カテゴリー「映像」の19件の記事

2024年12月20日 (金)

「サミュエル・ベケット映画祭」2024 program1 ゲスト:森山未來

2024年12月7日 京都芸術劇場春秋座にて

午後1時から、京都芸術劇場春秋座で、「疫病・戦争・災害の時代に―― サミュエル・ベケット映画祭」2024 program1に接する。2019年のベケット没後30年のサミュエル・ベケット映画祭に続く二度目のサミュエル・ベケット映画祭である。前回は京都造形芸術大学映写室での上映会がメインだったが、今回はキャパの大きい春秋座での開催である。
先にオープニングイベントがあり、今日が本編の初日となる。今日は、「ゴドーを待ちながら」、「ねえ、ジョー」、「クラップの最後の録音」の3作品が上映される。またトークの時間が設けられ、俳優・ダンサーの森山未來が登場する。森山未來を生で見るのは、先月17日のPARCO文化祭以来、と書くと不思議と長そうに思えるが、半月ちょっとぶりなので、同一の有名人に接する期間としては比較的短い。
総合司会兼聞き手は、京都芸術大学大学院芸術研究科教授の小崎哲哉(おざき・てつや)。


まずベケットの代表作である「ゴドーを待ちながら」が上映されるのだが、その前に小崎による解説がある。ベケットが長身で男前だったこと、語学の才に長け、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などを操ったことを紹介する。性格的には怖い人だったようである。また人前に出るのが嫌いで、ノーベル文学賞を受賞しているが、授賞式には出なかったという。また、下ネタが好きで、「高尚なものから下品なものまで描くのが芸術」だと考えていたようである。便器を「泉」というタイトルで芸術作品にしたマルセル・デュシャンとは仲が良かったようである。


「ゴドーを待ちながら」は、2019年のサミュエル・ベケット映画祭で、京都造形芸術大学映写室で上映されたものと同一内容だと思われる。この時は再生トラブルがあり、途中で中断があって、デッキを交換して上映を続けている。この時はこうした手際の悪さに呆れて以降に上映された作品は観ていない。この大学のいい加減さを象徴するような出来事であった。

「ゴドーを待ちながら」は、エストラゴン(ゴゴ)とウラディミール(ジジ)が一本の木が生えた場所で、ゴドーなる人物を待ち続けるという作品である。途中で、資本家の権化のようなパッツオと、奴隷のラッキーとのやり取りが2回ある。
監督:マイケル・リンゼイ=ホッグ。出演:バリー・マクガヴァン、ジョニー・マーフィーほか。マイケル・リンゼイ=ホッグ監督は、瓦礫だらけの場所を舞台に設定している。明らかに第二次大戦後の荒廃した光景を意識している。
エストラゴンとウラディミールという二人の浮浪者については、余り分かりやすいセリフではないのだが、いい加減に生きてきたから浮浪者になっているのではなく、頑張ってやるだけのことはやったが結局努力が実らなかったことが察せられるものがある。そして二人の人生はもうそれほど長くはない。大人の男の寂寥感が漂っている。ベケットは黒人による「ゴドー」の上演は強化したが、女優による「ゴドー」の上演は禁じている。「女性差別じゃないか」との批判もあったが、ベケットは「女性には前立腺がないから」というをその理由としている。ただ女性二人組にした場合、寂寥感は出ないかも知れない。男性でしか表現出来ないもの、女性にしか表現不可能なものは確かにある。
資本家のポッツォと奴隷のラッキーであるが、こうした組み合わせは戦前までは当たり前のように存在していた構図でもある。法律上は禁止されていても、金持ちが貧乏人がいいように扱うというのは一般的で、今でもある。世界の縮図がこの二人の関係に表れている。
人生そのものを描いたかのような「ゴドーを待ちながら」。何があるのか分からないのだが、とにかく待って生き続けるしかない。


上映終了後、15分の休憩を挟んで、森山未來を迎えてのトークがある。先に書いたとおり、聞き手は小崎哲哉が務める。

小崎はベケットと森山の共通点として、「多領域で活躍し」「格好いい(森山は「イヤイヤ」と首を振る)」などを挙げていた。森山はこれまでベケット作品にはほとんど触れてこなかったそうで、「初心者です」と述べていた。
「ゴドーを待ちながら」は、事前に映像データを貰っていたのだが、冒頭をパソコンで観て、「これはパソコンで観られる作品ではない」と感じ、知り合いの神戸の喫茶店がスクリーン完備だというので、そこを貸してもらって観たそうだ。「見終わって体力的に疲れた」という。
小崎が「ゴドー」が人生を描いたものという説を紹介し、森山も「人生暇つぶし」というよくある解釈が思い浮かんだようだ。

NHK大河ドラマ「いだてん」では森山は落語家の古今亭志ん生の若い頃を演じ、老成してからの志ん生は北野武が演じたが、入れ替わりになるので接点はなかったそうである。ただ、小崎は北野武はベケットから影響を受けているのではないかと指摘する。監督4作目の「ソナチネ」で、沖縄のヤクザに戦いを挑んだ弱小ヤクザ軍団が見事に敗れ、離島に逃げて何もやることがないので時間を潰すというシーンがあるのだが、これは「ゴドー」を念頭に置いているのではないかとのことだった。
なお、落語家の演技は、亡くなった中村勘三郎が抜群に上手かったそうだが、実は勘三郎は、立川談志の楽屋を訪れて弟子入りを志願したそうで、談志に実際に師事していたそうである。また殺陣は勝新太郎に習っていたそうだ。

ベケットの作品は自身の戦争体験が基になっているということで、ダンサーの田中泯の話になる。田中泯は、1945年3月10日、東京の西の方で生まれている。実はこの日、東京の東の方では、いわゆる東京大空襲があり、田中泯自身には東京大空襲の記憶はないだろうが、その日に生まれたということで様々な話を聞かされたのではないかと小崎は語っていた。

小崎は、森山が2020年に行った朗読劇「『見えない/見える』ことについての考察」の話をする。実は小崎はこの公演は観ていないようだが(私は尼崎での公演を観ている)、使われたテキストの作者、ジョゼ・サラマーゴとモーリス・ブランショは共にベケットから強い影響を受けた作家とのことだった。森山未來はそのことについては知らなかったという。


森山未來は神戸市東灘区の出身である。11歳の時に阪神・淡路大震災に被災。しかし東灘区は神戸市内でも特に被害が大きかった場所であるにもかかわらず、森山未來の自宅付近は特に大きな被害はなく、周囲に亡くなった人もいないということで、当事者でありながら周縁者という自覚があり、コンプレックスになっているそうだ。「ゴドー」を観てそんなことを思い出したりしたそうだが、小崎に「ラッキーをやってみたらどうですか? 合うと思いますよ」と言われてちょっと迷う素振りを見せた。

なお、阪神・淡路大震災発生30年企画展「1995-2025 30年目のわたしたち」が兵庫県立美術館で今月21日から開催されるが、森山未來も梅田哲也と共に出展している。


続けて「ねえ、ジョー」の上映。上映時間16分の短編である。監督:ミシェル・ミトラニ、出演:ジャン=ルイ・バロー。声の出演:マドレーヌ・ルノー。
モノクロの映像。男が室内を歩き回り、やがてこちら向きに腰掛ける。そこへ女の声がする。「ねえ、ジョー」と呼びかける女の声は、ジョーのこれまでの人生などを語る。ジョーは涙を流す。
声と表情を分離したテレビ作品である。


「クラップの最後の録音」。ベケット作品の中でも知名度は高い部類に入る。
監督:アトム・エゴヤン。出演:ジョン・ハート。
69歳になる老人、クラップは、これまで毎年、誕生日にテープレコーダーにメッセージを吹き込んできた。30年前に録音した自分の声を聞いたクラップはその余りの内容の乏しさに、自身の人生の空虚さを感じ、悔いを語るメッセージを残すことにする。
小さめのオープンリールのテープレコーダーを使用。実際には民生用のテープ録音機材が発売されてから間もない時期に書かれているため、30年前の録音テープが残っているというのはフィクションである。
老年の寂しさ、生きることの虚しさなどが伝わってくるビターな味わいの作品である。


最後に森山未來が登場。「皆さん、これ3本観るわけでしょう。体力ありますね」と述べていた。

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2024年7月23日 (火)

美術回廊(84) パリ ポンピドゥーセンター 「キュビスム展 美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ」

2024年5月29日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館1階南北回廊にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館1階回廊(南・北とも)で、パリ ポンピドゥーセンター「キュビスム展 美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ」を観る。
タイトル通り、パリのポンピドゥーセンターが所蔵するキュビスムの絵画や彫刻、映像などを集めた展覧会。「50年ぶりの大キュビスム展」と銘打たれている。

写実ではなく、キューブの形で描写を行うことを特徴とする「キュビスム(キュービズム)」。抽象画ではなく、あくまで実物をキューブ化して描くのが特徴である。元々は「印象派」同様、どちらかというと蔑称に近かった。パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって始まり、最初は不評だったが、代表作「ミラボー橋」で知られる詩人で評論家のギヨーム・アポリネールがその創造性を評論『キュビスムの画家たち』において「美の革命」と絶賛したことで、次第に多くの画家に取り入れられるようになる。マリー・ローランサンがアポリネールと彼を取り巻くように並ぶ友人達を描いた作品(「アポリネールとその友人たち」第2ヴァージョン。ローランサンとアポリネールは恋仲だった)も展示されている。ローランサンもこの絵においてキュビスムの要素を取り入れているが、結局はキュビスムへと進むことはなかった。

キュビスムの源流にはアフリカの民俗芸術など、西洋の美術とは違った要素が盛り込まれており、それがアフリカに多くの領土(植民地)を持っていたフランスに伝わったことで画家達に多くのインスピレーションを与えた。だが、ピカソやブラックが全面的にキューブを取り入れ、分かりにくい絵を描いたのに対し、それに続く者達はキューブを意匠的に用いて、平明な作風にしているものが多い。ピカソやブラックの画風がそのまま継承された訳ではないようで、キュビスムが後々まで影響を与えたのは絵画よりもむしろ彫刻の方である。
ピカソはフランスで活躍したスペイン人、ブラックはフランス人だったが、キュビスム作品を扱った画商のカーンヴァイラーがドイツ系だったため、「キュビスムは悪しきドイツ文化による浸食」と誤解されて、第一次大戦中にフランス国内で排斥も受けたという。ブラックらキュビスムの画家も前線に送られ、カメレオン画家のピカソはまたも画風を変えた。これによりキュビスムは急速に衰えていく。

ピカソもブラックも楽器を題材にした作品を残している。ブラックは、「ギターを持つ女性」を1913年の秋に描き、翌1914年の春に「ギターを持つ男性」を作成して連作としたが、「ギターを持つ男性」が抽象的であるのに対して、「ギターを持つ女性」の方はキュビスムにしては比較的明快な画風である。顔などもはっきりしている。

キュビスムの画風はフェルナン・レジェ、ファン・グリスによって受け継がれたが、それ以降になると具象的な画の装飾的傾向が強くなっていく。
ロベール・ドローネーは、キュビスムを取り入れ、都市を題材にした絵画「都市」と壮大な「パリ市」を描いたが、マルク・シャガールやアメデオ・モディリアーニになるとキュビスムと呼んで良いのか分からなくなるほどキュビスム的要素は薄くなる。共に個性が強すぎて、流派に吸収されなくなるのだ。

発祥の地であるフランスでは衰えていったキュビスムであるが、他国の芸術には直接的にも間接的にも影響を与え、イタリアの未来派やロシアの立体未来主義に受け継がれていく。

フランスにおけるキュビスムを総括する立場になったのが、建築家、ル・コルビュジエの名で知られるシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリである。ル・コルビュジエは画家としてスタートしており、キュビスムの影響を受けた絵画が展示されている。初期のキュビスムとは異なり、込み入った要素の少ない簡素な画だが、シンプルな合理性を重視した建築家としての彼のスタイルに通じるところのある作品である。ル・コルビュジエは、「純粋主義(ピュリスム、ピューリズム)」を提唱し、『キュビスム以降』を著して、装飾的傾向が強くなったキュビスムを批判し、よりシンプルで一般人の関心を惹く芸術を目指した。

最後に展示されているのは、実験映画「バレエ・メカニック」(1924年)である。坂本龍一が影響を受けて、同名の楽曲を作曲したことでも知られるフェルナンド・レジェとダドリー・マーフィー制作の映像作品で、作曲はアメリカ人のジョージ・アンタイル。彼の作曲作品の中では最も有名なものである。上映時間は13分48秒。
音楽は何度も反復され、映像は断片的。女性の顔がアップになったり、部分部分が隠されたり、同じシーンが何度も繰り返されたり、機械が動く要素が映されたり、マークが突如現れたりと、当時の最前衛と思われる技術をつぎ込んで作られている。キュビスムとは直接的な関係はないかも知れないが、現実の再構成やパーツの強調という似たような意図をもって作られたのだろう。

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2024年5月18日 (土)

これまでに観た映画より(333) コンサート映画「Ryuichi Sakamoto|Opus」

2024年5月11日 イオンシネマ京都桂川スクリーン8にて

イオンシネマ京都桂川まで、コンサート映画「Ryuichi Sakamoto|opus」を観に出掛ける。「Ryuichi Sakamoto|opus」は日本全国で上映されるが、京都府で上映されるのはイオンシネマ京都桂川のみである。生前の坂本龍一が音響監修を務めた109シネマズプレミアム新宿で先行上映が開始され、昨日5月10日より全国でのロードショー公開が始まっている。

イオンシネマ京都桂川の入るイオンモール京都桂川は、京都市の南西隅といっていい場所に建っており、すぐ南と西は京都府向日(むこう)市で、敷地の一部は向日市内に掛かっている。
最寄り駅はJR桂川駅と阪急洛西口駅で、桂川駅は目の前、洛西口駅からも近く、交通の便はいいのだが、立地面からこれまで訪れたことはなかった。ただイオンシネマ京都桂川でしか上映されないので行くしかない。イオンモール京都桂川とイオンシネマ京都桂川は2014年オープンと新しく、「Ryuichi Sakamoto|opus」が上映されるイオンシネマ京都桂川スクリーン8はDolby Atmos対応で、音響面から選ばれたのだと思われる。

洛西口駅を東に出て、歩いて5分ほどのところにあるイオンモール京都桂川に入る。横断歩道に直結しており、2階から入ることになった。


「Ryuichi Sakamoto|opus」は、坂本がNHKの509スタジオを借りて数日掛けてモノクロームで収録し、「これが最後」のコンサートとして有料配信したピアノ・ソロコンサート「Playing the Piano 2022」の完全版である。「Playing the Piano 2022」(13曲60分)の倍近くの長さ(20曲115分)があり、配信コンサートではおまけとして流されたアルバム「12」に収録された音楽の実演の姿も見ることが出来る。また、別テイクも収録されている。監督は空音央(そら・ねお。坂本龍一の息子)、撮影監督はビル・キルスタイン、編集は川上拓也、録音・整音はZAK、照明は吉本有輝子。3台の4Kカメラでの収録で、この時、坂本は体力的に一日数曲弾くのがやっとだった。

映画館の入り口でポストカードが配布され、裏面にセットリストが載せられている。
曲目は、「Lack of Love」、「BB」、「Andata」、「Solitude」、「for Johann」、「Aubade 2020」、「Ichimei-small happiness」、「Mizu no Naka no Bagatelle」、「Bibo no Aozora」、「Aqua」、「Tong Poo」、「The Wuthering Heights」、「20220302-sarabande」、「The Sheltering Sky」、「20180219(w/prepared piano)」、「The Last Emperor」、「Trioon」、「Happy End」、「Merry Christmas Mr.Lawrence」、「Opus-ending」。邦題やカタカナ表記の方が有名な曲もあるが、一応、オリジナル通りアルファベットのみで記した。

ピアノは、2000年に坂本龍一のためにカスタムメイドされ、長年コンサートやレコーディングで愛用してきたYAMAHAのCFⅢS-PSXG(シーエフスリーエス ピーエスエックスジー)が使用されている。

イタリアでやると何故か大受けする曲で、映画「バベル」にも用いられた「Bibo no Aozora(美貌の青空)」は原曲の長さが終わっても弾き続け、主旋律を保ったまま伴奏を暗くしていくという実験を行っており、途中で納得がいかずに演奏を中断。弾き直してまた止めてやり直すというシーンが収められており、演奏を終えた後で坂本は「もう一度やろうか」と語る。NGテイクが映画では採用されていることになる。

1曲目の「Lack of Love」は全編、ピアノを弾く坂本の背後からの撮影。後頭部を刈り上げてもみあげを落としたテクノカットにしていることが分かる。
YMO時代の代表曲「Tong Poo(東風)」は、リハーサルからカメラが回っており、練習する坂本の姿が捉えられている。

ジュリエット・ビノシュ主演のイギリス映画「嵐が丘」のテーマ曲である「The Wuthering Heights」や、市川海老蔵(現・第十三代目市川團十郎白猿)主演の映画「一命」のテーマ曲である「Ichimei-small Happiness」は、コンサートにおいてピアノ・ソロで演奏するのは初めてだそうである。特に「The Wuthering Heights(嵐が丘)」は、KABからピアノ・ソロ版の楽譜が出版されているだけに意外である。

2020年にも配信でピアノ・ソロコンサートを行った坂本だが、生配信を行ったのは、「癌で余命半年」との宣告を受けた翌日であり、自身では何が何だか分からないまま終わってしまった。これが最後になるのはまずいということで、2022年の9月に8日間掛けて収録されたのが今回の映画と、元になった配信コンサートである。坂本本人は出来に満足しているようである。
坂本本人も指摘されていたようだが、年を重ねるごとにピアノのテンポが遅くなっており、今回のコンサート映画の演奏もテンポ設定は全編に渡って比較的遅めである。誰でもそうした傾向は見られ、収録時70歳ということを考えれば、バリバリ弾きこなすよりもじっくりと楽曲に向かい合うようになるのも当然かも知れない。またこの時点で死が目前に迫っていることは自覚しており、彼岸を見つめながらの演奏となったはずだ。

坂本のピアノ・ソロで聴いてみたかった曲に「High Heels」がある。ペドロ・アルモドバル監督のスペイン映画「ハイヒール」のメインテーマで、これもKABからピアノ・ソロ版の楽譜が出ており、実は私も弾いたことがある。坂本本人がメインテーマをピアノで弾いたことがあるのかどうか分からないが(別バージョンのピアノの曲はサウンドトラックに収められていたはずである)、弾いていたらきっと良い出来になっていただろう(その後、音源を発見した)。

エンディングの「Opus」は、当然ながら坂本が弾き始めるが、途中でピアノの自動演奏に変わり、演奏終了後にスタジオを去る坂本の足音が収録されていて、「不在」が強調されている。
坂本の生年月日と忌日が映され、坂本が愛した言葉「Ars Longa,vita brevis(芸術は長く、人生は短し)」の文字が最後に浮かび上がる。

ピアノ一台と向かい合うことで、坂本龍一という存在の襞までもが明らかになるような印象を受ける。彼の音楽の核、クラシックから民族音楽まで貪欲に取り込んで作り上げた複雑にしてそれゆえシンプルな美しさを持った音の彫刻が屹立する。それは他の誰でもない坂本龍一という唯一の音楽家が時代に記した偉大なモニュメントであり、彼の音楽活動の最後を記録した歴史的一頁である。

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2024年5月 5日 (日)

観劇感想精選(460) RYUICHI SAKAMOTO+SHIRO TAKATANI 「TIME」京都初演

2024年4月27日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、坂本龍一の音楽+コンセプト、高谷史郎(ダムタイプ)のヴィジュアルデザイン+コンセプトによるシアターピース「TIME」を観る。坂本が「京都会議」と呼んでいる京都での泊まり込み合宿で構想を固めたもので、2019年に坂本と高谷史郎夫妻、浅田彰による2週間の「京都会議」が行われ、翌2020年の坂本と高谷との1週間の「京都会議」で大筋が決定している。当初は1999年に初演された「LIFE」のようなオペラの制作が計画されていたようだが、「京都会議」を重ねるにつれて、パフォーマンスとインスタレーションの中間のようなシアターピースへと構想が変化し、「能の影響を受けた音楽劇」として完成されている。
2021年の6月にオランダのアムステルダムで行われたホランド・フェスティバルで世界初演が行われ(於・ガショーダー、ウェスタガス劇場)、その後、今年の3月上旬の台湾・台中の臺中國家歌劇院でのアジア初演を経て、今年3月28日の坂本の一周忌に東京・初台の新国立劇場中劇場で日本初演が、そして今日、ロームシアター京都メインホールで京都・関西初演が行われる。
京都を本拠地とするダムタイプの高谷史郎との作業の中で坂本龍一もダムタイプに加わっており、ダムタイプの作品と見ることも出来る。

出演は、田中泯(ダンサー)、宮田まゆみ(笙)、石原淋(ダンサー)。実質的には田中泯の主演作である。上演時間約1時間20分。

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なお、シャボン玉石けんの特別協賛を受けており、配布されたチラシや有料パンフレットには、坂本龍一とシャボン玉石けん株式会社の代表取締役社長である森田隼人との対談(2015年収録)が載っており、来場者には「浴用 シャボン玉石けん 無添加」が無料で配られた。

「TIME」は坂本のニュートン時間への懐疑から構想が始まっており、絶対的に進行する時間は存在せず、人間が人為的に作り上げたものとの考えから、自然と人間の対比、ロゴス(論理、言語)とピュシス(自然そのもの)の対立が主なテーマとなっている。

舞台中央に水が張られたスペースがある。雨音が響き、鈴の音がして、やがて宮田まゆみが笙を吹きながら現れて、舞台を下手から上手へと横切っていく。水の張られたスペースも速度を落とすことなく通り過ぎる。
続いて、うねるようでありながらどこか感傷的な、いかにも坂本作品らしい弦楽の旋律が聞こえ、舞台上手から田中泯が現れる。背後のスクリーンには田中のアップの映像が映る。田中泯は、水の張られたスペースを前に戸惑う。結局、最初は水に手を付けただけで退場する。
暗転。
次の場面では田中泯は舞台下手に移動している。水の張られたスペースには一人の女性(石原淋)が横たわっている。録音された田中泯の朗読による夏目漱石の「夢十夜」より第1夜が流れる。「死ぬ」と予告して実際に死んでしまった女性の話であり、主人公の男はその遺体を真珠貝で掘った穴に埋め、女の遺言通り100年待つことになる。
背後のスクリーンには石垣の中に何かを探す田中泯の映像が映り、田中泯もそれに合わせて動き出す。

暗転後、田中泯は再び上手に移っている。スタッフにより床几のようなものが水を張ったスペースに置かれ、田中泯はその上で横になる。「邯鄲」の故事が録音された田中の声によって朗読される。廬生という男が、邯鄲の里にある宿で眠りに落ちる。夢の中で廬生は王位を継ぐことになる。

田中泯は、水を張ったスペースにロゴスの象徴であるレンガ状の石を並べ、向こう岸へと向かう橋にしようとする。途中、木の枝も水に浸けられる。

漱石の「夢十夜」と「邯鄲」の続きの朗読が録音で流れる。この作品では荘子の「胡蝶之夢」も取り上げられるが、スクリーンに漢文が映るのみである。いずれも夢を題材としたテキストだが、夢の中では時間は膨張し「時間というものの特性が破壊される」、「時間は幻想」として、時間の規則性へのアンチテーゼとして用いているようだ。

弦楽や鈴の響き、藤田流十一世宗家・藤田六郎兵衛の能管の音(2018年6月録音)が流れる中で、田中泯は橋の続きを作ろうとするが、水が上から浴びせられて土砂降りの描写となり、背後にスローモーションにした激流のようなものが映る。それでも田中泯は橋を作り続けようとするが力尽きる。

宮田まゆみが何事もなかったかのように笙を吹きながら舞台下手から現れ、水を張ったスペースも水紋を作りながら難なく通り抜け、舞台上手へと通り抜けて作品は終わる。

自然を克服しようとした人間が打ちのめされ、自然は優雅にその姿を見守るという内容である。

坂本の音楽は、坂本節の利いた弦楽の響きの他に、アンビエント系の点描のような音響を築いており、音楽が自然の側に寄り添っているような印象も受ける。
田中泯は朗読にも味があり、ダンサーらしい神経の行き届いた動きに見応えがあった。
「夢の世界」を描いたとする高谷による映像も効果的だったように思う。
最初と最後だけ現れるという贅沢な使い方をされている宮田まゆみ。笙の第一人者だけに凜とした佇まいで、何者にも脅かされない神性に近いものが感じられた。

オランダでの初演の時、坂本はすでに病室にあり、現場への指示もリモートでしか行えない状態で、実演の様子もストリーミング配信で見ている。3日間の3公演で、最終日は「かなり良いものができた」「あるべき形が見えた」と思った坂本だが、不意に自作への破壊願望が起こったそうで、「完成」という形態が作品の固定化に繋がることが耐えがたかったようである。

最後は高谷史郎が客席から登場し、拍手を受けた。なお、上演中を除いてはホール内撮影可となっており、終演後、多くの人が舞台セットをスマホのカメラに収めていた。

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2022年9月 8日 (木)

「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」2022

2022年8月31日 七条の京都中央信用金庫旧厚生センターにて

東本願寺の近くにある京都中央信用金庫旧厚生センターで、「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」を聴くのか観るのか、まあ「体験する」と書くのが適当だろうか。とにかく接する。
アンビエントミュージックの提唱者であり、今も第一人者として活躍するブライアン・イーノの個展で、音楽と映像、美術からなる。京都中央信用金庫旧厚生センターの1階から3階までの全てを利用し、4つのスペースを用いて展示は行われる。3階から観ていくのが順路である。
3階の「The Ship」は、タイタニック号の沈没や第一次大戦、そして傲慢さやパラノイアの間を揺れ動き続ける人間をコンセプトとした作品であり、「Whe I was young Soldier」という言葉や、カーテンがはためくような音楽、そして続くポップスのような歌など、多彩な作風による音楽が薄闇の中で流れている。目が慣れるまでに時間が掛かるがそれもまた一興である。

「時効警察」の三日月しずか(麻生久美子)のセリフ、「いいのいいの、ブライアン・イーノ」でもお馴染みの(?)ブライアン・イーノ。私がイーノを知ったのは例によって坂本龍一経由である。1992年に発売された雑誌で坂本龍一の特集が組まれており、教授のインタビューとお薦めのCDが載っていて、その中にブライアン・イーノのCDの紹介記事があった。

ブライアン・イーノのアンビエントミュージックと映像に接するのは初めてではなく、以前も大阪で同様の個展に接しているが、その時はイーノ一人ではなく、複数のアンビエントミュージックのミュージシャンによる合同での個展であった。イーノ一人の個展に接するのは初めてだと思われる。

3階にはもう一つ、「Face to Face」(世界初公開作品で、36000人以上の顔を写真に収め、特殊なソフトウェアを使って一つの顔から別の顔へと少しずつ推移していく様を繰り返すという展示と音楽である。この「Face to Face」は、音楽よりも映像が主役という印象を受けた。

2階には、「Light Boxes」という展示がある。キュビズムのような表現作品(絵画ではないので、そうとしか言い様がない)がLED照明によって徐々に色を変え、それを彩るような音楽が流れる。

メインとなるのは1階の「The Lighthouse」で、この展示だけ「滞在時間30分間」という時間制限がある。ソファーがいくつも置かれ、そのソファーの群れと対峙する形で、時計のように円形に広がった展示作品がある。展示作品は複数の画で構成されており、徐々に移り変わる。音楽も面白く、ここには20分ほど滞在した。

ブライアン・イーノの音楽は細胞の一つひとつに染み込んで、体内で膨張していくような静かな生命力を感じるものである。

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2021年10月12日 (火)

上映会「アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険」@ロームシアター京都サウスホール

2021年10月1日 左京区岡崎のロームシアター京都サウスホールにて

午後7時から、ロームシアター京都サウスホールで、上映会「アリアーヌ・ムヌーシュキン:太陽劇団の冒険」を観る。

1939年、パリに生まれた演出家のアリアーヌ・ムヌーシュキンは、2019年に第35回京都賞(思想・芸術部門)を受賞しており、それを記念した太陽劇団の新作「金夢島」の京都公演が11月に行われる予定だったのだが、コロナ禍により中止。代わりに太陽劇団とアリアーヌ・ムヌーシュキンに取材したドキュメンタリー映画(2009年制作。カトリーヌ・ヴィルプー監督作品)が上映されることになった。事前申込制入場無料である。
冒頭にアリアーヌ・ムヌーシュキンからのメッセージ映像、本編終了後に今年の9月中旬に撮影された最新の映像が追加されている。

アリアーヌ・ムヌーシュキン。苗字から分かる通りロシア系である。更に、アリアーヌ自身も十代後半になってから知ったそうだが、父親で映画監督のアレクサンドル・ムヌーシュキンはユダヤ系であるという。

アリアーヌは、オックスフォード大学に短期留学した際に演劇に魅せられ、1964年に太陽劇団を旗揚げ。歴史や自身の体験に基づく独自の作劇法で注目を浴び、パリ郊外(12区)の「カルトゥーシュリ」(弾薬庫跡)を拠点に上演を重ねている。2001年に初来日公演を新国立劇場で行い、文楽のエッセンスを盛り込んで話題になったそうだが、この映画を観る限り、最も影響されたのは京劇のようである。若い頃にアジアに興味を持ち、中国に旅行したいと思ったもののビザが下りず、インド、カンボジア、日本、台湾などを回り、日本で東洋演劇を学んでいる。

若い頃のアリアーヌ自身の映像を見たアリアーヌは、昔の自分に向かって「傲慢」、劇場を作るというプランには「気狂い沙汰」と辛辣な言葉を発している。多くの人がある程度年を取ってから若い頃の映像を見直した場合、やはり同様の言葉を発するもことになるのだろうが、残念ながら私も含めて若い頃の映像が残っている人はほとんどいないと思われる。アリアーヌが若手演劇人として注目を浴びていたから映像が残っているのだ。

アリアーヌは演劇について、「権力に取り込まれないために重要なもの」という見方をしているようだが、演劇の本質については、自分なき後の太陽劇団を想像して「弱さを支える力」が必要になると語っており、ある意味、太古からの演劇の芯にあるものを自覚しているようである。シンプルな言葉こそ観る者に届くという哲学を持っているようでもあるが、演劇を行う上で最も重要なのは「愛」であるとシンプルな思想を貫いてもいる。

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2021年7月 6日 (火)

クラシカジャパン 佐渡裕指揮トリノ王立劇場管弦楽団ほか モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」2015トリノ王立歌劇場

2021年6月29日

録画してまだ観ていなかった、佐渡裕指揮トリノ王立劇場管弦楽団ほかによるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」を視聴。2015年にトリノ王立歌劇場で収録された映像である。

このところ、顔も声も疲れた感じで、少し気になる佐渡裕だが、この頃はまだ溌剌としている印象である。

衣装は舞台となっている18世紀当時のものを基調としており、出演者などの動きもその頃の上流階級とその使用人を意識していて、洗練されており、ウイットにも富んでいる。柱を使ったセットも効果的であり、特に第4幕の暗闇の庭のシーンの顔が見えない者同士が動く場面で、「障壁」として上手く用いられている。

出演:ミルコ・パラッツィ(フィガロ。バス)、エカテリーナ・バカノワ(スザンナ。ソプラノ)、ヴィト・プリアンテ(アルマヴィーヴァ伯爵。バス・バリトン)、カルメラ・レミージョ(伯爵夫人=ロジーナ。ソプラノ)、パオラ・ガルディーナ(ケルビーノ。メゾ・ソプラノ)ほか。

女性演出家のエレーナ・バルバリッチは、意図的にかどうかは分からないが、登場人物が女性を貶める内容のアリアを強調しているように見え、当時の女性蔑視を露わにしたいという思いがあったのかも知れない。一方で、「博愛」を打ち出したナンバーはこの公演でもカットされており、モーツァルトやダ・ポンテの意図を汲むという意味では合格点に達してはいないように思われる。ただ出演者をチャーミングに見せる演出は施されており、全体像よりも演技に力を入れるタイプの演出家のようにも見受けられる。
子役を登場させているのも特徴だが、特に深い意味はなく、伯爵邸の賑やかさと多様さを表しているに過ぎないようだ。
アンサンブルキャストをストップモーションにするところなどは映像的である。

今回のケルビーノは成熟した感じで、少年というよりも青年のようであり、第4幕などではやや邪悪な印象も受ける。個人的には女性的で、いたずらな感じのケルビーノが好きである。野田秀樹の演出で、カウンターテナーがケルビーノ役を演じているのを観たことがあるが、やはりケルビーノは男性がやってはいけないと思う。男性がやっているというだけで笑えなくなってしまう。
なお、今回の「フィガロの結婚」では、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものでしょう」で伴奏をするのは伯爵夫人で、ギターではなくヴァイオリンをピッチカートで演奏するという趣向となっている。

フィガロを演じるミルコ・パラッツィは、顔がどことなく博多華丸に似ており、親しみが持てた。

佐渡の指揮するトリノ王立劇場管弦楽団は、弦の音色が艶やかであり、爆発力とデリケートさを兼ね備えている。ピット内を映した映像を見ると、弦楽はかなり徹底したノンビブラート奏法を行っており、ピリオドを意識していることがわかる。

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2021年5月24日 (月)

クラシカ・ジャパン トリノ王立歌劇場2015「セビリアの理髪師」

2021年5月3日

録画してまだ観ていなかった、トリノ王立歌劇場2015「セビリアの理髪師」を観る。
ジャンパオロ・ビザンティ指揮トリノ王立歌劇場管弦楽団及び合唱団の演奏。演出:ヴィットーリオ・ボレッリ。出演は、キアラ・アマル(ロジーナ。メゾ・ソプラノ)、アントニーノ・シラグーザ(アルマヴィーヴァ伯爵。テノール)、ロベルト・デ・カンディア(フィガロ。バリトン)、マルコ・フィリッポ・ロマーノ(ドン・バルトロ。バリトン)、ニコラ・ウルヴィエリ(ドン・バジリオ。バス)、ラヴィニア・ビーニ(ベルタ。メゾ・ソプラノ)、ロレンツォ・バッタジョン(フィオレッロ。バリトン)、フランコ・リッツォ(将校。バリトン)。

ボーマルシェ三部作の第1作であり、「フィガロの結婚」前日譚に当たる「セビリアの理髪師」。町のなんでも屋であるフィガロが、アルマヴィーヴァ伯爵とロジーナの間を取り持つという話である。ロッシーニのオペラは、作曲家自身が若くして引退し、美食家に転向して高級レストランを経営するようになるという、音楽史上例を見ない生き方を選択したということもあって、急速に忘れ去られ、序曲のみが有名という状態が長く続いた。20世紀後半になるとロッシーニのオペラ作品の見直しが始まり、メディアの発達によって、ロッシーニのオペラを映像で観る機会も増えたが、「セビリアの理髪師」だけはロッシーニの生前から今にいたるまでずっと人気を博し続けてきた作品である。

「ロッシーニ・クレッシェンド」という言葉があり、音楽が急速にクレッシェンド(増強)していくことを指すが、ロッシーニはこの独自の音楽性などを武器に、祖国のイタリア、更にウィーンを始めとするドイツ語圏でも大人気を博した。その人気は「最盛期のビートルズをも上回る」というほどで、例えばウィーンの王立歌劇場なども1年の大半がロッシーニ作品で埋まったというのだから、大熱狂を呼び起こしていたことになる。

「フィガロの結婚」ではタイトルロールとなるフィガロであるが、この作品では純粋な主役というよりも恋の取り持ち役である。理髪師であるため、様々な家に潜り込むことが出来るが、身分的には最下級層で、自分の家を持っていない(今回はフィガロもホームレスという設定で、アルマヴィーヴァ伯爵に「家はどこか?」と聞かれたフィガロが、適当なことを言って誤魔化すということになっている)人も多い。今も理髪店には、静脈、動脈、包帯を表す「あめんぼう」(サインポール)が回っているが、中世ヨーロッパの理髪師は、外科医の仕事も兼ねていた。今でこそ外科医は、開業医なら高給取りで権威ある職業だが、昔は他人の体に直接触れる仕事は卑しい身分の人が行うことだった。フィガロも「便秘の弁護士のために浣腸をしに行かないといけない」と歌う場面があるが、今で言う3K的な職業だったわけである。
こうした理髪師であるフィガロが、アルマヴィーヴァ伯爵と美しい娘であるロジーナのキューピットを演じる。
といってもそう簡単にことが進むわけではない。伯爵は、プラドで医者(この場合は内科医で、内科医はこの時代も権威ある仕事である)であるドン・バルトロの娘であるロジーナに一目惚れしてセビリアまで追ってくる。伯爵が夜明け前のバルトロ邸の前で楽士達に伴奏させてロジーナのための恋歌をうたうも最初は空振りに終わるが、旧知の仲であったフィガロからロジーナはバルトロの義理の娘であり、バルトロは後見人となっていることを知らされる。
一方、ロジーナも伯爵の声に惹かれ、ベランダから恋文を落とす。伯爵は「貧乏学生、リンドーロ」と名乗り、ロジーナに向けた恋歌を再びうたう。
フィガロが軍隊が近くに駐屯していることを知っており、伯爵に軍人に化けてバルトロ邸に潜り込むことを提案する。
まんまとバルトル邸に忍び込むことに成功した伯爵であるが、バルトロやロジーナの音楽教師であるドン・バジリオ(スペインでは「ドン」がつく男性は貴族階級である)もリンドーロなる人物がおかしな振る舞いをしていることには気づいて……。

続編の「フィガロの結婚」では開始早々に決裂することになるフィガロと伯爵であるが、「セビリアの理髪師」では一致団結して、バルトロとバジリオの鼻を明かし、ロジーナをものにする。
そしてロジーナは伯爵の歌声に恋しており、また伯爵も――上流貴族ということで当然なのかも知れないが――バジリオの弟子の音楽教師に扮して再度バルトロ邸に忍び込んだ際には、ロジーナ(相手がリンドーロであるということには気づいているが、リンドーロの正体がアルマヴィーヴァ伯爵であるということにはまだ気づいていない)の歌のレッスンでクラヴサンを弾いて愛情を交わすなど、音楽が突破口になっているということが、この歌劇をより面白いものにしている。


幕間に、演出のヴィットーリオ・ボレッリ、指揮者のジャンパオロ・ビザンティ、フィガロ役のロベルト・デ・カンディア、ロジーナ役のキアラ・アマル(キアラというのは「明るい」という意味だそうで、キアラ・アマルはロジーナについて自分の名前と同じキアラ=明るい人だと嬉しそうに語る)、アルマヴィーヴァ伯爵役のアントニーノ・シラグーザへのインタビューが流れる。


演出のヴィットーリオ・ボレッリは、「ロッシーニの『セビリアの理髪師』は完成されたオペラであるので、大袈裟な演出を加えないようにした」と語り、一方で、カットされることの多いラスト付近の伯爵のアリア「逆らうのはやめなさい」を復活させたことについて述べる。「逆らうのはやめなさい」は高難度のアリアであるため、カットされることが多いのだが、伯爵役のアントニーノ・シラグーザの歌唱力が高いため、通用すると思ったそうだ。演出家の仕事は、オペラ作品を分析し、音楽や台本などあらゆる要素に最大限の尊重を払うことだと語る。多くの指揮者が楽曲に対して払う敬意と似通っていることが面白い。当然といえば当然であるのだが、残念ながら現代の日本の演劇では台本に対する演出家の暴力がまかり通っている。
そのアルマヴィーヴァ伯爵役のアントニーノ・シラグーザは伯爵役の魅力について、「ほとんどの恋敵には勝てる。バスやバリトンには負けない」と語る。「セビリアの理髪師」の男性登場人物の中で伯爵だけがテノールである。なお、続編の「フィガロの結婚」では伯爵の声域はバリトンになっており、これだけでも役割が異なることが分かる。

フィガロ役のロベルト・デ・カンディアは、ロッシーニが書いたアリアの多様さについて述べる。また、「セビリアの理髪師」の初演以来、200年以上に渡ってフィガロ役を務めてきた数々の名歌手達と比べられる覚悟や、師から「音符をなぞるだけでは全くだめで、フィガロが持つエネルギーを聴衆に伝えるよう指導された」ことを明かす。

指揮者のジャンパオロ・ビザンティは、ロッシーニのオペラ作曲家としての高い職人芸や、発想力、オーケストレーションやアリアの細部に至るまでの高度な技巧について語り、ロッシーニは19世紀の音楽劇の指標となったと断言した。

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2021年5月 9日 (日)

演劇公演オンライン配信 ニットキャップシアター第40回公演「カレーと村民」オンライン配信版~じっくりと煮込んだ版~(文字のみ)

2021年5月7日視聴

有料配信で、ニットキャップシアターの第40回公演「カレーと村民」を観る。牧歌的なタイトルであるが、実は結構恐い話である。作・演出:ごまのはえ。出演:門脇俊輔、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、日詰千栄(はひふのか)、福山俊朗(はひふのか/syubiro theater)、亀井妙子(兵庫県立ピッコロ劇団)、西村貴治、越賀はなこ、山下多恵子(京都演劇スタジオ)、山下あかり、益田萌(ニットキャップシアター公式サイトに載っているwebパンフレット掲載順)。2013年に文学部と大学院文学研究科に演劇研究系の専攻がある大阪大学と同大学の本部がある吹田市との共同プロジェクトとして初演された作品の上演である。京都・東九条のTheatre E9でのライブ収録。

1905年の(明治38)大阪・吹田村の旧庄屋(関東だと名主、北陸などでは肝煎に当たる)の浜家の表玄関に面した土間が舞台である。庄屋は農民階級でありながら、武士と農民の間を取り持つ一帯の名士として苗字帯刀もしくは苗字のみを許された豪農であり、明治時代に入ってからも裕福な家が多かった。第二次世界大戦後の農地改革で没落していく家も多かったのだが、それはまだ先の話である。

浜家の家長である長男の太郎(福山俊朗)は好人物ではあるが、「長男の甚六」という言葉が合ってしまいそうな頼りない性格である。だが、妻のお茂(仲谷萌)と共に家を支えている。この時代なので、家には人が多く、母親のまん(日詰千栄)、かつては乳母でもあった奉公人のオマサ(越賀はなこ)、新しく子守として入った山田(大阪大学の本部所在地)出身のネ(おネ。高原綾子)、そしてイギリス留学から3年ぶりに帰ってきたばかりの次男の次郎(門脇俊輔)がいる。物語は、次郎がモーツァルトの歌劇「魔笛」より“パパパの二重唱”を一人で歌っているところから始まる。当然ながら、他の人々はモーツァルトも「魔笛」もなんのことかよく分からない。次郎も「パパゲーノ」「パパゲーナ」となるところも全て「パ」で歌っているため、ドイツ語や「魔笛」の内容を十全に知っているわけではないようだが、自然児とも呼ばれるパパゲーノや運命の相手であるパパゲーナのような女性に憧れているらしいことは伝わってくる。

さて、留学から帰った次郎であるが、特に仕事に就くわけでもなく就く気があるわけでもない。実家が裕福ということでいわゆる「高等遊民」となっている。この時代、実は高等遊民と呼ばれる人は結構いたわけだが、次郎が夏目漱石の『それから』の主人公である代助を意識したキャラクターであることは明らかで、彼はイギリス留学時代にロンドンで、まだ漱石と名乗る以前の夏目金之助の世話になったことがあり、その夏目金之助が夏目漱石という名で『吾輩は猫である』という小説を書いていることを知って、連載されている「ホトトギス」を読む場面がある。なお、次郎にはアキ(山下あかり)という婚約者がおり、当時としては珍しく自由恋愛(セリフに「野合で結ばれ」という表現が出てくる)なのだが、イスタンブールで様々な国の美人を見た次郎は典型的な日本人顔であるアキのことを心からは愛せなくなっていた。

そのアキは勉強する意味が分からず、女学校を辞めていた。当時の大阪は、学問的には恵まれた場所ではない。ナンバースクールである第三高等学校、通称・三高は当初は大阪に設置されたのだが、政治の中心地が東京に移ったことで不安を感じた京都市民が「未来の京都のためには学問のある若者が必要」ということで誘致を行い、三高は京都に移転。三高の上に京都帝国大学(現在の京都大学)が置かれたのだが、大阪には結局新たなナンバースクールが生まれることもなく、帝国大学を建学しようという動きも起こっていたが、近くに京都帝国大学があるという理由でなかなか実現せず、大阪帝国大学(現在の大阪大学)が開学するのは昭和になってからである。私学も関西法律学校がこの年に関西大学と名を変えた(大学と名乗るが旧制の専門学校である。私立大学が生まれるのは1918年の大学令以降となる)が、現在でも関西の四大名門私大「関関同立」に入っている大阪の大学はこの関西大学1校だけということで、往時は更に東京との差は激しかった。次郎も大阪の学問基盤の弱さ故に海外へ留学したのだが、アキにも東京の女子学校(まだ大学はなかったが、後に大学へと昇格する名門女子学校はいくつか存在した)に進むよう勧める。だが、アキは乗り気ではない。

1905年といえば、日露戦争戦勝の年である。戦勝とはいえ、実際はロマノフ王朝がロシア第一革命により危機に瀕していたため、極東の情勢に構っている場合ではなくなったことが大きいのだが、当時は情報網が発達していなかったため、「完勝」だと信じている日本人も多かった。それ故、賠償金が得られなかったことで、吹田の人々も「政府は弱腰だ!」と激怒することになる。この時の怒りのうねりとしては、東京で起こった日比谷焼き討ち事件などが有名であるが、大都市だけではなく、当時はまだ田舎であった吹田でもその火種がくすぶり始めていた。なお、太郎が新聞を皆に朗読する場面があるが、これは当時よく行われていた習慣である。諸外国に比べると識字率は高かったとはいえ、「女は学校に行かなくてもいい」「農民の子は学校に行かないで家の手伝いをした方がいい」という時代だったため、文字が読めない人や読めても内容がよく分からない人はまだまだ多かった。ちなみに太郎と次郎の母親であるまんは当然といえば当然だが江戸時代の生まれである。

次郎は学があるため、世界情勢については知悉しており、「本当に勝ったわけではない」と知っていたが、人々が求めているのは「事実」ではなく「納得出来る話」であり、「納得出来るなら嘘でもいい」ことを見抜いていた。ということで明治38年を舞台としているが、今現在に繋がることが描かれている。当時選挙権があるのは比較的裕福な25歳以上の男子だけであり、選挙権のある太郎に人々が願い出る場面がある(太郎役の福山俊朗は、実は参議院議員の福山哲朗の実弟であり、意味のある役割を与えられている)。

浜家が営む輸送船で働くお留(山下多恵子)は息子を日露戦争で失い、吹田にあるビール会社からビールを牛が引くトロッコに乗せて船着き場まで運搬する会社の社長である宮川大助(西村貴治)と妻のおはな(亀井妙子)の次男のセイロクも日露戦争で行方不明になっていたが、ようやく無事が確認されて近く戻ってくる予定である。浜家の奉公人のオマサの孫も日露戦争で戦死しており、犠牲を払ったのに賠償金なし(報道では賠償金は日清戦争の半分程度とかなり安いが支払われるとしていた)ということで、怒りに燃え、「高額の賠償金を得られるまで戦いを続けるべきだ」「そんな交渉で済ませた日本が憎い」(日本国民という大きな単位で一括りにされる危険性を含む)といったような声が上がり、「大阪に行って講和反対運動に参加しよう」と息巻く。
次郎もその場を収めるために、「戦争続行」を求める人々に賛成したふりをして兄の太郎に支援金を出させる。知恵だけは回る次郎だが確固とした思想はなく、そんな自分に嫌気がさし、最終的には子守のネと共に蒸発することになる。ちなみにネというのは秀吉の奥さんと同じ名前で、秀吉と寧は「野合で結ばれた」と表現される代表的人物であるが、意識されているのかどうかは不明。「ネ」という名では変だというので、明治に入ってからは庶民階級の女性にも付けることが許された「子」を付けて「ネ子」にしようなどといわれる場面があるが、『吾輩は猫である』に繋がっているのは確実である。

カレーの話であるが、「征露丸」(現在の「正露丸」。元々は「露西亜を征する」という意味で「征露丸」と名付けられたが、日露戦争終結後に今の表記に変わる)の模造品(関西でいう「ばったもん」)である「暴露丸」を売りに来た富山の薬売り(池川タカキヨ)が太郎や次郎と話している時に、カレーの話が出る。次郎はイギリスに留学していたため、「元々はインド料理であったがイギリスで流行し、日本に入ってきた」という正しい説明をする。当時は日英同盟下の時代であり、イギリスの文物が多く流入していた。また日本海軍でカレーが重宝されているという話も出る。カレーが浜家にも入ってくるということは軍事色が強まるという暗示でもあり、ほのぼのとした場面なのにじわじわとした恐怖を生む。この辺は巧みである。

お留(おとめ)という、坂本龍馬の姉の乙女と同じ読みの女性が出てくるが、日露戦争の際に起こった第二次坂本龍馬ブームから作られた役名なのかは不明(「おとめ」という名前自体は「これで産むのは留め」という意味を込めたありふれたものである)。アキが呉や広島市のある安芸に掛かるのかどうかもよく分からないが、この辺は言葉遊びに留まるため、深く追わなくて良いだろう。

実戦の怖ろしさは、戦地帰りの潮(うしお。これも意味ありげな役名である。演じるのは澤村喜一郎)によって語られる。潮はトラウマを抱えており、心理的要因で耳が聞こえなくなっているのだが、突然、戦地の模様を一人で演じ出す場面がある。これは結果として戦場の惨状を人々に伝えることになるのだが、人々にどれだけ影響を与えたのかは不明となっている。

ラストは、アキが東京の名門女学校への進学を決め、「頑張って勉強して、皆が幸せになれる世の中を作ります」という意味のことを朗らかに述べるも、誰も本気にはしておらず、アキが天を仰ぐ場面で終わる。結局のところ、人々は自分さえよければよく、学ぶことにも、それによって生まれる未来に期待もしていないし価値も見いだしていないのだ。政治を人任せにしている日本の現状の怖ろしさが投影されており、一種の絶望を突きつけられることになる。

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2021年5月 5日 (水)

NHKBSプレミアム「2K版いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台 ベームのモーツァルト」 カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 モーツァルト 交響曲第29番、第40番&第41番「ジュピター」

2021年4月6日

録画しておいた、NHKBSプレミアム「2K版いまよみがえる伝説の名演奏・名舞台 ベームのモーツァルト」を視聴。

カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、モーツァルトの交響曲第29番、第40番、第41番「ジュピター」が演奏される。

20世紀を代表する名指揮者の一人であるカール・ベーム。晩年には日本でも大人気だったが、今現在は往事に比べると知名度を落とした感もある。

ベームは特にモーツァルトの名演奏で知られ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と交響曲全集も作成している。。モーツァルトのスペシャリストは、ブルーノ・ワルターからベームへと受け継がれたが、その後その伝統は絶えてしまっている。サー・チャールズ・マッケラスやアダム・フィッシャーのように交響曲全集を作成した指揮者もいるが、彼らは「モーツァルトも得意な指揮者」であって、十八番としているレパートリーは他にある(マッケラスならヤナーチェク、アダム・フィッシャーはハイドンやバルトークなど)。

近年はピリオド・スタイルによる刺激的なモーツァルト演奏が盛んになっているが、ベームとウィーン・フィルはそれとは対照的なロマンティックで音色の美しさを生かしたモーツァルトを奏でている。今となっては「生温い」と感じられないでもないが、こうしたスタイルによるモーツァルトにも良さはある。ベームのテンポは遅めで、モーツァルトの旋律のみならず構造の美点も明らかにしていく。指揮姿も派手ではないが安定していて、指示も分かりやすい。

交響曲第40番の第1楽章はゆったりとしたテンポであり、昨今の演奏で表される焦燥感は出ていないが、惻々とした趣の表現には優れたものがある。

今後は、ベームのようなスタイルのモーツァルト演奏はおそらく出てこないと思われるが、一時代を築いたモーツァルト演奏の記録として価値は大きい。勿論、ベームのような落ち着きの中から滲み出てくる悲哀や輝かしさを好む聴衆は今後も出てくるはずで、死去からすでに30年以上が経過しているが、新たなるファンも獲得してくことになると思われる。

「大学教授のような」と形容される温厚そうな風貌で、晩年は日本で「ベーム旋風」が起こったほどの人気指揮者であったが、性格的にはどちらかというと残忍で、ウィーン・フィルの楽団員にも嫌う人は多かったされる。若い奏者をいじめるという悪癖もあったそうだ。だがそれでもオーケストラを纏める手腕と表現力に長けたベームは、ウィーン・フィルのメンバーからも「性格はあれだけど、腕が良いから」と認められており、たびたび指揮台に上がった。

故人ということもあり、生前の性格については問うても仕方ないだろう。今は彼が残した演奏に耳を澄ますだけである。

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