カテゴリー「京都文化博物館」の21件の記事

2021年8月28日 (土)

美術回廊(68) 京都文化博物館「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」

2021年8月19日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」を観る。
京都府立の施設である京都文化博物館も緊急事態宣言発出により、明日から休業に入るのだが、「小早川秋聲」展だけは引き続き展示が行われる予定である。

1885年生まれの小早川秋聲(こばやかわ・しゅうせい)。鳥取県日野郡日野町の真宗大谷派の寺院・光徳寺の住職の子として生まれた秋聲(本名:盈麿。みつまろ)。母親は摂津三田(さんだ)元藩主・九鬼隆義の養妹であり、幼時を母の実家である神戸で過ごした。7歳から仏典を教わった秋聲は、父親が出世により本山である京都・東本願寺の事務局長となったため、共に京都に移住。9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入る。いったんは鳥取に戻った秋聲だったが、画家を志して二十歳の時に再び上洛。以降、88歳で他界するまで京都を本拠地として作品制作に取り組んだ。とはいえ、旅好きであった秋聲は、中国を皮切りにヨーロッパやアメリカまで出掛けて作品を残しており、旅を愛し、旅に生きた画家でもあった。

幸野楳嶺の門下である谷口香嶠に師事した秋聲は、谷口が京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学の前身)の教師になったため、同校に入学しているが、南画や文人画など中国を本場とする絵画に憧れていたこともあって、すぐに退学して中国に渡り、水墨画を学んだ。
秋聲の絵は、中国絵画からの影響が濃厚である。そうした画風を持ちつつ、欧米の風物を描いたことが強い個性へと繋がっているように思える。

満州事変以降、中国や東南アジアに渡って戦争画を作成した小早川だが、1974年に没すると急速に忘れ去られてしまう。彼の名前が再び脚光を浴びるのは、戦争画の一つである「國之楯」が戦争画展で注目を浴びたここ数年のことであるという。ということで、小早川秋聲の回顧展は今回が初めてとなる。「國之楯」で注目されたが、他の作品が全く知られていないという事実が、今回の展覧会開催の端緒となったようだ。

戦争画と関連のある絵画と見ることも出来る「山中鹿介三日月を排する之図」で展示はスタートする。題材は日本であるが、画風は典型的な南画の系列に入る。歴史的人物を描いた絵としては他に「楠公父子」という作品があり、楠木正成と楠木正行が描かれている。忠臣を描くことが好きだったのかどうかは分からない。

京都市立絵画専門学校時代の習作であるという「するめといわし」は、日本画のタッチで西洋的な描写も視野に入れるということで、高橋由一の作風によく似ている。

中央の火の明かりが周囲の人々を浮かび上がらせる「露営之図」の技法はその後も何度も用いられることになる。


海外を題材にした絵としては、満州吉林、蒙古ゴビ砂漠、台湾(当時日本領)、香港(当時英国領)、インド(当時英国領)のタージマハール、エジプト(当時英国領)、イタリア・ナポリ、ローマ、南仏ニース、グリーンランド、パリ、アメリカ・グランドキャニンなどを描いた作品が展示されている。いずれも西洋的な技術や視点とは異なるスタイルが取られているのが興味深い。
小早川は、ヨーロッパの夕景を好んだそうで、光と影の配分に力を入れているという点で、日本の伝統的な絵画の技術も受け継いでいることが分かる。
一見、暖かでユーモラスなタッチで描かれている「巴里所見」も描かれているのは大道芸人達ということで下層階級の人々だそうである。

一方で、「國之楯」と共に展覧会のポスターにも採用されている「長崎へ航(ゆ)く」 は、長崎の出島へ向かうオランダ商船をオランダ人が見送るという構図を持った作品で、日本人的でない発想力を持った人だったことも分かる。

Dsc_21562


出征家族に送ることを想定した戦争画では勇ましい日本男児の姿が描かれているが、戦場で眠る日本兵士を描いた「虫の音」などはユーモラスであり、小早川の個性が窺われる。

戦死した日本軍兵士を描いた「國之楯」は、構図も内容も衝撃的である。戦死した日本人を描くのは好ましいとはされなかったようで、依頼した陸軍省から一度は受け取りを拒否されたという。

敗戦後、戦犯とされるのは覚悟の上だったという小早川だが、従軍中に体調を崩しており、京都で依頼される仏画などを描いて晩年を過ごす。真宗大谷派の寺の出身ということで、蓮如上人を題材としていたり、無量寿経(大経)に出てくる「天下和順(てんげわじゅん)」をイメージした絵画を制作している。
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起(天下は治まり、日や月が煌々と輝く 風雨は相応しい時に立ち、災害や疫病も起こることがない)」

 

| | | コメント (0)

2021年6月16日 (水)

2346月日(33) 京都文化博物館 京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」&「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」

2021年6月11日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完成記念「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」と「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」を観る。

「花ひらく町衆文化 ――近世京都のすがた」は、修復された寺町・誓願寺の門前町を描いた屏風絵の展示が中心となる。豊臣秀吉によって築かれた寺町。その中でも本能寺などと並んでひときわ巨大な伽藍を誇っていたのが誓願寺である。

落語発祥の地としても名高い浄土宗西山深草派総本山誓願寺。明治時代初期に槇村正直が新京極通を通したために寺地が半分以下になってしまったが、往時は北面が三条通に面するなど、京都を代表する大寺院であった。
この「誓願寺門前図屏風」作成の中心となった人物である岩佐又兵衛は、実は織田信長に反旗を翻したことで知られる荒木村重の子である(母親は美女として知られた、だしといわれるがはっきりとはしていないようである)。荒木村重が突然、信長を裏切り、伊丹有岡城に籠城したのが、岩佐又兵衛2歳頃のこととされる。使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉するなど、徹底抗戦の姿勢を見せた荒木村重であるが、その後、妻子を残したまま有岡城を抜け出し、尼崎城(江戸時代以降の尼崎城とは別の場所にあった)に移るという、太田牛一の『信長公記』に「前代未聞のこと」と書かれた所業に出たため、有岡城は開城、村重の妻子は皆殺しとなったが、又兵衛は乳母によってなんとか有岡城を抜け出し、石山本願寺で育った。その後、暗君として知られる織田信雄に仕えるが、暗君故に信雄が改易となった後は京都で浪人として暮らし、絵師としての活動に入ったといわれる。

誓願寺門前図屏風は、1615年頃の完成といわれる。大坂夏の陣のあった年である。翌1616年頃に又兵衛は越前福井藩主・松平忠直に招かれて、福井に移っているため、京都時代最後の大作となる。又兵衛一人で描いたものではなく、弟子達との共作とされる。又兵衛は福井で20年を過ごした後、今度は二代将軍・徳川秀忠の招きによって江戸に移り、その地で生涯を終えた。又兵衛は福井から江戸に移る途中、京都に立ち寄ったといわれている。

岩佐又兵衛について研究している京都大学文学研究科准教授の筒井忠仁出演の13分ちょっとの映像が、「誓願寺門前図屏風」の横で流されており、「誓願寺門前図屏風」に描かれた京の風俗や修復の過程で判明したことなどが語られる。

経年劣化により、かなり見にくくなっていた「誓願寺門前図屏風」。修復の過程で、二カ所に引き手の跡が見つかり、一時期は屏風ではなく襖絵として用いられたことが確認されたという。

『醒睡笑』の著者で落語の祖とされる安楽庵策伝が出たことで、芸能の寺という側面を持つ誓願寺には今も境内に扇塚があるが、「誓願寺門前図屏風」にも誓願寺のそばに扇を顔の横にかざした女性が描かれている。

また、三条通と寺町通の交差する北東角、現在は交番のある付近には、扇子を売る女性が描かれているが、彼女達は夜は遊女として働いていたそうである。また、今は狂言で女性役を表すときに使う美男鬘を思わせるかづきを被った女性などが描かれている。

誓願寺は和泉式部が帰依した寺ということで、和泉式部の塚も以前は誓願寺にあったようだ(現在は少し南に位置する誠心院に所在)。誓願寺は女人往生の寺であるため、女性の姿も目立つ。
一方、三条寺町では馬が暴れて人が投げ出されていたり、喧嘩というよりも決闘が行われていたり、物乞いがいたりと、当時の京都の様々な世相が描かれている。

Dsc_1748

その他には、茶屋氏、角倉氏と並ぶ京の豪商だった後藤氏関係の資料が展示されている。後藤氏の邸宅は現在、新風館が建つ場所にあった。かなり広大な面積を持つ屋敷だったようで、往時の後藤氏の勢力が窺える。
作庭家や茶人としても有名な小堀遠州(小堀遠江守政一)や、豊臣家家老でありながら大坂を追われることになった片桐且元、加賀金沢藩2代目の前田利光(後の前田利常)、熊本城主・加藤清正らが後藤家の当主に宛てた手紙が残されており、後藤家の人脈の広さも分かる。虎狩りで知られる加藤清正だが、清正から後藤氏に出された手紙には、虎の毛皮を送られたことへの感謝が綴られており、清正が虎狩りをしたのではなく虎皮を貰った側ということになるようだ。


元々、下京の中心は四条室町であったが、江戸時代には町衆の中心地は、それよりやや東の四条烏丸から四条河原町に至る辺りへと移っていく。
出雲阿国の一座が歌舞伎踊りを披露した四条河原は、京都を代表する歓楽地となり、紀広成と横山華渓がそれぞれに描いた「四条河原納涼図」が展示されている。紀広成は水墨画の影響を受けたおぼろな作風であり、一方の横山華渓は横山華山の弟子で華山の養子に入ったという経歴からも分かる通り描写的で、描かれた人々の声や賑わいの音が聞こえてきそうな生命力溢れる画風を示している。

後半には四条河原町付近の住所である真町(しんちょう)の文書も展示されている。面白いのは、四条小橋西詰の桝屋(枡屋)喜右衛門の名が登場することである。万延元年(1860)の文書で、灰屋という家の息子である源郎が、桝屋喜右衛門の家に移るという内容の文書と、転居したため宗門人別改にも変更があり、河原町塩谷町にあった了徳寺という寺院の宗門人別改帳への転籍が済んだことが記載されている。

実はこの翌年、または2年後に、桝屋の主であった湯浅喜右衛門に子がなかったため、近江国出身で山科毘沙門堂に仕えていた古高俊太郎が湯浅家に養子として入り、桝屋喜右衛門の名を継いでいる。古高俊太郎は毘沙門堂に仕えていた頃に梅田雲浜に師事しており、古高俊太郎が継いで以降の桝屋は尊皇討幕派の隠れアジトとなって、後の池田屋事件の発端へと繋がっていくことになる。ということで、灰屋源郎なる人物も古高俊太郎と会っていた可能性があるのだが、詳細はこれだけでは分からない。

 

3階では、「さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち」展が開催されている。
シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎が独立美術協会を立ち上げたのが1930年。その後、四条河原町の雑居ビルの2階に独立美術京都研究所のアトリエが設置され、京都でも新しい美術の可能性が模索されるようになる。だが戦時色が濃くなるにつれてシュルレアリスムなどの前衛芸術などは弾圧されていく。そんな中で現在の京都府京丹後市出身である小牧源太郎は、仏画を題材とした絵画を制作することで土俗性や精神性を追求していったようである。

| | | コメント (0)

2021年4月30日 (金)

2346月日(31) 「-人生旅的途上(じんせいたびのとじょう)- 没後20年 河島英五展」@京都文化博物館別館

2021年4月21日 三条高倉の京都文化博物館別館にて

京都文化博物館別館で、「-人生旅的途上(じんせいたびのとじょう)- 没後20年 河島英五展」を観る。

Dsc_1492

「酒と泪と男と女」、「時代おくれ」、「野風増」などのヒット曲を生み、多くの人から愛されながら、2001年に48歳の若さで旅立った河島英五の回顧展。愛用の楽器、創作ノート、円空画などの絵画を中心とした展示で、写真撮影可である。

創作ノートには歌詞の他にコードが記されており、また旅先から夫人などに贈った絵葉書の裏にはびっしりと文字が書き付けられており、筆まめな性格がうかがえる。

Dsc_1496


生前、交流のあった人からのメッセージボードもあり、関西出身者を中心とした多くの著名人の肉筆を見ることが出来る。

河島英五は、1952年4月23日、大阪府東大阪市生まれ。大阪府立花園高校在学中にバスケットボール仲間4人で、フォークグループ「ホモサピエンス」を結成。その2年後、まだ高校在学中に、大阪毎日ホールで初ステージを踏み、更に中之島のフェスティバルホールで行われた岡林信康の公演の前座として出演する機会を得る。音楽の聖地、フェスでの第一歩だったが、客席から「帰れ!」コールを浴びたため、演奏を中止して引っ込まざるを得なかったようだ。この頃に初期の代表曲となる「酒と泪と男と女」を作詞・作曲。フェスでの出来事と、この曲の内容はリンクしそうだが、実際の相関関係については不明のようである。ただ河島はこの時まだ十代で、しかも実際は体質的に酒がほとんど飲めなかった。ということで「酒と泪と男と女」で描かれた内容は実体験に基づいたわけではないフィクションである。

Dsc_1497

Dsc_1498

Dsc_1499

その後、拠点を京都に移して歌手活動を開始。京都レコードからデビューした。

22歳の時の「何かいいことないかな」でワーナーパイオニアからメジャーデビュー。翌年にリリースした「酒と泪と男を女」がヒットし、以後、日本音楽界の重要な一角を占める存在として走り続けた。

活動の合間に世界各地を放浪。俳優活動も行うようになり、1987年にはNHKドラマ「まんが道」に寺田ヒロオ役という重要な役で出演。晩年にはNHKの朝の連続テレビ小説「ぴあの」や「ふたりっ子」などにも出演した。晩年には大阪の法善寺横町でライブハウスやイタリアンレストランなどの経営も手掛けている。

2001年に体調を崩し、4月16日にC型肺炎のために死去した。

江戸時代の修業僧、円空が彫った仏像を描くことを好み、北海道から東北地方を回ってもいる。

一番奥の展示(京都文化博物館本館への通用口のそば)ではステージが組まれ、河島英五が1994年に淡路島の南淡町(現・南あわじ市)で行ったライブの映像が流れている。
デビュー曲である「何かいいことないかな」を聴衆との掛け合いで続けた後で、「酒と泪と男と女」、「伝達」が歌われた。

Dsc_0001_burst20210421170415039 

Dsc_0000_burst20210421170420977

Dsc_0000_burst20210421170426429

| | | コメント (0)

2021年4月24日 (土)

史の流れに(7) 京都文化博物館 「特別展 よみがえる承久の乱――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」

2021年4月16日 三条高倉の京都府京都文化博物館にて

三条高倉にある京都文化博物館で、「特別展 よみがえる承久の乱 ――後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏――」を観る。

来年の大河ドラマは、三谷幸喜の脚本で、小栗旬が主役である北条義時を演じる「鎌倉殿の13人」であるが、承久の乱はクライマックスとして描かれることが予想される。

三谷幸喜は、「新選組!」で香取慎吾演じる近藤勇を「最後の武士」として描き(野田秀樹演じる勝海舟が近藤を評して、「あれは本物の武士だよ。そして最後のな」と語るセリフがある)、「真田丸」では堺雅人演じる真田幸村(真田信繁)を「最後の戦国武将」として登場させた。最後をやったので今度は最初をやりたいということになったのだと思われるが、最初の武家政権とされる平清盛による政治は、平氏が公家化することで公家のトップである太政大臣として打ち立てており、本当の武家政権かというとそうでもない。源頼朝は京を離れた東国で鎌倉幕府を築いたが、征夷大将軍という位を朝廷から頂いており、朝廷のお墨付きで東国のみの支配として行われた政権である。その点、北条氏の政権は執権という朝廷から頂いたのではないポジションで行われており、しかも承久の乱で皇族や公家を屈服させて武士の優位を示した上で行われる公議制の全国的政権ということで、「真の武家政権」という見方も出来る。少なくとも三谷幸喜はそういう解釈をしているのだと思われる。

承久の乱に関する史料はそれほど多く残っているというわけでもないようで、「承久記」や「承久記絵巻」が最大の目玉であるが、いずれも江戸時代に想像で描かれたものであり、一次史料ではない。ということで、承久の乱に至るまでの武士の興隆の展示からスタートする。
保元の乱や平治の乱を描いた屏風絵、「平家物語絵巻」や源平合戦図屏風などが展示されている。

後鳥羽上皇は、承久の乱絡みか、法然や親鸞が流罪となった承元の法難でのみ知られているため、「タカ派」に見られやすいが、実際は歌道の名人で「新古今和歌集」の編纂を命じ、蹴鞠の得意とするなど文化人としての高い資質も示していた。藤原俊成やその息子の定家と親しく、藤原定家が小倉百人一首に自作として入れた、「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」の「来ぬ人」とは後鳥羽上皇のことだとする説がある。

鎌倉幕府の成立(以前は源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年に鎌倉幕府が起こったと見るのが主流だったが、現在は源氏が壇ノ浦で平氏を滅ぼし、頼朝に守護・地頭を任ずる権利が与えられた1185年が鎌倉幕府成立の年と教えられるようである) から承久の乱に至るまでが「吾妻鏡」や「曽我物語絵巻」などで語られる。
藤原定家の日記である「明月記」の展示もあるが、頼朝が出家をした2日後に急死したことをいぶかる記述がある。

承久の乱の最初の重要地点となったのは美濃の墨俣である。後に羽柴秀吉が美濃攻めの足がかりとして一夜城を築いたことでも知られるが、昔から重要な場所であったことが分かる。また木曽義仲と源義経が戦った宇治川が次の決戦地となり、要衝の地は変化していない。

後鳥羽上皇が流された隠岐に関する展示は写真が中心。寂しいが史料がほとんど残っていないようである。ただ後鳥羽上皇は、隠岐にあっても「古今和歌集」の編纂に情熱を燃やしたらしいということが分かっているようだ。本質的には文人だったようである。

Dsc_1436

 

| | | コメント (0)

2020年10月14日 (水)

美術回廊(58) 京都文化博物館 特別展「舞妓モダン」

2020年10月8日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で行われている特別展「舞妓モダン」を観る。
舞妓を描いた絵画を中心とした展覧会である。
京都以外の人は案外知らなかったりするのだが、舞妓というのは芸妓になるための見習い期間を指す言葉であり、「半人前」である。それがいつの間にか芸妓よりも注目されるようになっている。
私が子どもの頃に、京都出身にして在住の推理小説家であった山村美紗が舞妓が探偵役を務めるシリーズを書いてヒットにつなげており、テレビドラマ化などもされたため、この時点で舞妓がすでに人気だったことがわかるのだが、その後、宮川町が芸妓ではなく舞妓を前面に押し出す戦略を始め、宮川町が後援する舞妓を題材とした映画がいくつか作られている。
その後、それとは全く無関係に周防正行監督の「舞妓はレディ」も制作されるなど、初々しさが売りの舞妓は京都の象徴であり続けている。

舞妓は今では「半人前」ということで髪型や衣装も芸妓とは異なっているが、江戸時代以前にはそうした区別はなかったそうで、往時の絵では描かれているのが舞妓なのか芸妓なのか判然としないそうである。

江戸時代から明治初期までに描かれた舞妓はいわゆる「江戸美人」の名残を残しており、細いつり目の瓜実顔であり、今の「美人」や「可愛い」とは大分基準が異なる。美人芸妓として知られた江良加代を描いた絵と彼女の写真も展示されているが、今の時代であっても彼女が売れっ子になれたかというとかなり怪しくなってくる。

昭和6年(1931)に行われた都をどりの映像が流れている。昭和6年というと、関西では大阪城天守閣の再建(正確に書くと「新たなデザインによる建設」となる)がなった年として重要だが、松の廊下事件から230年目ということで、「忠臣蔵」を題材とした演目で都をどりが行われたようである。今でも美人で通用する人と難しいかも知れない人の両方が映っているが、昭和初期であっても今と美人の基準が異なっているのは映画スターの顔を見ればわかり、今の基準で美人の子が当時も人気だったかどうかは分からない。全ては無常で移り変わっていくのである。

「つり目の舞妓」が、黒田清輝の絵画(明治29年に描かれたもの。なお、後期からは重要文化財に指定されている黒田の「舞妓」という作品が展示される予定である)から一気に変わる。キュレーターがそういう絵を選んだという可能性もあるのだが、展示された黒田清輝の絵に登場する舞妓はつり目ではなく、フラットというかナチュラルな表情をしている。日本における美人の基準が年を経れば経るほど西洋の美女に似てくるというのはよくいわれることであり、現代でもハーフタレントなどは大人気であるが、黒田清輝が舞妓の絵を描いたのはフランスへの留学を終えて帰国した後であり、あるいは当時の一般的な日本人とは違った美意識を持っていたかも知れない。異国への留学を経て帰ってきた黒田であるが、京都の舞妓にむしろ外国人以上に外国的なものを見出したことが記されている。

山があり、川が流れ、田園が広がるという景色が日本の原風景だとすると、大都市は明らかに「非日本的」な要素を多く持つことは自明であるが、ご一新の世にあっても大都市の中では日本らしさを守り続けた京都は明治時代においてすでに異国的であり、年を経るにつれ、様々な時代の建造物や価値観が渾然一体となって、いうなれば「日本的要素を凝縮しすぎたが故に却って異国的」となっていく。芸妓・舞妓はその象徴ともいえる。誤解を怖れずにいえば、彼女達は異人なのだ。特に舞妓は、華麗な衣装を纏ってはいるが半人前というアンバランスさを持っており、そこに一種の儚さやこの世ならぬものが見出されていく。

京都画壇を代表する画家である竹内栖鳳は、舞妓の「不自然さ」について書いている。竹内によると舞妓はその仕草からして不自然であり、往時は9歳から舞妓になれたということで、幼い顔や肉体とその優美な着物が不一致であるとしている。

大正時代に入ると長田幹彦が書いた祇園を舞台とする小説がヒットし、大正を代表する美人画家である竹久夢二が長田とコラボレーションを行うようになる。夢二が描く舞妓はいかにも夢二的なものである。絵としては正直弱いと思うが、大衆受けはとにかく良かったため、祇園の知名度を上げることには大いに貢献したであろうことが想像される。

舞妓という存在の不可思議性を追求する画家はその後も登場しており、速水御舟が描いた一見グロテスクな「京の舞妓」(大正9年。この作品は前期のみの展示)は、その特異性に光を当てていると見ることも出来る。ちなみにこの作品は、「悪趣味だ」として、横山大観を始めとする多くの画家から酷評されたそうである。

岡本神草の「口紅」(大正7年。この作品も前期のみの展示)も、舞妓を泉鏡花の小説に出てきそうなあだっぽい存在として描いたものであり、問題視されたそうである。

勿論、舞妓が持つそのものの魅力を描く画家もおり、「舞妓モダン」のポスターに使われている北野恒富の「戯れ」は青紅葉とカメラを持った舞妓の横顔を描いており、瑞々しさが強調されている。

Dsc_9808


だが、その後もデフォルメは続き、下村良之介が昭和55年に描いた「たこやき」などは可憐な舞妓のイメージから最もかけ離れたものになっている。

その他にも、一見、可憐な舞妓に見えるが、よく見えると目が白人風だったりと、「別世界の女性」としての舞妓を描く作品は多い。

舞妓と呼ばれるのは芸妓になる前の5年ほどの歳月である。可憐にして奇妙な仕組みの住人となるこの短い日々を、画家達は常識的でない視点で切り取っている。

 

| | | コメント (0)

2020年9月 6日 (日)

コンサートの記(652) 京都フィルハーモニー室内合奏団第227回定期公演B~室内楽シリーズ Vol.3「京都で愛でるダンス音楽の夕べ」@京都文化博物館別館

2020年9月3日 三条高倉の京都文化博物館別館にて

午後6時30分から、京都文化博物館別館で京都フィルハーモニー室内合奏団の第227回定期公演B~室内楽シリーズ Vol.3 「京都で愛でるダンス音楽の夕べ」を聴く。客席は両隣最低1席は空けてソーシャルディスタンスを保っての開催である。

コロナ禍でもいち早く演奏を再開させて話題になった京都フィルハーモニー室内合奏団。今年の春からは柳澤寿男がミュージックパートナーに就任している。

 

京フィルこと京都フィルハーモニー室内合奏団の室内楽演奏は、マニアックな曲目を取り上げることで知られている。

Dsc_9452


今日のプログラムは、ファルカシュの「17世紀の古いハンガリー舞曲」(フルート:市川えり子、オーボエ:岸さやか、クラリネット:松田学、ファゴット:田中裕美子、ホルン:山本愛沙子)、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」より“秋”と“冬”(ヴァイオリン:森本真裕美、チェロ:石豊久、ピアノ:佐竹裕介)、トゥリンの「ファンダンゴ」(トランペット:山崎恒太郎、トロンボーン:村井博之、ピアノ:佐竹裕介)、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」(第1ヴァイオリン:角田博之、第2ヴァイオリン:青山朋永、ヴィオラ:馬場順子、チェロ:石豊久、コントラバス:上野泰歳、ピアノ:佐竹裕介)。

京都市交響楽団を始め、関西のオーケストラのピアノパートを手掛けることの多い佐竹裕介が4曲中3曲に登場し、ほぼ主役状態である。関西のクラシックファンで京フィルのメンバーを一人も知らないという人は結構多いと思われるが、佐竹裕介を知らない人は稀だろう。それぐらい出まくっている。主に20世紀以降にオーケストラに加わるようになったピアノパートは、それほど人気というわけではないが、佐竹は「自分はピアニストだけれど、オーケストラのメンバーになりたい」という憧れをずっと抱いていたそうで、適職に就いたという感じである。

 

ファルカシュの作品は、タイトル通り、バロック以前の味わいを持つが、ファルカシュ自体は1905年に生まれ、2000年に没したという、比較的新しい時代の作曲家である。
ファルカシュ・フェレンツ(ハンガリー人であるため、姓・名の順の表記となる)は、ブダペスト音楽院を経てローマの聖チェチーリア国立音楽院で、レスピーギに師事しており、レスピーギ譲りの豊かな音の彩りを駆使して映画音楽の作曲家としても活躍したそうだ。ジェルジ・リゲティは弟子である。
「17世紀の古いハンガリー舞曲」は素朴さや明るさが特徴的であり、旋律も内容も分かりやすい。古い楽曲を現代風にアレンジするところなどは、師のレスピーギに範を取ったのだろうか。

演奏終了後にファゴットの田中裕美子がマイクを手に挨拶。マイクの前にはプラスチックボードが貼り付けてあり、飛沫が飛ばないよう工夫されている。今日は結構、人が入ったため(元々、京フィルの室内楽シリーズは曲目が魅力的ということで人気がある)、マイクを使っても後ろの方まで聞こえなかったようで、最初からやり直しとなったため、クラリネットの松田学に急遽出てもらい、5曲目の「跳躍の踊り」について語って貰っていた。

 

ヴァイオリニストの森本真裕美によるピアソラの「ブエノスアイレスの四季」の解説。1990年代半ばに起こったピアソラビームの影響もあり、今では「タンゴといえばピアソラ」という感じになっているが、ピアソラはパリ国立音楽院でナディア・ブーランジェに師事し、ブーランジェから「あなたはタンゴを書くべきだ」といわれ、祖国であるアルゼンチンに戻り、タンゴの作曲家としてスタートしている。クラシックの作曲法を学んだこともあって洗練されたタンゴを書いたが、「こんなタンゴじゃ踊れない」と祖国では評判が悪く、逃げるようにアメリカに移っており、アルゼンチンでタンゴの作曲家として認められた時にはすでに60歳を過ぎていたそうである。
ただクラシックをベースにしたタンゴであるため、世界のどこに行っても通じやすく、日本にもピアソラのファンは多い。ギドン・クレーメルのピアソラアルバムがベストセラーとなった時は、坂東玉三郎が広告やCDの帯でピアソラ愛を語っていた。

アルゼンチンは南半球にあるため、日本とは季節が真逆である。今は冬から春に向かう頃だ。

“秋”は、ヴァイオリンが駒より後ろの部分を奏でてギロのような音を出すなど意欲的な表現も目立ち、いかにもピアソラといった味わいの音楽だが、“冬”は家族で団欒の時間を過ごしているような親密な顔が覗く。あるいはヴィヴァルディの「四季」の“冬”より第2楽章が意識されているのかも知れない。

 

トゥリンの「ファンダンゴ」。アメリカの作曲家であるジョセフ・トゥリンは吹奏楽の世界では有名なようである。トロンボーンの村井博之がマイクを手に、新たに京フィルに加わったトランペットの山崎恒太郎を紹介していた。
「ファンダンゴ」は躍動感と推進力を特徴とする。元々は吹奏楽ための賑やかな曲のようで、YouTubeなどにもいくつか映像が上がっているが、室内楽バージョンは少し趣が異なる。

 

ラストの曲目となるヨハン・シュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」。場面転換に時間が掛かるので(ステージスタッフは女性一人のみ)、第1ヴァイオリンの角田博之(すみだ・ひろゆき)がトークで繋ぐ。大体はWikipediaから拾ってきた情報だそうである。
個人的な思い出を書くと、工藤静香が若い頃に出演していたチョコレートのCMに「皇帝円舞曲」が使われており、CMの中で工藤静香が首を振って踊っていた情景が思い起こされる。誰かがYouTubeにアップしているようだ。

室内楽編成の「皇帝円舞曲」であるが、各パートの旋律がはっきり分かるという利点があり、京都文化博物館別館の独特の音響にも助けられて、華やかな仕上がりとなった。サロンでは昔からこうした編成で弾かれる機会も多いので、室内楽アンサンブルで聴くのも取りようによっては贅沢である。

アンコールは同じくヨハン・シュトラウスⅡ世の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。勢いもある楽しい演奏である。ニューイヤーコンサートではないが、今年の前半はコロナで全て吹き飛んでしまったため、これが本当の意味での今年の始まりという気分にもなる。


Dsc_9454

| | | コメント (0)

2020年9月 3日 (木)

コンサートの記(650) mama!milk 「八月の組曲」@京都文化博物館別館

2020年8月29日 三条高倉の京都文化博物館別館にて

午後6時30分から京都文化博物館別館で、mama!milkの公演「八月の組曲」を聴く。出演は、mama!milkの二人(アコーディオン:生駒祐子、コントラバス:清水恒輔)と二胡の杉原圭子、マルチミュージシャンの曽我大穂(アコーディオン、フルート、パーカッションほか)。

京都文化博物館に入るには、いつも通り、サーモグラフィー映像での検温と手のアルコール消毒、紙に氏名と電話番号を書くか、京都の追跡サービス「こことろ」にチェックインを入れる必要がある。コンサート会場である別館(旧日本銀行京都支店社屋。重要文化財)に入る前にも検温と手のアルコール消毒は必要となる。

 

曲目は、「アン・オード とある歌」、「waltz,waltz 小さなワルツの招待状」、「ビロンドの」、「永遠のワルツ」、「そしてNude」、「逃避行のワルツⅠ」、「港町にて」、「土曜日のTango」、「さまよえるアンバン」、「Kujaku 孔雀」、「かのハポネのワルツ」、「青」、「3つのサンクチュアリより」、「your voice ユア・ボイス」

 

客席は前回同様、プラスチック製の椅子が3つ繋がったものがワンユニットとして並べてあり、3人掛けに見えるが、実際は真ん中の椅子にしか座ることが出来ず、ソーシャルディスタンスが保たれるようにしてある。

今回は、京都文化博物館別館の西側の端がステージとなり、東側に客席が並ぶ。前回よりもオーディエンスの数は多そうだが、数えたわけではないので実際のところは把握出来ない。

 

まずコントラバスの清水恒輔が奧の扉から現れ、演奏を始める。それに曽我大穂のアコーディオンが応える。曽我は2階のテラスで演奏を行い、空間的な広がりと遠近感が生まれている。
その後、アコーディオンの生駒祐子が客席の後方から演奏を行いながら登場し、トリオでの演奏が続く。

曽我も1階に降りての演奏が行われる。ボレロのリズムが奏でられ、曽我が3つの拍をパーカッションで刻みながら客席を歩く。

二胡の杉原圭子の出番はそれほど多くなかったのだが、西洋の楽器でいうポルタメントを行うなど独自の奏法を取り入れ、二胡特有のノスタルジックな味わいを出す。

8月の終わりに行う「八月の組曲」ということで、演奏自体もノスタルジアに満ちている。京都文化博物館別館のレトロな雰囲気、照明の妙、そして何よりも演奏によって過去へと引き戻される。子どもの頃、母親の実家である田舎で過ごした夏休みの日々の音と匂いと情景、京都文化博物館別館と同様に古き良き時代の装飾を残した明治大学駿河台校舎の自習室(1928年竣工の建物で、記念館と図書館の間に存在した。記念館と自習室は現存せず、図書館も移転して、以前図書館であった建物は研究棟になっている)で勉学や詩作に励んだ日々などが甦る。

以前にも何度か書いているが、私は3ヶ月ほどだったが二胡を習っている。「ラストエンペラー」で二胡を弾いていた姜建華に憧れていたのだが、当時通っていた水道橋の日中学院に「二胡のサークルを作る」という張り紙があったので、応募して、墨田区にある施設で日曜日にレッスンを受けていた。そんな日々のことも思い出す。

音楽はただ音楽であるだけではなく、記憶と分かちがたく結びついている。自身でもそれがなければ入れない自分だけの部屋の鍵でもあるのだ。

とても良い時間を過ごす。

最後に「秋の始まりのワルツ」が演奏され、約1時間のコンサートは夢のように過ぎ去った。


Dsc_9423

 

| | | コメント (0)

2020年8月29日 (土)

美術回廊(56) 京都文化博物館 特別企画展「池大雅―文人たちの交流」&「三条御倉町 大橋家の歴史と美術 木島櫻谷と京都画壇」

2020年8月21日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別企画展「池大雅―文人たちの交流」(京都府蔵 池大雅美術館コレクション)と「三条御倉町 大橋家の歴史と美術 木島櫻谷と京都画壇」展を観る。

京都文化博物館に入るにはサーモグラフィーによる各自の検温(スクリーンに映ったカメラ映像に体温が表示されるようになっている)の他、手のアルコール消毒、京都府独自の追跡サービスである「こことろ」をスマートフォンにインストールして「京都文化博物館」にチェックインを入れるか、氏名や住所などを専用紙に記入する必要がある。

京都を代表する文人画家にして書家の池大雅(いけ・たいが、いけのたいが)。享保8年(1723)に京に生まれ、幼くして唐書を学び、隠元隆琦以来、清国出身者が住持を務めた黄檗宗萬福寺(近年は代々日本出身者が住持となっており、往時とは異なる)に出入りするなどして、当時は先端であった中国の文化を自分のものとし、「神童」の名をほしいままにした。その後、大和郡山の柳沢家の重臣であった柳沢淇園(やなぎさわ・きえん。五代将軍・徳川綱吉の側近として辣腕を振るった柳沢吉保から柳沢姓を授かった人物であり、柳沢氏の血筋というわけではない)に師事し、日本における文人画(南画)の第一人者となっている。

唐の風流人の「万巻の書を読み、万国を歩く」を実践し、江戸への遊学や加賀金沢に長期に渡って滞在した時には立山や白山といった北陸の名山を踏破。更に富士山登山や東北の名勝にして日本三景の一つである松島にまで足を延ばすなど旅と登山を愛した画家でもあった。

2013年までは嵯峨野に池大雅美術館があったのだが、閉館後は京都府が池大雅のコレクションを譲り受けている。

描かれた男達は福々しく、彼らの所作は活気に満ちていて声まで聞こえてきそうである。ポスターに採用された「山亭小酌之図」(画もしくは書を描いていると思われる人物の手元を5人の男達がのぞき込んでいる)などでは描かれた人物達の現在の心境まで伝わってきそうである。

Dsc_9370


山は「筋骨隆々」といった趣で、江戸の浮世絵師達の作風とは明らかに異なるパワフルさを備え、一方で針葉樹の葉などはジョルジュ・スーラを思わせる点描で描かれており、個性はかなり強い。
草木などを描いたものは陰影豊かであり、単なる異国趣味に留まらない止揚を成し遂げている。

書の巧拙は残念ながらわからないのだが、デザインとして見た場合に面白いということは伝わってくる。

池大雅は画家でもあった玉瀾を妻とし、共に切磋琢磨する間柄でもあったのだが、その玉蘭の画も展示されている。柔らかさを特徴とする作品である。

 

「三条御倉町 大橋家の歴史と美術 木島櫻谷と京都画壇」。
三条御倉町(三条烏丸と三条室町の間の両側町)に居を構える大橋家ゆかりのコレクション展である。本来は今年の春に行われるはずだったのだが、コロナ禍によって展示期間がずれることになった。
大橋家は、皇族や寺社関係の染色業を扱う西村家の番頭格であり、のちに「別家」と呼ばれるようになる。

大橋家は近代京都画壇の日本画をコレクションしており、それらが今回、公開される。

最初に展示されている木島櫻谷(このしま・おうこく)の画が気に入る。木島櫻谷は、1877年(明治10年。コレラの流行により、八坂神社に季節外れの茅の輪が立った年である。今年はそれ以来、143年ぶりに季節外れの茅の輪が立った)に生まれ、四条派を受け継いだ日本画家である。四条派らしく描写力が高く、何よりも画の力によって見せるタイプである。「最後の四条派」とも呼ばれているようだ。

 

| | | コメント (0)

2020年7月17日 (金)

美術回廊(53) 京都文化博物館 特別展「祇園祭 京都の夏を彩る祭礼」

2020年7月17日 三条高倉の京都文化博物館にて

三条高倉の京都文化博物館で、特別展「祇園祭 京都の夏を彩る祭礼」を観る。

新型コロナウイルスの影響で、山鉾巡航など大がかりなものは中止となってしまった今年の祇園祭。密にならない小規模なものは行われているが、それも毎日ではない。祇園囃子も録音されたものが四条通に流れているのは例年通りだが、生音を聴くことはない。
「動く美術館」といわれる山鉾巡航であるが、今年は 動くどころか建てることすら不可である。
そんな「動く美術館」をずっと静止した形で展示しているのが今回の展覧会である。

 

入場者を確認出来るようにするため、入る前に氏名等の記入が必要となる。

 

山鉾の前懸(その名の通り前に懸ける布)や胴懸の展示がまずある。「日本の祭り」というイメージの強い祇園祭であるが、実際は西洋画なども用いられている。ギリシャの「イーリアス」などの絵で、江戸時代ものである。京都人はよく「進取の気質に富む」といわれるが、こうしたところにそれが窺える。保守的であったら自分達の祭りに西洋の絵を用いようとは思わないだろう。

勿論、舶来のものだけでなく、和の要素も重要視される。安芸・宮島の前懸(占出山)などがそうである。

 

京都の円山派・四条派などの礎を築いた円山応挙(1733-1795。家は四条通に面しており、今は石碑が建つ)が書いた絵を基に編み上げた刺繍の展示がある。保昌山のものである。
とにかく徹底した描写力を追求した円山応挙だが、刺繍の基になっている絵は江戸の絵師達の影響を受け、エネルギー放射量を重要視するようになってからの作品である。
刺繍になると描写力の精緻さは当然ながら後退するのだが(絵筆を使ったタッチの再現は出来ない)そこに登場する虎などの動物は立体感と毛皮のように見える視覚を伴い、よりリアルなものへと変わっている。刺繍にした方が生きる絵を選んだということでもあるだろう。見事な発想である。

 

祇園祭がどのように行われてきたのかという記録も展示されている。名所図会などに描かれた山鉾、そして町衆によって書かれた「入日記」と呼ばれる記録用の冊子を見ることが出来る。

 

山鉾を彩る彫像などの展示もあるが、極めて繊細にして精緻な仕上がりであり、こうしたものを作り上げる技巧の高さは想像の外にある。中学校の美術の時間に取り組んだ木彫りが酷いものにしかならなかった私の技量では、まずどこからどう取りかかればこうなるのかすら掴むことが出来ない。空間認知能力に秀でていることも重要だろうし、手先の器用さも必要なのはわかる。技巧面でわかるのはそこまでである。
ただ、日本が誇る宮大工の技術や、仏教美術の蓄積がこれらの製作に大いに貢献しているということは想像に難くない。天明年間に製作された八幡宮の祠の展示もあるが、ここに展示されているのとほぼ同じ技術によるものが、京都の神社や寺院で見ることが出来る。祇園祭は八坂神社の祭礼であり、八坂神社は明治に入るまでは、祇園社や祇園感神院と呼ばれた神仏習合社であり、神道と仏教の両方の美術が社や氏子達に受け継がれてきたことになる。いわば、美の発信拠点でもあったわけだ。
それを象徴するような欄干様の細工がある。八坂神社の神紋は「五瓜に唐花」と神道共通の「左三つ巴」であるが、その真ん中に仏教の法輪が入ったものである。

ちなみに八坂神社の神紋が五瓜という瓜系の紋なのは、祭神である牛頭天王が瓜を好んだという話に由来すると思われる。左京区にある瓜生山は、牛頭天王に捧げる瓜を栽培したことにちなむ地名である。牛頭天王が初めて京に降り立った場所は北白川東光寺とされているが、この北白川東光寺がどこにあったのかは現在では不明である。ただ北白川という地名はいにしえとは範囲が異なると思われるが残っており、北白川東光寺の跡地に建つと主張している岡崎神社(東天王)は北白川に比較的近い場所にあり、同じく北白川東光寺の有力後継社である八大神社(北天王)は瓜生山の麓にある。

 

明治時代以降の山鉾についての展示が最後にある。幸野楳嶺や今尾景年、竹内栖鳳ら絵師というよりも画家と呼ばれる時代の人々による伝統美を追求した作品が展示されている。

 

一番最後に展示されているのは、鈴木松年(すずき・しょうねん)の筆による「宇治川合戦屏風」。浄妙山の人形の姿の元となった合戦の場面を屏風にしたものでダイナミックな構図が印象的であり、勝ち運の山である浄妙山への祈念が込められているようにも見えた。

Dsc_9163

| | | コメント (0)

2020年7月 4日 (土)

美術回廊(51) 京都文化博物館 「横山華山」

2019年7月17日 三条高倉の京都文化博物館にて

京都文化博物館で、「横山華山」の絵画展を観る。「かざん」という号を持つ人物としては渡辺崋山が有名だが、横山華山は江戸時代後期に活躍した京都の絵師である。曾我蕭白に私淑した後、岸駒(がんく)や呉春(ごしゅん)に師事し、円山応挙や伊藤若冲と入れ替わるようにして世に出る。明治時代末に書かれた夏目漱石の『坊ちゃん』にその名が登場しており、その後、大正時代頃までは有名な人物であったようだが、昭和に入ってからはその名が忘れ去られてしまうようになる。展覧会のキャッチコピーは「まだいた、忘れられた天才絵師」である。
横山華山は、祇園祭の山鉾を描いた「祇園祭例図絵巻」を著しており、祇園祭の時期に合わせての展覧会開催である。

まず曾我蕭白の「蝦蟇仙人図」模写から入る。曾我蕭白の原図は張り詰めた雰囲気だが、横山崋山の模写は全体的に明るく、体の線も緩やかである。
横山華山の作風の特徴は、クッキリとした輪郭と緻密な描写力にある。風景画などは手前側をリアルに描き、奥はぼやかすため、絵全体に浮遊感と奥行きが生まれている。
「祇園祭例図絵巻」も「そのまま」を描く精緻な筆が冴えており、近々復活する予定である山鉾の一つ「鷹山」の史料となったというのも頷ける。

一方で、画面全体が明るいということで陰影を欠きがちであり、絵の背後にあるものを余り感じ取ることが出来ない。健康的で優しい絵なのだが、写真が現れ、その精度が上がれば取って代わられるような絵なのではないかという思いも浮かぶ。昭和に入ってから急速に忘れ去られたという背景の一つにそうしたことがあるいはあったのではないか。ただ、そうでなくとも「激動の昭和を駆け抜けるに相応しいだけの力を持った絵師だったか」と問われれば、「否」と答えることになると思う。破滅の予感が日本を襲った時代にあっては横山華山の画風は優しすぎたであろうし、復興の時代になればなったでパワーに不足しているように見える。あるいはまた時代が変われば評価も変化するのかも知れないが、今の時点では「リアリズムの点において優れた描写力を発揮し、史料的に重要な絵を残した」絵師に留まると書くのが最も適当であるように思われる。

だが、祇園祭の史料になるだけのリアリスティックな絵を描いたというその一点だけでも、横山華山という絵師の存在意義は十分に肯定され得るものだと確信してもいる。芸術的な意味では必ずしもなく、時代の証言者としてということになるのかも知れないが「絶対に必要な存在」だったのだ。

_20190717_162832

| | | コメント (0)

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オンライン公演 カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都市京セラ美術館 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画