カテゴリー「音楽映画」の22件の記事

2021年1月19日 (火)

R.I.P. 大城美佐子 「十九の春」(映画『ナビィの恋』より)

| | | コメント (0)

2021年1月15日 (金)

これまでに観た映画より(240) 「ラ・ラ・ランド」

2021年1月11日 新京極のMOVIX京都ドルビーシネマにて

MOVIX京都ドルビーシネマで、ミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」を観る。英語表記だと「LA LA LAND」と「LA」が3つ重なるが、これは「LA」ことロサンゼルス(Los Angeles)が舞台になっていることにも由来する。脚本・監督:デミアン・チャゼル。音楽:ジャスティン・ハーウィッツ。出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、ジョン・レジェンド、ローズマリー・デウィット、J・K・シモンズほか。2016年の公開(日本では2017年公開)。高音質のドルビーシネマの登場に合わせてのリバイバル上映である。

Dsc_0665

アメリカ文化が背景にあり、名ミュージカル作品へのオマージュに溢れているため、そういった知識が十分にない人は意味を100%掴むことは難しいかも知れないが、ストーリーは複雑でないため、楽しむのには何の問題もない。

セブ(本名はセバスチャン。ライアン・ゴズリング)は売れないジャズピアニストだが、アメリカにおけるジャズ文化の衰退が背景にある。私がジャズを本格的に聴き始めた1990年代にはすでに、アメリカにおいては「ジャズはコンテンポラリーな音楽ではない」と見なされていた。勿論、偉大な現役のジャズミュージシャンは何人もいるが、ジャズ・ジャイアンツといわれた時代の人々は、モノクロの写真や映像の時代に活躍している。この映画にも写真が登場するチャーリー・パーカー然り、ビル・エヴァンス然り、会話に登場するサッチモことルイ・アームストロング然り。マイルス・デイヴィスはカラーの時代の人だが、故人である。彼らに匹敵するジャズメンははもはや存在しないというのが現状である。セブの弾くジャズがオーナーの怒りを買ったり、ヒロインのミア(エマ・ストーン)が平然と「ジャズは嫌い(英語のセリフを聞くと、思いっきり“I hate Jazz.”と言っている)」と言ってセブが激怒するという背景にはこうした事実がある。日本でも人気のあるケニー・Gの話も出てくるが、どうもアメリカではイージーリスニング扱いのようである。

ハイウェイの通勤ラッシュのシーンから始まる。夏の朝のロサンゼルス、気温は摂氏29度。少しも進まぬ渋滞に皆イライラしている。そんな時にある黒人女性が路上に降り立ち、歌い踊り始める。すると人々は次々に車のドアを開けて歌とダンスに参加する。曲が終わると、人々は車に戻り、元の渋滞へと帰る。やがて車が動き始めるのだが、一人で車に乗っていた女優志望のミアはセリフの練習をしていたため発車が遅れ、後ろにいたセブにクラクションを鳴らされる。セブはエマの車に横付けして「何をやってるんだ?」という顔。出会いは最悪だった。そしてその夜、二人は偶然再会する、という一昔前に流行ったトレンディードラマのような展開を見せる。

その後も突然歌ったり踊ったりがある(タモリさんが嫌いそうな)王道のミュージカル的展開で話は進む。

ミアは、女友達と共同生活を送りながらオーディションを受ける日々を続けている。普段は撮影所の近くのカフェでアルバイトをしているが、たまに有名俳優がその店を訪れることがあるようだ。なんとかかんとか一次オーディションを通ったのだが、二次オーディションではセリフを言い終わらないうちに落選を告げられ、落ち込む。

一方、セブは、オールドジャズに憧れを持っているのだが、西海岸ということもあって音楽好きからも理解が得られない。レストランのピアノ弾きに採用されたが、ジャズを弾いたためオーナーからその場で解雇を言い渡される。その場にたまたまミアが居合わせることになった。ただここでの再会もまた最悪のうちに終わる。
セブはオールドジャズのための店を開くという夢を持つが資金がない。
その後、セブは余りパッとしないバンドにキーボーディストとして加わり、またも偶然、ミアと再会する。急速に距離を縮めていく二人。セブはミアにも店をやりたいという夢を語り、ミアは女優を目指す理由を幼少期の思い出から物語る。
ある日、昔なじみのキース(ジョン・レジェンド)と再会したセブは、セッションに加わる。キースは、電子音を用いたジャズを行っているのだが、セブはそれには違和感を覚える。キースはマイルス・デイヴィスの話を持ち出す。

ここでなぜマイルス・デイヴィスなる人物の話が登場するのかわからない人もいると思うが、マイルス・デイヴィスは初めてジャズにエレキ音を取り入れた人であり、その他にもラッシュフィルムに即興で音楽を付けるなど(「死刑台のエレベーター」)次々と新しい試みを行って「ジャズの帝王」と呼ばれた人物である。セブはマイルスに比べて保守的に過ぎるというキースの意見が語られている。
随分昔、黛敏郎が「題名のない音楽会」で司会を務めていた時代に、ジャズの特集が放送されたことがあったのだが、黛がエレキを取り入れたマイルスのジャズに「これはもうジャズではなくロックだ」と否定的な見解を述べていたのを覚えている。

本心からやりたい音楽ではなかったが、店を始めるための資金を稼ぐため、セブはキースのバンドに加わり、レコーディングを行い、全米ツアーに出る。かなり売れているバンドのようだ。ミアはセブが出演しているライブを聴きに行くが、熱狂する観客の中にあってセブの存在が遠くなるのを感じる。ただセブの方もやりたい音楽が全く出来ないばかりか、プロモーションに継ぐプロモーションという環境に嫌気が差し始めていた。

一方、ミアは女優の仕事がないなら自分で作るということで、一人芝居の戯曲を書き、劇場を借りて上演することに決めた。主人公の名はジュヌヴィエーヴ。名作ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」のヒロインの名前である。出身地であるボールダーを舞台にした作品だ(上演中のシーンは出てこないため、筋書きや内容は一切わからない)。セブはミアに自分のツアーに帯同してはどうかと誘うが、ミアは稽古のための時間が取れないと断る。すでに同棲を始めていた二人だったが、次第に境遇に差が生まれていた。

小劇場で行われたミアの一人芝居だが、知り合いとそのほか数名が観に来ただけで不入り。更に楽屋に戻ったミアは、帰る途中の観客がミアの演技と作品を酷評しているのを聞いてしまう。仕事で劇場に駆けつけるのが遅れたセブがようやく劇場の前に到着。だが己の才能に絶望したミアはセブの言うことも聞かず、女優の夢を諦めて故郷のボールダーに帰ることを決意する。
再び一人で暮らすことになったセブだが、ある日、一本の電話が入る。配役エージェンシーからのもので、ミアの一人芝居を観た映画関係者が彼女の演技を観て気に入り、呼びたいとの申し出があったという。配役エージェンシーはミアがまだセブと同棲しているものだと思い込んでセブのスマホに電話をかけてきたのである。セブはすぐにボールダーのミアの実家に向かって車を飛ばす。

 

「シェルブールの雨傘」からの影響が特に顕著であり、あの物語をもっと納得のいく形で終わらせたいという思いがあったのかも知れない。
「シェルブールの雨傘」では、共に金銭的に成功しながら完全なる別離という残酷な結末を迎えた男女だったが、この「ラ・ラ・ランド」では成功しつつも別の道を歩んだことを後悔はせず、むしろ互いを祝福しているように見える。
成功を夢見る若者が押し寄せる希望と絶望の街、ロサンゼルスが舞台となっているが、エマ・ストーン演じるミアは夢見る人々への讃歌を歌い、セブはささやかではあるが確固とした幸せを手にしている。別れを描いているにも関わらず、清々しい気持ちになれる佳編であった。

Dsc_0659

| | | コメント (0)

2021年1月11日 (月)

これまでに観た映画より(239) 「アイデン&ティティ」

2006年12月12日

DVDで映画「アイデン&ティティ」を観る。俳優の田口トモロヲがメガホンを取った作品。原作:みうらじゅん、脚本:宮藤官九郎。出演:峯田和信、麻生久美子、中村獅道、マギーほか。

4人組のバンド・スピードウェイ。メジャーデビューしたばかりのスピードウェイだが、メジャーになっても生活が良くなるわけではない。バンドマンは使い捨てであり、明日が見えるわけでもない。
スピードウェイのギタリスト・中島(峯田和信)は、バンドの楽曲を一人で制作しているが、自分達が目指す音楽と音楽業界との間に隔たりを感じ、自分達は本当のロックをしていないと痛感している。そんな中島の前にボブ・ディランが現れる……

予想していたよりもずっと良い映画だった。ロックの映画だが、心を揺り動かすのではなく、胸にそっと染み込みタイプの物語だ。かといってロックしていないわけではなく、配分が絶妙である。
宮藤官九郎の脚本の巧さが光るが、あるいは宮藤自身がロックバンドのメンバーであることも関係しているのかも知れない。音楽もやる人の脚本はやらない人の脚本とは違うはずだし、この「アイデン&ティティ」の脚本もある意味音楽的である。

麻生久美子がかなり理想化された大人の女性を演じている。ああいう出来た女性はまずいないはずだが、本当にいたらいいな、と男ゆえに馬鹿である私は叶わぬことを思ってしまうのだった。

| | | コメント (0)

2020年12月10日 (木)

これまでに観た映画より(233) レオポルド・ストコフスキー出演 「オーケストラの少女」

2006年8月27日

DVDでアメリカ映画「オーケストラの少女」を観る。1937年の作品。往年の名指揮者レオポルド・ストコフスキーが本人役で出ている。

ニューヨーク。パトリシア(愛称:パッツィ)の父親であるジョンは腕の良いトロンボーン奏者なのだが、第二次世界大戦前の混乱期ということもあり、2年もの間失業状態にある。レオポルド・ストコフスキーが指揮するオーケストラに売り込みをかけるジョンだったが、スタッフから「募集はしていない」と演奏も聴いて貰えずに追い返される。帰りのタクシー乗り場でたまたま財布を拾ったジョンはその財布を劇場に届けようとするが、勘違いしたスタッフに「しつこい」と追い返される。しかたなく財布を預かって家に戻ったジョンだったが、大家さんから家賃をせがまれて拾った財布からお金を出して払ってしまう。それを見たパッツィはジョンがストコフスキーのオーケストラに採用されたのだと思い込んで大はしゃぎ。父親のジョンも娘を落胆させないために演技をするのだが、ばれてしまう。
財布に名前があったのでその持ち主フロスト夫人の元に返しにいくパトリシア。しかしお金持ちで気まぐれのフロスト夫人はオーケストラを新たに創ろうという考えに冗談半分でOKを出してしまう。
パトリシアは早速、失業音楽家を集めてオーケストラを編成するのだが……。

展開の速さと嘘くささが特徴の映画だが、これは20世紀前半の大人のためのお伽話。おかしなところを指摘するのは簡単だが、それは野暮というものだろう。

製作年代が古いということもあって音声に難ありで、音が潰れて聞き苦しい場面もあるのだが仕方ないだろう。

失業音楽家の寄せ集めオーケストラが、顔を合わせてすぐにまとまったアンサンブルを示すのは不自然に見えるが、実は第二次大戦後のロンドンで失業楽団員を中心に編成されたフィルハーモニア管弦楽団というオーケストラが生まれている。大戦後の混乱でソリスト級や首席奏者クラスでありながら仕事にあぶれていた音楽家が数多く入団したため極めて高度なアンサンブルを持つこと知られ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で残した録音がフィルハーモニア管のレベルの高さを示している。というわけで、優れた演奏家というものは集まってすぐに高度なアンサンブルを示しても不思議ではないのかも知れない。

| | | コメント (0)

2020年10月11日 (日)

これまでに観た映画より(216) 「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」

2020年10月6日 姉小路烏丸・新風館地下のアップリンク京都にて

アップリンク京都でブラジル映画「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」を観る。ブラジル出身のピアニスト・指揮者のジョアン・カルロス・マルティンス(1940- )の人生を描いた映画である。劇中で響くピアノの演奏は、ジョアン・カルロス・マルティンス自身が録音した音源が用いられている。
監督・脚本:マウロ・リマ。出演:アレクサンドロ・ネロ、ダヴィ・カンポロンゴ、アリーン・モラエス、フェルナンダ・ノーブルほか。ブラジルのみならず、ウルグアイやアメリカなどでのシーンもあるため、ポルトガル語、スペイン語、英語の3種類の言語が劇中で飛び交う。

リオデジャネイロ・パラリンピックの開会式でブラジル国歌をピアノで弾いたことで注目を浴びたジョアン・カルロス・マルティンス。だが実際は若い頃から期待されていたピアニストだった。彼の不注意によるところも大きいのだが、怪我によってキャリアが順調に行かず、近年は指揮者として活躍している。
邦題は「マイ・バッハ 不屈のピアニスト」であるが、実際にはバッハ以外の楽曲も多く演奏されており、タイトルとして余り適当でないように思われる(原題は「ジョアン ア マエストロ」)。

「20世紀最も偉大なバッハ奏者」といわれたこともあるジョアン・カルロス・マルティンス(ただ、個人的にはこうした肩書きを持つピアニストは見たことはない。「20世紀最も偉大なバッハ奏者」というとグレン・グールドを思い浮かべる人が多いだろうし、ブラジル出身のバッハ弾きとしては「第二のグレン・グールド」とも呼ばれたジャン・ルイ・ストイアマンの方が有名である)。

サンパウロに生まれたマルティンスは子どもの頃に女性のピアノ教師に教わり始めるが、想像を絶する速さで楽曲をものにしてしまい、彼女が推薦する更に有能なピアノ教師の下で学ぶことになる。その神童ぶりはブラジル中を沸かせ、祖国の英雄的作曲家であるヴィラ=ロボスからも賞賛される。ウルグアイとアルゼンチンを経て(それまでのストイックな生活の反動でウルグアイの首都モンテビデオでは売春宿に泊まって遊びほうけたりしている)アメリカデビューも成功。リストを得意としたヴィルトゥオーゾピアニストであるホルヘ・ボレットが「弾けない」として降りたヒナステラのピアノ協奏曲に挑んで成功し、アメリカで契約を結んで移住。レナード・バーンスタインなどアメリカ最高の音楽家とも知遇を得、妻子にも恵まれて順調に思えた人生だったが、サッカーの練習に飛び入りで参加した際に余り整地されていないグラウンドで転倒し、右肘に裂傷を負う。そしてこれが原因で右手の指が上手く動かなくなってしまう。ヴィルトゥオーゾタイプであっただけに深刻な怪我だったが、リハビリや十分な休養などを取ることでピアニストとしての生活に戻ることが出来るようになる。一方で、妻子には去られた。
その後、バッハ作品のレコーディングにも力を入れたマルティンスであるが、ブルガリアでのレコーディングを行っている時に路上で暴漢に襲われ、頭を負傷したことで右手に繋がる神経の働きが弱まってしまう。会話のための回路を右手の動きのために譲り渡すことでなんとか演奏を続け、最終的には左手のピアニストとしてラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲などを弾いて聴衆を沸かせたが、左手にも異常が見つかるようになり、指揮者へと転向する。自身よりずっと年下の指揮者に師事し、バトンテクニックを身につけようとする様も描かれている。

 

存命中のピアニストの伝記映画であるが、神格化することなく「不完全なところ」を結構描いていることにまず好感が持てる。神童から名ピアニストへという成長過程を見ることになるのだが、嫌みな感じに見えないのはマルティンスが感じさせる人間くささが大きいと思われる。これにより単なる「いい話」から免れている。
怪我などを繰り返したピアニストということで、我々は成長過程を「子どもから大人へ」の1度切りではなく何度も確認することになる。一度はピアニストを諦め、他の職業や音楽関係のマネージメントへと回るも執念で復帰し、その後も不運は続くが音楽への情熱を捨てることがないマルティンスの姿勢にはやはり勇気づけられるものがある。

ちなみに映画公開後であるが、マルティンスがバイオニック技術が生んだ「魔法の手袋」を使って両手でピアノを弾く様が公開され(マルチェッロのオーボエ協奏曲より第2楽章をバッハが鍵盤楽器用に編曲したバージョンが弾かれている)、感激しながら演奏するマルティンスの姿が大きな反響を呼んでいるようである。

 

Dsc_9800

| | | コメント (0)

2020年8月20日 (木)

これまでに観た映画より(199) クリント・イーストウッド監督作品「バード」

2005年11月3日

DVDで映画「バード」を観る。伝説のジャズ・サキソフォン奏者、チャーリー・パーカーの後半生を描いた作品。監督はクリント・イーストウッド。上映時間161分の大作である。

西部劇のイメージが強いイーストウッドだが、彼自身ジャズ・マニアということもあって、夭逝した天才ジャズマンへの思い入れたっぷりの演出をしている。

ただ、麻薬中毒など、パーカーの影の部分は、「描かれてはいる」という程度。狂気に満ちたエピソードの数々は封じられている。

時間が前後するということもあって、ストーリー展開がやや解りにくく、人種問題の扱いも今から見ると詰めが甘いなど、 直に楽しめないところがあるのは否めない。

チャーリー・パーカーがオーバードースによる心臓麻痺で亡くなったとき、検視医は、「推定年齢60代」としたが、実際のチャーリーの享年は34歳であった。この有名なエピソードも勿論取り込まれている。

音楽はチャーリー・パーカー本人の演奏が用いられているが、リマスタリングが良く、鮮明な音で「バード」と呼ばれた不世出の天才ジャズマンの演奏を楽しむことが出来る。

| | | コメント (0)

2020年8月 1日 (土)

これまでに観た映画より(193) 「無伴奏シャコンヌ」

2005年7月9日

ビデオでフランス=ベルギー=ドイツ合作映画「無伴奏シャコンヌ」を観る。天才的な才能を持ちながら、コンサートなどでは活動せず、ただひたすら音楽を極めることだけを考える求道者のようなヴァイオリニスト、アルマン(リシャール・ベリ)。観客に媚びるような演奏ではなく、本当の演奏様式を確立したいと望み、ヴァイオリン教師などをして過ごしていた彼は、かっての親友でヴァイオリニストのミカエルが自殺したことを知る。

恋人とも上手くいかず、親友も失ってしまったアルマン。彼の求道的生き方がそういった事態を招いたのだろうか。スランプに陥っていたミカエルはアルマンの才能と己の才能を比較して失望していったのかも知れない。ミカエルの録音が良くないことで、カデンツァの場面を代役として弾くようにプロデューサーから要請され、それに応じてしまったアルマン。親友のためを思ってした行為なのだろうが、その事実を知ったミカエルは絶望しただろう。ある意味、アルマンはミカエルを殺したのではないかと思えてしまうのだ。

リヨンの地下鉄構内で演奏をするアルマン。やがて、地下鉄の切符売り場の女性・リディアと淡い恋に落ちるが、ある日、アルマンの演奏に熱狂して多くのミュージシャンが思い思いに演奏を始めるという光景を目にした彼女はアルマンの前から姿を消す。アルマンは自分より音楽を愛しているのだと気づいたのかも知れない。

リディアを失い、ヴァイオリンも心ない二人組に壊されてしまったアルマンは尋常とは思えない精神状態へ。

そこにかつて彼の演奏を耳にしたことのある音楽院の教師が現れ、ヴァイオリンを手渡されたアルマンはバッハのシャコンヌを弾く。

芸術を愛し、自分にもそして他人にも厳しかったことで多くのものを失ったアルマン。ラスト10分のシャコンヌ演奏場面は文学的過ぎる嫌いはあるものの、詩的で意味深く、感動的だ。

そして弾き終えたアルマンの表情。それは慈悲に溢れたキリストの顔のようにも見えるし、何故失うのかを悟った悲しみを湛えているようにも見える。


監督のシャルリー・ヴァン・ダムはアラン・レネやアニエス・ヴァルダなどセーヌ左岸派の映画監督の下で長年撮影監督を務めていた人物。経歴から察せられる通りの作風を持っている。

リシャール・ベリのヴァイオリン演奏シーンの演技も上手く、「本当に弾いているのでは?」と錯覚するほどだ。ところでこのベリ、役所広司にどことなく顔や雰囲気が似ている。

音楽監督は世界的ヴァイオリニストのギドン・クレーメル。実際のヴァイオリン演奏も担当しており、素晴らしい音を奏でている。

音楽と映画が好きなら、この映画を観ずに死ぬのはもったいない。そう言いたくなる佳作である。

| | | コメント (0)

2020年7月12日 (日)

これまでに観た映画より(190) ライブ・ビューイング フェス2020-Act Call-「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK:async」@MOVIX京都 2020.7.7

2020年7月7日 新京極のMOVIX京都にて

午後7時から、MOVIX京都で、「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK:async」を観る。「ライブ・ビューイングフェス2020-Act Call-」に選ばれた作品。初公開時(2018年2月)にもMOVIX京都で観ている映画であり、「猫町通り通信」や「鴨東記」にも記事を載せている。初公開時は5.1chで上映されたが、今回は2chMIX音声である。
監督は、スティーヴン・ノムラ・シブル。

2017年4月にニューヨークのパーク・アベニュー・アーモリーで100名のみの聴衆の前で2回、計200名しか接することの出来なかったライブの映像である。

前回は、映画を観てから、「async」(「非同期」という意味)のアルバムを聴いたのであるが、今回は「async」がどういう音楽かを知った上で映画を観ることになる。アルバムを聞き込んだからライブの内容もわかるというものではないように思うが、音楽自体の良さは前回映画を観たときよりも把握出来るようになっている。

現代音楽を指向する青年として音楽のキャリアをスタートさせた坂本龍一。ポピュラーミュージシャンのバックバンド、フリーのミュージシャン&プロデューサー、YMOなどを経て、映画音楽やポピュラーとクラシックの中間の音楽を多く書いているが、原点である現代音楽への回帰を目指しているように思える。
「async」は、アンドレイ・タルコフスキーの架空の映画のための音楽という設定で書かれた作品である。「惑星ソラリス」を観て感銘を受けたのだが、「惑星ソラリス」にはバッハの音楽が使われており、バッハの音楽を押しのけて新しい音楽を書くわけにもいかないので、架空の映画のための音楽という形で作曲している。

 

紛れもなく坂本龍一の旋律であるが、和音や音の進行などにバッハのような古典的格調が感じられるピアノソロと、その発展系のオルガン(その場で弾いて出すのではなく、サンプリングした音声を使用)といった調性音楽に近いものから、ノイズミュージック、音そのもの以上に視覚に訴えるパフォーマンスといったコンテンポラリーな要素まで曲調は幅広く、その点で映画音楽的であるともいえる。

同時にバッハに代表されるような音楽そのものを尊重すると同時に押し広げ、音そのものやそれを生み出す背景への愛着をも窺えるかのような、従来の枠を超えた作品となっている。
大空に吸い込まれて一体となるかのようなラストが特に好きだ。

本編上演後にプレゼントがある。「async」の宣伝用画像がスクリーンに1分間映し出され、自由に撮影が出来るほか、SNS等へのアップも可となっている。

Dsc_9117

| | | コメント (0)

2020年7月 9日 (木)

これまでに観た映画より(188) ライブ・ビューイング フェス2020-Act Call- 「忌野清志郎 ロックンロールショー The FILM~#1入門編~」@MOVIX京都 2020.7.5

2020年7月5日 新京極のMOVIX京都にて

午後7時からMOVIX京都で、「忌野清志郎 ロックンロールショー The FILM~#1入門編~」を観る。5年前の初公開時にTOHOシネマズ二条で観ている作品で、今回、「ライブ・ビューイング フェス2020 -Act Call-」の1作として再度の公開となった。

最後の本格的ライブとなった2008年、日本武道館での「完全復活祭」から1981年に遡るまでの様々な清志郎のライブ映像が並ぶ。ライブの合間にはデジタル表示された年月日が表示されて変化し、タイムマシンで移動するような趣となっている。監督は太田旬。

 

清志郎の通常のライブ通り、「よォーこそ」(2008年2月10日、日本武道館での「完全復活祭」と1983年の「箱根オデッセイ ポップ」@箱根自然公園での映像)でスタート。

最も古い映像は、スタンダードナンバーである「雨上がり夜空に」で、1981年12月24日のクリスマスイブに日本武道館で収録されたライブのものである。これは「雨上がりの夜空に」のカラオケ映像などでも用いられている。

プレスリーの故郷であるアメリカ・メンフィスのブラスアーティスト(メンフィスホーンズ)をバックに迎えて歌われる「トランジスタ・ラジオ」(1992年4月18日の「Have Mercy」@日本武道館での映像)、スペースシャワーTVで放送された「デイ・ドリーム・ビリーバー」(2004年12月15日、東京体育館)、札幌市民会館最後の日(2007年1月31日)に歌われた「スローバラード」(冒頭に大阪の住之江競艇場で行われたライブでのMCが入っている)、オノヨーコから手紙を貰ったというMCの後で歌われる「イマジン」(2007年12月8日つまり開戦の日@日本武道館)、旧渋谷公会堂での「世界中の人に自慢したいよ」(2004年12月6日)、「日本の有名なロックンロール」という紹介の後で、旋律を東京の言葉のイントネーションに直した「上を向いて歩こう」(1989年12月25日@日本武道館)、晩年のヒット曲である「JUMP」(2008年2月10日、「完全復活祭 日本武道館」)、仲井戸麗市の作曲である「毎日がブランニューデー」などが歌われる。エンドクレジットで流れるのは、「LIKE A DREAM」。

2005年の早稲田大学の学園祭で清志郎は、「キヨシです」と、当時流行っていたヒロシの物真似をする。当時、清志郎はサイクリングに填まっていたわけだが、「自転車が盗まれたとです」と実際にあった盗難事件をネタにしている。「ニュースになったと思ったら、翌日見つかったとです」「新しい自転車が半分以上出来上がってたとです」「警察にはもうちょっと待っていて欲しかったとです」と続けて笑いを取っている。

一方、1982年に撮られた、レコーディング中の清志郎は、鋭い眼光を放つ、才気溢れる若者という印象である。ピアノなど、ステージ上で演奏することが全くないわけではないが、人前で披露することの少ない楽器の練習風景を目にすることが出来る。

いずれも貴重な映像といえる。

 

5年ぶりに映画館で観たわけだが、清志郎の歌う楽曲は、今の方が痛切にして切実にこちらの胸に届く。
清志郎が、オーディエンスに聞いた、「愛し合ってるかい?」。果たして清志郎の死以降、そして前回この映画が上演された5年前から今に至るまで、人類は本当に愛し合えたであろか。自己愛と身内愛のみが更に増長しているよう見える今、清志郎のような存在が欠けてしまっていることが、本当に心苦しく感じられる。

とても素敵で酷く悲しい夢が2時間余りに渡って流れていく。

新型コロナもそうだが、それがなかったとしても実に酷い時代である。人々は互いを理解することを放棄してしまったようにすら見える。
だが、せめて私だけは、清志郎と夢が見たいと思う。とてもよく似た夢を。

| | | コメント (0)

2020年5月15日 (金)

これまでに観た映画より(172) 「Ryuichi Sakamoto:CODA」

dTV配信で、ドキュメンタリー映画「Ryuichi Sakamoto:CODA」を観る。震災後に癌の宣告を受けた坂本龍一の姿に迫るドキュメンタリーである。監督:スティーヴン・ノムラ・シズル。

宮城県にある農業高校。津波が押し寄せ、周囲には瓦礫以外なにもないという高校の体育館に津波を受けたピアノがあるというので坂本龍一は弾きに出掛ける。調弦は狂い、坂本は「ピアノの死体」を弾いているようだと述べる。

福島の原発近くでは放射能が異常値を示す。首相官邸前では原子力発電所の再稼働反対のデモが繰り広げられ、坂本も「原発反対、再稼働反対」のスピーチを行う。

そして、津波によって街ごと流されてしまった陸前高田市の第一中学校では、「戦場のメリークリスマス」をトリオで奏でる。

 

癌を患うとは全く予想していなかったという坂本龍一であるが、宣告を受け、治療のためにアルバムの制作を中断せざるを得なくなる。そして仕事を再開する時に、それまで作っていた楽曲を封印して一から新しい楽曲を制作することにする。アンドレイ・タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」では、J・S・バッハが作曲したオルガンによるコラールが流れているのだが、自分が音楽を担当したい映画なのに、バッハの音楽がもう付いてしまっているのが悔しいということで、自分がタルコフスキーの架空の映画に音楽を付けるとしたらという仮定で音楽制作が行われる。これは後に「async」というアルバムとなり、少人数の聴衆の前で実演が行われ、このコンサートの様子はフィルムに収められて映画館で上映されていて、私もMOVIX京都で観ている。あるいは、「CODA」と「async」は2つ観ることで完結するものなのかも知れない。

 

坂本の過去の映像も度々登場する。まずYMO散会直後の1984年の映像。若き坂本が「東京は芸術的にも文化的にも世界最先端」と述べているが、その言葉が全く違和感なく受け取られるような時代であった。この頃の日本の未来は明るく見えていた。

その後、坂本が手掛けた映画音楽の数々が紹介される。初めて手掛けた映画音楽で画ある「戦場のメリークリスマス」、俳優としてのオファーが先だった「ラスト・エンペラー」、そしてレコーディング直前に、もうオーケストラ(イギリスのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団が演奏を担当している)のメンバーが揃って坂本が指揮しようとしていたその瞬間に、ベルナルド・ベルトリッチ監督から、「書き直して」と言われた「シェルタリング・スカイ」などの思い出が語られる。映画「シェルタリング・スカイ」のラストシーンには原作者である小説家のポール・ボウルズが登場し、「シェルタリング・スカイ」の中に書かれた文章がボウルズ自身によって朗読される。人生の儚さに関する内容だ。

坂本龍一も癌を患い、「いつ死んでもおかしくない」と悟るようになっている。「20年後か10年後か、あるいはもっと早く」ということで、人生がCODA(終結部)に入ったことを実感している。坂本は、この頃に、自身の最初期の作品をCDで発表するなど、いつ死んでもいいよう、自分の作品の何を残すかという総括も行うようになる。

坂本が環境問題に取り組むようになったのは、1992年頃からそうだが、具体的に何がというわけでもないのだが「今のままではまずい」と感じるようになったそうである。音楽家を「炭鉱のカナリア」になぞらえ、とにかく感じたということである。

2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生。ニューヨークにいた坂本はワールドトレードセンターのツインビルが崩壊する様を目撃する。その後、1週間、ニューヨークは無音の街になったそうで、ある日、若者がビートルズの「イエスタデイ」を弾き語りしているのを聴いて初めて「1週間音楽を何も聴いていなかった」と気づき、「平和でなければ音楽はやれない」と実感する。

その後、分断の時代が訪れたことを実感した坂本は人類発祥の地であるアフリカに向かう。アフリカ大陸は広いが、そこの音楽は単一のリズムしか持たないそうで、「エクソダス」といわれるアフリカからの旅立ちを行った30組ほどの家族もまた同じようなリズムと音楽しか持っていなかったはずだが、それが次第に発展――といっていいのだと思うが――していくうちに、多様性と同時に引き離される感覚も発生したと思われる。坂本は人類はアフリカで生まれたのだから、「僕らは全員アフリカ人」だとも語る。

更に北極圏に向かった坂本は、産業革命発生以前に積もった氷から流れ出るせせらぎの音に感動する。

坂本は作曲する時に、ピアノの音を思い浮かべて作曲するそうであるが、ピアノという楽器も産業革命の時代に生まれている。木材を鋳型に無理矢理押し込んで曲げて、という過程がピアノ製作にはあるわけだが、自然の木材を人力で抑え込むという過程は、まさに産業革命以降の人間と自然の対立の縮図そのものである。坂本自身はそう語ってはいないが、震災というものも、思い上がった人間への自然からの警鐘でもあるわけで、被災ピアノを弾いた際、「ピアノの死体」といいながらも、人間の力から解放された「自然が調弦した」ピアノを弾いたような心地よさを感じたことを坂本は述べている。

「CODA」は坂本自身の人生のCODAという意味でもあるのだが、更に敷衍させれば人類や地球までもがCODAに入ってしまったのではないかという危機感に繋がっているようでもある。坂本本人の発言を追うと、そう考えているのだと思えてならない。

「惑星ソラリス」で使用されたバッハのオルガンのためのコラールをピアノで弾き、終盤ではバッハの平均律クラーヴィア第1巻よりプレリュードを演奏する坂本。高校生時代に「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と本気で思っていたという坂本であるが、やはり「音楽の父」としてのバッハを心から尊敬しているのだと思われる。そして「音楽で森羅万象を描いた」といわれるバッハに対する畏敬の念と共感が、そのまま自然に対する思いに繋がっているようでもある。一見するとかけ離れているように見える彼の音楽性と社会活動の根源が、実は同一であることが垣間見える映画でもある。

| | | コメント (0)

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オンライン公演 カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画