カテゴリー「京都劇場」の8件の記事

2025年2月18日 (火)

観劇感想精選(484) リリックプロデュース公演 Musical「プラハの橋」

2025年2月10日 京都劇場にて

午後6時30分から、京都劇場で、リリックプロデュース公演 Musical「プラハの橋」を観る。歌手の竹島宏が「プラハの橋」(舞台はプラハ)、「一枚の切符」(舞台不明)、「サンタマリアの鐘」(舞台はフィレンツェ)という3枚のシングルで、2003年度の日本レコード大賞企画賞を受賞した「ヨーロッパ三部作」を元に書かれたオリジナルミュージカル公演である。作曲・編曲:宮川彬良、脚本・演出はオペラ演出家として知られる田尾下哲。作詞は安田佑子。竹島宏、庄野真代、宍戸開による三人芝居である。演奏:宮川知子(ピアノ)、森由利子(ヴァイオリン)、鈴木崇朗(バンドネオン)。なお、「ヨーロッパ三部作」の作曲は、全て幸耕平で、宮川彬良ではない。

パリ、プラハ、フィレンツェの3つの都市が舞台となっているが、いずれも京都市の姉妹都市である。全て姉妹都市なので京都でも公演を行うことになったのかどうかは不明。
客席には高齢の女性が目立つ。
チケットを手に入れたのは比較的最近で、宮川彬良のSNSで京都劇場で公演を行うとの告知があり、久しく京都劇場では観劇していないので、行くことに決めたのだが、それでもそれほど悪くはない席。アフタートークでリピーターについて聞く場面があったのだが、かなりの数の人がすでに観たことがあり、明日の公演も観に来るそうで、自分でチケットを買って観に来た人はそれほど多くないようである。京都の人は数えるほどで、北は北海道から南は鹿児島まで、日本中から京都におそらく観光も兼ねて観に来ているようである。対馬から来たという人もいたが、京都まで来るのはかなり大変だったはずである。

青い薔薇がテーマの一つになっている。現在は品種改良によって青い薔薇は存在するが、劇中の時代には青い薔薇はまだ存在しない(青い薔薇は2004年に誕生)。

アンディ(本名はアンドレア。竹島宏)はフリーのジャーナリスト兼写真家。ヨーロッパ中を駆け巡っているが、パリの出版社と契約を結んでおり、今はパリに滞在中。編集長のマルク(宍戸開)と久しぶりに出会ったアンディは、マルクに妻のローズ(庄野真代)を紹介される。アンディもローズもイタリアのフィレンツェ出身であることが分かり、しかも花や花言葉に詳しい(ローズはフィレンツェの花屋の娘である)ことから意気投合する。ちなみにアンディはフィレンツェのアルノ川沿いの出身で、ベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)を良く渡ったという話が出てくるが、プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」の名アリア“ねえ、私のお父さん”を意識しているのは確かである。
ローズのことが気になったアンディは、毎朝、ローズとマルクの家の前に花を一輪置いていくという、普通の男がやったら気味悪がられそうなことを行う。一方、ローズも夫のマルクが浮気をしていることを見抜いて、アンディに近づいていくのだった。チェイルリー公園で待ち合わせた二人は、駆け落ちを誓う。

1989年から1991年まで、共産圏が一斉に崩壊し、湾岸戦争が始まり、ユーゴスラビアが解体される激動の時代が舞台となっている。アンディは、湾岸戦争でクウェートを取材し、神経剤が不正使用されていること暴いてピューリッツァー賞の公益部門を受賞するのだが、続いて取材に出掛けたボスニア・ヘルツェゴビナで銃撃されて右手を負傷し、両目を神経ガスでやられる。

竹島宏であるが、主役に抜擢されているので歌は上手いはずなのだが、今日はなぜか冒頭から音程が揺らぎがち。他の俳優も間が悪かったり、噛んだりで、舞台に馴染んでいない印象を受ける。「乗り打ちなのかな?」と思ったが、公演終了後に、東京公演が終わってから1ヶ月ほど空きがあり、その間に全員別の仕事をしていて、ついこの間再び合わせたと明かされたので、ブランクにより舞台感覚が戻らなかったのだということが分かった。

台詞はほとんどが説明台詞。更に独り言による心情吐露も多いという開いた作りで、分かりやすくはあるのだが不自然であり、リアリティに欠けた会話で進んでいく。ただ客席の年齢層が高いことが予想され、抽象的にすると内容を分かって貰えないリスクが高まるため、敢えて過度に分かりやすくしたのかも知れない。演劇を楽しむにはある程度の抽象思考能力がいるが、普段から芝居に接していないとこれは養われない。風景やカット割りなどが説明的になる映像とは違うため、演劇を演劇として受け取る力が試される。
ただこれだけ説明的なのに、アンディとローズがなぜプラハに向かったのかは説明されない。一応、事前に「プラハの春」やビロード革命の話は出てくるのだが、関係があるのかどうか示されない。この辺は謎である。

竹島宏は、実は演技自体が初めてだそうだが、そんな印象は全く受けず、センスが良いことが分かる。王子風の振る舞いをして、庄野真代が笑いそうになる場面があるが、あれは演技ではなく本当に笑いそうになったのだと思われる。
宍戸開がテーブルクロス引きに挑戦して失敗。それでも拍手が起こったので、竹島宏が「なんで拍手が起こるんでしょ?」とアドリブを言う場面があった。アフタートークによると、これまでテーブルクロス引きに成功したことは、1回半しかないそうで(「半」がなんなのかは分からないが)、四角いテーブルならテーブルクロス引きは成功しやすいのだが、丸いテーブルを使っているので難しいという話をしていた。リハーサルでは四角いテーブルを使っていたので成功したが、本番は何故か丸いテーブルを使うことになったらしい。

最初のうちは今ひとつ乗れなかった三人の演技であるが、次第に高揚感が出てきて上がり調子になる。これもライブの醍醐味である。

宮川彬良の音楽であるが、三拍子のナンバーが多いのが特徴。全体の約半分が三拍子の曲で、残りが四拍子の曲である、出演者が三人で、音楽家も三人だが何か関係があるのかも知れない。

ありがちな作品ではあったが、音楽は充実しており、ラブロマンスとして楽しめるものであった。

 

竹島宏は、1978年、福井市生まれの演歌・ムード歌謡の歌手。明治大学経営学部卒ということで、私と同じ時代に同じ場所にいた可能性がある。

「『飛んでイスタンブール』の」という枕詞を付けても間違いのない庄野真代。ヒットしたのはこの1作だけだが、1作でも売れれば芸能人としてやっていける。だが、それだけでは物足りなかったようで、大学、更に大学院に進み、現在では大学教員としても活動している。
ちなみにこの公演が終わってすぐに「ANAで旅する庄野真代と飛んでイスタンブール4日間」というイベントがあり、羽田からイスタンブールに旅立つそうである。

三人の中で一人だけ歌手ではない宍戸開。終演後は、「私の歌を聴いてくれてありがとうございました」とお礼を言っていた。
ちなみにアフタートークでは、暗闇の中で背広に着替える必要があったのだが、表裏逆に来てしまい、出番が終わって控え室の明るいところで鏡を見て初めて表裏逆に着ていたことに気付いたようである。ただ、出演者を含めて気付いた人はほとんどいなかったので大丈夫だったようだ。

竹島宏は、「演技未経験者がいきなりミュージカルで主役を張る」というので公演が始まる前は、「みんなから怒られるんじゃないか」とドキドキしていたそうだが、東京公演が思いのほか好評で胸をなで下ろしたという。

庄野真代は、「こんな若い恋人と、こんな若い旦那と共演できてこれ以上の幸せはない」と嬉しそうであった。「これからももうない」と断言していたが、お客さんから「またやって」と言われ、宍戸開が「秋ぐらいでいいですかね」とフォローしていた。

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2022年11月27日 (日)

観劇感想精選(449) 三谷幸喜 作・演出・出演 「ショウ・マスト・ゴー・オン」2022京都公演@京都劇場

2022年11月19日 京都劇場にて観劇

※1994年版の回想が中心になりますが、2022年版のネタバレも含みますのでご注意ください。

午後6時から京都劇場で、「ショウ・マスト・ゴー・オン」を観る。三谷幸喜の東京サンシャインボーイズ時代の代表作であり、私も1994年に行われた再演を東京・新宿の紀伊國屋ホールで目にしている。それが自分でチケットを買って観た初めての演劇公演であった。

今回の「ショウ・マスト・ゴー・オン」は、当然ながら当時とは完全に異なるキャストで上演される。小林隆だけは以前と完全に同じ役柄(役名だけは「佐渡島」から「万城目」になり、異なっている)で出演する予定だったのだが、左足筋損傷のため博多公演の初日から舞台に上がることは叶わず、作者である三谷幸喜が代役を務めることになった。博多公演は全て三谷幸喜が出演したが、小林の怪我が完治していないため、京都公演も引き続き三谷が代役として出演する。


作・演出・出演:三谷幸喜。出演:鈴木京香、尾上松也、ウエンツ瑛士、シルビア・グラブ、新納慎也、今井朋彦、峯村リエ、秋元才加、藤本隆宏、小澤雄太、井上小百合、大野泰広、中島亜梨沙、荻野清子、浅野和之。ミュージシャンである荻野清子は音楽・演奏(ピアノ)も兼任。女優としては、地声が小さすぎるのでそばにいる人を介さないと何を言っているのか分からないという変わった役(役名は尾木)を演じる。セリフでは有名俳優に敵わないので、仕草だけの演技ということになったのだと思われる。

1994年の再演時(NHKBS2で収録された映像が放送され、その後、同じ映像がDVDとなって発売されている)とは、出演者の数も違うし、性別も異なる俳優が何人もいる。例えば、鈴木京香演じる舞台監督の進藤は、再演時には西村雅彦(西村まさ彦)が演じており、西村雅彦が初めて「僕が主演」と感じたと振り返っているのが「ショウ・マスト・ゴー・オン」である。中島亜梨沙演じるプロデューサーの大瀬を再演時に演じていたのは近藤芳正(近藤芳正は東京サンシャインボーイズの後期の作品には全て出演しているが、正式な団員だったことはない)、シルビア・グラブ演じるあずさを演じていたのは、「鎌倉殿の13人」にも出演している野仲功(野仲イサオ)であった(ただし初演時には斎藤清子が演じており、性別がコロコロ変わる役であることが分かる)。また、再演時には存在しなかった役として、井上小百合演じる通訳の木村さん(演出がダニエル、再演時のフルネームはダニエル・ブラナーという外国人という設定)、浅野和之演じる医師の鱧瀬も再演時には出てこなかった人物である。当然ながら、荻野清子演じる尾木も今回のオリジナルキャストである。
シルビア・グラブが出ているということで、彼女がソロで歌うシーン、また尾上松也がソロで歌うシーン、更には前半終了時と全編終了時には全員が合唱を行う場面も用意されている(ちなみに再演時は休憩なしのワンシチュエーションものであった)。

私は初演時の「ショウ・マスト・ゴー・オン」は観ておらず、明治大学の図書館で見つけた戯曲(明治大学文学部には演劇専攻があるということで、演劇雑誌に掲載されていたものが冊子に纏められていた。今も明治大学の駿河台図書館に行けば読めると思われる。ただし入れるのは明大生、明大OBOG、千代田区在住者に限られる)を読んだだけなので、細部についてはよく分からないが(何カ国語も話せる人物が登場していたりする)、1994年の再演は目にしており、BSを録画した映像を何度も繰り返して観た上にDVDとなった映像も視聴している。ということで比較は容易になる。

ちなみに再演時のキャストは、進藤:西村雅彦、木戸:伊藤俊人、のえ:高橋理恵子(演劇集団円所属)、栗林:相島一之、八代:阿南健治、あずさ:野仲功、佐渡島:小林隆、大瀬:近藤芳正、七右衛門:梶原善、中島:甲本雅裕、ジョニー:小原雅人、進藤の妻:斎藤清子、宇沢:佐藤B作。

再演を観たのは、1994年の4月の土曜日のソワレ、日付を確認するとおそらく4月16日のソワレで、当日券を求めて並び(並んでもチケットが手に入るとは限らない)なんとかチケットをゲットして、紀伊國屋ホールの最後列の後ろに設けられた補助席の一番下手寄りの席に腰掛けて観た。「この世にこんなに面白いものがあるのか」と喫驚したことを昨日のようにどころか終演直後のようにありありと思い返すことが出来る。そしてそれは懸念ともなった。前回の記憶が鮮明なだけに、今回の上演を楽しむことが出来ないのではないかという懸念である。そしてそれは現実のものになった、というより上演前から分かっており、確認出来たと書いた方が事実に近い。「ショウ・マスト・ゴー・オン」は、1994年の4月に上演されたからこそ伝説の舞台になったのだということをである。
内容を知り過ぎているということは、時に不幸となる。1994年のあの公演を劇場で観ていなければ、あるいは今回の上演も楽しめたかも知れないという意味で。
「過ぎたるは尚及ばざるがごとし」

ただ私事ばかり書いていても意味はない。今回の上演について記そう。
群像劇ではあるが、「ショウ・マスト・ゴー・オン」の主役は明らかに進藤である。舞台監督であるため、ほぼ全ての指示を出すことになるためだ。この進藤に鈴木京香。女性が舞台監督であることは特に珍しくもない(私が出演した京都造形芸術大学の授業公演でも女子が舞台監督を務めていた)が、バックステージもので舞台監督を女性が演じるというのは記憶にないので、フィクションの世界では珍しいことなのかも知れない。再演時に西村雅彦が演じていた進藤には、「現代のマクベス夫人」と言われる怖い奥さんがいたのだが、進藤役が女性になったということで、甲斐性のない男優希望の青年(小澤雄太が演じる)に置き換えられている。50歳を超えた今も第一線の女優であり続けている鈴木京香の進藤ということで、存在感もあり、女性ならではの悩みなども巧みに演じている。

進藤に、進藤の右腕となる木戸(ウエンツ瑛士)と、舞台女優志望ながら現在はスタッフとして働いているのえ(秋元才加。ちなみに現在放送中の「鎌倉殿の13人」に菊地凛子演じるのえという人物が出てくるが、「ショウ・マスト・ゴー・オン」ののえも、「鎌倉殿の13人」ののえも「ぶりっこ」という点で共通している)を加えたトリオがこの作品の原動力となっている。ただ、再演時には木戸を伊藤俊人(2002年没)、のえを今では演劇集団円の看板女優の一人となった高橋理恵子が演じており、キャラクター自体も再演時の俳優の方が合っていた。三谷幸喜は当て書きしかしない人であり、今回も出演者に合わせて大幅に加筆しているが、やはりインパクトでは再演時の俳優には敵わない。他の俳優についてもこのことは言える。客席からは笑いが起こっていたが、「違うんだよ、この程度じゃないんだよ。三谷幸喜と東京サンシャインボーイズは本当に凄かったんだよ」と私と舞い降りてきた19歳の時の私はひどく悲しい思いをすることになった。

1994年に観た「ショウ・マスト・ゴー・オン」は、あの日、あの時、あの出演者だったからこそ今でも思い返して幸福感に浸れるほどの作品となったのだ。そして同じ思いに浸れることはもう決してないのだということを確認し、なんとも言えぬ切なさが胸の底からこみ上げてきて、涙すら誘いそうになる。ただこれが生きていくということなのだ。生きていくというのはこういうことなのだ。

そんな懐旧の念にとらわれつつ、今回の「ショウ・マスト・ゴー・オン」もやはり魅力的に映った。小林隆が出演出来なかったことは残念であるが、代役を務める三谷幸喜の演技が思いのほか良かったというのも収穫である。映像ではまともな演技をしているのを見た記憶はないが、舞台となるとやはり学生時代からの経験が生きてくるのだろう。役者・三谷幸喜をもっと観たいと思う気持ちになったのは、我ながら意外であった。

劇場の下手袖が主舞台であるが、劇場(シアターコクーンならぬシアターコックンという劇場名らしい。ちなみに1994年の再演時には、三百人劇場ならぬ三億人劇場という劇場名だったが、その後に三百人劇場は閉館している)の舞台、つまり本当の舞台の上手袖ではほぼ一人芝居版の「マクベス」が宇沢萬(うざわ・まん。尾上松也)によって演じられているという設定である。このほぼ一人芝居版「マクベス」がその後、細部は全く異なるが実際に上演されている。佐々木蔵之介によるほぼ一人芝居版「マクベス」がそれで、佐々木蔵之介の演技を見ながら、「『ショウ・マスト・ゴー・オン』の世界が現実になった」と感慨深く思った日のことも思い出した。

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2022年11月17日 (木)

コンサートの記(813) オペラ「石見銀山」石見銀山世界遺産登録15周年記念関西公演@京都劇場

2022年11月2日 京都劇場にて

午後6時30分から、京都劇場でオペラ「石見銀山」石見銀山世界遺産登録15周年記念関西公演を観る。

オペラ「石見銀山」は、石見銀山の世界遺産登録10周年と石見銀山のある島根県大田(おおだ)市の地方創生として2017年に制作されたもので、オペラユニット「THE LEGEND」が中心になり、THE LEGENDの吉田知明が、石見神楽の団体である大屋神楽社中の安立均がまとめた神楽の演目「石見銀山 於紅谷」を原作に脚本を書き、演出も行う。作曲は、デュオ「鍵盤男子」(現在はソロユニットとなっているようである)のメンバーでもある中村匡宏(くにひろ)が手掛けている。
中村匡宏は、ウィーン国立音楽大学大学院作曲科最終試験で最上位を獲得。国立音楽大学と同大学院で共に首席を獲得し、博士後期課程の博士号を取得している。
中村は指揮と音楽監督も兼任している。

出演は、柿迫秀(かきざこ・あきら。島根県大田市出身)、菅原浩史(すがわら・ひろし)、吉田知明、坂井田真実子、志村糧一(しむら・りょういち)、内田智一、松浦麗。ゲストピアニストは西尾周祐(にしお・しゅうすけ)。石見神楽上演は大屋神楽社中。合唱はオペラ「石見神楽」合唱団(一般公募による合唱団)。

有料パンフレットに東京公演での模様を撮影した写真が掲載されており、オーケストラピットにオーケストラ(東京室内管弦楽団)が入っているのが確認出来るが、京都公演ではオーケストラはなしで、当然ながらカーテンコールでも紹介されなかった。音色からいってシンセサイザーが用いられているのが分かるが、どのように音が出されていたのかは不明である。

石見銀山に伝わる於紅孫右衛門事件という史実が題材となっており、石見銀山で働く男女の悲劇が描かれる。

第1幕から第4幕まであるが、第1幕から第3幕までが通しで上演。休憩を挟んで石見神楽が本格的に登場する第4幕が上演された。

ストーリー的には良くも悪くも素人っぽい感じだったが、中村匡宏の音楽は明快にして才気に溢れており、今後オペラ作曲科としてさ更なる活躍が期待される。

第1幕は、1526年(大永6)に博多の大商人であった神屋寿禎(演じるのは柿迫秀)が石見銀山の主峰、仙ノ山を発見することに始まる。第2幕と第3幕は、石見銀山の間歩(まぶ。坑道のこと)頭である於紅孫右衛門(吉田知明)と、やはり間歩頭である吉田与三右衛門、そして与三右衛門の妻であるお高(坂井田真実子)、与三右衛門の弟である吉田藤左衛門(内田智一)の話が主になる。「銀よりも皆が無事であることが大事」と説き、仕事仲間からの人望もある孫右衛門に、与三右衛門は嫉妬。更に妻であるお高と孫右衛門が懇意になったことから嫉妬は更に加速していく。与三右衛門は妻のお高に暴力を振るっているが、心の底ではお高を強く愛しており、両親の命を奪った銀山からお高を救いたいと願っている。ただ愛情が強すぎて妻にきつく当たってしまうようだ。
第4幕では神屋寿禎が再度登場し、鬼女(龍蛇。演じるのは松浦麗)が登場して、石見神楽が演じられる中、緊迫感が増していく。

京都劇場は、元々はシアター1200として建てられ、音響設計がしっかりされている訳ではないと思われるが、劇団四季が一時常打ち小屋として使っていたこともあり、音響はまずまずのはずなのだが、やはりオペラをやるには空間が狭すぎるようである。PAを使っての上演だったが、声が響きすぎて壁がビリビリとした音を延々と発する場面も結構多かった。
またオペラは生のオーケストラで聴きたい。

今後この作品がオペラの定番としてレパートリー化されるのは、島根以外ではあるいは難しいかも知れないが、地方創生としておらが街のオペラを創作するというのは素晴らしい試みであると感じられた。

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2020年10月17日 (土)

観劇感想精選(359) 「ゲルニカ」

2020年10月10日 京都劇場にて観劇

午後6時から、京都劇場で「ゲルニカ」を観る。作:長田育恵(おさだ・いくえ。てがみ座)、演出:栗山民也。栗山民也がパブロ・ピカソの代表作である「ゲルニカ」を直接観た衝撃から、長田に台本執筆を依頼して完成させた作品である。出演:上白石萌歌、中山優馬、勝地涼、早霧せいな(さぎり・せいな)、玉置玲央(たまおき・れお)、松島庄汰、林田一高、後藤剛範(ごとう・たけのり)、谷川昭一郎(たにがわ・しょういちろう)、石村みか、谷田歩、キムラ緑子。音楽:国広和毅。

上白石姉妹の妹さんである上白石萌歌、関西ジャニーズ所属で関西テレビのエンタメ紹介番組「ピーチケパーチケ」レギュラーの中山優馬、本業以外でも話題の勝地涼、京都で学生時代を過ごし、キャリアをスタートさせた実力派女優のキムラ緑子など、魅力的なキャスティングである。

ピカソが代表作となる「ゲルニカ」を描くきっかけとなったバスク地方の都市・ゲルニカでの無差別爆撃に到るまでを描いた歴史劇である。当然ながらスペインが舞台になっているが、コロナ禍で明らかとなった日本の実情も盛り込まれており、単なる異国を描いた作品に終わらせてはいない。

京都劇場のコロナ対策は、ザ・シンフォニーホールでも見た柱形の装置による検温と京都府独自の追跡サービスへのQRコード読み取りによる登録、手指の消毒などである。フェイスシールドを付けたスタッフも多い。前日にメールが届き、半券の裏側に氏名と電話番号を予め書いておくことが求められたが、メールが届かなかったり、チェックをしなかった人のために記入用の机とシルペン(使い捨て用鉛筆)が用意されていた。客席は左右1席空け。京都劇場の2階席は視界を確保するために前の席の斜交いにしているため、前後が1席分完全に空いているわけではないが、距離的には十分だと思われる。

紗幕が上がると、出演者全員が舞台後方のスクリーンの前に横一列に並んでいる。やがてスペイン的な手拍子が始まり、今日が月曜日であり、晴れであること、月曜日にはゲルニカの街には市が立つことがなどが歌われる。詩的な語りや文章の存在もこの劇の特徴となっている。

1936年、スペイン・バスク地方の小都市、ゲルニカ。フランスとスペインに跨がる形で広がっているバスク地方は極めて謎の多い地域として知られている。スペインとフランスの国境を挟んでいるが、バスク人はスペイン人にもフランス人にも似ていない。バスク語を話し、独自の文化を持つ。

バスク地方の領主の娘であるサラ(上白石萌歌)は、テオ(松島庄汰)と結婚することになっていた。サラの父親はすでになく、男の子の残さなかったため、正統的な後継者がこれでようやく決まると思われていた。しかし、フランコ将軍が反乱の狼煙を上げたことで、スペイン全土が揺るぎ、婚礼は中止となる。教会はフランコ率いる反乱軍を支持し、テオも反乱軍の兵士として戦地に赴く。当時のスペイン共和国(第二共和国。スペインは現在は王政が復活している)では、スペイン共産党、スペイン社会労働党等の左派からなる親ソ連の人民戦線が政権を握っており、共産化に反対する人々は反乱軍を支持していた。フランコはその後、世界史上悪名高い軍事独裁政権を築くのであるが、この時には人々はまだそんな未来は知るべくもない。
反共の反乱軍をナチス・ドイツ、ファシスト党政権下のイタリア、軍事政権下のポルトガルが支持。日露戦争に勝利した日本も反乱軍に武器などを送っている。一方、左派の知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルロー、イギリスのジョージ・オーウェルらが共和国側支持の一兵卒として参加していたこともよく知られている。
バスクは思想によって分断され、ゲルニカのあるビスカヤ県は多くが人民戦線を支持する共和国側に立ち、1936年10月、共和国側は、バスクの自治を認める。だが翌1937年4月26日、晴れの月曜日、反乱軍はゲルニカに対して無差別爆撃を行った。市民を巻き込んだ無差別爆撃は、これが史上初となった。当時、パリにいたピカソは怒りに震え、大作「ゲルニカ」の制作を開始する。

 

サラの母親であるマリア(キムラ緑子)は、サラがテオと結婚することで自身の家が往年の輝きを取り戻せると考えていた。バスクは男女同権の気風が強いようだが、家主が女では見くびられたようである。しかし、内戦勃発により婚礼を済まさぬままテオは戦場へと向かい、マリアの期待は裏切られる。その後、サラはマリアから自身が実はマリアの子ではないということを知らされる。今は亡き父親が、ジプシーとの間に生んだ子がサラだったのだ。サラはマリアの下から離れ、かつて料理番として父親に仕えていたイシドロ(谷川昭一郎)の食堂に泊まり込みで働くことを決める。


一方、大学で数学を専攻するイグナシオ(中山優馬)は、大学を辞め、共和国側に参加する意志を固めていた。イグナシオはユダヤ人の血を引いており、そのことで悩んでいた。田園地帯を歩いていたイグナシオはテオとばったり出会い、決闘を行う格好になる。結果としてテオを射殺することになったイグナシオは、テオの遺品である日記に書かれたサラという名の女性を探すことになる。

イシドロの食堂では、ハビエル(玉置玲央)やアントニオ(後藤剛範)らバスク民族党の若者がバスクの誇るについて語るのだが、樫の木の聖地であるゲルニカにバスク人以外が来るべきではないという考えを持っていたり、難民を襲撃するなど排他的な態度を露わにしていた。

一方、従軍記者であるクリフ(イギリス出身。演じるのは勝地涼)とレイチェル(パリから来たと自己紹介している。フランス人なのかどうかは定かでない。演じるのは早霧せいな)はスペイン内戦の取材を各地で行っている。最初は別々に活動していたのだが、フランスのビリアトゥの街で出会い、その後は行動を共にするようになる。レイチェルはこの年に行われた「ヒトラーのオリンピック」ことベルリン・オリンピックを取材しており、嫌悪感を抱いたことを口にする。
レイチェルが事実に即した報道を信条としているのに対し、クリフはいかに人々の耳目を引く記事を書けるかに懸けており、レイチェルの文章を「つまらない」などと評する。二人の書いた記事は、舞台後方のスクリーンに映し出される。

イグナシオからテオの遺品を受け取ったサラは、互いに正統なスペイン人の血を引いていないということを知り、恋に落ちる。だがそれもつかの間、イグナシオには裏の顔があり、入隊した彼はある密命を帯びてマリアの下を訪ねる。それはゲルニカの街の命運を左右する任務であった。マリアは判断を下す。

 

ゲルニカの悲劇に到るまでを描いた歴史劇であるが、世界中が分断という「形の見えない内戦」状態にあることを示唆する内容となっており、見応えのある仕上がりとなっている。

新型コロナウイルスという人類共通の敵の出現により、あるいは歩み寄れる可能性もあった人類であるが、結局は責任のなすりつけ合いや、根拠のない差別や思い込み、エゴイズムとヒロイズムの暗躍、反知性主義の蔓延などにより、今置かれている人類の立場の危うさがより顕著になっただけであった。劇中でクリフが「希望」の残酷さを語るが、それは今まさに多くの人々が感じていることでもある。

クリフはマスコミの代表者でもあるのだが、センセーショナルと承認を求める現代のSNS社会の危うさを体現している存在でもある。
報道や情報もだが、信条や矜持など全てが行き過ぎてしまった社会の先にある危うさが「ゲルニカ」では描かれている。

ゲルニカ爆撃のシーンは、上から紗幕が降りてきて、それに俳優達が絡みつき、押しつぶされる格好となり、ピカソのゲルニカの映像が投影されることで描かれる。映像が終わったところで紗幕が落ち、空白が訪れる。その空白の残酷さを我々は真剣に見つめるべきであるように思われる。

劇はクリフが書き記したゲルニカの惨状によって閉じられる。伝えることの誇りが仄見える場面でもある。

 

姉の上白石萌音と共に、今後が最も期待される女優の一人である上白石萌歌。薩摩美人的な姉とは違い、西洋人のような顔と雰囲気を持つが、姉同様、筋の良さを感じさせる演技力の持ち主である。

 

関西では高い知名度を誇る中山優馬も、イグナシオの知的で誠実な一面や揺れる心情を上手く演じていた。

 

万能女優であるキムラ緑子にこの役はちょっと物足りない気もするが、京都で学生時代を過ごした彼女が、京都の劇場でこの芝居を演じる意味は大いにある。ある意味バスク的ともいえる京都の街でこの劇が、京都に縁のある俳優によって演じられる意味は決して軽くないであろう。

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2015年4月 4日 (土)

観劇感想精選(150) 三谷文楽「其礼成心中」

2014年8月7日 京都劇場にて観劇

午後3時30分から、京都劇場で、三谷文楽「其礼成心中」を観る。三谷幸喜が初めて挑んだ文楽(人形浄瑠璃)のための作品。一昨年に東京・渋谷のPARCO劇場で初演。昨年に再演され、今回が関西での初上演となる。私は初演時のチケットを手に入れていたのだが、病気が芳しくなくキャンセルしている。

文楽は大阪が本場であるが、橋下徹が、文楽の助成金を問題にし、「曽根崎心中」を観て、「面白くなかった」、「演出に工夫がなかった」などと批判している。橋下が、東京で「其礼成心中」という新作文楽が上演されていることを挙げて、「新しいものにチャレンジしないと」などとも言っていたが、ならば橋下は「其礼成心中」なら面白く観劇できるのか? 答えは間違いなく「NO」である。「其礼成心中」はそもそもが「曽根崎心中」という文楽作品を知っていることを前提に書かれており、更に近松の代表作の一つである「心中天網島」の“橋づくしの場”がそのままで上演されるシーンもある。「曽根崎心中」も理解出来ないようなお馬鹿さんが「其礼成心中」を楽しめるはずがないのだ。

まず三谷幸喜人形が登場し、「其礼成心中」の概要を述べて、「東京都民の80%は観たのではないでしょうか」と誇大宣伝を行う。「自信作であり、京都では大文字焼き(あー、「大文字焼き」って言っちゃったよ)と並ぶ夏の風物詩にしたい」と抱負も述べた。

「其礼成心中」の舞台は、元禄年間の大坂。元禄16年(1703)に大坂竹本座で初演された近松門左衛門の「曽根崎心中」が大当たりしたため、心中が社会現象となっていた(これは史実である)。今夜も、六郎とおせんという恋人が心中しようと、お初、徳兵衛が心中して果てた露天神の森にやって来る。そして、「曽根崎心中」の“此の世の名残、夜も名残”という有名な歌で心中しようとしたところに、天神の森で鶴屋という饅頭屋を営んでいる半兵衛に妨害される。天神の森で心中が流行っているため、饅頭屋にやって来る人が減って、迷惑しているので、半兵衛は夜な夜なパトロールしているという(英語はそのまま使われることが多い)。

半兵衛は、もうちょっと行けば淀川があると言って、二人を追い立てるが、二人はまだ森の中にいるうちに再び心中を図る。しかし、半兵衛がやって来て、またも心中を阻む。半兵衛は二人に「頭を冷やせ」と言い、そのまま鶴屋に呼ぶ。六助は油屋の手代であり、おせんは油屋の主人の娘ということで身分違いの恋であり、叶わぬ恋ならあの世で添い遂げようと心中することにしたのである。半兵衛は「そんなの、お初、徳兵衛に比べれば子供みたいな悩みだ」と一蹴する。半兵衛の妻・おかつは、二人にアドバイスする。納得して帰る六郎とおせん。その姿を見て、半兵衛は、おかつを「曽根崎の母」として、お悩み相談&饅頭売りのダブルビジネスモデルを考えつく。

半兵衛の読みは当たり、饅頭を曽根崎饅頭として売り出した鶴屋は大繁盛。しかし、それも長くは続かなかった。大坂竹本座で、近松門左衛門の「心中天網島」が上演される。半兵衛とおかつの夫婦も竹本座に「心中天網島」を観に出かける。“橋づくしの場”が実際に上演され、それを観た半兵衛夫妻は感銘を受けるのだが、二人の娘であるおふくが、網島で「かきあげ天網島」が売られており、大ヒットしていると告げる。心中の客は網島へと流れてしまい、鶴屋は思い切り傾く。「これも全て近松門左衛門のせいや」と考えた半兵衛は近松に直談判に行く。しかし、近松は「何を書こうがわしの勝手」と言い、半兵衛の「『曽根崎心中』の続編を書いて欲しい」という願いも当然ながら断る。
そして、「どうしても書いて欲しければ、わしが書きたいと思うような、心中を起こすんやな。それなりおもしろかったら」芝居を書いても良いと半兵衛を退ける。

「それなりに面白い」と言われても、戯作者ではない半兵衛には「それなりに面白い心中」など思いつかない。だが、その直後に娘のおふくが、「かきあげ天網島」のうどん屋の若旦那・政吉と恋に落ちていることが判明して……

文楽の台本というと、情緒的というか内省的というか、日本人的な細やかさが出て、内へ内へと向かい、時に情に流れる傾向があるのだが、アメリカの映画やテレビドラマを好む三谷の書く台本は逆に開放的であり、登場人物と一体化するのではなく、俯瞰的な角度から人間を描いているようなところがある。これまで書いた台本は全て当て書きという三谷であるが、今回は当て書きする俳優がおらず人形のみだったため、三谷の構築力が前面に出ているところがある。
人形の動きで笑いを取るのはやり過ぎだと思うが、伝統芸能の枠を拡げようという意図は明確に伝わって来た。
幕を使った、文楽でしかなし得ない大見得の場面もあり、良い意味で見事なShowになっていたと思う。

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2015年1月15日 (木)

観劇感想精選(145) カンパニー・フィリップ・ジャンティ 「忘れな草」

2014年11月1日 京都劇場にて観劇

午後3時から、京都劇場で、カンパニー・フィリップ・ジャンティの公演「忘れな草」を観る。日仏文化交流90周年記念公演でもある。

セリフはほとんど用いられず、演者のパフォーマンスと小道具の使い方で見せる公演。特に人形と幕の使い方が特徴である。

舞台が明転すると、まず後ろを向いた女優がヘンデルの歌劇「リナルド」から“私を泣かせてください”を歌っている。ところが、この女優、舞台の方に向き直るとチンパンジーのフェイスマスクをしている。

そこへ、遠くの方から人間の集団らしい影絵が近づいて来るのが見える。チンパンジーはそれを追い返そうとするのだが、無駄骨に終わる。

続いて、男と女のいる舞台。だが、それぞれ、自分の顔に似せた等身大の人形を持っており、人間と人形が様々に交錯するという興味深い展開が行われる。「この辺で変わりそうだな」という予測は可能であり、当たることが多いのだが、急にチェンジするので、どうやったのかわからないところも何ヶ所かあった。

実は、男装した女優が一人紛れており、そのため数の勘定合わないよう錯覚させる工夫がなされていた。

舞台設定は北極か南極のようで、演者達は小さなスキーの模型を履いていたりする。そのため、温め合う男女という設定もあるのだが、これは良いところでブツ切りにされる。

チンパンジーにとっては人類が繁栄しないことこそが願いなので、人類のあれやこれやはあっても何事もなく去って貰うのが望ましい。

ラストシーンでは、チンパンジーの望み通り人類は去って行くかに見える(影絵で示される)のだが、途中で、一組のカップルが馬車を降り、恋愛が成就したことが暗示される。チンパンジーが悔しがる中、幕となる。

ストーリー自体は、言葉を使わないパフォーマンスの常として奥深さはあっても多彩とはいえないものだが、小道具の生かし方は見応えがあったように思う。

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2014年2月24日 (月)

コンサートの記(129) 「財津和夫LIVE&TALK2013」 in 京都劇場

2013年12月28日 京都劇場にて

午後5時から、京都劇場で、「財津和夫LIVE&TALK2013」を聴く。TULIPのリードヴォーカルやソロで活動してきた財津和夫のライヴである。「LIVE&TALK」とあるが、財津によると、「トークは苦手なのだが、もう年なので、ずっと歌い続けていると倒れちゃうんじゃないかという心配がありまして、トークの間は座っていいんですよね」ということでトークも入れることにしたという。財津和夫も今年で65歳になる。おじいちゃんと言われてもおかしくない年である。2部構成であり、第1部はトークは多め、第2部はトークは少なめで有名ナンバーが多く唄われる。

まずは、英語によるカバー曲2曲が披露される。「スマイル」と「エターナル・フレーム」である。タイトルでピンとこない人でも曲を聴けば「ああ」とわかるほどポピュラーなナンバーだ。日本語の訳が背後にあるスクリーンに投影される。

「財津一郎とよく間違われる財津和夫です。今日は大丈夫でしょうか。間違ってきてしまった方、いらっしゃらないでしょうか」と財津は語って笑わせる。

「京都劇場に足を踏み入れるのは初めてなのですが、とても音響が良いです」と財津。京都劇場はJR京都駅がリニューアルオープンした際にシアター1200として建てられたが、その後、劇団四季のための劇場として内部が改装されて「京都劇場」として再オープン。劇団四季は昨年、京都から撤退したが、ミュージカルのための劇場だったため、音響は当然ながら良いのである。ただ、元々敷地が十分ある場所に建てられたわけではないので、観客としては、2階席に行くには急で幅の狭い階段を昇らなくてはならないので危険、90年代に出来た割りには客席間が狭いなどの欠点がある。

トークでは、財津和夫の過去の写真がスクリーンに投影され、それを財津が説明していくという形を取る。まず映し出されたのは、財津が高校3年の時の写真。なぜ高校3年とわかるのかというと、財津は物心ついた頃から高校2年生までずっと坊主頭だったそうで、高校3年になって髪を伸ばすことが許されると、毎日、髪が伸びていくのが楽しかったという。

2枚目の写真の高校3年生の時のもの。ギターを弾いている写真だが、フォークギターではなくクラシックギターだそうで、ポピュラーには余り興味がなかったようである。ところがある日、同級生に「ビートルズの映画をやってるから見に行こう」と誘われ、初めは「興味ないよ」と断ったものの、「財津、馬鹿だなあ。女の子がたくさん見に来てるんだぜ」と言われ、「じゃあ行こう」となり、ビートルズの映画を見に行ったという。女の子達の体臭にも圧倒されたというが、それ以上にビートルズの衝撃は大きかったそうで、その後、ずっとビートルズ、ビートルズという生活になっていったそうである。

高校卒業後は何するでもなくフラフラしていた財津だが、友人から、「財津、大学行ってやるのが親孝行だよ」などと言われ、西南学院大学に進学。そこでバンドを組み、やがては大学を中退して、上京、TULIPとしてデビューすることになる。福岡から東京に向かうその日の写真がスクリーンに投影される。財津は長髪である。そして東京のどこかの公演で5人で撮った写真が映る。「この時、5人で、2Kのアパートで一緒に生活してました。5人といいましたが、本当は4人です。一人はこれ(小指を出す)のところにいまして。メンバーの誰かは言いませんが、私でないことは確かです。広いマンションに女の人と住めていいなあと思ってました」と財津は語る。福岡では照和という伝説のライヴハウスによく出演していたそうだが、「海援隊、長渕剛、甲斐バンドなどが照和に出ていました。井上陽水が挙げられることがありますが、これは間違いなんですね。井上陽水は照和に出演したことはないんです。井上陽水は早くから東京に出て活躍していました」と巷間に流布している説を一蹴した。

シングル「魔法の黄色い靴」でデビューした時のレコーディングの写真も出る。「魔法の黄色い靴」は録音にかなり時間が掛かり、レコード会社はそれを逆手に取って「レコーディングに〇〇時間費やした入魂の」というようなキャッチコピーで売り出したが、全く売れなかったそうで、2枚目の「一人の部屋」もやはり全然売れなかった。財津は「一人の部屋」について、「売れそうにない歌詞だったようで、『つまらないつまらないもう』と牛まで出てきてしまって、『一人ではつまらない』というもので、『つまらない』ばかりでは売れるはずもない」と語った。今度もまた売れなかったら福岡に帰ろうと思って出したシングルは今でも歌い継がれる「心の旅」である。「心の旅」は、当初は、財津が歌う予定であったのだが、姫野達也がメインボーカルに起用され、財津は「なんで姫野に歌わせるんだ。折角良い曲書いたのに、これで終わりだな」と思ったのだが、財津の予想に反して大ヒットしてしまい、「今も姫野には足を向けて眠れない」、「いつも二つ枕を使って寝ているのだが、一つの枕には姫野と書いてあって、姫野ありがとうと思いながら寝る。それぐらいの勢い」だとのことである(多分嘘である)。「心の旅」は財津の作詞・作曲であるが、「ああ、だから今夜だけは君を抱いていたい、ってこれ、特に内容があるわけではないですよね、『一人の部屋』と大して変わらない」と財津は語る。

「心の旅」は第2部のためにとっておき、「セプテンバー」、「柱時計が10時半」などを財津は歌う。

トークで財津は、「年を取って、目が見えなくなってきて、音も聞こえにくくなってきた。歯も『硬いものを食べるのはよそうか』とか、あと、正月に餅を食べるときに気をつけないと」と老いについて語る。「若い頃は、お年寄りが餅を喉に詰まらせて死んだというニュースを聞いて、『馬鹿じゃないの』なんて思っていましたが、そんなことも言っていられない年になりまして」と財津。
聴力が衰えると、色々な聞き間違いをするそうで、打ち合わせで、「それがですね、財津さん」と言われたとき、「総入れ歯ですね、財津さん」と言われたように聞こえたという話に始まり、「カラオケ歌ったことがありますか」を「棺桶入ったことありますか」に聞き間違え、「今何時?」と聞いて、「もう6時ですね」と言われたのを「耄碌じじいですね」と言われたのかと思ってドキッとしたり。梅田の阪急でタイツを買おうとして店に入ったところ、自分より年上の男性が奥さんに、「タイツ買うぞ!」と怒鳴っていたのを、「財津和夫!」と言っているのかと思ったという話になる。
年を取ると自分のことで精一杯になってしまい、他人のことを気にする余裕もなくなってしまうそうで、財津は「老いとは実に醜い」と語る。

なぜか10分という異様に短い休憩を挟んで、第2部が始まる。

「モナリザ」がスクリーンに投影され、「黒い髪のリサ」でスタート。2曲目は、誰でも知っている名曲「Wake up」で大いに盛り上がる。

財津は客席を見渡し、「今日も何組かいますね。カップルで来ている人」と言い、「女性は神様が生んだ芸術品。非常に形が美しい。男はその形に惹かれるわけです。女性の体の美しさは女性自身が生み出したものではありませんので、生まれながらの芸術品です。女性が男性の体に惹かれるということもあるでしょうが、男性が女性に惹かれるよりは少ないと思います。次の歌は、カップルの駅での別れを歌ったという『ストロベリー・スマイル』。今日来たカップルに捧げます」と意地悪なことを言って、演奏をスタートする。

小学校などで歌われる「切手のないおくりもの」の演奏の前には、聴衆にも歌って貰うためのレクチャーを行う。歌詞はスクリーンに映る。だが、聴衆が財津が指示したところよりも長く歌ってしまうため、何度かやり直す。最後はビシッと決まり、「やれば出来るじゃない!」、「これだけ出来るお客さん、初めて見た」と言ってスタート。財津自身はほとんど歌わず、歌詞を先に言ってリード。これは続く「心の旅」でも繰り返された。

「青春の影」、「サボテンの花」という、現在の若者にも人気のあるナンバーを歌い上げた財津は、最後にサッチモことルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」を歌う。

アンコールは2曲、「虹とスニーカーの頃に」と「夢中さ君に」である。聴衆であるが、やはりある程度の年齢を重ねた方々が大多数である。私と同じアラフォーが数名、二十代と思われる女性もいたが、多分、アラサーである。

演奏終了後に映画のエンドロールを真似た映像が流れ、コンサートは幕となった。

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2008年5月19日 (月)

観劇感想精選(35) 劇団四季 「ウェストサイド物語」

2008年3月22日 京都劇場にて観劇

午後5時30分から京都劇場で劇団四季の公演「ウェストサイド物語」を観る。アーサー・ロレンツ台本、スティーヴン・ソンドハイム作詞、テキスト日本語訳:倉橋健、日本語作詞:岩谷時子、レナード・バーンスタイン音楽、浅利慶太:演出。

これまで劇団四季の「ウェストサイド物語」では、ブロードウェイ初演の振付を担当したジェローム・ロビンスの弟子であるボブ・アーディティの振付による公演を行ってきたが、今回のプロジェクトからはジェローム・ロビンスのオリジナルの振付を再現して公演を行っている。ジェローム・ロビンスの振付再現を行ったのはジョーイ・マクニーリー。
日本人の体格、体力ともに良くなり、オリジナルの振付が可能な時期に入ったと判断があったのかも知れない。

体格は確かに良くなっているだろうが、日本人がジェローム・ロビンスの振付で踊ると、それでもまだ体操のお兄さん的ダンスになってしまう。だが、出演者達が振りに慣れれば更に良くなるだろう。そもそもオリジナルの振付に挑もうという気概がいい。

あらゆる要素の中で、歌の水準が一番高い。英語の歌の日本語訳詞が妙になるのは避けられないが、出演者達は高音も良く伸びていたし、平均的水準も高かった。

ちなみに今日の主な出演者は、トニーに阿久津陽一郎、マリアに花田えりか、ベルナルドに加藤敬二、アニタに団こと葉、リフに松島勇気、チノに玉城任、シュランク警部に志村要、クラプキ巡査に石原義文。

マリアの花田えりかのセリフ回しが多少気になったが、傷というほどではない。

演技も納得のいく水準。私は白人の若手キャストによる公演も観たことがあるが、キャリアがものをいうのか、劇団四季の方が非言語的なものも含めて演技表現の水準は高いと思う。

ダンスについていうと、例えば体育館のマンボの場で白人キャストの公演の時に感じられた「殺気」のようなものは四季の俳優からは感じられない。これはやはり人種の差だろう。ジェット団とシャーク団は敵同士だが、日本人がやるとどうしても互いに協力してその場をつつがないよう進行させているように見える。だが、それはある意味、日常生活で殺気を感じることのほとんどない日本という国の良さの表れなのかも知れない。

ラストのトニーが撃たれるシーンには問題を感じた。互いを見つけたトニーとマリアが走り寄るのだが、その距離が短いため、チノが飛び出してきてトニーを撃つ場面がコントのように見えてしまう。
京都劇場のスペースの問題もあると思うけれど、トニーとマリアにもう少し長い距離を走らせないと、観客に「ひょっとしてうまくいくか」という希望を抱かせる間を取ることが出来ない(「ウェストサイド物語」を観に来る人は結末がどうなるかを知っているとは思うが)。希望を抱かせる間がないままトニーが撃たれしまうと、トニーがおっちょこちょいの間抜けに見えてしまうのだ。

とはいえ、なかなか感動的な舞台になっていた。レナード・バーンスタインの書いた「トゥナイト」の五重唱は日本語詞で聴いてもゾクゾクする。やはりミュージカルの名場面中の名場面といえるだろう。

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