カテゴリー「劇評」の310件の記事

2022年8月 7日 (日)

観劇感想精選(441) マームとジプシー 「COCOON」(再々演)@京都芸術劇場春秋座

2022年7月31日 京都芸術劇場春秋座にて観劇

午後1時から、京都芸術劇場春秋座でマームとジプシーの公演「COCOON」を観る。今日マチ子が沖縄戦を題材に描いたマンガを藤田貴大の作・演出で舞台した作品。今回が再々演(三演)であるが、演出をかなり変えたようである。

出演:青柳いずみ、菊池明明、小泉まき、大田優希、荻原綾、小石川桃子、佐藤桃子、猿渡遙、須藤日奈子、高田靜流、中嶋有紀乃、仲宗根葵、中村夏子、成田亞佑美、石井亮介、内田健司、尾野島愼太朗。映像:召田実子。文献調査:橋本倫史、青柳いずみ。音楽:原田郁子。

今日マチ子の原作は、サンとマユ(マユは実は兵役逃れのために女装した男である)の二人が主人公の話であるが、舞台版の「COCOON」は他の登場人物にも光を当てた群像劇に近い形になっている(原作で役名のない登場人物は、出演者の名前をそのまま振っている)。同じシーンを何度も繰り返すリフレインの手法を特徴とする藤田貴大の演出であるが、他のキャストの情報を分厚くすることは、その手法を生かす上でも効果的であり、なによりあからさまな「脇役」を減らすのにも役立っている。

ただ、群像劇にするための学園の場面を増やしたことは諸刃の剣であって、登場人物が魅力的に見えやすくなるのと同時に、全体のバランスを欠きやすい。原作と違って、平和時の部分がかなり長くなっていたが、「ちょっと長すぎる」と感じたのも事実である。平時の華やかな女学生生活と戦時の悲惨さがより鮮やかに対比されるようになってはいたが、色々と詰め込みすぎで、そこまで長くする必要はなかったように感じられてしまうのである。結果として上演時間2時間半越えという大作になっていた。

女学生を演じるキャスト陣が魅力的ということもあって、見終わっての感想はなかなかの好印象であったが、演出が余りにも演劇的なのには疑問符が浮かぶ。「演劇のための演劇」をしてしまっているのである。フレームを用いる演出は、マンガのコマを象徴するようでもあり、そうした見方をすればある程度の必然性は感じられるのだが、馬跳びや縄跳びなども加えた展開は余りにも煩瑣であり、ガマ(洞窟、自然の防空壕)での女学生の「いっせいの、せ!」というセリフのリフレインも句読点的に用いすぎたがために途中で、「長台詞を不自然に感じさせないための手法」としか聞こえなくなる。技法が技法として手法が手法として見えるのは「余りに演劇的」であり、「演劇でしかない演劇」を見せられているようで、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということわざが浮かぶ。

舞台上を所狭しと走り続ける出演者達の体力は見事で、やはり煩瑣ではあるのだが戦時の混乱と戦きを上手く表していたように思う。役者が若いからこそ出来る表現で、アングラの正統を受け継いでいるようでもある。もし冒頭の学園の部分を落ち着いた表現にして少し短めにしていれば、より切実さは増したと思われるが、若い人のエネルギーをダイレクトに受け取れる公演はそれだけで良いものだとも思える。この作品のリフレインは夢のような儚さと懐かしさを浮かび上がらせる点でかなり効果的で、原作よりも舞台版の方を好む人も多いだろう。

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2022年8月 4日 (木)

観劇感想精選(440) 兵庫県立ピッコロ劇団 「三人姉妹」

2022年7月20日 尼崎・塚口の兵庫県立ピッコロシアター中ホールにて観劇

午後6時30分から、尼崎・塚口のピッコロシアター中ホールで、兵庫県立ピッコロ劇団の「三人姉妹」を観る。ピッコロ劇団の島守辰明の翻訳と演出での上演である。島守はロシア国立モスクワ・マールイ劇場(「マールイ」は「小さい」という意味で、「大きい」を意味する「ボリショイ」の対義語)及びマールイ劇場附属シェープキン演劇学校で学んでおり、ピッコロ劇団でもチェーホフ作品を手掛けている。

チェーホフの四大戯曲の一つである「三人姉妹」。日本語訳テキストの上演のほかに翻案作品も数多く作られていることで知られている。私も「三人姉妹」はいくつか観ているのだが、納得のいく出来のものにはまだ出会えていない。チェーホフの上演は想像よりも難しく、そのまま上演するとあらすじを流したようになってしまい、下手に手を加えるともうチェーホフ作品にならない。かなり繊細な本で、これまでは無理に「面白くしてやろう」と手を加えて、全体が捉えられなくなり、結果としてとっちらかったような印象ばかりが残ってしまうことが多かった。


出演は、吉江麻樹(オリガ)、樫村千晶(マーシャ)、有川理沙(イリーナ)、谷口遼(アンドレイ)、山田裕(ヴェルシーニン)、今仲ひろし(クルイギン)、鈴木あぐり(ナターリヤ=ナターシャ)、堀江勇気(ソリョーヌイ)、三坂賢次郎(トゥーゼンバフ)、杏華(アンフィーサ/母)、風太郎(フェラポント/父)、チェブトゥイキン(森好文)。

「三人姉妹」に通じた方の中には、「あれ?」と思われる役名が存在すると思われるが、「生と死」「在と不在」を強調するために、幽霊役も演じる俳優がいるのである。


ロシアの田舎。チェーホフの指定によると県庁所在地の街が舞台である。ただ、三人姉妹が暮らす屋敷は、駅や街の中心地からも遠い。

三人姉妹の長女であるオリガは教師として働き、次女であるマーシャ(マリア)は、教師であるクルイギンと結婚。二十歳で世間知らずのイリーナは働くことに夢と希望を持っているが、実際に電信局で働き始めると、夢も詩も思想もない生活に辟易し始める。

三人の憧れの地として、11年前に離れた故郷であるモスクワの名が何度も語られるが、結局はその街は、行くことのままならない理想郷としてのみ語られる。人類がたどり着くべき未来などもモスクワという言葉に仮託されている。良いことなどなにも起こらぬままの人生を働くことなどでなんとか乗り切ろうとする人生の悲しい姿がそこにある。

この作品の最大の謎の一つが、ナターシャ(ナターリヤ。ロシア語には愛称の種類がたくさんあり、一人の人間に対して多くの愛称が語られるため、ロシア語圏以外の観客を戸惑わせる元となっている。ロシアの小説には、愛称の注釈なども載っていることが多いので、読んで慣れるしかない)という女性である。最初は恥ずかしがり屋で頼りない印象を与える(今日はそれほどではなかったが)が、冒頭から4年ほどが経過した第2幕では、アンドレイとの間に生まれた子どもの環境を良くするために、イリーナの部屋を明け渡すよう要求するなど、かなり図々しい性格に変化しており、最終的には当家の女主のように振る舞う。この女性は一体何なのか? ただの悪女として登場しただけではないはずである。
ロシア文学を読んでいると、当初は大人しく世間知らずだった若い女性が、いつしか相手の男をしのぐ強い女性に変身しているというケースがままあることに気づく。チェーホフの「かもめ」のニーナもその一人だし、プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」のタチヤーナもそうだ。いずれも「余計者」の相手役であるが、ナターシャの相手となるアンドレイも「余計者」とまではいかないが、大学教授や市井の研究家となることを期待されるも果たせず、片田舎の市会議員で満足するしかなく、子どもをあやして生活するような、ナターシャの尻に敷かれている男である。
単純に時が経過したということなのかも知れないが、ナターシャの場合は、ニーナやタチヤーナに比べてはるかに化け物じみており、実際に「怪物」と形容するセリフがある。なにかのメタファーだと考えてよいと思われるが、すぐに思い浮かぶもの、例えばロシアという国家などはおそらく正解ではない。目の前の人生を生きやすくし、一方で誰かに迷惑を掛けるような指向性のメタファーである。そうなると現在の世界を覆う多くの主義主張はナターシャのような怪物になってしまう訳だが。あるいは「現実主義」という言葉が彼女の性格をより的確に表しているのかも知れない。
見方を変えれば、ロシアがヨーロッパに対して抱く恐れをあるいは体現しているのかも知れないが。

街は駐屯している軍隊の恩恵を受けており、実際にマーシャはヴェルシーキンと、イリーナはトゥーゼンバフやソリョーヌイという軍人と恋愛関係になるが、軍隊が去るのと同時に彼らも目の前から消えていく。トゥーゼンバフに至ってはこの世から去る。太宰治がとある有名小説にその影響を記したと思われる言葉は果たされることなく終わる。

神も希望もなにもない世界を、ゴドーが来るまで立ち去ることが出来ないジジとゴゴのようにただ生きなければならないという寂寥。今回のラストでは、三人姉妹とアンドレイの父と母、ヴェルシーキン、トゥーゼンバフとソリョーヌイら去る人、去った人が竹林をイメージした茂みの向こうに立ち、上手へと去って行くという演出が施されていた。皆、「希望」でもあった人である。そうした何の望みもない場所で、生きていかねばならないという不条理がカタルシスを呼ぶよう工夫されていた。

「生と死」「在と不在」と描くため、青や緑といった寒色系の照明の多用が特徴。音楽も、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章以外は、アンビエント系のものが用いられており、生きる希望が沸くようなドラマに欠けた現実世界を照射しているかのようであった。

これが正解という訳では勿論ないが、「三人姉妹」の再現として良い点を突いた演出であることは間違いない。大手プロダクションが手掛ける「三人姉妹」は、どうしても大物女優がキャスティングされやすくなるが、「三人姉妹」に関しては、有名女優であることが却ってマイナスに働くであろうことは容易に察せられる。必要なのは三人の特別な姉妹ではなく、群像劇に溶け込める平凡な三人の姉妹である。その点でも今日の上演は理想に近いものであったといえる。

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2022年8月 2日 (火)

コンサートの記(794) びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」

2022年7月18日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール中ホールにて

午後2時から、びわ湖ホール中ホールで、びわ湖ホール オペラへの招待 ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」を観る。

ヴェルディ最後のオペラとなった「ファルスタッフ」。シェイクスピアの戯曲「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作に、作曲家としても名高いアッリーゴ・ボーイトが台本を手掛け、一度は引退を決意していたヴェルディが最後の情熱を燃やして作曲した作品としても知られる。ボーイトの台本にヴェルディはかなり魅了されたようだ。
ヴェルディは、悲劇作家であり、喜劇オペラ(オペラ・ブッファ)は、2作品しか残さなかった。そのうちの1つが「ファルスタッフ」である。


園田隆一郎指揮大阪交響楽団(コンサートマスター:林七奈)の演奏。演出は、国立音楽大学を経てミラノ・ヴェルディ音楽院に学び、多くの著名演出家の演出助手として活躍した経験を持つ田口道子。出演はびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーを中心としたWキャストで、今日はB組の出演。青山貴(ファルスタッフ)、市川敏雅(フォード)、清水徹太郎(フェントン。本来出演予定だった有本康人が体調不良で降板したため、A組の清水が出演)、古屋彰久(カイウス)、奥本凱哉(おくもと・ときや。バルドルフォ)、林隆史(はやし・たかし。ピストーラ)、山岸裕梨(やまぎし・ゆり。アリーチェ。インスペクター兼任)、熊谷綾乃(くまがい・あやの。ナンネッタ)、藤居知佳子(クイックリー夫人)、坂田日生(さかた・ひなせ。メグ・ペイジ)。合唱も、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが出演する。


上演の前にまず、演出家の田口道子によるお話がある。新型コロナがまた勢いを増しているということでマスクを付けてのトークである。
ヴェルディが「ファルスタッフ」を作曲しようと思い立ったきっかけ(ボーイトの台本の存在感)、ヴェルディが初めて手掛けた喜劇オペラが上演最中に打ち切りになったこと、ヴェルディのその時の心境(妻と娘を亡くした中で喜劇オペラを作曲していた)などが語られる。
またオペラが総合芸術であり、あらゆる芸術が詰め込まれた豪華なものであること。一方で、初めて観る人にも分かりやすい演出を心がけたことなどが語られた(後方のスクリーンに映像を投影させる(「紙芝居のような」演出であった)。


実は、原作となったシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房達たち」は、シェイクスピア作品のワースト争いの戯曲として知られている。偽作説まであるほどだが、エリザベス女王の御前上演会のために短期間で書かれたこと、そもそも本格上演用ではなく余興用の台本だったことなどがマイナスに作用したという説が有力である。猥語の頻用、奇妙なフランスなまりの英語、子どもだましのような展開など、「偽作」と言われるだけの要素が多いが、この作品のオペラ化を試みた作曲家もヴェルディのみに留まらず、ファルスタッフという人物が多くの人々を魅了してきたことも窺える。
ボーイトは、オペラ用台本ということで、当然ながら筋や登場人物をカットしたものを書いているのだが、それが上手くいったようである(同じような場面をカットした効果は大きい)。初演時から好評を得ており、今に至るまでヴェルディ屈指の人気作となっている。


ガーター亭で過ごしているファルスタッフが、金策のためにアリーチェ・フォードとメグ・ペイジという金持ちの夫人二人に恋文を送ろうとするところから始まる(シェイクスピアの原作はそれよりも前に色々な展開があるのだがカットされている)。バルドルフォとピストーラという使用人になぜか拒否されるが、恋文はアリーチェとメグに届く。
ところが文面が全く同一のものであったため、アリーチェとメグは激怒。ファルスタッフを懲らしめてやることにする。一方、アリーチェの娘であるナンネッタはフェントンに恋しているのだが、父親のフォードは、金持ちの医者であるカイウスと娘の結婚を画策していて……。


恋と嫉妬、復讐を果たすまでの頭脳戦と予期せぬドタバタ、道ならぬ恋など、オペラで受けそうな要素が満載である。やはり演劇と歌劇とでは客受けの良いものが微妙に異なっている、というよりも客に受けそうな要素だけでボーイトが脚本を編んだのが良かったようだ。常識的に考えて変な場面も実は多いのだが、そこは音楽の力で増強増補していく。

田口道子の演出は、滑稽な動きを強調したものであり、特にファルスタッフ役の青山貴とクイックリー夫人役の藤居知佳子の演技は、チャーミングでもあり、コメディの要素も生かし切っていた。
アリーチェ役の山岸裕梨とメグ・ペイジ役の坂田日生の安定感、またナンネッタ役の熊谷綾乃の可憐さを強調した演技も説得力があった。

園田隆一郎指揮大阪交響楽団も活きの良い演奏を聴かせる。大阪交響楽団は、大阪府内に本拠地を置くコンサートオーケストラの中で最も歴史が浅く、演奏会ではたまに非力さを感じさせたりもするのだが、びわ湖ホール中ホールは空間がそれほど広くないということもあって、迫力も万全である。
イタリアオペラを指揮することの多い園田隆一郎の絶妙のカンタービレも流石であった。

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2022年7月21日 (木)

コンサートの記(789) 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニ 歌劇「ラ・ボエーム」 2022.7.17

2022年7月17日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールにて

午後2時から、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールで、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2022 プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を観る。

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モーツァルトの「魔笛」やビゼーの「カルメン」と共に、音楽雑誌などの好きなオペラランキング1位争いの常連である「ラ・ボエーム」。パリを舞台に、芸術家に憧れる若者とお針子との悲恋を描いた作品である。それまでは芸術というと、例外は案外多いが上流階級が行うものであり、たしなみでもあったのだが、プッチーニの時代になると市民階級が台頭。芸術を楽しんだり、あるいは自分で芸術作品を生み出そうとする市民が現れる。たまたますぐに認められる人もいたが、大半は長い下積みを経験し、芽が出ないまま諦めたり、貧困の内に他界する者も多かった。そんな新しい「種族」であるボヘミアン(フランス語で「ボエーム」)は、人々の目を驚かし、あるいは唾棄され、あるいは憧れられる存在となっていった。

今回、演出・装置・衣装を手掛けるのは、1943年、イタリア・マルチェラータ生まれのダンテ・フェレッティ。多くの映画監督やオペラ演出家と仕事をしてきた巨匠である。フランコ・ゼフィレッリのオペラ映画で美術を手掛け、その後にピエル・パオロ・パゾリーニ作品5本に美術担当として参加。近年はマーティン・スコセッシ監督と多く仕事をこなしている。

フェレッティは、ボヘミアン達の住み処をアパルトマンの屋根裏部屋から、セーヌ川に浮かぶ船に変更。垂直の移動をなくすことで、パリの地上に近づける工夫を施している。個人的にはアパルトマンの屋根裏から見えるパリの光景が、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』で語られる最後のセリフ、「パリよ今度はお前が相手だ」に繋がるようで気に入っているのだが、船上で暮らすボヘミアン達というのはそれはそれで面白いように思う。ただ船上に住むとした場合、隣の部屋に人知れず住んでいるミミという女性のキャラクターは余り生きないように思う。今回のミミは、船のセットの前を歩いて後方に回り、船内の部屋のドアの向こうに立って人を呼ぶという設定になる。元々は火が消えたから分けて欲しいという設定なのだが、船の家までわざわざやって来て、火を分けて欲しいというのは変である。ミミはおそらく舞台上手側にある部屋に住んでいて、船の家まで来たと思われるのだが、その場合は、ロドルフォが男前なので、近づきたいがために無理な設定をでっち上げたということなのだろうか。他に理由があるのかも知れないが、思いつかない。


指揮はいうまでもなく佐渡裕。兵庫芸術文化センター管弦楽団(PACオーケストラ)の演奏。ゲストコンサートマスターはステファノ・ヴァニヤレッリ(トリノ王立歌劇場管弦楽団コンサートマスター)、第2ヴァイオリントップはペーター・ヴェヒター(元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席)、チェロ客演首席はレリヤ・ルキッチ(トリノ王立歌劇場管弦楽団首席)。第2幕のカフェ・モミュスの場に現れる軍楽隊のメンバーの中に、元京都市交響楽団トランペット奏者の早坂宏明の名が見える。
プロデューサーは小栗哲家(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主役を張っている小栗旬の実父)。

ダブルキャストによる上演で、今回はヨーロッパの若手歌手を中心としたA組の出番である。出演は、フランチェスカ・マンゾ(ミミ)、エヴァ・トラーチュ(ムゼッタ)、リッカルド・デッラ・シュッカ(ロドルフォ)、グスターボ・カスティーリョ(マルチェッロ)、パオロ・イングラショッタ(ショナール)、エウジェニオ・ディ・リエート(コッリーネ)、清原邦仁(パルピニョール)、ロッコ・カヴァッルッツイ(ベノア/アルチンドーロ)、島影聖人(物売り)、時宗努(軍曹)、下林一也(税官吏)。合唱は、ひょうごプロデュースオペラ合唱団、ひょうご「ボエーム」合唱団、ひょうごプロデュースオペラ児童合唱団。
ひょうごプロデュースオペラ合唱団のメンバーには関西では比較的有名な若手歌手も含まれている。

第2幕のカフェ・モミュスの場では、ステージ上がかなり密になるということで、吉田友昭(医学博士/感染制御医)と浮村聡(医学博士/大阪医科薬科大学大学院感染対策室長)という二人の医学関係者が感染対策の監修を手掛けている。


舞台設定は大きく変えたが、演技面などに関してはいくつかの場面を除いてオーソドックスな手法が目立つ。セットではやはりカフェ・モミュスのテラス席と屋内を一瞬で転換させる技法が鮮やかである。

オーディションを勝ち抜いた若手歌手達の歌と演技も楽しめる水準にあり、特にムゼッタを演じたエヴァ・トラーチュのコケティッシュな演技と歌声が魅力的であった。

佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏も潤いと艶と勢いがあり、私が座った席の関係か、たまに鳴り過ぎに聞こえる場面があったが、生命力に満ちている。在籍期間が最長3年で、常に楽団員が入れ替わる育成型オーケストラであるため、他のプロオーケストラに比べると独自の個性は発揮出来ないが、一瞬一瞬の価値を大事にしたフレッシュな演奏が可能ともなっている。


第3幕の「ダダン!」という音による始まりと終わりについてであるが、個人的には、アンフェール関門(インフェルノ関門)という場所が舞台になっているため、地獄の扉が開く音として捉えている。第2幕であれほど生き生きしていたボエーム達とミミが、第3幕では、ミミの病気やロドルフォのミミに対するDV、マルチェッロとムゼッタの喧嘩などで、地獄への道へと落ちていくことになる。

立場はそれぞれ違えども、ステージにいる人、客席にいる人の多くが、ボエーム達の生活に憧れたか、実際にそういう暮らしを送った人達であり、己の姿を投影することの可能な作品である。

一方で、この時代は女性にとっては残酷であり、地方からパリに出てきてお針子になる女性が多かったが、パリの家賃や物価は高く、多くは仕事をしているだけでは生活出来ず、売春などで小金を稼ぐ必要があった。ムゼッタのように金持ちに囲われ、歌の教師などの職を得るものもあれば、ミミのように売春をしても暮らしは楽にならず、若くして命を散らすことも決して珍しくなかった。女性でも芸術方面で活躍している人もいるにはいたが、彼女達は基本的に上流階級の出身であり、そうでない多くの女性は芸術家(ボエーム)になることも許されず、地獄のような生活を送る人も少なくはなかった。

ミミというのは俗称で(売春をする女性は、ミミのように同じ音が続く俗称で呼ばれることが多かった。ムゼッタの俗称はルルである)本名はルチア。「Lux」に由来する「光」という名の名前である。この作品でもロドルフォの戯曲を燃やす暖炉の明かり、ミミが借りに来る「火」の灯り、カフェ・モミュスの輝き、第3幕での春の陽の光に抱く恐れや、最後の場面での日光に関するやり取りなど、「光」が重要な鍵となっている。

ロドルフォは最後までミミのことを本名のルチアで呼ばない。結婚相手とは考えられないのだ。本名で呼ぶような関係の夫婦となるのに多くの障壁がある。まず金銭面、身分の問題(ロドルフォは売れない詩人、ミミは売春も行うお針子)、そして価値観の違い。ミミはボエーム達のように芸術に関して深く理解する力はなかっただろう。ロドルフォはミミを愛しい人とは思っても結婚相手とは見ておらず、芸術上の同士とも考えていないため、「ルチア」とは呼ばないのである。すれ違いといえばすれ違いであるが、新しい階級を築きつつある一方で、旧弊から抜け出せない端境期(あるいは今も端境期のままなのかも知れないが)の「自由な」「わかり合えない」若者達の悲しさと愚かしさを描く、痛切な作品でもある。

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2022年7月19日 (火)

観劇感想精選(439) 「M.バタフライ」

2022年7月14日 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて観劇

午後6時から、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティで、「M.バタフライ」を観る。1988年にトニー賞を受賞した中国系アメリカ人の劇作家、デイヴィッド・ヘンリー・ファン(黄哲伦)の戯曲の上演である。実話を基にした話であり、ジョン・ローンが主演した映画でも話題になっている。テキスト日本語訳は吉田美枝。

出演は、内野聖陽、岡本圭人、朝海ひかる、占部房子、藤谷理子、三上市朗、みのすけ。
演出は、劇団チョコレートケーキの日澤雄介が手掛ける。

主な舞台は中国の首都・北京であり、一部でフランスの首都・パリが舞台となる。

文化大革命前夜とただ中の中国で、己を模索し続けたフランス人駐在員、ルネ・ガリマール(内野聖陽)と、彼が恋する京劇の女形、ソン・リリン(岡本圭人)の二人を主軸に物語は進んでいく。

まずはルネ・ガリマール役の内野聖陽が、今、パリの獄舎にいること、それには京劇の女優が深く関わっていること、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」が大好きであることなどを述べる。ルネ・ガリマール役はとにかくセリフが多い。いわゆるセリフの他に狂言回しの役を担ったり、解説係を務める場面もある。ソン・リリン役の岡本圭人も状況説明のセリフが多く、更に京劇のアクションもこなす必要があるなど、この二人の役はかなりの難役である。


鍵を握るのは、タイトルやルネ・ガリマールの最初のセリフからも分かるとおり、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」である。日本の長崎を舞台にしたオペラで、日本ではおそらく上演回数が最も多いオペラであり、私自身も最も多く目にしたオペラである。
日本を舞台にしているので馴染みやすいが、内容的には、いい加減な性格のアメリカ海軍将校のピンカートンが赴任先の長崎で現地妻を求め、丸山の蝶々さんに白羽の矢が立つが、ピンカートンはちょっと蝶々さんを愛しただけで「コマドリが巣を作る頃に戻る」などといい加減なことを言って、蝶々さんを捨ててアメリカに帰り、蝶々さんに息子が生まれたことを聞きつけると前からいた本妻と共に長崎を訪れ、自身と蝶々さんの子どもを奪おうとする。捨てられて恥をかかされた上に子どもまで奪われることを知った蝶々さんは生きる意味を失い、抗議の意味も込めて自刃する。
だいたいこんなあらすじであるが、「蝶々夫人」の、せめてあらすじを知らないと、何が起こっているのか把握するのが困難な舞台である。

更にこの時代を知りたいなら、「さらば我が愛、覇王別姫」や「ラスト・コーション」といった中国映画も観ておくとよりよいだろうが、純粋に舞台を楽しむだけなら、そこまでする必要はないかも知れない。


「蝶々夫人」も「M.バタフライ」も時間的隔たりはあるが、東洋人と西洋人――黄色人種と白人と置き換えてもいいが――更に男女間の差別があるのが当たり前の時代を舞台にしており、両者の間に広がる巨大な「断絶」を、「融合」へと変えることを試みた本と見ていいだろう。

1960年代初頭、北京に赴任しているフランス人外交官のルネ・ガリマールは、当地の劇場で、蝶々夫人を歌うソン・リリンと出会う。ソンは京劇の女優(というより女形である。京劇には以前は男性しか出演出来なかったが、今では女性役は女優が演じるのが主流になっている)なのだが、ソン(ガリマールは「バタフライ」という愛称で呼ぶ)に理想の女性像を見いだしたガリマールは、男女の駆け引きを用いてなかなか劇場に出向こうとしない。
ガリマールにはヘルガという名の妻(朝海ひかる)がいるが、ガリマールはソンのアパートへと頻繁に通うようになるのだった。


途中20分間の休憩を含めて上演時間約3時間半という長編であり(第1幕約1時間15分、休憩20分、第2幕約1時間50分)、それまでにちりばめられた細工や伏線のようなものが、ラスト15分ぐらいで一気に纏まるが、上演時間が長すぎる上に比較的淡々とした展開であるため、時間が経つのが遅く感じられる、ラスト15分の怒濤の展開で「観る価値あり」となるが、そこに至るまでの忍耐力が必要となる。だが耐えた先に爽快な視界が広がっている。


ガリマールがソンの正体が男(ついでの毛沢東が放ったスパイでもある)であることに気づいているかどうかが焦点の一つとなり、普通に考えれば気がつかないはずがないのだが、ここでガリマールの性意識の問題や「愛」に関する思想などが開陳される。
説得力があるかどうかで考えれば、「ない」と断じることになるなるだろうが、デヴィッド・ヘンリー・ファンの思い切った踏み込みには感心させられたりもする。歌劇「蝶々夫人」で提起された差別のあり方に対し、解決とまではいかないが、「人種や性別などは大した問題ではない」という一つの答えが出されている。


他の俳優も良かったが、この作品はなんといってもルネ・ガリマール役とソン・リリン役につきる。内野聖陽と岡本圭人の上手さと一種の熱さが際立っていた。

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2022年7月13日 (水)

コンサートの記(787) 日本オペラ「藤戸」@兵庫県立芸術文化センター 2015.3.21

2015年3月21日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて

兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、日本オペラ「藤戸」を観る。兵庫県立芸術文化センター(HPAC、PAC)では、日本人作曲家による日本オペラの上演を毎年行っており、今回で3回目になるが、私がHPACで日本オペラを観るのは今日が初めてになる。

「藤戸」は、源平合戦(治承・寿永の乱)、藤戸の浦の戦いを題材にしたオペラである。原作:有吉佐和子(小説ではなく舞踏浄瑠璃のための台本とのこと)、台本&作曲:尾上和彦、演出:岩田達宗(いわた・たつじ)。初演時のタイトルは「藤戸の浦」であったが、後に「藤戸」に改題されている。

1日2回公演であり、午後2時開演の回の主演は、井上美和と迎肇聡(むかい・ただとし)。午後6時開演の公演の主演は、小濱妙美(こはま・たえみ)、晴雅彦(はれ・まさひこ)。他の出演は2回とも一緒で、古瀬まきを、松原友(まつばら・とも)、以降は波の精としてコーラス(コロス)としての出演で、柏原保典、谷幸一郎、水口健次(以上、テノール)、神田行雄、木村孝夫、砂田麗央(すなだ・れお)、下林一也(以上はバスと表記されているが、日本人に正真正銘のバス歌手はいないといわれているのでバリトンということになるのだと思う)。

今日はダブルキャストを共に観てみたいため、2回ともチケットを取った。

オーケストラピットが設けられているが、小編成での演奏。大江浩志(フルート)、奥野敏文(パーカッション)、日野俊介(チェロ)、武知朋子(たけち・ともこ。ピアノ)によるアンサンブルである。指揮は奥村哲也。奥村哲也は尾上和彦のオペラの指揮を何度も手掛けているが、元々はギタリストであり、高校生の時に日本ギターコンクールで2位に入るなど輝かしい経歴の持ち主である。高校卒業後、ロンドンに渡り、同地の音楽院でクラシックギターの他に指揮法や作曲も学んでいる。帰国後は主にオペラの指揮者として活動しており、関西、名古屋、四国の二期会と共演を重ねている。


『平家物語』に描かれ、伝世阿弥作(偽作の可能性が高く、最近は作者不明とされることが多いが)の謡曲などで知られる「藤戸」。一ノ谷の戦いに勝利した源氏が、源範頼を総大将として児島(現在の岡山県倉敷市児島。かつては倉敷市一帯は入江であり、児島は本当に島であった)を攻めようと対岸の藤戸に陣を張るが船がない。そもそも坂東武者を多く集めた源氏は陸戦は得意だが舟戦は得手とはしていない。宇多源氏佐々木三郎盛綱は何とかして先陣の功を上げたいと思っていたが、手段がない。そこにある漁師が、浅瀬を渡って児島に渡る方法を知っていると聞く。藤戸の浦には浅瀬があり、そこを通れば徒歩でも馬でも渡れるという。盛綱は喜ぶが、この事がよそに漏れてはいけないと、漁師を殺してしまう。能では漁師が幽霊となって現れるのであるが、有吉佐和子は、児島への行き方を知っている人物を漁師ではなく、少年に変えているという。そして佐々木盛綱と少年は二人だけの冒険のように児島への秘密のルートを辿るのだ。ただ、有吉版「藤戸」でも案内役である少年はやはり盛綱に殺されてしまう。そして殺された当人ではなく、母親がその様を聞いて発狂するという展開になる。


尾上和彦は、1942年、奈良市生まれの作曲家。京都市立堀川高校音楽コース作曲科(現・京都市立京都堀川音楽高校)在学中に主任講師に認められて放送用音楽の作曲助手として活動を開始(音楽の仕事が忙しすぎて出席数が足りず、高校は中退したそうである)、17歳にして舞台音楽の作曲家として自立し、オラトリオを始めとする声楽作品やオペラ、器楽などその他のジャンルの作曲を多く手掛けてる。放送禁止歌になった「竹田の子守唄」を発掘したり、小オラトリオ「私は広島を証言する」など、シビアな題材を取り上げていることでも知られる。オペラ「藤戸」は「藤戸の浦」という題で、1992年に米国サンフランシスコで初演。大劇場と中劇場で公演を行っている文化施設での初演であり、大劇場ではヴェルディの歌劇「オテロ(オセロ)」上演時間約4時間、中劇場で「藤戸の浦」上演時間約1時間という同時上演が行われたが、「藤戸の浦」は、「1時間で4時間分の密度のあるオペラ」と激賞されたという。


午後2時開演の回、午後6時開演の回共に、日本オペラプロジェクト総合プロデューサーである日下部吉彦、作曲の尾上和彦、演出の岩田達宗によるプレトーク20分、途中休憩15分、オペラ上演60分という変わったスタイルでの上演。


開演前に、演出の岩田さんに挨拶をし、少しお話を伺う。午後6時開演の前にはオペラ上演に適した日本のホールはどこか伺ったのだが、古典派までだったら大阪府豊中市にある大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス。大規模なものだと何だかんだで東京・上野の東京文化会館が最適とのこと。東京文化会館は東京初の音楽専用施設であり、都が威信を懸けただけあって入念の音響だそうである。


音楽、ストーリー共に分かり易いものである。音楽は比較的シンプルであり、特に女が歌うときにはミニマル・ミュージックのような同じ音型のピアノ伴奏が繰り返される(歌自体はミニマルミュージックではない)。

岩田達宗の演出であるが、まず中央に白い壁。左右に白く細い紗幕が数本降りている。幕が上がると、女がすでにおり、後ろを向き、正座をして屈み額を膝に付けている。
紗幕にライトが当たると、水色なのか浅葱色なのか(浅葱色だと別の意味が足されるが)とにかく青系の衣装を着た波の精達が見える。地唄に当たる部分は、彼ら波の精と、千鳥という女装をした着物姿の歌手(今回が松原友が務める)が歌う。ちなみに、「藤戸」はこれまでに90回以上上演されているが、いずれも波の精は女声アンサンブルが務めており、尾上の構想にあった男声による波の精が実現するのは今回が初めてだそうである。女声による波の精を聴いたことがないので何とも言えないが、男声による波の精の方が「リアル」だという想像は付く。
白い壁には「戦争」、「平和」といった文字や、源平の武者達の名前などが浮かぶ。

「白」は勿論、源氏の白旗であるが、平氏の赤旗も「赤=血=殺戮」というイメージの重なりを伴い、藤戸の浦の合戦の場面で登場する(赤い布が上から吊され、バックライトで佐々木盛綱の殺陣が浮かび上がった後で、布が天井から落とされ、波の精達がそれを纏って後ずさりし、平氏の退却を表す)。

日本語歌唱、日本語字幕スーパー付きの上演であるが、時折、歌手が字幕と違う言葉を歌ったのはアドリブなのか、或いは言い間違えたのか。意味は通じるので瑕疵にはならないが。

ちなみに、午後2時開演の回では、佐々木盛綱役の迎肇聡が太刀の刃を上にした形で握っているように見える場面が長く、ちょっと気になった。太刀の場合は刃を上にして握るという発想がなく、抜くときは横にして抜くので、刃は下か横を向いているはずだが、ちょっと力が入ったのかも知れない。抜くときは横にして抜いていたので、日本刀と勘違いしたというわけではないようである。

ダブルキャストの出来であるが、午後6時開演の小濱妙美と晴雅彦の方がメリハリを付けた演技となっていた。佐々木盛綱はある意味歌舞伎的わかりやすさが出て晴雅彦の方が迎肇聡よりも面白かったが、女は井上美和の方が伸びやかさにおいて優っていたように思う。


さて、女の歌と、盛綱の歌の歌詞を比較すると、女のものは素朴で情緒豊か(反戦のメッセージも入っているが)、盛綱の歌詞は理屈っぽい傾向がある(言い逃れをしているのだから当然である)。また盛綱は経文を唱えたり「徳義」という言葉を用いるなど、文字としてもお堅い。旋律も女のものは流れが良いが、盛綱の歌は角がある。女にとっては親子の日常こそが大切なのであって、武士道だの勝つだの負けるだの出世だのはどうでもいいのである。

「情」と「理」などと分けてあれこれ言うのは理の仕事なので書くだけ野暮になるわけだが、武士の世の戦は大将が戦場にいるという点においてまだ情の入り込む余地がある。こうして、戦の中にも涙を誘うような物語も生まれる。ただ近現代の戦争は極めて「非情」である。大将が戦場にいない。映像を見ながら指示している。兵隊はいるが、それに対する情もあるのかないのか。
1990年の湾岸戦争で、初めて我々はそれを目にした。不気味なほど綺麗な風景。コンピューターゲームのワンシーンのような映像。そこでは血が流れているはずだ。だが我々にはそれは見えなかった。

あたかも人間がその場にいないかのような不気味で洗練されすぎた戦争。そうしたあらゆる戦争が今もリアルタイムで行われているのが「現在」だ。


勿論、「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は生きにくい」という夏目漱石の言葉通り、情に棹させば解決するものでもないが、理屈と理屈で格闘し、気にくわないなら殺傷ではなく、「個と個で向き合うこと」、それしか戦争を防ぐ方法はないように思える。

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2022年7月11日 (月)

観劇感想精選(438) 関西・歌舞伎を愛する会 第三十回「七月大歌舞伎」昼の部 初日 令和四年七月三日

2022年7月3日 道頓堀の大阪松竹座にて観劇

正午から、道頓堀の大阪松竹座で、関西・歌舞伎を愛する会 第三十回「七月大歌舞伎」昼の部を観る。今日が初日である。演目は、「八重桐廓噺」嫗山姥(こもちやまんば)と「浮かれ心中」。今回の「七月大歌舞伎」は、松本幸四郎が昼夜計4演目中3演目に出演。中村勘九郎も同じく2演目に出演する。

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上方系の演目への出演が目立つ幸四郎。今回は、「浮かれ心中」は江戸の売れない戯作者を演じるが、近松門左衛門作の「八重桐廓」と夜の部の「祇園恋づくし」では上方の役に取り組んでいる。


「八重桐廓噺」嫗山姥。近松門左衛門の時代浄瑠璃を原作とする義太夫狂言(人形浄瑠璃の台本で行われる歌舞伎の演目)である。
沢瀉姫(千之助)は源頼光と契りを結んだが、清原高藤の讒言により、頼光は姿を消す。高藤は沢瀉姫を自分のものにしようとしていた。これが前段での出来事である。

元廓勤めである荻野八重桐(片岡孝太郎)が沢瀉姫の屋敷の前を通りかかった時に、門の内から流れてくる謡にふと足を止める。その歌は、八重桐が廓勤めの遊女をしていた時代に坂田蔵人時行(松本幸四郎)と二人で作り上げたものであった。八重桐は「傾城の祐筆」と声を上げ、館の内から出てきたお歌(中村亀鶴)に面白がられて館の内へと招かれる。

果たして館の中では坂田蔵人時行が煙草屋源七と名を変えて潜んでいた。ここで、孝太郎と浄瑠璃(竹本谷太夫)によって八重桐の身の上が語られる。
八重桐と時行は恋仲であったが、小田巻という遊女が時行に懸想しており、時行を巡って八重桐と小田巻が大喧嘩。
一方、時行は物部の平太を仇討ちしようと機会をうかがっていたが、平太は時行の妹の白菊(中村壱太郎)によって退治されていた。時行は平太の主である平正盛と清原高藤を討つ計画を立てるが、八重桐から「源頼光さえ、清原高藤に手を出せなかったのだから、時行では相手にならない」と断言。悔し涙を流した時行は自刃し、元恋人である八重桐と妹の白菊に遺言を残す。「三日の内に(八重桐の)胎内に痛みがあったなら、それは自分の生まれ変わりであり、正盛と高藤を討ち果たす」
時行は、八重桐に自身の臓物を口にするよう促して絶命。八重桐は大力無双の山姥となり、白菊と共に高藤が放った使者の太田十郎(中村虎之介)とその一味を蹴散らすのだった。ちなみにこの後、八重桐が生むのが、幼年期が「金太郎さん」として知られる坂田公時である。

孝太郎の八重桐は初役だそうで、しかも今日が公演初日であるが、役に完全に馴染んでおり実力の高さが窺える。幸四郎はこの演目での出番はそれほど多くないが、心情の表出に長けているという印象を受けた。
白菊を演じる中村壱太郎が、メイクのせいか、今日は高岡早紀に似ているように見える。

初日ということで万全ではなく、役者のセリフに間が開いたため、プロンプター(歌舞伎では黒子が務めることが多い)の声が聞こえ、それがきっかけで役者がセリフを語り始める場面があった。初日から3日間はプロンプターが常駐しているようである。


「浮かれ心中」。井上ひさしの直木賞受賞作「手鎖心中」を小幡欣治の脚本・演出で舞台化した作品である。歌舞伎版は平成9年(1997)の初演。初演時に十八世中村勘三郎(当時は五代目中村勘九郎)が辰巳山人栄次郎演じて好評を博しており、平成12年(2000)には大阪松竹座の7月大歌舞伎でも勘三郎の栄次郎による上演が行われている。
今回は十八世中村勘三郎の長男である六代目中村勘九郎が辰巳山人栄次郎を演じ、勘九郎の弟である七之助が栄次郎と所帯を持つおすずと吉原の花魁・帚木の二役を演じる。
井上ひさし原作ということで笑劇(ファルス)の要素がかなり強いエンターテインメント歌舞伎となっている。

大店・伊勢屋の若旦那である栄次郎(中村勘九郎)は絵草紙作家になるべく、江戸・鳥越の絵草紙屋・真間屋の娘であるおすず(中村七之助)と所帯を持つことに決める。所帯を持つといっても、絵草紙作家になるための足掛かりであり、江戸屈指の豪商である伊勢屋から勘当されることで江戸中の評判になることを狙っており、そのため勘当は1年きりで、その間はおすずと男女の関係になるつもりもなく、父親(中村鴈治郎)にも真間屋の番頭・吾平(中村扇雀)にも「手は出さない」と誓っていた。おすずは24歳。当時としては婚期を10年近く逃しており、栄次郎も容姿が悪いに決まっているとして、1年間手を出さないなど楽勝と高をくくっていたが、現れたおすすは、「鳥越小町」と呼ばれたほどの美人で、栄次郎もすぐにおすずのことを気に入ってしまう。この辺りは「嘘から出た実」という言葉がぴったりくる。

一方、栄次郎の戯作者仲間である太助(松本幸四郎)は、栄次郎とおすずの婚儀の仲人を務めるはずが、吉原で有り金全部使い果たしてしまい、吉原から出られず、祝言にも遅れる。付け馬(取り立てのための監視人)を伴い、やっと祝言の席に現れた太助。仲人が一人だけでは寂しいと付け馬と二人で仲人ということになる。
なお、この場で火消しからの祝いの謡があるのだが、彼らは初演時にも火消し役で出ていたそうで、勘九郎も「親子二代に渡り」と礼を言う。

さて、絵草紙「百々謎化物名鑑(もものなぞばけものめいかん)」を今でいう自費出版した栄次郎であるが、そう簡単に売れる訳もない。ということで、吉原に使いの者を出して本を売らせ、その後で自身が吉原に繰り出して「作者登場」の評判を取ろうとする。太宰治のような話題作りをする作家である。
共に吉原に繰り出した太助は、花魁・帚木太夫(中村七之助二役)に一目惚れする。だが帚木にはすでに心に決めた相手がいた。


勘九郎が描き出す栄次郎の剽軽さが魅力的。即興の場面も比較的多いと思われる。
栄次郎と共に売れない戯作者コンビを組む太助役の幸四郎は、育ちの良い好人物で知力にも恵まれているが少々情けない男という自身のパブリックイメージにも近いであろう役柄を生き生きと演じてみせる。こうした役がこれほど嵌まる歌舞伎俳優もそうそういない。
七之助の声音を変えての二役演じ分けも見事であった。

初日ということで、この演目でもアクシデントが発生。裏の障子を思いっきり開け放った時に、そこに控えていたTシャツ姿の舞台スタッフがはっきり見切れてしまう。スタッフの男性もすぐさま退散したが、勘九郎も「あれは家の」とアドリブの説明を行おうとしていた。

さて、種明かしをすると、栄次郎は他界してしまうのだが、あの世へと向かう際に宙乗りを行う。宙乗りを行うというのは、十八世中村勘三郎のアイデアだそうで、それを継いだ息子の勘九郎も実に楽しそうに宙乗りを行い、紙吹雪や紙テープなどを繰り出す。なお、栄次郎が書いた幕政批判の絵草紙にネズミが登場するようで、そのため栄次郎はネズミに乗り、ネズミ絡みか(?)東京ディズニーランドでお馴染みの「イッツ・ア・スモールワールド」が日本語詞で謡われた。

現代歌舞伎、それも井上ひさし原作であるため分かりやすく、常連でも一見さんでも楽しめる優れた演目であった。

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2022年7月 5日 (火)

観劇感想精選(437) 下鴨車窓 「漂着(kitchen)」

2022年7月2日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、THEATRE E9 KYOTOで、下鴨車窓の公演「漂着(kitchen)」を観る。作・演出:田辺剛。今回は群像劇ということで、総勢19名の俳優が出演する。ただその中に稽古中に体調不良を訴えて降板した人もいたようで、代役を立てて本番が行われた。

出演:西村貴治(ニットキャップシアター)、大熊ねこ(遊撃体)、坂井初音、上条拳斗、岡田菜見、西沢翼、越賀はなこ、にさわまほ(安住の地)、加藤彩(合同会社舞台裏)、田宮ヨシノリ、藤島えり子、神谷牡丹、福西健一朗、辻智之、尾國裕子(無所属・新人)、森川稔、池山説郎、イルギ(劇的☆爽怪人間)、二宮千明。幅広い年齢層の俳優が出演している。

海の近くにあるボロアパートが舞台。アパートがどの街にあるのかはっきりと示されることはないが、登場人物達が関西の言葉を話し、韓国語の手紙が入ったボトルが浜辺に漂着しているということで、但馬地方(兵庫県)か丹後地方(京都府)の可能性が高い。瀬戸内海側や和歌山県の太平洋に面した場所ではないと思われる。

タイトル通り、kitchen=台所のセットが中央にあり、舞台上手に冷蔵庫、下手奥に棚などがある。アパートの203号室、205号室、202号室の3つの部屋が舞台となるが、セットは一切変化のない一杯飾りであり、登場人物の入れ替わりや照明の変化などによって部屋の移動が表現される。

いずれの部屋の関係者にも「ユカ」という名前の女性がいるのが特徴。205号室では一人暮らししている若い女性(にさわまほ)の名前がユカである。彼女には女性の同居人がいるのだが、「普通の女友達ではないのでは?」と思わせるような場面もある。203号室は家主の奥さん(坂井初音)がユカ、202号室にはユカという名前の女性は登場しないが、住人の奥さんの名前がユカのようである。202号室の住人の奥さんのユカは重い病気に倒れているようだ。離婚はしていないようだが、202号室の男は、妻や娘(リョウコという名前のようである。演じるのは尾國裕子)とは別居している。男はすぐには家賃も払えないほど困窮している。

アパートの家賃は月3万5千円。窓からは海(波音がするのでやはり日本海の可能性が高い)が見え、205号室のユカは、それが気に入ってこのアパートに入ったのだが、海が近いということで自転車が潮風ですぐに錆びてしまうなどデメリットの方が多く、引っ越しの計画も立てている。
205号室では、これからアルバイト仲間による飲み会が行われるようで、大家(越賀はなこ)は、「壁が薄いのでうるさくしないでね」と頼む。ちなみに、ユカより先に205号室に来ていた若い男(西澤翼)は、大家から「お友達? お友達?」と彼氏でないか詮索される。大家はユカのことを娘のように可愛がっている。なお、205号室の台所の蛇口から水が出てこないという現象が起こっている。洗面台やトイレは水が流れるのだが、台所のみ水が出てこないということで、大家は工事の業者を頼む。
その後、205号室では飲む会が行われるのだが、アルバイト仲間であるノゾミ、ウダ、コデラ、アヤが205号室でゴキブリ退治などをしている間、ユカと最初からいる若い男は買い出しに出ており、舞台上で顔を合わせることはない。ちなみに「クルー」という言葉を用い、定食の話などをしていることから、定食屋チェーン店のアルバイト仲間らしいことが分かる。大手定食屋チェーンの中にはワンオペ(調理、配膳、会計などを店員一人に任せること)をやらせる店が問題視されているが、彼らは牛丼系の定食屋ではないようで、シフトがあり、ワンオペは禁じられているようだ。ちなみに定食屋やマクドナルドなどのファーストフード系のアルバイトでは、恋愛関係が多く発生することで知られるが(出会いを目的としてアルバイトを始める人も多いとされる)このアルバイト仲間の中にもやはり付き合い始めている男女がいることがキッチンを使う様を通して分かる。

203号室に住むのは、工場勤務のヒデさん(西村貴治)とその奥さんのユカである。203号室のユカも同じ工場で働いていたそうで、ヒデさんは現場、ユカは総務にいたことが分かるセリフがある。ヒデさんの妹(名前はキエだったかな? 演じるのは大熊ねこ)も歩いて数分のところに住んでいるのだが、二人の父親が病気にかかっており、妹はヒデさんに入院するよう説得して欲しいと頼む。
ちなみにヒデさんとユカはキッチンにある特殊な役目を与えている。
203号室のユカは、浜辺でボトルレター(メッセージボトル)を拾う。ユカはヒデさんに瓶を開けるよう頼むが、ヒデさんは面倒くさいの金槌(余談だが、演劇用語では「ナグリ」と呼ばれる)で瓶を叩き渡る。この時の音が、205号室のシーンや202号室のシーンで鳴り、同時刻に別の部屋で何が起こっていたか分かるようになっている。

こうした手法で同時発生を知らせる手法は映画では比較的多く用いられており、また間近にいながらすれ違う複数の団体という展開を含めると、京都を舞台にした鈴木卓爾監督の映画「嵐電」がすぐに思い浮かぶ。「嵐電」では同じ場面に数組の主人公が見知らぬ者同士で映っていたりするのだが、「漂着(kitchen)」で人間関係の繋がりのない人々が同時性のみで繋がっていることを表すものとして、「声」や「音」が主に媒介を務めているのが手法として興味深い。

202号室では、住人の娘であるリョウコが、住人が臨終間際かも知れない妻(つまりリョウコの母親)のユカを見舞おうともしないことをなじっている。

袋小路的場末感の漂うボロアパートに、住人達がどうやって漂着したのかを描く会話劇であり、203号室のユカの若い女性との同居、205号室のヒデさんの工場退社や女絡みのいざこさ(若い女性がずっと年上のヒデさんにタメ口をたたくことで仄めかされる)、202号室の住人の妻・ユカの死とその葬儀と住人の失踪なども描かれており、漂着した人々の決して上手くいってはいない人生が、比較的淡々と描かれている。彼らは同じアパートに住み、「ユカ」という共通する名前の女性がいながら交流もなく、それぞれの部屋が孤立している。

そうした孤独と閉塞感を抱いた人々の人生の諸相を描く中で、ヒデさんと203号室のユカのエピソード、それもkitchen絡みのものを描くことで、ささやかな希望が浮かぶラストを迎えるのが心地よい。
5月にロームシアター京都メインホールで観た「セールスマンの死」でもキッチンの冷蔵庫が主人公の家と現代社会の象徴として強調される演出が施されていたが、希望が「kitchenについて」というささやかな形で語られるのは、203号室の住人の身の丈にもあっており、上手く着地したなという印象を受ける。

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2022年6月 8日 (水)

観劇感想精選(436) 第71回京都薪能 第2日目

2022年6月2日 左京区岡崎の平安神宮にて

午後6時から、左京区岡崎の平安神宮で、第71回京都薪能第2日目を観る。毎年恒例の京都薪能であったが、昨年、一昨年は新型コロナのために中止となり、3年ぶりの開催となる。少し風が強めだが、雲一つ無い好天となった。

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ロームシアター京都(京都会館)、京都市京セラ美術館、京都国立近代美術館、京都観世会館、細見美術館、みやこめっせ、京都府立図書館、岡崎公園グラウンド、京都市動物園など文化施設が並ぶ左京区岡崎であるが、一方で、平安神宮、真宗大谷派(東本願寺)岡崎別院、東天王こと岡崎神社などの伝統宗教や、阿含宗や生長の家、神慈秀明会といった新宗教の施設も集まっており、京都における一大宗教空間でもある。

2日間に渡って行われる第71回京都薪能。2日目の今日は、京都薪能の復活を祝って、神が舞を披露するという演目が並ぶ。左京区岡崎で、そして平安神宮で行われるのに相応しい演目だ。

上演作品は、観世流能「養老」水波之伝(すいはのでん)、金剛流能「龍田」、大蔵流狂言「福の神」、観世流能「小鍛治」白頭(しろがしら)。例年売られているパンフレットがコロナの影響で売れないというので(あらすじや出演者などを記した紙は受け取れるようになっている)、代わりに茂山茂と鈴木実が舞台上に登場して作品紹介などを行う。


観世流能「養老」水波之伝と金剛流能「龍田」は後半部分のみの上演である。

「養老」は、美濃国(濃州)の養老の滝である。雄略天皇(倭の五王の「武」に比定されることが多い)の勅使が養老の滝を訪れた時に楊柳観音(松井美樹)と養老の山神(吉浪壽晃)が現れ、祝いの舞を行う。今回は水波之伝というバージョン(小書=特殊演出)で、楊柳観音も登場して舞う。しっとりした楊柳観音の舞と豪快な養老の山神の舞の対比が見所。

今回は、全ての演目で神の舞があるが、みな個性豊かで舞そのものも雰囲気も趣も異なり、八百万の神の国・日本とその伝統芸能の個性がはっきりと表れている。


金剛流能「龍田」。紅葉の名所として知られる大和国・龍田明神が舞台となっている。南都(奈良)に寄った僧(村山弘)が河内国まで足を伸ばそうとした途中で竜田川の河畔に至る。
龍田姫=龍田神(金剛永謹)が、優美な舞と幣を振り上げての神楽を行う。薪から舞い上がる煙が龍田姫の後ろで霞のようにたなびき、この世ならぬ雰囲気を作り出していた。


大蔵流狂言「福の神」。狂言ではあるが、笑いは取らないという珍しい演目であり、狂言そのものの面白さよりも祝祭性が優先されている印象を受ける。
福の神(茂山忠三郎)が幸せになる秘訣を歌いながら行う舞がユーモラスである。


観世流能「小鍛治」白頭。本来は赤い頭で登場する後シテ(稲荷明神の霊狐)が白い頭で登場するという特殊演出である。
一条天皇が悪夢にうなされるというので、名刀工である三条小鍛治宗近(岡充)の下に橘道成(有松遼一)を遣わす。一条帝は「宗近に御剣を打たせよ」との夢告を受けたという。勅諚に応えるには自分に勝るとも劣らない相槌を打てるものがいないといけないが、それは難しいので宗近は断ろうとするが、伏見の稲荷大社に参拝したところその加護があり、稲荷神(橋本光史)が相槌を務めることになる。

三条小鍛治宗近がすんでいたのは三条粟田口であり、後に三条派や粟田口派となる名刀工集団を生み出した場所だが、三条粟田口は平安神宮のすぐそばであり、舞台になった場所の近くで上演が行われたことになる。
粟田神社の麓に鍛冶神社という小さな社があり、三条宗近と粟田口吉光も祀られている。
またすぐそばには、「小鍛治」の話に基づく相槌稲荷神社という小さな社もあるが、ここは民家が並ぶ路地の奥に存在するため、大人数で行ったり大声を出しながら歩いたりすることははばかられる神社である。

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2022年5月30日 (月)

観劇感想精選(435) 「狂言三代 祝祭大狂言会」2021振替公演 2022.4.10

2022年4月10日 大阪・中之島のフェスティバルホールにて

午後3時から、大阪・中之島のフェスティバルホールで、「狂言三代 祝祭大狂言会」2021の振替公演を観る。本来は昨年の4月に上演される予定だったのだが、コロナ禍により1年延びた。昨年買ったチケットは有効で、そのまま入ることが出来る。

演目は、野村萬斎による解説に続き、「能楽囃子」(大鼓:山本寿弥、小鼓:大山容子、太鼓:加藤洋輝、笛:竹市学)、「二人袴 三段之舞」(聟:野村裕基、太郎冠者:石田淡朗、舅:高野和憲、兄:野村太一郎)、「月見座頭」(座頭:野村万作、上京の男:野村萬斎)、池澤夏樹の作・野村萬斎の演出・補綴による「鮎」(国立能楽堂委嘱作品。小吉:野村萬斎、才助:石田幸雄ほか)。

中央に一段高くなった舞台があり、そこから上手奥と下手奥に延びる二つの橋懸かりがある。

野村萬斎が3つの演目についての解説を行うが、その前に、昨年行われる予定だった「祝祭大狂言会」について、「狂言会の翌日からまん防だというのでやれやれ(間に合った)と思っていたら中止になった」「荷造りをしていたが、途中で止めることになった」と語る。

「二人袴」に出てくる「通い聟」の制度について述べ、「狂言はエアです」と解説する。

「月見座頭」という不思議なタイトルについては、「座頭が月見をする。といっても見えませんので、月に影響されて鳴く虫の声を聴いて月見をする」と種明かしし、「虫の声もエアです」と述べる。

「鮎」は池澤夏樹による現代狂言だが、鮎を役者が演じるという設定にしたのは萬斎のようである。
内容について萬斎は、「邯鄲の夢」のようなところがあると語っていた。


鋭い響きによって奏でられた能楽囃子(水流を表しているようである)に続いて上演される「二人袴」。元々の登場人物は、聟とその父親という設定のようだが、今回は兄弟という設定に変えて上演される。
初めて袴をはいて歩くという設定の、野村裕基演じる聟のロボットのようなカクカクした動きが笑いを誘う。
以前にも観たことのある演目だが、「表面を取り繕うことの滑稽さ」が描かれているように見える。


「月見座頭」。上京の男(セリフでは「洛中に住まいする者」)と月見座頭が詠む(というより記憶していて語る)和歌が無料パンフレットに記されたものとは一部異なっており、洛中の男は、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」(阿倍仲麻呂)、座頭は、「月見れば千々にものこそかなしけれ我が身一つの秋にはあらねど」(大江千里)と詠む(唱える)。
京都の、おそらく東山あたりが舞台だと思われるのに、洛中の男が奈良を詠んだ歌を自作として披露してしまうのもなんだか可笑しい。

「残酷狂言」とも呼ばれることのある「月見座頭」。風雅に満ちた展開が一変して障害者虐待となる。生きることと人間の残酷さが描かれているが、それでも淡々と生きることを選ぶ座頭が心強くもある。狂言は上の者が下の者にしてやられるという展開の作品も多いが、いうなれば下の者の忍辱のようなものがこの話では表されているのだろうか。


「鮎」。池澤夏樹が自身の短編小説を狂言とした作品であるが、小説「鮎」も実は南米の民話を下敷きにしたものとのことである。

池澤夏樹は狂言のファンだそうだが、それでも小説家が狂言を書くのは大変なことのようで、半分くらいは野村萬斎が補作したそうであるが、違和感は拭いえない。

小吉が都に出て出世するが、全ては一炊の夢であったという「邯鄲の夢」や芥川龍之介の「杜子春」などの系譜にある作品である。歌舞伎のような外連を出すなど、新しい表現にチャレンジしているが、野村萬斎の腕をもってしてもここまでというのはショックでもあった。お客さんには好評のようで、笑い声も大きかったが、狂言の一種の「粋」とは異なる作品が出来上がっているように見えた。

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