カテゴリー「京都文化博物館」の26件の記事

2024年5月12日 (日)

2346月日(41) 京都文化博物館 「松尾大社(まつのおたいしゃ)展 みやこの西の守護神(まもりがみ)」

2024年5月1日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、「松尾大社(まつのおたいしゃ)展 みやこの西の守護神(まもりがみ)」を観る。王城の西の護りを担った松尾大社(まつのおたいしゃ/まつおたいしゃ)が所蔵する史料や絵図、木像などを集めた展覧会。

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松尾山山上の磐座を祀ったのが始まりとされる松尾大社。祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)は、「古事記」にも登場する古い神で、近江国の日吉大社にも祀られている。別名は「山王」。大山咋神は素戔嗚尊の孫とされる。松尾山山麓に社殿が造営されたのは701年(大宝元)で、飛鳥時代のことである。ちなみに、松尾大社の「松尾」は「まつのお」が古来からの正式な読み方であるが、「まつおたいしゃ」も慣例的に使われており、最寄り駅の阪急松尾大社駅は「まつおたいしゃ」を採用している。
社名も変化しており、最初は松尾社、その後に松尾神社に社名変更。松尾大社となるのは戦後になってからである。

神の系統を記した「神祇譜伝図記」がまず展示されているが、これは松尾大社と神道系の大学である三重県伊勢市の皇學館大学にしか伝わっていないものだという。


松尾大社があるのは、四条通の西の外れ。かつて葛野郡と呼ばれた場所である。渡来系の秦氏が治める土地で、松尾大社も秦氏の氏神であり、神官も代々秦氏が務めている。神官の秦氏の通字は「相」。秦氏は後に東家と南家に分かれるようになり、諍いなども起こったようである。
対して愛宕郡を治めたのが鴨氏で、上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)の賀茂神社は鴨氏の神社である。両社には深い関係があるようで共に葵を社紋とし、賀茂神社は「東の厳神」、松尾大社は「西の猛神」と並び称され、王城の守護とされた。

秦氏は醸造技術に長けていたようで、松尾大社は酒の神とされ、全国の酒造会社から信仰を集めていて、神輿庫には普段は酒樽が集められている。今回の展覧会の音声ガイドも、上京区の佐々木酒造の息子である俳優の佐々木蔵之介が務めている(使わなかったけど)。

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「名所絵巻」や「洛外図屏風」、「洛中洛外図」屏風が展示され、松尾大社も描かれているが、都の西の外れということもあって描写は比較的地味である。「洛中洛外図」屏風ではむしろ天守があった時代の二条城や方広寺大仏殿の方がずっと目立っている。建物のスケールが違うので仕方ないことではあるが。

松尾大社が酒の神として広く知られるようになったのは、狂言「福の神」に酒の場が出てくるようになってからのようで、福の神の面も展示されている。松尾大社の所蔵だが、面自体は比較的新しく昭和51年に打たれたもののようだ。

松尾大社で刃傷沙汰があったらしく、以後、神官による刃傷沙汰を禁ずる命令書が出されている。当時は神仏習合の時代なので、刃傷沙汰は「仏縁を絶つ」行為だと記されている。松尾大社の境内には以前は比較的大きな神宮寺や三重塔があったことが図で分かるが、現在は神宮寺も三重塔も消滅している。

PlayStationのコントローラーのようなものを使って、山上の磐座や松風苑という庭園をバーチャル移動出来るコーナーもある。

徳川家康から徳川家茂まで、14人中12人の将軍が松尾大社の税金免除と国家の安全を守るよう命じた朱印状が並んでいる。流石に慶喜はこういったものを出す余裕はなかったであろう。家康から秀忠、家光、館林出身の綱吉までは同じような重厚な筆致で、徳川将軍家が範とした書体が分かるが、8代吉宗から字体が一気にシャープなものに変わる。紀伊徳川家出身の吉宗。江戸から遠く離れた場所の出身だけに、書道の流派も違ったのであろう。以降、紀州系の将軍が続くが、みな吉宗に似た字を書いている。知的に障害があったのではないかとされる13代家定も書体は立派である。
豊臣秀吉も徳川将軍家と同じ内容の朱印状を出しており、織田信長も徳川や豊臣とは違った内容であるが、松尾大社に宛てた朱印状を出している。
細川藤孝(のちの号・幽斎)が年貢を安堵した書状も展示されている。

松尾大社は摂津国山本(今の兵庫県宝塚市)など遠く離れた場所にも所領を持っていた。伯耆国河村郡東郷(現在の鳥取県湯梨浜町。合併前には日本のハワイこと羽合町〈はわいちょう〉があったことで有名である)の荘園が一番大きかったようだ。東郷庄の図は現在は個人所蔵となっているもので、展示されていたのは東京大学史料編纂所が持っている写本である。描かれた土地全てが松尾大社のものなのかは分からないが、広大な土地を所有していたことが分かり、往事の神社の勢力が垣間見える。

その他に、社殿が傾きそうなので援助を頼むとの書状があったり、苔寺として知られる西芳寺との間にトラブルがあったことを訴えたりと、窮状を告げる文も存在している。

映像展示のスペースでは、松尾祭の様子が20分以上に渡って映されている。神輿が桂川を小船に乗せられて渡り、西大路七条の御旅所を経て、西寺跡まで行く様子が描かれる。実は西寺跡まで行くことには重要な意味合いが隠されているようで、松尾大社は御霊会を行わないが、実は御霊会の発祥の地が今はなき西寺で、往事は松尾大社も御霊会を行っていたのではないかという根拠になっているようだ。

室町時代に造られた松尾大社の社殿は重要文化財に指定されているが(松尾大社クラスでも重要文化財にしかならないというのが基準の厳しさを示している)、その他に木像が3体、重要文化財に指定されている。いずれも平安時代に作られたもので、女神像(市杵島姫命か)、男神像(老年。大山咋神か)、男神像(壮年。月読尊か)である。仏像を見る機会は多いが、神像を見ることは滅多にないので貴重である。いずれも当時の公家の格好に似せたものだと思われる。老年の男神は厳しい表情だが、壮年の男神像は穏やかな表情をしている。時代を考えれば保存状態は良さそうである。

神仏習合の時代ということで、松尾社一切経の展示もある。平安時代のもので重要文化財指定である。往事は神官も仏道に励んでいたことがこれで分かる。松尾社一切経は、1993年に日蓮宗の大学で史学科が有名な立正大学の調査によって上京区にある本門法華宗(日蓮宗系)の妙蓮寺で大量に発見されているが、調査が進んで幕末に移されたことが分かった。移したのは妙蓮寺の檀家の男で、姓名も判明しているという。


松尾大社は、摂社に月読神社を持つことで知られている。月読神(月読尊)は、天照大神、素戔嗚尊と共に生まれてきた姉弟神であるが、性別不詳で、生まれたことが分かるだけで特に何もしない神様である。だが、松尾大社の月読神はそれとは性格が異なり、壱岐島の月読神社からの勧請説や朝鮮系の神説があり、桂、桂川や葛野など「月」に掛かる地名と関連があるのではないかと見られている。

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2022年12月28日 (水)

これまでに観た映画より(318) 第44回ぴあフィルムフェスティバル in 京都 ブラック&ブラック「ザ・ビッグ・ビート:ファッツ・ドミノとロックンロールの誕生」 ピーター・バラカンのアフタートーク付き

2022年11月25日 京都文化博物館フィルムシアターにて

午後6時から、京都文化博物館フィルムシアターで、第44回ぴあフィルムフェスティバル in 京都、ブラック&ブラック 日本未公開/関西初上映の音楽映画「ザ・ビッグ・ビート:ファッツ・ドミノとロックンロールの誕生」をピーター・バラカンのアフタートーク付きで観る。

共にルイジアナ州ニューオーリンズ近郊に生まれたファッツ・ドミノとデイヴ・バーソロミューを中心に、黒人音楽がリズム&ブルールへ、そしてロックンロールへと昇華する過程を様々なミュージシャンや伝記作家などへのインタビューと往年の演奏姿によって綴る音楽映画である。
ジャズ発祥の地としても名高いニューオーリンスが生んだ二人の天才音楽家が生み出した音楽が、エルヴィス・プレスリーやビートルズなどの白人ミュージシャンに影響を与え、ロックンロールという名を与えられていく。
ちなみに、リズム&ブルースは1949年に生まれたとされる言葉で、それまでは黒人の音楽を指す専門用語はほとんど存在しなかったようである。ただ、リズム&ブルースは、黒人音楽のイメージが余りに強いため、ロックンロールという新語が生まれたようだ。ともあり、ファッツ・ドミノが生み出し、デイヴ・バーソロミューが演奏とプロデュースを手掛けた音楽は全米で大ヒット。新たな音楽の潮流を生むことになった。
ブラスの分厚いニューオーリンズサウンドがとにかく華やかで、音楽性の豊かさに魅せられる。

ピーター・バラカンのアフタートークは、ニューオーリンズの紹介を中心としたもので(持ち時間が限られていたためにそこから先に行けなかったということもある)、フレンチクオーターと呼ばれる地域があり、フランス統治時代の面影が残っている(ルイジアナ州のルイジアナとはルイ○世のルイ由来の地名であり、オーリンズとはフランスのオルレアン地方が由来である)。フレンチクオーターの北の方にコンゴスクエアという場所があるが、ここで黒人奴隷達が週に1回音楽を奏でることが許されたそうで、ここが黒人音楽の発祥の地ということになるようである。音楽をすることを許されたのは、ピーター・バラカンによると統治していたフランスがカトリックの国であったことが大きいという。その他の地域、イギリスの統治下にあったところは、黒人が音楽を奏でることは許されなかったそうである。

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2022年10月26日 (水)

史の流れに(10) 京都文化博物館 「新選組展2022」

2022年10月4日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「新選組展2022」を観る。
京都文化博物館で、「新選組展」が行われたのは2004年のこと。大河ドラマ「新選組!」放送を記念してのことだった。だがその時点では歴史学界では、松浦玲の『新選組』(岩波新書)によると「研究に値しない団体」と見なされていた。小説やマンガ、ゲームなどでは新選組は特に女子に人気で、当時流行り始めていた言葉を使うと幕末の「『イケメン』剣豪集団」としてもてはやされていた。だがそれらは全てフィクションの世界を主舞台としており、地道な研究の道には繋がりにくいものだったのである。それが大河ドラマ「新選組!」が契機となってようやく研究の俎上に乗り、以降の研究の成果が「新選組展2022」として発表されることになった。

文書が中心の展示であるため、比較的地味であり、私は崩し字は読めないということで、「真の成果」がどこにあるのか判別しがたい状態ではあるのだが、文書に記された「小島鹿之助」「佐藤彦五郎」といった多摩の人々の名前を見ると、久しぶりに出会った親戚のように思えて懐かしくなる。

新選組の土台を築いたのは、主に近藤勇が宗家を務める天然理心流の道場「試衛」一派と芹沢鴨ら水戸派の二派である。「試衛」と書いたが、実は近藤勇の道場を一般に知られる試衛館と記した史料は見つかっておらず、伝わっているのは試衛の2文字もしくは試衛場とした3文字だけである。主立った江戸の剣術道場、例えば千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館の三大道場などには全て「館」の字がつくため、「試衛の2文字だけでは不自然だから館が付いたのだろう」との推測によって試衛館とされているのである。ただ試衛館という名は現時点ではあくまでも想像上のものであるため、今回の展覧会の説明書きでは試衛の2文字で記されている。

新選組は、「京都守護職御預」と記されることも多いが、これも厳密にいうと誤りで、松平容保(松平肥後守)が約2ヶ月だけ京都守護職を離れて陸軍総裁となり、京都守護職が松平春嶽となった際も、松平春嶽ではなく容保の配下となっていることから、役職に従っていたのではなく、松平肥後守個人に従っていたことが分かるようである。そのため松平肥後守御預とした方が実態に近いようである。

新選組にはもう一つ、新撰組という表記もあり、これらは併用されていた。近藤や土方も両方の表記を用いている。当時は漢字などは「読めればいい」「分かればいい」という考えが一般的であったため、正式な表記というものもないということになっている。だが、研究の結果、正式な場では「新選組」表記がなされる傾向にあるということは分かったそうである。

土方歳三の愛刀は和泉守兼定、脇差が堀川国広ということはよく知られているが、根拠となっているのは近藤勇の書簡だそうで、今回の展覧会ではその書簡の現物も展示されている。
なお土方所蔵の和泉守兼定は現存しており、今回の展覧会でも展示されていたが、堀川国広は行方不明となっていて、本当に国広が打ったものなのかどうかは定かではない(近藤勇の愛刀である長曽根虎徹もまた見つかってはおらず真贋不明である)。

新選組の活躍を今に伝える史料として重要視されているものの一つに、永倉新八(本姓は長倉。維新後の名前は杉村義江)が書いた『新選組顛末記』(こちらは厳密に言うとインタビュー記事をまとめたもの)と『浪士文久報国記事』が挙げられる。いずれも最晩年の永倉が遺したもので、共に今も文庫版を手に入れて読むことが出来るが、残念ながらこの時代は今と違って編集者が内容を面白おかしく書き換えてしまうのが常識となっており、『新選組顛末記』の方は掲載された小樽新聞の記者が脚色した可能性が高く、『浪士文久報国記事』の方も永倉が記した原本は失われたままだが、『新選組顛末記』よりは永倉の実体験に近い内容が記されていると考えられているようである。

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2022年7月 9日 (土)

コンサートの記(786) Mimori Yusa Concert 2022「京都日和」

2022年7月3日 三条高倉の京都文化博物館別館にて

午後5時30分から、三条高倉の京都文化博物館(正式名称は京都府京都文化博物館。略称は文博〈ぶんぱく〉)別館で、遊佐未森のコンサート「京都日和」を聴く。遊佐未森が京都でライブを行うのは10年ぶりだそうだが、10年前のライブ(於・磔磔)にも私は接している。私と遊佐未森は丁度10歳差なので、前回は今の私と同じ年齢の時に京都でのライブを行ったことになる。

遊佐未森は毎年春に、ギターの西海孝とパーカッションの楠均とのトリオで東京と大阪で「cafe mimo」というライブを行っているが、今回の「京都日和」はギターは西海孝だが、パーカッションの代わりにハープの吉野友加(よしの・ゆか)が参加している。


元祖癒やし系シンガーでもある遊佐未森、浮遊感のある涼やかな歌声は、今の季節に聴くのにも相応しい。


白いドレスで登場した遊佐未森はまず「つゆくさ」と「天使のオルゴオル」の2曲歌った後で、会場である京都文化博物館別館(重要文化財)について、「すごく素敵なホールですね」「昔ここで色々な人が働いていたと思うんですけど、日銀の京都支店だったそうで」と語り、西海孝は知らなかったようで、「え? そうなの?」と驚いていた。遊佐未森は、京都文化博物館別館の前を通ったことは何度もあるそうだが、中に入るのは今日が初めてだそうである。「楽屋として使わせて貰っている部屋も応接室だったところのようで、調度品も全てが素敵」と絶賛であった。


私は初めて演奏を聴くハープ奏者の吉野友加。小学6年生の時にハープを始めたが、そのきっかけが、「ピアノの先生から突然、『お前、ピアノ下手くそだからハープ弾け』と言われた」ことだそうで、折良く近所に小学6年生のハープを習いたい子を探している先生がいたそうである。なぜ小学6年生かというと、中学校1年生から音楽科でハープを専攻する子を出したかったからだそうで、吉野は「(ハープ奏者として成功出来たので)ピアノが下手くそで良かった」と語っていた。


最新アルバム『潮騒』に収録された「ルイーズと黒猫」を歌う前に、背後の元カウンターの仕切りを覆っていた茶色い布が取り払われ、往事の日本銀行京都支店の姿が明らかになる。

「僕の森」を歌う前には、「ずいぶん昔に作った、と言いそうになったんですけど、デビューして間もない頃に作った。私、今、何歳なんだろう?」という話をする。
遊佐未森は独自のファルセットを得意としているが、「僕の森」はそうでないと「こういう曲を作ろう」という発想すら出来ない曲である。

「街角」では「久しぶりに」リコーダーも演奏された。

国立(くにたち)音楽大学出身の遊佐未森。これまでコンサートでクラシックの曲を歌うことはほとんどなかったのだが、今日はヘンデルの歌劇『リナルド』より「私を泣かせてください(Lascia ch'io pianga)」を歌う。導入部のレチタティーヴォ付きの歌唱である。
クラシックの教育を受けていることがはっきりと分かる歌声。本人もクラシックを歌う時にはスイッチが入るそうで、歌い方が変わるので驚かれるそうである。
仙台の常盤木高校音楽科時代には、音楽の先生がとにかく何でも歌わせるという方針だったそうで、それが今の音楽家としての下地になっているようだ。


ピアノに向かって座り、「早いものであと2曲になってしまいました」と語った遊佐未森だが、「あ、間違えた」ということで、残りはあと3曲で、次の曲は弾き語りではなく立って歌う曲であることが分かる。「夏草の線路」が歌われる。

ラスト2曲はアルバム『潮騒』からの曲で、「I still See」と「潮騒」をピアノ弾き語りで歌唱。

「cafe mimo」などでは、アンコール曲演奏の前に、西海孝と楠均がBPB(物販ブラザーズ)として物販の宣伝を行うことが恒例となっており、まず西海孝が現れて「BPB!」と連呼するが、「今回はBPBの兄(楠均)がいないということで、代わりに妹が来ています」と吉野友加を呼んで、ミニトートバックの宣伝などを行う。

その後、未森さんが現れ、アンコールとして「オレンジ」が歌われた。

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2021年11月11日 (木)

美術回廊(70) 京都文化博物館 創業200年記念「フィンレイソン展―フィンランドの暮らしに愛され続けたテキスタイル―」

2021年11月3日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、創業200年記念「フィンレイソン展 ―フィンランドの暮らしに愛され続けたテキスタイル―」を観る。

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フィンランドのタンペレに本社を置いていたテキスタイル企業、フィンレイソン。北欧のデザイン界を代表する企業だが、フィンレイソンというのは英国スコットランドからやって来た創業者、ジェームズ・フィンレイソンの苗字であり、「フィン」と入るがフィンランドとは一切関係がないようである。なお、200年に渡ってフィンランドのテキスタイルデザインをリードし続けたフィンレイソンであるが、20世紀後半の綿工業の衰退により、現在では本社を首都のヘルシンキに移し、生産は海外の工場に一任しているようである。
ちなみに、フィンレイソンを代表するデザインの名は「コロナ(王冠)」という何とも皮肉なものである。

1820年。ロシア統治下のフィンランドで創業されたフィンレイソン。工業都市タンペレに本拠を置き、ロシア人経営者の下で急成長。タンペレ市民の6割ほどがフィンレイソンの社員として働いていたこともあるそうだ。また北欧で初めて女性を社員として雇った企業でもあり、1880年代から1920年代に掛けては、女性社員の数が男性社員のそれを上回っていたそうで、かなり画期的な運営をしていたことが分かる。

動植物の柄を中心としたシンプルなデザインが多いが、子どもを描いたデザインなどは可愛らしいものも多く、見る方も自然と頬が緩んでしまう。

トーベ・ヤンソンもムーミンを使ったデザインでフィンレイソンのテキスタイルに参加しており、今回の展覧会の見所の一つとなっている。

京都文化博物館の4階と3階の展示室を使用しているが、3階に展示されている作品は撮影自由である(フラッシュ撮影、動画撮影などは禁止)。
フィンレイソンは女性の社員が多いという話をしたが、参加しているデザイナーも1名を除いて全員女性である。アイニ・ヴァーリがメインのデザイナーのようで展示数も多いが、第二次世界大戦中には、ユダヤ人ということでドイツから逃れてきた女性がフィンレイソンのデザイナーになったこともあったようである。

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3階の展示室もシンプルで飾らないデザインが主流だが、中にはミンナ・アホネンという、フィンランドらしい名前ではあるが日本語で取ると愉快な名前のデザイナーもいる。みんながみんなアホだったら、それはそれで幸せな世の中になりそうではある。

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フィンランドということで、シベリウスの交響詩「フィンランディア」を題材としたデザインのうちの一つも展示されている。シルッカ・シヴェが1980年代末に手掛けたものだが、白地に赤黄青の三原色線を配したシンプルなもので、フィンランドを支配し続けてきたスウェーデンとロシアからの飛躍をモチーフにしているようでもある。

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フィンランドの有名人に、パーヴォ・ヤルヴィの名前の由来となったことでも知られる名指揮者、パーヴォ・ベルグルンドがいるが、同姓のカーリナ・ベルグルンドというデザイナーの作品も展示されている。血縁関係はないと思われるが、比較的有名なデザイナーのようである。カーリナ・ベルグルンドの作品は原題はイケアでは「グラウドブローマ(幸せな花)」と命名されていたようだ。

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デザイナーということで、ヘルシンキ芸術デザイン大学(2010年に合併改組されて、アアルト大学となっている)の卒業生も多い。
ヘルシンキ芸術デザイン大学出身の、アンナ・フフタが描いた都市のデザインは、簡素化された図形の配置と色合いがいかにも北欧的である。

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リーサ・スーラ(ジョルジュ・スーラとは多分、無関係)が花の絵2点は、「キオト(京都)」と名付けられている。「京都は春の花の美しいところ」と聞いて命名したそうである。

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2021年8月28日 (土)

美術回廊(68) 京都文化博物館「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」

2021年8月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」を観る。
京都府立の施設である京都文化博物館も緊急事態宣言発出により、明日から休業に入るのだが、「小早川秋聲」展だけは引き続き展示が行われる予定である。

1885年生まれの小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)。鳥取県日野郡日野町の真宗大谷派の寺院・光徳寺の住職の子として生まれた秋聲(本名:盈麿。みつまろ)。母親は摂津三田(さんだ)元藩主・九鬼隆義の養妹であり、幼時を母の実家である神戸で過ごした。7歳から仏典を教わった秋聲は、父親が出世により本山である京都・東本願寺の事務局長となったため、共に京都に移住。9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。いったんは鳥取に戻った秋聲だったが、画家を志して二十歳の時に再び上洛。以降、88歳で他界するまで京都を本拠地として作品制作に取り組んだ。とはいえ、旅好きであった秋聲は、中国を皮切りにヨーロッパやアメリカまで出掛けて作品を残しており、旅を愛し、旅に生きた画家でもあった。

幸野楳嶺の門下である谷口香嶠に師事した秋聲は、谷口が京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の前身)の教師になったため、同校に入学しているが、南画や文人画など中国を本場とする絵画に憧れていたこともあって、すぐに退学して中国に渡り、水墨画を学んだ。
秋聲の絵は、中国絵画からの影響が濃厚である。そうした画風を持ちつつ、欧米の風物を描いたことが強い個性へと繋がっているように思える。

満州事変以降、中国や東南アジアに渡って戦争画を作成した小早川だが、1974年に没すると急速に忘れ去られてしまう。彼の名前が再び脚光を浴びるのは、戦争画の一つである「國之楯」が戦争画展で注目を浴びたここ数年のことであるという。ということで、小早川秋聲の回顧展は今回が初めてとなる。「國之楯」で注目されたが、他の作品が全く知られていないという事実が、今回の展覧会開催の端緒となったようだ。

戦争画と関連のある絵画と見ることも出来る「山中鹿介三日月を排する之図」で展示はスタートする。題材は日本であるが、画風は典型的な南画の系列に入る。歴史的人物を描いた絵としては他に「楠公父子」という作品があり、楠木正成と楠木正行が描かれている。忠臣を描くことが好きだったのかどうかは分からない。

京都市立絵画専門学校時代の習作であるという「するめといわし」は、日本画のタッチで西洋的な描写も視野に入れるということで、高橋由一の作風によく似ている。

中央の火の明かりが周囲の人々を浮かび上がらせる「露営之図」の技法はその後も何度も用いられることになる。


海外を題材にした絵としては、満州吉林、蒙古ゴビ砂漠、台湾(当時日本領)、香港(当時英国領)、インド(当時英国領)のタージマハール、エジプト(当時英国領)、イタリア・ナポリ、ローマ、南仏ニース、グリーンランド、パリ、アメリカ・グランドキャニンなどを描いた作品が展示されている。いずれも西洋的な技術や視点とは異なるスタイルが取られているのが興味深い。
小早川は、ヨーロッパの夕景を好んだそうで、光と影の配分に力を入れているという点で、日本の伝統的な絵画の技術も受け継いでいることが分かる。
一見、暖かでユーモラスなタッチで描かれている「巴里所見」も描かれているのは大道芸人達ということで下層階級の人々だそうである。

一方で、「國之楯」と共に展覧会のポスターにも採用されている「長崎へ航(ゆ)く」 は、長崎の出島へ向かうオランダ商船をオランダ人が見送るという構図を持った作品で、日本人的でない発想力を持った人だったことも分かる。

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出征家族に送ることを想定した戦争画では勇ましい日本男児の姿が描かれているが、戦場で眠る日本兵士を描いた「虫の音」などはユーモラスであり、小早川の個性が窺われる。

戦死した日本軍兵士を描いた「國之楯」は、構図も内容も衝撃的である。戦死した日本人を描くのは好ましいとはされなかったようで、依頼した陸軍省から一度は受け取りを拒否されたという。

敗戦後、戦犯とされるのは覚悟の上だったという小早川だが、従軍中に体調を崩しており、京都で依頼される仏画などを描いて晩年を過ごす。真宗大谷派の寺の出身ということで、蓮如上人を題材としていたり、無量寿経(大経)に出てくる「天下和順(てんげわじゅん)」をイメージした絵画を制作している。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起(天下は治まり、日や月が煌々と輝く 風雨は相応しい時に立ち、災害や疫病も起こることがない)」

 

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2021年6月16日 (水)

2346月日(33) 京都文化博物館 京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」&「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」

2021年6月11日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」と「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」を観る。

「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」は、修復された寺町・誓願寺の門前町を描いた屏風絵の展示が中心となる。豊臣秀吉によって築かれた寺町。その中でも本能寺などと並んでひときわ巨大な伽藍を誇っていたのが誓願寺である。

落語発祥の地としても名高い浄土宗西山深草派総本山誓願寺。明治時代初期に槇村正直が新京極通を通したために寺地が半分以下になってしまったが、往時は北面が三条通に面するなど、京都を代表する大寺院であった。
この「誓願寺門前図屏風」作成の中心となった人物である岩佐又兵衛は、実は織田信長に反旗を翻したことで知られる荒木村重の子である(母親は美女として知られた、だしといわれるがはっきりとはしていないようである)。荒木村重が突然、信長を裏切り、伊丹有岡城に籠城したのが、岩佐又兵衛2歳頃のこととされる。使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉するなど、徹底抗戦の姿勢を見せた荒木村重であるが、その後、妻子を残したまま有岡城を抜け出し、尼崎城(江戸時代以降の尼崎城とは別の場所にあった)に移るという、太田牛一の『信長公記』に「前代未聞のこと」と書かれた所業に出たため、有岡城は開城、村重の妻子は皆殺しとなったが、又兵衛は乳母によってなんとか有岡城を抜け出し、石山本願寺で育った。その後、暗君として知られる織田信雄に仕えるが、暗君故に信雄が改易となった後は京都で浪人として暮らし、絵師としての活動に入ったといわれる。

誓願寺門前図屏風は、1615年頃の完成といわれる。大坂夏の陣のあった年である。翌1616年頃に又兵衛は越前福井藩主・松平忠直に招かれて、福井に移っているため、京都時代最後の大作となる。又兵衛一人で描いたものではなく、弟子達との共作とされる。又兵衛は福井で20年を過ごした後、今度は二代将軍・徳川秀忠の招きによって江戸に移り、その地で生涯を終えた。又兵衛は福井から江戸に移る途中、京都に立ち寄ったといわれている。

岩佐又兵衛について研究している京都大学文学研究科准教授の筒井忠仁出演の13分ちょっとの映像が、「誓願寺門前図屏風」の横で流されており、「誓願寺門前図屏風」に描かれた京の風俗や修復の過程で判明したことなどが語られる。

経年劣化により、かなり見にくくなっていた「誓願寺門前図屏風」。修復の過程で、二カ所に引き手の跡が見つかり、一時期は屏風ではなく襖絵として用いられたことが確認されたという。

『醒睡笑』の著者で落語の祖とされる安楽庵策伝が出たことで、芸能の寺という側面を持つ誓願寺には今も境内に扇塚があるが、「誓願寺門前図屏風」にも誓願寺のそばに扇を顔の横にかざした女性が描かれている。

また、三条通と寺町通の交差する北東角、現在は交番のある付近には、扇子を売る女性が描かれているが、彼女達は夜は遊女として働いていたそうである。また、今は狂言で女性役を表すときに使う美男鬘を思わせるかづきを被った女性などが描かれている。

誓願寺は和泉式部が帰依した寺ということで、和泉式部の塚も以前は誓願寺にあったようだ(現在は少し南に位置する誠心院に所在)。誓願寺は女人往生の寺であるため、女性の姿も目立つ。
一方、三条寺町では馬が暴れて人が投げ出されていたり、喧嘩というよりも決闘が行われていたり、物乞いがいたりと、当時の京都の様々な世相が描かれている。

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その他には、茶屋氏、角倉氏と並ぶ京の豪商だった後藤氏関係の資料が展示されている。後藤氏の邸宅は現在、新風館が建つ場所にあった。かなり広大な面積を持つ屋敷だったようで、往時の後藤氏の勢力が窺える。
作庭家や茶人としても有名な小堀遠州(小堀遠江守政一)や、豊臣家家老でありながら大坂を追われることになった片桐且元、加賀金沢藩2代目の前田利光(後の前田利常)、熊本城主・加藤清正らが後藤家の当主に宛てた手紙が残されており、後藤家の人脈の広さも分かる。虎狩りで知られる加藤清正だが、清正から後藤氏に出された手紙には、虎の毛皮を送られたことへの感謝が綴られており、清正が虎狩りをしたのではなく虎皮を貰った側ということになるようだ。


元々、下京の中心は四条室町であったが、江戸時代には町衆の中心地は、それよりやや東の四条烏丸から四条河原町に至る辺りへと移っていく。
出雲阿国の一座が歌舞伎踊りを披露した四条河原は、京都を代表する歓楽地となり、紀広成と横山華渓がそれぞれに描いた「四条河原納涼図」が展示されている。紀広成は水墨画の影響を受けたおぼろな作風であり、一方の横山華渓は横山華山の弟子で華山の養子に入ったという経歴からも分かる通り描写的で、描かれた人々の声や賑わいの音が聞こえてきそうな生命力溢れる画風を示している。

後半には四条河原町付近の住所である真町(しんちょう)の文書も展示されている。面白いのは、四条小橋西詰の桝屋(枡屋)喜右衛門の名が登場することである。万延元年(1860)の文書で、灰屋という家の息子である源郎が、桝屋喜右衛門の家に移るという内容の文書と、転居したため宗門人別改にも変更があり、河原町塩谷町にあった了徳寺という寺院の宗門人別改帳への転籍が済んだことが記載されている。

実はこの翌年、または2年後に、桝屋の主であった湯浅喜右衛門に子がなかったため、近江国出身で山科毘沙門堂に仕えていた古高俊太郎が湯浅家に養子として入り、桝屋喜右衛門の名を継いでいる。古高俊太郎は毘沙門堂に仕えていた頃に梅田雲浜に師事しており、古高俊太郎が継いで以降の桝屋は尊皇討幕派の隠れアジトとなって、後の池田屋事件の発端へと繋がっていくことになる。ということで、灰屋源郎なる人物も古高俊太郎と会っていた可能性があるのだが、詳細はこれだけでは分からない。

 

3階では、「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催されている。
シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎が独立美術協会を立ち上げたのが1930年。その後、四条河原町の雑居ビルの2階に独立美術京都研究所のアトリエが設置され、京都でも新しい美術の可能性が模索されるようになる。だが戦時色が濃くなるにつれてシュルレアリスムなどの前衛芸術などは弾圧されていく。そんな中で現在の京都府京丹後市出身である小牧源太郎は、仏画を題材とした絵画を制作することで土俗性や精神性を追求していったようである。

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2021年4月30日 (金)

2346月日(31) 「-人生旅的途上(じんせいたびのとじょう)- 没後20年 河島英五展」@京都文化博物館別館

2021年4月21日 三条高倉の京都文化博物館別館にて

京都文化博物館別館で、「-人生旅的途上(じんせいたびのとじょう)- 没後20年 河島英五展」を観る。

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「酒と泪と男と女」、「時代おくれ」、「野風増」などのヒット曲を生み、多くの人から愛されながら、2001年に48歳の若さで旅立った河島英五の回顧展。愛用の楽器、創作ノート、円空画などの絵画を中心とした展示で、写真撮影可である。

創作ノートには歌詞の他にコードが記されており、また旅先から夫人などに贈った絵葉書の裏にはびっしりと文字が書き付けられており、筆まめな性格がうかがえる。

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生前、交流のあった人からのメッセージボードもあり、関西出身者を中心とした多くの著名人の肉筆を見ることが出来る。

河島英五は、1952年4月23日、大阪府東大阪市生まれ。大阪府立花園高校在学中にバスケットボール仲間4人で、フォークグループ「ホモサピエンス」を結成。その2年後、まだ高校在学中に、大阪毎日ホールで初ステージを踏み、更に中之島のフェスティバルホールで行われた岡林信康の公演の前座として出演する機会を得る。音楽の聖地、フェスでの第一歩だったが、客席から「帰れ!」コールを浴びたため、演奏を中止して引っ込まざるを得なかったようだ。この頃に初期の代表曲となる「酒と泪と男と女」を作詞・作曲。フェスでの出来事と、この曲の内容はリンクしそうだが、実際の相関関係については不明のようである。ただ河島はこの時まだ十代で、しかも実際は体質的に酒がほとんど飲めなかった。ということで「酒と泪と男と女」で描かれた内容は実体験に基づいたわけではないフィクションである。

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その後、拠点を京都に移して歌手活動を開始。京都レコードからデビューした。

22歳の時の「何かいいことないかな」でワーナーパイオニアからメジャーデビュー。翌年にリリースした「酒と泪と男を女」がヒットし、以後、日本音楽界の重要な一角を占める存在として走り続けた。

活動の合間に世界各地を放浪。俳優活動も行うようになり、1987年にはNHKドラマ「まんが道」に寺田ヒロオ役という重要な役で出演。晩年にはNHK連続テレビ小説「ぴあの」や「ふたりっ子」などにも出演した。晩年には大阪の法善寺横町でライブハウスやイタリアンレストランなどの経営も手掛けている。

2001年に体調を崩し、4月16日にC型肺炎のために死去した。

江戸時代の修業僧、円空が彫った仏像を描くことを好み、北海道から東北地方を回ってもいる。

一番奥の展示(京都文化博物館本館への通用口のそば)ではステージが組まれ、河島英五が1994年に淡路島の南淡町(現・南あわじ市)で行ったライブの映像が流れている。
デビュー曲である「何かいいことないかな」を聴衆との掛け合いで続けた後で、「酒と泪と男と女」、「伝達」が歌われた。

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2021年4月24日 (土)

史の流れに(7) 京都文化博物館 「特別展 よみがえる承久の乱――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」

2021年4月16日 三条高倉の京都府京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館で、「特別展 よみがえる承久の乱 ――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」を観る。

来年の大河ドラマは、三谷幸喜の脚本で、小栗旬が主役である北条義時を演じる「鎌倉殿の13人」であるが、承久の乱はクライマックスとして描かれることが予想される。

三谷幸喜は、「新選組!」で香取慎吾演じる近藤勇を「最後の武士」として描き(野田秀樹演じる勝海舟が近藤を評して、「あれは本物の武士だよ。そして最後のな」と語るセリフがある)、「真田丸」では堺雅人演じる真田幸村(真田信繁)を「最後の戦国武将」として登場させた。最後をやったので今度は最初をやりたいということになったのだと思われるが、最初の武家政権とされる平清盛による政治は、平氏が公家化することで公家のトップである太政大臣として打ち立てており、本当の武家政権かというとそうでもない。源頼朝は京を離れた東国で鎌倉幕府を築いたが、征夷大将軍という位を朝廷から頂いており、朝廷のお墨付きで東国のみの支配として行われた政権である。その点、北条氏の政権は執権という朝廷から頂いたのではないポジションで行われており、しかも承久の乱で皇族や公家を屈服させて武士の優位を示した上で行われる公議制の全国的政権ということで、「真の武家政権」という見方も出来る。少なくとも三谷幸喜はそういう解釈をしているのだと思われる。

承久の乱に関する史料はそれほど多く残っているというわけでもないようで、「承久記」や「承久記絵巻」が最大の目玉であるが、いずれも江戸時代に想像で描かれたものであり、一次史料ではない。ということで、承久の乱に至るまでの武士の興隆の展示からスタートする。
保元の乱や平治の乱を描いた屏風絵、「平家物語絵巻」や源平合戦図屏風などが展示されている。

後鳥羽上皇は、承久の乱絡みか、法然や親鸞が流罪となった承元の法難でのみ知られているため、「タカ派」に見られやすいが、実際は歌道の名人で「新古今和歌集」の編纂を命じ、蹴鞠の得意とするなど文化人としての高い資質も示していた。藤原俊成やその息子の定家と親しく、藤原定家が小倉百人一首に自作として入れた、「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」の「来ぬ人」とは後鳥羽上皇のことだとする説がある。

鎌倉幕府の成立(以前は源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年に鎌倉幕府が起こったと見るのが主流だったが、現在は源氏が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝に守護・地頭を任ずる権利が与えられた1185年が鎌倉幕府成立の年と教えられるようである) から承久の乱に至るまでが「吾妻鏡」や「曽我物語絵巻」などで語られる。
藤原定家の日記である「明月記」の展示もあるが、頼朝が出家をした2日後に急死したことをいぶかる記述がある。

承久の乱の最初の重要地点となったのは美濃の墨俣である。後に羽柴秀吉が美濃攻めの足がかりとして一夜城を築いたことでも知られるが、昔から重要な場所であったことが分かる。また木曽義仲と源義経が戦った宇治川が次の決戦地となり、要衝の地は変化していない。

後鳥羽上皇が流された隠岐に関する展示は写真が中心。寂しいが史料がほとんど残っていないようである。ただ後鳥羽上皇は、隠岐にあっても「古今和歌集」の編纂に情熱を燃やしたらしいということが分かっているようだ。本質的には文人だったようである。

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2020年10月14日 (水)

美術回廊(58) 京都文化博物館 特別展「舞妓モダン」

2020年10月8日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で行われている特別展「舞妓モダン」を観る。
舞妓を描いた絵画を中心とした展覧会である。
京都以外の人は案外知らなかったりするのだが、舞妓というのは芸妓になるための見習い期間を指す言葉であり、「半人前」である。それがいつの間にか芸妓よりも注目されるようになっている。
私が子どもの頃に、京都出身にして在住の推理小説家であった山村美紗が舞妓が探偵役を務めるシリーズを書いてヒットにつなげており、テレビドラマ化などもされたため、この時点で舞妓がすでに人気だったことがわかるのだが、その後、宮川町が芸妓ではなく舞妓を前面に押し出す戦略を始め、宮川町が後援する舞妓を題材とした映画がいくつか作られている。
その後、それとは全く無関係に周防正行監督の「舞妓はレディ」も制作されるなど、初々しさが売りの舞妓は京都の象徴であり続けている。

舞妓は今では「半人前」ということで髪型や衣装も芸妓とは異なっているが、江戸時代以前にはそうした区別はなかったそうで、往時の絵では描かれているのが舞妓なのか芸妓なのか判然としないそうである。

江戸時代から明治初期までに描かれた舞妓はいわゆる「江戸美人」の名残を残しており、細いつり目の瓜実顔であり、今の「美人」や「可愛い」とは大分基準が異なる。美人芸妓として知られた江良加代を描いた絵と彼女の写真も展示されているが、今の時代であっても彼女が売れっ子になれたかというとかなり怪しくなってくる。

昭和6年(1931)に行われた都をどりの映像が流れている。昭和6年というと、関西では大阪城天守閣の再建(正確に書くと「新たなデザインによる建設」となる)がなった年として重要だが、松の廊下事件から230年目ということで、「忠臣蔵」を題材とした演目で都をどりが行われたようである。今でも美人で通用する人と難しいかも知れない人の両方が映っているが、昭和初期であっても今と美人の基準が異なっているのは映画スターの顔を見ればわかり、今の基準で美人の子が当時も人気だったかどうかは分からない。全ては無常で移り変わっていくのである。

「つり目の舞妓」が、黒田清輝の絵画(明治29年に描かれたもの。なお、後期からは重要文化財に指定されている黒田の「舞妓」という作品が展示される予定である)から一気に変わる。キュレーターがそういう絵を選んだという可能性もあるのだが、展示された黒田清輝の絵に登場する舞妓はつり目ではなく、フラットというかナチュラルな表情をしている。日本における美人の基準が年を経れば経るほど西洋の美女に似てくるというのはよくいわれることであり、現代でもハーフタレントなどは大人気であるが、黒田清輝が舞妓の絵を描いたのはフランスへの留学を終えて帰国した後であり、あるいは当時の一般的な日本人とは違った美意識を持っていたかも知れない。異国への留学を経て帰ってきた黒田であるが、京都の舞妓にむしろ外国人以上に外国的なものを見出したことが記されている。

山があり、川が流れ、田園が広がるという景色が日本の原風景だとすると、大都市は明らかに「非日本的」な要素を多く持つことは自明であるが、ご一新の世にあっても大都市の中では日本らしさを守り続けた京都は明治時代においてすでに異国的であり、年を経るにつれ、様々な時代の建造物や価値観が渾然一体となって、いうなれば「日本的要素を凝縮しすぎたが故に却って異国的」となっていく。芸妓・舞妓はその象徴ともいえる。誤解を怖れずにいえば、彼女達は異人なのだ。特に舞妓は、華麗な衣装を纏ってはいるが半人前というアンバランスさを持っており、そこに一種の儚さやこの世ならぬものが見出されていく。

京都画壇を代表する画家である竹内栖鳳は、舞妓の「不自然さ」について書いている。竹内によると舞妓はその仕草からして不自然であり、往時は9歳から舞妓になれたということで、幼い顔や肉体とその優美な着物が不一致であるとしている。

大正時代に入ると長田幹彦が書いた祇園を舞台とする小説がヒットし、大正を代表する美人画家である竹久夢二が長田とコラボレーションを行うようになる。夢二が描く舞妓はいかにも夢二的なものである。絵としては正直弱いと思うが、大衆受けはとにかく良かったため、祇園の知名度を上げることには大いに貢献したであろうことが想像される。

舞妓という存在の不可思議性を追求する画家はその後も登場しており、速水御舟が描いた一見グロテスクな「京の舞妓」(大正9年。この作品は前期のみの展示)は、その特異性に光を当てていると見ることも出来る。ちなみにこの作品は、「悪趣味だ」として、横山大観を始めとする多くの画家から酷評されたそうである。

岡本神草の「口紅」(大正7年。この作品も前期のみの展示)も、舞妓を泉鏡花の小説に出てきそうなあだっぽい存在として描いたものであり、問題視されたそうである。

勿論、舞妓が持つそのものの魅力を描く画家もおり、「舞妓モダン」のポスターに使われている北野恒富の「戯れ」は青紅葉とカメラを持った舞妓の横顔を描いており、瑞々しさが強調されている。

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だが、その後もデフォルメは続き、下村良之介が昭和55年に描いた「たこやき」などは可憐な舞妓のイメージから最もかけ離れたものになっている。

その他にも、一見、可憐な舞妓に見えるが、よく見えると目が白人風だったりと、「別世界の女性」としての舞妓を描く作品は多い。

舞妓と呼ばれるのは芸妓になる前の5年ほどの歳月である。可憐にして奇妙な仕組みの住人となるこの短い日々を、画家達は常識的でない視点で切り取っている。

 

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