カテゴリー「京都市京セラ美術館」の7件の記事

2021年8月 9日 (月)

美術回廊(66) 京都市京セラ美術館 「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」

2021年7月30日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館・東山キューブにて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館の新館、東山キューブで、「THE ドラえもん展 KYOTO 2021」を観る。京都市美術館が改修工事を経て京都市京セラ美術館となる際に、本館の東側に新設された東山キューブ。入るのは初めてである。

藤子・F・不二雄の代表作「ドラえもん」にインスパイアされた若手アーチスト達の作品を並べた「THE ドラえもん展」。東京では何度か開催されているようだが、京都で行われるのは初めてである。

Dsc_2087

現在、東山キューブのみならず京都市京セラ美術館の各所にほぼ等身大(129.3cm)のドラえもん像がいくつも設置されており、自由に写真を撮ることが出来るが、「THE ドラえもん展」もいくつかの作品(映像作品が主になる)を除いて写真撮影可である。

Dsc_2084

Dsc_2083

Dsc_2080

「ドラえもん」は1969年に連載開始、SF(少し不思議な)マンガとして構想されたことは有名である。アニメ第1シリーズは私が生まれる前年の1973年に始まっているが、半年後に制作会社が倒産して打ち切り。今に至るまで続いている第2シリーズは1979年に始まっているが、この第2シリーズは私は第1回放送から見ており(予告編も見た記憶がある)、アニメ「ドラえもん」と共に成長した世代に当たる。マンガも各誌に連載されており、単行本も買って読んでいた。


様々な作品が展示されているが、最初に飾られている村上隆の2つの作品がオリジナルのドラえもんに最も近い。タイトルは「あんなこといいな 出来たらいいな」で微妙に間違っている(「ドラえもんのうた」の歌詞は「こんなこといいな 出来たらいいな あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど」である。敢えて変えたのかも知れないが)。この作品は「ドラえもん」の名場面のパラフレーズで、藤子・F・不二雄が登場している場面や、「ドラえもん」ファンにはお馴染みのジャイアンのリサイタルシーンなども取り入れられている。

Dsc_2075


蜷川幸雄の娘で、写真家・映画監督である蜷川実花の作品は、ドラえもんを理想の恋人に見立てて、女の子とデートする姿が捉えられてる。


後半は、映画版「ドラえもん」(大長編「ドラえもん」)に取材した作品が並ぶ。


1996年生まれの若手、れなれなの作品は、「のび太の新魔界大冒険」のクライマックス近くの場面を「黒板アート」として描いたものだが、黒と白墨のコントラストが絶妙であり、芸術性が高い。


ラストを飾るのは、坂本友由の「僕らはいつごろ大人になるんだろう」。タイトルは、武田鉄矢が歌った大長編「ドラえもん のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)」の主題歌「少年期」の歌詞に由来している。

「のび太の宇宙小戦争」のしずかちゃんを描いたものだが、顔はローティーンではなくハイティーンの少女風に変わり、スカートをたくし上げて絞るという構図はセクシーにしてエロティックである。
アニメ「ドラえもん」を子供の頃から見ている世代の男にとっては、しずかちゃんは初めて知る「可愛い」「理想的な」女の子であり、いわば擬似的な「初恋の女の子」になりうる存在である。そんな「女の子」が「女」に変わる瞬間、男側から見れば「女の子」でなく「女」と感じる瞬間というものを、この作品は上手く捉えているように思われる。

| | | コメント (0)

2021年7月30日 (金)

美術回廊(65) 京都市京セラ美術館 「フランソワ・ポンポン展」

2021年7月23日 京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、フランソワ・ポンポン展を観る。

Dsc_2012

京都市美術館をリニューアルした京都市京セラ美術館。展示会場が増え、現在、6つの展覧会が同時進行で行われている。

「古代エジプト展」も「上松松園」展も、北回廊1階の展示室で行われているが、フランソワ・ポンポン展は、北回廊の2階が会場である。展覧会を見終えてから、東山キューブのバルコニーに出て、ウエスティン都ホテルなどを眺めた。

Dsc_2031


フランソワ・ポンポン(1855-1933)は、フランスに生まれ、活躍した彫刻家である。遅咲きであり、全仏にその名が知れ渡ったのは67歳の時。それまでは彫刻家の下彫り職人をしながら自作を発表していたが、人物彫刻では十分な評価を得られず、51歳で動物彫刻に転向。巨大なシロクマ像を発表して話題になり、「売れている」と見なされるまでにはそれからまだ時間が掛かるが、巨大シロクマ像発表の前年である1922年に、東久邇宮稔彦(後に史上初にして唯一の宮家出身首相となる)がポンポンの作品を買い上げているそうである。

巨大シロクマ像は移動させることが大変であるため、展示はされていないが、小型のシロクマ像はいくつか展示されており、そのうちの一つは写真撮影可となっている。また展示場内売店にポンポンの巨大シロクマ像の模型が展示されており、記念撮影をすることが出来る。

なお、紙に印刷された作品リストは存在せず、QRコードを読み取って、スマホで確認することになる。コロナ対策なのか、今後は作品リストはこうしたタイプのものが主流になるのか、現時点では判断保留である。

Dsc_2030

Dsc_2027


フランス中央部、旧ブルゴーニュ地方のソーリューに生まれたフランソワ・ポンポン。父親は高級木工家具職人であり、ポンポンも幼時から父親の仕事を手伝っている。将来彫刻家になる素養はこの父親と成育環境から受け継いだものだと思われる。
15歳の時に地元の司祭に才能を認められたポンポンは奨学金を得て、ブルゴーニュ地方のより大きな都市であるディジヨンに移り、墓石を掘る大理石職人として働きながら美術学校の夜間部で本格的に彫刻を学び始める。ディジヨンの彫刻コンクールで1等賞を得たポンポンは兵役に就くためにパリに出て、短期間で軍務を終えた後は、パリのモンパルナスに住み、やはり墓石の大理石職人をしながらプティット・エコール(ポンポンが入学した年に国立装飾美術学校に改名)の夜間部で学ぶ。ここでは動物彫刻家のピエール=ルイ・ルイヤールが教えており、ポンポンにパリの植物園内の動物園で動物の観察をするようポンポンに勧めたそうだが、この時はポンポンは人物の彫刻家を目指していたため、助言を聞き入れなかったようである。

1890年から5年ほど、ポンポンはオーギュスト・ロダンの工房で下彫り職人を務め、最終的には工房長にまでなる。当時、彫刻家として並ぶ者のいないほどの名声を得ていたロダンの「動き」に着目する技法にポンポンは影響を受ける。ロダンの下を離れてからは、ルネ・ド・ポール・ド・サン=マルソーという彫刻家の下彫り職人として働き、夏場はノルマンディー地方のキュイ=サン==フィアクルという小さな村で過ごしたサン=マルソーに従って、ポンポンもキュイ=サン=フィアクルに家を買い、サン=マルソーの仕事を手伝ったのだが、キュイ=サン=フィアクルの農場で飼われている動物達の姿がポンポンのインスピレーションを刺激することになる。

当時のフランスの彫刻界では、人物の彫刻像が主流。それも文学作品に出てくる人物を彫るのが流行りであった。ポンポンも『レ・ミゼラブル』のコゼット像などを彫っており、好評で本人も自信があったそうだが、国による買い上げは認められず、これを機にポンポンは本格的に動物彫刻の道へと進んでいく。動物彫刻は人物彫刻よりも格下と見られていた時代だったが、20世紀初頭には動物彫刻の再評価が始まっており、ポンポンもこの潮流に乗ることが出来た。

ポンポンの後期の動物彫刻は、磨き抜かれたフォルムが特徴で、これは墓石の大理石職人をしていた影響が強いと思われる。表面は陶器か漆器のようであり、現実なのか非現実なのか、リアルなのか象徴なのか、その絶妙の間でポンポンが作成した彫刻は生命力を見せつける。

Dsc_2025

有名なシロクマシリーズなども、足が太く、足の運び方も現実とは異なっているのだが、「今まさに移動している最中のような」躍動感を上手く面に出すことに成功している。「ノッシノッシ」という擬音が聞こえてくるかのようだ。現実ではあり得ないが、よりリアル(切実)である。目で見たものそれ自体よりも目で感じたこととして彫刻作品を作り上げている。またこの時代にフランスではアールデコが流行っており、ポンポンもアールデコに基づくデザイン性を取り入れた動物彫刻を作成している。
「休んでいる冠鶴」などはその典型で、細部をデザイン化することで、「そのもの」からは遠くなるが、フォルムと生命感を抽出した作品となっており、「そのもの」が持つ力はより先鋭化されるというアンビバレントが技巧が用いられている。

ポンポンは、パリ旧王立植物園付属動物園に足繁く通っていたようで、ついには動物園の動物達がポンポンになついてしまったという。そうした動物への愛情が、動物も持つであろう心情やエネルギーをいわば理想化しつつ誠実に読み込み、彫刻作品として昇華することを可能にさせたのだと思われる。

ポンポンが理想の一つとしたのだが、古代エジプトの動物彫刻だそうで、シンプル且つ生命力豊かという古代エジプト芸術に感銘を受けたようだ。

ポンポンが売れる直前の1921年に、苦楽をともにした妻のベルトが死去。ポンポンは彼女の墓にコンドルの像を飾った。同じ形のコンドル像が展示されているが、ポンポンは古代エジプトでは、コンドルに似たハゲワシが冥界の守護神となっていることを知っており、妻のあの世での安寧を期して、コンドル像を飾ったことが推測される。1933年、78歳の誕生日を3日後に控えて他界したポンポンは、コンドル像のある墓所で妻と共に眠っている。


ポンポンの作品は、ソーリューのフランソワ・ポンポン美術館、ディジヨン美術館、パリのオルセー美術館などの他に群馬県立館林美術館が多く所蔵しており、館林美術館所蔵のものが数多く展示されている。また、今年の11月からは、館林美術館でフランソワ・ポンポン展が開催される予定である。

| | | コメント (0)

2021年7月28日 (水)

美術回廊(64) 京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」

2021年7月20日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎の京都市京セラ美術館で、京都市京セラ美術館開館1周年記念展「上村松園」を観る。なお、ポスターなどに用いられている重要文化財「序の舞」は、8月17日から始まる後期のみでの展示となる。

近世京都画壇の重要人物の一人である上村松園(1875-1949)。京都の街中である四条御幸町西入ル奈良物町(現在はビックカメラのある辺り)に生まれた彼女は、幼い頃から絵が好きで、京都市立開智小学校(跡地に現在は京都市学校歴史博物館が建つ)卒業後、京都府画学校(京都市立芸術大学美術学部の前身)で鈴木松年(しょうねん)に円山派の絵画を学び、「松」の字を譲り受けて松園と名乗る。松年が画学校を退職すると松園も退学して、松年の私塾で学ぶ。元々、美人画を描きたいと考えていた松園は、幸野楳嶺に師を変え、楳嶺が2年後に死去すると、楳嶺の一番弟子で現在も京都画壇の最重要人物と目されている竹内栖鳳に師事するようになる。その後は主に市井の女性を題材とした絵で注目され、死の前年には女性として初めて文化勲章を受章。死後には従四位に叙せられている。門徒でもあり、墓は大谷祖廟の東大谷墓地(展示されていた年表では大谷本廟となっていたが誤り)にある。息子は日本画家の上村松篁(しょうこう)、孫も日本画家の上村淳之(あつし。京都四條南座の緞帳も手掛けている)。

初期は表面的な美人画を描いていた松園だが、次第に内面の描写へと傾いていく。

初期作品の一つである「清少納言」は、清少納言が中宮定子に「香炉峰の雪はどう見るの?」と問われて御簾を掲げる場面が描かれているのが、全く同じ題材の「清少納言」を松園を大正時代に入った二十数年後に描き上げている。画風は大きく異なる。初期に書かれた「清少納言」は、床など余白とされる部分が大きく、清少納言の表情も何を考えているのかよく分からない。一方、大正時代に描かれた「清少納言」は清少納言の姿が大きく描かれ、迫力からして異なる。また清少納言の顔は、この場面には相応しくないほどの憂いに満ちている。大正期の「清少納言」の次に展示されているのは、「焔」という作品であるが、これは、紫式部の「源氏物語」に登場する六条御息所をモデルにした作品で、やはり強い憂愁の表情を浮かべている。その横に並ぶのは「紫式部之図」で、紫式部は和やかな面持ちである。歴史的に清少納言は皇后の座争いに負けた中宮定子側、紫式部は勝った中宮彰子側である。これはそう見えるようにキュレーターが並べているので、実際に松園が清少納言の憂いに何を込めたのかは分からない。御簾を掲げる場面は、清少納言が己の教養の高さを示すために「枕草子」に自慢気に書いたもので、その場で憂鬱な顔をしていたとは考えにくい。大正時代の「清少納言」が描かれた時期は、松園がスランプに陥っていた時代のようだが、己の姿を清少納言に重ねたのであろうか。

初期の松園の絵は、伝統的な日本画に多い、S字カーブの構図を用いているのも特徴。「花のにぎわい」など、同じモチーフで描かれている一連の作品は、崩れそうなバランスを敢えて取ることで、一瞬の華やぎを上手くすくい取っている。後年の作品ではS字カーブはあまり見られなくなり、代わって垂直の構図が多く用いられるようになる。

「表面的で内面描写に乏しい」というのが、初期の松園が受けた評価であった。これを受けて松園も心情が一目見て分かるような描写を心がけるようになり、先に挙げた「清少納言」や「焔」はそうした時代を代表するものである。だが松園はその後、直接的な描写ではなく、主人公以外の要素を描くことで、心象が間接的に伝わる技法へと転換していく。

昨年、京都国立近代美術館で行われた「京(みやこ)のくらし」展でも観た「虹を見る」(京都国立近代美術館所蔵)では母親と赤子、そしてもう一人の若い女性がタイトル通り虹を見上げているところを描いた絵であるが、目に映る虹は三者三様であることが察せられ、観る者の想像力をくすぐる。
また亡くなった母に捧げたとされる「母子」(重要文化財指定。前期のみの展示)では、赤子を抱いている母親の横顔が描かれているのだが、赤子は向こうを向いているので表情は見えない。だが母親の方は清々しい表情を浮かべているため、赤子も良い表情をしていることが察せられる。このように松園は直接的な描写でなく観る者の想像力に委ねる画風を確立する。「楚蓮香」など、蝶々が華やかさを演出している絵が何枚かあるが、やがてそれが憂いの蛍へと変わっていく。描かれている女性は特に憂鬱な感じではないのだが、蛍を追っていることで、自然に儚さが出ている。後期になると再び余白の部分も大きくなる。

松園の絶筆とされる「初夏の夕」(京都市美術館所蔵)も蛍を目で追う女性を描いたものだ。だがこの作品では女性は柔らかな微笑みを浮かべており、蛍が憂鬱の象徴から懐古の念を起こさせるものに変化したことが受け取れる。憂いさえも微笑んで受け入れる松園円熟の境地である。

Dsc_1993

| | | コメント (0)

2021年6月23日 (水)

史の流れに(9) 京都市京セラ美術館 国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」再訪

2021年6月17日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

京都市京セラ美術館で、国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」を観る。二度目である。ビデオ映像など以外は写真撮影可であるが、前回はネフェルティティの頭部像のみ写真を撮った。それで十分だと思っていたのだが、「ピーコ&兵動のピーチケパーチケ」で中山優馬が色々と写真撮影しているのを見て、やはりいくつかはスマホに収めておこうと思い立ち、再び京都市京セラ美術館に赴くことになった。

Dsc_1816

今回は前回よりも遅い時間だったが、人が比較的多めである。写真撮影可という情報もテレビなどで伝わっているようで、スマホやガラケーではなく、デジカメを持ってきて撮影している人もいる。

撮影対象として最も良いのがネフェルティティの頭像だというのは変わらないが、今度は横顔(プロフィール)も撮影してみる。ハトシェプスト女王のスフィンクスも被写体として絶好であり、仏像のようなアルカイックスマイルが良い。ハトシェプスト女王のスフィンクスも正面からの画も良いが、横顔は更なる美しさを湛えている。日本人とは違って鼻が高く、掘りも深めなので横顔が映えるのだ。
名前だけは有名だが、早逝したため正体がよく分からないツタンカーメン(トゥトアンクアメン)を描いたレリーフも写真に収める。
ツタンカーメンについては暗殺説が有名であるが、現在では暗殺は否定されつつある。遺伝子検査によるとツタンカーメンは生まれつき病弱で左足が不自由であり、マラリアに感染した時に不自由だった左足を骨折してしまったため免疫力が下がり、死に至った可能性が高いそうである。

前回は古代エジプトについて、特に知識を入れていかなかったが、今回は前回訪れた時に京都市京セラ美術館の売店で買ったエジプト神話に関する文庫本を読んでいったため、展示物やそれが示す意味の理解がある程度まで可能になっていた。予備知識は時には邪魔になることがあるが、やはり少し予習をして行った方が理解度が高まることは確かなようである。

Dsc_1795

| | | コメント (0)

2021年6月 6日 (日)

史の流れに(8) 京都市京セラ美術館 国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」

2021年6月3日 左京区岡崎の京都市京セラ美術館にて

左京区岡崎にある京都市京セラ美術館で、国立ベルリン・エジプト博物館所蔵「古代エジプト展 天地創造の神話」を観る。日独交流160周年記念企画である。緊急事態宣言による臨時休館を行っていた京都市京セラ美術館だが、一昨日、6月1日から展示を再開している。

京都市美術館が京都市京セラ美術館になってから入るのは初めて。内部が大幅に変わっている。以前は京セラの本社内にあった展示スペースが京セラ美術館という名前だったが、紛らわしいということで、そちらは京セラギャラリーと名前を変えている。

Dsc_1729

「古代エジプト展 天地創造の神話」の展示品の多くが石造りや金属製ということもあって、ほぼ全てが写真撮影可となっているが、「個人的に楽しむためのものとしてご使用下さい」となっているので、おそらくWeb上にアップするのはNGだと思われる。

雄のライオンの顔を持つセクメト女神が疫病退散の力を持っているようで、その像がエジプト版「アマビエ」として積極的に撮影するよう促されていたが、お守りとして待ち受け画面に使うことが推奨されているようである。

まず始めに冥界への導き手を務める神であるアビヌスの像が展示されており、続いてアニメーション上映のコーナーがあって、アビヌス(声の担当:荒牧慶彦)が語り手を務めるエジプト版天地創造の神話が語られる。アビヌスが登場するアニメーションは他の場所でも上映されているが、それらに関しては撮影も録画も禁止である。

日本の神話でも天照大神と素戔嗚尊が姉弟でうけいをする場面があるが、エジプトの神々も兄妹で愛し合い、子どもが生まれている。エジプトは歴史が古いので、プトレマイオス朝など紀元前の王朝でも近親婚が普通だったことが知られている。例えば、美女の代名詞の一人であるクレオパトラ7世の最初の夫は、彼女の実弟である。

エジプトの原初の神は、ナイル川をモデルにしたと思われるヌンである。「原初の水」という意味だそうで、ヘロドトスの「エジプトはナイルの賜物」という言葉が浮かぶ。
そこから太陽神であるアトゥムが生まれたが、アトゥムは両性具有の創造神だそうで、自慰によって、大気の神であるシューと湿気の女神であるテフヌトが生まれたという。シューとテフヌトの兄妹が交わることで、大地の神のゲブと天空の女神であるヌトが生まれたのだが、やはり兄妹で結婚したゲブとヌトの仲が余りに良いことに父親のシューが嫉妬し、ヌトの体をつかんで引き離そうとした。ヌトはゲブから完全に体を離そうとはせず、体が弧状に伸び、これが天穹となった。


今回の展示は、クレオパトラなどの実在の人物よりも、エジプト神話の世界の展示が中心となっているが、伝ハトシェプスト女王や、伝ネフェルティティ王妃の像(有名な胸像ではなく頭部の像)なども展示されている。ハトシェプスト女王は即位中は男装していたとされるため、その像も男性化されたスフィンクスとしての装飾を施されているが、顔は柔和で女性的である。エジプトの美女というとやはりクレオパトラ7世が世界的に名高いが、彼女の場合は聡明さなども含めての評価で、純粋な容姿でナンバーワンといわれるのがネフェルティティである。今回展示されている頭部の像なども、今の基準でいっても世界的な美女と評価されるのは確実だと思われる。一方で、ネフェルティティは正体がよくわからない謎の女性としても知られている。古代エジプトの話は、TBS系の「世界ふしぎ発見!」がよく取り上げており、ハトシェプストもネフェルティティも何度も登場している。京都に来てから「世界ふしぎ発見!」も見なくなってしまったが。

ネフェルティティは、古代エジプトの宗教改革者であるアメンホテプ4世王(アクエンアテン、イクナートン)の王妃である。ただ分かっているのは、そのこととアメンホテプ4世王との間に数人の子を設けたということだけである。それ以外の記録はほとんどない。そのため、早いうちに亡くなったという説が生まれたが、正確なところははっきりしていない。アメンホテプ4世王は、突如としてそれまでの多神教的だったエジプトの宗教性を覆し、アテン神(南中した太陽を表す神)1神のみを崇拝する一神教へと舵を切った人物であり、テーベからアケトアテンに遷都するなど、徹底した改革を行ったが、その死後には揺り戻しとしてアメンホテプ4世自身が否定される存在となり、その子とされるツタンカーメン(トゥトアンクアメン)らによって実際に多くの記録などが処分された。そのためその妃であったネフェルティティに関する情報もほぼ全て失われてしまっている。

あの世に再生するための指南書である「死者の書」については、アニメーションなども使って分かりやすく説明されている。死後、魂は試練を経てあの世に向かうのだが、あの世はその時代のエジプトと完全に同じ姿をしていると考えられたようである。死後の世界に行けなかった場合は、怪物アメミットに心臓を食べられて、その人物は消滅する。輪廻転生から逃れるための修行を重視する仏教においては無になることの方がむしろハッピーエンドに近いため、死に対する観念が大きく異なっているのが分かる。


ちなみに、エジプトには世界の終焉伝説があり、蛇に身を変えたアトゥム神とオシリス神が世界の終わりを見届けるという。ただ、世界は再生するそうだ。アトゥムは創造神であり、日没時の太陽を表す神であるが、同時に破壊も司るという、シバ神に似た性格を持っているようである。
アテフ冠を被ったオシリス神の小像の冠の部分には、アトゥム神だと思われる蛇の飾りが施されている。

| | | コメント (0)

2019年8月30日 (金)

美術回廊(33) 京都市美術館 「マグリット展」2015

2015年10月8日 左京区岡崎の京都市美術館にて

左京区岡崎にある、京都市美術館で「マグリット展」を観る。幻想的な画風で知られるベルギー出身の画家、ルネ・マグリットの作品を集めた展覧会である。マグリットは人気の画家であるが、これほど多くの作品が一堂に会することは珍しいという。

美術の教科書に必ず載っているといっても過言ではないほどの「大家族」が有名なマグリットであるが、リアリズムとシュールレアリスムの邂逅を経た、独自の世界を切り開いている。有名な「大家族」も大地と空と海に囲まれた我々は人種や性別を超えた「一つの大家族なのではないか」というメッセージを受け取ることが出来る。「上流社会」という作品も同傾向で、顔が青空や生い茂る草になっている「上流社会」というのは世にいう成功者達のことではなく、「大いなるものにより同化出来た人々」が織り成す社会なのであろう。いや織り成すまでもなく、自然同様「あるがままの社会」ということか。
「ゴルコンダ」という有名な画がある。家を背景に何人もの男が宙に浮かんでいる画である。シュールな作品であるが、作品に耳を澄ますと(絵画作品に耳を澄ますことは私はよくある。もっとも想像の比喩としてだが)、ゴルコンダという街の喧騒が聞こえてくる。

「光の帝国Ⅱ」という画は、昼間と真夜中が一つの画の中に溶け込んでおり、印象的。ミュージアムショップで確認したところ、やはり一番人気だそうだ。

「会話術」という作品は、会話していると思われる白鳥の後ろのアルファベットの切り抜きと思われる不思議な橋が描かれている。アルファベットらしいことはわかるのだが、フランス語はまるで出来ないため、どんな単語が隠れているのかは不明である。「会話術」は三部作であり2枚目の画は岩に「reve(夢)」と記されている。また「白紙委任状」は、見えるべきものが見えず見えないはずのものが描かれて見えている。この絵を白紙委任したのは一体誰なのだろう? 一応、マグリット自身の注釈があり、委任したのは自然らしいが、人間も含めた自然全てがマグリットに白紙委任状を出したのかも知れない。あるいは物体ではなく、この世の現象がマグリットをインスパイアしたのか。
個人的には初期の「風景の魅惑」(木枠の横に猟銃が立てかけてあるという画)が印象的だったのだが、私の好むものは余り人は好まないのである。第二次世界大戦はやはりマグリットの画風にも影響したようで、戦後に描かれた「観光案内人」は、案内人の顔が大砲になっている。

「マグリット展」の無料案内を見て感じたのは、マグリットの画は個人蔵であるケースが他の画家に比べて多いということ。特定の個人がいつも座右に置いて楽しむタイプの絵画ということなのかも知れない。

| | | コメント (0)

2016年12月20日 (火)

美術回廊(7) 京都市美術館 「バルテュス展」2014京都

2014年8月26日 京都市美術館にて

京都市美術館で「バルテュス展」を観る。

フランス人画家であるバルテュス。バルテュスというのは愛称兼芸名で、本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラという長いものである。スキーという英語でいうsonに当たるロシア・スラヴ圏の言葉が苗字に入っているため、スラヴ系の血を引いている。父親はポーランドの貴族階級出身。母親はロシア系ユダヤ人である。
バルテュス自身も最初の妻との間に出来た息子にスタニスラスというロシア人やポーランド人に多いファーストネームを付けている。

絵はほぼ独学であり、ルーブル美術館に足繁く通っては習作を繰り返していたという。

最初にバルテュスの才能を評価したのは詩人のリルケである。まだ少年であったバルテュスの絵を見たリルケは「この年齢でこうした絵が描けるとは驚くべきことだ」として、ストーリー仕立てとなった連作絵画にリルケ本人が序文を書いて出版している。

その後、バルテュスは、『呪われた部分』の思想家ジョルジュ・バタイユや、『ヴァン・ゴッホ』などの俳優・詩人・小説家のアルトナン・アルトー等と交友している。

バルテュスの時代はシュルレアリスムが全盛であり、バルテュスの作風は「古くさい」と見なされて、同時代の画家達からはなかなか認められなかった。そこでバルテュスは敢えて扇情的な表現を取ることで、スキャンダラスな評価を受ける。バルテュスは少女を描くことが多く、それがロリータコンプレックスであるとも見なされたが、実際にはバルテュスには少女趣味はなかったようである。バルテュスは少女を描きながら、同時に少女の未来を描いているようにも見える。

京都市美術館の「バルテュス展」のポスターに使われたのは「美しい日々」という作品。窓を背にして椅子に腰掛けた少女が手鏡を見ている様子を描いたものだが、キャンバスの右隅には暖炉に薪をくべている男も描かれている。自然光と暖炉の明かり、その中で少女は二重に照らされている。ということは、薪をくべている男は少女をより美しくする役割をしているわけで、彼はバルテュス本人なのかも知れない。

バルテュスの風景画はどことなくユトリロに似ているところがあるが、人物画の方は、少なくとも20世紀のヨーロッパでは似た作風の画家は見当たらない。ああした暗さは中南米の画家が良く採るものである。フリーダ・カーロなどがそうだ。

バルテュスは何枚も習作を描くことで、完成作を練り上げるというタイプであったという。「美しい日々」などを観ていると、斎藤茂吉の「実相観入」という言葉も浮かぶ。人物画はどれも写実的というより示唆的である。

少年時代には中国文化に惹かれたというバルテュスであるが、その後、日本のことも気に入り、最初の来日時に行われた自身の展覧会のスタッフであった出田節子を見初め、後に結婚する。節子夫人の影響もあり、『源氏物語』や『雨月物語』なども英語訳やフランス語訳版で読み、日本語の学習もしていたようである。節子夫人は結婚後は常に和服であり、バルテュスもそれに倣って和服を愛用するようになる。二人の間には男の子が生まれたが早世し、後に長女となる春美が誕生している。

パリを離れてスイスの田舎町に移り住んだバルテュスは風景画なども良く描いている。また節子夫人をモチーフに浮世絵の要素も取り入れた人物画も描いている。ちなみにこの絵では姿見の鏡が用いられており、バルテュスにとって鏡は重要なアイテムなのかも知れない。

最後の展示室には、篠山紀信撮影による晩年のバルテュスと節子夫人、娘の春美との写真が並んでいる。笑顔で見つめ合うバルテュスと節子夫人の写真は微笑ましく、写真が欲しくなるが、篠山紀信の作品であるため、ミュージアムショップで売られてはいなかった。だが、節子夫人によるバルテュスの回想録にその写真が入っていたため、それを買うことに決め、他に風景画の額画と、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』をモチーフにした画集などを買う。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

2346月日 DVD YouTube …のようなもの いずみホール おすすめCD(TVサントラ) おすすめサイト おすすめCD(クラシック) おすすめCD(ジャズ) おすすめCD(ポピュラー) おすすめCD(映画音楽) お笑い その日 びわ湖ホール アニメ・コミック アニメーション映画 アメリカ アメリカ映画 イギリス イギリス映画 イタリア イタリア映画 ウェブログ・ココログ関連 オペラ オンライン公演 カナダ グルメ・クッキング ゲーム コンサートの記 コンテンポラリーダンス コンビニグルメ サッカー ザ・シンフォニーホール シアター・ドラマシティ シェイクスピア シベリウス ショートフィルム ジャズ スタジアムにて スペイン スポーツ ソビエト映画 テレビドラマ デザイン トークイベント ドイツ ドイツ映画 ドキュメンタリー映画 ドキュメンタリー番組 ニュース ノート ハイテクノロジー バレエ パソコン・インターネット パフォーマンス パーヴォ・ヤルヴィ ピアノ ファッション・アクセサリ フィンランド フェスティバルホール フランス フランス映画 ベルギー ベートーヴェン ポーランド ミュージカル ミュージカル映画 ヨーロッパ映画 ラーメン ロシア ロームシアター京都 中国 中国映画 交通 京都 京都コンサートホール 京都フィルハーモニー室内合奏団 京都劇評 京都四條南座 京都国立博物館 京都国立近代美術館 京都市交響楽団 京都市京セラ美術館 京都文化博物館 京都芸術センター 京都芸術劇場春秋座 伝説 住まい・インテリア 余談 兵庫県立芸術文化センター 劇評 動画 千葉 南米映画 占い 台湾映画 史の流れに 哲学 大河ドラマ 大阪 大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪松竹座 学問・資格 宗教 室内楽 小物・マスコット・インテリア 広上淳一 建築 心と体 恋愛 意識について 携帯・デジカメ 政治・社会 教育 教養番組 散文 文化・芸術 文学 文楽 旅行・地域 日本映画 日記・コラム・つぶやき 映像 映画 映画音楽 映画館 書店 書籍・雑誌 書籍紹介 朗読劇 来日団体 東京 梅田芸術劇場メインホール 楽興の時 歌舞伎 正月 歴史 海の写真集 演劇 無明の日々 猫町通り通信・鴨東記号 祭り 笑いの林 第九 経済・政治・国際 絵画 美容・コスメ 美術 美術回廊 習慣 能・狂言 花・植物 芸能・アイドル 落語 街の想い出 言葉 趣味 追悼 邦楽 配信ライブ 野球 関西 雑学 雑感 韓国 韓国映画 音楽 音楽劇 音楽映画 食品 飲料 香港映画