることもあったという。自分が教育者や選定者として活動する立場となった時は、流石に「ええで」と「あかん」の二つで決めるというわけにはいかず、駄目なときでもその理由を説明するようにはしているそうである。
吉原には、「これまでにないものを作れ」と何度も言われたそうで、それが作家としての指針となってきたようだ。ただ小崎によると現代芸術は新しいものを求める一方で、その根拠や歴史的な文脈を求めるところがあるそうで、真逆のことをやらねばならない難しさがあるようである。

レニ・ホフマンは、サイトスペシフィックとはいうが、デジタルな思考として「昨日」「今日」「明日」が一度に見えるような作品を指向するなど、重層性ということに関してはヒルシュビヒラーと繋がる部分があるように感じられる。
レニ・ホフマンの芸術観は、日本の観念だと「無常」と相性が良く、その日、その場所、その人でなければ味わえないアートを理想としているようである。第2部開始前に聴衆全員に粘土をこねたボールが配られたが、粘土は誰でも手軽に形を変えることの出来る芸術という意味があるようだった。私も色々と押しつぶして形を変えてみた。結局のところありきたりの形にしかならなかったわけだが。他の人も色々と試していたが、飛び抜けて創造的な作品を作ることは難しいようだった。

ある意味、「個」としての体験を重要な芸術感覚と捉えているようで、第2部終了後、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川の裏庭に設けられたレニの作品を皆で鑑賞したのだが、様々な角度を向いたミラーに人々が映り込むことで、1回きりの芸術体験が出来るようなものであった。1回きりではあるがそれは瞬間瞬間においてはということで、形を変え続ける作品をずっと見続けることは出来る。ただ、写真とは相性は悪く、私もスマホで何枚か撮影したが、「写真には写らない美しさがある」作品だと確認した。

レニは芸術の幅を広げることを重要視してるようだが、今井によるとメンターの問題として美術系芸術系大学が増えて、売り出し方までも教えるようになった結果、アカデミズムから抜け出ることが難しくなっているという。
都市芸術にも話は及ぶ。都市芸術というと、私などは名古屋市立美術館で観たハイレッド・センター(高松次郎、赤瀬川源平、中西夏彦による前衛芸術グループ。東京の路上で過激なパフォーマンスを行うことで都市における芸術を提唱した)を思い浮かべるが、今井も御堂筋の3階建てのビルの最上階のネオンを使った都市芸術作品を作ったことがあるそうである。レニも都市は市民にとって重要な表現の場という考えを抱いているようであった。

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