カテゴリー「デザイン」の8件の記事

2020年6月30日 (火)

美術回廊(49) 京都国立近代美術館 「チェコ・デザイン 100年の旅」&日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ポーランドの映画ポスター」

2020年6月25日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「チェコ・デザイン 100年の旅」と日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ポーランドの映画ポスター」展を観る。
いずれも5月10日に最終日を迎えるはずの展覧会だったのだが、コロナ禍による臨時閉館期間があったため、再開後、7月までに展示期間が延びている。

チェコは、音楽(ドヴォルザークやスメタナ)、文学(カフカやカレル・チャペック)といった芸術が知られるが、チェコのデザインに触れる機会は余りないので、興味深い展覧会である。

チェコのデザインに触れるのは初めてではなく、以前にチェコ製のテントウムシのマグネットを買ったことがあり、今も冷蔵庫に止まっている。

チェコ出身のデザインアーティストというと、アルフォンス・ミュシャがまず頭に浮かぶが、ミュシャの「Q」をモチーフにした作品も勿論展示されている。19世紀末から20世紀初頭には、チェコでもアールヌーボーなどの影響を受けた美術が流行ったが、椅子などは実用性を度外視してデザインを優先させたために使い勝手が悪いものも多かったようである。

その後、チェコでは「結晶」を理想とした直線美によるパターンを重ねたデザインが流行する。考えてみれば、「自然は直線を嫌う」(ウィリアム・ケント)といわれているものの、肉眼では見えない結晶は例外的に直線で形作られている。顕微鏡の発達によってもたらされた、ある意味ではこれまでの常識を覆す自然美の発見であったともいえる。

家具や食器はアールヌーボーの反動で、シンプルで実用的なものが好まれる時代になるが、ガラス細工が盛んな地域をドイツに占領されてしまったため、木材などを中心とした新たなデザインを生み出す必要性に迫られるようにもなる。これはそれまで軽視されてきた木材の長所の再発見にも繋がったようだ。

共産圏となったチェコスロバキアでは、国外に向けてのチェコやスロバキア美術プロパガンダのための高級感のあるデザイン品が輸出される一方で、国内向けには貧相なものしか作られないという乖離の時代を迎える。チェコ動乱の前はそれでもピンクやオレンジといった色を用いたポップなデザインのポスターなども制作されたが、それ以降は実用的ではあるが味気ないいわゆる共産圏的なデザインも増えてしまったようだ。チェコのデザインが復活するにはビロード革命を待つ必要があったようである。

アニメーションの展示もあり、短編アニメが何本か上映されている。言葉がわからなくても内容が把握可能なものだったが、東欧のアニメとしてどの程度の水準に入るものなのか一見しただけではわからない。

チェコの木製おもちゃの展示もある。テントウムシのマグネットにも通じる可愛らしくてぬくもりが感じられるもので、子どものみならずインテリアとしても喜ばれそうである。

 

「ポーランドの映画ポスター」。映画好きにはよく知られていると思われるが、ポーランド映画は完成度が高く、海外からの評価も上々で、「芸術大国ポーランド」の一翼を担っている。
今回は、映画そのものではなく映画ポスターの展示であるが、ポーランドでは海外の映画のポスターをそのまま用いるということが禁止されていたため、ポーランド人のデザイナーが一から新しいポスターを製作することになった。
日本映画のポスター展示コーナーもあり、ゴジラシリーズなどはわかりやすいが、「七人の侍」などは日本の侍というよりもギリシャの兵士のような不思議な装束が描かれていたりもする。

市川崑監督の「ビルマの竪琴」(1985年の中井貴一主演版)のポスターには、二つの顔を持ったオウム(というよりも顔を素早く横に降り続けている描写だと思われる)が描かれ、右側に「日本にかえろう」、左側に「かえれない」という文字が日本語で書かれている。一般的なポーランド人が日本語を読めるとは思えないが――一般的な日本人がポーランド語の読み書きが出来ないように――日本趣味を出すために敢えて日本語をそのまま用いているのかも知れない。

ハリウッド映画では、アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい」、レナード・バーンスタイン作曲のミュージカル映画「ウエストサイド物語」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの「明日に向かって撃て!」などのポスターがある。日本ではハリウッドオリジナルのポスターも見ることが出来るが、それらとはかなり違ったテイストのポスターとなっている。

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2020年3月11日 (水)

美術回廊(48) 生誕135年「竹久夢二展 幻想の美 秘められた謎」@京都髙島屋

2020年3月6日 京都髙島屋7階グランドホールにて

京都髙島屋7階グランドホールで、生誕135年「竹久夢二展 幻想の美 秘められた謎」を観る。新型コロナウィルスの影響で、京都髙島屋店内はガラガラ。こんな状態がいつまでも続けば天下の髙島屋も傾くという危機感がありありと伝わってくる。

大正時代を代表する美人画家として知られる竹久夢二(本名:茂次郎)。現在の岡山県瀬戸内市にある造り酒屋の次男として生まれ(長男は幼くして亡くなったため、扱いとしては事実上の長男となる)、神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高校)に進むも家業が傾いたために中退。この頃の夢二の夢は詩人になることだった。一家で福岡県の八幡(現在の北九州市)に移り住むが、家出して上京。早稲田実業学校の専攻科(2年制)に進学し、この頃に本格的に絵を描き始める。早稲田実業も結局は中退した。

正直、日本画家としての竹久夢二は大したことがないというのが私の評価である。本格的に絵を学ばなかったことを本人も周りも後悔していたという話もある。

竹久夢二の名が現在に伝わることになったのは、彼が作詞した名曲「宵待草」によるところが大きい。作詞と書いたが、夢二は「宵待草」を歌詞として書いたわけではない。宵待草という草は存在せず、待宵草を宵待草として詩を発表。単純な覚え間違いという説もあるが、その方が語呂がいいからか、それとも架空の草とした方が良かったのか修正することはなかった。ちなみに「宵待草」は明らかに大逆事件を意識して書かれたものである。この「宵待草」の一節に多忠亮(おおの・ただすけ)が曲をつけて初演し、大評判となる。といってもこれは夢二と多のコラボレーションではなく多が許可を得ずに曲をつけてしまったものである。多も流石にこれはまずいと夢二宅に謝罪に出向いたのだが、逆に夢二に泣きながら歓待されたという話が残っている。どこまで本当なのかはよくわからないが、夢二が「これで自分の名は後世に残る」と確信したであろうことは窺える。実際、今回出展された夢二の作品に登場する夢二の分身は頭を抱えるなど苦悩に満ちた姿で描かれていることが多く、自分の画才に自信が持てないことが伝わってくる。

絵として致命的なのは密度の薄さ。情報量が少ないのである。淡く可愛らしいが、それだけでは他の日本画家には太刀打ち出来ない。挿絵画家としてスタートし、絵葉書を描く仕事や、楽譜の表紙絵やレコードジャケットのデザイン(「ペール・ギュント」から“ソルヴェイグの歌”のSPジャケットなどが展示されていたが、歌詞の内容とは余り関係ないような絵である)などを手掛けた夢二は、芸術を身近なものにしたという功績があり、グラフィックデザイナーの先駆けともいうべき存在である。大正という時代にあって、その挿絵や美人画は一斉を風靡した。だからといって彼の作品がそれそのものの魅力で激動の昭和を駆け抜けることが出来たかというと、単純に絵の出来から考えれば難しかったかも知れない。
夢二という存在が今も人を惹きつけるのは、絵画以上に彼のミステリアスな人間性である。とにかく女にもてる上に、たまきやお葉との奇妙な関係は他に例が見当たらない。
夢二と籍を入れた唯一の女性であるたまき。知名度はとても高いが、不可思議としかいいようのない存在でもある。2つ年下の夢二の猛アタックを受けて結婚したたまきだったが、とにかく浮気ばかりする夢二に愛想を尽かして2年で離婚。しかしその後もつかず離れずの関係を続け、子まで設ける。その後、夢二はたまきと当時画学生だった東郷青児の関係を疑い、富山でたまきの腕を短刀で刺すという事件を起こす。これで完全に終わり、のはずなのだが、その後も関係は続いている節があり、夢二が結核のため長野の療養所で亡くなった後、たまきが訪ねてきて後片付けなどをして帰っている。

富山での事件の後で、夢二は京都に向かう。二寧坂(二年坂)に取り敢えずの居を構えた夢二はここで一人の女性を待つ。女性の名は笠井彦乃。のちに「夢二最愛の女性」と呼ばれることになる女学生である。たまきと夢二が経営する港屋に入り浸っていた夢二ファンの女学生であった彦乃は、一説にはたまきと東郷青児の関係が怪しいと夢二に告げた張本人ともいわれている。彦乃は親の反対を押し切って京都へ。二寧坂で夢二と同棲生活をスタートさせ、ほどなく高台寺の近くに家を構える。だが、九州旅行時に彦乃は喀血。結核であった。彦乃は実家に連れ戻されることになり、ほどなくして亡くなる。夢二も京都を去ることになった。最初の家を二寧坂に構えたことが良くなかったのかどうか、夢二の京都時代は丁度2年で幕を下ろすことになる。

彦乃と入れ替わるように夢二の恋人となったのが、お葉(よう)である。本名は佐々木カ子ヨ。お葉の名は夢二が付けたものである。秋田生まれで、藤島武二のモデルを経て、責め絵師の伊藤晴雨のモデルをしていたお葉であるが(伊藤晴雨のモデルであったことは今回の展覧会では触れられていない)、愛人関係にあった伊藤晴雨と別れて夢二と同棲するようになる。その後に自殺未遂をするなど前半生は波乱に富んでいたお葉だが、医師と結婚して以降は安定した生活を送るようになり、その後、約半世紀ほど静かに生き続けた。

 

実人生の方が絵よりも魅力的であった夢二であるが、油絵などは独特の陰鬱さが作者の懊悩を物語っており、奥行きが感じられて好印象である。

出口付近には映像コーナーがある。岡山市にある竹久夢二美術館が制作した約10分の映像。49歳という短い生涯であった夢二であるが、この映像は比較的知られていない晩年の夢二を描いている。47歳の時に夢二は渡米。サンフランシスコで上陸し、その後、西海岸の都市を回る。その時に描かれたのが今回展示されている「西海岸の裸婦」である。完成度の方はそう高くないと思われ、その証拠にというわけでもないが、夢二は西海岸で個展なども開いているが評価は今ひとつであった。そこで今度はヨーロッパに渡るが、そこで評価されることもなく、帰国後に結核を得て、翌年に他界することになる。

夢二の絵に関してはその生涯ほどには魅力は感じないのであるが、物販では吉井勇が現代語訳(あくまで当時の現代語である)した『伊勢物語』に夢二が挿絵を描いたものが売られており、気になったので高めではあったが購入した。

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2019年11月 3日 (日)

美術回廊(42) KYOTO EXPERIMENT 2019 グループ展「ケソン工業団地」

2019年10月26日 京都芸術センターにて

京都芸術センターへ。現在、館内各所で京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT、KEX)2019参加作品である「ケソン工業団地」の展示が行われている。エントランスに映像展示と説明文があり、ギャラリー南では、ケソン工業団地で働いていた南側と北側の人々の写真展示がある。

南北朝鮮の協働によって開発されたケソン工業団地。北朝鮮国内で最も南に位置する大都市のケソン(開城)の経済特区に置かれ、北朝鮮が土地と労働力を韓国が技術と資本を提供して2004年にスタートした。いわゆる金大中の太陽政策の一環であり、北側と南側の人々が一緒に働くこの場所は、「南北統一の先駆け」と評価されたという。普段は一般市民は国境を越えることは出来ないが、ケソン工業団地に勤める韓国側の人々は、日々国境を越えて通勤していたという。
だが、2013年に北朝鮮が核開発を行ったことで韓国側が撤退を表明。2016年には操業がストップして、南北朝鮮が見た夢は12年の歴史で幕を下ろすことになった。

「ケソン工業団地」は、そこで働いていた一人一人に焦点を当てた3人のアーティスト(イ・ブロク、イム・フンスン、ユ・ス)による展示会であり、2018年の夏にソウルでの展示会が行われ、このたび京都でも開催されることになった。

 

ギャラリー南には、ケソン工業団地で働いていた人々の等身大と思われるパネルがある。入って来た側に並んでいるのが北朝鮮の人々、裏側が韓国の人々である。ぱっと見では北側の人なのか南側の人なのかはわからない。顔は勿論、服装でもである。
誰が見ても美少女と思えるような若い女性の写真もある。胸に金日成のバッジを着けており、北側の人だとわかるのだが、余り北っぽさはない。北朝鮮は美人の産地として知られており、ここのパネルでは北側の女性の方が綺麗に見えるが、サンプル数が少ないので「北側の方が美人」と断言は出来ない。意図的に綺麗な人が選ばれた可能性もある。
背後にはケソンの一帯の風景写真が壁一面に広がっていた。

 

講堂では映像展示が行われている。中央にスクリーンが立ち、両側から別々の映像が照射されている。入り口に近い方は棺桶を担いで歩く人物の映像、裏側はニュースなどを中心とした映像である。両方の映像は時折クロスする。

その奥の大広間には、ケソン工業団地の内部を再現したコーナーが設けられている。大広間は畳敷きであるが、今回は畳は取りのけられており、板敷きでの公開となっていた。ミシンがずらりと並び、キャビネットにはハングル文字の書かれた袋に入ったお菓子などが並んでいる。

 

3階のミーティングルーム2では、ケソン工業団地で作られた布袋の展示や、写真資料、映像展示などが行われている。布袋にはいかにも共産圏らしいデザインのものもあるが、中には偶然東京ヤクルトスワローズカラーになっているものもあって微笑ましい。

 

南北共通の夢が、短い間ではあったが達成されたことを物語る貴重な展示であった。

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2019年10月29日 (火)

美術回廊(41)+コンサートの記(603) 京都文化博物館 「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ―線の魔術」&mama!milk Quartetコンサート

2019年10月22日 京都文化博物館および京都文化博物館別館ホールにて

京都文化博物館で、「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ―線の魔術」を観る。
イラストレーションやポスターを芸術へと高めたことで知られるアルフォンス・ミュシャ。史上最高の舞台女優といわれるサラ・ベルナールとのコラボレーションでも知られるが、今日10月22日はサラ・ベルナールの誕生日だそうである。

オーストリア帝国統治下のチェコのモラヴィア地方に生まれたミュシャ。子どもの頃は音楽で才能を示し、ブルノの少年聖歌隊ではレオシュ・ヤナーチェクと同僚だったそうである。その後、声に支障が出たために音楽から美術への転身を目指す。ただ若い頃は苦労続きだったようで、学業不振で中学校を退学後、地方裁判所で働き、プラハの美術院を目指すも書類選考で落ちてしまう。19歳でウィーンに出て劇場付属の美術工房で働きながら夜の美術教室で腕を磨くが、劇場が火災に遭い、業務整理のあおりを受けて工房を解雇されてしまう。その後、クーエン・ベラシ伯爵と出会い、気に入られて金銭的援助を受けてミュンヘン美術院とパリの美術学校(この学校は現存しないようである)を卒業。だが、これからという時に伯爵の援助が突然打ち切られてしまう。ミュシャは手っ取り早く金が得られそうな挿絵画家として自身を売り込み、これが当たって画家として軌道に乗る。そしてたまたま引き受けることになったサラ・ベルナールのポスターを描いたところ、パリ中で評判となり、サラ・ベルナールと共に一躍時代の寵児となった。ウィーン分離派(ウィーン造形芸術協会)にも参加し、フリーメーソンのメンバーとなり、教職にも就いている。一方で、チェコ民族のための画家として活躍したいと思いはなかなか叶えられず、ようやく50歳を越えてチェコに戻ってから「スラヴ叙事詩」を描いて積年の思いを遂げることになる。チェコがスロヴァキアと共にチェコスロヴァキアとして独立するとミュシャは独立記念の紙幣や切手などを無償で手掛けるという愛国心を見せる。だが、その後にそれが仇となる。ナチスドイツがチェコを占領すると、ミュシャは「危険な愛国者」として逮捕尋問され、これが体に応えて釈放後4ヶ月ほど経った1939年7月14日に他界。パリ祭の日に亡くなったことになる。79歳の誕生日を10日後に控えての死であった。

画才は子どもの頃から発揮されていたようで、最初の絵である「磔刑図」は8歳の時に描かれたものだという。「ブルノ、ペトロフ教会の聖歌隊の少年たち」は、1905年に幼き日の思い出を描いたものだとされる。

ミュンヘンやパリ時代初期に描かれた自画像がある。猫背になりながら絵に取り組んでいる自画像だ。
その後、ミュシャは架空の人物を想定し、それを磨き上げる、言い方によっては使い回す手法を生み出す。「カリカチュア」という絵に描かれた人物がその後、典型的な容姿の人物として再登場するようだ。

一方で、動きを感じさせる絵にも取り組んでおり、いくつかの習作を試みている。走る少年やバレエを描いた習作もあるが、「なにかしているところを描く」ことが多い浮世絵に影響を受けたのかも知れない。

ミュシャのポスターと特徴は、「Q字型」といわれるデザインである。ポスターの中心にいる人物を円形のリボンなどが取り囲み、下で結んでたれて「Q」の形に見えるためにこの名があるが、額縁の中にもう一つ「Q」の縁が描かれることで立体感やメルヘン的や柔らかさが与えられている。チャーミングになるのだ。

サラ・ベルナールを描いた一連のポスター(そのうちの3点は撮影可である)や代表作とされる「黄道十二宮」なども良いのだが、チェコへの愛国心を描いた作品の方がより気に入る。ミュシャはスメタナと同時代人で、「スラヴ叙事詩」などもスメタナの「わが祖国」を聴いてインスピレーションを受けたようだが、「チェコ音楽界のパンテオン」というポスターの中心に描かれているのはおそらくスメタナだと思われる。「正義(ヤン・フス)」という市長ホールのための絵画の習作も展示されているが、これなども当然ながらスメタナが描いたことと一致している。ポスター作家としての顔の影に隠れて余り知られていないが、ミュシャはスメタナと並ぶチェコ国民運動の最先端に位置していたというわけである。

実は、挿絵画家としてスタートした直後に、ドイツの歴史の挿絵の仕事が舞い込んだのだが、貧しい時期だったにも関わらずミュシャはこれを断ろうとしている。結局、引き受けて、今回の展覧会にも3点が展示されているが、反ドイツの意識はそれほど強かったようだ。その横に、スペインの歴史のために描いた挿絵の習作が並べられている。どうもスペインがイスラム教徒に占領された時代の絵のようで、いかにもムスリムといった感じの男の前で、十字架の入った杖を持ったキリスト教徒達が屈んでいるが、そのうちの一人はムスリムの男を鋭い視線で捉えている。キリスト教徒のムスリムへの反抗心に、ミュシャはチェコ民族のドイツ人達への反感を重ねていたのかも知れない。心の中ではレコンキスタの士の一人だったのだろう。

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死後は愛国心が危険視されたのか、封印される形になったミュシャ作品だが、1960年にアメリカで起こったヒッピームーブメントで再評価が高まり、多くのミュージシャンのポスターやレコードジャケットがミュシャを真似た手法で描かれている。ジミ・ヘンドリクスやピンク・フロイド、ドアーズなどビッグネームも多い。

 

日本では与謝野鉄幹と与謝野晶子の「明星」の表紙がミュシャの影響を受けているとされ、一條成美やその跡を継いだ藤島武二のデザインが並んでいる。
ミュシャの影響を公言している日本の漫画家も多く、水野英子、山岸涼子、26歳で夭逝した金沢出身の花郁悠紀子(かい・ゆきこ)やその実妹の波津彬子(はつ・あきこ)、松苗あけみなどの絵が並んでいる。

最後を飾るのは、「ファイナルファンタジー」の天野喜孝と「ロードス島戦記」などを手掛ける出渕裕。出渕の作品にはミュシャそのままのものもある。

 


そのまま午後6時から京都文化博物館別館ホールで、mama!milk Quartetのコンサートを聴く。アコーディオン&手回しオルゴールの生駒祐子とコントラバスの清水恒輔のデュオであるmama!milkにマルチミュージシャンの曽我大穂とピアノの林正樹が加わっての演奏。辰野金吾設計の旧日本銀行京都支店の建物である別館ホールで秋に行われるのに相応しいお洒落な音楽会となる。
曽我大穂は、フルート、パーカッション、アコーディオンなどいくつもの楽器を奏でる器用な人で、その他にもノイズを出して、現代の音楽であることを強調する役割も担っている。

mama!milkのコンサートを聴くのも久しぶり。今年の七夕にもこの京都文化博物館別館ホールで白井晃演出による結成20周年コンサートを行っているのだが、広上淳一指揮京都市交響楽団大阪公演の日であったため聴くことは出来ていない。
アルバムなども聴いていないので、曲目なども詳しくは分からないが、3拍子を基調としたフレンチテイストのものや、秋を感じさせるノスタルジックなもの、5拍子と6拍子の変拍子からなるタンゴ風のものなど、曲調も幅広い。

アンコールとして演奏されたのは「Your Voice」。とてもチャーミングな曲と演奏であった。

 

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2019年10月17日 (木)

2346月日(17) ラボカフェ「社会と表現の相互作用-フィンランド近現代史と陶芸」

2019年9月16日 京阪なにわ橋駅アートエリアB1にて

午後2時から、京阪電車なにわ橋駅アートエリアB1で、ラボカフェ「社会と表現の相互作用-フィンランド近現代史と陶芸」を聴く。すぐそばにある大阪市立東洋陶磁美術館で開催されている「フィンランドの陶芸 芸術家たちのユートピア-コレクション・カッコネン」との連携プロジェクトである。ゲストは、石野裕子(国士舘大学文学部史学地理学科准教授)と宮川智美(大阪市立東洋陶磁美術館学芸員)。カフェマスターは、當野能之(大阪大学言語文化研究科講師)。

石野裕子は、フィンランド史が専門。フェリス女学院大学文学部を経て、津田塾大学大学院国際関係学研究科博士課程単位取得退学後に博士号取得。中央公論社から『物語 フィンランドの歴史』を上梓している。

 

日本で北欧関係というと、東海大学の文化社会学部に北欧学科(旧文学部北欧学科。その前は文学部北欧文学科であった)があるだけであり、フィンランド語を専攻できるのもここが唯一。専門家を生み出す課程自体は少ないということで、日本では一般に北欧のイメージは良いが、北欧の歴史や文化までもが熟知されているというわけではない。

カフェマスターの當野能之が所属している大阪大学言語文化研究科は、外国語学部の研究科で、大阪大学の外国語学部は大阪外国語大学時代から日本で最も多くの言語を教える外国語学部であったが、スウェーデン語専攻はあるものの、フィンランド語のコースは残念ながらないそうである。フィンランド語は他のヨーロッパ言語とは異なる構造を持つことで知られている。

 

まず石野裕子によるフィンランド現代史の概説が述べられ、次いで宮川智美による大阪市立東洋陶磁美術館で開催中の「フィンランドの陶芸 芸術家たちのユートピア-コレクション・カッコネン」展示作品の解説がある。

フィンランドは約600年に渡ってスウェーデンの統治下にあり、公用語はスウェーデン語だけで、フィンランド語は農民達が話す言葉であった。支配層はスウェーデン系が多く、スウェーデン語が話されていた。それが1809年にスウェーデンとロシアの間で2度目の戦争があり、ロシアが勝利して、フィンランドはロシアに割譲される。ここにフィンランド大公国が生まれ、フィンランドはロシアの中の一国となる。フィンランド大公はロシア皇帝が兼任しており、独立を果たしたわけではなかったが、フィンランド人による自治が認められ、やがて公用語にフィンランド語が加わることになる。
その後、アレクサンドル2世の時代にフィンランドの自由化があり、フィンランドは「自由の時代」を迎えるが、アレクサンドル2世が暗殺され、ドイツの台頭が顕著になると、ロシアはフィンランドへの締め付けを強化し始める。エートウ・イストの風刺画「攻撃」が描かれたのがこの頃だそうだ。

1917年にロシアで2月革命が起こると、フィンランドは同年12月6日に独立を宣言する。だが、そのまますんなりとは進まず、親ソ連派の赤衛隊と親ドイツ派の白衛隊に分かれて内戦が起こり、白衛隊が勝利したが、フィンランド人同士での殺し合いが発生し、約3万人が犠牲になったという。
更に第二次世界大戦ではソ連と戦い、冬戦争と継続戦争という2度の戦いにいずれも敗北(2つの戦争は日本の人気漫画に出てくるそうで、若い人の間では知名度が高いそうだ)。フィンランドはカレリア地方を含む国土の10分の1を失い、多額の賠償金を支払うことになる。
フィンランドが世界に復興を示すのは、1952年のヘルシンキ・オリンピックを待たなければならなかった。ちなみに1940年の東京オリンピックが返上された時、次点であったヘルシンキが開催地に決まったが、大戦が始まってしまったため中止となっている。1940年のヘルシンキ・オリンピックのためにデザインされたポスターは、1952年のヘルシンキ・オリンピックのポスターとして年号だけ変えて使用されたそうである。

 

宮川智美によるフィンランド陶芸の解説。ラボカフェの最初の挨拶で、當野能之がフィンランドの陶芸について、「(イメージと違って)意外だった」と述べていたが、大阪市立東洋陶磁美術館の「フィンランド陶芸」に並ぶ作品は、バラエティに富み、「フィンランドのデザイン」と聞いて思い浮かべるすっきりとしたものもあるがそうでないものも多い。
ただ、まずはもう一つの展示であるマリメッコについてから。フィンランドを代表するテキスタイルブランドのマリメッコ。「マリのドレス」という意味だが、マリというのは、創設者の一人であるArmi Ratiのファースネームの綴りを変えたものに由来しているという。ジャクリーヌ・ケネディなどがマリメッコの衣装を愛用したことで、「知識人のユニフォーム」と言われた時代もあったようである。

そしてフィンランドの陶芸史。
フィンランドの陶芸に偉大な足跡を残している人物は二人いる。アルフレッド・ウィリアム・フィンチとクルト・エクホルムであるが、二人ともフィンランド人ではない。フィンチはイギリス系両親の下、ベルギーに生まれ育ち、ベルギーで画家として活動した後に陶芸にも乗り出し、実践的な芸術運動であるアーツ・アンド・クラフト運動に乗る。やがてフィンランドに招かれ、1897年に設立されたアイリス工房で陶芸を指導。アイリス工房自体は5年の歴史しか持たずに閉鎖されてしまったが、1900年のパリ万国博覧会のフィンランド館にアイリス・ルームなる展示を行い、評判を呼んでいる。アイリス工房閉鎖後は、フィンチはアテネウム(工芸中央美術学校)の教師となり、後継者の育成に尽力。フィンランドを代表する陶芸作家達を生み出していった。
クルト・エクホルムは、スウェーデン出身。ストックホルムで陶磁器デザインを学び、ヘルシンキのアラビア地区に生まれたアラビア製陶所を率いて活躍していく。クルト・エクホルムは陶芸作家でもあったが、批評家としても活動し、実績を残しているようだ。
スウェーデンの陶芸会社であるロールストランド製陶所が税制優遇のためにヘルシンキに作ったのではないかといわれるアラビア製陶所。エクホルムはこの製陶所美術部門のディレクターとなる。ここに所属する陶芸作家達は、社員ではあるが、製陶所の売り上げに繋がる作品を制作するよりも、個々の個性に根ざした作品を作ることが奨励されるという恵まれた環境にあった。社員に女性が多かったのも特徴である。フィンランドでは昔から女性の地位は諸外国に比べて高かったようである。
ただ、アラビア製陶所の作風は凝っていたため、「ライオンとコーヒーカップ」論争というものが起こり、陶器はもっと実用的なものであるべきだという立場の人々からは「ボタンホールの飾りに過ぎない」と批難された。これを受けて、機能主義的な作品を生み出していったのがカイ・フランクらである。カイ・フランクの作風などはシンプルですっきりとしていてそれでいてチャーミングというアルヴァ・アアルトに代表されるいわゆる北欧デザイン的な特徴が表れている。ただ、カイ・フランクらの作風だけがフィンランド陶芸ではなく、もっと多様性を持つのがフィンランド陶芸なのだそうだ。

 

再び、石野裕子による講義「19世紀フィンランドの芸術とナショナリズム」
アレクサンドル2世時代にフィンランド語が公用語となったとき、人々はフィンランド人のアイデンティティを求めるようになる。「もうスウェーデン人ではない。ロシアン人にもなれない。ならばフィンランド人で行こう」という言葉と共に、ナショナリズムが勃興する。
フィンランド的なるものを追求した時に注目されたのだが、叙事詩「カレワラ」である。スウェーデン系フィンランド人であるシベリウスも「カレワラ」を題材にした「クレルヴォ」交響曲を書き、同じくスウェーデン系フィンランド人の画家であるアクセリ・ガッレン=カッレラは「カレワラ」を題材にした絵画を制作している。

一方、文学の方は、ルーネベリとトペリウスというスウェーデン系の作家が生まれた。ただ当然ながら、スウェーデン語での文学であり、フィンランド語による本格的な文学の誕生は、フランス・E・シッランパーの登場を待たねばならなかった。

それまでスウェーデンとロシアという二つの大国の間に押し込められてきた感のあったフィンランドに、「ヨーロッパの一員となりたい」という希望が生まれ、「ヨーロッパへの窓を開けよ」を合い言葉に、松明を掲げる者たちと呼ばれた人々が勢いを増す。ヨーロッパの文化が盛んに取り入れられるようになるのだが、当時の、特にフランスではジャポニズムが流行っており、フィンランドの画家達もそれを間接的に受け入れて、「カレリア」の挿絵を浮世絵の手法を入れて描いたりしているそうである。
この頃、フィンランドは右傾化し、男子学生は「大戦で奪われたカレリアを取り戻せ」としてカレリア学徒会に参加、女子学生は「良き家庭」を理想としたロッタ・スヴァルトという保守的団体にこぞって加入する。
こうしたナショナリズムは言葉と密接に関係しているが、言葉を用いない陶芸や絵画はそれにとらわれない自由さがあり、ナショナリズムでひとくくりには出来ないというのが石野の意見のようである。

フィンランドは人口が約500万人と少ないので個を大切にする教育が行われており、またフィンランドに限らず北欧全体にいえることだが、芸術への手厚い保護があり、例としてシベリウスが若い頃から生涯年金を貰っていたという話をする。アラビア製陶所も企業ではあるが、売れ線のものを作らずに個性を発揮させることが許されていた。そのため、バラバラな個性の陶芸が生まれたのではないかというのが石野の想像のようである。

フィンランド的なデザインとしてよく挙げられるアルヴァ・アアルトとの関係であるが、二人とも建築やデザインは専門ではないのでよくわからないとしていたが、カイ・フランクなどは多分にアアルト的であり、人間の自然にフィットしているように感じられる。これはシベリウスの音楽にも共通することである。

 

思えば、私がシベリウス以外でフィンランドについて注目したのは、ヘルシンキ大学の学生だったリーナス・トーバルズが、UNIXをベースとして生み出したLinuxが初めであった。Linuxは個々が自由に改良できるオープンソースOSであり、個性や多様性を許したプログラムである。また汎用性豊かという意味で極めて機能的である。Linuxがフィンランド的なるものに根ざしているのかどうかはわからないが、少なくとも「発想」に関してはフィンランドのような歴史を持つ国からでないと生まれないような気がする。

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2019年9月28日 (土)

美術回廊(36) 日本・オーストリア外交樹立150周年記念「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」

2019年9月8日 大阪・中之島の国立国際美術館にて

「大阪クラシック」2019第4公演を聴いた後で中之島を西に向かい、国立国際美術館に入る。現在、ここでは日本・オーストリア外交樹立150周年記念「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」という展覧会が行われている。

まず、啓蒙時代のウィーンとして、ハプスブルク家の女帝、マリア・テレジアやその息子であるヨーゼフ2世らの肖像画が並び。ヨーゼフ2世はモーツァルトが仕えていた皇帝であるが、「ウィーンのフリーメイソンのロッジ」という絵にはモーツァルトと「魔笛」の作曲依頼者で台本を書いたシカネイダーらが右端で談笑している様が描かれている。その後にはモーツァルトの肖像画と「魔笛」の様子を描いた絵が並んでいる。

「ビーダーマイアーの時代」の展示。ウィーンは貴族達の街から市民階層を主人公とする都市へと変わっていく。1814年のウィーン会議の出席者を描いた絵があり、オーストリアの代表者であった外相メッテルニヒが愛用していたという赤いアタッシュケースが展示されている。

市民階層の台頭の象徴がシューベルティアーナである。貴族の嗜みであり、豪邸の客間などで演奏されていた音楽が市民のものとなり、その時代を代表する若手作曲家であったシューベルトを囲むサロンでの演奏会が行われるようになる。
シューベルトの有名な肖像画(ヴィルヘルム・アウグスト・リーダーの筆による)や、「シューベルティアーナ」の絵画(ユーリウス・シュミットの作)が飾られ、シューベルトが愛用していたという眼鏡も展示されている。

この時代には家具が発達している。実はそれまでは椅子などは貴族の権威を表すものであったのだが(確かに皇帝は玉座に座っている)、この時代には実用的な椅子が考案されてヒットする。椅子は時代が下るに従って、シンプルなデザインに変わっていくのが確認出来る。

城壁が廃され、その後にリンクという通りが出来ると、この通り沿いにウィーンの新たなる政治・文化施設が誕生していく。まずは国会議事堂。その横にウィーン市庁舎、更にその横にウィーン大学が建つ。そして音楽の都であるウィーンを象徴する宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)、旧ブルク劇場が建ち並ぶという、国際的な文化都市としての顔が出来上がるのである。この時の王(皇帝)はフランツ・ヨーゼフ1世、王妃はミュージカルなどでお馴染みのエリザベートである。美男美女の王と王妃の肖像画並ぶが、二人は輝かしきオーストリア=ハンガリー二重帝国の象徴であった。

音楽は更に市民階層へと広がっていく。ヨハン・シュトラウス1世が広めたウィンナ・ワルツが隆盛を極め、息子である「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世が生み出した曲の数々は現在のポピュラー音楽並みかそれを凌ぐほどの人気を誇った。誇らしげな顔をしたヨハン・シュトラウス2世の胸像が飾られている。

建築の分野ではオットー・ヴァークナーが登場。彼が設計した多くの建物はウィーンの景観を変えていく。駅を造り、美術アカデミーの建物や博物館を設計し、様々なインフラを自らのアイデアで創造し、あるいは塗り替えていく。

 

アカデミズムに対抗する形で分離派を生み出したのがグスタフ・クリムトである。世紀末ウィーンを代表する画家だ。クリムトは絵画に象徴を持ち込み、光と影を同じ画面内で対比させるなど、新たな画風を前面に打ち出す。マクシミリアン・レンツ、カール・モル、ヨーゼフ・ホフマンなどがウィーン分離派(正式名称は、オーストリア造形芸術協会)として新たな芸術観を高らかに掲げることになった。ウィーン分離派は権威としての美術や写実性よりも総合芸術性と実用性を重視。グラフィックデザインなどを生んでいくことにもなる。

クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」のみは写真撮影可であり、多く人がシャッターを押していた。自信に満ちた表情のエミーリエ・フレーゲであるが、服装や背景などは現実離れしており、エミーリエ自身がはこの絵を嫌ったそうである。

ウィーン分離派の実用性を工芸部門へと押し広げたのがウィーン工房である。マイスターの仕事を芸術の領域へと高めることを志したウィーン工房は、ヨーゼフ・ホフマンらによって生み出され、一時代を築いたが、凝りに凝った芸術趣味が災いして、後の倒産の憂き目を見ることになる。ヨーゼフ・ホフマンの手によるヘルマン・ヴィトゲンシュタイン邸のキャビネットや花瓶、印章などが展示されているが、このヘルマン・ヴィトゲンシュタインは、ウィーン分離派の第一のパトロンとなったカール・ヴィトゲンシュタインの父親である。カールの息子のパウルはラヴェルに左手のためのピアノ協奏曲を依頼したピアニスト、同じくカールの息子であるルートヴィヒは高名な哲学者である。

クリムトの衣鉢を継ぐ形となった画家がエゴン・シーレである。描写を得意としたシーレの多くのスケッチが並ぶが、クリムトの作品同様、生と死の境にあるかのような、一種の不吉さも感じされる。

ウィーンの絵画はシーレ以降、表現主義的な色彩を強めていくのだが、音楽の部門で同様の表現拡大を行っていた音楽家に関する展示がラスト近くに配置されている。十二音技法の生みの親であり、新ウィーン学派の代表者であったアルノルト・シェーンベルクの筆による絵画が数点。中には愛弟子であるアルバン・ベルクの肖像画なども含まれる。シェーンベルクはマーラーの葬儀の絵も残しているのだが、そのマーラーの肖像(彫像)も展示されている。オーギュスト・ロダンの手によるものだ。

 

クリムトを中心としたウィーンの美術の展覧会ではあるが、それらと極めて強く繋がる政治、思想、景観、音楽などを網羅する総合展示であり、ある意味、ウィーン分離派の思想を受け継いだ展覧会であるともいえる。

 

展示された作品の中では、マクシミリアン・クルツヴァイル「黄色いドレスの女性(画家の妻)」が実にチャーミングである。ウィーン分離派はブロックを積み上げるようにした構図を用いることが多い様だが、「黄色いドレスの女性」は、首を傾げることでシンメトリーの構図が崩れ、そこから女性らしい愛らしさが滲み出ているように思われる。「黄色いドレスの女性」は、1899年に描かれたものだが、その60年ほど前に描かれたフリードリヒ・フォン・アメリンク「3つの最も嬉しいもの」(酒・女・歌のことらしい)や「悲報」に登場する抑制された表情の女性とは好対照であり、その間に女性の内面からの解放があったのかも知れない。

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2019年2月25日 (月)

美術回廊(25) 京都国立近代美術館 「世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて」

2019年2月19日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で、「世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて」を観る。今回は、京都国立近代美術館の3階を使っての展示となる。

「Ⅰ ウィーン分離派とクリムト」「Ⅱ 新しいデザインの探求」「Ⅲ 版画復興とグラフィックの刷新」「Ⅳ 新しい生活へ」の4部からなる展覧会。

ウィーン分離派というのは通称で、正式にはウィーン造形芸術家協会という。ウィーン画壇を仕切っていたクンストラーハウスの高等的な芸術に反発し、かといって通俗的に走るでもない新たなる芸術を企図して結成された団体で、グスタフ・クリムトが中心人物である。
ウィーン分離派は、機関誌「聖なる春(ヴェル・サクルム)」を刊行し、デザインを中心とした汎用性のある芸術を広めていく。

中心人物のクリムトは、毒のある煌びやかさと、退廃的でアンニュイな雰囲気を持ち味としており、「世紀末ウィーン」と聞いて思い浮かべる画像に最も合致した画家であるが、今回はクリムトの作品そのものではなく、習作や挿絵、印刷された絵画などの展示が中心となっている。他の画家の作品もそうであるため、今回の展覧会は一部を除いて写真撮影可である。

純粋な絵画展ではなくデザイン展であり、描写力よりも躍動感や受け入れられやすさを重視した作品が多い。原色が多用されており、細部を簡略化することで勢いのある画風が生まれている。

ウィーンでは印象派は広まらなかったが、日本の浮世絵の影響は入ってきており、この時期には木版画の復興運動が起こっている。結果、浮世絵的なダイナミズムが加わった作品が生まれることになった。ちなみに、西洋の版画芸術は、浮世絵とは違い、原画の作成、版木の制作、版画の摺り上げまで一人で作業を行うことが基本だったようだ(日本の浮世絵は分業制である)。

あたかもグスタフ・マーラーの音楽を絵画化したかのような作品が並ぶが、マーラーが愛読し、音楽の題材として取り上げられることで知られる詩集「少年の魔法の角笛(子どもの魔法の角笛)」の挿絵も展示されており、逆にマーラーがこうした絵画の雰囲気を音楽で描いたとした方が適当であるかも知れない。ジャンルは違うが同じものを描いていたのだ。


4階のコレクション・ギャラリーも観る。昨年、ロームシアター京都メインホールでも上演された「魔笛」の演出家でもあるウィリアム・ケットリッジがロシアの映像を用いた《俺は俺ではない、あの馬も俺のではない》というタイトルの複数の作品が紹介されており、そのうちの一つではピアノを弾いたり五線譜に筆を走らせたりしているショスタコーヴィチの姿を確認することが出来る。


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2018年12月19日 (水)

美術回廊(21) 名古屋市美術館 「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」

2018年12月13日 名古屋市美術館にて

名古屋へ。名古屋駅から地下鉄で伏見(京都の伏見とは異なり、語尾にアクセントが来る)まで出て、白川公園内にある名古屋市美術館へ。フィンランドの建築家・デザイナーとして活躍したアルヴァ・アアルト(アールト)の特別展「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」が開かれている。

北欧デザインの祖とも呼ばれているアルヴァ・アアルト。1898年生まれ、1976年没。ヘルシンキ工科大学で建築を学び、隣国スウェーデンに渡ってアルヴィート・ビヤケルの事務所で働いた後に独立。ファーストネームはフーゴであったが、フィンランドの建築家リストのトップに載るために、セカンドネームのアルヴァを用いてアルヴァ・アアルトと名乗る。建築、インテリアデザイン、都市計画(ヘルシンキ・オリンピック選手村など)といった仕事を行っており、建築家としてはヘルシンキのフィンランディア・ホールの設計を行っている。フィンランドを代表するこのホールは、白亜の美しい外観と同時に音響の悪さで知られており(音響設計に関しては建築家の責任ではない)、1971年竣工とそう古くはないのであるが、「音響改善の見込みなし」として、2011年にヘルシンキ音楽センターが建てられ、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団とフィンランド放送交響楽団が本拠地を移している。

アアルトはシベリウスと同時代を生きた人であり、二人の間には共通点も多い(スウェーデン系フィンランド人である、自然と人間の調和を志向、奥さんの名前がアイノなど)。アアルトは建築家をあらゆる芸術の指揮者と位置づけていたようだ。

インテリアデザイナーとしてのアアルトは、シンプルさと自然そのものの優美な曲線を特徴としており、「北欧のインテリア」と聞いてパッと思いつくようなものはアアルトが最初に提案したもののようだ。椅子に関しては腰掛ける部分と背もたれ、更には手すりなどの部分を全て緩やかに曲がる「L字」で手掛けているのが特徴である。

母校であるヘルシンキ工科大学は、ヘルシンキ経済大学、ヘルシンキ美術大学と合併し、現在ではアアルト大学を名乗っている。まさに国民的建築家とされているようだ。


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