カテゴリー「京都劇評」の119件の記事

2020年11月14日 (土)

観劇感想精選(366) 加藤健一事務所 「木の皿」2006京都

2006年7月9日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後4時から京都府立府民ホールALTI(アルティ)で、加藤健一事務所の「木の皿」を観る。エドマンド・モリス作(小田島恒志:訳)、久世龍之介:演出。

「木の皿」は、2003年に日本初演(やはり加藤健一事務所による。京都公演も行われたが、私は見に行けなかった)された作品。頑固な老人とその家族を巡る葛藤劇である。

1953年、アメリカ・テキサス州の田舎町。かつてはテキサス開拓に大いに貢献したロン(加藤健一)も今では78歳の老人だ。次男のグレン(鈴木一功)と共に暮らすロンだが、体力が衰え、視力も落ちたのに「眼鏡なんかかけられるか」という頑固者であるため、家の花瓶やら皿やらをしょっちゅう割っている。普通の皿はすぐに割ってしまうため、食事は木の皿で摂らされている。煙草好きであるが、意識も低下し始めているため、たびたびボヤ騒ぎも起こしている。
そんなロンの介護に疲れたクララ(グレンの妻。大西多摩恵が演じる)はロンを老人ホームへ入れる計画を立てていた。しかし、老人ホームを見に行ったグレンはその施設の余りの酷さを見て猛反対。グレンとクララの子で、おじいちゃんっ子であるスーザン(加藤忍)も当然反対だ。
グレンとクララから連絡を受けて、ロンの長男であるフロイド(大島宇三郎)が20年ぶりにロンの家に帰ってくる。しかし、フロイドが自分を老人ホームに入れるための相談にやって来たと知ったロンは激怒してしまい……。

初演時はグレンを演じた加藤健一であるが、今回は老人であるロン役に挑戦。達者な演技を見せてくれる。

観ていて、「幸福な家庭はみな一様に幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」(『アンナ・カレーニナ』冒頭)というトルストイの言葉が浮かぶ。またロンの友人であるサム・イェーガーが、ロンに「一緒に牧場経営をして暮らそう」と持ちかける下りが、スタインベックの『二十日鼠と人間』を連想させたり、設定もシェイクスピアの『リア王』やバルザックの『ゴリオ爺さん』を思わせたりと、様々な名作の要素がここかしこに見え隠れするが、パクリなどという低レベルな次元に留まらない独立した立派な作品に仕上がっている。

登場人物は全部で10人だが、彼らの全員の中に私は私の姿を見出した。言い換えると、私も彼らの性格を少しずつではあるが持ち合わせているということになる。

老いた義父を老人ホームへ送ろうとするクララも決して悪人ではない。彼女もロンの介護を20年以上も見続けて、自分の人生を犠牲にしてきたのだ。20年もロンの前に姿を見せなかったフロイドも父親が嫌いなわけではないし、逆にロンを老人ホームに送ることに反対するグレンも必ずしも善人ではない。ロンのことが大好きなスーザンも善人というより世間知らずという要素の方が強い。善でも悪でもないが故の葛藤が生まれている。だが完全な悪人が存在しないため事態は一層深刻だ。ゴネリルやリーガン(いずれも『リア王』の娘)のような突き抜けた人物がいれば話はもっと単純なのだが。

作中に「罠のようだ」というセリフがあるが、まさに誰かが仕掛けた、あるいは誰も仕掛けなかったが故により複雑で残酷になってしまった罠に全員が落ちていく。完全な悪人がいないので却って救いがない。

登場人物の言動を批判するのは簡単だが、彼ら全員の中に私は私自身が持っている性格を見出せるし理解も出来るので、そうした批判は私自身の胸に鋭利な刃となって返ってくる。
残酷な芝居である。だが、誤解を恐れずに言えば、そうした残酷さは私自身の中にもあり、それが故の切実さと感動を覚える。

特にラストのスーザンのセリフは痛切だ(ネタバレになるので書けないのが残念である)。こういうセリフを本当の意味での「リアルなセリフ」というのだろう。

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2020年11月 7日 (土)

観劇感想精選(364) 「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」

2020年11月3日 烏丸迎賓館通りの金剛能楽堂にて観劇

午後2時から、京都御苑の西、京都府立府民ホールアルティのすぐ北にある金剛能楽堂で、「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」を観る。野村萬斎が主催する狂言公演「ござる乃座」の京都公演。今回で15回目となった。
ちなみに野村萬斎は、現在、Eテレの「100分間de名著『伊勢物語』」に朗読担当として出演しており、昨夜第1回が放送されている。

演目は、「清水座頭(きよみずざとう)」と「止動方角(しどうほうがく)」。共に京都を舞台とした作品である。

「清水座頭」の出演は、野村万作(座頭)と野村萬斎(瞽女)。
まず「この辺りに住まい致す瞽女」が登場する。3年ほど前から目が見えなくなり、生業を失い、夫もいないということで行く末を憂いて清水寺の観世音菩薩に参詣し、その夜は本堂に籠もることにする。
しばらくすると座頭がやって来る。座頭も清水寺の観世音菩薩に妻となるべき人に出会えないことを嘆き、妻ごいをする。
瞽女がいるとは知らず、本堂に籠もろうとした座頭は無遠慮に近づいたということで瞽女と喧嘩になるが、互いが本当に目が見えないと分かると謡を交わす。
やがて瞽女は、観世音菩薩から「西門のところで夫となる者と出会う」との託宣を授かり、座頭も「西門のところに妻となる女がいる」とのお告げを受ける……。

婚活の曲ともいわれ、ロマンティックな展開となるが、自ずから杖をついているのではなく、神仏によって杖で導かれているという浄土真宗的な解釈をするとロマンの度合いは更に増す。

謡であるが、恋路を扱った作品にしてはかなりナンセンスな言葉が選ばれており、源平合戦の一ノ谷の戦いで、で頤(おとがい。顎のこと)を切られた武者と踵(きびす)を切られた武者が、忙しいので慌てて切られた頤に切り落とされた踵を付け、傷を負った踵に切断された頤を付けると、踵から髭が生え、頤があかぎれになるという変なものである。よく分からないが、これは「割れ鍋に綴じ蓋」ということなのだろうか? 解釈せずに戯れ言として捉えた方が謡が生きるのかも知れないが。

瞽女の謡う「地主の桜」は、清水寺境内にある地主神社の桜のことであるが、この時代から地主神社が縁結びの神様として名高かったことが窺える。

 

「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村太一郎(主)、深田博治(伯父)、飯田豪(馬)。

主が、東山での茶会(内容は茶葉の生産地を当てたり、品質を見抜いたりする闘茶)に参加することになるのだが、見栄を張るため、茶器や太刀や馬を伯父に借りてこいと太郎冠者に無理を言う。野村萬斎演じる太郎冠者は、「え゛?」と現代風にボケたりして、狂言を客体化し、主の無理難題っぷりを誇張する。こうした一種のパースペクティブは効果的であり、これが伏線となってラストでは、セリフが変わっておらず、演技や表情にも作為的なものは見えないのにニュアンスが変化しているような印象を受ける。
太郎冠者が活躍する「太郎冠者物」の傑作であるが、野村萬斎演じる太郎冠者の人間くささが実に良い。主という絶対的権力に媚びずに挑みかかる存在であり、私は余り見ていないが「半沢直樹」に繋がるような一種の爽快さを生み出しているように思われる。

ちなみにタイトルの「止動方角」というのは、後ろで咳をすると暴れ出すという馬を止めるときの呪文である。

 

演目終了後に野村萬斎からの挨拶がある。羽織袴姿で登場した萬斎は観劇が「勇気と覚悟が必要」なものになってしまったことを語ったが、一席空け(萬斎は「市松」と表現)にするなど感染症対策を十分に行った上での上演であること、15回目ということで盛大にやりたかったが、演目も登場人物の少ないものを選んで、接触をなるべく減らしていることなどを語った。
「清水座頭」については、「座頭が卒寿、瞽女が五十代半ばということで年の行ったカップル」と表現して笑いを取る。
「止動方角」で見られるように、狂言は身分の高い人が酷い目に遭うことが多いのだが、能・狂言は、室町幕府、豊臣政権、江戸幕府、朝廷が公認し、後ろ盾となってきた芸能であり、「一種のガス抜き効果」があったと萬斎は解釈を述べる。
ちなみに、今回の上演は有料配信用の収録が行われ、特別解説付きで11月13日から期間限定で配信されるが、午前中に解説用の映像を撮るために清水寺に行ってきたそうで、西門から見る京都市街とその向こうの西山に落ちる夕日に極楽浄土が見立てられているという話をしたが、それも有料配信用の宣伝であり、続きは配信でということのようである。

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2020年10月28日 (水)

観劇感想精選(361) 五反田団 「ふたりいる景色」

2006年5月27日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

京都芸術センターへ。フリースペースで東京の劇団である「五反田団」が公演を行うのだ。

五反田団の「ふたりいる景色」は午後7時30分開演。作・演出:前田司郎。
セットも照明も最小限のものに留めたシンプルな舞台である。

いい年をして何をするでもなく部屋に閉じこもっている男(金替康博)と、その男を愛してしまい、同棲している女(後藤飛鳥。役名はヒトミだが、配役表には単に「女1」としか記されていない)。男は食事もろくに摂らず、胡麻ばかり食べている。悪い男ではないのだろう。むしろ人柄は良いかも知れない。しかし、社会能力が完全に欠如している。
胡麻だけを食べて、「即身仏になる」などと男は言い、女はそんな男に呆れながらも離れることが出来ない……。

駄目な男(かつては今ほど駄目男ではなかったのだろうが)を愛してしまった女のこんがらがってしまった感情や切ない思いが惻々とこちらの胸に迫る。「何故?」、「どうして?」と内面で自問しながらも男のことが好きで好きで離れられない女。しかし、男は無邪気というのか、想像力に欠けるというべきか、視線も興味も自分自身にだけ向いている。自己本位で完結していればまだ良いのだが、男は本当の孤独は苦手のようだ。男は誰かを求めているのだが、それは心からヒトミを求めているということではないようだ。愛さえも曖昧な「意識」。

実は男の元彼女である、ヒトミの親友(女2)や、胡麻の精である妙な女(女3)なども登場し、話が暗くなりすぎたり、一本調子になったりするのを避け、観客が男に対して持つ可能性のあるイライラ感も絶妙に逸らしている。

ラストで旅行に出かける二人。問題は解決せず、二人は袋小路のような所に追いつめられているのだが(はっきりと示されてはいないが)、暗さを感じさせないのもまた良し。

正真正銘の駄目男に見事に成りきってみせた金替康博の演技は説得力もあり、流石と思わせる。

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2020年10月17日 (土)

観劇感想精選(359) 「ゲルニカ」

2020年10月10日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で「ゲルニカ」を観る。作:長田育恵(おさだ・いくえ。てがみ座)、演出:栗山民也。栗山民也がパブロ・ピカソの代表作である「ゲルニカ」を直接観た衝撃から、長田に台本執筆を依頼して完成させた作品である。出演:上白石萌歌、中山優馬、勝地涼、早霧せいな(さぎり・せいな)、玉置玲央(たまおき・れお)、松島庄汰、林田一高、後藤剛範(ごとう・たけのり)、谷川昭一郎(たにがわ・しょういちろう)、石村みか、谷田歩、キムラ緑子。音楽:国広和毅。

上白石姉妹の妹さんである上白石萌歌、関西ジャニーズ所属で関西テレビのエンタメ紹介番組「ピーチケパーチケ」レギュラーの中山優馬、本業以外でも話題の勝地涼、京都で学生時代を過ごし、キャリアをスタートさせた実力派女優のキムラ緑子など、魅力的なキャスティングである。

ピカソが代表作となる「ゲルニカ」を描くきっかけとなったバスク地方の都市・ゲルニカでの無差別爆撃に到るまでを描いた歴史劇である。当然ながらスペインが舞台になっているが、コロナ禍で明らかとなった日本の実情も盛り込まれており、単なる異国を描いた作品に終わらせてはいない。

京都劇場のコロナ対策は、ザ・シンフォニーホールでも見た柱形の装置による検温と京都府独自の追跡サービスへのQRコード読み取りによる登録、手指の消毒などである。フェイスシールドを付けたスタッフも多い。前日にメールが届き、半券の裏側に氏名と電話番号を予め書いておくことが求められたが、メールが届かなかったり、チェックをしなかった人のために記入用の机とシルペン(使い捨て用鉛筆)が用意されていた。客席は左右1席空け。京都劇場の2階席は視界を確保するために前の席の斜交いにしているため、前後が1席分完全に空いているわけではないが、距離的には十分だと思われる。

紗幕が上がると、出演者全員が舞台後方のスクリーンの前に横一列に並んでいる。やがてスペイン的な手拍子が始まり、今日が月曜日であり、晴れであること、月曜日にはゲルニカの街には市が立つことがなどが歌われる。詩的な語りや文章の存在もこの劇の特徴となっている。

1936年、スペイン・バスク地方の小都市、ゲルニカ。フランスとスペインに跨がる形で広がっているバスク地方は極めて謎の多い地域として知られている。スペインとフランスの国境を挟んでいるが、バスク人はスペイン人にもフランス人にも似ていない。バスク語を話し、独自の文化を持つ。

バスク地方の領主の娘であるサラ(上白石萌歌)は、テオ(松島庄汰)と結婚することになっていた。サラの父親はすでになく、男の子の残さなかったため、正統的な後継者がこれでようやく決まると思われていた。しかし、フランコ将軍が反乱の狼煙を上げたことで、スペイン全土が揺るぎ、婚礼は中止となる。教会はフランコ率いる反乱軍を支持し、テオも反乱軍の兵士として戦地に赴く。当時のスペイン共和国(第二共和国。スペインは現在は王政が復活している)では、スペイン共産党、スペイン社会労働党等の左派からなる親ソ連の人民戦線が政権を握っており、共産化に反対する人々は反乱軍を支持していた。フランコはその後、世界史上悪名高い軍事独裁政権を築くのであるが、この時には人々はまだそんな未来は知るべくもない。
反共の反乱軍をナチス・ドイツ、ファシスト党政権下のイタリア、軍事政権下のポルトガルが支持。日露戦争に勝利した日本も反乱軍に武器などを送っている。一方、左派の知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルロー、イギリスのジョージ・オーウェルらが共和国側支持の一兵卒として参加していたこともよく知られている。
バスクは思想によって分断され、ゲルニカのあるビスカヤ県は多くが人民戦線を支持する共和国側に立ち、1936年10月、共和国側は、バスクの自治を認める。だが翌1937年4月26日、晴れの月曜日、反乱軍はゲルニカに対して無差別爆撃を行った。市民を巻き込んだ無差別爆撃は、これが史上初となった。当時、パリにいたピカソは怒りに震え、大作「ゲルニカ」の制作を開始する。

 

サラの母親であるマリア(キムラ緑子)は、サラがテオと結婚することで自身の家が往年の輝きを取り戻せると考えていた。バスクは男女同権の気風が強いようだが、家主が女では見くびられたようである。しかし、内戦勃発により婚礼を済まさぬままテオは戦場へと向かい、マリアの期待は裏切られる。その後、サラはマリアから自身が実はマリアの子ではないということを知らされる。今は亡き父親が、ジプシーとの間に生んだ子がサラだったのだ。サラはマリアの下から離れ、かつて料理番として父親に仕えていたイシドロ(谷川昭一郎)の食堂に泊まり込みで働くことを決める。


一方、大学で数学を専攻するイグナシオ(中山優馬)は、大学を辞め、共和国側に参加する意志を固めていた。イグナシオはユダヤ人の血を引いており、そのことで悩んでいた。田園地帯を歩いていたイグナシオはテオとばったり出会い、決闘を行う格好になる。結果としてテオを射殺することになったイグナシオは、テオの遺品である日記に書かれたサラという名の女性を探すことになる。

イシドロの食堂では、ハビエル(玉置玲央)やアントニオ(後藤剛範)らバスク民族党の若者がバスクの誇るについて語るのだが、樫の木の聖地であるゲルニカにバスク人以外が来るべきではないという考えを持っていたり、難民を襲撃するなど排他的な態度を露わにしていた。

一方、従軍記者であるクリフ(イギリス出身。演じるのは勝地涼)とレイチェル(パリから来たと自己紹介している。フランス人なのかどうかは定かでない。演じるのは早霧せいな)はスペイン内戦の取材を各地で行っている。最初は別々に活動していたのだが、フランスのビリアトゥの街で出会い、その後は行動を共にするようになる。レイチェルはこの年に行われた「ヒトラーのオリンピック」ことベルリン・オリンピックを取材しており、嫌悪感を抱いたことを口にする。
レイチェルが事実に即した報道を信条としているのに対し、クリフはいかに人々の耳目を引く記事を書けるかに懸けており、レイチェルの文章を「つまらない」などと評する。二人の書いた記事は、舞台後方のスクリーンに映し出される。

イグナシオからテオの遺品を受け取ったサラは、互いに正統なスペイン人の血を引いていないということを知り、恋に落ちる。だがそれもつかの間、イグナシオには裏の顔があり、入隊した彼はある密命を帯びてマリアの下を訪ねる。それはゲルニカの街の命運を左右する任務であった。マリアは判断を下す。

 

ゲルニカの悲劇に到るまでを描いた歴史劇であるが、世界中が分断という「形の見えない内戦」状態にあることを示唆する内容となっており、見応えのある仕上がりとなっている。

新型コロナウイルスという人類共通の敵の出現により、あるいは歩み寄れる可能性もあった人類であるが、結局は責任のなすりつけ合いや、根拠のない差別や思い込み、エゴイズムとヒロイズムの暗躍、反知性主義の蔓延などにより、今置かれている人類の立場の危うさがより顕著になっただけであった。劇中でクリフが「希望」の残酷さを語るが、それは今まさに多くの人々が感じていることでもある。

クリフはマスコミの代表者でもあるのだが、センセーショナルと承認を求める現代のSNS社会の危うさを体現している存在でもある。
報道や情報もだが、信条や矜持など全てが行き過ぎてしまった社会の先にある危うさが「ゲルニカ」では描かれている。

ゲルニカ爆撃のシーンは、上から紗幕が降りてきて、それに俳優達が絡みつき、押しつぶされる格好となり、ピカソのゲルニカの映像が投影されることで描かれる。映像が終わったところで紗幕が落ち、空白が訪れる。その空白の残酷さを我々は真剣に見つめるべきであるように思われる。

劇はクリフが書き記したゲルニカの惨状によって閉じられる。伝えることの誇りが仄見える場面でもある。

 

姉の上白石萌音と共に、今後が最も期待される女優の一人である上白石萌歌。薩摩美人的な姉とは違い、西洋人のような顔と雰囲気を持つが、姉同様、筋の良さを感じさせる演技力の持ち主である。

 

関西では高い知名度を誇る中山優馬も、イグナシオの知的で誠実な一面や揺れる心情を上手く演じていた。

 

万能女優であるキムラ緑子にこの役はちょっと物足りない気もするが、京都で学生時代を過ごした彼女が、京都の劇場でこの芝居を演じる意味は大いにある。ある意味バスク的ともいえる京都の街でこの劇が、京都に縁のある俳優によって演じられる意味は決して軽くないであろう。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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2020年9月30日 (水)

配信公演 「京都能楽チャリティ公演~祈りよとどけ京都より~」2020.9.25

2020年9月25日

午後7時から、YouTubeライブで「京都能楽チャリティ公演~祈りよとどけ京都より~」を観る。東日本大震災の被災地のためのチャリティ公演であり、ロームシアター京都完成後は、毎年サウスホールで公演が行われていたのだが、今年は新型コロナの影響で中止となり、代わりに配信が行われることになった。
なお、今回は新型コロナウイルスの流行中であるということで、チャリティ募金は行われない。東日本大震災での被災地は、主に東北地方の太平洋側であったが、今現在は全世界が新型コロナの被災地といって過言ではない状態になってしまっている。

「能楽チャリティ公演」は、例年は昼夜別演目1回ずつの2回公演であったが、今回は流石に2回は難しいということで、能2番、狂言1番の1公演分の演目が先月20日にロームシアター京都サウスホールで収録され、観世流シテ方の片山九郎右衛門がライブ出演して、特別に演目の解説を行うというスタイルとなった。歌舞伎などではイヤホンガイドがあるが、能や狂言にはそうしたものはないので、貴重な機会である。

まず、祝言謡「四海波」が能楽師有志によって謡われ、能「羽衣」(出演:浦田保浩ほか)、狂言「口真似」(出演:茂山千五郎ほか)、能「大会(だいえ)」(出演:片山九郎右衛門ほか)が上演される。


「四海波」は、能楽師が最もよくうたう謡だそうである。


能「羽衣」。世阿弥の作と伝わるが、確たる証拠はないという演目である。舞台となっているのは駿河国の三保の松原。舞台設定や登場人物、あらすじは歌舞伎舞踊になっているものとほぼ同じである。
能舞台の場合は鏡板があるわけだが、今回は能楽堂ではなく劇場での公演ということで、背景は富士山の山稜や雲を表しているかのような抽象的な線が照明で描かれている。
天女の昇天(でいいのかな?)は、富士山の煙と二重写しになるように描かれており、また天女は月世界からやって来たということで、「竹取物語」も意識されているようである。

英語の字幕スーパー入りでの上演。ちなみに羽衣は英語で“Robe(ローブ)”となっており、確かにそうかも知れないが大分イメージが異なる。英語圏の人に「羽衣とは何か」を説明しても、多分、すぐにはわからないので、ローブが適当なのだろう。
歌舞伎ではそうではないが、能では天女は面を付けているため、明らかに異界の人である。
また、天女の舞も迫力重視である。
ラストでは富士山が須弥山に例えられ、月の光は浄土の無量寿光に重なって、この世の安寧が祈念される。


狂言「口真似」。主(茂山茂)が酒を飲もうとするのだが、一人で飲んでも面白くない。そこで太郎冠者(茂山千五郎)を呼び、「面白い奴を客人として呼んでこい」と無茶を言う。太郎冠者は酔狂人(飲んべえ)の逸平(茂山逸平)を呼ぶことにする。主は、酔狂人が来ると聞いて不満に思うも無下にするわけにもいかず、太郎冠者に自分の言う通りにして逸平に接するよう命じるのだが、太郎冠者は主の言ったことを一言一句そのまま逸平に伝えてしまい……。

どこかで見た覚えがあったのだが、1996年の大河ドラマ「秀吉」の第48回の劇中で、豊臣秀吉(竹中直人)が徳川家康(西村雅彦。現・西村まさ彦)と共に演じ始めたのがこの演目であったことを思い出す。一度、確認してみたいのだが、残念ながら今すぐに確認出来る手段はないようだ。調べてみたところ、能狂言好きとしても知られた豊臣秀吉は、「口真似」の元となる狂言を徳川家康と前田利家と共に3人で舞ったことがあるそうである。


能「大会(だいえ)」。大会というのは、釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)で行った説法を指す言葉のようである。
前段が、絵本で紹介される。片山九郎右衛門の制作で「大会」を絵本化した『天狗の恩返し』からの引用である。

天狗(片山九郎右衛門)が鳶に化けて東北院(とうぼくいん)近くの都大路で遊んでいたところ、武士の投げた石で落とされ、子ども達に捕まって、殺されそうになった。たまたま通りかかった僧侶が鳶の命を助けたのだが、鳶の正体である天狗は僧侶にお礼がしたくなって寺院(原作では比叡山延暦寺とされているが、今回の上演では具体的な寺院名は出てこなかった)を山伏に化けて訪れる。山伏に化けた天狗は、僧侶に「望みがあれば仰って下さい」という。大会の様が見たいと僧侶が言うと、天狗は法力(でいいのかな?)を使って大会の様子を再現してみせる。ただ、これは明らかに釈迦と邪魔の話に重なるため、激怒した帝釈天が姿を現し……。

天狗が強者・帝釈天に追われるという話なのだが、今回の上演では天狗が帝釈天に立ち向かい、一騎打ちとなる。YouTubeLiveということで、チャットにコメントが書き込めるのだが、一騎打ちの場面では、「かっこいい」「凄い」という言葉が並ぶ。
帝釈天と天狗が去った後、舞台上に鳶の羽が一つ舞い落ち、僧侶がそれを拾い上げるという、映像でしか出来ない詩的な演出が施されており、これも好評であった。


私もチャットに参加していたが、こうした上演に立ち会うと、「日本人に生まれて良かった」としみじみ思う。こうした考えも決して大袈裟ではないはずだ。

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2020年7月31日 (金)

観劇感想精選(346) 劇団M.O.P. 「水平線ホテル」

2005年7月9日 京都府立文化芸術会館にて観劇

雨の中を京都府立文化芸術会館(通称:京都文芸)に向かう。京都文芸は宇野重吉をして、「日本一の劇場」と言わしめた過去を持つが……、時の流れは速いものですね。

今日はここで劇団M.O.P.の「水平線ホテル」を観る。作・演出:マキノノゾミ。出演:キムラ緑子、三上市朗、小市慢太郎、林英世ほか。

M.O.P.はもともとは同志社大学の学生劇団からスタートし、京都で活躍していた劇団だが、現在は本拠地を東京に移している(2010年解散)。

「水平線ホテル」は地中海に浮かぶ、イタリアのある離島のホテルが舞台。「グランドホテル形式(特定の場所に集まった他人同士の人間模様を描く作品スタイル。映画「グランドホテル」に由来)」という言葉があるが、その言葉の通り、ホテルのロビーはよく演劇の舞台として選ばれる。今回もそうだ。

登場人物は全員イタリア人(アメリカ国籍のイタリア人は一人いるが)という設定なので、演技スタイルも新劇スタイルに近く、普段小劇場を見慣れた人は「変わった演技をするな」と思うはずだ。西洋人の動きを真似た演技なのである。

演技スタイルに関しては好みが分かれるだろうが、マキノの脚本はとにかく巧い。日本人が書いたとは思えないほどで、このままイタリア人の俳優を使って映画にしてもおかしくないほどの出来だ。

設定、展開、どんでん返しの妙、そして少し暗めのラスト、など全てに感心してしまう。

愛の強さについて、そして「正しい」とはどういうことなのかについて、考えさせられた。エンターテインメントとしても一級品である。

「水平線ホテル」の脚本を買って帰る。

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2020年2月22日 (土)

観劇感想精選(342) 「市川海老蔵特別公演」2020京都四條南座

2020年2月16日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四條南座で「市川海老蔵特別公演」を観る。市川海老蔵は今年の5月に十三代目市川團十郎白猿(はくえん)を襲名する予定であるため、市川海老蔵の名で行う最後の全国公演となる。

演目は、まず歌舞伎舞踊「羽衣」があり、出演者達による「ご挨拶」を経て、歌舞伎十八番の内「勧進帳」が演じられる。「勧進帳」は成田屋の芸であるが、この作品も「羽衣」も歌舞伎の演目の超王道であり、取り上げられる回数も多いということで比較されやすい。この二つの演目で公演ということは海老蔵もかなり自信があるのだろう。

 

「羽衣」。天女役は中村児太郎(成駒屋)、漁師伯竜は大谷廣松(高嶋屋)。
昨年の秋に中村屋の兄弟(勘九郎と七之助)で観たばかりの作品である。児太郎は七之助と比べても女形の王道を行く身のこなしであり、可憐である。声も裏声でなく、地声で女声に近いものが出せる。近年は女声に近い声が出せる歌舞伎俳優が増えているが、メソッドのようなものが広がっているのかも知れない。
漁師伯竜役の大谷廣松も凜々しく、絵になる二人である。
「羽衣」の謡には、僧正遍昭の和歌である「天津風雲の通い路吹き閉じよ乙女の姿しばしとどめん」がそのまま入っているのだが、以前、ニコニコ生放送の「新生紀ドラゴゲリオンZ」でこの歌の内容を現代語訳せよという問題が出され(R藤本も稲垣早希も和歌には疎い)、内容を知ったR藤本が、「エロ坊主じゃねえか!」と言っていたのを思い出す。一応、フォローしていくと、この和歌は僧正遍昭が出家する前に詠まれたものである。

 

幕が下りてから市川海老蔵が花道を通って登場。三階席の若い女の子達が黄色い声を上げる。海老蔵は今もアイドル的人気を保っているようである。

「皆様のご尊顔を拝することが出来まして誠に光栄に存じます」と切り出した海老蔵。「この定式幕という幕を上げますと、私以外の出演者が勢揃いしております」と紹介した後で自身のことを語り始める。海老蔵が新しくなった南座の舞台に立つのは今回が初めてであること、南座は改修工事のために閉じられていた時期が長かったので、南座の舞台に立つのは4年4ヶ月ぶりであることなどを述べる。更に「挨拶が早く終わりましたら、皆様からの質問コーナーを設けたいと思っておりますので、先着三名様、質問されたいという方は、今から考えておいてください」

「ご挨拶」に参加するのは海老蔵の他に、上手から市川齋入(高嶋屋)、市川右團次(高嶋屋)、市川九團次(高嶋屋)、片岡市蔵(松島屋)。後方に成田屋の定紋である三升が金色に輝いている。

市川齋入は、「普段は女形をやっておりますが、今日はこの後、常陸坊海尊をやります」と自己紹介する。

市川右團次は、「昭和47年に子役として初めて舞台に立ったのが、ここ南座でした。早いものであれから48年が経ってしまいました」と南座の思い出を語る。

市川九團次は、「私も新しくなってからの南座は初めてなのですが、5年ほど前に不祥事がありまして(坂東薪車時代に師匠に無断で現代劇に出演したことで破門になった事件)、そこを海老蔵さんに拾っていただきました」と海老蔵への感謝を述べた。

片岡市蔵は、「初めて南座の舞台に立ったのは小学校3年生時だったのですが、それから50年以上が過ぎてしまいました」と時の流れの速さを口にする。

質問コーナーに移るのだが、「バレンタインデーにいくつチョコを貰いましたか?」という歌舞伎以外の質問が多かったため、三人だけではなく歌舞伎の質問がある程度の数に達するまで続けていた。
歌舞伎に直接関係する質問ではないが、楽屋での過ごし方について海老蔵は、「私は余り休みの時間がないのですが、20分か10分間が開いたときにはブログを更新します」とブログを売りとする歌舞伎役者らしい答えを返して客席の笑いを誘っていた。

「友人が歌舞伎を観るのが初めてなので、『勧進帳』の内容を説明して欲しい」との要請には、「ザックリとで良いですか? ザックリとで行きますよ」と言いつつ、源頼朝と義経の不和の原因から、安宅関の場所(松井秀喜の出身地として知られる石川県根上町にある)、そもそも勧進帳とは何か(「東大寺に仏壇ありますよね? 仏壇。あ、違った仏壇じゃなくて大仏」)、仏教用語についてなど一から十まで全て説明する。まるで勧進帳を読み上げる弁慶のようで、おそらく意図もしているのであろう。そもそも海老蔵がやる仕事ではないと思うが、質問された方の友人は感激したはずである。

今年は東京オリンピックとパラリンピックがあるため、歌舞伎俳優が海外に出ると「ディスられる」ということで国内での活動に留まるが、再来年はヨーロッパツアーの計画もあるそうである。

 

「勧進帳」。これまで高麗屋の二人(九代目松本幸四郎と十代目松本幸四郎)で観たことのある演目であるが、市川團十郎家を本家とする演目であるため、印象はかなり異なる。
出演は、市川海老蔵(武蔵坊弁慶)、中村児太郎(源義経)、片岡市蔵(亀井六郎)、市川九團次(片岡八郎)、大谷廣松(駿河太郎)、市川新蔵(番卒軍内)、市川新重郎(番卒兵内)、市川右左次(番卒権内)、市川福之助(太刀持音若)、市川齋入(常陸坊海尊)、市川右團次(富樫左衛門)。

スキャンダルも多く、「ワル」のイメージがある海老蔵であるが、そのためユーモアが生きてくる。落差である。「堅物」のイメージがある人がユーモアを行うのもギャップがあって面白いと思われるが、例えば当代の幸四郎などは、「堅物」というより歌舞伎に関してはとにかく「真面目」というイメージがあるため、海老蔵ほどの落差は生みにくく、小さく纏まっているように見えてしまう。醜聞がプラスに働いたりするのが芸の難しいところである。
海老蔵が持つイメージが弁慶に重なり、ダイナミックな演技が繰り広げられる。海老蔵は大きく見えるし、セリフも弱いところがあったりはするが、早口でまくし立てたり、重々しくしたりと幅が広い。何よりも見得が決まっている。團十郎に相応しくないという声も聞こえてきたりするが、天分に恵まれているのは確かである。故小林麻央との間に生まれた勸玄君(八代目市川新之助を襲名する予定である)も出来が良さそうだし、十三代目市川團十郎白猿の時代が長く続きそうな予感が得られた舞台であった。

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2020年2月 3日 (月)

観劇感想精選(340) 下鴨車窓 「散乱マリン」

2020年1月23日 京都芸術センター講堂にて観劇

午後7時30分から、京都芸術センター講堂で、下鴨車窓の「散乱マリン」を観る。作・演出:田辺剛。5年前に「Scattered(deeply)」というタイトルで初演された作品の再演。無料パンフレットに載っている田辺さんのコメントに「“scattered”とは『散らかった』という意味で作品の核になるコンセプトではあるのですが、この英語が読みにくいしそんな単語ふつう知らないということもあり、このたびタイトルを変えました」とある。個人的には、“scattered”は馴染みのある英単語である。バーブラ・ストライサンドのヒット曲で映画の主題歌でもある「追憶(The Way We Were)」の歌詞に“Scattred Pictures”という実際の光景と心象風景の二つを現す印象的な言葉が登場するためである。私の場合は、この劇から“scattered”よりも“split”という単語を思い浮かべた。

出演は、北川啓太、福井菜月(ウミ下着)、澤村喜一郎(ニットキャップシアター)、岡田菜見(fullsize)、西村貴治、西マサト(B級演劇王国ボンク☆ランド/努力クラブ)、坂井初音、F・ジャパン(劇団衛星)。

東日本大震災の影響を受けて書かれた作品であるが、それ以外の見方をした方がわかりやすくもある。

佐藤マキ(福井菜月)の自転車が盗まれる。有料のロックがかかる自転車置き場に駐輪しておいたのに盗まれてしまったそうだ。盗難届を出し、自転車が見つかったので職員の真下シンジ(北川啓太)と一緒に取りに行くという場面から劇は始まる。劇が始まるまでスピーカーからは風の吹き荒れる音がずっと流れている。
自転車が保管されていたのは、なぜか周りに何もない平地のど真ん中。そこにバラバラになった自転車が積み上げられている。ということでマキも真下も呆然としている。真下は「台風のせい」ではないかというのだが、勿論、そんなはずはない。明らかに人為的に組み立てられたもので、まるでオブジェ。なのだが、実際にオブジェであることが次のシーンでわかる。ビエンナーレ出展のために、伊佐原リョウタ(西村貴治)が主任となって田広ツトム(澤村喜一郎)や野村ミカ(岡田菜見)らが作成した“scatterd”という現代芸術作品なのだ。無論、勝手によそから自転車を持ってきて制作したものではない。リアルのレベルで行くと、行き違いがあったということになる。だが、真下やマキには、伊佐原、田広、ミカの姿は野犬に見え、逆に伊佐原らの美術チームからは真下やマキはカラスに見えるという不可思議な世界へと突入する。比喩ではなく、実態が動物というわけでもなく、本当に見えているようだ。ただ、一方で、人間であるという認識もちゃんとあることが後に分かってくる。

東日本大震災後に起こった分断を描いた作品である。残念ながらというべきなのかどうかはわからないが、私は福島を訪れることが出来ないでいるが、福島をはじめとする東北地方に通っている浄慶寺の住職である中島浩彰氏によると、福島の住民同士の間でも意見の相違が目立って来ているそうで、福島を諦めて出て行ってしまう人と、福島に残る人でまず分断があり、残った人の間でも健康へのこだわりや生活の指向などで意見が食い違い、ちょっとした争いが絶えないとのことである。福島を出た人も福島にこだわりを持ち続けている人と忘れようとする人に分かれる。原発に関する意識にも違いが出ている。
国際社会に目を転じれば、残念ながら日本はかつての信頼を取り戻せなくなっているという悲しい現実がある。経済で存在感をなくし、原発の責任もうやむやということで、東京オリンピックや大阪万博を控えているが、アカルイミライは一向に見えてこない。
復興のシンボルともなるはずだった新国立競技場建設のゴタゴタと予想外の建築費、東京五輪開催への不透明ないきさつと予想の数倍にものぼる巨大な出費などによって、被災地への人と金が回らなくなるということも起こっており、東京オリンピック開催そのものへの不信も拭えてはいない。おまけになぜかアメリカのメディアのために真夏の開催となるなど、誰のための大会なのかわからなくなってしまっている。

 

マキの自転車は、実は祖母の形見のようなものであり、それはマキの恋人(なのか親しい友人なのか。少なくとも同居はしているようであるが)の瀬田ユウヤの口から明かされる。だが、瀬田はそうして真下を責めておきながら、「弁償しろ」と言う。マキにしてみれば「それは違う」と思うだろう。祖母との思い出を取り戻したいのであって、それは弁償という形は取れない。金や新しい自転車が欲しいわけではないのだ。結局のところ、やはりわかり合えてはいないようである。マキは、瀬田がAVを見ていたことを咎め出す。「アナと雪の女王」のDVDを観ようと思ったら、映ったのは変態系のAVであったことで怒ったようである。男なので仕方がないのかも知れないが、彼氏がいる場合は「私がありながら」ということで怒る女性の気持ちもわかる。ということで価値観の違いが顕著である。

美術チームは美術チームで、田広はミカに気があるのだが、ミカは田広を男とは思ってはおらず、そんな二人に伊佐原は不満げで、亀裂が生じている。

 

“scatterd”は、マキにしてみれば祖母との大事な思い出がズタズタにされてしまったものだが、伊佐原らの美術チームにしてみれば原型をなくしたもので造り上げた大切な芸術作品であり、同じものではあるが価値観が完全に異なり、分裂している。マキが自転車を取り戻そうとする行為は美術チームから見れば作品を散らかして蔑ろにする行いである。同じ人間でありながら、互いが別の生き物に見えてしまうほど、価値観の違いが顕著である。そしてそれぞれの言い分が共に納得のいくものであるため、却ってややこしくなる。

 

福島の問題と考えると、実感が沸きにくい人もいるかも知れないが、2010年代に入って顕著になった分断は、例えば日本に近隣においても起きている。日本が独自の領土であると主張する場所、主に3カ所あるが、それに対するやり取りは分断以外の何ものでもない。歴史的正しさを主張しても答えは出ないし、実効支配をどう転換するかが課題なのだが、ネットでは「人間ではない」という意味の、ここではとても書けないような言葉を使うなどして憎み合うだけで進展する気配がない。進みそうになっても超大国同士の方向転換があったり、2人の大統領が勝手に上陸して領土宣言をしたり、国内に「戦争」という言葉を口にする政治家が現れて泥沼化するなど、にっちもさっちも行かないような状況である。
また日本国内にも他国の領土があり、「移転しろ」だの「されると困る」だのと意見が割れて新たないがみ合いが生まれてしまっている。
中国と香港に目を転じても、状況は悪いとしか言い様がないが、民主主義の恩恵を受けている日本人が一方的に香港を応援する声を聞くと、中共が嫌いな私でも酷く違和感を覚える。実は情報に偏りがあるのも把握はしており、どちらも正義を名乗ることは出来ないのが実相のようである。

伊佐原が参加しているビエンナーレの担当キュレーターは、小田ケイコという若い女性(坂井初音。タレントの稲村亜美に雰囲気が似ている)なのだが、直前になって代理として受け持つことが決まるも、企画書はきちんと読んでいない、主任である伊佐原の名前を間違える、作品のタイトルも十分に把握していないなど、かなり問題のある人であることがわかる。iPodで音楽を聴きながら脳天気な感じで歩いており、責任感も当事者意識も完全に欠けているように見える。こういう人は選挙には……、まあ、いいや。

野犬対策として、真下が狩人の佐竹シンヤ(F・ジャパン)を連れてくる。「パワー」を象徴するような存在であり、佐竹は瀬田や真下におもちゃのナイフを渡して、野犬を威嚇するように勧める。ただし、「威嚇」である。「威嚇」を超えてしまった場合は……。

 

このところ、似たような傾向を持つ演劇作品を目にすることが多くなった。それだけ状況が切迫していることを実感している演劇人が多いということでもある。

ただ、「私達は理解するという姿勢を本当に取っているだろうか?」。ちゃんと読めているだろうか、ちゃんと聞けているだろうか。「わかっている」と肩を聳やかした瞬間に理解に至る道を遮断してしまっているというのに、なぜ「わかっている」という前提を取ってしまうのか。

私は三振したのにバッターボックスに立ち続けているような愚か者ではありたくないと思う。

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2020年1月 6日 (月)

観劇感想精選(335) inseparable 「変半身(かわりみ)」

2019年12月19日 左京区岡崎のロームシアター京都ノースホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都ノースホールで、inseparable「変半身(かわりみ)」を観る。原案:村田沙耶香&松井周、作・演出:松井周。出演:金子岳憲、三村和敬、大鶴美仁香、日高啓介、能島瑞穂、王宏元、安蘭けい。

村田沙耶香と松井周が共に取材した題材を演劇と小説という形で別々に発表するという試みの演劇版である。村田沙耶香の小説版はホワイエで売られている。

近未来が舞台である。東洋のガラパゴスと呼ばれる離島、千久世島(ちくせしま)ではレアゲノムという化石由来のDNAがヒトや動物の遺伝子組み換えに必要なものとして注目を浴びている。その千久世島では、「山のもん」と「海のもん」が抗争を繰り広げている。レアゲノムは山で取れるため莫大な利権を生み、「山のもん」は働く必要もなくなったが、多数派である「海のもん」はその恩恵に預かることは出来ず、漁業も海流の変化で不振である。ということもあってレアゲノムを勝手に持ち出そうとする事件が相次ぎ、自警団が組織された。その自警団の事務所が舞台である。

近未来においては、自由に性行為を行うことや子どもを作ることは許されておらず、生殖免許なるものが必要なようである。自動車と同じでマニュアルとオートマチックがあるようだが、詳しいことはわからない。

自警団に所属しているのは、高城秀明(金子岳憲)と尾形祐美(大鶴美仁音)の夫婦(未来は夫婦別姓なのだろうか)と、本州から来た子持ちバツイチの比留間ルイ(能島瑞穂)、外国出身の田部草太(王宏元)。ただヒトゲノム自体は東京の組織によって管理されており、東京から来た丸和玲香(安蘭けい)が、密輸業者を取り逃した自警団に説教しているところから芝居は始まる。近未来では行動が逐一ポイントによって評価される制度になっているようである。「ドラえもん」にもそんな話が出てきたような気がするが。
秀明は「山のもん」であるが、祐美は「海のもん出身」であり、二人の結婚は隔たれていたものの結びつきの象徴として祝福されている。祐美の父親で、ホテル経営などをしている「海のもん」の代表者、尾形圭一(日高啓介)も自警団の事務所にやって来る。

比留間ルイは、本州出身を名乗っているが、実は外国出身であり、田部草太と二人でいる時には北京語で話す。草太から、「为什么你说日语?(どうして日本語で話す?)」と聞かれたルイは、「あなたと一緒にされたくない」と日本語で答える。
ちなみに草太の父親は本国でデザイナーをしていたが、作品に赤い布を用いたことで共産主義者と見做され粛正されている。北京語を話してはいるが、共産党が支配する中国の出身ではないのか、あるいは中国の政治体制が今とは異なっているのか。

本筋とは異なり、神様(金子岳憲)による「クニウミ」の話が入る。千久世島には独自の国生み神話がある。ポーポーとボウボウという神様が国を生む。ボウボウは始めは一つの点に過ぎなかったのだが、ポーポーの腕を食べて、人間の形らしくなる。生殖器は二つあり、両性具有の神である。ポーポーとボウボウは仲良しの神だったのだが、ある日、ボウボウがポーポーの腕や足を食べてしまい、腹を壊す。だが、ボウボウには口はあっても出す機関は持っていない。ボウボウの腹痛は酷く、ポーポーはボウボウの生殖器の片方でボウボウを突き刺す。そこから出た膿が海になったという話である。途中で、イルコというイルカの神様の話が出てくるが、足が悪いということで流されてしまう。イルコは日本神話の神々でいうと蛭子に相当する。恵比須として祀られることになる神である。

島ではポーポー祭なる奇祭が行われており、秀明の弟である高城宗男(三村和敬)がモドリという儀式の最中に落命している。だが、その宗男が皆の前に現れる。秀明と宗男が少年時代のことを語る内に、どうやら宗男もボウボウのように両性具有者だったらしいことがわかる。宗男は、千久世島が世界初の浣腸器が見つかった場所であるということから、ボウボウ伝説に基づく「ソーシャル・エネマ」を提唱。「山のもん」(成金)や「海のもん」(土俗、貧困)、あるいは東京的(絶対的な価値に基づく管理社会)な価値観を洗い流すことで世界の再創造を行おうとする。

やがてルイがレアゲノムの横流しを行っていたことが発覚して丸和と圭一によって捕縛され、身内から裏切り者が出たということで自警団も解散に追い込まれる。そして浜辺にはイルカたちが押し寄せ、自警団の事務所はイルカ相手の売春斡旋所となってしまう。

ポーポーに相当する秀明が演じる神と、ボウボウに当たる宗男が演じる神、更にイルカの神でもある丸和の3人(3柱か)の会話では、もはや世界を救うことは不可能となっている。レアゲノムも用いてイルカとの合体が成功しつつあるが、それもほんの少しの延命に過ぎない。

舞台は数年後に移る。人々は主にイルカ語を話すようになっている。レアゲノムは他の島に移されており、千久世島はその名に反して見捨てられた島として終焉を迎えつつある。それが変わることはないのだが、ポーポーとボウボウの神話に出てきたように、宗男の体を、祐美、ルイ、草太、圭一が食べるシーンがある。これはポーポーとボウボウの神話に従えば新たなる世界の創造(クニウミ)に繋がる行為であり、一見すると救いがないようではあるが、新たなる世界の創造もささやかながら示されているラストがやって来る。

どことなく1990年代の演劇のテイストが感じられる作品である。SFではあるのが、神話や離島の事情を混ぜるなどしており、未来的な洗練性よりも土着的な味わいが前面に出ているという特徴がある。

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