カテゴリー「京都国立近代美術館」の16件の記事

2024年5月 2日 (木)

美術回廊(82) 京都国立近代美術館 没後100年 富岡鉄斎「Tessai」

2024年4月13日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、没後100年 富岡鉄斎「Tessai」を観る。「最後の文人画家」とも呼ばれ、京都で活躍した富岡鉄斎の展覧会である。

富岡鉄斎は、1837年(天保7)の生まれ。坂本龍馬の1つ年下となる。長命で数えで89歳となる1924年(大正13)の大晦日まで生きた。1924年は関東大震災の翌年であるが、鉄斎も義援金を送っている。

三条新町の法衣商の家に生まれる。富岡家の先祖は石田梅岩から直接、石門心学を教わっており、代々、心学の教えが受け継がれてきた。鉄斎も心学を学び、その後、儒学、国学、漢学、南画、仏典、詩文、書、陽明学、勤王思想などを学んで、勤皇派の人物とも交流を持つ。坂本龍馬が暗殺された近江屋事件の当日に近江屋を訪れて、自作の「梅椿図」の掛け軸を贈った(結果としてその掛け軸は龍馬の血染めの掛け軸として有名になる)勤皇派文人の板倉筑前介(淡海槐堂)とは友人である。長崎遊学時代には龍馬の支援者でもあった文人画家・書家の小曽根乾堂にも師事している。19歳の頃には北白川(今の左京区北白川)の心性寺(現在の日本バプテスト病院付近にあった。廃寺となり現存しない)で、歌人で陶芸家の太田垣蓮月尼の学僕として住み込みで学んでいる。
儒学者を志し、それなりに評価もあったようだが、聖護院村(現在の左京区聖護院)に開いた私塾は繁盛せず、絵を描いて収入を得るようになる。若い頃には複数の神社の宮司も務めた。その中には有名な社も含まれる。

文人画家の心得である「万巻の書を読み、万里の道を征く」を座右の銘とした人物であり、日本国中を旅して回った。北海道の名付け親である松浦武四郎とも親しく、北海道にも渡っている。また富士山を愛し、たびたび絵の題材とした。

勤皇家ということで、明治天皇の東京行きの際には同行しているが、母親が亡くなったため、すぐに京都に戻っている。今の京都市内で度々転居を繰り返し、頼山陽の邸宅であった鴨川沿いの山紫水明處で暮らしたこともあったが、明治14年に室町一条下ルの薬屋町に転居し、ここが終の棲家となった。屋敷内には無量寿仏堂という名のアトリエがあったようである。
教育者としても活動し、西園寺公望の私塾・立命館で教えたほか、京都市美術学校(現在の京都市立芸術大学美術学部及び京都市立美術工芸高校の前身)でも教員となっている。美術学校の教師ではあるが、教えていたのは絵ではなく修身(道徳)だったようで、鉄斎自身は自分のことを学者と見なしていたようである。

鉄斎の絵の特徴はまず余白が少ないこと。ダイナミックで迫力があり、山岳の描写なども筋骨隆々といった感じで、男性的である。絵の中心に描く対象を縦に並べたり、中心に川や道といった縦の空間を作って、その横に家屋や人物を並べるなど、センターラインを重視した構図のものが多い。また自然の描写が雄渾なのと対照的に人物は小さく可愛らしく描かれており、対比がなされている。人物画の特徴は細くて吊り上がった目の持ち主が多く描かれていることで、南画の影響かとも思われる。

刻印収集が趣味であり、淡海槐堂や松浦武四郎らの篆刻による刻印がずらりと展示されている。鉄斎自身も篆刻を行った。

書家としても評価されていたようで、力強い筆致が印象的である。

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2022年7月 2日 (土)

美術回廊(77) 京都国立近代美術館 没後50年「鏑木清方展」

2022年6月10日&6月28日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて


2022年6月10日

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、没後50年「鏑木清方展」を観る。個人的には2014年に千葉市美術館で鏑木清方の展覧会を観ているが、京都で鏑木清方の大規模回顧展が行われるのは45年ぶりだそうである。

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1878(明治11)年、東京に生まれた鏑木清方(かぶらき・きよかた。清方は号で、本名は健一)。父親は毎日新聞創設者の一人であるジャーナリストで戯作者・脚本家・小説家としても活躍した条野採菊。ということで、幼い時から歌舞伎や寄席に親しむ生活を送っていた。清方は長じてからも、芝居絵を書くほかに歌舞伎の評論なども行っている。
浮世絵師の水野年方に師事し、清方の号を授かる。鏑木は母方の姓であり、母方の家系を継いでいる。

電車が嫌いだったそうで、関東を出たのは数度だけ。基本的には東京で生活を送っていたが、第二次大戦のため、茅ヶ崎に疎開。その後、御殿場に移るが、東京の自宅を戦災により焼失。鎌倉に住んでいた娘を頼って移住し、その後、復興の釘音かまびすしい東京を避けて鎌倉市内に自宅を構え、同地で生涯を終えた。93歳と長生きであった。

初期には挿絵画家として成功を収めた鏑木清方。泉鏡花と親しくなり、表紙絵や挿絵を手掛けている。鏡花好みの美女を描き、その後、日本を代表する美人画家として名声を高めていく。長命であったため、1954年にNHKが行ったインタビュー音声が残っており、展示コーナーで美人画の映像と共に鑑賞することが出来る。「好きなものじゃないと描けない」と語っており、また関東大震災や二・二六事件、戦災などに遭った時には美人画を描くことで気を紛らわせたと回想している。

日本画の典型的な構図として、手前をクッキリ描き、奥をボンヤリさせることで奥行きを出すという技法がよく駆使されるが、清方も中年期以降はこの構図に倣っている。だが、初期の頃は、顔をボンヤリと柔らかく描き、奥を丁寧に描くことでまた別の奥行きを出すという手法が見られる。意図的に用いられたものなのかは分からない。

「音」を感じさせる技法もまた多く、雨の滴などは描かずに、登場人物の表情で雨と雨音を感じさせるという巧みさが光る。


今回の目玉は、長らく所在不明だった「築地明石町」「新富町」「浜町河岸」の3作。東京国立近代美術館が2019年に収蔵したもので、それまでは個人が蔵していたようである。いずれも美人画だが、中央に大きく美人を描き、奥にボンヤリとその土地を象徴するものを描くという手法が用いられており、その土地の象徴画の役割を果たしている。象徴的な作品は、この3作の他にもいくつも見られる。

「築地明石町」は左手奥に帆船、「新富町」は右手奥に新富座、「浜町河岸」は左手奥に火の見櫓が見える。

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新富座は、明治時代前半には東京一の芝居小屋として栄えたが、明治時代半ばに歌舞伎座が完成すると人気も落ち、大正期には関東大震災で損害を受けて廃座となっている。「新富町」の絵が描かれたのは昭和5年(1930)であるため、すでに新富座は存在しない。
鏑木清方は、幼年期を新富座の近くで過ごしており、たびたび歌舞伎を観に出掛けていた。役者に憧れ、狂言俳優として舞台を踏んだこともある。そんな幼年期の憧れがこの絵には込められているのであろう。

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「浜町河岸」で描かれた日本橋浜町は、明治座に近く、二代目藤間勘右衛門の家があって、多くの女性が踊りを習うために通ったという。そんな踊りの稽古帰りの少女を描いた作品である。

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なお、重要文化財指定の「三遊亭円朝像」は後期に入ってからの展示となるようである。


2022年6月30日

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「鏑木清方展」を観る。2度目である。前回は、物販が3階のみで行われているのを知らなかったため何も買わずに帰ってきてしまったが、今日は絵葉書を数点購入する。

前回訪れたときは、重要文化財指定の「三遊亭円朝像」が展示されていなかったので、それを目的に来たのだが、他にも展示替えが行われた絵が比較的多い。7月限定のまだ展示されていない作品も数点待機中である。

新たに展示されたものの中では、「秋宵」という女学生がヴァイオリンを弾いているところを描いた作品が良い。明治36年の制作で、京都会場のみの出品である。夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んでも分かるとおり、明治時代にはヴァイオリンというのは女子がたしなむものであり、男がヴァイオリンを買うとなると、人目につかない夕方になるのを待って布団をかぶって眠り、「もう夕方か」と思って布団から出ると陽がカンカンカンカン照っていて、というのはどうでもいいか。女学生の夢見るような表情が印象的である。

前回、鏑木清方の作風の転換のことを書いたが、42歳を境に作風に変化が見られる。大正時代に入って絵画の世界にも写実主義が台頭しており、清方もそれに倣ったようである。作風の変化にあるいは関東大震災が影響しているのかも知れないが、正確なことは分からない。
実の娘を描いた「朝涼(あさすず)」という作品(大正14年制作)があるが、実娘の眼差しがリアルで、ハッとさせられる。

とはいえ、清方も若い頃の作風を完全に捨ててしまった訳ではなく、晩年にも浮世絵美人的な涼しい目の女性を描いている。


「三遊亭円朝像」はかなりリアルな描写だが、実は清方の父親でジャーナリストである条野採菊が話を聞くためによく円朝を家に呼んでいたそうで、清方も間近で円朝の姿を目にしていたようだ。

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2022年3月 7日 (月)

美術回廊(73) 京都国立近代美術館 新収蔵記念「岸田劉生と森村・松方コレクション」&コレクション・ギャラリー 令和3年度第5回コレクション展

2022年3月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「岸田劉生と森村・松方コレクション」という展覧会を観る。

美術の教科書に必ず載っている「麗子像」(「麗子像」という作品は多数存在する)で知られる岸田劉生(1891-1929)。
ジャーナリストの岸田吟香の長男として東京・銀座に生まれ、高等師範学校附属中学校中退後に白馬会に入り、黒田清輝に師事。白樺派の文学に傾倒し、雑誌「白樺」に載ったフランスの画家達に憧れる。高村光太郎らと共にヒュウザン会を結成し、代々木に家を構えて創作活動に入るが、肺結核と診断され(後に誤診であったことが分かる)白樺派の武者小路実篤が所有していた藤沢・鵠沼の貸別荘で転地療養を行う。その間に関東大震災が発生。岸田は関東を諦め、かねてより憧れていた京都移住を決断。南禅寺の近くに2階家を見つけて妻子と共に暮らし始める。東京にいた頃から歌舞伎見物を好んだ岸田は、南座にも通い詰める。また祇園でお茶屋遊びも楽しんだ。だがこの頃、春陽会のメンバーと不仲になり脱退。ただ梅原龍三郎は岸田によくしてくれたという。3年の京都生活を経て、岸田は鎌倉に移る。その後、満鉄の松方三郎(松方正義の息子)の招きで、満州に旅行。ここでも絵を描いて渡仏のための資金に充てるつもりだったという。だが慣れぬ大陸での生活ということもあってか、体調を崩してしまい、同行していた若き画商の田島一郎と共に帰国。山口県の徳山(平成の大合併により今は周南市となっている)にある田島の実家に身を寄せるが、そこで更に体調は悪化。38歳の若さで帰らぬ人となっている。奥さんの蓁(しげる)や娘の麗子は岸田の最期には間に合わなかったという。

初期の岸田の画風は、師である黒田清輝の模倣である。全体的に白っぽい画風がそれを表している。そこから白樺派によってフランスの画家を知るようになり、画風を大きく変える。1912年に描かれた「夕陽」という作品は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホからの影響が濃厚で、エネルギー重視の画風となっている。その他の作品も西洋の有名画家の作風をモデルとしており、初期の白馬会風のものとは大きく異なっているが、どうも岸田は、理想の絵画を求めて画風をコロコロ変えるというカメレオン的なところがあったようである。その後、後の奥さんとなる小林蓁と出会う。蓁は、鏑木清方に日本画を学んでおり、岸田も彼女の影響を受けて日本画や南画を描くようになっている。

鵠沼に移ってからの岸田は、立体感を求めた絵をいくつか描いている。「鵠沼風景」や「壜と林檎と茶碗」といった絵である。こうした立体感に富む絵が私は気に入った。
一方で、結核という当時としては死の病に冒された(実際には誤診であったが)ことで、宗教画なども描いている。岸田が子供の頃に両親が相次いで亡くなっており、岸田は洗礼を受け、クリスチャンとなって宗教家を志したこともあった。牧師の田村直臣を慕っており、岸田に画家を目指すよう進言したのも田村であったようだ。

有名な「麗子像」であるが、今回は、「麗子裸像」、「童女と菊花」、「二人麗子」、「三人麗子」、「麗子提灯を喜ぶ之図」、「麗子弾絃図」などが展示されている。

歌舞伎を好んだ岸田劉生。初代中村鴈治郎主演舞台を描いた作品があるが、舞台上よりもそれを観る観客の方がリアルに描かれているのが特徴である。

京都時代には愛らしい日本画も残している岸田。鎌倉時代には静物画の比重が大きくなっていったようである。

1929年に満州で描かれた「大連星ヶ浦風景」という絵が素晴らしい。この作品は武者小路実篤ら白樺派の面々も絶賛しているようだ。

その時々によって画風を大きく変えた岸田劉生。だた彼が真に目指した作風への道のりは、38歳で早逝したことで未完のまま途切れた印象が強い。


岸田劉生の展示会に続いて、森村・松方コレクションの展示がある。共に松方正義の息子である森村義行(森村家に養子に入っている)と松方三郎の兄弟は岸田劉生を支援していた。
この兄弟は美術品の蒐集にも熱心であり、葛飾北斎、歌川広重、藤田嗣治らの作品をコレクションしており、今回、それらが展示されている。

また岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の芝川コレクションも展示されている(岸田劉生や椿貞雄が描いた芝川照吉の肖像は、ギョロリとした目の輝きが印象的である)。青木繁、坂本繁二郎らの作品を観ることが出来る。


4階で行われている令和3年度第5回コレクション展には、「岸田劉生の友と敵」というコーナーがある。岸田劉生は生前に様々な画家と激突したようである。性格的に円満とはいえないところがあったようだ。先に書いたように春陽会の中でも梅原龍三郎は味方であったが、他のメンバーとは折り合いが悪くなり、1925年に退会している。

「劉生が生きた時代の西洋美術」のコーナーもある。この中ではやはりユトリロ(「モンマルトルのミミ・パンソンの家」)とデュフィ(「静物」)の画風が私の好みに合う。

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2022年1月31日 (月)

美術回廊(72) 京都国立近代美術館 「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」

2022年1月15日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」を観る。

今回は展示品の横に説明書きのようなものはなく、入り口に置かれている作品リストを手に、展示品の脇に置かれた番号(「Ⅰ-1-01」「Ⅱ-2-10」といったような)を参照して、リストで内容を確認するという鑑賞法になっている。

1893年にウィーンに生まれた上野リチ。生誕時の名前はリチ・リックスであり、32歳の時に日本人建築家の上野伊三郎と結婚して、上野リチ・リックスという名前になっている。
ウィーン工芸学校で学んだ後、ウィーン工房の一人としての活動を開始。上野とはウィーン工房の同僚であった。

ウィーン工房は、共にウィーン分離派(オーストリア造形芸術家協会)出身のヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが始めた美術工房で、工業デザインを得意としていた。

上野リチの作品の前に、ウィーン工房が作成したデザイン画や日用品などが展示されているが、一目見てマーラーの音楽が脳内に響き渡るような趣を持ったものが多い。マーラーもこのような工芸デザインに囲まれながら作曲や指揮活動を行っていた訳で、相互作用は当然ながら働いていたと思われる。マーラーは生前には作曲家としてはいくつかの例外を除いて成功出来ておらず、「異様な曲を書くらしい」ということだけが知られていた(マーラーは失敗を怖れて交響曲の初演を本拠地のウィーンでは行わなかった)。だが、時を経て見てみると、時代による親和性は確かにある。

上野伊三郎と結婚後、上野リチは夫の故郷である京都とウィーンを往復する生活に入る。作品の中には、水墨画や版画を意識したものもいくつか見られる。夫と共作したものもある。オーストリアと日本の良き融合である。

その後に京都に定住するようになった上野リチ。当時の日本にはまだインダストリアルデザインは十分には普及しておらず、上野は京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学美術学部)で教鞭を執った他、夫と共にインターナショナルデザイン研究所(その後、何度も校名変更を行い、最終的には京都インターアクト美術学校となるが、京都精華大学に吸収合併される形で2009年に閉校)を設立して後進の育成に当たった。展覧会の終盤にはリチの教え子達の作品も展示されている。

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2021年10月 9日 (土)

美術回廊(69) 京都国立近代美術館 「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ー外から見る/外へ見せるー」&コレクション・ギャラリー 浅井忠「御宿海岸」ほか

2021年10月2日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡﨑の京都国立近代美術館で、「発見された日本の風景 美しかりし明治への旅 ―外から見る/外へ見せるー」を観る。明治時代に来日したお雇い外国人の画家や、彼らと同じ時代を生きた明治時代の日本人画家達の作品を集めた展覧会。

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明治時代に日本にやって来て、洋画を教えたお雇い外国人、ワーグマン、ウィアー、ベレスフォードらが日本人が見落としていた日本の優れた風景を描き、それを見た日本人の画家達が日本の美質を再発見することになる。

1867年に始まり、1912年に終わった明治という年号。45年(43年間)という、昭和(64年。62年間)に次いで長い年号であり、前半と後半では大きく異なっている。

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1860年代は、フランスで後に印象派と呼ばれる絵画の作風が生まれた時代である。後に活躍するほとんどの画家が多かれ少なかれ印象派の影響を受けることになるのだが、お雇い外国人の画家達も、印象派のことは念頭に置いていたようで、彼らが描いた明治の日本は、光の降り注ぎ方が鮮やかである。

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また、描写の緻密さも特筆事項である。お雇い外国人として日本にやって来た外国人画家達は、日本人に洋画の手法を教え、自らのインスピレーションを深めると同時に、祖国へ未知の国「日本」を教えるという役目を担っていた。そのため、光の加減こそ印象派風であるが、描写スタイルそのものは印象派とは異なっている。写真を思わせるかのようなリアルなタッチの作品が多い。

最も展示作品が多い日本人画家は五姓田義松(ごせだ・よしまつ)である。ワーグマンやフォンタネージに師事した義松は、明治天皇御付画家の名誉を得ており、北陸地方や東海道への御幸に同行して訪れた場所の風景画をいくつも描いている。これらのうち、長野・善光寺、越前敦賀港、伊豆・三嶋大社の絵などを観ることが出来る。ワーグマンに師事していた時代には高橋由一と同門だったという五姓田義松。洋画と日本画の融合が試みられた時代であり、高橋に似た作風であるのもうなずける。

明治時代に風景画の第一人者とされた吉田博の作品も当然多い。光の移り変わりを題材にした版画なども多く手掛けた吉田博。写実的で動画的でもあるという、西洋と日本の融合への試みが、今回展示された作品のいくつかから伝わってくる。

古くから「子守」の文化があった日本だが、その様子は西洋人の目には面白く映ったようで、お雇い外国人画家達が子守の様子を描き、それが日本人画家による子守の再発見に繋がる。浮世絵が盛んであった江戸時代には子守を題材にした絵はほとんどなかったが、明治に入ると子守は重要な題材となる。

最後は日本の風景の至る所に配された花の絵で終わる。江戸時代から、日本の家々では園芸が盛んになり、庶民も家の片隅に花を植えていた。日本人は余り意識していないが、こうした風景は世界的には珍しいようで、これもまた海外からの視点を通して再発見された日本の美質といえるようだ。


「発見された日本の風景」は個人のコレクションによる展示会であり、4階のコレクション・ギャラリーでは、それを補う美術作品が展示されている。

まずは、ブーダン、シスレー、シニャック、マルケという、日本でいう幕末から明治時代に掛けて活躍した画家の作品が並び、お雇い外国人画家達への影響や同時代性を窺うことが出来る。

その後は、「発見された日本の風景」には登場しなかった日本人画家の作品が展示されている。いずれも京都国立近代美術館蔵のものだが、新たに購入した作品などもある。

浅井忠の「御宿海岸」は、千葉県の御宿(保養地として知られ、芥川龍之介など多くの文人が滞在している。全国的には童謡「月の沙漠」の舞台として有名である)を描いたものだが、この作品は長い間行方不明になっていたものだそうで、発見後初の展示となるようである。

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2021年8月13日 (金)

美術回廊(67) 京都国立近代美術館 「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)&京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年 第2回コレクション展」

2021年8月4日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎の京都国立近代美術館で、「モダンクラフトクロニクル」(京都国立近代美術館コレクションより)と京都国立近代美術館コレクション・ギャラリー「令和3年度 第2回コレクション展」を観る。

「モダンクラフトクロニクル」は、工芸品を中心とした展覧会。工芸品はどちらかというとアーティスト(芸術家)よりもアルチザン(職人)寄りであるため、芸術品と評価されない時代が長かった。特に日本では職人芸と芸術が引き離された形で発展したため、「工芸家は工芸家」と見なされることが今でも少なくない。

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1階に海外の作家による作品が並べられているが、これはこれまでに京都国立近代美術館で行われた工芸展に出展されたものが中心となっているようだ。

工芸作品には疎いため、知っている作家の名前を見つけることがほとんど出来ないが、理解するのではなく、「そういうもの」を受け入れる形で楽しむべき作品が多いことは分かる。理屈を言い出した途端に面白くなくなる作品群である。

ただ、想像と知識でもって理解すべき作品も勿論あって、里中英人の「シリーズ:公害アレルギー」は、水道の蛇口が徐々に破損されていく様を描いており、象徴的である。

益田芳徳の「1980年5月」という作品は、1980年5月のとある一日の新聞の一面が球状のケースの中に押し込まれているが、紙面ははっきりとは見えない。1980年5月を後で調べると、光州事件、日本のモスクワオリンピック不参加決定といった出来事が起こっていたことが分かる。また5月にはWHOが天然痘の根絶を宣言していた。
ただ、実際に一面を飾っていたのは、大平正芳内閣総理大臣とジミー・カーター米大統領の共同声明だったことが分かる。その直後、内閣不信任案が自民党内の反大平派が黙認したことによって通過し、衆議院は解散。翌6月12日に大平は過労が元で急死している。


第4章の「古典の発見と伝統の創出」には、河井寛次郎、北大路魯山人などのビッグネームが登場する。近藤正臣の親戚である近藤悠三の作品も展示されている。近藤悠三は人間国宝に指定されたが、近藤正臣の話によると、その途端に作品の値が跳ね上がったはいいが、高すぎて売れなくなってしまったそうで、「名誉は手にしたがお金は」という状態だったそうである。


4階展示室に場を移した第6章「図案の近代化 浅井忠と神坂雪佳を中心に」。現在の千葉県佐倉市出身(生まれは江戸の佐倉藩邸内)で、京都高等工芸学校(国立大学法人京都工芸繊維大学の前身)の教授としての活躍や、関西美術院の創設と後進の育成に尽力したことで知られる浅井忠。私が生まれ育った千葉県では郷土の偉人として教科書に載っていたり、小学校の廊下に肖像画が掛けられていたりする。京都での活躍でも知られるのだが、実際に京都で過ごしたのは死ぬまでの6年間ほどだそうで、決して長くはない。
フランスからの帰国後の京都時代に浅井は、当時のフランスで流行していたアールヌーヴォーを取り入れた陶芸作品の図案をいくつも作成。日仏工芸の融合に貢献したようである。


「令和3年度 第2回コレクション展」の展示では、冒頭に置かれた「西洋近代美術作品選」のアーシル・ゴーキーという画家の作品が面白い。

1904年、オスマントルコ統治下のアルメニアで生まれたアーシル・ゴーキーは、11歳の時にアルメニア人大虐殺によって母親を殺害され、アメリカに渡っていた父を頼って渡米。ボストンの美術学校に学び、抽象派やシュルレアリスムの影響を受けた独自の手法で高く評価されたが、少年期のトラウマに加え、度重なる怪我や病気を苦にして44歳の時に自ら命を絶っている。
「令和3年度 第2回コレクション展」のポスターにも選ばれた「バースデイ・グリーティング」は、いたずら書きのような自在感の中に、赤と緑の対抗色などを含めた計算された配置が存在感を放っている。

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2021年2月17日 (水)

美術回廊(62) 京都国立近代美術館 「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」

2021年2月11日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」を観る。

分離派というとグスタフ・クリムトやオットー・ワーグナーらが興したウィーン分離派(オーストリア造形芸術家協会。セセッション)による芸術革新運動が有名であるが、今回の展覧会は、ウィーン分離派に影響を受け、「分離派建築会」を創設した日本の若き建築家達が主役である。創設メンバーは全員、東京帝国大学工学部建築学科に所属していた、石本喜久治、瀧澤眞弓(男性)、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守の6人である。その後、山口文象(岡村蚊象)、蔵田周忠(濱岡周忠)、大内秀一郎が加わっている。

創設メンバーは、東京帝国大学で伊東忠太に師事。それまでの建築様式にとらわれない新建築を目指したが、ウィーン分離派同様、全体としての傾向を定めることはなく、一人一様式としている。

分離派建築会が関わった建築は、今では少なくなってしまっているが、往時は毎日のように眺めていた東京・御茶ノ水の聖橋や、京都では京都大学学友会館、京都大学農学部正門などが残っている。入ってすぐのところに現存する分離派建築会関連建築の写真展示があり、分離派建築会の第1回作品展で掲げられた宣言(「我々は起つ」)を読み上げる女性の声が、終始流れている。

分離派建築会の創設は、1920年(大正8)。スペイン風邪のパンデミックの最中であった。明治維新と共に、西洋風の建築が日本の各地に建てられたが、明治も終わり頃になると「西洋建築一辺倒でいいのか?」という疑問を持つ人も多くなり、独自の日本建築の開拓に乗り出す人が出てきた。分離派建築会の人々もまたそうである。
分離派建築会の東大の先輩にあたる野田俊彦は、「建築非芸術論」を上梓し、実用性最優先の立場に立っていた。

いくつかの映像展示があるが、一番最初にあるのは、当時の建築の最前線を走っていた後藤慶二に関する映像である。1983年の制作。テレビ番組として制作されたもののようで、後藤の代表作である豊多摩監獄(豊多摩刑務所。正門部分のみ現存)が紹介されている。豊多摩監獄は、1983年に取り壊されることが決まっており、このドキュメンタリー映像は、豊多摩監獄を記録する意図で制作されたようである。
豊多摩監獄は、日本最大級の監獄であり、江戸時代の小伝馬町の牢屋敷を市ヶ谷に移した市谷監獄の後継施設として建てられている。市谷監獄は小伝馬町の牢屋敷をそのまま移築したものだそうで、何と江戸時代に建てられた獄舎が明治43年まで長きに渡って使用されていた。手狭になり、老朽化も甚だしいとして現在の中野区に建てられたのが豊多摩監獄である。思想犯を多く収容し、大杉栄、亀井勝一郎、小林多喜二、三木清、中野重治、埴谷雄高、河上肇らが入獄している。
後藤が設計した豊多摩監獄は、十字式の独居房配置が特徴。中心の部分に見張りを置いていれば、4つの独居房の列が全て見渡せるという、画期的な仕組みが採用されていた。
その後藤慶二にあるが、スペイン風邪に罹患し、腸チフスも合併して35歳の若さで亡くなってしまう。
後藤慶二や、分離派建築会のメンバーの師である伊東忠太も師事した辰野金吾もスペイン風邪に罹り、64歳で他界。スペイン風邪は日本の建築界にも激震をもたらした。

その直後に発足した分離派建築会は、新たなる芸術としての建築美を追究することになる。アールデコなどの装飾も流行った時期であったが、分離派建築会のメンバーが設計した建築は、どちらかというと装飾の少ない、スッキリしたものが多い。
教育面でも活躍しており、瀧澤眞弓は神戸大学や大阪市立大学、甲南大学といった関西の大学で教鞭を執っている。堀口捨己は明治大学建築科の創設に尽力し、指導も行った。森田慶一は武田五一に招かれて京都帝国大学の教員となり、京大関連の建物も設計。先に書いた京都大学学友会館や農学部正門といった現存建築は森田が設計したものである。矢田茂は民間企業に就職したため分離派としての作品は少ないが、逓信省に入った山田守は、後に御茶ノ水の聖橋、日本武道館や京都タワーなどを手掛けた。

分離派建築会のメンバーは、新しい建築を生むにあたり、オーギュスト・ロダンらの彫刻を参考にしたり、田園地帯での生活における建築美を追究するなど、建築そのものとは関わりのないものにも影響を受け、自身の作品に取り入れていった。瀧澤眞弓の作品「山の家」模型は、ディズニー映画「アナと雪の女王」に出てくる雪の女王の城を連想させる斬新な設計である(理想を掲げたもので、実際に建設はされなかった)。

旧岩国藩主であった吉川家の東京邸や、公家であった坊城邸なども堀口捨己や蔵田周忠ら分離派建築会のメンバーが手掛けているようだ。写真のみの展示なのがちょっと寂しい。

京都国立近代美術館を出ると隣は武田五一設計の京都府立図書館(残念ながら外装工事中であり、布で覆われていた)、北側に目をやると伊東忠太設計の平安神宮応天門が眼に入る。今まさに建築の歴史の中に生きていることを実感し、彼らと繋がれたような喜びがこみ上げてくる。

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2020年11月20日 (金)

美術回廊(60) 京都国立近代美術館 「生誕120年 藤田嗣治展」

2006年7月23日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

京都国立近代美術館で開かれている、「生誕120年 藤田嗣治展」に出かける。今日が最終日である。チケットは買ってあったのだが、結局最終日に来ることになってしまった。最終日は当然ながら混む。

藤田嗣治は東京に生まれ、若くしてパリに渡り成功を収めた画家である。第二の藤田になることを目指して渡仏するも夢やぶれた画家は非常に多いそうだ。

第二次大戦前夜に藤田は日本に戻り、日本の戦闘行為を英雄的に描く戦争画を制作したりもした。しかし、戦争協力責任を問われるなどして、日本での活動に限界を感じた藤田は再びパリに戻りフランスに帰化。その後、日本の土地を踏むことはなかったという。

パリで成功し始めた頃の作品は、ピカソのキュビズムに影響されていたり、ムンクの模写のような画を描いていたりする。だが、本当に認められたのは乳白色を多用した画だ。彫刻をキャンバス上に刻んだような、独特の乳白色をした画の数々は個性的である。

だが、藤田の特色は、個性的であることではなく、その器用さにある。南米で過ごした頃の画からは、パリ時代とは全く異なるラテンの血が感じられる。また日本回帰の時代というのもあって、ここでは高橋由一や青木繁のような画風を示す。この時期に描かれた「北平の力士」(北平とは中華民国時代の北京の名称。中華民国の首都が南京に置かれたために北京は北平と改称されたのである)という画は日本画と中国画のタッチを取り入れた、迫力と生命力が漲る優れた作品である。

戦争画の一枚は、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」に構図が似ていたり、また宗教画にはミケランジェロの「最後の審判」をアレンジしたもの(タイトルは「黙示録」)があったり、藤田は自分の観たものを貪欲に取り入れる精神に溢れていたようだ。かといって自らの個性を殺したわけではなく、例えば、フランスの女性を描いても目の辺りが日本美人風になっていたりするのは藤田独特の個性だろう。

フランスに帰化してからの藤田は子供を題材にした画を多く残している。戦争画を描くことを強要し、戦争が終わると「戦争協力責任」なるものを押しつけようとする「大人達」への反発がそうさせたのだろうか。面白いのは、藤田が描いた子供の顔には、それに似つかわしい無邪気さが見られないことである。何かあるのだろう。


3階の「藤田嗣治展」を観た後、4階の通常展示も見学。私の好きな長谷川潔や、浅井忠の画を見て回る。藤田嗣治と吉原治良(よしはら・じろう。風間杜夫似の、画家というより俳優か小説家のような顔をした画家。具体美術協会の創設者であり、吉原製油社長という実業家でもあった)が握手をしている写真が飾ってある。そして吉原の作品も展示されている。個人的には吉原の作風の方が気に入った。

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2020年8月 6日 (木)

美術回廊(55) 京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」

2020年7月31日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、京都国立近代美術館所蔵作品にみる「京(みやこ)のくらし――二十四節気を愉しむ」を観る。

新型コロナウィルスにより、多くの行事が流れてしまった京都。その京都の四季の彩りを再確認するために京都国立近代美術館所蔵品を中心として開催されている展覧会である。

階段を上ると「晩夏」から、エレベーターを使うと「初夏」の展示から観ることになる展覧会。階段を使って「晩夏」より入る。

四季を更に細分化した二十四の季節を持つ日本。古代中国由来なので、必ずしも今の暦と符合するわけではないが、恵みと脅威を合わせ持つ自然に対する細やかな意識が察せられる区分である。

 

階段を上がったところに、北沢映月の「祇園会」という屏風絵が拡げられている。1991年に京都国立近代美術館が購入した絵だ。「小暑」の区分である。
京舞を行っている母親をよそ目に、祇園祭の鉾の模型で二人の女の子が遊んでいる。一人は鉾を手に転がそうとしているところで、もう一人はそれを受け止めるためか、片手を挙げている。動的な絵である。

不動立山の「夕立」は、おそらく東本願寺の御影堂門と烏丸通を描いたと思われる作品である。昭和5年の作品なので、京都駅は今のような巨大ビルではないし、京都タワーもなかったが、それを予見するかのような高所からの俯瞰の構図となっている。これは不動茂弥氏からの寄贈である。

「大暑」では、丸岡比呂史の「金魚」という絵が出迎える。昨日観た深堀隆介の金魚とは当然ながら趣が異なり、愛らしさが前面に出ている。

同じタイトルの作品が並んでいるのも特徴で、「処暑」では、福田平八郎の軸絵「清晨」(どういう経緯なのかはよく分からないが、旧ソヴィエト連邦からの寄贈)と深見陶治の陶器「清晨」が並んでいる。趣は大分異なるが、各々が感じた朝の気分である。

具体美術協会を起こしたことで知られる吉原治良(よしはら・じろう)の作品もある。「朝顔等」という絵だが、朝顔の周りに海産物が並べられており、海は描かれていないが海辺であることが示唆されている。夫人による寄贈。

 

「立秋」にはこの展覧会のポスターにも使われている、安井曾太郎の「桃」が展示されている。邪気を払う特別な果物だ。

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「中秋」では、京都画壇を代表する女性画家である上村松園の「虹を見る」(文化庁からの管理換)という屏風絵が素敵である。虹は右上に小さく描かれ、それを若い女性と母親と赤ん坊が見上げるという作品であるが、虹がまだ何かもわからない年齢なのに惹かれている赤ん坊が特に印象的である。

「秋分」では、小川千甕(おがわ・せんよう)の「田人」という作品が「その先」の想像をくすぐる出来である。2001年度購入作。

俳優の近藤正臣の親族としても有名な陶芸家の近藤悠三の作品もある。堂々とした作風である。

 

坂本繁二郎の「林檎と馬齢著」(立冬)。全く関係ないが、最近観た見取り図の漫才ネタを思い出す。

 

秋野不矩の「残雪」(「初春」。1985年に作者が寄贈)。これも関係ないが中国を代表する前衛小説家の残雪の作品を最近は読んでいない。急に読んでみたくなったりする。

「仲春」には花と蝶を題材にした絵画が並ぶ。久保田米僊(くぼた・べいせん)の「水中落花蝶図」、枯れて水面に落ちた花弁と、その上を舞う蝶が描かれており、動物と静物、しかも盛りを過ぎた静物との対比が描かれている。2005年度購入作。

 

「春分」には今も花見の名所として名高い円山公園を描いた作品がいくつか登場する。

「晩春」では、藤田嗣治や長谷川潔が手掛けた「アネモネ」という花の絵が美を競っている。アネモネは色によって花言葉が違うようだが、調べてみると紫のアネモネの花言葉は「あなたを信じて待つ」であり、赤のアネモネの花言葉は「辛抱」であった。

 

「立夏」には葵祭を題材にした伊藤仁三郎の絵が2点(2002年寄贈作品)並び、苺の収穫を描いた小倉遊亀(寄託作品)の作品もある。

「夏至」には千種掃雲の「下鴨神社夏越神事」(2005年度寄贈)、更に美術の教科書によく作品が登場する安田靫彦の「菖蒲」(2000年度購入)などがある。

 

そして階段から入った場合、最後の展示となるのが川端龍子(かわばた・りゅうし)の「佳人好在」(1986年度購入)。佳人(美人)の部屋を描いた作品だが、佳人は登場せず、並んだ小物などから佳人の人となりを想像させる絵となっている。これが今日一番気に入った絵となった。これぞまさに「不在の美」である。

 

京の行事はこの一年、ほぼ全て幻となってしまったが、展示された美術作品の数々の中に、悲しみと同時に希望を見出すことになった。
「京都は京都」幾多の災難を乗り越えた街であり、いつかまたこれらの作品に描かれているような愉しみが復活するのは間違いないのだから。

 

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2020年6月30日 (火)

美術回廊(49) 京都国立近代美術館 「チェコ・デザイン 100年の旅」&日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ポーランドの映画ポスター」

2020年6月25日 左京区岡崎の京都国立近代美術館にて

左京区岡崎にある京都国立近代美術館で、「チェコ・デザイン 100年の旅」と日本・ポーランド国交樹立100周年記念「ポーランドの映画ポスター」展を観る。
いずれも5月10日に最終日を迎えるはずの展覧会だったのだが、コロナ禍による臨時閉館期間があったため、再開後、7月までに展示期間が延びている。

チェコは、音楽(ドヴォルザークやスメタナ)、文学(カフカやカレル・チャペック)といった芸術が知られるが、チェコのデザインに触れる機会は余りないので、興味深い展覧会である。

チェコのデザインに触れるのは初めてではなく、以前にチェコ製のテントウムシのマグネットを買ったことがあり、今も冷蔵庫に止まっている。

チェコ出身のデザインアーティストというと、アルフォンス・ミュシャがまず頭に浮かぶが、ミュシャの「Q」をモチーフにした作品も勿論展示されている。19世紀末から20世紀初頭には、チェコでもアールヌーボーなどの影響を受けた美術が流行ったが、椅子などは実用性を度外視してデザインを優先させたために使い勝手が悪いものも多かったようである。

その後、チェコでは「結晶」を理想とした直線美によるパターンを重ねたデザインが流行する。考えてみれば、「自然は直線を嫌う」(ウィリアム・ケント)といわれているものの、肉眼では見えない結晶は例外的に直線で形作られている。顕微鏡の発達によってもたらされた、ある意味ではこれまでの常識を覆す自然美の発見であったともいえる。

家具や食器はアールヌーボーの反動で、シンプルで実用的なものが好まれる時代になるが、ガラス細工が盛んな地域をドイツに占領されてしまったため、木材などを中心とした新たなデザインを生み出す必要性に迫られるようにもなる。これはそれまで軽視されてきた木材の長所の再発見にも繋がったようだ。

共産圏となったチェコスロバキアでは、国外に向けてのチェコやスロバキア美術プロパガンダのための高級感のあるデザイン品が輸出される一方で、国内向けには貧相なものしか作られないという乖離の時代を迎える。チェコ動乱の前はそれでもピンクやオレンジといった色を用いたポップなデザインのポスターなども制作されたが、それ以降は実用的ではあるが味気ないいわゆる共産圏的なデザインも増えてしまったようだ。チェコのデザインが復活するにはビロード革命を待つ必要があったようである。

アニメーションの展示もあり、短編アニメが何本か上映されている。言葉がわからなくても内容が把握可能なものだったが、東欧のアニメとしてどの程度の水準に入るものなのか一見しただけではわからない。

チェコの木製おもちゃの展示もある。テントウムシのマグネットにも通じる可愛らしくてぬくもりが感じられるもので、子どものみならずインテリアとしても喜ばれそうである。

 

「ポーランドの映画ポスター」。映画好きにはよく知られていると思われるが、ポーランド映画は完成度が高く、海外からの評価も上々で、「芸術大国ポーランド」の一翼を担っている。
今回は、映画そのものではなく映画ポスターの展示であるが、ポーランドでは海外の映画のポスターをそのまま用いるということが禁止されていたため、ポーランド人のデザイナーが一から新しいポスターを製作することになった。
日本映画のポスター展示コーナーもあり、ゴジラシリーズなどはわかりやすいが、「七人の侍」などは日本の侍というよりもギリシャの兵士のような不思議な装束が描かれていたりもする。

市川崑監督の「ビルマの竪琴」(1985年の中井貴一主演版)のポスターには、二つの顔を持ったオウム(というよりも顔を素早く横に降り続けている描写だと思われる)が描かれ、右側に「日本にかえろう」、左側に「かえれない」という文字が日本語で書かれている。一般的なポーランド人が日本語を読めるとは思えないが――一般的な日本人がポーランド語の読み書きが出来ないように――日本趣味を出すために敢えて日本語をそのまま用いているのかも知れない。

ハリウッド映画では、アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい」、レナード・バーンスタイン作曲のミュージカル映画「ウエストサイド物語」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの「明日に向かって撃て!」などのポスターがある。日本ではハリウッドオリジナルのポスターも見ることが出来るが、それらとはかなり違ったテイストのポスターとなっている。

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