カテゴリー「京都国立博物館」の12件の記事

2024年8月26日 (月)

史の流れに(11) 京都国立博物館 豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」

2024年7月24日 東山七条の京都国立博物館・平成知新館にて

東山七条の京都国立博物館で、豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」を観る。3階建ての京都国立博物館平成知新館1階の3つの展示室を使って行われる比較的小規模な展示である。
豊臣秀吉の子である鶴松が幼くして亡くなり、実子に跡を継がせることを諦めた秀吉は、甥(姉であるともの長男)の秀次に関白職を譲り(この時、豊臣氏は、源平藤橘と並ぶ氏族となっていたため、秀次は豊臣氏のまま関白に就任。藤原氏以外で関白の職に就いた唯一の例となった。なお秀吉は近衛氏の猶子となり、藤原秀吉として関白の宣下を受けている)、秀次は聚楽第に入って政務を行い、秀吉は月の名所として知られた伏見指月山に隠居所(指月伏見城)を築いて、豊臣の後継者問題はこれで解決したかに思われた。
しかし、想定外のことが起こる。淀の方(茶々)が秀吉の子、それも男の子を産んだのだ。お拾と名付けられたこの男の子は後に豊臣秀頼となる。
どうしても実子に跡を継がせたくなった秀吉は、秀次排斥へと動き始める。

文禄4年(1595)、秀次に突如として謀反の疑いが掛けられる。秀次は、指月の秀吉の隠居所まで弁明に向かうが、城門は開くことなく、追い返される。やがて秀次の出家と高野山追放が決まり、切腹が命じられた。これには異説があり、出家した者に切腹が命じられることは基本的にないことから、秀次が命じられたのは出家と高野山追放のみであり、切腹は秀次と家臣が抗議のために自ら行ったという説である。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、こちらの説が採用されている(秀次を演じたのは新納慎也)。「真田丸」では、秀吉(小日向文世が演じた)が秀次の妻子を皆殺しにしたのは、勝手に切腹を行った秀次への怒りという説も採用されているが、これもあくまで一説である。ただ切腹を命じられなかったとしても、秀頼に跡を継がせるためには秀次は目障りな存在でしかない。即切腹とならなくても何らかの形で死を賜ることになったと思われる。
秀次の切腹を受けて、秀次の妻子は全員捕らえられ、三条河原で秀次の首と対峙させられた後、ことごとく切り捨てられた。その数、30名以上。老いも若きも区別はなかった。余りの残忍さに、京の人々も「太閤様の世も終わりじゃ」と嘆いたという。
秀次の妻子は三条河原に掘られた穴に投げ捨てられ、その上に塚を築き、塚の上に秀次の首を据えて、全体を「畜生塚」「秀次悪逆塚」と名付けた。これら一連の出来事を「秀次事件」と呼ぶ。晩年の秀吉は理性に問題があったという説があるが、これらの一連の出来事はその証左ともなっている。
「畜生塚」は、その後、顧みられることもなくなり、鴨川沿いということで何度も水害を受け、やがて朽ち果てた。近隣に邸宅を建てていた豪商・角倉了以が高瀬川の工事中に「畜生塚」の跡を発見し、立空桂叔を開山に秀次一族の菩提を弔う寺院を建立した。これが慈舟山瑞泉寺である。寺の名は秀次公の戒名「瑞泉寺殿」に由来する。


瑞泉寺に伝わる寺宝が並ぶ展覧会。「豊臣秀次および眷属像」(秀次公と殉死した家臣達、処刑された妻子の肖像が並ぶ)、絵巻物である「秀次公縁起」(秀次公が伏見指月山の秀吉公を訪ねるも入城を断られる場面に始まり、高野山への追放と切腹、三条河原での処刑と「畜生塚」が築かれるまでが描かれる)、秀次公による和歌(秀次公の字と伝わるが、字体的に桃山時代のものではないため、真筆ではない可能性が高いという)、妻子達の辞世の句(真筆とされるが、これも後世写されたものである可能性が極めて高いという)などが並ぶ。
武門に嫁いだからには、いつでも死を覚悟していたものと思われるが、せめて辞世の歌は良いものを詠みたい気持ちはあっただろう。だが、次々に秀次公の首の前に引きずり出されては辞世の歌を詠まされ、直ちに斬られたというから、十分に歌を考える暇もなかったと思われる。仏道への信心や極楽往生を願う同じような歌が多いのは、他のことを思い浮かべる余裕が時間的にも精神的にもなかったことを表しているようで、無念さが伝わってくる。
秀次公の妻の身分は様々で、公家や大名の娘から、僧侶や社家の子や庶民、中には一条で拾われた捨て子(おたけという名)などもいる。

処刑された女性の中で、最も有名なのは最上の駒姫であると思われる。出羽国の大名、最上義光(よしあき)の娘で、名はいま(おいま)。15歳であったという(19歳という説もある)。秀次との婚儀が決まり、上洛するが、秀次と顔も合わさぬまま夫は死に、自身は処刑されることが決まってしまう。流石にまずいと助命が入ったようだが、知らせは間に合わなかったという。瑞泉寺には何度も行ったことがあり、住職と息子さんの副住職さん(現在は住職さんになられているようである)とも話したことがあるが、今でも東北から「駒姫様可哀相」と弔いに訪れる人がいるという。駒姫は辞世に「罪なき身」と記しており、辞世の歌も「罪を斬る弥陀の剣」で始まっているが、「罪を斬る」は「罪を着る」つまり「濡れ衣」という意味の言葉に掛けられているようであり、怨念のようなものすら感じられる。
最上氏はこの事件を機に豊臣家と距離を置き始め、徳川家に近づいていくことになる。

秀吉の憎悪はこれでは収まらず、関白の政庁として自らが建て、秀次が居城としていた聚楽第を徹底的に破壊する。堀などの痕跡は流石に残ったが、建物などは釘一つ残さぬほどに破却。現在、京都市内には聚楽第の遺構とされる建物がいくつかあるが、一切残さなかった建造物の遺構があるとは思われず、伝承に過ぎないとされる。


秀次事件の翌年、伏見を大地震が襲う(慶長伏見地震)。伏見指月山の秀吉の隠居所も倒壊し、秀吉も危うく倒れてきた柱の下敷きになるところだった。人々は「秀次公の祟りだ」と噂したという。秀吉は残った木材を利用し、少し離れた木幡山に新たな城を築く(伏見城、木幡山伏見城)。指月山の伏見城とは異なり、木幡山の伏見城は大坂城を凌ぐほどの堅固な城であり、ここで後に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが起こって、大軍を率いた石田三成が僅かな手勢で守る城をなかなか落とせず大苦戦し(裏切り者が出て最終的には落城。鳥居元忠らが自刃した)、家康公が再建した伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、政務を行っている(後に俗に伏見幕府時代と呼ばれる)。実は慶長伏見地震が起こったのは、西暦でいうと、三条河原の惨劇が起こった丁度1年後(9月5日)に当たる。

秀次公は、近江八幡の礎を築いた人物である。山城である八幡山城を築き、その下に今も面影を残す美しい町並みを整備して、本能寺の変で主の織田信長を失った安土の人々を招いて楽市楽座を行い善政を敷いた。近江八幡は近江商人発祥の地であり、近江八幡を生み出した秀次公が名君でないわけがない。実際、近江八幡で秀次公を悪く言う人はいないという。


瑞泉寺は、三条木屋町という京都の中心部にある。浄土宗西山禅林寺派の寺院である。門の前を角倉了以が掘削させた高瀬川が流れ、寺紋は五七桐(豊臣家の家紋)。瑞泉寺は秀次公の汚名をすすぐことに尽力しており、東屋には秀次公に関するちょっとした資料が展示されている。
江戸時代に描かれた「瑞泉寺縁起」に、秀次公と一族の墓はすでに描かれているが、現在の墓所は、松下幸之助が創設した「豊公会」によって整備されたものである。
豊公会は地蔵堂も整備。秀次一族の処刑に引導を渡す役割を担った引導地蔵を祀り、地蔵堂に近づくと内側に灯りがともり、秀次公の眷属の姿が浮かび上がるようになっている。
街中ではあるが、訪れる者も少なく、落ち着いた感じの寺院で、お薦めの場所である。

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瑞泉寺豊臣秀次公一族の墓

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瑞泉寺 駒姫の墓

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瑞泉寺東屋にて

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2024年5月25日 (土)

美術回廊(83) 京都国立博物館 特別展『雪舟伝説 -「画聖(カリスマ)の誕生」-』

2024年5月23日 東山七条の京都国立博物館・平成知新館にて

東山七条にある京都国立博物館・平成知新館で、特別展『雪舟伝説 -「画聖(カリスマ)の誕生」-』を観る。
日本史上最高の画家(絵師)の一人として崇められる雪舟等楊。備中国赤浜(現在の岡山県総社市。鬼ノ城や備中国分寺があることで有名なところである)に生まれ、京都の相国寺(花の御所の横にあり、五山十刹の五山第2位。相国は太政大臣など宰相の唐風官職名で征夷大将軍にして太政大臣の足利義満が開基である)で天章周文という足利将軍家お抱えの画僧に本格的な画を学び、庇護を申し出た周防国の守護大名・大内氏の本拠地である「西京」こと山口で過ごしている。応仁の乱勃発直前に明の国に渡り、明代よりも宋や元の時代の絵を参考にして研鑽を重ね、天童山景徳禅寺では、「四明天童山第一位」と称せられた。帰国してからは九州や畿内を回り、山口に戻った後で、石見国益田(島根県益田市)に赴き、当地で亡くなったとされる。ただ最晩年のことは詳しく分かっていない。残っている雪舟の絵は、伝雪舟も含めて50点ほど。後世の多くの絵師や画家が雪舟を理想とし、「画聖」と崇め、多大な影響を受けている。
今回の展覧会は、雪舟の真筆とされている作品(国宝6点全てを含む)と伝雪舟とされる真偽不明の作品に加え、雪舟に影響を受けた大物絵師達の雪舟作品の模写や、雪舟にインスパイアされた作品が並んでいる。

国宝に指定されているのは、「秋冬山水図」(東京国立博物館蔵)、「破墨山水画」(東京国立博物館蔵)、「山水図」(個人蔵)、「四季山水図巻(山水長巻。期間によって展示が変わり、今は最後の部分が展示されていて、それ以外は写真で示されている)」(毛利博物館蔵)、「天橋立図」(京都国立博物館蔵)、「慧可断臂図」(愛知 齊年寺蔵)である。全て平成知新館3階の展示が始まってすぐのスペースに割り当てられている。いずれも病的な緻密さと、異様なまでの直線へのこだわりが顕著である。普通なら曲線で柔らかく描きそうなところも直線で通し、木々の枝や建築も「執念」が感じられるほどの細かな直線を多用して描かれている。「病的」と書いたが、実際、過集中など何らかの精神病的傾向があったのではないかと疑われるほどである。少なくとも並の神経の人間にはこうしたものは――幸福なことかも知れないが――描けない。狩野探幽を始め、多くの絵師が雪舟の直系であることを自称し、雪舟作品の模写に挑んでいるが、細部が甘すぎる。当代一流とされる絵師ですらこうなのだから、雪舟にはやはり常人とは異なる資質があったように思われてならない。
だが、その資質が作画には見事に生きていて、繊細にして描写力と表出力に長け、多くの絵師に崇拝された理由が誰にでも分かるような孤高の世界として結実している。山の盛り上がる表現などは、富岡鉄斎の文人画を観たばかりだが、残念ながら鉄斎では雪舟の足下にも及ばない。一目見て分かるほど完成度が違う。雪舟がいかに傑出した異能の持ち主だったかがはっきりする。

国宝にはなっていないが、重要文化財や重要美術品に指定されているものも数多く展示されており、その中に伝雪舟の作品も含まれる。伝雪舟の作品には国宝に指定された雪舟作品のような異様なまでの表現力は見られないが、雪舟も常に集中力を使って描いたわけでもなく、リラックスして取り組んだと思われる真筆の作品も展示されているため、「過集中の傾向が見られないから雪舟の真筆ではない」と判断することは出来ない。風景画が多い雪舟だが、人物画も描いており、これもやはり緻密である。

2階の「第3章 雪舟流の継承―雲谷派と長谷川派―」からは、雪舟の継承者を自認する絵師達の作品が並ぶ。雪舟は山口に画室・雲谷庵を設けたが、雲谷派はその雲谷庵にちなみ、本姓の原ではなく雲谷を名乗っている。江戸時代初期を代表する絵師である長谷川等伯も雪舟作品の模写を行うなど、雪舟に惚れ込んでいた。雲谷派も長谷川派も雪舟の正統な継承者を自認していた。

江戸時代中期以降の画壇を制した感のある狩野派も雪舟は当然意識し、神格化しており、狩野探幽などは雪舟の「四季山水図巻」(重要文化財)を模写して、五代目雪舟を名乗っていたりする(雪舟の「四季山水図巻」も探幽による模本も共に京都国立博物館の所蔵)。狩野古信が描いた「雪舟四季山水図巻模本」は模本にも関わらず、何と国宝に指定されている。

展示はやがて、雪舟がモチーフとした富士山や三保の松原を題材とした画に移る。原在中の描いた「富士三保松原図」は描写力が高く、緻密さにおいて雪舟に近いものがある。ただ画風は異なっている。京都ということで伊藤若冲の作品も並ぶが、画風や描写力というよりも題材の選び方に共通点があるということのようだ。

その他にも有名な画家の作品が並ぶが、描写力や表現力はともかくとして緻密さにおいて雪舟に匹敵する者は誰もおらず、それこそ雪舟は富士山のような屹立した独立峰で、後の世のゴッホのように画家なら誰もが崇める存在であったことは間違いないようだ。

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2022年9月15日 (木)

2346月日(40) 京都国立博物館 特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺ー真言密教と南朝の遺産」

2022年9月7日 京都国立博物館にて

東山七条の京都国立博物館で、特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺-真言密教と南朝の遺産」を観る。3階建ての平成知新館の2階と1階が「観心寺と金剛寺」の展示となっている。

観心寺と金剛寺は、南朝2代目・後村上天皇の仮の御所となっており(南朝というと吉野のイメージが強いが、実際は転々としている)、南朝や河内長野市の隣にある千早赤阪村出身である楠木正成との関係が深い。

共に奈良時代からある寺院であるが、平安時代に興隆し、国宝の「観心寺勘録縁起資材帳」には藤原北家台頭のきっかけを作った藤原朝臣良房の名が記されている。

観心寺や金剛寺は歴史ある寺院であるが、そのためか、黒ずんでよく見えない絵画などもある。一方で、非常に保存状態が良く、クッキリとした像を見せている画もあった。

1回展示には、ずらりと鎧が並んだコーナーもあり、この地方における楠木正成と南朝との結びつきがよりはっきりと示されている。

明治時代から大正時代に掛けて、小堀鞆音が描いた楠木正成・正行(まさつら)親子の像があるが、楠木正成には大山巌の、楠木正行には東郷平八郎の自筆による署名が記されている。楠木正成・正行親子は、明治時代に和気清麻呂と共に「忠臣の鑑」とされ、人気が高まった。今も皇居外苑には楠木正成の、毎日新聞の本社に近い竹橋には和気清麻呂の像が建っている。

河内長野近辺は、昔から名酒の産地として知られたそうで、織田信長や豊臣秀吉が酒に纏わる書状を発している。

観心寺や金剛寺の再興に尽力したのは例によって豊臣秀頼である。背後には徳川家康がいる。家康は秀頼に多くの寺社の再興を進め、結果として豊臣家は資産を減らすこととなり、大坂の陣敗北の遠因となっているが、そのために豊臣秀頼の名を多くの寺院で目にすることとなり、秀頼を身近に感じる一因となっている。木材に記された銘には、結果として豊臣家を裏切る、というよりも裏切らざるを得ない立場に追い込まれた片桐且元の名も奉行(現場の指揮官)として記されている。

最期の展示室には、上野守吉国が万治三年八月に打った刀剣が飾られている。陸奥国相馬地方中村の出身である上野守吉国(森下孫兵衛)は、実は坂本龍馬の愛刀の作者として知られる陸奥守吉行(森下平助。坂本龍馬の愛刀は京都国立博物館所蔵)の実兄だそうで、共に大坂に出て大和守吉道に着いて修行し、吉国は土佐山内家御抱藩工、吉行も鍛冶奉行となっている。価値としては吉国の方が上のようである。

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2022年5月25日 (水)

2346月日(37) 京都国立博物館 伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」

2022年5月20日 東山七条の京都国立博物館で

京都国立博物館平成知新館で、伝教大師1200年大遠忌記念 特別展「最澄と天台宗のすべて」を観る。前期と後期の展示に分かれているが、前期は訪れる機会を作れず、後期のみの観覧となった。

2021年が、伝教大師最澄の1200年大遠忌(没後1200年)に当たるということで開催された特別展。最澄の他に、中国で天台宗を確立した天台大師・智顗や、最澄の弟子である円仁と円珍に関する史料、延暦寺や園城寺(三井寺)所蔵の史料や仏像、平泉の中尊寺や姫路の書写山圓教寺などに伝わる仏典や高僧の座像、恵心僧都源信が著した「往生要集」、六道絵より阿修羅道と地獄の絵、延暦寺の鎮守である日吉大社の神輿や曼荼羅図、そして江戸(東京)の東叡山寛永寺にまつわる南光坊天海僧正像、江戸時代の寛永寺の全体を描いた「東叡山之図」、寛永寺を江戸の鬼門除けとなる東の比叡山として開いた東照大権現(徳川家康)の像、更に江戸で一番の賑わいを見せた浅草寺の絵巻などが展示されている。

今の大津に生まれ、近江国分寺に学び、東大寺で受戒した最澄。生まれ故郷に近い比叡山に一乗止観院を設け、これが後に延暦寺へと発展する。一乗止観院は、一乗思想(誰もが往生することが出来るとする思想)に基づくもので、その後、会津の徳一が支持する三乗思想(菩薩のみが往生が可能で、声聞や縁覚、そして無性は悟りを開けないとする)との三一権実争論が繰り広げられることになる。

最澄は、延暦寺にも戒壇院を築きたいと願っていたのだが、なかなか許可が下りず、嵯峨天皇からの勅許が降りたのは、最澄の死後1週間経ってからであった。

ということで、日本の天台宗の歴史においては、最澄よりもその後継者達の方がより任が重くなる。最澄に次ぐ天台宗の大物が、円仁と円珍であった。
最澄の弟子達の中で最も優秀であったとされる円仁は、唐に渡り、9年6ヶ月に渡って彼の地で学んで、「入唐求法巡礼行記」を記す。
一方、空海の親族である円珍も唐に渡り、帰国後は天台座主となるが、園城寺を新たに天台の道場とする。
延暦寺は山門派、園城寺は寺門派を名乗り、抗争が起こるのは後の世のことである。

天台思想は、奥州に伝わり、浄土を模したといわれる藤原三代の都・平泉で花開いた。金堂で有名な中尊寺には金文字で記された一切経が伝わっている。

良源と性空の像が並んでいる。命日が正月三日であるため元三大師の名で知られる良源、書写山圓教寺の開山となった性空は、共に異相であり、常人でないことが見た目からも伝わってくる。

また、空也上人立像も展示されている。空也上人立像は、六波羅蜜寺のものが有名だが、今回は愛媛県松山市の浄土寺に伝わるものの展示である。六波羅蜜寺の空也上人立像同様、口から「南無阿弥陀仏」を表す6つの阿弥陀像が吐き出されている。

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2021年5月17日 (月)

2346月日(32) 凝然国師没後七百年「特別展 鑑真和上と戒律のあゆみ」(後期展示)

2021年5月12日 東山七条の京都国立博物館にて

本来なら今日(5月12日)が緊急事態宣言の開ける日だったのだが、今月31日まで延長となっている。一方で、京都国立博物館は今日から営業再開となる。特別展「鑑真和上と戒律のあゆみ」は開催期間の延長はなされず、予定通り16日までであり、今日以外は他の用事が入っているため、行けるのは今日だけ、ということで行く。前期の展示は観たが、後期のみの展示物も比較的多い。国宝の鑑真和上坐像と、籔内佐斗司の新作・凝然国師像にももっとじっくり向かい合いたいという思いもある。前回も両像は頭に焼き付けた、つもりが後で確認すると鑑真和上像の衣の色を覚え間違えるというイージーミスがあり、やはり期間中に鑑真和上坐像と再会して頭に入れる必要がある。

最初の展示からしてまず違う。4月20日から展示が始まった「三国祖師影」である。大谷大学博物館の所蔵品で、日本からは行基、そして聖徳太子の絵が描かれている。聖徳太子に関しては、「観音ノ後身」と記されているのがわかる。インドからは鳩摩羅什(くまらじゅう)、唐からは玄奘三蔵などが選ばれている。

『懐風藻』の選者とされる淡海三船が編纂した『唐大和上東夷伝』の見開き1頁目も後期のみの展示である。

聖武天皇の像は前期に展示されていた単独のものではなく、行基、インド出身で大仏開眼供養の導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)、東大寺の開山で歌舞伎などでもお馴染みの良弁(ろうべん)を加えた「四聖御影」となっている。

上座部仏教の最大勢力であった説一切有部の史料も展示されている。隆盛を極めた説一切有部であるが、今では説一切有部自体もその後継宗派も一切残っていないということに無常を感じる。

余りじっくり見る時間はないが、前期のように部分的でもパッと見て意味が分かる文章は少ない。
凝然筆の文書も新しいものがいくつ展示されている。内容は分からないが、文字の丸さが特徴となっている。純粋な個性なのか、梵字を真似た書体を好んだといったような理由があるのかは不明だが、かなり不思議な字を書く人であるということは分かる。

戒律から離れた宗派の祖として法然上人と親鸞聖人の絵も展示されている。「親鸞聖人像」は前期と一緒だが、知恩院版「法然上人絵伝」は前期が巻五、後期が巻十の展示である。
くずし字が読めないのだが、冒頭に「後鳥羽院」とあるようなので、承元の法難絡みだろうか。絵からはどういう状況なのかは分からない。門から僧兵の格好をした人物が嘲るような態度で逃げていくのが確認出来るため、念仏停止の場面なのかも知れない。
図録には説明が載っているはずだが、そこまで仏教に詳しくなる必要はないと個人的には思っている。

絵による「鑑真和上像」。前期は東大寺のものだったが、後期は大阪の久米田寺に伝わるものが展示されている。共に鑑真和上坐像を基に書いたものだけに、顔はよく似たものだが、布などの描き方に個性が表れている。

その鑑真和上坐像。弘法大師坐像、興正菩薩(叡尊)坐像と共に、前期と展示が変わっていない。鑑真和上坐像などはよく見ると、睫毛なども描かれていることが確認出来る。大和の西大寺を復興した叡尊は、眉毛がかなり特徴的である。眉のみならず表情も村山富市に似ているが、村山富市は社会党の存在意義をなくし、現在に至るまでの政界の混乱を招いた罪な人なので、生まれ変わりだとかそういったことはないだろう。

前期もあった展示ながら、記憶に残っていなかった朝鮮半島伝来の「梵網経」を見る。「梵網経」は鑑真が受戒の際に用いた大乗経典である。
展示されている「梵網経」は、朝鮮の裴氏から伝わったとあるが、朝鮮系の裴という苗字は今では日本でも有名なものとなっている。「裴」は「ペ」と読む。ペ・ヨンジュンやペ・ドゥナのペである。

新作である籔内佐斗司の凝然国師像は、余り話題になっていないが、やはり大変な傑作であると思われる。出来たばかりの傑作に接する機会は、そうそうあるものではない。

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2021年4月20日 (火)

2346月日(30) 凝然国師没後七百年「特別展 鑑真和上と戒律のあゆみ」

2021年4月14日 京都国立博物館にて

東山七条の京都国立博物館へ。凝然国師没後七百年「特別展 鑑真和上と戒律のあゆみ」を観る。

日本に戒壇院を築くべく、何度も渡航を試みては失敗した鑑真和上。天平勝宝5年(754)に6度目の渡海でようやく日本にたどり着き、東大寺に戒壇院を築いて授戒を行い、その後に唐招提寺を築いて、日本における律宗の拠点としている。

今回の特別展の最大の目玉は、唐招提寺の鑑真和上坐像である。国宝に指定されており、教科書などにも必ず載っている。

その前に、戒律が日本に伝わるまでの歴史が文書などで示されている。元の時代にインドや東南アジアを訪れた中国僧の記録である「法顕伝」の展示などもあるが、「皆悉小乗學」という記述があり、東アジアで主流となった大乗仏教が廃れてしまっていることが分かる。

聖武天皇妃で光明皇后の名で知られる藤原光明子が編纂させた文書も数点あり、光明子に関しては、藤原朝臣正一位太政大臣(不比等)の娘で母親は橘氏の出身(県犬養橘三千代のこと)という記述がある。
中には冒頭付近に、「比丘患男根膿」 という記述のある文書もあり、反応に困る。

鑑真和上にまつわる展示としては、坐像以外に「唐大和上東征伝」と「東征伝絵巻」などがあり、日本経済新聞社制作の約5分の映像展示もある。

鑑真和上坐像は、現在は、弘法大師坐像と興正菩薩(叡尊)坐像と同じスペースに展示されているが、弘法大師坐像と興正菩薩坐像は共に元寇の二回目である弘安の役があった弘安年間に作られている。

日本における仏教の戒律の転換点として、伝教大師・最澄の像と弘法大師・空海の遺品、寺門派・園城寺の円珍が残した文書などが展示されるが、平安時代末期から鎌倉時代に掛けては、戒律を離れた浄土宗や浄土真宗の興隆があり、法然上人絵伝や親鸞聖人像(江戸時代、宝暦9年に描かれたもの)なども展示されている。

最後にあたる第五章では、「近世における律の復興」というタイトルでの展示が行われており、明忍、元政(日政)、湛海などの像が並んでいる。

凝然没後七百年ということで行われた展示会であるが、凝然(ぎょうねん。1240-1321)は、東大寺戒壇院で講じた華厳宗の僧であり、南都六宗に天台宗と真言宗を加えた「八宗綱要」を著している。
この凝然の没後七百年を記念した凝然国師坐像を「せんとくん」の作者としても知られる籔内佐斗司(この4月から奈良県立美術館館長に就任)が手掛けており、迫真性に溢れる優れた出来となっている。今回が初公開となるが、今にも動き出しそうであり、語り出しそうである。歴史的展示も素晴らしいが、凝然国師坐像も事故に遭わなければ今後数百年に渡って伝わっていくはずで、歴史の始まりに接したような感慨に浸った。それにしても、こんなところで籔内佐斗司の作品に出会うとは思わなかった。もっと宣伝しても良いのではないだろうか。

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2020年11月16日 (月)

美術回廊(59) 京都国立博物館 御即位記念特別展「皇室の名宝」

2020年11月11日 東山七条の京都国立博物館にて

京都国立博物館で行われている御即位記念特別展「皇室の名宝」を観る。密を避けるため、インターネットで事前予約を行う必要がある。基本的にスマートフォンを利用するもので、必要な情報を入力するとメールが送られてきて、記載されたURLをタップすると表示されるQRコードがチケットの代わりとなる。パソコンで申し込んだ場合は届いたメールをスマートフォンへと転送することで処理するようだ。

朝方、たまたまNHKで、「皇室の名宝」が取り上げられているのを見た。レポーターは、京都幕末祭でご一緒したこともある泉ゆうこさん。特別ゲストとして中村七之助が登場する。七之助は来年正月2日に放送される新春時代劇で伊藤若冲を演じるそうで、番宣も兼ねての登場であった。

 

皇居三の丸にある宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の名品を中心とした展覧会である。1993年に完成した三の丸尚蔵館所蔵の名宝が京都で展示されるのはこれが初めてとなるそうだ。

第一章「皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝」は、タイトル通り、書画が並ぶ。西行の書状や、藤原定家が写した「更級日記」、八条宮智仁親王の筆による古歌屏風などが展示されている。桂離宮を造営したことで知られる八条宮智仁親王は、ある意味、この展覧会のキーパーソンともいうべき人物で、彼が関わった様々な名宝が展示されている。

八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王は、正親町天皇の孫にして、後陽成天皇の実弟。豊臣秀吉の猶子となり、次期関白を約束されていたが、秀吉に鶴松が生まれたために反故とされ、八条宮家を創設。後陽成帝から皇位継承者と見做された時期もあったが、結局は徳川家康が反対したため、皇位は後陽成帝の息子である後水尾天皇が継ぐことになり、どちらかというと不遇の人生を歩んでいる。桂離宮を別邸としたことで八条宮家はその後に桂宮家となった。

「絵と紡ぐ物語」では、竹崎季長が描かせたことで有名な「蒙古襲来絵詞」が展示されている。「てつはう」が炸裂していることで有名な前巻(文永の役を描く)の展示は今月1日で終了しており、現在は弘安の役を描いた後巻の展示である。文永の役ではモンゴル軍と高麗軍の戦術に関する知識がなかったため度肝を抜かれることになった御家人達だが、再度の襲来を見越して博多湾に防塁を築き、万全の迎撃態勢を整えていた。後巻には防塁の前を馬で進む竹崎季長らが描かれている。
元の撃退には成功したが、追い返しただけで新たなる領地を獲得したわけではないため、鎌倉幕府は恩賞を与えようにも与えられない。それを不服とした竹崎季長が自らの奮闘を幕府に示すために奏上したのが「蒙古襲来絵詞」である。

その他には、浄瑠璃やスーパー歌舞伎、オペラや宝塚歌劇などの題材となった「小栗判官絵巻」(巻5。岩佐又兵衛筆)や、尾形光琳が描いた「西行物語」巻4などが展示されている。

続く唐絵の展示だが、中国よりも日本で人気のある画家のものが多いようである。

「近世絵画百花繚乱」と題された展示では、伝狩野永徳による「源氏物語図屏風」、保元の乱と平治の乱の名場面を扇の面に描いた「扇面散図屏風」などが展示されている。
中村七之助が紹介していた伊藤若冲の絵もここに展示されているのだが、S字カーブが特徴の「旭日鳳凰図」や「牡丹小禽図」、逆S字カーブを描く「菊花流水図」、「八」の字の構図を3つ重ねることで垂れ下がる南天の重力をも表出しようとした「南天雄鶏図」など、デザイン性の高い作品が並んでいる。

現代に到るまでの京都画壇の祖といえる円山応挙の「源氏四季図屏風」。写生を得意とした応挙だが、この作品はリアリズムよりも水の流れのエネルギーが感じられる出来となっている。

 

「第二章 御所をめぐる色とかたち」。「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」(狩野永納筆)は、天皇の顔がはっきりと描かれているという、当時としては珍しい作品である。
京都最後の天皇となった孝明天皇の礼服も展示されているが、八咫烏なども描かれているものの、基本的には龍をモチーフにしており、中国の王朝からの影響が強く感じられる。

「令和度 悠紀地方・主基地方風俗和歌屏風」は新作である。後期の展示は、永田和宏の筆による和歌の書と土屋禮一の絵による「主基地方風俗和歌屏風」である。令和の主基地方は京都であり、桜の醍醐寺、万緑の大文字山、紅葉の嵐山、雪の天橋立が描かれている。

「漢に学び和をうみだす」では、小野道風、伝紀貫之、藤原行成らの書が並ぶ。伝紀貫之の「桂宮本万葉集」は、八条宮智仁親王の子、忠仁親王以降、桂宮家が所蔵していたもの。桂宮本と呼ばれる蔵書群の基礎を築いたのが智仁親王である。土佐光吉・長次郎筆による「源氏物語画帖」の詞書連作の中にも八条宮智仁親王は名を連ねている。

一般には桂離宮の造営者としてのみ、その名が知られる八条宮智仁親王であるが、近世の文芸において大きな役割を果たしていることがわかる。
なお、桂宮家は断絶しているが、智仁親王の子である広幡忠幸の血は柳原氏に受け継がれることとなり、柳原愛子(やなぎわら・なるこ)が大正天皇の生母となっているため、現在の皇室は智仁親王の血を受け継いでいるということになる。

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2020年7月 3日 (金)

美術回廊(50) 京都国立博物館 「曾我蕭白展」2005

2005年5月14日 京都国立博物館にて

京都国立博物館で行われている「曾我簫白展」を観に出掛ける。円山応挙や池大雅、伊藤若沖などと同時期の曾我簫白であるが、その作風は極めて個性的であり、グロテスクでさえある。鷹の画などは顔がティラノサウルスのようだ。

かなりの枚数の画が展示されている。簫白の画は筆致が濃く力強い。その気迫に押されそうになるので、何枚も見ているうちに疲れてしまった。

簫白は敢えて当時流行の画風に異を唱え、無頼を気取り、「中庸よりは狂」であることを良しとした。また画を見ていてわかるのは中国への傾倒。日本の画家が中国を題材にすることは珍しくも何ともないのだが、簫白が描いた子供の顔はまさに現在も中国製の土産物などに書かれている中国の子供の顔そのものである。中国によくある作風を取り入れたのだ。生活も中国の粋人を真似ていたようで、酒と碁と画を描くこと以外には何もしなかったそうである。また簫白という人は明の洪武帝の子孫を称したりしている。他にも相模の三浦一族の末裔を名乗るなど、残した画以上に変わった人物であったようだ。

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2019年11月13日 (水)

美術回廊(43) 京都国立博物館 「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」

2019年11月7日 東山七条の京都国立博物館にて

七条の京都国立博物館で、「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」を観る。

佐竹本三十六歌仙絵は、秋田久保田藩主の佐竹氏が所蔵していた三十六歌仙絵巻を一つ一つに分けたものである。現在佐竹本といわれる三十六歌仙絵巻は、藤原信実の絵、後京極良経の書によるもので、鎌倉時代に制作されたのであるが、その後しばらく行方不明となっており、江戸時代初頭には下鴨神社が所蔵していることが確認されているのであるが、再び行方をくらませていた。それが大正に入ってから突然、元秋田久保田藩主の佐竹侯爵家から売りに出される。佐竹氏は戊辰の役の際に東北地方で唯一最初から新政府方についたこともあって侯爵に叙され、優遇を受けていたのだが、それでも家計が苦しくなったため売りに出されたのである。三十六歌仙絵巻は実業家の山本唯三郎が手に入れたのだが、第一次世界大戦による不況で山本もこの絵巻を手放さざるを得なくなる。不況に見舞われたのは当然ながら山本一人というわけではなく、どこも資金が不足していたため、佐竹本三十六歌仙絵巻を買い取れるほどの資産家は日本には存在しない。このままでは海外に流失してしまうということで、三井物産の益田孝(号は鈍翁)が、絵巻を一つ一つに分けて複数人で保有することを提案。これによってなんとか海外流出は食い止められ、住吉大社の絵も含めた37枚の絵を、当時の富豪達が抽選によって1枚ずつ手に入れることとなった。それが今から丁度100年前の1919年のことのである。当時の新聞記事に「絵巻切断」という言葉が用いられたため、衝撃をもって迎えられたが、実際は刃物は用いず、もともと貼り合わせてあった絵を職人の手によってばらしただけである。抽選の会場となったのは、東京・御殿山にあった益田邸内の応挙館である。円山応挙の襖絵が施されていたため応挙館の名があったのが、この円山応挙の絵も今回の展覧会で展示されている。
三十六歌仙といっても人気が平等ではない。そのためのくじ引き制が取られたのだが、主催者である益田は坊主の絵を引いてしまって不機嫌になったため(引いたのは源順の絵だったという証言もある)、一番人気であった「斎宮女御(三十六歌仙の中で唯一の皇族)」の絵を引き当てた古美術商が絵を交換することで益田をなだめたという話が伝わる。

37枚のうち31枚が集められているが、残念ながら斎宮女御の絵は含まれていない。また、6期に分かれての展示で、今日は、源宗于、小野小町、清原元輔の絵は展示されていない。なお、大戦をくぐり抜ける激動の時代ということもあり、37点のうち、現在、行方不明になっているものも3点ほどあるそうだ。

柿本人麻呂は、歌聖として別格扱いだったようで、柿本人麻呂の他の肖像画なども数点展示されているほか、柿本人麻呂は維摩居士の化身だというので、維摩居士の絵なども展示されている。

女性や若い人は華やかな王朝の美に酔いしれることが出来るのだろうが、もうすぐ45歳の私は、老いや孤独を歌った寂しい絵に心引かれる。やはり自分自身に絵や歌を重ね合わせてしまうようだ。
例えば、藤原興風の「たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」や、藤原仲文の「ありあけの月の光をまつほどにわがよのいたくふけにけるかな」などである。

小倉百人一首でお馴染みの歌もいくつかある。藤原敦忠の「あひみてののちの心に比ぶれば昔はものを思わざりけり」などは有名だが、藤原敦忠は38歳で突然死した人物であり、菅原道真の怨霊によるものだと噂されたという。
ちなみに藤原敦忠の絵を手に入れたのは、後に血盟団事件で暗殺されることになる三井財閥の團琢磨である。流石にそれまでもが菅原道真の祟りというわけでもないだろうが。

在原業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」も百人一首で有名である。和歌の天才と呼ばれた在原業平であるが、漢詩を不得手としていたため出世はかなわず、『伊勢物語』の主人公となったように東下り伝説が残るなど激動の人生を送った。

壬生忠見と平兼盛の歌もあるが、この二人の場合は今回の絵に採用されているものではなく、百人一首に取り上げられた歌の方が有名である。
歌合戦という言葉があるが、昔の歌合はまさに合戦であり、よりよい歌を詠んだ方が政において有利な立場を得ることが出来た。
天徳内裏歌合において、一番最後に「恋」を題材にした歌合があった。壬生忠見は、自信満々に「恋すてふ我が名はまだきたちにけり人知れずこそ思ひそめしか」と歌ったが、平兼盛の「しのぶれど色に出にけりわか恋はものや思ふと人の問ふまで」に敗れ、出世の道が絶たれたため悶死したとされる(史実ではないようだが)。このことは夢枕獏の『陰陽師』などにも出てくる。

 

佐竹本の三十六歌仙絵は2階に展示されているのだが、1階にもそれとはまた違った三十六歌仙の絵が展示されており、違いを楽しむことも出来る。

 

展示の最後を飾るのは、3隻の三十六歌仙屏風。作者は、土佐光起、狩野永岳、鈴木其一である。人気上昇中といわれる鈴木其一の三十六歌仙図屏風はやはり面白い。

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2019年9月13日 (金)

美術回廊(34) 京都国立博物館 ICOM京都開催記念「京博寄託の名宝-美を守り、美を伝える-」

2019年9月5日 京都国立博物館にて

京都国立博物館で、ICOM京都開催記念「京博寄託の名宝-美を守り、美を伝える-」を観る。
明治古都館が内部公開されているので入ってみる。以前は、明治古都館が京都国立博物館の本館で、ここで展示が行われていたのだが、平成知新館が出来てからはメインの展示場が移り、明治古都館は老朽化のため改装工事が行われていた。明治古都館の内部には京都国立博物館の歴史を示すパネルが展示されており、デジタル復元された俵屋宗達の「風神雷神図屏風」が飾れていた。

平成知新館の3階には、野々村仁清(ののむら・にんせい)や奥田穎川(おくだ・えいせん)らの陶器が展示されており、中国・宋代の青白磁器なども並んでいる。

2階は絵画が中心であり、伝平重盛像と伝源頼朝像が並んでいる。神護寺蔵の国宝だが、以前は「伝」ではなく、平重盛像・源頼朝像であった。今は「疑わしい」ということになっており、平重盛像の正体は足利尊氏で、源頼朝像といわれていたものは実は足利直義の肖像なのではないかという説が登場して、正確なことはわからないということで「伝」がつくようになっている。絵の作者は藤原隆信とされていたが、これも正確にはわからないようである。

狩野派の絵画も並ぶ。狩野元信の「四季花鳥図」は、屏風絵の大作であるが、手前を精密に描き、背景をぼやかすことで広がりを生んでいるのが特徴である。「風神雷神図屏風」の本物もある。よく見ると風神も雷神も手が思いっ切りねじれていて不自然である。あるいはこの不自然さが逆に勢いを生み出しているのかも知れない。そして風神や雷神は人間とは違うのだということが示されているようにも思う。

1階には仏像、そして中国の北宋と南宋の絵画が並んでいるのだが、日本の絵画をずっと観た後で、中国の絵画を眺めると西洋画を前にしているような錯覚に陥るのが面白い。宋代の絵画はフレスコ画に似たところがある。

その後は、書跡が並ぶ。三筆の空海、三蹟の藤原行成らの書が並ぶ。後鳥羽上皇が隠岐で書いた宸翰もある。後鳥羽上皇の遺書となったものだが、後鳥羽上皇の手形が朱で押されている。昔の人のものなので手は小さめだが、指が細くて長い。

更に袈裟や小袖などの衣類、豊臣秀吉所用の羽織や徳川家康所用の胴着が展示され、最後は刀剣や仏具などの金工、経箱や硯箱などの漆工が並んでる。日本だけでなく、ヴェネツィア製の鏡が唐鏡として展示されていた。

重要文化財に指定されている「黒漆司馬温公家訓螺鈿掛板」が立てかけられている。司馬温が子孫に残した家訓で、「金を残しても子孫がそれを上手く運用出来るとは限らない。本をたくさん残しても子孫がそれをちゃんと読むとは限らない。子孫長久となすには徳を積むに如くは無し」という意味のことが記されていた。琉球王朝の尚氏に伝わった者であり、今は三条大橋の東にある檀王法林寺の所蔵となっているそうである。

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