カテゴリー「ギリシャ悲劇」の6件の記事

2025年3月22日 (土)

観劇感想精選(486) パルテノン多摩共同事業体企画 三浦涼介&大空ゆうひ&岡本圭人「オイディプス王」2025@SkyシアターMBS

2025年3月1日 JR大阪駅西口のSkyシアターMBSにて観劇

午後5時から、JR大阪駅西口にあるJPタワー大阪の6階、SkyシアターMBSで、「オイディプス王」を観る。これもSkyシアターMBSオープニングシリーズに含まれる公演である。「オイディプス王」は、ギリシャ悲劇の中で最も有名な作品であるが、劇場で観るのは初めてである。男児が母親を独占しようとして、その障害となる父親を嫌悪するジークムント・フロイト定義の「エディプス・コンプレックス」の由来となったオイディプス王(女児が父親を独占しようとして、その障害となる母親を嫌悪する真逆の現象は、やはりギリシャ悲劇由来の「エレクトラ・コンプレックス」と呼ばれる。「エレクトラ」は高畑充希のタイトルロールで、ラストに別作品を加えたり少しアレンジしたバージョンを観たことがある)。ソポクレスのテキストを河合祥一郎が日本語訳したテキストを使用。演出は蜷川幸雄の弟子である石丸さち子。出演は、三浦涼介、大空ゆうひ、岡本圭人、浅野雅博、外山誠二、大石継太、今井朋彦ほか。パルテノン多摩共同事業体の企画・製作。大阪公演の主催はMBSである。MBS(毎日放送)は大阪城のそばの京橋にMBS劇場、後のシアターBRAVA!を持っていたのだが、土地の所有者と金銭面で意見が合わなくなり撤退。昨年春にSkyシアターMBSをオープンさせている。

文学座や演劇集団円など、新劇系の所属者や出身者が目立つが、様々な背景を持つ俳優が集められている。2023年のプロジェクトの再演。

「オイディプス王」の映像は、野村萬斎がタイトルロールを演じた蜷川幸雄演出のものを観たことがある。ギリシャでの上演で、オイディプス王はラストで自らピンで目を刺して失明するのだが(ギリシャ悲劇の約束事として、悲惨な場面は舞台裏の観客からは見えないところで行われることになっている)、野村萬斎は手に血糊をたっぷり付けて、白い壁に塗りたくるということをやっていた。今回演出の石丸さち子は、蜷川の弟子だが、そこまで外連味のある演出は行っていない。

「オイディプス王」のテクストであるが、ギリシャ悲劇は現代まで通じる演劇の大元となってはいるのだが、上演様式が異なるため、文庫などで購入出来るテキストをそのまま上演することは余りない(そもそもセットがない時代なので、最初は何があるかの描写や説明が延々と続いたりする。今回はセットはあるのでそうしたものは全部カットである)。今回もアレンジを施しての上演である。ギリシャ悲劇では、オーケストラの語源となったオルケストラという場所にコロスと呼ばれる合唱や朗唱を受け持つ人達がいて、解説なども行っていたのだが、今回はコロスは全員舞台上に上がり、合唱の代わりにダンスを行う。台詞も勿論ある。

セットは比較的シンプルで、階段の上に宮殿への入り口があるだけのものだが、入り口の上にも細長いセットが伸びている。まるでオイディプス(膨れた足という意味)の傷を負った脚のようだが、そういう意図があるのかどうかは不明である。

朗唱も多いのだが、SkyシアターMBSはミュージカル対応の劇場だけに少し残響があり、発音がはっきりと聞こえない場面もあった。

神託や予言が重要な役割を持つ作品で、テーバイの王、ライオスは、「生まれた子は父親を殺し、母親を犯すだろう」という神託を受けて、妻のイオカステに命じて、生まれた子のくるぶしをピンで突き刺し、キタイロンの山に捨てさせた。しかしその子は拾われ、オイディプスと名付けられて、子がなかったコリントスの王と王妃に育てられることになった。だが、成長したオイディプス(三浦涼介)はやはり「父親を殺し、母親を犯す」との神託を受けて、それから逃れるためにコリントスを去る。そして「三つの道が交わるところ」で、進路を妨害してきた老人達に激怒。殺害してしまう。テーバイに入ったオイディプスはスフィンクスの謎を解く(「朝は四本足、昼は二本足、夕方には三本足となるものは何か?」。この場面は、劇中には出てこない)。こうして英雄となったオイディプスはテーバイの王となり、先王の王妃であったイオカステ(大空ゆうひ)を妻に迎え、3人の子をもうける。余りにも有名なので記すが、オイディプスが殺害したのは実父でテーバイの先王であるライオスであり、妻にしたイオカステはオイディプスの実母である。神託を避けたつもりが逆に当たるという結果になってしまったのだ。
オイディプスが王になってから、疫病などが流行るようになった。そこでオイディプスは摂政のクレオン(岡本圭人)を使者としてデルポイに送り、神託を行わせる。神託の結果は、「ライオス殺害の穢れが原因であり、下手人を捕まえて追放せよ」というものだった。まずここでオイディプスが気付きそうなものだが気付かず進む。

ミステリーの要素が強いのがこの戯曲の特徴で、ギリシャ悲劇の中でも人気の作品となっている理由が分かる。途中でネタバレしそうになるのだが、バレずに続くという場面があるが、そこはお約束である。

三浦涼介は、三浦浩一と純アリスの息子。岡本圭人は岡本健一の息子で、二世俳優が劇の両腕ともいえるポジションを受け持っているのが特徴である。二世俳優は批判も受けがちだが、子どもの頃から芸能に接していることも多いため、芸の習得が早いなど、プラスに働くことも多い。今日の二人も若さを生かしたダイナミックでエネルギッシュな演技を行っており、なかなか魅力的である。ああいったギラギラした感じは二世だから出しやすいとも思える。叩き上げの人がやるとまた違った感じになるだろう。
大空ゆうひは、宝塚歌劇団宙組元トップスターだが、今日は「いかにも元宝塚」な演技は行っていなかった。ただ立ち姿が美しいのが宝塚的であったりもする。

波の音が比較的多く使われているのだが、これはラスト付近のコロスの台詞、「悲劇の海」に掛けられたものだと思われる。
コロスなので、朗唱もあるのだが、複数の人が一言一句同じ台詞を言うというのは、リアリズムという点で言うとやはり不自然である。台詞に厚みが出るというプラスの面もあるが、二人程度による朗唱に留めると「約束事」として受け取りやすくなるように思う。

今回のラストは、オイディプス王の退場ではなく、オイディプス王が舞台の前方に出てきて手を大きく広げ、その後に暗転があってコロスによるダンスで終わる。
オイディプス王の手に動きは何かを引き裂くようでもあるが、正確には何を表したかったのかは上手く伝わってこなかった。ただ、常に神託に頼る展開であり、自ら「追放してほしい」と願うオイディプスをクレオンが「神託を聞いてから」と止めているため、それに背いて道を切り開く、と見えないこともない。「オイディプス王」の一側面として、神託に背こうとして逃れられないという展開が続くという場面が多いことが挙げられる。神の前で人は無力。神が力を失った現代(特に日本人は無神論者が多数派)においても、例えば「運命」などという言葉は生きており、そこから逃れる、もしくは打ち勝つ(難しいが)というメッセージが込めやすい作品であるとも感じる。

コロスのダンスに関しては、プロのダンサーが揃っている訳ではないので、格別上手いということはなく、本当に踊る必要があるのかどうかも疑問だが、本筋とは関係のない部分であり、一つの実験として見るなら意味はあったように思う。結論としてはダンスは合わないとは思うが。

役者が客席から舞台に上げる場面が何度かあるが、視覚的効果と「遠くから来た印象を与える」以外の意味はないように感じた(客席から舞台に上げることに意味がある芝居も勿論存在する)。

神が絶対的な権威を持ち、神託からは逃れられない時代の物語である。人間は何をしても神には勝てない。だからこその悲劇なのであるが、それを破る展開も今ではありのような気がする。ただその場合はソフォクレスの「オイディプス王」としてはやらない方がいいようにも思う。

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2022年5月 3日 (火)

これまでに観た映画より(292) マリア・カラス&パゾリーニ「王女メディア」

2022年4月15日 京都シネマにて

京都シネマで、ピエル・パオロ・パゾリーニ生誕100年記念上映「王女メディア」を観る。
「王女メディア(メデイア)」は、エウリピデスの代表的悲劇の一つ。衝撃的な内容故か、初演時の記録では評判が芳しくなかったようだが、その後は、同時上演されたギリシャ悲劇の中で最高の評価を得て、現在に至るまでギリシャ悲劇の名作として演じ続けられている。

主演は、「20世紀最高のプリマドンナ」として知られるマリア・カラス。しかし、マリア・カラスは難曲を得意としたことが災いして喉を痛め、全盛期は30代だった1950年代に終わりを迎え、最後のオペラ出演は1965年。この映画が撮影された1969年には、オペラより負担の軽いリサイタルを中心に活動していたが、往年の名声は取り戻せないでいた。1960年代には海運王と呼ばれたアリストテレス・オナシスと愛人関係にあったが、オナシスは再婚相手としてジャクリーン・ケネディを選び、カラスとの仲は破綻。まさに「王に袖にされた女」となったカラスが「王女メディア」への出演を決めたのはその直後だった。そしてこの映画の制作から8年後、パリで孤独死することになる。結果的に、「王女メディア」はマリア・カラス唯一の映画出演作となった。

映画監督のパゾリーニの最期はもっと悲惨である。
飛び級して大学に入学するほど頭脳明晰であったパゾリーニであるが、イタリア共産党の党員であり、「王女メディア」を撮影してから6年後の1975年に、ローマ近郊のオスティア海岸において惨殺死体となって発見される。未成年の少年が殺人容疑で逮捕されるが、今では共産党員であるパゾリーニを嫌うファシスト達の犯行であったことがほぼ明らかになっている。

そうした悲劇的な最期を迎えた二人がクロスしたのが、この「王女メディア」である。

ギリシャ悲劇ということでエウリピデスの原作は三一致の法則で書かれ、セリフも膨大なものであるが、この映画ではセリフを極力排し、異国情緒を出すためにトルコのカッパドキアで撮影が行われた。結果として、極めて耽美的であり、映像の美しさで勝負する「映像詩」と呼ぶべき作品になっているが、一方で、時間と場所、現実と妄想が次々に飛ぶ上にそれを表すセリフなどもないため、「王女メディア(メデイア)」を知らない場合、何が行われているのかさっぱり分からないということになる可能性も高い。私は王女メディアは読んでいるし、それを基にした演劇作品も観たことがあるのだが、「あれ? ひょっとしてここ20年ぐらい飛んでる?」となった場面もあった。

かつてはコルキスの王女でありながら、今はコリントスでイアソンの妻となり、イアソンの正妻の座をコリントスの王女に奪われた上に、追放の憂き目に遭うメディア。かつてオペラ歌手として世界一の座に君臨しながら、今は歌劇場に出ることも叶わず、往事の名声を失った上に恋にも敗れたマリア・カラスの姿がメディアに重なる。歌声は彼女の最大の武器なのだが、カラス本人の悲劇性を強調するためか、この映画でカラスが歌うことは一切ない。そうした無念さが、大きな瞳と、豊かな表情によって表現されている。映像詩ということで、「王女メディア」の中でも異色作だと思われる本作品だが、マリア・カラスのための映画といってもいいだろう。

映画は、ケンタウロスの賢者ケイローンが、イアソンの出自を語る場面から始まる。華麗な血筋を誇るイアソンであるが、イアソン役にキャスティングされたのは元陸上選手でもあるジュゼッペ・ジェンティーノ。ジゴロのような風貌で、身のこなしも野盗のようであり、好人物としては描かれておらず、メディアのイアソンに対する「子孫を絶つ」という復讐の正当性が描かれているようである。

また竪琴の音として、日本の箏の音色が採用されており、無国籍的な印象が混沌とした悪夢のような質感を生み出している。

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2021年2月20日 (土)

観劇感想精選(384) 大竹しのぶ主演「フェードル」(再演)

2021年2月13日 西宮北口の兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「フェードル」を観る。作:ジャン・ラシーヌ、テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:栗山民也。出演:大竹しのぶ、林遣都、瀬戸さおり、谷田歩(男性)、酒向芳(さこう・よし)、西岡美央、岡崎さつき、キムラ緑子。
ラシーヌ最後の戯曲であり、ギリシャ悲劇「ヒッポリュトス」を題材に、当時のフランスの世相などを加えて書き上げたという重層的構造を持つ作品である。大竹しのぶのフェードル、栗山民也の演出による上演は2017年に行われ、今回は再演となる。

オペラやミュージカル上演時にはオーケストラピットとなるスペースが、客席側の壁を取り払う形でしつらえられており、階段が2つ下りていて、大竹しのぶ演じるフェードルがピットの部分に下りて嫉妬心を語るシーンがある。また菱形を重ねた舞台装置であるが、登場人物がその縁スレスレを歩く場面があり、不安定感が表現される。また、ライトによって舞台床面に十字架のようなものが浮かぶ場面があり、フェードルが両手を伸ばして磔になったかのように見える仕掛けが施されていたりもする。

ギリシャのペロポネソス半島の街、トレゼーヌが舞台である。アテナイ(アテネ)の王であるテゼが消息を絶つ。テゼは勇猛果敢な王であり、数々の戦勝によって英雄視されているが、「英雄、色を好む」を地で行く人物であり、とにかく女癖が悪く、至る所に愛妾を設けていた。
現在のテゼの王妃がフェードル(ギリシャ悲劇ではパイドラという名前である。演じるのは大竹しのぶ)である。クレタ島の王家の出。ミノス王の娘で、ミノタウロスとは異母姉弟、そしてゼウスの孫にして太陽神の家系という複雑な環境に生を受けている。フェードルが恋路について、ミノタウルスが幽閉されたラビリンスに例える場面が劇中に登場し、テゼとアリアドネの話も仄めかされる。テゼはフェードルを寵愛し、フェードルを妻にして以降は女遊びも止めている。だが、そんなテゼがいなくなった。
フェードルにもテゼとの間に子どもがあるが、テゼと先の王妃、アンティオペとの間に生まれたのがイッポリット(林遣都)である。女であれば誰もが一目見て恋に落ちるほどの美男子だ。アンティオペはアマゾン国の女王出身であり(つまりアマゾネスである)、今はもう他界しているが、人々の話から激しい性格であったことが察せられる。そのためイッポリットは女を憎むようになっていた。イッポリットはテゼを探しに、この場所から外へと飛び出そうとしているのだが、侍臣のテラメーヌ(酒向芳)から、「どうも王が死んだようだ」と聞かされる。
フェードルも、イッポリットを一目見て恋い焦がれてしまったのだが、血は繋がっていないとはいえ、義理の親子であるため、近親相姦と見なされる可能性が高い。そのため、フェードルは敢えてイッポリットに冷たく当たり、イッポリットもフェードルの恋心に気づいてはいない。フェードルは、イッポリットへの恋の病で伏せるようになる。

イッポリットはイッポリットで、かつてテゼに反抗したアテナイ王族の娘で、今は保護観察処分となっているアリシー(瀬戸さおり)に恋をしている。こうして「片思いの連鎖」が生まれているのだが、イッポリットは男前なので、アリシーもイッポリットを恋慕っていた。アリシーは7人兄妹だったようだが、自分以外の6人は全てテゼによって殺害されたそうである。

さて、テゼが亡くなったとされたため、王位継承の候補として、フェードルの子、イッポリット、アリシーの3人が挙がる。フェードルは忍ぶ恋の相手だったイッポリットを選ぼうとし、最後は自分の思いを打ち明けてしまうのだが、イッポリットからは当然ながらというべきか色よい返事が貰えない。イッポリットはアリシーに王座を譲ることを考えていた。若者二人、恋の障壁といえば現在の身分の違いである。だが、もしアリシーがアテナイの女王となった場合、全ての障害は取り除かれる。
そんな時、テゼ(谷田歩)が生きており、まもなく帰還するという情報がもたらされる。その他の人物の努力が、このテゼの帰還によって水泡に帰する危険があった。

フェードルは、イッポリットへの復讐として、乳母で相談役のエノーヌ(キムラ緑子)と共に、イッポリットが自身を誘惑したという真逆の情報をテゼに伝えようと謀る。
だが、イッポリットが自分ではなくアリシーを愛しているということを知ったフェードルは嫉妬の炎に燃え上がる。

 

テゼが王宮を不在にしたことを発端として巻き起こる悲劇である。テゼがそのまま留まり続けていれば起きなかった悲劇とも考えることが出来る。
イッポリットは呪いによって命を落とし、エノーヌはフェードルの裏切りによって海中に身を投げるのだが、これらはギリシャ悲劇らしく伝聞によって語られる。悲劇は見えないところで起きるのだが、ラシーヌはフェードルの服毒死だけは舞台上で行われるようアレンジしている(原作ではフェーデルことパイドラが落命するシーンはないそうである)。ここがギリシャ悲劇とは違ったラシーヌらしさである。

かつてある映画(どの映画かは忘れてしまった)で、大竹しのぶと桃井かおりの二人の「魔女」と言われる女優が路上で喧嘩しているシーンを撮っている時に、本当に雷が落ちて、映画にもそのまま収められたという有名な話があり、監督が「魔女二人が一緒に画面に入っちゃ駄目!」と言ったという話があるが、今回の舞台は、大竹しのぶとキムラ緑子という二人の「魔女」系女優の共演となった。ただ王妃とその乳母という関係であり、一部を除いては激しいやり取りもなく、落雷も起こらず(当然だが)、キムラ緑子の悲哀の表現の上手さが引き立っていた。

余談だが、キムラ緑子が、「さんまのまんま」に出演したことがあるのだが、キムラ緑子は、明石家さんまの話をほとんど聞かず、思いついたことを即行動に移してしまうため、さんまが、「言葉のキャッチボールって分かる?」「良い女優さんって、どうしてみんな変なんやろ? 俺に大竹しのぶは無理やったんやわ」と嘆いていたことが今も思い出される。

タイトルロールを演じる大竹しのぶであるが、セリフが極めて音楽的である。大竹しのぶは舞台出演も多いため、接する機会も多いのだが、近年になってセリフがより音楽的なものへの傾斜していることが実感される。おそらく本人も意識しているはずである。
大竹しのぶは、女優だけでなく歌手としても活動しており、コンサートなども開いている。また、エディット・ピアフの生涯を描いた「ピアフ」では、タイトルロールとして見事な歌唱を聴かせ、評価も高い。ということで音楽と親和性の強い台詞回しの追求が可能な女優である。
今回の「フェードル」でも三連符の連続のような節回しや、バロック音楽の装飾音のように華麗な口調、声の高さによって操られる情感や業に至るまでの多彩な表現を繰り広げる。真に音楽として聴くことの出来るセリフであり、大竹しのぶはさながら「セリフのマエストラ」と称賛すべき存在となっている。音楽好きの人にも是非見て聴いて貰いたいセリフ術だ。ちなみに今最も人気のあるピアニストである反田恭平が、東京で「フェードル」を観たようで、Twitterで大竹しのぶの演技を絶賛していた。

子役から成長した林遣都。子役の時は、映画「バッテリー」でピッチャー役を務めており、そのことからも分かる通り運動神経抜群で、高校生の頃に箱根駅伝を題材にした映画に出演した際は、指導を行った桐蔭横浜大学陸上部の監督に才能を見込まれ、「進路はどうなってるの? うちに来ないか?」とスカウトを受けたという話が残っている。駅伝の選手になりたいわけではなかったので当然ながら断っているが。
今回もイッポリットを凜々しく演じているが、運動神経が良いので、それを生かした演技も今後見てみたくなる。

今回は「魔女」ではない役のキムラ緑子(そうした要素が全くない訳ではないが、他者によって伝聞として語られるだけであり、演技では面には余り出ない)。セリフなしで佇んでいるだけでも雄弁という、ザ・女優の演技で見る者を惹きつけていた。

 

カーテンコールでは、客席がオールスタンディグオベーションとなり、俳優達は何度も舞台に登場。最後は大竹しのぶが、「ありがとうしか言えないんですけれど。こんな状況の中、お越し下さって感謝しております」と語り、その後、観客だけではなくスタッフや関係者へのお礼を述べた後で、「でも一番は、客席に来て下さった方のために」と感謝を伝え、「演劇が永遠に続きますように。頑張ります」と言って締めた。

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2020年10月20日 (火)

観劇感想精選(360) SPAC 鈴木忠志演出「酒神ディオニソス」

2006年4月1日 尼崎市のピッコロシアターにて観劇

尼崎のピッコロシアターでSPAC(Shizuoka Performing Arts Center)の公演、ギリシャ悲劇「酒神ディオニソス」を観る。作:エウリピデス、演出は鈴木忠志。

テーバイの王室がディオニソス神の怒りに触れ、悲劇が起こるという物語である。

演出は、「型」や「格調」を重視したものでいかにも鈴木忠志らしい。しかし外面を重視する余り、人間味が後退しているのはいただけない。そもそも鈴木忠志の演劇にそんなものを求めるのが間違いだと言われればそれまでなのだけれど。

初演の際、テーバイの王・ペンテウスを演じたのが故・観世寿夫(能楽師。観世榮夫の実兄)ということもあって、いかにも能のような味わい。しかし意図がわかりすぎて、奥行きを感じない。それに初演の時の演出をほぼそのまま今やっていいのかという疑問も起こる。
やはり不用意に芸術したところがあるので、明らかに笑いが起こる箇所で、クスリとも笑いが起きなかったり(観客も芸術だと思ってみていたのだろう。私は少し笑った)、人間の愚かしさが伝わりにくかったりもする(かなりお馬鹿な人も出てくるのだが)。
だが、こうしたことが海外に行くと、「オリエンタリズム」、「ジャポニズム」と言われて評価されるのだと思われる(今日は鈴木忠志のアフタートークがあり、鈴木が意図的にそういう評価を狙っているのだということもわかった)。

アフタートーク。鈴木の喋ること喋ること。かなり話し好きの人らしい。話の内容は分かり易い。分かり易すぎるくらいだ。演出の仕方なども話していたが、かなりオーソドックスである。特別なことは何もしていない。悪く言えばありきたりですらある。鈴木忠志というと理論好きというイメージがあるが、あれはあくまで知的武装で、実際は、おしゃべりと自慢と演劇が好きな普通のおっさんであるようだ。いついかなる時も演劇のことは考えているそうで、パチンコが大好きだそうだが、どれだけ夢中になっても演劇のことは考えているそうである。

30分以上一人で喋り続けてから、観客の質問に答えるというスタイルになる。しょうもない質問をする人もいたが(だから鈴木さんはさっき説明していただろ)、鈴木忠志は1つの質問に対して、10分近くも答え続ける。本当に話し好きなようだ。

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2018年2月15日 (木)

観劇感想精選(232) 蒼井優主演「アンチゴーヌ」

2018年2月10日 ロームシアター京都サウスホールにて観劇

午後6時から、ロームシアター京都サウスホールで、「アンチゴーヌ」を観る。「ひばり」のジャン・アヌイがソフォクレスの悲劇「アンティゴイネ」を翻案したものである。
テキスト日本語訳:岩切正一郎、演出:栗山民也、出演は、蒼井優、梅沢昌代、伊勢佳世、佐藤誓(さとう・ちかう)、渋谷謙人(しぶや・けんと)、富岡晃一郎、高橋紀恵(たかはし・のりえ)、塚瀬香名子、生瀬勝久。

 

サウスホールの舞台上に特設ステージと客席を設けての上演。2階席はそのままに生かすが、1階席は演者を目の前で観るような格好になる(私はDエリアの1列2番の席)。中央から十字架状に細長いステージが伸び、1階席の観客は四隅に座る。セットは椅子が2脚だけという簡素なものである。

 

アンチゴーヌはオイディプス王の娘である。オイディプスが実の父を殺し、実の母と交わって子をなし、ギリシャ・テーバイの王となってから、事実を知って自らの目を突いて放浪したその後の話。オイディプスの長男であるエテオークルと次男のポリニスが1年ごとに交代で王位に就くことが決まっていた。だが1年後、エテオークルが王座から降りることを拒否したことで、ポリニスとの全面戦争に突入。エテオークルとポリニスは刺し違えて死んだ。

 

プロローグで高橋紀恵演じるストーリーテラーがこのことを告げる。そして蒼井優が扮している女がアンチゴーヌの役割を受け持って芝居が進んでいくことになる。役というのはこの芝居においては重要だ。

 

現在、テーバイの王にはアンチゴーヌ達の親戚に当たるクレオン(生瀬勝久)が就いていた。アンチゴーヌはクレオンの息子であるエモン(渋谷謙人)と恋に落ちている。だが、エモンは以前はアンチゴーヌの姉であるイスメーヌ(伊勢佳代)と恋仲だったのだ。アンチゴーヌは死への思いを秘め、エモンもアンチゴーヌに導かれての死を覚悟しようとしていた。

 

アンチゴーヌが早朝に家を出てどこかに出掛けたことを乳母(梅沢昌代)が咎める。実はアンチゴーヌは次兄のポリニスに同情的であり、野ざらしにされているポリニスの遺体に弔いの砂をかけに行ったのだ。だが、クレオン王は、エテオークルを英雄としてその死を讃える一方で、ポリニスは反逆者として埋葬を禁じ、遺骸は風葬に任せるままだった。更にポリニスの亡骸に弔いの行為をすれば死罪に処すと厳命していたのだ。

 

アンチゴーヌ(二十歳とされている)は幼い頃からお転婆であり、聞き分けのない子だったが、それは訳知り顔で大人に従うことが嫌だったからだ。分からないことに対して分かった振りをしたくない(「わかりたくない」というセリフで表される)、したくないことは決してやらないという個の強いアンチゴーヌは、素直な姉のイスメーヌと対照的であった。二度目にポリニスの弔いに出たとき、アンチゴーヌは「想像力のない」衛兵(佐藤誓)に捕らえられる。アンチゴーヌは元より死は覚悟の上だったが、クレオンは「まだ若すぎる」としてアンチゴーヌを赦免しようとする。そこにはアンチゴーヌは義理の娘になるはずの存在であり、且つ死罪にすら値しないという考えの他に、政治のためにアンチゴーヌを死なせるわけにはいかないという事情もあった……。

 

堅牢な国家体制に対して「NO」を突きつけるアンチゴーヌの物語である。ライオスは「個」を主張するアンチゴーヌを国家としてのシステム脅かす者と感じていた。だが、その組織(システム)の頂上に君臨しているライオスでさえ組織は意のままにならない。
ライオスは王座に就くことを拒否することも出来たのだが、逃げるような真似はしたくないということで王の役割を引き受けることに決めたのだ。だが結局ライオスは国家体制の中に飲み込まれ、したくもないことをする羽目になっており、やむなく壮大な嘘もついていた。流れの中では個人がどうあがいても仕方がない。トルストイがナポレオン戦争について説いたように。ライオスは平凡な日常の中に生きる意味を見つけようとしていたが、アンチゴーヌはライオスに勧められた流される生き方を拒否し、「生」のために死を選ぶ。このあたりがジャン・アヌイらしい展開といえる。ライオスは小姓(塚瀬香名子)に「(組織の網に拘束された)大人になんてなるもんじゃない」「(システムを)知らないのが一番幸せだ」と語る。また3人の従者は何にも考えることなく「上が言ったからやる」を忠実に履行するだけの無知な歯車として描かれている。

 

人は組織(システム)に隷属するしかないのか? 自らが組織の成員であるにも関わらず、あるいは成員であるが故に。

 

時代に消されたアンチゴーヌだが、弔いの砂が天井から滝のように流れ続け、「アンチゴーヌを忘れない」という演出家のメッセージの中で劇は終わる。

 

蒼井優は決められたパーツパーツにきちんと嵌まっていくような演技を見せる。間近でこういう演技を見ていると結構気持ちが良いものである。あたかもコントロール抜群のエースピッチャーの投球を見ているかのように。
芸達者である生瀬勝久の重みのある演技も良かった。生瀬勝久は何でも出来るタイプである。

 

すぐそばで見ていたということもあり、「みんな思ったより演技演技してるなあ」と思ったのも確かであるが、ギリシャ悲劇の翻案劇であり、ある程度の型にはまっていることはテーマから考えても納得のいくことのように思う。見応えがあった。

 

 

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2017年5月20日 (土)

観劇感想精選(215) 「エレクトラ」

2017年4月29日 兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールにて観劇

午後6時30分から、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで、「エレクトラ」を観る。
女版エディプス(オイディプス)・コンプレックスであるエレクトラ・コンプレックスの語源としても有名な「エレクトラ」。ただギリシャ悲劇に限っても「エレクトラ」という作品はソフォクレス(ソポクレス)とエウリピデスのものがあり、更にアイスキュロスらによるエレクトラを巡るギリシャ悲劇が複数ある。
今回は、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスらのギリシャ悲劇を中心に、笹部博司が上演台本を制作し、鵜山仁が演出を手掛ける。出演は、高畑充希、村上虹郎、中嶋朋子、横田栄司、仁村紗和、麿赤児、白石加代子。
りゅーとぴあ(新潟市民文化芸術会館)の製作。

舞台下手袖に演奏のための空間があり、チューブラーベルズ、プリペアードピアノなどが生演奏される。

舞台中央にトーテムポールもしくはオベリスクのような柱が一本立っている。トロイア戦争の時代、ミュケナイの王・アガメムノン(麿赤児)の一人語りで物語り始まる。トロイアの王子・パリスがギリシャの王女・ヘレネを掠い、トロイアへと行ってしまったことからトロイア戦争が起こる。トロイアに向かおうとしてギリシャ軍だが風が止んでしまい、船が進まない。ここでアガメムノンはアルテミス神から長女のイピギネイアを生贄として捧げるようお告げを受かる。イピギネイアを生贄として差し出さない場合はギリシャ軍は進退窮まる。そこでアガメムノンは託宣通りイピギネイアを生贄として差し出した。だが、これにアガメムノンの妻でイピギネイアの母であるクリュタイメストラ(白石加代子)が激怒。クリュタイメストラは情夫であるアイギストス(横田栄司)を使ってアガメムノンを暗殺する。
アガメムノンとクリュタイメストラの次女であるエレクトラ(高畑充希)は母であるクリュタイメストラを毛嫌いしている。クリュタイメストラはアイギストスと再婚し、次女・エレクトラと三女のクリュソテミス(仁村紗和)は隠忍自重の日々。エレクトラの憎悪は日毎に増すばかりだ。
使者(麿赤児二役)に連れられて、オレステス(村上虹郎)がミュケナイに戻ってくる。エレクトラとクリュソテミスの実弟であるオレステスは他国に亡命していたのであるが、アポロン神の神託を受け、実父を殺害したクリュタイメストラとアイギストスに復讐しに来たのだ。アポロン神は「オレステスが死んだ」と偽の情報を流すことで王室を油断させるようオレステスに告げていた。

アイギストスの宮殿でエレクトラとクリュタイメストラが言い争いをしている時に、使者がやって来て、オレステスが死んだことを告げ、オレステスの最期をまことしやかに語る。オレステスによる復讐を唯一の生き甲斐にしていたエレクトラは絶望。「もう生きていたくない」とまで語る。
そこへクリュソテミスが、「オレステスが帰ってきた」と言いながらアイギストスの宮殿へ。クリュタイメストラに命じられてアガメムノンの墓を清めに行ったクリュソテミスは墓に髪の毛が手向けられているのを見て、オレステスの帰還を確信したのだ。本気にしないエレクトラだったが、やがて配達夫に扮したオレステスがアイギストスの宮殿に入ってくる。長い間、顔を合わせていなかったため、お互いが実の姉弟だと気づかないエレクトラとオレステスだったがやがて……。

第1幕の上演時間が約1時間40分、休憩を挟んで第2幕の上演時間が約1時間。第1幕がよく知られているソフォクレスの「エレクトラ」の筋書きであり、第2幕はそれとは別の物語が続く。
ギリシャ悲劇が原作であるがラストは悲劇的ではない。エレクトラの「この世に幸福の国を築きたい。それが私の希望、それが私の夢」という一人語りで芝居は終わる。

高畑充希は憑かれたような演技を見せるが、一つ一つの仕草や台詞回しがきちんと計算されたものであり、上手くコントロールされていることがわかる。全ての演技が方程式を解くように解明出来るからである。ということで、彼女は憑依型の女優ではないようだ。「実力派」として知られる高畑だけに、神経の行き届いた迫力のある演技を展開する。
ミュージカル女優として期待されている高畑なので、やはり歌のシーンがある。これはその直後に笑いの要素に変えられる。

白石加代子と麿赤児の存在感も流石。この世代の俳優はただいるだけで、ある意味、異種の空気を作り上げることが出来る。
中嶋朋子の安定感のある演技も優れていたし、村上虹郎と仁村紗和という二人の若手俳優の演技も新鮮だった。横田栄司は二役を演じたがが、いずれも出番は少なめ。アイギストスを演じていた時にはそれをネタにしたセリフもあった。


カーテンコール。高畑充希は、「私は大阪出身なので、親戚一同が、今日、来てます」と言い、これが初舞台でこれまた大阪出身という仁村紗和は、「素敵な観客の皆さんを前に、尊敬する先輩方と舞台に立つことが出来て幸せです」というようなことを述べた。

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