史の流れに(11) 京都国立博物館 豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」
2024年7月24日 東山七条の京都国立博物館・平成知新館にて
東山七条の京都国立博物館で、豊臣秀次公430回忌 特別展示「豊臣秀次と瑞泉寺」を観る。3階建ての京都国立博物館平成知新館1階の3つの展示室を使って行われる比較的小規模な展示である。
豊臣秀吉の子である鶴松が幼くして亡くなり、実子に跡を継がせることを諦めた秀吉は、甥(姉であるともの長男)の秀次に関白職を譲り(この時、豊臣氏は、源平藤橘と並ぶ氏族となっていたため、秀次は豊臣氏のまま関白に就任。藤原氏以外で関白の職に就いた唯一の例となった。なお秀吉は近衛氏の猶子となり、藤原秀吉として関白の宣下を受けている)、秀次は聚楽第に入って政務を行い、秀吉は月の名所として知られた伏見指月山に隠居所(指月伏見城)を築いて、豊臣の後継者問題はこれで解決したかに思われた。
しかし、想定外のことが起こる。淀の方(茶々)が秀吉の子、それも男の子を産んだのだ。お拾と名付けられたこの男の子は後に豊臣秀頼となる。
どうしても実子に跡を継がせたくなった秀吉は、秀次排斥へと動き始める。
文禄4年(1595)、秀次に突如として謀反の疑いが掛けられる。秀次は、指月の秀吉の隠居所まで弁明に向かうが、城門は開くことなく、追い返される。やがて秀次の出家と高野山追放が決まり、切腹が命じられた。これには異説があり、出家した者に切腹が命じられることは基本的にないことから、秀次が命じられたのは出家と高野山追放のみであり、切腹は秀次と家臣が抗議のために自ら行ったという説である。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では、こちらの説が採用されている(秀次を演じたのは新納慎也)。「真田丸」では、秀吉(小日向文世が演じた)が秀次の妻子を皆殺しにしたのは、勝手に切腹を行った秀次への怒りという説も採用されているが、これもあくまで一説である。ただ切腹を命じられなかったとしても、秀頼に跡を継がせるためには秀次は目障りな存在でしかない。即切腹とならなくても何らかの形で死を賜ることになったと思われる。
秀次の切腹を受けて、秀次の妻子は全員捕らえられ、三条河原で秀次の首と対峙させられた後、ことごとく切り捨てられた。その数、30名以上。老いも若きも区別はなかった。余りの残忍さに、京の人々も「太閤様の世も終わりじゃ」と嘆いたという。
秀次の妻子は三条河原に掘られた穴に投げ捨てられ、その上に塚を築き、塚の上に秀次の首を据えて、全体を「畜生塚」「秀次悪逆塚」と名付けた。これら一連の出来事を「秀次事件」と呼ぶ。晩年の秀吉は理性に問題があったという説があるが、これらの一連の出来事はその証左ともなっている。
「畜生塚」は、その後、顧みられることもなくなり、鴨川沿いということで何度も水害を受け、やがて朽ち果てた。近隣に邸宅を建てていた豪商・角倉了以が高瀬川の工事中に「畜生塚」の跡を発見し、立空桂叔を開山に秀次一族の菩提を弔う寺院を建立した。これが慈舟山瑞泉寺である。寺の名は秀次公の戒名「瑞泉寺殿」に由来する。
瑞泉寺に伝わる寺宝が並ぶ展覧会。「豊臣秀次および眷属像」(秀次公と殉死した家臣達、処刑された妻子の肖像が並ぶ)、絵巻物である「秀次公縁起」(秀次公が伏見指月山の秀吉公を訪ねるも入城を断られる場面に始まり、高野山への追放と切腹、三条河原での処刑と「畜生塚」が築かれるまでが描かれる)、秀次公による和歌(秀次公の字と伝わるが、字体的に桃山時代のものではないため、真筆ではない可能性が高いという)、妻子達の辞世の句(真筆とされるが、これも後世写されたものである可能性が極めて高いという)などが並ぶ。
武門に嫁いだからには、いつでも死を覚悟していたものと思われるが、せめて辞世の歌は良いものを詠みたい気持ちはあっただろう。だが、次々に秀次公の首の前に引きずり出されては辞世の歌を詠まされ、直ちに斬られたというから、十分に歌を考える暇もなかったと思われる。仏道への信心や極楽往生を願う同じような歌が多いのは、他のことを思い浮かべる余裕が時間的にも精神的にもなかったことを表しているようで、無念さが伝わってくる。
秀次公の妻の身分は様々で、公家や大名の娘から、僧侶や社家の子や庶民、中には一条で拾われた捨て子(おたけという名)などもいる。
処刑された女性の中で、最も有名なのは最上の駒姫であると思われる。出羽国の大名、最上義光(よしあき)の娘で、名はいま(おいま)。15歳であったという(19歳という説もある)。秀次との婚儀が決まり、上洛するが、秀次と顔も合わさぬまま夫は死に、自身は処刑されることが決まってしまう。流石にまずいと助命が入ったようだが、知らせは間に合わなかったという。瑞泉寺には何度も行ったことがあり、住職と息子さんの副住職さん(現在は住職さんになられているようである)とも話したことがあるが、今でも東北から「駒姫様可哀相」と弔いに訪れる人がいるという。駒姫は辞世に「罪なき身」と記しており、辞世の歌も「罪を斬る弥陀の剣」で始まっているが、「罪を斬る」は「罪を着る」つまり「濡れ衣」という意味の言葉に掛けられているようであり、怨念のようなものすら感じられる。
最上氏はこの事件を機に豊臣家と距離を置き始め、徳川家に近づいていくことになる。
秀吉の憎悪はこれでは収まらず、関白の政庁として自らが建て、秀次が居城としていた聚楽第を徹底的に破壊する。堀などの痕跡は流石に残ったが、建物などは釘一つ残さぬほどに破却。現在、京都市内には聚楽第の遺構とされる建物がいくつかあるが、一切残さなかった建造物の遺構があるとは思われず、伝承に過ぎないとされる。
秀次事件の翌年、伏見を大地震が襲う(慶長伏見地震)。伏見指月山の秀吉の隠居所も倒壊し、秀吉も危うく倒れてきた柱の下敷きになるところだった。人々は「秀次公の祟りだ」と噂したという。秀吉は残った木材を利用し、少し離れた木幡山に新たな城を築く(伏見城、木幡山伏見城)。指月山の伏見城とは異なり、木幡山の伏見城は大坂城を凌ぐほどの堅固な城であり、ここで後に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが起こって、大軍を率いた石田三成が僅かな手勢で守る城をなかなか落とせず大苦戦し(裏切り者が出て最終的には落城。鳥居元忠らが自刃した)、家康公が再建した伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、政務を行っている(後に俗に伏見幕府時代と呼ばれる)。実は慶長伏見地震が起こったのは、西暦でいうと、三条河原の惨劇が起こった丁度1年後(9月5日)に当たる。
秀次公は、近江八幡の礎を築いた人物である。山城である八幡山城を築き、その下に今も面影を残す美しい町並みを整備して、本能寺の変で主の織田信長を失った安土の人々を招いて楽市楽座を行い善政を敷いた。近江八幡は近江商人発祥の地であり、近江八幡を生み出した秀次公が名君でないわけがない。実際、近江八幡で秀次公を悪く言う人はいないという。
瑞泉寺は、三条木屋町という京都の中心部にある。浄土宗西山禅林寺派の寺院である。門の前を角倉了以が掘削させた高瀬川が流れ、寺紋は五七桐(豊臣家の家紋)。瑞泉寺は秀次公の汚名をすすぐことに尽力しており、東屋には秀次公に関するちょっとした資料が展示されている。
江戸時代に描かれた「瑞泉寺縁起」に、秀次公と一族の墓はすでに描かれているが、現在の墓所は、松下幸之助が創設した「豊公会」によって整備されたものである。
豊公会は地蔵堂も整備。秀次一族の処刑に引導を渡す役割を担った引導地蔵を祀り、地蔵堂に近づくと内側に灯りがともり、秀次公の眷属の姿が浮かび上がるようになっている。
街中ではあるが、訪れる者も少なく、落ち着いた感じの寺院で、お薦めの場所である。
最近のコメント