CIRCUS(サーカス) 「風のメルヘン」(テレハーモニーVersion)
コロナ時の収録。メンバーチェンジ前になりますが、サーカスは一度だけ、ライブを聴いたことがあります。1992年、千葉市の幕張メッセ幕張イベントホールでの合同コンサート。本人達は、「今日は音楽とサーカスが来るという話になってる」と半自虐発言をなさっていました。
コロナ時の収録。メンバーチェンジ前になりますが、サーカスは一度だけ、ライブを聴いたことがあります。1992年、千葉市の幕張メッセ幕張イベントホールでの合同コンサート。本人達は、「今日は音楽とサーカスが来るという話になってる」と半自虐発言をなさっていました。
※2015年5月2日に再放送されたものである
今日は忌野清志郎の命日である。録画しておいたBSプレミアム「忌野清志郎 ゴッホを見に行く」を観る。2004年に収録、2010年に放送された番組の再放送。清志郎が、岩手県立美術館で行われたゴッホとミレーの展覧会を観に行くという内容である。30分足らずの短い番組。10年以上前に収録されたものだが、デジタル技術の発達により、映像は古びていない。
清志郎が高校卒業後すぐに描いた画にはゴッホの影響が濃厚であるが、その後の清志郎の画からはゴッホらしさが消えている。清志郎が53歳時収録の番組であるが、清志郎が本物のゴッホの画を観るのは実はこの時が初めてだそうだ。
ゴッホとミレーの画を見比べて、ミレーの画の方が上手いと清志郎は言う。「ゴッホは自分に負けちゃったんじゃないですかね。最後は」とも語る。
ゴッホの自分にのめり込んでいく姿勢がロックだと思っていた清志郎だが、実際はミレーの方がもっと執念深く闘っていたのがわかるそうだ。最晩年のゴッホの画は真面目に描くことを諦めてしまった白旗状態にも見えるという。
最後は東京で、ゴッホの「ひまわり」を観る。これは画を超えたパワーが感じられて良いそうだ。何だかんだで清志郎にとってはゴッホはジミ・ヘンドリックスのようなアイドル的存在なのだそうである。
2022年2月1日
NHKBSプレミアム「アナザーストーリーズ」。今回は村上春樹の代表作の一つである『ノルウェイの森』の誕生秘話が紹介される。
『ノルウェイの森』は、私が2度目に読んだ村上春樹の小説である。初めて読んだ村上春樹の小説は、長編第2作目である『1973年のピンボール』で、私の生まれた前年である1973年というタイトルに惹かれて購入した。中学1年の時である。実のところ、『1973年のピンボール』は、村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』の続編であり、『1973年のピンボール』だけを読んだのでは何のことかよく分からないのである。「不思議な小説」という印象だけ持った。
『ノルウェイの森』を初めて読んだのは、高校2年生の時。かなり辛く追い詰められた青春時代を送っていた私にとって、『ノルウェイの森』は福音のような役割を果たした。「このまま生きていていいんだ」とそれまでの人生を肯定された気になったことを今も忘れることはない。特別な小説である。
その後、明治大学文学部で日本史を専攻するはずだった私は、受験の壁に弾き飛ばされ、やむなく明治大学の夜間の文学部のみに設置されていた文芸学専攻に入学した。敬愛する詩人である田村隆一の直接の後輩になれた訳だが、やはり誰よりも得意だった歴史学を生かせないのは後々痛手になるのではないかと、心が震えるような日々を過ごしていた。3年生になった時、津田洋行教授が、ゼミで村上春樹作品を取り上げることを知る。ゼミに入れるかどうかは早い者勝ちであるため、私は受付当日に事務室の前に3時間前から並び(当然ながら一番乗り)、音楽之友社から発行されていた「世界の指揮者名鑑」を読みながら待ち続けて、参加券を得た。ゼミ自体では上手くいかないこともあったが、ゼミ最後の席でなかなか良い発言が出来たため、そのままの流れで津田先生の担当により村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を卒論に選ぶことになる。自身が書いた論文の文体が気に入らなかったが(論文の文体ではなく、フィクション作品を書く時のような文章であった)、高い評価はいただけた。
そんなこんなで村上春樹は私にとって特別な作家の一人となっている。余談だが、村上春樹を卒論で取り上げなかった場合は、中島敦論を書く予定であった。そのため1年生の頃からちくま文庫の『中島敦全集』を全て読むなど準備を進めてきたのだが、3年の時に方向転換することになる。
『ノルウェイの森』は、読んだことのない人には「お洒落な小説」と映っているようである。1987年に単行本が出た時の装丁が、上巻が赤地に緑の抜き字、下巻が緑に赤の抜き字で、「クリスマスみたい」と言われていたのを記憶している。ただ私にとって『ノルウェイの森』はお洒落でもなんでもない、痛切なサーヴァイブの小説であり、巨大な世界と対峙して敗れていく若者の姿を描いたシリアスな文学だった。東京と京都が舞台となっているというのも気に入った。東京と京都への憧れを持った少年だったから。
自分がどこにいるのか分からなくなるラストは、おそらくは夏目漱石の『それから』へのオマージュであると同時に、多くの若者が体験するであろう乖離のような感覚が叩きつけられるほど鮮烈に描かれていた。『ノルウェイの森』に描かれた風景は確かに私の中にあった。まだ大学にも入っていないのだが、その存在は現実よりもありありと私の眼前にあった。東京23区内の大学に進むことで、それを追体験してみたい気持ちもあった。
そして私は、ヴィルヘルム・バックハウスのピアノ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームスのピアノ協奏曲第2番のCD(ロンドン=DECCA)を買った。京都の花脊峠の向こうにあるという療養所での会話で紹介されている録音である。高校2年生の時の京都・奈良への修学旅行の帰りに、千葉そごう内にあったレコードショップで買って帰って聴いている。まだ演奏の良し悪しがさほど分からない頃だが(ただ感動だけはする)そうやってそれまでの自分とは決別した、新たな自覚を持って歩み始めた人生の後押しをしてくれたのが、『ノルウェイの森』だったような気がする。
トラン・アン・ユンが監督した映画「ノルウェイの森」を観たのは、折しも私が36歳の時。『ノルウェイの森』の冒頭で、語り手であるワタナベトオルが、今「36歳」であることを告げる場面がある。かなりの苦みを伴うシーンなのだが、ワタナベと同じ36歳で「ノルウェイの森」の映画と向き合える巡り合わせを喜んだ。
2022年2月25日
Eテレでドキュランド「プーチン大統領と闘う女性たち」を見る。2021年製作のイギリスのドキュメンタリー。プーチン大統領独裁下のロシアで、反プーチンのナワリヌイを支持しようとしたり、自ら立候補しようとする女性達に迫っているが、ロシアのやり方はかなり強引且つ滅茶苦茶で、立候補の完全阻止が行われている。「新型コロナウイルスを広めようとした」「新型コロナウイルスに感染した」として刑務所化している病院に閉じ込めるという政策である。「『よし、パンデミックだ、これを利用しよう』。こんなことをしている国は世界でロシアだけ」と彼女達も揃って苦笑するが、ここには民主主義も公正な選挙もなく、20世紀のソ連となんら変わりのない警察国家が続いている。
2021年9月15日 ※レポートではなく、番組を見ての私自身の考えが主となっています。
NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」。今回は、豊臣秀吉が死の前年に京都御所(内裏、禁裏)にほぼ隣接した場所に築いた京都新城と豊臣氏の滅亡についての検証がなされる。
京都新城は、「太閤御屋敷」など他の名称と共に史料に出てくる城郭で、本丸の跡地には仙洞御所が建っている。というよりも城が築かれていて地固めなどもしっかりしていたため上皇のための御所に転用されたと考えた方が良いだろう。
仙洞御所の地下に眠っているため、本格的な発掘調査などは難しかったが、昨年、調査によって堀の幅などが分かった。約20メートルの堀を有していたというからかなり本格的な城郭である。
豊臣秀吉というと大坂城のイメージが強く、実際に本城は大坂城であるが、関白として平安京の大内裏跡に築かれた聚楽第で政務を執ることが多く、また晩年は指月と木幡山の二箇所の伏見城を隠居城としてそこで過ごしていた。指月の伏見城は隠居の場として居館に近い形状であったと思われるが慶長伏見地震で倒壊し、その廃材を利用してより堅固な城郭を木幡山に築いている。木幡山の伏見城は、城攻めの名手でもあった秀吉が知恵を絞って築いた天下の堅城であり、防御力は大坂城をも上回っていたと思われるが、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いでは、鳥居元忠ほか僅か500騎が守る伏見城に石田三成ほかが率いる数万の軍勢が押し寄せ、落城。ただ、この落城自体が三成を東側におびき出すための罠だった可能性がある。実際、徳川家康は秀吉の伏見城が堅城であったとして跡地に新たな伏見城を築き直しており、征夷大将軍にも伏見城で任じられている。
伏見城は、徳川家光の時代に廃城になっているが、それには洛中に出来た二条城の存在が大きく影響している。元々は京とは別の街で、現在の京都市でも外れにある伏見の城より、京の街の真ん中にある二条城の方が便利であり、京都の町衆にも徳川の権威を見せつけやすい。それと同じ理由が豊臣氏にもあったのだと思われる。
聚楽第は秀吉から関白職を受け継いだ秀次の城となるが、その後、秀吉に実子の拾(のちの豊臣秀頼)が生まれたため、秀次の存在は邪魔になる。
秀吉の右腕であったのは、弟で大和大納言や小一郎の名でも知られる秀長である。聡明にして「人物」とされた秀長の死により、豊臣政権に歯止めが利かなくなり、秀次は謀反の疑いによって高野山に幽閉され、切腹(秀吉から切腹を命じられたという説と、抗議のために自ら切腹して果てたという説がある)。秀次の妻子は三条河原で皆殺しとなり、秀次の城だった聚楽第は跡形もなく破却された。だが、関白という公家系の称号で成り立った豊臣政権としては洛中に城がないのでは権威を示せなくなる。そこで聚楽第の代わりに御所の近くに新たに建てられたのが京都新城であると思われる。
秀吉の死後、京都新城には正室であった於寧(寧々、北政所、高台院、豊臣吉子)が住んでおり、この地で亡くなっている。高台院がこの地を選んだのは、生前に秀吉から「危なくなったら禁裏に逃げ込め」と指示されていたからとも言われている。堀と石垣以外の防御策はなく、守りは正直手薄だが、御所のそばにある京都新城を攻めるということが御所に弓引くと同じことになり、物質的ではなく心理的な防衛力が期待されていた可能性もある。
幕末とは違い、この時代の天皇は権威はそれほど高くなかったが、紫衣事件が起こる前で、まだ天皇の優位性は保たれていたと思われる。
ただ、平時ならいいが、いざ戦が始まった場合、昔の小島よしおのように「そんなの関係ねえ!」と京都新城を攻める武将が出てくる可能性もあり、秀吉は秀頼が物質的に守りの堅固な大坂城に移ることを決めている。
関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが終わった後、京都新城の西側の堀や石垣などが西軍の兵士達によって崩されている。「御所の安全を守るため」とのことだったが、仮に京都新城を東軍方に乗っ取られた場合、西軍が攻め寄せると「天皇に弓引く」と受け取られて、石田三成らによる家康追討の説得力が失われる。そこで事前に京都新城の防御力を裂いたと見るのが適当であるように思われる。
2013年3月4日
NHKBSプレミアムで、「追悼 ウォルフガング・サヴァリッシュ ~マエストロの肖像 ウォルフガング・サヴァリッシュ 音楽に愛された男~」を観る。2003年に作成されたドキュメンタリーの再放送。先日(2013年2月22日)逝去した指揮者でNHK交響楽団の桂冠名誉指揮者であったウォルフガング・サヴァリッシュ追悼放送である。
幼児の頃から楽才を発揮したこと。第二次大戦では聴力を生かした傍受係を担当したこと。ミュンヘン音楽大学を首席で卒業したこと。初めての指揮台での演奏は失敗に終わったこと。アーヘンの歌劇場でのキャリアの出発。34歳の時に史上最年少でバイロイト音楽祭の指揮者を務めたこと。38歳でバイエルン国立歌劇場という、ドイツ国内でも一二を争う名門オペラハウスの芸術監督に就任したこと。歌劇場の総支配人との対立。1993年にフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任したことなどが、サヴァリッシュ指揮によるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」に乗せて描かれていく。
私はサヴァリッシュの実演には一度しか接することが出来なかったが(1998年11月21日、NHK交響楽団の第1366定期演奏会)、この愛すべきマエストロの生前の姿を観て、一度きりだったことを残念に思うし、改めてサヴァリッシュの音楽が聴きたくなった。
2011年8月3日
深夜1時15分から、NHK総合で放送された「ディープピープル」を見る。再放送である。本放送は都合により、見逃してしまっていた。テーマは指揮者。
下野竜也、広上淳一、小林研一郞という、日本を代表する個性派の指揮者3人が東京オペラシティのリハーサル室に集まってそれぞれの指揮に対する思いを語る。3人の中では広上が一番饒舌なので、自然に広上が進行役を務めるようになる。
個性派と書いたが、3人ともいわゆるオーソドックスなタイプの指揮者ではない。下野は41歳で(今年42歳。2011年当時)と指揮者としては若いが、若さに似合わず、30代のころから渋い音を出す指揮者だし、広上はハチャメチャな指揮スタイルとそれに似合わぬ美音をオーケストラから引き出す指揮者。また「炎のコバケン」こと小林研一郞は熱烈なファンとアンチが共に多いという変わった指揮者である。
指揮棒の話になり、3人とも自分の指揮棒を持参していて見せ合う。広上の指揮棒が比較的長めなのは実演に接しているので知っていた。ただ、明らかに長いというほどではない。遠目から見てもはっきり他の指揮者とは違うと感じる指揮棒を使用しているのは大植英次で、彼の指揮棒は一目で違いがわかるほど短い。広上さんは「背が低い」(自称164cm。学生時代の身長だと思われる。今はそれよりもかなり低いはず)から長めの指揮棒を使っていると語っていたが、大植は広上と同じか、あるいは更に背が低いのに指揮棒は短い。
クラシック以外の音楽の話題にも触れ、小林研一郞は美空ひばりが好きだそうだ。広上淳一は娘さんの影響もあって意外にもAKB48をカラオケで歌ったりするそうで、「『ヘビーローテーション』いいよ」と言っていた。私もAKB48は特に好きではないが、「ヘビーローテーション」だけは好きで(といってもCDは持っていないが)カラオケでも歌う。ただ、なぜか他の曲には惹かれない。下野はクラシック以外の音楽を聴くことはほとんどないそうだ。
演奏会前の楽屋にもカメラが入っており、小林研一郞は演奏会の前に楽屋で一度素っ裸になるそうだが、カメラが入っているので流石にそれはせず、NHKのスタッフが希望するポーズを取った。下野竜也は演奏会前に楽譜を入念にチェックする。かなりの緊張しいだとも語っていた。広上淳一は着替えるのがおそらく日本人指揮者としては一番遅いと語っていた。本番の2分前ぐらいに着替えるという。それより前に着替えると緊張してしまうそうだ。実は広上指揮の京都市交響楽団の定期演奏会で、オーケストラがチューニングを終えて待っているのに広上がなかなか出てこないということがあった。おそらく着替えが遅れたのだろう。
3人のリハーサルにもカメラが入る。小林研一郞はリハーサルでの言葉遣いが非常に丁寧なことで知られているが、70歳になった今でもそれは変わっていない。広上のリハーサルはオーケストラのメンバーと和気藹々といった感じである。下野のリハーサルは厳しいという噂があったが、実際は楽しくやっているようだ。
「第九演奏対決」という企画があり、3人の指揮者が同じオーケストラ(東京フィルハーモニー交響楽団)と同じリハーサル室を使って、ベートーヴェンの第九の第1楽章の終結部を演奏する。音の大きさでいうと、広上、小林、下野の順に大きい。下野が一番オーソドックスな演奏で、広上は指揮棒の振り方は一番個性的なのに生まれる音楽は一番カッチリしたフォルムを持っているという特徴がある。小林は一番テンポが遅く、最後の方は一音毎に指揮棒をくねらせ、最後もゆったりと大見得を切るように終わる。小林が楽譜にない間を取っていることも話題になる。
広上が教授を務める東京音楽大学のリハーサル室にもカメラが入り、広上の指揮指導姿が撮される。学生指揮者と学生オーケストラによる授業。広上は以前、「東京音大の指揮科に定員を設けるのをやめ、その代わり授業を厳しくする」と語っていたが、言葉通り、学生指揮者の演奏を何度も止め、駄目だしをしていた。
2021年6月21日
NHKオンデマンド「英雄たちの選択スペシャル 決戦!西南戦争 ラストサムライ西郷隆盛の真実」を見る。2018年に放送されたもので、昨日の午後1時から再放送されている。再放送の録画の予約をしておいたのだが、ハードディスクの容量が足りず、ラスト20分ほどが録画されていなかったため、NHKオンデマンドで確認することにした。
再現VTRとロケ、スタジオでのトークからなる構成で、軍事方面の解説者として友人の竹本知行(現・安田女子大学准教授)が二度ほど登場する。
再現VTRで山県有朋を演じるのは懐かしの河相我聞。今は俳優専業ではないはずだが、俳優としての活動は続けているはずである。
クライマックスとなるのは田原坂。最後の内戦となった西南戦争最大の激戦地である。熊本民謡「田原坂」で、またNHK紅白歌合戦に対抗して日本テレビ系が年末に放送していた大型時代劇の一つ「田原坂」(西郷隆盛を里見浩太朗が演じた)の由来としても知られる。年末大型時代劇の「田原坂」は、それまでの「白虎隊」に見られるような群像劇ではなく、西郷隆盛一人の人生を追ったスタイルとなっていたが、そのために不評で、視聴率も振るわなかったと記憶している。
西郷の下野については、征韓論論争での敗北が引き金となっているが、鹿児島に帰った西郷の下に、不平を抱く多くの士族が集結。西郷が開いた「私学校」で武術の研鑽に励んだ。
中央を退いても人材の育成に努めた姿は多くの人の共感を呼び、私の出身地でもある千葉県にも、敬愛大学や千葉敬愛高校などを運営する千葉敬愛学園が存在する。敬愛は、西郷の座右の銘である「敬天愛人」が由来である。
今では「士農工商」という言葉も学校では教えなくなっているが、当時は皇族や公家、将軍家や大名家などを除いた人々の身分は、「士族とそれ以外」からなっていた。そして勝海舟や坂本龍馬のように、先祖が御家人身分などを金で買って士族に加わるものもあり、思ったほど厳しい身分社会という訳でもなかった。
だが、明治維新となり、士族はその特権を次々と失っていく。武士の魂とも呼ばれる刀を奪う廃刀令、そして仕えることで俸禄を頂くという体制も主君が華族となって東京に移り住むことで徐々に崩壊していく。そして1869年の秩禄処分により多くの士族が生活の糧を失う。商売に手を出す者もいたが、ノウハウが全くないため次々と失敗。これが「武士の商法(士族の商法)」と呼ばれるようになる。
秩禄体制の崩壊に深く関わってくるのが、徴兵令の施行である。国民皆兵を目指したことで、士族が特権階級である意義は事実上消滅したことになる。
そうした状況下で不平士族が次々と決起。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族反乱が立て続けに起こる。
そして不平士族の首領として担がれることになったのが、鹿児島に隠居していた西郷隆盛である。下野していたとはいえ、戊辰戦争の英雄であり、陸軍大将の称号は保持。その魅力は全国の士族達を引きつけていた。
ただ、西南戦争自体は、西郷隆盛以上に桐野利秋(幕末は中村半次郎を名乗る。あだ名はご存じ「人斬り半次郎」である)が積極的に関わっており、西南政争を「桐野の戦争」と呼ぶこともある。桐野は徴兵制が士族の存在意義を否定するものと捉えていた。
西郷の決起は本意でなかったとされるが、新しい解釈として、西郷もいずれは反乱を起こす気でいたが、薩摩士族の暴挙や西郷暗殺計画を知ったことにより、十分に準備を整えることが出来ないまま立ち上がらざるを得なくなったという説が紹介される。神風連の乱が起こった際に西郷が、「ひとたび相動き候わば、天下おどろくべきの事をなし」という書状を友人に送ってるのがその根拠とされるが、漠然とした希望を語っただけの可能性もあり、根拠として十分とはいえないように思われる。文面から察するに、この時は今すぐ何らかの行動を起こすつもりはなかったと思われる。文章がやや悠長だ。
ともあれ、西郷は桐野と共に決起。まずは新政府軍の鎮台が置かれた熊本城を目指す。西郷軍が動いた時点での熊本城の守りは手薄であったが、当時最新鋭の電信、鉄道などを駆使する新政府側は速やかに熊本城内に援軍を送ることに成功。結局、西郷軍は谷干城を司令官として置く熊本城を落とせぬまま、博多から迫り来る新政府軍の援軍と退治するため、熊本城の北にある田原坂に陣取り、迎撃態勢を整える。
従来は、田原坂の一本道を巡る死闘とされていた田原坂の戦いだが、現在では調査により、西郷軍は田原坂の一本道の上方に砦を築き、地の利を生かす戦法を取ったことが分かっているようだ。
天下の堅城、熊本城とはいえ、援軍が来なければ籠城側は負ける。田原坂で援軍を押し止め、同時に分隊が熊本城への攻撃を続けることで、南北同時勝利を目指した作戦であった。
ここでまた徴兵制の問題が絡んでくる。西郷軍に所属するのはほぼ全員が士族。一方、新政府軍は、平民身分出身者が軍事教練を受けて参加していた。勿論、士族出身者も幹部を中心に含まれていたが、主力は平民階級の兵士である。
その後、白兵戦で勝てぬと踏んだ新政府側は、士族を中心とした警視局の抜刀隊を組織。士族出身者を特別視することで徴兵制を否定するような戦術だったが、日本刀での斬り合いの訓練を幼少時から受けていたのは士族階級出身者のみであるため、背に腹は代えられなかった。警視局抜刀隊には、元新選組の三番隊組長・斎藤一こと藤田五郎が参加していて、新聞にも載るほどの獅子奮迅の激闘を演じ、新選組隊士の維新後唯一の活躍となっている。
会津新選組局長、山口二郎を名乗ったこともある斎藤一こと藤田五郎の活躍などもあって、戊辰戦争で負けた会津出身の抜刀隊員が、「戊辰の敵! 戊辰の敵!」と叫びながら激闘を繰り広げたという有名な話があるが、これは誤解によるものとされており、実際に抜刀隊の主力となったのは、旧薩摩藩士だそうである。
江戸時代の薩摩藩(島津家)の統治体制は独特であり、一国一城令の時代に100を超える支城(外城)を持つことが許されていた。その代わりなのかどうかは分からないが、島津氏も譲歩しており、居城の鹿児島城は、鶴丸館という本来の名の方が相応しい質素な居館であり、堅固で巨大な城郭は築いていない。支城を守るために武士を多くする必要があり、他の大名家の家臣なら農民階級に属する人々が苗字帯刀を許されて士族に組み入れられ、半農半士というスタイルで生活していたため、薩摩における武士の割合は、子女も含めて15%から25%ほどにもなる。江戸時代に全人口において武士が占める割合は、子女を含めて5%から7%といわれているため、薩摩の武士層の厚さが分かる。ただ一方で、鶴丸館の周りに屋敷を構える城下士と、支城を固める役割を持つ外城士では身分に違いがあり、外城士は郷士とも呼ばれ、自作農が許される代わりに俸禄なしなど待遇は良くない上に、城下士からは蔑まれていた。維新になっていよいよ生活出来なくなった外城士からは東京に出て警視局に入る者が多く出る。そして、因果なことに抜刀隊として同国人同士で斬り合うことになるのである。抜刀隊を支えたのは戊辰の怒りではなく、階級体制に対するかつての不満だったようだ。
ところで、島津氏の居城は鶴丸城のみで、親戚の藩もあったが、支城の数の方が遙かに多く、それを守る外城士=郷士の方も当然ながら多かった。西南戦争においても、城下士=西郷軍、外城士=新政府軍という単純な二極化ではなく、西郷軍も数からいえば郷士出身の者の方が圧倒的に多かった。郷士も「私学校」への入学を許されたためで、統計を見てみると、城下士は郷士の10分の1強の数しかいない。郷士は半農半士なので、剣術はともかくとして、砲術、射撃、軍事的知識などについては城下士ほどには通じていないはずである。
戊辰戦争に参加した薩摩軍の兵士は、大半が身分は低めであったものの城下士で、郷士の大半は実戦経験を持っていない。また、これまで郷士を見下してきた城下士に部下として仕える意味も必ずしも持っているわけではない。そうした状況でありながら、数を頼りに挙兵したことが、西郷方のそもそもの誤りであった可能性もある。
2021年5月5日
録画しておいたNHK「英雄たちの選択」“天平のパンデミック 聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤”を見る。聖武天皇の時代、奈良の都(平城京)では疱瘡(天然痘)が大流行し、藤原不比等の息子で当時の政権と藤原氏の中枢を担っていた四兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂。それぞれ、南家、北家、式家、京家の祖となる)が全員亡くなるなど、政治が大混乱に陥っている。
当時は奈良の都に全てが集中するという中央集権体制。一極集中ということで物資も奈良に集まっては散っていったため日本全土にウイルスが広まり、天然痘によって当時の日本人の3人に1人が亡くなるという惨状を呈する。当然ながら当時の経済の目安であった農作物にも影響が出た。
そこで登場したのが葛城王という皇族から臣籍降下した橘諸兄である。源平藤橘の橘氏の礎を築いた橘諸兄。母親は県犬養橘三千代であり、聖武天皇妃である藤原光明子は異父兄妹に当たる。ということで親族として光明子と聖武天皇から全幅の信頼を置かれての登場であった。
聖武天皇は母親の気質を受け継いだからともいわれるが、精神的に不安定な天皇であり、突然、伊勢や美濃に御幸を行ったかと思えば、都を平城京から恭仁京に移し、更に難波京、紫香楽宮へと遷都。ただでさえ天然痘のパンデミックの後だというのに、天皇が次々遷都するという異常事態に民衆は反発。更に金光明最勝王経を唱えた時期に天然痘が収まったということで、全国に経典を広めるべく、国分寺の建立を発案。ただ、遷都にも国分寺建造にも人力や資材が必要となる。更に聖武天皇は紫香楽宮に盧舎那仏の造営を企画。だが、工事が始まるやいなや、紫香楽宮で不審火が相次ぎ、民衆が離反したことに気づく。
恭仁京遷都については、橘諸兄主導だったという説が紹介される。橘諸兄の本貫地が恭仁京が築かれた今の京都府木津川市に近かったそうで、橘氏の都として築かれたのが恭仁京だったようだ。
橘諸兄自身は盧舎那仏の造営案に名を連ねておらず、造営自体に反対だった可能性が高いが、平城宮に盧舎那仏を築くよう聖武天皇に進言したのは諸兄ではないかともしている。
当時、新羅との関係が悪化しており、「新羅討つべし」との声もあったというが、諸兄は外交より内政を重視し、対朝鮮半島対策として置かれていた「軍団」を廃止し、農民出身者を農村に戻して収穫を増やし、課税を増やすという政策を採る(軍に入っている間は税を取られないという取り決めがあった)。
更に、石高を増やすため、最も語呂の良い日本史用語として有名な「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」を発布した。それまでは日本の土地は全て国有地であり、三世一身法で三代限りの私有が認められたが、期限付きであったため、積極的な開拓が行われたかというとそうでもなかった。耕してもどうせその土地を国家に取り上げられることになるのだから当然である。墾田永年私財法によって土地の私有を認めることで、開墾が進み、経済も回復したが、土地の私有化の副産物として貴族や有力寺院などが荘園を築くようになり、国家のあり方が変わっていくことになる。だがそれはまだ先の話である。
2021年4月26日
NHKオンデマンド「100分de名著 『歎異抄』」を4回連続で見る。2016年の放送。ナビゲーターは釈徹宗。
最も人気のある宗教書の一つとして知られる『歎異抄(たんにしょう)』。だが、「誤解を招く」として封印されてきた歴史があり、一般的に知られるようになったのは明治時代以降である。明治期に、清沢満之(きよざわ・まんし)、暁烏敏(あけがらす・はや)ら真宗大谷派の仏教学者が「歎異抄」の再評価を行い、特に暁烏敏は『歎異抄』を真宗の最重要書に選んでいる。今は、お東お西ともに『歎異抄』は重要視しているが、原則的にはお東(真宗大谷派)で研究された歴史の方が長い。
作者は正確には分かっていないが、常陸出身の唯円であるとされる(文章の中に唯円の名が登場するため)。ちなみに、親鸞の弟子に唯円という名の人は二人いたそうで、そこからしてややこしくなっている。
親鸞亡き後、真宗の教えはすぐに親鸞が残したものと異なる解釈が幅をきかせるようになり、それを嘆いた唯円が、「異なったことを嘆く」という意味で『歎異抄』を著した。
宗祖亡き後に、異なる意見が現れ、悶着が起こるというのは定番で、釈迦入滅後も意見が割れるのを防ぐために「結集」という、釈迦の教えを確認する会議が何度か行われたが、実際には、釈迦本人の言葉ではない経典が数多く創作され、今、日本に入ってきている経典は、そうした「理想の釈迦の言葉」を目指して創作されたものが大半である。創作というと「捏造」のようにも感じるが、自らが理想とする釈迦の言葉を、人生の伴侶とする形で歴代の人々が紡いでいったものであり、歴史的な価値がある。
だが、宗祖亡き後に、本来と異なると思われる教えが広まることに懸念を示すのも当然の心理である。真宗とは真逆の立場にある日蓮宗でもそれは起こっており、日蓮の高弟の一人であった日興は「日蓮聖人の教えが守られなくなった」として身延山を下り、大石寺を建てている。大石寺は、現在は日蓮正宗の総本山となっており、日蓮正宗は扱いとしては新宗教であるが、歴史は長い(日蓮宗富士門流からの分離)。
真宗の場合は、親鸞本人が新宗派を起こしたという考えを持っていなかったため、更にややこしくなる。
親鸞は承元の法難で越後に流罪となり(越後が流罪の国でなかったため異説もあり)、その後、関東に赴いて師である法然の教えを広め、更に深めていく。研究する上で、参考文献が必要になるのだが、当時の東国は田舎で、書籍は思うように手に入らない。そのことが親鸞が京都に戻る一因となったとされる。さて、京都に戻った親鸞であるが、東国で彼が広めた教えが様々に解釈されるようになり、侃々諤々の様相を呈する。親鸞がかつて本拠を置いていた常陸国は、筑波山があることから修験道の要地でもあり、修験道的な教えが念仏に混じるようになることは想像に難くない。ということで、親鸞は長男である善鸞(ぜんらん)を東国に送ったのだが、善鸞自身が呪術的な要素に染まるようになり、「父から自分だけが受け継いだ奥義」があると喧伝するようになる。親鸞は善鸞をやむなく義絶した。
実は善鸞は真宗出雲路派では、今も二代目に位置づけられていたりする。
実の子が教義を違えたため義絶することになった八十代の親鸞が唯円に語ったことを纏めたのが『歎異抄』である。実の子を見捨てざるを得なかったという親鸞の気持ちはおそらく反映されていると思われる。
「悪人正機説」が最も有名であるが、ここでいう「悪人」とは今でいう悪人とは異なる。
仏教というのは個人的な宗教であり、修行して解脱を目指すのが本道である。だが、日本において修行のみで生きることが出来るのは特別な立場にいる人だけである。僧侶がそうだが、実は当時の僧侶というのはある程度の身分のある人のエリートコースへの階段であり、親鸞も中級から下級の公家であるが日野氏という藤原北家の貴族の血筋に生まれている。日野氏からは後に日野重子や日野富子が生まれているが、それ以前にも足利将軍家に女子を送り込むなど、出家のための戦略に長けた家である。中級から下級であるため公家のままでは大した出世は望めないが、比叡山で僧侶になれば、あわよくば天台座主の座(今でいうと文部科学省大臣兼東京大学学長のような立場)も狙える。ということで親鸞の兄弟は全員、比叡山に入って仏道での出世を望まれるようになった。実際、親鸞の弟などはかなり出世している。
だが、親鸞は9歳で出家し、29歳まで20年間厳しい修行を行うも、一向に悟りの開ける気配を感じ取ることが出来ず、日毎比叡山を下りて六角堂に百日参詣を行う。そこで夢告を得て、吉水の法然坊源空に師事して、易行の道へと進むことになる。
修行に励まなければ極楽往生出来ないというのでは、救われるのは僧侶や僧侶になれる身分の人々だけということになってしまう。善人というのは僧侶などのことで、悪人というのはそうでない人のことである。僧侶以外は救われないという教えは仏教ではないと考えた親鸞が説いたのが、俗に言う「悪人正機説」である。自ら往生出来る人(声聞など)は自ら往生すれば良く、それが出来ない人々を救うのが阿弥陀の本願というわけである。当然といえば当然だが、西洋の「天は自ら助くる者を助く」という発想にはならない。
東国にいた頃、親鸞は貧しい人々とも積極的に接した。動物を殺して生きる猟師や漁師、当時は卑しい階級とされていた商人らが悪人と呼ばれた人々である。このような自ら往生出来ない人を救うことこそが弥陀の本願なのである。
親鸞が生きたのは激動の時代である。親鸞が生まれたのは西暦1173年であるが、その20年ほど前に保元の乱と平治の乱があり、武士階級が台頭。実は親鸞の母親は源氏出身ともいわれており、親鸞本人も武士階級の台頭や源平合戦と無縁ではなかった。戦になると武士や戦場に駆り出された庶民は人殺しをしなくてはならない。これでは往生など出来るはずもないのだが、そうした人々を救うのも阿弥陀如来の本願なのである。
こうしたことに関してはおそらく異論は出なかったであろうが、「南無阿弥陀仏と唱えれば全ては許される」などといったカトリックでいう免罪符に似た極論が出てきたため、こうした異論をたしなめるべく記されたのが『歎異抄』である。だが、極論を排して中道を行く精神が根本にあるため、どうにもフワフワとしてわかりにくいという印象を抱かせることになっている。仏教なので、点検することが一々多いのである。「どうせ救われるのだから何をしても良い」と考える「本願ぼこり」と呼ばれる極論を唱える人々が現れるのだが、「本願ぼこりは往生出来ない」という考え方もまた極論として退けられるのである。ただ、こうした考えは唯円オリジナルと見る向きもあり、それらもまた複雑さの原因となっているようである。
私自身は、五木寛之訳の『私訳 歎異抄』と光文社古典文庫から出た関西弁訳の『歎異抄』を読んでいるのだが、「理解は出来るが納得は出来ない」というのが今の立場である。
なお、ナレーションは昨年4月に亡くなった志賀廣太郎が行っており、落ち着いた語り口を楽しむことが出来る。
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