カテゴリー「宗教」の5件の記事

2020年10月23日 (金)

コンサートの記(663) 能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」ソーシャルディスタンス対応公演@よこすか芸術劇場

2020年10月18日 横須賀・汐入の横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場にて

午後2時から、京急汐入駅前にある横須賀芸術劇場内よこすか芸術劇場で、能「隅田川」×オペラ「カーリュー・リヴァー」連続上演「幻(GEN)」を観る。世阿弥の息子である観世元雅の作による狂女ものの有名作「隅田川」と、20世紀のイギリスを代表する作曲家、ベンジャミン・ブリテンが「隅田川」を東京で鑑賞した時にインスパイアを受けて書かれた作品「カーリュー・リヴァー」(台本:ウィリアム・プルーマー)の連続上演である。「カーリュー・リヴァー」は最初はオペラと定義されず、「教会上演用の寓話劇」と題してサフォーク州オーフォードの聖バーソロミュー教会という小さな教会で初演されたが、現在ではオペラとして歌劇場で上演されるようになっている。2014年に大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウスで、山下一史の指揮、井原広樹の演出で観ているが、それ以来、久しぶりの再会となる。

能「隅田川」は、映像や歌舞伎版(南座にて坂田藤十郎の狂女)では観ているのだが、劇場で観るのは初めてとなる。

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よこすか芸術劇場の感染症対策であるが、まず横須賀芸術劇場が入っているベイスクエアよこすかの3階入り口からは1階席前方の席を取った客が入場し、それ以外の客はベイスクエアよこすか4階から入ることで分散を図る。チケットの半券は自分でもぎって箱に入れ、パンフレットも自分で取る。サーモカメラによる検温も行う。
そもそも「幻(GEN)」はチケット発売時に通常の形で売り出したが、それをいったん全て払い戻しとし、客席前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応公演として再度チケットを発売して行われている。
終演後は、混雑を避けるために時差退場が行われた。

 

能「隅田川」の出演は、観世喜正(シテ・狂女)、観世和歌(子方・梅和若丸)、森常好(ワキ・渡し守)、舘田善博(ワキツレ・旅人)。笛:竹市学、小鼓:飯田清一、大鼓:亀井広忠。演出は観世喜正が行う。観世喜正は2005年からよこすか芸術劇場で「よこすか能」をプロデュースしているそうである。「よこすか能」は蝋燭を使った演出が特徴だそうで、今回も巨大蝋燭数本に小型の蝋燭数百本が灯される中での上演である。日本語字幕付き。

武蔵国と下総国の国境を流れる隅田川。現在とは水路も異なるが、川幅も今の2倍ほどはあった巨大な川である。後に荒川放水路が出来て川幅は狭くなっている。
国境ということで(江戸時代中期以降には二つの国に跨がることが由来である「両国」の東岸が栄えるようになり、後に隅田川以東の葛飾は武蔵国に編入されることになる)、あの世とこの世の境、つまり三途の川にも見立てられている。
とにかく川幅が広いため、渡るのも容易ではない。また坂東の川はよく荒れる。ということで渡し守も何度も川を渡ることはままならず、客を溜めてから渡すことにする。旅人が現れ、渡し守と子細を話す。丁度1年、商人に連れられて来た少年が隅田川を渡ったところで病死した。商人は少年を見捨てて行ってしまったという。今日はそれから1年目ということで供養のための大念仏が唱えられているという。
そこへ、狂女がやって来る。京・北白川に住まいしていた女であり、我が子がさらわれたため、追って東国までやって来たのだ。
隅田川で詠まれた歌として知られる、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥 我が思ふ人はありやなしやと」が効果的に用いられ、狂女がただの狂女ではなく、元は教養溢れる人物であったことが偲ばれ、一層の哀感を誘う。

船の上で渡し守が1年前に亡くなった少年のことを語り、狂女がそれが自分の息子だと徐々に気付く。狂女役の観世喜正は、少しずつ少しずつ体を時計回りに回転させ、そのことを表現する。

少年を埋葬した塚の前で念仏が唱えられ、狂女もそれに加わるのだが、突然、念仏に子どもの声が混じり、少年の幽霊が現れる。

少年の幽霊を登場させることに、観世元雅の父親である世阿弥が大反対したという話が残っているが、子方を出すと生々しくなるというのがその理由の一つだと思われる。幽玄さも後退するだろう。だが、この能の本質が「哀感」であるとしたのなら、子方を出した方が狂女の悲しみへの共感はより強まるだろう。目の前に見えているのに触れることも叶わずに訪れる別れ。それこそが「隅田川」を傑作へと昇華しているのだと思われる。
狂女を演じる観世喜正の動きは抑制されたものであったが、それゆえにその心情が惻々と伝わってきた。語らざる雄弁であり、動かざるダイナミズムである。

 

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ブリテンのオペラ「カーリュー・リヴァー」。日本語字幕付きの上演であるが、タイトルには「キリスト教会上演用の寓話劇」と記されており、舞台に教会のステンドグラスが映されるなど、キリスト教的要素の濃い上演となる。「隅田川」に念仏を唱えるシーンがあるため、よりクッキリと対比を付けたいという意図もあるのかも知れない。

演出は彌勒忠史。小編成のオーケストラのための作品で、指揮者を置かないというのがブリテンの指示である。ただ、今回、オルガンと音楽監督を務めるのが鈴木優人というのが最大の売りであり、鈴木優人だけが客席に背中を向けての演奏し、またそのキャリアから事実上の指揮者であることは明白である。演奏は鈴木の他に、上野星矢(うえの・せいや。フルート)、根本めぐみ(ホルン)、中村翔太郎(ヴィオラ)、吉田秀(よしだ・しゅう。コントラバス)、高野麗音(たかの・れいね。ハープ)、野本洋介(パーカッション)。邦楽器を模した音型が登場するのが特徴である。
出演は、鈴木准(狂女)、与那城敬(渡し守)、坂下忠弘(旅人)、町田櫂(霊の声。ボーイソプラノ。横須賀芸術劇場少年少女合唱団員)、加藤宏隆(修道院長)。巡礼者役(合唱)として、金沢青児、小沼俊太郎、吉田宏、寺田穰二、寺西一真、山本将生、奥秋大樹、西久保孝弘が出演する。

 

「カーリュー・リヴァー」も大型蝋燭2本に火を灯しての上演となる。
まず、「隅田川」でも鳴り物を務めた、竹市学、飯田清一、亀井広忠の3人が登場し、邦楽の演奏を行う。その後、修道僧が登場し、オペラ「カーリュー・リヴァー」が始まるのだが、いかにもキリスト教的な賛美歌風合唱から始まるため、かなりの落差が感じられる。

ブリテンとプルーマーは、亡くなった子を「聖人」としており、そのことからして「隅田川」とはかなり趣が異なる。
出演者達は、口元を布で隠し、頭巾を被っている。大谷刑部こと大谷吉継のようだが、これはコロナ対策であると同時に、宗教的な雰囲気を出す役割も担っていると思われる。

カウンターテナーでもある彌勒忠史は、観世喜正と2018年まで数年に渡って、市川海老蔵の「源氏物語」で共演してきたそうで、能の要素を取り入れた演出となっている。元々はもっと能の型を全面に取り入れるはずだったのだが、コロナの影響で少しシンプルになったようだ。だが、狂女が、さらわれてきた子が我が子だと気付く場面で、「隅田川」の観世喜正と完全に同じゆっくりとした振り返りを取り入れており、能との連続上演ということで、違う作品に同じ動きを取り入れることで却って明らかになる差違を示していく。

「隅田川」では現れるだけだった少年が、「カーリュー・リヴァー」ではキリスト教的な救済を述べる。ブリテンもプルーマーも「隅田川」的哀感ではやはり救いがないと思ったのだろうか。「隅田川」も、日本的「哀れ」を描いた作品であり、他国の人に完全に伝わるかどうかは疑問である。また宗教観の違いもあり、有名な「悲しむ者は幸いである」をメッセージとして入れるべきだと感じたのかも知れない。なによりこれは救済のための「寓話」として再現された「隅田川」である。

鈴木優人を音楽監督とする演奏者達は、邦楽からの置き換えを上手く表現しつつ、高雅な響きを紡ぎ上げる。独唱者も合唱も充実しており、ブリテンの叡智と才気を十全に表現していた。

両作品とも、突如として響き渡る子どもの声が効果的に用いられている(「カーリュー・リヴァー」では舞台奥の紗幕の後ろに少年の姿が浮かび上がる)。それは突然の啓示のようでもあり、闇の中に不意に差し込んできた光のようでもある。金曜日に小林研一郎指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で聴いた、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲のオルガンにもそうした要素があるが、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により、未来が全く見えない今現在、求められている救いにも似たものである。
もののわかった振りをした山師的な人々が現れては消えているが、そうした打算的なものとは違った本当の恩寵が、フィクションの世界の中とはいえもたらされていることが、あるいは救いなのかも知れない。

フィクションとは絵空事ではなく、人類の歴史が凝縮されたものである。これまで人類に降りかかってきた数々の悲劇が、そこには詰め込まれているが、にも関わらず人類は今も存在して歩みを続けている。それは希望に他ならない。

 

 

上演終了後、どぶ板通りを歩いてみる。コロナの影響からか、あるいは日曜の夜だからかはわからないが閉まっている店も多い。
一昔前に比べるとアメリカ系の店舗は減ったといわれているが、それでも迷彩服姿の米兵が何人も歩いているなど、日本離れした光景が広がっている。
舗道には横須賀ゆかりの有名人の手形が押してあり、指揮者の飯森範親(鎌倉生まれの葉山育ちだが、横須賀市内にある神奈川県立追浜高校出身)と横須賀市出身のヴァイオリニストである徳永二男(元NHK交響楽団コンサートマスター)の手形が並んでいた。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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2020年7月17日 (金)

美術回廊(53) 京都文化博物館 特別展「祇園祭 京都の夏を彩る祭礼」

2020年7月17日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「祇園祭 京都の夏を彩る祭礼」を観る。

新型コロナウイルスの影響で、山鉾巡航など大がかりなものは中止となってしまった今年の祇園祭。密にならない小規模なものは行われているが、それも毎日ではない。祇園囃子も録音されたものが四条通に流れているのは例年通りだが、生音を聴くことはない。
「動く美術館」といわれる山鉾巡航であるが、今年は 動くどころか建てることすら不可である。
そんな「動く美術館」をずっと静止した形で展示しているのが今回の展覧会である。

 

入場者を確認出来るようにするため、入る前に氏名等の記入が必要となる。

 

山鉾の前懸(その名の通り前に懸ける布)や胴懸の展示がまずある。「日本の祭り」というイメージの強い祇園祭であるが、実際は西洋画なども用いられている。ギリシャの「イーリアス」などの絵で、江戸時代ものである。京都人はよく「進取の気質に富む」といわれるが、こうしたところにそれが窺える。保守的であったら自分達の祭りに西洋の絵を用いようとは思わないだろう。

勿論、舶来のものだけでなく、和の要素も重要視される。安芸・宮島の前懸(占出山)などがそうである。

 

京都の円山派・四条派などの礎を築いた円山応挙(1733-1795。家は四条通に面しており、今は石碑が建つ)が書いた絵を基に編み上げた刺繍の展示がある。保昌山のものである。
とにかく徹底した描写力を追求した円山応挙だが、刺繍の基になっている絵は江戸の絵師達の影響を受け、エネルギー放射量を重要視するようになってからの作品である。
刺繍になると描写力の精緻さは当然ながら後退するのだが(絵筆を使ったタッチの再現は出来ない)そこに登場する虎などの動物は立体感と毛皮のように見える視覚を伴い、よりリアルなものへと変わっている。刺繍にした方が生きる絵を選んだということでもあるだろう。見事な発想である。

 

祇園祭がどのように行われてきたのかという記録も展示されている。名所図会などに描かれた山鉾、そして町衆によって書かれた「入日記」と呼ばれる記録用の冊子を見ることが出来る。

 

山鉾を彩る彫像などの展示もあるが、極めて繊細にして精緻な仕上がりであり、こうしたものを作り上げる技巧の高さは想像の外にある。中学校の美術の時間に取り組んだ木彫りが酷いものにしかならなかった私の技量では、まずどこからどう取りかかればこうなるのかすら掴むことが出来ない。空間認知能力に秀でていることも重要だろうし、手先の器用さも必要なのはわかる。技巧面でわかるのはそこまでである。
ただ、日本が誇る宮大工の技術や、仏教美術の蓄積がこれらの製作に大いに貢献しているということは想像に難くない。天明年間に製作された八幡宮の祠の展示もあるが、ここに展示されているのとほぼ同じ技術によるものが、京都の神社や寺院で見ることが出来る。祇園祭は八坂神社の祭礼であり、八坂神社は明治に入るまでは、祇園社や祇園感神院と呼ばれた神仏習合社であり、神道と仏教の両方の美術が社や氏子達に受け継がれてきたことになる。いわば、美の発信拠点でもあったわけだ。
それを象徴するような欄干様の細工がある。八坂神社の神紋は「五瓜に唐花」と神道共通の「左三つ巴」であるが、その真ん中に仏教の法輪が入ったものである。

ちなみに八坂神社の神紋が五瓜という瓜系の紋なのは、祭神である牛頭天王が瓜を好んだという話に由来すると思われる。左京区にある瓜生山は、牛頭天王に捧げる瓜を栽培したことにちなむ地名である。牛頭天王が初めて京に降り立った場所は北白川東光寺とされているが、この北白川東光寺がどこにあったのかは現在では不明である。ただ北白川という地名はいにしえとは範囲が異なると思われるが残っており、北白川東光寺の跡地に建つと主張している岡崎神社(東天王)は北白川に比較的近い場所にあり、同じく北白川東光寺の有力後継社である八大神社(北天王)は瓜生山の麓にある。

 

明治時代以降の山鉾についての展示が最後にある。幸野楳嶺や今尾景年、竹内栖鳳ら絵師というよりも画家と呼ばれる時代の人々による伝統美を追求した作品が展示されている。

 

一番最後に展示されているのは、鈴木松年(すずき・しょうねん)の筆による「宇治川合戦屏風」。浄妙山の人形の姿の元となった合戦の場面を屏風にしたものでダイナミックな構図が印象的であり、勝ち運の山である浄妙山への祈念が込められているようにも見えた。

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2020年7月 5日 (日)

2346月日(22) 直七大学 横山紘一 「唯識入門講座」

2020年6月28日

直七大学のオンライン受講をハシゴ。まずは唯識研究の大家である横山紘一(よこやま・こういつ)による「唯識入門講座」。

横山紘一は、1940年生まれなので、齢80を迎える。東京大学農学部水産学科と同文学部印度哲学科を卒業したダブルディグリーであり、その後は東大大学院の博士課程まで印度哲学を専攻している。1997年には唯識の総本山的存在である興福寺で得度。唯識塾の塾長としても活躍している。
高齢なのでZoomには慣れておらず、もたつくところもあったが、講義自体は比較的順調に進んでいく。

今日は横山紘一の弟子が何人も視聴しており、普段とは雰囲気が異なる。
まず宗教は科学や哲学と異なるとした上で、仏教が宗教と見做されるようになったのは明治以降で、それ以前は仏道と呼ばれていたことなどを紹介する。

唯識は、識のみをよりどころとするのだが、心には色も形も大きさもなく、一切は錯覚であるとする。皆、人の姿を見ていると認識しているが、思い込みであり、識の中に作られたいわば影のようなものを実体と認識しているということである。

また学問をしたければ人からの又聞きや、他人による解説書ではなく原典に当たることの重要さも述べていた。確かに他者によって咀嚼されたものはわかりやすいが、核の部分が抜け落ちていたり、自己流のアレンジがなされていることは「ある」と思った方が適当である。「わかる」には己自身で向き合うことが何よりも重要である。他者に溺れてはならない。

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2020年6月28日 (日)

2346月日(21) 直七大学第84講「SDGsと仏教」

2020年5月31日

午後8時から、直七大学第84講「SDGsと仏教」をネット受講。SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)の先進順位において、京都市は日本の市町村の中で第1位に輝いており、京都市内の映画館ではそのことが京都市出身の漫才コンビであるブラックマヨネーズ出演のCMが予告編で流れて紹介されている。講師は浄土真宗本願寺派僧侶で、SDGsおてらネットワーク代表の西永亜紀子氏。冒頭は見ることが出来なかったため、自己紹介などは聞けなかったが、東京の築地本願寺所属だと思われる。

午後7時45分頃からパソコンの前で準備していたが、メールソフトのメール受信が遅いため、10分ほど遅れて参加することになる。メールソフトが頼りないのは知っていたので、事前にメールのダウンロード作業をしておくべきだったと思う。

最初は聞くだけにしようと思っていたのだが、ノートも取ることにする。

まず「エシカル」「エシカル消費」の紹介。自然環境や社会貢献に配慮した消費のことで、貢献を第一に考えて行われる。

バナナペーパーが紹介されたが、バナナの繊維を使用した紙であり、パルプを使用した普通の紙とは違って樹木を伐採しないため森林保護に役立ち、アフリカのザンビアではバナナペーパーが雇用の創出にも繋がっているという。

坂本龍一の、「買い物は投票行為だ」という言葉も紹介される。利便性などではなく環境第一という考えで購入するものを選ぶという意味で、自然や環境保護に以前から積極的だった坂本龍一らしい言葉である。西永氏も坂本龍一のファンであるようだ。

一般社団法人四方僧伽(サンガ)によるバングラデシュ難民のための仏陀バンクも紹介される。バングラデシュは国旗が日本に似ていることで有名だが、地の部分が緑であることから分かる通り、イスラム教の国である。ただ小さいながらも仏教を信仰している組織があるそうで、そこと協力して善意の融資を行い、返済はお布施という形で行われているそうである。

僧侶が作った新電力会社、TERA Enegyの紹介も行われる。再生可能エネルギーによる発電で、原子力によって発電されたものは用いない。電機代は一部がソーシャルグッド活動への寄付に回されるといった特徴があるようである。


レジ袋削減の問題。この4月からレジ袋有料化が始まっている店舗があり、私は東京ヤクルトスワローズのオフィシャルショップで購入したエコバッグをすでに愛用している。値段は1100円。有料レジ袋は1枚5円なので、元を取るには200回以上買い物に出掛けないといけなくなるが、7月1日からはコンビニでもレジ袋が有料化されるため、出番もかなり増えると思われる。ちなみにレジ袋が広まる前は、みんな風呂敷を下げるなどして買い物行っていた。「サザエさん」を見ると、サザエさんの時代には買い物かごを下げて買い物に出掛けるのが当たり前だったことがわかる。入れ物はこちら側で用意していたのだ。ただ新型コロナが流行ってからは、エコバッグにはコロナウィルスが付着する可能性が高いということでアメリカで使用禁止になるなど、逆行した動きも出始めている。


ジェンダーの問題。日本のジェンダーの先進度は、調査に協力した150ほどの国と地域の中で121位とかなりの下位。先進国の中では最下位である。仏教界でも女性の役割は、お茶くみ、掃除、雑用など、バブル期の一般職OL(お茶をくむことだけが仕事の「お茶くみOL」というものが実在した。今から振り返ると嘘のようだが)や現在の派遣社員の一部の仕事と同じようなものに限られており、また女性自身がそれを望む傾向にもあるという。

仏教の声明も男声の音程に合わせて行われるのが基本であるが、真宗興正寺派は次期門主が女性(真慶。俗名:華園沙弥香)になることが決定しているため、女声に合わせた声明も考案されようとしているようだ。

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