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2025年3月15日 (土)

コンサートの記(895) 京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2025年2月17日 京都市立芸術大学・堀場信吉記念ホールにて

京都市立芸術大学崇仁新キャンパス A棟3階にある堀場信吉記念ホールで、京都市立芸術大学第176回定期演奏会 大学院オペラ公演 モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を観る。堀場信吉記念ホールで行われる初のオペラ公演である。「ドン・ジョヴァンニ」が京都市の姉妹都市であるプラハで初演され、大成功したことからこの演目が選ばれたようだ。

日本最古の公立絵画専門学校を前身とする京都市立芸術大学。京都市内を何度も移転している。美術学部は京都御苑内から左京区吉田の地を経て東山区今熊野にあり、京都市立音楽短期大学は左京区出雲路で誕生して左京区聖護院にあったが、京都市立音楽短期大学は京都市立芸術大学の音楽学部に昇格。その後、美術学部、音楽学部共に西京区大枝沓掛という街外れに移転した(沓掛キャンパス)。当時は近くに洛西ニュータウンが広がり、京都市営地下鉄の延伸で一帯が栄えると予想されていたのだが、地下鉄の延伸計画が白紙に戻り、ニュータウンも転出超過で、寂しい場所となっていった。美術学部は、自然豊かな方が風景画の題材が豊富ということで、多摩美や武蔵美などの例を挙げるまでもなく、郊外にあった方が有利な点もあるのだが(上野の東京芸術大学など、開けた街にある場合もあるが)、音楽学部は、例えば学内公演を行おうとした際、交通が不便な場合、よっぽど親しい人でない限り聴きに来てくれない。沓掛キャンパスはバスしか交通手段がなかったため、とにかく人が呼べないのがネックだった。だが、新しいキャンパスは京阪七条駅からもJR京都駅からも徒歩圏内であり(両方の駅の丁度中間地点にある)、集客の心配はしないで済むようになったと思われる。

堀部信吉記念ホールに名を冠する堀部信吉(ほりべ・しんきち)は、京都帝国大学出身の物理学者であり、京都では名の知れた企業である堀部製作所の創業者、堀部雅夫の父親でもあるのだが、京都市立音楽短期大学の初代学長であった。

移転した京都市立芸術大学のキャンパスであるが、敷地がそれほど広くないということもあって、完全なビルキャンパスである。京都市内が建物の高さ規制があるのでビルというほどの高さもない建物によって形成されている。庭のようなスペースがほとんどないため、専門学校の校舎のようでもあり、大学のキャンパスと聞いて思い浮かべるような広大な敷地とお洒落な建物を期待する人には合わないような気がする。周囲には自然はないので、美術学部の学生は東山などに写生に出掛ける必要があるだろう。幸い、遠くはない。

堀部信吉記念ホールであるが、敷地が余り広くないところに建てたということもあってか、客席がかなりの急傾斜である。これまで入ったことのあるホールの中で客席の傾斜が最もきついホールと見て間違いないだろう。そのため、天上の高さはある程度あるが、客席の奥行きはそれほどなく、全ての席に音が届きやすくなっている。音響設計などは十分いされているようには思えないが、音に不満を持つ人は余りいないだろう。一方、そのために犠牲になっている部分もあり、ホワイエが狭く、また興行用のホールではなく、あくまでも大学の講堂メインで建てられているため、トイレが少なく、休憩時間には長蛇の列が出来る。使い勝手が良いホールとは言えないようである(その後、解決法が考案されたようである)。外部貸し出しについてだが、ロームシアター京都や京都コンサートホールがあるのに、わざわざ堀部信吉記念ホールを借りたいという団体がそう多いとも思えないため、基本的には京都市立芸術大学専属ホールとして機能していくものと思われる。

 

今回のモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、タイトル通り、京都市立芸術大学大学院声楽専攻の学生の発表の場をして設けられたものである。おそらく声楽専攻の全学生が出演すると思われるのだが、役が足りないため、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは3人が交代で演じるという荒技が用いられていた。逆に男声歌手は数が足りないので、客演の歌手が3名招かれている。基本的に修士課程在学者が出演。博士課程1回生で騎士長役の大西凌は客演扱いとなっている。アンサンブルキャストは大学院声楽専攻の学生では数が足りないので、全員、学部の学生である。
オーケストラも京都市立芸術大学の在学生によって組織されているが、学部と修士学生の混成団体である。中には客演の人もいるが、どういう経緯で客演の話が回ってきたのかは不明である。
レチタティーボを支えるチェンバロは、学生ではなく、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師の越知晴子が務めている。

スタッフには指導教員の名前も記されているのだが、阪哲朗の名が目を引く。

今回の指揮者は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの指揮者として知られる大川修司。京都市立芸術大学非常勤講師でもある。

演出は、久恒秀典。国際基督教大学で西洋音楽史を専攻し、東宝演劇部を経て1994年にイタリア政府奨学生としてボローニャ大学、ヴェネツィア大学、マルチェッロ音楽院でオペラについて学び、ヴェネト州ゴルドーニ劇場演劇学校でディプロマを取得。同劇場やフェニーチェ劇場、ミラノ・カルカノ劇場などの公演に参加。2004年にも文化庁芸術家在外研究員に選ばれている。
現在は、新国立劇場オペラ研究所、東京藝術大学、東京音楽大学、京都市立芸術大学の非常勤講師を務める。

バロックティンパニを使用しており、ピリオドを意識した演奏であるが、弦楽はビブラートを控えめにしているのが確認出来たものの、「ザ・ピリオド」という音色にはなっておらず、演奏スタイルの違いにはそれほどこだわっていないように感じられた。
冒頭の序曲にもおどろおどろしさは余り感じられず、音楽による心理描写よりも音そのものの響きを重視したような演奏。個人的にはもっとドラマティックなものが好きであるが、これが普段は声楽の指揮者である大川のスタイルであり、限界なのかも知れない。

 

公立大学による公演で、セットにお金は余り掛けられないという事情もあると思われるが、舞台装置は比較的簡素で、照明なども大仰になりすぎるなど、余り効果的とはいえないようである。騎士長の顔色については、明らかに色をなくしていると歌っているはずだが、衝撃度を増すための赤い照明を使ったため、歌詞の意味が分かりにくくなっていた。

この芝居は、ドン・ジョヴァンニがドンナ・アンナを強姦しようとしたところから始まるのだが、ドン・ジョヴァンニとドンナ・アンナが初めて舞台に現れた時は、二人は離れており、たまたまドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニを見つけて腕を掴むという展開になっていたが、おそらくだが、ドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニはもっと近くにいたはずである。でないと、自分を犯そうとした人物がドン・ジョヴァンニだと分からないはずだからである。細かいことだが、理屈が通らないところは気になる。

女たらしのドン・ジョヴァンニ。ドンナ・アンナに関しては力尽くであったが、それ以外は魅力でベッドに持ち込んだらしいことがエルヴィーラの話によって分かる。ドン・ジョヴァンニに捨てられ、精神のバランスを崩したエルヴィーラ。復讐のためにドン・ジョヴァンニを追っているが、再び彼に魅せられることになる。エルヴィーラだけが特別なのではなく、基本的にはドン・ジョヴァンニは、少なくとも表面上は紳士的に振る舞い、優しいのであろう。ドン・ジョヴァンニは博愛の精神を信奉しており、スカートをはいている人物なら、老いも若きも、美醜も一切差別しないという人物である。男が女装している場合はどうなのか分からないが(歴史的には男性の一番の魅力が脚線美であり、男がスカートをはく文化を持つ時代なども存在した)。やっていることは外道でも、それ自体が100%悪とも断言は出来ない。騎士長殺しは別として。
一方で、ドン・ジョヴァンニが憎まれるのは、「愛する愛する」言っておきながら、相手からの愛を一向に受け入れないからではないのか。エルヴィーラに対する態度を見るとそんな気がしてならない。一方的な愛など罪以外のなにものでもない。というわけで地獄落ちも納得である。

まだ若い大学院生による演技と歌唱であるが、難関をくぐり抜けてきた実力者であるためか、プロと比べず、純粋に作品の登場人物として見れば、十分にリアルな存在として舞台上に立つことが出来ていたように思う。ただ、現時点では、「オペラ歌手はあくまで歌手なのだから、どんな場面でも歌う体勢を優先させるのが基本」であるが、今後はもっと舞台俳優の演技に近づいていきそうな予感もある。例えば、オペラ歌手と舞台俳優が「共演しよう」となった時に、オペラ歌手が舞台俳優のようなナチュラルな演技が出来ないため浮くという可能性も考えられる。それでも「オペラ歌手はオペラ歌手」で行くのか、「ミュージカル俳優は舞台俳優と遜色ない演技が出来るのだから」オペラ歌手にも相当のものが求められるのか。これは日本語のオペラが増えてきたために明らかになった問題でもある。

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2025年2月18日 (火)

観劇感想精選(484) リリックプロデュース公演 Musical「プラハの橋」

2025年2月10日 京都劇場にて

午後6時30分から、京都劇場で、リリックプロデュース公演 Musical「プラハの橋」を観る。歌手の竹島宏が「プラハの橋」(舞台はプラハ)、「一枚の切符」(舞台不明)、「サンタマリアの鐘」(舞台はフィレンツェ)という3枚のシングルで、2003年度の日本レコード大賞企画賞を受賞した「ヨーロッパ三部作」を元に書かれたオリジナルミュージカル公演である。作曲・編曲:宮川彬良、脚本・演出はオペラ演出家として知られる田尾下哲。作詞は安田佑子。竹島宏、庄野真代、宍戸開による三人芝居である。演奏:宮川知子(ピアノ)、森由利子(ヴァイオリン)、鈴木崇朗(バンドネオン)。なお、「ヨーロッパ三部作」の作曲は、全て幸耕平で、宮川彬良ではない。

パリ、プラハ、フィレンツェの3つの都市が舞台となっているが、いずれも京都市の姉妹都市である。全て姉妹都市なので京都でも公演を行うことになったのかどうかは不明。
客席には高齢の女性が目立つ。
チケットを手に入れたのは比較的最近で、宮川彬良のSNSで京都劇場で公演を行うとの告知があり、久しく京都劇場では観劇していないので、行くことに決めたのだが、それでもそれほど悪くはない席。アフタートークでリピーターについて聞く場面があったのだが、かなりの数の人がすでに観たことがあり、明日の公演も観に来るそうで、自分でチケットを買って観に来た人はそれほど多くないようである。京都の人は数えるほどで、北は北海道から南は鹿児島まで、日本中から京都におそらく観光も兼ねて観に来ているようである。対馬から来たという人もいたが、京都まで来るのはかなり大変だったはずである。

青い薔薇がテーマの一つになっている。現在は品種改良によって青い薔薇は存在するが、劇中の時代には青い薔薇はまだ存在しない(青い薔薇は2004年に誕生)。

アンディ(本名はアンドレア。竹島宏)はフリーのジャーナリスト兼写真家。ヨーロッパ中を駆け巡っているが、パリの出版社と契約を結んでおり、今はパリに滞在中。編集長のマルク(宍戸開)と久しぶりに出会ったアンディは、マルクに妻のローズ(庄野真代)を紹介される。アンディもローズもイタリアのフィレンツェ出身であることが分かり、しかも花や花言葉に詳しい(ローズはフィレンツェの花屋の娘である)ことから意気投合する。ちなみにアンディはフィレンツェのアルノ川沿いの出身で、ベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)を良く渡ったという話が出てくるが、プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」の名アリア“ねえ、私のお父さん”を意識しているのは確かである。
ローズのことが気になったアンディは、毎朝、ローズとマルクの家の前に花を一輪置いていくという、普通の男がやったら気味悪がられそうなことを行う。一方、ローズも夫のマルクが浮気をしていることを見抜いて、アンディに近づいていくのだった。チェイルリー公園で待ち合わせた二人は、駆け落ちを誓う。

1989年から1991年まで、共産圏が一斉に崩壊し、湾岸戦争が始まり、ユーゴスラビアが解体される激動の時代が舞台となっている。アンディは、湾岸戦争でクウェートを取材し、神経剤が不正使用されていること暴いてピューリッツァー賞の公益部門を受賞するのだが、続いて取材に出掛けたボスニア・ヘルツェゴビナで銃撃されて右手を負傷し、両目を神経ガスでやられる。

竹島宏であるが、主役に抜擢されているので歌は上手いはずなのだが、今日はなぜか冒頭から音程が揺らぎがち。他の俳優も間が悪かったり、噛んだりで、舞台に馴染んでいない印象を受ける。「乗り打ちなのかな?」と思ったが、公演終了後に、東京公演が終わってから1ヶ月ほど空きがあり、その間に全員別の仕事をしていて、ついこの間再び合わせたと明かされたので、ブランクにより舞台感覚が戻らなかったのだということが分かった。

台詞はほとんどが説明台詞。更に独り言による心情吐露も多いという開いた作りで、分かりやすくはあるのだが不自然であり、リアリティに欠けた会話で進んでいく。ただ客席の年齢層が高いことが予想され、抽象的にすると内容を分かって貰えないリスクが高まるため、敢えて過度に分かりやすくしたのかも知れない。演劇を楽しむにはある程度の抽象思考能力がいるが、普段から芝居に接していないとこれは養われない。風景やカット割りなどが説明的になる映像とは違うため、演劇を演劇として受け取る力が試される。
ただこれだけ説明的なのに、アンディとローズがなぜプラハに向かったのかは説明されない。一応、事前に「プラハの春」やビロード革命の話は出てくるのだが、関係があるのかどうか示されない。この辺は謎である。

竹島宏は、実は演技自体が初めてだそうだが、そんな印象は全く受けず、センスが良いことが分かる。王子風の振る舞いをして、庄野真代が笑いそうになる場面があるが、あれは演技ではなく本当に笑いそうになったのだと思われる。
宍戸開がテーブルクロス引きに挑戦して失敗。それでも拍手が起こったので、竹島宏が「なんで拍手が起こるんでしょ?」とアドリブを言う場面があった。アフタートークによると、これまでテーブルクロス引きに成功したことは、1回半しかないそうで(「半」がなんなのかは分からないが)、四角いテーブルならテーブルクロス引きは成功しやすいのだが、丸いテーブルを使っているので難しいという話をしていた。リハーサルでは四角いテーブルを使っていたので成功したが、本番は何故か丸いテーブルを使うことになったらしい。

最初のうちは今ひとつ乗れなかった三人の演技であるが、次第に高揚感が出てきて上がり調子になる。これもライブの醍醐味である。

宮川彬良の音楽であるが、三拍子のナンバーが多いのが特徴。全体の約半分が三拍子の曲で、残りが四拍子の曲である、出演者が三人で、音楽家も三人だが何か関係があるのかも知れない。

ありがちな作品ではあったが、音楽は充実しており、ラブロマンスとして楽しめるものであった。

 

竹島宏は、1978年、福井市生まれの演歌・ムード歌謡の歌手。明治大学経営学部卒ということで、私と同じ時代に同じ場所にいた可能性がある。

「『飛んでイスタンブール』の」という枕詞を付けても間違いのない庄野真代。ヒットしたのはこの1作だけだが、1作でも売れれば芸能人としてやっていける。だが、それだけでは物足りなかったようで、大学、更に大学院に進み、現在では大学教員としても活動している。
ちなみにこの公演が終わってすぐに「ANAで旅する庄野真代と飛んでイスタンブール4日間」というイベントがあり、羽田からイスタンブールに旅立つそうである。

三人の中で一人だけ歌手ではない宍戸開。終演後は、「私の歌を聴いてくれてありがとうございました」とお礼を言っていた。
ちなみにアフタートークでは、暗闇の中で背広に着替える必要があったのだが、表裏逆に来てしまい、出番が終わって控え室の明るいところで鏡を見て初めて表裏逆に着ていたことに気付いたようである。ただ、出演者を含めて気付いた人はほとんどいなかったので大丈夫だったようだ。

竹島宏は、「演技未経験者がいきなりミュージカルで主役を張る」というので公演が始まる前は、「みんなから怒られるんじゃないか」とドキドキしていたそうだが、東京公演が思いのほか好評で胸をなで下ろしたという。

庄野真代は、「こんな若い恋人と、こんな若い旦那と共演できてこれ以上の幸せはない」と嬉しそうであった。「これからももうない」と断言していたが、お客さんから「またやって」と言われ、宍戸開が「秋ぐらいでいいですかね」とフォローしていた。

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2025年2月12日 (水)

観劇感想精選(483) 渡邊守章記念「春秋座 能と狂言」令和七年 狂言「宗論」&能「二人静」立出之一声

2025年2月8日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、渡邊守章記念「春秋座 能と狂言」を観る。毎年恒例となっている能と狂言の上演会である。今回の狂言の演目は「宗論」、能は「二人静」立出之一声である。

片山九郎右衛門(観世流シテ方)と天野文雄(大阪大学名誉教授)によるプレトークでは、能「二人静」立出之一声の演出についての話が展開される。『義経記』を元に静御前の霊を描いた「二人静」。静御前は日本史上最も有名な女性の一人であるが、その正体についてはよく分かっておらず、不自然な存在でもあるため、架空の人物ではないかと思われる節もある。正史である『吾妻鏡』には記されているが、公家の日記や手紙など、一次史料とされるものにその名が現れることはない。『義経記』は物語で、史料にはならない。
「二人静」は、元々はツレの菜摘の女と、後シテの静の霊が同じ舞を行うという趣向だったのだが、宝生九郎が「舞の名手を二人揃えるのは大変」ということで宝生流では「二人静」を廃曲とし、観世元章も同じような考えも持つに至った。ただ廃する訳にはいかないので、立出之一声という新しい演出法を行うことにしたという。立出之一声を採用しているのは観世流のみのようである。
二人とも狂言に関する解説は行わなかった。

 

狂言「宗論」。宗派の違う僧侶同士が論争を行うことを宗論という。仏教が伝来した奈良時代から行われており、最澄と徳一の三一権実論争などが有名だが、史上、たびたび行われており、時には天下人を利用したり利用されたりもしている(安土宗論など)。現在の仏教界は共存共栄路線を取っているので、伝統仏教同士で争うことは少ないが、昔は宗派による争いも絶えず、時に武力に訴えることもあった。
出演は、野村万作(浄土僧。シテ)、野村萬斎(法華僧。シテ)、野村裕基(宿屋。アド)。三世代揃い踏みである。
京・日蓮宗大本山本国寺(現在は本圀寺の表記で山科区にあるが、以前は洛中にあった。山科に移る前は西本願寺の北にあり、塔頭は今もその周辺に残るため、再移転の案もある。江戸時代には水戸藩との結びつきが強く、水戸光圀より圀の名を譲られて本圀寺の表記となっている)の僧で、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺(甲斐国、現在の山梨県にある。日蓮は鎌倉幕府から鎌倉か京都に寺院を建立しても良いとの許可を得たが、これを断って、僻地の身延山に本山を据えた)に詣でた法華僧(野村萬斎)は、都への帰り道で、同道してくれる都の僧侶を探すことにする。丁度良い感じの僧(野村万作)が見つかったが、よく話を行くと、東山の黒谷(浄土宗大本山の金戒光明寺の通称)の僧で、信濃の善光寺から京に帰る途中だという。
共に有名寺院の僧侶であったことから、宿敵に近い関係であることがすぐに分かる。
浄土宗と日蓮宗は考え方が真逆である。往生を目的とするのは同じなのだが、「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えれば極楽往生出来るとするのが浄土宗、「妙法蓮華経」を最高の経典として日々の務めに励むのが日蓮宗である。日蓮宗の宗祖である日蓮は、『立正安国論』において、「今の世の中が悪いのは(浄土宗の宗祖である)法然坊源空のせいだ」と名指しで批判しており、浄土宗への布施をやめるよう説いていたりする。

互いに自宗派の優位を説く法華僧と浄土僧。法華僧は、嫌になって「在所に用がある」「何日も、数ヶ月も掛かるかも知れない」といって、同道をやめようとするが(「法華骨なし」という揶揄の言葉がある)、浄土僧は「何年でも待ちまする」とかなりしつこい(「浄土情なし」という揶揄が存在する)。
何とかまいて、宿屋へと逃げ込む法華僧だったが、浄土僧も宿屋を探り当て、同室となる……。

法華僧が論争にそれほど積極的ではないのに、扇子で床を打つ様が激しく、浄土僧も扇子で床を叩くが言葉の読点を置くようにだったりと、対比が見られる。性格と態度が異なるのも面白いところである。浄土僧は法然から授かった数珠を持っており、法華僧は日蓮から下された数珠を手にしているということで、かなりの高僧であることも分かる。本圀寺と金戒光明寺という大本山の僧侶なのだから、その辺の坊主とは違うのであろう。
最後は、浄土僧が「南無阿弥陀仏(狂言では「なーもーだー」が用いされる)」、法華僧が「妙法蓮華経」を唱えるが、いつの間にか逆転してしまうという笑いを生むのだが、それ以前から逆転の現象は起こっているため、最後だけとってつけたように逆転を起こしている訳ではないことが分かる。

 

能「二人静」立出之一声。出演は、観世銕之丞(前シテ、里女。後シテ、静御前)、観世淳夫(菜摘女。ツレ)、宝生常三(勝手宮神主。ワキ)。鳴り物は、亀井広忠(大鼓)、大倉源次郎(小鼓)、竹市学(笛)。

大和国吉野。神主が菜摘女に、菜摘川に若菜を採りに行くよう命じる。菜摘女は菜摘川の近くで、不思議な女に声を掛けられる。罪業が重いので、社家の人々に弔ってくれるよう伝えて欲しいというのだ、菜摘女は憑依体質のようで、女が取り憑き、判官殿(源九郎判官義経)の身内と名乗り出る。
春秋座は歌舞伎対応の劇場なので、花道があり、途中にセリがある。静御前の霊は、このセリを使って現れる。
しばらくは共に大物浦や吉野山の話(義経関連のみではなく、後に天武天皇となる大海人皇子の宮滝落ちの話なども出てくる。ちなみに天武天皇も天智天皇の「弟」である)などをしていた菜摘女と静御前の霊であるが、互いに舞い始める。最初は余り合っていないが、次第に二人で一人のようになってくる。
ただ、頼朝の前での舞を再現するときは、菜摘女のみが舞い、静御前は動かない。おそらく頼朝の前で舞を強要された屈辱から、同じ舞を行うことを拒否しているのだと思われる。その他の理由は見当たらない。そして「しづやしづ賤の苧環繰り返し昔を今になすよしもがな」から再び静は菜摘女と一体になり、存在を示す。

近年のドラマは、ストーリーよりも「伏線回収」が重視されているような印象を受けるが(物語は謎解きではないので必ずしも良い傾向だとは思えない)、今日観た狂言と能の演目は、伏線のしっかりした作品である。ただし、ある程度の知識がないと伏線が伏線だと分からないようにはなっている。

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2025年1月30日 (木)

観劇感想精選(482) 加藤健一事務所 「夏の盛りの蝉のように」

2022年12月25日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「夏の盛りの蟬のように」を観る。浮世絵師の代名詞的存在である葛飾北斎を中心に、弟子の蹄斎北馬、田原藩家老となる渡辺崋山、遅咲きながら現在では屈指の人気を誇る歌川国芳、更に北斎の娘で、応為の雅号を持つ(北斎がいつも「おーい」と呼ぶので応為を雅号にしたといわれる)絵師となったおえいらを中心とした浮世絵画壇ものである。

作:吉永仁郎、演出:黒岩亮。出演:加藤健一、新井康弘、加藤忍、岩崎正寛(演劇集団 円)、加藤義宗、日和佐美香(ひわさ・みか)。

生涯に93回の引っ越しを行ったといわれる葛飾北斎(加藤健一)。この劇も引っ越しの場面から始まる。時は1816年。おえい(加藤忍)はまだ12歳である。ということで、加藤忍は12歳から50代までを演じることになるのだが、流石の上手さである。
葛飾北斎が引っ越しを頻繁に行ったのは、片付けの能力がなかったためといわれており、片付けが全く出来ないので、引っ越すことで身の回りの整理を行っていた――この場合、行えていたと表現していいのか怪しいのだが――のである。同じ傾向を持った芸術家にベートーヴェンがいる。ただベートーヴェンは若い頃は衣服などを清潔に保ち、手を頻繁に洗うという潔癖なところがあった一方で、葛飾北斎は身の回りの環境にほとんど無頓着であり、末娘で絵師となり、北斎と同居していたおえいも同様の傾向があったようで、二人とも絵以外に興味を持つことはほとんどなかったといわれており、そうした過集中の傾向はこの芝居でも描かれている。

一方、北斎の一番弟子である蹄斎北馬(新井康弘。ストーリーテラーも兼ねる)は、自らの絵に集中するよりも、北斎と浮世絵士達の仲介役を務めている。
北斎を訪ねる門人ともいうべき浮世絵師は、歌川国芳(岩崎正寛)と渡辺崋山(加藤義宗)である。
国芳(よしさんと呼ばれている)は若い頃は手癖が悪く、絵師としてもなかなか芽の出ない日々が続いた。そんな中で和印(春画)に励んだり、武者絵に取り組んだりすることで、未来を切り開こうと必死である。
崋山は、武士身分だけあって潔癖なところがあり、絵には「技術」と「人格」の両方が必要だとして譲らない。
応為ことおえいは、自らの名を出しての作品も発表していたが、北斎名義の作品を出すこともしばしばである。

表現を巡っての対話が主になり、タイトルである「夏の盛りの蟬のように」に繋がる訳だが、北斎は主人公でありながら、いわば中心軸であり、崋山や国芳の絵師としてのスタイルを中心に話は展開していく。武士としての気質を崩せないでいる崋山や、絵を用いて風刺を盛んに行う国芳に対して、北斎は「絵は絵だ」と絶対芸術的な立場をとり続ける(そもそも絵以外のことに興味がないということもある)。それぞれの絵に対するスタンスが物語を動かす原動力となり、蛮社の獄(崋山は抗議の自刃を行う)や天保の改革(国芳の風刺画は幕府にマークされる)などの時代を背景に、己の作品と向き合う絵師の姿が浮かび上がってくる。

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2025年1月16日 (木)

観劇感想精選(480) 森見登美彦原作 G2脚本・演出「有頂天家族」

2024年11月22日 京都四條南座にて観劇

午後3時30分から、京都四條南座で、「有頂天家族」を観る。森見登美彦のファンタジー小説の舞台化である。南座では渡辺えりとキムラ緑子による「有頂天」シリーズが上演されたことがあるが、それとは一切関係がない。脚本・演出:G2。出演:濱田龍臣、若月佑美、渡辺秀(わたなべ・しゅう)、池田成志、相島一之、檀れい、有川マコト、盛隆二(もり・りゅうじ)、谷山知宏、林田一高、鹿野真央(女性)、佛淵和哉(ほとけふち・かずや)ほか。

マジックリアリズムなどを特徴とする作風の森見登美彦。「有頂天家族」はアニメ化もされており、叡山電車とのコラボレーションも行われているが、舞台化はなかなか難しい。「夜は短し歩けよ乙女」も何度か舞台化されているが、最初の舞台は東憲司の演出だったにも関わらず、成功作とは言えなかったように思う。俳優も今ひとつであった(主演女優の方が解釈を間違えてましたね。どなたかは書きません)。
「有頂天家族」も過去に舞台化されたことがある。

「有頂天家族」は、狸、天狗、人間によるドラマで、特に狸が重要な役割を果たしており、下鴨家と夷川(えびすがわ)家の抗争が主軸となっている。チェッカーズ主演の「TAN TAN たぬき」という映画があったが、セリフにも出てくるため意識されているのだと思われる。
下鴨家のお母さんは宝塚歌劇団のファンなのだが、この役を宝塚出身の檀れいがやっていて、宝塚の男役の格好をしていたりする(檀れいは宝塚では娘役であった)。
純粋なエンターテインメント作品であり、深読みはしない方が良いと思われる。家族愛を描いた作品で、温かみが感じられる。また下鴨家の次男である矢二郎(佛淵和哉)が、六道珍皇寺の井戸(小野篁が地獄への入り口としていた井戸だと思われる)にこもって、井の中の蛙をやっているなど、京都の名所が絶妙にちりばめられている。また矢二郎は叡山電車に化けるのだが、叡山電車沿線に狸谷山不動院という寺院があり、アニメ版「有頂天家族」とのコラボレーション列車が走っていた。
ヒロインをやっているのは、弁天役の若月佑美。元乃木坂46のメンバーである。30歳なので、ヒロインとしては年齢は高めであるが、今の30歳は若いので(我々の世代の基準なら見た目だけなら20代前半で通じる)、ちゃんとヒロインしている。今年の大河ドラマ「光る君へ」の前半で強烈な印象を残した玉置玲央の奥さんである。
主役の下鴨矢三郎はWキャストで、今日は濱田龍臣が演じる。大河ドラマ「龍馬伝」で、福山雅治演じる坂本龍馬の少年時代役をやった子で、三谷幸喜が作・演出を担当した舞台「大地」にも出ており、その頃は朝から晩までテレビゲームばかりやっていると話していて、共演者のまりゑから、「もっと舞台観なさい、映画観なさい」と言われており、その後、学んだのかどうかは分からないが、舞台俳優としては順調に成長していることが感じられる。

役者は魅力的な人が多い。池田成志や相島一之は流石の面白さである。文学座の鹿野真央も今年37だが、なかなか可愛らしい。今の37と昔の37もやはり違うようだ。ただ森見登美彦作品は小説で読むのが一番のように思う。イメージが重要になってくるのだが、書籍で読んだ方がイメージはしやすい。

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2024年12月27日 (金)

観劇感想精選(479) 松竹創業百三十周年「 當る巳歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部 令和六年十二月十四日

2024年12月14日 京都四條南座にて

午後4時から、京都四條南座で、松竹創業百三十周年 當る巳歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎夜の部を観る。

演目は、「元禄忠臣蔵」二幕 仙石屋敷、「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」かきね、「曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」二幕 御所五郎蔵、「越後獅子」

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「元禄忠臣蔵」二幕 仙石屋敷。今日、12月14日は討ち入りの日である(ただし旧暦)。というわけで忠臣蔵なのだが、「元禄忠臣蔵」二幕 仙石屋敷で描かれるのは、本所吉良邸で吉良上野介義央の首を挙げ、浅野内匠頭長矩の眠る高輪・泉岳寺に向かう途中に幕府大目付・仙石伯耆守の屋敷に吉田忠左衛門と富森助右衛門が伝令として寄り、その後、赤穂浪士達(寺坂吉右衛門が伝令に出たため、一人少なくと46名)が仙石屋敷に身柄を移され、討ち入りの子細を報告するという場面である。というわけで、12月14日の話ではない。
配役は、大石内蔵助に片岡仁左衛門、仙石伯耆守に中村梅玉、吉田忠左衛門に中村鴈治郎、堀部安兵衛に市川中車、磯貝十郎左衛門に中村隼人ほか。

大石内蔵助を演じる片岡仁左衛門の長台詞が一番の見所である。仙石伯耆守は、討ち入りを行ってしまったことを残念に思うが(老人一人の命を大勢で狙うという行動に反感を覚える人は案外多いようである)、内蔵助は、自分たちの行動が大儀に則ったものであることを諄々と述べる。そして喧嘩両成敗であるはずなのに、主君の浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はおとがめなしという裁定はあってはならないものであり、また浅野内匠頭の松の廊下での刃傷は短慮からではなく、覚悟の上であり、遺臣である自分たちが主君の本懐を遂げるのは当然と述べ、旧赤穂藩の遺臣は300名以上いたのにそれが47人に減ったことについては、「これが人間の姿」と述べる。仁左衛門の情感たっぷりのセリフは聞きもの。また仙石伯耆守が去った後の、赤穂浪士達の強い結びつきを感じさせるシーンも胸を打つ。
やがて浪士達の引取先が決まり、次々と去って行く。仙石伯耆守は「内匠頭はよい家臣を持たれた」と感慨にふけるのであった。


「色彩間苅豆」かさね。百姓与右衛門実は久保田金五郎は片岡愛之助が演じる予定であったが稽古中の怪我で降板。代役を中村萬太郎が務めることになった。愛之助は今回の公演の目玉で、二階に飾られたお祝いもほぼ全て愛之助宛のものであった。

下総国羽生村(現在の茨城県常総市)に住む百姓の助は、同じく百姓の与右衛門(中村萬太郎)に殺された。百姓とはいえ、与右衛門は元は侍で久保田金五郎といった。
金五郎は腰元のかさね(中村萬壽)と恋仲になったが、不義密通で出奔。その際、かさねと心中する約束をした。その後、助の女房の菊と恋仲になり、助が邪魔になって手に掛けたのである。
物語は、かさねが与右衛門に一緒に心中してくれるよう頼むところから始まる。最初は拒絶する与右衛門だったが、かさねの願いを受け入れることに。しかし、川を髑髏が流れてくる。与右衛門が殺害した助のものであった。更に、かさねが助と菊の娘であることが判明する。そこへ捕り方が現れ、もみ合いとなる。捕り方が落とした書状には与右衛門の罪が書き連ねてあった。
かさねに異変が起こる。左目が腫れ、片足が動かなくなる。亡くなった時の助そのものの姿に与右衛門は祟りを感じ、かさねを殺害する。
橋で息絶えたかさねであったが、亡霊となり、与右衛門を引き戻す(花道から去ったが、花道から再び現れ、舞台まで戻される)。
怪談話である。元々は浄土宗の高僧祐天上人の霊験譚であったようだ。
代役の萬太郎であるが、体のキレも良く、代役として立派な演技を見せた。


「曽我綉侠御所染」御所五郎蔵。
配役は、御所五郎蔵に中村隼人、星影土右衛門に坂東巳之助、甲屋(かぶとや)女房お松に片岡孝太郎、傾城皐月に中村壱太郎、傾城逢州に上村吉太朗ほか。

陸奥国の大名、浅間巴之丞に仕える須崎角弥は腰元の皐月と恋仲になった。しかし星影土右衛門が横恋慕する。不義の罪で死罪になるところを巴之丞の母である遠山尼の温情により国許追放に刑が減じられる。角弥は武士の身分を捨て、町人となって皐月と共に京に向かう。一方、土右衛門も訳あって藩を追われ、同じく京へと出てきていた。

京の五條坂仲之町の廓が舞台である。皐月はこの廓の傾城(「花魁」という言葉が使われるが、正確に言うと京都には花魁はいない。太夫がいるが、花魁とは性質が異なる)となっていた。
廓の甲屋の店先に、子分を連れた土右衛門がやって来る。そこへ現れたのはこの界隈で伊達男として知られる御所五郎蔵。実は須崎角弥である。やはり子分を従えているが、土右衛門の子分は武士、五郎蔵の子分は町人である。浅間巴之丞が上洛した際、土右衛門の子分に言い掛かりを付けられ、これを五郎蔵が懲らしめたことから、両者の間に険悪な空気が漂う。子分達は今にも争いそうになるが、五郎蔵も土右衛門も「手を出すな」と言い、言い合いが続く。しかし、土右衛門が皐月への思いを語ると五郎蔵も激高。一触即発というところを甲屋の女房であるお松が間に入って止める。

舞台は甲屋の奥座敷に移る。浅間巴之丞は傾城(やはり「花魁」と言われる)逢州に入れ揚げており、揚げ代の200両の支払いが滞っている。旧主への恩義のため、金をこしらえようとする五郎蔵。妻の皐月にも金の工面を頼む。しかし皐月は客が取れない。皐月の窮状を知った土右衛門が五郎蔵への退き状を書けば二百両払おうと皐月に申し出る。いったんは断る皐月だったが、五郎蔵も金の用意は出来ないだろうから、これを逃すと命はないだろうと迫られ、やむなく退き状を書くことになる。事情を知らない五郎蔵は皐月に激怒。逢州が五郎蔵を宥める。
怒りに震える五郎蔵は土右衛門と皐月を殺害することを決意。一方で皐月は二百両を五郎蔵に渡す手立てを考えている。土右衛門は身請けのために皐月を伴って花形屋に向かおうとするが、皐月は具合が悪いとこれを断る。怪しむ土右衛門だったが、逢州が自分が代わりに行って顔を立てるからというので納得する。逢州は皐月の打掛を着る。
廓の中で待ち伏せしていた五郎蔵は皐月と思って逢州に斬りかかり、殺害するが、すぐに正体が逢州であることに気付く。そこへ妖術を使って潜んでいた土右衛門が現れ、五郎蔵と斬り合いになる。

イケメン俳優として人気の隼人であるが、声が細く、所作もまだ十分には身についていないように見える。見得などは格好いいのだが。まだまだこれからの人なのだろう。巳之助は堂々としていて貫禄があった。演技だけ見ると巳之助の方が主人公に見えてしまう。
当代を代表する女形となった壱太郎は、繊細な身のこなしと強弱を自在に操るセリフ術で可憐な女性を演じ、見事であった。


「越後獅子」。中村鴈治郎、中村萬太郎、中村鷹之資の3人が中心になった舞で、実に華やかである。布を様々な方法で操るなど、掉尾を飾るに相応しい演目となった。

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2024年11月 9日 (土)

これまでに観た映画より(350) 英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2024年6月13日 桂川・洛西口のイオンシネマ京都桂川にて

イオンシネマ京都桂川で、英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。イギリス・ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で上演されたオペラやバレエを上映するシリーズ。今回は、今年の3月26日に上演・収録された「蝶々夫人」の上映である。最新上演の上映といっても良い早さである。今回の上演は、2003年に初演されたモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエによる演出の9度目の再演である。日本人の所作を専門家を呼んできちんと付けた演出で、そのため、誇張されたり、不自然に思えたりする場面は日本人が見てもほとんどない。

京都ではイオンシネマ京都桂川のみでの上映で、今日が上映最終日である。

指揮はケヴィン・ジョン・エドゥセイ。初めて聞く名前だが、黒人の血が入った指揮者で、活き活きとしてしなやかな音楽を作る。
演奏は、ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&ロイヤル・オペラ合唱団。
タイトルロールを歌うのは、アルメニア系リトアニア人のアスミク・グリゴリアン。中国系と思われる歌手が何人か出演しているが、日本人の歌手は残念ながら参加していないようである。エンドクレジットにスタッフの名前も映るのだが、スタッフには日本人がいることが分かる。

入り口で、タイムテーブルの入ったチラシを渡され、それで上映の内容が分かるようになっている。まず解説と指揮者や出演者へのインタビューがあり(18分)、第1幕が55分。14分の途中休憩が入り、その後すぐに第2幕ではなくロイヤル・オペラ・ハウスの照明スタッフの紹介とインタビューが入り(13分)、第2幕と第3幕が続けて上映され、カーテンコールとクレジットが続く(98分)。合計上映時間は3時間18分である。

チケット料金が結構高い(今回はdポイント割引を使った)が、映画館で聴く音響の迫力と美しい映像を考えると、これくらいの値がするのも仕方ないと思える。テレビモニターで聴く音とは比べものにならないほどの臨場感である。

蝶々夫人役のアスミク・グリゴリアンの声がとにかく凄い。声量がある上に美しく感情の乗せ方も上手い。日本人の女性歌手も体格面で白人に大きく劣るということはなくなりつつあり、長崎が舞台のオペラということで、雰囲気からいっても蝶々夫人役には日本人の方が合うのだが、声の力ではどうしても白人女性歌手には及ばないというのが正直なところである。グリゴリアンの声に負けないだけの力を持った日本人女性歌手は現時点では見当たらないだろう。

男前だが、いい加減な奴であるベンジャミン・フランクリン・ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロも様になっており、お堅い常識人だと思われるのだが今ひとつ押しの弱いシャープレスを演じたラウリ・ヴァサールも理想的な演技を見せる。

今回面白いのは、ケート・ピンカートン(ピンカートン夫人)に黒人歌手であるヴェーナ・アカマ=マキアを起用している点。アカマ=マキアはまず影絵で登場し、その後に正体を現す。
自刃しようとした蝶々夫人が、寄ってきた息子を抱くシーンで、その後、蝶々夫人は息子に目隠しをし、小型の星条旗を持たせる。目隠しをされたまま小さな星条旗を振る息子。父親の祖国を讃えているだけのようでありながら、あたかもアメリカの帝国主義を礼賛しているかのようにも見え、それに対する告発が行われているようにも感じられる。そもそも「現地妻」という制度がアメリカの帝国主義の象徴であり、アフリカ諸国や日本もアメリカの帝国主義に組み込まれた国で、アメリカの強権発動が21世紀に入っても世界中で続いているという現状を見ると、問題の根深さが感じられる。
一方で、蝶々夫人の自刃の場面では桜の樹が現れ、花びらが舞う中で蝶々夫人は自らの体を刀で突く。桜の花びらが、元は武士の娘である蝶々夫人の上に舞い落ち、「桜のように潔く散る」のを美徳とする日本的な光景となるが、「ハラキリ」に代表される日本人の「死の美学」が日本人を死へと追いやりやすくしていることを象徴しているようにも感じられる。日本人は何かあるとすぐに死を選びやすく自殺率も高い。蝶々夫人も日本人でなかったら死ぬ必要はなかったのかも知れないと思うと、「死の美学」のある種の罪深さが実感される。

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2024年11月 5日 (火)

観劇感想精選(475) 広田ゆうみ+二口大学 別役実 「クランボンは笑った」京都公演@UrBANGUILD KYOTO

2024年10月15日 木屋町のUrBANGUILD KYOTOにて観劇

午後7時30分から、木屋町にあるUrBANGUILDで、広田ゆうみ+二口大学の「クランボンは笑った」を観る。別役実が1996年に書いて同年に初演された作品。別役実の100作目の戯曲に当たる(処女作をカウントせず、他の作品が100作目という説もあるようだが)。1996年ということで、携帯電話が普及しており、この作品にも登場する。
広田ゆうみと二口大学は、別役実の二人芝居を継続して上演しており、長野県上田市や愛媛県松山市、三重県津市などでの上演を行っているが、本拠地の京都での上演は劇場ではなくライブハウス兼イベントスペースであるUrBANGUILDを使って行われることも多い。小さな空間なので臨場感はある。演出は広田ゆうみが担当。

「クランボンは笑った」という言葉は教科書にも載っているので知っている人は多いと思われるが、宮沢賢治の「やまなし」という短い文芸作品の中に現れる謎に満ちた言葉(宮沢賢治の表記では「クラムボン」)である。

別役実のこの戯曲にも「クランボンは笑った」「クランボンは死にました」というセリフは出てくるが、宮沢賢治の「やまなし」の内容と直接的な関係はない。

ライブハウス兼イベントスペースでの上演なので、開演前は二口さんがずっといて、客席や知り合いに話すなど、リラックスしたムードである。上演時間は約65分。


上手から、広田ゆうみ扮する、死の間際の女が登場。月夜であるが、日傘(パラソル)を差している。病院で死を待つばかりなのだが、病棟を抜け出してハイキングを行うつもりなのだ。医師からは三月の命と宣告されたが、三月が過ぎても死の予兆はない。夜の病院の庭なので、誰もいないはずなのだが、下手から男(二口大学)が現れる。黒い衣装に白い手袋(この白い手袋は「覆うもの」の意味を持っているようである)。男は女のために椅子と机を用意し、テーブルクロスを掛けるが、テーブルクロスには染みがある。だがあってもいいものらしい。その後、男の正体が葬儀屋であり、病院の庭の一角にある道具小屋に住んでいることが分かる。なぜ葬儀屋が病院の一角に住んでいて庭にいるのかだが、末期の病人ばかりの病院なので、他の業者よりも遺体を早く引き取ろうという魂胆なのかもしれない。とにかく葬儀屋は椅子に腰掛け、女と話を始める。途中でケータイに電話がかかってきて、「クランボンは笑った…?」などと話して切るが(戯曲にはクエスチョンマークがついているので、男が「クランボン」がなんなのか分かっていないことが分かる)ちなみに「上から」かかってきた電話であるが、会社の上司というわけではないようだ。「クランボン」が暗号なのか何なのか意味が分からないのは宮沢賢治の作品と一緒である。男が女に近づいたのは、死が間近との情報を得ているので、亡くなった後の遺体の処理の契約を取り付けて金儲けしようとしているのかも知れない。実際、契約書の話なども出てくる。饗応のポーズをするのもそのためか。ただ詳しいことは明かされない。

女はバスケットの中にホットミルクティーの入ったポットを入れているのだが、カップを二つ持ってきている。まるで誰かとお茶するかのようである。また女はキュウリのサンドウィッチを持参している。これも二人分なので誰かと食べるためだろう。女は「あなた」と呼びかけるのだが、誰に対してなのかは本人も分かっていない。葬儀屋に呼びかける時もあるのだが、そうではない時もある。

汽笛が鳴る。最終列車だ。しかし女はそれよりも後に出発する列車があることを知っている。その列車はハルビンなどの旧満州(この言葉は劇中に出てこないため、知識のない人にはなぜこの都市の名前が出てくるのか分からないはずである)へ向かう。なお、別役実は旧満州出身である。
同じ病室にいた白系ロシア人の老婦人、マリアン・トーノブナの話が出てくる。夫のミハイルと共にハルビンに住み、大連に向かったという、白系ロシア人絡みの土地の名が出てくることから、白系ロシア人らしいことが分かるのだが、この白系ロシア人の老婦人が、死の前に、葬儀屋をロシア正教の神父と勘違いして懺悔を行い、告白を行っているのである。女はその情報を男から聞かされる。女はマリアン・トーノブナから葬儀屋がどこに現れるのかも聞いている。そして、何故、カップを二つ用意したのか、一緒にキュウリと辛子のサンドウィッチを食べるよう仕向けたのかが分かるようになる……。

結局、女と白系ロシア人の女性であるマリアン・トーノブナの秘密は封じられ(流れのようなものがあるそうである)、「クランボン」の正体はよく分からないことになっている(女は「クランボンは死にました」と「上から」の電話に答えているため、彼女は「クランボン」が何か分かっているようである)。ただヒントはいくつかありそうである。その秘密は日本人が知ってはいけないもののようで、女にはその理由が分かっているが、女もまた秘密を秘密のままにすることを図る。

一応、トーノブナ夫人が告白したのは、終戦間近に大連で夫のミハイル・トーノブナ(ロシア人は、同じ苗字でも苗字が男女では変換されて別のものになるので、ミハイル・トーノブナというのは厳密に言うと誤り。おそらくミハイル・トーノブンである)を青酸カリで毒殺したというものである。ただ、毒殺したといっても、ミハイルが自殺を願ったものでその補助とされる。ミハイルは体の状態が思わしくなく、日本には行けないので、死を望んだのだ。そしてマリアン・トーノブナだけが日本へと亡命した。これだけを封じるとしたのなら話は単純なのだが、もう死者であるマリアン・トーノブナ個人の秘密を封じる意味も、また女がそれに加担する必要もない。

背景には、1945年8月8日から始まったソビエトの満州侵攻があるだろう。満州の中でも北の方であるハルビンに住んでいた夫妻は、満州に留まるのは危険とみて南へ。港町の大連に向かい、そこから日本を目指したが、ミハイルの方は日本に行ける状態ではない。大連に留まったとしても赤軍に殺害される可能性が高いので死を選んだのだろうか。自分で青酸カリを飲めないほど弱っていたという訳でもなさそうであるが、何らかの形でトーノブナ夫人が自殺を幇助し、それを墓場まで持って行くつもりだった。うわごとで漏らすのが嫌なので、モルヒネも用いなかった(この辺りは、「麻酔を使うとうわごとを申すといいますので、麻酔なしでの手術」を願う女性を描いた泉鏡花の「外科室」を連想させる)。だがうっかり葬儀屋を神父と勘違いして告白してしまった。死が近いということもあっただろう。しかし、主人公の女とトーノブナ夫人は特に親しいという訳ではなさそうで、何故、女が葬儀屋の口を封じようとするのかは謎である。何か別の理由があるのだろうか。「クランボンは死にました」の意味も複数考えられる。単純な「葬儀屋がクランボン説」はおそらく違う。ちなみにミハイルが自殺、マリアンナから見ると殺害した事件が起こったのは「50年前」とされている。「クランボンは笑った」の初演が1996年なので、50年前は別役が満州から引き上げてきた1946年ということになる。

別役実が生まれたのは満州国の首都・新京(長春)である。そして生後10年近くをその地で過ごしている。そこで何らかの経験をしている可能性も高い。満州国にはソ連から逃げてきた白系ロシア人も多く、例えば、朝比奈隆が指揮していた時代のハルビン交響楽団は楽団員の大半をロシア人が占めるオーケストラであった。音楽の能力がプロ級のロシア人だけでフル編成のオーケストラを結成出来るのだから、一般の白系ロシア人はかなり多くいたことが予想される。白系ロシア人は日本にも逃げてきており、日本プロ野球初の300勝投手となったヴィクトル・スタルヒンが白系ロシア人であったことはよく知られている。白系ロシア人は、ソビエト共産党(赤)の迫害を逃れた人々であり、元々は上流階級の人も多く、朝比奈隆や服部良一の師であるエマヌエル・メッテルもウクライナ系ではあったが白系ロシア人に数えられている。

文化面においては、日本にかなり貢献をした白系ロシア人。単なるミハイル殺害の話だけとしなかった場合、彼らが日本人に語れない秘密とはなんなのか。実は日本軍に参加した白系ロシア人の多くが、ソビエトの満州侵攻と共に、ソビエト赤軍側に寝返っている。「日本人は殺せ」という雰囲気となり、朝比奈隆が日本に帰るのにかなりの苦労をしたことはよく知られているが、別役実が日本に帰ったのも終戦の翌年の1946年。素直には帰れていない。別役はこのことについて何も語ってはいない。ソ連軍が第一の攻撃目標とした首都・新京にいたので、何かはあった可能性は高いと思われるのだが。


終演後に、広田ゆうみさんと少し話す。白系ロシア人のこと、関東人の標準語とそれ以外の地域の人の標準語などについて(少し大袈裟に関東人の話す伸縮する標準語を話した)。

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2024年10月27日 (日)

観劇感想精選(473) 京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」

2024年10月20日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」を観る。京都芸術大学舞台芸術学科の教授となった松尾スズキが若い俳優達と取り組むプロジェクトの一つである。
松尾スズキとつかこうへいは同じ九州人にして福岡県人ではあるもののイメージ的には遠いが、実際には松尾スズキは九州産業大学芸術学部在学中に、つかこうへいの「熱海殺人事件」を観て衝撃を受け、芝居を始めたというありがちなコースをたどっていることを無料パンフレットで明かしている。ただ、つかこうへいとは生涯、面識がなかったようだ。

作:つかこうへい。いくつか版があるが昭和57年4月25日初版発行の『戯曲 蒲田行進曲』を使用。演出:松尾スズキ。出演は、上川周作、笠松はる、少路勇介(しょうじ・ゆうすけ)、東野良平(ひがしの・りょうへい)、末松萌香、松浦輝海(まつうら・てるみ)、山川豹真(ひょうま。ギター)。


映画でもお馴染みの「蒲田行進曲」。蒲田行進曲と銘打ちながら、舞台は大田区蒲田ではなく京都。東映京都撮影所が主舞台となる。実は映画版の「蒲田行進曲」は松竹映画で、松竹映画でありながら東映京都撮影所で収録を行っているという変わった作品である。

末松萌香と松浦輝海がト書きを全て朗読するという形での上演。二人は、セリフの短い役(坂本龍馬や近藤勇など)のセリフも担当する。


上川周平による前説。「どうも、こんにちは。上川周平です。京都芸術大学映画俳優コース出身者として黒木華の次に売れています(格好をつける)。嘘です。土居(志央梨)さんの方が売れています。土居さんとは同級生です。今日は京都の山奥の劇場へようこそ。まだ外国人観光客に発見されていない日本人だけの場所。朗読劇なのに5500円。これは僕らかなり頑張らないといけません。演出の松尾(スズキ)さんは、役者がセリフを噛むとエアガンで撃ちます。まさに演劇界の真○よ○子」と冗談を交えて語る。

上川周平は、今年前期のNHK連続テレビ小説「虎に翼」で、主人公の猪爪寅子(伊藤沙莉)の実兄にして、寅子の女学校時代からの親友である花江(森田望智)の夫にして二児の父、日米戦争で戦死するという猪爪直道役を演じ、口癖の「俺には分かる」も話題になっている(「俺には分かる」と言いながら当たったことは一度もなかった)。


東映京都撮影所では、新選組を主人公にした映画が撮られている。まず坂本龍馬(松浦輝海)の大立ち回り。龍馬は土方歳三の恋人にも手を出そうとして、駆けつけた土方に止められる。土方役の銀四郎(銀ちゃん。少路勇介)の脇に控えているのが、銀ちゃんの大部屋時代の後輩である村岡安治(ヤス。上川周作)。銀ちゃんは大部屋からスターになり、土方歳三役という大役を演じているが、ヤスは大部屋俳優のままである。実はヤスも「当たり屋」という低予算映画に主演したことがあるのだが、大部屋の脇役俳優が主役になっても勝手が分からず、セリフが出てこなかったりと散々苦労した思い出がある。その後も、ヤスは銀ちゃんが取ってくるセリフもないような役をやったりと、弟分を続けていた。
銀ちゃんには、小夏という彼女(笠松はる)がいる。2年前まではそれなりの役を貰っていた女優だったのだが、2年のブランクがあって今は良い役にありつけない。小夏は30歳。今でこそ、30歳は女優盛りであるが、往年は「女優は二十代が華」の時代。30歳になるとヒロインは難しく、出来る役は限られてしまう。女優とは少し異なるが、「女子アナ30歳定年説」というものがつい最近まであった。今は30代でも40代でも既婚者でも子持ちでも人気の女子アナはいるが、ほんの少し前まではそうではなかったのである。30歳を機に、女優や女子アナを辞める人がいた。そう考えると時代はかなり変わってきている。

芸能界で、女優が30歳になることを初めて肯定的に捉えたのはおそらく浅野ゆう子で、彼女は「トランタン」というフランス語で30歳を意味する言葉を使ってイメージ改善に励んでいる。その後、藤原紀香が「早く30歳になりたかった」宣言をして30歳の誕生日をファンを集めて盛大に祝ったり、蒼井優が「生誕30年祭」と銘打っていくつかのイベントを行ったりと、女優陣もかなり努力している印象を受ける。

ただこれは、女優の限界30歳の時代の話。小夏は銀ちゃんの子を妊娠しているが、銀ちゃんは小夏をヤスと結婚させるという、酷い提案を行う。結局、小夏とヤスは籍を入れる。昭和の祇園女御である。映画版だとヤス(平田満が演じた)が小夏(松坂慶子)の大ファンだったという告白があるのだが、舞台版ではそれはないようだ。
ちなみに銀ちゃんは白川(おそらく北白川のこと。京都芸術劇場と京都芸術大学が北端にある場所で、京都屈指の高級住宅街)に住んでいるようで、すぐそばでの話ということになっている。小夏は銀ちゃんの5階建てのマンションを訪れ、合鍵を使って中に入り、銀ちゃんの部屋で泣く。


新選組の映画では、池田屋での階段落ちが名物になっているが、危険なので誰もやりたがらない。銀ちゃんはやる気でいるが止められる。警察がうるさいというのだが、銀ちゃんは、「東映は何のためにヤクザを飼ってるんだい」とタブーを言う(東映の任侠ものは本職に監修を頼んでいた。つまり撮影所に本職が何人もいたのである。誰か明言はしないがヤクザの娘が大女優であったりする)。
15年前の「新選組血風録」で階段落ちを行った若山という俳優は、その後、下半身不随になったという。
小夏のお産の費用を捻出するため、ヤスが階段落ちを申し出る(ちなみに階段落ちする志士のモデルは、龍馬の友人である土佐の本山七郎こと北添佶摩という説があり、彼が池田屋の階段を降りて様子を見に行ったというのがその根拠だが、それ自体誰の証言なのかはっきりしない上、階段落ち自体がフィクションの可能性も高いのでなんとも言えない)。
階段落ちの談義の場面では、ニーノ・ロータの「ロミオとジュリエット」のテーマ音楽が流れるが、何故なのかは不明。また京都が舞台なのに、マイ・ペースの「東京」が何度も流れるのも意図はよく分からない。

ヤスは、小夏を連れて故郷の熊本県人吉市に行き、親に小夏を合わせる。ちなみに小夏は茨城県水戸市出身の関東人である。歓迎される二人だったが、小夏の子の親がヤスでないことは見抜かれていた。

ヤスと小夏の結婚式に銀ちゃんが乱入(ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」のパロディーで、「サウンド・オブ・サイレン」が流れる)するというハプニングがあったりするが、ヤスの男を見せるための階段落ちへの決意は変わらず、その日を迎えるのだった。


つかこうへいの演劇の特徴は長台詞が勢いよく語られるところにあり、アクションを入れるのも確かに効果的なのだが、台詞だけでも聞かせられるだけの力があるため、松尾スズキも朗読劇というスタイルを採ったのだろう(役者が動き回るシーンは少しだけだが入れている)。見応えというより聞き応えになるが、確かにあったように思う。

「蒲田行進曲」に納得のいかなかった松竹の井上芳太郎は、「キネマの天地」という映画を制作している。中井貴一と有森也実の出世作であり、渥美清演じる喜八の最期がとても印象的な映画となっている。また、映画「キネマの天地」に脚本家の一人として参加した井上ひさしは戯曲「キネマの天地」を発表。私も観たことがあるが、趣が大きく異なって心理サスペンスとなっている。


今回使用された「蒲田行進曲」のテキストは、風間杜夫の銀ちゃん、平田満のヤスという映画版と同じキャストでの上演を念頭に改訂されたもので、二人の出会いが「早稲田大学の演劇科」であったりと、事実に沿った設定がなされているのが特徴でもある。

親分肌の銀ちゃんと、舎弟キャラのヤスの友情ともまた違った関係が興味深く、そこに落ち目の女優との恋愛話を絡めてくるのが巧みである。銀ちゃんに何も言えないヤスであるが、ラストに階段落ちを見せることで男気を示す。

ちなみに、映画版で私が一番好きなやり取りは、キャデラックの車内で銀ちゃんが、
「おい、俺にも運転させろ!」と言い、
「銀ちゃん、免許持ってないじゃない」との返しに(今と違って、危ないので俳優には運転免許を取らせないという方針の事務所が多かった)、
「ばっきゃろう!! キャデラックは免許いらねえんだよ!!」と啖呵を切るシーンで(啖呵を切ろうが免許がないと運転出来ないのだが)あるが、舞台なのでキャデラックのシーンがなく、当然ながらこのやり取りも入っていない。


実は、東京の小劇団による「蒲田行進曲」の上演を観たことがある。1994年のことで、場所は銀座小劇場という地下の劇場。東京灼熱エンジンというアマチュア劇団の上演であった。「週間テレビ番組」という雑誌の懸賞に母が応募して当たったのである。
東京灼熱エンジンは、階段落ちのシーンで照明を明滅させて、ヤスをスローモーションで見せるという工夫をしていたが、今回は小夏役の笠松はるが、箱馬を積み重ねたような木の箱をスティックで叩くという、音響的な演出がなされていた。ただ正直、音響だけでは弱いように思われる。


若い俳優達も熱演。演技力が特段高いということはないが、つかの演劇に要求されるのは巧さよりもパワー。力強さの感じられるしなやかな演技が展開される。ラストで、俳優陣が「蒲田行進曲」を歌う演出もあるが、今回は音楽が流れただけで歌うことはなかった。

カーテンコールには松尾スズキも姿を見せた。

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2024年10月12日 (土)

コンサートの記(860) 2024年度全国共同制作オペラ プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」京都公演 井上道義ラストオペラ

2024年10月6日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、2024年度全国共同制作オペラ、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。井上道義が指揮する最後のオペラとなる。
演奏は、京都市交響楽団。コンサートマスターは特別名誉友情コンサートマスターの豊島泰嗣。ダンサーを使った演出で、演出・振付・美術・衣装を担当するのは森山開次。日本語字幕は井上道義が手掛けている(舞台上方に字幕が表示される。左側が日本語訳、右側が英語訳である)。
出演は、ルザン・マンタシャン(ミミ)、工藤和真(ロドルフォ)、イローナ・レヴォルスカヤ(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、スタニスラフ・ヴォロビョフ(コッリーネ)、高橋洋介(ショナール)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ベノア)、仲田尋一(なかた・ひろひと。アルチンドロ)、谷口耕平(パルピニョール)、鹿野浩史(物売り)。合唱は、ザ・オペラ・クワイア、きょうと+ひょうごプロデュースオペラ合唱団、京都市少年合唱団の3団体。軍楽隊はバンダ・ペル・ラ・ボエーム。

オーケストラピットは、広く浅めに設けられている。指揮者の井上道義は、下手のステージへと繋がる通路(客席からは見えない)に設けられたドアから登場する。

ダンサーが4人(梶田留以、水島晃太郎、南帆乃佳、小川莉伯)登場して様々なことを行うが、それほど出しゃばらず、オペラの本筋を邪魔しないよう工夫されていた。ちなみにミミの蝋燭の火を吹き消すのは実はロドルフォという演出が行われる場合もあるのだが、今回はダンサーが吹き消していた。運命の担い手でもあるようだ。

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オペラとポピュラー音楽向きに音響設計されているロームシアター京都メインホール。今日もかなり良い音がする。声が通りやすく、ビリつかない。オペラ劇場で聴くオーケストラは、表面的でサラッとした音になりやすいが、ロームシアター京都メインホールで聴くオーケストラは輪郭がキリッとしており、密度の感じられる音がする。京響の好演もあると思われるが、ロームシアター京都メインホールの音響はオペラ劇場としては日本最高峰と言っても良いと思われる。勿論、日本の全てのオペラ劇場に行った訳ではないが、東京文化会館、新国立劇場オペラパレス、神奈川県民ホール、びわ湖ホール大ホール、フェスティバルホール、ザ・カレッジ・オペラハウス、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール、フェニーチェ堺大ホールなど、日本屈指と言われるオペラ向けの名ホールでオペラを鑑賞した上での印象なので、おそらく間違いないだろう。

 

今回の演出は、パリで活躍した画家ということで、マルチェッロ役を演じている池内響に藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ)の格好をさせているのが特徴である。

 

井上道義は、今年の12月30日付で指揮者を引退することが決まっているが、引退間際の指揮者とは思えないほど勢いと活気に溢れた音楽を京響から引き出す。余力を残しての引退なので、音楽が生き生きしているのは当然ともいえるが、やはりこうした指揮者が引退してしまうのは惜しいように感じられる。

 

歌唱も充実。ミミ役のルザン・マンタシャンはアルメニア、ムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤとスタニスラフ・ヴォロビョフはロシアと、いずれも旧ソビエト圏の出身だが、この地域の芸術レベルの高さが窺える。ロシアは戦争中であるが、芸術大国であることには間違いがないようだ。

 

ドアなどは使わない演出で、人海戦術なども繰り出して、舞台上はかなり華やかになる。

 

 

パリが舞台であるが、19世紀前半のパリは平民階級の女性が暮らすには地獄のような街であった。就ける職業は服飾関係(グレーの服を着ていたので、グリゼットと呼ばれた)のみ。ミミもお針子である。ただ、売春をしている。当時のグリゼットの稼ぎではパリで一人暮らしをするのは難しく、売春をするなど男に頼らなければならなかった。もう一人の女性であるムゼッタは金持ちに囲われている。

 

この時代、平民階級が台頭し、貴族の独占物であった文化方面を志す若者が増えた。この「ラ・ボエーム」は、芸術を志す貧乏な若者達(ラ・ボエーム=ボヘミアン)と若い女性の物語である。男達は貧しいながらもワイワイやっていてコミカルな場面も多いが、女性二人は共に孤独な印象で、その対比も鮮やかである。彼らは、大学などが集中するカルチェラタンと呼ばれる場所に住んでいる。学生達がラテン語を話したことからこの名がある。ちなみに神田神保町の古書店街を控えた明治大学の周辺は「日本のカルチェラタン」と呼ばれており(中央大学が去り、文化学院がなくなったが、専修大学は法学部などを4年間神田で学べるようにしたほか、日本大学も明治大学の向かいに進出している。有名語学学校のアテネ・フランセもある)、京都も河原町通広小路はかつて「京都のカルチェラタン」と呼ばれていた。京都府立医科大学と立命館大学があったためだが、立命館大学は1980年代に広小路を去り、そうした呼び名も死語となった。立命館大学広小路キャンパスの跡地は京都府立医科大学の図書館になっているが、立命館大学広小路キャンパスがかなり手狭であったことが分かる。

 

ヒロインのミミであるが、「私の名前はミミ」というアリアで、「名前はミミだが、本名はルチア(「光」という意味)。ミミという呼び方は気に入っていない」と歌う。ミミやルルといった同じ音を繰り返す名前は、娼婦系の名前といわれており、気に入っていないのも当然である。だが、ロドルフォは、ミミのことを一度もルチアとは呼んであげないし、結婚も考えてくれない。結構、嫌な奴である。
ちなみにロドルフォには金持ちのおじさんがいるようなのだが、生活の頼りにはしていないようである。だが、ミミが肺結核を患っても病院にも連れて行かない。病院に行くお金がないからだろうが、おじさんに頼る気もないようだ。結局、自分第一で、本気でルチアのことを思っていないのではないかと思われる節もある。


「冷たい手を」、「私の名前はミミ」、「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)など名アリアを持ち、ライトモチーフを用いた作品だが、音楽は全般的に優れており、オペラ史上屈指の人気作であるのも頷ける。


なお、今回もカーテンコールは写真撮影OK。今後もこの習慣は広まっていきそうである。

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