2025年3月3日 イオンシネマ京都桂川にて
午後9時から、イオンシネマ京都桂川で、日本映画「奇麗な、悪」を観る。主演・出演:瀧内公美。瀧内公美のみが出演するという一人芝居映画である。原作:中村文則「火」。脚本・監督:奥山和由。音楽は加藤万里奈の吹く口笛のみで、それも流れている時間は比較的短い。上映時間78分の中編。後藤又兵衛の「真実」という絵画が象徴的に用いられている。企画協力:桃井かおり。
芸術性の高い映画ということで、京都で上映が行われているのは現在、イオンシネマ京都桂川とアップリンク京都だけ。それも午前中の上映とレイトショーのみである。土曜日に「オイディプス王」を観た帰りに観ようかと思ったのだが、その日は終映時間23時20分ということで終電に間に合わないため、今日に回した。
奥山和由が映画監督を務めるのは「RAMPO」以来、約30年ぶりとなる。
人が行き交う繁華街の坂道。人目を引く女性がこの坂を上ってくる。瀧内公美が演じるこの女性の名が明かされることはない。横浜の外国人墓地に沿った歩道に移り、女性は山手十番館へと入っていく。正確に書くとレストランである山手十番館は主に外観がロケ地となっているだけで、山手十番館に入ったという設定ではない。山手十番館がロケ地となっているのは、精神科のクリニックのようだが、施錠されている。そしてその後、残された書類で院長の急逝によりすでに閉院していることが分かる。カウンセリング診療所が併設されていたが、そこも閉じたようだ。内装は普通の洋館で、病院には見えないのだが、病院であった痕跡は残っている。元病院の内部はセットで撮影されていると思われる(山手十番館には入ったことはないが、写真などを見ると階段などは似ているので、休業日などに撮影した可能性もある。撮影は2日ほどと短期だったようだ)。公式発表では「舞台は横浜」となっている。
坂を上がるシーンでの瀧内公美を見て、「中国の山口百恵」ことコン・リー(巩俐)に似ているように思われたのだが、コン・リーは山口百恵に似ていても、瀧内公美は山口百恵には全く似ていないのが面白い。
字幕がいくつか出るが、「すべてを話してください。治療になりません。すべてをです」という字幕により、精神科でのカウンセリング(というよりも「暴露療法」だろうか)が行われることが分かる。瀧内公美が一人で語り続け、長回しの手法が取られるという演劇的映画だが、終盤に入るとカット割りが多くなり、瀧内の髪型がクルクル変わるなど、時間が飛んでいるか、時系列がシャッフリングされているか、あるいは現実と虚構が交錯しているかのどれかという展開になる。
瀧内公美が演じる女性は、「火」の話から始める。子どもの頃に家のカーテンに人つけて全焼させたことがあった。両親は亡くなった。「申し訳なく思っている」という女性だが、その後、その発言を撤回する。タイトルの「奇麗な、悪」とは、具体的にはカーテンから燃え広がった火のことだ。両親を亡くした女性は、施設に入り、中学を経て高校に入るが2年の時に中退。工場の事務員となった。その後、Rという色男と恋仲になった女性だが、Rは違法薬物の使用で逮捕される。女性も疑われるがシロであった。その後、ある男性の子を妊娠し、結婚することになる。生まれた子は女の子だった。これが21歳の時。女性は夫の両親と暮らすことになるが、夫が不倫していることを知り、ちょっとした復讐をしたということもあって別れてクラブを転々とするようになる。同僚は皆、女性より若く、輝かしく、クラブで働くには若くない女性は見下されたりもした。これが26歳の時。28歳の時にクラブ勤めを辞め、売春婦となる。その頃にTという「恐ろしい」男と出会って付き合うようになった。女性は「SMではない」と言うが、Tは明らかにサディスティックな傾向があり、女性を裸にして縛り上げ、写真を撮るという性的指向を持つ。同情したと思われる医師を女性はにやりと笑い、医師の考えが外れていることを示す(ここは瀧内公美のアドリブらしい)。一方、Sという男とも出会った。映画の冒頭に「Aに捧ぐ」との字幕が出て、このAが誰なのかは分からないが、これまで出てきたアルファベットを繋ぐと「ARTS」となる。
中学生になった娘が、女性にお金をせびりに来る。不良になった訳ではなく、中学生らしい額のお小遣いを貰いに来ていたのだ。女性の現在の正確な年齢は不明だが、21歳の時に生んだ子どもが現在中学生ということで、瀧内公美同様、三十代半ばと推測される。
しかしTが女性の娘に目をつけた。一方、女性はSと刃傷沙汰になり……。
瀧内公美の語りによってのみ物語が進行していく。女性には精神科医の姿が見えているようなのだが、当然ながら閉院した病院には誰もいない。精神科医とは面識があるので、今日初めてここに来たのではなく、何度か通院したことがあるようなのだが、どういった病状で精神科を受診したのかは定かではない。
最終的には、女性が話したことが全て嘘である可能性が示唆されるのだが、この映画が「ARTS」つまり芸術のための芸術であるということが同時に明かされているようでもある。
「わたしは、生きていても、いいでしょうか」という字幕が出るが、ラストシーンで冒頭と同じ坂を上る女性の顔は自信に満ちており、このまま生きていくことを決めたように見える。
語られるストーリーに目新しいものはないが、瀧内公美の比較的淡々とした語りにより、情景が見えるような展開となっている。瀧内演じる女性は口を余り開けずに話すが、ラストでは口を開いて話すことで声音が変わり、効果的であった。
奥山和由は、「RAMPO」でも同様の作風を示しており、良くも悪くも変わっていない。「RAMPO」は、奥山が松竹のプロデューサーだった時代に制作した、江戸川乱歩を主人公にした映画で、江戸川乱歩を竹中直人が、ヒロインを羽田美智子が演じているのだが、黛りんたろうが監督した映画の出来に奥山が納得せず、奥山自身が監督して約7割を取り直し、奥山バージョンと黛バージョンが同時に公開されるという事件になっている。ちなみに私はロードショー時に両方を観ている。奥山和由は、黛りんたろうが監督した「RAMPO」のラストが後ろ向きに見えたということで、自らのバージョンを作り上げたのだが、内容も大きく異なり、特に平幹二朗演じる大河原侯爵の性的指向が黛バージョンではM、奥山バージョンではSと真逆になっている。裸の女性を縛って写真を撮るというシーンは、奥山バージョンの「RAMPO」にもあったはずである。「奇麗な、悪」でも、明らかにSの傾向のある人物が登場しており(原作にも出てくるが)サディスティックな美学があるようだ。
瀧内公美のそこはかとなく漂う色気、狂気があるのかないのか微妙な佇まい、そしてラストの表情がとても良い。
語られたことが全て嘘の可能性があり、女性の正体は最後まで明かされないのだが、元女医、つまり精神科クリニックに勤務する医師だった可能性はゼロではないように思う。施錠されているのに入れる場所からあっさり中に入っているためだ。院長以外にも医師のいる精神科は珍しくない。
残された精神科医の手紙の手書きの文字も女性の筆跡に見えなくもない。「精神科医」という肩書きからは自然に男性を思い浮かべてしまいがちだが、女性の精神科医も当然ながら存在する(原作では精神科医が男性であることが分かるため、その可能性はない。ただ映画の脚本では医師が男性と分かる言葉は省かれている)。
もし、「すべてを話してください」と言われたとされるのが、元病院に入ってからなら、全くの嘘を創作出来るとは思えないが、字幕はその前に出ているため、事前に言われていた可能性があり、話を作り上げる余裕は時間的にも精神的にもあったことになる。仮に元医師なのだとしたら、これまでに接した患者の話をミックスすれば良い。
ただこれは女性の正体を探るための作品ではなく、女性がこのまま生きていく決意をするまでの過程を見つめることが重要な作品であるとも思う。

2025年3月7日 烏丸御池のアップリンク京都にて
アップリンク京都で、もう一度「奇麗な、悪」を観ることにする。一人語りなので内容を把握しづらいのだが、今回は初めて観た時とは違う印象を受けた。主人公の女(氏名、年齢、職業等不明。瀧内公美が演じている)の正体もまた違って見えてくる。彼女が「全部嘘ですよ」という言葉が示すのは、「これまで語ってきたことが全部嘘」という可能性と、それに続くセリフ「私は売春なんてしていません」に留まる可能性の二つがある。ちなみに原作では「全部嘘ですよ」が指すのは別の非人道的行為である。
今回は前回と違い、テーブルの上に置かれた手紙の文字が見えた(つまり出されてはいない手紙の文章ということ) のだが、「医者として許されぬ過ち」という文が見え、患者宛に出されるものだったらしいことが分かる。この患者というのが主人公の女のはずである。かなりもてる人だというのは、女の話の内容から分かるが、魔性の女役もこなす瀧内公美を起用しているのだからもてる女役なのは当たり前。そしてこの直後に精神科医は急逝している。死因は?
瀧内公美が演じる女は二度犯罪を行っている(殺人と傷害)が、いずれも捕まっていない。ということで、今度も本来なら捕まるようなことをしてまた逃げたのかも知れない。「この女、殺ったかもな」という気もする。となるとラストシーンも前回と全く同じ画なのに違って見えてくる。生きる決意をして朗らかになったのではなく不敵な表情。彼女自身が「奇麗な、悪」。なかなか面白い。
原作(台詞のみの小説である)では、彼女はもっと激しい性格で、台詞自体はそれほど変わっていないが、瀧内公美はかなり抑えて演じていることが分かる。
かなりの長台詞だが、瀧内公美は1年掛けて台詞を覚えたそうである。この作品は冒頭部分にはカット割りがあり(台詞なし)、台詞のある部分も終盤にはカット割りが出てくるのだが、核となる約1時間は一切止めずに長回しで撮っている。
セリフのある場面の撮影は1日で終わってしまったそうで、瀧内公美は、「あんなに苦労して覚えたのに」と泣いたことを明かしている。
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