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2021年1月16日 (土)

コンサートの記(683) ロームシアター京都開館5周年記念事業 シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」

2021年1月10日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、シリーズ 舞台芸術としての伝統芸能 Vol.4「雅楽――現代舞踏との出会い」を聴く。

来場者はいつもとは少し異なっているようである。25歳以下無料招待や、留学生のための特別チケットなどもあったようだが、ロームシアターの構造をよく知らない人が多く、少なくとも常連さんは余り来ていない。あるいは招待客が多いということも考えられる。普通に考えて、雅楽とコンテンポラリーダンスという、どちらもマイナーなジャンルの組み合わせで行われる公演に数多の人が訪れるとは思えない。雅楽の演奏を行うのは宮田まゆみ率いる伶楽舎であるが、宮田まゆみが雅楽のスターとはいえ、あくまで雅楽を聴く人の中でのスターである。東儀秀樹のように自作やポピュラー音楽を奏でる人ならファンが多いが、宮田まゆみは雅楽とクラシック音楽のみなので誰もが知っているという存在ではないと思われる。
クラシック音楽好きも、同じ時間帯に京都コンサートホールで井上道義指揮京都市交響楽団によるニューイヤーコンサートが行われるため、そちらを優先させた人が多いはずである。

 

二部構成の公演で、第一部が「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」、第二部が武満徹作曲の雅楽「秋庭歌一具(しゅうていがいちぐ)」による現代舞踏作品「残影の庭-Traces Garden」(振付・出演:金森穣。出演:ノイズム・カンパニー・ニイガタよりNoism0)の上演である。

 

第一部「開館5周年を寿ぐ雅楽演奏」の曲目は、芝祐靖作曲の「巾雫輪説(きんかりんぜつ)」、双調音取/催馬楽「新しき年」(以上、演奏:伶楽舎)、声明「普賢讃」/舞楽「陵王」(演奏と舞:音輪会)。

雅楽では、「残楽(のこりがく)」という演奏法が一般的で、これは次第に音の数を減らして最後は篳篥と箏の掛け合いになるというものである。クラシックに例えると――例える必要があるのかどうかはわからないが――ハイドンの交響曲第45番「告別」のような感じである。箏は「輪説」という自由奏法を行う。芝祐靖(しば・すけやす)は、「輪説」に焦点を絞った新作を依頼され、「残楽」とは逆に箏の独奏から始まって次第に楽器を増やし、全員合奏で終わるという、クラシック音楽に例えるとラヴェルの「ボレロ」のような曲を構想する。だがなかなか思うようには行かず、作曲には苦労したようだ。曲名にある「巾」とは箏の一番高い音のことだそうである。
箏の独奏に始まり、琵琶の独奏が加わり、篳篥、龍笛、笙が鳴り、箏は三重奏、琵琶も二重奏となる。音のボリュームと迫力の変化が楽しい曲だが、雅やかさも失うことはない。雫がせせらぎとなって川に注ぎ、ということでスメタナの「モルダウ」が意識されている可能性がある。

後白河法皇が好んだことで知られる催馬楽であるが、一時期伝承が途絶えており、江戸時代に再興されているが、平安時代のものがそのまま復活したという訳ではないようである。
「新しき年」でも芝祐靖が復元した楽譜を使用。「新しき 年の始めにや かくしこそ はれ」という歌詞が引き延ばされつつ歌われる。

音輪会による声明「普賢讃」。仏教音楽である声明だが、「普賢讃」は日蓮宗の声明の一つである。普賢菩薩を讃える声明と雅楽が融合される。散華の場もある。そのまま続けて舞楽「陵王」。舞人は、友田享。
クラシック音楽愛好者の中には、黛敏郎のバレエ音楽「舞楽」を好むという人も多いと思われるが、その「舞楽」の本家本元の舞楽の一つであり、曲調も似ている。迫力と優雅さを合わせ持ちつつどことなくユーモラスな感じもする舞も面白い。

 

第二部「残影の庭-Traces Garden」。伶楽舎が演奏する武満徹の「秋庭歌一具」は、現代雅楽を代表する作品である。武満は、雅楽について、「まさに音がたちのぼるという印象を受けた。それは、樹のように、天へ向かって起ったのである」(音楽エッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』より)とコメントしている。1962年10月、宮内庁楽部の演奏を聴いた時のコメントである。それから約10年が経った1973年に武満は国立劇場から新作雅楽の作曲の委嘱を受け、「秋庭歌」を作曲。その後、1979年に「秋庭歌」に5曲を加えた「秋庭歌一具」を完成させている。
「秋庭歌一具」は知名度も高いが、今回のようにコンテンポラリーダンスとの共演が行われたこともある。2016年に伶楽舎と勅使河原三郎によって行われたもので、この公演はその後、NHKによって放送され、私も観ている。タケミツホール(東京オペラシティコンサートホール“タケミツメモリアル”)での上演であった。

今回の上演では、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館・舞踏部門芸術監督の金森穣と彼が率いるNoism Company Niigataによる現代舞踏とのコラボレーションとなる。

武満徹の作品において「樹」は重要なモチーフとなっているが、演出・振付の金森穣が無料パンフレットに載せた文章にも、この新作ダンスが樹という風景を用いた「過ぎ去り日の残影」を描いた旨が記されている。

 

武満徹の「秋庭歌一具」は、中央に秋庭と呼ばれるスペースを置き、左右後方の三カ所に「木霊」と呼ばれる演奏者達を配置して庭の移ろいを描く。「木霊」は精霊であり、移ろいゆく時間そのものを表していると解釈することも可能である。
武満は、有名な「ノヴェンバー・ステップス」や劇伴になるが大河ドラマ「源義経」のオープニングテーマで邦楽器とオーケストラのコラボレーション作品を書いているが、そうした和と洋の対比ではなく、「武満徹が純粋な雅楽作品を書いた」ということ自体が歴史的な意義を持っている。古代中国由来で日本でだけ生き残った雅楽に、日本で生まれ育ったが西洋音楽の道に進み、フランスの評論家から「タケミツは日系フランス人だ」とまで言われた偉大なクラシックの作曲家が己の作風を注ぎ込む。これは時代と場所とが音楽として重層的且つ歴史的に立ち上がることに他ならない。世界で彼にしか書けないと言われたタケミツトーンが、歴史の集合体として生かされており、おそらく日本音楽史上に永遠に残る傑作である。

「庭」を題材にした作品も多い武満だが、時と共に姿を変えゆく庭は音楽との共通点を有し、時の移ろいもまた重要なテーマとなっている。

コンテンポラリーダンスの出演は、Noism0(金森穣、井関佐和子、山田勇気)。衣装:堂本教子。映像:遠藤龍。秋庭の前の空間でダンスが行われる。

まずは三人横並びで同じ動きを始めることでスタート。やがてその動きやポジショニングが徐々にずれていく。キャットウォークから赤い羽織のようなものが降りてきて、井関佐和子がそれを纏う。紅葉を表しているのだと思われる。だが、すぐに井関佐和子は上手に向かって退場。紅葉の時期はほんの一瞬で、秋の盛りが一瞬で過ぎ去ったことを示すのかも知れない。その後は、移ろいゆく時の流れとその回想からなるダンスが展開される。男性ダンサーは二人とも黒系の羽織を着て再登場するが、よく見ると一人は茶色、一人は黒の羽織で色が微妙に異なることがわかる。黒は「玄冬」ということで冬を表し、茶色は赤と黒の中間で晩秋もしくは初冬を表していると思われる。移ろう時の中で秋の思い出が何度もリフレインするが、赤と茶の二人のダンスから、赤と茶と黒の三人のダンスに変わり、季節が移り変わっていくことが表される。
やがて落葉した樹のオブジェが現れる。舞台上方にはいくつものロウソクの明かりが灯っているが、それも次第に下がってくる。背後には橙色の光が投影され、太陽の力が弱まり、冬が近いことが告げられる。赤色の秋の精も眠りにつき、やがて去る。
空白の舞台を囲む三方で雅楽の演奏が続く(「秋庭歌」の場面だと思われる。庭そのものが主役の場とされたのであろう)が、やがて秋の精が現れ、眠りから一瞬覚める。秋が終わる前の、一瞬の夢が展開される。舞台上にはダンスを行っている影の映像が投影され、秋の精も自身の思い出と共に舞う。天上から紅葉の葉が降り、初冬の精と冬の精も現れ、舞台上に投影された中秋の名月を李白のように掴もうと試み、失敗する。
やがて赤い羽織はワイヤーに乗って天上へと帰り、思い出としての秋も完全に終結する。秋の精と初冬の精は手に手を取って舞台から退場。冬の精が一人ポツンと残される。

ダンスを筋書きで描くというのは粋な行為ではないが、おおよそこのようなことが演じられているように見えた。金森のプロダクションノートからは、移ろいゆく今よりも移ろい去ってしまったものへの哀感が強く感じられる。秋の盛りよりもそれが過ぎ去った後を描いたシーンの数々は、一種の幻想美として目の奥に留まることとなった。

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2020年12月12日 (土)

観劇感想精選(376) 當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部「末広がり」&「廓文章」吉田屋

2020年12月7日 京都四條南座にて観劇

午後6時40分から、京都四條南座で、當る丑歳「吉例顔見世興行」東西合同大歌舞伎 第3部を観る。新型コロナの影響により、密集を避けるために3部形式となった今年の南座での顔見世。座席も前後左右1席空けのソーシャルディスタンス対応であり、歌舞伎の華である声掛けも禁止ということで寂しいが、顔見世が観られるというだけで感謝しないといけないのだろう。もっとも私自身は毎年顔見世に行っているわけではなく、行かない年もある。

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「顔見世」の第3部の演目は、「末広がり」と「廓文章(くるわぶんしょう)」吉田屋。コロナの影響で余り長い演目は出来ないが、「末広がり」と「廓文章」吉田屋は特に短く、「末広がり」が30分弱、「廓文章」吉田屋も45分程度である。

2階ロビーに立てられた口上の中には、「あまびえ」が隠れており、その後に続く疫病封じの神である祇園社(現在の八坂神社)と共に新型コロナ調伏の願が掛けられている。

 

「末広がり」の出演は、尾上右近(音羽屋)と中村米吉(播磨屋)。長唄囃子は全員、口の前に黒い布を垂らしており、頭巾を被っていない大谷吉継が並んでいるかのようである。

狂言を原作とした狂言舞踊であり、安政元年(1854)に三世桜田治助の作詞、杵屋三郎助の作曲により、江戸中村座で初演されているという。原作の主が女大名に置き換えられており、ラストは二人で華やかに踊れるよう改められている。

近年の女形は、裏声でなくかなり女性に近い声を出せる人が多い。猿之助一門(澤瀉屋)に多いのだが、播磨屋である中村米吉も女性そっくりの声を出す。舞台は京都に置き換わっているようで、太郎冠者は「都」という言葉を使っている。
米吉演じるキリッとした女大名に対し、尾上右近演じる太郎冠者は酔っ払いながら花道を歩いて登場。ユーモラスである。
本来ならもっと笑いが起こるはずなのだが、やはりコロナの患者数が増加している最中ということで、客席は遠慮がちな笑いに留まる。

タイトルにある「末広がり」というのは扇のことであり、女主人は恋しい人に自作の歌を綴った扇を送ろうと考え、太郎冠者に末広がりを買うよう申しつけたのだが、太郎冠者は末広がりが何かわからず、街を「末広がり買いましょう」と言いながら歩き回ったため、騙されて傘を買わされてしまった。帰ってきた太郎冠者は末広がりとは傘のことだと言い張る。確かに傘も末は広がっている。女主人は激怒するが、太郎冠者が申の舞を披露したため機嫌を直し、共に目出度い唄と舞を行う。尾上右近は傘の上の鞠を回すという、目出度い芸も披露した。

「末広がり」というタイトルからしてハッピーエンだとわかる作品であるが、申は「去る」に繋がるため(鬼門には鬼が「去る」よう猿の像が置かれることが多い)、今の状況に去って欲しいという願いを込めて、この演目が選ばれたのかも知れない。

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「廓文章」吉田屋。原作は近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡(ゆうぎりあわのなると)」という人形浄瑠璃のための本で、これが歌舞伎化され(歌舞伎台本に直した人物の名前はわかっていないようである)、更に六世菊五郎が再構成したのが今回上演される「廓文章」である。

出演は、松本幸四郎(高麗屋)、片岡千壽(松嶋屋)、片岡千太郎(松嶋屋)、澤村由蔵(紀伊國屋)、中村雁洋(成駒家)、澤村伊助(紀伊國屋)、片岡りき彌(松嶋屋)、片岡千次郎(松美屋)、中村壱太郎(成駒家)。

大坂が舞台である。新町遊郭の吉田屋の店先に編笠に紙衣装の男が現れる。吉田屋の下男(片岡千次郎)は、男を乞食か何かと勘違いして追い払おうとするが、主である喜左衛門の妻であるおきさ(片岡千壽)がそれを止める。編笠の中をのぞき込んだおきさは、男の正体が大坂屈指の大店である藤屋の若旦那、伊左衛門(松本幸四郎)だと気付く。伊左衛門は、新町の名妓・夕霧(実在の人物である。演じるのは中村壱太郎)に入れあげ、多額の借金を作ったため、親から勘当されたのだ。粗末ななりに変わった伊左衛門だが、夕霧が病を得たというので、心配して吉田屋までやって来たのである。
部屋に上がって夕霧を寝ながら待つことになった伊左衛門だが、目覚めてみると手持ち無沙汰であり、床の間にあった三味線を取り上げて弾いたり(一部は実際に幸四郎が奏でている)、夕霧と疎遠になったことを嘆いたりする。いったんは夕霧に会わずに帰ろうと決めた伊左衛門だが、割り切れず、部屋に残ることになる。夕霧が現れた時のことを考えて格好良く見えるポーズを考えたりする伊左衛門。
夕霧が現れる。具合は大分悪そうだが、相変わらず可憐である。伊左衛門は夕霧に掛ける言葉を見つけることが出来ず、「万歳傾城!」などとなじってしまい、今宵で二人も最後かと思えたのだが……。

「末広がり」もそうだったが、「廓文章」吉田屋も「雨降って地固まる」話になっている。南座の2階に書かれていた口上にも現れていたが、危機を乗り越えて更なる発展を期したいという歌舞伎界の祈りが込められた作品である。「今」に合うものを選んだのであろう。
ちなみに、みなで大阪締めを行う場面があるのだが、セリフこそないものの、「ここは観客にも参加して欲しいのだろうな」というのが空気でわかったため、私を含めて参加した人が結構いた。声掛けは出来ないが、違った形での一体感を得ようと試行錯誤しているのが伝わってくる。

伊左衛門を演じる幸四郎は、女形をやった経験から得たものを立役である伊左衛門に生かしているのがわかる。女形の演技を転用することで、育ちが良くて純粋で時にコミカルというボンボン像を巧みに表してみせる。
先代の幸四郎(現・二代目白鸚)が、ザ・立役という人であるため、例えば弁慶などの男っぽい役をやった場合は、当代が一生涯かけても先代に追いつくことは難しいように思われるのだが、伊左衛門役は先代には出来ないため(実際、やったことは一度もないようである)高麗屋の新しい当たり役となる可能性は高い。見た目が優男なのもプラスに働く。これまで伊左衛門を演じて当ててきたのは、坂田藤十郎、仁左衛門、愛之助、四代目鴈治郎、三代目扇雀といった上方の俳優達だが、幸四郎は3年連続で伊左衛門を演じており、江戸の歌舞伎俳優として新たなる伊左衛門像を打ち立てつつある。

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2020年12月 6日 (日)

観劇感想精選(374) 「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演2020

2020年11月29日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で「琉球舞踊と組踊」春秋座特別公演を観る。
2年に1度のペースで春秋座で公演が行われている「琉球舞踊と組踊」。今回の琉球舞踊は、琉球王朝時代ではなく、廃藩置県や琉球処分による日本の沖縄県となった後で生まれた芸能が披露される。

まず、国立劇場おきなわの芸術監督である嘉数道彦が、ウチナーグチによる挨拶を行い、それをヤマトグチに直す。今年は平年よりも気温は高めだが、「やはり京都は寒い」とのことである。
そして沖縄芸能の歴史について話す。琉球舞踊は、元々は宮中の祝賀や年中行事で披露されていたものであり、庶民は観る機会がほとんどなかったのだが、王朝時代が終わり、沖縄県になると、上演の場を芝居小屋に移すことになる。ただ王族や貴族向けの内容であったため洗練され過ぎている上に一定の教養がないとわからないということで、客足が絶えるようになってしまう。そこで生み出されたのが雑踊(ぞうおどり)というものであり、庶民を主人公とし、市井の風俗を描いた平易な作風であるため人気を博するようになった。今回は前半に雑踊作品が並んでいる。

第一部・琉球舞踊。演目は、「鳩間節」(踊り手:田口博章)、「むんじゅる」(踊り手:山城亜矢乃)、「金細工(かんぜーくー)」(指導:宮城能鳳。踊り手:石川直也、新垣悟、阿嘉修)、「木花風(むとぅはなふう)」(踊り手:宮城能鳳)、舞踊喜劇「戻り駕篭」(踊り手:金城真次、玉城匠、山城亜矢乃)。日本語(というと変かも知れないが、いわゆる大和言葉)字幕付きでの上演である。

地謡は、西江喜春(にしえ・きしゅん。地謡指導兼)、花城英樹、玉城和樹(たましろ・かずき)、和田信一(わだ・のぶかず。以上、歌三線)、安慶名久美子(あげな・くみこ。箏)、宮城英夫(笛)、平良大(たいら・だい。胡弓)、久志大樹(太鼓)。

 

日本舞踊もそうだが、琉球舞踊も身体全体を大きく見せているが、手や足は実は最短距離を通っており、無駄がない。演者は全て「最高賞受賞」「新人賞受賞」「師範」など華麗な経歴や肩書きを誇る人々で、沖縄の優れた芸能を堪能することが出来る。

沖縄県になってから生まれた雑踊ということで日本本土の芸能が積極的に取り入れられており、空手、かっぽれ、チャンバラ、狂言などお馴染みの芸が登場する。

「金細工(かんぜーくー)」は、芝居仕立てである。金細工(鍛冶屋のことだそうだ)の加那兄は、遊女の真牛を一月も連れ回してる。本当は身請けしたいのだが金がない。ということで商売道具を売ろうとするのだが上手くいかず、身をはかなんで身投げしようとしたところに左官の長兵衛が、とはならない。真牛が揚げ代は自分で払うということで、ハッピーエンドへと向かっていくという話である。

「本花風(むとぅはなふう)」は、非常にゆったりとした踊りであり、前半の演目の中では異色である。踊り手の宮城能鳳(みやぎ・のうほう)は人間国宝指定保持者であり、今回の「本花風」の振付も手掛けている。男との別れを描いた作品であり、さりげない仕草に哀感がにじむ。
登場する際も退場の際も同じようなゆっくりとした足取りだが、前者は別れへの怖れ、後者は去りがたき未練にように見え、全体をかなり緻密に練り上げているという印象を受ける。

舞踊喜歌劇「戻り駕篭」は歌舞伎舞踊「戻籠」の一部を原作に、今日も出演する玉城盛義(たまぐすく・せいぎ)が創作した作品で、タイトル通りの舞踊劇となっている。駕篭かき二人が、美女を乗せた駕篭を走らせているのだが、やがて取り合いとなる。駕篭かき二人は杖を刀代わりにチャンバラを行うなど外連味も十分。この作品では、踊り手がセリフを発し、地謡が同じ言葉を返すという趣向が特徴となっている。美女だと思っていたら実は……、という展開は狂言の「吹取」や「業平餅」と同様である。

 

第二部・組踊。演目は「二童敵討(にどうてきうち)」。まずは嘉数道彦による解説がある。タイトル通り、二人の童が敵を討つ話なのだが、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が、1719年に中国(当時は清王朝)からの冊封使をもてなすために創作した最初の組踊二編のうちの一編だそうである(もう一編は「道成寺」の翻案である「執心鐘入」)。昨年は組踊の初演から300年ということで琉球芸能にとって特別な年となったようだ。
組踊は、歌舞劇の一種であるが、琉球オペラや琉球ミュージカルとも言われており、地謡に特徴があるという。
玉城朝薫は、当時琉球が二重朝貢として使者を送っていた薩摩、更には江戸にも滞在し、能や狂言、歌舞伎などに触れたことがあるそうで、組踊創作の際に影響を受けたと思われる。

冊封使をもてなす場で上演されるということで、往時の組踊は士族の男子のみが演じることを許されていたそうである。

兄弟が父親の敵を討つという話であり、「曾我兄弟」を思い起こさせるが、「二童敵討」に登場する鶴松と亀千代の年齢はそれぞれ13歳と12歳で、曾我兄弟よりも更に若い。

出演は、玉城盛義(たまぐすく・せいぎ。あまおへ)、田口博章(鶴松)、金城真次(きんじょう・しんじ。亀千代)、宮城能鳳(母)、石川直也(供一)、新垣悟(あらかき・さとる。供二)、阿嘉修(あか・おさむ。供三)、玉城匠(たまき・たくみ。きやうちやこ持ち)。立方指導は宮城能鳳。

勝連の阿麻和利(あまおへ)は、中城(なかぐすく)の護佐丸氏の一族を滅ぼし、首里城に攻め込む準備をしているが、吉日だというので、家臣の者を連れて野原へ遊びに出掛ける。
あまおへが一族根絶やしにしたと思っていた護佐丸氏だが、13歳になる鶴松と12歳の亀千代は生きており、「親の敵を討ち取れば、二人がともに死んだとしても国がある限りは名が残る」と父を殺したあまおへに復讐する機会を窺っていた。

自己紹介などの説明や、ちょっとしたやり取りなどは、「ドミファソシド」の琉球音階を上がり下がりするだけの単純な節回しで行われるが、表に出ない心の声は、地謡がコブシたっぷりに歌い上げ、メロディーをなぞる胡弓が哀切な響きを奏でる。
鶴松、亀千代が母と対面する場面では、二人の決意と、母親の我が子を心配する気持ちが地謡で切々と歌われる。

鶴松と亀千代は、あまおへが家臣と遊んでいる野原を訪れ、自慢の舞を行い始める。二人の舞はすぐにあまおへの目にとまり、あまおへは家臣に命じて二人を呼び寄せ、目の前で舞うよう命令する。
鶴松と亀千代は、最初の内はそうでもなかったが、次第にあまおへの顔から目を逸らさずに舞うようになり、緊迫感が増す。
だが、あまおへは油断しているのか、二人の視線には気がつかず、褒美として軍配、大小の刀、羽織などを与え、更に家臣達を下がらせ、鶴松と亀千代の踊りを真似て上機嫌。そこで二人は名乗りを上げ、見事、あまおへを討ち果たすのだが、殺害の場面はギリシャ悲劇同様、見えない場所で行われる。冊封使歓待の劇で殺害シーンを見せるというのは、やはり憚られたのだろうか。

酒宴での踊り子に化けての暗殺は日本武尊の熊襲襲撃伝説に繋がる。
兄弟による仇討ちや、酒宴の場での殺害などは演劇において決して珍しい場面ではないが、「曾我兄弟の仇討ち」や日本武尊の話を朝薫が日本滞在中に知り、自作に取り入れた可能性は高い。オリジナリティが尊重されるのはもっとずっと後の時代であり、往時は「オリジナリティ」は、「勝手な思いつき」でしかなく、観る方は「なんでお前の思いつきにつき合わねばならんのだ」となる方が普通であったと思われる。実際に起こった歴史上の出来事や古くから伝わる話の方が迫真性があるという考え方は確かに納得のいくものである。

嘉数道彦の話によると、「二童敵討」は、中国からの冊封使に見せるということで、中国で盛んな儒教の要素、「君に忠、親に孝」を取り入れているとのことだったが、要は「勧善懲悪」の面白さであり、日本の時代劇と同じ要素で出来ている。「勧善懲悪もの」のテレビ時代劇は今は数がかなり少なくなってしまっているが、BSやCSなどでは流されており、また「『半沢直樹』は時代劇だ」という言葉が聞こえてくるなど、現代劇であっても人々は勧善懲悪の物語を求めている。明らかな悪が退治される話に胸がすくというのは、世界中どこへいってもそう変わらないだろう。

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2020年11月29日 (日)

観劇感想精選(370) 風琴工房 「紅き深爪」

2006年8月1日 左京区下鴨の人間座スタジオにて観劇

下鴨にある人間座スタジオで、東京の劇団、風琴工房の「紅き深爪」を観る。作・演出:詩森ろば。風琴工房も“TOKYO SCAPE”で上洛して公演を行っている劇団の一つだ。

「紅き深爪」は幼児虐待やアダルトチルドレンをテーマとした芝居である。

まず、人物設定が細かいことに感心する。箱書きにはおそらく個々の登場人物に関してかなり書き込まれているはずで、丁寧な仕事ぶりを好ましく思う。
サブテキストもわかりやすく、姉妹がなぜこれほど性格が異なるのか、彼女たちがどんな子供時代を過ごし、どのように成長してきたかが手に取るようにわかる。
病室が舞台であり、姉妹の母がカーテンの向こうで死の床に就いているのだが、この母親の人物像も自然なセリフでわかりやすく説明される(映画「愛を乞うひと」の原田美枝子のような人だったらしい)。

少しステレオタイプかな、と感じた場面も実は狙いであったことがわかり、「やるな」と思う。作家はよく勉強している。

役者のレベルにはややバラツキがあるが、上手い役者はとにかく上手く、全体の水準が引き上げられていた。

見応えのある芝居であった(全席指定であり、最前列に座ることになったのだが、最前列で観るには重い芝居ではあったが)。ただ、この手の芝居は好き嫌いがはっきり分かれるのが常である。「愛を乞うひと」が嫌いな人は(「『愛を乞うひと』なんて二度と見たくない」という人を私は何人か知っている)この劇も苦手なはずだ。

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2020年11月27日 (金)

観劇感想精選(369) 「獣道一直線!!!」

2020年11月21日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都メインホールで、「獣道一直線(じゅうどういっちょくせん)!!!」を観る。生瀬勝久、池田成志、古田新太からなるユニット「ねずみの三銃士」の6年ぶりの公演である。

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ねずみの三銃士は、毎回、宮藤官九郎の脚本、河原雅彦の演出で公演を行っている。2004年の初公演「鈍獣」で宮藤官九郎が岸田国士戯曲賞を受賞し、3作目の「万獣こわい」は読売演劇大賞優秀作品賞を受賞するなど、評価も高い。2009年に三田佳子を主演に招いて話題を呼んだ「印獣」、2014年には夏帆がキーパーソンを演じた「万獣こわい」と5年おきに公演を行っており、「万獣こわい」の大阪公演のカーテンコールで生瀬勝久が、「また5年後にお会いしましょう」と語っていたが、ねずみ年に合わせたのかPARCO劇場のオープニングに合わせたのか、6年後の公演となった。

宮藤官九郎が脚本を手掛けたテレビドラマや映画には好きな作品がいくつもあり、俳優としても気に入っているのだが、劇作となるとなぜか外れと感じるものが多い。劇作家・宮藤官九郎とは余り相性が良くないようである。今回もロームシアター京都での公演でなかったら行かなかったと思うが、コロナの影響で今年はまだメインホールに入っていないため、なんとしてでも行ってみたかった。劇の内容は二の次である。

これまでポピュラー音楽用とオペラ公演用に適したホールがなかった京都。ポピュラー音楽の方は、「京都で公演を行いたい」と思うアーティストが多いということもあり、盛況であるが、オペラの公演は年に2回程度、今年は小澤征爾音楽塾が中止になったため高校生のためのオペラ鑑賞教室で「魔笛」が上演されただけ、演劇となると更に不振で良質の演劇が上演されることは極めて少ない。メインホールの場合は更に限られて、演劇の公演が行われたのは、ミュージカル「わたしは真悟」に続いて今回が2回目だと思われる。

ストレートプレーにキャパ2000はやはり多いようで、今回は1階席と2階席のみを利用しての上演である。

作・出演:宮藤官九郎、演出:河原雅彦。出演は、生瀬勝久、池田成志、古田新太、山本美月、池谷のぶえ。「ねずみの三銃士」公演に宮藤官九郎が出演するのは初となる。

一見、そうは見えないが、コロナ下における演劇を題材にした作品である。

ねずみの三銃士は犯罪を題材にしたホラーチックな作品を上演するのが常だが、今回も木嶋佳苗死刑囚が起こした「首都圏連続不審死事件」をベースに、「東池袋自動車暴走死傷事故」、「常磐自動車道あおり運転殴打事件」(ガラケーで撮影を行うシーンあり)など、いくつかの犯罪事件の断片が鏤められている。

まず登場するのは三人の売れない俳優である。パニック障害を患う生汗勝々(なまあせかつかつ。生瀬勝久)、不安神経症レベルの心配症に悩んでいる池手成芯(いけでなるしん。池田成志)、アルコール中毒の古新田太(ふるあらたふとし。古田新太)である。生汗勝々は、日本版「アベンジャーズ」のオーディションだと聞いてこの場所に来たのだが、現れた女性審査員(ぱわ原雅ぴ子。演じるのは池谷のぶえ)の様子も見るからに変であり、戸惑う。実はコロナによって俳優は「不要不急」の仕事とされたため、福島県にある練り物工場で強制労働に従事させられることになり、障害を持つ三人が集められたのはそのためで、オーディションというのは罠だったのだ。

その福島県に住む苗田松子(なえだまつこ)という女性(池谷のぶえ)に不審の目が向けられていた。松子は出会い系サイトで知り合った三人の男性とつき合っていたのだが、そのうちの二人が不審死を遂げており、松子は多額の保険金などを受け取っていた。松子とつき合ったことのある男達の証言によると松子というのは「とにかくいい女」とのことだったが、実際は冴えない太めのおばちゃんである。

苗田松子の事件を取材しているドキュメンタリー映像作家の関(宮藤官九郎)は、妻のかなえ(山本美月)の協力を得て、松子の住む福島に取材に出掛けていた。かなえは、松子が開設していたブログの記事を読破するなど、松子に関するありとあらゆる情報を仕入れていた。そして二人でまず「魔性の女」という映像を作ったのだが、現れた松子は「魔性の女」のイメージとはほど遠い存在である。

かまぼこ工場で俳優を使った松子の人生の再現ドラマ制作が始まる。演じる俳優は当然ながら、生汗勝々、池手成芯、古新田太の三人である。三人はそれぞれ松子の被害者男性を演じる。実は関は自称「保守的」な映像作家で、フィクションについては懐疑的だった。松子の提案で再現ドラマを撮影することにはしたが、実は関の狙いは他にあった。

苗田松子であるが、アナグラムによる前田夏子などいくつかの偽名を使い分けていた。本名は松戸かなえ(松戸という役名は、木嶋佳苗死刑囚が最初の事件を起こした千葉県松戸市から取られたのだと思われる)。犯罪者ではあるが、自分を素材の何倍も魅力的な女に見せるという、俳優の素質にも繋がるものを持った人物である。

関の妻であるかなえも、名前が同じ松戸かなえにどんどん引き寄せられていく。
やがて池谷のぶえと山本美月は二人で一人のかなえ像として男達を魅惑するようになる……。

グロテスクなラストなど、いつも通りのホラーコメディ路線の作品ではあるのだが、実際に描かれているのは、演劇を「不急不要」と決めつけた人々への復讐である。昨日観た野田秀樹潤色の「真夏の夜の夢」もそうだが、今の時期にフィクションの必要性について語ることは極めて重要であり、新型コロナウイルスに罹患した宮藤官九郎がそのことについて何も触れない方が不自然である。
ねずみの三銃士の作品のうち、「鈍獣」は戯曲と映像を観たが、隠れたところで復讐劇が行われているという共通点がある。

正直、好きなタイプの作品ではないし、ヒロインの山本美月も弱いのだが、宮藤官九郎が語りたかったことは受け止めることが出来たように思う。

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2020年11月14日 (土)

観劇感想精選(366) 加藤健一事務所 「木の皿」2006京都

2006年7月9日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後4時から京都府立府民ホールALTI(アルティ)で、加藤健一事務所の「木の皿」を観る。エドマンド・モリス作(小田島恒志:訳)、久世龍之介:演出。

「木の皿」は、2003年に日本初演(やはり加藤健一事務所による。京都公演も行われたが、私は見に行けなかった)された作品。頑固な老人とその家族を巡る葛藤劇である。

1953年、アメリカ・テキサス州の田舎町。かつてはテキサス開拓に大いに貢献したロン(加藤健一)も今では78歳の老人だ。次男のグレン(鈴木一功)と共に暮らすロンだが、体力が衰え、視力も落ちたのに「眼鏡なんかかけられるか」という頑固者であるため、家の花瓶やら皿やらをしょっちゅう割っている。普通の皿はすぐに割ってしまうため、食事は木の皿で摂らされている。煙草好きであるが、意識も低下し始めているため、たびたびボヤ騒ぎも起こしている。
そんなロンの介護に疲れたクララ(グレンの妻。大西多摩恵が演じる)はロンを老人ホームへ入れる計画を立てていた。しかし、老人ホームを見に行ったグレンはその施設の余りの酷さを見て猛反対。グレンとクララの子で、おじいちゃんっ子であるスーザン(加藤忍)も当然反対だ。
グレンとクララから連絡を受けて、ロンの長男であるフロイド(大島宇三郎)が20年ぶりにロンの家に帰ってくる。しかし、フロイドが自分を老人ホームに入れるための相談にやって来たと知ったロンは激怒してしまい……。

初演時はグレンを演じた加藤健一であるが、今回は老人であるロン役に挑戦。達者な演技を見せてくれる。

観ていて、「幸福な家庭はみな一様に幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」(『アンナ・カレーニナ』冒頭)というトルストイの言葉が浮かぶ。またロンの友人であるサム・イェーガーが、ロンに「一緒に牧場経営をして暮らそう」と持ちかける下りが、スタインベックの『二十日鼠と人間』を連想させたり、設定もシェイクスピアの『リア王』やバルザックの『ゴリオ爺さん』を思わせたりと、様々な名作の要素がここかしこに見え隠れするが、パクリなどという低レベルな次元に留まらない独立した立派な作品に仕上がっている。

登場人物は全部で10人だが、彼らの全員の中に私は私の姿を見出した。言い換えると、私も彼らの性格を少しずつではあるが持ち合わせているということになる。

老いた義父を老人ホームへ送ろうとするクララも決して悪人ではない。彼女もロンの介護を20年以上も見続けて、自分の人生を犠牲にしてきたのだ。20年もロンの前に姿を見せなかったフロイドも父親が嫌いなわけではないし、逆にロンを老人ホームに送ることに反対するグレンも必ずしも善人ではない。ロンのことが大好きなスーザンも善人というより世間知らずという要素の方が強い。善でも悪でもないが故の葛藤が生まれている。だが完全な悪人が存在しないため事態は一層深刻だ。ゴネリルやリーガン(いずれも『リア王』の娘)のような突き抜けた人物がいれば話はもっと単純なのだが。

作中に「罠のようだ」というセリフがあるが、まさに誰かが仕掛けた、あるいは誰も仕掛けなかったが故により複雑で残酷になってしまった罠に全員が落ちていく。完全な悪人がいないので却って救いがない。

登場人物の言動を批判するのは簡単だが、彼ら全員の中に私は私自身が持っている性格を見出せるし理解も出来るので、そうした批判は私自身の胸に鋭利な刃となって返ってくる。
残酷な芝居である。だが、誤解を恐れずに言えば、そうした残酷さは私自身の中にもあり、それが故の切実さと感動を覚える。

特にラストのスーザンのセリフは痛切だ(ネタバレになるので書けないのが残念である)。こういうセリフを本当の意味での「リアルなセリフ」というのだろう。

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2020年11月 7日 (土)

観劇感想精選(364) 「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」

2020年11月3日 烏丸迎賓館通りの金剛能楽堂にて観劇

午後2時から、京都御苑の西、京都府立府民ホールアルティのすぐ北にある金剛能楽堂で、「狂言 ござる乃座 in KYOTO 15th」を観る。野村萬斎が主催する狂言公演「ござる乃座」の京都公演。今回で15回目となった。
ちなみに野村萬斎は、現在、Eテレの「100分間de名著『伊勢物語』」に朗読担当として出演しており、昨夜第1回が放送されている。

演目は、「清水座頭(きよみずざとう)」と「止動方角(しどうほうがく)」。共に京都を舞台とした作品である。

「清水座頭」の出演は、野村万作(座頭)と野村萬斎(瞽女)。
まず「この辺りに住まい致す瞽女」が登場する。3年ほど前から目が見えなくなり、生業を失い、夫もいないということで行く末を憂いて清水寺の観世音菩薩に参詣し、その夜は本堂に籠もることにする。
しばらくすると座頭がやって来る。座頭も清水寺の観世音菩薩に妻となるべき人に出会えないことを嘆き、妻ごいをする。
瞽女がいるとは知らず、本堂に籠もろうとした座頭は無遠慮に近づいたということで瞽女と喧嘩になるが、互いが本当に目が見えないと分かると謡を交わす。
やがて瞽女は、観世音菩薩から「西門のところで夫となる者と出会う」との託宣を授かり、座頭も「西門のところに妻となる女がいる」とのお告げを受ける……。

婚活の曲ともいわれ、ロマンティックな展開となるが、自ずから杖をついているのではなく、神仏によって杖で導かれているという浄土真宗的な解釈をするとロマンの度合いは更に増す。

謡であるが、恋路を扱った作品にしてはかなりナンセンスな言葉が選ばれており、源平合戦の一ノ谷の戦いで、で頤(おとがい。顎のこと)を切られた武者と踵(きびす)を切られた武者が、忙しいので慌てて切られた頤に切り落とされた踵を付け、傷を負った踵に切断された頤を付けると、踵から髭が生え、頤があかぎれになるという変なものである。よく分からないが、これは「割れ鍋に綴じ蓋」ということなのだろうか? 解釈せずに戯れ言として捉えた方が謡が生きるのかも知れないが。

瞽女の謡う「地主の桜」は、清水寺境内にある地主神社の桜のことであるが、この時代から地主神社が縁結びの神様として名高かったことが窺える。

 

「止動方角」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、野村太一郎(主)、深田博治(伯父)、飯田豪(馬)。

主が、東山での茶会(内容は茶葉の生産地を当てたり、品質を見抜いたりする闘茶)に参加することになるのだが、見栄を張るため、茶器や太刀や馬を伯父に借りてこいと太郎冠者に無理を言う。野村萬斎演じる太郎冠者は、「え゛?」と現代風にボケたりして、狂言を客体化し、主の無理難題っぷりを誇張する。こうした一種のパースペクティブは効果的であり、これが伏線となってラストでは、セリフが変わっておらず、演技や表情にも作為的なものは見えないのにニュアンスが変化しているような印象を受ける。
太郎冠者が活躍する「太郎冠者物」の傑作であるが、野村萬斎演じる太郎冠者の人間くささが実に良い。主という絶対的権力に媚びずに挑みかかる存在であり、私は余り見ていないが「半沢直樹」に繋がるような一種の爽快さを生み出しているように思われる。

ちなみにタイトルの「止動方角」というのは、後ろで咳をすると暴れ出すという馬を止めるときの呪文である。

 

演目終了後に野村萬斎からの挨拶がある。羽織袴姿で登場した萬斎は観劇が「勇気と覚悟が必要」なものになってしまったことを語ったが、一席空け(萬斎は「市松」と表現)にするなど感染症対策を十分に行った上での上演であること、15回目ということで盛大にやりたかったが、演目も登場人物の少ないものを選んで、接触をなるべく減らしていることなどを語った。
「清水座頭」については、「座頭が卒寿、瞽女が五十代半ばということで年の行ったカップル」と表現して笑いを取る。
「止動方角」で見られるように、狂言は身分の高い人が酷い目に遭うことが多いのだが、能・狂言は、室町幕府、豊臣政権、江戸幕府、朝廷が公認し、後ろ盾となってきた芸能であり、「一種のガス抜き効果」があったと萬斎は解釈を述べる。
ちなみに、今回の上演は有料配信用の収録が行われ、特別解説付きで11月13日から期間限定で配信されるが、午前中に解説用の映像を撮るために清水寺に行ってきたそうで、西門から見る京都市街とその向こうの西山に落ちる夕日に極楽浄土が見立てられているという話をしたが、それも有料配信用の宣伝であり、続きは配信でということのようである。

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2020年10月28日 (水)

観劇感想精選(361) 五反田団 「ふたりいる景色」

2006年5月27日 京都芸術センターフリースペースにて観劇

京都芸術センターへ。フリースペースで東京の劇団である「五反田団」が公演を行うのだ。

五反田団の「ふたりいる景色」は午後7時30分開演。作・演出:前田司郎。
セットも照明も最小限のものに留めたシンプルな舞台である。

いい年をして何をするでもなく部屋に閉じこもっている男(金替康博)と、その男を愛してしまい、同棲している女(後藤飛鳥。役名はヒトミだが、配役表には単に「女1」としか記されていない)。男は食事もろくに摂らず、胡麻ばかり食べている。悪い男ではないのだろう。むしろ人柄は良いかも知れない。しかし、社会能力が完全に欠如している。
胡麻だけを食べて、「即身仏になる」などと男は言い、女はそんな男に呆れながらも離れることが出来ない……。

駄目な男(かつては今ほど駄目男ではなかったのだろうが)を愛してしまった女のこんがらがってしまった感情や切ない思いが惻々とこちらの胸に迫る。「何故?」、「どうして?」と内面で自問しながらも男のことが好きで好きで離れられない女。しかし、男は無邪気というのか、想像力に欠けるというべきか、視線も興味も自分自身にだけ向いている。自己本位で完結していればまだ良いのだが、男は本当の孤独は苦手のようだ。男は誰かを求めているのだが、それは心からヒトミを求めているということではないようだ。愛さえも曖昧な「意識」。

実は男の元彼女である、ヒトミの親友(女2)や、胡麻の精である妙な女(女3)なども登場し、話が暗くなりすぎたり、一本調子になったりするのを避け、観客が男に対して持つ可能性のあるイライラ感も絶妙に逸らしている。

ラストで旅行に出かける二人。問題は解決せず、二人は袋小路のような所に追いつめられているのだが(はっきりと示されてはいないが)、暗さを感じさせないのもまた良し。

正真正銘の駄目男に見事に成りきってみせた金替康博の演技は説得力もあり、流石と思わせる。

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2020年10月17日 (土)

観劇感想精選(359) 「ゲルニカ」

2020年10月10日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で「ゲルニカ」を観る。作:長田育恵(おさだ・いくえ。てがみ座)、演出:栗山民也。栗山民也がパブロ・ピカソの代表作である「ゲルニカ」を直接観た衝撃から、長田に台本執筆を依頼して完成させた作品である。出演:上白石萌歌、中山優馬、勝地涼、早霧せいな(さぎり・せいな)、玉置玲央(たまおき・れお)、松島庄汰、林田一高、後藤剛範(ごとう・たけのり)、谷川昭一郎(たにがわ・しょういちろう)、石村みか、谷田歩、キムラ緑子。音楽:国広和毅。

上白石姉妹の妹さんである上白石萌歌、関西ジャニーズ所属で関西テレビのエンタメ紹介番組「ピーチケパーチケ」レギュラーの中山優馬、本業以外でも話題の勝地涼、京都で学生時代を過ごし、キャリアをスタートさせた実力派女優のキムラ緑子など、魅力的なキャスティングである。

ピカソが代表作となる「ゲルニカ」を描くきっかけとなったバスク地方の都市・ゲルニカでの無差別爆撃に到るまでを描いた歴史劇である。当然ながらスペインが舞台になっているが、コロナ禍で明らかとなった日本の実情も盛り込まれており、単なる異国を描いた作品に終わらせてはいない。

京都劇場のコロナ対策は、ザ・シンフォニーホールでも見た柱形の装置による検温と京都府独自の追跡サービスへのQRコード読み取りによる登録、手指の消毒などである。フェイスシールドを付けたスタッフも多い。前日にメールが届き、半券の裏側に氏名と電話番号を予め書いておくことが求められたが、メールが届かなかったり、チェックをしなかった人のために記入用の机とシルペン(使い捨て用鉛筆)が用意されていた。客席は左右1席空け。京都劇場の2階席は視界を確保するために前の席の斜交いにしているため、前後が1席分完全に空いているわけではないが、距離的には十分だと思われる。

紗幕が上がると、出演者全員が舞台後方のスクリーンの前に横一列に並んでいる。やがてスペイン的な手拍子が始まり、今日が月曜日であり、晴れであること、月曜日にはゲルニカの街には市が立つことがなどが歌われる。詩的な語りや文章の存在もこの劇の特徴となっている。

1936年、スペイン・バスク地方の小都市、ゲルニカ。フランスとスペインに跨がる形で広がっているバスク地方は極めて謎の多い地域として知られている。スペインとフランスの国境を挟んでいるが、バスク人はスペイン人にもフランス人にも似ていない。バスク語を話し、独自の文化を持つ。

バスク地方の領主の娘であるサラ(上白石萌歌)は、テオ(松島庄汰)と結婚することになっていた。サラの父親はすでになく、男の子の残さなかったため、正統的な後継者がこれでようやく決まると思われていた。しかし、フランコ将軍が反乱の狼煙を上げたことで、スペイン全土が揺るぎ、婚礼は中止となる。教会はフランコ率いる反乱軍を支持し、テオも反乱軍の兵士として戦地に赴く。当時のスペイン共和国(第二共和国。スペインは現在は王政が復活している)では、スペイン共産党、スペイン社会労働党等の左派からなる親ソ連の人民戦線が政権を握っており、共産化に反対する人々は反乱軍を支持していた。フランコはその後、世界史上悪名高い軍事独裁政権を築くのであるが、この時には人々はまだそんな未来は知るべくもない。
反共の反乱軍をナチス・ドイツ、ファシスト党政権下のイタリア、軍事政権下のポルトガルが支持。日露戦争に勝利した日本も反乱軍に武器などを送っている。一方、左派の知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルロー、イギリスのジョージ・オーウェルらが共和国側支持の一兵卒として参加していたこともよく知られている。
バスクは思想によって分断され、ゲルニカのあるビスカヤ県は多くが人民戦線を支持する共和国側に立ち、1936年10月、共和国側は、バスクの自治を認める。だが翌1937年4月26日、晴れの月曜日、反乱軍はゲルニカに対して無差別爆撃を行った。市民を巻き込んだ無差別爆撃は、これが史上初となった。当時、パリにいたピカソは怒りに震え、大作「ゲルニカ」の制作を開始する。

 

サラの母親であるマリア(キムラ緑子)は、サラがテオと結婚することで自身の家が往年の輝きを取り戻せると考えていた。バスクは男女同権の気風が強いようだが、家主が女では見くびられたようである。しかし、内戦勃発により婚礼を済まさぬままテオは戦場へと向かい、マリアの期待は裏切られる。その後、サラはマリアから自身が実はマリアの子ではないということを知らされる。今は亡き父親が、ジプシーとの間に生んだ子がサラだったのだ。サラはマリアの下から離れ、かつて料理番として父親に仕えていたイシドロ(谷川昭一郎)の食堂に泊まり込みで働くことを決める。


一方、大学で数学を専攻するイグナシオ(中山優馬)は、大学を辞め、共和国側に参加する意志を固めていた。イグナシオはユダヤ人の血を引いており、そのことで悩んでいた。田園地帯を歩いていたイグナシオはテオとばったり出会い、決闘を行う格好になる。結果としてテオを射殺することになったイグナシオは、テオの遺品である日記に書かれたサラという名の女性を探すことになる。

イシドロの食堂では、ハビエル(玉置玲央)やアントニオ(後藤剛範)らバスク民族党の若者がバスクの誇るについて語るのだが、樫の木の聖地であるゲルニカにバスク人以外が来るべきではないという考えを持っていたり、難民を襲撃するなど排他的な態度を露わにしていた。

一方、従軍記者であるクリフ(イギリス出身。演じるのは勝地涼)とレイチェル(パリから来たと自己紹介している。フランス人なのかどうかは定かでない。演じるのは早霧せいな)はスペイン内戦の取材を各地で行っている。最初は別々に活動していたのだが、フランスのビリアトゥの街で出会い、その後は行動を共にするようになる。レイチェルはこの年に行われた「ヒトラーのオリンピック」ことベルリン・オリンピックを取材しており、嫌悪感を抱いたことを口にする。
レイチェルが事実に即した報道を信条としているのに対し、クリフはいかに人々の耳目を引く記事を書けるかに懸けており、レイチェルの文章を「つまらない」などと評する。二人の書いた記事は、舞台後方のスクリーンに映し出される。

イグナシオからテオの遺品を受け取ったサラは、互いに正統なスペイン人の血を引いていないということを知り、恋に落ちる。だがそれもつかの間、イグナシオには裏の顔があり、入隊した彼はある密命を帯びてマリアの下を訪ねる。それはゲルニカの街の命運を左右する任務であった。マリアは判断を下す。

 

ゲルニカの悲劇に到るまでを描いた歴史劇であるが、世界中が分断という「形の見えない内戦」状態にあることを示唆する内容となっており、見応えのある仕上がりとなっている。

新型コロナウイルスという人類共通の敵の出現により、あるいは歩み寄れる可能性もあった人類であるが、結局は責任のなすりつけ合いや、根拠のない差別や思い込み、エゴイズムとヒロイズムの暗躍、反知性主義の蔓延などにより、今置かれている人類の立場の危うさがより顕著になっただけであった。劇中でクリフが「希望」の残酷さを語るが、それは今まさに多くの人々が感じていることでもある。

クリフはマスコミの代表者でもあるのだが、センセーショナルと承認を求める現代のSNS社会の危うさを体現している存在でもある。
報道や情報もだが、信条や矜持など全てが行き過ぎてしまった社会の先にある危うさが「ゲルニカ」では描かれている。

ゲルニカ爆撃のシーンは、上から紗幕が降りてきて、それに俳優達が絡みつき、押しつぶされる格好となり、ピカソのゲルニカの映像が投影されることで描かれる。映像が終わったところで紗幕が落ち、空白が訪れる。その空白の残酷さを我々は真剣に見つめるべきであるように思われる。

劇はクリフが書き記したゲルニカの惨状によって閉じられる。伝えることの誇りが仄見える場面でもある。

 

姉の上白石萌音と共に、今後が最も期待される女優の一人である上白石萌歌。薩摩美人的な姉とは違い、西洋人のような顔と雰囲気を持つが、姉同様、筋の良さを感じさせる演技力の持ち主である。

 

関西では高い知名度を誇る中山優馬も、イグナシオの知的で誠実な一面や揺れる心情を上手く演じていた。

 

万能女優であるキムラ緑子にこの役はちょっと物足りない気もするが、京都で学生時代を過ごした彼女が、京都の劇場でこの芝居を演じる意味は大いにある。ある意味バスク的ともいえる京都の街でこの劇が、京都に縁のある俳優によって演じられる意味は決して軽くないであろう。

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2020年10月 7日 (水)

観劇感想精選(356) 「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」

2020年10月4日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午前11時から、京都芸術劇場春秋座で、「市川猿之助 藤間勘十郎 春秋座花形舞踊公演」を観る。春秋座の芸術監督である市川猿之助による久しぶりの舞踊公演である。今回は単独ではなく、藤間勘十郎を迎えての二枚看板での公演となった。

藤間勘十郎は、宗家藤間流の八世宗家であるが、少年時代に大河ドラマ「独眼竜政宗」で、「梵天丸もかくありたい」と言っていた少年の今の姿といった方があるいは分かりやすいかも知れない。

 

演目は、「檜垣」、「玉兎」、「黒塚~月の巻より~」、「悪太郎」。「玉兎」以外は澤瀉屋のお家芸として知られている作品である。「悪太郎」以外は特別な衣装を用いない素踊での上演となる。

 

春秋座もコロナ対策を行っており、チケットの半券の裏に氏名、電話番号、住所(それほど詳しくなくても良いらしい)を記入。フェイスシールドを用いているスタッフも何人かいる。
座席も前後左右最低1席空けであるが、舞台に近い座席はそのまま使用し、希望者にはフェイスシールドが無料で配布されるようになっていた。また退場の際に出口付近で混雑が発生するのを防ぐため整理退場が行われた。

 

「檜垣」。出演は、藤間勘十郎(関守の檜垣の老女、実は老女の亡魂)、中村鷹之資(小野小町)、市川猿之助(四位の少将=深草少将)。

深草少将と小野小町の話は、通常は深草少将が一方的に小野小町に恋をして、「百日連続で通ったらなら」という約束を果たす直前に亡くなったという悲劇として語られることが多い。そもそも百日通うこと自体が無理な約束であるため、小町としては深草少将に諦めて貰うつもりで無理な約束をしたとされるのだが、「檜垣」ではストーリーの展開上、深草少将と小野小町が相思相愛であったという設定に変わっている。
以前、少将を慕っていた檜垣の老女が、死してなお小町に嫉妬するという話である。老女が小町に、「いね(「去れ」「あっち行け」)」と言うセリフがあるなど、分かりやすさを重視している。
老女が井戸に映った己の年老いた姿を見て、怒りに震えるシーンがあるのだが、井戸から真っ赤な光が溢れ出てきて、まるでムンクの絵画のような独特の恐怖感を描き出していた。

 

「玉兎」。中村鷹之資による舞踊。餅つきがモチーフになっており、臼が置かれ、杵を手にして踊るなど、愛らしさが印象的な舞である。

 

市川猿之助の独演である「黒塚~月の巻より~」。三味線は宮川町の今藤美佐緒が奏でる。今日は長唄囃子はマスクの代わりに口の前に黒い布を垂らして謡う。尺八も飛沫防止のため黒い布を垂らしながら吹いていた。

鬼女伝説で知られる安達ヶ原を舞台に行われる舞踊劇。猿之助の細やかにして確かな動きが観る者を惹きつける。
「黒塚」はおどろおどろしい話として知られているが、今回の舞踊ではそうした要素はほぼなしであり、観世音による救いの場面で終わる。これは次の「悪太郎」にも繋がる終わり方である。

 

狂言が原作である「悪太郎」。「甲府の子天狗」こと……、といっても若い人には通じないか。時代劇で「悪」と付く場合は、いわゆる「悪」ではなく「強い」という意味であることが多いのだが、この演目の悪太郎は、乱暴で嫌われ者という今でいうところの「悪」に近い名前である。
この演目では猿之助は歌舞伎の、藤間勘十郎は能の衣装を着けて演じる。セリフも猿之助が歌舞伎調で、勧十郎は普通の語りに近いため、不思議な世界が現出する。意図的にミスマッチを狙った演出(猿之助と勘十郎が共同で行っている)だと思われる。

ストーリーは「悪人正機」ということで真宗的とされるが、それよりも時宗の教えをなぞっているようなところがある。そもそも能・狂言自体が阿弥号を持つ同朋衆が広めたものであるため、時宗とは極めて近しい間柄である。

叔父安木松之丞(市川猿弥)と太郎冠者(中村鷹之資)は、乱暴者の甥、悪太郎に手を焼いている。この日も悪太郎は酒に酔ったまま街道を歩いていると、西近江の寺から東近江の名刹に参詣に向かう修行者智蓮坊(藤間勘十郎)と出会う。悪太郎は智蓮坊と同道することに決めるが、長刀を振り回したり、脅したりするため智蓮坊は迷惑顔である。なんとか悪太郎から離れることが出来た智蓮坊。悪太郎は街道の真ん中で眠り込んでしまう。そこへ安木と太郎冠者がやって来て、熟睡している悪太郎の頭を丸め、そばに墨染めの衣と鉦(かね)を置く。目覚めた悪太郎に、太郎冠者は仏からの夢告を装って、「南無阿弥陀仏」と名乗るよう命じる。墨染めの衣と鉦を見つけた悪太郎は、南無阿弥陀仏という名前の僧侶として生きることに決める。そこに「南無阿弥陀仏」と唱えながらやって来る男が一人。修行者智蓮坊である。南無阿弥陀仏を自分の名前だと思っている悪太郎は、智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と念仏を行うたびに返事をしたため、相手が悪太郎だと気付かない智蓮坊に不審がられ……。

ラストは出演者4人による法悦の踊り念仏となり、ミニマルな高揚感が劇場を支配する。市川猿弥が転倒するアクシデントがあったが、すぐに立ち上がって踊りを続けたため、失敗のうちには入らないだろう。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだという元祖芸能スターによるヒット曲、一遍の「踊り念仏」に立ち会えたようで嬉しくなった。

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