カテゴリー「京都シネマ」の104件の記事

2026年1月12日 (月)

これまでに観た映画より(425) ジャン=リュック・ゴダール監督作品「新ドイツ零年」

2025年1月9日 京都シネマにて

京都シネマで、ジャン=リュック・ゴダール監督作品「新ドイツ零年」を観る。ロベルト・ロッセリーニ監督作品「ドイツ零年」を意識した作品だが共通点はほとんどない。
1990年10月3日の東西ドイツ再統一を意識し、東ドイツから西ドイツへと向かった男の話となっている。1991年制作。20時台からの遅い上映である。

主演俳優は、アメリカ出身のエディ・コンスタンティーヌが務めている。FBI捜査官などを当たり役としたコンスタンティーヌがこの作品で演じるのはスパイである。
東ドイツに潜伏していた元ナチス諜報員、レミー・コーション(エディ・コンスタンティーヌ)。30年ほど潜伏生活を送っていたが、金のために旧東ドイツ側での諜報活動を行いつつ西ドイツに向かうことになる。
いきなり、ニーチェの『善悪の彼岸』が朗読されるなど、ドイツ文化があちこちに配されている。若い女性ドラ(クラウディア・ミヒェンゼン)からは、「明日からはシャルロッテ。ゲーテと仕事するの」と、『若きウェルテルの悩み』にちなんだ冗談を言われる。
「今年はモーツァルトイヤーだ」というセリフもある。1991年は、モーツァルト没後200年だった。
字幕とセリフが別々のことを述べるなど、かなりせわしない印象を受ける。「カール・マルクス通り」(東ベルリン)の道標が倒れているのは、共産主義の終焉のメタファーだと思われるが、余り上手くないように思う。仮に1991年当時に観ていたら感想は異なったと思われるが。
今はもう時代が進んでしまって、カール・マルクスがロシア人だと本気で思っていたりする人もいる。「カールだよ。典型的なドイツ人男性の名前だよ」と思うが、外国の文化に興味がない人にはピンとこないのかも知れない。一番有名な「カール」であるカール・ルイスはアメリカ人だし。

音楽はクラシックが断片的に用いられている。ドイツ語圏に限らず様々な国の作曲家の作品が流れる。モーツァルト以外に名前が出てくるのは(フランツ・)リストであるが、リストによるピアノ編曲版と思われるベートーヴェンの第九の第2楽章が流れたりする。

「孤独」をテーマにした変奏曲であることが冒頭で示される。
哲学的な言葉が次々に流れてくるが、どれもみな借用という印象を受ける。コラージュのようだ。ゴダールは、「気狂いピエロ」でもすでにコラージュのようなことをやっていた。ゴダールは本の最初のページと最後のページを読むことで読了とし、多くの本に目を通していた。だがコラージュが重なると、自身の核や言葉が、他者にハイジャックされるような気分になる。
そもそもエディは、長く潜伏生活を送っており、孤独な存在である。時間の流れに取り残された存在である東ドイツの中で更に取り残された存在であるエディが西ドイツに行く意味は。
あるいは圧倒的な喪失が今後待ち受けているのかも知れない。

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2026年1月11日 (日)

これまでに観た映画より(424) ロベルト・ロッセリーニ監督作品「ドイツ零年」

2026年1月7日 京都シネマにて

京都シネマで、ロベルト・ロッセリーニ監督作品「ドイツ零年」を観る。1948年の作品。第二次世界大戦に敗れた1945年をドイツ零年として描いた作品である。上映時間74分の中編。出演:エドムント・メシュケ、エルンスト・ピットシャウ、インゲトラウト・ヒンツェ、フランツ・クリューガーほか。

焼け跡の残るベルリンでロケが行われている。ロベルト・ロッセリーニというと、「無防備都市」などで素人を大量に使った演出で、「戦艦ポチョムキン」(これらも素人を大量に動員)に匹敵する生々しさを生み、「無防備都市」を観たイングリッド・バーグマンは、全てを投げ出してロッセリーニの下へと走る。結婚した二人は、映画および演劇「火刑台のジャンヌ・ダルク」を上演。大ヒットを記録するが、これに味を占めたロッセリーニは、何度も何度も舞台「火刑台のジャンヌ・ダルク」を上演。何度も焼かれては死ぬ乙女を演じなければならなかったバーグマンは、やがてロッセリーニの下を去る。
その後のロッセリーニの情報は少ない。再婚しており、映画も監督したが、日本で上映された作品はほとんどないようだ。

「ドイツ零年」は、連合国軍によって分割統治されているベルリンが舞台である。ドイツ語の他に、英語やフランス語などが統治を行っている兵士の口から話される。イタリア語も用いられているようだが、確認は出来なかった。

この映画でも、大量動員されているのはエキストラではなく素人の可能性が高い。動きが整然としていないため、生々しさがある。端役俳優にも素人が抜擢され、主役のエドムントを演じるエドムント・メシュケも子役ではなく、家族が運営するサーカスで芸を行っていた11歳の少年である。

主人公は、12歳の少年、エドムントである。家族と、更に別の家族とも暮らしているようである。父親は病気で働くことが出来ず、兄のカールハインツは、最後までナチス兵として戦ったが、そのことが災いして強制収容所に入れられるのではないかと怖れ、引きこもり状態になっている。働き手が足りないので、姉のエヴァと共にエドムントも年齢を15歳と偽って、市場に出るが、見た目がどう見ても12歳であるため、「15歳未満は働いてはいけない」という法律によって追い返される。

一家の物語でありながら、ドイツの近年の歴史を辿るような展開が起こる。
エドムントは、戦後もナチを信奉している元教師のエニングと再会する。エニングは、「強い者が勝ち、弱い者は滅ぼされる」「弱肉強食」といったナチスの発想を今も抱いている。エドムントは次第にエニングに感化されていく。

エドムントは、父親を毒殺し、ラストは飛び降りて死ぬ。
ヒトラーのヒンデンブルクの死による政権奪取と、ベルリン陥落により二度負けたドイツそのものである。こうした描写は比較的分かり易いと思われる。

ヒトラーの演説が入ったレコードをエドムントが売りに行く場面があり、ヒトラーの演説も流れる。ヒトラーは簡単なことを何度も何度も繰り返し述べているが、洗脳にはこれが最も有効とされている。今生きる私たちに言えるのは、こういう人物がいたら注意しなさいということだけだ。真理が分かり易い言葉で語られることは余りない。それが分かるように我々は、子どもの時から何年も学校に通っているのである。

問題があるとしたら音楽。ロベルト・ロッセリーニの弟であるレンツォ・ロッセリーニが担当しているのだが、余りにも大袈裟で、この映画に関しては正直、神経に障る。

 

今回は、ジャン=リュック・ゴダール監督の「新ドイツ零年」と合わせての上映である。第二次世界大戦での敗北をドイツ零年としてロッセリーニに対し、ロッセリーニから影響を受けたゴダールは、東西ドイツ統一を新ドイツ零年としている。

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2026年1月 8日 (木)

これまでに観た映画より(423) 「ドマーニ!愛のことづて」

2025年4月3日 京都シネマにて

京都シネマで、イタリア映画「ドマーニ!愛のことづて」 を観る。2024年の制作であるが、モノクロームを使っているのは(解像度はかなり高い)、ネオリアリズモからの影響や、第二次大戦後間もなくということと、当時のイタリアの女性は彩り豊かな人生を歩むことが困難ということの両方を表しているように思われる。
監督・脚本・主演の三役をこなすのは、パオラ・コルテッレージ。イタリアは基本的にファーストネームがaの音で終わるのが女性、oで終わるのが男性である(例外あり)。
パオラ・コルテッレージは、劇団出身で、イタリアではコメディエンヌとして知られる人物であるという。ただ今回は女性蔑視という、根源的で根深い問題に切り込んでいる。
ちなみにパオラは、左利き。日本だとこの世代では強制的に右利きへの矯正が行われることが多かったが、イタリアではどうだったのか分からない。ちなみに人種に関係なく、10人に1人の割合で左利きは存在するという。日本も今でこそ左利きに寛容であるが、江戸時代までは、右利きが当たり前であり、左利きは身体障害者と見なされて差別の対象となった。そのため右利きへの矯正が当たり前であった。
出演は他に、ヴァレリオ・マスタンドレア、ロマーナ・マッジョーラ・ヴェルガーノ、ヴィニーチョ・マルキオーニ、エマヌエラ・ファネッリほか。

1946年5月、イタリアが第二次世界大戦で敗北してからほどない時代のローマが舞台となっている。
デリア(パオラ・コルテッレージ)は、半地下の家で家族と暮らしているが、戦争帰りの夫のイヴァーノ(ヴァレリオ・マスタンドレア)は暴力的である。また部屋で寝たきりの義父のオットリーノがいるのだが、彼も男尊女卑の思想の持ち主である。実は彼が亡くなった後、人々は口々に彼を「聖人」と称賛しているが、ここから女性は見下されるのが当たり前の存在であったことが分かる。男同士で評価が高ければ、女性に対してどれだけ冷淡でも評価されるのだ。
デリアは、自動車整備工のニーノ(ヴィニーチョ・マルキオーニ)と長年に渡り惹かれ合っているが、妻子がいるため踏みとどまっている。ニーノは後悔を口にした。
デリアの娘であるマルチェッラ(ロマーナ・マッジョーラ・ヴェルガーノ)は、ジュリオという色男と付き合っている。彼を家に呼ぶため、デリアは奔走するが、ジュリオはマルチェッラに、「仕事を辞めて家に入ってほしい」など、いかにも男性的な要求を行う。デリアはジュリオに不審を抱く。

妻や義理の娘を時に女中のように扱う男達。今の観点から見ると化け物のようにも見え、ステロタイプに過ぎるようにも思えるのだが、おそらく似たようなことは往時もあったであろうし、何よりも女性の立場が弱い状態は現在も世界各地で続いている。

突然、歌が始まるなど、インド映画が始まったのかと思うようなところのある演出。音楽が重要な役割を担っており、重苦しい展開の中で、音楽パートだけは希望が持てるようになっている。

ラストシーンは、女性に選挙権が認められての初めての選挙。デリアは投票券をうっかり家の中に落としてきてしまうが、マルチェッラが届けに現れ、事なきを得る。女性参政権に反対のイヴァーノが引き下がるのも印象的である。

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2025年10月14日 (火)

これまでに観た映画より(406) ドキュメンタリー映画「ピアノフォルテ」

2025年10月11日 京都シネマにて

京都シネマでドキュメンタリー映画「ピアノフォルテ」を観ることにする。時間的にもピッタリだった。
ドキュメンタリー映画「ピアノフォルテ」は、2021年に行われた第18回ショパン国際ピアノコンクールの出場者に焦点を当てた作品である。
第18回ショパン国際ピアノコンクールは、5年に1回行われる同コンクールの中で、コロナ禍により1年開催が遅れた大会でもある。2025年10月現在、第19回ショパン国際ピアノコンクールが、4年おきになったが開催されている。今後は5年おきに戻る予定。

第18回ショパン国際ピアノコンクールでは、反田恭平が2位入賞、小林愛実(あいみ)が4位入賞を果たした年だが、二人ともドキュメンタリーの対象にはなっていないので、ほとんど映らない。小林愛美は、冒頭付近で名前を呼ばれるが、登場するのは終盤になってからである。入賞者全員の集合写真をスマホの内側カメラで撮ろうとしているのが小林愛実だ。反田恭平が現れるのも終盤で、入賞者に「人生でこんなにピアノ練習したの初めて」と語っている。
表彰式では反田も小林も当然ながら映っている。

牛田智大(うしだ・ともはる)の名前が呼ばれるシーンがあるが、本選には進めていない。牛田は今年のショパン国際ピアノコンクールにも出場し、より高い順位を狙う。

出場者の中には厳しいコーチがいて、何度も弾き直しさせたり別のメーカーのピアノを弾かせたりする。
一方で、プレッシャーからだと思うが、二次予選での演奏を取りやめ、棄権してしまうピアニストもいる。
興味深いのは、ラオ・ハオという中国人ピアニスト。同世代と思われる若い女性がアドバイスを送ったり励ましたり身の回りの世話を焼いたりと甲斐甲斐しく動いている。だからといって恋人ではなさそうだし、男女の関係にも今のところは見えない。彼女はハオの姉のようでもあり、母親代わりにも見える。とにかく仲が良い。不思議な二人である。女性の方もピアニストとしてコンクールに参加したことがあるのだが、準備が不十分で上手くいかず、自身の腕を磨くよりも有望なピアニストに賭けてみたいという思いがあるようだ。ただ将来的にもこの関係は続くのだろうか。

コンクールの優勝者は、中国系カナダ人のブルース・リウ。ハオの世話をしている女性が、「ブルース・リーみたい」と行っていたピアニストだ。だが、ブルース・リウも取材の対象ではなかったため、途中から姿を現すに過ぎない。成功者を追うドキュメンタリーではないのだ。
取材の対象となったのは、たまたまだと思うが、余り上手くいかなかったピアニスト達だ。ピアノの腕を競うことの過酷さ。それでもそれぞれにドラマがあり、想像もしたことがないような関係を築いている人々を見ることは世界の広さを知るようでもある。

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2025年4月15日 (火)

これまでに観た映画より(385) 浅野忠信&瀧内公美「レイブンズ」

2025年3月31日 京都シネマにて

京都シネマで、フランス・日本・ベルギー・スペイン合作映画「レイブンズ」を観る。現代の無頼のような生き方をした写真家の深瀬昌久と妻の洋子の人生を描いた伝記風作品である。伝記とは書いたが、生き方そのものよりも二人の関係性に重点が置かれている印象である。監督はイギリス・マンチェスター出身のマーク・ギル。最初、グラフィックデザインを学び、ミュージシャンに転向。その後、映画監督への再転向を果たしたという異色の人物である。脚本とプロデューサーも兼任。日本贔屓で日本語も学んでいる最中だという。2015年にイギリスの新聞で深瀬の記事を読み、興味を持ったのが今回の映画の入り口だという。
出演は、浅野忠信、瀧内公美、古舘寛治、池松壮亮、高岡早紀ほか。浅野忠信と瀧内公美に関しては、日本映画にも詳しいマーク・ギル監督によるキャスティングのようである。

浅野忠信が演じる深瀬昌久(ふかせ・まさひさ。1934-2012)は、北海道生まれの写真家。本名は同じ字で「よしひさ」と読むようである。写真館を経営する家に生まれ、日本大学藝術学部写真学科卒。いくつかの企業勤めを経てフリーの写真家に。奥さんの洋子(この映画では瀧内公美が演じる)をモデルにした写真で名を挙げ、1974年にニューヨーク近代美術館(MoMA)での写真展への出展により海外にも進出。しかし実家の離散などもあって酒量が増え、酔って階段から転落し、脳挫傷を負い、以後回復することなく10年後に他界している。

 

変わった人物であることを表すためか、首つり自殺する瞬間をカメラに収めようとするシーンなどから始まる。
深瀬にしか見えない巨大な烏(レイブンズ。「ツクヨミ」。ホセ・ルイス・フェラーが演じる)がおり、英語で深瀬に話しかけてくる。深瀬は英語はよく分からないはずだが、烏の言葉は分かる。烏は時に深瀬を導き、後押しをする。烏の存在により、この映画は日本語と英語の二カ国語作品となっている。

深瀬昌久(若い頃の深瀬は別の俳優が演じている)は、日大藝術学部写真学科に合格するが、父親の助造(古舘寛治)は、「写真館に大学の教育はいらない」と合格通知書を破り捨ててしまう。この厳父の存在が昌久の人格形成に大きな影響を与えているのは間違いなさそうだ。時間は飛ぶ。結局、昌久は日大藝術学部に進学して卒業したことが分かる。そして鰐部洋子(彼女も、Ocean Childである)という魅力的な女性と出会い、写真のモデルになって貰い、やがて結婚する。洋子は能楽師になりたいと思っていたようだが、今でこそ女性能楽師は珍しくない、というより私も知り合いに女性能楽師がいたりするのだが、この時代は女性は能楽師にはまだなれないようである(観世、金春、金剛、宝生、喜多という派に入ることは出来たが、能楽師として正式に登録出来るようになるのは2004年から)。だが、能楽の訓練は受けることにし、深瀬の稼ぎと洋子のパート代が費用として当てられることになる。だが、深瀬は芸術系の写真家であるため、余りお金は稼げない。そこで気は進まないが広告などの商業写真の仕事も手掛けるようになった。その頃には助手となる正田モリオ(池松壮亮)とも出会っている。
だが、商業写真にはどうしても乗り気になれない。昌久は芸術写真に戻り、十分な稼ぎが得られなくなってしまう。洋子も不満である。
北海道の実家に帰った深瀬。洋子も連れて行く。しかし、助造を怒らせた深瀬は打擲され続ける。洋子は青ざめたような顔でそれを見ていた。助造は最後には写真館倒産の責任を取って自裁した。深瀬は厳しかった助造が、自身が特集された写真雑誌を買っていたり、深瀬家での写真をスクラップブックに入れていたりと、深瀬のことを気に掛けていたことを知る。

そんな中、1974年(どうでもいいことだが私の生まれた年)、MoMAことニューヨーク近代美術館から写真を出展しないかという話が舞い込む。二人でニューヨークへと乗り込む二人。だが注目を浴びたのはモデルを務めた洋子の方であった。この頃から二人の間に溝が出来始める。洋子は洋子で、実際の洋子ではなく写真に収められたモデルの洋子が現実の洋子を飲み込むような気分になっていたと思われる。また夫がカメラ越しにしか自分を見ておらず、見られたのは自分ではなく夫自身、夫は自分のことしか見ていないと不満を募らせる。
結局、洋子は深瀬の家には戻らず、二人は別れた。それでも洋子が深瀬の家を訪ねた日、深瀬は短刀(脇差し)で洋子の背中を斬りつける。深瀬の家は屯田兵として北海道に渡った旧士族であり、廃刀令で刀は失ったが、旧士族の家によくあるように切腹用の脇差しは隠し持っていたようである(銃刀法違反にはなる)。旧士族らしく「男、四十にして功成らざれば、死をもって恥をすすぐべし」との家訓があり、父親から脇差しを渡されていた。旧士族の家には、切腹の仕方を伝授する家もあるようだが、多分、そこまでのことは深瀬家ではやっていなかっただろう。
とにかく刃傷沙汰となり、洋子が警察に通報したため、深瀬は逮捕される。重い罪にはならなかったようだ(この刃傷沙汰が事実なのかどうか確認は取れなかった)。離婚が成立する。
これで深瀬と洋子は終わり、にはならなかった。数年後、烏や猫などを題材とした深瀬の写真展を観に洋子が現れる。洋子は三好という男と再婚しており、三好洋子となっていた(エンドロールに、SpeciaL Thanks:Yoko Miyoshiの文字がある)。三好の身分は分からないが、大企業の重役風であり、洋子の言葉遣いも上品になっていた。これが二人の最後、にはやはりならなかった。行きつけのバーの階段から転落し、後頭部を打った深瀬。重症であり、以後、意識がハッキリしない状態が続く。老人ホームに入った深瀬を見舞う洋子。自分のことが分かっているのかさえ判然としない深瀬を見て複雑な思いでホームを去る。ホームの上には深瀬の象徴のような烏が舞う。これで終わり、にはならない。洋子はなんと深瀬が亡くなるまで10年間、見舞いを続けたのだった。

 

なんとも妙な二人。どこかで見たような関係だが、竹久夢二とたまきの間柄にそっくりである。画家・詩人・挿絵画家の夢二と、写真家の深瀬の違いはあるが、別れ際に刃傷沙汰になったり、それで永遠の別れかと思いきや延々と関係は続き、最期を看取ったというところまでそっくりである。深瀬と洋子が意図して似せた訳ではないだろうが、同じようなことをしている芸術系カップル、それも夢二とたまきほどには有名ではない二人がいた、というのは面白いことである。やっていること自体は面白い訳ではないのだが。
実際には、深瀬も洋子と別れた直後に再婚しており、深瀬と洋子は必ずしも映画内のような関係ではなかったとも考えられる。
脚本・監督のマーク・ギルはイギリス人であるため、竹久夢二とたまきを知っているのかどうかすら不明だが、「新版 夢二とたまき」を観たような気分になった。なお、洋子もたまきも金沢出身である。

深瀬が経済的な成功とは遠かったのは、洋子とは団地に住み、最後も家賃の安そうなアパートで一人暮らししていることからも分かる。誰もが知るほどの有名な存在にはなれなかったが、成功と言えるだけの体験はした。それでも芸術で食べていくのは大変なようである。

 

才能あるが故に、一般的な生活には馴染めない深瀬を浅野忠信が快演。最愛の女性となる洋子を演じた瀧内公美もチャーミングな場面から深瀬に迫る激しい表情まで幅広く「被写体に相応しい女」を演じている。半月ほど前に、サインを頂くために瀧内公美さんに至近距離で会ってお話も少ししたのだが、「この人は人間性が柔らかそうなので何にでもなれそうだな」という印象を受けた。表現を行う人はエネルギー放出量も多いので、一般的な人よりは能力などが伝わりやすい。もう古い話になるが、AKBグループが全盛の頃、「選抜入りした人達とそうじゃない子ではかなり実力差があるな。ファンは実力をよく見抜いているな」と思ったものだが、実際に有名アーティストなどは近くにいると才能などは伝わってくるので、「なるほど、そういうことか」と納得した。浅野忠信もヨコハマ映画祭の表彰式に彼が主演男優賞受賞者として出席した時に生で見たことがあるのだが、ただ立っているだけで誰よりも迫力があった。

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2025年4月 5日 (土)

これまでに観た映画より(382) 韓国映画「ケナは韓国が嫌いで」

2025年3月12日 京都シネマにて

京都シネマで、韓国映画「ケナは韓国が嫌いで」を観る。2015年に発売されたチャン・ガンミョンのベストセラー小説『韓国が嫌いで』の映画化である。監督・脚本:チャン・ゴンジェ。出演:コ・アソン、チュ・ジョンヒョク、キム・ウギョム、イ・サンヒ、オ・ミンエ、パク・スンヒョンほか。

学歴社会・競争社会である韓国。ヒロインのケナ(コ・アソン)はそんな韓国に嫌気が差し、ニュージーランドへの移住を図る。

学歴主義社会として知られる韓国。SKYと呼ばれる、ソウル国立大学校、高麗(コリョ)大学校、延世(ヨンセ)大学校の3校に入れば将来が約束されるため、これらの大学を目指す高校生はとても多く、その他の大学志望者も少しでも良いとされる大学に行くために熾烈な競争を繰り広げる。韓国は高校までは義務教育であるため、受験は1回切りで、多くの人が全力を尽くす。一方で波に乗れず、ドロップアウトしていく人も多い(そうした人々を描いた作品も複数ある)。
受験で勝利しても、就職したらしたでまた苛烈な出世競争が待ち受けている。ケナは「ヘル・チョソン」「ヘル・コリア」(いずれも「地獄の韓国」)という流行り言葉を口にする。

日本でもお馴染みのペ・ドゥナが主演した、「子猫をお願い」という映画では、商業高校を卒業して社会に出た18歳の女の子達が社会の壁にぶち当たる様が描かれていたが、この映画の登場人物は、それなりの大学校を出てそれなりの企業で働いているようであり、祖国が嫌いになるだけの強い要因が曖昧であるように感じられる。「生まれた国だからといって嫌いになってはいけないわけではない」という言葉もあるが、上手くいっているように見えるのにどうして? という気持ちは拭えない。
ヒロインも、「韓国は先進国の中でもGDPは20位以内で、イタリアやスペインに匹敵する」とヨーロッパの先進国(ただイタリアもスペインも先進国の中では経済力最下位争いで、デフォルトが起きてもおかしくないと言われている)並みなのに、何が不満なのだと言われる。ケナは、「自殺率は先進国の中で1位」とデータを示し、生きにくさを強調するが、少なくともこの映画の中に登場する韓国に生きにくさを見出すことは難しい。芸能人の自殺も多いことで知られる韓国だけに、自殺に追い込まれる仕組みなどが明らかにされてもよいように思うのだが、それもないため、わがままで「韓国が嫌い」と言っているように見えてしまう。ケナが通勤に片道2時間、それも満員のバスと電車を乗り継ぐのが大変という描写から入るが、私も二十代の頃は、満員のバスと電車を乗り継いで片道2時間掛けて東京の会社に通っており、彼女がとりわけ大変という風にも思えない。
実際にニュージーランドに移るケナ。最大の都市であるオークランドに住むようだ。ワーキングホリデーの仕組みを利用し、大学で会計学を学びながらアルバイトをこなして、最終的にはニュージーランドの永住権を獲得しようとする。ここでニュージーランドでの生きづらさが描かれても良いはずなのだが、実際はアルバイト先のブティックで、白人の先輩社員に靴を注意されるだけである。ケナはスニーカーを履いていたのだが、「TPOに合わせてハイヒールを履くべき」と注意される。もう一人の白人の先輩が、「彼女は歩きながら仕事をしているので、ハイヒールは無理」とかばってくれた。一見すると分かりにくいが、これは人種差別の一種のようである。同じニュージーランド人、もしくは白人だったら、靴のことで注意を受けたりはしないようだ。助けてくれたニュージーランド人の女性がケナにそう語る。ただそれ以外はニュージーランドでの生活は順調。パラグライダーでビルの屋上から飛び降りた友人の女性を撮影して、動画サイトに映像を載せたことで警察が家にやって来て、「国外追放になるかも知れない」とケナが語る場面があるが、結局は大目に見られたようである。

というわけで、韓国が嫌いで仕方がない理由も、ニュージーランドが良いとされる根拠も今ひとつハッキリしない。ケナには分かっているのだろうが、見る者にはそれは伝わってこない。

面白いのは、主人公のケナを始め、韓国人女性が煙草を吸うシーンが多いこと。日本では、女性の10人に1人が喫煙者というデータがあるようだが、韓国、そして中国でも煙草を吸う女性は「売春婦」が定番になっているため、喫煙率はちょっと前まで1%~3%弱と低く、それでも煙草を吸う女性は蓮っ葉(ビッチ)と見られがちであった。京都造形芸術大学舞台芸術コース在学中に、韓国からの留学生であるパクという女の子と日本人女子学生のNと私と3人でエチュード(即興で行う演技の稽古)を行ったのだが、パクがNを悪く言う際、「この女、煙草を吸ってました」を繰り返しており、韓国で煙草を吸う女がいかにイメージが悪いかが分かった。今回の映画では煙草を吸う女性が複数出てくるが、現在では状況が変わったのか、それともケナがちょっと嫌な女であることを示すために喫煙シーンを入れたのかは不明であるが、煙草をポイ捨てしたりしているため、マナー的にはやはり良くないという設定ではあるのだろう(データによると、韓国の若い女性の喫煙率は増加傾向にあり、日本並みに増えているようだ)。

ケナを演じるコ・アソンは子役上がりだが、確かな演技力が感じられる一方で美人という訳ではない。整形が当たり前の韓国であるが(今でもそうなのかは知らないが、美形でないと就職出来なかったり、「美人でないのは失礼だ」などと言われたりしていて、社会が美容整形を後押ししていた)、彼女は整形はしていないと思われる。余り洗練されていない素朴な印象だが、親しみの持てる風貌である。

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2025年3月11日 (火)

これまでに観た映画より(381) 「その街のこども 劇場版」

2025年1月17日 京都シネマにて

京都シネマで、阪神・淡路大震災30年特別再上映「その街のこども 劇場版」を観る。2010年1月17日に阪神・淡路大震災15年特別企画としてNHKで放送されたドラマの映画版(2011年公開)。NHK大阪放送局(JOBK)の制作である。放送から15年が経っている。監督:井上剛。脚本:渡辺あや。出演:森山未來、佐藤江梨子、津田寛治ほか。音楽:大友良英。京都では今日1回のみの上映。神戸では今日から1週間ほど上映されて、森山未來がトークを行う日もあるようだ。
森山未來も佐藤江梨子も1995年当時、神戸に住んでおり、阪神・淡路大震災の被災者である。ただ佐藤江梨子はどうなのかは分からないが、森山未來は実家付近にほとんど被害が出なかったそうで、知り合いに亡くなった人もおらず、当事者なのに部外者のような気がしてコンプレックスになっていると語ったことがある。

2010年1月16日。森山未來演じる中田勇治は、阪神・淡路大震災被災後年内に、また佐藤江梨子演じる大村美夏は、震災の2年後に東京に転居し、以後、一度も神戸を訪れていないという設定である。
東京の建設会社に勤める中田は、先輩の沢村(津田寛治)と共に広島への出張で新幹線に乗っている。新神戸駅で下車しようとするスタイルのいい女性の後ろ姿を見掛けた二人。中田はふいに新神戸で降りることに決める。
スタイルのいい女、美夏から、「新神戸から三宮まで歩いて何分ぐらいですか?」と聞かれたことから、二人の物語が始まる(私は新神戸から三宮まで歩いたことがあるが、15分から20分といったところである。地下鉄で1駅なので普通は地下鉄を使う)。美夏は、明日の朝に東遊園地で行われる追悼集会に出る予定だった。中田は灘の、美夏は御影の出身である。
喫茶店や居酒屋で過ごした後、二人は御影(美夏の祖母の家がある)へと歩いて向かう。

オール神戸ロケによる作品である。震災から距離を置きたかったという気持ちが、少しずつ明らかになっていく(共に親族に問題があったようだが)。見終わった後に染みるような感覚が残る映画である。

ラストシーンは、2010年1月17日午前5時46分からの追悼集会で撮影され、即、編集が施されてその日のうちに放送されている。

撮影から15年が経っているが、森山未來は今も見た目が余り変わっていない。十代の頃の面影が今もある人なので、年を取ったように見えないタイプなのだと思われる。

 

上映終了後に、井上剛監督と配給の石毛輝氏による舞台挨拶がある。
キャストが森山未來と佐藤江梨子に決まったことで、当初よりも恋愛要素の濃い設定となったようである(ただし二人が恋仲になることはない)。色々と新しい試みを行ったそうで、カメラマンは、ドラマではなく報道専門の人を起用したそうである。また「百年に一度の災害」というセリフがあるのだが、放送の翌年に東日本大震災が発生。その後も熊本や能登で大規模な地震が発生している。関西でも大阪北部地震があった。ここまで災害が続くとは制作陣も予想していなかったようである。

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2025年3月10日 (月)

これまでに観た映画より(380) 「事実無根」

2025年3月5日 京都シネマにて

京都シネマで、日本映画「事実無根」を観る。原案・監督:柳裕章、脚本:松下隆一。出演:近藤芳正、村田雄浩、東茉凜(あずま・まりん)、西園寺章雄、和泉敬子ほか。

京都の女性と結婚してからは京都市在住となった俳優の近藤芳正。彼が京都の映画人に呼びかけて作った京都を舞台とする映画である。低予算映画ということもあって、お披露目公開をしてからしばらく眠っており、今年の2月21日から3月6日まで、京都シネマにおいて2週間のみの公開が行われている。今後はクラウドファンディングなどで全国での公開を目指すようである。なお、海外ではすでに多くの賞を受賞している。
ご当地映画ということで、京都シネマで2番目に大きいCinema2(定員90名)はほぼ満員の盛況である。

「そのうちcafe」という実在の喫茶店が舞台となっている。ヒロインの東茉凜はオーディションで選ばれた新人である。

京都駅前。京都駅ビルと京都タワーが映る。東本願寺(真宗本廟)の御影堂門と噴水の間、お東さん広場を北に向かって歩く若い女性がいる。大林沙耶(東茉凜)である。現在、18歳。彼女が向かっているのは、五条高倉の六條院公園に面した「そのうちcafe」である。一方、路地を歩く男性。彼も「そのうちcafe」に向かっている。「そのうちcafe」の店主である星孝史(近藤芳正)である。星は長く太秦で映画の助監督を務めていたのだが、監督には上がれないことが確実になって退社。たまたま入ったカフェの店員となり、そのうちに「良いカフェがある」との紹介を受けて「そのうちcafe」のマスターとなったのだった。「そのうちcafe」の前では子どもたちが遊んでいる。沙耶が戸惑っているところに星がやって来る。店を開ける星。星は子ども達に人気があり、一緒に遊んだりしているが、缶蹴りをしていた時に転んで右手を負傷してしまっていた。そのためアシスタントとしてアルバイトを募集したのだが、それに応募してきたのが沙耶だった。
高校を卒業したばかりだという沙耶。星は「高校を卒業したばかりならアルバイトよりも就職した方が良いんじゃないの?」と聞くが、沙耶は、「就職する前に体を慣らしておいた方が良いと思いまして」などと答える。高卒直後に就職しないと不利になるが、星は沙耶を雇うことにする。慣れていないということもあって、ちょっとドジなところのある沙耶。「京都が好きなので京都で働けるだけで嬉しい」と言うが、大阪府高槻市在住で、京都市内からは少しだけ遠い。ということで交通費も全額は出ない。JR京都駅を使っているため、阪急高槻市駅などではなく、JR高槻駅などから京都に来ていると思われる。だが、この沙耶。名前も学歴も全て嘘だったことが後に分かる。住所についても判然としないが、JR京都駅を使っていることは間違いないので、高槻に住んでいるというのは本当かも知れない。

その沙耶(偽名だが)を六條院公園内から見つめるホームレス風の男(村田雄浩)がいることに星は気付く。夜、男に近づいて話しかける星。「これ以上、彼女につきまとったら警察呼ぶぞ!」と警告する。ホームレス風の男は「自分で警察に連絡する」と言ってスマホを取り出し、ボタンを押す。星がスマホを取り上げるが、男が掛けたのは「110番」ではなく、「117番」つまり時報だった(ちなみにホームレスなのにスマホを充電できるのか、であるが、屋外型の有料充電サービスが今はあるので、そこで充電している、のかと思いきや、スーパーで勝手に充電していた。立派な窃盗罪である)。男はあの子は義理の娘で、自分は義理の娘の父親だと打ち明ける(星に、「だったら義理の父親でいいだろ!」と突っ込まれる)。男は元々は大学教授をしていたのだが(その後に話す内容からフランス文学の教授らしいことが分かる)、学内においてセクハラで訴えられ、「事実無根」として無実を訴えた裁判にも負けて、最終的には離婚して家を追い出されたようで、義理の娘にも会えなくなった。男の名は大林明彦。
星はバツイチで、娘の親権は相手が取り、「月に1回、娘に会わせる」という約束も反故にされて娘とは長い間顔を合わせていない。離婚調停において妻から「DVを受けた」と、「事実無根」の証言をされていた。大林の気持ちが分かった星は、星が勤めていた大学(岩倉木野にある京都精華大学がロケ地となっており、精華大学に通う際に多くの学生が使う叡山電車の車両と京都精華大前駅のホームも映る。ただ、京都精華大学にはフランス文学系の専攻は存在しないため、あくまでも架空の大学である)を訪れ、セクハラの被害者を名乗っていた助教の女性に新聞記者だと身分を偽って会う。女性は大林の証言を否定するが、星は直感で彼女は嘘をついていると確信した。

星は、大林を沙耶に会わせることにする。だまし討ちに近い形で沙耶を大林に会わせた星だが、大林が「沙耶」ではなく「悠美(ゆうみ)」と呼びかけるのを見て驚く。沙耶は偽名で本名は悠美。大林が離婚したので、現在は大林ではなく中野姓になっている。つまり中野悠美が本名である。大林が裁判に負けてからは4~5年ほど引き籠もりを続けており、高校も中退していた。そしてなんといっても、悠美は星の娘の名前だった。星の元妻は大林と再婚。悠美は大林の義理の娘であり、星の実の娘でもあったのだ。実父が京都でカフェを経営していることを知り、会いたくて正体を偽り、アルバイト店員として実父と過ごしていたのだった。

少し複雑な親子関係を描いた作品で、描き方にはよってはドロドロ系になってもおかしくないのだが、京都という時間の流れがゆったりした街で繰り広げられるということもあって、まったり系の話になっている。

正直、傑出した映画ではないかも知れないが、東京的なせわしない程の劇的な展開とは異なった映画となっており、東京を中心とした大手の映画製作会社の作品とは違った「手作り」的な味わいがある。京都という日本最大の観光地を舞台にしながら、それほど観光色を表に出さず、京都で暮らす人々の日常を主軸にしているのも良いと感じた。

映画デビュー作だと思われる東茉凜は、初々しい演技が好印象だが、正直、容姿で勝負出来るタイプではないため、これからも女優を続けるのなら演技をもっともっと磨く必要があるように思う。幸い、日本の芸能界はルッキズムがやわらぐ傾向にあり、絶世の美女でなくても主役やヒロインになれる場合も多く、この傾向は当分続くだろうから、チャンスはあるだろう。

なお、元刑事の城田を演じた西園寺章雄が今年の1月14日に他界しており、この映画は彼に捧げられている。

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2025年2月12日 (水)

これまでに観た映画より(376) 「美晴に傘を」

2025年2月6日 京都シネマにて

京都シネマで、日本映画「美晴に傘を」を観る。演劇畑出身で、短編映画の制作で評価されてきた渋谷悠(しぶや・ゆう。男性)監督の初長編映画作品である。
出演:升毅、田中美里、日髙麻鈴(ひだか・まりん)、和田聰宏(わだ・そうこう)、宮本凜音(みやもと・りおん)、上原剛史(うえはら・たけし)、井上薰、阿南健治ほか。

劇中で具体的な地名が明かされることはないが、北海道の余市郡が舞台。プロデューサーの大川祥吾が余市町の出身である。

漁師の吉田善次(升毅)の息子である光雄(和田聰宏)が癌で亡くなる。光雄は詩人を志して上京。以後、故郷に戻ることはなかった。雑誌に詩は投稿していたようだが、詩だけで食べることは出来ず、新聞の校正の仕事などをしていたようである。妻と娘が二人。
善次は妻に先立たれて一人暮らし。漁師仲間がいるが、付き合いは余り良い方ではない。東京で行われた光雄の葬儀にも出なかった善次であるが、そんな善次の下を、光雄の妻の透子(田中美里)、光雄の長女の美晴(日髙麻鈴)と次女の凛(宮本凜音)が訪ねてくる。こちらで光雄の四十九日を行うのだ。強引に押しかけた三人は善次の家で寝泊まりし、四十九日が終わっても帰ろうとしない。

小さな漁師町の余市には、透子のような美人はいない。ということで男どもが色めきだつ。光雄の遺言により、透子は白地の涼やかなワンピースに赤い口紅を塗って墓前に立ち、顰蹙を買うも、光雄の遺言だからと気にしない。

長女の美晴は、聴覚過敏を持つ自閉症である。自閉症は名称だけは有名だが、実態はよく知られていない症状である。基本的に知能は低く、視線が合わない、会話が上手く出来ないなどコミュニケーションの障害がある(かつてカナータイプと呼ばれたもの)。知能が正常、もしくは高い自閉症を以前はアスペルガー症候群や高機能自閉症といったが、差別的に用いられたこともあって(一見、普通の人なのだがコミュニケーションや想像力に問題があるため却って差別されやすい)、今はASDや自閉症スペクトラムという呼び方になったが、却って分かりにくくなったように思う。
美晴は二十歳だが、知能が低いタイプなので年齢よりはかなり幼く、不思議な手の動きなどを行う(これも自閉症の典型的な症状の一つ)。また擬音(オノマトペ)を好む。美晴は光雄が残してくれた絵本「美晴に傘を」を透子に朗読して貰うのが好きだ。次女の凛は、少々生意気な性格だが、姉を守る必要もあってかしっかりしている。
実は、善次は、文章が苦手である。当然ながら義務教育は受けているはずなのだが、生来苦手なのか漢字などが上手く書けず、文章にも自信がない。そこで書道家の正野(井上薰)が開いている書き方教室のようなものに通い始めたのだが、最近はサボり気味。実は、売れないとはいえ、詩を書いている息子に送るのに恥ずかしくない手紙を書くべく、習おうとしていたのだった。しかし、息子が病気に倒れたのを知り、更に亡くなったとあっては、書き方を習う必要はなくなってしまったのだった。

実は善次は光雄のことをずっと気に掛けており、光雄の詩が載った雑誌を購入して、息子の詩を全て暗唱していた。童謡のような詩を書く人だったことが分かる。

善次の仲間は個性豊か。二郎(阿南健治)は、俳句(川柳。無季俳句)を生き甲斐としているが、詠むのはエロ俳句ばかり。雑誌に投稿もしているようだがかすりもしない。妻に先立たれたようだが、娘のさくらは美容室を開いている。そんなある日、二郎の俳句が有名な専門誌に採用される。さくらは得意になってその雑誌を何冊も買い、知り合いに配るのだが実は……。

居酒屋が人々の行きつけの場所になっており、ほとんどの客は地元出身者なのだが、桐生(上原剛史)だけは東京からワイン造りのために余市へ越してきている。郊外に広大なワイン畑を所有していた。

美晴の夢の中では、光雄は傘売りのおじさんとなって登場。傘を様々なものに見立てて手渡すが、ある日、骨だけの傘を美晴に手渡す。

透子は当然ながら美晴のことを心配している。就職も恋愛も無理。自分が美晴を守らなかったら誰が美晴を守ってくれるのか。しかしそれが過保護になっていたことにある日気付く。凛の指摘もあった。透子は美晴のオノマトペの世界の豊穣さにも目を見張らされるようになる。

傘は守りの象徴だが、守られてばかりでは自由がなくなる。骨だけの傘は自由への第一歩の象徴でもあったのだと思われる。

ラストは善次と透子によるモノローグと、美晴の象徴的なシーン。モノローグのシーンにはリアリティはなく、少し恥ずかしい感じもするのだが、これぐらい語らないと伝わらないということでもある。メッセージを伝えることはリアリティよりも重要である。伝わらないくらいならリアリティを無視するのも手だと思われる。

夫に先立たれた妻と聴覚過敏を持つ自閉症の娘。息子を若くして亡くした父親というシリアスな設定なのだが、大声で笑える場面も用意されており、「良作」という印象を受ける。俳優陣も優秀。自閉症は圧倒的に男子に多く、女子は少ないのだが、日髙麻鈴は、実際の自閉症の女子に接して、役作りに励んだものと思われる。良い演技だ。

田舎に突如として美女が現れ、男達の心にさざ波を起こすという展開に、竹中直人監督の映画「119」を思い出した。「119」の鈴木京香は当時25歳で大学院生の役であったが、田中美里は今年48歳で透子も同世代と思われ、若くはない。それでもやはり男は美人に弱い。

ノスタルジックな余市の風景、美しいブドウ畑など映像面でも魅力的であり、多くの人に推せる作品となっている。

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2025年2月 5日 (水)

これまでに観た映画より(374) 「港に灯がともる」

2025年1月27日 京都シネマにて

京都シネマで、日本映画「港に灯がともる」を観る。NHK大阪放送局(JOBK)の安達もじり監督(鷲田清一の娘。BK制作の連続テレビ小説「カムカムエヴリバティ」チーフ演出)作品。
作品によって体重や体型を変えて挑むことで、「日本の女デ・ニーロ」と呼ばれることもある富田望生(みう)の映画初主演作である。富田望生はBK制作の連続テレビ小説「ブギウギ」に、ヒロインである福来スズ子(趣里)の付き人、小林小夜役で出演。この時はふっくらした体型と顔であったが、撮影が終わってから体重を落とし、「ブギウギ」が終盤に差し掛かった頃に「あさイチ」に出演。見た目がまるっきり変わっていたため誰だか分からない視聴者が続出し、話題となっている。今回の映画ではスッキリとしたスタイルで出演。出演は、富田望生のほかに、伊藤万理華、青木柚(ゆず)、山之内すず、中川わさ美(わさび)、MC NAM、田中健太郎、土村芳(つちむら・かほ)、渡辺真起子、山中崇、麻生祐未、甲本雅裕ほか。脚本:安達もじり&川島天見。音楽担当は引っ越し魔の作曲家としても知られる世武裕子(せぶ・ひろこ)。

 

富田望生は、2000年、福島県いわき市の生まれ。2011年の東日本大震災で被災し、家族で東京に移住。「テレビに出れば、福島の友達が自分を見てくれるかも」との思いから女優を志し、オーディションに合格。ただその時は太めの体型の女の子の役だったので、母親の協力を得てたっぷり食べて体重を増やし、撮影に臨んだ。その後も体重や体型を変えながら女優を続けている。痩せやすい体質だそうで、体重を増やす方難しいそうである。多くの人が羨ましがりそうだが。
初舞台は長塚圭史演出の「ハングマン」で、この時は太めの体型の役。太めの体型をいじられて不登校になっている女の子の役だったはずである。私はロームシアター京都サウスホールでこの作品を観ている。
「港に灯がともる」では、主題歌「ちょっと話を聞いて」の作詞も行っている。

 

海の見える診察室。神戸市垂水区。金子灯(かねこ・あかり。通名で、本名は金灯。演じるのは富田望生)は、精神科医である富川和泉(渡辺真起子)に、「自分には何もない、なりたいものもない」と泣きながら告げている。
灯は、神戸在住の在日韓国人であり、韓国籍であるが、自分のことを韓国人だと思ったことはない。また生まれたのは、阪神・淡路大震災の起きた翌月(1995年2月)であり、当然ながら震災の記憶はない。そのため、在日韓国人や神戸出身であることを背負わされるのに倦んでいる。時は、2015年。灯は、ノエビアスタジアム神戸(御崎公園球技場)で行われた成人式に出席する。式では震災に負けない心を歌詞にした歌が流れた。
その2年前に神戸中央工業高校(架空の高校である)を卒業した灯は、技能を生かすため、造船工場に就職。社員寮で一人暮らしを始める。しかし、この頃に両親が長年の不仲を経て別居。また姉の美悠(伊藤万理華)が、日本に帰化したいと言い始める。日本人と結婚すると国際結婚になるため、韓国側と書類等、様々な手続きを行わなければならない。両親は在日韓国人同士の結婚だが、自分はそれは嫌である。父親の一雄(甲本雅裕)は出て行ったので、母親の栄美子(麻生祐未)と美悠と灯、そして弟の滉一(青木柚)の三人で帰化を申し出ることにする。この頃から灯は感情の起伏が激しくなり、精神科に通うことになる。最初に訪れた精神科は薬の増減を調節するだけであり、病状は良くならず、灯は工場を辞めることになる。その後、垂水区にある精神科のクリニックを紹介された灯。冒頭にも登場するその病院は、話を聞いてくれる女医さんが院長で、灯には合い、更にクリニックが行っているデイケアにも通うようになる。そこに通う患者の中に在日韓国人の男性がいた。偏見やらなんやらでうんざりしているらしい。

病状も快方に向かったので、再就職活動を始める灯。しかし、ブランクがある上に履歴書に「療養のため」と正直に書いたこともあって不採用の嵐。だが、療養のことを理由に落とす会社は採用されても理解が得られないということで、何も変えずに就職活動を続ける。そして、南京町の近くにある小さな建設事務所に就職が決まる。所長の青山(山中崇)と同じ工業高校の出身だったこともプラスとなったようだ。しかし、小さな事務所。大手事務所のような華やかな仕事は回ってこない。長田区にある丸五市場のリフォームを手掛けることになった灯達。外国人居住者の多い場所であり、灯の家族も震災に遭うまではこの近くに住んでいて、その後も今の家に移るまでは長田区内の仮設住宅に住んでいた。仕事は思うように進まないが、ようやく軌道に乗り始めた頃にコロナが襲い、計画は中断せざるを得なくなる……。

阪神・淡路大震災を意識した映画であり、発生から30年に当たる1月17日に封切られている。ただ震災を直接描くことはなく、むしろ災害や国籍などを背負わされることの息苦しさが描かれている。
無論、灯に記憶がないからといって、震災の影響を全く受けていないということはなく、父親の一雄が帰化を拒む理由となったのも震災であり、灯が両親と祖母と姉とで元々住んでいた長田区ではなく別の場所で住むようになった(現住所は一瞬だけ映るが確認出来なかった)のも震災がきっかけであり、今の人間関係も震災を経て生まれたものである。
ただ結論としては、灯が記したように「私は私として生まれてしまった。」ということで、過去に縛られずに今ここにいる自分を生きていくことに決めるのだった。この思いは、富田望生の手による主題歌の歌詞のラストにも登場する。

富田望生は、繊細な動きによる演技が特徴。間の取り方も上手い。美人タイプではないが、親しみの持てる容姿であり、今後も長く活躍していけそうである。

安達もじり監督がNHKの人ということもあって、ワンカットの長回しによるシーンが随所に登場する。見る者に「リアルタイム」を感じさせる手法である。演者によって好き嫌いが分かれそうだが、感情を途切れさせずに演じることが出来るため、没入型の演技を好む人には向いていそうである。また、ずっと演じていられるため、映像よりも舞台で演じることが好きな人は喜ぶであろう。

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