カテゴリー「映画リバイバル上映」の10件の記事

2024年5月28日 (火)

これまでに観た映画より(335) 黒澤明監督作品「蜘蛛巣城」

2022年11月29日 京都シネマにて

京都シネマで、黒澤明監督作品「蜘蛛巣城」を観る。4Kリマスター版での上映だが、京都シネマは基本的に2K対応なので4Kで上映されたのかどうかは不明である。
1957年の作品ということで、制作から60年以上が経過しているが、今もなお黒澤明の代表作の一つとして名高い。シェイクスピアの「マクベス」の翻案であり、舞台が戦国時代の日本に置き換えられた他は、基本的に原作にストーリーに忠実である。ただ、有名シーンを含め、黒澤明の発想力が存分に発揮された作品となっている。
脚本:小國英雄、菊島隆三、橋本忍、黒澤明。出演:三船敏郎、山田五十鈴、千秋実、志村喬、佐々木孝丸、浪花千栄子ほか。音楽:佐藤勝。

マクベスは三人の魔女にたぶらかされて主君を殺害するが、「蜘蛛巣城」の主人公である鷲津武時(三船敏郎)は、物の怪の老女(浪花千栄子)の発言と妻の浅茅(山田五十鈴)の煽動により、主君で蜘蛛巣城主である都築国春(佐々木孝丸)を暗殺することになる。

魔女や物の怪が唆したからマクベスや鷲津は主君を討つことにしたのか、あるいは唆す者の登場も含めて運命であり、人間は運命の前に無力なのか。これは卵が先か鶏が先かの思考に陥りそうになるが、いずれにせよ人間は弱く、その意思は脆弱だということに間違いはない。人一人の存在など、当の本人が思っているほどには強くも重くもないのだ。

冒頭、土煙の中「蜘蛛巣城趾」の碑が立っているのが見え、栄華を誇ったと思われる蜘蛛巣城が今は碑だけの廃墟になっていることが示されるのだが、そうした砂塵が晴れると蜘蛛巣城の城門や櫓などが見え、時代が一気に遡ったことが分かる。
ラストも蜘蛛巣城が砂埃に包まれて消え、「蜘蛛巣城趾」の碑が現れる。「遠い昔あるところに」といった「スター・ウォーズ」の冒頭のような文章や「兵どもが夢の跡」といった語りが入りそうなところを映像のみで示しており、ここに黒澤明の優れた着想力が示されている。

鷲津が弓矢で射られるシーンは、成城大学弓道部の協力を得て本物の矢が射られている。メイキングの写真を見たことがあるが、思ったよりも三船の体に近いところを射ており、黒澤の大胆さを窺うことが出来る。

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2024年4月25日 (木)

これまでに観た映画より(329) ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師「ZOO」

2024年4月1日 京都シネマにて

京都シネマで、ピーター・グリーナウェイ監督作品「ZOO」を観る。独特の映像美を特徴とするピーター・グリーナウェイの代表作4作を上映する「ピーター・グリーナウェイ レトロスペクティヴ 美を患った魔術師」の1本として上映されるもの。出演:アンドレア・フェレオル、ブライアン・ディーコン、エリック・ディーコン、フランシス・バーバー、ジェラード・トゥールン、ジョス・アクランドほか。音楽:マイケル・ナイマン。

動物園で動物学者として働くオズワルド(ブリアン・ディーコン)とオリヴァー(エリック・ディーコン)の双子の兄弟は、交通事故で共に妻を亡くす。事故を起こした車を運転していたアルバ(アンドレア・フェレオル)は一命を取り留めるが、右足を付け根から切断することになる。アルバとオズワルド、オリヴァーは次第に接近していくのだが、双子の兄弟は腐敗する動物の死骸に興味を持つようになる。

全裸のシーンが多いため、日本でのロードショー時にはかなりの部分がカットされたというが、現在はカットなしで上映されている。
シンメトリーの構図が多用されているのが特徴で、フェルメールの話が出てくるなど、グリーナウェイ監督が元々は画家志望だったことが窺える要素がちりばめられている。絵画的な映画と呼んでもいいだろう。

動物の死骸が腐敗していく様子を早回しで映すシーンで流れるマイケル・ナイマンの曲は、映画のために書かれたものではなく、先に「子どもの遊び」として作曲されていた曲の転用である。

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2024年4月 5日 (金)

これまでに観た映画より(328) 「ラストエンペラー」4Kレストア

2024年3月28日 アップリンク京都にて

イタリア、中国、イギリス、フランス、アメリカ合作映画「ラストエンペラー」を観る。4Kレストアでの上映である。監督はイタリアの巨匠、ベルナルド・ベルトルッチ。中国・清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(宣統帝)の生涯を描いた作品である。プロデューサーは「戦場のメリークリスマス」のジェレミー・トーマス。出演:ジョン・ローン、ジョアン・チェン、ピーター・オトゥール、英若誠、ヴィクター・ウォン、ヴィヴィアン・ウー、マギー・ハン、イェード・ゴー、ファン・グァン、高松英郎、立花ハジメ、ウー・タオ、池田史比古、生田朗、坂本龍一ほか。音楽:坂本龍一、デヴィッド・バーン、コン・スー(蘇聡、スー・ツォン)。音楽担当の3人はアカデミー賞で作曲賞を受賞。坂本龍一は日本人として初のアカデミー作曲賞受賞者となった。作曲賞以外にも、作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣装デザイン賞、美術賞も含めたアカデミー賞9冠に輝く歴史的名作である。

清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(成人後の溥儀をジョン・ローンが演じている)。弟の愛新覚羅溥傑は華族の嵯峨浩と結婚(政略結婚である)して千葉市の稲毛に住むなど、日本にゆかりのある人で、溥儀も日本の味噌汁を好んだという。幼くして即位した溥儀であるが、辛亥革命によって清朝が倒れ、皇帝の身分を失い、その上で紫禁城から出られない生活を送る。北京市内では北京大学の学生が、大隈重信内閣の「対華21カ条の要求」に反対し、デモを行う。そんな喧噪の巷を知りたがる溥儀であるが、門扉は固く閉ざされ紫禁城から出ることは許されない。

スコットランド出身のレジナルド・フレミング・ジョンストン(ピーター・オトゥール)が家庭教師として赴任。溥儀の視力が悪いことに気づいたジョンストンは、医師に診察させ、溥儀は眼鏡を掛けることになる。ジョンストンは溥儀に自転車を与え、溥儀はこれを愛用するようになった。ジョンストンはイギリスに帰った後、ロンドン大学の教授となり、『紫禁城の黄昏』を著す。『紫禁城の黄昏』は岩波文庫から抜粋版が出ていて私も読んでいる。完全版も発売されたことがあるが、こちらは未読である。

その後、北京政変によって紫禁城を追われた溥儀とその家族は日本公使館に駆け込み、港町・天津の日本租界で暮らすようになる。日本は満州への侵略を進めており、やがて「五族協和」「王道楽土」をスローガンとする満州国が成立。首都は新京(長春)に置かれる。満州族出身の溥儀は執政、後に皇帝として即位することになる。だが満州国は日本の傀儡国家であり、皇帝には何の権力もなかった。

満州国を影で操っていたのが、大杉栄と伊藤野枝を扼殺した甘粕事件で知られる甘粕正彦(坂本龍一が演じている。史実とは異なり右手のない隻腕の人物として登場する)で、当時は満映こと満州映画協会の理事長であった。この映画でも甘粕が撮影を行う場面があるが、どちらかというと映画人としてよりも政治家として描かれている印象を受ける。野望に満ち、ダーティーなインテリ風のキャラが坂本に合っているが、元々坂本龍一は俳優としてのオファーを受けて「ラストエンペラー」に参加しており、音楽を頼まれるかどうかは撮影が終わるまで分からなかったようである。ベルトルッチから作曲を頼まれた時には時間が余りなく、中国音楽の知識もなかったため、中国音楽のCDセットなどを買って勉強し、寝る間もなく作曲作業に追われたという。なお、民族楽器の音楽の作曲を担当したコン・スーであるが、彼は専ら西洋のクラシック音楽を学んだ作曲家で、中国の古典音楽の知識は全くなかったそうである。ベルトルッチ監督の見込み違いだったのだが、ベルトルッチ監督の命で必死に学んで民族音楽風の曲を書き上げている。
オープニングテーマなど明るめの音楽を手掛けているのがデヴィッド・バーンである。影がなくリズミカルなのが特徴である。

ロードショー時に日本ではカットされていた部分も今回は上映されている。日本がアヘンの栽培を促進したというもので、衝撃が大きいとしてカットされていたものである。

後に坂本龍一と、「シェルタリング・スカイ」、「リトル・ブッダ」の3部作を制作することになるベルトルッチ。坂本によるとベルトルッチは、自身が音楽監督だと思っているような人だそうで、何度もダメ出しがあり、特に「リトル・ブッダ」ではダメを出すごとに音楽がカンツォーネっぽくなっていったそうで、元々「リトル・ブッダ」のために書いてボツになった音楽を「スウィート・リベンジ」としてリリースしていたりするのだが、「ラストエンペラー」ではそれほど音楽には口出ししていないようである。父親が詩人だというベルトルッチ。この「ラストエンペラー」でも詩情に満ちた映像美と、人海戦術を巧みに使った演出でスケールの大きな作品に仕上げている。溥儀が大勢の人に追いかけられる場面が何度も出てくるのだが、これは彼が背負った運命の大きさを表しているのだと思われる。


坂本龍一の音楽であるが、哀切でシリアスなものが多い。テレビ用宣伝映像でも用いられた「オープン・ザ・ドア」には威厳と迫力があり、哀感に満ちた「アーモのテーマ」は何度も繰り返し登場して、特に別れのシーンを彩る。坂本の自信作である「Rain(I Want to Divorce)」は、寄せては返す波のような疾走感と痛切さを伴い、坂本の代表曲と呼ぶに相応しい出来となっている。
即位を祝うパーティーの席で奏でられる「満州国ワルツ」はオリジナル・サウンドトラック盤には入っていないが、大友直人指揮東京交響楽団による第1回の「Playing the Orchestra」で演奏されており、ライブ録音が行われてCDで発売されていた(現在も入手可能かどうかは不明)。
小澤征爾やヘルベルト・フォン・カラヤンから絶賛されていた姜建華の二胡をソロに迎えたオリエンタルなメインテーマは、壮大で奥深く、華麗且つ悲哀を湛えたドラマティックな楽曲であり、映画音楽史上に残る傑作である。

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2024年4月 1日 (月)

これまでに観た映画より(326) 公開30周年「ピアノ・レッスン」4Kデジタルリマスター(2K上映)

2024年3月25日 京都シネマにて

京都シネマで、フランス、ニュージーランド、オーストラリア合作映画「ピアノ・レッスン(原題「The Piano」)」公開30周年4Kデジタルリマスターを観る(京都シネマでは2Kでの上映)。ニュージーランド生まれでオーストラリア育ちのジェーン・カンピオン監督作品。出演:ホリー・ハンター、ハーヴェイ・カイテル、サム・ニール、アンナ・パキンほか。音楽:マイケル・ナイマン。

第46回カンヌ映画祭でパルム・ドールに輝いたほか、米アカデミー賞では、アンナ・パキンが史上2番目の若さとなる11歳で助演女優賞の栄誉に輝いたことでも話題となった(ホリー・ハンターが主演女優賞を獲得した他、ジェーン・カンピオン監督も脚本賞も受賞している)。
ピーター・グリーナウェイ監督とのコンビで名を上げたマイケル・ナイマンが従来の「ミニマルミュージックの鬼」ともいうべき作風からロマンティックなものへと転換するきっかけとなった作品でもある。セルジュ・チェリビダッケの下で黄金時代を築いていたミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏を手掛けた音楽は評判となり、サウンドトラックは大ヒットした。オリジナル・サウンドトラックは私も購入したが、テーマ曲的存在のピアノ曲「楽しみの希う心」のミニスコアが入っていた。
この音楽に関して、公開当時、浅田彰と坂本龍一が対談で語っているのだが、二人して散々にこき下ろしているのが印象的だった。また映画本編に関してはシナリオライターの石堂淑朗が今では考えられない性差別発言を「音楽現代」誌に載せていた。それが30年前である。

主舞台となるのは、まだ荒廃した土地であった19世紀のニュージーランドである。原住民のマオリ族の人々も多く登場する。
決められた結婚によりスコットランドからニュージーランドへと渡ったエイダ(ホリー・ハンター)。彼女には一人娘のフローラ(アンナ・パキン)がいる。エイダは6歳の時に話すのをやめ、会話は手話や文筆で行うようになる。当時、意識されていたのかどうかは分からないが、症状としては全緘黙(言語が分かり会話能力もあるのに全く話せなくなってしまう症状。21世紀に入ってから場面緘黙と共に広く知られることになる)に似ている。話せない代わりにエイダにはピアノの腕があり、ピアノを演奏することで言語表現の不自由感を補ってきた。エイダはニュージーランドに渡る時もボックス型のピアノを運んでいくが、新しい夫のスチュアート(サム・ニール)が家まで運ぶのが面倒と判断し、エイダの分身であるピアノは浜に置き去りにされる。ピアノはスチュアートの家の近くに住む、マオリ族の入れ墨を顔に入れたベインズ(ハーヴェイ・カイテル)が、スチュアートに川の向こうの土地との交換を提案して手に入れる。エイダはピアノのレッスンのためにベインズの家に通うことになるのだが、ベインズは自分では弾こうとせず、エイダの演奏を聴く。ベインズの要求は次第にエスカレートしたものになっていくが、エイダの心もベインズへと移っていく。

他人が決めた結婚に従わざるを得なかった時代に、自由を求める女性の話である。
スチュアートはエイダの分身ともいうべきピアノを浜に置き去りにする。普段は優しげな男であるが、そうした態度からも男尊女卑の考えの持ち主であることが分かる。またスチュアートはエイダとベインズの関係を知ると、家の窓に板を張り付け、外側からかんぬきを掛けてエイダを幽閉してしまう。女性が置かれた窮屈な環境を作り出す人物でもある。一方、ベインズは粗野で強引だが、ピアノには理解を示す。エイダが求めたのはスチュアートではなくベインズの方だった。
マオリ族の男達が漕ぐカヌーでニュージーランドを去るエイダとベインズ。カヌーにはピアノも載せられるが、エイダは途中でピアノを海へと捨てるように要求する。これまでの自分との決別だった。その後に再生を経たエイダは自立した女性として別のピアノに向かう。象徴的なシーンである。

一言もセリフを発しないという難役に挑んだホリー・ハンター。彼女自身が脚本に惚れ込み、ピアノが弾けるということをアピールして売り込んだそうだが、キリリとした表情で気高さを示し、男の所有物になることを拒否する女性を演じる。ナイマンのピアノ曲を演奏するほか、日本では「太田胃散」のCM曲として知られるショパンの前奏曲第7番を弾く場面もある。

旧世代を代表する人物であるスチュアートを演ずるサム・ニールは同時期にスピルバーグの「ジュラシック・パーク」に主演している。彼もまたニュージーランド人である。

出演当時9歳だったアンナ・パキンもアカデミー賞を受賞しているだけに達者な演技を示している。

ベインズを演じるハーヴェイ・カイテル。彼はこの映画で長髪にしているのだが、それを見た故宮沢章夫が、「俺も長髪にしなきゃ」と一時期髪を伸ばしていた。私が初めて出会った時の宮沢章夫は長髪だった。この話は宮沢本人から直接聞いたものである。

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2022年9月 6日 (火)

これまでに観た映画より(309) ウォン・カーウァイ4K「花様年華」

2022年9月1日

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「花様年華」を観る。2000年の作品。脚本・監督・製作:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影:クリストファー・ドイル(杜可風)&リー・ピンピン。挿入曲「夢二のテーマ」の作曲は梅林茂(沢田研二主演、鈴木清順監督の映画「夢二」より)。出演:トニー・レオン、マギー・チャン、レベッカ・パン、ライ・チン、声の出演:ポーリン・スン&ロイ・チョン。全編に渡って広東語が用いられている。

1962年から1966年までの香港と、シンガポール、カンボジアのアンコールワットなどを舞台に繰り広げられる抑制の効いた官能的な作品である。私は、ロードショー時には目にしていないが、一昨年にアップリンク京都で上映されたものを観ている。その時に書いた感想、更にはそれ以前にDVDで観た時の感想も残って、新たに付け加えることはないかも知れないが、一応、書いておく。

1962年。新聞記者のチャウ・モーワン(トニー・レオン)は、借りようとしていた部屋を先に借りた人がいることを知る。社長秘書を務める既婚のスエン夫人(マギー・チャン)である。しかし、その隣の部屋も空いたというので、その部屋を確保するチャウ。二人は同じ日に引っ越すことになる。屋台に向かう途中で、二人はすれ違うようになり、惹かれていく。だが二人とも既婚者であり、「一線を越えない」ことを誓っていた。一方で、チャウの妻とスエンの夫が不倫関係になっていたが判明する(チャウの妻とスエンの夫は後ろ向きだったりするなどして顔は見えない)……。

シンガポールに渡ったチャウ。チャウはスエンに、「一緒に行ってくれないか」と、「2046」における木村拓哉のようなセリフを話す。

ちなみにチャウが宿泊して、スエン夫人と共に執筆の仕事をしている香港ホテルの部屋のナンバーは「2046」で、この時にすでに「2046」の構想が練られていたのだと思われる。

共に結婚していたが、チャウはシンガポールに渡る際に奥さんと別れたようであり、またスエン夫人が、シンガポールのチャウの部屋に勝手に上がり込む(ウォン・カーウァイ作品のトレードマークのように頻用される場面である)際に、手がクローズアップされるのだが、薬指に指輪がない。ということでシンガポールに来る前にスエン夫人は旦那と別れた可能性が高く、その際に情事があったのだと思われる(映像には何も映っていないがそう考えるのが適当である)。

こうした、本来なら明示することを隠すことで、匂い立つような色香が全編に渡って漂うことになった。けだし名作である。

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2022年9月 4日 (日)

これまでに観た映画より(308) ウォン・カーウァイ4K「2046」

2022年8月30日 京都シネマにて

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「2046」を観る。2004年に公開された映画で、日本では木村拓哉が出演したことで話題になった。それ以外にも香港のトップシンガーであったフェイ・ウォンが「恋する惑星」に続いてウォン・カーウァイ作品に出演し、「恋する惑星」同様にトニー・レオンと共演している。更には80年代の中国のトップ映画女優で、日本では「中国の山口百恵」とも呼ばれて人気であったコン・リーと、90年代以降の中国のトップ女優となったチャン・ツィイーが、共演のシーンこそないものの、同じ映画に出ているという、かなり豪華なキャスティングである。脚本・監督:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影監督:クリストファー・ドイル(杜可風)。出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー(巩俐)、フェイ・ウォン(王菲)、チャン・ツィイー(章子怡)、カリーナ・ラウ、チャン・チェンほか。特別出演:マギー・チャン。音楽:ペール・ラーベン&梅林茂。

セリフは、トニー・レオンが広東語、コン・リーとチャン・ツィイーが北京語、北京出身で香港で活躍していたフェイ・ウォンが北京語と広東語、更には日本語(フェイ・ウォンは日本の連続テレビドラマに主演したことがある)、木村拓哉が日本語である。

ウォン・カーウァイ監督は、「2046という数字に大した意味はない」とも発言していたように記憶しているが、2046年は、香港の一国二制度(一国両制)が終わる年である。それを裏付けるように、木村拓哉が冒頭と中盤で「997」という、香港返還の1997年に掛かる数をカウントしている。2016年に行われたウォン・カーウァイ監督へのインタビューでは、この一国二制度のことが語られているようだ。

舞台は、1966年から1969年までの香港のクリスマス期間と、2046という未来の場所である。そして2046はトニー・レオン演じるチャウ・モーワンが住もうとしたアパートメントの番号であり、同時にチャウが書いている小説のタイトルでもある。二つの世界を行き来するということで、私は、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を連想したのだが、ウォン監督のイメージでは、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が念頭にあり、その他に太宰治の『斜陽』などからも着想を得たそうだ。

以前にDVDを観て書いた感想があり、大筋での感想はそれとは大差ないのだが、「花様年華」ではラブシーンが一切ないのに比べ(撮影はされたようだがカットされた)、続編とも考えられるこの映画ではかなり積極的にセクシャルなシーンが用いられているというのが最大の違いであると思われる。その点において、この映画が「花様年華」の完全な続編ではないということが見て取れ、「花様年華」の異様さといってはなんだが、特異性がより際立って見えることになる。

2046は香港の一国二制度が終わる年であることは先に書いたが、そうした「境」を越える者と越えられない者の対比が描かれていると見ることも出来る。フェイ・ウォン演じるワン・ジンウェンは、木村拓哉演じる日本人のタク(本名は不明)と恋仲であり、いつか日本に行くために日本語の練習をしている。実際にこの二人は国境という具体的な境を越えて日本へと向かうことになる。
一方で、境を越えられず、かつての恋人であるスー・リーチェン(マギー・チャン)との思い出から離れようと複数の女性と関係を持ちながら抜け出せない、変われない男の姿をチャウ・モーワンに見いだすことになる。この作品にも「天使の涙」のような二項対立の構図を見出すことが出来る。

 

現実の時の流れはフィクションよりも速い。今や一国二制度は形骸化しつつあり、中国本土と香港の対立は前例を見ないほど激しいものになりつつある。私の思い描いた「2046」の香港のイメージはあくまでイメージに過ぎないのだと思い知らされるのは、想像よりも遥かに早かった。

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2022年9月 3日 (土)

これまでに観た映画より(307) ウォン・カーウァイ4K「天使の涙」

2022年8月29日 京都シネマにて

京都シネマで、ウォン・カーウァイ4K「天使の涙」を観る。ウォン・カーウァイ作品の4Kレストアの上映であるが、京都シネマでは2Kで上映される。

「天使の涙(原題:堕落天使)」は、日本では1996年にロードショーとなった作品で、私は渋谷のスペイン坂上にあったシネマライズという映画館で3度観ている。元々は、「恋する惑星(原題:重慶森林)」の第3部となるはずだった殺し屋の話が基である。「恋する惑星」は、金城武とブリジット・リン、フェイ・ウォンとトニー・レオンという2組のカップルのオムニバスで、この2つの話で映画1本分の長さとなったため、レオン・ライとミシェル・リーによる殺し屋とそのエージェントの話を独立させ、金城武演じる「5歳の時に賞味期限の切れたパイナップルを食べたのが原因で」口の利けなくなったお尋ね者の話を加えて新たな映画としたのが「天使の涙」である。そのため、「恋する惑星」と同じ要素が劇中にいくつか登場する。

監督・脚本:ウォン・カーウァイ(王家衛)、撮影監督:クリストファー・ドイル(杜可風)。出演:レオン・ライ、ミシェル・リー、金城武、チャーリー・ヤン、カレン・モク、チャン・マンルイ、チャン・ファイフン、斎藤徹ほか。

「恋する惑星」は、村上春樹の小説『ノルウェイの森』に影響を受けた映画で、原題の「重慶森林」は、香港で最も治安が悪いとされた「重慶(チョンキン)マンションの森」という意味であり、『ノルウェイの森』へのオマージュとしてタイトル以外にも、台詞回しなどを真似ている。実際、90年代半ばには村上春樹の小説の登場人物のような話し方をする若者が香港に現れており、「ハルキ族」と呼ばれていた。

「天使の涙」でも、台詞回しやナレーションは村上春樹風のものが採用されている。言語は基本的に広東語ベースだが、金城武のナレーションだけは北京語が用いられており、また斎藤徹によって日本語が話される場面がある。

「恋する惑星」が、『ノルウェイの森』のポップな面を掬い取ったのだとすると、「天使の涙」はよりシリアスな「孤独」というテーマをモチーフにしている。主要登場人物達は皆、怖ろしいほどに孤独である。

殺し屋の男とそのエージェントの女の話。殺し屋(レオン・ライ)は、「依頼を受けるだけでいい」というそれだけの理由で殺し屋を選んだ。本来は、殺し屋とそのエージェント(ミシェル・リー)が会うのは御法度のようなのであるが、二人は会っている。最初に会った日の場面がファーストカットなのだが、エージェントを演じるミシェル・リーが手にした煙草が震えている。そして二人の会話は全く弾まないどころか、ほとんど何も語られない。殺し屋の方は生まれつき無口な性格のようだが、エージェントの女は極度に社会性を欠いており、気のある男の前だと何も話せなくなってしまうようだ。そうした性格ゆえ、人と余り接しなくてすむ殺し屋のエージェントを職業として選んだようである。「恋する惑星」のフェイ・ウォン演じる女性が、トニー・レオン演じる警官のアパートに勝手に忍び込んで模様替えをしてしまうという設定は比較的知られているが、「天使の涙」でもミシェル・リー演じるエージェントの女は、レオン・ライ演じる殺し屋のアパート(ノルウェーならぬ、「第一フィンランド館(芬蘭館)」という名前である)に留守中に上がり込み、勝手に掃除し、ゴミを漁るという行動に出ている。ゴミの中から名前を見つけた殺し屋行きつけのバーに通い、自宅では殺し屋のことを思いながら自慰にふける(この自慰の場面は、映画史上においてかなり有名である)。だが、性格から勘案するに、エージェントの女が男性経験を有しているのかどうか微妙である。あの性格では男とベッドにたどり着くこと自体が困難なように思える。異性の誰とも真に心を通わすことの出来ない女である。

一方、殺し屋の方にも孤独な影を持つ女性が訪れる。カレン・モク演じるオレンジの髪の女で、マクドナルドで一人で食事をしていた殺し屋の隣の席に座ってきたのだ。ちなみにマクドナルドの店内には、殺し屋とオレンジの髪の女以外、誰もいなかった。
二人でオレンジの髪の女のアパートに向かうが、最終的には男女の関係にはならない。

「5歳の時に賞味期限切れのパイナップルを食べ過ぎて口が利けなくなった」男、モウ(何志武。演じるのは金城武)は、口が利けないので友達も出来ず、就職も不可能。というわけで、夜間に他の人が経営している店をこじ開けて勝手に商売をしている。この映画では金城武はセリフは一切用いない演技を求められ、内面の声がアフレコのナレーションで語られる。暴力に訴える野蛮な男だが、仕事中に、金髪アレンという女に裏切られたヤンという女(チャーリー・ヤン)と出会う。モウとヤンは、金髪アレンの家を二人で探し、その過程で互いに寄り添い合うようにもなるのだが、二人の間が一定以上に縮まることはない。

この映画の結末は二つに分かれる。永遠にすれ違うことになった者達と、一瞬ではあっても心を通い合わせることの出来た二人である。前者は余りにも切ないし、後者はたまらなく愛しい。生きることの悲しさと愛おしさの両方を感じさせてくれる映画であり、返還前の活気のある香港と、そこで生み出されたお洒落にして猥雑でパワフルで無国籍的且つ胸に染みるストーリーを味わうことの出来る一本である。

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これまでに観た映画より(180) 王家衛(ウォン・カーウァイ)監督作品「天使の涙(堕落天使)」

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2022年5月26日 (木)

これまでに観た映画より(296) 「勝手にしやがれ」4Kレストア版(2K上映)

2022年5月23日 京都シネマにて

京都シネマで、ジャン=リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」を観る。日本では特に沢田研二がこの映画にインスパイアされた曲をヒットさせたということもあるが、ゴダール監督作品の中でも最も有名な映画と見て間違いないだろう。長編第1作が著名にして今なお世界的評価を得ているというのも稀なことである。

出演:ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグほか。原案をフランソワ・トリュフォー、監修をクロード・シャブロルが務めている。

2007年にDVDで観ているが、映像特典では、ジョン=ポール・ベルモンドが、自身が行った即興の演技の解説を行っていた。
有名なラストシーンで、どこまで走るかはベルモンドに一任されており、ゲリラ撮影であったため、ベルモンドは、「これ以上走ると車に轢かれる」という寸前で倒れたことを明かしている。死ぬ前に自分の手でまぶたを閉じるという有名な仕草もベルモンドによる即興である。


ろくでなしのミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)の話。実話が基になっている。マルセイユで車を盗み、南仏で乗り回していたミシェル。警察のバイクに追いかけられ、逃げるが、エンストして追い込まれた時に警官を射殺してしまう。かくてミシェルはお尋ね者となった。
パリに戻ったミシェルは、知り合いの女性から金をくすねたり、トイレで手を洗っていた男性を襲って金を奪ったりと、相変わらずのろくでなし生活。最終的にはアメリカ人の恋人であるパトリシア(ジーン・セバーグ)の下に転がり込むことになる。パトリシアはジャーナリストを志している。そうしている間にも捜査は進み、ミシェルは指名手配され、新聞にも顔写真と名前が載るようになっていた。


多くの映画監督が言葉を武器とする批評家からスタートしたというヌーヴェルヴァーグの映画らしく、過度にエスプリをちりばめたセリフが特徴。いくらフランス人とはいえ(ジーン・セバーグはアメリカ人だが)、ここまで凝った言葉を喋る人はいないと思われ、リアリティを欠くのだが、いわゆるリアリティとは別のところで勝負しているところがヌーヴェルヴァーグ(新しい波)の特徴である。おそらくヌーヴェルヴァーグの作家達にとって、リアリティの重要度はそれほど高くはなかっただろう。

ジャン=リュック・ゴダールの作品は、私はそれほど好きではないが、「勝手にしやがれ」の完成度にはやはり感心させられる。

ちなみに、「勝手にしやがれ」制作時に、ジャン=リュック・ゴダールは28歳、ジャン=ポール・ベルモンドは26歳、ジーン・セバーグは二十歳である。みんな若い。


フランソワーズ・サガン原作の映画「悲しみよこんにちは」のセシル役で鮮烈なデビューを飾ったジーン・セバーグ。続けて出た「勝手にしやがれ」も好評だったが、実は彼女の出演作の中でヒットしたのは、この2作だけである。興行成績的にいうなら「悲しみよこんにちは」も成功とはいえないとされる。以降は女優としては低迷し、政治活動に力を入れるが、精神を病み、40歳の若さで自殺している。
ただ、「悲しみよこんにちは」で売れたということで、「勝手にしやがれ」のセリフの中に、サガンの『一年ののち』や『ブラームスはお好き』といった小説のタイトルがちりばめられている。だが、今日は残念ながら客席から笑いや反応は起こらなかった。天才少女作家の代名詞でもあったフランソワーズ・サガンも他界して久しく、小説も絶版が多く、今後は読まれない過去の作家となっていくのかも知れない。

とはいえジーン・セバーグもジャン=ポール・ベルモンドもとにかく魅力的である。セリフも映画のスタイルも自己中心的もしくは自己完結的であり、登場人物の間、そしてスクリーンと観客の間でもすれ違いが起こっていることは実感出来る。まさしく「勝手にしやがれ」状態だが、それが魅力になるというのが、この映画の強さである。車を盗んでは逃げ回っている男、そんな男についていく女、ろくでもない二人だが、そのろくでもなさの哀感が観る者を魅了する。「勝手にしやがれ」という邦題はベルモンドのセリフに由来するが、かなり上手い邦題だと思える。

3年前(2019年)に火災に遭ったノートルダム大聖堂、凱旋門、エッフェル塔、コンコルド広場など、舞台となっているパリの名所も多く登場し、パリの美しい街並みや風景も目にすることが出来るが、同時に例えばユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に描かれたような、もう一つのパリとその魅力が語られているような独特の妙味を持った映画と賞賛したい。

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2022年5月21日 (土)

これまでに観た映画より(294) 「気狂いピエロ」

2022年5月13日 京都シネマにて

京都シネマで、「気狂いピエロ」を観る。ジャン=リュック・ゴダール監督の代表作の一つ。出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナほか。
原作があるそうで、最近、邦訳が出たようだが、基本的に即興重視であり、バルザック、ランボー、ボードレール、プルーストといったフランスの詩人や小説家、またスコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』などのアメリカの文学作品のタイトルなどが衒学的にちりばめられている。ただ、実際にそれらの文学作品を読んでいれば分かりやすくなるかといえば、そんなことは全くない。

「気狂いピエロ」は、二十代の頃にビデオで観ているはずだが、内容は完全に忘れており、見返してみても、「こんな映画だったっけかな?」と尻尾をつかむことが出来ない状態であった。

アメリカンニューシネマに影響を与えた作品として知られており、実際、アメリカンニューシネマに通じるテイストや色彩感、雰囲気などを備えているが、やはり即興性が強いため、強引に感じる場面も多く、練りに練った脚本や当時流行っていた思想などで勝負するアメリカンニューシネマとは実は見た目は近いが最も遠い作品なのではないかという印象も受ける。

ストーリー自体は単純で、妻との関係に飽きた文学かぶれのフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は、5年ぶりに再会したマリアンヌ(アンナ・カリーナ)と恋仲になる。マリアンヌは、フェルディナンのことを「ピエロ」というあだ名で呼ぶが、フェルディナンはそのたびに「フェルディナンだ」と言い返し、「ピエロ」というあだ名を気に入っていない。マリアンヌの兄が右翼系の武器流通組織に関与していたということで、事件に巻き込まれた二人はパリから南仏へと逃げることになる。
これだけなのだが、フェルディナンが書き記しているやたらと詩的なメモ、唐突に切り替わってはぶつ切りにされる音楽、一貫性を欠いた(即興なので当然なのだが)場面設定、突然始まるミュージカルなど、ごった煮状態であり、ある意味、理解するのではなく状況をそのままに味わった方が楽しめる映画である。

アメリカンニューシネマに影響を与えたと書いたが、アメリカンニューシネマは「俺たちに明日はない」などの例外はあるが、基本的に男性が活躍する作品が多いため、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナは、アメリカンニューシネマのどのヒロインよりも魅力的と断言してもいいだろう。

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2022年5月 3日 (火)

これまでに観た映画より(292) マリア・カラス&パゾリーニ「王女メディア」

2022年4月15日 京都シネマにて

京都シネマで、ピエル・パオロ・パゾリーニ生誕100年記念上映「王女メディア」を観る。
「王女メディア(メデイア)」は、エウリピデスの代表的悲劇の一つ。衝撃的な内容故か、初演時の記録では評判が芳しくなかったようだが、その後は、同時上演されたギリシャ悲劇の中で最高の評価を得て、現在に至るまでギリシャ悲劇の名作として演じ続けられている。

主演は、「20世紀最高のプリマドンナ」として知られるマリア・カラス。しかし、マリア・カラスは難曲を得意としたことが災いして喉を痛め、全盛期は30代だった1950年代に終わりを迎え、最後のオペラ出演は1965年。この映画が撮影された1969年には、オペラより負担の軽いリサイタルを中心に活動していたが、往年の名声は取り戻せないでいた。1960年代には海運王と呼ばれたアリストテレス・オナシスと愛人関係にあったが、オナシスは再婚相手としてジャクリーン・ケネディを選び、カラスとの仲は破綻。まさに「王に袖にされた女」となったカラスが「王女メディア」への出演を決めたのはその直後だった。そしてこの映画の制作から8年後、パリで孤独死することになる。結果的に、「王女メディア」はマリア・カラス唯一の映画出演作となった。

映画監督のパゾリーニの最期はもっと悲惨である。
飛び級して大学に入学するほど頭脳明晰であったパゾリーニであるが、イタリア共産党の党員であり、「王女メディア」を撮影してから6年後の1975年に、ローマ近郊のオスティア海岸において惨殺死体となって発見される。未成年の少年が殺人容疑で逮捕されるが、今では共産党員であるパゾリーニを嫌うファシスト達の犯行であったことがほぼ明らかになっている。

そうした悲劇的な最期を迎えた二人がクロスしたのが、この「王女メディア」である。

ギリシャ悲劇ということでエウリピデスの原作は三一致の法則で書かれ、セリフも膨大なものであるが、この映画ではセリフを極力排し、異国情緒を出すためにトルコのカッパドキアで撮影が行われた。結果として、極めて耽美的であり、映像の美しさで勝負する「映像詩」と呼ぶべき作品になっているが、一方で、時間と場所、現実と妄想が次々に飛ぶ上にそれを表すセリフなどもないため、「王女メディア(メデイア)」を知らない場合、何が行われているのかさっぱり分からないということになる可能性も高い。私は王女メディアは読んでいるし、それを基にした演劇作品も観たことがあるのだが、「あれ? ひょっとしてここ20年ぐらい飛んでる?」となった場面もあった。

かつてはコルキスの王女でありながら、今はコリントスでイアソンの妻となり、イアソンの正妻の座をコリントスの王女に奪われた上に、追放の憂き目に遭うメディア。かつてオペラ歌手として世界一の座に君臨しながら、今は歌劇場に出ることも叶わず、往事の名声を失った上に恋にも敗れたマリア・カラスの姿がメディアに重なる。歌声は彼女の最大の武器なのだが、カラス本人の悲劇性を強調するためか、この映画でカラスが歌うことは一切ない。そうした無念さが、大きな瞳と、豊かな表情によって表現されている。映像詩ということで、「王女メディア」の中でも異色作だと思われる本作品だが、マリア・カラスのための映画といってもいいだろう。

映画は、ケンタウロスの賢者ケイローンが、イアソンの出自を語る場面から始まる。華麗な血筋を誇るイアソンであるが、イアソン役にキャスティングされたのは元陸上選手でもあるジュゼッペ・ジェンティーノ。ジゴロのような風貌で、身のこなしも野盗のようであり、好人物としては描かれておらず、メディアのイアソンに対する「子孫を絶つ」という復讐の正当性が描かれているようである。

また竪琴の音として、日本の箏の音色が採用されており、無国籍的な印象が混沌とした悪夢のような質感を生み出している。

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