カテゴリー「京都劇評」の138件の記事

2021年10月 5日 (火)

観劇感想精選(414) 遊劇体第64回公演〈遊劇体×泉鏡花オリジナル戯曲全作品上演シリーズ11〉「深沙大王」

2021年9月23日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時30分から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、遊劇体の第64回公演〈遊劇体×泉鏡花オリジナル戯曲全作品上演シリーズ11〉「深沙大王(しんじゃだいおう)」を観る。作:泉鏡花、演出:キタモトマサヤ。出演は、村尾オサム、三田村啓示、条あけみ(あみゅーず・とらいあんぐる)、大熊ねこ、中田達幸、村山裕希、浜崎大介(兵庫県立ピッコロ劇団)、坂本正巳、久保田智美、松本信一、濱奈美。テキストレジなしでの上演である。

定期的に泉鏡花の戯曲を上演している遊劇体。私もこれまでにいくつか観たことがあるが、いずれも遊劇体の本拠地である大阪での上演で、京都で遊劇体の泉鏡花作品を観るのは初めてになる。

「深沙大王」は、鏡花が自身の小説「水鶏(くいな)の里」を基に、東京都調布市の深大寺を念頭に置いたイメージを膨らませて戯曲とした作品であり、明治37年9月に本郷座で行われた新派合同公演のために書き下ろされている。戯曲オリジナルではないが、これが鏡花の戯曲処女作となるようだ。だが、本郷座での上演は上演時間の関係で「高野聖」に差し替えになってしまったそうで(敵味方を一人二役で演じるなど上演不可の要素があったことも影響したようだ。小山内薫は、「この脚本に忠実なるには俳優が余程無理な早業をしなければならないので、中止になった」と記している)、大正3年4月になってからようやく明治座で初演が行われたという。余り評判にはならなかったようで、今回の上演はそれ以来となるようだが、テキストを一切変えないでの上演としては世界初演となる可能性もあるようである。話の展開は「夜叉ヶ池」に似ており、また完全な勧善懲悪ものということで受けは悪かったのかも知れない。

今回は、リーディングとして、ト書きのいくつかを、大熊ねこ、濱奈美、条あけみが読み上げる形での上演である。セットはシンプルに抑えられている。

舞台は越前国武生(現在の福井県越前市武生)。かつて越前国の国府が置かれていた場所である。この地の県会議員である倉持傳助という、絵に描いたような悪人を巡る勧善懲悪ものである。話の展開が急であるため、整合性を欠いて見えるようなところがある。実際、泉鏡花は、上手く筆が運べば大傑作を書き上げるのだが、一定のレベルに達しない作品も多く、平均値はそれほど高くない。謎の新聞記者である小山田透(今回は村尾オサムが演じている)の存在をどう捉えるかで解釈が変わってきそうな作品である。本来なら最も近代的な登場人物である小山田透が怪異現象の鍵を握っているというのも不思議な設定である。

勧善懲悪に男女の恋愛を重ねたものであり、構図は分かりやすいが、接続が必ずしも上手く入っていないように思える。同傾向の戯曲で同じ福井県を舞台にしている「夜叉ヶ池」の方が、やはり出来は上だろう。同じ福井県が舞台で近代的な人物が登場し、ラストも似ているということで、鏡花自身も「深沙大王」の発展型として「夜叉ヶ池」を書いているはずである。「夜叉ヶ池」は大正2年の発表ということで、「深沙大王」の明治座での初演も「夜叉ヶ池」の発表を受けて行われたものだったのかも知れない。


※参考論文 植田理子(淑徳大学) 「泉鏡花『深沙大王』の成立」

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2021年9月26日 (日)

観劇感想精選(413) 加藤健一事務所 「THE SHOW MUST GO ON~ショーマストゴーオン~」

2021年9月18日 京都府立府民ホールアルティ(ALTI)にて観劇

午後6時から京都府立府民ホールアルティで、加藤健一事務所の公演「THE SHOW MUST GO ON ~ショーマストゴーオン~」を観る。作:ジョン・マーレイ&アレン・ボレッツ、テキスト日本語訳:小田島恒志。演出:堤泰之。出演は、加藤健一、新井康弘、辻親八(つじ・しんぱち)、奥村洋治(ワンツーワークス)、林次樹(Pカンパニー)、土屋良太、伊原農(いはら・みのり。ハイリンド)、千葉建玖(ちば・けんき。Studio Life)、加藤忍、岡﨑加奈。

今回の作品の原題は、「ROOM SERVICE(ルーム・サービス)」というものなのだが、そのタイトルだとなんだか分かりづらいということで、加藤健一事務所が27年前に上演した際には、「イッツ・ショー・タイム」という英語を使った邦題に変え、今回は加藤健一自身が「ショーマストゴーオン」というタイトルで上演したいと希望し、翻訳の小田島恒志に提案したそうである。

初演が行われたのは深刻な不況下である1937年のニューヨーク。昭和に直すと12年で、かなり昔の本である。初演は大成功したそうで、500回以上の上演を重ねたという。

ジャズエイジとも呼ばれたアメリカの青春時代である1920年代が世界恐慌で終わり、混迷の時代へと突入する。セリフに「ハーバート・フーヴァー大統領」という言葉が登場するため、作品の舞台が初演より少し前の大恐慌の時代であることが分かる。ハーバート・フーヴァーは大恐慌発生時の大統領で、経済面での有効な策を打つことが出来なかったため評価は極めて低く、「米国史上最も無能な大統領」の一人に数えられている。


ブロードウェイの近くにある二流ホテルの一室が舞台。演劇プロデューサーのゴードン・ミラー(加藤健一)は、駆け出しの若い劇作家であるレオ・デーヴィス(千葉建玖)が書いた優れた戯曲「ごきげんよう(GOD SPEED)」の上演を計画しており、ホテル内の施設を使った稽古にも入っているのだが、十分な資金が集まらないため、稽古が始まってから7週間が経った今も公演の目処は立っていない。プロデューサーとして資金調達が求められているのだが、不況下ということもあって良いスポンサーを見つけることが出来ない。ミラーは上演すれば大当たり間違いなしの本を手にしていながら上演出来ないことを悔しがっている。

劇団員はこのホテルに寝泊まりしており、費用はミラーが受け持っているのだが、現在は手元に金がない。実はミラーはそれまでにも劇団員全員でホテルに泊まって稽古をしては資金がまかなえずにトンズラを繰り返しており、ブロードウェイ付近のほぼ全てのホテルでブラックリスト入りしているようである。演出家のハリー・ビニョン(土屋良太)、演出助手のフェイカー・イングランド(伊原農)らと共にトンズラの準備を始めたミラーだったが、そこに「ごきげんよう」の作者であるデーヴィスが訪ねてくる。


この作品に関しては、上演を観ていない人のためにあらすじを細部まで語っても余り意味はないように思われる。意味があるのは筋書きよりもこの公演における主題で、打ち出されているメッセージは明確で力強い。

ホテルの重役であるグレゴリー・ワグナー(新井康弘)は経済至上主義者で芸術に全く理解がなく、「ごきげんよう」のリハーサルを観ても良さが分からずに「駄作じゃないの?」などと語る人物であるが、そうした無理解な人々の思考を演劇でもって克服し、最終的には救済までしてしまうという痛快な内容となっている。結局、全てを成功に導くのは演技の力であり、演劇の要素である。逆に言えばこの世に演劇というものがなかった場合、何一つ乗り越えられなかったことばかりだ。演劇は不要不急どころかマイナスをプラスに変える力を備えていることが高らかに宣言される。

今回の上演が大千穐楽で、加藤健一事務所恒例の地方公演は今回に関しては京都公演のみとなっているが、演劇を愛する人の心に確実に訴えかける見事な上演となっていた。

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2021年9月 3日 (金)

観劇感想精選(411) IN STU×KAIKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」

2021年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、IN STU×KAKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」を観る。作:トム・ストッパード。テキストは、ハヤカワ演劇文庫から出ている小田島恒志訳のものを使用。演出は大石達起。出演は、阿僧祇(白河夜船)、高橋紘介、勝二繁(日本海/およそ三十世帯)、黒木陽子(劇団衛星/ユニット美人)、横山清正(気持ちのいいチョップ)、藤村弘二、川﨑祐輔(劇団つちの娘)、岡田眞太郎(トム論)、伊藤彩里(gallop/カイテイ舎)、土肥嬌也、上条拳斗、大山渓花。

21世紀に入ってから日本でも作品が上演される機会が増えたトム・ストッパード(1937- )。映画「恋におちたシェイクスピア」や「未来世紀ブラジル」などで共同脚本として名を連ねていることでも有名である。
「アルカディア」は、1993年にイギリスで初演され、日本初演は2016年に栗山民也の演出によって行われている。

イングランドの貴族、カヴァリー家の屋敷が舞台なのだが、時代を隔てた二つの世界が互い違いに描かれていく。最初に舞台となるのは1800年代。13歳のトマシナ・カヴァリー(阿僧祇)は、家庭教師のセプティマス・ホッジ(高橋紘介)に数学などについて教わっている。イギリスの場合、貴族階級の女子は学校に通うのではなく家庭教師に教わるのが一般的で、それが変わるのは20世紀以降である。

トマシナは聡明な女の子で、特に代数に関しては図抜けた能力を持っている。おそらく彼女に解けないのは、17世紀に提唱された「フェルマーの最終定理」(「アルカディア」初演から2年経った1995年にアンドリュー・ワイズによってようやく証明された)ぐらいで、実際にトマシナがフェルマーの最終定理に挑む場面がある。それを教えるセプティマス・ホッジもパブリックスクールの名門であるハロー校を経てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだというインテリである。実はセプティマス・ホッジは、ロマン主義最大の詩人といわれるジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿)の先輩であり面識もあった、ということでカヴァリー邸にもバイロンは訪れている(劇中には登場しない)。

一方の舞台は現代である。登場人物は、カヴァリー家の末裔であるヴァレンタイン・カヴァリー(上条拳斗)とクロエ・カヴァリー(大山渓花)、そしてガス・カヴァリー(川﨑祐輔)。更にカヴァリー邸の歴史を調査しているベストセラー作家のハンナ・ジャービス(伊藤彩里)と、ハンナのライバル的存在であるサセックス大学研究員のバーナード・ナイチンゲール(最初の場面ではバーナード・ピーコックという偽名を付けられる。土肥嬌也)の5人。ガス・カヴァリーは、場面緘黙もしくは全緘黙で、知能は高いと思われるのだが話すことが出来ない。ただし音楽の才能は抜群で、母親からは「我が家の天才くん」と呼ばれている。ヴァレンティンは数学者ということで、先祖の血を受け継いでいるように思われる。
ちなみにガスを演じる川﨑祐輔は、1800年代の場面ではオーガスタス・カヴァリーを二役で演じているが、オーガスタスはガスとは真逆の、映画「アマデウス」に登場するモーツァルトを思わせるような天真爛漫な人物である。「オーガスタス」は、ラテン風に読むと「アウグストゥス」であり、クレオパトラの名前が劇中で出てくるのとおそらく関係があり、またセプティマスがセプテンバーに繋がる名前なのも意図的だと思われる。

現代の場面では、バイロンの研究をしているバーナードが、バイロンとカヴァリー邸で出会った詩人のエズラ・チェイター(藤村弘二)が、自作の詩をバイロンに酷評されたため決闘を申し出て、敗北。チェイターは死んだが、その結果、バイロンはイングランドにいられなくなったという説を唱える。その証拠となりそうな史料がカヴァリー邸にはいくつも眠っていたのである。だが、最終的にはその説は否定されることになる。

現代がこの路線で進む一方、1800年代の物語は、カヴァリー邸の庭園であるシドリー・パークが軸になって展開される。トマシナがシドリー・パークの設計図に書かれた「隠者の家」に隠者の絵を描き込み、庭園設計家のリチャード・ノークス(横山清正)は実際に隠者の家を建てるも、肝心の隠者が見つからないという話になる。セプティマスは、「隠者でしたらすぐに見つかると思います」と嘯く。

現代では、ハンナがこの隠者の正体について調査していたのだが、隠者と呼ばれた人物が、セプティマスと同い年であるという事実に気づき……。


トム・ストッパードは、数学に強い劇作家だそうで、この作品にも数学や物理に関する専門用語がちりばめられているが、理系に弱いと内容が分からないということはない。数字によって物語が展開していく訳ではないからだ。というよりもむしろ、数学の理論は最終的には退けられている。

面白いのは、本当に重要な物語が語られることなく作品が進み、終わるということである。

インテリでお堅いように見えるセプティマスであるが、男前で文武両道ということで様々な女性から誘われたり情を交わしたりしている。そんな彼が隠者、つまりなぜ女を避けて引きこもるようになったのか、という疑問が起こる。
この理由も仄めかされる。初登場時には13歳と10ヶ月(あと6週間で「ロミオとジュリエット」のジュリエットに並ぶ)だったトマシナであるが、終盤では16歳と11ヶ月に成長している。だが、トマシナは火事に遭って17歳の若さで亡くなっていることが記録されているのである。セプティマスが隠者となるのはそれ以降。つまり女からモテモテであったセプティマスが、亡くなったトマシナを最後の女性として、残りの人生を隠者として彼女の思い出と共に過ごしたというかなりロマンティックな物語が浮かび上がる。この話が舞台上で語られることはないのだが、おそらく多くの人に隠者としてのセプティマスの物語の始めと終わりが浮かぶだろうし、それは多分、正しい。語られない愛が最も雄弁に観る者に訴えかけるという極めて巧みな作劇法が用いられた物語である。

交互に登場した1800年代の場面と現代の場面が、終盤には同じ場で展開される。互いのことは見えないのだが、同時進行である。
ラストは、高い次元で理解し合えた二組の男女のワルツを踊る場面である。そのうち、トマシナとセプティマスは最初にして最後のワルツであり、永遠の男女としての最後にして最初のワルツだ。甘く悲しい最後である。


多くの出演者が、京都の小演劇で活躍している舞台俳優であるが、最近、京都の小劇場に接する機会が余りないので、何度も演技を見たことがあるのは黒木陽子だけである。
おそらくTHEATRE E9 KYOTOの舞台に慣れていないのと、キャリアが浅いことの両方が関係していると思われるのだが、特に男性陣はセリフも動きも押しの一手であり、「この大きさの空間なら怒鳴らなくても伝わるのに」と思った場面が多いのが気になるところである。

ラストのワルツの場面も、出演者達が音楽の素養に欠けるため、拍をちゃんと刻めていなかったり(三拍子の三角形を空間に描くのだが、三拍分を一拍で描くため、拍が取れていないことが分かる)、拍が取れていないので当然ながらワルツが踊れていなかったりと、かなり気になった。男性が常にリードするといったようなルールも知らないまま適当にやっているようである。

舞台美術などは結構お洒落に作ってあったり(舞台美術:岩崎靖史)、衣装なども良かった(衣装:久保梨緒)ので、後は演技の細部を詰めればもっと良くなるはずである。

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2021年8月29日 (日)

観劇感想精選(409) team申第5回公演「君子無朋(くんしにともなし)~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~」

2021年8月26日 広小路の京都府立文化芸術会館にて観劇

午後6時から、広小路の京都府立文化芸術会館で、team申の「君子無朋(くんしにともなし)~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~」を観る。作・阿部修英(あべ・のぶひで)、演出:東憲司(ひがし・けんじ)。主演:佐々木蔵之介。team申は、第1回公演の出演者である佐々木蔵之介(1968年生まれ。座長=申長)と佐藤隆太(1980年生まれ)が共に申年生まれだったことに由来する演劇プロデュースユニットで、本公演を行うのは11年ぶりとなるが、その間に番外公演を4回行っている。
出演は佐々木蔵之介の他に、中村蒼(あおい)、奥田達士(たつひと)、石原由宇(ゆう)、河内大和(こうち・やまと)。

名君として伝わる清朝第4代皇帝・康熙帝と第6代皇帝・乾隆帝の間に13年だけ治天の君となった雍正帝を主人公とした話である。

康熙帝は、皇帝としての実績もさることなるが、「康熙字典」の編纂を命じたことでも有名で、「康熙字典」は現在に至るまでの中国語の字典の大元と見なされており、康熙帝の名もこの「康熙字典」の存在によってより認知度が高まっている。乾隆帝は清朝最盛期の皇帝として有名で、軍事と文化の両面で拡大を行っている。
その間に挟まれた地味な皇帝、雍正帝に光を当てたのが今回の作品である。
阿部修英は、東京大学大学院で中国美術を学んだ後にテレビマンユニオンに参加したテレビディレクターで、戯曲執筆は今回が初めて。有料パンフレットの阿部の挨拶に「東憲司さんという最高の師父を得て」と書かれており、また佐々木蔵之介と東憲司との鼎談でも「手取り足取り教えて頂いて」とあり、内容は別にして物語の展開のさせ方に関しては東憲司からの影響がかなり強いと思われる。複数の人物が何役も演じるというスタイルは東憲司の作品によく見られるものである。

「ゲゲゲの女房」、「夜は短し歩けよ乙女」などの脚色・作・演出で知られる東憲司は、アングラ(アンダーグラウンド演劇)の手法を今に伝える演出家で、今回も歌舞伎の戸板返しの手法が駆使されていた。

佐々木蔵之介が雍正帝を、中村蒼が雲南省の若き地方官・オルクを演じるが、それ以外の3人の俳優は、狂言回しなども含めて何役も演じる。

中国史は日本でも比較的人気の高いジャンルだが、清朝に関しては最後の皇帝である宣統帝溥儀や、西太后など末期のみが映画なども含めてよく知られているだけで、雍正帝についてもほとんど知られていない。ということで、冒頭は、3人の俳優が、「紫禁城」「皇帝」「後宮」「宦官」などの初歩的な用語の説明を、京都ネタを挟みつつ(「紫禁城って知っている?」「出町の甘栗屋でしょ?」「いや、京大の近くの雀荘のことさ」といった風に)行う。

雍正帝の治世の特長は、地方官と文箱による直接的な手紙のやり取りをしたことで、歴史学者の宮崎市定が『雍正硃批諭旨』という雍正帝と地方官が交わした手紙を纏めた大部の書物を読んだことが、今回の作品に繋がるのだが、それが戦後直後の1947年のこと。宮崎市定がそれらの研究の成果を『雍正帝 中国の独裁君主』という書物に著したのが1950年。作の阿部修英もこの本で雍正帝を知ったという。阿部修英は中国を舞台にした小説も好きで、浅田次郎の一連の作品も読んでおり、そうした背景があったために中国の歴史を辿るドキュメンタリー番組の制作に携わり、そこで一緒に仕事をしたのが佐々木蔵之介であった。ドキュメンタリー番組作成中に、「雍正帝で、戯曲を書いてみませんか?」と佐々木に言われ、それが今回の上演へと繋がる。戯曲執筆時間や稽古の時間はいうほど長くはないだろうが、一番最初から「君子無朋」が完成するまでの歴史を辿ると構想74年ということになる。その間、何か一つでもボタンの掛け違えがあったら、舞台が完成することはなかっただろう。

「中国の皇帝モノと言うのは珍しい。ストレートプレイでは滅多にないのではないだろうか」という東憲司の記述が有料パンフレットにあるが、京劇では「覇王別記」(厳密に言うと覇王こと項羽は皇帝ではないが)などいくつかあるものの、そもそも日本では知名度のある中国の皇帝は限られるということで、上演はしにくいと思われる(私も明朝最後の皇帝である崇禎帝を主人公にした未上演の戯曲を書いているが、変な話になるが実際に描かれているのは崇禎帝ではない)。その中でも更に知名度の低い雍正帝を主人公に選んだことになるが、知名度が低いだけに自由に書ける部分は多くなるというメリットはある。

康熙帝の次の皇帝でありながら、雍正帝は父親とは違い、同母弟でやはり次期皇帝候補であったインタイに康熙帝(諡号は聖祖)の墓守を命じるなど残忍な面を見せつける。それを見た雍正帝の実母は自殺。また、先帝である康熙帝の事績を見習うよう進言した家臣は容赦なく処分した。
暴君であり、独裁者であった雍正帝であるが、その意外な実像に迫っていく謎解き趣向の作品である。手法的にはよくあるものだが、史実かどうかは別として少なくとも物語としての説得力はあり、よく出来た作品であると思う。

佐々木蔵之介の地元ということで、ロングランとなった京都公演。残念ながら京都における新型コロナの感染者が日々新記録を更新中である上に、佐々木蔵之介以外は知名度がそれほど高いとはいえないオール・メール・キャストということで、後ろの方を中心に空席が目立ったが、観る価値のある作品であることは間違いない。悪役も得意とする佐々木蔵之介を始め、出演者達は熱演であり、東憲司のスピーディーな演出も相まって、演劇そして史劇の素晴らしさを観る者に伝えていた。

歴史ものに限らないが、演劇というのは、今この場所で二つの歴史が始まっていくことが魅力である。上演史としての歴史と観る者の中に流れる歴史だ。それが同じ時、同じ場所を共有することで始まるというジャンルは、演劇をおいて他にない。今この場所で歴史が始まると同時に歴史が変わっていく。しかも直に。これだけ素晴らしいジャンルを知っている人は、それだけで生きるということの意義を、少なくともその一端を獲得しているのだと思われる。


雍正帝という人物であるが、44歳の時まで皇帝になれる見込みがなく、本ばかり読んでいたというところが井伊直弼に似ており、母親が後に雍正帝となるインシンよりも弟のインタイの方を可愛がっていたという話は織田信長とその弟の信行、母親の土田御前との関係や、徳川家光とその弟の駿河大納言こと忠長、母親のお江の方(お江与の方。小督の方)との関係を思い起こさせる。また自身の業績を我が子の功績とするところなどは徳川秀忠を連想させる。隣国の歴史であるが、人間の本質は国籍や人種によってさほど変わらないはずであり、また歴史というものは大抵どこかで結びついているものである。

久しぶりに中国史も学んでみたくなる舞台であった。あるいは今日からこれまでの私とは違った歴史が始まるのかも知れない。

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2021年8月10日 (火)

観劇感想精選(407) 下鴨車窓 「透明な山羊」

2021年8月7日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、下鴨車窓の公演「透明な山羊」を観る。作・演出:田辺剛。
昨年は1度も行くことが出来なかったTHEATRE E9 KYOTO。考えてみれば、京都の団体の公演を観るのは今日が初めてである。
出演:佐々木峻一(努力クラブ)、西村貴治(ニットキャップシアター)、岡田菜見(下鴨車窓)、野村明里(ブルーエゴナグ)。

小説家、杉田(登場することはない)の仕事場であった山小屋が舞台である。杉田が亡くなり、杉田の息子である杉田ヨシノリ(佐々木峻一)と山小屋の管理人である阿部タカオ(西村貴治)が杉田の遺品の整理を行おうとしている。阿部は管理人であり、杉田の仕事についてはよく知らないので、杉田の担当編集者だった手塚イオリ(野村明里)が助っ人して呼ばれることになっていた。ちなみにヨシノリとイオリには面識はなく、今日が初対面となる。

杉田の主な遺品はカセットテープである。杉田の執筆は、パソコンのワープロソフトや原稿用紙に向かうのではなく、カセットテープに音声を吹き込むというスタイルが取られていた。杉田はデジタルメディアを信用しておらず、最後までカセットテープを愛用していた。実際に吹き込んで書くという小説家は存在していて、志茂田景樹が有名、ってこの情報が欲しい人はあんまりいないか。
カセットテープに吹き込むというものではないが、太宰治は口述を得意としており、語ったものを編集者に書き取らせることがよくあった。誰だったかは忘れたが、小説家志望だった編集者が太宰の口述に接したことがあり、余りの上手さに「天才」を感じて小説家になることは断念したと書いていたのを記憶している。

杉田の残した膨大なカセットの内の一つをヨシノリがまず再生。聞こえてきたのは都はるみが歌う「好きになった人」。グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」や、合唱サークルに参加していたとうことで(おそらく)「大地讃頌」などの音楽が入ったテープもある。音楽の趣味が分裂しているようにも見える。その他のテープには日記のような語りや創作上の思いつき、思索などが吹き込まれていた。統一性は感じられないが、山小屋の近くではしょっちゅう災害が起こっているようで、自衛隊が何度か救助に来ていることが分かる。
カセットの山の中にコンドームの箱が一つ。杉田は比較的高齢のはずだが、どうも相手がいたようである。言うまでもなくこれは伏線となっている。

山小屋に一人の女性が訪ねてくる。ヨシノリも阿部も彼女が編集者の手塚イオリだと思ったのだがそうではなかった。亡くなった父親が杉田の友人だったという木村ユカ(岡田菜見)であった。父親の命日ということで花を捧げようと山小屋を訪ねてきたのだ。ユカは杉田が他界したことを知らなかった。父親が転落した崖を見たいというユカだったが、阿部はユカが厭世観の持ち主であることを見抜いていた。ちなみに山羊は崖を好む動物である。

手塚イオリがやってきて、テープの整頓が始まる。
崖を見に行ったユカは足を滑らせて転落。幸い、木に引っかかったため命を落とすことはなかったが、左脚を負傷する。だが阿部はユカが転落したのは足を滑らせたからではないと見ていた。

山小屋と「下の世界」では天気も違い、「下の世界」での天気は晴れの予報であったが、山小屋周辺では雷鳴が轟き、やがて嵐となる。
山から下りる道は土砂崩れによって通れなくなり、四人は山小屋に閉じ込められることになる。すぐそばで雷鳴が轟き、雷が木に落ちて火事となる(すぐに鎮火した)。そして得体の知れない音が響き……。


杉田という人物を巡るそれぞれの距離感(英語にするとディスタンスということになるのだろうか)を描いた作品である。

ヨシノリは幼い時から杉田にDVを受けていた。母親もやはりDVの被害者であり、先に母親が他界。直後にヨシノリも家を出ており、杉田とは疎遠であった。杉田に対する思いは恨み以外にはほとんどない。

女性編集者の手塚イオリと杉田とは想像通りの関係で、むしろ積極的だったのはイオリの方のである。イオリはそのことをヨシノリに告白するのだが、告白する前にすでに言動に表れている。

木村ユカにとって杉田は父親の友人である。杉田とヨシノリの関係とは異なり、父親との関係は良好だったが、父の死により一家は大黒柱を失う。ユカは現在、大学4年生。就職活動は上手くいっていない。彼女にとって父親の死はおそらく「埋め切れない何か」だ。

阿部はあくまで山小屋の管理人で杉田とはそう親しくはなかったようである。

ヨシノリは、父親の知られざる部分について積極的に知りたくはないようで、再生された杉田の音声についても快くは思っておらず、たびたびテープを止めようとする。再生に積極的なのはイオリで、編集者としてテープに吹き込まれているはずの新作を探すという目的もあるが、想像された通りの関係であるため、杉田の声に対するスタンスもディスタンスもヨシノリとは正反対である。個人に対する各々の印象の異なり、また死者について想像を巡らす面白さもここには存在する。そして4人は同じ場所に集って同じ体験をしているが、世界観も見える景色も全て異なる。「憎悪」「愛着」「懐旧」「無関心」。

ヨシノリの父に対するタナトスが、偶然という形ではあるが全てを崩壊へと導いていく。
ネタバレを書いていく。
仄めかしに留まり、はっきりとは描かれないが、まずは阿部の車が土砂崩れに巻き込まれて、車内で寝ていた阿部がこの世を去る。元々、死ぬために山小屋に来ていたユカは、自殺なのか土砂崩れに巻き込まれた分からない形で他界。最後は山小屋が土砂崩れに巻き込まれて倒壊し、全ての登場人物が死者となるが、全員が自分が幽霊になったことに気づかないまま劇は終わる。ユカは肉体を抜け出した魂になっているため、左脚ももう負傷してはいない。

幽霊というものが実在するのかどうかは分からないが、事故や自殺という「天寿を全うしない」形で生涯を終えた魂は、幽霊として彷徨うことになり、自分が幽霊になったことにも気づかないと霊能者などがよく語っているのを耳にする。私は霊能者ではないので本当なのかどうかは知らないが、一昨年にTHEATRE E9 KYOTOで観たshelfの「AN UND AUS/つく、きえる」(ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒが東日本大震災を描いた戯曲の上演)でも、津波によって命を奪われるも自分が幽霊となったことに気づかない人々が登場しており、「天寿を全うしない」魂は幽霊となり、自分が幽霊になったことに気づかないという考え方は国境を越えて広く普及していることが分かる。


今日はアフタートークがあり、演出家の山口浩章がゲストとして参加する。
山口さんが、木村ユカもまた杉田の愛人(杉田の奥さんはすでに他界しているため正確にいうと愛人ではなく恋人になるようだが)に見えたという話をして、客席にもそう見えた人が何人かいたようである。戯曲のスタイルから語ると、杉田に恋人が二人いた場合は、同じ場所に同じスタイルとディスタンスの人物が二人いるということになるため、場における混乱の種類が異なって、面白さは半減するように思われる。ただのゲス野郎の恋の話になってしまうのだ(確かに山羊の英語である“goat”には「悪漢」「愚か者」の他に「スケベ爺」という意味もあるが)。田辺さんによると説明的な部分をカットしたためわかりにくくなった可能性があるかも知れないとのことだった。一応、ユカは大学4年生で、杉田と知り合ったのはおそらく未成年の時。ということで二人が男女の関係だったとすると法的(正確にいうと法ではないのだが)にも倫理的にもまずいということになる。一応、それがユカは違うという根拠として示されていたように思うのだが、最近、変なことを言う政治家が出てきた(辞職したが)ため、そうした設定がストッパーに見えなくなったのかも知れない。

ともあれ、分断は4つと捉えた方が劇として面白いように思う。

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2021年8月 1日 (日)

観劇感想精選(405) 「坂東玉三郎 特別舞踊公演」南座七月(令和三年) 「口上」 地唄「雪」 地唄「鐘ヶ岬」

2021年7月24日 京都四條南座にて観劇

午後2時から、京都四條南座で、坂東玉三郎特別舞踊公演7月の回を観る。今日が初日である。

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まず口上があり、その後に地唄「雪」と「鐘ヶ岬」が上演される。

口上では、「本日はお暑い中、また状況の厳しい中、お足をお運び下さりありがとうございます」と述べ、今年の1月に大阪松竹座で口上を行った時に衣装の紹介をしたところ好評だったというので、今回もそれを行い、いつもより長くなるとの断りがある。舞台後方には上手から下手に向かって、春夏秋冬の景色を描いた金屏風が並んでいる。

玉三郎が初めて南座の舞台に立ったのは、昭和46年12月の顔見世興行においてであったが、50年前ということで今とは勝手が違い、上演時間も長い上に初日は押しに押しまくって、午後11時を過ぎたため、玉三郎が出演するはずだった「京人形」は上演されないまま終わってしまったそうである。
また京都は歌舞伎発祥の地、地唄の発祥の地ということで、南座で地唄を披露するのは今になっても「面映ゆい思いが致します」と語っていた。

紹介される衣装は、「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」から乳母・政岡の打ち掛け、「壇浦兜軍記 阿古屋」より遊女・阿古屋の打ち掛けなどである。その他に傾城(遊女)を演じる時に使用した打ち掛けや、静御前を演った時の衣装なども紹介される。

阿古屋の打ち掛けは二代目だそうである。初代の打ち掛けは玉三郎独自のデザインであったが、現在の二代目は六代目中村歌右衛門が阿古屋を演じた時に用いていたものを引き継ぐ意匠となっているそうだ。阿古屋は景清(藤原氏の出身だが平家の武将として活躍)の思い人ということで、平家の家紋である揚羽蝶が描かれている。また、中国では最も華やかな花とされる牡丹が、裾を飾っている。ただ玉三郎は人から、「蝶々は牡丹を嫌う」という話を聞き、実際に牡丹の花を観察したことがあるのだが、本当に蝶々は牡丹を避けるそうである。

男勝りの政岡の打ち掛けは、「伽羅先代萩」が仙台伊達家のお家騒動である伊達騒動に取材した作品ということで、伊達家の家紋にある笹が用いられている。


地唄「雪」。振付:梅津貴昶。三絃・唄:富山清琴、箏:富山清仁。
ゆっくりとした動きと細やかな動きが、移ろう時の速さと儚さを表すが、逆に一瞬一瞬の美が映える。時というものを分解する美術だ。
ここに登場する女性に名はないが、大坂・南地の名妓だったソセキという人がモデルになっているそうで、歌詞にも「そせき」の名がさりげなく入っている。


地唄「鐘ヶ岬」。振付:二世藤間勘祖、舞台美術:山中隆成。三絃・唄:富山清琴、箏:富山清仁。
安珍と清姫を主人公とする「道成寺もの」の一つで、歌詞には鐘は出てこないが、玉三郎の口上によると、「京鹿子娘道成寺」を改作した「九州釣鐘岬」を短縮したものが「鐘ヶ岬」だそうである。
舞台背景は枝垂れ桜。舞台上手寄りに鐘が下がっているという舞台美術である。紙の桜が天井からひらひらを舞い落ちて積もり、清姫は床板の桜を足で散らしながら舞う。清姫は鐘に対する恨みを述べ、前半は安珍が僧侶ということで仏教の言葉が並ぶ。扇をクルクルと回し、衣装が黒から白に変わって後半、日本の有名な遊郭づくしである。
江戸の吉原、京の嶋原、伏見・墨染の撞木町(大石内蔵助が通ったことで有名である)、大坂・四つ橋筋の西にあった新町、奈良の木辻、九州・長崎の丸山と続く。
前半と後半の対比が見事であり、可憐さと同時に女の業と男の罪深さが、抑制されつつも漂う香のように静かに確実に観る者に伝わってくる。

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2021年7月 4日 (日)

コンサートの記(727) 京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」

2021年6月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」を聴く。

緊急事態宣言発出のため、4月25日から5月31日まで臨時休館していたロームシアター京都。今日の公演が再スタートとなる。

京都市出身の芥川賞受賞作家である藤野可織と京都市交響楽団によるコラボレーション。藤野の新作小説の朗読と、パリゆかりの作曲家の作品による新たな表現が模索される。指揮は三ツ橋敬子。

朗読を担当するのはAKB48出身の川栄李奈であるが、企画発表時には出演者はまだ決まっておらず、しばらく経ってから川栄の出演が公にされた。

演奏曲目は、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第1曲〈プレリュード〉、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「カルタ遊び」より抜粋、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈夜への前奏曲〉、シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第2曲〈フォルラーヌ〉、サティ作曲ドビュッシー編曲の「ジムノペディ」第2番(表記の揺れのある楽曲で、ここではピアノ版のジムノペディ第1番のオーケストラ用編曲を指す)、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈マラゲーニャ〉、ドビュッシーの「夜想曲」より〈雲〉、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。シベリウスを除いて、パリゆかりの作曲家の作品が並んでいる。


藤野可織は、1980年、京都市生まれの小説家。同志社大学文学部卒業、同大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了とずっと京都市で生きてきた人である。大学院修了後は、京都市内にある出版社でのアルバイトをこなしながら小説の執筆を開始。2006年に「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞し、2013年には「爪と目」で第149回芥川賞を受賞。2014年には『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞を受賞している。
藤野は、今回の企画を持ちかけられてから、初めてロームシアター京都メインホールを訪れたそうで、4階席から舞台を見下ろした時に作品の構想を得たようである。


今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。シベリウスの「悲しきワルツ」演奏後に20分の休憩が入るが、出演者は見た限りでは前半後半ともに変わらない。首席クラリネット奏者の小谷口直子は今日は降り番。他の管楽器パートは首席奏者がほぼ顔を揃えている。

藤野可織の「ねむらないひめたち」は、9歳の少女を主人公とした作品で、新型コロナウイルス流行に絡めた「昏睡病」がまん延する近未来の話である。近未来ではスマートフォンではなくスマート眼鏡というもので情報をやり取りするようになっており、パソコンはまだ用いられているが、キーボードはバーチャルのものに置き換わっているようである。
なお、「ねむらないひめたち」のテキストは、「新潮」7月号に掲載されている。「新潮」7月号には野田秀樹の新作戯曲「フェイクスピア」も載ってるため、舞台芸術好きにはお薦めであるが、野田秀樹の戯曲は多くの場合、上演よりもテキストの方が勝ってしまうため、観る予定のある方は、舞台を鑑賞後にテキストを読むことを勧めたい。

上演前にまず藤野可織が登場して挨拶を行い、この作品が朗読とオーケストラが奏でる音楽とが一体となったものであるため、曲ごとの拍手はご遠慮頂きたい旨を述べる。京都市の生まれ育ちということで、柔らかな京言葉で話し、雅やかな印象を受ける。おそらくこうした話し方や雰囲気を「はんなり」と言うのだと思われる。

京都市交響楽団に客演する機会も多い三ツ橋敬子。バトンテクニックの高い非常に器用な指揮者だが、今に至るまでオーケストラのポストは得られないでいる。平均点の高いタイプながら、何が得意なのか分からない指揮者でもあったが、これまで聴いた限りでは、現代音楽、モーツァルトなどで好演を示しており、フランスものも合っているようである。

朗読担当の川栄李奈。AKB48在籍中は、お勉強が不得意なお馬鹿キャラとして知られたが、握手会で襲撃されて負傷。トラウマにより「握手会にはもう出られない」としてAKBを卒業した。その直後から本格的な女優活動に入るが、CMや映画、テレビドラマなどで、「あのお馬鹿キャラの川栄」とは思えないほどの才気煥発ぶりを発揮。上り調子の時にできちゃった結婚で休業に入ってしまい、「ああ、やっぱり」と思わせたりもしたが、復帰後も活躍はめざましく、大河ドラマ「青天を衝け」に一橋慶喜正室の美賀君役で出演し、怪演を展開中。次期NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のヒロインの一人を演じることも決まっている。女優は天職なのだろう。
声優としても活動しており、映画「きみと、波にのれたら」では主演声優を務めている。

舞台後方にスクリーンがあり、三好愛のイラストと、藤野可織の「ねむらないひめたち」のテキストが映し出される。

主人公の「あたし」は、タワーマンションの37階に住んでいる。年齢は9歳で、今年13歳になる姉がいる。
姉妹が両親と住むマンションの部屋にはバルコニーがあるのだが、バルコニーにはいつも嵐のような強風が吹き荒れており、母親は、「嵐はすごく危険」「だからバルコニーには出ちゃいけません」と言う。だが、姉妹は学校から帰るとバルコニーに出て、姉は双眼鏡で外を覗き、妹のあたしは機関銃タイプの水鉄砲で姉が指示した人物に向かって狙撃を行った。「射殺」したのだが、当然ながら水鉄砲で人は殺せない。殺し屋ごっこである。マンションの周りには様々なタイプの人がいたが、スパイだの異星人だの、不思議な人々もいる。もっとも、これは姉の見立てによるもので、実際にスパイや異星人がいた訳ではないと思われる。

そうしているうちに、人々が昏睡状態になるという謎の病が流行し、人々は感染を避けるため外出せずに家に籠もるようになる。姉妹が通う学校も休校になり、両親もリモートワークでいつも家にいるようになる。両親は姉妹に好きなだけ映画を観ることを許可し、姉妹は、暗殺者ものの映画を観まくるようになる。だが、予想に反して暗殺者達の仕事そのものよりもロマンスに焦点を当てた作品が多いことに気づく。
やがて両親が昏睡病に感染。砂色の飴で覆われたようにコチコチに固まってしまう。
あたしは、新たにアカウントを開設。「ソラコ」という名で自撮りの写真などを載せたが、誤って住所も見えるように載せてしまったため、奇妙な男達が何人も「君を助けたい」と言ってタワーマンションの下までやって来るようになる。姉妹は、カップアンドソーサーのカップやジャムの瓶などをバルコニーから落とすことで彼らを次々に殺していき……。


選ばれた楽曲を見ると、「死」に直結するイメージをもった作品が多いことに気づく。
射殺ごっこが、本物の殺人へと変わり、映画で観るような暗殺者の恋愛の代わりに、異様な人々の来訪があるという展開が高度に情報化された現実社会の不気味さを表しているかのようである。
やがて舞台はコンサートホールの4階席へと移り、未来への希望と不信がない交ぜになったまま再び殺し屋としての社会との対峙が始まる。

設定が近未来ということで、不思議な話が展開されるが、外部の危機的状況とそんな中でもネット上や現実社会で繰り広げられる不穏さが描かれている。そんな中で未来の夢や漠然とした期待に浸ることなく目の前を見つめ続けること、今を生き続けることと、引いては小説を書くことの意義が仄かに浮かび上がる。


川栄李奈の朗読であるが、予想よりも遙かに上手い。地の文とセリフの使い分け、感情の描き分け、抑揚やメリハリの付け方などが巧みで、声自体も美しい。女優の朗読に接する機会は多くはないながらもあるが、少なくともこれまでに聴いた二十代の女優の中ではトップだと思われる。全身が表現力に満ちあふれており、表現者としてのエネルギーやパワーの総体が同世代の他の女優よりも大きいことが察せられる。やはりこの人は女優が天職なのであろう。

三ツ橋敬子指揮する京都市交響楽団も煌びやかな演奏を展開。ドビュッシーやラヴェルの音楽ということで、浮遊感や典雅さの表現が重要になるが、これも十分にクリアしている。後は奥行きだが、これは更に年齢を重ねないと表出は難しいようにも感じる。


本編終了後にアフタートークがある。司会は、京都市交響楽団からロームシアター京都の音楽事業担当部長に異動になった柴田智靖。三ツ橋敬子、藤野可織、川栄李奈、会田莉凡の女性4人が参加する。

曲目は、ロームシアター京都から提案されたものが中心だったようだが、三ツ橋敬子は、普段余りフランス音楽を演奏しない京都市交響楽団で、元々別の物語性を持つ音楽を奏でることの難しさを語った。ちなみにリハーサル時と本番とではオーケストラの色彩が大きく異なっていたため驚いたそうである。

藤野可織は、小説家の仕事は自己完結であるが、こうしてオーケストラとのコラボレーションという協働作業の機会を得られたことへの面白さを語る。ちなみに司会の柴田は、表現したかったことを藤野に聞いていたが、「それを小説家に聞いちゃ駄目でしょ」と思う。

川栄李奈は朗読で緊張したことを語り、手の汗でページがめくれないんじゃないかとヒヤヒヤしたことを打ち明ける。また、個人的に京都の街が大好きだそうで、お土産をいっぱい買って帰りたいと笑顔で話していた。

会田莉凡も、京都市交響楽団でフランス音楽の演奏を行う難しさと新型コロナ流行下での演奏活動の困難さを語り、更には京都市交響楽団の活動の宣伝も忘れなかった。

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2021年6月27日 (日)

観劇感想精選(402) 市川海老蔵企画公演「いぶき、」@南座

2021年6月19日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四條南座で、市川海老蔵企画公演「いぶき、」を観る。といっても海老蔵が出る公演ではなく、コロナ禍によって若手歌舞伎俳優が舞台に立つ機会が激減してしまったことを憂いた海老蔵が企画した公演である。南座ではついこの間まで海老蔵主催の公演が行われており、「いぶき、」に出演する若手歌舞伎俳優達も帯同して、海老蔵の公演が終わった後の南座の舞台上で稽古をさせて貰っていたという。
タイトルの「いぶき、」の「、」には、「次に続くこと」、「歌舞伎の未来への継承」の意味が込められているという。

まず市川九團次による挨拶と作品解説があり、続いて「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」より“願絲縁苧環(ねがいのいとえにしのおだまき)”と“三笠山御殿”、そして「乗合船恵方万歳(のりあいぶねえほうまんざい)」が上演される。

九團次さんとは知り合いの知り合い、もしくは友人の友人という関係で、一度、バーで話したことがある。九團次さんが出演していた舞台「Honganji」のことを話したり、私は市川染五郎(現・二代目松本白鸚)の「野バラ咲く路」が歌えるのでうたってみたりした。


市川九團次の挨拶と作品解説。「妹背山婦女庭訓」の上演される段に至るまでのあらすじや人物紹介などを行い、全員が初役であることを告げる。

 

「妹背山婦女庭訓」は、飛鳥時代を舞台にした作品であるが、歌舞伎の演目の常として事実からは少し離れている。背景にあるのは藤原氏と蘇我氏の対立である。

私が子どもの頃には、645年に蘇我蝦夷を暗殺して成し遂げられたのが「大化の改新」と教わったが、今は蘇我入鹿暗殺は「乙巳の変」と呼ばれ、その後の「大化の改新」とは離して教えられるようである。
それはともかくとして、飛鳥時代に隆盛を極めた蘇我氏と、それを快く思っていなかった中臣氏(後に政に携わるようになった血統は藤原氏を名乗るようになる)の対立という史実がベースにある。ただ、蘇我入鹿が登場するのは史実とは異なり、天智天皇の時代ということになっている。

蘇我蝦夷は蘇我馬子の孫であるが、「妹背山婦女庭訓」では妖術を使う悪漢として登場する。蘇我入鹿の父親が蘇我蝦夷というのは史実通りであるが、蝦夷に子が出来ず、妻に白鹿の生き血を飲ませたところ子を宿し、超人的な能力を持つ入鹿が生まれたということになっている。入鹿の名もこの怪談由来とされている。実際には、祖父が馬子で孫が入鹿という名であることから察せられるように、飛鳥時代には動物の名を子どもに付けることが流行っていたのである。動物の名を付けることは、幕末の土佐でも流行り、坂本龍馬直柔(なおなり)の通称である龍馬も流行りに乗ったものである。キラキラネームというものがあることからも分かる通り、日本は命名が比較的自由な国なので、命名の流行りというものも存在する。

超人・蘇我入鹿を倒すためには、爪黒の鹿の生き血と疑着(執着、嫉妬)の相の女の生き血を混ぜたものを笛に入れて吹くという方法しかないので、疑着の相の女を探す、という話の骨子がある。

なお、史実では蘇我入鹿の時代の都は飛鳥に存在したが、「妹背山婦女庭訓」では、都が平城京に置かれていた時代に変更され、藤原氏の氏神で、この頃にはまだ存在していない春日大社が舞台になっていたりするが、全ては芝居の嘘であり、歴史考証的な事柄は大して意味がない。ただ由来については適宜解説していく。

まず鹿の話であるが、入鹿という名と、鹿が春日大社のお使いであるということに由来している。

 

“願絲縁苧環”(道行戀苧環)に登場するのは、入鹿の妹である橘姫(モデルは県犬養橘三千代であるが、彼女は実際には蘇我氏の娘ではない。演じるのは中村芝のぶ)、烏帽子折求女(もとめ)実は藤原淡海(たんかい。モデルは藤原不比等で、不比等の国風諡号である「淡海公」に由来。演じるのは大谷廣松)、杉酒屋娘のお三輪(中村児太郎)の3人である。

春日大社の鳥居前が舞台である(原作の人形浄瑠璃では、石上神宮の鳥居前となっている)。蘇我氏と藤原氏は対立しているが、橘姫と藤原淡海は互いの素性を知らずに恋仲になっている。一方、藤原淡海にはもう一人、男女の契りを結んだ相手がいる。杉酒屋の娘であるお三輪である。藤原淡海は烏帽子折職人の求女を名乗っていたため、お三輪は彼の正体が藤原氏の貴公子であり、身分違いの恋であるということを知らない。そのため、橘姫のことを責め始める。
険悪な雰囲気となったため、橘姫はその場を去るのだが、求女は橘姫の振袖に赤い苧環(おだまき)の糸を結びつけ、その糸を頼りに跡を追う。お三輪も求女の着物に白い苧環の糸を結びつけ、同じく跡を追おうとするのだが、白い糸は切れてしまう。

大和国が舞台ということで、大和ゆかりの様々な伝承が盛り込まれている。
まず、苧環でありが、これは大和・吉野で義経と別れた静御前の謡「しずやしず しずの苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」が元ネタである。この謡には更に元ネタとなる本歌があり、『伊勢物語』に載っている在原業平の歌「いにしへの倭文(しず)の苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」がそれである。苧環とは糸車(糸巻き)のことで、輪廻をも連想させる「繰り返し」に掛かる言葉であるが、同時に「糸し糸し」ということで「恋し恋し(戀し戀し)」にも繋がっている。
また、着物に糸を付けて、相手の行方をたどるというのは、「三輪山伝説」に由来する。お三輪という名なのはそのためである。

二組の悲恋の男女が登場し、「日本版ロミオとジュリエット」とも呼ばれる「妹背山婦女庭訓」。そのため、お三輪の憂いの表現が重要になるのだが、中村児太郎はきめ細やかな演技を披露。十分に合格点に達している。苧環の糸が切れたことを知った時の絶望の表情などは見事であった。

 

“三笠山御殿”。蘇我氏の館があったのは、飛鳥の甘樫丘であるが、舞台が平城京になっているため、三笠山(春日山)に変わっている。

橘姫が三笠山御殿に戻り、続いて苧環の糸をたどって求女(藤原淡海)が御殿に入ってくる。三笠御殿に戻ったことで橘姫が蘇我氏の娘であること悟った求女は、橘姫に「入鹿が盗んだ十握の剣を取り戻したら祝言を挙げよう」と約束する。

苧環の糸が切れてしまったお三輪だが、なんとか自力で三笠山御殿にたどり着く。そして、偶然出会った顔馴染みの豆腐買おむら(市川新蔵)から求女の正体と、二人が祝言を挙げようとしていることを明かされる。

自らを「賤(しず。ここでも静御前の謡が掛かっている)の女」と語るお三輪には、到底叶わぬ恋であるのだが、それでも一目求女に会いたいと屋敷に上がったところを、現れた女官達に散々になぶり者にされる。お三輪を一目で庶民と悟った女官達は、「到底無理」と分かっていながらお三輪に貴族階級の礼儀作法を真似るよう強要し、徹底していじめまくる。

かなり嫌な印象を受けるシーンであるが、これが漁師鱶七(ふかしち。正体は藤原鎌足の家来である金輪五郎今国。演じるのは市川九團次)に刀で胸を刺し貫かれてもお三輪が喜ぶ伏線となっている。身分違いを乗り越えても、お三輪にはいじめが待っているだけ、ならば疑着の相の女として生き血を入鹿追討に使われた方が求女こと藤原淡海のためとなる。犠牲の美しさへと繋がるのである。
お三輪は輪廻の苧環を手に、来世で求女こと淡海と夫婦になることを夢見ながら息絶える。

“三笠山御殿”でも中村児太郎の繊細な演技が見物で、初役とは思えないほどの好演となっていた。



「乗合船恵方万歳」。江戸の隅田川沿いが舞台である。ということで、常磐津節の浄瑠璃の太夫も『伊勢物語』に掛けた「都鳥」という言葉を歌う。

隅田川を渡り、岸に漕ぎ着けた船。女船頭(中村児太郎)以下、田舎侍(市川新蔵)、芸者(中村芝のぶ)、通人(市川新十郎)、白酒売(市川右若)、大工(市川升三郎)、子守(市川福太郎)の計7名は、数からも分かる通り、七福神に見立てられている。そこに三河萬歳の鶴太夫(市川九團次)と才造の亀吉(大谷廣松)が現れ、全員が芸を披露することになるという、華やかな演目である。

ストーリーらしいストーリーはない歌舞伎舞踊の演目であるが、皆、洒脱な感じもよく出ており、若々しさに溢れる上演となっていた。

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2021年5月 9日 (日)

演劇公演オンライン配信 ニットキャップシアター第40回公演「カレーと村民」オンライン配信版~じっくりと煮込んだ版~(文字のみ)

2021年5月7日視聴

有料配信で、ニットキャップシアターの第40回公演「カレーと村民」を観る。牧歌的なタイトルであるが、実は結構恐い話である。作・演出:ごまのはえ。出演:門脇俊輔、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、日詰千栄(はひふのか)、福山俊朗(はひふのか/syubiro theater)、亀井妙子(兵庫県立ピッコロ劇団)、西村貴治、越賀はなこ、山下多恵子(京都演劇スタジオ)、山下あかり、益田萌(ニットキャップシアター公式サイトに載っているwebパンフレット掲載順)。2013年に文学部と大学院文学研究科に演劇研究系の専攻がある大阪大学と同大学の本部がある吹田市との共同プロジェクトとして初演された作品の上演である。京都・東九条のTheatre E9でのライブ収録。

1905年の(明治38)大阪・吹田村の旧庄屋(関東だと名主、北陸などでは肝煎に当たる)の浜家の表玄関に面した土間が舞台である。庄屋は農民階級でありながら、武士と農民の間を取り持つ一帯の名士として苗字帯刀もしくは苗字のみを許された豪農であり、明治時代に入ってからも裕福な家が多かった。第二次世界大戦後の農地改革で没落していく家も多かったのだが、それはまだ先の話である。

浜家の家長である長男の太郎(福山俊朗)は好人物ではあるが、「長男の甚六」という言葉が合ってしまいそうな頼りない性格である。だが、妻のお茂(仲谷萌)と共に家を支えている。この時代なので、家には人が多く、母親のまん(日詰千栄)、かつては乳母でもあった奉公人のオマサ(越賀はなこ)、新しく子守として入った山田(大阪大学の本部所在地)出身のネ(おネ。高原綾子)、そしてイギリス留学から3年ぶりに帰ってきたばかりの次男の次郎(門脇俊輔)がいる。物語は、次郎がモーツァルトの歌劇「魔笛」より“パパパの二重唱”を一人で歌っているところから始まる。当然ながら、他の人々はモーツァルトも「魔笛」もなんのことかよく分からない。次郎も「パパゲーノ」「パパゲーナ」となるところも全て「パ」で歌っているため、ドイツ語や「魔笛」の内容を十全に知っているわけではないようだが、自然児とも呼ばれるパパゲーノや運命の相手であるパパゲーナのような女性に憧れているらしいことは伝わってくる。

さて、留学から帰った次郎であるが、特に仕事に就くわけでもなく就く気があるわけでもない。実家が裕福ということでいわゆる「高等遊民」となっている。この時代、実は高等遊民と呼ばれる人は結構いたわけだが、次郎が夏目漱石の『それから』の主人公である代助を意識したキャラクターであることは明らかで、彼はイギリス留学時代にロンドンで、まだ漱石と名乗る以前の夏目金之助の世話になったことがあり、その夏目金之助が夏目漱石という名で『吾輩は猫である』という小説を書いていることを知って、連載されている「ホトトギス」を読む場面がある。なお、次郎にはアキ(山下あかり)という婚約者がおり、当時としては珍しく自由恋愛(セリフに「野合で結ばれ」という表現が出てくる)なのだが、イスタンブールで様々な国の美人を見た次郎は典型的な日本人顔であるアキのことを心からは愛せなくなっていた。

そのアキは勉強する意味が分からず、女学校を辞めていた。当時の大阪は、学問的には恵まれた場所ではない。ナンバースクールである第三高等学校、通称・三高は当初は大阪に設置されたのだが、政治の中心地が東京に移ったことで不安を感じた京都市民が「未来の京都のためには学問のある若者が必要」ということで誘致を行い、三高は京都に移転。三高の上に京都帝国大学(現在の京都大学)が置かれたのだが、大阪には結局新たなナンバースクールが生まれることもなく、帝国大学を建学しようという動きも起こっていたが、近くに京都帝国大学があるという理由でなかなか実現せず、大阪帝国大学(現在の大阪大学)が開学するのは昭和になってからである。私学も関西法律学校がこの年に関西大学と名を変えた(大学と名乗るが旧制の専門学校である。私立大学が生まれるのは1918年の大学令以降となる)が、現在でも関西の四大名門私大「関関同立」に入っている大阪の大学はこの関西大学1校だけということで、往時は更に東京との差は激しかった。次郎も大阪の学問基盤の弱さ故に海外へ留学したのだが、アキにも東京の女子学校(まだ大学はなかったが、後に大学へと昇格する名門女子学校はいくつか存在した)に進むよう勧める。だが、アキは乗り気ではない。

1905年といえば、日露戦争戦勝の年である。戦勝とはいえ、実際はロマノフ王朝がロシア第一革命により危機に瀕していたため、極東の情勢に構っている場合ではなくなったことが大きいのだが、当時は情報網が発達していなかったため、「完勝」だと信じている日本人も多かった。それ故、賠償金が得られなかったことで、吹田の人々も「政府は弱腰だ!」と激怒することになる。この時の怒りのうねりとしては、東京で起こった日比谷焼き討ち事件などが有名であるが、大都市だけではなく、当時はまだ田舎であった吹田でもその火種がくすぶり始めていた。なお、太郎が新聞を皆に朗読する場面があるが、これは当時よく行われていた習慣である。諸外国に比べると識字率は高かったとはいえ、「女は学校に行かなくてもいい」「農民の子は学校に行かないで家の手伝いをした方がいい」という時代だったため、文字が読めない人や読めても内容がよく分からない人はまだまだ多かった。ちなみに太郎と次郎の母親であるまんは当然といえば当然だが江戸時代の生まれである。

次郎は学があるため、世界情勢については知悉しており、「本当に勝ったわけではない」と知っていたが、人々が求めているのは「事実」ではなく「納得出来る話」であり、「納得出来るなら嘘でもいい」ことを見抜いていた。ということで明治38年を舞台としているが、今現在に繋がることが描かれている。当時選挙権があるのは比較的裕福な25歳以上の男子だけであり、選挙権のある太郎に人々が願い出る場面がある(太郎役の福山俊朗は、実は参議院議員の福山哲朗の実弟であり、意味のある役割を与えられている)。

浜家が営む輸送船で働くお留(山下多恵子)は息子を日露戦争で失い、吹田にあるビール会社からビールを牛が引くトロッコに乗せて船着き場まで運搬する会社の社長である宮川大助(西村貴治)と妻のおはな(亀井妙子)の次男のセイロクも日露戦争で行方不明になっていたが、ようやく無事が確認されて近く戻ってくる予定である。浜家の奉公人のオマサの孫も日露戦争で戦死しており、犠牲を払ったのに賠償金なし(報道では賠償金は日清戦争の半分程度とかなり安いが支払われるとしていた)ということで、怒りに燃え、「高額の賠償金を得られるまで戦いを続けるべきだ」「そんな交渉で済ませた日本が憎い」(日本国民という大きな単位で一括りにされる危険性を含む)といったような声が上がり、「大阪に行って講和反対運動に参加しよう」と息巻く。
次郎もその場を収めるために、「戦争続行」を求める人々に賛成したふりをして兄の太郎に支援金を出させる。知恵だけは回る次郎だが確固とした思想はなく、そんな自分に嫌気がさし、最終的には子守のネと共に蒸発することになる。ちなみにネというのは秀吉の奥さんと同じ名前で、秀吉と寧は「野合で結ばれた」と表現される代表的人物であるが、意識されているのかどうかは不明。「ネ」という名では変だというので、明治に入ってからは庶民階級の女性にも付けることが許された「子」を付けて「ネ子」にしようなどといわれる場面があるが、『吾輩は猫である』に繋がっているのは確実である。

カレーの話であるが、「征露丸」(現在の「正露丸」。元々は「露西亜を征する」という意味で「征露丸」と名付けられたが、日露戦争終結後に今の表記に変わる)の模造品(関西でいう「ばったもん」)である「暴露丸」を売りに来た富山の薬売り(池川タカキヨ)が太郎や次郎と話している時に、カレーの話が出る。次郎はイギリスに留学していたため、「元々はインド料理であったがイギリスで流行し、日本に入ってきた」という正しい説明をする。当時は日英同盟下の時代であり、イギリスの文物が多く流入していた。また日本海軍でカレーが重宝されているという話も出る。カレーが浜家にも入ってくるということは軍事色が強まるという暗示でもあり、ほのぼのとした場面なのにじわじわとした恐怖を生む。この辺は巧みである。

お留(おとめ)という、坂本龍馬の姉の乙女と同じ読みの女性が出てくるが、日露戦争の際に起こった第二次坂本龍馬ブームから作られた役名なのかは不明(「おとめ」という名前自体は「これで産むのは留め」という意味を込めたありふれたものである)。アキが呉や広島市のある安芸に掛かるのかどうかもよく分からないが、この辺は言葉遊びに留まるため、深く追わなくて良いだろう。

実戦の怖ろしさは、戦地帰りの潮(うしお。これも意味ありげな役名である。演じるのは澤村喜一郎)によって語られる。潮はトラウマを抱えており、心理的要因で耳が聞こえなくなっているのだが、突然、戦地の模様を一人で演じ出す場面がある。これは結果として戦場の惨状を人々に伝えることになるのだが、人々にどれだけ影響を与えたのかは不明となっている。

ラストは、アキが東京の名門女学校への進学を決め、「頑張って勉強して、皆が幸せになれる世の中を作ります」という意味のことを朗らかに述べるも、誰も本気にはしておらず、アキが天を仰ぐ場面で終わる。結局のところ、人々は自分さえよければよく、学ぶことにも、それによって生まれる未来に期待もしていないし価値も見いだしていないのだ。政治を人任せにしている日本の現状の怖ろしさが投影されており、一種の絶望を突きつけられることになる。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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