カテゴリー「京都劇評」の112件の記事

2020年7月31日 (金)

観劇感想精選(346) 劇団M.O.P. 「水平線ホテル」

2005年7月9日 京都府立文化芸術会館にて観劇

雨の中を京都府立文化芸術会館(通称:京都文芸)に向かう。京都文芸は宇野重吉をして、「日本一の劇場」と言わしめた過去を持つが……、時の流れは速いものですね。

今日はここで劇団M.O.P.の「水平線ホテル」を観る。作・演出:マキノノゾミ。出演:キムラ緑子、三上市朗、小市慢太郎、林英世ほか。

M.O.P.はもともとは同志社大学の学生劇団からスタートし、京都で活躍していた劇団だが、現在は本拠地を東京に移している(2010年解散)。

「水平線ホテル」は地中海に浮かぶ、イタリアのある離島のホテルが舞台。「グランドホテル形式(特定の場所に集まった他人同士の人間模様を描く作品スタイル。映画「グランドホテル」に由来)」という言葉があるが、その言葉の通り、ホテルのロビーはよく演劇の舞台として選ばれる。今回もそうだ。

登場人物は全員イタリア人(アメリカ国籍のイタリア人は一人いるが)という設定なので、演技スタイルも新劇スタイルに近く、普段小劇場を見慣れた人は「変わった演技をするな」と思うはずだ。西洋人の動きを真似た演技なのである。

演技スタイルに関しては好みが分かれるだろうが、マキノの脚本はとにかく巧い。日本人が書いたとは思えないほどで、このままイタリア人の俳優を使って映画にしてもおかしくないほどの出来だ。

設定、展開、どんでん返しの妙、そして少し暗めのラスト、など全てに感心してしまう。

愛の強さについて、そして「正しい」とはどういうことなのかについて、考えさせられた。エンターテインメントとしても一級品である。

「水平線ホテル」の脚本を買って帰る。

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2020年2月22日 (土)

観劇感想精選(342) 「市川海老蔵特別公演」2020京都四條南座

2020年2月16日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四條南座で「市川海老蔵特別公演」を観る。市川海老蔵は今年の5月に十三代目市川團十郎白猿(はくえん)を襲名する予定であるため、市川海老蔵の名で行う最後の全国公演となる。

演目は、まず歌舞伎舞踊「羽衣」があり、出演者達による「ご挨拶」を経て、歌舞伎十八番の内「勧進帳」が演じられる。「勧進帳」は成田屋の芸であるが、この作品も「羽衣」も歌舞伎の演目の超王道であり、取り上げられる回数も多いということで比較されやすい。この二つの演目で公演ということは海老蔵もかなり自信があるのだろう。

 

「羽衣」。天女役は中村児太郎(成駒屋)、漁師伯竜は大谷廣松(高嶋屋)。
昨年の秋に中村屋の兄弟(勘九郎と七之助)で観たばかりの作品である。児太郎は七之助と比べても女形の王道を行く身のこなしであり、可憐である。声も裏声でなく、地声で女声に近いものが出せる。近年は女声に近い声が出せる歌舞伎俳優が増えているが、メソッドのようなものが広がっているのかも知れない。
漁師伯竜役の大谷廣松も凜々しく、絵になる二人である。
「羽衣」の謡には、僧正遍昭の和歌である「天津風雲の通い路吹き閉じよ乙女の姿しばしとどめん」がそのまま入っているのだが、以前、ニコニコ生放送の「新生紀ドラゴゲリオンZ」でこの歌の内容を現代語訳せよという問題が出され(R藤本も稲垣早希も和歌には疎い)、内容を知ったR藤本が、「エロ坊主じゃねえか!」と言っていたのを思い出す。一応、フォローしていくと、この和歌は僧正遍昭が出家する前に詠まれたものである。

 

幕が下りてから市川海老蔵が花道を通って登場。三階席の若い女の子達が黄色い声を上げる。海老蔵は今もアイドル的人気を保っているようである。

「皆様のご尊顔を拝することが出来まして誠に光栄に存じます」と切り出した海老蔵。「この定式幕という幕を上げますと、私以外の出演者が勢揃いしております」と紹介した後で自身のことを語り始める。海老蔵が新しくなった南座の舞台に立つのは今回が初めてであること、南座は改修工事のために閉じられていた時期が長かったので、南座の舞台に立つのは4年4ヶ月ぶりであることなどを述べる。更に「挨拶が早く終わりましたら、皆様からの質問コーナーを設けたいと思っておりますので、先着三名様、質問されたいという方は、今から考えておいてください」

「ご挨拶」に参加するのは海老蔵の他に、上手から市川齋入(高嶋屋)、市川右團次(高嶋屋)、市川九團次(高嶋屋)、片岡市蔵(松島屋)。後方に成田屋の定紋である三升が金色に輝いている。

市川齋入は、「普段は女形をやっておりますが、今日はこの後、常陸坊海尊をやります」と自己紹介する。

市川右團次は、「昭和47年に子役として初めて舞台に立ったのが、ここ南座でした。早いものであれから48年が経ってしまいました」と南座の思い出を語る。

市川九團次は、「私も新しくなってからの南座は初めてなのですが、5年ほど前に不祥事がありまして(坂東薪車時代に師匠に無断で現代劇に出演したことで破門になった事件)、そこを海老蔵さんに拾っていただきました」と海老蔵への感謝を述べた。

片岡市蔵は、「初めて南座の舞台に立ったのは小学校3年生時だったのですが、それから50年以上が過ぎてしまいました」と時の流れの速さを口にする。

質問コーナーに移るのだが、「バレンタインデーにいくつチョコを貰いましたか?」という歌舞伎以外の質問が多かったため、三人だけではなく歌舞伎の質問がある程度の数に達するまで続けていた。
歌舞伎に直接関係する質問ではないが、楽屋での過ごし方について海老蔵は、「私は余り休みの時間がないのですが、20分か10分間が開いたときにはブログを更新します」とブログを売りとする歌舞伎役者らしい答えを返して客席の笑いを誘っていた。

「友人が歌舞伎を観るのが初めてなので、『勧進帳』の内容を説明して欲しい」との要請には、「ザックリとで良いですか? ザックリとで行きますよ」と言いつつ、源頼朝と義経の不和の原因から、安宅関の場所(松井秀喜の出身地として知られる石川県根上町にある)、そもそも勧進帳とは何か(「東大寺に仏壇ありますよね? 仏壇。あ、違った仏壇じゃなくて大仏」)、仏教用語についてなど一から十まで全て説明する。まるで勧進帳を読み上げる弁慶のようで、おそらく意図もしているのであろう。そもそも海老蔵がやる仕事ではないと思うが、質問された方の友人は感激したはずである。

今年は東京オリンピックとパラリンピックがあるため、歌舞伎俳優が海外に出ると「ディスられる」ということで国内での活動に留まるが、再来年はヨーロッパツアーの計画もあるそうである。

 

「勧進帳」。これまで高麗屋の二人(九代目松本幸四郎と十代目松本幸四郎)で観たことのある演目であるが、市川團十郎家を本家とする演目であるため、印象はかなり異なる。
出演は、市川海老蔵(武蔵坊弁慶)、中村児太郎(源義経)、片岡市蔵(亀井六郎)、市川九團次(片岡八郎)、大谷廣松(駿河太郎)、市川新蔵(番卒軍内)、市川新重郎(番卒兵内)、市川右左次(番卒権内)、市川福之助(太刀持音若)、市川齋入(常陸坊海尊)、市川右團次(富樫左衛門)。

スキャンダルも多く、「ワル」のイメージがある海老蔵であるが、そのためユーモアが生きてくる。落差である。「堅物」のイメージがある人がユーモアを行うのもギャップがあって面白いと思われるが、例えば当代の幸四郎などは、「堅物」というより歌舞伎に関してはとにかく「真面目」というイメージがあるため、海老蔵ほどの落差は生みにくく、小さく纏まっているように見えてしまう。醜聞がプラスに働いたりするのが芸の難しいところである。
海老蔵が持つイメージが弁慶に重なり、ダイナミックな演技が繰り広げられる。海老蔵は大きく見えるし、セリフも弱いところがあったりはするが、早口でまくし立てたり、重々しくしたりと幅が広い。何よりも見得が決まっている。團十郎に相応しくないという声も聞こえてきたりするが、天分に恵まれているのは確かである。故小林麻央との間に生まれた勸玄君(八代目市川新之助を襲名する予定である)も出来が良さそうだし、十三代目市川團十郎白猿の時代が長く続きそうな予感が得られた舞台であった。

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2020年2月 3日 (月)

観劇感想精選(340) 下鴨車窓 「散乱マリン」

2020年1月23日 京都芸術センター講堂にて観劇

午後7時30分から、京都芸術センター講堂で、下鴨車窓の「散乱マリン」を観る。作・演出:田辺剛。5年前に「Scattered(deeply)」というタイトルで初演された作品の再演。無料パンフレットに載っている田辺さんのコメントに「“scattered”とは『散らかった』という意味で作品の核になるコンセプトではあるのですが、この英語が読みにくいしそんな単語ふつう知らないということもあり、このたびタイトルを変えました」とある。個人的には、“scattered”は馴染みのある英単語である。バーブラ・ストライサンドのヒット曲で映画の主題歌でもある「追憶(The Way We Were)」の歌詞に“Scattred Pictures”という実際の光景と心象風景の二つを現す印象的な言葉が登場するためである。私の場合は、この劇から“scattered”よりも“split”という単語を思い浮かべた。

出演は、北川啓太、福井菜月(ウミ下着)、澤村喜一郎(ニットキャップシアター)、岡田菜見(fullsize)、西村貴治、西マサト(B級演劇王国ボンク☆ランド/努力クラブ)、坂井初音、F・ジャパン(劇団衛星)。

東日本大震災の影響を受けて書かれた作品であるが、それ以外の見方をした方がわかりやすくもある。

佐藤マキ(福井菜月)の自転車が盗まれる。有料のロックがかかる自転車置き場に駐輪しておいたのに盗まれてしまったそうだ。盗難届を出し、自転車が見つかったので職員の真下シンジ(北川啓太)と一緒に取りに行くという場面から劇は始まる。劇が始まるまでスピーカーからは風の吹き荒れる音がずっと流れている。
自転車が保管されていたのは、なぜか周りに何もない平地のど真ん中。そこにバラバラになった自転車が積み上げられている。ということでマキも真下も呆然としている。真下は「台風のせい」ではないかというのだが、勿論、そんなはずはない。明らかに人為的に組み立てられたもので、まるでオブジェ。なのだが、実際にオブジェであることが次のシーンでわかる。ビエンナーレ出展のために、伊佐原リョウタ(西村貴治)が主任となって田広ツトム(澤村喜一郎)や野村ミカ(岡田菜見)らが作成した“scatterd”という現代芸術作品なのだ。無論、勝手によそから自転車を持ってきて制作したものではない。リアルのレベルで行くと、行き違いがあったということになる。だが、真下やマキには、伊佐原、田広、ミカの姿は野犬に見え、逆に伊佐原らの美術チームからは真下やマキはカラスに見えるという不可思議な世界へと突入する。比喩ではなく、実態が動物というわけでもなく、本当に見えているようだ。ただ、一方で、人間であるという認識もちゃんとあることが後に分かってくる。

東日本大震災後に起こった分断を描いた作品である。残念ながらというべきなのかどうかはわからないが、私は福島を訪れることが出来ないでいるが、福島をはじめとする東北地方に通っている浄慶寺の住職である中島浩彰氏によると、福島の住民同士の間でも意見の相違が目立って来ているそうで、福島を諦めて出て行ってしまう人と、福島に残る人でまず分断があり、残った人の間でも健康へのこだわりや生活の指向などで意見が食い違い、ちょっとした争いが絶えないとのことである。福島を出た人も福島にこだわりを持ち続けている人と忘れようとする人に分かれる。原発に関する意識にも違いが出ている。
国際社会に目を転じれば、残念ながら日本はかつての信頼を取り戻せなくなっているという悲しい現実がある。経済で存在感をなくし、原発の責任もうやむやということで、東京オリンピックや大阪万博を控えているが、アカルイミライは一向に見えてこない。
復興のシンボルともなるはずだった新国立競技場建設のゴタゴタと予想外の建築費、東京五輪開催への不透明ないきさつと予想の数倍にものぼる巨大な出費などによって、被災地への人と金が回らなくなるということも起こっており、東京オリンピック開催そのものへの不信も拭えてはいない。おまけになぜかアメリカのメディアのために真夏の開催となるなど、誰のための大会なのかわからなくなってしまっている。

 

マキの自転車は、実は祖母の形見のようなものであり、それはマキの恋人(なのか親しい友人なのか。少なくとも同居はしているようであるが)の瀬田ユウヤの口から明かされる。だが、瀬田はそうして真下を責めておきながら、「弁償しろ」と言う。マキにしてみれば「それは違う」と思うだろう。祖母との思い出を取り戻したいのであって、それは弁償という形は取れない。金や新しい自転車が欲しいわけではないのだ。結局のところ、やはりわかり合えてはいないようである。マキは、瀬田がAVを見ていたことを咎め出す。「アナと雪の女王」のDVDを観ようと思ったら、映ったのは変態系のAVであったことで怒ったようである。男なので仕方がないのかも知れないが、彼氏がいる場合は「私がありながら」ということで怒る女性の気持ちもわかる。ということで価値観の違いが顕著である。

美術チームは美術チームで、田広はミカに気があるのだが、ミカは田広を男とは思ってはおらず、そんな二人に伊佐原は不満げで、亀裂が生じている。

 

“scatterd”は、マキにしてみれば祖母との大事な思い出がズタズタにされてしまったものだが、伊佐原らの美術チームにしてみれば原型をなくしたもので造り上げた大切な芸術作品であり、同じものではあるが価値観が完全に異なり、分裂している。マキが自転車を取り戻そうとする行為は美術チームから見れば作品を散らかして蔑ろにする行いである。同じ人間でありながら、互いが別の生き物に見えてしまうほど、価値観の違いが顕著である。そしてそれぞれの言い分が共に納得のいくものであるため、却ってややこしくなる。

 

福島の問題と考えると、実感が沸きにくい人もいるかも知れないが、2010年代に入って顕著になった分断は、例えば日本に近隣においても起きている。日本が独自の領土であると主張する場所、主に3カ所あるが、それに対するやり取りは分断以外の何ものでもない。歴史的正しさを主張しても答えは出ないし、実効支配をどう転換するかが課題なのだが、ネットでは「人間ではない」という意味の、ここではとても書けないような言葉を使うなどして憎み合うだけで進展する気配がない。進みそうになっても超大国同士の方向転換があったり、2人の大統領が勝手に上陸して領土宣言をしたり、国内に「戦争」という言葉を口にする政治家が現れて泥沼化するなど、にっちもさっちも行かないような状況である。
また日本国内にも他国の領土があり、「移転しろ」だの「されると困る」だのと意見が割れて新たないがみ合いが生まれてしまっている。
中国と香港に目を転じても、状況は悪いとしか言い様がないが、民主主義の恩恵を受けている日本人が一方的に香港を応援する声を聞くと、中共が嫌いな私でも酷く違和感を覚える。実は情報に偏りがあるのも把握はしており、どちらも正義を名乗ることは出来ないのが実相のようである。

伊佐原が参加しているビエンナーレの担当キュレーターは、小田ケイコという若い女性(坂井初音。タレントの稲村亜美に雰囲気が似ている)なのだが、直前になって代理として受け持つことが決まるも、企画書はきちんと読んでいない、主任である伊佐原の名前を間違える、作品のタイトルも十分に把握していないなど、かなり問題のある人であることがわかる。iPodで音楽を聴きながら脳天気な感じで歩いており、責任感も当事者意識も完全に欠けているように見える。こういう人は選挙には……、まあ、いいや。

野犬対策として、真下が狩人の佐竹シンヤ(F・ジャパン)を連れてくる。「パワー」を象徴するような存在であり、佐竹は瀬田や真下におもちゃのナイフを渡して、野犬を威嚇するように勧める。ただし、「威嚇」である。「威嚇」を超えてしまった場合は……。

 

このところ、似たような傾向を持つ演劇作品を目にすることが多くなった。それだけ状況が切迫していることを実感している演劇人が多いということでもある。

ただ、「私達は理解するという姿勢を本当に取っているだろうか?」。ちゃんと読めているだろうか、ちゃんと聞けているだろうか。「わかっている」と肩を聳やかした瞬間に理解に至る道を遮断してしまっているというのに、なぜ「わかっている」という前提を取ってしまうのか。

私は三振したのにバッターボックスに立ち続けているような愚か者ではありたくないと思う。

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2020年1月 6日 (月)

観劇感想精選(335) inseparable 「変半身(かわりみ)」

2019年12月19日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都ノースホールで、inseparable「変半身(かわりみ)」を観る。原案:村田沙耶香&松井周、作・演出:松井周。出演:金子岳憲、三村和敬、大鶴美仁香、日高啓介、能島瑞穂、王宏元、安蘭けい。

村田沙耶香と松井周が共に取材した題材を演劇と小説という形で別々に発表するという試みの演劇版である。村田沙耶香の小説版はホワイエで売られている。

近未来が舞台である。東洋のガラパゴスと呼ばれる離島、千久世島(ちくせしま)ではレアゲノムという化石由来のDNAがヒトや動物の遺伝子組み換えに必要なものとして注目を浴びている。その千久世島では、「山のもん」と「海のもん」が抗争を繰り広げている。レアゲノムは山で取れるため莫大な利権を生み、「山のもん」は働く必要もなくなったが、多数派である「海のもん」はその恩恵に預かることは出来ず、漁業も海流の変化で不振である。ということもあってレアゲノムを勝手に持ち出そうとする事件が相次ぎ、自警団が組織された。その自警団の事務所が舞台である。

近未来においては、自由に性行為を行うことや子どもを作ることは許されておらず、生殖免許なるものが必要なようである。自動車と同じでマニュアルとオートマチックがあるようだが、詳しいことはわからない。

自警団に所属しているのは、高城秀明(金子岳憲)と尾形祐美(大鶴美仁音)の夫婦(未来は夫婦別姓なのだろうか)と、本州から来た子持ちバツイチの比留間ルイ(能島瑞穂)、外国出身の田部草太(王宏元)。ただヒトゲノム自体は東京の組織によって管理されており、東京から来た丸和玲香(安蘭けい)が、密輸業者を取り逃した自警団に説教しているところから芝居は始まる。近未来では行動が逐一ポイントによって評価される制度になっているようである。「ドラえもん」にもそんな話が出てきたような気がするが。
秀明は「山のもん」であるが、祐美は「海のもん出身」であり、二人の結婚は隔たれていたものの結びつきの象徴として祝福されている。祐美の父親で、ホテル経営などをしている「海のもん」の代表者、尾形圭一(日高啓介)も自警団の事務所にやって来る。

比留間ルイは、本州出身を名乗っているが、実は外国出身であり、田部草太と二人でいる時には北京語で話す。草太から、「为什么你说日语?(どうして日本語で話す?)」と聞かれたルイは、「あなたと一緒にされたくない」と日本語で答える。
ちなみに草太の父親は本国でデザイナーをしていたが、作品に赤い布を用いたことで共産主義者と見做され粛正されている。北京語を話してはいるが、共産党が支配する中国の出身ではないのか、あるいは中国の政治体制が今とは異なっているのか。

本筋とは異なり、神様(金子岳憲)による「クニウミ」の話が入る。千久世島には独自の国生み神話がある。ポーポーとボウボウという神様が国を生む。ボウボウは始めは一つの点に過ぎなかったのだが、ポーポーの腕を食べて、人間の形らしくなる。生殖器は二つあり、両性具有の神である。ポーポーとボウボウは仲良しの神だったのだが、ある日、ボウボウがポーポーの腕や足を食べてしまい、腹を壊す。だが、ボウボウには口はあっても出す機関は持っていない。ボウボウの腹痛は酷く、ポーポーはボウボウの生殖器の片方でボウボウを突き刺す。そこから出た膿が海になったという話である。途中で、イルコというイルカの神様の話が出てくるが、足が悪いということで流されてしまう。イルコは日本神話の神々でいうと蛭子に相当する。恵比須として祀られることになる神である。

島ではポーポー祭なる奇祭が行われており、秀明の弟である高城宗男(三村和敬)がモドリという儀式の最中に落命している。だが、その宗男が皆の前に現れる。秀明と宗男が少年時代のことを語る内に、どうやら宗男もボウボウのように両性具有者だったらしいことがわかる。宗男は、千久世島が世界初の浣腸器が見つかった場所であるということから、ボウボウ伝説に基づく「ソーシャル・エネマ」を提唱。「山のもん」(成金)や「海のもん」(土俗、貧困)、あるいは東京的(絶対的な価値に基づく管理社会)な価値観を洗い流すことで世界の再創造を行おうとする。

やがてルイがレアゲノムの横流しを行っていたことが発覚して丸和と圭一によって捕縛され、身内から裏切り者が出たということで自警団も解散に追い込まれる。そして浜辺にはイルカたちが押し寄せ、自警団の事務所はイルカ相手の売春斡旋所となってしまう。

ポーポーに相当する秀明が演じる神と、ボウボウに当たる宗男が演じる神、更にイルカの神でもある丸和の3人(3柱か)の会話では、もはや世界を救うことは不可能となっている。レアゲノムも用いてイルカとの合体が成功しつつあるが、それもほんの少しの延命に過ぎない。

舞台は数年後に移る。人々は主にイルカ語を話すようになっている。レアゲノムは他の島に移されており、千久世島はその名に反して見捨てられた島として終焉を迎えつつある。それが変わることはないのだが、ポーポーとボウボウの神話に出てきたように、宗男の体を、祐美、ルイ、草太、圭一が食べるシーンがある。これはポーポーとボウボウの神話に従えば新たなる世界の創造(クニウミ)に繋がる行為であり、一見すると救いがないようではあるが、新たなる世界の創造もささやかながら示されているラストがやって来る。

どことなく1990年代の演劇のテイストが感じられる作品である。SFではあるのが、神話や離島の事情を混ぜるなどしており、未来的な洗練性よりも土着的な味わいが前面に出ているという特徴がある。

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2019年12月23日 (月)

観劇感想精選(331) shelf第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」

2019年12月15日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後2時から、東九条にあるTHEATRE E9 KYOTOで、shelfの第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」を観る。ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒの戯曲の上演。テキスト日本語訳:大塚直、構成・演出・美術:矢野靖人。出演は、川渕優子、三橋麻子、沖渡崇史、横田雄平、江原由桂、大石憲、鈴木正孝、古木杏子。

 

昨夜、たまたま立ち寄った外国人のお客さんが今日の公演を観に来たということで、矢野靖人は、開演前の挨拶を(急遽らしいが)英語でも行い、「英語字幕はございません」という言葉も入れていた。

 

東日本大震災と福島第一原子力発電所での事故を題材にした作品である。具体的な地名として「いわき」という言葉が出てくるため、福島県いわき市をモデルにした場所が舞台であることがわかる。

椅子が7脚、真横に並んでいるだけのシンプルな舞台である。各椅子の前には靴が投げ出された形で置かれている。舞台下手には自転車が置かれている。
ト書きに当たる部分が背後に白い文字で投影される。状況や服装が俳優達に当てはまる場合もあれば一致していないケースもある。

登場人物は、3組の夫婦と、若者と娘である。3組の夫婦であるが、それぞれが別の相手の不倫をしている。しかも不倫場所が3組とも同じホテルである。A(鈴木正孝)はZ夫人(川渕優子)と、A夫人(古木杏子)はY(沖渡崇史)と、Z(横田雄平)はY夫人(江原由桂)と浮気をしている。しかも全員、月曜の夜、同じ時間にである。ホテルには部屋が3つしかないが、AとZ夫人が1号室、YとA夫人が2号室、ZとY夫人が3号室を使っている。ホテルのフロント係をしている若者(大石憲)は、ルームキーを探す時に後ろを振り返るのだが、そこには有名な絵が掛かっている。字幕で「北斎」と投影されるため、「神奈川沖浪裏」であるらしいことがわかる。実際には違うが津波を想起させる絵である。

若者は沿岸警備のために高台に住んでいる娘(三橋麻子)とSMSのやり取りをしている。文章の中で娘は自身をミツバチに、若者をクジラに例えている。

その日、3組のカップルがホテルにいる時にそれは起こる。ライトが「つく、きえる」を繰り返し、壁やベッドが騒ぎ始める。高台からは、街が海と一体になるのが見えた。

3組のカップルにはそれぞれ特徴がある、Aは口のあった部分に何もなくなってしまい、思ったことを言えなくなる。だが口とは異なる場所から自身の意思とは関係のない言葉が発せられるようになっていた。Z夫人は気づくと頭が二つあるようになっている。A夫人は突然、自身が何百歳もの老女となり石に変わってしまった感じ、Yは心臓が燃えるようになり、自身では運動をやめることが出来なくなる。Zは自分のことを死んだ魚だと思い、Y夫人は雨に濡れた蛾であるという自己認識がある。3号室の中で雨が降る。黒い雨だ。Y夫人は雨でびしょ濡れになる。
その後、若者はクジラが横を通るのを見掛け、ホテルにいた他の者達も魚の群れや鮫の姿などを目にする。それぞれの相手によって否定されるが、津波が街に押し寄せたことが暗示されている。

「理解されない」「わかり合えない」ということの変奏曲が展開される、Z夫人は自身の頭が二つになったことを誰にも言えないでいる。そんなことを言っても信じて貰えないし、頭がおかしくなったと思われるだけである。背景に投影されるト書きにも「理解されない」「言うのをためらう」という言葉が出てくる。
ZはY夫人に魚の話をするが、Y夫人の傍白にはっきりと「何を言っているのかわからない」というものがあり、Y夫人が蛾の話をしてもZは理解を示さない。Yの運動の話も、A夫人の老女になった石の話も、「理解されないだろう」ということで話さなかったり途中で話をやめてしまったりする。Yは「老女になった」と告白するA夫人に「君はまだ40にもなっていないし」と言い聞かせる。ネガティブな例え話だと勘違いされたのだ。目の前にいる人に理解されない。やがて人々は部屋から出る仕草をするために椅子の上を歩き始める。停電した暗闇の中、狭い廊下を表した椅子の上でそれぞれがすれ違う。それぞれの体に触れた時や雰囲気で、相手は「この女性、頭が二つある」、「この人は蛾のようだ」と言い当てるため、第三者にはわかることなのだと思われるのだが、一番近くにいる人には何も見えないし伝わらないのだ。
それは現地にいる被災者なのに状況がまるで飲み込めていないという状態に繋がる。ト書きには「自分で何を言っているか理解しているのか怪しい」というものもあるが、自分自身についても理解していないことは多い。そもそも彼らは「自分達がもはや幽霊なのだということを理解していない」ようである。

津波が去った後、街には何も残っていなかった。若者もまた自身が幽霊になったのだということを理解しておらず、娘に会うために小学校へと向かう。しかし若者の腕は透明になり、スマホを持つことも出来なくなっている。娘からの着信にも答えることは叶わない。
若者はクジラが太陽に抱えられて高台へと上る話をする。だが、太陽によって体を焼き尽くされたクジラは墜落する(日本でも有名なイーカロス伝説をひねったものだと思われるが、太陽は原発事故のメルトダウンの喩えでもある)。ミツバチは月に乗っかって、海の底深くへと潜っていく。だがクジラには会えず、海底で月の重さに押しつぶされて息絶える。二人とも会うことすら叶わず、しかもすれ違っている。

Aは、口のあった場所を切り裂くが、そこに口が現れることはなかった。自身の意思に反した言葉が発せられることはなくなったが、学者達や専門家と呼ばれる人の発言が頭の中で鳴り響くようになる。

距離的には最も近くにいるのにわかり合えず、遠く引き離されたかのような相反する状況が示される。直接の被害者であるのに何も教えて貰えず、近いが故に見えず、的確なことは何も語れないという、「岡目八目」のような形。
2011年3月11日の夜、いわき市上空は今まで見たことがないほど星が輝いていた。だがそれは原発事故により、あらゆる電気が絶たれていたからである。星はとても美しかったがそれは怖ろしく悲しいことでもある。美と悲しみという「あるいは」相反することがここにおいて融合する。

バラバラになっていた靴は、娘がきちんと並べてそれぞれの椅子のところに置いていく。それは弔いである。当事者であるが「わからず」、誰とも「わかり合えないこと」が前提だが、それでも「わかり合うため」の。

 

終演後には、ダンサーの山下残をゲストに招いて、矢野靖人とのアフタートークが行われる。山下は内容よりも俳優達の身体性や劇場空間についての話を重点的に行う。私にはない視点であり、面白かった。

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2019年12月11日 (水)

観劇感想精選(328) 京都観世会館 第256回市民狂言会

2019年12月6日 左京区岡崎の京都観世会館にて観劇

午後7時から、左京区岡崎の京都観世会館で、第256回市民狂言会を観る。演目は、「宝の槌」(出演:茂山七五三、茂山茂、網谷正美)、「御茶の水」(出演:茂山逸平、茂山あきら、茂山千之丞)、「附子(ぶす)」(出演:丸石やすし、茂山千三郎、松本薫)、「蟹山伏」(出演:茂山忠三郎、山口耕道、鈴木実)

「御茶の水」の住持役は元々は茂山千作が予定されていたが、死去により茂山あきらが代役を務めることになった。


「宝の槌」。太平の世となり、人々は皆、道具自慢にふけるようになる。果報者(金持ちのこと。茂山七五三)も、家の蔵に自慢となるような宝が眠っていないか太郎冠者(茂山茂)に聞くが、太郎冠者は見覚えがないという。そこで果報者は太郎冠者に都に行って宝物を買い求めるよう命じる。
初めての都ということで、ウキウキの太郎冠者であったが、浮き足立っているところをすっぱ(網谷正美)に見抜かれ、ただの太鼓のバチを「鎮西八郎為朝(源為朝)が鬼ヶ島の鬼から奪った打ち出の小槌だ」と売りつけられてしまう。なんでも弓の名手である鎮西八郎為朝が鬼ヶ島に行って、鬼と弓の勝負をして勝ち、隠れ蓑、隠れ傘と共に勝ち取ったのがこの打ち出の小槌なのだという。呪文を唱えると(結構長い)欲しいものが出てくると聞かされた太郎冠者は、すっぱの誘導尋問により腰のもの(太刀)を所望。すっぱが仕込んでおいた太刀が現れたため、すっかり信じ込んでしまう。
さて、実際は太鼓のバチでしかない打ち出の小槌を持ち帰った太郎冠者。主の果報者の前で呪文を唱え、舞を舞い、小槌を振るって馬を出そうとするが何も出ない。太郎冠者は誤魔化すために、口のない馬(エサをやらなくていい)を出そうなどと、現実味のないことを言い始める。
呪文を唱える時の舞は迫力があり、見所の一つとなっている。


「御茶の水」。私の青春の街である東京の御茶ノ水とは関係がない。私の出身地である千葉市にもお茶の水はあるが特に関係はない。
住持(茂山あきら)が、明日茶会を開くことになり、新発意(新米の僧侶のこと。茂山逸平)に、野中の清水からお茶に使うための水を汲んで来て欲しいと頼むのだが、すげなく断られる。そこで、恋仲のいちゃ(茂山千之丞)に水を汲んできてくれるよう頼む。
実は、新発意は、自分が断れば住持はいちゃに水を汲みよう頼むであろうことを読んでおり、清水に一人で来たいちゃに思いを伝えるべく計算していたのだった。
男女の言葉のやり取りは謡として交わされる。伝統芸能の粋である。
二人の男の間で振り回されるいちゃ役が一番重要な役だと思われる。男二人が取っ組み合い(見た目は相撲である)になる場面があるのだが、ここでのいちゃの心の揺れが面白い。


「附子(ぶす)」。数ある狂言の中でも最も有名な演目である。私が小学生の頃の国語の教科書にも載っており、筋書き自体は多くの人の知るところとなっている。元々は中世の説話集である「沙石集」に入っている物語だそうで、一休のとんち話に出てくるよく似た話も「沙石集」に由来しているようだ。
主人(茂山千三郎)が、「山一つあなた」へ行くことになり、太郎冠者(丸石やすし)と次郎冠者(松本薫)に留守を言いつけるのだが、附子(トリカブトのこと)には決して近づかぬよう厳命する。だが実際は附子と言っていたのは砂糖のことであり、留守中に砂糖を盗む食いされぬよう附子だと嘘をついたのである。結局、砂糖は太郎冠者と次郎冠者に全て食べられてしまい、太郎冠者は砂糖を全て食べてしまったことの言い訳を考え出す。普通に考えたらそんな言い訳は通用しないのだが、狂言の中でのことなので「上手い落ち」となっている。実際には誰が損するわけでもないし。


「蟹山伏」。大峯山と葛城山で修行した山伏(茂山忠三郎)が、強力(山口耕道)を従えて、出羽・羽黒山に帰ることにする。山伏はうぬぼれきっており、出羽国に帰れば皆が自分のことを「生き不動」と崇拝するだろうと天狗になっている。
江州(近江国)の蟹が沢にたどり着いたとき、一転にわかにかき曇り、蟹の精(鈴木実)が非常にわかりやすい形で現れる。
山伏は蟹の精を調伏しようとするが全く効かず、という話である。
元々は、甲斐国に伝わる伝承で、謎の雲水が寺の住職に問答を仕掛け、答えられないと殴り殺してしまうという、「オイディプス王」にも描かれたスフィンクス伝説に近いものがあったようだが、「蟹山伏」では山伏は蟹の謎かけにすぐに答えており、問答が解けぬ話ではなくなっている。
蟹は民俗学的にはその姿から千手観音の化身とされる場合があるそうで、修験道と仏法の対比が発展した可能性も考えられる。

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2019年12月10日 (火)

観劇感想精選(327) 南座新開場一周年記念「當る子歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部

2019年12月5日 京都四條南座にて観劇

午後4時45分から、京都四條南座で、南座新開場一周年記念「當る子歳 吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎」夜の部を観る。演目は、近松門左衛門作「堀川波の鼓」、河竹黙阿弥作「釣女」、河竹黙阿弥作「魚屋宗五郎」(「新皿屋敷月雨暈」より)、「越後獅子」

「堀川波の鼓」と「魚屋宗五郎」は共に「酒乱」が鍵となっている作品であり、それを縦糸としたラインナップなのだと思われる。大人気といえる演目が存在しないため、今日は空席も比較的目に付いた。

 

「堀川波の鼓」。堀川というのは京都の堀川のことであるが、今回の上演は通し狂言ではないので、堀川の場は出てこない。鼓の師匠である宮地源右衛門(中村梅玉)が京都の堀川下立売に住んでいるという設定である。
因幡鳥取藩で実際に会った不義密通事件を題材にした世話物である。
鳥取藩士の小倉彦九郎(片岡仁左衛門)が参勤交代で江戸に出向いている時の話から始まる。彦九郎の妻お種(中村時蔵)は、江戸詰である夫が恋しくてたまらない。彦九郎が江戸詰の時は、お種は実家に帰っているのだが、そこでも妹のお藤(中村壱太郎)に夫に会えない寂しさを語って聞かせている。お種は、実弟の文六(片岡千之助)を連れ養子としているのだが、文六は、京都の鼓師である宮地源右衛門に鼓を習っている。稽古が終わり、お種と宮地は初対面の挨拶をするのだが、酒が入ることになり、お種は酒好きなのでつい盃が進んでしまう。お藤と文六は帰宅し、源右衛門が場を外している時に、お種に懸想している磯辺床右衛門(中村亀鶴)がやって来て関係を迫る。床右衛門は隣から謡の声が聞こえたのに驚いて帰って行くが、源右衛門に話を聞かれたと思ったお種は源右衛門に口外しないよう誓わせようとする。だが酒で酩酊していたお種は、つい源右衛門と道ならぬ関係になってしまう。その後、引き返してきた床右衛門は、お種と源右衛門のそれぞれの袖を引き剥がすことに成功し、これをネタにゆすりを掛けようとする。5月半ばに彦九郎は帰国するが、藩内にお種が不義密通をしたという噂が流れており、お藤は彦九郎とお種を離縁させようとすると計るも失敗し、結局、彦九郎は泣く泣くお種を手に掛けることになる。
酒の勢いでついという話であるが、当時は不義密通は死罪相当であり、酒のせいでは済まされなかったのである。というわけで誰のせいにも何のせいにも出来ないやるせなさが残る。

彦九郎役の仁左衛門(松嶋屋)は、実は登場している時間はそれほど長くないのだが、貫禄と悲しみを併せ持った彦九郎を浮かび上がらせている。お種を演じた時蔵(萬屋)も酒に溺れてしまった不甲斐なさを適切に表現している。お藤を演じた壱太郎(かずたろう。成駒屋)の可憐さも光る。
この演目では音楽が実に効果的である。南座は新しくなって音の通りが良くなっただけに、一層、音楽の良さが引き立つ。

 

「釣女」。狂言の「釣女」を常磐津で演じる。
妻を娶りたいと思っている大名(いわゆる何万石という所領を持っている大名ではなく、地方の有力者程度の意味である。演じるのは中村隼人)が、縁結びの神として知られている西宮戎(西宮神社)に参詣することを思い立ち、太郎冠者(片岡愛之助)と共に出掛ける。西宮の戎は社伝そのままに夷三郎と呼ばれている。狂言では演者が最初から舞台の前の方に立つことはないのだが、大名のような身分の高い人はそれを表すために他の人よりも前寄りに立つ。

参詣した大名は、美しい女性と出会えるよう、夜通しの籠祈願を行うことにするのだが、太郎冠者に寝ずの番をさせて自分はさっさと寝てしまう。あきれた太郎冠者は何度も大名の眠りを妨げようとする。そうするうちに大名が夢を見る。神社の西の門に運命の人が現れるというのである。西の門に駆け付けた大名と太郎冠者であるが、そこに釣り竿が落ちているのを見掛ける。「女を釣り上げろ」ということかと合点した大名が釣り糸を垂れ、何度か引いている内に、見目麗しい上臈(中村莟玉)が釣り上がる。早速に三三九度を取り交わし、太郎冠者が「高砂」を真似た祝いの舞を演じると、大名と上臈も喜びの舞を始める。

今度は、太郎冠者が釣り針を垂れる。やはり女(中村鴈治郎)が釣り上がるのだが、これがとんでもない醜女であり、太郎冠者は嫌がる。だが、女は太郎冠者にぞっこんで、大名も神が決めた相手なので拒むことは出来ないと言い……。

愛之助(松嶋屋)の軽やかな舞が一番の見所である。隼人(萬屋)は、台詞回しが板に付いていなかったが、若いということだろう。
中村莟玉(かんぎょく。梅丸改。高砂屋)は、襲名披露ということで「おめでとうございます」と言われるシーンがあった。素顔が男前ということで、女形としてもやはり美しく華やかである。

 

「魚屋宗五郎」。私が初めて歌舞伎というものを観たのは、1996年の12月、東京の歌舞伎座に於いてであるが、3つあった演目のうちの最後が「魚屋宗五郎」であり、十二代目市川團十郎が宗五郎を演じていた。「魚屋宗五郎」を観るのは、それ以来、23年ぶりである。ちなみに「堀川波の鼓」で小倉彦九郎を演じた片岡仁左衛門も、1996年以来、23年ぶりの彦九郎役だそうで、偶然ではあるが繋がっている。

「新皿屋敷月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」の第2幕と第3幕を上演するもので、この二幕だけを演じる場合は、「魚屋宗五郎」という題になる。
妹のお蔦を手討ちにされた魚屋の宗五郎(中村芝翫)が、金比羅様に誓って絶っていた酒を飲んでしまったことから巻き起こる大騒動である。
実はお蔦は無実で、横恋慕していた岩上典蔵(中村橋吾)の策謀によって不義密通を仕立て上げられたのであった。

宗五郎が酒をがぶ飲みする場面では、三味線がコミカルな感じを上手く出している。

中村芝翫(成駒屋)の演技は、名人芸の域に達しつつある。歌舞伎界のトップに君臨するようなタイプの人ではないが、演技力に関しては言うことなしである。
一方、名前を継いだ長男の橋之助(四代目)は、狂言回しの役割も担う三吉という重要な役で出ていたが、明らかに「浮いている」と思うほどに下手である。同年代の隼人も上手くはないし、まだ若いということなのだろう。十代目松本幸四郎(七代目市川染五郎)などは、若い時から演技の質は高かったが、昨年の11月の顔見世などを見ると伸び悩みが感じられ、早くから完成されているが伸びないタイプと、最初は拙いがどんどん成長するタイプの二つが存在する――というよりどちらかでないと俳優としては致命的である――と思われる。五十代六十代という歌舞伎役者として大成する時期にどちらが上に来るのか見守ることも面白いように思う。

 

中村隼人、中村橋之助、片岡千之助、中村莟玉という若手歌舞伎俳優4人による舞踊「越後獅子」。江戸・日本橋駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)の三井越後屋前が舞台である。背景には堀と蔵屋敷が並び、正面遠方奥に掛かるのが日本橋ということになるのだと思われる(地理的には異なるはずだが芝居の嘘である)。
一つ歯の高下駄で舞うなど、「俺だったら一発で捻挫する自信がある」と思える高度な舞を全員が器用にこなす。流石は歌舞伎俳優である。
4人の中では、莟玉が小柄だが動きに一番キレがある。元々日本舞踊の世界から梨園に入ったということも大きいのであろう。

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2019年11月 2日 (土)

観劇感想精選(325) 神里雄大/岡崎藝術座 「ニオノウミにて」

2019年10月26日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

午後7時から、京都芸術センターフリースペースで、神里雄大/岡崎藝術座の「ニオノウミにて」を観る。英語のタイトルは「Happy Prince Fish」である。作・演出:神里雄大。

ニオノウミというのは琵琶湖の別名(ニオというのは滋賀県の県鳥になっているカイツブリのこと)である。日本三大弁財天の一つを祀る竹生島を舞台とした異人との遭遇を巡る物語。能の「竹生島」がモチーフとなっている。出演は、浦田すみれ、重実紗果(しげみ・さやか)、嶋田好孝。

京都国際舞台芸術祭参加作品としての上演であり、舞台上方(天井の近く)にセリフの英訳が投映されての上演である。意味としては似通っているが、思考パターンが異なるためニュアンスに大きな隔たりが出ているのを見るのも楽しい。

まず、薄明の中で舞台上にタブレット端末が置かれてスタートする。
治安の悪い国からやって来た男が滋賀県にたどり着く。日本に希望を持ってやって来たのだが、日本語をきちんと話せないことで(セリフ自体はきちんとした日本語として語られている)日本人から見下されており、日本人が嫌になって日本語の学習もやめてしまっていた。男は琵琶湖に釣りをしにやって来たのだが、そこで琵琶(タブレット端末から竿状のものが伸びており、画面に琵琶の腹部が映されている)を拾う。背後で若い女の声がする。女は「それは私の琵琶です。返してください」と男に言う。女は「じじい」と呼んでいる祖父と二人暮らし。両親は離婚して家を出て行き、兄が一人いるが東京に出たまま一度も帰ってこない。漁師をしている「じじい」と共に女は毎晩、漁に出ている。種明かしをするとこの女の正体は弁財天なのだが、共に竹生島に渡ろうと女は男に提案する。

琵琶湖では、ブラックバスやブルーギルという外来魚が固有種を食い荒らしてしまうため、問題となっている。「じじい」は外国人観光客を外来魚になぞらえて罵り始め、「下等動物」とまで呼んで怖れている。
ブルーギルは実は明仁上皇が皇太子時代に外遊先のシカゴで市長から贈られたものを持ち帰ったのが最初である。ブルーギルは水産庁淡水区水産研究所が食用研究の対象として飼育していたのだが、淡水真珠養殖で母貝として用いるイチョウガイの養殖場でイチョウガイ幼生の宿主としてブルーギルが利用され、逃げ出したものが琵琶湖で繁殖するようになった可能性が高いようである。実はブルーギル繁殖のきっかけを作ったことについて、上皇陛下が天皇であられた時に謝罪なされたことがある。

3つの場からなる芝居だが、1場が終わった後で10分間の休憩が入る。お弁当付きの前売り券があった他、少数だが当日申し込み用のお弁当も用意されており、スナック菓子やお茶も売られる。
客席もフリースペースの段差を利用した椅子状のものと座布団を敷き詰めた床席が用意されており、自由なスタイルで芝居を観ることが出来るようになっている。観劇に「多様性」を持たせたいという神里の意思である。

 

異人と外来種を「じじい」が語る(録音された声による)が、今度はブルーギルが謝罪と自己弁護を述べることになる。ブルーギルは食用にも適さず、臭く、何の取り柄もないと自分を卑下するが、一方で、明仁上皇がやはり皇太子時代にやはり外来種のティラピアをタイに食用として贈り、現在ではティラピアはブラーニンという名で国民食として愛されているという話もする。同じ外来種でもティラピアは食用として役に立つから良く、役に立たないブルーギルは差別されて当然なのかという問いがある。近年の日本では「実用性」ばかりが叫ばれ、差別や区別が当然のように論じられているがこれは正しいことなのか。外国人に限っても安くて便利な労働力として重宝する一方で治安が問題視され、観光客となると「観光公害」として排斥運動が起こる直前の情勢になっていたりする。これは雇用の調整弁と見なされた日本人においても同様である。

3つの楽器がキーとして登場する。まずは琵琶湖の名の由来にもなった琵琶。ペルシャが起源であり、シルクロードを伝わって奈良時代に日本に渡来し、琵琶法師や仏話の際に用いる楽器として広まった。2つめは三線である。沖縄の民族楽器として有名だが、中国由来の楽器である。これが関西地方に伝わって生まれたのが三味線で、胴体にはニシキヘビの皮ではなく手に入りやすい猫や犬の皮を用い、琵琶のようにバチを使って弾く。日本は海外から様々な文化要素を取り入れ、それを吸収してオリジナルへと昇華させるという歴史を歩んできた。しかも元も文化を否定せず、共生させる。楽器に限らず、言葉から演劇から音楽からあらゆることにおいてそうであり、これこそが日本の伝統なのである。無料で配られた用語集に「琵琶湖周航の歌」がさらっと入っていて、休憩時間に流れていたが、実は「琵琶湖周航の歌」はオリジナルではなく、第三高等学校(現在の京都大学)の生徒が書いた詩を「ひつじぐさ」のメロディーに乗せたものなのだが、これが今では滋賀県のご当地ソングとして愛されるまでになっている。また「琵琶湖哀歌」も用語集に入っていて、「琵琶湖周航の歌」の後で流されたが、これまた「琵琶湖周航の歌」のメロディーを転用したものである。だが、そのまま受け入れられている。こうした懐の深さが日本人にはあったのだ。
ところが現代の日本は取り込むことを止めて排斥へと変化している。それは「男性的」と呼ばれる刹那の喜びのために行われるブラックバスフィッシングのキャッチアンドリリースにも例えられる(ネット用語の「釣り」も関連しているのかも知れないが)。伝統的ではない状態なのに排外に回る人は自身を伝統的な保守主義者だと勘違いまでしている。そういった状態に無関心の人も多く、とにかく選挙にも行かない。権利を行使しなかったわけだが、その結果生まれた社会を意思を示さなかった人々が本当に受け入れられるのかどうか。
日本だけが正義で被害者というわけでもない。オセアニアやヨーロッパでは、日本や朝鮮半島では食用として愛されているわかめが侵略的な外来種として問題になっていることが用語集には書かれ、劇中でも仄めかされている。

弁財天である女は仏教の十善戒から6つを唱えるが、もうそれは死んだしまった人間の言葉だとつぶやく。無宗教者が大多数を占める今の日本では仏教も神仏習合時代の言葉も心に届かない。そして女は男に自分の座を譲ろうとまでする。弁財天から渡された三味線の歴史が語られ、特に救いらしい救いもなく、不毛の未来が提示されて黙示録的に終わる。弁財天は男の良き未来を祈り、「またどこかでお会いすることがあるといいですね」と言うも、「でもわかりません」と続ける(英語字幕では、ビートルズやMr.Childrenの歌でお馴染みの「Tomorrow never knows」と表示されていた)。

芝居では答えは示されなかったが、日本人はどうすればいいのか? まずは本当の伝統を知ることである。受け入れ、止揚し、自らのものとしていった日本の歴史。それを断ち切らせることがあってはならない。「排除」を「正義」にしてはならない。三味線に見られるような「昇華」と「共生」を可能としてきた希有な伝統をもう一度振り返る必要がある。

我々は幕末の志士達よりも賢いはずだと思いたい。

 

内容は当然ながら異なるのだが同じ「共生」への意識を描いた黒沢清監督の「カリスマ」を見直してみたくなった。

 

内容が気に入り、台本が500円で売っていたので購入し、読む。「いいね!」。いや「いいね!」だけでは駄目なのだが。

 

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2019年10月27日 (日)

観劇感想精選(323) 「中村勘九郎 中村七之助 錦秋特別公演2019」京都公演

2019年10月19日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後3時から、ロームシアター京都メインホールで、「中村勘九郎 中村七之助 錦秋特別公演2019」京都公演を観る。中村勘九郎と七之助の兄弟が15年間に渡って続けている特別公演である。基本的に歌舞伎専用劇場は用いず、日本各地の公共のホールを使った上演が行われている。

演目は、勘九郎と七之助による芸談の後で、「艶紅曙接拙 紅翫(いろもみじつぎきのつつか べにかん)」、「三ツ面子守(みつめんこもり)」、「松廼羽衣(まつのはごろも)」の3つの歌舞伎舞踊が繰り広げられる。

まず勘九郎と七之助による芸談がある。司会は関西テレビアナウンサーの谷元星奈。
勘九郎と七之助がそれぞれ挨拶するのだが、明らかに七之助に対しての拍手の方が大きい。勘九郎もキレのあるいい歌舞伎俳優であるが、華は不足がち。また若い女性にはどうしても女形の方が人気がある。
京都についての思い出から話し始める。二人が子どもの頃、父親である中村勘三郎はずっと南座での顔見世に出続けており、二人も冬休みの間は京都に来て父親と一緒に過ごしていたそうで、京都巡業といっても旅という感じはしないそうだ。一方、勘九郎と七之助が歌舞伎俳優として活躍し始めてからは、不思議なこと勘三郎が京都で公演を行うことは稀になってしまったそうで、2年前に勘九郎と七之助はロームシアター京都メインホールで行われた顔見世に登場しているが、家族の招きが上がるのは20数年ぶりだったそうである。

勘九郎が大河ドラマ「いだてん」で、主役の一人である金栗四三を演じたということで、その苦労話などが語られる。昨年4月からの撮影であったのだが、準備期間も含めて「ずっと走っていたような記憶がある」そうで、舞台では誤魔化せても映像では無理ということで、体作りのことなどを話す。歌舞伎で軽やかな演技を見せている印象のある勘九郎だが、実は「運動は大嫌い」「動くことがそもそも嫌いであり」、運動が得意そうと見られることも多いが、それは勘違いだという。歌舞伎をやっていると下半身が重要になるため腿が太くなるそうで、勘九郎の腿は周囲が62cmもあり、これはスピードスケートの金メダリストである清水宏保と同じ数値だそうである。ただ、マラソン選手でそんなに腿の太い選手はいないということで、腿の余計な肉を落とすことから始めたそうだ。運動の他に糖質カットダイエットなども行ったそうだが、糖質をカットすると怒りっぽくなるので困ったそうである。頭の働きにブドウ糖が必要ということは知られているが関係があるのだと思われる。食事は鶏のササミが中心。飲み物も水だけに限られるそうで、「地獄ですね」と勘九郎は語っていた。昨年の錦秋特別公演時も撮影期間に入っており、地方公演はその土地土地の地方グルメが楽しみなのだが、勘九郎は体作りのためにその土地のものは何も食べることが出来ず、持ち込んだ鶏のササミをずっと食べていたそうである。撮影時のロケ弁も美味しいのだが、やはり食べることが出来なかったそうだ。金栗が引退してからは体を引き締めなくても良くなり、食事制限が解除されてから初めて食べたのはカレーだそうである。三日三晩カレーが続いても大丈夫なほど好きであり、まず家庭の味のカレーを求めたそうだ(奥さんの前田愛が作ったのかな?)。そしてあれほど苦労して体を絞ったのに、「一瞬で元の体に戻った」そうで、「皆さん、ダイエットなんてしないほうがいいですよ」と語っていた。現在上映中の映画「JOKER」に主演しているホアキン・フェニックスも役作りのため体を絞ったが、「戻る時は一瞬だった」と同じ事を語っていたと紹介もする。

七之助も「いだてん」に出演し、最初は当時の落語家役など一瞬登場するだけのカメオ出演だと思っていたのだが、落語家・三遊亭圓生という重要な役どころだったため、残っている圓生の映像は全て見て研究したそうだ。
また現在、BSプレミアムで放送中の「令和元年版 怪談牡丹灯籠」にも出演しており、この作品は京都の太秦で撮影が行われたそうである。実は七之助はこれまで映像の仕事はほとんど断っており、1年に2度映像作品に参加するというのはとても珍しいことだそうである。「いだてん」に出ることに決めたのは、兄が出るということと、脚本が映画「真夜中の弥次さん喜多さん」でお世話になった宮藤官九郎ということも大きかったようだ。
同じNHKのドラマでも撮影の仕方に違いがあり、「令和元年版 怪談牡丹灯籠」は1台か2台のカメラで撮影が行われるのだが、「いだてん」の現場にはカメラが5台ほどずらりと並んでいて、全て長回しでの撮影が平均で7回ほど繰り返されていたそうである。以前、「龍馬伝」の大友啓史監督が長回しで撮るという話を横浜で行われた「全国龍馬ファンの集い」でしていたが、今回もそれに近い手法が採られていたようである。
長回しは長回しで大変だが、「令和元年版 怪談牡丹灯籠」はすぐカットのかかる細切れで撮っているため、「じゃあ、次、泣いて下さい」といわれたらすぐに泣かなければいけないそうで、感情の上げ方が難しいそうである。しかもその前の長めのセリフを撮り終えてカットが掛かってから、短いセリフの導入部ですぐに泣かなければならないため、なかなか上手くいかなかったそうだ。

二十代の頃は勘九郎が女形、七之助が立役という時代もあり、七之助は先月、南座での「東海道四谷怪談」でお岩さんを演じていたが、本当にやりたかったのは民谷伊右衛門の方だそうで、子どもの頃から演じてみたい人物のナンバーワンが伊右衛門だったそうだ。七之助の解釈では「伊右衛門は実はいい人」だそうで、お岩さんと実はとても愛していて、お岩さんの顔が薬で変わっていなかったらお梅を捨ててお岩とよりを戻した可能性もあると思っているそうである。お岩さんに対する態度も好きな人に踏ん切りをつけるためのいじめだと捉えているそうだ。

その後、二人で今日の演目の紹介を行い、客席からの質問を受ける。七之助への「女形をやる時には、女性の仕草を研究したりはするんですか?」という質問には、「女を演じているのではなく女形という生き物を演じている」ということで、「内面は女であることを目指しているが、仕草などは女形の先輩が残してきた型を参考に取り入れている」ということで本物の女性の仕草を参考にすることはないそうだ。女形として魅力的に見える仕草は女性のそれとは当然異なっており「所詮男なので」女であることでなく女形であることを目指しているそうだ。「普通の女の人がこんな髪の掻き上げ方したら嫌でしょ?」と型を見せて笑いも取っていた。

静岡公演では、昼公演と夜公演の間に羽衣伝説のある三保の松原を見に行き、その日の夜の公演の芸談で司会を務めた静岡のテレビ局のアナウンサーが、「羽衣が残っているんです」という話をしたため、「松廼羽衣」では特別に羽衣を切るという演出を加えたそうなのだが、三重公演の芸談でそれを明かしたために三重公演でも同じ演出を行うことになったそうで、「今日もそうなんですか?」という質問がある。勘九郎は「わかってます? それは脅迫です。質問じゃなくて」と返す。ただ七之助が「でもやるんでしょ?」と言ったため、今回も「松廼羽衣」は特別演出で行われることになった。

 

「艶紅曙接拙 紅翫」。出演は、中村いてう、中村仲助、中村仲之助、中村仲侍、中村仲弥、中村仲四郎、澤村國久。
富士山の山開きの日に、虫売り、朝顔売り、団子売りなどが集うのだが、芸達者の紅翫(中村いてう)が現れて、歌舞伎の様々な演目の真似を披露して一同を楽しませるという趣向である。主人公のモデルは紅谷勘兵衛という実在の人物だそうで、浅草で芸を披露して人気を博していたそうである。

 

「三ツ面子守」は、9月の南座「東海道四谷怪談」ではお梅を演じていた中村鶴松が一人で舞う。子守がひょっとこやおかめ、えびすなど次々と面を変え、衣装も替えて踊り続けるユーモラスな作品である。鶴松の舞踊は、手の動きがピシッと決まり、愛らしさもある巧みなものであった。

 

「松廼羽衣」。勘九郎と七之助の共演である。勘九郎演じる漁夫の伯竜は凜々しいが、七之助の演じる天女が現れるとやや姿がかすんでしまう。女形と立役の違いもあるが、七之助の方が華はあるようだ。
ともあれ、二人とも稀代の名優であった中村勘三郎の息子であり、譲り受けた芸の巧みさには十分に光るものがあった。

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2019年10月19日 (土)

観劇感想精選(321) 南座新開場記念 藤山直美主演 「喜劇 道頓堀ものがたり」

2019年10月13日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四條南座で「喜劇 道頓堀ものがたり」を観る。三田純市の小説『道頓堀』を原作とする作品。脚本:宮永雄平、演出:浅香哲哉。主演:藤山直美。出演:喜多村緑郎、河合雪之丞、松村雄基、鈴木杏樹、石倉三郎、春本由香、辻本祐樹、三林京子、大津峯子、林与一ほか。セリフらしいセリフを貰えていない役ではあるが、吉本新喜劇の「横顔新幹線」こと伊賀健二や京都の小演劇界で活躍している岡嶋秀昭なども出演している。

道頓堀に大阪松竹座を持っている松竹であるが、今回は南座新開場記念として敢えて京都で上演される。藤山直美は藤山寛美の娘ということで大阪のイメージが強いが、実は京都女子高校出身であり、京都に縁のある人である。

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「喜劇 道頓堀ものがたり」は平成12年11月に大阪松竹座で初演された作品で、道頓堀五座と呼ばれた5つの劇場(中座、浪花座、朝日座、角座、弁天座)が建ち並び、日本屈指の演劇街であった時代の道頓堀を描いている。道頓堀五座のうち、現在も稼働している劇場は実は一つもない。最も権威のあった中座もすでに解体され、跡地には中座くいだおれビル(現在は、くいだおれ太郎はここにいる)が建ち、地下に演劇も上演できる2つのライブハウスを持っているが、昔ながらの芝居が上演されることはまずない。角座は戦災で焼失した後に映画館になったり演芸場として生まれ変わったりしていたが、今は場所も移転し、道頓堀の劇場ではなくなっている。

松竹の芝居ということで、創設者の一人である白井松次郎が登場。松村雄基を配して(実は初演時の白井松次郎を演じていたのも松村だという)やたらと男前に描かれている。

 

歌舞伎から喜劇に転じることになる尾野川菊之助(喜多村緑郎)を妻として支えることになるお徳(藤山直美)が主人公。お徳は父に先立たれたため奈良から大阪に出てきたのだが、道頓堀で芝居に目がくらんでしまって通い詰めているうちに金がなくなり、芝右衛門狸のようにアオタ(芝居のただ見)を行って劇場から叩き出される。その場にいた芝居茶屋・菊濱の女将である菊乃(三林京子)に「そんなに芝居が好きなら」ということで、お茶子として引き取られることになったお徳は、実は最も好きな役者である菊之助が生まれ育ったのがここ菊濱と知り、菊之助に出会うと卒倒するほどに喜ぶ。
その菊之助であるが、華があり人気もあって将来の尾野川一座の看板となる資質十分なのだが、先代の型に従わず、独自の演技をしてしまうため、周囲からの評判が悪い。そこで師匠である尾野川延十郎(林与一)によって弟分である女形の尾野川あやめ(女形の場合は弟分でいいのだろうか? 演じるのは河合雪之丞)と共に喜劇劇団に移籍させられることになる。当初は見捨てられたと感じ、一日も早く歌舞伎に復帰することを願う菊之助だったが……。

 

人情芝居であり、難しい部分も特にない。実話も絡めた庶民向けの話であり、大阪や道頓堀に通い慣れている人にはとても面白く感じられるだろう。喜多村緑郎、河合雪之丞、林与一といった歌舞伎畑出身の俳優による「恋飛脚大和往来」より“封印切の場”や「瞼の母」の稽古シーンなどが劇中劇として入っているのも芝居好きには一粒で二度美味しいといったところだ。

基本的に藤山直美のキャラで持たせている芝居であるが、他の役者も好演。尾上松助の娘で尾上松也の妹である春本由香は生まれつきなのか環境の方が大きいのかは分からないが華があり、演技のセンスも高い。実は関西出身である鈴木杏樹は慣れた感じの大阪弁による台詞回しが魅力的であった。

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