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2025年5月27日 (火)

音楽講談「京都博覧会」 四代目 玉田玉秀斎+かとうかなこ

2025年5月5日 京都劇場にて

午後4時から、京都劇場で、音楽講談「京都博覧会」を聴く。講談師の四代目 玉田玉秀斎とクロマチックアコーディオン奏者のかとうかなこの二人による公演。全席自由である。宣伝はほとんど行われておらず、入りは余り良くない。

左京区岡崎にある平安神宮が、元々は内国勧業博覧会のパビリオンとして建てられたものであることは比較的知られているが、それに至るまでの京都博覧会の数々や、そもそも京都で博覧会が行われるまでを玉田秀斎が創作講談として語る。

ちなみに、玉秀斎が、「講談を聞いたことがある人」と聞くと半分くらい手が上がったが、玉秀斎は、「余りいらっしゃらない」「講談は落語とは違います。講談は歴史を扱います。よく、『今日の落語面白かったわねえ』を仰るお客さんがいるんですが」「講談には落ちがありません。『今日の話、落ちがなかったわねえ』を言われたりしますが、それが普通です」

かとうかなこが、クロマチックアコーディオンについて聞くが、知っている人はほとんどいない。じゃあ、今日のお客さんは何しに来たんだろう? と思うが、本当に何しに来たのかは分からない。

 

玉田玉秀斎は、幕末の京都で活躍した神道講釈師・玉田永教の流れを汲む。学究肌で、三重大学大学院修士課程「忍者・忍術学コース」という、この大学院でしか学べないことを学び、昨年の4月からは和歌山大学大学大学院観光学研究科後期博士課程で「講談における忍術」を学んでいる。その他に京都検定2級取得。

かとうかなこは、大阪を拠点にしているアコーディオン奏者としては、一番目か二番目に有名な人である。大阪府豊中市出身。豊中には大阪音楽大学があるほか、幸田姉妹や児玉姉妹といった有名音楽家が輩出している。4歳からアコーディオンを始め、17歳の時に第8回全日本コンクール優勝。高校卒業後はパリに留学し、パリ市立音楽院、CNIMA国際音楽院に学ぶ。フランス時代には、「ほとんどアコーディオン奏者しかいない村」でひたすら演奏に励んだ経験も持つ。
実演に接するのは、3度目か4度目。昨年は、久石譲指揮日本センチュリー交響楽団のツアーに参加し、京都コンサートホールでも交響組曲「魔女の宅急便」でアコーディオンパートを弾いていたが、クレジットがなかった上、ステージから遠かったため、弾いていたのがかとうさんだと知ったのは、九州での公演がセンチュリー響のSNS上に載ってからであった。
今日は、製造後60年ほど経ったクロマチックアコーディオンを弾くが、途中で1920年製造の「おばあちゃん」アコーディオンも弾いた。
ちなみにクロマチックアコーディオン(ボタン式アコーディオン)は、右が54鍵、左が92鍵である。
演奏曲目は、「あこだん音頭」、「箱の中の少年」、「楽器遊び」、「その先にあるもの」、「はじまりの音」、「故郷の空」(スコットランド民謡)、「まるたけえびす」(演奏ではなく歌唱)、「あかね雲」、「ミルメルシー」、「20160902」、「リコモンス」「あこだんブギ」
今日は袴をはいた女学生のような格好である。

 

幕末、幕府の勢力は弱まり、西日本の志士が京都に出てきていた。特に長州の勢いが強く、倒幕を目指した。選んだ手段は人斬り。幕府側も黙っていないということで、京都は辻斬りが横行する物騒な場所となっていた。佐久間象山が暗殺され、禁門の変が起こり、京の7~8割が延焼により焼失(どんどん焼け)。徳川方の新選組や京都見廻組が街を闊歩し、3年後には龍馬暗殺がある。明治に入っても、横井小楠や大村益次郎が京で暗殺され、更に東京奠都があり、睦仁天皇が東京に移る。天皇が東京に移ると商家なども東京へ。ということで京都の人口は幕末の3分の2までに落ち込み、このままでは京都は狐や狸が跋扈する荒れ野に帰すということで、第2代京都府知事の槇村正直(長州出身)が、琵琶湖疎水や電車の計画を立てる(その他、新京極商店街を作ったりしている)。更に、山本覚馬(会津出身)が妹(山本八重)の婿である新島襄(安中藩出身者の家に生まれるが、生まれ育ちは江戸)と同志社英学校(現在の同志社大学の前身)を建て、更に外国語教育の重要性を呼びかけて、同志社英学校とは別の、国費による英学校、仏学校、独学校が建てられて、多くの学生が学んだ。彼らの多くが留学し、留学先で専門教育を受け、帰国後に旧制大学や旧制専門学校で教壇に立ち、日本語で授業を行うようになる。これが日本式の教育者輩出システムである。他の国は英語で教育を受け、英語で教えるシステムであるため、高等教育を母国語で受けることはほとんどない。
その他に、「学校がいる」ということで、学制が発布される前に番組小学校を創設。日本で初めて初等教育の基礎が出来上がった。
だが、やはり人が集まらないと京都は活気づかないということで、福沢諭吉の『西洋事情』にヒントを得て、博覧会を行うことにする。槇村正直の他、三井、小野、熊谷(鳩居堂)といった豪商が協力する。烏丸の東本願寺は街中にあるためにどんどん焼けで全焼したが、西本願寺は当時は街中近くの田舎で周りに田んぼと畑しかない堀川の地にあったため延焼を免れており、広大な寺地を会場に使える。更に洛外鴨東で火事の影響がなかった建仁寺と知恩院を会場として京都博覧会が行われた。神戸の外国人居留地から外国人も多く招かれた。
だが、振り返ってみると、「我々がやったのは骨董市じゃないか?」という反省が出て、「御所で博覧会をやろう」「動物園をやろう」などのアイデアが生まれ、実現される。
京都観光の目玉の一つである祇園甲部の都をどりも京都博覧会の出し物の一つとしてこの時に始まっている。

一方、東京では、政府主導の内国勧業博覧会が上野を会場に行われていた。上野で3回行ったが、今度は東京以外でやろうということになり、京都と大阪が手を挙げた。第4回の会場に決まったのは京都。開催されるのが1895年で、平安遷都(794年)から1100年が経つというのも後押しになった。なお、大阪では第5回の内国勧業博覧会が行われたが、内国勧業博覧会が行われたのは大阪が最後になった。

メイン会場として、平安京大内裏の朝堂院の8分の5サイズでの復元が計画されたが、本来それがあった千本丸太町付近の用地買収には失敗し、かつては白河と呼ばれた岡崎の地での復元と、メイン会場設置が決定。岡崎は、日本初の水力発電所のある蹴上からも近いことから、岡崎から京都駅までの電車が引かれ、日本初の本格的電車運行がスタートした。第4回内国勧業博覧会は多くの人を京の街に呼び、大成功となる。
朝堂院は、桓武天皇を祀る平安神宮の社殿となる(その後、孝明天皇も合祀)。そして今では京都三大祭の一つに数えられる時代祭が始まるのであった。

この間、かとうが客席通路を歩き、あちこち回りながら演奏を行う。

最後はスクリーンが降りてきて、様々な史料や京都博覧会や第4回内国勧業博覧会の絵や写真などが示される。

上演時間が短いように感じられたが、実際は約80分と、通常の講談よりは長めであった。

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2024年11月27日 (水)

「PARCO文化祭」2024 2024.11.17 森山未來、大根仁、リリー・フランキー、伊藤沙莉、カネコアヤノ、神田伯山

2024年11月17日 東京・渋谷公園坂のPARCO劇場にて

東京へ。渋谷・公園坂のPARCO劇場で、「PARCO文化祭」を観るためである。

午後6時から、渋谷のPARCO劇場で、「PARCO文化祭」を観る。俳優・ダンサーの森山未來と、「TRICK」シリーズや「モテキ」などで知られる映像作家・演出家の大根仁がプレゼンターを務める、3夜に渡る文化祭典の最終日である。

新しくなったPARCO劇場に入るのは初めて。以前のPARCO劇場の上の階にはパルコスペースパート3という小劇場もあり、三谷幸喜率いる東京サンシャインボーイズが公演を行っていたりしたのだが(個人的には柳美里作の「SWEET HOME」という作品を観ている。結構、揉めた公演である)。今のPARCO劇場の上の階には劇場ではなく、アート作成スペースのようなものが設けられている。また、大きな窓があり、渋谷の光景を一望出来るようにもなっている。

PARCO劇場の内装であるが、昔の方が個性があったように思う。今は小綺麗ではあるが、ごく一般的な劇場という感じである。ただ、屋外テラスがあって、外に出られるのはいい。
PARCO劇場の内部は赤色で統一されていたが、それは現在も踏襲されている。

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今日はまず森山未來らによるダンスがあり(3夜共通)、リリー・フランキーと伊藤沙莉をゲストに迎え、森山未來と大根仁との4人によるトーク、そしてシンガーソングライターのカネコアヤノによるソロライブ、神田伯山による講談、ZAZEN BOYSによるライブと盛りだくさんである。神田伯山の講談とZAZEN BOYSによるライブの間に休憩があるのだが、ZAZEN BOYSのライブを聴いていると今日中に京都に戻れなくなってしまうため、休憩時間中にPARCO劇場を後にすることになった。

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森山未來らによるダンス。出演は森山未來のほかに、皆川まゆむ(女性)、笹本龍史(ささもと・りょうじ)。楽曲アレンジ&演奏:Hirotaka Shirotsubaki。音楽の途中に「PARCO」という言葉が入る。森山未來がまず一人で上手から現れ、服を着替えるところから始まる。照明がステージ端にも当たると、すでに二人のダンサーが控えている。ここからソロと群舞が始まる。ソロは体の細部を動かすダンスが印象的。群舞も力強さがある。振付は森山未來が主となって考えられたと思われるが、洗練されたものである。
森山未來は神戸出身ということもあって関西での公演にも積極的。今後、京都でイベントを行う予定もある。

大根仁が登場して自己紹介を行い、「もう一人のプレゼンター(森山未來)は今、汗だくになっている」と説明する。程なくして森山未來も再登場した。

そのまま、リリー・フランキーと伊藤沙莉を迎えてのトーク。伊藤沙莉であるが、リリー・フランキーに背中を押されながら、明らかに気後れした態度で上手からゆっくり登場。何かと思ったら、「観客とコール&レスポンス」をして欲しいと頼まれてコールのリハーサルまで行ったのだが、どうしても嫌らしい。楽屋ではうなだれていたようである。伊藤沙莉というと、酒飲んで笑っている陽気なイメージがあるが、実際の彼女は気にしいの気い遣い。人見知りはするが一人行動は苦手の寂しがり屋という繊細な面がある。リリー・フランキーが、「私が目の中に入れて可愛がっている沙莉」と紹介し、「(コール&レスポンスが)どうしても嫌だったら、やらなくていいんだよ」と気遣うが、伊藤沙莉は、「やらないと終わらないし」と言って、結局はやることになる。作品ごとに顔が違う、というより同じ映画の中なのに出てくるたびに顔や声が違うという、「どうなってんの?」という演技を行える人であるが、実物は丸顔の可愛らしい人であった。丸顔なのは本人も気にしているようで、SNSに加工ソフトを使って顔を細くし、脚を長くした写真を載せたところ、友人の広瀬アリスが激やせしたのかと心配して、「沙莉、どうした?」と電話をかけてきたという笑い話がある。「めっちゃ、はずかった」らしい。
丸顔好きで知られる唐沢寿明に気に入られているんだから別にいいんじゃないかという気もするが。

なお、リリー・フランキーと伊藤沙莉は、「誰も知らないドラマで共演していて、誰も知らない音楽番組の司会をしていて、誰も知らないラジオ番組をやっている」らしい。伊藤は、「FOD(フジテレビ・オン・デマンド)」と答えて、配信されているのは把握しているようだが、地上波でやっているのかどうかについては知らないようであった。ちなみに、誰も知らないドラマで伊藤沙莉の母親役に、丸顔の山口智子が選ばれたらしいが、顔の形で選んでないか? すみません、「丸顔」でいじりまくってますけど、Sなんで好きなタイプの人には意地悪しちゃうんです。

伊藤沙莉が嫌がるコール&レスポンスであるが、大根がまず見本としてやってみせる。客席の該当する人は、「Yeah!」でレスポンスする。
リリー・フランキーが大根に、なんでコール&レスポンスをするのか聞く。
PARCO文化祭の初日のトークのゲストがPerfumeのあ~ちゃんで、「Perfumeのコール&レスポンスがある」というので、まずそれをやり、2日目のトークのゲストの小池栄子にコール&レスポンスの打診をしたところ、「やります」と即答だったので、3日目は伊藤沙莉にやって貰うことにしたらしい。リリー・フランキーは、「あ~ちゃんは歌手でしょう。小池栄子は割り切ってやる人でしょ」と言っていた。確かに小池栄子は仕事を断りそうなイメージがない。若い頃はそれこそなんでもやっていたし。
で、伊藤は本当はやりたくないコール&レスポンスだが、仕事なのでやることになる。
「男の人!」「女の人!」「それ以外の人!」で、「それ以外の人!」にもふざけている人が大半だと思うが反応はある。リリー・フランキーは、「今、ジェンダーの問題」と言っていた。
その後も続きがあって、「眼鏡の人!」「コンタクトの人!」「裸眼の人!」「老眼の人!」と来て、最後に「『虎に翼』見てた人!」が来る。「虎に翼」を見ていた人は思ったよりも多くはないようだった。
伊藤は、この後残るとまた何かやらされそうで嫌なので、出番が終わった後すぐに行く必要のある仕事を入れたそうである。

ここで椅子が運ばれてくるはずだったのだが、運ばれてきたのは椅子ではなく箱馬を重ねたもの(「箱馬」が何か分からない人は検索して下さい。演劇用語です)。レディーファーストなのか、伊藤沙莉のものだけ、上にクッションが乗せられていた。大根が、「出演者にお金を掛けたので、椅子に使う金がなくなった」と説明していたが、まあ嘘であろう。

建て替えられる前のPARCO劇場についてだが、伊藤沙莉は朗読劇の「ラヴ・レターズ」を観に来たことがあるという。旧PARCO劇場には出る機会がなく、新しくなったPARCO劇場には、「首切り王子と愚かな女」という舞台で出演しているので、背後のスクリーンに「首切り王子と愚かな女」(作・演出:蓬莱竜太)の映像が映し出される、WOWOWで放送されたものと同一の映像だと思われる。面白いのは、男性3人は座ったまま後ろを振り返って映像を見ているのだが、伊藤沙莉だけは、客席とスクリーンの間にいるので気を遣ったということもあるだろうが、椅子代わりの箱馬から下り、床に膝をついてクッションに両手を乗せ、食い入るように映像を見つめていたこと。この人は映像を見るのが本当に好きなのだということが伝わってくる。リリー・フランキーは、長澤まさみの舞台デビュー作である「クレイジー・ハニー」(作・演出:本谷有希子)で旧PARCO劇場の舞台に立っており、「クレイジー・ハニー」の映像も流れた。ちなみにリリー・フランキーは舞台作品に出演したことは2回しかないのに2回とも旧PARCO劇場であったという(私は名古屋の名鉄劇場で「クレイジー・ハニー」を観ている。大阪の森ノ宮ピロティホールでの公演のチケットも取ったのだが都合で行けず、ただ「長澤まさみの舞台デビュー作は観ておかないといけないだろう」ということで名古屋公演のチケットを押さえた。カーテンコールで長澤まさみは嬉し泣きしていた)。

伊藤沙莉は笑い上戸のイメージがあるが、実際に今日もよく笑う。ただPARCOの話になり、千葉PARCOについて、「何売ってんの? 何か売ってんの?」とリリー・フランキーが聞いた時には、「馬鹿にしないで下さい!」と本気で怒り、郷土愛の強い人であることが分かる。実際、千葉そごうの話だとか、JR千葉駅の話などをしてくれる芸能人は伊藤沙莉以外には見たことがない。100万近い人口を抱えているということもあり、千葉市出身の芸能人は意外に多いが、余り地元のことを話したがらない印象がある。木村拓哉も若い時期を過ごした時間が一番長いのは千葉市で、実家も千葉市にあるのに、千葉の話をしているのは聞いたことがない。プロフィールでも出身地は出生地である東京となっている。しばしば神奈川愛を語る中居正広とは対照的である。原田知世も千葉県佐倉市に住んでいた頃は、よく千葉そごうに買い物に来ていたようだが、そんな話も公でしているのは聞いたことがない。郷土愛の強さからいって、これからは千葉市出身の芸能人の代表格は伊藤沙莉ということになっていくのだろう。

なお、残念ながら千葉PARCOは現在は存在しない。千葉市のショッピングというと、JR千葉駅の駅ビル「ペリエ」、その南側にある千葉そごう、JR千葉駅および京成千葉駅から京成千葉中央駅まで京成千葉線とJR外房線の高架下に延びる屋内商店街(C・ONEっていったかな?)、千葉駅前大通りに面した富士見町(旧千葉そごうで今はヨドバシカメラが入っていた塚本大千葉ビルと千葉三越など。千葉三越は撤退済み)、千葉駅からモノレール及びバスで少し行った中央三丁目(バス停はそのまま「中央三丁目」、千葉都市モノレールは葭川公園駅。千葉銀座商店街がある)などが主な場所だが、中央三丁目にあったセントラルプラザと千葉PARCOはいずれも営業を終えており、セントラルプラザがあった場所には高層マンションが建っている。セントラルプラザ(略称は「センプラ」。創業時は奈良屋。火災に遭ったことがあり、奈良屋の社長が亡くなっている)は、CX系連続ドラマで、真田広之と松嶋菜々子が主演した「こんな恋のはなし」に、原島百貨店の外観として登場し(内装は別の場所で撮影)、原島百貨店の屋外に面したディスプレイの装飾を手掛けている松嶋菜々子とそれを見守る真田広之の背後に、東京という設定なのに千葉都市モノレールが映っていた。「こんな恋のはなし」は松嶋菜々子の代表作と呼んでもよい出来で、おそらくこの作品出演時の彼女は他のどの作品よりも美しいと思われるのだが、残念ながらソフト化などはされておらず、今は見られないようである。
千葉PARCO跡地にも高層マンションが建つ予定だが、PARCOの系列である西友が入ることになっている。
なお、大阪では、大丸心斎橋店北館が心斎橋PARCOになり、そごう劇場として誕生した小劇場兼ライブスペースが大丸心斎橋劇場を経てPARCO SPACE14(イチヨン)と名を変えて使用されている。
森山未來が、「神戸にはPARCOはない」と言い、リリー・フランキーも「北九州にある訳がない。暴力団しかいない」と言い、大根が「工藤會」と続けて、伊藤が「そんな具体的な」と笑っていた。

ちなみに、伊藤沙莉は森山未來からのオファーで呼ばれたようで、二人は映画&Netflix配信ドラマ「ボクたちはみんな大人になれなかった」で共演していて、濃厚なあれあれがあるのだが、そういう人と別の仕事をする時はどういう気持ちになるのだろう。なお、撮影は渋谷一帯を中心に行われており、ラストシーンはすぐそこのオルガン坂で撮られたのだが、渋谷名所のスペイン坂などと違い、オルガン坂は余りメジャーな地名ではないので、森山未來も伊藤沙莉もオルガン坂の名を知らなかったようである。

大根が、「毎日リアルタイムで見てました。『虎の翼』」とタイトルを間違え、リリー・フランキーに訂正される。リリー・フランキーは、「今年のドラマといえば、『虎に翼』か(大根が監督し、リリー・フランキーが出演している)『地面師たち』。でも『「地面師たち」見てます』と言ってくる人、反社ばっか」と嘆いていた。

伊藤沙莉が紅白歌合戦の司会者に選ばれたという話。リリー・フランキーは、「歌うたえよ、上手いんだから。『浅草キッド』うたえよ」と具体的な曲名まで挙げてせがんでいるそうだ。伊藤本人は歌うことには乗り気でないらしい。
リリー・フランキーは紅白歌合戦の審査員を務めたことがあるのだが、トイレ休憩時間が1回しかなく、それも短いので、時間内に戻ってこられなかったそうだ。伊藤に、「どうする? おむつする?」と言って、「流石にそれは」という表情をされるが、「衣装どうしようか迷ってるんですよ」とは話していた。
紅白で失敗すると伝説になるから気を付けるようにという話にもなり、「都はるみを美空ひばりと間違えて紹介」、加山雄三が「少年隊の『仮面舞踏会』」と紹介すべきところを「少年隊の『仮面ライダー』」と言ったという話などが挙げられる。加山雄三の「仮面ライダー」はYouTubeなどにも上がっていて、見ることが出来る。


続いてカネコアヤノのソロライブ。昨日、島根でライブを行い、今日、東京に移動してきたそうだ。アコースティックギターを弾きながらソウルフルな歌声と歌詞を披露する。ギターも力強く、同じメロディーを繰り返すのも特徴。ただ、歌い終えて森山未來と大根仁とのトークになると、明るく爽やかで謙虚な人であることが分かる。作品と人物は分けて考えた方がいい典型のようなタイプであるようだ。


講談師(「好男子」と変換された)の神田伯山。「今、最もチケットの取れない講談師」と呼ばれている。森山も、「(PARCO文化祭も)伯山さんだけで一週間持つんじゃないですか?」と語っていた。
私は、上方の講談は何度か聞いているが、江戸の講談を聞くのはおそらく初めてである。同じ講談でも上方と江戸ではスタイルが大きく異なる。
「PARCO劇場では、落語の立川志の輔師匠がよく公演をされていますが、落語と講談は少し違う」という話から入る。
講談は早口なのでよく間違えるという話をする。出てくるのは徳川四天王の一人で、「蜻蛉切」の槍で有名な本多平八郎忠勝(上総大多喜城主を経て伊勢桑名城主)。「本多平八郎忠勝。槍を小脇に、馬を駆け巡らせ」と言うべきところを、つい「本多平八郎忠勝、馬を小脇に、槍を駆け巡らせ」と言ってしまうも講談師本人は気付いていないということがあるそうである。

信州松本城主、松平丹波守が、参勤交代で江戸に向かう途中、碓氷峠で紅葉を眺めていた時のこと。妙なる音色が聞こえてきたので、「あれは何だ?」と聞くと、「江戸で流行りの浄瑠璃というもののようでございます」というので、浄瑠璃を謡い、奏でていた二人が呼ばれる。伯山は、「浄瑠璃は今でいうヒット曲、あいみょんでございます。と言ったところ、あいみょんのファンから『お前にあいみょんの何がわかる』と苦情が来た」という話をしていた。
その、江戸のあいみょんに浄瑠璃の演奏を頼む松平丹波守。二人は迷ったが演奏を行い、松平丹波守からお褒めの言葉を賜る。ただ、二人は松平伊賀守の家臣で、他の大名の前で浄瑠璃を演奏したことがバレると色々とまずいことになるので、内密にと願い出る。ただ松平丹波守は、江戸で松平伊賀守(信州上田城主)に碓氷峠で面白いことがあったと話してしまい、口止めされていたことを思い出して、「尾上と中村というものが猪退治を行った」と嘘をつく。そこで松平伊賀守は、家臣の尾上と中村を見つけ出し、猪退治の話をするよう命じる。なんでそんなことになったのか分からない尾上と中村であったが、即興で猪退治の講談を行い、松平伊賀守にあっぱれと言われたという内容である。
伯山の講談であるが、非常にメロディアスでリズミカル。江戸の人々は今のミュージカルを聴くような感覚で講談を聴いていたのではないかと想像される。江戸の講談を聴くのは今日が初めてなので、他の人もこのようにメロディアスでリズミカルなのかどうかは分からないが、これに比べると上方の講談はかなり落ち着いた感じで、住民の気質が反映されているように思える。

森山未來が登場し、「伯山さんの講談を是非聴きに行って下さい。チケット取れませんけどね」と語った。


ちなみに私は、旧PARCO劇場を訪れたのは数回で余り多くはない。1990年代には、芸術性の高い作品は三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで上演されることが多く、三茶によく行っていた。
旧PARCO劇場で良かったのは、何と言っても上川隆也と斎藤晴彦版の初演となった「ウーマン・イン・ブラック」。上川と斎藤版の「ウーマン・イン・ブラック」は、その後、大阪で2回観ているが、ネタを知った上での鑑賞となったので、PARCO劇場での初演が一番印象的である。私がこれまで観た中で最も怖い演劇で、見終わってからも1週間ほど家族に「上川隆也良かったなあ」と言い続けていた記憶がある。

朗読劇「ラヴ・レターズ」は、妻夫木聡のものを観ている。相手の女優の名前は敢えて書かない。検索すればすぐに出てくると思うが。ラストシーンで妻夫木聡は泣いていた。
朗読劇も劇に入れるとした場合、この作品が妻夫木聡の初舞台となる。

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2024年4月15日 (月)

近鉄アート館復活10周年記念 春の演芸ウィーク「ブギウギ講談 笠置シヅ子と服部良一の時代」

2024年4月3日 あべのハルカス近鉄本店ウイング館8階・近鉄アート館にて

午後6時から、あべのハルカス近鉄本店ウイング館8階にある近鉄アート館で、近鉄アート館復活10周年記念 春の演芸ウィーク「ブギウギ講談 笠置シヅ子と服部良一の時代」に接する。共に大阪育ちで、作曲家と歌手として師弟関係にあった服部良一と笠置シヅ子の二人の音楽人生を講談に仕立てたもの。出演:四代目玉田玉秀斎、演奏:スイートルイジアナ楽団、歌手:前川歌名子、ゲスト:桜花昇ぼる(おうか・のぼる。元OSK日本歌劇団トップスター)。

約100年前、大阪・船場は北浜二丁目の料亭「灘万」で日本初のジャズ・サックスプレーヤーと呼ばれる前野港造らによってジャズが毎晩演奏され、ジャズが大阪に広まっていく。その後、少年音楽隊ブームが起こり、服部良一も鰻屋チェーンである「出雲屋」の少年音楽隊結成を聞いて応募。1番の成績で入り、ここでサックス、フルート、バンジョー、オーボエ、ピアノなどを習うことになる。我流で編曲や作曲も始めた。

服部は尋常小学校時代は成績優秀で試験はトップ争い。級長も務めたことがあるが、実家が貧しかったため中学校には進めず、尋常高等科に2年通い、その後、夜学の大阪実践商業に進み、昼は大阪電通の下っ端として働いて学費を捻出して、貿易商を目指すが、その頃に出雲屋少年音楽隊に入り、貰った給金で学費を払える上に出雲屋少年音楽隊も夜学に通うことを許してくれたため、大阪電通は辞めている。出雲屋少年音楽隊の結成式が行われたのは1923年9月1日。関東大震災が起こった日で、大阪でも式の最中に余震があったという。関東大震災で壊滅した東京から多くのジャズメンが大阪に移り、大阪のジャズは最盛期を迎えるようになる。大阪実践商業を卒業した服部は、大阪放送局(後のNHK大阪放送局)が組織した大阪フィルハーモニック・オーケストラ(放送用オーケストラで、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団とは別団体。現在の大阪フィルは、NHKが所持していた大阪フィルハーモニーの商標を朝比奈隆が買い取って関西交響楽団から改称したものである)の第2フルート奏者となり、ここで大阪フィルハーモニック・オーケストラの指揮者を務めていたエマヌエル・メッテルと出会い、神戸の自宅まで和声学、対位法、管弦楽法、指揮法のレッスンに通うようになる。大阪フィルの内職としてジャズの演奏を始めた服部。ジャズのメッカとなっていた道頓堀のカフェでジャズの演奏を行い、ボーカルも務めて、特に「テル・ミー」という曲を十八番としていたことで、「テルミーさん」というあだ名が付くほどだったという。ということで、今回の公演ではスイートルイジアナ楽団によって「テル・ミー」の演奏と歌唱が行われたりもした。スイートルイジアナ楽団は、エノケンこと榎本健一がヒットさせた「私の青空」も披露する。

一方の笠置シヅ子は、服部の7歳下である。現在の香川県東かがわ市の生まれ。非嫡出子であり、母親の乳の出が悪かったため、丁度お産で大阪から里帰りしていた亀井うめという女性に添え乳をして貰っていたのだが、うめの情が移り、養女として貰い受けることになる。ちなみに笠置シヅ子の最初の名は、亀井ミツエであり、その後、志津子を経て静子が本名となっている。我が子とシヅ子を連れて大阪へと帰ったうめ。大阪駅で待ち構えていた夫の音吉は、「双子かいな」と驚いたという。
尋常小学校を出たシヅ子は、宝塚音楽学校を受験。常識試験や面接の出来は良かったが(歌唱の試験はなかった)、背が小さく痩せていたため、体格検査で不合格となってしまう。負けん気の強いシヅ子は、両親に落ちたとは言わず、「あんなとこ好かん。やめてきてしもた」と嘘を言い、道頓堀の松竹座を本拠地としていた松竹楽劇部(のちのOSSKこと大阪松竹少女歌劇団、現在のOSK日本歌劇団の前身)の養成所に押しかける。当時、松竹楽劇部養成所は生徒を募集していなかったが、何日も事務所に通い詰め、強引に入団を勝ち取ってしまう。この場面で桜花昇ぼるが客席通路から現れ、松竹への押しかけ入団の場面では、OSKのテーマソングである「桜咲く国」を歌う。桜花昇ぼるは、OSK日本歌劇団の元男役トップであるが、今日は女性の格好で登場。ドレスに着物にと次々に衣装を替えた。
桜花昇ぼるのステージに接するのは10年ぶり、前回は奈良県文化会館国際ホールで行われた、ムジークフェストならの関西フィルハーモニー管弦楽団とのジョイントコンサートで、まだOSKに男役トップとして在籍中であった。

今回の公演は、桜花昇ぼるが笠置シヅ子のナンバーを歌い、前川歌名子がその他の楽曲を受け持つ。まず前川がジャズナンバー2曲をしっとりとした声で歌った。

松竹少女歌劇団に入ったシヅ子は先輩の世話などの下積みやレッスンに精を出し、更には舞台を食い入るように見つめてセリフを全て覚え、怪我人や病人が出た時にいつでも代役として出られるよう備えた。
18歳の時に香川を訪れた際に自身の出生の秘密を知ったシヅ子。実母とも対面するが話が弾むことはなく、実父の形見の時計を受け取っただけであった。
やがてOSSKで頭角を現すようになったシヅ子は、東京で新しく組織されることになった男女混合のレビュー劇団、松竹楽劇団(SGD)に招かれ、ここの作曲家兼編曲家、第2指揮者となった服部良一と出会う。服部は、「大阪で一番人気のある歌手がやって来る」と聞き、「どんなプリマドンナか」と胸を弾ませていたのだが、やって来たのは頭に鉢巻きを巻き、下がり眉の目をショボショボさせた小柄な女性で、「笠置シヅ子です。よろしゅう頼んまっせ」と挨拶された服部は失望したという。しかしその夜の稽古を見て服部のシヅ子に対する印象は一変。長いつけまつげの下の目はパッチリ開き、舞台を所狭しと動き回るシヅ子に魅せられた服部は彼女のファンを自認するまでになった。
服部と笠置の名コンビはまず、「ラッパと娘」を披露する。桜花昇ぼるは、かなり速めのテンポで「ラッパと娘」を歌ったが、録音で残された「ラッパと娘」における笠置の歌声は、今の平均的な楽曲に比べるとテンポがかなり遅いようで、服部良一の孫である服部隆之もそのことを指摘している。ということで今の時代に合わせたアレンジだったようだ。
桜花昇ぼるは、アドリブも駆使しており、ジャジーな味わいをより深いものにしていた。

戦時色が濃くなり、音楽家達は各地に慰問に出掛けるようになる。服部も志願して中国へと慰問に渡る。作曲家は慰問の対象にはならなかったので、サックスプレーヤーとして渡ったようだ。蘇州を経て、杭州に渡り、西湖に船を浮かべてソプラノ・サックスを吹いた時に浮かんだのが、「蘇州夜曲」の元となる旋律だったそうで、服部の種明かしによると蘇州は全く関係ないそうだ。
前川が「蘇州夜曲」を歌う。「蘇州夜曲」は映画では李香蘭が歌っているが、レコードでは渡辺はま子と霧島昇のデュエット曲としてコロムビアから発売されている。

戦争が激化を見せ、時流に合わなくなった松竹楽劇団は解散。ジャズを歌っていたため敵性歌手と見なされ、丸の内界隈で歌うことが出来なくなった笠置シヅ子は服部良一の尽力で「笠置シズ子とその楽団」を結成し、地方公演に活路を見出す。名古屋を訪れた時に、シヅ子は眉目秀麗の青年と出会う。元々、笠置シヅ子は面食いで美男子に弱い。その青年の正体は、吉本興業を女手一つで大企業に育て上げた吉本せいの一人息子である吉本穎右(えいすけ)と判明する。ちなみに玉田玉秀斎は、本名は吉本というそうだが、吉本興業とは縁もゆかりもなく、ただ親しみを覚えるだけだそうである。
笠置シヅ子の大ファンだったという穎右はこの時、早稲田大学仏文科の学生で9歳年下であった。神戸での公演を控えていたシヅ子。穎右は大阪に帰る前に和歌山まで行く予定だったのだが、変更して神戸まで同行することになる。
その後、東京に帰った二人は、9歳差という年齢を超えて愛し合うようになる。朝ドラ「ブギウギ」とは違い、穎右は結婚したらシヅ子には歌手を辞めて貰う予定で、シヅ子もそのつもりだった。穎右は結婚を認めて貰うために早大を中退し、吉本の東京支社で働き始めるが、仕事の整理のために大阪に帰ることにし、シヅ子も帰阪する穎右を琵琶湖まで送り、湖畔の宿で別れを惜しんだ。穎右はここで服部良一作曲の「湖畔の宿」を口ずさんだそうで、前川が再び登場し、「湖畔の宿」を歌う。

東京に戻ったシヅ子は妊娠を知る。すぐ穎右に知らせ、穎右も喜ぶが、帰京するはずがいつまで経っても戻る様子がない。体調が悪いようで、風邪ということであったが、病状がそれより悪いのは明らかであった。身重の体で「ジャズ・カルメン」に主演した笠置であるが、客席に穎右が現れることはなかった。大阪からは穎右の容態悪化の報が次々に届き、出産を間近に控えた時期に穎右は西宮の実家において25歳の若さで他界してしまう。
その10日後に笠置は女の子を産んだ。穎右は、生まれた子が「男だったら静男、女だったらヱイ子と名付けてほしい」と遺言しており、吉本静男名義の預金通帳が後日送られてきた。

シヅ子は、引退の撤回を決め、日本の復興ソングの作曲を服部に頼む。服部がコロムビアで霧島昇の「胸の振り子」のレコーディングを終え、家路につく電車の中で吊革につかまっていた時、ガタンゴトンというレールの響きと吊革の揺れがエイトビートに聞こえ、メロディーが浮かぶ。服部は最寄り駅で降りて駅前の喫茶店に駆け込み、紙ナプキンを五線紙代わりにして浮かんだばかりのメロディーを書き付けた。こうして生まれたのが、不朽の名曲「東京ブギウギ」である。
「東京ブギウギ」の録音は、内幸町にあった東洋拓殖ビル内のコロムビアの吹込所で行われたのだが、録音の時間が近づくと米軍の下士官が続々と入ってくる。「東京ブギウギ」の原詩を手掛けたのは、仏教哲学者・鈴木大拙の息子で、通訳などもしていたジャーナリストの鈴木勝であるが、東洋拓殖ビルの隣にあり、進駐軍が下士官クラブとして接収していた政友会ビルで英語の得意な鈴木が自作の録音が行われることを触れ回り、それが広まってしまったようで、下士官のみならず音楽好きの将校や軍属までもが噂を聞きつけて見物にやってきた。そんな中で録音が行われ、「東京ブギウギ」は米兵達に大受け。大合唱まで始まってしまう。服部はブギの本場であるアメリカ人達に好評だったことに喜びを感じたという。
桜花は、笠置の動きを元にしたオリジナルの振付で「東京ブギウギ」を熱唱する。

シングルマザーとして生きる道を選んだ笠置の姿は多くの未亡人に勇気を与えた。

シヅ子は、新しいブギを服部に依頼する。服部はアメリカではコールアンドレスポンスが流行っているということで、「ヘイヘイブギー」を笠置に提供。桜花も観客と「ヘイヘイ」 のコールアンドレスポンスを行った。

服部が他の歌手のために書いた曲を1曲ということで、淡谷のり子の「雨のブルース」が前川によって歌われる。

一方、笠置の曲を巧みに歌う少女の存在が話題となっていた。「ベビー笠置」「豆ブギ」などと呼ばれたこの少女がのちの美空ひばりである。幼い頃の美空ひばりは笠置シヅ子の持ち歌を物真似しており、笠置と服部がアメリカ横断ツアーを行う1ヶ月前に、一足早くアメリカツアーを行うことを決定。しかしこれに服部が難色を示す。ひばりが歌うのは笠置の楽曲ばかり。ということで先に歌われてしまうとひばりが本家で笠置が二番手のように誤解されてしまう。そこで服部は日本著作権協会を通して、ひばりにアメリカで自身の楽曲を歌うことを禁じた。
その後、ひばりは、人真似ではなく独自の音楽性を持った楽曲を発表し、江利チエミ、雪村いづみと共に三人娘として次代を牽引していくこととなる。
そんなひばりのナンバーから初期の「東京キッド」(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)が前川によって歌われた。

笠置が次に狙うのは紅白歌合戦用のナンバー。書かれたのは「買い物ブギー」である。笠置は第2回の紅白歌合戦で「買い物ブギー」を歌っている。
この講談では大阪弁を全国に広めるための楽曲として制作されたことになっている。笠置と服部のブギーシリーズの中で初動売り上げ枚数が最も多かったのが、この「買い物ブギー」。2番目は「東京ブギウギ」ではなく「大阪ブギウギ」だったはずである。インターナショナルな「東京ブギウギ」とは違い、ローカル色豊かな「大阪ブギウギ」は長い間忘れられた存在となっていたが、最近、NHKの「名曲アルバム」において矢井田瞳の歌唱で取り上げられるなど、再評価される可能性が高まりつつある。
「買い物ブギー」は、ハワイでも大ヒットしたようで、アメリカ横断ツアーの最初の目的地であるハワイで町を歩いていると、服部は「おっさんおっさん」、笠置は「ワテほんまによう言わんワ」と呼びかけられたそうである。
当時としてはかなりの長編で、最初のバージョンはSPレコードに収まりきらずカットがされている。このオリジナル版は映画で用いられ、今ではYouTubeで見ることが出来るが、放送自粛用語が入っており、リメイク版では歌詞が変わっている。今回も当然ながらリメイク版の歌詞での歌唱である。
着物姿で登場した桜花は、関西人(奈良県斑鳩町出身)の利点を生かして、コミカル且つニュアンス豊かにこの歌を歌い上げる。

本編はここまでで終わりなのだが、アンコールとして、笠置の歌手引退と、次世代へのバトンタッチの意味を込めた楽曲として、桜花と前川が「たよりにしてまっせ」を歌う。KinKi Kidsがカバーしているということもあって比較的知られた曲である。この曲も全編に大阪弁が用いられている。一応、笠置最後のレコーディング曲なのだが、資料によるとその後に「女床屋の歌」という作品が録音はされていないものの舞台用楽曲として制作されているようで、「たよりにしてまっせ」が笠置最後の歌とは必ずしも言えないようである。
最後は、桜花と前川のデュオで再び「東京ブギウギ」が歌われた。

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2017年3月17日 (金)

観劇感想精選(205) 第3回勘緑文楽劇場公演「エディット・ピアフ物語」

2017年3月5日 大阪・日本橋の国立文楽劇場にて観劇

午後4時30分から、大阪・日本橋(にっぽんばし)にある国立文楽劇場で、第3回勘緑文楽劇場公演「エディット・ピアフ物語」を観る。


勘緑文楽劇場は、元文楽協会技芸員で、現在は人形座「木偶舎(もくぐしゃ)」主宰である勘緑が人形浄瑠璃の新しい可能性を求めて、2012年1月に33年在籍した文楽座を辞して始めた新文楽である。勘緑は、現在、人形浄瑠璃とくしま座芸術監督、筑前艶恋座代表でもある。

洋服を着た人形が行う文楽を観るのは、今回が初めてである。シャンソン歌手の代名詞であるエディット・ピアフ(本名:エディット・ジョヴァンナ・ガション)の生涯を文楽で描こうという試み、文楽だけでなく、講談、シャンソン、フレンチジャズ、マジック、アクロバットなどあらゆる要素を取り入れたSHOWになっている。

講談師を務めるのは、4代目・玉田玉秀斎(たまだ・ぎょくしゅうさい)。2000年に大阪市立大学法学部を卒業後、司法浪人をしていたが、「講談師も弁護士も最後に“し”がついてるから一緒や」と旭堂南陵に言われて講談師になったという変わり種。日本語の他に英語、スウェーデン語をこなす。1993年から翌年にかけてスウェーデンへ交換留学に行っており、ストックホルムで行われたノーベル賞の授賞式にも参加しているという。昨年11月に4代目・玉田玉秀斎を襲名したばかりである。

今回の公演では、義太夫の代わりに玉田玉秀斎が全ての語りをこなす。

玉秀斎は舞台下手に陣取り、舞台上手がバンドスペースとなっている。演奏者は、川瀬眞司(ギター、音楽プロデューサー)、山本佳史(ギター)、中村尚美(ウッドベース)、かとうかなこ(クロマチックアコーディオン)、高橋誠(ヴァイオリン)。シャンソン歌手のZaZaがヴォーカリストとして参加し、パフォーマーのKAMIYAMAがマジックとパントマイム、吉田亜希がアクロバティックダンスを行う。

開演5分前に、勘緑が人形を使いながら舞台から客席に降りてくる。KAMIYAMAらパフォーマーもそれに従う。


まず、バンド陣が「シャレード」のテーマを引いてスタート。客席後方から、子供の人形が現れる。声は玉田玉秀斎が担当する。「おかーさん、もうすぐ会えるんだね! 色々歌って欲しいな」と子供は言いつつ舞台上に上がり、退場する。この人形は後にエディット・ピアフの娘、マルセルであることがわかる。

ラジオのチューニングの音が流れ、「歌手のエディット・ピアフさんが亡くなりました。享年47歳でした」と伝える。

そして、舞台上に今度現れたのはモヒカン刈の男。ピアフの父親であるルイスである。ルイスは己の惨めな境遇を全部人のせいにする。
ピアフは生まれてすぐに母親が逃げ出し、父親のルイスに育てられるのだが、ルイスも元々人間が悪く、実の娘を母親が営業する売春宿に売る。ルイスの母親も「娘を売るなんて、ろくでなし!」と言うが、結局、高値で引き取る。売春宿には仕事のしすぎでもう子供が産めない体になってしまった娼婦のティティーヌがいた。ティティーヌはピアフを実の子供のように可愛がる。ピアフが歌を覚えることが得意なのに気づいたティティーヌはピアフに歌を教える。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」などを歌った。
だが、ピアフは目を病み、視力を失ってしまう。ティティーヌは様々な薬を試すが効果はなく、後は神頼みしかなくなる。聖地に巡礼するティティーヌとピアフ。すると不思議なことにピアフの目が見えるようになった。
だが、目が見えるなら役に立つということで、ルイスが自分が経営している見世物小屋にピアフを入れようと迎えに来る。ルイスの手下役のKAMIYAMAと吉田亜希もそれに従い、人形と人間が争うという珍しい場面が演じられる。

見世物小屋の場面。KAMIYAMAがブリーフケースを使ったパントマイムを行い、その後、マジックも披露する。そして舞台上から赤い布が2枚降りてきて、吉田亜希がそれを伝って上にあがり、サーカスのようなアクロバット芸を披露する。

そして、ピアフの初舞台。ピアフは「ラ・マルセイエーズ」を歌い(歌はZaZaが担当)、大反響を呼んで、歌手、エディット・ピアフが誕生するのだった。

パリの劇場で歌ったピアフは、小柄な体から放たれる圧倒的な歌で大成功。フランス語で雀を意味する俗語の「ピアフ」の名で呼ばれるようになる。


有名ナンバーは、「パリの空の下」、「バラ色の人生」、「愛の賛歌」、「パダム・パダム」、「群衆」、「水に流して」などが歌われる。

16歳になったピアフは、プティルイという男性と結婚。女の子が生まれ、マルセルとピアフは名付ける。だが、マルセルは病に倒れ、早世してしまう。嘆くピアフ(この場面ではアコーディオン奏者のかとうかなこが舞台の中央まで進み出てクロマチックアコーディオン(ボタン式アコーディオン)を弾き、ピアフがアコーディオンにすがろうとする。その後、マルセルは天国からピアフを見つめる役をする。

戦争が始まり、ピアフはパリを占領したドイツ将校のために歌うが、それでフランス人捕虜収容所に慰問に行く権利を手に入れる。ピアフは収容所に入っては、捕虜を逃がす作戦を決行した。

戦後、ピアフはボクサーのマルセル・セルダンと出会い、恋に落ちる。「なぜあなたは悲しい歌ばかり歌うのですか?」というセルダンにピアフは「本当に悲しいからよ」と答える。だが、歌うことが自分に出来ることと考えるピアフは歌い続ける覚悟もしていた。
ピアフとセルダンは、フランス民謡「月夜(月の光に)」のメロディーに合わせて踊る。

多忙ゆえに会えなくなったピアフとセルダンであるが、ピアフがニューヨークでコンサートを行う時期に、セルダンもニューヨークでタイトルマッチを戦うことになった。
ピアフはセルダンのために「愛の賛歌」を用意して待っていたが、セルダンを乗せた飛行機が墜落。ピアフは最愛の人を失った。関係者は当日のコンサートを中止にしようとしたが、ピアフは決行を決意し、全身を振り絞るようにして「愛の賛歌」を歌う。

セルダンの死によって抜け殻のようになってしまったピアフは、酒、煙草、ドラッグに溺れ、40代とは思えないほどに老け込んでしまった。そんなある日、ピアフはテオ・サポラという青年と出会う。「みんな自分を利用して金儲けをしているだけだ」と言うピアフに、テオはピアフの歌の素晴らしさを語る。復活したピアフはオランピア劇場でコンサートを行い、大成功。1時間半の本編が終わった後で、ピアフはアンコールとして「水に流して」を歌うのだった。

ピアフが亡くなり、ピアフの霊はマルセルの霊と再会する。ZaZaの「愛の賛歌」日本語版が歌われて劇は終わる。


大竹しのぶが舞台「ピアフ」にライフワークのように取り組んでおり、遂には紅白歌合戦にまで出場してしまったということで、観に来ていたおばあちゃんの多くが、「大竹しのぶ」の名を口にしていた。勘緑が終演後に、「勘緑文楽劇場公演は3回目にしてようやく満員になった」と言っていたが、多分、大竹しのぶ効果はあったと思われる。

人形と人形とがダンスを踊ったり、セリが頻繁に使われたり(「これでもか」というほど高くせり上がる場面もある)、回り舞台まで使うなど、国立文楽劇場で出来ることは全てやったという感じである。
構想から今日の舞台まで5年掛かったというが、まあ、色々な要素を取り入れているので時間は掛かるだろう。
木偶舎の座員は、全員、勘緑から「緑」の字を貰っているが、12人中10人が女性という、浄瑠璃上演集団としてはかなり異色のグループである。この後、木偶舎は、東北地方支援公演に向かうという。

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