カテゴリー「THEATRE E9 KYOTO」の8件の記事

2022年7月 5日 (火)

観劇感想精選(437) 下鴨車窓 「漂着(kitchen)」

2022年7月2日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、THEATRE E9 KYOTOで、下鴨車窓の公演「漂着(kitchen)」を観る。作・演出:田辺剛。今回は群像劇ということで、総勢19名の俳優が出演する。ただその中に稽古中に体調不良を訴えて降板した人もいたようで、代役を立てて本番が行われた。

出演:西村貴治(ニットキャップシアター)、大熊ねこ(遊撃体)、坂井初音、上条拳斗、岡田菜見、西沢翼、越賀はなこ、にさわまほ(安住の地)、加藤彩(合同会社舞台裏)、田宮ヨシノリ、藤島えり子、神谷牡丹、福西健一朗、辻智之、尾國裕子(無所属・新人)、森川稔、池山説郎、イルギ(劇的☆爽怪人間)、二宮千明。幅広い年齢層の俳優が出演している。

海の近くにあるボロアパートが舞台。アパートがどの街にあるのかはっきりと示されることはないが、登場人物達が関西の言葉を話し、韓国語の手紙が入ったボトルが浜辺に漂着しているということで、但馬地方(兵庫県)か丹後地方(京都府)の可能性が高い。瀬戸内海側や和歌山県の太平洋に面した場所ではないと思われる。

タイトル通り、kitchen=台所のセットが中央にあり、舞台上手に冷蔵庫、下手奥に棚などがある。アパートの203号室、205号室、202号室の3つの部屋が舞台となるが、セットは一切変化のない一杯飾りであり、登場人物の入れ替わりや照明の変化などによって部屋の移動が表現される。

いずれの部屋の関係者にも「ユカ」という名前の女性がいるのが特徴。205号室では一人暮らししている若い女性(にさわまほ)の名前がユカである。彼女には女性の同居人がいるのだが、「普通の女友達ではないのでは?」と思わせるような場面もある。203号室は家主の奥さん(坂井初音)がユカ、202号室にはユカという名前の女性は登場しないが、住人の奥さんの名前がユカのようである。202号室の住人の奥さんのユカは重い病気に倒れているようだ。離婚はしていないようだが、202号室の男は、妻や娘(リョウコという名前のようである。演じるのは尾國裕子)とは別居している。男はすぐには家賃も払えないほど困窮している。

アパートの家賃は月3万5千円。窓からは海(波音がするのでやはり日本海の可能性が高い)が見え、205号室のユカは、それが気に入ってこのアパートに入ったのだが、海が近いということで自転車が潮風ですぐに錆びてしまうなどデメリットの方が多く、引っ越しの計画も立てている。
205号室では、これからアルバイト仲間による飲み会が行われるようで、大家(越賀はなこ)は、「壁が薄いのでうるさくしないでね」と頼む。ちなみに、ユカより先に205号室に来ていた若い男(西澤翼)は、大家から「お友達? お友達?」と彼氏でないか詮索される。大家はユカのことを娘のように可愛がっている。なお、205号室の台所の蛇口から水が出てこないという現象が起こっている。洗面台やトイレは水が流れるのだが、台所のみ水が出てこないということで、大家は工事の業者を頼む。
その後、205号室では飲む会が行われるのだが、アルバイト仲間であるノゾミ、ウダ、コデラ、アヤが205号室でゴキブリ退治などをしている間、ユカと最初からいる若い男は買い出しに出ており、舞台上で顔を合わせることはない。ちなみに「クルー」という言葉を用い、定食の話などをしていることから、定食屋チェーン店のアルバイト仲間らしいことが分かる。大手定食屋チェーンの中にはワンオペ(調理、配膳、会計などを店員一人に任せること)をやらせる店が問題視されているが、彼らは牛丼系の定食屋ではないようで、シフトがあり、ワンオペは禁じられているようだ。ちなみに定食屋やマクドナルドなどのファーストフード系のアルバイトでは、恋愛関係が多く発生することで知られるが(出会いを目的としてアルバイトを始める人も多いとされる)このアルバイト仲間の中にもやはり付き合い始めている男女がいることがキッチンを使う様を通して分かる。

203号室に住むのは、工場勤務のヒデさん(西村貴治)とその奥さんのユカである。203号室のユカも同じ工場で働いていたそうで、ヒデさんは現場、ユカは総務にいたことが分かるセリフがある。ヒデさんの妹(名前はキエだったかな? 演じるのは大熊ねこ)も歩いて数分のところに住んでいるのだが、二人の父親が病気にかかっており、妹はヒデさんに入院するよう説得して欲しいと頼む。
ちなみにヒデさんとユカはキッチンにある特殊な役目を与えている。
203号室のユカは、浜辺でボトルレター(メッセージボトル)を拾う。ユカはヒデさんに瓶を開けるよう頼むが、ヒデさんは面倒くさいの金槌(余談だが、演劇用語では「ナグリ」と呼ばれる)で瓶を叩き渡る。この時の音が、205号室のシーンや202号室のシーンで鳴り、同時刻に別の部屋で何が起こっていたか分かるようになっている。

こうした手法で同時発生を知らせる手法は映画では比較的多く用いられており、また間近にいながらすれ違う複数の団体という展開を含めると、京都を舞台にした鈴木卓爾監督の映画「嵐電」がすぐに思い浮かぶ。「嵐電」では同じ場面に数組の主人公が見知らぬ者同士で映っていたりするのだが、「漂着(kitchen)」で人間関係の繋がりのない人々が同時性のみで繋がっていることを表すものとして、「声」や「音」が主に媒介を務めているのが手法として興味深い。

202号室では、住人の娘であるリョウコが、住人が臨終間際かも知れない妻(つまりリョウコの母親)のユカを見舞おうともしないことをなじっている。

袋小路的場末感の漂うボロアパートに、住人達がどうやって漂着したのかを描く会話劇であり、203号室のユカの若い女性との同居、205号室のヒデさんの工場退社や女絡みのいざこさ(若い女性がずっと年上のヒデさんにタメ口をたたくことで仄めかされる)、202号室の住人の妻・ユカの死とその葬儀と住人の失踪なども描かれており、漂着した人々の決して上手くいってはいない人生が、比較的淡々と描かれている。彼らは同じアパートに住み、「ユカ」という共通する名前の女性がいながら交流もなく、それぞれの部屋が孤立している。

そうした孤独と閉塞感を抱いた人々の人生の諸相を描く中で、ヒデさんと203号室のユカのエピソード、それもkitchen絡みのものを描くことで、ささやかな希望が浮かぶラストを迎えるのが心地よい。
5月にロームシアター京都メインホールで観た「セールスマンの死」でもキッチンの冷蔵庫が主人公の家と現代社会の象徴として強調される演出が施されていたが、希望が「kitchenについて」というささやかな形で語られるのは、203号室の住人の身の丈にもあっており、上手く着地したなという印象を受ける。

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2021年11月10日 (水)

コンサートの記(751) オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」世界初演

2021年11月5日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて

午後7時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、オペラ「ロミオがジュリエット(Romeo will juliet)」(ソプラノ、ギター、電子音響のための。2021年委嘱・世界初演)を聴く。作曲は、足立智美(あだち・ともみ。男性)。出演は、太田真紀(ソプラノ)と山田岳(やまだ・がく。エレキギター、アコースティックギター、リュート)。この二人による委嘱である。演出は、あごうさとし。

テキスト生成用のAI(人工知能)であるGPT-2に、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の原文を始め、文献やWeb上の情報など数百年分のデータを入れて記述されたテキストを基に作曲されたオペラである。足立本人は敢えて「ロミオとジュリエット」の原文には触れないようにしたそうで、「おそらく、オペラ作曲家が原作を読まずに作曲した世界初のオペラでもあります」(無料パンフレットに記載された足立本人の文章より)とのことである。

英語上演(一部日本語あり)字幕なしということで、予約を入れた人に届いたメールには英語の原文と日本語訳が載ったPDFが添付されており、事前に読むことが推奨されている。テキストは当日に席の上に置かれたチラシの束の中にも入っている。

私は事前に2度読んで行ったが、AIは意味というものを理解することが出来ないということでハチャメチャなテキストになっている。「ロミオとジュリエット」の主筋は登場せず(別れの場だけ多少それらしかったりする)、突然、ゲームの話になったり(「ロミオとジュリエット」をビデオゲーム化したものがいくつもあって、その影響らしい)、「あんた誰?」という登場人物が何の予告もなしに出てきたり(「ロミオとジュリエット」の二次創作からの還元の可能性があるようだ)、矛盾だらけの文章が続いたりと、とにかく妙である。ただ、そんな妙な文章の中に、時折ふっと美しい一節が現れることがある。それまでの過程が奇妙なだけに、その美しさは際立つ。

中央から左右に開くタイプの黒い幕が開き、オペラ開始。ソプラノの太田真紀は中央に黒いドレスを纏って(正確に言うと、床に置かれた黒いドレスに潜り込んで)座り、ベールを被っている。顔は白塗りで、そのために真っ赤に口紅が引き立つ。山田岳は上手奥にいてギターを弾き始める。両手は血をイメージしたと思われる赤い塗料に染められている。

今日が世界初演の初日である。

9場からなるテキスト。上演時間は休憩時間15分を含めて約1時間20分である。
英語テキストなので聞き取れない部分も多いが、聞き取れたとしても意味は分からないので、そう変わらないと言えないこともない。

まずは第1場「ロミオ」は朗読から入り、第2場「ジュリエット」では、冒頭の「目をいつもよりちょっと大きく動かしてみましょう!」が日本語で語られる。
ボイスチェンジャーが使われたり、声が重なって聞こえるよう加工されたりする。

そんな中で第4場の「ジュリエットとサクラ」は純然とした朗読。太田真紀も情感たっぷりに読み上げるが、その実、文章の意味は通っていなかったりする。サクラなる人物が何者なのか良く分からないが、なぜか子どもが登場し(誰の子どもなのかも、サクラやジュリエットとの関係も不明)、街には当たり屋(?)がいて、裕也というこれまた謎の男が突如現れ、白人の男が黒いカーテンのようだと形容される(白人なのに黒とは如何?)。

第5場「カンティクル」も朗読だが、サクラと独立した彼女の腕との話になっており(「ロミオとジュリエット」からどうしてそんな話になったのかは不明。そもそもジュリエットはどこに行ったのだ?)、中上健次の初期の短編小説「愛のような」を連想させる。
ノーベル文学賞候補と言われながら若くして亡くなった中上健次。一週間後には私は中上健次の享年を超えることになる。

音楽的には、声が重層的になる部分がクイーンのアルバム「オペラの夜」を連想させたり、ラストの第9場「ジュリエット」では、山田岳の弾くリュートに乗せて、太田真紀がシェークスピアと同時代のイギリスの作曲家であるジョン・ダウランドを思わせるような叙情的な旋律を歌うなど(「A drop」のリフレインが印象的)、全体的にブリティッシュな印象を受けるのだが、実際には「イギリス」をどれほど意識していたのかは不明である。ただ、アフタートークで足立は第9場の音楽についてはやはりダウランドを意識したと語っていた。
エレキギターからアコースティックギター、リュートという時代に逆行した流れになっているのも面白い。

ジョン・ダウランドは、近年、再評価が進んでいる作曲家なので紹介しておく。シェークスピア(1564-1616)とほぼ同じ頃に生まれ(1563年説が最有力のようだ)、シェークスピアより10年長生きした作曲家で、オックスフォード大学で音楽を学んだリュートの名手であり、エリザベス女王の宮廷楽士になろうとするが、なぜか不合格となってしまい、やむなくヨーロッパ大陸に活躍の場を求めている。イタリア、ドイツ、デンマークなどで名声を得た後、1606年にイングランドに帰国し、1612年にようやくジェームズ1世の王宮にリュート奏者として仕官。シェークスピアは、その頃には引退間際であり、共に仕事をすることはなかった。同じ時代を生きながらすれ違った芸術家の代表格と言える。


テキストとしては、第7場「ジュリエット」における、「ロミオここにあり」「来たれ」が繰り返されるミニマルなものや、第8場「ロミオ」の「愛」と「死」と「肉体」の観念、第9場「ジュリエット」での「死」と「ひとしずく」の関係などが面白い。AIは意味というものを理解することは出来ないので、自動記述的に生み出されたものなのだが、理屈では捉えきれないが感覚的に飲み込むことの出来る何とも言えない愉悦がここには確かにある。

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2021年11月 6日 (土)

観劇感想精選(416) ブルーエゴナク 「眺め」

2021年10月9日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後7時から、THEATRE E9 KYOTOで、ブルーエゴナクの「眺め」を観る。作・演出:穴迫信一。ブルーエゴナクは、福岡県北九州市を本拠地とする劇団である。出演:木之瀬雅貴、小関鈴音、野村明里、高山実花、平島恵璃香ほか。声のみの出演者が数名いる。

大きな観覧車のある街を舞台に、時間を前後する形で物語は進んでいく。
「過去編」と「未来編」に分かれているが、一族の四世代に渡る歴史と恋模様、将来の破滅または救済が描かれる。

背後にスクリーンがあり、ここに文字や映像が投影される。

日差し(木之瀬雅貴)と森ちゃん(小関鈴音)は、18歳。仲は良いのだが、「無視するゲーム」を行ったことから互いの関係にひびが入る。10年後、28歳になった日差しからのコメント(舞台の手前側にスタンドマイクが設置されており、ここでコメントが読まれる)で、森ちゃんとは別れてしまったことが確認出来るのだが、その後、二人は結婚し、女の子(名前は春望(はるの)。平島恵璃香)が生まれていることが分かる。
クモがコメントする場面(声:菅一馬)があり、これはノミ(野村明里)という女性の名前にも掛かっている可能性があるのだが、コメントに「クモが将来救済をもたらすことがある」というものもあり、おそらく芥川龍之介の童話「蜘蛛の糸」に掛かっているのだと思われる。

途中、タジマせかい(高山実花)という人物が登場し、子どもの頃に地元で行われた展覧会に有名な阿修羅像がやって来たこと、せかいが母親から「阿修羅像に似ている」と言われたことが語られる。その後、中学校の時に同級生のミカコが、アミノやヒガシタニという男子(これらの苗字も仏教絡みだろうか?)から「左側の阿修羅像に似ている」と言われるという話があり、せかいはミカコから「真ん中の阿修羅像に似ている」と言われる。
教科書にも載っている有名な阿修羅像ということで、興福寺阿修羅像のことだと思われ、この辺りが仏教的な救済に繋がっていそうだが、それは明示されることはない。


ところどころ日本語が妙なところがあったり、展開が複雑な割にそう特別なことが起こっている訳でもない(一応、「ディザスター(災害)」があって世界が危機に瀕していることにはなっているようだが)という難点があるが、あからさまに描かれない男女の物語と見た場合、なかなか愛らしい作品に仕上がっていたと思う。
なにはともあれ子どもという形で成就しているということは、親を始め多くの人の願いを叶えているという一つの希望である。少なくとも森ちゃんは父親の一番の望みを我が子にまで伝えている。

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2021年10月 5日 (火)

観劇感想精選(414) 遊劇体第64回公演〈遊劇体×泉鏡花オリジナル戯曲全作品上演シリーズ11〉「深沙大王」

2021年9月23日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時30分から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、遊劇体の第64回公演〈遊劇体×泉鏡花オリジナル戯曲全作品上演シリーズ11〉「深沙大王(しんじゃだいおう)」を観る。作:泉鏡花、演出:キタモトマサヤ。出演は、村尾オサム、三田村啓示、条あけみ(あみゅーず・とらいあんぐる)、大熊ねこ、中田達幸、村山裕希、浜崎大介(兵庫県立ピッコロ劇団)、坂本正巳、久保田智美、松本信一、濱奈美。テキストレジなしでの上演である。

定期的に泉鏡花の戯曲を上演している遊劇体。私もこれまでにいくつか観たことがあるが、いずれも遊劇体の本拠地である大阪での上演で、京都で遊劇体の泉鏡花作品を観るのは初めてになる。

「深沙大王」は、鏡花が自身の小説「水鶏(くいな)の里」を基に、東京都調布市の深大寺を念頭に置いたイメージを膨らませて戯曲とした作品であり、明治37年9月に本郷座で行われた新派合同公演のために書き下ろされている。戯曲オリジナルではないが、これが鏡花の戯曲処女作となるようだ。だが、本郷座での上演は上演時間の関係で「高野聖」に差し替えになってしまったそうで(敵味方を一人二役で演じるなど上演不可の要素があったことも影響したようだ。小山内薫は、「この脚本に忠実なるには俳優が余程無理な早業をしなければならないので、中止になった」と記している)、大正3年4月になってからようやく明治座で初演が行われたという。余り評判にはならなかったようで、今回の上演はそれ以来となるようだが、テキストを一切変えないでの上演としては世界初演となる可能性もあるようである。話の展開は「夜叉ヶ池」に似ており、また完全な勧善懲悪ものということで受けは悪かったのかも知れない。

今回は、リーディングとして、ト書きのいくつかを、大熊ねこ、濱奈美、条あけみが読み上げる形での上演である。セットはシンプルに抑えられている。

舞台は越前国武生(現在の福井県越前市武生)。かつて越前国の国府が置かれていた場所である。この地の県会議員である倉持傳助という、絵に描いたような悪人を巡る勧善懲悪ものである。話の展開が急であるため、整合性を欠いて見えるようなところがある。実際、泉鏡花は、上手く筆が運べば大傑作を書き上げるのだが、一定のレベルに達しない作品も多く、平均値はそれほど高くない。謎の新聞記者である小山田透(今回は村尾オサムが演じている)の存在をどう捉えるかで解釈が変わってきそうな作品である。本来なら最も近代的な登場人物である小山田透が怪異現象の鍵を握っているというのも不思議な設定である。

勧善懲悪に男女の恋愛を重ねたものであり、構図は分かりやすいが、接続が必ずしも上手く入っていないように思える。同傾向の戯曲で同じ福井県を舞台にしている「夜叉ヶ池」の方が、やはり出来は上だろう。同じ福井県が舞台で近代的な人物が登場し、ラストも似ているということで、鏡花自身も「深沙大王」の発展型として「夜叉ヶ池」を書いているはずである。「夜叉ヶ池」は大正2年の発表ということで、「深沙大王」の明治座での初演も「夜叉ヶ池」の発表を受けて行われたものだったのかも知れない。


※参考論文 植田理子(淑徳大学) 「泉鏡花『深沙大王』の成立」

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2021年9月 3日 (金)

観劇感想精選(411) IN STU×KAIKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」

2021年8月13日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、IN STU×KAKA 既成戯曲の演出シリーズ vol.1「アルカディア」を観る。作:トム・ストッパード。テキストは、ハヤカワ演劇文庫から出ている小田島恒志訳のものを使用。演出は大石達起。出演は、阿僧祇(白河夜船)、高橋紘介、勝二繁(日本海/およそ三十世帯)、黒木陽子(劇団衛星/ユニット美人)、横山清正(気持ちのいいチョップ)、藤村弘二、川﨑祐輔(劇団つちの娘)、岡田眞太郎(トム論)、伊藤彩里(gallop/カイテイ舎)、土肥嬌也、上条拳斗、大山渓花。

21世紀に入ってから日本でも作品が上演される機会が増えたトム・ストッパード(1937- )。映画「恋におちたシェイクスピア」や「未来世紀ブラジル」などで共同脚本として名を連ねていることでも有名である。
「アルカディア」は、1993年にイギリスで初演され、日本初演は2016年に栗山民也の演出によって行われている。

イングランドの貴族、カヴァリー家の屋敷が舞台なのだが、時代を隔てた二つの世界が互い違いに描かれていく。最初に舞台となるのは1800年代。13歳のトマシナ・カヴァリー(阿僧祇)は、家庭教師のセプティマス・ホッジ(高橋紘介)に数学などについて教わっている。イギリスの場合、貴族階級の女子は学校に通うのではなく家庭教師に教わるのが一般的で、それが変わるのは20世紀以降である。

トマシナは聡明な女の子で、特に代数に関しては図抜けた能力を持っている。おそらく彼女に解けないのは、17世紀に提唱された「フェルマーの最終定理」(「アルカディア」初演から2年経った1995年にアンドリュー・ワイズによってようやく証明された)ぐらいで、実際にトマシナがフェルマーの最終定理に挑む場面がある。それを教えるセプティマス・ホッジもパブリックスクールの名門であるハロー校を経てケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだというインテリである。実はセプティマス・ホッジは、ロマン主義最大の詩人といわれるジョージ・ゴードン・バイロン(バイロン卿)の先輩であり面識もあった、ということでカヴァリー邸にもバイロンは訪れている(劇中には登場しない)。

一方の舞台は現代である。登場人物は、カヴァリー家の末裔であるヴァレンタイン・カヴァリー(上条拳斗)とクロエ・カヴァリー(大山渓花)、そしてガス・カヴァリー(川﨑祐輔)。更にカヴァリー邸の歴史を調査しているベストセラー作家のハンナ・ジャービス(伊藤彩里)と、ハンナのライバル的存在であるサセックス大学研究員のバーナード・ナイチンゲール(最初の場面ではバーナード・ピーコックという偽名を付けられる。土肥嬌也)の5人。ガス・カヴァリーは、場面緘黙もしくは全緘黙で、知能は高いと思われるのだが話すことが出来ない。ただし音楽の才能は抜群で、母親からは「我が家の天才くん」と呼ばれている。ヴァレンティンは数学者ということで、先祖の血を受け継いでいるように思われる。
ちなみにガスを演じる川﨑祐輔は、1800年代の場面ではオーガスタス・カヴァリーを二役で演じているが、オーガスタスはガスとは真逆の、映画「アマデウス」に登場するモーツァルトを思わせるような天真爛漫な人物である。「オーガスタス」は、ラテン風に読むと「アウグストゥス」であり、クレオパトラの名前が劇中で出てくるのとおそらく関係があり、またセプティマスがセプテンバーに繋がる名前なのも意図的だと思われる。

現代の場面では、バイロンの研究をしているバーナードが、バイロンとカヴァリー邸で出会った詩人のエズラ・チェイター(藤村弘二)が、自作の詩をバイロンに酷評されたため決闘を申し出て、敗北。チェイターは死んだが、その結果、バイロンはイングランドにいられなくなったという説を唱える。その証拠となりそうな史料がカヴァリー邸にはいくつも眠っていたのである。だが、最終的にはその説は否定されることになる。

現代がこの路線で進む一方、1800年代の物語は、カヴァリー邸の庭園であるシドリー・パークが軸になって展開される。トマシナがシドリー・パークの設計図に書かれた「隠者の家」に隠者の絵を描き込み、庭園設計家のリチャード・ノークス(横山清正)は実際に隠者の家を建てるも、肝心の隠者が見つからないという話になる。セプティマスは、「隠者でしたらすぐに見つかると思います」と嘯く。

現代では、ハンナがこの隠者の正体について調査していたのだが、隠者と呼ばれた人物が、セプティマスと同い年であるという事実に気づき……。


トム・ストッパードは、数学に強い劇作家だそうで、この作品にも数学や物理に関する専門用語がちりばめられているが、理系に弱いと内容が分からないということはない。数字によって物語が展開していく訳ではないからだ。というよりもむしろ、数学の理論は最終的には退けられている。

面白いのは、本当に重要な物語が語られることなく作品が進み、終わるということである。

インテリでお堅いように見えるセプティマスであるが、男前で文武両道ということで様々な女性から誘われたり情を交わしたりしている。そんな彼が隠者、つまりなぜ女を避けて引きこもるようになったのか、という疑問が起こる。
この理由も仄めかされる。初登場時には13歳と10ヶ月(あと6週間で「ロミオとジュリエット」のジュリエットに並ぶ)だったトマシナであるが、終盤では16歳と11ヶ月に成長している。だが、トマシナは火事に遭って17歳の若さで亡くなっていることが記録されているのである。セプティマスが隠者となるのはそれ以降。つまり女からモテモテであったセプティマスが、亡くなったトマシナを最後の女性として、残りの人生を隠者として彼女の思い出と共に過ごしたというかなりロマンティックな物語が浮かび上がる。この話が舞台上で語られることはないのだが、おそらく多くの人に隠者としてのセプティマスの物語の始めと終わりが浮かぶだろうし、それは多分、正しい。語られない愛が最も雄弁に観る者に訴えかけるという極めて巧みな作劇法が用いられた物語である。

交互に登場した1800年代の場面と現代の場面が、終盤には同じ場で展開される。互いのことは見えないのだが、同時進行である。
ラストは、高い次元で理解し合えた二組の男女のワルツを踊る場面である。そのうち、トマシナとセプティマスは最初にして最後のワルツであり、永遠の男女としての最後にして最初のワルツだ。甘く悲しい最後である。


多くの出演者が、京都の小演劇で活躍している舞台俳優であるが、最近、京都の小劇場に接する機会が余りないので、何度も演技を見たことがあるのは黒木陽子だけである。
おそらくTHEATRE E9 KYOTOの舞台に慣れていないのと、キャリアが浅いことの両方が関係していると思われるのだが、特に男性陣はセリフも動きも押しの一手であり、「この大きさの空間なら怒鳴らなくても伝わるのに」と思った場面が多いのが気になるところである。

ラストのワルツの場面も、出演者達が音楽の素養に欠けるため、拍をちゃんと刻めていなかったり(三拍子の三角形を空間に描くのだが、三拍分を一拍で描くため、拍が取れていないことが分かる)、拍が取れていないので当然ながらワルツが踊れていなかったりと、かなり気になった。男性が常にリードするといったようなルールも知らないまま適当にやっているようである。

舞台美術などは結構お洒落に作ってあったり(舞台美術:岩崎靖史)、衣装なども良かった(衣装:久保梨緒)ので、後は演技の細部を詰めればもっと良くなるはずである。

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2021年8月10日 (火)

観劇感想精選(407) 下鴨車窓 「透明な山羊」

2021年8月7日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後6時から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、下鴨車窓の公演「透明な山羊」を観る。作・演出:田辺剛。
昨年は1度も行くことが出来なかったTHEATRE E9 KYOTO。考えてみれば、京都の団体の公演を観るのは今日が初めてである。
出演:佐々木峻一(努力クラブ)、西村貴治(ニットキャップシアター)、岡田菜見(下鴨車窓)、野村明里(ブルーエゴナグ)。

小説家、杉田(登場することはない)の仕事場であった山小屋が舞台である。杉田が亡くなり、杉田の息子である杉田ヨシノリ(佐々木峻一)と山小屋の管理人である阿部タカオ(西村貴治)が杉田の遺品の整理を行おうとしている。阿部は管理人であり、杉田の仕事についてはよく知らないので、杉田の担当編集者だった手塚イオリ(野村明里)が助っ人して呼ばれることになっていた。ちなみにヨシノリとイオリには面識はなく、今日が初対面となる。

杉田の主な遺品はカセットテープである。杉田の執筆は、パソコンのワープロソフトや原稿用紙に向かうのではなく、カセットテープに音声を吹き込むというスタイルが取られていた。杉田はデジタルメディアを信用しておらず、最後までカセットテープを愛用していた。実際に吹き込んで書くという小説家は存在していて、志茂田景樹が有名、ってこの情報が欲しい人はあんまりいないか。
カセットテープに吹き込むというものではないが、太宰治は口述を得意としており、語ったものを編集者に書き取らせることがよくあった。誰だったかは忘れたが、小説家志望だった編集者が太宰の口述に接したことがあり、余りの上手さに「天才」を感じて小説家になることは断念したと書いていたのを記憶している。

杉田の残した膨大なカセットの内の一つをヨシノリがまず再生。聞こえてきたのは都はるみが歌う「好きになった人」。グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」や、合唱サークルに参加していたとうことで(おそらく)「大地讃頌」などの音楽が入ったテープもある。音楽の趣味が分裂しているようにも見える。その他のテープには日記のような語りや創作上の思いつき、思索などが吹き込まれていた。統一性は感じられないが、山小屋の近くではしょっちゅう災害が起こっているようで、自衛隊が何度か救助に来ていることが分かる。
カセットの山の中にコンドームの箱が一つ。杉田は比較的高齢のはずだが、どうも相手がいたようである。言うまでもなくこれは伏線となっている。

山小屋に一人の女性が訪ねてくる。ヨシノリも阿部も彼女が編集者の手塚イオリだと思ったのだがそうではなかった。亡くなった父親が杉田の友人だったという木村ユカ(岡田菜見)であった。父親の命日ということで花を捧げようと山小屋を訪ねてきたのだ。ユカは杉田が他界したことを知らなかった。父親が転落した崖を見たいというユカだったが、阿部はユカが厭世観の持ち主であることを見抜いていた。ちなみに山羊は崖を好む動物である。

手塚イオリがやってきて、テープの整頓が始まる。
崖を見に行ったユカは足を滑らせて転落。幸い、木に引っかかったため命を落とすことはなかったが、左脚を負傷する。だが阿部はユカが転落したのは足を滑らせたからではないと見ていた。

山小屋と「下の世界」では天気も違い、「下の世界」での天気は晴れの予報であったが、山小屋周辺では雷鳴が轟き、やがて嵐となる。
山から下りる道は土砂崩れによって通れなくなり、四人は山小屋に閉じ込められることになる。すぐそばで雷鳴が轟き、雷が木に落ちて火事となる(すぐに鎮火した)。そして得体の知れない音が響き……。


杉田という人物を巡るそれぞれの距離感(英語にするとディスタンスということになるのだろうか)を描いた作品である。

ヨシノリは幼い時から杉田にDVを受けていた。母親もやはりDVの被害者であり、先に母親が他界。直後にヨシノリも家を出ており、杉田とは疎遠であった。杉田に対する思いは恨み以外にはほとんどない。

女性編集者の手塚イオリと杉田とは想像通りの関係で、むしろ積極的だったのはイオリの方のである。イオリはそのことをヨシノリに告白するのだが、告白する前にすでに言動に表れている。

木村ユカにとって杉田は父親の友人である。杉田とヨシノリの関係とは異なり、父親との関係は良好だったが、父の死により一家は大黒柱を失う。ユカは現在、大学4年生。就職活動は上手くいっていない。彼女にとって父親の死はおそらく「埋め切れない何か」だ。

阿部はあくまで山小屋の管理人で杉田とはそう親しくはなかったようである。

ヨシノリは、父親の知られざる部分について積極的に知りたくはないようで、再生された杉田の音声についても快くは思っておらず、たびたびテープを止めようとする。再生に積極的なのはイオリで、編集者としてテープに吹き込まれているはずの新作を探すという目的もあるが、想像された通りの関係であるため、杉田の声に対するスタンスもディスタンスもヨシノリとは正反対である。個人に対する各々の印象の異なり、また死者について想像を巡らす面白さもここには存在する。そして4人は同じ場所に集って同じ体験をしているが、世界観も見える景色も全て異なる。「憎悪」「愛着」「懐旧」「無関心」。

ヨシノリの父に対するタナトスが、偶然という形ではあるが全てを崩壊へと導いていく。
ネタバレを書いていく。
仄めかしに留まり、はっきりとは描かれないが、まずは阿部の車が土砂崩れに巻き込まれて、車内で寝ていた阿部がこの世を去る。元々、死ぬために山小屋に来ていたユカは、自殺なのか土砂崩れに巻き込まれた分からない形で他界。最後は山小屋が土砂崩れに巻き込まれて倒壊し、全ての登場人物が死者となるが、全員が自分が幽霊になったことに気づかないまま劇は終わる。ユカは肉体を抜け出した魂になっているため、左脚ももう負傷してはいない。

幽霊というものが実在するのかどうかは分からないが、事故や自殺という「天寿を全うしない」形で生涯を終えた魂は、幽霊として彷徨うことになり、自分が幽霊になったことにも気づかないと霊能者などがよく語っているのを耳にする。私は霊能者ではないので本当なのかどうかは知らないが、一昨年にTHEATRE E9 KYOTOで観たshelfの「AN UND AUS/つく、きえる」(ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒが東日本大震災を描いた戯曲の上演)でも、津波によって命を奪われるも自分が幽霊となったことに気づかない人々が登場しており、「天寿を全うしない」魂は幽霊となり、自分が幽霊になったことに気づかないという考え方は国境を越えて広く普及していることが分かる。


今日はアフタートークがあり、演出家の山口浩章がゲストとして参加する。
山口さんが、木村ユカもまた杉田の愛人(杉田の奥さんはすでに他界しているため正確にいうと愛人ではなく恋人になるようだが)に見えたという話をして、客席にもそう見えた人が何人かいたようである。戯曲のスタイルから語ると、杉田に恋人が二人いた場合は、同じ場所に同じスタイルとディスタンスの人物が二人いるということになるため、場における混乱の種類が異なって、面白さは半減するように思われる。ただのゲス野郎の恋の話になってしまうのだ(確かに山羊の英語である“goat”には「悪漢」「愚か者」の他に「スケベ爺」という意味もあるが)。田辺さんによると説明的な部分をカットしたためわかりにくくなった可能性があるかも知れないとのことだった。一応、ユカは大学4年生で、杉田と知り合ったのはおそらく未成年の時。ということで二人が男女の関係だったとすると法的(正確にいうと法ではないのだが)にも倫理的にもまずいということになる。一応、それがユカは違うという根拠として示されていたように思うのだが、最近、変なことを言う政治家が出てきた(辞職したが)ため、そうした設定がストッパーに見えなくなったのかも知れない。

ともあれ、分断は4つと捉えた方が劇として面白いように思う。

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2019年12月23日 (月)

観劇感想精選(331) shelf第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」

2019年12月15日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後2時から、東九条にあるTHEATRE E9 KYOTOで、shelfの第29回公演「AN UND AUS/つく、きえる」を観る。ドイツの劇作家であるローラント・シンメルプフェニヒの戯曲の上演。テキスト日本語訳:大塚直、構成・演出・美術:矢野靖人。出演は、川渕優子、三橋麻子、沖渡崇史、横田雄平、江原由桂、大石憲、鈴木正孝、古木杏子。

 

昨夜、たまたま立ち寄った外国人のお客さんが今日の公演を観に来たということで、矢野靖人は、開演前の挨拶を(急遽らしいが)英語でも行い、「英語字幕はございません」という言葉も入れていた。

 

東日本大震災と福島第一原子力発電所での事故を題材にした作品である。具体的な地名として「いわき」という言葉が出てくるため、福島県いわき市をモデルにした場所が舞台であることがわかる。

椅子が7脚、真横に並んでいるだけのシンプルな舞台である。各椅子の前には靴が投げ出された形で置かれている。舞台下手には自転車が置かれている。
ト書きに当たる部分が背後に白い文字で投影される。状況や服装が俳優達に当てはまる場合もあれば一致していないケースもある。

登場人物は、3組の夫婦と、若者と娘である。3組の夫婦であるが、それぞれが別の相手の不倫をしている。しかも不倫場所が3組とも同じホテルである。A(鈴木正孝)はZ夫人(川渕優子)と、A夫人(古木杏子)はY(沖渡崇史)と、Z(横田雄平)はY夫人(江原由桂)と浮気をしている。しかも全員、月曜の夜、同じ時間にである。ホテルには部屋が3つしかないが、AとZ夫人が1号室、YとA夫人が2号室、ZとY夫人が3号室を使っている。ホテルのフロント係をしている若者(大石憲)は、ルームキーを探す時に後ろを振り返るのだが、そこには有名な絵が掛かっている。字幕で「北斎」と投影されるため、「神奈川沖浪裏」であるらしいことがわかる。実際には違うが津波を想起させる絵である。

若者は沿岸警備のために高台に住んでいる娘(三橋麻子)とSMSのやり取りをしている。文章の中で娘は自身をミツバチに、若者をクジラに例えている。

その日、3組のカップルがホテルにいる時にそれは起こる。ライトが「つく、きえる」を繰り返し、壁やベッドが騒ぎ始める。高台からは、街が海と一体になるのが見えた。

3組のカップルにはそれぞれ特徴がある、Aは口のあった部分に何もなくなってしまい、思ったことを言えなくなる。だが口とは異なる場所から自身の意思とは関係のない言葉が発せられるようになっていた。Z夫人は気づくと頭が二つあるようになっている。A夫人は突然、自身が何百歳もの老女となり石に変わってしまった感じ、Yは心臓が燃えるようになり、自身では運動をやめることが出来なくなる。Zは自分のことを死んだ魚だと思い、Y夫人は雨に濡れた蛾であるという自己認識がある。3号室の中で雨が降る。黒い雨だ。Y夫人は雨でびしょ濡れになる。
その後、若者はクジラが横を通るのを見掛け、ホテルにいた他の者達も魚の群れや鮫の姿などを目にする。それぞれの相手によって否定されるが、津波が街に押し寄せたことが暗示されている。

「理解されない」「わかり合えない」ということの変奏曲が展開される、Z夫人は自身の頭が二つになったことを誰にも言えないでいる。そんなことを言っても信じて貰えないし、頭がおかしくなったと思われるだけである。背景に投影されるト書きにも「理解されない」「言うのをためらう」という言葉が出てくる。
ZはY夫人に魚の話をするが、Y夫人の傍白にはっきりと「何を言っているのかわからない」というものがあり、Y夫人が蛾の話をしてもZは理解を示さない。Yの運動の話も、A夫人の老女になった石の話も、「理解されないだろう」ということで話さなかったり途中で話をやめてしまったりする。Yは「老女になった」と告白するA夫人に「君はまだ40にもなっていないし」と言い聞かせる。ネガティブな例え話だと勘違いされたのだ。目の前にいる人に理解されない。やがて人々は部屋から出る仕草をするために椅子の上を歩き始める。停電した暗闇の中、狭い廊下を表した椅子の上でそれぞれがすれ違う。それぞれの体に触れた時や雰囲気で、相手は「この女性、頭が二つある」、「この人は蛾のようだ」と言い当てるため、第三者にはわかることなのだと思われるのだが、一番近くにいる人には何も見えないし伝わらないのだ。
それは現地にいる被災者なのに状況がまるで飲み込めていないという状態に繋がる。ト書きには「自分で何を言っているか理解しているのか怪しい」というものもあるが、自分自身についても理解していないことは多い。そもそも彼らは「自分達がもはや幽霊なのだということを理解していない」ようである。

津波が去った後、街には何も残っていなかった。若者もまた自身が幽霊になったのだということを理解しておらず、娘に会うために小学校へと向かう。しかし若者の腕は透明になり、スマホを持つことも出来なくなっている。娘からの着信にも答えることは叶わない。
若者はクジラが太陽に抱えられて高台へと上る話をする。だが、太陽によって体を焼き尽くされたクジラは墜落する(日本でも有名なイーカロス伝説をひねったものだと思われるが、太陽は原発事故のメルトダウンの喩えでもある)。ミツバチは月に乗っかって、海の底深くへと潜っていく。だがクジラには会えず、海底で月の重さに押しつぶされて息絶える。二人とも会うことすら叶わず、しかもすれ違っている。

Aは、口のあった場所を切り裂くが、そこに口が現れることはなかった。自身の意思に反した言葉が発せられることはなくなったが、学者達や専門家と呼ばれる人の発言が頭の中で鳴り響くようになる。

距離的には最も近くにいるのにわかり合えず、遠く引き離されたかのような相反する状況が示される。直接の被害者であるのに何も教えて貰えず、近いが故に見えず、的確なことは何も語れないという、「岡目八目」のような形。
2011年3月11日の夜、いわき市上空は今まで見たことがないほど星が輝いていた。だがそれは原発事故により、あらゆる電気が絶たれていたからである。星はとても美しかったがそれは怖ろしく悲しいことでもある。美と悲しみという「あるいは」相反することがここにおいて融合する。

バラバラになっていた靴は、娘がきちんと並べてそれぞれの椅子のところに置いていく。それは弔いである。当事者であるが「わからず」、誰とも「わかり合えないこと」が前提だが、それでも「わかり合うため」の。

 

終演後には、ダンサーの山下残をゲストに招いて、矢野靖人とのアフタートークが行われる。山下は内容よりも俳優達の身体性や劇場空間についての話を重点的に行う。私にはない視点であり、面白かった。

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2019年10月 7日 (月)

観劇感想精選(320) 青年団 「走りながら眠れ」2019京都公演

2019年10月3日 THEATRE E9 KYOTOにて観劇

午後7時30分から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで青年団の「走りながら眠れ」を観る。作・演出:平田オリザ。古屋隆太と能島瑞穂による二人芝居である。

THEATRE E9を訪れるのは初めてであるが、観客としてはかなり使いづらい小屋という印象を受ける。絶妙に危なそうな段差があるし(実際、帰り道に後ろの方で転倒したお客さんがいた)。
多分、もう当分行くことはないだろう。


「走りながら眠れ」は、青年団が1992年に初演した二人芝居である。登場人物は、アナキストとして史上最も有名な人物である大杉栄と伊藤野枝の二人だけ(二人芝居なので二人だけなのは当然なのだが、大杉栄と伊藤野枝で二人芝居というのは特殊である)。大杉栄と伊藤野枝は、関東大震災の直後に、憲兵大尉の甘粕正彦らによって扼殺されたことでも知られている(甘粕事件)が、この芝居では甘粕事件も描かれないし、二人のアナキスト的面は意図的に封印されており、なんとなくおどろおどろしいイメージもある二人の何気ない日常を描いている。
ある意味、最も平田オリザ的ともいうべき、物語を動かすのではなく空間と時間を埋めるようにセリフが置かれていく手法が顕著であり、大杉栄と伊藤野枝でありながら大杉栄でも伊藤野枝でもない二人と時間を過ごせば良いだけである。大杉栄と伊藤野枝に関する知識があれば、奥行きが出て見えるのも確かであるが、それは観る側の問題であって、今目の前で演じている二人の俳優がしていることとは直接的な関係はないのだと思われる。そもそも平田オリザがそういうことを嫌う人である。

というわけで、観ていればいいのである。それだけである。そういうものであっても構わない、というよりそうあるべきである。
そもそも大杉栄も伊藤野枝もかなりぶっ飛んだ人なので、普通にしていてもその辺の男女にはならない。明らかに宮澤賢治と思われる人を野枝が見掛けていたり、大杉栄がいう「内田さん」というのが内田百閒らしかったり(平田オリザが内田百閒のことを無料プログラムに書いているので多分そうだろう)、二人で『ファーブル昆虫記』を翻訳する過程でのやり取りが見られたり、大杉が高踏派と目されていた時代の芥川龍之介を嫌っていたり(芥川の自殺が昭和2年、大杉栄が殺されるのがその4年前の大正12年なので、芥川が狂気の作家となることを大杉は知る由もない)と様々な人物が話に出てくるが、まさにその時代にいるようにして観るのが最も面白いはずである。


それにしても劇場の空調が酷い。始まって早々は「空調がないのか?」と思われるほどに暑い。ジャケットを脱がなければならない羽目になったのは多分初めてである。お陰で体調が悪くなってしまう。その後、クーラーが入るが、古屋隆太は最初はスーツ姿で登場するため、難儀したかも知れない。


終演後に平田オリザによるトークがある。かなり前に書いた作品なので、内容を聞かれても答えられないと平田は最初に語る。まあ、そのままの作品なので聞かれてもそのまましか返しようがないのであり、変に解釈するのは野暮この上ないことである。
平田オリザは、兵庫県豊岡市に新たに設営される予定の専門職大学の学長に就任する予定であり、6月に豊岡に移り住んで「関西の人間になりました」と語る。東京と地方演劇の現在や豊岡での演劇祭のことなど、当事者しか持っていない情報を聞くことが出来てかなり興味深かった。

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