カテゴリー「映像」の14件の記事

2021年10月12日 (火)

上映会「アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険」@ロームシアター京都サウスホール

2021年10月1日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、上映会「アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険」を観る。

1939年、パリに生まれた演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキンは、2019年に第35回京都賞(思想・芸術部門)を受賞しており、それを記念した太陽劇団の新作「金夢島」の京都公演が11月に行われる予定だったのだが、コロナ禍により中止。代わりに太陽劇団とアリアーヌ・ムヌーシュキンに取材したドキュメンタリー映画(2009年制作。カトリーヌ・ヴィルプー監督作品)が上映されることになった。事前申込制入場無料である。
冒頭にアリアーヌ・ムヌーシュキンからのメッセージ映像、本編終了後に今年の9月中旬に撮影された最新の映像が追加されている。

アリアーヌ・ムヌーシュキン。苗字から分かる通りロシア系である。更に、アリアーヌ自身も十代後半になってから知ったそうだが、父親で映画監督のアレクサンドル・ムヌーシュキンはユダヤ系であるという。

アリアーヌは、オックスフォード大学に短期留学した際に演劇に魅せられ、1964年に太陽劇団を旗揚げ。歴史や自身の体験に基づく独自の作劇法で注目を浴び、パリ郊外(12区)の「カルトゥーシュリ」(弾薬庫跡)を拠点に上演を重ねている。2001年に初来日公演を新国立劇場で行い、文楽のエッセンスを盛り込んで話題になったそうだが、この映画を観る限り、最も影響されたのは京劇のようである。若い頃にアジアに興味を持ち、中国に旅行したいと思ったもののビザが下りず、インド、カンボジア、日本、台湾などを回り、日本で東洋演劇を学んでいる。

若い頃のアリアーヌ自身の映像を見たアリアーヌは、昔の自分に向かって「傲慢」、劇場を作るというプランには「気狂い沙汰」と辛辣な言葉を発している。多くの人がある程度年を取ってから若い頃の映像を見直した場合、やはり同様の言葉を発するもことになるのだろうが、残念ながら私も含めて若い頃の映像が残っている人はほとんどいないと思われる。アリアーヌが若手演劇人として注目を浴びていたから映像が残っているのだ。

アリアーヌは演劇について、「権力に取り込まれないために重要なもの」という見方をしているようだが、演劇の本質については、自分なき後の太陽劇団を想像して「弱さを支える力」が必要になると語っており、ある意味、太古からの演劇の芯にあるものを自覚しているようである。シンプルな言葉こそ観る者に届くという哲学を持っているようでもあるが、演劇を行う上で最も重要なのは「愛」であるとシンプルな思想を貫いてもいる。

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2021年7月 6日 (火)

クラシカジャパン 佐渡裕指揮トリノ王立劇場管弦楽団ほか モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」2015トリノ王立歌劇場

2021年6月29日

録画してまだ観ていなかった、佐渡裕指揮トリノ王立劇場管弦楽団ほかによるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を視聴。2015年にトリノ王立歌劇場で収録された映像である。

このところ、顔も声も疲れた感じで、少し気になる佐渡裕だが、この頃はまだ溌剌としている印象である。

衣装は舞台となっている18世紀当時のものを基調としており、出演者などの動きもその頃の上流階級とその使用人を意識していて、洗練されており、ウイットにも富んでいる。柱を使ったセットも効果的であり、特に第4幕の暗闇の庭のシーンの顔が見えない者同士が動く場面で、「障壁」として上手く用いられている。

出演:ミルコ・パラッツィ(フィガロ。バス)、エカテリーナ・バカノワ(スザンナ。ソプラノ)、ヴィト・プリアンテ(アルマヴィーヴァ伯爵。バス・バリトン)、カルメラ・レミージョ(伯爵夫人=ロジーナ。ソプラノ)、パオラ・ガルディーナ(ケルビーノ。メゾ・ソプラノ)ほか。

女性演出家のエレーナ・バルバリッチは、意図的にかどうかは分からないが、登場人物が女性を貶める内容のアリアを強調しているように見え、当時の女性蔑視を露わにしたいという思いがあったのかも知れない。一方で、「博愛」を打ち出したナンバーはこの公演でもカットされており、モーツァルトやダ・ポンテの意図を汲むという意味では合格点に達してはいないように思われる。ただ出演者をチャーミングに見せる演出は施されており、全体像よりも演技に力を入れるタイプの演出家のようにも見受けられる。
子役を登場させているのも特徴だが、特に深い意味はなく、伯爵邸の賑やかさと多様さを表しているに過ぎないようだ。
アンサンブルキャストをストップモーションにするところなどは映像的である。

今回のケルビーノは成熟した感じで、少年というよりも青年のようであり、第4幕などではやや邪悪な印象も受ける。個人的には女性的で、いたずらな感じのケルビーノが好きである。野田秀樹の演出で、カウンターテナーがケルビーノ役を演じているのを観たことがあるが、やはりケルビーノは男性がやってはいけないと思う。男性がやっているというだけで笑えなくなってしまう。
なお、今回の「フィガロの結婚」では、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものでしょう」で伴奏をするのは伯爵夫人で、ギターではなくヴァイオリンをピッチカートで演奏するという趣向となっている。

フィガロを演じるミルコ・パラッツィは、顔がどことなく博多華丸に似ており、親しみが持てた。

佐渡の指揮するトリノ王立劇場管弦楽団は、弦の音色が艶やかであり、爆発力とデリケートさを兼ね備えている。ピット内を映した映像を見ると、弦楽はかなり徹底したノンビブラート奏法を行っており、ピリオドを意識していることがわかる。

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2021年5月24日 (月)

クラシカ・ジャパン トリノ王立歌劇場2015「セビリアの理髪師」

2021年5月3日

録画してまだ観ていなかった、トリノ王立歌劇場2015「セビリアの理髪師」を観る。
ジャンパオロ・ビザンティ指揮トリノ王立歌劇場管弦楽団及び合唱団の演奏。演出:ヴィットーリオ・ボレッリ。出演は、キアラ・アマル(ロジーナ。メゾ・ソプラノ)、アントニーノ・シラグーザ(アルマヴィーヴァ伯爵。テノール)、ロベルト・デ・カンディア(フィガロ。バリトン)、マルコ・フィリッポ・ロマーノ(ドン・バルトロ。バリトン)、ニコラ・ウルヴィエリ(ドン・バジリオ。バス)、ラヴィニア・ビーニ(ベルタ。メゾ・ソプラノ)、ロレンツォ・バッタジョン(フィオレッロ。バリトン)、フランコ・リッツォ(将校。バリトン)。

ボーマルシェ三部作の第1作であり、「フィガロの結婚」前日譚に当たる「セビリアの理髪師」。町のなんでも屋であるフィガロが、アルマヴィーヴァ伯爵とロジーナの間を取り持つという話である。ロッシーニのオペラは、作曲家自身が若くして引退し、美食家に転向して高級レストランを経営するようになるという、音楽史上例を見ない生き方を選択したということもあって、急速に忘れ去られ、序曲のみが有名という状態が長く続いた。20世紀後半になるとロッシーニのオペラ作品の見直しが始まり、メディアの発達によって、ロッシーニのオペラを映像で観る機会も増えたが、「セビリアの理髪師」だけはロッシーニの生前から今にいたるまでずっと人気を博し続けてきた作品である。

「ロッシーニ・クレッシェンド」という言葉があり、音楽が急速にクレッシェンド(増強)していくことを指すが、ロッシーニはこの独自の音楽性などを武器に、祖国のイタリア、更にウィーンを始めとするドイツ語圏でも大人気を博した。その人気は「最盛期のビートルズをも上回る」というほどで、例えばウィーンの王立歌劇場なども1年の大半がロッシーニ作品で埋まったというのだから、大熱狂を呼び起こしていたことになる。

「フィガロの結婚」ではタイトルロールとなるフィガロであるが、この作品では純粋な主役というよりも恋の取り持ち役である。理髪師であるため、様々な家に潜り込むことが出来るが、身分的には最下級層で、自分の家を持っていない(今回はフィガロもホームレスという設定で、アルマヴィーヴァ伯爵に「家はどこか?」と聞かれたフィガロが、適当なことを言って誤魔化すということになっている)人も多い。今も理髪店には、静脈、動脈、包帯を表す「あめんぼう」(サインポール)が回っているが、中世ヨーロッパの理髪師は、外科医の仕事も兼ねていた。今でこそ外科医は、開業医なら高給取りで権威ある職業だが、昔は他人の体に直接触れる仕事は卑しい身分の人が行うことだった。フィガロも「便秘の弁護士のために浣腸をしに行かないといけない」と歌う場面があるが、今で言う3K的な職業だったわけである。
こうした理髪師であるフィガロが、アルマヴィーヴァ伯爵と美しい娘であるロジーナのキューピットを演じる。
といってもそう簡単にことが進むわけではない。伯爵は、プラドで医者(この場合は内科医で、内科医はこの時代も権威ある仕事である)であるドン・バルトロの娘であるロジーナに一目惚れしてセビリアまで追ってくる。伯爵が夜明け前のバルトロ邸の前で楽士達に伴奏させてロジーナのための恋歌をうたうも最初は空振りに終わるが、旧知の仲であったフィガロからロジーナはバルトロの義理の娘であり、バルトロは後見人となっていることを知らされる。
一方、ロジーナも伯爵の声に惹かれ、ベランダから恋文を落とす。伯爵は「貧乏学生、リンドーロ」と名乗り、ロジーナに向けた恋歌を再びうたう。
フィガロが軍隊が近くに駐屯していることを知っており、伯爵に軍人に化けてバルトロ邸に潜り込むことを提案する。
まんまとバルトル邸に忍び込むことに成功した伯爵であるが、バルトロやロジーナの音楽教師であるドン・バジリオ(スペインでは「ドン」がつく男性は貴族階級である)もリンドーロなる人物がおかしな振る舞いをしていることには気づいて……。

続編の「フィガロの結婚」では開始早々に決裂することになるフィガロと伯爵であるが、「セビリアの理髪師」では一致団結して、バルトロとバジリオの鼻を明かし、ロジーナをものにする。
そしてロジーナは伯爵の歌声に恋しており、また伯爵も――上流貴族ということで当然なのかも知れないが――バジリオの弟子の音楽教師に扮して再度バルトロ邸に忍び込んだ際には、ロジーナ(相手がリンドーロであるということには気づいているが、リンドーロの正体がアルマヴィーヴァ伯爵であるということにはまだ気づいていない)の歌のレッスンでクラヴサンを弾いて愛情を交わすなど、音楽が突破口になっているということが、この歌劇をより面白いものにしている。


幕間に、演出のヴィットーリオ・ボレッリ、指揮者のジャンパオロ・ビザンティ、フィガロ役のロベルト・デ・カンディア、ロジーナ役のキアラ・アマル(キアラというのは「明るい」という意味だそうで、キアラ・アマルはロジーナについて自分の名前と同じキアラ=明るい人だと嬉しそうに語る)、アルマヴィーヴァ伯爵役のアントニーノ・シラグーザへのインタビューが流れる。


演出のヴィットーリオ・ボレッリは、「ロッシーニの『セビリアの理髪師』は完成されたオペラであるので、大袈裟な演出を加えないようにした」と語り、一方で、カットされることの多いラスト付近の伯爵のアリア「逆らうのはやめなさい」を復活させたことについて述べる。「逆らうのはやめなさい」は高難度のアリアであるため、カットされることが多いのだが、伯爵役のアントニーノ・シラグーザの歌唱力が高いため、通用すると思ったそうだ。演出家の仕事は、オペラ作品を分析し、音楽や台本などあらゆる要素に最大限の尊重を払うことだと語る。多くの指揮者が楽曲に対して払う敬意と似通っていることが面白い。当然といえば当然であるのだが、残念ながら現代の日本の演劇では台本に対する演出家の暴力がまかり通っている。
そのアルマヴィーヴァ伯爵役のアントニーノ・シラグーザは伯爵役の魅力について、「ほとんどの恋敵には勝てる。バスやバリトンには負けない」と語る。「セビリアの理髪師」の男性登場人物の中で伯爵だけがテノールである。なお、続編の「フィガロの結婚」では伯爵の声域はバリトンになっており、これだけでも役割が異なることが分かる。

フィガロ役のロベルト・デ・カンディアは、ロッシーニが書いたアリアの多様さについて述べる。また、「セビリアの理髪師」の初演以来、200年以上に渡ってフィガロ役を務めてきた数々の名歌手達と比べられる覚悟や、師から「音符をなぞるだけでは全くだめで、フィガロが持つエネルギーを聴衆に伝えるよう指導された」ことを明かす。

指揮者のジャンパオロ・ビザンティは、ロッシーニのオペラ作曲家としての高い職人芸や、発想力、オーケストレーションやアリアの細部に至るまでの高度な技巧について語り、ロッシーニは19世紀の音楽劇の指標となったと断言した。

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2021年5月 9日 (日)

演劇公演オンライン配信 ニットキャップシアター第40回公演「カレーと村民」オンライン配信版~じっくりと煮込んだ版~(文字のみ)

2021年5月7日視聴

有料配信で、ニットキャップシアターの第40回公演「カレーと村民」を観る。牧歌的なタイトルであるが、実は結構恐い話である。作・演出:ごまのはえ。出演:門脇俊輔、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、日詰千栄(はひふのか)、福山俊朗(はひふのか/syubiro theater)、亀井妙子(兵庫県立ピッコロ劇団)、西村貴治、越賀はなこ、山下多恵子(京都演劇スタジオ)、山下あかり、益田萌(ニットキャップシアター公式サイトに載っているwebパンフレット掲載順)。2013年に文学部と大学院文学研究科に演劇研究系の専攻がある大阪大学と同大学の本部がある吹田市との共同プロジェクトとして初演された作品の上演である。京都・東九条のTheatre E9でのライブ収録。

1905年の(明治38)大阪・吹田村の旧庄屋(関東だと名主、北陸などでは肝煎に当たる)の浜家の表玄関に面した土間が舞台である。庄屋は農民階級でありながら、武士と農民の間を取り持つ一帯の名士として苗字帯刀もしくは苗字のみを許された豪農であり、明治時代に入ってからも裕福な家が多かった。第二次世界大戦後の農地改革で没落していく家も多かったのだが、それはまだ先の話である。

浜家の家長である長男の太郎(福山俊朗)は好人物ではあるが、「長男の甚六」という言葉が合ってしまいそうな頼りない性格である。だが、妻のお茂(仲谷萌)と共に家を支えている。この時代なので、家には人が多く、母親のまん(日詰千栄)、かつては乳母でもあった奉公人のオマサ(越賀はなこ)、新しく子守として入った山田(大阪大学の本部所在地)出身のネ(おネ。高原綾子)、そしてイギリス留学から3年ぶりに帰ってきたばかりの次男の次郎(門脇俊輔)がいる。物語は、次郎がモーツァルトの歌劇「魔笛」より“パパパの二重唱”を一人で歌っているところから始まる。当然ながら、他の人々はモーツァルトも「魔笛」もなんのことかよく分からない。次郎も「パパゲーノ」「パパゲーナ」となるところも全て「パ」で歌っているため、ドイツ語や「魔笛」の内容を十全に知っているわけではないようだが、自然児とも呼ばれるパパゲーノや運命の相手であるパパゲーナのような女性に憧れているらしいことは伝わってくる。

さて、留学から帰った次郎であるが、特に仕事に就くわけでもなく就く気があるわけでもない。実家が裕福ということでいわゆる「高等遊民」となっている。この時代、実は高等遊民と呼ばれる人は結構いたわけだが、次郎が夏目漱石の『それから』の主人公である代助を意識したキャラクターであることは明らかで、彼はイギリス留学時代にロンドンで、まだ漱石と名乗る以前の夏目金之助の世話になったことがあり、その夏目金之助が夏目漱石という名で『吾輩は猫である』という小説を書いていることを知って、連載されている「ホトトギス」を読む場面がある。なお、次郎にはアキ(山下あかり)という婚約者がおり、当時としては珍しく自由恋愛(セリフに「野合で結ばれ」という表現が出てくる)なのだが、イスタンブールで様々な国の美人を見た次郎は典型的な日本人顔であるアキのことを心からは愛せなくなっていた。

そのアキは勉強する意味が分からず、女学校を辞めていた。当時の大阪は、学問的には恵まれた場所ではない。ナンバースクールである第三高等学校、通称・三高は当初は大阪に設置されたのだが、政治の中心地が東京に移ったことで不安を感じた京都市民が「未来の京都のためには学問のある若者が必要」ということで誘致を行い、三高は京都に移転。三高の上に京都帝国大学(現在の京都大学)が置かれたのだが、大阪には結局新たなナンバースクールが生まれることもなく、帝国大学を建学しようという動きも起こっていたが、近くに京都帝国大学があるという理由でなかなか実現せず、大阪帝国大学(現在の大阪大学)が開学するのは昭和になってからである。私学も関西法律学校がこの年に関西大学と名を変えた(大学と名乗るが旧制の専門学校である。私立大学が生まれるのは1918年の大学令以降となる)が、現在でも関西の四大名門私大「関関同立」に入っている大阪の大学はこの関西大学1校だけということで、往時は更に東京との差は激しかった。次郎も大阪の学問基盤の弱さ故に海外へ留学したのだが、アキにも東京の女子学校(まだ大学はなかったが、後に大学へと昇格する名門女子学校はいくつか存在した)に進むよう勧める。だが、アキは乗り気ではない。

1905年といえば、日露戦争戦勝の年である。戦勝とはいえ、実際はロマノフ王朝がロシア第一革命により危機に瀕していたため、極東の情勢に構っている場合ではなくなったことが大きいのだが、当時は情報網が発達していなかったため、「完勝」だと信じている日本人も多かった。それ故、賠償金が得られなかったことで、吹田の人々も「政府は弱腰だ!」と激怒することになる。この時の怒りのうねりとしては、東京で起こった日比谷焼き討ち事件などが有名であるが、大都市だけではなく、当時はまだ田舎であった吹田でもその火種がくすぶり始めていた。なお、太郎が新聞を皆に朗読する場面があるが、これは当時よく行われていた習慣である。諸外国に比べると識字率は高かったとはいえ、「女は学校に行かなくてもいい」「農民の子は学校に行かないで家の手伝いをした方がいい」という時代だったため、文字が読めない人や読めても内容がよく分からない人はまだまだ多かった。ちなみに太郎と次郎の母親であるまんは当然といえば当然だが江戸時代の生まれである。

次郎は学があるため、世界情勢については知悉しており、「本当に勝ったわけではない」と知っていたが、人々が求めているのは「事実」ではなく「納得出来る話」であり、「納得出来るなら嘘でもいい」ことを見抜いていた。ということで明治38年を舞台としているが、今現在に繋がることが描かれている。当時選挙権があるのは比較的裕福な25歳以上の男子だけであり、選挙権のある太郎に人々が願い出る場面がある(太郎役の福山俊朗は、実は参議院議員の福山哲朗の実弟であり、意味のある役割を与えられている)。

浜家が営む輸送船で働くお留(山下多恵子)は息子を日露戦争で失い、吹田にあるビール会社からビールを牛が引くトロッコに乗せて船着き場まで運搬する会社の社長である宮川大助(西村貴治)と妻のおはな(亀井妙子)の次男のセイロクも日露戦争で行方不明になっていたが、ようやく無事が確認されて近く戻ってくる予定である。浜家の奉公人のオマサの孫も日露戦争で戦死しており、犠牲を払ったのに賠償金なし(報道では賠償金は日清戦争の半分程度とかなり安いが支払われるとしていた)ということで、怒りに燃え、「高額の賠償金を得られるまで戦いを続けるべきだ」「そんな交渉で済ませた日本が憎い」(日本国民という大きな単位で一括りにされる危険性を含む)といったような声が上がり、「大阪に行って講和反対運動に参加しよう」と息巻く。
次郎もその場を収めるために、「戦争続行」を求める人々に賛成したふりをして兄の太郎に支援金を出させる。知恵だけは回る次郎だが確固とした思想はなく、そんな自分に嫌気がさし、最終的には子守のネと共に蒸発することになる。ちなみにネというのは秀吉の奥さんと同じ名前で、秀吉と寧は「野合で結ばれた」と表現される代表的人物であるが、意識されているのかどうかは不明。「ネ」という名では変だというので、明治に入ってからは庶民階級の女性にも付けることが許された「子」を付けて「ネ子」にしようなどといわれる場面があるが、『吾輩は猫である』に繋がっているのは確実である。

カレーの話であるが、「征露丸」(現在の「正露丸」。元々は「露西亜を征する」という意味で「征露丸」と名付けられたが、日露戦争終結後に今の表記に変わる)の模造品(関西でいう「ばったもん」)である「暴露丸」を売りに来た富山の薬売り(池川タカキヨ)が太郎や次郎と話している時に、カレーの話が出る。次郎はイギリスに留学していたため、「元々はインド料理であったがイギリスで流行し、日本に入ってきた」という正しい説明をする。当時は日英同盟下の時代であり、イギリスの文物が多く流入していた。また日本海軍でカレーが重宝されているという話も出る。カレーが浜家にも入ってくるということは軍事色が強まるという暗示でもあり、ほのぼのとした場面なのにじわじわとした恐怖を生む。この辺は巧みである。

お留(おとめ)という、坂本龍馬の姉の乙女と同じ読みの女性が出てくるが、日露戦争の際に起こった第二次坂本龍馬ブームから作られた役名なのかは不明(「おとめ」という名前自体は「これで産むのは留め」という意味を込めたありふれたものである)。アキが呉や広島市のある安芸に掛かるのかどうかもよく分からないが、この辺は言葉遊びに留まるため、深く追わなくて良いだろう。

実戦の怖ろしさは、戦地帰りの潮(うしお。これも意味ありげな役名である。演じるのは澤村喜一郎)によって語られる。潮はトラウマを抱えており、心理的要因で耳が聞こえなくなっているのだが、突然、戦地の模様を一人で演じ出す場面がある。これは結果として戦場の惨状を人々に伝えることになるのだが、人々にどれだけ影響を与えたのかは不明となっている。

ラストは、アキが東京の名門女学校への進学を決め、「頑張って勉強して、皆が幸せになれる世の中を作ります」という意味のことを朗らかに述べるも、誰も本気にはしておらず、アキが天を仰ぐ場面で終わる。結局のところ、人々は自分さえよければよく、学ぶことにも、それによって生まれる未来に期待もしていないし価値も見いだしていないのだ。政治を人任せにしている日本の現状の怖ろしさが投影されており、一種の絶望を突きつけられることになる。

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2021年5月 5日 (水)

NHKBSプレミアム「2K版いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台 ベームのモーツァルト」 カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 モーツァルト 交響曲第29番、第40番&第41番「ジュピター」

2021年4月6日

録画しておいた、NHKBSプレミアム「2K版いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台 ベームのモーツァルト」を視聴。

カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、モーツァルトの交響曲第29番、第40番、第41番「ジュピター」が演奏される。

20世紀を代表する名指揮者の一人であるカール・ベーム。晩年には日本でも大人気だったが、今現在は往事に比べると知名度を落とした感もある。

ベームは特にモーツァルトの名演奏で知られ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と交響曲全集も作成している。。モーツァルトのスペシャリストは、ブルーノ・ワルターからベームへと受け継がれたが、その後その伝統は絶えてしまっている。サー・チャールズ・マッケラスやアダム・フィッシャーのように交響曲全集を作成した指揮者もいるが、彼らは「モーツァルトも得意な指揮者」であって、十八番としているレパートリーは他にある(マッケラスならヤナーチェク、アダム・フィッシャーはハイドンやバルトークなど)。

近年はピリオド・スタイルによる刺激的なモーツァルト演奏が盛んになっているが、ベームとウィーン・フィルはそれとは対照的なロマンティックで音色の美しさを生かしたモーツァルトを奏でている。今となっては「生温い」と感じられないでもないが、こうしたスタイルによるモーツァルトにも良さはある。ベームのテンポは遅めで、モーツァルトの旋律のみならず構造の美点も明らかにしていく。指揮姿も派手ではないが安定していて、指示も分かりやすい。

交響曲第40番の第1楽章はゆったりとしたテンポであり、昨今の演奏で表される焦燥感は出ていないが、惻々とした趣の表現には優れたものがある。

今後は、ベームのようなスタイルのモーツァルト演奏はおそらく出てこないと思われるが、一時代を築いたモーツァルト演奏の記録として価値は大きい。勿論、ベームのような落ち着きの中から滲み出てくる悲哀や輝かしさを好む聴衆は今後も出てくるはずで、死去からすでに30年以上が経過しているが、新たなるファンも獲得してくことになると思われる。

「大学教授のような」と形容される温厚そうな風貌で、晩年は日本で「ベーム旋風」が起こったほどの人気指揮者であったが、性格的にはどちらかというと残忍で、ウィーン・フィルの楽団員にも嫌う人は多かったされる。若い奏者をいじめるという悪癖もあったそうだ。だがそれでもオーケストラを纏める手腕と表現力に長けたベームは、ウィーン・フィルのメンバーからも「性格はあれだけど、腕が良いから」と認められており、たびたび指揮台に上がった。

故人ということもあり、生前の性格については問うても仕方ないだろう。今は彼が残した演奏に耳を澄ますだけである。

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2021年4月 1日 (木)

ロームシアター京都 ハンブルク・バレエ団 「ベートーヴェン・プロジェクト」映像上映会

2021年3月21日 ロームシアター京都サウスホールにて

午後1時から、左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールで、ハンブルク・バレエ団の映像上映会、「ベートーヴェン・プロジェクト」を観る。

本来は、この3月にハンブルク・バレエ団の来日公演として「ベートーヴェン・プロジェクト」の日本初演がロームシアター京都メインホールで行われるはずだったのだが、コロナ禍によって来日不可となり、代わりに「ベートーヴェン・プロジェクト」とコロナ下に制作された新作「ゴースト・ライト」の上映会が行われることになった。昨日と今日、「ベートーヴェン・プロジェクト」が午後1時から、「ゴースト・ライト」が午後5時から上映される。ということで今日2本とも観ることが可能なのだが、バレエの映像を1日2回観たいと思うほどバレエ好きではない。

「ベートーヴェン・プロジェクト」は、2018年に初演された作品。映像は2019年10月にバーデン=バーデン祝祭劇場で行われた上演を収めたものである。この映像はBSプレミアムの「プレミアムシアター」で放送されており、またDVDやBlu-rayも発売されていて、家庭でも観ることが出来る。振付:ジョン・ノイマイヤー。第1部のピアノ演奏:ミカル・ビアウク。第2部と第3部の演奏は、サイモン・ヒューイット指揮のドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団。映像監督はミリアム・ホイヤー。

第1部「ベートーヴェン・フラグメント」、第2部「プロメテウスの創造物」、第3部「エロイカ(英雄)」の3部からなる。

 

第1部「ベートーヴェン・フラグメント」。プロメテウス主題が登場する「エロイカ変奏曲」が演奏される。3部ともプロメテウス主題が登場する作品が演奏され、人類に叡智を与えたプロメテウスと人類そのものへの讃歌が奏でられる。

ベートーヴェン自身を演じているのは、アレイズ・マルティネス。ベートーヴェン本人も推定身長165センチと、当時の西洋人としてもやや小柄だったようだが、マルティネスも他の男性バレエダンサーと比較して明らかに背が低いダンサーである。女性ダンサーよりも小さいかも知れない。

マルティネスが演じているベートーヴェンは、おそらくまだ若い頃、ハイリゲンシュタットの遺書を書いた時代だと思われる。
ピアノの足に絡みついていたマルティネスは、プロメテウス主題に合わせて踊る。やがて高貴な身分を表すと思われるマントを羽織った男性ダンサーが登場するが相手にされない(貴族に憧れつつも果たせないベートーヴェンの心情を表現したようである)。男性ダンサー二人組と楽しく踊った後で、男女のペアが現れる(女性ダンサーはアジア系である)。男女のペアとも楽しく踊るベートーヴェンだが、結局、ペアはペアのまま去り、先程現れた男性ダンサー二人組も、新たに現れた女性ダンサーに夢中になり、ベートーヴェンに構ってくれず、最後にはベートーヴェンは突き飛ばされて横転してしまう。その後、花嫁衣装のダンサーが現れるが、彼女はピアニストにご執心というわけで、作曲家の孤独が描かれている。やがてベートーヴェンは芸術そのものを恋人とし、人生を捧げることを誓う(セリフがないので「ように見える」というだけで、ノイマイヤーの実際の意図は不明である)。すると、それまですげなくしていたダンサー達が音楽の精として生まれ変わったように快活なダンスを披露し、最後はベートーヴェンを掲げて礼賛する。

続いて演奏されるのは、ピアノ三重奏曲「幽霊」である。不協和音が印象的な作品として知られている。赤いドレスの女性ダンサーが登場し、ベートーヴェンとパ・ド・ドゥを行うのだが、やがて彼女はすでに亡き人となっていることがうつ伏せに横たわることで示される。赤いドレスの女性ダンサーはその後に一度起き上がるのだが、それはベートーヴェンに喪服を着せるためであり、その後、男性ダンサー二人に仰向きに掲げられて退場する。恋人のように見えたのだが、実際はベートーヴェンの母親であるマリアであったようだ。赤い服を着た女性ダンサーはもう一人現れ、こちらが「不滅の恋人」のようである。

突然、金属音が混じり、録音によるピアノの演奏が奏でられる。宿痾となった難聴の始まりである。やがてピアニストのミカル・ビアウクもベートーヴェン役のマルティネスと視線を交わして退場する。悲劇の予兆だが、ベートーヴェンはそれを乗り越えていく。

第2部「プロメテウスの創造物」では、ベートーヴェンの母親役だと思われる女性ダンサーがこれから演奏される曲目について解説を行う。ドイツ語で、日本語字幕もないため何を言っているのかよく分からないが、ベートーヴェン作曲の「プロメテウスの創造物」からの2曲が演奏されると言っていることだけはなんとなく分かる。
第2部は第1部と異なり物語性は低め。天上の描写があり、アポロ神を始めとする多くの神々がベートーヴェンを祝福する。

 

第3部の「エロイカ(英雄)」。こちらも第2部同様、エネルギッシュでバリエーションに富んだ表現が中心だが、第2楽章の葬送行進曲だけは人一人の死というよりも何らかの崩壊が描かれているようであり、強い悲劇性を帯びている。

ハンブルク・バレエ団であるが、東アジア人のダンサーがかなり多い。特にアジア人女性ダンサーは重要な役割を担っている。エンドクレジットで確認したところ、日本人、中国人、韓国人の全てが含まれていることが分かった。日本人女性ダンサーは二人いて、有井舞耀(ありい・まよ)と菅井円加であることが確認出来た。

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2021年3月20日 (土)

美術回廊(63) 国立国際美術館 「液晶絵画」

2008年6月13日 大阪・中之島の国立国際美術館にて

中之島にある国立国際美術館まで行って、今何をやっているのか確認する。映像を用いた「液晶絵画」なる展覧会をやっており、出品者の中にブライアン・イーノの名前を発見。国立国際美術館は、金曜日は特別に午後7時まで開館しているとのことなので入ってみる。

イーノの作品は、映像よりもブース内に流れているイーノの作曲した音楽の方が面白かった。

サム・テイラー=ウッドという作家の作品は、ウサギの死骸や果物が腐敗していく様を映し、高速で再生するというもの。発想がピーター・グリーナウェイの「ZOO」そのままのような気もするのだが……。

展示されている作品の中で、もっとも印象深かったのは、自身が歴史上の有名人物になりきるアートを発表していることで有名な森村泰昌の「フェルメール研究」という連作。「真珠の耳飾りの少女」に森村がなりきった作品が特に良かった。

ドミニク・レイマンという作家の作品は、スペース上方に据えられたカメラの映像が、少し遅れて正面のスクリーンに映し出される。私も色々なポーズをして楽しんだ。

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2021年3月 6日 (土)

DVD「ブルーノ・ワルターの芸術」

2008年3月7日

DVD「ブルーノ・ワルターの芸術」(ジェネオン)を観る。1958年、ワルターがバンクーバーの音楽祭に招かれて、バンクーバー・フェスティバル・オーケストラを指揮した際のリハーサル(ブラームスの交響曲第2番の第1楽章と第4楽章)と、カリフォルニア・ビバリーヒルズにあるワルターの自宅でのインタビュー映像が収められている。カナダのCBCの制作。

ユダヤ人であるためヒトラー政権下のドイツからアメリカに亡命したブルーノ・ワルターは、1957年に心臓に不調を感じたため、公式なステージからは引退するが、指揮活動からの完全引退ではなく、静養を多く取ることにはするものの、要請があればいつでも指揮台に立つつもりであった。このDVDのインタビューでもそう答えている。そしてこの直後から、ワルターの演奏を新たに開発されたステレオ録音で残すためにロサンゼルス・フィルのメンバーやハリウッドのミュージシャンを集めた録音用の特別オーケストラ、コロンビア交響楽団との録音活動に入ることになる。

バンクーバー・フェスティバル・オーケストラはかなり特殊な配置をしており、冒頭にワルターが「ホルンはどこだ?」、「トランペットは?」とオーケストラメンバーに尋ねている。ステージ中央に雛段があり(段上は無人。おそらくコーラス用のスペースではないかとライナーノーツには書かれている)、そこにいるはずの管楽器奏者はステージの端にいるのだった。

ブラームスの交響曲第2番第1楽章リハーサル。ワルターは、「エスプレッシーボ(感情豊かに)」、「ピアノ(弱く)」、「シング(歌って)」をオーケストラに何度も求め、「ディミヌエンド(段々弱く)」に注意するよう指摘している。バンクーバー・フェスティバル・オーケストラは臨時編成のオーケストラであるためか、ややぶっきらぼうな傾向があり、ワルターは「ピアノ」を強調する必要があったのだろう。また木管楽器に、より滑らかに演奏するよう求めるシーンも多い。

第4楽章では、ワルターは逆に「フォルテシモ(最も強く)」を強調する。臨時編成のオケが非力なためだろう。

譜面台に譜面がないということはないと思うのだが、ワルターはスコアに目をやることはなく、コンサートマスターに「今はどこだ?」と練習番号を訊いている。ただ、スコアは完全に頭に入っているようで、コンサートマスターが「Gです」と答えると、「ではGの前から」と言ってちゃんとそこから振り始める。

ビバリーヒルズの自宅でのインタビューでは、ワルターは音楽がエンターテインメントであることを否定し、自らも「エンターテイナーではない」としている。ワルターは音楽を崇高なものだとしており、ジャズに対しては音楽を馬鹿にしているように思えると否定的な見解を示している。1958年といえば、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンなどが活躍し、ジャズは黄金期を迎えようとしていた。そうした時流への牽制の意味もあったのだろうか。

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2021年3月 4日 (木)

NHKオンデマンド プレミアムシアター バイロイト音楽祭2018 クリスティアン・ティーレマン指揮 歌劇「ローエングリン」

2011年3月2日

NHKオンデマンドで、2018年のバイロイト音楽祭でのワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観る。7月25日、バイロイト祝祭劇場での上演と収録である。BSプレミアムシアターで放送されたものだが、NHKオンデマンドでも観ることが出来る。同一内容と思われるBlu-rayとDVDも出ているが、日本語字幕は付いていないため、ドイツ語やその他の主要外国語が分からない場合は、ディスクではなく配信で観るかプレミアムシアターを録画していたならそれで観るしかない。

クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団の演奏。演出はユーヴァル・シャロン。シャロンは、「ローエングリン」をドイツ建国神話の一部ではなく、中世のフェアリーテイルと捉えており(本当かどうかは不明)、そのため、出演者は昆虫の羽根を付けている。一部、効果的な場面もあるが、いらない演出であるようにも思える。以前、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を、蝶々だというので、出演者を昆虫に見立て、それらしい衣装で出演させるという酷い演出をDVDで観たことがあるのだが(ステファノ・モンティの演出)、それを思い出した。

ティーレマンは「ローエングリン」を十八番の一つとしているが、この上演でバイロイトでのワーグナーの歌劇や楽劇全作品の指揮を成し遂げたそうである。押しの強い指揮が持ち味であり、私は苦手なタイプだが、ワーグナー指揮者としてはやはり現役最高峰であると思われる。うねるようなワーグナーの音楽を的確に音にする才能に長けている。

出演は、ゲオルク・ツェッペンフェルト(バス。ドイツ国王ハインリヒ)、ピョートル・ペチャワ(テノール。ローエングリン)、アニヤ・ハルテロス(ソプラノ。エルザ・フォン・ブラバント)、トマシュ・コニェチュニ(バリトン。フリードリヒ・フォン・テルラムント伯爵)、ヴァルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ。オルトルート)、エギルス・シリンス(バリトン。ハインリヒ王の伝令)ほか。

シャロンの演出は、映像や電飾の多様が特徴。セットも発電所を意識したもののようだ。ローエングリンは、雷の剣を持っているのだが、そのためか電気技師の格好をしている。そしてエルザは最後の場面ではレスキュー隊を想起させるオレンジ色の衣装ということで、原子力発電所がモチーフとなっていることが想像される。電気関連であることの分かる演出はその他の場面にも鏤められている。原発への信頼を問う演出であり、脱原発へと舵を切ったドイツらしい演出であるとも言える(ユーヴァル・シャロン自身はアメリカ人である)。勿論、日本も他人事ではない、というよりも張本人のような立場に残念ながら立ってしまっている。そして日本は原発をまだ続ける予定である。

テーマは置くとして(本来は置いてはいけないのだが)、決闘の場面では、吹き替えのキャストが宙乗りになり、中空で闘うなど、外連に富んだ演出が目立つが、どことなく歌舞伎っぽい。そして第3幕には本来ないはずの地震のシーンが加えられている。その直後に、エルザが騎士ローエングリンの正体を知ったことが表情で分かり、騎士は頭を抱える。ラストもドイツの未来を描いたものと思われるが、日本絡みのように見えなくもない。ちなみにエルザもオルトルートも死なない。

「ローエングリン」は、アリアよりも、第1幕への前奏曲と、第3幕への前奏曲が有名で、コンサートでもよくプログラムに載る人気曲目である。また、コンサートでは演奏されることは少ないが、第3幕で演奏される「婚礼の合唱」は、「結婚行進曲」としてメンデルスゾーン作品と共に、ウエディングの定番となっている。

白鳥が重要なモチーフとなっているが(今回の演出では白鳥は具体的な形では出てこない)、白鳥を表す主題は、後に書かれたチャイコフスキーの「白鳥の湖」に用いられたメロディーに酷似しており、チャイコフスキーがワーグナーの白鳥の主題をモチーフとして取り入れたことが想像される。


「ローエングリン」は、現在のベルギーに当たるブラバントのアントワープ(アントウェルペン)を舞台とした歌劇である。聖杯伝説などのドイツの神話を下敷きとしており、ワーグナーの他の歌劇や楽劇などとも関連が深い。
先の大公が亡くなり、その娘であるエルザと息子のジークフリートが行方不明となる。エルザは戻ってくるが、ジークフリートの行方はようとして知れない。ブラバントで名声を得ているフリードリヒが、「継承権を奪うために、エルザがジークフリートを殺したのだ」として告発し、裁判が行われる。エルザは自己弁護は特にせず弟の境遇を嘆き始め、「夢の中で白鳥が曳く小舟に乗った騎士を見た。彼が現れる」という不思議なことを語る。そうこうしているうちに本当に夢の中で見た騎士が白鳥が曳く小舟に乗って現れる(この辺はリアリティがないが、そもそもこれはリアルな物語ではない)。ハンガリーとの戦いにそなえてブラバントにやって来ていたドイツ国王ハインリヒは、両者が決闘を行い、騎士(観客は歌劇のタイトルからその名がローエングリンであることは知っている)が勝てばエルザは無罪、フリードリヒが勝てばエルザが有罪と決める。それが神の御意志であるとする。デンマーク制圧などに貢献した傑出した武人であったフリードリヒだが、謎の騎士の前に完敗。騎士はエルザを妻に迎えることにするが、自身の正体を問うてはならないと全員に誓わせる。だが、魔女のオルトルートの話術に乗せられたエルザは騎士の正体に疑念を抱いて……というストーリーである。今回の演出では、第3幕でそれまで各国が行っていた原発広報の危険性と暴力性を問うシーンが出てくる。

なお、調べてみたところ、2017年から2018年に掛けて、新たな発電方式が話題になったことが確認出来た。あるいは最新の情報を取り入れたラストと見ることも可能であるように思われる。もっとも、ワーグナーとも「ローエングリン」とも直接関係のない演出だけに、カーテンコールで結構な数のブーイングが飛んでいることも確認出来る。

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2021年2月26日 (金)

劇団音乃屋オンライン公演 音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」(文字のみ)

2021年2月23日

劇団音乃屋のオンライン公演、音楽劇「はごろも ~三保の伝承にもとづく~」を視聴。静岡市清水区(旧静岡県清水市)の曹洞宗庵原山(あんげんざん)一乗寺の本堂で収録されたものである。静岡市清水区の三保の松原を始め、日本各地に残る羽衣伝説を題材にした「家族みんなで楽しめる音楽劇」である。宮城聰が芸術監督を務めるSPAC所属の女優で、劇団音乃屋主宰でもある関根淳子の作・演出、天女役。劇団大樹主宰で大蔵流狂言方の川野誠一の伯良(漁師。川野誠一は私立大分高校卒とのことなので、財前直見の後輩、森七菜の先輩となるようである)。新保有生(しんぼ・ありあ。苗字から察するに、先祖がご近所さんだった可能性もある)の作曲・演奏(三味線、篠笛、能管)での上演である。冒頭に一乗寺住職からの挨拶があり、劇団音乃屋主宰の関根淳子からの挨拶と新保有生の演奏が特典映像として収められている。

全国各地に存在する「羽衣伝説」であるが、三保の松原のそばにある御穂神社には天女のものとされる羽衣が今に伝わっている。
羽衣伝説は様々な芸能の素材となっているが、歌舞伎舞踊の「松廼羽衣(まつのはごろも)」が中村勘九郎・七之助の兄弟により、ロームシアター京都メインホールで上演された時には、上演前に行われた芸談で、「静岡公演の昼の部と夜の部の間に三保の松原と羽衣を見に行った」という話をしており、「残っているんなら切って与えたんだから、それを演出に取り入れよう」ということで、夜の部から急遽羽衣を切るという演出を加えたという話をしていたのを覚えている。

三保の松原は風光明媚な地として日本中に知られているが、そこから眺める富士山の美しさでも知られている。富士山は休火山で、今は噴煙は上がっていないが、噴火していた時代もあり、空へとたなびく白煙が天界へと続く羽衣に見立てられたことは想像に難くない。

新保有生による冴え冴えとした邦楽器の音が奏でられる中、まず川野誠一演じる伯良が狂言の発声と所作と様式で状況を説明して松に掛かった羽衣を見つけ、次いで天女役の関根淳子が現れて、返して欲しいと謡の発声で話し掛ける。邦楽を用いることで郷愁や哀愁が自ずから漂う。「舞を行うので衣を返して欲しい」と頼まれた伯良は「嘘偽りではないか」と疑うが、天女は「天に偽りなきものを」と言い、羽衣を纏っての舞を披露する。もちろん嘘ではない、嘘ではないが「芸術とは最も美しい嘘のことである」というドビュッシーの言葉が浮かぶ。天女は天界の人(正確にいうと人ではないが)なので神通力が使えるはずなのであるが、無理に衣を奪い返そうとせず、舞を披露することで羽衣を取り返す。このあたりが、芸能に生きる人々の「舞こそおのが神通力なれ」という心意気であり、今も受け継がれているように思える(伝承での「羽衣」は舞を披露したりはせず、夫婦となった後に天上へと帰ったり、地上に残ったりするパターンが多い。舞によって羽衣を取り返すのは伝世阿弥の謡曲「羽衣」以降である)。
三保の松原を舞台にした「羽衣」作品群には、天女への愛着のみならず、霊峰と仰がれ神格化された富士山(寿命を持った女神である「木花開耶姫=浅間神」に見立てられた)とそこから上る白煙を通した天界への憧れが、背後に隠されていると思われる。

関根淳子と川野誠一の演技と動きも寺院で上演されるに相応しい雅趣がある。現代劇の発声ではないので、セリフが耳に馴染みにくい方もいらっしゃるかも知れないが、日本語字幕付きのバージョンがあったり、英語字幕付きのバージョンがあったり、目の不自由な方のための解説副音声付きのものがあったりと、バリアフリー対応の公演となっている。

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