カテゴリー「京都劇評」の130件の記事

2021年5月 9日 (日)

演劇公演オンライン配信 ニットキャップシアター第40回公演「カレーと村民」オンライン配信版~じっくりと煮込んだ版~(文字のみ)

2021年5月7日視聴

有料配信で、ニットキャップシアターの第40回公演「カレーと村民」を観る。牧歌的なタイトルであるが、実は結構恐い話である。作・演出:ごまのはえ。出演:門脇俊輔、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、日詰千栄(はひふのか)、福山俊朗(はひふのか/syubiro theater)、亀井妙子(兵庫県立ピッコロ劇団)、西村貴治、越賀はなこ、山下多恵子(京都演劇スタジオ)、山下あかり、益田萌(ニットキャップシアター公式サイトに載っているwebパンフレット掲載順)。2013年に文学部と大学院文学研究科に演劇研究系の専攻がある大阪大学と同大学の本部がある吹田市との共同プロジェクトとして初演された作品の上演である。京都・東九条のTheatre E9でのライブ収録。

1905年の(明治38)大阪・吹田村の旧庄屋(関東だと名主、北陸などでは肝煎に当たる)の浜家の表玄関に面した土間が舞台である。庄屋は農民階級でありながら、武士と農民の間を取り持つ一帯の名士として苗字帯刀もしくは苗字のみを許された豪農であり、明治時代に入ってからも裕福な家が多かった。第二次世界大戦後の農地改革で没落していく家も多かったのだが、それはまだ先の話である。

浜家の家長である長男の太郎(福山俊朗)は好人物ではあるが、「長男の甚六」という言葉が合ってしまいそうな頼りない性格である。だが、妻のお茂(仲谷萌)と共に家を支えている。この時代なので、家には人が多く、母親のまん(日詰千栄)、かつては乳母でもあった奉公人のオマサ(越賀はなこ)、新しく子守として入った山田(大阪大学の本部所在地)出身のネ(おネ。高原綾子)、そしてイギリス留学から3年ぶりに帰ってきたばかりの次男の次郎(門脇俊輔)がいる。物語は、次郎がモーツァルトの歌劇「魔笛」より“パパパの二重唱”を一人で歌っているところから始まる。当然ながら、他の人々はモーツァルトも「魔笛」もなんのことかよく分からない。次郎も「パパゲーノ」「パパゲーナ」となるところも全て「パ」で歌っているため、ドイツ語や「魔笛」の内容を十全に知っているわけではないようだが、自然児とも呼ばれるパパゲーノや運命の相手であるパパゲーナのような女性に憧れているらしいことは伝わってくる。

さて、留学から帰った次郎であるが、特に仕事に就くわけでもなく就く気があるわけでもない。実家が裕福ということでいわゆる「高等遊民」となっている。この時代、実は高等遊民と呼ばれる人は結構いたわけだが、次郎が夏目漱石の『それから』の主人公である代助を意識したキャラクターであることは明らかで、彼はイギリス留学時代にロンドンで、まだ漱石と名乗る以前の夏目金之助の世話になったことがあり、その夏目金之助が夏目漱石という名で『吾輩は猫である』という小説を書いていることを知って、連載されている「ホトトギス」を読む場面がある。なお、次郎にはアキ(山下あかり)という婚約者がおり、当時としては珍しく自由恋愛(セリフに「野合で結ばれ」という表現が出てくる)なのだが、イスタンブールで様々な国の美人を見た次郎は典型的な日本人顔であるアキのことを心からは愛せなくなっていた。

そのアキは勉強する意味が分からず、女学校を辞めていた。当時の大阪は、学問的には恵まれた場所ではない。ナンバースクールである第三高等学校、通称・三高は当初は大阪に設置されたのだが、政治の中心地が東京に移ったことで不安を感じた京都市民が「未来の京都のためには学問のある若者が必要」ということで誘致を行い、三高は京都に移転。三高の上に京都帝国大学(現在の京都大学)が置かれたのだが、大阪には結局新たなナンバースクールが生まれることもなく、帝国大学を建学しようという動きも起こっていたが、近くに京都帝国大学があるという理由でなかなか実現せず、大阪帝国大学(現在の大阪大学)が開学するのは昭和になってからである。私学も関西法律学校がこの年に関西大学と名を変えた(大学と名乗るが旧制の専門学校である。私立大学が生まれるのは1918年の大学令以降となる)が、現在でも関西の四大名門私大「関関同立」に入っている大阪の大学はこの関西大学1校だけということで、往時は更に東京との差は激しかった。次郎も大阪の学問基盤の弱さ故に海外へ留学したのだが、アキにも東京の女子学校(まだ大学はなかったが、後に大学へと昇格する名門女子学校はいくつか存在した)に進むよう勧める。だが、アキは乗り気ではない。

1905年といえば、日露戦争戦勝の年である。戦勝とはいえ、実際はロマノフ王朝がロシア第一革命により危機に瀕していたため、極東の情勢に構っている場合ではなくなったことが大きいのだが、当時は情報網が発達していなかったため、「完勝」だと信じている日本人も多かった。それ故、賠償金が得られなかったことで、吹田の人々も「政府は弱腰だ!」と激怒することになる。この時の怒りのうねりとしては、東京で起こった日比谷焼き討ち事件などが有名であるが、大都市だけではなく、当時はまだ田舎であった吹田でもその火種がくすぶり始めていた。なお、太郎が新聞を皆に朗読する場面があるが、これは当時よく行われていた習慣である。諸外国に比べると識字率は高かったとはいえ、「女は学校に行かなくてもいい」「農民の子は学校に行かないで家の手伝いをした方がいい」という時代だったため、文字が読めない人や読めても内容がよく分からない人はまだまだ多かった。ちなみに太郎と次郎の母親であるまんは当然といえば当然だが江戸時代の生まれである。

次郎は学があるため、世界情勢については知悉しており、「本当に勝ったわけではない」と知っていたが、人々が求めているのは「事実」ではなく「納得出来る話」であり、「納得出来るなら嘘でもいい」ことを見抜いていた。ということで明治38年を舞台としているが、今現在に繋がることが描かれている。当時選挙権があるのは比較的裕福な25歳以上の男子だけであり、選挙権のある太郎に人々が願い出る場面がある(太郎役の福山俊朗は、実は参議院議員の福山哲朗の実弟であり、意味のある役割を与えられている)。

浜家が営む輸送船で働くお留(山下多恵子)は息子を日露戦争で失い、吹田にあるビール会社からビールを牛が引くトロッコに乗せて船着き場まで運搬する会社の社長である宮川大助(西村貴治)と妻のおはな(亀井妙子)の次男のセイロクも日露戦争で行方不明になっていたが、ようやく無事が確認されて近く戻ってくる予定である。浜家の奉公人のオマサの孫も日露戦争で戦死しており、犠牲を払ったのに賠償金なし(報道では賠償金は日清戦争の半分程度とかなり安いが支払われるとしていた)ということで、怒りに燃え、「高額の賠償金を得られるまで戦いを続けるべきだ」「そんな交渉で済ませた日本が憎い」(日本国民という大きな単位で一括りにされる危険性を含む)といったような声が上がり、「大阪に行って講和反対運動に参加しよう」と息巻く。
次郎もその場を収めるために、「戦争続行」を求める人々に賛成したふりをして兄の太郎に支援金を出させる。知恵だけは回る次郎だが確固とした思想はなく、そんな自分に嫌気がさし、最終的には子守のネと共に蒸発することになる。ちなみにネというのは秀吉の奥さんと同じ名前で、秀吉と寧は「野合で結ばれた」と表現される代表的人物であるが、意識されているのかどうかは不明。「ネ」という名では変だというので、明治に入ってからは庶民階級の女性にも付けることが許された「子」を付けて「ネ子」にしようなどといわれる場面があるが、『吾輩は猫である』に繋がっているのは確実である。

カレーの話であるが、「征露丸」(現在の「正露丸」。元々は「露西亜を征する」という意味で「征露丸」と名付けられたが、日露戦争終結後に今の表記に変わる)の模造品(関西でいう「ばったもん」)である「暴露丸」を売りに来た富山の薬売り(池川タカキヨ)が太郎や次郎と話している時に、カレーの話が出る。次郎はイギリスに留学していたため、「元々はインド料理であったがイギリスで流行し、日本に入ってきた」という正しい説明をする。当時は日英同盟下の時代であり、イギリスの文物が多く流入していた。また日本海軍でカレーが重宝されているという話も出る。カレーが浜家にも入ってくるということは軍事色が強まるという暗示でもあり、ほのぼのとした場面なのにじわじわとした恐怖を生む。この辺は巧みである。

お留(おとめ)という、坂本龍馬の姉の乙女と同じ読みの女性が出てくるが、日露戦争の際に起こった第二次坂本龍馬ブームから作られた役名なのかは不明(「おとめ」という名前自体は「これで産むのは留め」という意味を込めたありふれたものである)。アキが呉や広島市のある安芸に掛かるのかどうかもよく分からないが、この辺は言葉遊びに留まるため、深く追わなくて良いだろう。

実戦の怖ろしさは、戦地帰りの潮(うしお。これも意味ありげな役名である。演じるのは澤村喜一郎)によって語られる。潮はトラウマを抱えており、心理的要因で耳が聞こえなくなっているのだが、突然、戦地の模様を一人で演じ出す場面がある。これは結果として戦場の惨状を人々に伝えることになるのだが、人々にどれだけ影響を与えたのかは不明となっている。

ラストは、アキが東京の名門女学校への進学を決め、「頑張って勉強して、皆が幸せになれる世の中を作ります」という意味のことを朗らかに述べるも、誰も本気にはしておらず、アキが天を仰ぐ場面で終わる。結局のところ、人々は自分さえよければよく、学ぶことにも、それによって生まれる未来に期待もしていないし価値も見いだしていないのだ。政治を人任せにしている日本の現状の怖ろしさが投影されており、一種の絶望を突きつけられることになる。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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2021年4月22日 (木)

観劇感想精選(392) 広田ゆうみ+二口大学 別役実「いかけしごむ」@UrBANGUILD 2021.4.16

2021年4月16日 京都・木屋町のUrBANGULDにて観劇

午後7時から、木屋町UrBANGUILDで、広田ゆうみ+二口大学による別役実作の「いかけしごむ」を観る。出演は、広田ゆうみと二口大学という京都ではお馴染みの二人に、劇団トム論の岡田眞太郎が加わる。

「いかけしごむ」は、別役作品の中でも比較的理解が容易ということもあって、上演される機会も多い。広田ゆうみと二口大学も何度も上演しており、京都芸術センターで上演された時にも観ている。この時は、劇団飛び道具の藤原大介が出演していた。

別役作品の上演をライフワークとしている広田ゆうみとベテランの二口大学ということで、作品世界に馴染んだスタイルがすでに構築されているという印象を受ける。

昨年は、大鶴美仁音(みにょん)と大鶴佐助の姉弟が浅草九劇で「いかけしごむ」の無観客上演をオンライン配信しており、ラストに本来はないはずの屋台崩しを意識した幕落としがあって、二人の父親である唐十郎(本名:大靏義英)が登場するという演出が加わっていた。
登場人物は三人だが、男二人は重なる場面はなく、また一人は出番もセリフも少ないため男の一人二役による男女の二人芝居で上演されることも多い(大鶴美仁音と大鶴佐助版も一人二役を用いた二人芝居であった)。ただ三人で上演した方が内容の把握が容易になる、というよりも一人二役にすると誤解を招く怖れもあるため、三人にした方が良いと思われる。

どこよりも深い場所が舞台である。天井からは電話の受話器がぶら下がり、手相見の席と灯りが点っているが、占い師の姿はない。ベンチの上には「ここに坐ってはいけません」という札が立てかけてある。

「いかけしごむ」は、極めて深刻な内容であり、不条理劇とされているが、描かれているのはこの世界そのものである。

受話器は、「いのちの電話」に繋がっている。追い詰められた人でないと「いのちの電話」に相談しようという勇気は起こりにくい。また、女性は占いに行くのが趣味という人も多いが、他に手段がないので占いに頼るという人もまた多い。
これは追い詰められた場所での物語である。

この場所にやって来た女(現代小説でいうところの「信頼のおけない語り手」に相当する。演じるのは広田ゆうみ)は、ベンチに「ここに坐ってはいけません」とあるのは、誰かがここに座った人を注意することでコミュニケーションを図ろうとしているのだろうと思い、ベンチに腰掛ける。思った通り、ベンチに座っていることを見とがめる男(二口大学)が登場するが、ここからディスコミュニケーションがスタートする。女の語りは男の状況を決めつけることが多く、それは誤解を覚悟で書くが、自分のストーリーに相手を引き入れることで解決に導こうとする「いのちの電話」や占い師に似ている。彼女が感じている「リアリズム」を提示することで、相手に納得を促す。
彼女の決めつけの話はどこに由来するものなのかは、実はラストで明かされているのだが、彼女もそれを本音として話せなかったということになる。

一方、男の方は、「発明家」を名乗り、イカを使って作る消しゴム「いかけしごむ」を発明したため、ブルガリア暗殺団に命を狙われているという、一聴すると荒唐無稽な内容の話をし始める。男にとってはそれは本当のことなのであるが、荒唐無稽に聞こえるので警察にも相手にされない。おそらく「いのちの電話」や占い師といった最後の砦に当たる人からも「頭のおかしな人」としてすげなくされるであろう。女は事実とは異なることを、実は観客の目の前で行っていると思われるシーンが存在する。その後に現れる三人目の登場人物により、「実際のこと」は暗示される。
追い詰められてさまよい込んだ男を、女が結果的に殺してしまうことになるという悲劇である。自身のリアルからこぼれ落ちた別のリアルにいる人を救えなかったということなのだ。

「何がリアルかなんて本当は誰にも分からない」

人というのは、自分が経験してきたことしか理解出来ないし、想像も難しい。自身のリアルへの拘泥は他者のリアルを叩き潰す。目の前で繰り広げられているのは、二人芝居(もしくは二人芝居プラスワン)なのであるが、互いが目の前にいる人物のことを何一つとして理解出来ないまま終わるという、圧倒的な孤独感を伴う一人芝居の連鎖なのだ。そしてそれはこの世の本質でもある。

「おのずからあいあうときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」(一遍)

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2021年3月31日 (水)

観劇感想精選(388) 京都四條南座 「三月花形歌舞伎」令和3年3月20日 Aプロ 「義経千本桜」より“吉野山”&“川連法眼館”

2021年3月20日 京都四條南座にて観劇

午後4時15分から、京都四條南座で「三月花形歌舞伎」を観る。平成生まれの若き歌舞伎俳優達が中心となった公演である。AプログラムとBプログラムがあり、キャストが異なるが、本日4時15分開演の夜の部は、Aプログラムでの上演となる。

演目は、「歌舞伎の魅力」(中村米吉が担当)、「義経千本桜」より“吉野山(道行初音旅)”と“川連法眼館(通称・四の切)”。四の切とは、“川連法眼館の場”が「義経千本桜」四段目の切り(最後)にあることからついた通称である。「義経千本桜」は、元々は人形浄瑠璃(文楽)のために書かれた作品で、歌舞伎の「義経千本桜」は人形浄瑠璃の台本を元にした義太夫狂言と呼ばれる類いのものである。文楽でも“川連法眼館の場”は観たことがあるが、文楽では「四の切」という言い方はしないようである。

「歌舞伎の魅力」は、毎回、若手歌舞伎俳優が演目の説明や、歌舞伎に関する様々な紹介を行うもので、今回は中村米吉(播磨屋)が担当する。ちなみに、米吉、尾上右近、壱太郎(かずたろう)、橋之助の4人がローテーションを組んでおり、南座での「三月花形歌舞伎」の「歌舞伎の魅力」の初日最初の回の担当となってのも米吉だそうである。
「三月花形歌舞伎」は、明日千穐楽を迎えるため、米吉が「歌舞伎の魅力」を受け持つのは今回が最後となるようだ。

義太夫の「春の京都の南座で、歌舞伎の魅力語らんとまかり出でたる中村米吉」という言葉に乗って、米吉は花道から登場する。

今日は義太夫の紹介をまず行う。義太夫はわかりやすく言うと、「音楽付きのナレーション」で語りと三味線の二人からなると米吉は説明する。その後、義太夫は自分で退場のセリフを語り、定式幕の後ろへと引っ込むのだが、「義太夫さんが自分で語りながら退場するというアイデアを出したのは私」と米吉は胸を張っていた。

上演されるのは、「義経千本桜」の“吉野山”と“川連法眼館”であるが、それより前に忠信と静御前が登場する“鳥居前”(二段目)のあらすじを米吉は紹介する。義経と静御前の一人二役を行ったり、「会いたくて震える」という西野カナの歌詞を引用したりとユーモラスな語り口である。
その後、忠信のカツラや静御前の衣装、義経から忠信に授けられた甲冑や静御前に渡された初音の鼓などを紹介し、更に用意された巨大パネルで人物相関についても説明を行う。「すっぽん」は異形のものが現れる時に使われると説明し、花道と揚幕についても解説を行う。「揚幕は上がる時に音がして、向こうから誰か役者が出てきますので、皆さん、振り返ってみて下さい」と語るが、実はこれはトラップである。“川連法眼館の場”には、花道から誰かが出てくると思わせて、実は別の所から俳優が登場する場面が存在するのである。

 

「義経千本桜」より“吉野山”。出演は、尾上右近(音羽屋。佐藤忠信、実は源九郎狐)、中村壱太郎(成駒家。静御前)。
背景は吉野山の桜と吉野川。吉野川の装置は、途中に三段のローラーを設置し、川が流れているように見えるよう工夫されている(役者の見せ場では観客の意識が散らないよう、ローラーは止まる)。

若手でもトップクラスの女形と評価されている中村壱太郎。生まれ育ちは東京であるが、中村鴈治郎家の出身ということで、上方も拠点としており、屋号も江戸の成駒屋とは異なるとして、父親である鴈治郎が採用した成駒家という上方系の屋号を用いている。
仕草や表情がとにかく細やかであり、色気と上品さを合わせ持った静御前像を創造している。

尾上右近の狐忠信も凜々しく、動きはダイナミックで言うことなしである。

なお、「義経千本桜」には、澤瀉屋型と音羽屋型があり、宙乗りで有名なのは澤瀉屋型である。音羽屋の尾上右近の狐忠信ということで、当然ながら音羽屋型によって行われ、宙乗りや本物の忠信と狐忠信の早替えなどもないが、“吉野山”の一部で澤瀉屋型を採用したとのことである。

 

“川連法眼館”。出演は、尾上右近と中村壱太郎の他に、中村橋之助(成駒屋。源九郎判官義経)、中村福之助(亀井六郎重清)、中村歌之助(駿河次郎清繁)の三兄弟らが加わる。

壱太郎の静御前は相変わらず可憐なのだが、尾上右近の狐忠信は所作は良いものの、正体を現した時の独特のセリフが、「あれ??」と思うほど全くものになっておらず、これでは不出来と思われても仕方のない水準にしか達していなかった。尾上右近は自主公演「研の會」で“吉野山”を取り上げ、狐忠信をやったことがあるが、“川連法眼館”の狐忠信は初役だそうで、やはり初役で成功出来るほど易しい役ではないようである。自分のものにするにはまだまだ時間が掛かりそうだ。

“川連法眼館”は人気演目で、私も澤瀉屋型を当代の猿之助の狐忠信で、音羽屋型を愛之助の狐忠信で観ているが、いずれも優れた出来であった。そうした実力者と比較されやすいだけに、若手にとっては更なる難関となっているようである。

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2021年3月11日 (木)

観劇感想精選(386) COCOON PRODUCTION2021 「マシーン日記」京都公演

2021年3月5日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後6時30分から、ロームシアター京都メインホールで、COCOON PRODUCTION2021 「マシーン日記」を観る。作:松尾スズキ、演出:大根仁。松尾スズキがBunkamuraシアターコクーンの芸術監督に就任したことを記念して行われる公演で、横山裕(関ジャニ∞)、大倉孝二、森川葵、秋山菜津子による4人芝居である。ジャニーズ、それも関西ジャニーズの関ジャニ∞のメンバーである横山裕の主演ということで、来場者の99%以上は女性である。松尾スズキ作品であり、若い女性が好むような作品ではないと思われるのだが、集客という意味では成功したようである。なお、横山裕が新型コロナに感染したため、数公演が中止になっているが、更に横山がストーカー被害に遭っており、会社員の若い女性が逮捕されたとの報道が今日あった(その後、横山裕のマネージャーへのストーカー行為であったとの報道に変わった)。横山も災難続きのようである。
ジャニーズチケットというものがあるようなのだが、おそらくファンクラブのメンバーであることが必須で、身元はハッキリしているため、そちらでチケットを購入した人は特に何かをする必要はないのだが、それ以外の手段でチケットを購入した人は、半券の裏に氏名と電話番号を記入する必要がある。

「マシーン日記」は1996年の初演。戯曲も発売されているが、再演の度に松尾スズキが筆を加えており、今回のバージョンも発売となっている。松尾スズキの戯曲は基本的に私小説的な要素が強いと思われ、「マシーン日記」の他にも「ふくすけ」などでもいじめと復讐が描かれていたり、ミュージカル「キレイ」でも監禁されるという設定が登場する。松尾スズキ本人は子どもの頃は体育の授業はずっと見学だったというほどの虚弱児童で、大学は芸術学部に入るも、周囲に比べて画才がないことで落ち込み(ただそのことが本格的に演劇を始めるきっかけになる)、大学卒業後に就職したデザイン会社でも、正社員でありながら学生アルバイトに負けてしまうほど仕事が出来ないということで、かなりのコンプレックスを抱いていたようである。監禁された人々は、体が弱く劣等感の塊だった時代の松尾スズキ本人の姿が投影されていると解釈した方が分かりやすいように思う。

演出の大根仁は、ドラマ好きにはよく知られている人で、堤幸彦のオフィスクレッシェンド所属。堤幸彦が見出した才能で、「TRICK」シリーズでいくつかの演出を手掛けたほか、大河ドラマ「いだてん」にも演出として参加している。
映像出身ということで、「マシーン日記」でも映像を多用しているが、ベルトコンベアの動きを映像で出したこと以外は、大きな効果は上げられなかったように思う。

 

通常ならオーケストラピットとして使用出来るスペースに舞台を置き、本来のステージ上に客席を設け、更にオーケストラピット上の舞台を左右から挟む形での舞台上客席も設置されていて、舞台を4面から見る客席配置となっている。今日は私は通常の客席であったが、1階の左側サイド席(バルコニー席)である。バルコニー席の最後列にあるハイチェア席と4階席は未使用での上演となった。

 

小さな町工場である、ツジヨシ兄弟電業(舞台上方に会社名を書いた木製の看板が下がっている)が舞台であり、そこから一歩も出ることなく物語が進むという一杯飾りの作品である。中央に多角形(一見すると円形に見えるがそうではない)の回り舞台があり、周囲を途切れ途切れではあるが、ロープ状のものが囲っていて、プロレスのリングのように見えなくもない。秋山菜津子演じるケイコは、髪型といいメイクといい服装といい女子プロレスの悪役のような格好をしている。客席の配置から言ってもプロレスが意識されていることは明らかである。この回り舞台の中で様々な異種格闘技が展開される。

「オズの魔法使い」より“Over the Rainbow”が流れて芝居が始まる。この音楽はその後の重要な場面でも流れ、更に「オズの魔法使い」の変種の物語であることも提示される。

ツジヨシ家の次男であるミチオ(横山裕)は、1年前の雨の日、「哀れな女工」を強姦した。そのことでミチオは逮捕され、仮釈放となるも、そのまま兄であるアキトシ(大倉孝二)によってツジヨシ兄弟電業のプレハブ小屋に監禁される。右脚を鎖で繋がれており、プレハブ小屋から出ることが出来ない(ミチオが「俺はプレハブ小屋を繋いでいる」と語る場面があり、冗談ではあるのだが、実際にそのように思える瞬間もある)。だが、ミチオは電気修理に関しては秀でた能力があり、月収3万円でありながら、ツジヨシ兄弟電業の修理の仕事のほぼ全てを手掛けていた。勿論、修理の仕事が好きだったというのが主な理由だが、その他にも理由があった。ミチオは子どもの頃からいじめられっ子であり、かつて自分をいじめた人々から受けた電気修理の過程で盗聴器を忍び込ませて盗聴を繰り返し、彼らが不幸になっていくのを楽しんでいた
ミチオが強姦した「哀れな女工」であるサチコ(森川葵)は、ミチオの兄であるアキトシと結婚した。弟のしでかしたことは兄が責任を取るということで結婚したのだが、その理屈にサチコもミチオも納得していない。ただミチオはサチコを受け入れておらず、ある意味、サチコがアキトシと結婚したことに安堵しているようでもある。なお、アキトシも以前に事件を起こしたことがあり、その影響でミチオの就職が取り消しになっている。だがその後、就職先でもかつてのいじめっ子に会ったという話をミチオはしているため、家業以外での地元での就職をおそらく短期間ではあるが経験していることが分かる。ケイコから、街を出るという選択はなかったのかと聞かれたミチオであるが、そのことについては考えたことがなかったようである。アキトシやサチコ同様、ミチオも「ここ」以外の場所での生活に怖れを抱いているようにも見え、また実際は「ここ」に居続けることを欲しているように思われる。
なお、兄のアキトシは、生まれつき左手の指が6本あるという奇形で、その後も飼っているワニに片方の睾丸を食いちぎられるなど、異形のものとなっていた。更に双極性障害(暴力癖が見られるため、重度のⅠ型であると思われる。双極性障害Ⅰ型の場合は入院が必要になるケースも多い)を患っており、心身ともに他者と違うことで暴走に歯止めが利かない。事実上、「ここ」以外の場所には行けない人間である。
アキトシは事件を起こした後、父親によってやはりプレハブ小屋に監禁されたことがあったそうだが、父親の話が出てくるのはここだけで、母親は「アキトシが夜中に母親の名を呼ぶTikTokをやっている」という話にしか出てこない。家族の存在は希薄で、それ故にアキトシは家族にこだわっていることが見て取れる。

ツジヨシ兄弟電業に新たなパートが入ることになる。ツジヨシ兄弟電業初の大卒社員となるケイコだ。ケイコは元中学校の教師で、サチコの恩師でもあった。サチコは中卒のようで、そのことをアキトシから見下されており、度々DVを受けていたが、彼女もミチオ同様、ツジヨシ兄弟電業から出ることが出来ないでいる。ケイコは、サチコのことをMであり、SMが好きなのだと断言する。
ケイコは、理数系であったが体育教師であり、かつてはオリンピックの日本代表になったこともあるほどの陸上選手だったが、両性具有者であったため(つまり彼女も異形者である)、セックスチェック(性別審査)に引っかかり、出場はならなかった。ケイコは、度々音楽が流れるマイケル・ジャクソン(黒人に生まれながら白人であろうとした)のような矛盾を抱えたアキトシやサチコとは異なり、単純な駄目男であるミチオを気に入り、様々な体位での性交をミチオと試みるようになる。ケイコは、サチコの同級生で、やはりいじめられっ子だったマツザワという生徒と結婚しており、単純な駄目男を受け入れることが好きなようである。ただそのことでサチコの夢を二度、いや三度も奪うことになる。
ケイコはミチオのセックスマシーンになることを決め、ミチオもケイコを3号機と名付ける。情を交わした3番目の女という意味で、1号機は中年の女性、2号機はサチコだった。
やがてミチオとの間の子を宿したケイコはミチオをトラウマから強引に解放するためのマシーンとして暴走を始めて行く。

 

大倉孝二と秋山菜津子というキャリア豊かな舞台出身の俳優の中にあって、横山裕は大健闘。ジャニーズは厳しいと言われているが、そのため演技をストイックに磨き抜くタイプが多く、横山もそれに入ると思われる。ダンスシーンも用意されているが、やはり横山のキレがダントツであり、これだけでも観客を魅了するのに十分であった。

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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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2020年12月12日 (土)

観劇感想精選(376) 當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部「末広がり」&「廓文章」吉田屋

2020年12月7日 京都四條南座にて観劇

午後6時40分から、京都四條南座で、當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部を観る。新型コロナの影響により、密集を避けるために3部形式となった今年の南座での顔見世。座席も前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応であり、歌舞伎の華である声掛けも禁止ということで寂しいが、顔見世が観られるというだけで感謝しないといけないのだろう。もっとも私自身は毎年顔見世に行っているわけではなく、行かない年もある。

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「顔見世」の第3部の演目は、「末広がり」と「廓文章(くるわぶんしょう)」吉田屋。コロナの影響で余り長い演目は出来ないが、「末広がり」と「廓文章」吉田屋は特に短く、「末広がり」が30分弱、「廓文章」吉田屋も45分程度である。

2階ロビーに立てられた口上の中には、「あまびえ」が隠れており、その後に続く疫病封じの神である祇園社(現在の八坂神社)と共に新型コロナ調伏の願が掛けられている。

 

「末広がり」の出演は、尾上右近(音羽屋)と中村米吉(播磨屋)。長唄囃子は全員、口の前に黒い布を垂らしており、頭巾を被っていない大谷吉継が並んでいるかのようである。

狂言を原作とした狂言舞踊であり、安政元年(1854)に三世桜田治助の作詞、杵屋三郎助の作曲により、江戸中村座で初演されているという。原作の主が女大名に置き換えられており、ラストは二人で華やかに踊れるよう改められている。

近年の女形は、裏声でなくかなり女性に近い声を出せる人が多い。猿之助一門(澤瀉屋)に多いのだが、播磨屋である中村米吉も女性そっくりの声を出す。舞台は京都に置き換わっているようで、太郎冠者は「都」という言葉を使っている。
米吉演じるキリッとした女大名に対し、尾上右近演じる太郎冠者は酔っ払いながら花道を歩いて登場。ユーモラスである。
本来ならもっと笑いが起こるはずなのだが、やはりコロナの患者数が増加している最中ということで、客席は遠慮がちな笑いに留まる。

タイトルにある「末広がり」というのは扇のことであり、女主人は恋しい人に自作の歌を綴った扇を送ろうと考え、太郎冠者に末広がりを買うよう申しつけたのだが、太郎冠者は末広がりが何かわからず、街を「末広がり買いましょう」と言いながら歩き回ったため、騙されて傘を買わされてしまった。帰ってきた太郎冠者は末広がりとは傘のことだと言い張る。確かに傘も末は広がっている。女主人は激怒するが、太郎冠者が申の舞を披露したため機嫌を直し、共に目出度い唄と舞を行う。尾上右近は傘の上の鞠を回すという、目出度い芸も披露した。

「末広がり」というタイトルからしてハッピーエンだとわかる作品であるが、申は「去る」に繋がるため(鬼門には鬼が「去る」よう猿の像が置かれることが多い)、今の状況に去って欲しいという願いを込めて、この演目が選ばれたのかも知れない。

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「廓文章」吉田屋。原作は近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」という人形浄瑠璃のための本で、これが歌舞伎化され(歌舞伎台本に直した人物の名前はわかっていないようである)、更に六世菊五郎が再構成したのが今回上演される「廓文章」である。

出演は、松本幸四郎(高麗屋)、片岡千壽(松嶋屋)、片岡千太郎(松嶋屋)、澤村由蔵(紀伊國屋)、中村雁洋(成駒家)、澤村伊助(紀伊國屋)、片岡りき彌(松嶋屋)、片岡千次郎(松美屋)、中村壱太郎(成駒家)。

大坂が舞台である。新町遊郭の吉田屋の店先に編笠に紙衣装の男が現れる。吉田屋の下男(片岡千次郎)は、男を乞食か何かと勘違いして追い払おうとするが、主である喜左衛門の妻であるおきさ(片岡千壽)がそれを止める。編笠の中をのぞき込んだおきさは、男の正体が大坂屈指の大店である藤屋の若旦那、伊左衛門(松本幸四郎)だと気付く。伊左衛門は、新町の名妓・夕霧(実在の人物である。演じるのは中村壱太郎)に入れあげ、多額の借金を作ったため、親から勘当されたのだ。粗末ななりに変わった伊左衛門だが、夕霧が病を得たというので、心配して吉田屋までやって来たのである。
部屋に上がって夕霧を寝ながら待つことになった伊左衛門だが、目覚めてみると手持ち無沙汰であり、床の間にあった三味線を取り上げて弾いたり(一部は実際に幸四郎が奏でている)、夕霧と疎遠になったことを嘆いたりする。いったんは夕霧に会わずに帰ろうと決めた伊左衛門だが、割り切れず、部屋に残ることになる。夕霧が現れた時のことを考えて格好良く見えるポーズを考えたりする伊左衛門。
夕霧が現れる。具合は大分悪そうだが、相変わらず可憐である。伊左衛門は夕霧に掛ける言葉を見つけることが出来ず、「万歳傾城!」などとなじってしまい、今宵で二人も最後かと思えたのだが……。

「末広がり」もそうだったが、「廓文章」吉田屋も「雨降って地固まる」話になっている。南座の2階に書かれていた口上にも現れていたが、危機を乗り越えて更なる発展を期したいという歌舞伎界の祈りが込められた作品である。「今」に合うものを選んだのであろう。
ちなみに、みなで大阪締めを行う場面があるのだが、セリフこそないものの、「ここは観客にも参加して欲しいのだろうな」というのが空気でわかったため、私を含めて参加した人が結構いた。声掛けは出来ないが、違った形での一体感を得ようと試行錯誤しているのが伝わってくる。

伊左衛門を演じる幸四郎は、女形をやった経験から得たものを立役である伊左衛門に生かしているのがわかる。女形の演技を転用することで、育ちが良くて純粋で時にコミカルというボンボン像を巧みに表してみせる。
先代の幸四郎(現・二代目白鸚)が、ザ・立役という人であるため、例えば弁慶などの男っぽい役をやった場合は、当代が一生涯かけても先代に追いつくことは難しいように思われるのだが、伊左衛門役は先代には出来ないため(実際、やったことは一度もないようである)高麗屋の新しい当たり役となる可能性は高い。見た目が優男なのもプラスに働く。これまで伊左衛門を演じて当ててきたのは、坂田藤十郎、仁左衛門、愛之助、四代目鴈治郎、三代目扇雀といった上方の俳優達だが、幸四郎は3年連続で伊左衛門を演じており、江戸の歌舞伎俳優として新たなる伊左衛門像を打ち立てつつある。

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2020年12月 6日 (日)

観劇感想精選(374) 「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演2020

2020年11月29日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演を観る。
2年に1度のペースで春秋座で公演が行われている「琉球舞踊と組踊」。今回の琉球舞踊は、琉球王朝時代ではなく、廃藩置県や琉球処分による日本の沖縄県となった後で生まれた芸能が披露される。

まず、国立劇場おきなわの芸術監督である嘉数道彦が、ウチナーグチによる挨拶を行い、それをヤマトグチに直す。今年は平年よりも気温は高めだが、「やはり京都は寒い」とのことである。
そして沖縄芸能の歴史について話す。琉球舞踊は、元々は宮中の祝賀や年中行事で披露されていたものであり、庶民は観る機会がほとんどなかったのだが、王朝時代が終わり、沖縄県になると、上演の場を芝居小屋に移すことになる。ただ王族や貴族向けの内容であったため洗練され過ぎている上に一定の教養がないとわからないということで、客足が絶えるようになってしまう。そこで生み出されたのが雑踊(ぞうおどり)というものであり、庶民を主人公とし、市井の風俗を描いた平易な作風であるため人気を博するようになった。今回は前半に雑踊作品が並んでいる。

第一部・琉球舞踊。演目は、「鳩間節」(踊り手:田口博章)、「むんじゅる」(踊り手:山城亜矢乃)、「金細工(かんぜーくー)」(指導:宮城能鳳。踊り手:石川直也、新垣悟、阿嘉修)、「木花風(むとぅはなふう)」(踊り手:宮城能鳳)、舞踊喜劇「戻り駕篭」(踊り手:金城真次、玉城匠、山城亜矢乃)。日本語(というと変かも知れないが、いわゆる大和言葉)字幕付きでの上演である。

地謡は、西江喜春(にしえ・きしゅん。地謡指導兼)、花城英樹、玉城和樹(たましろ・かずき)、和田信一(わだ・のぶかず。以上、歌三線)、安慶名久美子(あげな・くみこ。箏)、宮城英夫(笛)、平良大(たいら・だい。胡弓)、久志大樹(太鼓)。

 

日本舞踊もそうだが、琉球舞踊も身体全体を大きく見せているが、手や足は実は最短距離を通っており、無駄がない。演者は全て「最高賞受賞」「新人賞受賞」「師範」など華麗な経歴や肩書きを誇る人々で、沖縄の優れた芸能を堪能することが出来る。

沖縄県になってから生まれた雑踊ということで日本本土の芸能が積極的に取り入れられており、空手、かっぽれ、チャンバラ、狂言などお馴染みの芸が登場する。

「金細工(かんぜーくー)」は、芝居仕立てである。金細工(鍛冶屋のことだそうだ)の加那兄は、遊女の真牛を一月も連れ回してる。本当は身請けしたいのだが金がない。ということで商売道具を売ろうとするのだが上手くいかず、身をはかなんで身投げしようとしたところに左官の長兵衛が、とはならない。真牛が揚げ代は自分で払うということで、ハッピーエンドへと向かっていくという話である。

「本花風(むとぅはなふう)」は、非常にゆったりとした踊りであり、前半の演目の中では異色である。踊り手の宮城能鳳(みやぎ・のうほう)は人間国宝指定保持者であり、今回の「本花風」の振付も手掛けている。男との別れを描いた作品であり、さりげない仕草に哀感がにじむ。
登場する際も退場の際も同じようなゆっくりとした足取りだが、前者は別れへの怖れ、後者は去りがたき未練にように見え、全体をかなり緻密に練り上げているという印象を受ける。

舞踊喜歌劇「戻り駕篭」は歌舞伎舞踊「戻籠」の一部を原作に、今日も出演する玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)が創作した作品で、タイトル通りの舞踊劇となっている。駕篭かき二人が、美女を乗せた駕篭を走らせているのだが、やがて取り合いとなる。駕篭かき二人は杖を刀代わりにチャンバラを行うなど外連味も十分。この作品では、踊り手がセリフを発し、地謡が同じ言葉を返すという趣向が特徴となっている。美女だと思っていたら実は……、という展開は狂言の「吹取」や「業平餅」と同様である。

 

第二部・組踊。演目は「二童敵討(にどうてきうち)」。まずは嘉数道彦による解説がある。タイトル通り、二人の童が敵を討つ話なのだが、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が、1719年に中国(当時は清王朝)からの冊封使をもてなすために創作した最初の組踊二編のうちの一編だそうである(もう一編は「道成寺」の翻案である「執心鐘入」)。昨年は組踊の初演から300年ということで琉球芸能にとって特別な年となったようだ。
組踊は、歌舞劇の一種であるが、琉球オペラや琉球ミュージカルとも言われており、地謡に特徴があるという。
玉城朝薫は、当時琉球が二重朝貢として使者を送っていた薩摩、更には江戸にも滞在し、能や狂言、歌舞伎などに触れたことがあるそうで、組踊創作の際に影響を受けたと思われる。

冊封使をもてなす場で上演されるということで、往時の組踊は士族の男子のみが演じることを許されていたそうである。

兄弟が父親の敵を討つという話であり、「曾我兄弟」を思い起こさせるが、「二童敵討」に登場する鶴松と亀千代の年齢はそれぞれ13歳と12歳で、曾我兄弟よりも更に若い。

出演は、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ。あまおへ)、田口博章(鶴松)、金城真次(きんじょう・しんじ。亀千代)、宮城能鳳(母)、石川直也(供一)、新垣悟(あらかき・さとる。供二)、阿嘉修(あか・おさむ。供三)、玉城匠(たまき・たくみ。きやうちやこ持ち)。立方指導は宮城能鳳。

勝連の阿麻和利(あまおへ)は、中城(なかぐすく)の護佐丸氏の一族を滅ぼし、首里城に攻め込む準備をしているが、吉日だというので、家臣の者を連れて野原へ遊びに出掛ける。
あまおへが一族根絶やしにしたと思っていた護佐丸氏だが、13歳になる鶴松と12歳の亀千代は生きており、「親の敵を討ち取れば、二人がともに死んだとしても国がある限りは名が残る」と父を殺したあまおへに復讐する機会を窺っていた。

自己紹介などの説明や、ちょっとしたやり取りなどは、「ドミファソシド」の琉球音階を上がり下がりするだけの単純な節回しで行われるが、表に出ない心の声は、地謡がコブシたっぷりに歌い上げ、メロディーをなぞる胡弓が哀切な響きを奏でる。
鶴松、亀千代が母と対面する場面では、二人の決意と、母親の我が子を心配する気持ちが地謡で切々と歌われる。

鶴松と亀千代は、あまおへが家臣と遊んでいる野原を訪れ、自慢の舞を行い始める。二人の舞はすぐにあまおへの目にとまり、あまおへは家臣に命じて二人を呼び寄せ、目の前で舞うよう命令する。
鶴松と亀千代は、最初の内はそうでもなかったが、次第にあまおへの顔から目を逸らさずに舞うようになり、緊迫感が増す。
だが、あまおへは油断しているのか、二人の視線には気がつかず、褒美として軍配、大小の刀、羽織などを与え、更に家臣達を下がらせ、鶴松と亀千代の踊りを真似て上機嫌。そこで二人は名乗りを上げ、見事、あまおへを討ち果たすのだが、殺害の場面はギリシャ悲劇同様、見えない場所で行われる。冊封使歓待の劇で殺害シーンを見せるというのは、やはり憚られたのだろうか。

酒宴での踊り子に化けての暗殺は日本武尊の熊襲襲撃伝説に繋がる。
兄弟による仇討ちや、酒宴の場での殺害などは演劇において決して珍しい場面ではないが、「曾我兄弟の仇討ち」や日本武尊の話を朝薫が日本滞在中に知り、自作に取り入れた可能性は高い。オリジナリティが尊重されるのはもっとずっと後の時代であり、往時は「オリジナリティ」は、「勝手な思いつき」でしかなく、観る方は「なんでお前の思いつきにつき合わねばならんのだ」となる方が普通であったと思われる。実際に起こった歴史上の出来事や古くから伝わる話の方が迫真性があるという考え方は確かに納得のいくものである。

嘉数道彦の話によると、「二童敵討」は、中国からの冊封使に見せるということで、中国で盛んな儒教の要素、「君に忠、親に孝」を取り入れているとのことだったが、要は「勧善懲悪」の面白さであり、日本の時代劇と同じ要素で出来ている。「勧善懲悪もの」のテレビ時代劇は今は数がかなり少なくなってしまっているが、BSやCSなどでは流されており、また「『半沢直樹』は時代劇だ」という言葉が聞こえてくるなど、現代劇であっても人々は勧善懲悪の物語を求めている。明らかな悪が退治される話に胸がすくというのは、世界中どこへいってもそう変わらないだろう。

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2020年11月29日 (日)

観劇感想精選(370) 風琴工房 「紅き深爪」

2006年8月1日 左京区下鴨の人間座スタジオにて観劇

下鴨にある人間座スタジオで、東京の劇団、風琴工房の「紅き深爪」を観る。作・演出:詩森ろば。風琴工房も“TOKYO SCAPE”で上洛して公演を行っている劇団の一つだ。

「紅き深爪」は幼児虐待やアダルトチルドレンをテーマとした芝居である。

まず、人物設定が細かいことに感心する。箱書きにはおそらく個々の登場人物に関してかなり書き込まれているはずで、丁寧な仕事ぶりを好ましく思う。
サブテキストもわかりやすく、姉妹がなぜこれほど性格が異なるのか、彼女たちがどんな子供時代を過ごし、どのように成長してきたかが手に取るようにわかる。
病室が舞台であり、姉妹の母がカーテンの向こうで死の床に就いているのだが、この母親の人物像も自然なセリフでわかりやすく説明される(映画「愛を乞うひと」の原田美枝子のような人だったらしい)。

少しステレオタイプかな、と感じた場面も実は狙いであったことがわかり、「やるな」と思う。作家はよく勉強している。

役者のレベルにはややバラツキがあるが、上手い役者はとにかく上手く、全体の水準が引き上げられていた。

見応えのある芝居であった(全席指定であり、最前列に座ることになったのだが、最前列で観るには重い芝居ではあったが)。ただ、この手の芝居は好き嫌いがはっきり分かれるのが常である。「愛を乞うひと」が嫌いな人は(「『愛を乞うひと』なんて二度と見たくない」という人を私は何人か知っている)この劇も苦手なはずだ。

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2020年11月27日 (金)

観劇感想精選(369) 「獣道一直線!!!」

2020年11月21日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都メインホールで、「獣道一直線(じゅうどういっちょくせん)!!!」を観る。生瀬勝久、池田成志、古田新太からなるユニット「ねずみの三銃士」の6年ぶりの公演である。

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ねずみの三銃士は、毎回、宮藤官九郎の脚本、河原雅彦の演出で公演を行っている。2004年の初公演「鈍獣」で宮藤官九郎が岸田国士戯曲賞を受賞し、3作目の「万獣こわい」は読売演劇大賞優秀作品賞を受賞するなど、評価も高い。2009年に三田佳子を主演に招いて話題を呼んだ「印獣」、2014年には夏帆がキーパーソンを演じた「万獣こわい」と5年おきに公演を行っており、「万獣こわい」の大阪公演のカーテンコールで生瀬勝久が、「また5年後にお会いしましょう」と語っていたが、ねずみ年に合わせたのかPARCO劇場のオープニングに合わせたのか、6年後の公演となった。

宮藤官九郎が脚本を手掛けたテレビドラマや映画には好きな作品がいくつもあり、俳優としても気に入っているのだが、劇作となるとなぜか外れと感じるものが多い。劇作家・宮藤官九郎とは余り相性が良くないようである。今回もロームシアター京都での公演でなかったら行かなかったと思うが、コロナの影響で今年はまだメインホールに入っていないため、なんとしてでも行ってみたかった。劇の内容は二の次である。

これまでポピュラー音楽用とオペラ公演用に適したホールがなかった京都。ポピュラー音楽の方は、「京都で公演を行いたい」と思うアーティストが多いということもあり、盛況であるが、オペラの公演は年に2回程度、今年は小澤征爾音楽塾が中止になったため高校生のためのオペラ鑑賞教室で「魔笛」が上演されただけ、演劇となると更に不振で良質の演劇が上演されることは極めて少ない。メインホールの場合は更に限られて、演劇の公演が行われたのは、ミュージカル「わたしは真悟」に続いて今回が2回目だと思われる。

ストレートプレーにキャパ2000はやはり多いようで、今回は1階席と2階席のみを利用しての上演である。

作・出演:宮藤官九郎、演出:河原雅彦。出演は、生瀬勝久、池田成志、古田新太、山本美月、池谷のぶえ。「ねずみの三銃士」公演に宮藤官九郎が出演するのは初となる。

一見、そうは見えないが、コロナ下における演劇を題材にした作品である。

ねずみの三銃士は犯罪を題材にしたホラーチックな作品を上演するのが常だが、今回も木嶋佳苗死刑囚が起こした「首都圏連続不審死事件」をベースに、「東池袋自動車暴走死傷事故」、「常磐自動車道あおり運転殴打事件」(ガラケーで撮影を行うシーンあり)など、いくつかの犯罪事件の断片が鏤められている。

まず登場するのは三人の売れない俳優である。パニック障害を患う生汗勝々(なまあせかつかつ。生瀬勝久)、不安神経症レベルの心配症に悩んでいる池手成芯(いけでなるしん。池田成志)、アルコール中毒の古新田太(ふるあらたふとし。古田新太)である。生汗勝々は、日本版「アベンジャーズ」のオーディションだと聞いてこの場所に来たのだが、現れた女性審査員(ぱわ原雅ぴ子。演じるのは池谷のぶえ)の様子も見るからに変であり、戸惑う。実はコロナによって俳優は「不要不急」の仕事とされたため、福島県にある練り物工場で強制労働に従事させられることになり、障害を持つ三人が集められたのはそのためで、オーディションというのは罠だったのだ。

その福島県に住む苗田松子(なえだまつこ)という女性(池谷のぶえ)に不審の目が向けられていた。松子は出会い系サイトで知り合った三人の男性とつき合っていたのだが、そのうちの二人が不審死を遂げており、松子は多額の保険金などを受け取っていた。松子とつき合ったことのある男達の証言によると松子というのは「とにかくいい女」とのことだったが、実際は冴えない太めのおばちゃんである。

苗田松子の事件を取材しているドキュメンタリー映像作家の関(宮藤官九郎)は、妻のかなえ(山本美月)の協力を得て、松子の住む福島に取材に出掛けていた。かなえは、松子が開設していたブログの記事を読破するなど、松子に関するありとあらゆる情報を仕入れていた。そして二人でまず「魔性の女」という映像を作ったのだが、現れた松子は「魔性の女」のイメージとはほど遠い存在である。

かまぼこ工場で俳優を使った松子の人生の再現ドラマ制作が始まる。演じる俳優は当然ながら、生汗勝々、池手成芯、古新田太の三人である。三人はそれぞれ松子の被害者男性を演じる。実は関は自称「保守的」な映像作家で、フィクションについては懐疑的だった。松子の提案で再現ドラマを撮影することにはしたが、実は関の狙いは他にあった。

苗田松子であるが、アナグラムによる前田夏子などいくつかの偽名を使い分けていた。本名は松戸かなえ(松戸という役名は、木嶋佳苗死刑囚が最初の事件を起こした千葉県松戸市から取られたのだと思われる)。犯罪者ではあるが、自分を素材の何倍も魅力的な女に見せるという、俳優の素質にも繋がるものを持った人物である。

関の妻であるかなえも、名前が同じ松戸かなえにどんどん引き寄せられていく。
やがて池谷のぶえと山本美月は二人で一人のかなえ像として男達を魅惑するようになる……。

グロテスクなラストなど、いつも通りのホラーコメディ路線の作品ではあるのだが、実際に描かれているのは、演劇を「不急不要」と決めつけた人々への復讐である。昨日観た野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」もそうだが、今の時期にフィクションの必要性について語ることは極めて重要であり、新型コロナウイルスに罹患した宮藤官九郎がそのことについて何も触れない方が不自然である。
ねずみの三銃士の作品のうち、「鈍獣」は戯曲と映像を観たが、隠れたところで復讐劇が行われているという共通点がある。

正直、好きなタイプの作品ではないし、ヒロインの山本美月も弱いのだが、宮藤官九郎が語りたかったことは受け止めることが出来たように思う。

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