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2022年5月14日 (土)

観劇感想精選(434) 加藤健一事務所 「サンシャイン・ボーイズ」

2022年5月3日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所創立40周年・加藤健一役者人生50周年記念公演第1弾「サンシャイン・ボーイズ」を観る。
本来は一昨年に予定されていた公演であるが、コロナ禍により延期となり、本年に改めて上演されることとなった。

出演:加藤健一、佐藤B作、佐川和正(文学座)、田中利花、照屋実、加藤義宗、韓佑華。声の出演:清水明彦(文学座)、加藤忍。テキスト日本語訳:小田島恒志、小田島則子。
演出は、堤泰之が手掛ける。

「サンシャイン・ボーイズ」は、ニール・サイモンの代表作であり、ニール・サイモンに憧れて演劇を志した三谷幸喜(彼は本来は映画監督志望であったため、最初から演劇を目指していたという訳ではないのだが)が、自身が日大藝術学部時代に旗揚げした劇団に、東京サンシャインボーイズという名を与えたことでも知られる。
私が東京サンシャインボーイズの公演に接した経験は一度だけで、東京・新宿の紀伊國屋ホールで行われた「ショウ・マスト・ゴー・オン ~幕をおろすな!」の1994年再演版がそれなのだが、実はその時、座長である宇沢萬役で出演していたのが佐藤B作であった。当時の東京サンシャインボーイズは、看板俳優であった西村雅彦(現・西村まさ彦)が、三谷の脚本である「振り返れば奴がいる」への出演や、フジテレビの深夜音楽特集の一つである「マエストロ」に主演するなどして知名度を急速に高めていたが、知名度自体では客演の佐藤B作が最も高かった。

サンシャイン・ボーイズと佐藤B作が繋がったということで、個人的な原点回帰のようで嬉しくなる。


出演者は比較的多めだが、実質的には、かつて「サンシャイン・ボーイズ」の名でヴォードヴィル界を沸かせた、ウィリー・クラーク(今回演じるのは加藤健一)とアル・ルイス(同じく佐藤B作)の二人が軸であり、本道ではないが一種のバディものとなっているのが特徴である。時折、バディもの映画の代表的存在である「明日に向かって撃て!」のオープニング&エンディングテーマ(“Not Goin' Home Anymore” バート・バカラック作曲)が流れ、以前の二人の関係がノスタルジックに浮かび上がる。この音楽による演出はとても良い。


かつてアル・ルイスとコンビを組み、サンシャイン・ボーイズの名で一世を風靡したウィリー・クラーク。サンシャイン・ボーイズとして43年活躍したが、12年前にウィリーとアルの間で諍いが生じ、11年前にサンシャイン・ボーイズは解散。アルはヴォードヴィルでやっていける自信がないとして株式仲買人へと転身したが、ウィリーは、芸能の仕事を続けている。だが、すでに老境に達しつつあるウィリーの下に舞い込む仕事はほとんどない。
甥であるベン・シルバーマン(佐川和正)がマネージャーを務めているが、仕事を取ってくることは少なく、ウィリーは、経年劣化の進むホテルの一室に暮らし、通俗的な昼メロをぼんやりと見続けるような無為な日々を送っている(一応、仕事の依頼がいつ来てもいいよう、電話のそばにいる必要があるとの理由があるらしい)。本当にやる気があるのなら、映画館に出掛けて前衛的な作品を鑑賞したりもするのだろうし、テレビ映画は当時でもそれなりのものが放送されていたと思うが、そうしたものを観る気力ももう失せているようである。「サンシャイン・ボーイズ」というタイトルを付けながら、こうした黄昏の日々を舞台としているところがいかにもニール・サイモンらしい甘悲しさである。

そんな時、ベンがCBSからの仕事の依頼を持ってくる。往年のアメリカコメディーを特集する番組にウィリーにも出て欲しいというのだ。だが、11年前に解散したサンシャイン・ボーイズ再結成という形で、というのが条件であった。
喧嘩別れをしたということもあってウィリーは乗り気ではなかったが、ベンがようやく取ってきた「金メダル」級の仕事、またアルの方も、「孫にヴォードヴィルスターとしての自分の姿を見せたい」ということで、ニュージャージーからニューヨークへと出てきていた。

久しぶりに再会するウィリーとアル。過去のしこりは残っているものの、得意芸だったコント「診察室へどうぞ」のリハーサルを始めることにするのだが・・・・・・。


ビターな味わいのある大人のためのコメディであり、若き日の栄光と、そうではなくなった今の対比が、滑稽と悲哀を生む。

華々しさを取り戻すことはないという、リアルでシビアな展開なのだが、「近い将来実は」という救いになりそうな話を持ってくるところが憎い。あるいはサンシャイン・ボーイズはとある場所で、大成功こそしないかも知れないが……という希望が見える。日没前後のマジックアワーは人生にもあるのかも知れないと、強くではないが背中を押されたような気分になる素敵な作品であった。

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2022年4月27日 (水)

観劇感想精選(433) 広田ゆうみ+二口大学 「受付」@UrBANGUILD 2022.4.19

2022年4月19日 木屋町のUrBANGUILDにて観劇

木屋町のUrBANGUILD(アバンギルド)で、広田ゆうみ+二口大学の「受付」という作品を観る。別役実が書いた二人芝居で、1980年に初演されている。今回の演出は、広田ゆうみが単独でクレジットされている。

別役実は、早大中退後、一時期労働組合の仕事に就いていたことがあるのだが、このことはこの作品を観る上では念頭に置いておいた方が良いように思う。

とある雑居ビルの一角にあるヨシダ神経科クリニック(神経科とあるが、精神科のことである。「精神科」という言葉に抵抗感を覚える人も多いため、「神経科」と少し柔らかめの表現にしている病院もかなり多い)の受付が舞台である。ここに45歳の男(二口大学)が訪ねてくる。メンタルの不調で、「重い」という程ではなさそうだが、苦しい思いをしているのは確かなようである。


余りにも自殺者が多いということもあり、20世紀から21世紀に移り変わる時期に始まった「うつ病キャンペーン」がメディアを中心に広まり、精神科にも普通に通える時代になった。少なくとも精神科に通っているというだけで不審者扱いされることは少なくなったが、「受付」が初演された1980年前後は精神科に通っただけで後ろ指をさされたり、今では放送禁止用語となっている言葉で呼ばれたりということは普通にあった。今でもその傾向は残っているが、「心を病むのは弱い人」「甘えている」「危険人物」というイメージがあり、症状が重くてもそれを嫌って精神科の受診をためらう人が多かった。この劇に登場する男も、会社の同僚には「神経科クリニックに行く」とは言えず、「歯の痛み止めを買ってくる」という理由で会社を出て、長引いたら「歯医者に回されることになった」と嘘をつくつもりでいた。メンタルで病院を受診したとばれたら、誰も口をきいてくれなくなるかも知れない。そんな時代にメンタルクリニックに通おうと決意するにはかなりの度胸が必要であり、また精神科にかかろうと思った時点で本人が自覚しているよりも症状が重い可能性もある。余り知られていないかも知れないが、精神障害が重篤化した場合、解雇の正当な理由となる。これは今でも変わっておらず、SEなどをデスマーチに追い込み、精神に傷を負わせて解雇し、新しい人材を入れて回すという使い捨て前提の悪徳IT企業の存在が問題視されていたりする。というわけで、男にもこれ以上症状を悪化させるわけにはいかないという理由があったのだと思われるが、受付の女(広田ゆうみ)は、受付の仕事らしい仕事はほとんど行わず、ベトナム(ベトナム戦争終結後ほどない時期である)やパレスチナの難民や餓死する孤児達が可哀そうなので寄付を行えだの、角膜移植が必要な子どもがいるからドナーになれだの、死後に献体をして欲しいだのと要求ばかり。受け付けているのは目の前の患者ではなく、雑居ビルにいる他の団体の希望で、患者に対しての振る舞いは押し売りとなんら変わらない(この時代には押し売りを生業とする人はまだいたはずである)。

受付の女は、突然なんの脈略もなく、「あなた独身ですか?」と聞いて、男に妻と4人の子どもがいることを聞き出す。男女雇用機会均等法が施行されるのは1986年のこと。ということでこの芝居が初演された時点では、全く同じ仕事をしていても女性は男性よりも時給が大幅に低いというのは当たり前であり、「寿退職」などという言葉もあったが、「結婚したら退職」が雇用契約書に堂々と書かれていたりもした。「女は仕事をする存在ではない」という前提があり、そんな時代に女の子ばかり4人ということで、将来的に十分な稼ぎ手になれない可能性も高い。男の子が生まれるか女の子が生まれるかは運でしかないが、男の子が欲しいために4人生んで全員女では、受付の女からでなくても叱られる可能性もゼロではない(フィクションなので笑っていられるが)。そういう時代である。

男は見た目以上に追い詰められているのではないかという推測も、決して的外れにはならないだろう。

そうやって追い詰めた男に、受付の女は雑居ビル内の他の受付からの要求を全て吞ませることに成功するのである。オレオレ詐欺などでも話題になったが、騙されてしまうのは、パニックになりやすい人、精神状態に余裕ない人である。この時代にメンタルクリニックを受診しようとしている男の精神状態は見た目よりも混乱している可能性が高く、受付の女はそれに付け込んだという見方も可能である。少なくとも受付の女は全てを得ることに成功する。

一方で、ヨシダ神経科クリニックの受付の女を始め、この雑居ビルの受付はある程度の年齢に達しているが全員独身。この時代は社会設計上、女性が一人で生きていくのは極めて困難であるため、早めに結婚する必要があるのだが、それに失敗していることが分かる。どうやらこの場にいる女達は全員不幸を背負っているようでもあり、絶対的な弱者であると見ることも出来る。一つ不幸が別の形の不幸を呼ぶことは歴史が証明しているのだが、外見上は華やかな時代にあって、この時代の人々はそうしたことにどれだけ自覚的であっただろう。

受付の女がなぜ受付の仕事に就いたのかは不明であるが、複数の受付の「不幸な」女達が訪れた人の身ぐるみを剥いでいくような過程は不気味である。そして受付の女たちが要求するのは、「反論のしようもない正義」であり、「反論のしようもない」ことの恐ろしさも浮かび上がる。誰かのための善意が目の前の人を追い詰めていく。目の前に苦しんでいる人がいるのにそれを無視して会ったこともない誰かの幸せを望むのは欺瞞でしかないが、こうした欺瞞は今もあちこちで見られる現象である。ウクライナの勝利を願っても、今朝、電車に飛び込んだ人のことは気にも留めないといったように。

1980年代。高度成長期が終わり、バブルの始まる前夜の時代である。華やかではあったが、今から見ればブラックな労働環境が当たり前で、1987年にはリゲインという栄養ドリンクの「24時間働けますか」というキャッチコピーが流行語となった。企業に全権を委任して就職し、自らを奴隷化して働くのが美徳とされた時代である。働いた分だけ給料が上がる時代でもあってそれが疑問視されることも少なかったのだが、この「受付」という芝居でも、男は死後に角膜やら遺体やらを全権委任する羽目に陥る。まるでメフィストフェレスや荼枳尼天との契約のようであるが、世相を反映していると見るべきか。一般的にはどうかわからないが、別役実はこの過酷なシステムに意識的であったように思われる。

ラストで、どうやら受付の女が医師への取次ぎを妨害していることがわかる。受付を通さないと医師には会えないらしい。受付は訪れた男のために設けられたもので、カフカの「門」のようでもあるが、治療を受ければ復帰できる可能性もある患者を医師に会わせないよう仕向けている。これはあるいは当時の「精神科のイメージ」をめぐるメタファーなのだろうか。受付の女は単なる受付の女ではなく、「社会の空気」そのものの象徴であるようにも見える。

目の前にいる人間を救えないどころか追い詰めるという「風潮」は、実際のところ今も余り変わっていない。

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2022年3月26日 (土)

コンサートの記(770) 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVⅢ ヨハン・シュトラウスⅡ世 喜歌劇「こうもり」@ロームシアター京都 2022.3.20

2022年3月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後3時から、ロームシアター京都メインホールで、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXVⅢ ヨハンシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」を観る。

新型コロナウイルス流行のため、2020、2021と2年連続で公演中止になっていた小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト。昨年はオペラ公演が行えない代わりに宮本文昭指揮によるオーケストラコンサートが東京文化会館大ホールで行われたようだが、オペラ・プロジェクトとしては、また京都での公演は3年ぶりとなる。私は2019年の「カルメン」の公演も風邪を引いて行けなかったので、実に4年ぶりとなった。

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ヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇(オペレッタ)「こうもり」は、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトのロームシアター京都メインホールでの初公演の演目となったものである。私は、ロームシアター京都で聴く初オペラを、ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場の引っ越し公演となるチャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」にしたかったので、小澤征爾音楽塾の公演には足を運ばなかった。ウクライナ危機の影響により、ゲルギエフは西側の音楽界から弾き出される形となっており、今後日本で聴く機会があるのかどうかも不透明である。あるいは「エフゲニー・オネーギン」が最初で最後のゲルギエフ指揮によるオペラ体験となってしまうのかも知れないが、それはそれとして小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトの「こうもり」である。小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトと銘打たれているが、小澤征爾は癌の後遺症、そして高齢であるため、もう指揮台に立つことは出来ない。私が聴きに行けなかった2019年の「カルメン」でも小澤は前奏曲だけを指揮して、後は弟子であるクリスティアン・アルミンクに託しており、もう「小澤征爾の『カルメン』」とは言えない状態であった。
今回は、小澤征爾は音楽監督として教育のみに徹し、全編の指揮はディエゴ・マテウスに委ねられている。

1984年生まれの若手指揮者であるディエゴ・マテウス。ベネズエラの音楽教育制度、エル・システマの出身であり、「第二のドゥダメル」とも呼ばれる逸材である。
エル・システマではヴァイオリンを専攻し、グスターボ・ドゥダメルが組織したシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(現:シモン・ボリバル交響楽団)ではコンサートマスターを務める。その後に指揮者に転向し、クラウディオ・アバドの推薦によりアバド自身が組織したモーツァルト管弦楽団の首席客演指揮者に抜擢されるなど、若い頃から頭角を現している。フェニーチェ歌劇場首席指揮者、メルボルン交響楽団の首席客演指揮者などを経て、現在は自身の音楽故郷的存在のシモン・ボリバル交響楽団の首席指揮者を務めている。2018年に、小澤征爾と交互にサイトウ・キネン・オーケストラを振り分け、これが小澤との縁になったようだ。以降、セイジ・オザワ松本フェスティバルなどにも参加している。昨年6月にヴェローナでヴェルディの歌劇「アイーダ」を成功させており、また今年7月には、ローマのカラカラ劇場でレナード・バーンスタインの「ミサ」の指揮を行う予定である。

つい最近まで、日本は外国人の入国を基本的に禁止としており、今回の公演は白人メインとなるため、公演が行われるのかどうかも定かでなかったが、なんとか外国人の入国も原則OKとなり、間に合った。

出演は、エリー・ディーン(ロザリンデ)、アドリアン・エレート(ガブリエル・フォン・アイゼンシュタイン)、アナ・クリスティー(アデーレ)、エリオット・マドア(ファルケ博士)、エミリー・フォンズ(オルロフスキー公爵)、ジョン・テシエ(アルフレート)、デール・トラヴィス(フランク)、ジャン=ポール・フーシェクール(ブリント博士)、栗林瑛利子(イーダ)、イッセー尾形(フロッシュ)ほか。演奏は小澤征爾音楽塾オーケストラ、合唱は小澤征爾音楽塾合唱団、バレエは東京シティ・バレエ団。
演出は今回もデイヴィッド・ニースが受け持つ。

アジア各地で行われるオーディションを勝ち抜いた若手によって結成されて来た小澤征爾音楽塾オーケストラであるが、今回はコロナ禍のためアジアでのオーディションが行えず、日本国内のオーディションによって選抜されたメンバーによる編成となった。


上演開始前に、指揮者のディエゴ・マテウスによってメッセージが伝えられる。英語によるスピーチだったため、全ての言葉を理解することは出来なかったが、京都市と姉妹都市であるキエフ市を首都とするウクライナの平和を願うという意味の言葉であったと思われる。


マテウス指揮する小澤征爾音楽塾オーケストラは序曲などでは荒削りなところがあり、楽器によって技術のばらつきがあるように感じられたが、演奏が進むにつれて音も洗練され、音楽をする喜びが伝わってくるようになる。勢い任せのように感じられるところもあるマテウスの音楽作りであるが、生命力豊かであり、この指揮者の確かな才能が確認出来る。

歌手陣も充実。ただ、ロームシアター京都メインホールは、客席の奥行きが余りないということもあって、音がどの席にも伝わりやすく、オペラの音響には最適だが、歌手によっては声が通りにくい場面があったのも確かである。おそらく単なる喉の不調だと思われるのだが。
マテウスはかなり器用な指揮者のようで、そうした場面に瞬時に対応。オーケストラの音を下げていた。

メトロポリタン歌劇場出身のデイヴィッド・ニースは、今回も豪華で色彩感豊かな舞台装置を背景に、こうした折りではあるが人海戦術なども駆使した華麗な演出を展開させる。
第2幕などは、本当に夢の世界へさまよい込んだような心地で、心が中空で躍る。
「こうもり」は即興的な演出が加えられるのが恒例であるが、今回もプッチーニの歌劇「トゥーランドット」より“誰も寝てはならぬ”がお遊び的に加わっていた。復讐される側のガブリエル・フォン・アイゼンシュタインが、モーツァルトの歌劇「魔笛」より夜の女王のアリア“復讐の心は炎と燃え”をハミングするシーンなどもあり、遊び心に溢れている。また要所要所で白人キャストに日本語を語らせるのも効果的であった。

バレエシーンの音楽にはヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と電光」を採用。日本人はどうしても体格では白人に劣るが、東京シティ・バレエ団のメンバーは迫力もまずまずで、花を添えていた。

フロッシュ役のイッセー尾形も得意とするコミカルな演技で客席の笑いを誘い、オペレッタを聴く楽しみに満ちた幸福な時間が過ぎていった。

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2022年3月15日 (火)

観劇感想精選(431) 第265回「市民狂言会」

2022年3月4日 京都観世会館にて

午後7時から、京都観世会館で、第265回「市民狂言会」を観る。

演目は、「名取川」(出演:茂山千之丞、丸石やすし)、「真奪(しんばい)」(出演:茂山逸平、茂山七五三、茂山宗彦)、小舞「泰山府君」(茂山忠三郎)、「三人夫(さんにんぷ)」(茂山あきら)、「放下僧(ほうかそう)」(茂山茂)、「朝比奈」(出演:茂山千五郎、鈴木実)


「名取川」。現在の宮城県仙台市と名取市を流れる名取川。この川の名に着想を得たと思われる作品である。
シテの出家(茂山千之丞)は、自己紹介をする前に戒壇に関する謡と舞を行う。
陸奥国出身の出家は、これまで私度僧であったが、比叡山に登って戒壇院で戒を授かり、公認の僧となる。陸奥への帰り道、二人の稚児とのやり取りで、「希代坊」という正式な名と「不承坊」という替えの名を名乗ることになった出家であるが、記憶力が人並み外れて悪いことを自覚しているため、衣の袖に二つの名を書き付けて貰った上で、その名を口ずさみながらみちのくへと向かう。途中、名取川という大きな川に出会った出家であるが、「浅い」と見て徒歩での渡河を決意。しかし水深が思いのほかあり、結局ずぶ濡れ。袖に書いた僧侶としての名も消えてしまう。
そこに通りかかった名取の某(丸石やすし)。出家は、「名を奪ったのはこの男だ」と勝手に決めつけ、名取の某を組み伏せるのだが……。

やり取りをしている内に名前を思い出すという趣向であり、最後はほのぼのと終わる。


「真奪(しんばい)」。生花の中心になる花のことを「真」というそうである。
室町時代も中期となり、太平の世となったことを喜ぶ主人(茂山七五三)は、立花(生花)に凝っているのだが、「真」となる良い花がないので、太郎冠者(茂山逸平)と共に東山まで探しに出掛ける。途中、菊の真を持った男(茂山宗彦。「もとひこ」と読む)と出会った二人。太郎冠者がこの菊の真を奪うことに成功するのだが、逆に持っていた太刀を男に奪われてしまう。それに気付かず、主人に真を渡す太郎冠者であったが、主人から太刀を持っていないことを指摘される。
男が真を届けに行く途中と話していたことから、「同じ道を戻ってくる」と考えた太郎冠者は、主人と共に隠れて待つ。果たして男が戻ってきた。主人が男を後ろから捕まえ、太郎冠者に縄を持ってくるよう命じるのだが、太郎冠者は「泥棒を捕らえて縄をなう(泥縄)」のことわざ通りのことを始めてしまい……。

以降は、今年の1月にサンケイホールブリーゼで観た野村萬斎、万作、裕基の「成上がり」と同じ展開となる。違うのは、男が太刀を使って太郎冠者を転がすことと、太郎冠者の物わかりが異様に悪いということである。


小舞「泰山府君」、「三人夫」、「放下僧」
「泰山府君」は短い踊りだが、茂山忠三郎の舞は他の二人に比べるとメリハリに欠ける。
茂山あきらの佇まいと動きの細やかさとそこから生まれる静の迫力、茂山茂のダイナミックさは共に魅力的であった。


「朝比奈」。「あさひな」という読みと「あさいな」という読みがあるようだが、今回は「あさひな」とされている。
鎌倉武士である朝比奈三郎義秀が登場する。庶民を描いた芸能である狂言においては、実在の人物が登場することは比較的珍しい。

そもそも登場するのが閻魔王(鈴木実)と冥界へ向かう途中の朝比奈(読みは「あさいな」である。茂山千五郎)の二人で、共にこの世の人物ではないという、狂言としては珍しい演目である。

この演目も、自己紹介する前に謡や舞がある。囃子方は、杉信太朗(笛)、吉阪一郎(小鼓)、谷口正壽(大鼓)、前川光範(太鼓)。

まず閻魔王が、最近、人間が賢くなってみな極楽に行ってしまい、地獄の商売があがったりになっていると愚痴をこぼす。そこで閻魔自らが六道の辻まで出向き、やって来た霊を罪人として地獄に落としてやろうと企む。
「泣く子も黙る」はずの閻魔が地獄に来る者がいないので困っており、落ちぶれてしまって六道の辻までこちらから出向くというのがまず情けなくて笑える設定となっている。また仕草も情けないものが多い。

やって来たのが折悪しく、剛の者として名高き朝比奈三郎義秀であったことから、閻魔のドタバタが始まる。朝比奈は死に装束をしているが、七つ道具(光背のように見えなくもない)を背負い、堂々たる立ち振る舞いである。橋懸かりにて自己紹介を行う。
朝比奈三郎義秀は、和田義盛の三男。母は巴御前という説があるが、俗説である。
安房国朝夷(あさい)に所領を持ったため、姓を和田から朝比奈に変えたとされる。怪力の持ち主で、鎌倉の代表的な切通しである朝比奈の切通し(鎌倉から横浜市内の金沢八景へと抜ける道)を一夜で開いたという伝説を持つ。
和田合戦では獅子奮迅の働きをするが、結局、和田氏は敗れ、朝比奈は領地のある安房国に逃れたという。以後の消息は不明。ということで、勇猛果敢とはいえ、実は敗軍の武将が閻魔と対峙するという、これまたひねくれた構図となっている。為政者が見た場合、あるいは隠された反権力の意図に気付いたかも知れない。

朝比奈を地獄に導くことに失敗した閻魔は、朝比奈に和田合戦での活躍を語るようせがむ。朝比奈は大倉御所南門の突破、一対三十の力比べに勝ったことなどを朗々と述べる。最後には朝比奈は閻魔を調伏し、極楽への道案内をさせることになる。かなり思い切った逆転の構図である。

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2022年3月11日 (金)

観劇感想精選(430) 京都四條南座 「三月花形歌舞伎」(令和4年3月5日 午後の部)

2022年3月5日 京都四條南座にて

午後3時30分から、京都四條南座で「三月花形歌舞伎」を観る。平成生まれの若手歌舞伎俳優を中心とした公演である。演目は、「番町皿屋敷」と「芋掘長者」。

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開演前に、中村壱太郎(かずたろう。成駒家)と中村隼人(萬屋)によるトークがある。
上村淳之デザインの緞帳が上がり、定式幕が下がる中、坂東巳之助の影アナに続いて上手から壱太郎が登場。「今日は土曜日ということでいつもより沢山のお客さんにお越し頂いております」といったような挨拶を行った後、「隼人君、早く出て来ないかなと思ってらっしゃる方も多いと思いますので(中村隼人はイケメン歌舞伎俳優として知られている)」中村隼人が呼ばれる。隼人は花道から登場。拍手が起こるので、隼人は手で更に盛り上げる仕草をして、「パン、パンパン、パン」という手拍子を誘う。

二人は番付(パンフレット)や公演グッズなどの説明を行う。隼人に「宣伝?」と言われた壱太郎は、「紹介」と直していた。
その後、写真撮影コーナーなどがあり、二人でポーズを決めていた。スマホで撮影される方は、電源を切るのではなく、マナーモード(バイブではなく呼び出し音オフ)にしておくのが良いと思われる。
そして二人は、「番町皿屋敷」が南座で上演されるのは51年ぶり(前回の上演は昭和46年8月、片岡孝夫=現・仁左衛門の青山播磨、坂東玉三郎のお菊)、「芋堀長者」に至っては70年ぶり(前回の上演は昭和27年12月、十七代目中村勘三郎の主演)であると紹介する。


「番町皿屋敷」。「半七捕物帖」などで知られる岡本綺堂が大正5(1916年)に書いた歌舞伎である。従来の怪談「番町皿屋敷」を恋愛物に解釈し直したという、当時としては意欲的な作品である。
午前の部と午後の部で配役が異なるが、午後の部の配役は、中村橋之助(青山播磨)、中村米吉(腰元お菊)、中村蝶紫(腰元お仙)、中村橋吾(用人柴田十太夫)、中村蝶一郎(奴権次)、中村歌之助(並木長吉)、坂東巳之助(放駒四郎兵衛)ほか。

旗本と町人が徒党を組んで争っているという、「ウエスト・サイド・ストーリー」のような設定の中、旗本の青山播磨は、腰元のお菊と身分違いの恋仲にある。播磨は旗本なので、当然ながら良い縁談に事欠かない。それがお菊には気がかりである。
そんな中、青山家では家宝である高麗焼きの皿を用いて水野十郎兵衛らを接待することとなる。家宝であるため、1枚でも割れば命はない。だが播磨の心の内を信じ切れないお菊は、わざと皿を割り、播磨が自分を許すかどうか試そうとする。だが意図的に割るところを、折悪しく同僚のお仙に目撃されていた。
お菊が皿を割ったことを、当然ながら播磨は許すが、お菊が皿をわざと割ったことを知り、自分に対する不信故に試そうとしたと悟るや態度を一変させる。自分のことを信じ切れていないということが許せなかったのである。播磨は一生涯掛けてもお菊以上の女には出会えないと知りつつ、お菊の行いを裏切りと感じ、手討ちにするのだった。

理屈では理解出来るが、共感は難しい展開である。旗本とその腰元という身分の違いがあり、この時代、主従関係は絶対ではあるが、それ以上に男女の格差というものが感じられる。「女は男より生まれながらに身分が低い」それが常識であってこそ成り立つ展開であり、今現在の価値観を持ってこの筋書きに心から納得するのは難しいだろう。身分差故の悲恋といえば悲恋だが、お菊の意志は一切尊重されていない。ただ、時代を感じるから上演しない方がいい、筋書きを変えようということではない。往時の世界観を知る上でも上演を行うことは大切だと思う。

やはり歌舞伎はキャリアがものをいうようで、声の通りが良くなったはずの南座であっても若手俳優達のセリフが聞き取りにくかったり、こなれていなかったり、間が妙だったりという傷は散見される。
そんな中で中村米吉の細やかな演技が光る。女声に近い声を発することの出来る女形だが、だんまりの場面や、皿を差し出す時の手の震えなど、セリフ以上に仕草で心理描写を行うことに長けている。将来の名女形の座は約束されたも同然である。


「芋堀長者」。こちらも大正7(1918)年という「番町皿屋敷」と同時期に書かれた作品である。岡村柿紅の作で、六世尾上菊五郎や七世坂東三津五郎らによって東京市村座で初演されている。大正期の上演は初演の時だけ、昭和に入ってからも僅かに3回と人気のない演目だったが、十代目坂東三津五郎がこの作品を気に入り、自らの振付で復活させている。
出演は、坂東巳之助(十代目坂東三津五郎の長男。芋堀藤五郎)、中村隼人(友達治六郎)、中村橋之助(魁兵馬)、中村歌之助(莵原左内)、中村歌女之丞(松ヶ枝家後室)、中村米吉(腰元松葉)、中村壱太郎(息女緑御前)。振付は、十代目坂東三津五郎、坂東三津弥。

松ヶ枝家の後室は、娘の緑御前に婿を取らせたいと思っているのだが、婿にするなら踊り上手が良いということで、歌合戦ならぬ踊合戦のようなものが行われることになる。
そんな中、緑御前に懸想する芋堀藤五郎も踊合戦に加わろうとするのだが、芋堀を家業としている藤五郎には踊りの素養は全くない。そこで舞を得意とする友人の治六郎と共に参内し、面を被ったまま踊るとして治六郎と入れ替わることにする。

まんまと成功する藤五郎と治六郎だが、緑御前に「直面で踊って欲しい」と言われたため、事態は一変。藤五郎は下手な人形遣いによる操り人形のような動きしか出来ず、緑御前達を訝らせる。治六郎が衝立の向こうで藤五郎にだけ見えるよう舞の見本を見せるのだが、舞ったことがないので上手くいく訳もない。緑御前の前で緊張したということにして、藤五郎は緑御前と連舞を行うことになるのだが……。

幼い頃から舞を行っている人達であるため、手足の動きの細やかさ、無駄のなさ、動作の淀みなさなどいずれも見事である。

コミカルな動きが笑いを誘うが、百姓ならではの舞も「荒事」に通じる豪快さがあり、それまでに舞われていた上方風のたおやかな舞との対比が生きていた。

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2022年2月12日 (土)

観劇感想精選(426) 「春秋座 能と狂言」2022渡邊守章追善公演

2022年2月6日 京都芸術劇場春秋座にて

午後2時30分から、京都芸術劇場春秋座で、「春秋座 能と狂言」を観る。今回は、昨年の4月に逝去した渡邊守章追善公演として行われる。

演目は、狂言「武悪」と能「弱法師」であるが、体調不良者や濃厚接触者が出たため、出演が一部変更になっている。「武悪」で武悪を演じる予定であった野村萬斎(本名:武司)が、先月29日に体調不良のため、念のために当日と翌日の本番を降りたことをTwitterで報告していたが、結局体調は回復せずに降板。父親である野村万作が武悪役を務めることになった。野村万作は「武悪」で主を演じることになっていたが、代わりに石田幸雄が入り、後見も飯田豪から石田淡朗に変わった。
また「弱法師」では、後見が上野雄三から鵜澤光に代わる。

まずは舞台芸術研究センター所長である天野文雄による解説がある。これまでは解説は渡邊守章と天野の二人による対談形式で行われていたが、渡邊の他界により、天野一人で引き受けることになっている。
天野は、「武悪」については解説を行わなかったが、無料パンフレットにある語句解説が野村万作事務所によるものであることを明かし、「狂言というと分かりやすいというイメージがありますが、そんなことはない」と丁寧な語句解説を行った野村万作と萬斎の姿勢を評価した。

能「弱法師」についてだが、大阪の四天王寺の石の鳥居(鎌倉時代のもので重要文化財に指定)とそこから見る夕日の日想観(じっそうかん)について説明を行う。四天王寺の極楽門(西大門)から鳥居を経て見る日想観は、西方に極楽浄土を思い浮かべるという観相念仏(浄土を思い浮かべることで行われる念仏。「南無阿弥陀仏」を唱えるいわゆる念仏=称名念仏とは異なる)である。四天王寺は和宗といって特定の宗派でなく、天台、真言、浄土、真宗、禅宗など多くの宗派の兼学や習合を行っている寺院だが、日想観の儀式は、フェスティバルホールで行われた天王寺楽所の演奏会でも接している
弱法師が四天王寺で日想観を行うのが、「弱法師」のハイライトであるが、まず天野は「弱法師」の成り立ちについて説明する。「弱法師」の作者は、観世元雅。世阿弥こと観世元清の長男である。「弱法師」の他に「隅田川」などの傑作を書いているが、40に満たぬ若さで他界。世阿弥を悲しませた。若死にしたため、残された作品は少ないが、亡者が現れて心残りを語る夢幻能とは異なり、シテは現世で生きている人物としているのが特徴である。「弱法師」でもシテは視覚障害者で一種のマレビトであるが、生きることを選択している俊徳丸である。


狂言「武悪」。狂言の中でも異色作とされている。上演時間も約50分と、一般的な狂言の演目の倍ほどあるが、最初に現れた主(石田幸雄)が自己紹介をせず、いきなり「誰そあるか?」と何度か聞き、次の間に控えていた太郎冠者(深田博治)が馳せ参じるという場面から始まる。
内容もかなり物騒で、主が「武悪は働きが悪いので討て」と太郎冠者に命じる。笑いを取る芸能である狂言でいきなり殺生の話が出るのは珍しい。
武悪という名についてだが、「悪」という字には「悪い」という意味の他に、「悪源太義平」「悪王子」「悪太郎」のように「強い」という意味があり、「武悪」も武芸の達人という意味だと思われる。ところがこの武芸の達人が武力でなく、他の技で主をギャフンと言わせるというところが「弁慶もの」など他の演目にも繋がっている。

武悪を討つよう命じられた太郎冠者であるが、実は二人は幼なじみ。武悪を釣りに誘い出し、水際で武悪を討とうとする太郎冠者であるが、情が勝って武悪を討つことが出来ない。武悪が観念して、首を刎ねるよう太郎冠者に命じるが、やはり太刀を振るうことは出来ず、二人で泣き出してしまうという、これまた狂言らしからぬ展開である。

太郎冠者は、「武悪を討ったと主に告げる」ことに決め、二人は別れる。
さて、命が助かった武悪は清水寺にお礼参りに行き、太郎冠者は武悪の死を不憫に思った主と共に鳥辺野に武悪を弔いに行く。京都の地理や歴史に詳しくない人は余りピンとこないだろうが、鳥辺野というのは京都周辺最大の風葬の地であり、清水寺の南側に広がっていた。当然ながら、清水寺参りの人と鳥辺野に行く人とは出会いやすい。今とは違い、当時は周辺になにもない。という訳で、武悪と主はばったり出会ってしまう。
ここで太郎冠者と武悪は一計を案じ、武悪は幽霊だということにして、主を騙す。
幽霊に化けた武悪は、あの世で出会った主の父親から命じられたとして、主の太刀、短刀、扇などを奪った上で更に脅しをかけ、主が逃げ出してしまうというラストを迎える。

前半は人情サスペンス、後半は主がしてやられる狂言の王道という二部構成のような演目であるが、武悪と太郎冠者の友情が主をやっつけるというメッセージ性豊かな作品ともなっている。血なまぐさい話でありながら本当の悪人が出てこないというのも特徴的である。
幽霊と出会うという夢幻能のスタイルをパロディ化しているという点でも興味深い作品となっており、作者はよく分からないようだが、かなり頭の良い人物であることが察せられる。


能「弱法師」。出演は、観世銕之丞(シテ。俊徳丸)、森常好(ワキ。高安通俊)、野村裕基(アイ。通俊ノ下人)。大鼓:亀井広忠、小鼓:大倉源次郎、笛:竹市学。

毎回書いているが、野村裕基は声だけなら父親である野村萬斎と聞き分けられない程にそっくりである。若さを生かしたキビキビとした動きも良い。

事前に金春流の「弱法師」のテキストを読んでいったが、今回は当然ながら観世流のテキストであり、謡を全て聞き取ることは難しい。ただ要所要所は理解可能である。

まず高安通俊が出てきて、「これは河内国、高安の里に、左衛門尉通俊と申す者に候」と自己紹介を行う。高安というのは、現在の大阪府八尾市付近にあった里である。八尾というと関西でもガラの悪い土地というイメージが定着しているが、往時もそうだったのかは不明である。ただ高安という地名からは、「高いところにある安らかな場所=極楽」が連想される。おそらく意図しているだろう。
この高安通俊は、ある人(明らかにされないが、奥さんのようである)の讒言により、息子を追い出さねばならなくなった。不憫に感じた通俊は、大坂・四天王寺に向かい、施行(せぎょう。施しによって善根を積むこと)を7日間行うことにする。下人が現れてそのことを人々に告げる。

そこへ、弱法師(よろぼし)と呼ばれる男がやって来る。よろよろ歩くので弱法師との名が付いたのだが、四天王寺に日想観を行いにやって来たのである。ただ、弱法師は目が見えず、生きているうちから闇の中を進まなければならないことと、親から追われたことを嘆きつつ、日本における仏法最初の寺である四天王寺へと辿り着く。
通俊と弱法師は親子なのだが、最初の内はそれに気付かず、やり取りを行う。木花開耶姫が瓊瓊杵尊と出会ったのが浪花であるという説があることや、梅の花が雪に例えられることを知っている弱法師の教養から、「これはただの乞食ではない」と察した通俊。やがて弱法師が我が子であると見抜くことになる。

さて、弱法師が中腰になったまま地唄を聴く場面がある。地唄は四天王寺の由来を謡うのだが、この場面が「退屈だ」というのでカットされた版があるということを、解説の時に天野が口にしていたが、四天王寺の由来を地唄にしたことはその後に利いてくる。日想観を行う場所こそが聖徳太子がこの世の極楽を願った四天王寺なのである。

目が見えないので日想観を行うことが出来ないはずの弱法師であったが、心の目で日想観を果たし、有頂天となるも、他人にぶつかったことで我に返り、そして最後は通俊と共に弱法師は高安の地へと帰って行くのだが、「高安」が「極楽」に掛かった言葉だとすると、元いた場所への帰還、もしくは二種回向にまで解釈は広がることになる。個人的には余り拡げない方がいいとも感じているが、仏教的な解釈が魅力的であることは否定しがたい。


今回は、狂言と能の上演の後に、渡邊守章追悼トーク「渡邊守章先生と『春秋座―能と狂言』」が行われる。司会は天野文雄。出演は、亀井広忠、大倉源次郎、観世銕之丞。当初出席するはずだった野村萬斎は欠席となったが、渡邊守章死去直後にYouTubeにアップされた5分ほどの映像が流れ、また今回のトークイベントのために書かれたメッセージが読み上げられる。

渡邊守章の本業は、フランス文学者、ポール・クローデル研究家、翻訳家、フランス思想研究家であるが、能や狂言も余技ではなく、本業として取り組んでいたことを天野が語る。

それぞれの渡邊との出会いが語られる。亀井広忠は、四半世紀ほど前、パリに日仏会館が出来たときの記念上演会で出会ったのが最初だそうで、渡邊に「君は誰だ?」と聞かれ、「亀井広忠といって鳴り物をやっています」と答えたところ、「あれ? ターちゃんの息子さん?」と聞かれたそうだ。「ターちゃん」というのは亀井広忠の父親である忠雄のあだ名で、渡邊と亀井忠雄はかなり親しかったようである。

大倉源次郎はまずテレビで渡邊守章を知ったそうである。ジャン=ルイ・バローや観世寿夫らが出ていたNHK番組で渡邊が司会のようなことをしていたそうだ。

観世銕之丞は、父親の観世銕之亟(観世静夫)が渡邊守章演出の舞台に出演したときに、夜遅くに帰ってきてから渡邊の悪口を言いまくっていたそうで、「あの演出家は何を言っているのか分からん!」という父親の口吻から、「渡邊守章というのは怖い人だ」という印象を持っていたという。

実は渡邊守章が舞台芸術センターや春秋座で仕事をするようになったのは、親友である観世榮夫(私の演技の師でもある)が舞台芸術センターや春秋座を運営する京都造形芸術大学の教授を務めていたのがきっかけであり、「能と狂言」公演をプロデュースするようになっている。

野村萬斎からのメッセージは、「能ジャンクション」の思い出や、役者が演出を超えた時の喜びについてで、渡邊も役者が演出以上の演技をした場合はご満悦で、「舞台はやっぱり役者のもの」と語っていたそうである。

春秋座のように、能舞台ではない劇場で能狂言を行うことについて、特に「花道を使わねばならない」と渡邊が決めたことについては、野村萬斎は「橋懸かりと花道は根本的に違い、橋懸かりが彼岸と此岸を結ぶのに対して、花道を使う場合は客席からやって来る。それでは能や狂言にならないと承知の上で使うことに決めた」渡邊の演出法に一定の理解を示している。野村萬斎は、自身が芸術監督を務めている世田谷パブリックシアターでは、舞台の後方に3つの橋懸かりがあるという設計を施し、大阪のフェスティバルホールでの「祝祭大狂言会」でも同様のセットを使ったことを書いていた。
観世銕之丞は、橋懸かりでなく花道を使った場合、シテ柱のそばにある常座(定座)の位置が意味をなさなくなるのでやりにくさを感じていたそうである。観世は語っていなかったが、能面を付けて花道を進むことは危険で、一度、観世が能面を付けて花道を歩いているときに、前のめりに転倒したのを目撃している。幸い大事には至らなかったようだが。

鼓などの鳴り物に関してだが、春秋座は歌舞伎用に設計された劇場であるため、音は鳴りやすく、ストレスは感じないようだ。大倉によると、一般的なホールだと、音が後方に吸い取られてしまうため、客席まで届いているか不安になるそうである。
亀井広忠は、父方は鳴り物の家だが、母親は歌舞伎の家の出身だそうで、両方の血が入っているため、春秋座でやるときは歌舞伎の血がうずくそうである。


最後に野村万作が背広姿で登場し、渡邊守章との思い出を語る。渡邊との出会いは、初めてパリ公演に行ったときで、渡邊が現地で通訳のようなことをしてくれたそうだ。
その後、渡邊が万作に、自分がやる作品に出るよう催促するようになったそうだが、「アガメムノン」をやるとなった時には、断ろうとすると、「だったらもう友達止めるよ」と言われて仕方なく出たそうで、強引なところがあったという話をした。ジャン=ルイ・バローや観世寿夫が出た番組を万作は今のような背広姿で客席で見ていたそうだが、渡邊がそれを見つけて、出演するよう言ったという話もしていた。
ちなみに、「萬斎が言い忘れたことがある」と言い、「萬斎主催の『狂言 ござる乃座』の命名者が渡邊守章」であると紹介していた。

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2022年2月 9日 (水)

観劇感想精選(425) YOU-PROJECT第21回公演「ソリチュード〈孤独〉」シリーズ連続一人芝居 「七転罵倒」&「あずき粒」

2021年12月13日 京都府立文化芸術会館にて観劇

午後7時から、京都府立文化芸術会館でYOU-PROJECT第21回公演「ソリチュード〈孤独〉」シリーズ連続一人芝居を観る。
YOU-PROJECT(YOU企画)は、京都芸術センターや京都府立文化芸術会館の職員などもしていた松浦友(まつうら・とも)によるプロジェクトであり、私も以前、一度だけ東山青少年活動センターで行われた公演を観たことがある。

松浦さんに久々に会って話もする。私は「会うのは大体15年ぶり」という話をするが、後で調べてみたところ、13年ぶりであったことが分かった。2008年に京都府立文化芸術会館で、ごまのはえ演出によるチェーホフの「三人姉妹」の公演があったのだが、その前に文芸会館の前で松浦さんに会って、「(本やCDなどとは違って)チケットの場合は、『絶賛発売中』だとなんか違和感ありますね(日本語として間違っている訳ではない)」という話をしたのが最後のはずである。

今回の「ソリチュード〈孤独〉」シリーズ連続一人芝居は、小川敦子の作・出演、松浦友演出による「七転罵倒」と山川方夫(やまかわ・まさお)の小説「お守り」をクスキユウ(松浦友のペンネーム)が戯曲化し、山本周の出演、松浦友が演出した「あずき粒」の二本立てである。上演時間は二本で約50分。

小川敦子の「七転罵倒」は、「売れない舞台女優あるある」をエッセイと日記の中間の口調で語るというものである。小川敦子はダンサーとしても活躍(本人はダンサーだと思ったことは一度もなく、「あくまでダンスもする俳優」だと自認しているようである)しているということで、ダンスの動きなども取り入れた作品となっている。小川敦子は東京を拠点としている舞台女優だそうで、この作品もコロナによる緊急事態宣言が出た時に書かれたものだという。


「あずき粒」は、主人公の関口二郎が、部下か同僚に酒の席で「ダイナマイトいらない?」と語り掛けることから始まる作品。その前に歌の場面があり、最後も歌で終わる。
最初は語り掛けだったのだが、そこから一人語りの世界に入っていく。
ある日の夜、関口は仕事帰りに自分にそっくりな後ろ姿の男を見掛ける。男は関口が住んでいる団地の部屋に入り、関口の妻と語らい始める。関口は自分のドッペルゲンガー(ドッペルゲンゲル)かと疑うのであるが、男の正体は関口によく似ているものの、黒瀬次郎という他人であった。だがその日から関口は、皆が皆似通って個性がない、あたかも床に散らばったあずき粒の一つ一つのようなものなのではないかとの思いにとらわれるようになり……。

現代の日本という社会は他人と同じでなければ上手く生きていけないような構造になっている。同じような幼児期と少年期を過ごし、なるべく良い高校に進学し、なるべく良い大学を出て、なるべく良い企業に就職する。それが典型的な生き方、というより社会構造がそうした生き方を強要してくるため、オリジナルな生き方にはかなりの危険が伴うのが現状である。

全く関係はないのだが、二十歳前後に読んだ『ドイツ怪奇小説アンソロジー』(だったかな?)の中に「人間工場」という作品があり、実は人間というものは工場で生産されているという内容で、ナチスを皮肉る意図もあったと思われるのだが、日本もそれに近い状態にあるのを感じ、憂鬱になったことが思い出された。

先月もロームシアター京都ノースホールで一人芝居の三本立て上演があったのだが、飛沫感染を防ぎやすい形態である一人芝居の作品が作られやすい状況になりつつある。
実は一人芝居の歴史は短く、1930年にジャン・コクトーが発表した「声」が本格的な一人芝居であったとされる。一人での朗読や落語のような一人語りの演芸は存在したが、一人で行う本格的な演劇作品は「声」が初めて。ということで100年の歴史も有していない。コクトーの「声」はセリフのみの作品であるが、今年に入ってから観た一人芝居は全て語りものかセリフのみでも説明調のもので、それも分かりやすくはあるのだが、もっと観客の想像力を信じた作品も観てみたくなる。100年の歴史も持たないということは、接したことのある観客も少なく慣れていないということでもあり、希望が裏切られる可能性も高いのであるが。

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2022年1月27日 (木)

観劇感想精選(423) 《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉「有頂天作家」 

2022年1月16日 京都四條南座にて観劇

午後3時30分から、京都四條南座で、《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉「有頂天作家」を観る。キムラ緑子と渡辺えりが南座で(南座の休館時は大阪松竹座で)の上演を重ねている「有頂天」シリーズの最新作である。今回は、「現代の戯作者」とも呼ばれている齋藤雅文が1992年に書いた「恋ぶみ屋一葉」を齋藤雅文自身の演出で上演する。
出演は、渡辺えりとキムラ緑子の他に、大和田美帆、影山拓也(ジャニーズJr.)、瀬戸摩純(劇団新派)、春本由香(劇団新派)、長谷川純、宇梶剛士、渡辺徹ほか。

音楽劇という程ではないが、冒頭とラストに歌とダンスのシーンがあり、劇中もいくつかのナンバーが俳優達によって歌われる。

一葉というのは樋口一葉(本名:樋口奈津)本人ではなく、同じ「奈津」という名前を持つ前田奈津(キムラ緑子)のことである(樋口一葉の友人であった伊藤夏子がモデルの可能性もある)。前田奈津は、樋口一葉と共に尾崎紅葉門下であったが、樋口一葉最晩年(といってもまだ24歳だが)の情熱的な活動と出来上がった作品の完成度に惚れ込み、以降は小説家を目指すのを断念して樋口一葉のファンとして樋口一葉同様に荒物屋を営み、一方で、恋文を中心とした代書屋として活動していた。一葉は前田奈津のあだ名であり、自分から一葉を名乗ったのではなく、周りが彼女のことを一葉と呼ぶのであった。

尾崎紅葉門下の筆頭格である通俗小説家の加賀美涼月(渡辺徹。モデルは加賀金沢出身の泉鏡花だが、尾崎紅葉、更におそらくは半井桃水の要素も盛り込まれている)は現在では弟子数名を抱える売れっ子となっている。前田奈津と加賀美涼月は紅葉の門下生時代から親しい間柄で、今でも男女という性別を超えた友人として付き合ってる。前田奈津には加賀美に対する恋心もあったのだが、親友で後に芸者となったきくに加賀美を譲っていた。加賀美ときくの恋は実らず、きくは川越にある農家に嫁ぎ、21年前に他界していた。はずだったのだが、実は生きている。夫の苗字を名乗り、サツマイモ畑で汗を流す日々。夫は朝鮮に渡り、その地で亡くなっていた。きくの舅が、きくと加賀美の仲を完全に裂くために、「きくは亡くなった」と偽りの訃報を加賀美や奈津に届けていたのだ。

加賀美涼月の自宅に、一人の小説家志望の青年が訪ねてくる。川越出身の羽生草助(影山拓也)である。加賀美は、草助が書いた原稿に一応は目を通すが、「表現しようという意欲が感じられない」とこき下ろす。だが、草助に新たに玄関番になることを命じ、門下の書生となることを許す。実はこき下ろしはしたが、加賀美は草助の中に光るものを感じていた。草助が加賀美の文体を真似ようと努力していることも見抜き、新時代の感覚も身につけているということで期待していたのだった。加賀美は家を訪ねてきた奈津にそのことを語る。奈津は、草助が若い頃の加賀美に似ていると言う。

そんな中、きく(渡辺えり)が奈津を訪ねてくる。昔はほっそりしていたきくだが、今は体の幅が倍ぐらいになっており、21年ぶりの再会ということで、奈津はきくに気付かない。
きくが奈津を訪ねたのは、家出した息子を川越に連れ戻そうとしてのことだった。実はきくの息子は草助であり、草助が加賀美涼月に弟子入りすると書き置きを残していたため、東京へと出てきたのだった。

その草助は、先輩書生の片桐清次郎(長谷川純)らに連れられて吉原に遊びに行き、そこで出会った芸者の桃太郎(大和田美帆)に恋心を抱く。草助と桃太郎はすぐさま両思いとなった。
加賀美涼月は、芸者が嫌いであった。弟子達にも「芸者と遊ぶな」ときつく戒めていた。だが、加賀美はかつての恋人であった芸者時代のきくが忘れられず、50歳も間近だというのに所帯を持とうとはしなかった。弟子達に芸者遊びを禁じたのも、悲恋に終わった自身の芸者との関係が傷となり、弟子にも芸者にも自分と同じ思いをさせないためだった。

他の人物は草助についてよく知らないが、母親のきくは当然ながら彼の父親が誰なのかを知っていた……。


樋口一葉、泉鏡花、尾崎紅葉ら明治の文豪をモデルとした架空の人物達が繰り広げる文芸ロマンである。加賀美涼月は通俗作家という設定だが、新派劇と通俗小説はかなり近しい関係にあり、劇団新派文芸部出身の齋藤雅文も通俗であることの誇りを加賀美の口を借りて謳っている。

大和田美帆演じる桃太郎は、泉鏡花の奥さん(伊藤すず。ちなみ泉鏡花の実母の名前も「すず」である)と同じ芸名であり、加賀美涼月と羽生草助が共に泉鏡花の分身として登場し、泉鏡花という作家が重層的に描かれている。尾崎紅葉は鏡花と伊藤すずの交際に反対しており、二人が結婚するのは紅葉が亡くなってからだが、その構図がこの作品でも生かされている。

伏線が上手く張り巡らされ、登場人物の心の機微が綾を成して、いくつもの恋が巧みに織りなされていく。24歳で早逝した樋口一葉ではなく、その志を受け継いだ前田奈津を主人公にしたことで、今生きることの希望がメッセージとして強く押し出されていた。

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2022年1月10日 (月)

観劇感想精選(421) 野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16th

2021年11月7日 左京区岡崎の京都観世会館にて

午後2時から、左京区岡崎の京都観世会館で、野村万作卒寿記念公演「狂言ござる乃座」 in KYOTO 16thを観る。

演目は、まず小舞が3つあり、野村裕基による「鮒(ふな)」、野村萬斎による「鐵輪(かなわ)」、野村万作による「住吉」が舞われる。

「鮒」は、琵琶湖を舞台とした舞で、「美物の数は多けれど中に異なる近江鮒の膾(なます)の味こそすぐれたれ」と訴える大きな鮒に小袖などが与えられ、鮒がいることの目出度さが語られる。

「鐵輪」は、貴船(きぶね)の貴船(きふね)神社が舞台であり、丑の刻参りを行おうとした女性が、安倍晴明が築いた結界によって境内に入れず、目に見えぬ鬼となって消えていくという物語である。この場面は、野村萬斎が安倍晴明を演じた映画「陰陽師」にも登場する。

「住吉」は、大阪の住吉大社が舞台となっている。海路の神である住吉大社から見た瀬戸内海の風情が称される。詞も短く、動きも大きくはないが、動中の静、静中の動を共に表現する必要があり、最も難しい舞の一つに数えられているそうである。


狂言の演目は、「縄綯(なわない)」と「孫聟(まごむこ)」であるが、その前に中村修一による解説がある。

中村は、「まだ解説にはなれていませんので」ということで説明書きを用意しての解説を行う。まず小舞が行われたことに関して、「狂言を観るのは今日が初めてという方もいらっしゃるかも知れませんが、『話が違う』『全然笑えない』と思われた方、大丈夫です。本編はこれからです」と言って、まず3つの小舞の解説を行う。

「縄綯」はタイトル通り縄を綯う話なのだが、中村が太郎冠者が縄を綯うようになるまでの過程を説明する。登場する主が博打狂いだという話をして、借金のカタとして太郎冠者まで取られてしまったという顛末を語る。ただそのまま身売りの話をしても太郎冠者は首を縦に振らないだろうということで、相手先に状を届けるということにして、太郎冠者を相手の家に向かわせる。ところが、借金のカタに取られたと知った太郎冠者はふてくされて、英語で言うボイコットを行う。山一つ向こうまで使いに言ってくれと頼むも、足を痛めているということで拒否。縄を綯(な)ってくれと頼むと、「縄など綯ったことがない」と言い出す。ところが、元の主人のところに新しい主が聞きに行ったところ、実は縄綯いは太郎冠者の特技だという。ということで、太郎冠者を元の主のところに戻し、新しい主が物陰に隠れて太郎冠者が縄綯いをするところと探っていると、太郎冠者は新しい主の悪口三昧。更には会ってもいない新しい主の奥さんや子どもの話をでっち上げて謗り始め……という内容であることを語る。

「狂言というのは、最初に『この辺りの者でござる』と言いますが、ありふれた人々が失敗をしてしまう話」という定義を語った後で、「『私、失敗しないので』でお馴染みの大門未知子の『ドクターX』。野村萬斎も出ております。是非ご覧下さい」と宣伝に繋げていた。

「孫聟」に関しては、「婿入りの話だが、今で言う婿入りではなく、聟が妻の実家に挨拶に行くこと」と解説。また、「おおじ」という言葉が出てくるが、これは「祖父」と書いて「おおじ」と読み、「王子、プリンスのことではありません」と語った。


野村裕基、萬斎、万作による三代の舞。裕基は若いだけに華があるが、同時に軽さもまだ出てしまう。若さが持つ諸刃の剣である。萬斎の仄暗さの表出、万作の泰然とした舞は見応えがある。


「縄綯」。出演は、野村萬斎(太郎冠者)、内藤連(主)、高野和憲(何某)。
野村萬斎演じる太郎冠者は、主の命令に現代人の口調で「はい??」と返すため、本来は舞台上と客席とでは時代が違うはずなのだが、萬斎だけが現代人の心情を持った人物として現れたような印象を受ける。観る側は、萬斎を「視座」として芝居を楽しめば良い。博打狂いで借金まみれ、家内の者をカタとして譲るような人物に仕えているということで、太郎冠者がブラック企業に不承不承勤めるサラリーマンのようにも見えてくる。そうした楽しみ方もありだろう。太郎冠者が現代に生きていたら、ネット上に上司の悪口を書きまくるのかも知れない。


「孫聟」。出演は、野村万作(祖父)、深田博治(舅)、飯田豪(太郎冠者)、野村裕基(聟)。野村万作と裕基が祖父と孫という、現実と同じ役割を演じる(祖父は劇中では母方の祖父である)。裕基は、「祖父にとても可愛がられている孫でござる」と言って笑いを取っていた。
「孫聟」は和泉流の専有曲で、聟と舅が口うるさい祖父がいない間に祝言を済ませようとするのだが、結局、祖父も孫が来ているということを知って祝言に参加し、自分の思い通りにことを進めようと何度も何度も同じことを口にし、舅がそれを食い止めようとこれまた同じことを繰り返すという、反復の妙が生きた作品である。

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2022年1月 1日 (土)

観劇感想精選(419) 草彅剛主演「アルトゥロ・ウイの興隆」2021@ロームシアター京都

2021年12月23日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて観劇

午後5時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「アルトゥロ・ウイの興隆」を観る。2020年1月に、KAAT 神奈川芸術劇場で行われた草彅剛主演版の再演である(初演時の感想はこちら)。前回はKAATでしか上演が行われなかったが、今回は横浜、京都、東京の3カ所のみではあるが全国ツアーが組まれ、ロームシアター京都メインホールでも公演が行われることになった。ちなみにKAATもロームシアター京都メインホールも座席の色は赤だが、この演出では赤が重要なモチーフとなっているため、赤いシートを持つ会場が優先的に選ばれている可能性もある。アルトゥロ・ウイ(草彅剛)が率いるギャング団は全員赤色の背広を身に纏っているが、仮設のプロセニアムも真っ赤であり、3人の女性ダンサーも赤いドレス。演奏を担当するオーサカ=モノレールのメンバーもギャング団と同じ赤いスーツを着ている。

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アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツ(国家社会主義ドイツ労働者党)を皮肉る内容を持った「アルトゥロ・ウイの興隆」。元々のタイトルは、「アルトゥロ・ウイのあるいは防げたかも知れない興隆」という意味のもので、ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)がアメリカ亡命中の1941年に書かれている。ナチスもヒトラーも現役バリバリの頃だ。ヒトラー存命中にその危険性を告発したものとしては、チャールズ・チャップリンの映画「独裁者」と双璧をなすと見なしてもよいものだが、すぐに封切りとなった「独裁者」に対し、「アルトゥロ・ウイの興隆」はその内容が危険視されたため初演は遅れに遅れ、ブレヒト没後の1958年にようやくアメリカ初演が行われている。ブレヒトの母国でナチスが跋扈したドイツで初演されるのはもっと後だ。

ブレヒトの戯曲は、今がナチスの歴史上の場面のどこに当たるのか一々説明が入るものであるが(ブレヒト演劇の代名詞である「異化効果」を狙っている)、今回の演出ではブレヒトの意図そのままに、黒い紗幕に白抜きの文字が投影されて、場面の内容が観客に知らされるようになっている。

作:ベルトルト・ブレヒト、テキスト日本語訳:酒寄進一、演出:白井晃。
出演は、草彅剛、松尾諭(まつお・さとる)、渡部豪太、中山祐一朗、細見大輔、粟野史浩、関秀人、有川マコト、深沢敦、七瀬なつみ、春海四方(はるみ・しほう)、中田亮(オーサカ=モノレール)、神保悟志、小林勝也、榎木孝明ほか。


禁酒法時代のシカゴが舞台。酒の密売などで儲けたアル・カポネが権力を握っていた時代であるが、アル・カポネの存在は、セリフに一度登場するだけに留められる。
この時代が、ナチス台頭以前のドイツになぞらえられるのであるが、当時のドイツは深刻な不況下であり、ユンカーと呼ばれる地方貴族(ドイツ語では「ユンケル」という音に近い。「貴公子」という意味であり、ユンケル黄帝液の由来となっている。「アルトゥロ・ウイの興隆」では、カリフラワー・トラストがユンカーに相当する)が勢力を拡大しており、贈収賄なども盛んに行われていた。
清廉潔白とされるシカゴ市長、ドッグズバロー(榎木孝明)は、当時のドイツの大統領であったハンス・フォン・ヒンデンブルクをモデルにしている。ヒンデンブルクはヒトラーを首相に指名した人物であり、ナチスの台頭を招いた張本人だが、この作品でもドッグズバローはアルトゥロ・ウイの興隆を最初に招いた人物として描かれる。

小さなギャング団のボスに過ぎなかったアルトゥロ・ウイは、ドッグズバローが収賄に手を染めており、カリフラワー・トラストに便宜を図っていることを突き止め、揺する。それを足がかりにウイの一団は、放火、脅迫、殺人などを繰り返して目の前に立ち塞がる敵を容赦なく打ち倒し、暴力を使って頂点にまで上り詰める。
ぱっと見だと現実感に欠けるようにも見えるのだが、欠けるも何もこれは現実に起こった出来事をなぞる形で描かれているのであり、我々の捉えている「現実」を激しく揺さぶる。

途中、客席に向かって募金を求めるシーンがあり、何人かがコインなどを投げる真似をしていたのだが、今日は前から6列目にいた私も二度、スナップスローでコインを投げる振りをした。役者も達者なので、「わー! 速い速い!」と驚いた表情を浮かべて後退してくれた。こういう遊びも面白い。

クライマックスで、ヨーゼフ・ゲッペルスに相当するジュゼッペ・ジヴォラ(渡部豪太)とアドルフ・ヒトラーがモデルであるアルトゥロ・ウイは、客席中央通路左右の入り口から現れ、客席通路を通って舞台に上がるという演出が採られる。ナチス・ドイツは公正な民主主義選挙によって第一党に選ばれている。市民が彼らを選んだのである。市民に見送られてジヴォラとウイはステージに上がるという構図になる。

アメリカン・ソウルの代名詞であるジェイムズ・ブラウンのナンバーが歌われ、ステージ上の人物全員が赤い色の服装に変わり、ウイが演説を行って自分達を支持するよう客席に求める。ほとんどの観客が挙手して支持していたが、私は最後まで手を挙げなかった。お芝居なので挙手して熱狂に加わるという見方もあるのだが、やはり挙手ははばかられた。ただ、フィクションの中とはいえ、疎外感はかなりのものである。ナチスも熱狂的に支持されたというよりも、人々が疎外感を怖れてなんとなく支持してしまったのではないか。そんな気にもなる。流れに棹さした方がずっと楽なのだ。

アルトゥロ・ウイがヒトラーの化身として告発された後でも、音楽とダンスは乗りよく繰り広げられる。その流れに身を任せても良かったのだが、私はやはり乗り切ることは出来なかった。熱狂の中で、草彅剛演じるアルトゥロ・ウイだけが身じろぎもせずに寂しげな表情で佇んでいる。ふと、草彅剛と孤独を分かち合えたような錯覚に陥る。

こうやって浸ってみると孤独を分かち合うということも決して悪いことではない、むしろ世界で最も良いことの一つに思えてくる。誰かと孤独を分かち合えたなら、世界はもっと良くなるのではないか、あるいは「こうしたことでしか良くならないのではないか」という考えも浮かぶ。

ヒトラーが告発され、葬られても人々のうねりは止まらない。そのうねりはまた別の誰かを支持し攻撃する。正しい正しくない、良い悪い、そうした基準はうねりにとってはどうでもいいことである。善とも悪ともつかない感情が真に世界を動かしているような気がする。


大河ドラマ「青天を衝け」で準主役である徳川慶喜を演じて好評を得た草彅剛。私と同じ1974年生まれの俳優としては間違いなくトップにいる人である。横浜で観た時も前半は演技を抑え、シェイクスピア俳優(小林勝也。ヒトラーは俳優から人前に出るための演技を学んだとされるが、ヒトラーに演技を教えたのはパウル・デフリーントというオペラ歌手であると言われている。「アルトゥロ・ウイの興隆」でシェイクスピア俳優に置き換えられているのは、この作品がシェイクスピアの「リチャード三世」を下敷きにしているからだと思われる)に演技を学んでから生き生きし出したことに気づいたのだが、注意深く観察してみると、登場してからしばらくは滑舌を敢えて悪くし、動きにも無駄な要素を加えているのが分かる。意図的に下手に演じるという演技力である。


演説には乗れなかったが、スタンディングオベーションは誰よりも早く行った。良い芝居だった。

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