観劇感想精選(462) マキノノゾミ・犀の角 つかこうへい「初級革命講座飛龍伝」
2024年5月8日 東九条のTHEATRE E9 KYOTOにて観劇
午後6時30分から、東九条のTHEATRE E9 KYOTOで、マキノノゾミ・犀の角「初級革命講座飛龍伝」を観る。作:つかこうへい、演出:マキノノゾミ。
今でこそウエルメイドな本を書く人として知られているマキノノゾミだが、元々はつかこうへいに憧れて本格的に演劇を始めた人で、同志社大学と同志社女子大学の学生を中心に自ら主宰として立ち上げた劇団M.O.P.も元々はつかこうへい作品を上演する劇団だった。
無料パンフレットに、マキノノゾミがつか作品との出会いを記している。同志社大学に入学したマキノノゾミだが、最初から演劇サークルに入った訳ではなく、1回生の途中から、それも成り行きで同志社大学の演劇サークルの一つである第三劇場(今もバリバリの現役学生劇団である)に入部。下宿先の先輩の家でたまたま「つかこうへい特集」がテレビで放送されており、「初級革命講座飛龍伝」のダイジェスト映像を観たマキノは一発で引き込まれ、直後に劇団「つかこうへい事務所」が大阪公演を行うというので、サークル仲間と3人で観に行き、「これはロックだ!」と大興奮。ちなみに下宿先の先輩も一緒に劇を観に行った仲間もマキノほどには熱狂しなかったようである。以降、つかを崇拝し、つか作品を上演し続ける日々が続く。マキノノゾミ(1959年生まれ)と同時代に同志社大学に在籍していた演劇人に生瀬勝久(1960年生まれ)がいるが、生瀬の証言によると「当時は『熱海殺人事件』を上演すれば客が入る時代」だったそうで、生瀬は喜劇研究会(元々はモリエールなど西洋の喜劇を演じるサークルだったが、生瀬が入学した頃にはお笑いサークルだった。生瀬は「喜劇をやりたい」というので第三劇場などの演劇サークルに演劇のイロハを教わったようである。喜劇研究会は今はお笑いサークルに戻っている)に所属していたが、客を呼びたいので、「熱海殺人事件殺人事件」というパロディ劇を作って上演したこともあったようである。その後、生瀬は第三劇場に移り、マキノと交流。しかし、京都大学の劇団であった「そとばこまち」の座長、辰巳琢郎(当時の芸名は、つみつくろう)に呼ばれ、いきなり辰巳から劇団員に「新しく入った生瀬だ」と紹介され、「僕は同志社ですよ!」と断ろうとするも成り行きで「そとばこまち」の座員となり、槍魔栗三助の芸名で活躍、後に京大出身者以外では初となる「そとばこまち」の座長となっている。
ちょっと生瀬の紹介が長すぎたが、つか演劇が熱かった時代だということだ。
アングラ演劇(アンダーグラウンド演劇)には第3世代まであり、第1世代を代表するのが先頃亡くなった唐十郎や鈴木忠志、蜷川幸雄など複数の人物であるが、第2世代はつかこうへいの独走。他にも学者を兼任して実際に起こった事件を題材にした演劇を多く作った山崎正和などがいるが、つかに比べると幾分影が薄い。
つかこうへい自身は慶應義塾大学の出身であるが、つかこうへい演劇を代表する俳優である風間杜夫、平田満、三浦洋一らは早稲田大学の出身である。つかはエッセイで、「人間最後に信用出来るのは金と学歴」と記したこともあり、阿部寛(中央大学出身)、石原良純(慶應義塾大学出身)ら有名難関大学出身者と好んで仕事をしている。弟子とした作家の秦建日子も早稲田大学出身である。
今回のプロジェクトは、長野県上田市にある小劇場・犀の角を訪れたマキノが直感的に「この小さな舞台で『飛龍伝』をやってみたい!」と思いついたことから始まっている。犀の角の主宰者である荒井洋文は第三劇場の遠い後輩という縁もあったようだ。
出演は、武田義晴、吉田智則、木下智恵の3人。
オリジナルの台本では、冒頭で学生運動や安保闘争などが長台詞で説明され、つか演劇ではお馴染みのキャストの紹介も行われるのだが、今回は演出の都合上カットされている。その代わり台本の冒頭部分が無料パンフレットに掲載されており、平田満、長谷川康夫といった初演時のキャストの名が見られる。
吉田智則が「狂犬」と呼ばれた機動隊員の山崎を、武田義晴が「機動隊殺し」と呼ばれた田町解放戦線の熊田留吉を、木下智恵が熊田の息子の嫁であるアイ子を演じる。つか演劇の特徴である長台詞が多用されており、延々と語るシーンが続く。つか自身は「口立て」と呼ばれる独自の演出法を採用しており、予め台本が用意され、俳優は各々覚えてくるのだが、稽古場でつかが即興的に台詞を変えて発し、俳優はそれに付いていくことになる。つかの「口立て」については、「熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン」に主演した阿部寛の著書『アベちゃんの悲劇(後に『アベちゃんの喜劇』とタイトルを変えて文庫化)』や北区つかこうへい劇団に入団した内田有紀の証言などで触れられているが、一発で覚えられないと台詞がどんどん短くなっていくという過酷なものであった。ただマキノはこうした演出は行っていないと思われる。
なお、放送だと自粛規制に引っかかる言葉や死語になったもの、変更された企業名などが出てくるが、出来るだけ台詞を変えずに上演される。
機動隊員・山崎は、学生運動をしていた立花小夜子を介抱したことから同棲するようになる。
一方、田町解放戦線の勇者であった熊田留吉(田町は慶應義塾大学三田キャンパスの最寄り駅で、熊田も慶應義塾大学出身)は、脚を怪我して今は石磨き職人をしている。公団住宅に住み、家具も次々に増え、趣味でUSENを引いているなど良い暮らしで、息子の嫁であるアイ子(早稲田大学出身)と共に過ごしている。熊田はアイ子に投石用の石を探させており、アイ子は練馬区の外れまで適度な石を探しに行くも見つからず引き返してくるが、「秋田や新潟まで行くのが革命だ」と熊田は怒る。
熊田と共に田町解放戦線で学生運動を行っていた慶大の学生は、その後、三菱銀行に入ったり都庁の職員になったりしており、学生運動のことなど忘れたかのようであった。本来なら革命からは最も遠いはずの人達であり、熊田を訪ねてきた山崎はそれが憎らしくてたまらない。ちなみに田町解放戦線は、熊田によると「エリートしか入れない」そうで、慶大の中でも上流のお坊ちゃんばかりを集めており、学生運動の現場まで外車で乗り付け、運転手が敷いた赤絨毯の上を歩いて登場したそうである。お坊ちゃんは引き際を心得ているというので、東大と慶大の学生は逃げるのが上手く、日大の学生(当時、日大全共闘は最も過激と言われた)は逃げずにやられるというパターンだったと語られる。熊田は実は軟派な学生で、学生運動の現場のすぐ横で女の子とデートしていたり、交番で警官と将棋を指したりしていたらしい。台詞は当時の学生運動の描写などが中心になるが、熊田は千葉県成田市の三里塚闘争で逃げ出してしまい、熊田が援軍を呼びに行ったと信じた多くの仲間が犠牲になった。
負傷した学生達は警察病院に運び込まれるが、「警察の世話にはならない」として治療を拒否、身体が不自由になる。
アイ子は、熊田の脚の怪我はもう治っているのではないかと疑うが、山崎も同様の印象を抱いており、1980年11月26日に熊田が闘士として国会議事堂前に帰ってくることを願っていた。
「初級革命講座」とあるように、学生運動を知らない世代の人にも分かるよう作劇がなされている。飛龍が投石で使われる特別な石の名前だったりするなどエンターテインメントの要素も強いが、山形県の田舎の小作農の八男坊で、中卒で機動隊員になり、もうこれ以外に道のない山崎と、難関大学に在籍する上流階級出身者で将来が明るい学生達との差などが語られ、「熱海殺人事件」にも通じる格差や差別なども描かれる。在日韓国人二世として生まれ、生涯帰化しなかったつかこうへいの世界観がここに提示されている。
ストーリーとしては他のつか作品に及ばない印象は受ける。ただ発せられるエネルギー量は凄まじく、なぜ人々がつかの演劇に熱狂したのかが伝わってくる。
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