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2021年7月18日 (日)

観劇感想精選(404) 関西・歌舞伎を愛する会第29回「七月大歌舞伎」夜の部 「双蝶々曲輪日記」より“引窓”&「恋飛脚大和往来」より“新口村” 令和3年7月11日

2021年7月11日 道頓堀の大阪松竹座にて

午後4時30分から、道頓堀にある大阪松竹座で、関西・歌舞伎を愛する会第29回「七月大歌舞伎」夜の部、「双蝶々曲輪日記」より“引窓”と「恋飛脚大和往来」より“新口村”を観る。いずれも犯罪者に転落した息子を思う親の心情を描いた作品である。


「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」より“引窓”。舞台となっているのは、現在の京都府八幡市である。出演は、片岡仁左衛門、松本幸四郎、中村壱太郎、中村隼人、上村吉弥、片岡孝太郎。

石清水八幡宮の門前町、山城国八幡。8月15日(旧暦。ただ初演時には新暦こと太陽暦の存在は一般には知られていなかったため、旧も新もなく通常の8月15日である。今の暦より約1ヶ月遅れ。中秋の名月の日である)の石清水八幡宮の放生会(殺生を戒めるために生き物を解き放つ行事)の日に、南与兵衛(なんよへえ。片岡仁左衛門)は郡代官となり、苗字帯刀を許されて士分に上がることが決まる。新しい名は南方十次兵衛である。
そんな時に、南与兵衛の義母であるお幸(上村吉弥)と与兵衛の妻、お早(片岡孝太郎)を一人の男が訪ねてくる。大坂で相撲取りとして活躍し、大関にまで昇進した濡髪長五郎(松本幸四郎)である。実は長五郎は、お幸の実子で、5歳の時に大坂に養子に出されていた。むしろで体を隠したまま花道から現れる長五郎。見るからに訳ありな感じだが、実は大坂で人を四人も殺めてしまい、お尋ね者となっていたのだった。八幡を訪れたのも、母に別れを告げるためだった。長五郎の本音を知らない二人は長五郎を二階へと案内する。

十次兵衛となった南与兵衛が、平岡丹平(中村壱太郎)と三原伝造(中村隼人)を伴って帰ってくる。平岡は大坂で弟を、三原は同じく兄を殺害されており、下手人が共に濡髪長五郎であるということが分かった。事情を知ったお幸とお早も驚くが、十次兵衛は長五郎の人相書きを二人に渡し、昼の間の捜査は二人に任せるとして、樟葉や橋本(いずれも現在の枚方市内の地名で、国でいうと河内国に当たる)方面を探すよう勧める。
自分の仕事は夜になってからと語っていた十次兵衛が庭の手水を覗いた時、二階から下を眺めている長五郎の顔が映っていることに気づく。
だが、お早とお幸の様子から、長五郎が自身の義理の兄弟だと知った十次兵衛は意図的に長五郎を逃がす手段をそれとなく告げ……。

責任を感じ、母の手によって召し捕られることを願う長五郎と、我が子を突き出さねばならなくなった実の母親の悲哀と葛藤が描かれる。人殺しであっても我が子は我が子。そんな二人に粋な計らいをする十次兵衛であるが、主軸となるのはあくまで親子の感情である。芝居は一応、大団円(団円は本来、満月に由来する言葉である)で終わるのだが、その後のことを考えると一種の地獄の縁が描かれてるようにも思われる。

武士に上がったばかりの男を演じる仁左衛門(松嶋屋)のキリリとした演技、揺れ動く親子の心情を描く幸四郎(高麗屋)や吉弥(美吉屋)の姿など、秀逸である。


「恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)」より“新口村(にのくちむら)”。本来なら中村鴈治郎が二役で出演する予定だったのだが、休演となったため、主人公の亀屋忠兵衛とその父親である孫右衛門の二役を弟である中村扇雀が、扇雀が演じるはずだった傾城梅川を鴈治郎の子である中村壱太郎が代演することになる。

「恋飛脚大和往来」は、近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃(文楽)「冥途の飛脚」を改作した「けいせい恋飛脚」を歌舞伎化した作品(義太夫狂言)である。“新口村”は“封印切”の後のシーンで、封印切の大罪を犯した忠兵衛が、傾城(遊女)の梅川と共に生まれ故郷の新口村に帰ってくる場面が描かれている。今回の上演は、忠兵衛とその父親の孫右衛門を一人二役で演じるというのが売りである。忠兵衛と孫右衛門が一緒にいる場面があるが、小屋に入って以降の忠兵衛は吹き替えの役者が演じている。

若手を代表する女方となった壱太郎(かずたろう。成駒家)。今日もきめ細やかな仕草が冴えて、婀娜な傾城を演じてみせる。
忠兵衛と孫右衛門を扇雀(成駒家)が二役で演じることで、引き裂かれるような心情がより伝わりやすくなったように見える。一人の人間の中にある相反する二つの感情、つまり「ずっとこのままでいたい」と「早く立ち去らねばならない」を自身で纏めることが出来ぬまま渾然とした形で表現することになるのだが、截然とすることが不可能な人間の感情がそのまま舞台上に現れているように見えた。

雪の降る中での別れは、絵としての美しさと同時に、永訣となることの厳しさが伝わってくるかのようであった。

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2021年7月10日 (土)

観劇感想精選(403) 大槻能楽堂 「野村万作 萬斎 狂言会 第26回」

2021年7月1日 大阪・上町の大槻能楽堂にて観劇

午後6時30分から、大阪・上町の大槻能楽堂で、「野村万作 萬斎 狂言会 第26回」を観る。大槻能楽堂は、大阪メトロ谷町線の谷町4丁目駅と谷町6丁目駅の中間にあるのだが、今日は行きは谷町6丁目駅を、帰りは谷町4丁目駅を使った。

演目は、「呂蓮(ろれん)」(出演:野村万作、中村修一、石田淡朗)、野村万作による芸話、「寝音曲(ねおんぎょく)」(出演:野村萬斎、内藤連)。

開場直前に大槻能楽堂付近は雨が落ち始める。野村萬斎は雨男として知られているが、彼らしい降り方だ。もっとも、私が野村萬斎の公演を観に行った時に雨が降ったのは今日で2度目なので、それほど酷い雨男というわけでもないように思われる。


「呂蓮」は、和泉流と大蔵流とでは結末が異なる演目として知られている。東日本を回った旅の僧(野村万作)が、今度は西日本を巡ろうと思い立つが、妻子も宿もなき流浪の身ゆえ、まずは今夜の宿を請う。対応した宿主(中村修一)は、仏道の旅の話を聞き、極楽往生の絶対を知って、自分も出家したいと願い出る。僧は、「出家しなくても往生に変わりはない」と止めようとするが、宿主は、心がけが異なるだろうからと決意を示す。奥さんに相談してからではどうかと僧は提案するのだが、宿主は、「いつ僧になる気か」と奥さんに聞かれたこともあり、話はついていると語る。そこで僧侶は宿主の剃髪を行う。
宿主は今度は、「法名が欲しい」と願い出る。宿主の名前は「修一」で、出演者が本名を名乗る設定のようである。僧は「良い名だからそのままで」と言うのだが、宿主はそれらしい法名が欲しいと引かない。僧は「いろは歌」を携えていたため、それにちなむ名前を付けようとする。宿主は、「蓮(はちす)」の字を入れて欲しいと頼む。そこで僧は「い蓮」ではどうかと提案するが宿主は気に入らない。「もっと長い名が良い」というので、僧は「ちりぬるを蓮」と名付けるが今度は長すぎる。「い蓮で駄目なら、ろ蓮も駄目だろう」と思い込んでいた僧だが、宿主は「ろ蓮」を気に入り、「呂蓮坊」と名乗ることが決まった。そこへ奥さん(石田淡朗)が現れるのだが、これがなんとも怖ろしい人で……。

出家をするというので厭世的な意図を宿すともされる演目だが、今日観た限りではそんな印象は受けず、愛し合っている夫婦の家に上がり込んでしまった僧の失敗談と受け取れる。僧と夫婦とはそもそもが別世界を生きる人々なのだが、僧がそれを見抜けなかったことで起こる滑稽さと寂しさが胸に残る。


野村万作による芸話。「猿に始まって狐に終わる」という言葉があるそうなのだが、これは野村万作の家だけに伝わる言葉で、万作の父親(六世野村万蔵)以外は記していないそうである。
万作の家では、「靫猿(うつぼざる)」で初舞台を踏み、「しびり(痺れのこと)」などを経て、「大学の卒業論文的なもの」として「釣狐」を演じるそうである。

初舞台を「靫猿」で踏むというのはやはり難しいようで、万作は兄の野村萬と二人で「靭猿」を演じることになったのだが、兄が病気になるなど上手くいかなかったそうである。その他にも、猿役の子どもが泣き叫んで開演が20分遅れた、子ども(この時は狂言の家ではなく一般家庭の子どもが抜擢されたようである)が出演を拒否して、結局、別の演目を上演することになった、子どもの勢いが良すぎて舞台から落ちてしまったなどの失敗談があるそうだ。

万作は、伝統芸能の家に生まれた者の常として、幼い頃から稽古を付けられている。幼稚園から小学校1年生の途中ぐらいまでは祖父に教わっており、祖父はやはり孫は可愛いということで優しく教えてくれたそうで、稽古の終わりにご褒美までくれたそうである。その後は父親に就いたのだが、父親は、「早くものにしないと」ということで稽古はかなり厳しかったそうだ。小学校から帰ると、ランドセルを放り出して友達と遊びに、それも父親に見つからないような場所へと出掛けたのだが、父親が探しに来て、耳を引っ張られて連れ戻され、稽古が始まったそうである。当然ながら、当時は稽古が嫌で仕方なかったそうだ。

中学校2年生の時に終戦を迎えるのだが、その前年に空襲によって万作の実家は焼失。父親も意気消沈して、「こんなことで息子達に狂言を続けさせていいものか」という心根をインタビューで語って、関係者や記者達に、「そんなことで狂言の家が絶えては困る」と苦言を呈されたという。ただ、そうした出来事があったことで万作も、「狂言師として生きていく」という決意を逆に固めたそうだ。早稲田大学入学後には、歌舞伎や現代劇など他のジャンルの演劇を観に出掛けては研究し、狂言サークルを立ち上げて、同じ学生に指導も行うなど、狂言にのめり込んでいくことになる。

変わって、落語の話。万作は、六代目三遊亭圓生が好きで、3日ほど前からは彼の書いたものを読んでいるそうである。圓生は、「日本語は語尾までしっかり語るべき」という信念を持っており、これは狂言にも共通するものだという。
私の演技の師は、観世榮夫なのだが、観世も「日本語は言葉の末尾に重要な意味が来るから、最後までしっかり発音するように」と指導していた。
圓生は、子どもの頃は義太夫をやっており、歌も上手く、また狂言なども好きで、高座に上がる時に、「やるまいぞやるまいぞ」と言いながら登場したという話もあるそうだ。
万作は上方の落語家では米朝も好きだそうだが、米朝も茂山千之丞と親しく、狂言にも造詣が深かったという話をしていた。


「寝音曲」。昨夜、主(内藤連)が宴の前を通り過ぎた時に、太郎冠者(野村萬斎)が良い声で謡うのを聞き、「目の前で謡わせよう」と太郎冠者を呼ぶのだが、太郎冠者は、「面倒なことになる」と悟り、「酒を飲まないと謡えない」「妻の膝枕の上でないと声が出ない」と言って断る。主は太郎冠者に謡わせるために酒を用意し、自分の膝枕の上で謡うよう命じる。不承不承謡い始める太郎冠者であったが……。

萬斎の「声の出ないふり」の演技の滑稽さが笑いどころであるが、そうしたふざけた態度としっかりとした美声で歌われる謡や興に乗って繰り出す舞の技術の確かさとの落差が激しく、技量のある狂言方でないと出来ない演目であることが察せられた。

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2021年7月 4日 (日)

コンサートの記(727) 京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」

2021年6月20日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、京都市交響楽団×藤野可織 オーケストラストーリーコンサート「ねむらないひめたち」を聴く。

緊急事態宣言発出のため、4月25日から5月31日まで臨時休館していたロームシアター京都。今日の公演が再スタートとなる。

京都市出身の芥川賞受賞作家である藤野可織と京都市交響楽団によるコラボレーション。藤野の新作小説の朗読と、パリゆかりの作曲家の作品による新たな表現が模索される。指揮は三ツ橋敬子。

朗読を担当するのはAKB48出身の川栄李奈であるが、企画発表時には出演者はまだ決まっておらず、しばらく経ってから川栄の出演が公にされた。

演奏曲目は、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第1曲〈プレリュード〉、ストラヴィンスキーのバレエ組曲「カルタ遊び」より抜粋、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈夜への前奏曲〉、シベリウスの「悲しきワルツ」、ラヴェルの組曲「クープランの墓」より第2曲〈フォルラーヌ〉、サティ作曲ドビュッシー編曲の「ジムノペディ」第2番(表記の揺れのある楽曲で、ここではピアノ版のジムノペディ第1番のオーケストラ用編曲を指す)、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」より〈マラゲーニャ〉、ドビュッシーの「夜想曲」より〈雲〉、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。シベリウスを除いて、パリゆかりの作曲家の作品が並んでいる。


藤野可織は、1980年、京都市生まれの小説家。同志社大学文学部卒業、同大学大学院美学および芸術学専攻博士課程前期修了とずっと京都市で生きてきた人である。大学院修了後は、京都市内にある出版社でのアルバイトをこなしながら小説の執筆を開始。2006年に「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞し、2013年には「爪と目」で第149回芥川賞を受賞。2014年には『おはなしして子ちゃん』で第2回フラウ文芸大賞を受賞している。
藤野は、今回の企画を持ちかけられてから、初めてロームシアター京都メインホールを訪れたそうで、4階席から舞台を見下ろした時に作品の構想を得たようである。


今日の京都市交響楽団のコンサートマスターは、特別客演コンサートマスターの会田莉凡(りぼん)。泉原隆志は降り番で、フォアシュピーラーに尾﨑平。シベリウスの「悲しきワルツ」演奏後に20分の休憩が入るが、出演者は見た限りでは前半後半ともに変わらない。首席クラリネット奏者の小谷口直子は今日は降り番。他の管楽器パートは首席奏者がほぼ顔を揃えている。

藤野可織の「ねむらないひめたち」は、9歳の少女を主人公とした作品で、新型コロナウイルス流行に絡めた「昏睡病」がまん延する近未来の話である。近未来ではスマートフォンではなくスマート眼鏡というもので情報をやり取りするようになっており、パソコンはまだ用いられているが、キーボードはバーチャルのものに置き換わっているようである。
なお、「ねむらないひめたち」のテキストは、「新潮」7月号に掲載されている。「新潮」7月号には野田秀樹の新作戯曲「フェイクスピア」も載ってるため、舞台芸術好きにはお薦めであるが、野田秀樹の戯曲は多くの場合、上演よりもテキストの方が勝ってしまうため、観る予定のある方は、舞台を鑑賞後にテキストを読むことを勧めたい。

上演前にまず藤野可織が登場して挨拶を行い、この作品が朗読とオーケストラが奏でる音楽とが一体となったものであるため、曲ごとの拍手はご遠慮頂きたい旨を述べる。京都市の生まれ育ちということで、柔らかな京言葉で話し、雅やかな印象を受ける。おそらくこうした話し方や雰囲気を「はんなり」と言うのだと思われる。

京都市交響楽団に客演する機会も多い三ツ橋敬子。バトンテクニックの高い非常に器用な指揮者だが、今に至るまでオーケストラのポストは得られないでいる。平均点の高いタイプながら、何が得意なのか分からない指揮者でもあったが、これまで聴いた限りでは、現代音楽、モーツァルトなどで好演を示しており、フランスものも合っているようである。

朗読担当の川栄李奈。AKB48在籍中は、お勉強が不得意なお馬鹿キャラとして知られたが、握手会で襲撃されて負傷。トラウマにより「握手会にはもう出られない」としてAKBを卒業した。その直後から本格的な女優活動に入るが、CMや映画、テレビドラマなどで、「あのお馬鹿キャラの川栄」とは思えないほどの才気煥発ぶりを発揮。上り調子の時にできちゃった結婚で休業に入ってしまい、「ああ、やっぱり」と思わせたりもしたが、復帰後も活躍はめざましく、大河ドラマ「青天を衝け」に一橋慶喜正室の美賀君役で出演し、怪演を展開中。次期NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」のヒロインの一人を演じることも決まっている。女優は天職なのだろう。
声優としても活動しており、映画「きみと、波にのれたら」では主演声優を務めている。

舞台後方にスクリーンがあり、三好愛のイラストと、藤野可織の「ねむらないひめたち」のテキストが映し出される。

主人公の「あたし」は、タワーマンションの37階に住んでいる。年齢は9歳で、今年13歳になる姉がいる。
姉妹が両親と住むマンションの部屋にはバルコニーがあるのだが、バルコニーにはいつも嵐のような強風が吹き荒れており、母親は、「嵐はすごく危険」「だからバルコニーには出ちゃいけません」と言う。だが、姉妹は学校から帰るとバルコニーに出て、姉は双眼鏡で外を覗き、妹のあたしは機関銃タイプの水鉄砲で姉が指示した人物に向かって狙撃を行った。「射殺」したのだが、当然ながら水鉄砲で人は殺せない。殺し屋ごっこである。マンションの周りには様々なタイプの人がいたが、スパイだの異星人だの、不思議な人々もいる。もっとも、これは姉の見立てによるもので、実際にスパイや異星人がいた訳ではないと思われる。

そうしているうちに、人々が昏睡状態になるという謎の病が流行し、人々は感染を避けるため外出せずに家に籠もるようになる。姉妹が通う学校も休校になり、両親もリモートワークでいつも家にいるようになる。両親は姉妹に好きなだけ映画を観ることを許可し、姉妹は、暗殺者ものの映画を観まくるようになる。だが、予想に反して暗殺者達の仕事そのものよりもロマンスに焦点を当てた作品が多いことに気づく。
やがて両親が昏睡病に感染。砂色の飴で覆われたようにコチコチに固まってしまう。
あたしは、新たにアカウントを開設。「ソラコ」という名で自撮りの写真などを載せたが、誤って住所も見えるように載せてしまったため、奇妙な男達が何人も「君を助けたい」と言ってタワーマンションの下までやって来るようになる。姉妹は、カップアンドソーサーのカップやジャムの瓶などをバルコニーから落とすことで彼らを次々に殺していき……。


選ばれた楽曲を見ると、「死」に直結するイメージをもった作品が多いことに気づく。
射殺ごっこが、本物の殺人へと変わり、映画で観るような暗殺者の恋愛の代わりに、異様な人々の来訪があるという展開が高度に情報化された現実社会の不気味さを表しているかのようである。
やがて舞台はコンサートホールの4階席へと移り、未来への希望と不信がない交ぜになったまま再び殺し屋としての社会との対峙が始まる。

設定が近未来ということで、不思議な話が展開されるが、外部の危機的状況とそんな中でもネット上や現実社会で繰り広げられる不穏さが描かれている。そんな中で未来の夢や漠然とした期待に浸ることなく目の前を見つめ続けること、今を生き続けることと、引いては小説を書くことの意義が仄かに浮かび上がる。


川栄李奈の朗読であるが、予想よりも遙かに上手い。地の文とセリフの使い分け、感情の描き分け、抑揚やメリハリの付け方などが巧みで、声自体も美しい。女優の朗読に接する機会は多くはないながらもあるが、少なくともこれまでに聴いた二十代の女優の中ではトップだと思われる。全身が表現力に満ちあふれており、表現者としてのエネルギーやパワーの総体が同世代の他の女優よりも大きいことが察せられる。やはりこの人は女優が天職なのであろう。

三ツ橋敬子指揮する京都市交響楽団も煌びやかな演奏を展開。ドビュッシーやラヴェルの音楽ということで、浮遊感や典雅さの表現が重要になるが、これも十分にクリアしている。後は奥行きだが、これは更に年齢を重ねないと表出は難しいようにも感じる。


本編終了後にアフタートークがある。司会は、京都市交響楽団からロームシアター京都の音楽事業担当部長に異動になった柴田智靖。三ツ橋敬子、藤野可織、川栄李奈、会田莉凡の女性4人が参加する。

曲目は、ロームシアター京都から提案されたものが中心だったようだが、三ツ橋敬子は、普段余りフランス音楽を演奏しない京都市交響楽団で、元々別の物語性を持つ音楽を奏でることの難しさを語った。ちなみにリハーサル時と本番とではオーケストラの色彩が大きく異なっていたため驚いたそうである。

藤野可織は、小説家の仕事は自己完結であるが、こうしてオーケストラとのコラボレーションという協働作業の機会を得られたことへの面白さを語る。ちなみに司会の柴田は、表現したかったことを藤野に聞いていたが、「それを小説家に聞いちゃ駄目でしょ」と思う。

川栄李奈は朗読で緊張したことを語り、手の汗でページがめくれないんじゃないかとヒヤヒヤしたことを打ち明ける。また、個人的に京都の街が大好きだそうで、お土産をいっぱい買って帰りたいと笑顔で話していた。

会田莉凡も、京都市交響楽団でフランス音楽の演奏を行う難しさと新型コロナ流行下での演奏活動の困難さを語り、更には京都市交響楽団の活動の宣伝も忘れなかった。

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2021年6月27日 (日)

観劇感想精選(402) 市川海老蔵企画公演「いぶき、」@南座

2021年6月19日 京都四條南座にて観劇

午後4時から、京都四條南座で、市川海老蔵企画公演「いぶき、」を観る。といっても海老蔵が出る公演ではなく、コロナ禍によって若手歌舞伎俳優が舞台に立つ機会が激減してしまったことを憂いた海老蔵が企画した公演である。南座ではついこの間まで海老蔵主催の公演が行われており、「いぶき、」に出演する若手歌舞伎俳優達も帯同して、海老蔵の公演が終わった後の南座の舞台上で稽古をさせて貰っていたという。
タイトルの「いぶき、」の「、」には、「次に続くこと」、「歌舞伎の未来への継承」の意味が込められているという。

まず市川九團次による挨拶と作品解説があり、続いて「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」より“願絲縁苧環(ねがいのいとえにしのおだまき)”と“三笠山御殿”、そして「乗合船恵方万歳(のりあいぶねえほうまんざい)」が上演される。

九團次さんとは知り合いの知り合い、もしくは友人の友人という関係で、一度、バーで話したことがある。九團次さんが出演していた舞台「Honganji」のことを話したり、私は市川染五郎(現・二代目松本白鸚)の「野バラ咲く路」が歌えるのでうたってみたりした。


市川九團次の挨拶と作品解説。「妹背山婦女庭訓」の上演される段に至るまでのあらすじや人物紹介などを行い、全員が初役であることを告げる。

 

「妹背山婦女庭訓」は、飛鳥時代を舞台にした作品であるが、歌舞伎の演目の常として事実からは少し離れている。背景にあるのは藤原氏と蘇我氏の対立である。

私が子どもの頃には、645年に蘇我蝦夷を暗殺して成し遂げられたのが「大化の改新」と教わったが、今は蘇我入鹿暗殺は「乙巳の変」と呼ばれ、その後の「大化の改新」とは離して教えられるようである。
それはともかくとして、飛鳥時代に隆盛を極めた蘇我氏と、それを快く思っていなかった中臣氏(後に政に携わるようになった血統は藤原氏を名乗るようになる)の対立という史実がベースにある。ただ、蘇我入鹿が登場するのは史実とは異なり、天智天皇の時代ということになっている。

蘇我蝦夷は蘇我馬子の孫であるが、「妹背山婦女庭訓」では妖術を使う悪漢として登場する。蘇我入鹿の父親が蘇我蝦夷というのは史実通りであるが、蝦夷に子が出来ず、妻に白鹿の生き血を飲ませたところ子を宿し、超人的な能力を持つ入鹿が生まれたということになっている。入鹿の名もこの怪談由来とされている。実際には、祖父が馬子で孫が入鹿という名であることから察せられるように、飛鳥時代には動物の名を子どもに付けることが流行っていたのである。動物の名を付けることは、幕末の土佐でも流行り、坂本龍馬直柔(なおなり)の通称である龍馬も流行りに乗ったものである。キラキラネームというものがあることからも分かる通り、日本は命名が比較的自由な国なので、命名の流行りというものも存在する。

超人・蘇我入鹿を倒すためには、爪黒の鹿の生き血と疑着(執着、嫉妬)の相の女の生き血を混ぜたものを笛に入れて吹くという方法しかないので、疑着の相の女を探す、という話の骨子がある。

なお、史実では蘇我入鹿の時代の都は飛鳥に存在したが、「妹背山婦女庭訓」では、都が平城京に置かれていた時代に変更され、藤原氏の氏神で、この頃にはまだ存在していない春日大社が舞台になっていたりするが、全ては芝居の嘘であり、歴史考証的な事柄は大して意味がない。ただ由来については適宜解説していく。

まず鹿の話であるが、入鹿という名と、鹿が春日大社のお使いであるということに由来している。

 

“願絲縁苧環”(道行戀苧環)に登場するのは、入鹿の妹である橘姫(モデルは県犬養橘三千代であるが、彼女は実際には蘇我氏の娘ではない。演じるのは中村芝のぶ)、烏帽子折求女(もとめ)実は藤原淡海(たんかい。モデルは藤原不比等で、不比等の国風諡号である「淡海公」に由来。演じるのは大谷廣松)、杉酒屋娘のお三輪(中村児太郎)の3人である。

春日大社の鳥居前が舞台である(原作の人形浄瑠璃では、石上神宮の鳥居前となっている)。蘇我氏と藤原氏は対立しているが、橘姫と藤原淡海は互いの素性を知らずに恋仲になっている。一方、藤原淡海にはもう一人、男女の契りを結んだ相手がいる。杉酒屋の娘であるお三輪である。藤原淡海は烏帽子折職人の求女を名乗っていたため、お三輪は彼の正体が藤原氏の貴公子であり、身分違いの恋であるということを知らない。そのため、橘姫のことを責め始める。
険悪な雰囲気となったため、橘姫はその場を去るのだが、求女は橘姫の振袖に赤い苧環(おだまき)の糸を結びつけ、その糸を頼りに跡を追う。お三輪も求女の着物に白い苧環の糸を結びつけ、同じく跡を追おうとするのだが、白い糸は切れてしまう。

大和国が舞台ということで、大和ゆかりの様々な伝承が盛り込まれている。
まず、苧環でありが、これは大和・吉野で義経と別れた静御前の謡「しずやしず しずの苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」が元ネタである。この謡には更に元ネタとなる本歌があり、『伊勢物語』に載っている在原業平の歌「いにしへの倭文(しず)の苧環繰り返し 昔を今になすよしもがな」がそれである。苧環とは糸車(糸巻き)のことで、輪廻をも連想させる「繰り返し」に掛かる言葉であるが、同時に「糸し糸し」ということで「恋し恋し(戀し戀し)」にも繋がっている。
また、着物に糸を付けて、相手の行方をたどるというのは、「三輪山伝説」に由来する。お三輪という名なのはそのためである。

二組の悲恋の男女が登場し、「日本版ロミオとジュリエット」とも呼ばれる「妹背山婦女庭訓」。そのため、お三輪の憂いの表現が重要になるのだが、中村児太郎はきめ細やかな演技を披露。十分に合格点に達している。苧環の糸が切れたことを知った時の絶望の表情などは見事であった。

 

“三笠山御殿”。蘇我氏の館があったのは、飛鳥の甘樫丘であるが、舞台が平城京になっているため、三笠山(春日山)に変わっている。

橘姫が三笠山御殿に戻り、続いて苧環の糸をたどって求女(藤原淡海)が御殿に入ってくる。三笠御殿に戻ったことで橘姫が蘇我氏の娘であること悟った求女は、橘姫に「入鹿が盗んだ十握の剣を取り戻したら祝言を挙げよう」と約束する。

苧環の糸が切れてしまったお三輪だが、なんとか自力で三笠山御殿にたどり着く。そして、偶然出会った顔馴染みの豆腐買おむら(市川新蔵)から求女の正体と、二人が祝言を挙げようとしていることを明かされる。

自らを「賤(しず。ここでも静御前の謡が掛かっている)の女」と語るお三輪には、到底叶わぬ恋であるのだが、それでも一目求女に会いたいと屋敷に上がったところを、現れた女官達に散々になぶり者にされる。お三輪を一目で庶民と悟った女官達は、「到底無理」と分かっていながらお三輪に貴族階級の礼儀作法を真似るよう強要し、徹底していじめまくる。

かなり嫌な印象を受けるシーンであるが、これが漁師鱶七(ふかしち。正体は藤原鎌足の家来である金輪五郎今国。演じるのは市川九團次)に刀で胸を刺し貫かれてもお三輪が喜ぶ伏線となっている。身分違いを乗り越えても、お三輪にはいじめが待っているだけ、ならば疑着の相の女として生き血を入鹿追討に使われた方が求女こと藤原淡海のためとなる。犠牲の美しさへと繋がるのである。
お三輪は輪廻の苧環を手に、来世で求女こと淡海と夫婦になることを夢見ながら息絶える。

“三笠山御殿”でも中村児太郎の繊細な演技が見物で、初役とは思えないほどの好演となっていた。



「乗合船恵方万歳」。江戸の隅田川沿いが舞台である。ということで、常磐津節の浄瑠璃の太夫も『伊勢物語』に掛けた「都鳥」という言葉を歌う。

隅田川を渡り、岸に漕ぎ着けた船。女船頭(中村児太郎)以下、田舎侍(市川新蔵)、芸者(中村芝のぶ)、通人(市川新十郎)、白酒売(市川右若)、大工(市川升三郎)、子守(市川福太郎)の計7名は、数からも分かる通り、七福神に見立てられている。そこに三河萬歳の鶴太夫(市川九團次)と才造の亀吉(大谷廣松)が現れ、全員が芸を披露することになるという、華やかな演目である。

ストーリーらしいストーリーはない歌舞伎舞踊の演目であるが、皆、洒脱な感じもよく出ており、若々しさに溢れる上演となっていた。

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2021年6月13日 (日)

NHKプレミアムシアター「プライド」 2011.2.6

2011年2月6日視聴

録画しておいた、NHKプレミアムシアター「プライド」を観る。一条ゆかりの少女マンガを、大石静の脚本で舞台化。演出は寺﨑秀臣。音楽:佐橋俊彦。
笹本玲奈、新妻聖子、佐々木喜英、鈴木一真による四人芝居である。2010年12月、東京のシアター・クリエでの収録。

笹本玲奈、新妻聖子という、若手を代表するミュージカル俳優を起用しているだけに歌は抜群。オリジナルの音楽やオペラの曲以外にも、THE BOOMの「島唄」、エディット・ピアフの「愛の賛歌」、童謡「故郷」、ドヴォルザークの歌曲「我が母の教え給いし歌」などが歌われていて、いずれも効果的である。


売れっ子ソプラノ歌手だった母を持つサラブレットで、三田音楽大学生の麻見史緒(笹本玲奈)と、実家が貧しく苦学しながら立川音楽大学に通う緑川萌(新妻聖子)はオペラ・コンクールの決勝で争うことに。本番直前、ドレスが切れていることに気付く萌。史緒はドレスを貸そうかと提案するが、萌は反発。ついでに史緒の母親が史緒をかばって交通事故で亡くなったことを告げる。そのことを初めて知った史緒は本番で声が出ず、優勝は萌に輝く。

オペラのコンサートの主催者であるクィーン・レコードの副社長である神野隆(鈴木一真)は優勝の特典であるミラノ留学を獲得した萌を祝福する一方で、史緒には将来自分と結婚することを前提にウィーン留学を持ちかける。

一方、史緒の伴奏ピアニストである池之端蘭丸(佐々木喜英)は、史緒と萌と三人でポピュラーソングを歌うことを思いついていた。

優勝した萌だが、お金はなく、大学の学費も払えていないという状態。そこで萌は神野にバー「プリマドンナ」で相談。神野は「プリマドンナ」の歌い手が先月辞めたので、ここのシンガーになればいいと提案。「プリマドンナ」で女装してピアニストをやっている蘭丸の伴奏で、「島唄」を歌う。神野は採用は間違いなしというが、実は史緒が「プリマドンナ」の歌い手として入っていて……


少女マンガが原作だけに、セリフなどはかなりクサイが、そこは大石静の脚本だけにしっかりとした構造の作品を提供してくれる。ドロドロとした女の情念と、歌っている時の心の通い合いの描写は見事だ。演じ手達も大袈裟にならない程度に力の籠もった演技を見せていて、上質のエンターテインメントに仕上がっている。

笹本玲奈のさらりとした甘い声と、新妻聖子の芯のある凜とした歌声の対比が見事な二重唱は特に聴き物である。

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2021年6月 3日 (木)

観劇感想精選(399) 井上芳雄主演 ミュージカル「ハムレット」

2012年2月27日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後1時から、梅田芸術劇場シアタードラマシティで、ミュージカル「ハムレット」を観る。原作:ウィリアム・シェイクスピア、脚本・作曲・作詞:ヤネック・レデツキー、演出:栗山民也。出演は、井上芳雄、昆夏美、伊礼彼方、成河(ソン・ハ)、阿部裕、山路和弘、涼風真世、村井国男ほか。

ストレートプレーだと上演時間3時間を超える大作である「ハムレット」を2時間に短縮してミュージカル化したもの。

開演前、舞台上にはデンマークの国旗が下4分の1ほどが何かに被さる形で垂れている。

上演開始、先王ハムレットの葬儀のシーンから始まり、デンマークの国旗が被さっていたものが、先王の棺であることがわかる。ハムレット(井上芳雄)は棺が運ばれていく様を憂鬱な表情で見つめている。

舞台は一転して、オフィーリア(昆夏美)が明るい表情で登場。ハムレットからの恋文を読み上げて浮き浮きしている。

そしてクローディアス(村井国男)とガートルード(涼風真世)の婚儀のシーンとなり、皆は愛の美しさを歌い上げるが、ハムレットは「愛は全てを駄目にする」と語る。

その後、ハムレットがガートルードに向かって言う「弱き者、汝の名は女」、そしてポローニアスがハムレットのことを「He is crasy」だと歌い上げるナンバー(このナンバーは同じ旋律でハムレットによる「Who is crasy」としてポローニアス殺害後に歌われる)を挟んで、ハムレットがオフィーリアに向かって放つ「尼寺へ行け!」のセリフが出てくる。

なお、有名な「To be,or not to be」は日本語に訳されることなく、英語のまま、後半の冒頭の歌詞に登場する。

役者では井上芳雄が抜群の出来。動きにキレがあるし、歌声も、特に高音の伸びが素晴らしい。オフィーリアを演じた昆夏美も小柄な体型からは想像出来ないほどパワフルな歌声を発し、後半の狂気の場面での演技力も高い。

ただ、ミュージカルとしてはまずまずの出来であったが、「ハムレット」としてはやや不満が残る。カットした部分が多いため、心理描写が今一つで、あらすじを追っているだけに思える場面もあった。また追加された場面もさして効果的とは思えなかった。音楽や俳優は充実していただけにそれが残念である。

栗山民也の演出は、ラストでデンマークの国旗が十字架に見えるという仕掛けがなかなか良かったように思う。


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2021年5月18日 (火)

観劇感想精選(397) 野田秀樹作 熊林弘高演出 「パンドラの鐘」2021@兵庫県立芸術文化センター

2021年5月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「パンドラの鐘」を観る。今でも野田秀樹の代表作の一つに挙げられる名戯曲の上演である。演出は熊林弘高。出演:門脇麦、金子大地、松尾諭(まつお・さとる)、柾木玲弥(まさき・れいや)、木山廉彬(きやま・ゆきあき)、長南洸生(ちょうなん・こうき)、八条院蔵人、松下優也、緒川たまき。比較的若い俳優がキャスティングされているが、名前を見ただけで若い世代の人が多いということが分かる(芸名の人も勿論いる。意図されたのかどうかはわからないが、門脇麦と緒川たまきの名前と役のイメージがひっくりかえっているのも面白い)。声の出演:野田秀樹。野田秀樹が芸術監督を務める東京芸術劇場の制作で、野田秀樹本人が許可を出した新演出版での上演となる。
今回の新演出では、ラスト付近が改変されているのが最大の特徴である。

1999年の暮れに初演された「パンドラの鐘」。同一の戯曲を野田秀樹の自作自演と蜷川幸雄演出の2バージョンでほぼ同時期に上演されたことで話題を呼んだ。野田秀樹演出版は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、蜷川幸雄演出版は渋谷の東急Bunkamuraシアター・コクーンで上演されている。「シアターガイド」などの演劇専門誌や、「ぴあ」などの情報誌にも野田秀樹や蜷川幸雄のインタービューが載り、野田秀樹は「あっちは渋谷でこっちは三軒茶屋。その時点で負けている」言っていたり、蜷川幸雄がこれまでの野田の演出を評して、「あいつは綺麗にやり過ぎる。だから駄目なんだ」と口撃していたりと、言動でも盛り上がっていた。
すぐそこに迫った2000年は「ミレニアム」という名称を新たに与えられており、華やいだ雰囲気がまだあった。

「パンドラの鐘」とは、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」と広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」(鐘を説明する「鐘に童」の「童」である)、長崎の鐘などのイメージを重ねたものであり、「戦争責任」という重いテーマを扱った作品である。夢の遊眠社時代は、今聴くと面映ゆくなるほど詩的な言葉選びと、掛詞などを中心とした言葉遊び、古典的な作品からの引用などをちりばめて、イメージの世界を拡大した野田秀樹だが、イギリス留学をきっかけに社会的なテーマを題材に選ぶようになっており、戦争、天皇制、差別、貧困、暴力、アウトローなどを独自の筆致で描くようになる。
昭和天皇の戦争責任というきわどい問題に触れながら、当時の右翼に絶賛されたことでも話題になった。

実際のところは、私は世田谷パブリックシアターにもシアターコクーンにも行けなかったのだが(当時はまだインターネットが十分に発達しておらず、チケットの購入は電話か店頭のみで、人気公演のチケットを手に入れるのはかなり難しかった)、共に収録されたものがNHKBSで放送されており、比較が可能になった。
アクションと見立て重視の軽妙な野田演出に対して、蜷川幸雄の演出はあたかもシェイクスピア作品に挑むかのような重厚なものであった。蜷川がシェイクスピア作品のような演出を行ったのには訳があり、「パンドラの鐘」ではシェイクスピアの「ハムレット」が重要なモチーフとして使用されているのである。題材とされているのは他に、「古事記」などに描かれる日本の神話、邪馬台国などの古代国家、大正天皇知的障害者説、二・二六事件、統帥権問題、長崎原爆、長崎を舞台としたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」などである。
1936年の長崎と、古代の長崎にあった王国とが交互に描かれるのが最大の特徴。

野田版でも蜷川版でも一人二役はあったが、今回の熊林版ではそれがかなり徹底されており、タマキとヒメ女を門脇麦が、オズとミズヲを金子大地が、カナクギ教授と狂王を松尾諭が、イマイチと古代の未来の参謀を柾木玲弥が、ピンカートン未亡人とヒイバアを緒川たまきが演じており、過去と未来とが一対(生まれ変わりに相当する可能性を残す)になるよう工夫されていて、「歴史は繰り返す」の構図が見やすくなっている。ちなみに野田秀樹演出版では、野田秀樹がヒイバアを演じており、先王の葬儀の演出をしたヒイバアにミズヲが「つまらない演出」と難癖を付けて、ヒイバアを演じる野田秀樹が「この私が演出した葬式がつまらないっていうの?!」と怒るセリフで爆笑の嵐が起こっていた。ただ蜷川版でも熊林版でもそれは特に意味のないセリフとなっている。なお今回はヒイバアにアラフィフとはいえバアと呼ぶにはまだ若い緒川たまきをキャスティングしたことで、ハンニバル(松下優也)とヒイバアが男女の関係であるという演出が出来るようになっている。

1936年、国をひっくりかえそうとした二・二六事件が起こる直前のこととして物語は始まる。長崎の遺跡発掘現場で、オズ(「オズの魔法使い」に登場する島国、オズ王国が由来か)とカナクギ教授が「ひっくりかえった古代の舟」のようなものとそのそばにあった釘や人骨などを発見する。それが邪馬台国とは異なる、ヒメ女(ひめじょ)という女王を頂く古代国家発見の可能性へと繋がるのだが、カナクギ教授は教授の肩書きを得ているものの、自分の意見や考えといったものは持っておらず、ほぼ全て他人のものを剽窃して上り詰めてきた男である。今回も助手であるオズの意見を悉くパクリ、オズの恋人まで奪い、論文もオズが書いたものを自身とタマキの共著であるとして発表する。
そういうことを許してしまうオズというのが、実に鈍い男であり、恋人であるはずのタマキがカナクギ教授と関係を持ったことを仄めかしても何一つ気がつかない。古代に向かう想像力は豊かだが、目の前のことは何も見えていないのである。
だが、オズが書き、カナクギ教授が発表しようとした説は、古代から来たハンニバルによって阻止される。今、国のために犠牲になった王がいたということが明らかになれば、国体が保てない。

ヒメ女は14歳で即位。この14歳というのが実は重要である。シェイクスピア劇に登場するオフィーリアやコーディリアといった有名ヒロインが14歳前後という設定なのである。シェイクスピア劇にはあと2週間で14歳の誕生日を迎える13歳のジュリエットなど、他にも年齢の近いヒロインが何人か登場する。当時の結婚適齢期がこれぐらいの年齢ということもあるが、シェイクスピアの時代には男性しか舞台に上がることが出来なかったため、ヒロインは少年が演じたのだが、少年が演じてそれっぽく見えるのは声変わりを迎える前の14歳前後が限界だったという事情もあったようである。同じような年齢のヒロインが多いのはそのためだ。ヒメ女は「柳の下で」で始まる幽霊とのダブルミーニングの象徴的なセリフで自身のモチーフがオフィーリアであることをさりげなく知らせる。

今回の演出では即位したばかりのヒメ女がハンニバルやヒイバアの操り人形(傀儡)であることが強調されている。実はここに新しい解釈を入れる余地があると思うのだが、今のところそうした解釈を分かるように入れた演出は存在していないようである。

最初は言われるがままだったヒメ女であるが次第に自立していき、ハンニバルとヒイバアもヒメ女を怖れるようになる。ちなみにヒイバアがヒメ女の性格を「ちょっと言い過ぎ」と言いつつ絶賛する場面があるが、これもオフィーリアがハムレットの資質を讃える場面のパロディーであると思われる。

「ハムレット」では、主人公のハムレットが佯狂を演じる場面が有名だが、「パンドラの鐘」ではこのパロディーがヒメ女の兄である先王が狂ったという設定で登場する。狂ったということを民衆に悟られないために先王はハンニバルとヒイバアによって幽閉される。公には先王は死んだということにされ、葬儀が行われ、ミズヲら墓掘り人達(「ハムレット」にも墓掘り人達による有名な場面がある)によって埋葬されることになるのだが、棺桶の中に入っていたのは実は猫の死体であった。
口封じのために生き埋めにされるはずだったミズヲ達だが、ミズヲの挑発にヒメ女が乗ったことで生きながらえる。ミズヲは生きている人間よりも死体の方がよっぽど人間らしいと考えおり、また死んだ人間が化けて出てきたら再会したことを喜ぶべきだと説く(幽霊に関するセリフは、先王ハムレットの幽霊登場の場面を踏まえていると思われる)。
ヒメ女の王国は、デンマークを含むスカンジナビアの国家のように海賊(ヴァイキング)行為を行うことで国力を付けてきた。ヒメ女の王国があった長崎の地下からは世界中から集められた様々な遺物が見つかり、博物館のようになっている。このあたりは、カナクギ教授の人物像、引いては野田秀樹自身の作風へのカリカチュアとなっているようにも思われる。
その海賊行為によって、オズとカナクギ教授が発見するようになる「ひっくり返った船のようなもの」もミズヲによって長崎へと運ばれていた。ヒメ女の王国の人々もその正体が分からず、パンドラという都市の辺りで見つけたものだが、これは「なにかね?」ということでパンドラの鐘と名付けることにする。
実はヒメ女の王国は見えない敵と戦争中なのだが、最近では連戦連敗。ハンニバルとヒイバアはそれを隠すため、偽のニュースを流し、海岸の打ち寄せた死体を海へと投げ戻すよう命じていた。

野田版でも蜷川版でもパンドラの鐘は舞台上に置かれていたが、今回はそれらしき部分がある背景は置かれているものの、パンドラの鐘そのものを表すセットは存在せず、パンドラの鐘を描写した部分のト書きを野田秀樹が朗読している音声が流れる。

ヒメ女には、オフィーリアの他に卑弥呼や天照大神のイメージが重ねられているが、真の意味でのモデルは性別はひっくりかえっているが昭和天皇である。狂王の次の王ということなのだが、昭和天皇の父親である大正天皇には、その在位中から「知的水準に問題があるのではないか」という噂が流れていた。「遠めがね事件」など有名な話もあり、この作品でも狂王のモデルが大正天皇であることが分かるよう取り入れられている。実際には大正天皇は文学の才能にも秀でており、「明治天皇に比べると」ということだったようだが、病弱だったのは確かであり、皇太子だった裕仁親王が摂政に立ったことで噂は更に広がることになった。皇室の系統に、冷泉帝や陽成帝といったちょっとおかしな天皇が存在することもそれに輪を掛けたであろう。
性別がひっくりかえっていることについては、ヒメ女と昭和天皇の他に、いざなぎいざなみをモデルにしたような話でも同様の場面があるなど、何度も用いられている。

タマキの母親のピンカートン未亡人は、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」に登場するピンカートンの孫の妻という設定であるため、タマキ(「蝶々夫人」で世界的なスターとなった三浦環がその名の由来であると思われる)はピンカートンのひ孫ということになる。ピンカートン未亡人は祖父のピンカートンが日本の幼い娘を自身のせいで自殺に追い込んでしまったことを悔い、ピンカートン財団を築いて長崎の発掘事業に貢献していることを語る。ただ、ピンカートン未亡人もタマキも蝶々夫人の自殺については否定的である。野田版と蜷川版で最も解釈が異なったセリフは、タマキが蝶々夫人を評した「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」というものだったと思われるが、今回はこのセリフが発せられる場面が変更されていたため、全くと言っていいほど目立たなかった。これはミズヲの「生きるべきか死ぬべきかそれは問題じゃない、どう死ぬのか、それがが葬式屋の問題だ」という「ハムレット」由来のセリフにも呼応する重要なセリフであるため、ちょっと物足りなく感じた。
蝶々夫人は「恥をかかされたら死ぬしかない」という日本の倫理観の犠牲になったのであるが、ここで問われているのは、責任を取って死ぬべきかということであり、「死を持って詫びる」ことを美徳とする日本人の意識であり、戦争責任を取って死を受け入れるという可能性のことを指してもいる。ただ、当時の日本の上層部に戦争責任を取らされることを拒んだ人達がかなり多かったというのも事実で、終戦間際の時点で、すでの江戸時代からの美意識は崩れつつあったようにも思う。そうした上層部の意識も戦争の責任と昭和天皇の退位とを結びつけることになる。

同音異義語などを多用する言葉遊びは今も変わらず野田演劇の特徴だが、今回は若手俳優中心のキャストということが災いしたようで、アクセントを間違えたために意味が通じないセリフになっていたり(「彼方(あなた)」を「貴方」の発音で言うなど)、言葉で情景を描くためにセリフにメリハリを付ける必要があるのだが上手くいかなかったりと、野田版や蜷川版の豪華キャストの演技を知っている人にとっては歯がゆい出来となった。これまた野田演劇の特徴である早口によるセリフ回しが今回も行われていたが、相手のセリフとの間を詰めすぎたため、人の言うことを聞かずに話し始めてしまう人々のように見えたのはかなりのマイナスである。相手を見ないと成立しないはずのやり取りが対面しないまま行われたのも意図がよく分からない。ミュージシャンの名を挙げる場面で、1999年当時に全盛を誇っていた小室哲哉ではなく、小室は小室でもミュージシャンではなく皇室絡みで話題のあの人の名前に変えていたりしたが、ここも余り意味はなかったように思う。
ただ、演技面では十分とはいえなかったが、緊急事態宣言発出の中で熱演を繰り広げた俳優達を、終演後は多くの人がスタンディングオベーションで讃えた。こういう時なので、出来不出来は横に置き、芝居に出演してくれるだけでも尊敬に値すると思う。

ラストであるが、本来のラストとその前のシーンをひっくりかえすというかなり大胆なものである。本来のラストは「パンドラの箱」に掛けた希望を語るミズヲの独白で終わるのだが、今回は古代のヒメ女の王国ではなく、1941年12月8日の長崎をラストシーンとする。オズがアメリカに向かうタマキに、「この戦争が終わったら、また長崎で逢いましょう。天主堂(爆心地のそばにあった浦上天主堂のこと)の前に流れる浦上川の畔で必ず」と再会の約束をする場面である。歌劇「蝶々夫人」とは立場がひっくりかえっており、女の方が長崎を去り、男が帰りを待つのである。本来のラストでミズヲは未来の話をした。今回の演出ではその未来の話として、タマキとオズのシーンをラストに回した。歴史そのままなら浦上で待ち続けたオズは長崎原爆により間違いなく命を落とす。ラストに流れる音楽は、マーラーの交響曲第5番よりアダージェット。様々な解釈が可能な曲だが、「愛と死」がない交ぜになったイメージが強い。棺桶にも使われたセットの中にミズヲは自ら身を沈めていき、タマキは背後のセットの一番高い部分、ひっくりかえったアーチのような場所(本来なら船の舳先なのだが、ひっくりかえった浦上天主堂のアーチに見える)にしばし佇む。本来はここで発せられるセリフが、先に挙げた「待つなんてバカ、まして死ぬなんて、もっとバカよ」なのだが、更に前のシーンに置き換えられたため、事実上、カットされたことになり、オズの言葉にタマキは応えない。ここでそのセリフを言ってしまうと答えを出したことになるためカットするということになったのだろう。
後ろを向いたままのタマキは、前後をひっくりかえしたマリア像のようにも見える。少なくとも色は一致している。
答えが用意されない祈りのような風景によって、今回の「パンドラの鐘」は幕を下ろした。

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2021年5月 9日 (日)

演劇公演オンライン配信 ニットキャップシアター第40回公演「カレーと村民」オンライン配信版~じっくりと煮込んだ版~(文字のみ)

2021年5月7日視聴

有料配信で、ニットキャップシアターの第40回公演「カレーと村民」を観る。牧歌的なタイトルであるが、実は結構恐い話である。作・演出:ごまのはえ。出演:門脇俊輔、高原綾子、澤村喜一郎、仲谷萌、池川タカキヨ、日詰千栄(はひふのか)、福山俊朗(はひふのか/syubiro theater)、亀井妙子(兵庫県立ピッコロ劇団)、西村貴治、越賀はなこ、山下多恵子(京都演劇スタジオ)、山下あかり、益田萌(ニットキャップシアター公式サイトに載っているwebパンフレット掲載順)。2013年に文学部と大学院文学研究科に演劇研究系の専攻がある大阪大学と同大学の本部がある吹田市との共同プロジェクトとして初演された作品の上演である。京都・東九条のTheatre E9でのライブ収録。

1905年の(明治38)大阪・吹田村の旧庄屋(関東だと名主、北陸などでは肝煎に当たる)の浜家の表玄関に面した土間が舞台である。庄屋は農民階級でありながら、武士と農民の間を取り持つ一帯の名士として苗字帯刀もしくは苗字のみを許された豪農であり、明治時代に入ってからも裕福な家が多かった。第二次世界大戦後の農地改革で没落していく家も多かったのだが、それはまだ先の話である。

浜家の家長である長男の太郎(福山俊朗)は好人物ではあるが、「長男の甚六」という言葉が合ってしまいそうな頼りない性格である。だが、妻のお茂(仲谷萌)と共に家を支えている。この時代なので、家には人が多く、母親のまん(日詰千栄)、かつては乳母でもあった奉公人のオマサ(越賀はなこ)、新しく子守として入った山田(大阪大学の本部所在地)出身のネ(おネ。高原綾子)、そしてイギリス留学から3年ぶりに帰ってきたばかりの次男の次郎(門脇俊輔)がいる。物語は、次郎がモーツァルトの歌劇「魔笛」より“パパパの二重唱”を一人で歌っているところから始まる。当然ながら、他の人々はモーツァルトも「魔笛」もなんのことかよく分からない。次郎も「パパゲーノ」「パパゲーナ」となるところも全て「パ」で歌っているため、ドイツ語や「魔笛」の内容を十全に知っているわけではないようだが、自然児とも呼ばれるパパゲーノや運命の相手であるパパゲーナのような女性に憧れているらしいことは伝わってくる。

さて、留学から帰った次郎であるが、特に仕事に就くわけでもなく就く気があるわけでもない。実家が裕福ということでいわゆる「高等遊民」となっている。この時代、実は高等遊民と呼ばれる人は結構いたわけだが、次郎が夏目漱石の『それから』の主人公である代助を意識したキャラクターであることは明らかで、彼はイギリス留学時代にロンドンで、まだ漱石と名乗る以前の夏目金之助の世話になったことがあり、その夏目金之助が夏目漱石という名で『吾輩は猫である』という小説を書いていることを知って、連載されている「ホトトギス」を読む場面がある。なお、次郎にはアキ(山下あかり)という婚約者がおり、当時としては珍しく自由恋愛(セリフに「野合で結ばれ」という表現が出てくる)なのだが、イスタンブールで様々な国の美人を見た次郎は典型的な日本人顔であるアキのことを心からは愛せなくなっていた。

そのアキは勉強する意味が分からず、女学校を辞めていた。当時の大阪は、学問的には恵まれた場所ではない。ナンバースクールである第三高等学校、通称・三高は当初は大阪に設置されたのだが、政治の中心地が東京に移ったことで不安を感じた京都市民が「未来の京都のためには学問のある若者が必要」ということで誘致を行い、三高は京都に移転。三高の上に京都帝国大学(現在の京都大学)が置かれたのだが、大阪には結局新たなナンバースクールが生まれることもなく、帝国大学を建学しようという動きも起こっていたが、近くに京都帝国大学があるという理由でなかなか実現せず、大阪帝国大学(現在の大阪大学)が開学するのは昭和になってからである。私学も関西法律学校がこの年に関西大学と名を変えた(大学と名乗るが旧制の専門学校である。私立大学が生まれるのは1918年の大学令以降となる)が、現在でも関西の四大名門私大「関関同立」に入っている大阪の大学はこの関西大学1校だけということで、往時は更に東京との差は激しかった。次郎も大阪の学問基盤の弱さ故に海外へ留学したのだが、アキにも東京の女子学校(まだ大学はなかったが、後に大学へと昇格する名門女子学校はいくつか存在した)に進むよう勧める。だが、アキは乗り気ではない。

1905年といえば、日露戦争戦勝の年である。戦勝とはいえ、実際はロマノフ王朝がロシア第一革命により危機に瀕していたため、極東の情勢に構っている場合ではなくなったことが大きいのだが、当時は情報網が発達していなかったため、「完勝」だと信じている日本人も多かった。それ故、賠償金が得られなかったことで、吹田の人々も「政府は弱腰だ!」と激怒することになる。この時の怒りのうねりとしては、東京で起こった日比谷焼き討ち事件などが有名であるが、大都市だけではなく、当時はまだ田舎であった吹田でもその火種がくすぶり始めていた。なお、太郎が新聞を皆に朗読する場面があるが、これは当時よく行われていた習慣である。諸外国に比べると識字率は高かったとはいえ、「女は学校に行かなくてもいい」「農民の子は学校に行かないで家の手伝いをした方がいい」という時代だったため、文字が読めない人や読めても内容がよく分からない人はまだまだ多かった。ちなみに太郎と次郎の母親であるまんは当然といえば当然だが江戸時代の生まれである。

次郎は学があるため、世界情勢については知悉しており、「本当に勝ったわけではない」と知っていたが、人々が求めているのは「事実」ではなく「納得出来る話」であり、「納得出来るなら嘘でもいい」ことを見抜いていた。ということで明治38年を舞台としているが、今現在に繋がることが描かれている。当時選挙権があるのは比較的裕福な25歳以上の男子だけであり、選挙権のある太郎に人々が願い出る場面がある(太郎役の福山俊朗は、実は参議院議員の福山哲朗の実弟であり、意味のある役割を与えられている)。

浜家が営む輸送船で働くお留(山下多恵子)は息子を日露戦争で失い、吹田にあるビール会社からビールを牛が引くトロッコに乗せて船着き場まで運搬する会社の社長である宮川大助(西村貴治)と妻のおはな(亀井妙子)の次男のセイロクも日露戦争で行方不明になっていたが、ようやく無事が確認されて近く戻ってくる予定である。浜家の奉公人のオマサの孫も日露戦争で戦死しており、犠牲を払ったのに賠償金なし(報道では賠償金は日清戦争の半分程度とかなり安いが支払われるとしていた)ということで、怒りに燃え、「高額の賠償金を得られるまで戦いを続けるべきだ」「そんな交渉で済ませた日本が憎い」(日本国民という大きな単位で一括りにされる危険性を含む)といったような声が上がり、「大阪に行って講和反対運動に参加しよう」と息巻く。
次郎もその場を収めるために、「戦争続行」を求める人々に賛成したふりをして兄の太郎に支援金を出させる。知恵だけは回る次郎だが確固とした思想はなく、そんな自分に嫌気がさし、最終的には子守のネと共に蒸発することになる。ちなみにネというのは秀吉の奥さんと同じ名前で、秀吉と寧は「野合で結ばれた」と表現される代表的人物であるが、意識されているのかどうかは不明。「ネ」という名では変だというので、明治に入ってからは庶民階級の女性にも付けることが許された「子」を付けて「ネ子」にしようなどといわれる場面があるが、『吾輩は猫である』に繋がっているのは確実である。

カレーの話であるが、「征露丸」(現在の「正露丸」。元々は「露西亜を征する」という意味で「征露丸」と名付けられたが、日露戦争終結後に今の表記に変わる)の模造品(関西でいう「ばったもん」)である「暴露丸」を売りに来た富山の薬売り(池川タカキヨ)が太郎や次郎と話している時に、カレーの話が出る。次郎はイギリスに留学していたため、「元々はインド料理であったがイギリスで流行し、日本に入ってきた」という正しい説明をする。当時は日英同盟下の時代であり、イギリスの文物が多く流入していた。また日本海軍でカレーが重宝されているという話も出る。カレーが浜家にも入ってくるということは軍事色が強まるという暗示でもあり、ほのぼのとした場面なのにじわじわとした恐怖を生む。この辺は巧みである。

お留(おとめ)という、坂本龍馬の姉の乙女と同じ読みの女性が出てくるが、日露戦争の際に起こった第二次坂本龍馬ブームから作られた役名なのかは不明(「おとめ」という名前自体は「これで産むのは留め」という意味を込めたありふれたものである)。アキが呉や広島市のある安芸に掛かるのかどうかもよく分からないが、この辺は言葉遊びに留まるため、深く追わなくて良いだろう。

実戦の怖ろしさは、戦地帰りの潮(うしお。これも意味ありげな役名である。演じるのは澤村喜一郎)によって語られる。潮はトラウマを抱えており、心理的要因で耳が聞こえなくなっているのだが、突然、戦地の模様を一人で演じ出す場面がある。これは結果として戦場の惨状を人々に伝えることになるのだが、人々にどれだけ影響を与えたのかは不明となっている。

ラストは、アキが東京の名門女学校への進学を決め、「頑張って勉強して、皆が幸せになれる世の中を作ります」という意味のことを朗らかに述べるも、誰も本気にはしておらず、アキが天を仰ぐ場面で終わる。結局のところ、人々は自分さえよければよく、学ぶことにも、それによって生まれる未来に期待もしていないし価値も見いだしていないのだ。政治を人任せにしている日本の現状の怖ろしさが投影されており、一種の絶望を突きつけられることになる。

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2021年5月 4日 (火)

観劇感想精選(396) 加藤健一事務所 「ドレッサー」2021@京都府立府民ホールアルティ

2021年4月24日 京都府立府民ホールアルティにて観劇

午後2時から、京都御苑の西にある京都府立府民ホールアルティ(ALTI)で、加藤健一事務所の公演「ドレッサー」を観る。作は、「戦場のピアニスト」、「想い出のカルテット」、「テイキング・サイド」などで知られるロナルド・ハーウッド(1934-2020)。テキスト日本語訳:松岡和子。演出は鵜山仁(うやま・ひとし)。出演は、加藤健一、加納幸和(花組芝居)、西山水木、佐伯太輔(さえき・たいすけ)、照屋実、岡﨑加奈、一柳みる(ひとつやなぎ・みる。昴)。声の出演:石田圭祐、外山誠二、高橋ひろし、鍛冶直人、郡山冬果、浅海彩子。

「ドレッサー」の実演には、2005年に、平幹二朗と西村雅彦(現・西村まさ彦)ほかの上演に接したことがある。
「ドレッサー」の世界初演は、1980年にロンドンで行われているが、日本初演はその翌年の1981年。座長役が三津田健で、ノーマン役が平幹二朗であった。平幹二朗は、2005年の「ドレッサー」では座長役を演じている。1988年には、加藤健一がノーマン役、三國連太郎が座長役を演じた「ドレッサー」が上演されている。加藤健一事務所による「ドレッサー」は、2018年が初演で今回が再演だが、どうもノーマン役を演じた俳優が後に座長役に回るというケースが多いようである。ということは、西村まさ彦が将来、座長役をやることがあるのかも知れない。楽しみである。

ロナルド・ハーウッドは、ロンドンの王立演劇学校で学んだ後に、ドナルド・ウォルフィットのドレッサー(衣装係兼付き人)を5年間務めていたという経験があり、それがこの作品には生かされている。

舞台は1942年1月のイギリス。ナチスドイツとの戦いが始まっており、イギリスはたびたび空襲に見舞われていた。劇中でも「リア王」の上演中に空襲警報が鳴り響くという場面がある。
上演、ひいては演劇が続けられるのかどうか分からない状態が劇中で続くが、それがまさに今の日本に重なる。実は、「ドレッサー」は明日(4月25日)、西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールでの上演が予定されていたのだが、緊急事態宣言発出により中止が決まっている。また、アルティも明日から休館に入る。

「ドレッサー」のノーマン役は、とにかくセリフが多いのが特徴である。シェイクスピア専門劇団の座長は年老いており、セリフやスケジュールなどを忘れていることが多いが、ノーマンは全て記憶しており、逐一補うためセリフの量も膨大になる。ノーマンはドレッサーとして常に座長の傍らにいるため、シェイクスピア劇のセリフは全てそらんじているなど極めて有能である。

座長(加藤健一)は高齢ゆえ奇行なども多い。元々がエキセントリックな性格であったようだが、今宵も入院したため、本日の演目である「リア王」の上演が危ぶまれる。座長は病院を脱出し、なんとか上演にこぎ着ける。「リア王」というのが重要で、ノーマン(加納幸和)は、リア王にずっとついている道化(フール)の役を担っている。

明治大学在学中に、戯曲論の講義で武田清(比較的有名な先生である。授業がとにかく面白かった)に「シェイクスピア劇に出てくる道化」について教わったのだが、昔の王宮には、様々な障害者が王の周りに使えており、知的障害者などが実際に道化として王の話し相手になっていたりしたそうである。知的障害者とはいえ、王に仕えるレベルになると観察眼は鋭い場合が多く、常人では出来ない発想などをしたため重宝されたという。
そして、「リア王」の道化は、最愛の娘であるコーディリア役の少年俳優(シェイクスピアの時代には女性は舞台には上がれなかったため、女性役は主に少年が演じた)が一人二役で務めていたというのが定説になっている。実は道化とコーディリアが一緒にいる場面は存在せず、コーディリアの追放後に道化が登場してリア王と共にさまようが、最後は不自然な形で舞台を後にし、その後、コーディリアがずっと出るという場面が続く。この一人二役は、「ドレッサー」でも座長の口から語られる。

「ドレッサー」でコーディリアに相当する女性は実は二人いる。座長夫人(劇中の「リア王」でコーディリア役。演じるのは西山水木)と座付きの舞台監督であるマッジ(一柳みる)である。座長夫人とは再婚であり、仲は余り良くない。座長はマッジと過ごした時間の方が長い。劇中に、座長がマッジに伝説的名優であるエドマンド・キーンから貰ったという指輪をマッジに譲ろうとする場面がある。マッジは、「本当のコーディリアは私」と思ったはずだが、ここにロナルド・ハーウッドらしい捻りがある。そう、本当のコーディリアに相当するのはドレッサーのノーマンなのである。
直接的な場面はないが、ノーマンが同性愛者なのではないかと仄めかすようなセリフや設定がいくつかあり、花組芝居の加納幸和がノーマン役にキャスティングされたのもどうやらそのためのようである。

ラストを明かしてしまうと、ノーマンの前で座長は亡くなってしまうのだが(その直前に、劇中劇「リア王」の中で、リア王がコーディリアの死を悟るシーンがあり、ここでも転倒が見られる)、そこで夫人のような振る舞いをしたのはマッジである。マッジは一度は断ったキーンの指輪を手に入れて退場する。一見すると指輪を手に入れたから退場したようにも見えるのだが、その振る舞いはどちらかというと敗れた女のものである。自身が本当のコーディリアではないことを悟って敗走したのか。あるいは、二人の正体はコーディリアではなく、ゴネリルとリーガンだったのかも知れない。

自伝を書く計画をしていた座長だが、筆無精であるため、冒頭の献辞しか書くことが出来なかった。そこにノーマンの名前はない。ノーマンはそのことを悔しがり、勝手に自分の名前を書き込んだりするのだが、座長はノーマンが身近すぎたために名前を記すことを忘れたのではないかとも思える。それほどノーマンは座長と一体なのである(あるいは単に忘れたか、「自分の影は影で表に出すべきではない」という認識だったのかも知れないが。座長は演劇以外にはいい加減な人間である)。座長は自伝を残すことは出来なかったが、おそらくノーマンは座長の伝記を書くことは可能である。実際に書くかどうかは示されないが、名優と一体になったドレッサーの姿を描くというのは、実際にその役割を務めたことのあるハーウッドの誇りの現れのようでもある。俳優は死んでも、その思い出はドレッサーの中に残る。ドレッサーだったロナルド・ハーウッドは劇作家となり、座長の面影を芝居として描き、モデルがウォルフィットであるということも明かす(モデルとしただけで、ウォルフィットその人の姿を座長に反映させたわけではないとしている)。

設定を見ていくと、三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作である「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」に似たところがある。三谷幸喜は欧米のコメディー作品をベースにした作品を書くこともあるが(元ネタを明かすことも多く、ビリー・ワイルダーの「あなただけ今晩は」に登場するムスタッシュのパロディーは、「王様のレストラン」と「巌流島」で用いている)、「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」もバックステージもので、座長の宇沢萬(佐藤B作)と舞台監督の進藤(西村雅彦)の関係は「ドレッサー」の座長とノーマンのそれによく似ている。今回の「ドレッサー」におけるオクセンビー(佐伯太輔)に相当する梓(野仲功が演じていた)という人物も登場する。面白いことに、座長にはドレッサー(付き人。小原雅人が演じていた)までいる。三谷幸喜は2013年には「ドレッサー」の演出も手掛けている。ただ、同じバックステージものということで設定が偶然似かよる可能性も高く、三谷幸喜が「ドレッサー」を元ネタに選んだのがどうかは不明である。加藤健一事務所の次回作がジョン・マーレイの「ショーマストゴーオン」であることを知ったため、共通点が目についたという可能性もある。
ちなみに、私が自分でチケットを買って初めて観た演劇作品が、1994年の4月に紀伊國屋ホールで上演された東京サンシャインボーイズの「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」であり、当日のチラシに東京サンシャインボーイズが30年の充電期間に入り、復活第一弾が小林隆主演の「リア玉(だま)」であることも予告されていた。「ドレッサー」のような「リア玉」をやってくれるのではないかと密かに期待してしまう。東京サンシャインボーイズの活動再開は3年後に迫っている。

 

アルティでの加藤健一事務所の公演は、アフタートークがあるのが好例であり、通常はロビー(喫茶店としても営業されている場所を使うこともある)で行われるが、今回は「より安全」ということでホール内で行われる。いつもは出演者のほぼ全員が参加するのだが、今回は加藤健一と加納幸和の二人に絞られる。

空襲の中でも演劇の上演を止めようとしない座長の姿に、加藤健一もやはり今の状況を重ねていたようで、本来は座長役にはもっと滑稽な要素もあるのだが、シリアスな部分をより面に出すよう、演出家の鵜山仁に頼んだそうである。
コロナ禍については、今日の来場者に感謝を述べ、「オンライン上演はやったことがないのですが、劇場でお客さんを入れてやらないと演劇は演劇でなくなっちゃう。劇がなくなって演だけになっちゃう」と劇場で観客を入れて上演することの重要さについて語っていた。また、ドイツ政府が新型コロナ感染が広まり始めてからいち早く、「アーティストは生命維持に必要不可欠な存在」と宣言してくれたことが嬉しかったと語り、「良い芸術が生まれる国は違う」と絶賛する。

加納幸和は、「ドレッサー」のノーマン役を軽い気持ちで引き受けたが、台本を読んでセリフの量を知り、後悔したそうである。加藤健一は自身もノーマン役を演じた経験から、「セリフが多いだけでなく他のことをしながらセリフを語るのが大変」と明かし、今回も演出の鵜山仁が、「そこ紅茶運びなら話して」といったような演出を加えるたびに、加納が頭を抱える回数も増えたそうである。

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2021年4月27日 (火)

観劇感想精選(394) 井上芳雄主演「十二番目の天使」

2019年4月26日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで「十二番目の天使」を観る。原作:オグ・マンディーノ、翻訳:坂本貢一、台本:笹部博司、演出:鵜山仁。出演:井上芳雄、栗山千明、六角精児、木野花、辻萬長ほか。東宝と新潟市のりゅーとぴあの製作。

ビジネスマンとして活動しつつベストセラー作家にもなったオグ・マンディーノの同名小説の舞台化である。

ジョン・ハーディング(井上芳雄)は、三十代にして大手コンピューター会社の社長にまで上り詰めたエリート。子供の頃から地元の英雄視されており、大学で怪我をするまではメジャーリーグのスカウトからも注目されるほどの野球選手だった。

前途洋々に思えたジョンの人生だが、妻のサリー(栗山千明)と息子のリックを事故で喪ったことで希望を失い、社長の座を辞することを決める。辞任は認められず、4ヶ月の休職が決まったが、心は晴れず、拳銃自殺をしようとまで思い悩むが、幼馴染みのビル(六角精児。「俺たちは同級生だ。誰も信じてくれないけど」というセリフあり)から「リトルリーグの監督にならないか」と誘われる。

リトルリーグは1チーム12人の編成で行われる。ジョンが監督になったエンジェルスは4つのチームからなるリーグに所属しており、選手獲得はウェーバー制によって行われる。

4チームの監督がくじを引き、1を引いた監督が最初の選手を指名することが出来るが、2巡目は逆に1を引いた監督が4番目に指名することになり、1を引いたジョンは投打に長けたトッドを獲得するが、12巡目の最後まで残ったティモシーも引き取ることになる。リトルリーグのルールではベンチ入り12人全員が1試合に1度は出場しなければならず、1度は必ず打席に入り、6つのアウト分は守備につかねばならない。つまり上手い子だけ出すのは駄目で全員を戦力として育てる必要がある。
ティモシーは亡くなった息子のリックにそっくりだが、1年前までサッカー大国のドイツで暮らしていたということもあって走攻守全てで劣る存在。ただ前向きでひたむきで、「諦めるな諦めるな、絶対、絶対、絶対諦めるな」(ウィンストン・チャーチルのモットーとしても有名である)「日々なにもかもが良くなっている」を信条に懸命に練習に取り組んでいた。

 

オグ・マンディーノは自己啓発系の小説を書く人であり、いかにもそれらしい展開とセリフが鏤められている。小説の舞台化ということで内容を観客に知らせるためのナレーションが多く、余り演劇らしくないが、その手法を取らないと上演時間が恐ろしく長くなってしまうため、こうした端折り方も納得のいくものではある。

ストーリー自体はこれまで映画やドラマなどで何回も観たことのある類いのものであり、特にひねりもないため既視感を覚えるが、野球を主題にした作品ということで野球好きにとっては悪くない芝居である。

井上芳雄主演の舞台ということで、ラストに井上が歌う場面が用意されている。ほかのキャストも合唱で参加し、なかなか楽しい。

 

終演後、井上芳雄、栗山千明、六角精児によるアフタートークがある。「先ほどまで、皆さんお気づきだと思いますが、一番セリフの量が多かった私、井上芳雄が司会を務めるという光栄に浴しまして、愚痴を言ってるわけじゃないですよ」ということで井上芳雄を中心に話を進める。

六角精児は姫路生まれということで、客席に向かって「ただいま!」とやる。生後6年ほどは兵庫県内に住んでいたそうだ。井上芳雄が香川県生まれの福岡県育ちであり、今回は香川公演と福岡公演があったため、両方で「ただいま!」と言ったそうで、その影響を受けてのことらしい。井上芳雄は、「香川生まれということはむしろ隠して、福岡県出身としておいた方がメジャーなので」と冗談を言う。今回は、栗山千明の出身地である茨城県でも公演があったのだが、香川公演よりも先で、「私ごときがやっていいのか」と思っていたため、「ただいま」発言はしなかったそうである。
ちなみに香川県から福岡県に移動する際、大半の人は岡山まで出て新幹線で博多に向かったのだが、六角は地方列車に乗るのが好きということで、JR予讃線で松山に向かい、道後温泉で一泊。その後、八幡浜に向かい、船で臼杵に渡って大分経由の在来線で福岡入りしたそうである。

名古屋では井上がラストで歌うときのためのこめかみにつけるマイクが汗によって駄目になるというハプニングがあり、代わりとして普通のハンドマイクを渡されたそうだが、溶明時にいきなりマイクを持っているのは変だとの判断から腹の前まで下げてボールで隠しながら歌ったそうである。それでも案外ばれなかったそうだ。

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