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2024年11月 9日 (土)

これまでに観た映画より(350) 英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」

2024年6月13日 桂川・洛西口のイオンシネマ京都桂川にて

イオンシネマ京都桂川で、英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24 プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観る。イギリス・ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)で上演されたオペラやバレエを上映するシリーズ。今回は、今年の3月26日に上演・収録された「蝶々夫人」の上映である。最新上演の上映といっても良い早さである。今回の上演は、2003年に初演されたモッシュ・ライザー&パトリス・コーリエによる演出の9度目の再演である。日本人の所作を専門家を呼んできちんと付けた演出で、そのため、誇張されたり、不自然に思えたりする場面は日本人が見てもほとんどない。

京都ではイオンシネマ京都桂川のみでの上映で、今日が上映最終日である。

指揮はケヴィン・ジョン・エドゥセイ。初めて聞く名前だが、黒人の血が入った指揮者で、活き活きとしてしなやかな音楽を作る。
演奏は、ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&ロイヤル・オペラ合唱団。
タイトルロールを歌うのは、アルメニア系リトアニア人のアスミク・グリゴリアン。中国系と思われる歌手が何人か出演しているが、日本人の歌手は残念ながら参加していないようである。エンドクレジットにスタッフの名前も映るのだが、スタッフには日本人がいることが分かる。

入り口で、タイムテーブルの入ったチラシを渡され、それで上映の内容が分かるようになっている。まず解説と指揮者や出演者へのインタビューがあり(18分)、第1幕が55分。14分の途中休憩が入り、その後すぐに第2幕ではなくロイヤル・オペラ・ハウスの照明スタッフの紹介とインタビューが入り(13分)、第2幕と第3幕が続けて上映され、カーテンコールとクレジットが続く(98分)。合計上映時間は3時間18分である。

チケット料金が結構高い(今回はdポイント割引を使った)が、映画館で聴く音響の迫力と美しい映像を考えると、これくらいの値がするのも仕方ないと思える。テレビモニターで聴く音とは比べものにならないほどの臨場感である。

蝶々夫人役のアスミク・グリゴリアンの声がとにかく凄い。声量がある上に美しく感情の乗せ方も上手い。日本人の女性歌手も体格面で白人に大きく劣るということはなくなりつつあり、長崎が舞台のオペラということで、雰囲気からいっても蝶々夫人役には日本人の方が合うのだが、声の力ではどうしても白人女性歌手には及ばないというのが正直なところである。グリゴリアンの声に負けないだけの力を持った日本人女性歌手は現時点では見当たらないだろう。

男前だが、いい加減な奴であるベンジャミン・フランクリン・ピンカートンを演じたジョシュア・ゲレーロも様になっており、お堅い常識人だと思われるのだが今ひとつ押しの弱いシャープレスを演じたラウリ・ヴァサールも理想的な演技を見せる。

今回面白いのは、ケート・ピンカートン(ピンカートン夫人)に黒人歌手であるヴェーナ・アカマ=マキアを起用している点。アカマ=マキアはまず影絵で登場し、その後に正体を現す。
自刃しようとした蝶々夫人が、寄ってきた息子を抱くシーンで、その後、蝶々夫人は息子に目隠しをし、小型の星条旗を持たせる。目隠しをされたまま小さな星条旗を振る息子。父親の祖国を讃えているだけのようでありながら、あたかもアメリカの帝国主義を礼賛しているかのようにも見え、それに対する告発が行われているようにも感じられる。そもそも「現地妻」という制度がアメリカの帝国主義の象徴であり、アフリカ諸国や日本もアメリカの帝国主義に組み込まれた国で、アメリカの強権発動が21世紀に入っても世界中で続いているという現状を見ると、問題の根深さが感じられる。
一方で、蝶々夫人の自刃の場面では桜の樹が現れ、花びらが舞う中で蝶々夫人は自らの体を刀で突く。桜の花びらが、元は武士の娘である蝶々夫人の上に舞い落ち、「桜のように潔く散る」のを美徳とする日本的な光景となるが、「ハラキリ」に代表される日本人の「死の美学」が日本人を死へと追いやりやすくしていることを象徴しているようにも感じられる。日本人は何かあるとすぐに死を選びやすく自殺率も高い。蝶々夫人も日本人でなかったら死ぬ必要はなかったのかも知れないと思うと、「死の美学」のある種の罪深さが実感される。

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2024年11月 5日 (火)

観劇感想精選(475) 広田ゆうみ+二口大学 別役実 「クランボンは笑った」京都公演@UrBANGUILD KYOTO

2014年10月15日 木屋町のUrBANGUILD KYOTOにて観劇

午後7時30分から、木屋町にあるUrBANGUILDで、広田ゆうみ+二口大学の「クランボンは笑った」を観る。別役実が1996年に書いて同年に初演された作品。別役実の100作目の戯曲に当たる(処女作をカウントせず、他の作品が100作目という説もあるようだが)。1996年ということで、携帯電話が普及しており、この作品にも登場する。
広田ゆうみと二口大学は、別役実の二人芝居を継続して上演しており、長野県上田市や愛媛県松山市、三重県津市などでの上演を行っているが、本拠地の京都での上演は劇場ではなくライブハウス兼イベントスペースであるUrBANGUILDを使って行われることも多い。小さな空間なので臨場感はある。演出は広田ゆうみが担当。

「クランボンは笑った」という言葉は教科書にも載っているので知っている人は多いと思われるが、宮沢賢治の「やまなし」という短い文芸作品の中に現れる謎に満ちた言葉(宮沢賢治の表記では「クラムボン」)である。

別役実のこの戯曲にも「クランボンは笑った」「クランボンは死にました」というセリフは出てくるが、宮沢賢治の「やまなし」の内容と直接的な関係はない。

ライブハウス兼イベントスペースでの上演なので、開演前は二口さんがずっといて、客席や知り合いに話すなど、リラックスしたムードである。上演時間は約65分。


上手から、広田ゆうみ扮する、死の間際の女が登場。月夜であるが、日傘(パラソル)を差している。病院で死を待つばかりなのだが、病棟を抜け出してハイキングを行うつもりなのだ。医師からは三月の命と宣告されたが、三月が過ぎても死の予兆はない。夜の病院の庭なので、誰もいないはずなのだが、下手から男(二口大学)が現れる。黒い衣装に白い手袋(この白い手袋は「覆うもの」の意味を持っているようである)。男は女のために椅子と机を用意し、テーブルクロスを掛けるが、テーブルクロスには染みがある。だがあってもいいものらしい。その後、男の正体が葬儀屋であり、病院の庭の一角にある道具小屋に住んでいることが分かる。なぜ葬儀屋が病院の一角に住んでいて庭にいるのかだが、末期の病人ばかりの病院なので、他の業者よりも遺体を早く引き取ろうという魂胆なのかもしれない。とにかく葬儀屋は椅子に腰掛け、女と話を始める。途中でケータイに電話がかかってきて、「クランボンは笑った…?」などと話して切るが(戯曲にはクエスチョンマークがついているので、男が「クランボン」がなんなのか分かっていないことが分かる)ちなみに「上から」かかってきた電話であるが、会社の上司というわけではないようだ。「クランボン」が暗号なのか何なのか意味が分からないのは宮沢賢治の作品と一緒である。男が女に近づいたのは、死が間近との情報を得ているので、亡くなった後の遺体の処理の契約を取り付けて金儲けしようとしているのかも知れない。実際、契約書の話なども出てくる。饗応のポーズをするのもそのためか。ただ詳しいことは明かされない。

女はバスケットの中にホットミルクティーの入ったポットを入れているのだが、カップを二つ持ってきている。まるで誰かとお茶するかのようである。また女はキュウリのサンドウィッチを持参している。これも二人分なので誰かと食べるためだろう。女は「あなた」と呼びかけるのだが、誰に対してなのかは本人も分かっていない。葬儀屋に呼びかける時もあるのだが、そうではない時もある。

汽笛が鳴る。最終列車だ。しかし女はそれよりも後に出発する列車があることを知っている。その列車はハルビンなどの旧満州(この言葉は劇中に出てこないため、知識のない人にはなぜこの都市の名前が出てくるのか分からないはずである)へ向かう。なお、別役実は旧満州出身である。
同じ病室にいた白系ロシア人の老婦人、マリアン・トーノブナの話が出てくる。夫のミハイルと共にハルビンに住み、大連に向かったという、白系ロシア人絡みの土地の名が出てくることから、白系ロシア人らしいことが分かるのだが、この白系ロシア人の老婦人が、死の前に、葬儀屋をロシア正教の神父と勘違いして懺悔を行い、告白を行っているのである。女はその情報を男から聞かされる。女はマリアン・トーノブナから葬儀屋がどこに現れるのかも聞いている。そして、何故、カップを二つ用意したのか、一緒にキュウリと辛子のサンドウィッチを食べるよう仕向けたのかが分かるようになる……。

結局、女と白系ロシア人の女性であるマリアン・トーノブナの秘密は封じられ(流れのようなものがあるそうである)、「クランボン」の正体はよく分からないことになっている(女は「クランボンは死にました」と「上から」の電話に答えているため、彼女は「クランボン」が何か分かっているようである)。ただヒントはいくつかありそうである。その秘密は日本人が知ってはいけないもののようで、女にはその理由が分かっているが、女もまた秘密を秘密のままにすることを図る。

一応、トーノブナ夫人が告白したのは、終戦間近に大連で夫のミハイル・トーノブナ(ロシア人は、同じ苗字でも苗字が男女では変換されて別のものになるので、ミハイル・トーノブナというのは厳密に言うと誤り。おそらくミハイル・トーノブンである)を青酸カリで毒殺したというものである。ただ、毒殺したといっても、ミハイルが自殺を願ったものでその補助とされる。ミハイルは体の状態が思わしくなく、日本には行けないので、死を望んだのだ。そしてマリアン・トーノブナだけが日本へと亡命した。これだけを封じるとしたのなら話は単純なのだが、もう死者であるマリアン・トーノブナ個人の秘密を封じる意味も、また女がそれに加担する必要もない。

背景には、1945年8月8日から始まったソビエトの満州侵攻があるだろう。満州の中でも北の方であるハルビンに住んでいた夫妻は、満州に留まるのは危険とみて南へ。港町の大連に向かい、そこから日本を目指したが、ミハイルの方は日本に行ける状態ではない。大連に留まったとしても赤軍に殺害される可能性が高いので死を選んだのだろうか。自分で青酸カリを飲めないほど弱っていたという訳でもなさそうであるが、何らかの形でトーノブナ夫人が自殺を幇助し、それを墓場まで持って行くつもりだった。うわごとで漏らすのが嫌なので、モルヒネも用いなかった(この辺りは、「麻酔を使うとうわごとを申すといいますので、麻酔なしでの手術」を願う女性を描いた泉鏡花の「外科室」を連想させる)。だがうっかり葬儀屋を神父と勘違いして告白してしまった。死が近いということもあっただろう。しかし、主人公の女とトーノブナ夫人は特に親しいという訳ではなさそうで、何故、女が葬儀屋の口を封じようとするのかは謎である。何か別の理由があるのだろうか。「クランボンは死にました」の意味も複数考えられる。単純な「葬儀屋がクランボン説」はおそらく違う。ちなみにミハイルが自殺、マリアンナから見ると殺害した事件が起こったのは「50年前」とされている。「クランボンは笑った」の初演が1996年なので、50年前は別役が満州から引き上げてきた1946年ということになる。

別役実が生まれたのは満州国の首都・新京(長春)である。そして生後10年近くをその地で過ごしている。そこで何らかの経験をしている可能性も高い。満州国にはソ連から逃げてきた白系ロシア人も多く、例えば、朝比奈隆が指揮していた時代のハルビン交響楽団は楽団員の大半をロシア人が占めるオーケストラであった。音楽の能力がプロ級のロシア人だけでフル編成のオーケストラを結成出来るのだから、一般の白系ロシア人はかなり多くいたことが予想される。白系ロシア人は日本にも逃げてきており、日本プロ野球初の300勝投手となったヴィクトル・スタルヒンが白系ロシア人であったことはよく知られている。白系ロシア人は、ソビエト共産党(赤)の迫害を逃れた人々であり、元々は上流階級の人も多く、朝比奈隆や服部良一の師であるエマヌエル・メッテルもウクライナ系ではあったが白系ロシア人に数えられている。

文化面においては、日本にかなり貢献をした白系ロシア人。単なるミハイル殺害の話だけとしなかった場合、彼らが日本人に語れない秘密とはなんなのか。実は日本軍に参加した白系ロシア人の多くが、ソビエトの満州侵攻と共に、ソビエト赤軍側に寝返っている。「日本人は殺せ」という雰囲気となり、朝比奈隆が日本に帰るのにかなりの苦労をしたことはよく知られているが、別役実が日本に帰ったのも終戦の翌年の1946年。素直には帰れていない。別役はこのことについて何も語ってはいない。ソ連軍が第一の攻撃目標とした首都・新京にいたので、何かはあった可能性は高いと思われるのだが。


終演後に、広田ゆうみさんと少し話す。白系ロシア人のこと、関東人の標準語とそれ以外の地域の人の標準語などについて(少し大袈裟に関東人の話す伸縮する標準語を話した)。

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2024年11月 4日 (月)

観劇感想精選(474) NODA・MAP第27回公演「正三角関係」

2024年9月19日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後7時から、JR大阪駅西口のSkyシアターMBSで、NODA・MAP第27回公演「正三角関係」を観る。SkyシアターMBSオープニングシリーズの1つとして上演されるもの。
作・演出・出演:野田秀樹。出演:松本潤、長澤まさみ、永山瑛太、村岡希美、池谷のぶえ、小松和重、竹中直人ほか。松本潤の大河ドラマ「どうする家康」主演以降、初の舞台としても注目されている。
衣装:ひびのこずえ、音楽:原摩利彦。

1945年の長崎市を舞台とした作品で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と、長崎原爆が交錯する。「欲望という名の電車」も長崎に路面電車が走っているということで登場するが、それほど重要ではない。

元花火師の唐松富太郎(からまつ・とみたろう。『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイに相当。松本潤)は、父親の唐松兵頭(ひょうどう。『カラマーゾフの兄弟』のフョードルに相当。竹中直人)殺しの罪で法廷に掛けられる。主舞台は長崎市浦上にある法廷が中心だが、様々な場所に飛ぶ。戦中の法廷ということで、法曹達はNHK連続テレビ小説「虎に翼」(伊藤沙莉主演)のような法服(ピンク色で現実感はないが)を着ている。
検察(盟神探湯検事。竹中直人二役)と、弁護士(不知火弁護士。野田秀樹)が争う。富太郎の弟である唐松威蕃(いわん。『カラマーゾフの兄弟』のイワン=イヴァンに相当。永山瑛太)は物理学者を、同じく唐松在良(ありよし。『カラマーゾフの兄弟』のアレクセイ=アリョーシャに相当。長澤まさみ)は、神父を目指しているが今は教会の料理人である。
富太郎は、兵頭殺害の動機としてグルーシェニカという女性(元々は『カラマーゾフの兄弟』に登場する悪女)の名前を挙げる。しかし、グルーシェニカは女性ではないことが後に分かる(グルーシェニカ自体は登場し、長澤まさみが二役、それも早替わりで演じている)。

『カラマーゾフの兄弟』がベースにあるということで、ロシア人も登場。ロシア領事官ウワサスキー夫人という噂好きの女性(池谷のぶえ)が実物と録音機の両方の役でたびたび登場する。また1945年8月8日のソビエトによる満州侵攻を告げるのもウワサスキー夫人である。

戦時中ということで、長崎市の上空を何度もB29が通過し、空襲警報が発令されるが、長崎が空襲を受けることはない。これには重大な理由があり、原爆の威力を確認したいがために、原爆投下候補地の空襲はなるべく抑えられていたのだ。原爆投下の第一候補地は実は京都市だった。三方を山に囲まれ、原爆の威力が確認しやすい。また今はそうではないが、この頃はかつての首都ということで、東京の会社が本社を京都に移すケースが多く見られ、経済面での打撃も与えられるとの考えからであった。しかし京都に原爆を落とすと、日本からの反発も強くなり、戦後処理においてアメリカが絶対的優位に立てないということから候補から外れた(3発目の原爆が8月18日に京都に落とされる予定だったとする資料もある)。この話は芝居の中にも登場する。残ったのは、広島、小倉、佐世保、長崎、横浜、新潟などである。

NODA・MAPということで、歌舞伎を意識した幕を多用した演出が行われる。長澤まさみが早替わりを行うが、幕が覆っている間に着替えたり、人々が周りを取り囲んでいる間に衣装替えを行ったりしている。どのタイミングで衣装を変えたのかはよく分からないが、歌舞伎並みとはいえないもののかなりの早替わりである。

物理学者となった威蕃は、ある計画を立てた。ロシア(ソ連)と共同で原爆を作り上げるというものである。8月6日に広島にウランを使った原爆が落とされ、先を越されたが、すぐさま報復としてニューヨークのマンハッタンにウランよりも強力なプルトニウムを使った原爆を落とす計画を立てる。しかしこれは8月8日のソビエト参戦もあり、上手くいかなかった。そしてナガサキは1945年8月9日を迎えることになる……。

キャストが実力派揃いであるため、演技を見ているだけで実に楽しい。ストーリー展開としては、野田秀樹の近年の作品としては良い部類には入らないと思われるが、俳優にも恵まれ、何とか野田らしさは保たれたように思う。

NODA・MAP初参加となる松潤。思ったよりも貫禄があり、芝居も安定している。大河の時はかなりの不評を買っていたが、少なくとも悪い印象は受けない。

野心家の威蕃を演じた永山瑛太は、いつもながらの瑛太だが、その分、安心感もある。

長澤まさみは、今は違うが若い頃は、長台詞を言うときに目を細めたり閉じたりするという癖があり、気になっていたが、分かりやすい癖なので誰かが注意してくれたのだろう。あの癖は、いかにも「台詞を思い出しています」といった風なので、本来はそれまでに仕事をした演出家が指摘してあげないといけないはずである。主演女優(それまでに出た舞台は2作とも主演であった)に恥をかかせているようなものなのだから避けないといけなかった。ただそんな長澤まさみも舞台映えのする良い女優になったと思う。女優としては、どちらかというと不器用な人であり、正直、好きなタイプの女優でもないのだが、評価は別である。大河ドラマ「真田丸」では、かなり叩かれていたが、主人公の真田信繁(堺雅人)が入れない場所の視点を担う役として頑張っていたし、何故叩かれるのかよく分からなかった。

竹中直人も存在感はあったが、重要な役割は今回は若手に譲っているようである。
たびたび怪演を行うことで知られるようになった池谷のぶえも、自分の印を確かに刻んでいた。


カーテンコールは4度。3度目には野田秀樹が舞台上に正座して頭を下げたのだが、拍手は鳴り止まず、4回目の登場。ここで松潤が一人早く頭を下げ、隣にいた永山瑛太と長澤まさみから突っ込まれる。
最後は、野田秀樹に加え、松本潤、長澤まさみ、永山瑛太の4人が舞台上に正座してお辞儀。ユーモアを見せていた。

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2024年11月 3日 (日)

コンサートの記(868) 堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」

2024年9月29日 堺東のフェニーチェ堺大ホールにて

午後2時から、堺東のフェニーチェ堺大ホールで、堺シティオペラ第39回定期公演 オペラ「フィガロの結婚」を観る。モーツァルトの三大オペラの一つで、オペラ作品の代名詞的作品の一つである。ボーマルシェの原作戯曲をダ・ポンテがオペラ台本化。その際、タイトルを変更している。原作のタイトルは、「ラ・フォル・ジュルネ(狂乱の日)またはフィガロの結婚」で、有名な音楽祭の元ネタとなっている。
指揮はデリック・イノウエ、演奏は堺市を本拠地とする大阪交響楽団。演出は堺シティオペラの常連である岩田達宗(たつじ)。チェンバロ独奏は碇理早(いかり・りさ)。合唱は堺シティオペラ記念合唱団。

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午後1時30分頃から、演出家の岩田達宗によるプレトークがある。なお、プレトーク、休憩時間、カーテンコールは写真撮影可となっているのだが、岩田さんは「私なんか撮ってもどうしようもないんで、終わってから沢山撮ってください」と仰っていた。

岩田さんは、字幕を使いながら解説。「オペラなんて西洋のものじゃないの? なんで日本人がやるのと思われるかも知れませんが」「舞台はスペイン。登場するのは全員スペイン人です」「原作はフランス。フランス人がスペインを舞台に書いています」「台本はイタリア語。イタリア人がフランスの作品をイタリア語のオペラ台本にしています」「作曲はオーストリア人」と一口に西洋と言っても様々な国や文化が融合して出来たのがオペラだと語る。ボーマルシェの原作、「フィガロの結婚 Le Mariage de Figaro」が書かれたのは、1784年。直後の1789年に起こるフランス革命に思想的な影響を与えた。一方、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚 La nozze di Figaro」の初演は1786年。やはりフランス革命の前であるが、内容はボーマルシェの原作とは大きく異なり、貴族階級への風刺はありながら、戦争の否定も同時に行っている。ただ、この内容は実は伝わりにくかった。重要なアリアをカットしての上演が常態化しているからである。そのアリアは第4幕第4景でマルチェッリーナが歌うアリア「牡の山羊と雌の山羊は」である。このアリアは女性差別を批判的に歌ったものであり、今回は「争う」の部分が戦争にまで敷衍されている。
岩田さんは若い頃に様々なヨーロッパの歌劇場を回って修行していたのだが、この「牡の山羊と雌の山羊は」はどこに行ってもカットされていたそうで、理由を聞くと決まって「面白くないから」と返ってくるそうだが、女性差別を批判する内容が今でも上演に相応しくないと考えられているようである。ヨーロッパは日本に比べて女性差別は少ないとされているが、こうした細かいところで続いているようである。私が観た複数の欧米の歌劇場での上演映像やヨーロッパの歌劇場の来日引っ越し公演でも全て「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされており、日本での上演も欧米の習慣が反映されていて、「牡の山羊と雌の山羊は」は歌われていない。コロナ禍の時に、岩田さんがZoomを使って行った岩田達宗道場を私は聴講しており、このことを知ったのである。

「フィガロの結婚」の上演台本の日本語対訳付きのものは持っているので(正確に言うと、持っていたのだが、掃除をした際にどこかに行ってしまったので、先日、丸善京都店で買い直した)、休憩時間に岩田さんに、「牡の山羊と雌の山羊は」の部分を示して、「ここはカットされていますかね?」と伺ったのだが、「今日はどこもカットしていません」と即答だった。ということで、「牡の山羊と雌の山羊は」のアリアに初めて接することになった。
岩田さんによると、今回は衣装も見所だそうで、戦後すぐに作られた岸井デザイン工房のものが用いられているのだが、今はこれだけ豪華な衣装を作ることは難しいそうである。
岩田さんには終演後にも挨拶した。

出演は、奥村哲(おくむら・さとる。アルマヴィーヴァ伯爵)、坂口裕子(さかぐち・ゆうこ。アルマヴィーヴァ伯爵夫人=ロジーナ)、西村圭市(フィガロ)、浅田眞理子(スザンナ)、山本千尋(ケルビーノ)、並河寿美(なみかわ・ひさみ。マルチェッリーナ)、片桐直樹(ドン・バルトロ)、中島康博(ドン・バジリオ)、難波孝(ドン・クルツィオ)、藤村江李奈(バルバリーナ)、楠木稔(アントニオ)、中野綾(村の女性Ⅰ)、梁亜星(りょう・あせい・村の女性Ⅱ)。


ドアを一切使わない演出である。


指揮者のデリック・イノウエは、カナダ出身の日系指揮者。これまで京都市交響楽団の定期演奏会や、ロームシアター京都メインホールで行われた小澤征爾音楽塾 ラヴェルの歌劇「子どもと魔法」などで実演に接している。
序曲では、音が弱すぎるように感じたのだが、こちらの耳が慣れたのか、次第に気にならなくなる。ピリオドはたまに入れているのかも知れないが、基本的には流麗さを優先させた演奏で、意識的に当時の演奏様式を取り入れているということはなさそうである。デリック・イノウエの指揮姿も見える席だったのだが、振りも大きめで躍動感溢れるものであった。

幕が上がっても板付きの人はおらず、フィガロとスザンナが下手袖から登場する。
フィガロが部屋の寸法を測る最初のシーンは有名だが、実は何を使って測っているのかは書かれていないため分からない。今回は脱いだ靴を使って測っていた。スザンナの使う鏡は今回は手鏡である。

スザンナとバルバリーナは、これまで見てきた演出よりもキャピキャピしたキャラクターとなっており、現代人に近い感覚で、そのことも新鮮である。
背後に巨大な椅子のようなものがあり、これが色々なものに見立てられる。
かなり早い段階で、ドン・バジリオが舞台に登場してウロウロしており、偵察を続けているのが分かる。セットには壁もないが、一応、床の灰色のリノリウムの部分が室内、それ以外の黒い部分が廊下という設定となっており、黒い部分を歩いている人は、灰色の部分にいる人からは見えない、逆もまた然りとなっている。

この時代、初夜権なるものが存在していた。領主は結婚した部下の妻と初夜を共に出来るという権限で、今から考えると余りに酷い気がするが、存在していたのは確かである。アルマヴィーヴァ伯爵は、これを廃止したのだが、スザンナを気に入ったため、復活させようとしている。それを阻止するための心理面も含めた攻防戦が展開される。
フィガロとスザンナには伯爵の部屋に近い使用人部屋が与えられたのだが、これは伯爵がすぐにスザンナを襲うことが出来るようにとの計略から練られたものだった。スザンナは気づいていたが、フィガロは、「親友になったから近い部屋をくれたんだ」と単純に考えており、落胆する。

舞台がスペインということで、フィガロのアリアの歌詞に出てきたり、伴奏に使う楽器はギターである。有名な、ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」もスザンナのギター伴奏で歌われるという設定である(実際にギターが弾かれることはない)。ちなみに「恋とはどんなものかしら」はカラオケに入っていて、歌うことが出来る。というよりも歌ったことがある。昔話をすると、「笑っていいとも」の初期の頃、1980年代には、テレフォンショッキングでゲストが次のゲストを紹介するときに、「友達の友達はみんな友達だ。世界に拡げよう友達の輪」という歌詞を自由なメロディーで歌うという謎の趣旨があり、女優の紺野美沙子さんが、曲の説明をしてから、「恋とはどんなものかしら」の冒頭のメロディーに乗せて歌うというシーンが見られた。

ケルビーノが伯爵夫人に抱く気持ちは熱烈であり、意味が分かるとかなり生々しい表現が出てくる。リボンやボンネットなどはかなりセクシャルな意味があり、自分で自分の腕を傷つけるのは当時では性的な行為である。

第1幕と第2幕は続けて上演され、第2幕冒頭の名アリア「お授けください、愛を」の前に伯爵夫人とスザンナによる軽いやり取りがある。ちなみに「amor」は「愛の神様」と訳されることが多いが、実際は「愛」そのものに意味が近いようだ。
第3幕と第4幕の間にも、歌舞伎のだんまりのような部分があり、連続して上演される。

伯爵夫人の部屋は、舞台前方の中央部に入り口があるという設定であるが、ドアがないので、そこからしか出入りしないことと、鍵の音などで見えないドアがあることを表現している。

フィガロの代表的なアリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」(やはりカラオケで歌ったことがある)は、戦地に送られることになったケルビーノに向けて歌われるもので、蝶々とは伊達男の意味である。ここにまず戦争の悲惨さが歌われている。この時代、日本は徳川の治世の下、太平の世が続いていたが、ヨーロッパは戦争や内乱続きである。
映画「アマデウス」には、サリエリが作曲した行進曲をモーツァルトが勝手に改作して「もう飛ぶまいぞこの蝶々」にするというシーンがあるが、これは完全なフィクションで、「もう飛ぶまいぞこの蝶々」は100%モーツァルトのオリジナル曲である。ただ、このシーンで、モーツァルトが「音が飛ぶ作曲家」であることが示されており、常識を軽く飛び越える天才であることも暗示されていて、その意味では重要であるともいえる。

続いて表現されるのは、伯爵の孤独。伯爵には家族は妻のロジーナしかいない。フィガロは天涯孤独の身であったが、実はマルチェッリーナとドン・バルトロが両親だったことが判明し(フィガロの元の名はラファエロである)、スザンナとも結婚が許されることになったので、一気に家族が出来る。伯爵は地位も身分も金もあるが、結局孤独なままである。

なお、ケルビーノは、結局、戦地に赴かず、伯爵の屋敷内をウロウロしているのだが、庭の場面では、「愛の讃歌」を「あなたの燃える手で」と日本語で歌いながら登場するという設定がなされていた。クルツィオも登場時は日本語で語りかける。

「牡の山羊と雌の山羊は」を入れることで、その後の曲の印象も異なってくる。慈母のような愛に満ちた「牡の山羊と雌の山羊は」の後では、それに続く女性蔑視の主張が幼く見えるのである。おそらくダ・ポンテとモーツァルトはそうした効果も狙っていたのだと思われるのだが、それが故に後世の演出家達は危険性を感じ、「牡の山羊と雌の山羊は」はカットされるのが慣習になったのかも知れない。

最後の場では、伯爵が武力に訴えようとし、それをフィガロとスザンナのコンビが機転で交わす。武力より知恵である。

伯爵の改心の場面では笑いを取りに来る演出も多いのだが、今回は伯爵は比較的冷静であり、誠実さをより伝える演出となっていて、ラストの「コリアントゥッティ(一緒に行こう)」との対比に繋げているように思われた。

岩田さんは、「No」と「Si」の対比についてよく語っておられたのだが、「Si」には全てを受け入れる度量があるように思われる。
井上ひさしが「紙屋町さくらホテル」において、世界のあらゆる言語のノーは、「N」つまり唇を閉じた拒絶で始まるという見方を示したことがある。「ノー」「ノン」「ナイン」「ニエート」などであるが、「日本語は『いいえ』だと反論される」。だが、拒絶説を示した井川比佐志演じる明治大学の教授は、「標準語は人工言語」として、方言を言って貰う。「んだ」「なんな」などやはり「N」の音で始まっている。なかなか面白い説である。

武力や暴力は、才知と愛情にくるまれて力を失う。特に愛は強調されている。

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2024年10月27日 (日)

観劇感想精選(473) 京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」

2024年10月20日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後2時から、京都芸術劇場春秋座で、京都芸術劇場プロデュース2024 松尾スズキ×つかこうへい 朗読劇「蒲田行進曲」を観る。京都芸術大学舞台芸術学科の教授となった松尾スズキが若い俳優達と取り組むプロジェクトの一つである。
松尾スズキとつかこうへいは同じ九州人にして福岡県人ではあるもののイメージ的には遠いが、実際には松尾スズキは九州産業大学芸術学部在学中に、つかこうへいの「熱海殺人事件」を観て衝撃を受け、芝居を始めたというありがちなコースをたどっていることを無料パンフレットで明かしている。ただ、つかこうへいとは生涯、面識がなかったようだ。

作:つかこうへい。いくつか版があるが昭和57年4月25日初版発行の『戯曲 蒲田行進曲』を使用。演出:松尾スズキ。出演は、上川周作、笠松はる、少路勇介(しょうじ・ゆうすけ)、東野良平(ひがしの・りょうへい)、末松萌香、松浦輝海(まつうら・てるみ)、山川豹真(ひょうま。ギター)。


映画でもお馴染みの「蒲田行進曲」。蒲田行進曲と銘打ちながら、舞台は大田区蒲田ではなく京都。東映京都撮影所が主舞台となる。実は映画版の「蒲田行進曲」は松竹映画で、松竹映画でありながら東映京都撮影所で収録を行っているという変わった作品である。

末松萌香と松浦輝海がト書きを全て朗読するという形での上演。二人は、セリフの短い役(坂本龍馬や近藤勇など)のセリフも担当する。


上川周平による前説。「どうも、こんにちは。上川周平です。京都芸術大学映画俳優コース出身者として黒木華の次に売れています(格好をつける)。嘘です。土居(志央梨)さんの方が売れています。土居さんとは同級生です。今日は京都の山奥の劇場へようこそ。まだ外国人観光客に発見されていない日本人だけの場所。朗読劇なのに5500円。これは僕らかなり頑張らないといけません。演出の松尾(スズキ)さんは、役者がセリフを噛むとエアガンで撃ちます。まさに演劇界の真○よ○子」と冗談を交えて語る。

上川周平は、今年前期のNHK連続テレビ小説「虎に翼」で、主人公の猪爪寅子(伊藤沙莉)の実兄にして、寅子の女学校時代からの親友である花江(森田望智)の夫にして二児の父、日米戦争で戦死するという猪爪直道役を演じ、口癖の「俺には分かる」も話題になっている(「俺には分かる」と言いながら当たったことは一度もなかった)。


東映京都撮影所では、新選組を主人公にした映画が撮られている。まず坂本龍馬(松浦輝海)の大立ち回り。龍馬は土方歳三の恋人にも手を出そうとして、駆けつけた土方に止められる。土方役の銀四郎(銀ちゃん。少路勇介)の脇に控えているのが、銀ちゃんの大部屋時代の後輩である村岡安治(ヤス。上川周作)。銀ちゃんは大部屋からスターになり、土方歳三役という大役を演じているが、ヤスは大部屋俳優のままである。実はヤスも「当たり屋」という低予算映画に主演したことがあるのだが、大部屋の脇役俳優が主役になっても勝手が分からず、セリフが出てこなかったりと散々苦労した思い出がある。その後も、ヤスは銀ちゃんが取ってくるセリフもないような役をやったりと、弟分を続けていた。
銀ちゃんには、小夏という彼女(笠松はる)がいる。2年前まではそれなりの役を貰っていた女優だったのだが、2年のブランクがあって今は良い役にありつけない。小夏は30歳。今でこそ、30歳は女優盛りであるが、往年は「女優は二十代が華」の時代。30歳になるとヒロインは難しく、出来る役は限られてしまう。女優とは少し異なるが、「女子アナ30歳定年説」というものがつい最近まであった。今は30代でも40代でも既婚者でも子持ちでも人気の女子アナはいるが、ほんの少し前まではそうではなかったのである。30歳を機に、女優や女子アナを辞める人がいた。そう考えると時代はかなり変わってきている。

芸能界で、女優が30歳になることを初めて肯定的に捉えたのはおそらく浅野ゆう子で、彼女は「トランタン」というフランス語で30歳を意味する言葉を使ってイメージ改善に励んでいる。その後、藤原紀香が「早く30歳になりたかった」宣言をして30歳の誕生日をファンを集めて盛大に祝ったり、蒼井優が「生誕30年祭」と銘打っていくつかのイベントを行ったりと、女優陣もかなり努力している印象を受ける。

ただこれは、女優の限界30歳の時代の話。小夏は銀ちゃんの子を妊娠しているが、銀ちゃんは小夏をヤスと結婚させるという、酷い提案を行う。結局、小夏とヤスは籍を入れる。昭和の祇園女御である。映画版だとヤス(平田満が演じた)が小夏(松坂慶子)の大ファンだったという告白があるのだが、舞台版ではそれはないようだ。
ちなみに銀ちゃんは白川(おそらく北白川のこと。京都芸術劇場と京都芸術大学が北端にある場所で、京都屈指の高級住宅街)に住んでいるようで、すぐそばでの話ということになっている。小夏は銀ちゃんの5階建てのマンションを訪れ、合鍵を使って中に入り、銀ちゃんの部屋で泣く。


新選組の映画では、池田屋での階段落ちが名物になっているが、危険なので誰もやりたがらない。銀ちゃんはやる気でいるが止められる。警察がうるさいというのだが、銀ちゃんは、「東映は何のためにヤクザを飼ってるんだい」とタブーを言う(東映の任侠ものは本職に監修を頼んでいた。つまり撮影所に本職が何人もいたのである。誰か明言はしないがヤクザの娘が大女優であったりする)。
15年前の「新選組血風録」で階段落ちを行った若山という俳優は、その後、下半身不随になったという。
小夏のお産の費用を捻出するため、ヤスが階段落ちを申し出る(ちなみに階段落ちする志士のモデルは、龍馬の友人である土佐の本山七郎こと北添佶摩という説があり、彼が池田屋の階段を降りて様子を見に行ったというのがその根拠だが、それ自体誰の証言なのかはっきりしない上、階段落ち自体がフィクションの可能性も高いのでなんとも言えない)。
階段落ちの談義の場面では、ニーノ・ロータの「ロミオとジュリエット」のテーマ音楽が流れるが、何故なのかは不明。また京都が舞台なのに、マイ・ペースの「東京」が何度も流れるのも意図はよく分からない。

ヤスは、小夏を連れて故郷の熊本県人吉市に行き、親に小夏を合わせる。ちなみに小夏は茨城県水戸市出身の関東人である。歓迎される二人だったが、小夏の子の親がヤスでないことは見抜かれていた。

ヤスと小夏の結婚式に銀ちゃんが乱入(ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」のパロディーで、「サウンド・オブ・サイレン」が流れる)するというハプニングがあったりするが、ヤスの男を見せるための階段落ちへの決意は変わらず、その日を迎えるのだった。


つかこうへいの演劇の特徴は長台詞が勢いよく語られるところにあり、アクションを入れるのも確かに効果的なのだが、台詞だけでも聞かせられるだけの力があるため、松尾スズキも朗読劇というスタイルを採ったのだろう(役者が動き回るシーンは少しだけだが入れている)。見応えというより聞き応えになるが、確かにあったように思う。

「蒲田行進曲」に納得のいかなかった松竹の井上芳太郎は、「キネマの天地」という映画を制作している。中井貴一と有森也実の出世作であり、渥美清演じる喜八の最期がとても印象的な映画となっている。また、映画「キネマの天地」に脚本家の一人として参加した井上ひさしは戯曲「キネマの天地」を発表。私も観たことがあるが、趣が大きく異なって心理サスペンスとなっている。


今回使用された「蒲田行進曲」のテキストは、風間杜夫の銀ちゃん、平田満のヤスという映画版と同じキャストでの上演を念頭に改訂されたもので、二人の出会いが「早稲田大学の演劇科」であったりと、事実に沿った設定がなされているのが特徴でもある。

親分肌の銀ちゃんと、舎弟キャラのヤスの友情ともまた違った関係が興味深く、そこに落ち目の女優との恋愛話を絡めてくるのが巧みである。銀ちゃんに何も言えないヤスであるが、ラストに階段落ちを見せることで男気を示す。

ちなみに、映画版で私が一番好きなやり取りは、キャデラックの車内で銀ちゃんが、
「おい、俺にも運転させろ!」と言い、
「銀ちゃん、免許持ってないじゃない」との返しに(今と違って、危ないので俳優には運転免許を取らせないという方針の事務所が多かった)、
「ばっきゃろう!! キャデラックは免許いらねえんだよ!!」と啖呵を切るシーンで(啖呵を切ろうが免許がないと運転出来ないのだが)あるが、舞台なのでキャデラックのシーンがなく、当然ながらこのやり取りも入っていない。


実は、東京の小劇団による「蒲田行進曲」の上演を観たことがある。1994年のことで、場所は銀座小劇場という地下の劇場。東京灼熱エンジンというアマチュア劇団の上演であった。「週間テレビ番組」という雑誌の懸賞に母が応募して当たったのである。
東京灼熱エンジンは、階段落ちのシーンで照明を明滅させて、ヤスをスローモーションで見せるという工夫をしていたが、今回は小夏役の笠松はるが、箱馬を積み重ねたような木の箱をスティックで叩くという、音響的な演出がなされていた。ただ正直、音響だけでは弱いように思われる。


若い俳優達も熱演。演技力が特段高いということはないが、つかの演劇に要求されるのは巧さよりもパワー。力強さの感じられるしなやかな演技が展開される。ラストで、俳優陣が「蒲田行進曲」を歌う演出もあるが、今回は音楽が流れただけで歌うことはなかった。

カーテンコールには松尾スズキも姿を見せた。

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2024年10月26日 (土)

東京バレエ団創立60周年記念シリーズ10「ザ・カブキ」全2幕@高槻城公園芸術文化劇場 南館 トリシマホール

2024年10月18日 高槻城公園芸術文化劇場 南館 トリシマホールにて

午後6時30分から、高槻城公園芸術文化劇場 南館 トリシマホールで、東京バレエ団の創立60周年記念シリーズ10「ザ・カブキ」全2幕を観る。振付:モーリス・ベジャール、作曲:黛敏郎。
歌劇「金閣寺」、歌劇「古事記(KOJIKI)」など、舞台作品でも優れた音楽を残している黛敏郎(1929-1997)。バレエ作品としてはコンサートでもよく取り上げられる「BUGAKU(舞楽)」が有名だが、「ザ・カブキ」も上演時間2時間を超える大作として高く評価されている。1986年にモーリス・ベジャールを東京バレエ団に振付家として招くために委嘱されたバレエ作品で、歌舞伎の演目で最も有名な「仮名手本忠臣蔵」をバレエとして再現した作品である。ベジャールは歌劇「金閣寺」を聴いて感銘を受けていたことから黛敏郎に作曲を依頼。黛は、電子音楽や邦楽を入れるなど、自由なスタイルで作曲を行っている。なお、様々な音楽が取り入れられていて生演奏は困難であることから、初演時から音楽は録音されたものが流され、レコーディングでの指揮は作曲者の黛敏郎が担当した。
今回も音楽は録音されたものが流されたが、「特別録音によるもの」とのみ記載。ただ、初演時と同じものである可能性が高い。新しい劇場なのでスピーカーの音響は良い。


ファーストシーンは現代の東京。若者達が電子音に合わせて踊っていると、黒子が現れて、刀を一振り渡す。受け取った男は歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の世界へと入っていく。

なお、この作品は、お軽と勘平が二組現れるのが特徴。一組は「仮名手本忠臣蔵」のおかると勘平で、もう一組は現代のおかると勘平である。


会場となっている高槻城公園芸術文化劇場 南館 トリシマホールは、2023年3月にオープンしたまだ新しい施設。元々は、近くに高槻市民会館という1964年竣工の文化施設が高槻現代劇場と名を変えて建っていたのだが、ここでお笑いの営業を行った笑い飯・哲夫に「えらく古い現代劇場」と言われるなど老朽化が目立っていた。そこで閉鎖して新たに南館を建設。1992年竣工の北館と合わせて高槻城公園芸術文化劇場となった。その名の通り、高槻城跡公園に隣接した場所にあり、かつては高槻城の城内に当たる土地にあるため周囲がそれらしく整備されおり、堀が掘られ、石垣が築かれてその上に狭間のある塀が立つなど、城郭風の趣を醸し出している。トリシマは、高槻市に本社を置く酉島製作所のネーミングライツである。

ホール内の形状についてであるが、一時は、コンサートホール風にサイドの席を平行にして向かい合うようなデザインが流行ったことがあったが、最近は視覚面を考慮してか、往年の公会堂のように、客席から見て「八」の形のようになる内部構造を持つホールがまた増えており、トリシマホールもその一つである。天上も余り高くなく、比較的こぢんまりとした空間だが、大都市のホールではないので、クラシック音楽にも対応出来るよう、風呂敷を広げすぎない設計なのは賢明である。小ホールやリハーサル室など多くの施設が同じ建物内に詰め込まれているため、ホワイエがやや狭めなのが難点で、クロークもあるのかどうか分からなかった。


話を作品内容に戻すと、「仮名手本忠臣蔵」の世界に彷徨い込んだ男は、大星由良助(大石内蔵助の「仮名手本忠臣蔵」での名前)として中心人物になる。松の廊下(時代が室町時代初期に置き換わっているので、江戸城ではなく室町幕府の鎌倉府の松の廊下である)で、浅野内匠頭長矩をモデルにした塩冶判官が、高家の吉良上野介義央をモデルとした高師直に斬りかかり、切腹を命じられる。鎌倉府内には丸に二引きの足利の紋がかかっていたが、切腹の際には、浅野の家紋である「違い鷹の羽」(日本で最も多い家紋でもある)の紋が描かれた衝立が現れる。
「いろは四十七文字」を書いた幕が下りてきて、47人の浪士達が討ち入ることが暗示される。

出演は、柄本弾(つかもと・だん。由良助)、中嶋智哉(なかしま・ともや。足利直義)、樋口祐輝(塩冶判官)、上野水香(ゲスト・プリンシパル。顔世御前)、山下湧吾(力弥)、鳥海創(塩冶判官)、岡崎隼也(おかざき・じゅんや。伴内)、池本祥真(勘平)、沖香菜子(おかる)、後藤健太朗(現代の勘平)、中沢恵理子(なかざわ・えりこ。現代のおかる)、岡﨑司(定九郎)、本岡直也(薬師寺)、星野司佐(ほしの・つかさ。石堂)、三雲友里加(遊女)、山田眞央(男性。与市兵衛)、伝田陽美(でんだ・あきみ。おかや)、政本絵美(お才)、山下湧吾(ヴァリエーション1)、生方隆之介(うぶかた・りゅうのすけ。ヴァリエーション2)。
四十七士ということで終盤では人海戦術も投入される。

「仮名手本忠臣蔵」は大長編なので、ハイライトのみの上演となる。昔、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、一晩の上演で「仮名手本忠臣蔵」を全て見せるという実験的公演が渡辺徹の主演、加納幸和の演出で行われたことがあるが、それに近い。
松の廊下事件と塩冶判官の切腹を受けての城明け渡しと、浪士達の血判状の場面。山崎街道での定九郎による襲撃と定九郎のあっけない死(バレエなので、「…五十両」のセリフはなし。ただ元々ここは端役による繋ぎのシーンだったのだが、中村仲蔵が一人で名場面に変え、それがバレエ作品にも採用されているというのは興味深い)。おかると勘平の別れ。祇園・一力での女遊びと見せかけた欺き(大石内蔵助が遊んだのは実際には祇園ではなく、伏見の撞木町遊郭=現存せずである)。顔世御前と由良助の場。討ち入りの場と全員切腹である。

日本のバレエダンサー、特に男性ダンサーは白人に比べると体格面で圧倒的に不利であり、迫力が違うのだが、日本が舞台の作品で日本人ダンサーしか出ないということでさほど気にはならない。フィギュアスケートで、日本人の男性選手が金メダルを取るようになったことからも分かる通り、食生活の変化で日本人の体格も良くなっており、近い将来ではないかも知れないが、世界的な日本人男性バレエダンサーが今以上に活躍する日が来るかも知れない。女性ダンサーも体格面では劣るが、可憐さなど、それ以外の部分で勝負出来るので、男性と比較しても未来は明るいだろう。
いずれのダンサーも動きにキレがあり、十分な出来である。

演出面であるが、高師直の生首を素のままぶら下げてずっと歩いているというのが、西洋人的な発想である。日本では生首はすぐに布などで包むのが一般的である。
日本的な美意識を日章旗や太陽の影で表すのも直接的で、日本人の振付家ならやらないかも知れない。ただお国のために特攻までやってしまったり、「一億玉砕」を掲げる精神が浮き彫りにはなっている。
ラストに向かって人数が増えて盛り上がっていくところはあたかも視覚的な「ボレロ」のようであるし、一力での甲高い打楽器の音と低弦の不穏な響きなど、重層的な音響が用いられている。またショスタコーヴィチの交響曲第5番の冒頭がパロディー的に用いられるなど、全体的にロシアの作曲家を意識した音楽作りとなっている。黛敏郎は思想的には右翼だったが、左翼の芥川也寸志と親しくしており(坂本龍一とも親しく、高く評価していたため、思想と音楽性は別と考えていたようだ。指揮者に憧れを持っていた坂本龍一は、黛に「坂本君の指揮いいね」と生まれて初めて指揮を褒められて感激している)、ソ連の音楽の理解者であった芥川から受けた影響も大きいのかも知れない。

後年は、「題名のない音楽会」の司会業や政治活動などにのめり込んで、作曲を余りしなくなってしまった黛敏郎。岩城宏之や武満徹から「黛さん、作曲して下さいよ」と度々言われていたという。そのため、作曲家としてのイメージが遠ざかってしまったきらいがあるが、実力者であったことは間違いなく、作品の上演が増えて欲しい作曲家である。

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2024年10月22日 (火)

観劇感想精選(472) シス・カンパニー公演 日本文学シアター Vol.7 [織田作之助] 「夫婦パラダイス~街の灯はそこに~」

2024年9月26日 大阪の森ノ宮ピロティホールにて観劇

午後2時から、大阪の森ノ宮ピロティホールで、シス・カンパニー公演 日本文学シアターVol.7[織田作之助] 「夫婦(めおと)パラダイス ~街の灯はそこに~」を観る。作:北村想、演出:寺十吾(じつなし・さとる)。出演:尾上松也、瀧内公美、高田聖子(たかだ・しょうこ)、福地桃子、鈴木浩介、段田安則。なかなか魅力的な俳優が揃っているのだが、大阪公演は平日のマチネーのみでもったいない。ちなみにナレーターは劇中では明かされなかったが、上演終了後に「高橋克実でした」と正体が明かされた。

一応、織田作之助の『夫婦善哉』を題材にしているのだが、内容は全くといっていいほど重なっていない。有名な折檻のシーンなどもない。川島雄三の映画「洲崎パラダイス 赤信号」の要素も入れているようである。

名古屋を代表する演劇人である北村想。滋賀県大津市の出身であるが、滋賀県立石山高校卒業後は進学しなかったものの、友人がいた名古屋の中京大学の演劇サークルなどに加わり、演劇活動を始めている。鬱病持ちであるため、活動に波のある人でもある。

名古屋の演劇界は、北村想と天野天街が二枚看板だったのだが、天野天街は今年死去。名古屋の大物演劇人は北村想だけとなった。
そんな北村さんであるが、ホワイエにいて、自身の戯曲を買ってくれた人にその場でサインを入れている。戯曲は他の場所で買うよりも安めの価格設定だったので、私も買って北村さんにサインして貰った。買うと同時にサインしてくれるシステムである。呼び込みのおじさんは、「1500円で戯曲を買うと北村先生のサインが貰えます」と呼びかけていたのだが、何度も同じ言葉を繰り返していたためか、途中、「1500円でサインが貰えます」と間違えて言ってしまい、自身でも周囲の人々も笑っていた。


実のところ、天野天街の演劇は触れる機会が比較的多かったが、北村想の演劇は思ったよりも接していない。「寿歌(ほぎうた)」、「十一人の少年」などいくつかに限られ、いずれも北村さん本人は関与していない上演である。北村さんの本は読んでいるし、私は参加はしなかったが、北村さんは伊丹AIホールで、「想流私塾」という戯曲講座を行っており、また出身が滋賀県ということで関西にゆかりのある人だけに自分でも意外である。北村想が原作を手掛けた映画「K-20 怪人二十面相・伝」(出演:金城武、松たか子ほか)などは観ている。

時代物であるが、現代が鏡に映った像のように反映され、鋭い指摘がなされている。


今回の舞台は大阪の東部にある河内地方である。大阪市は北摂地方に当たるため、直接的な舞台ではないが、同じ大阪府内ということでご当地ものと言って良いだろう(大阪市の人は言葉の荒い河内の人と一緒にされるのを嫌がるようだが)。

お蝶(蝶子。瀧内公美)が、欄干にもたれて、鞄の中から色々と取りだしている場面で芝居は始まる。滋賀県野洲(やす)市の出身である是野洲柳吉(これやす・りゅうきち。尾上松也)が下手の客席入り口から登場。客席通路を通って舞台に上がる。
お蝶は元コンパニオンガール。年を取ったので、今はその仕事は出来ない。一時期は三味線芸者をしていたこともある。柳吉は商人の息子であるが放蕩が過ぎたため勘当され、今では浄瑠璃パンク・ロックという特殊なジャンルの芸人をしているが、ほとんど相手にされていない。
金がなくなった二人は、蝶子の腹違いの姉である信子(高田聖子)が営む居酒屋「河童」に転がり込んだ。川を挟んで向かいには公営カジノ「パラダイス」の看板が浮かんでいる。
「河童」のなじみ客に馬淵牛太郎(段田安則)という社長がいる。牛太郎は「パラダイス」でも遊んでいるようだ。
信子には藤吉(鈴木浩介)という亭主がいたのだが、藤吉はある日、「煙草を買いに行ってくる」と言ったきり帰ってこなかった。

なお、福地桃子演じる静子は、出前持ちの女性として登場する。彼女は夢と現実の間で翻弄されることになる。

信子は神棚に胡瓜を供えていた。やがて、居酒屋「河童」に河童が訪れる。藤吉だった。
藤吉は、エクセルが出来るのを見込まれて経理の仕事を始めていたのだった。

江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」、田端義夫の「十九の春」(尾上松也が客席に、「田端義夫を知ってます? 知っている人は結構なお年の人」と振っていた)など、文学や音楽の要素がちりばめられており、照明の転換の仕方などは天野天街の作品に似ていて、名古屋のローカル色が感じられる。歌舞伎の影響を受けて、だんまりの場面があるなど、多ジャンルを横断する形で描かれているのも特徴。フィクションや物語の力も肯定されている。

物質の瞬間移動も用いられている。役者が手にしたものをすっと引っ込めると同時に、別の役者が、同じ種類のものを袖などから引き出して、物体が瞬間移動したように見える技である。これは実は私もやったことがある。私の役目は投げられた振りをした鼓を、投げた俳優の背後で受け取り、体の影に隠すというもので、その間に、向こう側では隠し持っていた鼓を出して、あたかも受け取ったかのように見せかけていた。

また、アドリブが多く、特に尾上松也は段田安則によく突っ込んでいた。

「リバーシブルオーケストラ」、「Amazon」のCM、NHK大河ドラマ「光る君へ」の源明子役で注目を集めている瀧内公美。独特の色気のある女優さんだが、今日はそのスタイルの良さが特に目立っていた。

ベテランの段田安則、実力派の鈴木浩介、関西出身レジェンドの高田聖子らが、楽しみながらの演技を披露し、東京や大阪のそれとは異なる独自のエンターテインメントとして上質の仕上がりとなっていた。

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2024年10月12日 (土)

コンサートの記(860) 2024年度全国共同制作オペラ プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」京都公演 井上道義ラストオペラ

2024年10月6日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後2時から、ロームシアター京都メインホールで、2024年度全国共同制作オペラ、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。井上道義が指揮する最後のオペラとなる。
演奏は、京都市交響楽団。コンサートマスターは特別名誉友情コンサートマスターの豊島泰嗣。ダンサーを使った演出で、演出・振付・美術・衣装を担当するのは森山開次。日本語字幕は井上道義が手掛けている(舞台上方に字幕が表示される。左側が日本語訳、右側が英語訳である)。
出演は、ルザン・マンタシャン(ミミ)、工藤和真(ロドルフォ)、イローナ・レヴォルスカヤ(ムゼッタ)、池内響(マルチェッロ)、スタニスラフ・ヴォロビョフ(コッリーネ)、高橋洋介(ショナール)、晴雅彦(はれ・まさひこ。ベノア)、仲田尋一(なかた・ひろひと。アルチンドロ)、谷口耕平(パルピニョール)、鹿野浩史(物売り)。合唱は、ザ・オペラ・クワイア、きょうと+ひょうごプロデュースオペラ合唱団、京都市少年合唱団の3団体。軍楽隊はバンダ・ペル・ラ・ボエーム。

オーケストラピットは、広く浅めに設けられている。指揮者の井上道義は、下手のステージへと繋がる通路(客席からは見えない)に設けられたドアから登場する。

ダンサーが4人(梶田留以、水島晃太郎、南帆乃佳、小川莉伯)登場して様々なことを行うが、それほど出しゃばらず、オペラの本筋を邪魔しないよう工夫されていた。ちなみにミミの蝋燭の火を吹き消すのは実はロドルフォという演出が行われる場合もあるのだが、今回はダンサーが吹き消していた。運命の担い手でもあるようだ。

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オペラとポピュラー音楽向きに音響設計されているロームシアター京都メインホール。今日もかなり良い音がする。声が通りやすく、ビリつかない。オペラ劇場で聴くオーケストラは、表面的でサラッとした音になりやすいが、ロームシアター京都メインホールで聴くオーケストラは輪郭がキリッとしており、密度の感じられる音がする。京響の好演もあると思われるが、ロームシアター京都メインホールの音響はオペラ劇場としては日本最高峰と言っても良いと思われる。勿論、日本の全てのオペラ劇場に行った訳ではないが、東京文化会館、新国立劇場オペラパレス、神奈川県民ホール、びわ湖ホール大ホール、フェスティバルホール、ザ・カレッジ・オペラハウス、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール、フェニーチェ堺大ホールなど、日本屈指と言われるオペラ向けの名ホールでオペラを鑑賞した上での印象なので、おそらく間違いないだろう。

 

今回の演出は、パリで活躍した画家ということで、マルチェッロ役を演じている池内響に藤田嗣治(ふじた・つぐはる。レオナール・フジタ)の格好をさせているのが特徴である。

 

井上道義は、今年の12月30日付で指揮者を引退することが決まっているが、引退間際の指揮者とは思えないほど勢いと活気に溢れた音楽を京響から引き出す。余力を残しての引退なので、音楽が生き生きしているのは当然ともいえるが、やはりこうした指揮者が引退してしまうのは惜しいように感じられる。

 

歌唱も充実。ミミ役のルザン・マンタシャンはアルメニア、ムゼッタ役のイローナ・レヴォルスカヤとスタニスラフ・ヴォロビョフはロシアと、いずれも旧ソビエト圏の出身だが、この地域の芸術レベルの高さが窺える。ロシアは戦争中であるが、芸術大国であることには間違いがないようだ。

 

ドアなどは使わない演出で、人海戦術なども繰り出して、舞台上はかなり華やかになる。

 

 

パリが舞台であるが、19世紀前半のパリは平民階級の女性が暮らすには地獄のような街であった。就ける職業は服飾関係(グレーの服を着ていたので、グリゼットと呼ばれた)のみ。ミミもお針子である。ただ、売春をしている。当時のグリゼットの稼ぎではパリで一人暮らしをするのは難しく、売春をするなど男に頼らなければならなかった。もう一人の女性であるムゼッタは金持ちに囲われている。

 

この時代、平民階級が台頭し、貴族の独占物であった文化方面を志す若者が増えた。この「ラ・ボエーム」は、芸術を志す貧乏な若者達(ラ・ボエーム=ボヘミアン)と若い女性の物語である。男達は貧しいながらもワイワイやっていてコミカルな場面も多いが、女性二人は共に孤独な印象で、その対比も鮮やかである。彼らは、大学などが集中するカルチェラタンと呼ばれる場所に住んでいる。学生達がラテン語を話したことからこの名がある。ちなみに神田神保町の古書店街を控えた明治大学の周辺は「日本のカルチェラタン」と呼ばれており(中央大学が去り、文化学院がなくなったが、専修大学は法学部などを4年間神田で学べるようにしたほか、日本大学も明治大学の向かいに進出している。有名語学学校のアテネ・フランセもある)、京都も河原町通広小路はかつて「京都のカルチェラタン」と呼ばれていた。京都府立医科大学と立命館大学があったためだが、立命館大学は1980年代に広小路を去り、そうした呼び名も死語となった。立命館大学広小路キャンパスの跡地は京都府立医科大学の図書館になっているが、立命館大学広小路キャンパスがかなり手狭であったことが分かる。

 

ヒロインのミミであるが、「私の名前はミミ」というアリアで、「名前はミミだが、本名はルチア(「光」という意味)。ミミという呼び方は気に入っていない」と歌う。ミミやルルといった同じ音を繰り返す名前は、娼婦系の名前といわれており、気に入っていないのも当然である。だが、ロドルフォは、ミミのことを一度もルチアとは呼んであげないし、結婚も考えてくれない。結構、嫌な奴である。
ちなみにロドルフォには金持ちのおじさんがいるようなのだが、生活の頼りにはしていないようである。だが、ミミが肺結核を患っても病院にも連れて行かない。病院に行くお金がないからだろうが、おじさんに頼る気もないようだ。結局、自分第一で、本気でルチアのことを思っていないのではないかと思われる節もある。


「冷たい手を」、「私の名前はミミ」、「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)など名アリアを持ち、ライトモチーフを用いた作品だが、音楽は全般的に優れており、オペラ史上屈指の人気作であるのも頷ける。


なお、今回もカーテンコールは写真撮影OK。今後もこの習慣は広まっていきそうである。

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2024年10月11日 (金)

観劇感想精選(471) 日米合作ブロードウェイミュージカル「RENT」 JAPAN TOUR 2024大阪公演

2024年9月14日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後5時30分から、大阪・梅田のSkyシアターMBSで、日米合作ブロードウェイミュージカル「RENT」JAPAN TOUR 2024 大阪公演を観る。英語上演、日本語字幕付きである。
SkyシアターMBSは、大阪駅前郵便局の跡地に建てられたJPタワー大阪の6階に今年出来たばかりの新しい劇場で、今、オープニングシリーズを続けて上演しているが、今回の「RENT」は貸し館公演の扱いのようで、オープニングシリーズには含まれていない。

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プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」をベースに、舞台を19世紀前半のパリから1990年代後半(20世紀末)のニューヨーク・イーストビレッジに変え、エイズや同性愛、少数民族など、プッチーニ作品には登場しない要素を絡めて作り上げたロックミュージカルである。ストーリーなどは「ラ・ボエーム」を踏襲している部分もかなり多いが、音楽は大きく異なる。ただ、ラスト近くで、プッチーニが書いた「私が街を歩けば」(ムゼッタのワルツ)の旋律がエレキギターで奏でられる部分がある。ちなみに「私が街を歩けば」に相当するナンバーもあるが、曲調は大きく異なる。

脚本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン。演出:トレイ・エレット、初演版演出:マイケル・グライフ、振付:ミリ・パーク、初演版振付:マリース・ヤーヴィ、音楽監督:キャサリン・A・ウォーカー。

出演は、山本耕史、アレックス・ボニエロ、クリスタル ケイ、チャベリー・ポンセ、ジョーダン・ドブソン、アーロン・アーネル・ハリントン、リアン・アントニオ、アーロン・ジェームズ・マッケンジーほか。
観客とのコール&レスポンスのシーンを設けるなど、エンターテインメント性の高い演出となっている。

タイトルの「RENT」は家賃のことだが、家賃もろくに払えないような貧乏芸術家を描いた作品となっている。

主人公の一人で、ストーリーテラーも兼ねているマークを演じているのは山本耕史。彼は日本語版「レント」の初演時(1998年)と再演時(1999年)にマークを演じているのだが、久しぶりのマークを英語で演じて歌うこととなった。かなり訓練したと思われるが、他の本場のキャストに比べると日本語訛りの英語であることがよく分かる。ただ今は英語も通じれば問題ない時代となっており、日本語訛りでも特に問題ではないと思われる(通じるのかどうかは分からないが)。
マークはユダヤ系の映像作家で、「ラ・ボエーム」のマルチェッロに相当。アレックス・ボニエロ演じるロジャーが詩人のロドルフォに相当すると思われるのだが、ロジャーはシンガーソングライターである。このロジャーはHIV陽性である。ミミはそのままミミである(演じるのはチャベリー・ポンセ)。ミミはHIV陽性であるが、自身はそのことを知らず、ロジャーが話しているのを立ち聞きして知ってしまうという、「ラ・ボエーム」と同じ展開がある。
ムゼッタは、モーリーンとなり、彼女を囲うアルチンドロは、性別を変えてジョアンとなっている。彼女たちは恋人同士となる(モーリーンがバイセクシャル、ジョアンがレズビアンという設定)。また「ラ・ボエーム」に登場する音楽家、ショナールが、エンジェル・ドゥモット・シュナールドとなり、重要な役割を果たすドラッグクイーンとなっている。

前半は賑やかな展開だが、後半に入ると悲劇性が増す。映像作家であるマークがずっと撮っている映像が、終盤で印象的に使われる。
「ラ・ボエーム」は悲劇であるが、「RENT」は前向きな終わり方をするという大きな違いがある。ロック中心なのでやはり湿っぽいラストは似合わないと考えたのであろう。個人的には、「ラ・ボエーム」の方が好きだが、「RENT」も良い作品であると思う。ただ、マイノリティー全体の問題を中心に据えたため、「ラ・ボエーム」でプッチーニが描いた「虐げられた身分に置かれた女性」像(「ラ・ボエーム」の舞台となっている19世紀前半のパリは、女性が働く場所は被服産業つまりお針子や裁縫女工、帽子女工など(グリゼット)しかなく、彼女達の給料では物価高のパリでは生活が出来ないので、売春などをして男に頼るしかなかったという、平民階級の独身の女性にとっては地獄のような街であった)が見えなくなっているのは、残念なところである。

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2024年10月 3日 (木)

観劇感想精選(470) 「十三代目 市川團十郎白猿襲名披露巡業」京都公演@ロームシアター京都メインホール

2024年9月21日 左京区岡崎のロームシアター京都メインホールにて

午後1時から、左京区岡崎のロームシアター京都メインホールで、「十三代目 市川團十郎白猿襲名披露巡業」の京都公演を観る。

市川團十郎白猿を襲名し、京都での披露公演は、昨年12月に京都四條南座での顔見世で行われたのだが(所用により行けず)、47都道府県を巡る襲名披露巡業の一つとして、再び京都で、会場を変えて公演が行われることとなった。

演目は、「祝成田櫓賑(いわうなりたしばいのにぎわい)」、「十三代目市川團十郎白猿襲名披露口上」、「河内山(こうちやま)」


「祝成田櫓賑」には團十郎は出演しない。市川團十郎の襲名を祝うための歌舞伎舞踊の演目であり、それ以外の時には上演されないのだと思われる。今井豊成の補綴、藤間勘十郎の振付。
出演は、市川右團次、市川九團次、大谷廣松、市川新十郎、市川升三郎、片岡市蔵ほか。

踊りの家に生まれた右團次だけに、舞踊には迫力とメリハリがあり、魅せる。流れを生みつつ、名捕手のキャッチングのようにビシッと止める様が格好いい。九團次と廣松のコンビも息の合った舞踊を見せる。廣松は立っているだけで艶(あで)な感じが出ているのが良い。


「十三代目市川團十郎白猿襲名披露口上」。團十郎白猿と、中村梅玉が出演する。
まず、中村梅玉が、株式会社松竹からのご提案、諸先輩からのお引き立て、後援してくれるのお客様からのご声援により、このたび市川海老蔵改め第十三代目市川團十郎白猿を襲名する運びになったことを告知する。梅玉は、團十郎白猿のことを、「先代と同じく大きな役者」と讃え、伝統を守りつつ新しいことに挑む、言うのは容易いが行うのは難しいことを成し遂げる力を持った俳優だと賛美し、歌舞伎界に革新をもたらす可能性を示唆する。
また、「河内山」では、團十郎の相手役をずっとやっているが、成長していくのが間近で感じられると褒め称えた。

市川團十郎白猿の襲名披露口上。株式会社松竹からのご提案等、梅玉と同じ言葉を繰り返して、襲名に至る過程と感謝を述べ、代々続いてきた大名跡を受け継ぐ覚悟を口にする。

そこから京都の思い出を語る。子どもの頃、顔見世のある12月には父親(第十二代目市川團十郎)と共に京都に来て、旅館で過ごしていた。父親の帰りが夜遅くなることもあり、その間ずっと旅館で「大変なんだろうな」と思って待っていたと回想する。それでも朝になると父親が、南座まで連れて行ってくれたこともあったそうである。父親が演じる「助六」を初めて観たのも京都においてだった。

ちなみに、「私はロームシアターは初めてでして。これがロームシアターでの顔見世。大好きな京都で二度襲名披露の顔見世が出来て嬉しい」と述べる。

京都での初演目は「連獅子」であったそうだが、「来月、大阪松竹座の襲名披露で、私が親獅子で『連獅子』をやります。京都から(新)大阪までは、新幹線で16分。観に来て頂ければ」と宣伝していた。京都から大阪まで新幹線で行く人はまずいないと思われるが。新大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗って、心斎橋まで行くわけだが、新大阪駅は大阪市の北の外れの方にあるので、案外、時間が掛かるはずで、京阪や阪急を使った方が便利だと思われる。ちなみに團十郎は「連獅子」で共演する息子のことを新之助ではなく、勸玄と本名で呼んでいた。

梅玉がそれを受け、「歌舞伎の発展のために尽くす所存。隅から隅までずずずいーっと、宜しくお願い申し上げます」と二人で頭を下げ、頭を上げてから團十郎が「これからもご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます」と言って再び二人で頭を下げた。


「河内山」。正式には「天衣紛上野初花 河内山」で、河竹黙阿弥の作である。出演は、市川團十郎白猿(市川海老蔵改め)、市川右團次、大谷廣松、中村莟玉(かんぎょく)、市川新蔵、中村梅蔵、市川新十郎、市川升三郎、中村梅秋、市川右田六、市川九團次、片岡市蔵、中村梅玉ほか。

江戸が舞台である。下谷の質屋、上州屋の娘である浪路(中村莟玉)が、18万石の大守、松江出雲守(中村梅玉)の江戸屋敷に奉公に出たのだが、美人であったため、松江出雲守に見初められる。しかし浪路には、許婚がいたため、松江出雲守の誘いを断った。松江出雲守は、激怒し、浪路を一室に閉じ込めてしまう。浪路の父親である上州屋の主がこれを知り、親類である和泉屋清兵衛に助けを求める。清兵衛は、江戸城の御数寄屋茶坊主である河内山宗俊(市川團十郎白猿)に相談。河内山は、坊主であることを利用し、上野の東門主(上野にある東叡山寛永寺の主)の使いの高僧、北谷道海として松江出雲守の江戸屋敷に乗り込む。

まず、河内山邸の庭先で、河内山の家来である桜井新之丞(市川九團次)らが、慣れない若侍の格好をして、松江出雲守の江戸屋敷でのことを語っているが、ここで客席の方に向き直って、これまでのあらすじとこれからの大まかな出来事を語る口上役となる。河内山は、礼金200万両を要求している。果たして善人なのか金の亡者なのか、それは見る人にお任せするというスタイルであることを語る。ちなみに「山吹の茶」という言葉が出てくるが、これは金子(きんす)のことだと説明する。
ここでいったん幕が閉じられ、幕が再び開くと、舞台は松江出雲守の江戸屋敷内広間に変わっている。松江出雲守は浪路を手討ちにしようとするが、近習頭の宮崎数馬(大谷廣松)に止められる。諫言する数馬に出雲守は更に怒りを爆発させるが、北村大膳(片岡市蔵)が、数馬と浪路の密通を疑う発言をしたために自体は更にエスカレート。だがここは家老の高木小左衛門(市川右團次)が出雲守を何とかなだめた。
上野の東門主の使いの高僧が来訪したとの知らせがあり、一同はいったん、落ち着く。出雲守は、奥に引っ込み、病気を称する。

高僧、北谷道海は、出雲守がいないのを見とがめ、松江出雲守の家の大事のことだと告げて、出雲守を呼び出す。出雲守は、病気のところを無理して出てきたという風を装う。
道海は、浪路を家に帰すよう出雲守に告げる。渋る出雲守であったが、絶大な権力を持つ東叡山寛永寺の僧である道海は、老中らとの繋がりをちらつかせ、出雲守もこれを受け入れざるを得なくなった。
道海への接待が行われるが、道海は、「酒は五戒に触る」として代わりに山吹の茶を所望する。運ばれてきた金子に道海が手を伸ばそうとした時に、時計が鳴り、道海は思わず手を引っ込める。

場所は変わって、松江出雲守の屋敷の玄関先。道海が帰ろうとするが、大膳が道海を呼び止める。大膳は以前、江戸城での茶会で河内山を見たことがあり、道海の正体が河内山であることを見抜いていた。河内山の左頬には大きなほくろがあるのだが、それが証拠だという。河内山も仕方なく正体を明かす。
大膳は河内山を斬首にしようとするが、河内山は幕府の直参であり、安易に手出しが出来ないことを大膳に教える。また、自分に手を出そうとすれば、この松江出雲守の行状を明かすと脅す。家老の小左衛門が大膳をとがめ、河内山は悠然と帰路に就く。大柄の大膳を「大男、総身に知恵が回りかね」という有名な川柳で揶揄し、「バーカーめ!」となじりながら去るのであった。


歌舞伎の場合、日頃から自宅などでも稽古を繰り返して、役をものにしてから本番に臨むのが常であるが、團十郎の演技はフリージャズ風。動きや感情にある程度余裕を持たせ、予め作り上げて再現するというよりも、その場その場、そして相手によって即興的に合わせた演技を行っているように感じられる。実際にどうなのかは分からないが、少なくともそういう風には見える。セリフが強弱、緩急共に自在というのもそうした印象を強めることになる。海老蔵時代にはこんな演技はしていなかったはずだが、歌舞伎界最高の名跡である市川團十郎を手にしたことで、独自のスタイルを生み出すことに決めたのかも知れない。少なくとも私は、今日の團十郎のような演技をする歌舞伎俳優を見るのは初めてである。

スキャンダルが多く、人間的には好ましくない人物なのかも知れない團十郎白猿。しかし歌舞伎俳優としての才能には、やはり傑出したものがありそうだ。今後、團十郎白猿は歌舞伎界を変えていくだろう。

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