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2021年10月14日 (木)

コンサートの記(748) びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニ 歌劇「つばめ」2021.10.10

2021年10月10日 大津市の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 プッチーニの歌劇「つばめ」を観る。園田隆一郎指揮大阪交響楽団の演奏。演出は伊香修吾。なお、園田と伊香は、今月下旬にフェニーチェ堺大ホールで日本語訳詞によるプッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を上演する予定である(演奏は大阪フィルハーモニー交響楽団)。
ダブルキャストで今日の出演は、中村恵理(マグダ)、熊谷綾乃(リゼット)、谷口耕平(ルッジェーロ)、宮城朝陽(プルニエ)、平欣史(ランバルド)、市川敏雅(ペリショー)、有本康人(ゴバン)、美代開太(クレビヨン)、山岸裕梨(イヴェット)、阿部奈緒(ビアンカ)、上木愛李(スージィ)ほか。原語(イタリア語)歌唱、日本語字幕付きでの上演。字幕担当は藪川直子。伊香修吾が字幕監修も行っている。

なお、東京ヤクルトスワローズにマジックナンバーが点灯しているが、「つばめ」ということで、舞台袖ではつば九郎の人形が見守っていることがSNSで紹介されていた。

上演開始前に、伊香修吾によるお話がある。注目の若手オペラ演出家である伊香修吾。東京大学経済学部を経て、同大学院経済学研究修士課程を修了するが、そのまま経済学やビジネス方面には進まず、英国ミドルセックス大学大学院舞台演出科修士課程を修了し、ザルツブルク音楽祭、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フォルクスオーパーなどで研鑽を積んだという比較的変わった経歴の持ち主である。びわ湖ホール オペラへの招待では、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の演出を手掛けている。

伊香は、まず「つばめ」が初演された時代の背景について、ココ・シャネルをモデルに語る。ココ・シャネル(「ココ」は愛称で、本名はガブリエル・シャネル)が、パリにサロンを開いたのが、今から丁度100年前の1921年のこと。シャネルのサロンには、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらが出入りしていたという。
行商人の娘として生まれたシャネルは、12歳の時に母親を亡くし、父親はフランス中を旅していてそばにいられないということで教会が運営する孤児院に入れられ、そこで育つことになる。その後、22歳の時にキャバレーで歌手としてデビュー。この時代にはまだ歌手や女優というのは売春婦と同義語であり、シャネルも元将校の愛人となって、歌手として大成は出来なかったものの、後にデザイナーとして頭角を現していくことになる。シャネルだけが特別なのではなく、この時代は資産家の愛人となる以外に資金を得たり自立したりといった術はほとんどなく、今とは女性の存在価値自体が大きく異なっていた。これが「つばめ」が初演された時代のパリである。

「ラ・ボエーム」と背景が似ているといわれる「つばめ」であるが、シャネルの例からもわかる通り、この時代のフランスは女性の地位が著しく低く、貴族階級の生き残りや新興のブルジョワジーなどの良家や資産家に生まれなかった女性は、低賃金労働に従事せざるを得ず、それでも搾取の対象で、どれだけ働いても生活するのに十分な金銭を稼ぐことは到底無理であり、愛人として囲われたり、売春をして日銭を稼ぐしかなかった。その中で特に寵愛を得た者は高級娼婦(クルティザンヌ)となっていく。「椿姫」のヴィオレッタ(原作ではマルグリット)が特に有名だが、「つばめ」のヒロインであるマグダも銀行家のランバルドをパトロンとする高級娼婦である。

「つばめ」は、プッチーニの歌劇の中でも人気がある方ではなく、上演される機会も少ない。ということで伊香は、プッチーニが上演の機会に恵まれない「つばめ」のことを気に掛けながら亡くなったということを紹介してから、「これが『オペラへの招待』のみではなく『つばめ』への招待となるように」「皆様が『つばめ』のようにびわ湖ホールに舞い戻って来られますように」という話もしていた。タイトルとなっている「つばめ」は、マグダの性質を燕に重ねたものである。渡り鳥である燕は、遠く海を越えた場所へと飛び去っていくが、1年後に元の巣へと戻ってくることで知られている。

3幕からなる歌劇。第1幕はマグダのサロン、第2幕はブリエの店(ダンスホール)、第3幕は南仏コート・ダジュールが舞台となっている。今回の上演では舞台となる時代は、第二帝政期から1920年代に置き換えられている。

サロンの運営者であるマグダは、豪奢な生活を送っている。不満も述べるマグダだが、他の夫人からは、「貧乏していないから分からないのよ」とたしなめられる。マグダは少女時代に、ブリエの店(今もその名残はあるが、この頃のダンスホールはちゃんとした身分の人はほとんどいない場所である)で若い男性に一目惚れする。まだ男を知らなかったマグダは恐怖心を抱いて逃げてしまったため、この初恋は2時間しか持たなかったが、マグダはまたあの時のようなときめきを味わいたいと語る。
サロンに出入りする詩人のプルニエは、戯曲なども書いているようで、2時間のみの恋を題材にした作品を書こうと語ったりするのだが、手相も見られるようで、マグダの手相を見て、「運命に導かれ、つばめのように海を越え、愛を目指すだろう」(伊香修吾の訳)と診断する。そこにランバルドの旧友の息子であるルッジェーロがやって来る。パリは初めてのルッジェーロが「パリを観光するならまずどこに」と聞くと、プルニエは、「ブリオの店だ」と即答し……。

高級娼婦というのは、愛人の援助を受けて、場合によっては社会的な成功を収めることも可能だが、基本的に好きな男性と結婚することは出来ない。マグダも身分を隠したままルッジェーロと恋に落ちるが、身分故に最初から結婚に行き着くことは不可能であり、また元の場所へと戻っていく。その姿が「つばめ」に重ねられている。

「高級娼婦は好きな人と結婚出来ない」。このことは初演が行われた時代には常識であり、「当たり前のことが上演されている退屈なオペラ」と見られるのも必然であったように思う。悲恋でもなんでもなかった。ただ、身分違いの恋は、初演から100年を経た今現在では十分に悲恋の要素をはらんでいるように見受けられる。実際、「つばめ」の日本での上演は21世紀に入ってから大幅に増えているようだ。


伊香修吾は、常に紗幕が降りているという演出を採用。紗幕に様々な映像が投影され、モノクロの映画を観ているような気分を味わえる。実はこのことは説明的な要素だけでなく伏線ともなっていて、第2幕には、自転車に二人乗りしたルッジェーロとマグダがパリの名所(凱旋門、ノートルダム大聖堂、エッフェル塔など)を回るという、本来にはない場面が用意されているのだが、これが名画「ローマの休日」の名場面に重なって見える。おそらくかなり意識していると思われるのだが、「つばめ」にはもう一組、これまたオードリー・ヘップバーン主演の映画「マイ・フェア・レディ」(原作はバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』)を連想させるカップルが登場する。詩人のプルニエと、マグダの女中であるリゼットで、プルニエはリゼットに詩人の恋人に相応しい行いをするように命じている。結果としてこのピグマリオンは失敗に終わるのだが、そこからの連想で「ローマの休日」へと繋げるアイデアが生まれたのかも知れない。これが当たっているのかどうかは分からないが、「ローマの休日」ならぬ「パリの休日」の場面は本当に微笑ましく(俗にいう「キュンキュンする」場面である)、第1幕で歌われる「ドレッタの美しい夢」そのものである。ちなみにドレッタというのはプルニエが書いた詩劇のヒロインのことである。

「つばめ」自体は知名度の高いオペラとはいえないが、「ドレッタの美しい夢(ドレッタの素晴らしい夢)」は、40代以上の方は聞き覚えはあると思われる。1990年頃だったと思うが、当時新進ソプラノであった中丸三千繪がこの曲を得意としており、テレビCMにも採用されていた。

評価の高いソプラノ、中村恵理の歌は本当に圧倒的。スケールといい、声の艶と輝きといい文句なしの歌唱である。

「つばめ」の登場するもう一組のカップルであるプルニエとリゼットは実はもっと注目されても良いように思われる。ピグマリオンに失敗して別れるかと思った二人なのだが、プルニエはそのままのリゼットを受け入れるのである。それまでには余り見られなかったタイプのキャラクターだ。プルニエという人物は、進歩的であると同時に一連の出来事の仕掛け人的立場であり、かなり魅力的である。

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2021年10月 5日 (火)

観劇感想精選(414) 遊劇体第64回公演〈遊劇体×泉鏡花オリジナル戯曲全作品上演シリーズ11〉「深沙大王」

2021年9月23日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時30分から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、遊劇体の第64回公演〈遊劇体×泉鏡花オリジナル戯曲全作品上演シリーズ11〉「深沙大王(しんじゃだいおう)」を観る。作:泉鏡花、演出:キタモトマサヤ。出演は、村尾オサム、三田村啓示、条あけみ(あみゅーず・とらいあんぐる)、大熊ねこ、中田達幸、村山裕希、浜崎大介(兵庫県立ピッコロ劇団)、坂本正巳、久保田智美、松本信一、濱奈美。テキストレジなしでの上演である。

定期的に泉鏡花の戯曲を上演している遊劇体。私もこれまでにいくつか観たことがあるが、いずれも遊劇体の本拠地である大阪での上演で、京都で遊劇体の泉鏡花作品を観るのは初めてになる。

「深沙大王」は、鏡花が自身の小説「水鶏(くいな)の里」を基に、東京都調布市の深大寺を念頭に置いたイメージを膨らませて戯曲とした作品であり、明治37年9月に本郷座で行われた新派合同公演のために書き下ろされている。戯曲オリジナルではないが、これが鏡花の戯曲処女作となるようだ。だが、本郷座での上演は上演時間の関係で「高野聖」に差し替えになってしまったそうで(敵味方を一人二役で演じるなど上演不可の要素があったことも影響したようだ。小山内薫は、「この脚本に忠実なるには俳優が余程無理な早業をしなければならないので、中止になった」と記している)、大正3年4月になってからようやく明治座で初演が行われたという。余り評判にはならなかったようで、今回の上演はそれ以来となるようだが、テキストを一切変えないでの上演としては世界初演となる可能性もあるようである。話の展開は「夜叉ヶ池」に似ており、また完全な勧善懲悪ものということで受けは悪かったのかも知れない。

今回は、リーディングとして、ト書きのいくつかを、大熊ねこ、濱奈美、条あけみが読み上げる形での上演である。セットはシンプルに抑えられている。

舞台は越前国武生(現在の福井県越前市武生)。かつて越前国の国府が置かれていた場所である。この地の県会議員である倉持傳助という、絵に描いたような悪人を巡る勧善懲悪ものである。話の展開が急であるため、整合性を欠いて見えるようなところがある。実際、泉鏡花は、上手く筆が運べば大傑作を書き上げるのだが、一定のレベルに達しない作品も多く、平均値はそれほど高くない。謎の新聞記者である小山田透(今回は村尾オサムが演じている)の存在をどう捉えるかで解釈が変わってきそうな作品である。本来なら最も近代的な登場人物である小山田透が怪異現象の鍵を握っているというのも不思議な設定である。

勧善懲悪に男女の恋愛を重ねたものであり、構図は分かりやすいが、接続が必ずしも上手く入っていないように思える。同傾向の戯曲で同じ福井県を舞台にしている「夜叉ヶ池」の方が、やはり出来は上だろう。同じ福井県が舞台で近代的な人物が登場し、ラストも似ているということで、鏡花自身も「深沙大王」の発展型として「夜叉ヶ池」を書いているはずである。「夜叉ヶ池」は大正2年の発表ということで、「深沙大王」の明治座での初演も「夜叉ヶ池」の発表を受けて行われたものだったのかも知れない。


※参考論文 植田理子(淑徳大学) 「泉鏡花『深沙大王』の成立」

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2021年9月26日 (日)

観劇感想精選(413) 加藤健一事務所 「THE SHOW MUST GO ON~ショーマストゴーオン~」

2021年9月18日 京都府立府民ホールアルティ(ALTI)にて観劇

午後6時から京都府立府民ホールアルティで、加藤健一事務所の公演「THE SHOW MUST GO ON ~ショーマストゴーオン~」を観る。作:ジョン・マーレイ&アレン・ボレッツ、テキスト日本語訳:小田島恒志。演出:堤泰之。出演は、加藤健一、新井康弘、辻親八(つじ・しんぱち)、奥村洋治(ワンツーワークス)、林次樹(Pカンパニー)、土屋良太、伊原農(いはら・みのり。ハイリンド)、千葉建玖(ちば・けんき。Studio Life)、加藤忍、岡﨑加奈。

今回の作品の原題は、「ROOM SERVICE(ルーム・サービス)」というものなのだが、そのタイトルだとなんだか分かりづらいということで、加藤健一事務所が27年前に上演した際には、「イッツ・ショー・タイム」という英語を使った邦題に変え、今回は加藤健一自身が「ショーマストゴーオン」というタイトルで上演したいと希望し、翻訳の小田島恒志に提案したそうである。

初演が行われたのは深刻な不況下である1937年のニューヨーク。昭和に直すと12年で、かなり昔の本である。初演は大成功したそうで、500回以上の上演を重ねたという。

ジャズエイジとも呼ばれたアメリカの青春時代である1920年代が世界恐慌で終わり、混迷の時代へと突入する。セリフに「ハーバート・フーヴァー大統領」という言葉が登場するため、作品の舞台が初演より少し前の大恐慌の時代であることが分かる。ハーバート・フーヴァーは大恐慌発生時の大統領で、経済面での有効な策を打つことが出来なかったため評価は極めて低く、「米国史上最も無能な大統領」の一人に数えられている。


ブロードウェイの近くにある二流ホテルの一室が舞台。演劇プロデューサーのゴードン・ミラー(加藤健一)は、駆け出しの若い劇作家であるレオ・デーヴィス(千葉建玖)が書いた優れた戯曲「ごきげんよう(GOD SPEED)」の上演を計画しており、ホテル内の施設を使った稽古にも入っているのだが、十分な資金が集まらないため、稽古が始まってから7週間が経った今も公演の目処は立っていない。プロデューサーとして資金調達が求められているのだが、不況下ということもあって良いスポンサーを見つけることが出来ない。ミラーは上演すれば大当たり間違いなしの本を手にしていながら上演出来ないことを悔しがっている。

劇団員はこのホテルに寝泊まりしており、費用はミラーが受け持っているのだが、現在は手元に金がない。実はミラーはそれまでにも劇団員全員でホテルに泊まって稽古をしては資金がまかなえずにトンズラを繰り返しており、ブロードウェイ付近のほぼ全てのホテルでブラックリスト入りしているようである。演出家のハリー・ビニョン(土屋良太)、演出助手のフェイカー・イングランド(伊原農)らと共にトンズラの準備を始めたミラーだったが、そこに「ごきげんよう」の作者であるデーヴィスが訪ねてくる。


この作品に関しては、上演を観ていない人のためにあらすじを細部まで語っても余り意味はないように思われる。意味があるのは筋書きよりもこの公演における主題で、打ち出されているメッセージは明確で力強い。

ホテルの重役であるグレゴリー・ワグナー(新井康弘)は経済至上主義者で芸術に全く理解がなく、「ごきげんよう」のリハーサルを観ても良さが分からずに「駄作じゃないの?」などと語る人物であるが、そうした無理解な人々の思考を演劇でもって克服し、最終的には救済までしてしまうという痛快な内容となっている。結局、全てを成功に導くのは演技の力であり、演劇の要素である。逆に言えばこの世に演劇というものがなかった場合、何一つ乗り越えられなかったことばかりだ。演劇は不要不急どころかマイナスをプラスに変える力を備えていることが高らかに宣言される。

今回の上演が大千穐楽で、加藤健一事務所恒例の地方公演は今回に関しては京都公演のみとなっているが、演劇を愛する人の心に確実に訴えかける見事な上演となっていた。

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2021年9月13日 (月)

配信公演 古瀬まきを主演 プーランク オペラ「人間の声(声)」YouTube配信アーカイブ視聴

2021年9月2日

YouTubeで、古瀬まきを主演によるプーランクのオペラ「人間の声(声)」を視聴。8月9日に上演と同時配信とが行われた公演で、終演後1ヶ月はアーカイブとして映像を観ることが出来る。
プーランクのオペラ「人間の声」は、ジャン・コクトーのテキストを用いたモノオペラ(一人で演じるオペラ)である。

コクトーの一人芝居「声」は、青山のスパイラルホールで、鈴木京香の主演、三谷幸喜の演出で観たことがあるのだが、鈴木京香、三谷幸喜共に陽性で健康的な表現を得意とする人であるためか、痛切さはほとんど感じられなかった。鈴木京香が高校時代に陸上部だったということで、そうした要素も入れて笑いに変えていたが、この作品には笑いの要素は夾雑物でしかないように思われる。

オーケストラ伴奏によるプーランクの「声」は、「近江の春びわ湖クラシック音楽祭」2019において、石橋栄実の主演、沼尻竜典指揮京都市交響楽団の演奏、中村敬一の演出によるものを、びわ湖ホール大ホールでハーフステージ形式で聴いており(石橋栄実は体調不良で降板した砂川涼子の代役)、追い込まれた女の孤独が浮かび上がる優れた出来であったのを覚えている。

今回の上演は、コロナ感染拡大に配慮し、入場者20名と数を抑えて行われる公演で、關口康佑によるピアノ伴奏版と、歌い手だけでなく演奏者も一人きりの版での上演である。
字幕は、昨年11月に他界した藤野明子による日本語訳詞が用いられている。

なお、古瀬まきをは、2019年に行ったプーランクのオペラ「人間の声」を中心としたソプラノリサイタルで、第40回音楽クリティック・クラブ賞奨励賞を受賞している。


ジャン・コクトーのテキストによる一人芝居「人間の声(声)」が初演された1930年時点では、一人芝居はそれほどポピュラーなジャンルではなかった。一人語り形式のものは勿論あったが、朗読されることの方が多く、「声」のように語りではなくセリフのみで行われる一人芝居はほとんど例がなかった。「声」は、ある女性(名前不明)がある男(こちらも名前不明)と電話で話している状態を描いた作品である。当時はまだ電話は高級品で、一般にはそれほど普及しておらず、今と違って交換手を通じて望む相手に繋いで貰う必要があり、また混線があるなど、必ずしも便利な道具という訳ではなかった。この作品でも、混線や偶然起こった傍受などは女を焦らせ、苛立たせる。また今のようにワイヤレスではなく、電話機に伸びる電話線も、受話器と電話本体を繋ぐコードも長く、これがラストへと繋がっていく。

電話という当時はまだ新しい装置が、声は近くにあるが体は遠いという、当時としては奇妙なパースペクティブとアンバランスを招いている。また、犬の存在が、間接的かつ絶対的な男女の分け隔てを象徴する。

コクトーの原作では、女が外国語を話すシーンがある(オペラ版ではカットされている)。コクトーは「出演している女優が最も得意とする外国語を話すこと」としているのみで、何語を話すのが適切なのか指示はしていない。いずれにせよ、この女性がフランス語圏以外の外国籍で、出身身分もそれほど高くなく、経済的手段も能力もなんら持ち合わせていないことが分かってくる。当時のフランスは今よりもかなり差別が酷く、外国籍である程度年齢がいった女性が職に就ける可能性はまずない。あったとしても洗濯婦など最底辺の肉体労働で身も心もすり減らしていくだけだ。
そんな女が、5年間囲われていた男に捨てられた。女は睡眠薬自殺を図るのだが、命は取り留める。男からの電話に、女は「睡眠薬は飲んだが1錠だけだ」と嘘をつく……。

電話の向こうの男の声は聞こえないので、観る側が想像する必要がある。そのため、自由度が高いと同時に、内容を把握するのは困難で、100%想像するのはほぼ不可能である。観る者、聴く者に許されるのは、おおよその状況把握のみである。
ただ、オペラ「人間の声(声)」はプーランクが作曲した音楽によって、その場の空気や心理状態はある程度規定される。そういう意味では原作の一人芝居版よりもモノオペラ版の方が入りやすいかも知れない。

女にはマルトという女友達がいて(マルトというのはジャン・コクトーの実姉と同じファーストネームだが、どの程度関係があるのか、あるいは無関係なのかは不明。たまに「モルト=死」(この単語は劇中に登場する)に聞こえてゾッとするが、フランス人は多分間違えないだろう)、男と女が暮らしていた家の執事の名はジョゼフという。女が自殺未遂を図った際には、マルトが駆けつけ、マルトが医師を呼んだために女は助かっている。だが今はマルトは家に帰り、女は一人である。電話の向こうで男は、「マルトの下に身を寄せてはどうか」と提案しているようだが、女はそんな身勝手な真似は出来ないと断る。

男と女の甘い思い出が語られる際には、プーランクの音楽もロマンティックなものへと傾く。「パリのモーツァルト」の異名を取ったプーランク。甘い旋律を書かせると天下一品である。

男が新しい女と旅行に出ようとしているのは確実で、男が家から電話しているというのも交換手によって嘘であることが分かる。そして男は、かつて女と暮らしていた時に女にしてくれたのと同じ事を新しい女としようとしている。思い出が上書きされる。忘れ去られる。

女にとっては、おそらくは生活が出来なくなるということよりも、男が他の女のものになるということの方が耐えられない事実なのだと思われる。電話コードを体に巻き付け、男の声を体で感じながらの死は(ただし、今回の演出では死は明示されない)、単なる自殺というよりも男の声に抱かれた「空想の上での情死」を女が選んだことを仄かに伝えている。

明るすぎても暗すぎても良くないという、高度な演技が要求されるオペラであるが、古瀬まきをは過不足のない演技で、地球の外に放り出されたかのような女の孤独を炙り出していた。

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2021年9月 9日 (木)

観劇感想精選(412) TFACTORY 「4」

2021年8月28日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後3時30分から、京都芸術劇場春秋座で、TFACTORYの「4」を観る。作・演出:川村毅。出演は、今井朋彦、加藤虎ノ介、池岡亮介、川口覚、小林隆。

モノローグを積み重ねる演劇として2011年に構想され、リーディングなどを経て2012年に東京のシアタートラムで初演された作品であり、ニューヨークでもジョン・ジェスランの演出でリーディング公演が行われるなど、デンマーク語、韓国語などによる翻訳上演が重ねられてきた。いわゆる演劇の本公演としての上演は今回が2度目で、再演ということになり、川村毅が自身で演出も手掛けるバージョンとしては初演ということになるらしい。

本来は、5月に東京で、6月に京都で上演が行われる予定だったのだが、コロナ禍によって延期となっていた。

壁のセットがある他は、椅子の上に箱が置かれているだけの舞台。やがて5人の男が現れ、箱の中に手を入れてくじ引きを行う。小林隆だけは舞台を去り、残った4人は下手手前、下手奥、上手奥、上手手前に分かれて陣取り、やがて一人ずつモノローグを行う。
くじで割り当てられた役を即興で演じるという設定であり、演じ手の性格と演じられる人物の性格は必ずしも一致しない。
裁判員裁判の話ではないが、後述するように彼らは全員裁判員の欠格事項に触れており、割り振られた役も欠格事項に該当する人物が多く、裁判員になれない人の声を拾う役割を担っている。

一巡目は、今井朋彦演じる男(一応、4を意味するFOREに由来する「F」という役名があるが、この芝居では役名は特に意味を持たない)が裁判員に選ばれた大学職員、加藤虎ノ介が死刑執行命令を出す法務大臣、池岡亮介が刑務官、川口覚が無差別殺人で5人を殺害した未決囚(ここでは死刑が執行される前の死刑囚という意味)として、それぞれ長大なモノローグを行う。
5人が殺害されたということで、5人の正体が被害者の身内であることが察せられるようになっている。
死刑は執行されたようだが、死刑囚が犯した罪と身内が殺されるという各々の不幸を受け入れるためにシミュレーションが行われているようだ。謎に迫ることで、死刑囚との距離も微妙に変化していく。話しているうちに、自分の見知らぬ場所にたどり着いてしまうこともある。

そして途中で、役柄チェンジ。今井朋彦が刑務官に、池岡亮介が裁判員に選ばれた大学職員に、加藤虎ノ介が未決囚に、川口覚が法務大臣になる。

刑務官が初めて未決囚の首に縄を掛ける時に、慣れないために浅くしてしまい、下にいて未決囚(死刑執行がされた瞬間に死刑囚となるわけだが)の体を支えたり引っ張ったりする役割のMに負担を掛けてしまう。Mは首を絞めて死刑囚を殺すのだが、そのことがトラウマとなって配置転換となり、刑務官も辞めて実家に戻るが、やがて精神病院に入るという設定が、今井朋彦演じる刑務官が演じるという形で語られる。

池岡亮介が扮した大学職員が語る話も、Sという同僚が駅で飛び込み自殺を図ったという展開になり、あるいは自分がSの背中を押したのではという疑念を抱くなど、闇の世界へと階段を一歩ずつ降りていくことになる。この辺は心理スリラー的な味わいがあり、「死」や「死刑」についての問いがなされる。

ただ、淵にまで来てしまったということで、再び元の配役に戻ってシミュレーションが続けられる。なお、法務大臣が語った、「古書店街の真ん中にある大学」で「刑事博物館」があり、「展望レストラン」が存在すると語られる場所があるのだが、これは明らかに明治大学駿河台キャンパスのことである。少なくても日本には、この三つ全てに該当する大学のキャンパスは他には存在しない。それぞれの名称は、「神田古書店街(神田神保町古書店街)」「明治大学博物館」「スカイラウンジ暁」である。ただ京都での公演ということで、その場所が明治大学駿河台キャンパスだと気づいたのは、おそらく私だけであったと思われる。気づいたからといってどうということはないのだが。

ちなみに小林隆だけは、前半には全くセリフがなく、ラスト近くになって長大なモノローグが用意されているのだが、それまでの4人の横糸とは異なり、法廷だったら発言を慎むよう注意される類いの感情的な縦の糸を与えるという重大な役目を担っている。なお、小林隆と川村毅はほぼ同じ時期に明治大学に在籍していたはずで、川村毅は在学中に第三エロチカを旗揚げしているが、小林隆は学生時代はヨット部に所属しており、演劇活動はほとんど行っていなかったはずなので、学生時代に互いに面識があったのかどうかは分からない。

川村毅は基本的にストーリーの人であり、ストーリーテリングの才能を見せると同時に、「演劇ならでは」の底深さが感じられないという欠点も合わせ持つ。アングラ第三世代の中で今はちょっと埋もれた印象を受けるのもそのためだろう。今回も小林隆が一度目に下した判断やラストは弱めに感じられた。モノローグということで私小説的な語りが続くのだが、良くも悪くも文学的であり、虚構を演じるという最も演劇的な要素を用いながら「あるいは映像でも可能な表現」と思われる構造を持ってもいる(川村毅は映画マニアである)。あるいはレーゼドラマでも構わないような気もする。

出演者達は超長ゼリフを情感豊かに語り、巧みな表現を見せるが、劇場の音響のためか空間が広いからか、セリフが聞き取りにくい場面が多く、こちらも入り込むのが難しかった。

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2021年9月 3日 (金)

観劇感想精選(411) IN STU×KAIKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」

2021年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、IN STU×KAKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」を観る。作:トム・ストッパード。テキストは、ハヤカワ演劇文庫から出ている小田島恒志訳のものを使用。演出は大石達起。出演は、阿僧祇(白河夜船)、高橋紘介、勝二繁(日本海/およそ三十世帯)、黒木陽子(劇団衛星/ユニット美人)、横山清正(気持ちのいいチョップ)、藤村弘二、川﨑祐輔(劇団つちの娘)、岡田眞太郎(トム論)、伊藤彩里(gallop/カイテイ舎)、土肥嬌也、上条拳斗、大山渓花。

21世紀に入ってから日本でも作品が上演される機会が増えたトム・ストッパード(1937- )。映画「恋におちたシェイクスピア」や「未来世紀ブラジル」などで共同脚本として名を連ねていることでも有名である。
「アルカディア」は、1993年にイギリスで初演され、日本初演は2016年に栗山民也の演出によって行われている。

イングランドの貴族、カヴァリー家の屋敷が舞台なのだが、時代を隔てた二つの世界が互い違いに描かれていく。最初に舞台となるのは1800年代。13歳のトマシナ・カヴァリー(阿僧祇)は、家庭教師のセプティマス・ホッジ(高橋紘介)に数学などについて教わっている。イギリスの場合、貴族階級の女子は学校に通うのではなく家庭教師に教わるのが一般的で、それが変わるのは20世紀以降である。

トマシナは聡明な女の子で、特に代数に関しては図抜けた能力を持っている。おそらく彼女に解けないのは、17世紀に提唱された「フェルマーの最終定理」(「アルカディア」初演から2年経った1995年にアンドリュー・ワイズによってようやく証明された)ぐらいで、実際にトマシナがフェルマーの最終定理に挑む場面がある。それを教えるセプティマス・ホッジもパブリックスクールの名門であるハロー校を経てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだというインテリである。実はセプティマス・ホッジは、ロマン主義最大の詩人といわれるジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿)の先輩であり面識もあった、ということでカヴァリー邸にもバイロンは訪れている(劇中には登場しない)。

一方の舞台は現代である。登場人物は、カヴァリー家の末裔であるヴァレンタイン・カヴァリー(上条拳斗)とクロエ・カヴァリー(大山渓花)、そしてガス・カヴァリー(川﨑祐輔)。更にカヴァリー邸の歴史を調査しているベストセラー作家のハンナ・ジャービス(伊藤彩里)と、ハンナのライバル的存在であるサセックス大学研究員のバーナード・ナイチンゲール(最初の場面ではバーナード・ピーコックという偽名を付けられる。土肥嬌也)の5人。ガス・カヴァリーは、場面緘黙もしくは全緘黙で、知能は高いと思われるのだが話すことが出来ない。ただし音楽の才能は抜群で、母親からは「我が家の天才くん」と呼ばれている。ヴァレンティンは数学者ということで、先祖の血を受け継いでいるように思われる。
ちなみにガスを演じる川﨑祐輔は、1800年代の場面ではオーガスタス・カヴァリーを二役で演じているが、オーガスタスはガスとは真逆の、映画「アマデウス」に登場するモーツァルトを思わせるような天真爛漫な人物である。「オーガスタス」は、ラテン風に読むと「アウグストゥス」であり、クレオパトラの名前が劇中で出てくるのとおそらく関係があり、またセプティマスがセプテンバーに繋がる名前なのも意図的だと思われる。

現代の場面では、バイロンの研究をしているバーナードが、バイロンとカヴァリー邸で出会った詩人のエズラ・チェイター(藤村弘二)が、自作の詩をバイロンに酷評されたため決闘を申し出て、敗北。チェイターは死んだが、その結果、バイロンはイングランドにいられなくなったという説を唱える。その証拠となりそうな史料がカヴァリー邸にはいくつも眠っていたのである。だが、最終的にはその説は否定されることになる。

現代がこの路線で進む一方、1800年代の物語は、カヴァリー邸の庭園であるシドリー・パークが軸になって展開される。トマシナがシドリー・パークの設計図に書かれた「隠者の家」に隠者の絵を描き込み、庭園設計家のリチャード・ノークス(横山清正)は実際に隠者の家を建てるも、肝心の隠者が見つからないという話になる。セプティマスは、「隠者でしたらすぐに見つかると思います」と嘯く。

現代では、ハンナがこの隠者の正体について調査していたのだが、隠者と呼ばれた人物が、セプティマスと同い年であるという事実に気づき……。


トム・ストッパードは、数学に強い劇作家だそうで、この作品にも数学や物理に関する専門用語がちりばめられているが、理系に弱いと内容が分からないということはない。数字によって物語が展開していく訳ではないからだ。というよりもむしろ、数学の理論は最終的には退けられている。

面白いのは、本当に重要な物語が語られることなく作品が進み、終わるということである。

インテリでお堅いように見えるセプティマスであるが、男前で文武両道ということで様々な女性から誘われたり情を交わしたりしている。そんな彼が隠者、つまりなぜ女を避けて引きこもるようになったのか、という疑問が起こる。
この理由も仄めかされる。初登場時には13歳と10ヶ月(あと6週間で「ロミオとジュリエット」のジュリエットに並ぶ)だったトマシナであるが、終盤では16歳と11ヶ月に成長している。だが、トマシナは火事に遭って17歳の若さで亡くなっていることが記録されているのである。セプティマスが隠者となるのはそれ以降。つまり女からモテモテであったセプティマスが、亡くなったトマシナを最後の女性として、残りの人生を隠者として彼女の思い出と共に過ごしたというかなりロマンティックな物語が浮かび上がる。この話が舞台上で語られることはないのだが、おそらく多くの人に隠者としてのセプティマスの物語の始めと終わりが浮かぶだろうし、それは多分、正しい。語られない愛が最も雄弁に観る者に訴えかけるという極めて巧みな作劇法が用いられた物語である。

交互に登場した1800年代の場面と現代の場面が、終盤には同じ場で展開される。互いのことは見えないのだが、同時進行である。
ラストは、高い次元で理解し合えた二組の男女のワルツを踊る場面である。そのうち、トマシナとセプティマスは最初にして最後のワルツであり、永遠の男女としての最後にして最初のワルツだ。甘く悲しい最後である。


多くの出演者が、京都の小演劇で活躍している舞台俳優であるが、最近、京都の小劇場に接する機会が余りないので、何度も演技を見たことがあるのは黒木陽子だけである。
おそらくTHEATRE E9 KYOTOの舞台に慣れていないのと、キャリアが浅いことの両方が関係していると思われるのだが、特に男性陣はセリフも動きも押しの一手であり、「この大きさの空間なら怒鳴らなくても伝わるのに」と思った場面が多いのが気になるところである。

ラストのワルツの場面も、出演者達が音楽の素養に欠けるため、拍をちゃんと刻めていなかったり(三拍子の三角形を空間に描くのだが、三拍分を一拍で描くため、拍が取れていないことが分かる)、拍が取れていないので当然ながらワルツが踊れていなかったりと、かなり気になった。男性が常にリードするといったようなルールも知らないまま適当にやっているようである。

舞台美術などは結構お洒落に作ってあったり(舞台美術:岩崎靖史)、衣装なども良かった(衣装:久保梨緒)ので、後は演技の細部を詰めればもっと良くなるはずである。

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2021年9月 2日 (木)

観劇感想精選(410) 枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」@枚方市総合文化芸術センター

2021年8月30日 枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールにて観劇

午後7時から、関西医科大学の隣に出来た枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホールで、枚方市文化芸術アドバイザー企画 辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」を観る。

枚方市総合文化芸術センター 関西医大 大ホール(ネーミングライツによるもので、関西医科大学が運営している訳ではない)を始めとする枚方市総合文化芸術センター本館の正式オープンは9月で、今回は杮落とし的公演となる。

公演タイトル名は、辰巳満次郎「船弁慶」×野村萬斎「末廣かり」であるが、実際の上演順は逆である(表記は「末廣かり」であるが、読みは「すえひろがり」である。流派によって違うようだが、基本的に祝いのための演目なので、濁点が付くのは良くないのだと思われる)。
杮落とし的公演であるため、スタッフも全く慣れておらず、開場の際にミスがあったり、開演前のアナウンスで、「辰巳満次郎『末廣がり』、野村萬斎『船弁慶』」と真逆に紹介されたりと色々ある。

開場の時は3列なのが見て分かったのだが、他の人は慣れてないのか一番手前の1列目のみに一列で並んでいた。私は一番奥、つまり手前から3列目を選んだのだが、3列目のスタッフがホワイエへの入り口の扉を開けるのを忘れているというミスがあった。まあ、笑いで済んだが。そんなことがあったが、他の列はもっと慣れていないようで、結果として、ホワイエに入ったのも客席内に入ったのも私が一番先であった。自慢になることなのかどうかは分からないけれども。


まず、枚方市文化芸術アドバイザーの辰巳満次郎(宝生流能楽シテ方)による解説があり、続いて野村萬斎ほかによる狂言「末廣かり」と辰巳満次郎ほかによる能「船弁慶」が上演される。

辰巳満次郎は、この公演が即日完売となったことを告げて、「伝統芸能の公演が即日完売となるのは本当に珍しいことで、『流石、枚方市民は文化度が高い』と萬斎と話しておりました」と語る。それから、「私は『すえひろがり』はやりません。さっき、お気づきになった方、いらっしゃると思いますが」

まずは能狂言の初歩ということで、舞台上の説明から。
「こちら、橋懸かりと言います。『廊下』って言っちゃう人いるんですが、橋懸かりです」
その後、初心者にも分かるよう能狂言のお約束と、「末廣かり」と「船弁慶」のストーリーについて丁寧な説明を行う。

狂言に関しては、「今は大声で笑うのはよろしくないとされているようですが、余り口を開けずにそっと笑って下さい」

「船弁慶」の義経は子役がやるが、「人手が足りない訳ではありませんで」高貴な身分は子役が演じるという慣例があり、また義経と静という恋愛関係にある者同士を大人が演じると生々しくて、能においてはよろしくないとされるようである。

能と狂言を観るには想像力が必要ということで、「敢えてセットを置いていません。セットを置いてもいいんですが、それだと誰がやっても一緒になる」「想像力を使わないとつまらない、下手したら居眠りしちゃう」とも語っていた。


狂言「末廣かり」(和泉流)。出演は、野村萬斎(果報者)、野村太一郎(太郎冠者)、石田淡朗(すっぱ)。後見:深田博治。大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。

果報者は身分が高いということで、野村萬斎は素早い足取りで思いっ切り前に出る。多分、萬斎ファンはこれだけで大笑いなのであろうが、そこまでの萬斎ファンは今日は来ていないようだ。
以前に歌舞伎版で観た演目であるが、原作の狂言は歌舞伎版とは登場人物からして異なっている。

正月。果報者(長者)が縁起の良い末廣かり(扇のこと)を買ってくるよう太郎冠者に命じる。太郎冠者は「京まで行けば何でも売っていましょう」と買い物に出掛けるが、京まで着いたところで末廣かりがなんのことか聞くのを忘れてしまったことに気づく。そこで、「すえひろがりあるか?」「すえひろがり買おう」と言いながら往来を歩くことにする。
それを見たすっぱ(詐欺師、悪知恵の働く者)が、「騙してやろう」と近づく。すっぱは唐傘を「これがすえひろがりじゃ」と言って売りつけることにする。果報者が出した末廣かりの条件はいくつかあるが、すっぱは口八丁で丸め込む。それでも「戯れ絵」についてはすぐには妙案が浮かばないが、「絵」ではなく「柄(え)」であるとして、太郎冠者相手に戯(たわむ)れ、「これが戯れ(ざれ)柄」ということにしてしまう。
高い金を払って唐傘を購入して帰ってきた太郎冠者。当然ながら果報者は激怒するが、太郎冠者はすっぱが言ったすえひろがりについて説明を続ける。それでも当たり前ではあるが果報者の怒りは収まらない。そこで太郎冠者は、すっぱがうたっていた謡を披露することにして……。
太郎冠者の謡は、「三笠山(若草山、春日山の別名)」と傘と「春日山(こちらは具体的には春日大社を指す)」の神を掛けたものである。狂言と能の基となった猿楽は、奈良の興福寺とその鎮守である春日大社の下級神官や職員が始めたとされており、目出度さがより一層高まる。

果報者を演じる野村萬斎は、太郎冠者などをやる時とは違い、独自性は余り出さないが、身のこなしの巧みさや滑稽さで魅せる。


能「船弁慶」(宝生流)。ポピュラーであると同時に、劇場の「船出」を祝うのに相応しいということで選ばれた演目だと思われる。出演は、辰巳満次郎(シテ:静。後シテ:知盛の怨霊)、辰巳紫央莉(義経。子役)、原大(弁慶)、原陸(従者)。アイ(間)として野村裕基が船頭を演じる。
大鼓:森山泰幸、太鼓:上田慎也、小鼓:林大和、笛:貞光智宣。後見:山内崇生、石黒実都。地謡:辰巳大二郎、澤田宏司、辰巳孝弥、辰巳和麿。

平家を滅亡に追いやり、英雄となった源義経だが、兄である鎌倉殿こと源頼朝との仲が悪化。義経は一転して追われる身となる。
尼崎の大物浦にやって来た義経一行。義経は、「女連れとあっては体裁が悪い」ということもあり、静をいったん京に帰すことにする。弁慶を通して静に京に帰るよう命じたのだが、静は、「弁慶が自分を騙そうとしているのではないか」と疑い、義経に真偽を直接問う。義経の意志だと知った静は金の烏帽子を被って白拍子の舞を行い、泣く泣く京へと帰っていく。
大物浦から出た船であるが、天候が悪化し、波が荒くなり、遠くから知盛を始めとする平氏の亡霊が現れる。長刀を振り回す知盛に対して、義経も刀で応戦しようとするが、亡霊なので幾太刀浴びせようと一向に応える気配がない。そこで弁慶が仏法で知盛を調伏する。

芸能者であるだけに、武よりも身につけた芸を上位に置くという演目の系譜に入るものであるが(「勧進帳」もそうだが、一番強そうな弁慶が武力で押し通そうとしないところが妙味となっている)、新型コロナが猛威を振るっており、収束への祈りも込められているように感じられた。

見ようによってではあるが、中国のように民衆を力で押さえつけて無理矢理終わったということにしている国もあり(中国は情報操作を行っている典型的な国なのでコロナ罹患者数のデータは当てにならないと見て間違いないだろう)、西洋各国も行っているロックダウンなど強制力を伴う支配に関する話が日本でも起こっている。だが、あらゆる意味でそれは危険で、日本はあくまで強権発動をしない形で抑えたいという意志も感じられる。芸能や表現の歴史を見れば、それは当然であるといえる。

野村萬斎の息子である野村裕基。顔は父親に余り似ておらず、井上芳雄系の美男子であるが、声は萬斎にそっくりで、声だけだと本当に萬斎と間違えるのではないかと思えるほどに酷似していた。

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2021年8月29日 (日)

観劇感想精選(409) team申第5回公演「君子無朋(くんしにともなし)~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~」

2021年8月26日 広小路の京都府立文化芸術会館にて観劇

午後6時から、広小路の京都府立文化芸術会館で、team申の「君子無朋(くんしにともなし)~中国史上最も孤独な「暴君」雍正帝~」を観る。作・阿部修英(あべ・のぶひで)、演出:東憲司(ひがし・けんじ)。主演:佐々木蔵之介。team申は、第1回公演の出演者である佐々木蔵之介(1968年生まれ。座長=申長)と佐藤隆太(1980年生まれ)が共に申年生まれだったことに由来する演劇プロデュースユニットで、本公演を行うのは11年ぶりとなるが、その間に番外公演を4回行っている。
出演は佐々木蔵之介の他に、中村蒼(あおい)、奥田達士(たつひと)、石原由宇(ゆう)、河内大和(こうち・やまと)。

名君として伝わる清朝第4代皇帝・康熙帝と第6代皇帝・乾隆帝の間に13年だけ治天の君となった雍正帝を主人公とした話である。

康熙帝は、皇帝としての実績もさることなるが、「康熙字典」の編纂を命じたことでも有名で、「康熙字典」は現在に至るまでの中国語の字典の大元と見なされており、康熙帝の名もこの「康熙字典」の存在によってより認知度が高まっている。乾隆帝は清朝最盛期の皇帝として有名で、軍事と文化の両面で拡大を行っている。
その間に挟まれた地味な皇帝、雍正帝に光を当てたのが今回の作品である。
阿部修英は、東京大学大学院で中国美術を学んだ後にテレビマンユニオンに参加したテレビディレクターで、戯曲執筆は今回が初めて。有料パンフレットの阿部の挨拶に「東憲司さんという最高の師父を得て」と書かれており、また佐々木蔵之介と東憲司との鼎談でも「手取り足取り教えて頂いて」とあり、内容は別にして物語の展開のさせ方に関しては東憲司からの影響がかなり強いと思われる。複数の人物が何役も演じるというスタイルは東憲司の作品によく見られるものである。

「ゲゲゲの女房」、「夜は短し歩けよ乙女」などの脚色・作・演出で知られる東憲司は、アングラ(アンダーグラウンド演劇)の手法を今に伝える演出家で、今回も歌舞伎の戸板返しの手法が駆使されていた。

佐々木蔵之介が雍正帝を、中村蒼が雲南省の若き地方官・オルクを演じるが、それ以外の3人の俳優は、狂言回しなども含めて何役も演じる。

中国史は日本でも比較的人気の高いジャンルだが、清朝に関しては最後の皇帝である宣統帝溥儀や、西太后など末期のみが映画なども含めてよく知られているだけで、雍正帝についてもほとんど知られていない。ということで、冒頭は、3人の俳優が、「紫禁城」「皇帝」「後宮」「宦官」などの初歩的な用語の説明を、京都ネタを挟みつつ(「紫禁城って知っている?」「出町の甘栗屋でしょ?」「いや、京大の近くの雀荘のことさ」といった風に)行う。

雍正帝の治世の特長は、地方官と文箱による直接的な手紙のやり取りをしたことで、歴史学者の宮崎市定が『雍正硃批諭旨』という雍正帝と地方官が交わした手紙を纏めた大部の書物を読んだことが、今回の作品に繋がるのだが、それが戦後直後の1947年のこと。宮崎市定がそれらの研究の成果を『雍正帝 中国の独裁君主』という書物に著したのが1950年。作の阿部修英もこの本で雍正帝を知ったという。阿部修英は中国を舞台にした小説も好きで、浅田次郎の一連の作品も読んでおり、そうした背景があったために中国の歴史を辿るドキュメンタリー番組の制作に携わり、そこで一緒に仕事をしたのが佐々木蔵之介であった。ドキュメンタリー番組作成中に、「雍正帝で、戯曲を書いてみませんか?」と佐々木に言われ、それが今回の上演へと繋がる。戯曲執筆時間や稽古の時間はいうほど長くはないだろうが、一番最初から「君子無朋」が完成するまでの歴史を辿ると構想74年ということになる。その間、何か一つでもボタンの掛け違えがあったら、舞台が完成することはなかっただろう。

「中国の皇帝モノと言うのは珍しい。ストレートプレイでは滅多にないのではないだろうか」という東憲司の記述が有料パンフレットにあるが、京劇では「覇王別記」(厳密に言うと覇王こと項羽は皇帝ではないが)などいくつかあるものの、そもそも日本では知名度のある中国の皇帝は限られるということで、上演はしにくいと思われる(私も明朝最後の皇帝である崇禎帝を主人公にした未上演の戯曲を書いているが、変な話になるが実際に描かれているのは崇禎帝ではない)。その中でも更に知名度の低い雍正帝を主人公に選んだことになるが、知名度が低いだけに自由に書ける部分は多くなるというメリットはある。

康熙帝の次の皇帝でありながら、雍正帝は父親とは違い、同母弟でやはり次期皇帝候補であったインタイに康熙帝(諡号は聖祖)の墓守を命じるなど残忍な面を見せつける。それを見た雍正帝の実母は自殺。また、先帝である康熙帝の事績を見習うよう進言した家臣は容赦なく処分した。
暴君であり、独裁者であった雍正帝であるが、その意外な実像に迫っていく謎解き趣向の作品である。手法的にはよくあるものだが、史実かどうかは別として少なくとも物語としての説得力はあり、よく出来た作品であると思う。

佐々木蔵之介の地元ということで、ロングランとなった京都公演。残念ながら京都における新型コロナの感染者が日々新記録を更新中である上に、佐々木蔵之介以外は知名度がそれほど高いとはいえないオール・メール・キャストということで、後ろの方を中心に空席が目立ったが、観る価値のある作品であることは間違いない。悪役も得意とする佐々木蔵之介を始め、出演者達は熱演であり、東憲司のスピーディーな演出も相まって、演劇そして史劇の素晴らしさを観る者に伝えていた。

歴史ものに限らないが、演劇というのは、今この場所で二つの歴史が始まっていくことが魅力である。上演史としての歴史と観る者の中に流れる歴史だ。それが同じ時、同じ場所を共有することで始まるというジャンルは、演劇をおいて他にない。今この場所で歴史が始まると同時に歴史が変わっていく。しかも直に。これだけ素晴らしいジャンルを知っている人は、それだけで生きるということの意義を、少なくともその一端を獲得しているのだと思われる。


雍正帝という人物であるが、44歳の時まで皇帝になれる見込みがなく、本ばかり読んでいたというところが井伊直弼に似ており、母親が後に雍正帝となるインシンよりも弟のインタイの方を可愛がっていたという話は織田信長とその弟の信行、母親の土田御前との関係や、徳川家光とその弟の駿河大納言こと忠長、母親のお江の方(お江与の方。小督の方)との関係を思い起こさせる。また自身の業績を我が子の功績とするところなどは徳川秀忠を連想させる。隣国の歴史であるが、人間の本質は国籍や人種によってさほど変わらないはずであり、また歴史というものは大抵どこかで結びついているものである。

久しぶりに中国史も学んでみたくなる舞台であった。あるいは今日からこれまでの私とは違った歴史が始まるのかも知れない。

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2021年8月18日 (水)

観劇感想精選(408) 「森 フォレ」

2021年8月8日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後1時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「森 フォレ」を観る。作:ワジディ・ムワワド、テキスト翻訳:藤井慎一郎、演出:上村聡史(かみむら・さとし)。出演:成河(ソン・ハ)、瀧本美織、栗田桃子、前田亜季、岡本玲、松岡依都美(まつおか・いずみ)、亀田佳明、小柳友(こやなぎ・ゆう。男性)、大鷹明良(おおたか・あきら)、岡本健一、麻実れい。

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ワジディ・ムワワドは、1968年、レバノンの首都ベイルートに生まれた劇作家。幼い頃にレバノンの内戦を避けるためにフランスに亡命し、その後、カナダのフランス語圏であるケベック州に移住している。レバノンはフランスの文化受容が盛んな国のようだ。ケベック州は緻密な心理描写を特徴とする作品の数々が「ケベック演劇」と呼ばれて世界的な注目を浴びている場所であるが(日本で上演された有名作に、井上靖原作・中谷美紀主演の「銃口」や白井晃の一人芝居である「アンデルセン・プロジェクト」などがある)、ムワワドの作風は「ケベック演劇」の本流とは少し距離があるようで、むしろ血脈を描くことが多いスペイン文学や、マジックリアリズムなど独特の手法で評価される南米スペイン語圏の文学と親和性があるように見える。
2000年に「岸 Littoral(リトラル)」でカナダ総督文学賞(演劇部門)を受賞。その後、「岸 Littoral」に始まる「約束の地」4部作で高く評価された。今回上演される「森 フォレ」は、「約束の地」4部作の第3作に当たる。日本では第2作の「炎 アンサンディ」がまず上演され、次いで第1作である「岸 リトラル」が上演されているが、私はいずれも観る機会はなかった。有料パンフレットに「炎 アンサンディ」と「岸 リトラル」のあらすじが記載されているが、「森 フォレ」と共通する部分が多いようである。双子の主題が出てきたり、両親の過去の謎が前2作では描かれているようだが、「森 フォレ」ではそれらを発展させつつ、重層的構造の作品として構築している。

舞台は、ケベック州最大の都市モントリオール、ドイツ領時代のストラスブール(当時はドイツ読みでシュトラウスブルク)、第1次世界大戦中のアルデンヌの森、カナダ北部・マタン、フランスのメッスなどに飛ぶ。時系列も複雑である。
シーン表が有料パンフレットに記載されているが、演劇というより現代音楽のプログラムのようである。

ファーストシーンでは雪が舞い散る中、モントリオールに住むエメという女性(栗田桃子)が自己紹介も含めた長大なモノローグを行う。自分は余りものを覚えるのが得意ではないこと(おそらくワーキングメモリに関する話)、ただ教えられたことに関する記憶力は良いこと、今が1989年の11月16日であること、1週間前の11月9日にベルリンの壁が崩壊したこと、ただそのことに自身が何の興味も抱いていないことが明かされる。語り口と知識の豊かさからエメが聡明な女性であることが分かる。エメの両親は幼いエメを養子に出しており、エメは両親の顔を知らない。
他の人が登場し、11月9日がベルリンの壁崩壊だけでなく「水晶の夜」(1938年11月9日、ドイツ全土でナチスがユダヤ人の商家などを襲撃した事件)の日であるということも告げる。
エメはフランス人脱走兵の幻影を見たということで、精神科医の診察を受ける。

エメは、バチスト(岡本健一)と結婚し、子を授かったのだが、脳腫瘍を患っていることが判明する。今すぐどうこうというはないが余命は15年ほど。しかも脳の腫瘍と思われたものは、胎内にいる双子の片方が脳へと向かい、硬化したものであるということが分かる(この辺はマジックリアリズム的である)。ただ仮に堕胎したならエメの余命が伸びると医師に言われたエメとバチストの夫妻は、一度は堕ろすことに決めるが、そんな時にモントリオール理工科大学虐殺事件が起こる。同年12月6日のことだった。名門・モントリオール理工科大学に銃を持った若い男が押し入り、女子学生ばかり14名が射殺された。生まれてくる子供の性別が女であるということを知っていたエメは、「私は15人目を(堕胎という形で)殺したくない」と語り、出産することに決める。生まれた娘は、ルー(瀧本美織)と名付けられた。だがエメはその後に意識を失う。20年後、パンクロッカーのような格好を好む反抗的な女性に成長したルーは、5年前に亡くなった母親のエメの遺体を父親のバチストが埋葬しようとせず、冷凍保存していることに疑問を抱く。またエメの母、つまりルーの祖母であるリュス(麻実れい)やその先祖にまつわる謎が次々と沸いてくる。ルーはフランス人古生物学者のダグラス・デュポンテル(成河)と共に、先祖に関する調査を行い始める。ダグラスは、第二次大戦中のナチスによる虐殺の被害者の頭蓋骨を鑑定したのだが、その骨がエメの脳腫瘍となった双子の片方の骨と一致することを確認していた。


成河、瀧本美織以外の俳優は、血脈を強調するためだと思われるが複数の役を演じ、また時間と場所が次々と移るため、簡単に把握出来るような内容にはなっていない。だが先祖がどこで何をしており、その結果何が起こったかを辿ることは困難というほどでもない。ただ、名前などの由来などに裏設定があるようで、こうした情報は有料パンフレットを買わないと手に入らない。

時系列順に並び替えると、大元は、1871年、ドイツ・ストラスブール(シュトラウスブルク)に始める。アレクサンドル・ケレールー(大鷹明良)の息子で獣医のアルベール(岡本健一)は、オデット(栗田桃子二役)と結婚し、エドモンという子を設けるが、アレクサンドルがオデットとの間に生んだ(オデットは「見知らぬ男に強姦された」と嘘をついている)義理の娘に当たるエレーヌ(岡本玲)と性的関係を持つ。エレーヌはエドガー(小柳友)と二卵性双生児として生まれたが、エレーヌはエドガーとも性的関係を持つという、かなりグチャグチャドロドロの展開である。やがてエレーヌは双子を産むが、父親がアルベールなのかエドガーなのかは分からない。双子の男の子の方は怪物で、エレーヌを襲い、洞窟のようなところに閉じこもってしまう。女の子の方はレオニー(岡本玲二役)と名付けられ、アルベールがアルデンヌの森の奥に築いた「森」という組織で暮らすようになる。レオニーは第一次大戦中に森に逃げ込んだフランス人脱走兵のリュシアン(亀田佳明)と結ばれて、リュディヴィーヌ(松岡依都美)という女の子を産む。第二次大戦中に、リュディヴィーヌは、サミュエル(岡本健一二役)らが立ち上げたレジスタンス軍団「コウノトリ・ネットワーク」に所属し、反ナチス活動に身を投じる。リュディヴィーヌの親友だったサラ(前田亜季)はサミュエルと結婚。女の子を設ける。実はこの女の子がルーの祖母であるリュスである。

血脈を辿る旅であったが、ルーが確かめたかったリュディヴィーヌとの血縁の輪は、繋がってはいなかった。更にリュディヴィーヌは両性具有者(「リング」シリーズの貞子もそうであることがよく知られている)であり、子供を産むことは不可能で、繋がっている可能性も途切れていた。

だが、この話は血脈が繋がっていなかったという調査報告では勿論、終わらない。リュスが自分のことをリュディヴィーヌの娘だと思ったのには訳がある。「母親の名はリュディヴィーヌという」と伝えられていたのだ。だがリュディヴィーヌの正体はサラであった。「コウノトリ・ネットワーク」に加わったサラとリュディヴィーヌは、アジトを発見されそうになる。リュディヴィーヌは偽名の証明書を持っていたが、サラは本名の証明書しか持っていない。ゲシュタポは「コウノトリ・メンバー」の本名のリストは手に入れており、このままではサラは確実に殺される。サラはこの時すでにリュスを宿していたため、リュディヴィーヌは、サラの証明書とそれに張られている写真を自身の偽造証明書と交換することを提案。結果、リュディヴィーヌとなったサラはアメリカ兵に救助されてカナダへと渡ったが、本物のリュディヴィーヌはダッハウの強制収容所に送られて殺害された。自らを犠牲にして親友とその娘を救おうという「思い」。それがエメを通してルーにまで伝わっていた。血は絶えていたが「思い」はそうではない。

話は複雑だがメッセージはシンプルで力強い。そして観客も含めたここにいる全員が、「思い」をリレーするのだという決意が示されて劇は終わった。


出演者の多くは、他の舞台でもよく見る人達なのだが、瀧本美織の演技を生で見るのはおそらく初となる。朝ドラ出身の女優で、真面目で優等生的な性格といわれている瀧本美織だが、今回はそれとは真逆のタイプの女性を演じる。演技は達者であり、余裕を持って演じているように見える。真面目タイプゆえにどうしても「地味」と捉えられてしまう傾向があるようだが、彼女の場合は器用で華もあり、これからも様々な役柄で活躍出来そうである。

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2021年8月10日 (火)

観劇感想精選(407) 下鴨車窓 「透明な山羊」

2021年8月7日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、下鴨車窓の公演「透明な山羊」を観る。作・演出:田辺剛。
昨年は1度も行くことが出来なかったTHEATRE E9 KYOTO。考えてみれば、京都の団体の公演を観るのは今日が初めてである。
出演:佐々木峻一(努力クラブ)、西村貴治(ニットキャップシアター)、岡田菜見(下鴨車窓)、野村明里(ブルーエゴナグ)。

小説家、杉田(登場することはない)の仕事場であった山小屋が舞台である。杉田が亡くなり、杉田の息子である杉田ヨシノリ(佐々木峻一)と山小屋の管理人である阿部タカオ(西村貴治)が杉田の遺品の整理を行おうとしている。阿部は管理人であり、杉田の仕事についてはよく知らないので、杉田の担当編集者だった手塚イオリ(野村明里)が助っ人して呼ばれることになっていた。ちなみにヨシノリとイオリには面識はなく、今日が初対面となる。

杉田の主な遺品はカセットテープである。杉田の執筆は、パソコンのワープロソフトや原稿用紙に向かうのではなく、カセットテープに音声を吹き込むというスタイルが取られていた。杉田はデジタルメディアを信用しておらず、最後までカセットテープを愛用していた。実際に吹き込んで書くという小説家は存在していて、志茂田景樹が有名、ってこの情報が欲しい人はあんまりいないか。
カセットテープに吹き込むというものではないが、太宰治は口述を得意としており、語ったものを編集者に書き取らせることがよくあった。誰だったかは忘れたが、小説家志望だった編集者が太宰の口述に接したことがあり、余りの上手さに「天才」を感じて小説家になることは断念したと書いていたのを記憶している。

杉田の残した膨大なカセットの内の一つをヨシノリがまず再生。聞こえてきたのは都はるみが歌う「好きになった人」。グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」や、合唱サークルに参加していたとうことで(おそらく)「大地讃頌」などの音楽が入ったテープもある。音楽の趣味が分裂しているようにも見える。その他のテープには日記のような語りや創作上の思いつき、思索などが吹き込まれていた。統一性は感じられないが、山小屋の近くではしょっちゅう災害が起こっているようで、自衛隊が何度か救助に来ていることが分かる。
カセットの山の中にコンドームの箱が一つ。杉田は比較的高齢のはずだが、どうも相手がいたようである。言うまでもなくこれは伏線となっている。

山小屋に一人の女性が訪ねてくる。ヨシノリも阿部も彼女が編集者の手塚イオリだと思ったのだがそうではなかった。亡くなった父親が杉田の友人だったという木村ユカ(岡田菜見)であった。父親の命日ということで花を捧げようと山小屋を訪ねてきたのだ。ユカは杉田が他界したことを知らなかった。父親が転落した崖を見たいというユカだったが、阿部はユカが厭世観の持ち主であることを見抜いていた。ちなみに山羊は崖を好む動物である。

手塚イオリがやってきて、テープの整頓が始まる。
崖を見に行ったユカは足を滑らせて転落。幸い、木に引っかかったため命を落とすことはなかったが、左脚を負傷する。だが阿部はユカが転落したのは足を滑らせたからではないと見ていた。

山小屋と「下の世界」では天気も違い、「下の世界」での天気は晴れの予報であったが、山小屋周辺では雷鳴が轟き、やがて嵐となる。
山から下りる道は土砂崩れによって通れなくなり、四人は山小屋に閉じ込められることになる。すぐそばで雷鳴が轟き、雷が木に落ちて火事となる(すぐに鎮火した)。そして得体の知れない音が響き……。


杉田という人物を巡るそれぞれの距離感(英語にするとディスタンスということになるのだろうか)を描いた作品である。

ヨシノリは幼い時から杉田にDVを受けていた。母親もやはりDVの被害者であり、先に母親が他界。直後にヨシノリも家を出ており、杉田とは疎遠であった。杉田に対する思いは恨み以外にはほとんどない。

女性編集者の手塚イオリと杉田とは想像通りの関係で、むしろ積極的だったのはイオリの方のである。イオリはそのことをヨシノリに告白するのだが、告白する前にすでに言動に表れている。

木村ユカにとって杉田は父親の友人である。杉田とヨシノリの関係とは異なり、父親との関係は良好だったが、父の死により一家は大黒柱を失う。ユカは現在、大学4年生。就職活動は上手くいっていない。彼女にとって父親の死はおそらく「埋め切れない何か」だ。

阿部はあくまで山小屋の管理人で杉田とはそう親しくはなかったようである。

ヨシノリは、父親の知られざる部分について積極的に知りたくはないようで、再生された杉田の音声についても快くは思っておらず、たびたびテープを止めようとする。再生に積極的なのはイオリで、編集者としてテープに吹き込まれているはずの新作を探すという目的もあるが、想像された通りの関係であるため、杉田の声に対するスタンスもディスタンスもヨシノリとは正反対である。個人に対する各々の印象の異なり、また死者について想像を巡らす面白さもここには存在する。そして4人は同じ場所に集って同じ体験をしているが、世界観も見える景色も全て異なる。「憎悪」「愛着」「懐旧」「無関心」。

ヨシノリの父に対するタナトスが、偶然という形ではあるが全てを崩壊へと導いていく。
ネタバレを書いていく。
仄めかしに留まり、はっきりとは描かれないが、まずは阿部の車が土砂崩れに巻き込まれて、車内で寝ていた阿部がこの世を去る。元々、死ぬために山小屋に来ていたユカは、自殺なのか土砂崩れに巻き込まれた分からない形で他界。最後は山小屋が土砂崩れに巻き込まれて倒壊し、全ての登場人物が死者となるが、全員が自分が幽霊になったことに気づかないまま劇は終わる。ユカは肉体を抜け出した魂になっているため、左脚ももう負傷してはいない。

幽霊というものが実在するのかどうかは分からないが、事故や自殺という「天寿を全うしない」形で生涯を終えた魂は、幽霊として彷徨うことになり、自分が幽霊になったことにも気づかないと霊能者などがよく語っているのを耳にする。私は霊能者ではないので本当なのかどうかは知らないが、一昨年にTHEATRE E9 KYOTOで観たshelfの「AN UND AUS/つく、きえる」(ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒが東日本大震災を描いた戯曲の上演)でも、津波によって命を奪われるも自分が幽霊となったことに気づかない人々が登場しており、「天寿を全うしない」魂は幽霊となり、自分が幽霊になったことに気づかないという考え方は国境を越えて広く普及していることが分かる。


今日はアフタートークがあり、演出家の山口浩章がゲストとして参加する。
山口さんが、木村ユカもまた杉田の愛人(杉田の奥さんはすでに他界しているため正確にいうと愛人ではなく恋人になるようだが)に見えたという話をして、客席にもそう見えた人が何人かいたようである。戯曲のスタイルから語ると、杉田に恋人が二人いた場合は、同じ場所に同じスタイルとディスタンスの人物が二人いるということになるため、場における混乱の種類が異なって、面白さは半減するように思われる。ただのゲス野郎の恋の話になってしまうのだ(確かに山羊の英語である“goat”には「悪漢」「愚か者」の他に「スケベ爺」という意味もあるが)。田辺さんによると説明的な部分をカットしたためわかりにくくなった可能性があるかも知れないとのことだった。一応、ユカは大学4年生で、杉田と知り合ったのはおそらく未成年の時。ということで二人が男女の関係だったとすると法的(正確にいうと法ではないのだが)にも倫理的にもまずいということになる。一応、それがユカは違うという根拠として示されていたように思うのだが、最近、変なことを言う政治家が出てきた(辞職したが)ため、そうした設定がストッパーに見えなくなったのかも知れない。

ともあれ、分断は4つと捉えた方が劇として面白いように思う。

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