カテゴリー「梅田芸術劇場メインホール」の18件の記事

2022年9月24日 (土)

観劇感想精選(446) 日本初演30周年記念公演 ミュージカル「ミス・サイゴン」@梅田芸術劇場メインホール 2022.9.15

2022年9月15日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ミス・サイゴン」を観る。日本でもたびたび上演される大ヒットミュージカルである。ロングランのため複数人がキャストに名を連ねており、今日の出演は、伊礼彼方(エンジニア)、高畑充希(キム)、チョ・サンウン(クリス)、上原理生(ジョン)、松原凜子(エレン)、神田恭兵(トゥイ)、青山郁代(ジジ)、藤元萬瑠(タム)ほかとなっている。

プッチーニの歌劇「蝶々夫人」の舞台をベトナム戦争とその直後に置き換えて制作されたミュージカル。作曲は、「レ・ミゼラブル」のクロード=ミシェル・シェーンベルクである。クロード=ミシェル・シェーンベルクは、「蝶々夫人」の旋律を生かしており、「ここぞ」という場面では、「蝶々夫人」の旋律が効果的にアレンジされた上で奏でられる。またベトナムが主舞台ということで、東南アジア風の旋律も要所要所で登場する。どことなくラヴェル風でもある。

ベトナム最大の都市にして、南ベトナムの主都であったサイゴン市(現ホーチミン市)。戦災により家を失い、サイゴンへと逃げてきたキムは、女衒のエンジニアの後について、売春宿にやってくる。キムは米兵のクリスに買われて一夜を共にするが、それがキムの初体験だった。二人は愛し合い、結婚式を挙げるが、アメリカの傀儡国家であった南ベトナム(ベトナム共和国)の首都であるサイゴンが陥落し、米国の敗北が決定的になったことから、米兵であったクリスはサンゴンを後にしてアメリカへと戻る。その間にキムは、クリスの子である男の子を生んでいた。


有名作であるが、私は「ミス・サイゴン」を観るのは初めて。プッチーニの音楽を大胆に取り入れた音楽構成と、ベトナムの風習や衣装を生かし「蝶々夫人」では日本人以外は納得しにくかったラストを改変するなどしたストーリーが魅力で、「蝶々夫人」を観たことがない人でも楽しめる作品になっている。
「蝶々夫人」のラストは、日本人以外には納得しにくいもののようである。台本を担当したジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカ、原作小説を書いたジョン・ルーサー・ロングとそれを戯曲化したデーヴィッド・ベラコス、更にはプッチーニも日本的な美意識を理解していたということになるが、「自決の美学」は西洋人にはピンとこない事柄であるようだ(そもそも西洋人の大半がキリスト教の信者であり、キリスト教では自殺は罪とされている)。そこで蝶々夫人にあたるキムを積極的にわが子に命を与える女性に設定し、死ぬことで子どもの未来を開いた女性の「自己犠牲」を描いた悲劇となっている。ただ日本人である私は、この改変に対しては「合理的」に過ぎるという印象を受け、良くも悪くも「死」でもって何かと決着をつけようとする日本的な美意識の方により引き付けられる。ただ日本人の美意識もたびたびの転換を迎えており、日本人であっても「蝶々夫人」のラストの意味が分からない人が大半になる日が来るのかも知れない。そしてそれは第二次大戦時の残酷さを思えば、必ずしも悪いことではないのだろう。

私自身は、高畑充希が演じるキムが見たかったので、この日を選んだが、童顔系でありながらパワフルな歌唱を聞かせる高畑充希は、キム役に合っていたように思う。何度も上演されているミュージカルなので、そのうちにまた高畑充希以外のキムで聴くのもいいだろう。今日は視覚・聴覚(歌詞が聞き取れない部分がいくつもあった)両面で問題のある席だったので、別の席で観る必要も感じた。今回のプロジェクトで再び観る気はないが、次回以降のプロジェクトでも観てみたくなる作品であった。

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2021年4月25日 (日)

観劇感想精選(393) ミュージカル「シラノ」

2009年6月3日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後7時から、梅田芸術劇場メインホールでミュージカル「シラノ」を観る。エドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」のミュージカル化。台本・作詞:レスリー・ブリカッス、テキスト日本語訳:松岡和子、作曲:フランク・ワイルドホーン、演出:山田和也。
タイトルロールを演じるのは鹿賀丈史。出演は他に、朝海ひかる、中河内雅貴、戸井勝海、光枝明彦、鈴木綜馬等。

まず、レスリー・ブリカッスの台本だが、エドモン・ロスタンの本になるべく忠実に、ミュージカル用にセリフを縮めていた。ミュージカルだけに歌の部分の時間が長くなり、ロスタンの本をそのままやったら上演時間3時間には収まらないはずだが、不自然さが感じられない程度に圧縮していた。優れた台本だといっていいだろう。クリスチャン(中河内雅貴)とロクサーヌ(朝海ひかる)のバルコニー上における二人だけの場面の歌詞はどうするのだろうかと思っていたが、二人同時に歌うということで処理していた。ここは私だったら歌詞は同じものにしてロクサーヌの後にクリスチャンの歌を入れてカノンとしてやると思う。別に私が作家ではないので私の見解などどうでもよいのだが、一意見として書いておく。

ワイルドホーンの音楽はチャーミングだ。難を言うなら、修道院の場面でのロクサーヌの独唱がドラマティック過ぎること。場面に合っていないように思う。


鹿賀丈史の落ち着いた演技は安心して観ていられる。脇も充実。ロクサーヌを演じる朝海ひかるは歌声がアルトに近いメゾ・ソプラノで(宝塚では男役だった)、ロクサーヌの可憐さには合っていないように思うが、傷にはなっていないし、修道院の場面では落ち着いたメゾ・ソプラノの方がいいとも考えられる。

おなじみ山田和也の演出はオーソドックスで、セットの使い方なども目新しさこそないがツボを押さえた確かなものであった。

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2020年11月15日 (日)

観劇感想精選(367) 維新派 「ナツノトビラ」

2006年7月14日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

梅田芸術劇場メインホール(旧・梅田コマ劇場)で、維新派の「ナツノトビラ」を観る。構成・演出:松本雄吉、音楽:内橋和久。

維新派は、「ヂャンヂャン☆オペラ」という独特の歌唱と動きによる演劇(パフォーマンスと言った方が近いかも知れない)を確立した大阪の劇団で、セリフは全くと言っていいほど用いられず、歌詞はあるが、そのほとんどは意味が剥奪されており、ストーリー展開よりもパフォーマーの動きと声が織りなす雰囲気で魅せる団体だ。

「ナツノトビラ」は、夏休みの間、テレビばかり見ていた少女が、ふと思い立って昨年亡くなった弟の墓参りに出かけ、そこで数々の幻影を目にするという作品である。筋だけ書くとありきたりのようだが、ストーリーよりもその場その場の雰囲気作りで勝負する劇団なので、実際に観てみると個性溢れる構成に魅せられることになる。

巨大な直方体がステージ上に並ぶ。外面はシンプルだが、どうやら高層ビル群を表しているらしい。そして、そのミニチュア版が墓碑として現れる。墓碑は小さなビル群であり、高層ビル群は巨大な墓碑のようだ。

影絵の男が、建設現場で働いているのが見える(袖から舞台奥に向かって光りを送ることで作り出される演者の影絵は、この場面だけではなく、全編に渡り効果的に用いられている)。

レッサーパンダの帽子(衣装は全て白を基調としており、帽子も白いため、実際はレッサーパンダには見えないのだが)をかぶったランドセルの少年が通りかかった婦人を次々に包丁で刺していく。東京・上野で起こった通り魔殺人事件と、頻発する少年犯罪のメタファーだ。

巨大ビル群が築かれていく繁栄の影で、そうした奇妙な犯罪が起こる要素もまた築かれていたということなのだろうか。

世界貿易センターに突っ込んだ2機の飛行機のモデルを手にした少年、カラシニコフを手にした少年達、北朝鮮のミサイルを思わせる筒を持った少年など、テロリストを連想させる人々が登場するが、それらが単純で直線的なメッセージに回収されることはない。少女の「日常」には含まれていないが、世界にはそうしたものが存在するということだけを示しており、いたずらにメッセージ性や物語性を持たせないのが却って良い。

音楽は単純な動機の繰り返しだが、一時、ミニマルミュージックが隆盛を極めたように、反復される音楽は実に心地良く、それだけで十分ステージに引き込まれる。

魅力溢れるイリュージョンであり、演出も音楽も優れているが、「そろそろ終わりかな?」という場面になっても、また続きが始まってしまうということが度々あったためか、上演時間がやや長く感じた。

維新派は普段は野外に巨大な特設劇場を設けて公演を行っている。今日の劇も、もし野外で行われていたら祝祭性も加わって、より神秘的に見えたことだろう。ただそういった、悪く言えば「誤魔化し」がなくても、幻想的で特殊な舞台の味わいは十分に伝わってきた。

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2020年11月 3日 (火)

観劇感想精選(363) ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」再演

2020年10月30日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後5時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を観る。「リトル・ダンサー」という邦題で公開されたイギリス映画をエルトン・ジョンの音楽でミュージカル化した作品で、日本では2017年に初演され、今回は再演となり、今日が大阪公演初日である。

「リトル・ダンサー(原題「Billy Eliot」)」は、2000年に公開された、スティーヴン・ダルドリー監督の映画で、私もDVDで観ているが、かなりの好編に仕上がっていた。
スティーヴン・ダルドリー監督は元々は舞台演出家として活躍していた人であり、ミュージカル版でも演出を担当。イギリスを代表するミュージシャンのエルトン・ジョンの作曲ということもあって、高い評価を受けているが、こうして実際に観てみると、映画とは別物として評価すべきであるように感じる。感銘の度合いは映画の方が上である。舞台演出家であったスティーヴン・ダルドリーがまずは「映画として撮るべき」と判断したのであるから、それは間違いないだろう。舞台にしてしまうとどうしても背景が分かりにくくなってしまう。ミュージカル版は妙技を堪能する作品だ。

主演のビリー・エリオット少年役はクワトロキャスト(4人)であり、今日は川口調がタイトルロールを務める。他の役もダブルキャストで、今回はお父さん(ジャッキー・エリオット)役が益岡徹、ウィルキンソン先生役が柚希礼音、おばあちゃん役が根岸季衣、トニー(兄)役が中河内雅貴、ジョージ役が星智也、オールド・ビリー(成人後のビリー)役が大貫勇輔となっている。

梅田芸術劇場メインホールの新型コロナ対策であるが、運営元である阪急グループ独自の追跡サービスが導入されているのが特徴である。おそらく宝塚歌劇などでも用いられていると思われる。

 

英国病といわれた時代の北部イングランドの炭鉱の町・エヴァリントンが舞台ということで、英語の訛りが日本版では筑豊炭田や三池炭坑で知られる福岡県の言葉に置き換えられている。

下手からビリー・エリオット役の川口調が登場し、しゃがむと同時に紗幕に映像が映し出される。第二次大戦で英国がナチス・ドイツに勝利し、炭鉱も国営化されるということで更なる発展が英国にもたらされるはず……、というところで事態が暗転する。紗幕に映し出されたのはマーガレット・サッチャーだ。長期政権(1979-1990)を敷き、今でも20世紀後半の英国の首相というと真っ先に顔や名前が思い浮かぶマーガレット・サッチャー。高福祉社会の副産物ともいえる英国病克服のため新自由主義の先駆ともいえる政策を次々に打ち出し、労働者階級から目の敵にされた政治家である。サッチャーによって炭鉱は民営化され、ただでさえ斜陽の産業であったため多くの炭坑夫が苦境に立たされることになるのだが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」はそんな時代(1984年)の話である。

サッチャーの政策に反対し、エヴァリントンの炭坑夫達がストライキに入る。リーダー的存在のジャッキー・エリオットの息子で、11歳のビリー・エリオット(劇中で1つ年を取る)は、ボクシングを習っていたのだが、ボクシング教室が終わった後、同じ場所で開かれることになったバレエ教室を目にする。早くに母親を亡くしたビリー。ジャッキーも「ビリーに強くなって欲しい」との思いからボクシングを習わせたのだが、何しろ保守的な田舎町、男は男らしくあるべしという思想が根強く、「バレエなどをやる男はオカマだ」という偏見に満ちており、ビリーも知らず知らずのうちにそうした考えに染まっている。ウィルキンソン先生からバレエに興味があるかどうか聞かれたビリーも最初は否定したが、その後、父親には内緒でレッスンを受け、バレエに惹かれていく。
ウィルキンソン先生から才能を見込まれたビリーは、「ロンドンのロイヤル・バレエ・スクールを受験してみないか」と誘われる。だが当然ながら父親は反対。一度はバレエダンサーへの夢は絶たれたかに見えたのだが……。

伏線としてビリーの友人であるマイケルが実はトランスジェンダー(でいいのかどうかは正確にはわからない。LGBTのうちのGBTのどれかである)であるという設定がある。作曲を担当したエルトン・ジョンも男性と結婚したことで知られているため、そうした問題にも軽くではあるが触れられている。ただ、それは主題ではなく、重要なのは「らしさとは何か」ということであると思われる。

ダンスだけでなく、セリフやアクロバットをこなす子役の実力にまず感心する。日本初演時には千人を超える応募があり、その中から勝ち抜いた子ども達がビリー役を得ているが、今回も高倍率のオーディションを潜り抜けた子達であり、身体能力も表現力も並みの子役ではない。

チャイコフスキーの「白鳥の湖」より“情景”(「白鳥の湖」と聴いて誰もが真っ先に思い浮かべる音楽)をオールド・ビリー役の大貫勇輔を二人で踊る(デュエット)シーンがダンスとしては最大の見せ場であるが、ワイヤーアクションも鮮やかにこなしていた。

イギリスは階級社会であるが、そのことが最もはっきりと現れているのが、ロイヤル・バレエ・スクール受験のシーンである。エリオット親子以外はみな上流階級に属しており、日本版ではそれを表すために「ざます」言葉が用いられている。上流階級と労働者階級では当然ながら考え方が根本から異なるわけで、それが揉め事に繋がったりもする。
現代の日本は階級社会でこそないが、「上級国民」という言葉が話題になったり、格差や学歴の固定化などが問題視されるようになっており、イギリスのような社会へといつ変貌するかわからないという状況である。そもそも日本とイギリスは島国の先進国としてよく比較される存在である(イギリスも日本も先進国なのか今では怪しいが)。
「総中流」といわれた日本であるが、今では非正規社員が約4割を占め、ついこの間までの常識が通用しないようになっている。それを考えれば、このミュージカルを単なるサクセスストーリーと見るわけにはいかないだろう。そこには明確にして冷徹な視座も含まれている。

同じくイギリスの炭鉱町を描いた映画に「ブラス!」という作品(1996年制作)があり、これはバレエではなく音楽を題材にしているが、主題は同じである。ロードショー時に有楽町の映画館(今はなき銀座シネ・ラ・セット)で観て感銘を受けたが、「ビリー・エリオット ~リトル・ダンサー~」を気に入った人はこの映画も観て欲しい。

毀誉褒貶激しかったサッチャーの政策だが、その後のイギリスが辿った道を冷静に見つめてみると、少なくとも「正しかった」とは言えないように思う。サッチャーが残した爪痕は今もイギリスだけでなく、世界各国で見ることが出来る。無論、日本も例外ではない。

なんだが、黒沢清監督の「トウキョウソナタ」も観てみたくなった。

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2018年5月11日 (金)

観劇感想精選(244) ミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」2018大阪

2018年5月4日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後7時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「リトル・ナイト・ミュージック」を観る。「ウエストサイド・ストーリー」や「スウィーニー・トッド」などの名作ミュージカルを手掛けたスティーヴン・ソンドハイムの最高傑作とされる作品の日本初上演である。作曲・作詞:スティーヴン・ソンドハイム、脚本:ヒュー・ホィーラー、翻訳・作詞:高橋知伽江、演出:マリア・フリードマン、振付:ティム・ジャクソン。音楽監督・指揮:小林恵子。出演:大竹しのぶ、風間杜夫、安蘭ケイ、栗原英雄、蓮佛美沙子、ウエンツ瑛士、木野花、安崎求、トミタ栞、瀬戸たかの(瀬戸カトリーヌ改め)。リーベリーダー(アンサンブルキャスト):彩橋みゆ、飯野めぐみ、家塚敦子、中山昇、ひのあらた。

19世紀のスウェーデンが舞台。本作はスウェーデン映画の巨匠であるイングマール・ベルイマン監督の映画「夏の夜は三度微笑む」に着想を得た作品で、1973年に初演。トニー賞7部門、グラミー賞2部門を獲得している。これほど評価の高いミュージカルがなぜ日本で上演されなかったかはナンバーを聴けばすぐにわかる。完成度は恐ろしく高いが難度もそれ以上に高い。ミュージカル初挑戦となる風間杜夫の最初のナンバーは、なんとレチタティーヴォ調。ただでさえ難しいのにレチタティーヴォに不向きな日本語で歌うのはほぼ不可能。ということで、風間杜夫は音程もリズムも外しまくっていた。元々歌はそれほど得意ではないのだと思われるが、初挑戦のミュージカルが本作というのは酷である。

朗読や朗読劇への出演はあるものの、本格的なミュージカルに挑戦するのは初となるのが、風間杜夫演じる弁護士のフレデリック・エイガマンの幼妻・アン役の蓮佛美沙子。蓮佛美沙子は現在27歳だが、アンは18歳ということで10歳ほど下の女性を演じることになる。「若さ」と「幼さ」の表現に長け、かなり高めの音が要求される歌もこなしていた。ただ、魅力が十分に出ていたかというとそうでもないように思う。

リーベリーダーという役割を与えられている5人は、いずれも歌唱力が高い。年中ミュージカルで出ているような気がする飯野めぐみを始め、歌第一で取られた人達なのだから当然ともいえるが、歌に関しては有名キャストを上回っていたようにも思える。
ストーリーはリーベリーダーがワルツのリズムに乗って登場するところから始まるのだが、このミュージカルはとにかく3拍子系の楽曲が多い。全体のおそらく9割前後が3拍子系の楽曲で占められている。舞踏のリズムである3拍子系が多用されていることには勿論、意味がある。作品自体がエンドレスワルツ的狂騒を描いたお話なのである。

ストーリーであるが、第一幕を観ている時はとにかく退屈に感じられる。第一の理由は私の年齢にある。この手の話を気楽に観られるほど若くはないが、切実に感じるほどには年を取っていない。
第1幕を見終えて、本気で「もう帰ろうか」と思ったが、今後が面白くなりそうな予感もあり、第2幕の予定上演時間は約55分と短めであったため続けて観ていくことにする。

第2幕では、フレデリックの息子のヘンリック(ヘンリック・イプセンにちなんだ名前であることが暗示される場面がある。演じるのはウエンツ瑛士)、アン、カールマグナス伯爵(栗原英雄)と妻のシャーロット(安蘭けい)、舞台女優のデジレ(大竹しのぶ)などが入り乱れた恋の話になる。盲目状態の愛が繰り広げられ、人間という存在が根本に持つ愚かしさとそれゆえの愛おしさが照射されていく。

悲惨な状況であるにも関わらず滑稽という場面が第2幕には登場する。ヘンリックが縊死しようとする場面や、フレデリックの「不思議だ。庭のベンチに腰掛けて休んでいたら、人生が終わってしまった」というセリフは、悲劇性を伴っているはずだが妙に可笑しく、客席が笑いで沸く。フレデリックのこのセリフをこれほどリアルに語れる俳優は風間杜夫をおいて他にいないはずで、歌唱力の不足を補って余りある配役といえるだろう。

この感想は時間の関係で当日には書かず、翌日、翌々日に書いたものなのだが、時間が経てば経つほどこの作品に対する愛着は強くなっている。そういう作品はこれまでに何度か観たことがある。
すぐにわかることなど、その程度のものでしかないということなのかも知れない。

終演後にアフタートークがあり、ウエンツ瑛士と安蘭けいが参加する。司会を置かず、ウエンツがリードする形で二人が自由に喋るというスタイルである。ウエンツは「みんな僕を馬鹿にする」としてふさぎの虫に取り憑かれているヘンリックを、安蘭けいは頭が空っぽの夫にうんざりしているシャーロットをそれぞれ好演していた。ともにミュージカル経験が豊富だけに、この難しい作品と役を手の内に入れていた印象を受ける。
途中、カールマグナス伯爵役の栗原英雄とアン役の蓮佛美沙子が舞台を上手から下手へと横切っていった。

今回は、演出がマリア・フリードマン、振付がティム・ジャクソンということで稽古は全て英語による指示で行われたのだが、ウエンツ瑛士と瀬戸たかの(安蘭けいはまだ「カトリーヌちゃん」と呼んでいるようだ)というハーフが二人おり、いかにも英語が出来そうな雰囲気を持つもの、実は二人とも英語でのコミュニケーションは一切出来ないということで苦労があったようである。ウエンツは、義母でありながら恋心を寄せているアン役の蓮佛美沙子と二人一組になることが多かったのだが、蓮佛美沙子は英語が得意で、マリアの指示を大体理解することが出来るため、横にいるウエンツにも「通訳が言わなくてもわかるよね」と暗に示されることが多く、ウエンツもさも分かったような振りをせざる得ず、稽古が終わった後でマリアに「あれ、なんて言ってたの?」と聞きに行く羽目になったそうだ。
安蘭けいによると、マリア・フリードマンは「リトル・ナイト・ミュージック」に女優として出演した経験があり、マリアが演じたことのあるシャーロットとペトラ(今回は瀬戸たかのが演じた)には思い入れが強いようで、指示も細かかったそうである。

なお、デジレの娘、フレデリカ(演じるのはトミタ栞)の名はフレデリックの女性形なのだが、フレデリカがフレデリックとデジレの間に出来た娘なのかどうかについては答えが書かれていないという。フレデリカの父親がフレデリックなのかどうか、ウエンツが客席に拍手の大きさでアンケートを取る。今日のお客さんは、フレデリックとフレデリカは親子だと考えている人が比較的多いようだった。



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2018年2月10日 (土)

観劇感想精選(231) 中谷美紀&井上芳雄 「黒蜥蜴」

2018年2月1日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇
午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、「黒蜥蜴」を観る。原作:江戸川乱歩、戯曲:三島由紀夫、演出:デヴィッド・ルヴォー。出演は、中谷美紀、井上芳雄、相良樹(さがら・いつき)、朝海(あさみ)ひかる。たかお鷹、成河(ソンハ)ほか。

明智小五郎シリーズの一つである「黒蜥蜴」。耽美的傾向の強い江戸川乱歩の小説を、これまた耽美的傾向の強い三島由紀夫が戯曲化した作品の上演である。
歌舞伎の影響を受けたというデヴィッド・ルヴォー。今回も冒頭で移動するドアを戸板のように用いたり、船のシーンでの波の描写をアンサンブルキャスト数人が棒を手にすることで表現したりと、歌舞伎の影響が見られる。

まずは大阪・中之島のKホテルのスイートルームを舞台とするシーンでスタート。日本一の宝石商・岩瀬庄兵衛(たかお鷹)の東京の自宅に、「娘を誘拐する」という脅迫状が毎日のように届く。そこで岩瀬の娘の早苗(相良樹)は、Kホテルに匿われていた。岩瀬家の昔なじみである緑川夫人(中谷美紀)もたまたまKホテルに泊まっている。更に岩瀬庄兵衛は娘の警護として日本一の名探偵である明智小五郎(井上芳雄)を雇っており、ガードは鉄壁に思えた。だが緑川夫人の正体は女賊・黒蜥蜴であり、黒蜥蜴は部下の雨宮潤一(成河)を用いて、まんまと早苗を誘拐することに成功。だが明智は緑川夫人の正体が黒蜥蜴であることを見破っており、早苗を奪還。だが、明智も黒蜥蜴も互いが互いに惹かれるものを感じていた。敵にして恋人という倒錯世界が始まる……。

まずは圧倒的な存在感を示した中谷美紀に賛辞を。例えば井上芳雄の演技については、「井上芳雄が明智小五郎を支えている」で間違いないのだが、中谷美紀は、「中谷美紀が黒蜥蜴を支えると同時に黒蜥蜴が中谷美紀を支えている」という状態であり、観る者の想像を絶する強靱な演技体が眼前に現れる。どこまでが役の力でどこまでが俳優の力なのかわからないという純然たる存在。それはあたかも「黒蜥蜴」という作品そのもののようであり、余にも稀なる舞台俳優としての才能を中谷美紀は発揮してみせた。

「黒蜥蜴」には三島由紀夫らしいアンビバレントな展開がある。共に犯罪にロマンティシズムを見いだし、憎しみ合いながら同時に愛し合う明智と黒蜥蜴。黒蜥蜴は明智への愛情を感じながら、人を愛した黒蜥蜴自身を憎み、黒蜥蜴を抹殺するべく明智を殺そうとする。明智は犯罪者としての黒蜥蜴は憎悪しているが、一人の女性としての黒蜥蜴の内面を「本物の宝石」と呼ぶほど高く評価していた。明智から見れば宝石で儲ける岩瀬は俗物であり、真の美を極めようとしている黒蜥蜴には聖性が宿っているのであろう。

長椅子の中に潜んだ明智(乱歩の小説「人間椅子」を彷彿とさせる)と、黒蜥蜴のやり取りの場面は秀逸であり、愛とエロスの淫靡で清らかな奔流が観る者を巻き込んでいく。

黒蜥蜴の、人間の心に対する不信感と外観に対する賛美、女性の外見は好きだが内面には興味がないという、倒錯的な愛着に由来する迷宮的世界が上手く描かれていたように思う。

飄々としていながら同時に理知的な明智小五郎像を生み出した井上芳雄は流石の好演。可憐な令嬢を演じた相良樹と、黒蜥蜴に対する愛情と憎悪を併せ持つ雨宮潤一役の成河の演技も光っていた。

こうした耽美派傾向の文学作品は慶應義塾大学文学部の「三田文学」を根城にしている。私が出た明治大学文学部は早稲田大学文学部同様、自然主義文学と親和性があり、慶大文学部とは対立関係にある、というほどではないかも知れないが、少なくとも明大文学部では耽美派の作家を卒業論文の題材に選ぶことは歓迎されていない。というわけで私も耽美的な作品は余り好まないのだが、この作品は高く評価出来る。

 

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2017年6月18日 (日)

観劇感想精選(219) ミュージカル「王家の紋章」2017大阪

2017年5月24日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇
 

午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「王家の紋章」を観る。細川智栄子あんど芙~みんによる同名少女アニメのミュージカル化。原作マンガは1976年に連載開始で、現在も連載中という、41年の歴史を誇るロングヒット作である。エジプトで考古学を学ぶアメリカ人の少女・キャロルと古代エジプトの王・メンフィスとのロマンが描かれる。
脚本・作詞・演出は、荻田浩一。作曲・編曲は、シルヴェスター・リーヴァイ。音楽監督:鎮西めぐみ。東宝の製作。
出演は、浦井健治、新妻聖子、平方元基(ひらかた・げんき)、伊礼彼方(いれい・かなた)、愛加あゆ、出雲綾、矢田悠祐、木暮真一郎、濱田めぐみ、山口祐一郎ほか。

古代エジプトが舞台の上に、日本人役の人がいないということもあり、説明ゼリフが多用される。現代日本と地続きの作品ではないので、説明がないとわからないのだ(例えば姉弟で夫婦というのは古代エジプト王朝ではごくごく当たり前だが、現代日本ではありえないので、王の姉であるアイシスがメンフィス王に恋しているということは第三者によって仄めかされる)。傍白や、録音を用いた心情吐露のセリフも比較的多めである。


まず古代エジプト人達によるデモストレーションがあり、本編に入る。考古学を学ぶためにエジプトに留学しているアメリカ人少女のキャロル(新妻聖子)が、兄のライアン(伊礼彼方)と電話をしている。ライアンはリード・コンツェルンの総帥であり、キャロルがエジプトに留学出来ているのもリード家に生まれたおかげだ。キャロルは新たに発掘されたメンフィス王の墓の見学が叶ったことをライアンに告げる。
だが、メンフィス王の棺内に備えられていた花束を見たキャロルは、「古代のロマンス!」とばかりにその花束に手を伸ばし、それが王墓を犯した罪と古代エジプト人達(アイシスら)の霊に見なされ、断罪のために古代にタイムスリップさせられてしまう。妹の失踪を知ったライアンは動揺する。

古代エジプト。メンフィス王(浦井健治)がまさに即位したところだ。メンフィスはエジプト全体の王と上エジプトの王を兼ね、下エジプトを治めるのはメンフィスの異母姉のアイシス(濱田めぐみ)。彼女は祭礼の長でもある。エジプトの宰相を務めるのは賢人・イムホテプ(山口祐一郎)。
ヒッタイトからの来賓としてメンフィスの即位式に参加したミタムン(愛加あゆ)は、ヒッタイトの王女である自分がメンフィスと結ばれることで、ヒッタイトが繁栄することを夢見ている。

ナイルの川岸で失神しているところを奴隷の青年に保護されたキャロルは、金髪であるため異国人であると見抜かれる。異国人であるとわかったら処罰されるかも知れないということで、マントをかぶって出歩くようキャロルは注意される。
だが、やがてメンフィス王と巡り会ったキャロルは、古代エジプト人がまだ持っていない知識(水の濾過や鉄の知識、解毒の方法)などを駆使し、伝説として伝わるナイルの神が生んだ金色に輝く少女「ナイルの少女」として崇められるようになる。しかし、キャロルは歴史を変えてしまうことに罪悪感を抱いており……。

世界史上、初めて鉄器の鋳造に成功したといわれるヒッタイトと、エジプトの闘争のドラマでもある。キャロルは己一人が原因となって戦争が起ころうとしていることにも苦しむ。

「俺様」を絵に描いたようなメンフィスと、現代からタイムスリップしたキャロルの時代を超えたロマンスであり、客席には当然ながら女性の姿が多い。私もいくらシルヴェスター・リーヴァイが作曲した作品だからといっても、新妻聖子が出演していなかったら観に行ってはいない。ちなみにキャロルはWキャストで、新妻聖子の他に元AKB48の宮澤佐江が出演している。宮澤佐江のキャロルだったら、観に行っていないはずである。

新妻聖子もそこそこいい年なのであるが、喋り方が少女のそれであり、流石の演技力を見せている。なぜ、そうした演技が出来るのかというと、「頭が良い」からという身も蓋もない結論になるのだが、更に書くと、おそらくであるが、二十歳前後の知り合い(何人もいるはずである)の喋り方を観察して参考にしているのだと思われる。新妻聖子は頭で組み立てて考えるタイプの女優である。

新妻聖子の他にも、浦井健治、濱田めぐみ、山口祐一郎といった各世代の日本ミュージカル界のエースを注ぎ込んでいるため、演技や歌唱は文句なしに楽しめる。単純にエンターテインメントとしても充実した作品である。


えーっと、ところで、歴史を変えることになんのためらいも恥じらいも感じない方々がいらっしゃるようで。

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2017年3月24日 (金)

観劇感想精選(207) ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」2017大阪

2017年3月1日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後6時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」を観る。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をフランス人のジェラール・プレスギュルヴィックがミュージカル化したもの。潤色・演出は宝塚歌劇団の小池修一郎。宝塚歌劇でも上演されたことがあるようだが、今回は新演出での上演である。音楽監督は太田健。
出演は主役クラスはWキャストで、今日の出演は、古川雄大、生田絵梨花(乃木坂46)、馬場徹、小野賢章(おの・けんしょう)、渡辺大輔、大貫勇輔。レギュラー出演者は、香寿たつき、シルビア・グラブ、坂元健児、阿部裕(あべ・ゆたか)、秋園美緒、川久保拓司、岸祐二、岡幸二郎ほか。ダンサーが多数出演し、華やかな舞台となる。

このミュージカルは、「死」と名付けられたバレエダンサー(大貫勇輔)の舞踏で始まる。背後の紗幕には爆撃機と爆撃される街の映像が投影される。
「死」は常にというわけではないが、舞台上にいて出演者達に目を配っている。ロミオ(古川雄大)が失望する場面が合計3度あるのだが、その時はロミオと一緒になって踊る。ロミオに毒薬を手渡すのも「死」の役目だ。
今日は出演しない「死」役のもう一人のバレエダンサーは、連続ドラマ「IQ246」にも出演して知名度を上げた宮尾俊太郎で、宮尾が舞う日のチケットは全て完売である。

イタリア・ヴェローナ。時代は現代に置き換えられており、登場人物達はスマートフォン(セリフではケータイと呼ばれる)や動画サイトを使っている。舞台は観念上のヴェローナのようで、実際のヴェローナにはない摩天楼が建ち並び、BOXを三段に重ねたセットが用いられる。
ヴェローナを二分するモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギュー家は青地に龍の旗をはためかせ、モンタギューの一党も青系の衣装で統一されている。一方、赤字にライオンの旗をトレードマークとするキャピュレットの一族は赤系の服装だ。
モンタギューとキャピュレットの間では争いが絶えない。特にキャピュレット家のティボルト(渡辺大輔)と、モンタギュー家のマーキューシオ(小野賢章)は不倶戴天の敵という間柄である。
ヴェローナ大公(岸祐二)が両家の仲裁に入り、「今度争った場合は刑に処す」と宣言する。

キャピュレット卿(岡幸二郎)とキャピュレット夫人(香寿たつき)は、娘のジュリエット(生田絵梨花)をパリス伯爵(川久保拓司)に嫁がせようとしていた。ロミオにいわせるとパリスは「いけ好かない成金」であるが、キャピュレット卿は借金があり、ジュリエットと結婚したあかつきには借金を肩代わりしてもいいとパリスは言っていた。
ジュリエットはこの物語では16歳という設定。本当の愛というものを知らないうちに親が決めた相手と結婚することに疑問を感じている。だが、キャピュレット夫人は、「自分は結婚に愛というものを感じたことなど一度もない」と断言する。キャピュレット夫人も親の言いなりでキャピュレット卿と結婚したのだが、夫に魅力は感じず、夫も女遊びに励んでいたので負けじと浮気を繰り返していた。
そしてキャピュレット夫人は、ジュリエットが不義の子だということを本人に告げる(このミュージカルオリジナルの設定である)。のちにキャピュレット卿は、ジュリエットが自分の子供ではないと気づき、3歳のジュリエットの首を絞めて殺そうとしたのだが、余りに可愛い、実の娘以上に可愛いので果たせなかったというモノローグを行う。

キャピュレット夫人(くわえ煙草の時が多い)は、甥のティボルトになぜ戦うのか聞く。ティボルトは、「人類はこれまでの歴史で、どこかでいつも戦ってきた」と人間の本能が戦いにあるのだという考えを示す。キャピュレット夫人は愛の方が重要だと主張するがティボルトは受け入れない。

一方、ヴェローナ1のモテ男であるロミオは、数多くの女を泣かせてきたが、今度こそ本当の恋人に会いたいと願っている。マーキューシオやベンヴォーリオに誘われて、キャピュレット家で行われた仮面舞踏会にロミオは忍び込む。パリス伯爵に絡まれていたジュリエットだが、ロミオと出会い、互いに一目惚れで恋に落ちる。だが、ロミオの正体がばれ、パリス伯爵との結婚が急かされるという結果になってしまう。

バルコニーでジュリエットが、「ロミオあなたはなんでそんな名前なの?」という有名なセリフを語る。ロミオがバルコニーに上ってきて、二人は再会を喜び、「薔薇は名前が違ってもその香りに変わりはない」というセリフを二人で語り上げる。

ティボルトもまた従妹であるジュリエットに恋していた。ティボルトも15歳で女を知り、それ以降は女に不自由していないというモテ男だったのだが、本命はジュリエットだった。日本の法律では従兄妹同士は結婚可能なのだが、キャピュレット家には従兄妹同士は結婚出来ないという決まりがあるらしい。
ティボルトはこれまで親の言うとおり生きてきたのだが、それに不満を持つようになってきている。ただ、自由に生きることにも抵抗を覚えていた。

一方、モンタギュー家のロミオ、ベンヴォーリオ、マーキューシオも大人達の言うがままにならない「自由」を求めており、自分達が主役の社会が到来することを願っていた。いつの時代にもある若者達の「既成の世界を変えたい」という希望も伝わってくる。

バルコニーでの別れの場。ジュリエットは父親から「18歳になるまではケータイを持ってはならない」と命令されており、ロミオと連絡を取る手段がない。ジュリエットはロミオに薔薇を手渡す。「明日になっても気が変わらなければ、この花を乳母(ジルビア・グラブ)に渡して」と言うジュリエット。ロミオは勿論心変わりをすることなく、訪ねてきた乳母に薔薇の花を返す。かくして二人はロレンス神父(坂元健児)の教会で結婚式を挙げる。フレンチ・ミュージカルであるため、フランス語で「愛」を意味する「Aimer(エメ)」という言葉がロミオとジュリエットが歌う歌詞に何度も出てくる。

二人の結婚の噂が流れ、街では、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」という「マクベス」のセリフを借りた歌が流れる。「顔は綺麗と思った女性でも」という意味である。

再びモンタギューとキャピュレットの諍いが起こる。マーキューシオがティボルトとの戦いに敗れて死に、その腹いせでロミオはティボルトを刺し殺してしまう。ヴェローナ大公はロミオにヴェローナからの永久追放を宣言するのだった。


常に人々を見下してきた「死」が、ラストになって敗れる。ロレンス神父がジュリエットに死んだようになる薬を手渡したことをロミオにメールするのだが、ロミオはケータイをなくしてしまっており、事実を知らないまま「死」から手にした毒薬で自殺し、それを知ったジュリエットも短剣で胸を突き刺して後を追う。ここまでは「死」のシナリオ通りだったのだが、ロミオとジュリエットの愛に心打たれたモンタギュー卿(阿部裕)がキャピュレット卿と和解。ロミオとジュリエットの名は後世まで残るものと讃えられる。ロミオとジュリエットの死が愛を生んだのだ。「死」は息絶える仕草をし、ここにおいて愛が死に勝ったのである。


楽曲はロック風やクラブミュージック調など、ノリの良いナンバーが比較的多く採用されている。拍子自体は4分の4拍子や4分の3拍子が多く、リズムが難しいということはない。
ベンヴォーリオがのぼせ上がったモンタギュー一族をなだめる場面があり(「ロミオとジュリエット」を翻案した「ウエスト・サイド・ストーリー」における“クール”の場面のようである)、これまたベンヴォーリオがマントヴァ(この劇では売春街という設定になっている)に追放されたロミオを思って一人語りをしたり伝令も兼ねたりと、ベンヴォーリオは原作以上に重要な役割を与えられている。


2013年のミュージカル「ロミオ&ジュリエット」でもロミオを演じた古川雄大は安定した歌と演技を披露する。
ジュリエットを演じた乃木坂46の生田絵梨花はミュージカル初挑戦であるが、実力はあるようで、すでにオーディションを突破しなければキャスティングされないミュージカル「レ・ミゼラブル」にコゼット役での出演が決定している。生田絵梨花はピアノが得意で日本クラシック音楽コンクール・ピアノ部門での入賞歴があり、現在は音楽大学に在学中。ということでソニー・クラシカルのベスト・クラシック100イメージキャラクターも務めていたりする。演技はやや過剰になる時もあるが、歌は上手いし、筋は良い。
ティボルト役の渡辺大輔とマーキューシオ役の小野賢章も存在感があって良かった。

カーテンコールは3度。最後は大貫勇輔が客席に向かって投げキッスを送りまくり、笑いが起こっていた。

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2017年3月 8日 (水)

観劇感想精選(204) ミュージカル「フランケンシュタイン」2017大阪

2017年2月2日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇
 
午後6時から、梅田芸術劇場メインホールで、ミュージカル「フランケンシュタイン」を観る。韓国で制作されたミュージカルの日本版である。潤色は中谷まゆみとのコンビで知られる板垣恭一。今日が大阪初日である。
ビクター・フランケンシュタイン&ジャックとアンリ・デュプレのちのフランケンシュタインの怪物はWキャストで、今日はビクターを中川晃教が、アンリ・デュプレを小西遼生が演じる。
原作:メアリー・シェリー、脚本&歌詞:ワン・ヨンボム、音楽:イ・ソンジュン、訳詞:森雪之丞、音楽監督:島健、潤色&演出:板垣恭一、振付:森川次郎&黒田育世。出演:中川晃教、小西遼生、音月桂、鈴木壮麻、相島一之、濱田めぐみ他。子役も出ていたが、ビクターの少年時代を演じてた少年(石橋陽彩)はえらく芸達者である。

今回は、主要キャストの全員が一人二役を演じる。


まず、ビクター・フランケンシュタイン(中川晃教)が怪物(小西遼生)を生み出そうとしているシーンから始まる。ビクターの姉であるエレン(濱田めぐみ)の「ビクター! やめて、あなたのしようとしていることは間違ってるわ!」と言う声と、執事のルンゲ(鈴木壮麻)の「坊ちゃま!」と呼ぶ声が聞こえる。怪物が目を覚ましたところで時は遡る。

ナポレオン戦争の最中。怪我人の手当をしていた優秀なフランス人医師であるアンリ・デュプレ(小西遼生)にビクターが話し掛ける。ビクターはアンリが何者か知っていた。
アンリは生物の再生と創造の可能性を探っていたのだが、諦めていた。それを知ってビクターは助手としてアンリを雇おうとしたのだ。ビクターも生物の再生方法を試していた。「人間はそのうちに滅びる」ので、遺体再生そして「生命そのものの創造」の手段を考えていたのだ。「命の創造を神はお許しにならない」とアンリは反対する。「あなたは神を信じないのですか?」というアンリに、ビクターは、「信じている。だが、神は至福ではなく呪いをもたらすものだ」と答える。生物の創造に反対していたアンリだが、ビクターの信念と希望を信じる心に惹かれ、助手となる。ビクターは著名人のようで、ウォルターという医学生の若者はビクターのファンである。

ビクターの幼なじみであるジュリア(音月桂)は、ビクターのことをずっと恋い慕っていた。ビクターがアンリを連れて留学から戻ってきた。ビクターとは今も両思いのはずだとジュリアは思っている。

しかし、ビクターに嫌がらせをする人達もいる。エレンはジュリアに「ビクターの呪い」について話す。ビクターの父親も医師であったが、妻(ビクターの母)をペストで亡くしていた。しかし、ビクターが母親を生き返らせたという話が広がる。ジュリアは幼い頃にビクターがジュリアの飼っていた犬を生き返らせ、自分が噛まれて怪我をしたことを思い出した。

ジュリアの父で町の名士であるステファン(相島一之)もビクターの才能を買っている。

人間を創造するのには、死んだばかりの人間の脳がいる。それが手に入らないことを悩んでいるビクター。執事のルンゲが「葬儀屋に行ってはどうか」と提案し、ビクターは「どうしてそれに気がつかなかったんだ!」と早速、ルンゲに手配を頼む。だが、葬儀屋はふざけた真似を行った。ビクターを慕っているウォルターを殺してその首を提供したのだ。激怒したビクターは葬儀屋を殴り殺してしまう。
ビクターの成功を信じているアンリは自分が身代わりとなって名乗り出て逮捕される。姉のエレンにアンリを実験道具にしたいのかと問われたビクターは、法廷で「自分がやった」と告白するが、ステファンがそれを妨害。かくしてアンリは断頭台の露と消えた。

しかし、ビクターはアンリを生き返らせようとする。「人間は愚かでテロや戦争をする。それを乗り越えるための創造を」
冒頭のシーンが繰り返され、アンリはフランケンシュタインの怪物として再生した。しかし、怪物はもはやアンリではなく、ビクターの言うことを聞かない。ルンゲを殺した怪物をビクターは狙撃するが、怪物は窓から飛び降りて逃げ出す。


3年後。ビクターとジュリアは結婚している。だが、ジュリアの父親で市長になっていたステファンが森で行方不明になったという報告があり、皆で捜索に向かう。そこでビクターの前に紳士の格好をした怪物が現れる。あたかも「嵐が丘」のヒースクリフのように。怪物は、これまでの「血と涙」の3年間を語り、「創造主よ。なぜ俺を生んだ」となじる(怪物はビクターを常に「創造主」と呼ぶ)。

3年前、怪物は、森で熊に襲われていたカトリーヌ(音月桂二役)を助けた。怪物は熊を返り討ちにした上に食べてしまったらしい。「熊、美味しい」と語る怪物。カトリーヌは闘技場で下女として働く貧しい女性。幼い頃に父親から性的虐待を受け、他人から唾を吐きかけられるなど蔑まれて生きてきた。人間が嫌いなカトリーヌは怪物に「北極に行きましょう。あなたが好きな熊もホッキョクグマがたくさんいるわ」と夢を語る。「誰からも傷つけられない国」へ行きたいと語り、怪物と踊るカトリーヌ。そこへ現れた闘技場の主の妻エヴァ(濱田めぐみ二役)は、怪物を見て、「怪物じゃない。金よ」と言う。闘技場に怪物を出して儲けようと考えたのだ。エヴァは怪物を牢に閉じ込め、邪険に扱う。

闘技場(COLISEUMと電飾がついている)の主であるジャック(中川晃教二役)は金貸しのフェルナンド(相島一之二役)に多額の借金をしている。フェルナンドは自分の部下であるチューバヤという屈強な青年に勝てる者がジャックの身内にいたら借金を帳消しにすると提案。エヴァもジャックも怪物を出そうとするが、フェルナンドも怪物の存在は知っており、カトリーヌに、「これを怪物に飲ませれば自由にしてやる」と薬を渡す。「生きる意味がない。生きていても辛いだけ」と考えているカトリーヌは、「それでも自分が必要とされる時が来るなら」と希望は捨てておらず、「自由にしてやる」という言葉を信じて怪物に薬を与えてしまう。

怪物はビクターに復讐心を抱いていた。「俺と同じ目に遭わせてやる」と。まず、ステファンが殺され、エレンが犯人に仕立て上げられる。そして妻のジュリアが……。


望んでいない怪物として蘇った男の悲哀は、不幸なカトリーヌの姿に繋がる。二人とも蔑まれた存在だ。だが、最初から蔑まれた存在だった訳ではない。蔑まれた存在は生み出されたのだ。人間によって。人間の「心」が差別や蔑まれる存在を生み出しているのである。社会から捨てられた者の悲哀と孤独。それは当事者だけでなく人間であることの悲しみであり、他者を隔てることで生まれた孤独である。
そして人間は生み出す。己のために己の信念を貫くために悲劇を、戦争やテロといった「怪物」を。己の正義は誰かを踏みにじることによって生きる。「正義」と「悪」はあたかも一人二役のように背中合わせの「怪物」だ。敵の死を願い、実行してしまう人間はフランケンシュタインの怪物よりもずっと凶暴な怪物なのである。
「神のご意思」というものがあるのかどうかはわからない。だが、信念といった美化されやすいものは、「許されざる領域」に安易に踏み込めてしまう。「生み出せる」という「奢り」は、生み出されるものの思いも生み出した結果も想像することすらない。

人間に出来る最高の救済はあるいは孤独の分かち合いなのだろか。
今日は3階席の上の方。いわゆる天井桟敷での鑑賞。オーケストラピットからの音の方が通りやすく、またスピーカーの関係で、歌詞が聞き取りにくいことがあったが、許容範囲ではある。
ミュージカルのトップスターの一人である中川晃教は歌も演技も圧倒的。存在感もある。小西遼生も優れた演技と歌を披露する。何度も上演に接している濱田めぐみも圧巻の出来。
元宝塚歌劇団男役トップの音月桂は、昨年、「十二夜」のヴァイオラとシザーリオ役で主演した舞台を観ているが、歌声を聴くのはこれが初めて。ジュリアとカトリーヌの演技のみでなく歌声の違いも聴かせるなど、実力の高さが窺える。
東京サンシャインボーイズ出身の相島一之だけは、ミュージカル畑の人でないため、歌は余り上手くなく、演技のスタイルも微妙に違うのだが、お得意の悪役では流石の演技を見せていた。


イ・ソンジュンの音楽は要所要所で3拍子の楽曲を用いるのだが特徴である。かなりの高音が要求される部分もあるのだが、出演者達は楽々クリアしていた。やはりトップスターはものが違う。

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2017年2月13日 (月)

観劇感想精選(201) 「シェイクスピア物語 ~真実の愛~」

2017年1月22日 梅田芸術劇場メインホールにて観劇

午後12時30分から、梅田芸術劇場メインホールで、「シェイクスピア物語 ~真実の愛~」を観る。昨年(2016年)が没後400年に当たったウィリアム・シェイクスピアが、「ロミオとジュリエット」や「十二夜」などを生み出す過程を描いたフィクションである。昨年暮れに東京で上演され、今日が大阪公演二日目にして楽日となる。上演台本:元生茂樹&福山桜子、演出:佐藤幹夫。出演は、上川隆也、観月ありさ、五関晃一、藤本隆宏、小川菜摘、秋野太作、十朱幸代ほか。

元々は観る予定はなかったのだが、「上川隆也がシェイクスピア役ならなんとかなるだろう。演技の勉強にもなるし(私は演じないけれど)」ということで、先日チケットを取ったのだ。
「真実の愛」という副題からも想像される通り、内容は通俗的である。正直、本当に上川隆也が主演だからなんとかなったという部分があるのは否めないだろう。

開演15分前から、赤いマントと頭巾を被った女性出演者達(アンサンブル陣)が客席に3人ほど現れて、「シェイクスピア物語」のチラシを配り始める(今日は客席にはチラシの束もアンケート用紙も置かれていなかった)。また黒頭巾に黒マントの男優がジャグリングをするなどして観客を楽しませる。

舞台は二段になっており、素の舞台より高いところに、上から見ると「八」の字の上が繋がった形になる細長い舞台が渡してある。上の繋がった部分に当たる、真ん中の舞台正面と平行になった場所はバルコニーという設定であり、背後にカーテンが閉めてあって奥が寝室ということになっている。バルコニーの上手下手両方に下の舞台へと下りる階段が伸びており、下手階段の横には木製の梯子も掛けてある。バルコニーの下の部分にはカーテンが閉まっており、ここが1階の入り口に見立てられて使われる。

風音が響き、雷鳴と電光が走ると、舞台上手下手両方から、赤い頭巾とマントの女優陣、黒い頭巾とマントの男優陣が、小学校の図工室などにあったような背もたれのない木組みの椅子を手に現れ、車座になって座る。丁度、椅子取りゲームが終わった時のような感じである。上の舞台の上手では女性がヴァイオリンを弾き、男性がスネアドラムを叩いている。この二人は全編に渡って音楽を担当する。スネアドラムは歌舞伎におけるツケのような効果を担うこともある。

音楽がグリーンスリーブスを主題にしたものに変わると、背後のカーテンが開き、ウィリアム・シェイクスピア(愛称の「ウィル」と呼ばれることが多い。演じるのは上川隆也)が、「書けない! 書けない!」と焦りながら登場。アンサンブルキャスト陣をかき分けて椅子の上に上がり、反時計回りに歩く。「お気に召すまま」にある、「この世は全て舞台。人は役者に過ぎぬ」というセリフが上川の口から語られるが、その後で、「役者は皆、自分の役を持っている。人は皆、自分の役割を全うせねばならない」というオリジナルの言葉が加わっている。「人生には物語が必要だ」として、シェイクスピアは何とかストーリーを捻りだそうとしている。舞台上手にあるテーブルに向かい、羽根ペンで何かを書こうとするが何も浮かんでこず、「書けない!」と自分に怒りをぶつける。

アンサンブルの出演陣は、シェイクスピアが生んだ名ゼリフの場面を演じ始める。「リチャード三世」の「馬をくれ! 馬をくれたら国をやろう!」、「ハムレット」の「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」。更に「ヘンリー四世」よりフォールスタッフのセリフ、「ハムレット」よりオフィーリアのセリフ、そして「十二夜」よりヴァイオラ(男装してシザーリオを名乗る)のセリフ。ヴァイオラに関しては他の出演者から説明が入る。

時は1593年、ロンドン。これまで数々の戯曲を手掛けていたシェイクスピアだが、スランプに陥って何も書けなくなってしまっている。タイトルは「イタリア紳士と海賊ドレイクの娘」に決まっているのだが、内容が出てこない。シェイクスピアはローズ座の劇場主であるヘンズロー(秋野太作)に、「物語は頭の中にある」と見得を切るシェイクスピアだったが、頭の中の物語を開ける鍵を今は持っていない。
一方で、彼が書いた「ソネット集」が巷で評判になっていた(シェイクスピアの「ソネット集」は彼の恋心と共に同性愛の告白とも取れる内容を含むことでも知られている)。

取り敢えず、居酒屋兼売春宿(娼婦達が、「あそこは硬く、頭は柔らかく。硬いは柔らかい、柔らかいは硬い」という「マクベス」の魔女達セリフの下ネタパロディを歌う場面がある)のバラ邸で、ヘンズローとシェイクスピアはオーディションを行うことにするが、応募してきた全員が、シェイクスピア以外の本から取ったセリフを言う上に、吃音(劇中では「どもり」という言葉が使われる)であったり、その時代にはないはずのラップを歌う人がいたりと滅茶苦茶である。シェイクスピアはラップを知らないため、「なんだあの股間を押さえてクネクネする動きは?」と言ったりする。
そして、シェイクスピアは、バルコニーの奥にダンカンという人物が現れるのを見る(この時のダンカンの出現は赤い光のみで表される)。だがヘンズローにはダンカンの姿は見えない。ダンカンはすでに故人なのだ。やがて、ダンカンの幽霊が現れる。ダンカンと名乗ってはいるが、それは芸名であり、実際は女性である。本名はオリヴィア。性別を偽って舞台に立ち続け、名優と賞賛されていた。ダンカンの元ネタは「ハムレット」の先王ハムレットである。

一騒動が起こる。カーテン座の座付き作家であるクリストファー・マーロウ(実在の人物である)に劇中で間抜けな貴族として描かれたエセックス伯爵(藤本隆宏)が部下と共にマーロウを成敗しに来たのだ。やり取りを聞いて埒があかないと判断したシェイクスピアは、「俺がクリストファー・マーロウだ」と嘘をついて何とかことを収めようとする。エセックス伯爵は、「芝居は真実の敵」というが、マーロウを騙るシェイクスピアは、「ならば、その真実とやらは現実の敵」と返す。
その後、本物のクリストファー・マーロウは殺され、その葬儀ではサミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」の合唱版である「アニュス・デイ」が流れた。

一方、貴族であるキュープレット家の令嬢であるヴァイオラ(観月ありさ)は、家同士が結婚を決める通例に疑問を持っており、「真実の愛」を求めていた。一方で、「舞台の上に女が立てない」ことに不満を抱いており(シェイクスピアの時代にはまだ女優はおらず、女性役は女形や少年が演じていた。オフィーリアやコーディリアといったヒロインが14歳前後という幼い設定なのは、少年が彼女達を演じていたということによるところも大きい)、トマス・ケントという偽名を用いて男装し、ローズ座のオーディションに参加(オーディションが終わった後でバラ邸に着いたが、シェイクスピアに特別に目の前で演技を行うことを認められる)。「ヴェローナの二紳士」のセリフを奏でて、シェイクスピアに絶賛される。トマス・ケントと名乗ったヴァイオラは、「キュープレット家の者」とだけ伝えて帰る。

トマスの才能に惚れ込んだシェイクスピアはキュープレット家までトマスに会いに行く。キュープレット家ではヴァイオラがリュートを奏でながら女性達と歌っていたが、シェイクスピアはヴァイオラとトマスが同一人物だと気がつかず、ヴァイオラに一目惚れしてしまう。ヴァイオラとシェイクスピアはバルコニーの上と下で出会う。これが「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンの元ネタになるという設定である。
シェイクスピアの第一印象をヴァイオラがバルコニーで一人語りする場面で、シェイクスピアを演じる上川隆也は舞台を下りて、最前列の前のスペースを上手から下手に向かい、身をかがめながら歩く。だが、ヴァイオラがシェイクスピアを「ハンサムで」と評したときに、上川演じるシェイクスピアがのぼせ上がって、客席の方を向きながら立ち上がってしまうという演出がなされており、笑いが起こる。

ダンカンの幽霊が現れ、シェイクスピアに「お前は真実の愛というものをまだ知らないだろう」と問う。シェイクスピアはすでに結婚しており、ストラットフォード・アポン・エイボンに妻がいたが、恋愛結婚ではなかったため、恋の感情を抱いたことはなかった。シェイクスピアはヴァイオラへの「苦しいが心地よい感情」こそが「真実の愛」だと悟る。そして自分の感情に素直になったことで後に「ロミオとジュリエット」となる物語が泉のように浮かんでくる。ジュリエットのキャピュレットという苗字はキュープレット家をもじったものである。

シェイクスピアは、トマス・ケントがヴァイオラだと気がつかないままヴァイオラへのラブレターを託す。元々、観劇が好きでシェイクスピアにも気があったヴァイオラだが、シェイクスピアの書いた、「あなたを夏の日に喩えましょう。いや、あなたの方が美しくて穏やかだ」という内容の恋文(シェイクスピアの「ソネット」からの引用である)に、一気に恋に落ちてしまう。

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の稽古が始まる。アドミラル座のスター俳優・ネッド(五関晃一)も加わり、体勢は万全だ。トマスはロミオ役を貰う。ロミオ役を貰ったトマス=ヴァイオラがバルコニーでロミオのセリフを読み、シェイクスピアが別の場所にいるという設定で(実際は、上川隆也は観月ありさのすぐ下にいる)ジュリエットのセリフを朗読するという逆転のシーンもある。


ヴァイオラに求婚した男がいる。他ならぬエセックス伯爵である。当時は家の取り決めは絶対。ヴァイオラの母親であるマーガレット(小川菜摘)はヴァイオラに無断で求婚を受け入れてしまう。

ヴァイオラは、エセックス伯爵からエリザベス女王(十朱幸代)の「吟味」を受けるように言われる。結婚に相応しい女性かどうかは女王陛下が決めるのだという。

トマスの正体がヴァイオラだとシェイクスピアにばれる日が来た。キュープレット家の下僕であるアダムが告白してしまったのだ。そしてヴァイオラがエセックス伯爵と婚約しており、アメリカのヴァージニアに渡る予定だということも知る。シェイクスピアはヴァイオラの下女に化けて(顔に白頭巾を被る)、ヴァイオラと共に宮廷に向かい、ヴァイオラとエリザベス女王との謁見に立ち会う。

エリザベスに謁見したヴァイオラ。ヴァイオラが劇場でよく見かける娘だと気づいたエリザベスは、演劇の話を二人で始める。エリザベスは、「戯作者の書くことにまことの愛など出てこない。全て絵空事」と言うが、ヴァイオラは、「真実の愛を描ける詩人が一人だけいます。シェイクスピアです」と意見した。

ローズ座が女を雇っているという噂が出回る。女優というものが認められていない時代であり、舞台上に女を立たせたとあれば重罪である。もはや隠しきれないと悟ったヴァイオラは自分が本当は女であると告白し、ロミオ役を降りることになる……。


よく知られているとおり、シェイクスピアの時代には、戯曲を書くという行為はオリジナルの物語を生むことではなく、有名な物語をいかに膨らませて脚色するかという作業であった。「ロミオとジュリエット」も「十二夜」も元からあったお話をシェイクスピアが潤色したものであり、一から生み出したとするのは史実的には正しくない。ただ、これはあくまでもエンターテインメントであり、史実を語るのは野暮だろう。
「言葉、言葉、言葉」というシェイクスピアを評する比較的知られた言葉が劇中にも登場するが、シェイクスピアの弱点ともされる「語りすぎ」の部分を真似た、修飾語だらけのワンセンテンスの長いセリフも登場する。

演技は下手だったとされるシェイクスピアがカーテン座でロミオを演じることになり、ヴァイオラがジュリエットとして出演というのも無理はあるのだが、物語を膨らませるためには必要でもある。シェイクスピアとヴァイオラが別れを悟るシーン、「ロミオとジュリエット」のバルコニーでの別れのセリフをそのまま二重映しで交わすのも、冷静に見れば「なんだこのバカップルは?」であるが、絵になっている。並の俳優同士だったら客席から笑いが起こってしまうかも知れないが、そうならないのが二人の実力を物語っている。


上川隆也の演技は、最初のうちは珍しく板に馴染んでいないように思えたのだが、これは意図的なもので、「真実の愛」を知った後でギアが変わり、ロミオを演じる場面で更にという仕掛けである。演技の質だけでなく、発せられる「気」が変わるのも興味深い。観月ありさも上川と同じ意図の演技を行う。上川ほど上手くいかないのは舞台経験の差であり、比較しなければ観月の演技も上出来である。ロミオを演じて以降の上川とジュリエットを演じてからの観月がやはり一番、格好良かった。

エリザベス女王が「機械仕掛けの神」の役割を担っているのも演劇の歴史を考えれば納得のいく話である。

大きな問題があるとすれば、「名家」を常に「めいけ」と読んでいたこと。「名家」は基本的には「めいか」としか読まない。IMEでも「めいけ」では「名家」と変換されないはずである。基本的にはと書いたのは、「名家」と書いて「めいけ」と読む場合が例外的にあるためである。公家の階級を表す「名家」だ。公家の階級は上から摂家、清華(せいが)家、大臣家、羽林(うりん)家と来て、次に来る名家は「めいけ」と読む場合があるのである。公家の名家には、親鸞聖人や日野富子を生んだ日野氏が含まれている。


終演後はオールスタンディングオベーション。私は「立つほどではないな」と思ったのだが、舞台が見えなくなったので立つだけは立つ。上川隆也の挨拶。「2017年1月21日に幕を開けたこの大阪での舞台も、今日、1月22日に無事、千秋楽を迎えることが出来ました。これもひとえに我々の努力の賜物です」とボケた後で、「皆様のご支援のお陰です」と再度挨拶する。上川はセリフならいくらでも喋れるがフリートークは苦手というタイプなので、「他の出演者の皆さんにご挨拶頂きましょう」と話を振っていた。

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