美術回廊(85) 京都市京セラ美術館 コレクションルーム 夏期「特集 女性が描く女性たち」+やなぎみわ 「案内嬢の部屋1F」
2024年9月18日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館本館南回廊1階にて
京都市京セラ美術館本館南回廊1階で、コレクションルーム 夏期「特集 女性が描く女性たち」を観る。タイトル通り、女性が女性を描いた絵画の展覧会である。5点のみ写真撮影可となっている。“先駆者の試み”、“着飾らない姿”、“よそゆきの姿”の3タイトルから構成。上村松園、伊藤小坡(いとう・しょうは)、梶原緋佐子、三谷十糸子(みたに・としこ)、秋野不矩(あきの・ふく)、広田多津、北沢映月、由里本景子、丹羽阿樹子の作品が並ぶ。
梶原緋佐子は、疲れた女性や女芸人など、哀愁の漂う女性を多く描いている。
由里本景子の「望遠鏡」は、天体望遠鏡、小型望遠鏡、肉眼で遠くを見つめる3人の女性を描いている。おそらく3人の見つめる先には希望があるのだろう。天体望遠鏡を覗く女性は、片足を台に乗せているのが印象的である。
丹羽阿樹子の「奏楽」は、着物姿の女性二人がヴァイオリンを奏でている様子を描いたものである。一人の女性(右側)はこちらを向き、もう一人の女性は向こうを向いていて顔は見えない。不思議なのは譜面台も譜面も描かれていないこと。こちらを向いた女性の視線は、もう一人の女性の足下を見ている。アマチュアの音楽家が譜面なしでデュオを奏でられるとは思われないのだが、譜面台を描いてしまうと着物が隠れてしまうため、フィクションとしてこうした構図にしたのだろうか。
今回の展覧会のメインビジュアルとして用いられている秋野不矩の「紅裳(こうしょう)」。都ホテルのラウンジのテーブルを5人の女性が囲んでいる様子を描いたものである。5人のうち、視線を交わしているのは手前の二人のみである。二人は後ろ向きだが、互いが互いの目を見ていることは分かる。他の女性のうち、一人はテーブルの中央に浅葱色の花瓶に生けられた花を見つめている。残る二人はどこかをぼんやりと見ている。五角形の構図の中で、バラバラの場所を見ている5人が、逆に緊密な雰囲気を生み出しているのが興味深い。
丹羽阿樹子の「達矢」は、女性が弓を構え、上方を狙っている様子を描いたもの。傾いた構図だが、90度の構造と垂直のラインは保たれており、美しくも力強い絵となっている。
「女性が描く女性たち」の作品はそれほど多くはなく、「青磁と染付」、「青々とした緑」、「シルクスクリーンの可能性」、「大量消費がもたらす儚さ」という展示が続く。
「大量消費がもたらす儚さ」のラスト。つまりこの展覧会の掉尾を飾るのが、やなぎみわの「案内嬢の部屋1F」という写真作品である。1997年の作品。当時、二十代と思われる女性が何人も写っている。1997年に二十代ということで、写真の中の女性達は私と同世代と思われる。
中央に動く歩道がある(関西では「動く歩道」のことを「歩く歩道」ということがある。「歩道は歩くでしょ」というツッコミはなしで)。1枚目の写真は、その上に赤い制服を着た案内嬢達が座っている。一番手前の女性は仰向けに寝転んでいるが、寝ているのは気絶しているのかは不明。続く女性達は、座って斜め上の角度を見上げている。凄く歩道の側面はガラス張りのディスプレイになっており、その中に花々が凜とした姿を見せている。女性達の憧れの象徴なのだろうか。同じ角度を見上げている、同一人物と思われる女性が複数写っているようにも見えるのだが、はっきりとは分からない。いずれも華の案内嬢達は、憧れを抱きながら、動く歩道で運ばれ続けていく。残酷な構図である。
2枚目の写真も動く歩道が中央に写っているが、乗っている人は誰もいない。動く歩道の両サイドのガラス張りのディスプレイには案内嬢達が立って並んでいる。女性が消費される存在であることを暗示しており、これまた残酷である。
最近のコメント