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2024年11月16日 (土)

ぴあ配信公演 松岡茉優&伊藤沙莉「お互いさまっす」公開イベント「さまっす生祭り うちらが会えばさまっすじゃん」

2024年10月30日

※有料配信であるため、内容を制限して公開しています。

午後6時30分から、松岡茉優と伊藤沙莉が隔週水曜日に配信しているネットラジオ「お互いさまっす」の初の公開イベント「さまっす生祭り うちらが会えばさまっすじゃん」をぴあの配信で視聴。有楽町よみうりホールからの配信である。

松岡と伊藤。ヤクルトスワローズの歴代最高を争う名投手(松岡弘と伊藤智仁)のような苗字である。

伊藤沙莉(いとう・さいり)が1994年生まれの30歳、松岡茉優(まつおか・まゆ)が1995年生まれの29歳であるが、松岡茉優は早生まれであるため、同学年であり、一般的には同い年である。子役時代から親友で一緒に遊園地に遊びに行ったりする仲だそうだ。有名女優二人でも案外気づかれないそうだが、伊藤沙莉が喋るとすぐにバレてしまうらしい。伊藤沙莉の方が先に生まれていて、今のところ年齢も1つ上だが、伊藤沙莉は妹キャラ(三人兄妹の末っ子)、松岡茉優はお姉さんキャラ(二人姉妹の姉)であるため、どちらかというと松岡茉優が引っ張って、伊藤沙莉が突っ込むというケースが多い。

NHKの「あさイチ プレミアムトーク」に伊藤沙莉が出演した際、山田よね役で共演した土居志央梨が、「沙莉語がある」として、「鉛筆を『細んこ』と呼ぶなど、語尾に『こ』をつける」と紹介していたが、今日も伊藤沙莉は「嘘んこ」「難(むず)んこ」などの沙莉語を使っていた。

松岡茉優側の資料はないが、伊藤沙莉には著書であるフォトエッセイの『【さり】ではなく【さいり】です。』(KADOKAWA)があるため、それを参照すると、松岡茉優は、伊藤沙莉が所属していた事務所の子役部門の閉鎖が決まり、わかりやすく言うとクビになったときに慰めてくれた女優の一人としてまず登場する。この頃、伊藤沙莉はオーディションに落ち続けており、俳優人生の瀬戸際だったが、連続ドラマ「GTO」のオーディションに合格。撮影前のワークショップのようなものに参加した際に、飯塚健監督から、「松岡茉優くらいかな、観れる芝居は」と言われて、初めて「悔しい」と思ったそうで、女優魂に火をつけた相手でもある。
ちなみに伊藤沙莉は、「お互いさまっす」でこれまで受けたオーディションを「500回くらい」と語っており、松岡茉優も今日、「200から300くらい」と話していたが、トップクラスの人でも大半は落ちるらしい。一人一役なのだから当然と言えば当然であるが。二人が初めて出会ったのもオーディション会場だったのだが、そのオーディションには二人とも受からなかったそうだ。伊藤沙莉は誰が受かったのか覚えているようだったが、はぐらかしていた。

本編の前に、二人がトランプでスピードの勝負をする。勝った方が本編でゲーミングチェアに、負けた方がパイプ椅子に座ることになる。
伊藤沙莉は、スピードでカードを出す際の言葉が、「せーの!」だったり、「スピード!」と言うことがあったり、じゃんけんをする前に手を組んで絡ませて中を覗くという仕草をして松岡茉優に「何してるの?」と言われるが、これらは私の地元で行われていることと完全に一緒。地元が一緒だから当然ではあるが。じゃんけんの前のポーズは志村けん由来だと思われるので、千葉県オリジナルではないが、志村けんと千葉県の知り合い以外でそういうことをする人を見るのは私は初めてである。地元出身者にはプロ野球選手が何人かいるが、プロ野球選手は野球以外のゲームを人前で見せることはないので、そうしたルーティンを行っているのかどうかは分からない。

伊藤は、語尾に「だべ」を使いながら、「千葉には方言がない」と言って、松岡に「『だべ』は方言じゃないの?」と聞かれるも、「分からない。伊藤家の口癖の可能性ある」と答えていた。「だべ」は千葉県のみならず、南関東で広く使われている方言で、神奈川県出身の中居正広がこの「だべ」を多用することで知られている。千葉県では、「だべ」と同等に「べ」を語尾に使うことが多い(例:「するべ(すっべ)」、「行くべ」、「やるべ(やっべ)」、「酷いべ」など)。松岡茉優も東京出身で方言がなく、二人とも方言が羨ましいようである。名古屋の女性からの「名古屋は方言が可愛くない」という趣旨のメッセージを読み上げた時も、二人とも「名古屋弁可愛い」と言っていた。南関東出身者の共通の不満がこの「方言を喋れない」である。ただ映画、ドラマ、演劇などでは標準語を使うことが多いため、普段から喋っている言葉を縦横無尽に扱えることは大きなアドバンテージともなっている。
伊藤沙莉は、肯定するときに、「勿論」というのが口癖なのだが、これは気に入っているようだ。松岡茉優は「ありがとう」と言うことを心がけているようである。

ちなみに私は京言葉は多少話せるが、話すことは基本なく(書き言葉で使用することはある)、標準語で通している。方言を話すと自分を偽っているような気分になるためだ。

今日何をやるか、内容は一切公開されておらず、伊藤沙莉は、「みんなよく来て下さいましたね」と感心していた。

「くちびるに歌を」という映画(新垣結衣主演)を観て、15年後の自分に手紙を書くことにした女の子からの投稿。15年後は34歳なのだが、「結局、元気ならそれで十分」ということになったようだ。
15年後には二人は45歳である。まだ今の私よりも若い。
伊藤沙莉が、「子ども産んでる」「二桁は産んでる」と子ども役の数のことを言う。伊藤沙莉は、「虎に翼」で佐田寅子として優未という娘を赤ちゃんの頃から50代まで育て上げている。

ちなみに松岡茉優は家族役を演じた俳優とはずっと家族のつもりでいるのだが、俳優によっては当然ながらそうではない人もいて、親しげに話しかけたら他人行儀な態度を取られてショックを受けることもあるらしい。

学校の成績が悪いという中学生の女の子からのお悩み相談。伊藤沙莉は、「茉優に聞いて下さい。私が喋っちゃダメ」と松岡茉優に全て譲ってしまう。松岡茉優は、「中学生までは成績が良くなかった。三者面談で心配されたり」と語るが、「高校入ってから、芸能科のある高校に転校して。お友達が出来なくて勉強がお友達になったの。ずーっと勉強しててオール5になった」と話し、「友達をなくす」と、とんでもないアドバイス(?)を送っていた。
伊藤沙莉は、「記憶力だけは良かったから、試験直前に友達のノート見て」覚えて乗り切っていたらしい。「とにかくテストを乗り切れればいい、赤点を免れられればいい」という考えだったそうだ。

「今日の朝ご飯なんですか?」の質問に伊藤沙莉が答えにくそうにしている。松岡茉優が、「もしかして忘れてんの?」と聞くと、「忘れてないんだけど、いっか。牛丼」と答えて、松岡茉優に「ガッツリだね」と言われる。朝から牛丼を食べていると知られるのが恥ずかしかったらしい。案外、乙女じゃん。松岡茉優は普通に「おにぎり」だそうである。

二人が手を見せる場面があったのだが、手自体は私の方がはるかに美人である。どうでもいいことだけれど。

「笑っていいとも」の「100人に聞きました」のコーナーのパクりで、「1000人に聞きました」(有楽町よみうりホールのキャパが1000人)をやる。伊藤沙莉は、「自宅からここまでスケボーで来た人」と聞くが、流石にそんな人いるわけない。道、ずっとスケボーで走っている人、見たことある?

伊藤沙莉は、JR千葉駅の話もしていた。よく千葉市の実家には帰っているようだ。近いからね。JR千葉駅は駅構内とペリエという愛称の駅ビル(伊藤沙莉が「ペリエ」と口にする場面がある)が長年に渡って工事を行い、大分雰囲気が変わっている。伊藤沙莉は「(千葉駅が)品川駅になった。ハンズが入った(伊藤は「東急ハンズ」と語っていたが、東急はハンズから撤退しているため、現在はハンズのみが名称となっている)」と発言する。多分、品川駅に比べると大分負けているとは思うが(新幹線も停まらないし。というより走ってないし)、以前より開けたのは確かである。伊藤沙莉は「千葉来てる」と地元贔屓発言を行った。

伊藤沙莉は、家族でよく通った映画館の話もすることがあるが、おそらくこれも千葉市内の映画館で、私も通った経験のある場所のはずである。東京や京都なら同じ映画館に通っていたとしても何らおかしくはないが、千葉で同じ映画館に通った経験のある人がテレビや映画に出ているというのは少し不思議な気がする。

ちなみに伊藤沙莉は、たまに自分のことを「沙莉」と名前で呼ぶことがある(呼ぼうとして、「あ、いけない」と引っ込めたこともある)のだが、自分のことを名前で呼ぶ女性は結構な確率で地雷物件である。「良くない」とされていることをするのだから、地雷率が高いのも当たり前なのだが、彼女の場合はどうなのだろう。ひどく成熟した部分と子どもみたいな部分が同居している人だけによく分からない。

「ここでこんな人からVTRが届いています」との伝言があり、二人とも「どうせ(親交の深い)八嶋智人でしょう」と言っていたが、実際に登場したのは再来年の大河ドラマの主役である仲野太賀。客席から歓声が上がる。朝ドラ「虎に翼」では、伊藤沙莉が演じた佐田寅子の夫である優三役で出演し好評を博した。「リラックスする時間作り」を二人に聞いた仲野だが、二人とも仲野太賀が出たのが嬉しくて何を言ったのかは聞き取れておらず、松岡は、「リラックスする方法ってこと? リラックス時間作りってこと?」、伊藤「電話する?」、松岡「今、舞台出てる」
松岡茉優のリラックス方法は、「月に1日でもいいから何の予定もない日を作る」。一方、伊藤沙莉はお酒を飲むとリラックスするので毎日リラックス出来ているようである。

明日はハロウィンということで、してみたい仮装は何かとの質問がある。伊藤沙莉は恥ずかしいので松岡にのみ耳打ちすることにしたが、思いっきり「キキ(「魔女の宅急便」)」と聞こえてしまう。ただ、実際に似合いそうではある。松岡茉優は自分はどんな仮装をしたいのか言い忘れたまま次に進もうとしたので、伊藤に「あなたは? 私にだけ恥かかせて!」と突っ込まれていた。ただ松岡のやりたい仮装は「恐竜がどうのこうの」というもので、伊藤沙莉も客席の多くも何のことか分からないようだった。


客席の座席表が載ったボードにダーツを投げ、当たった席の人にサイン入りのTシャツが当たるというコーナー。松岡茉優は、「沙莉はダーツの経験あるでしょ?」と聞くも、伊藤沙莉は「ダーツバーで飲んでただけ」と答えていた。実際に投げてみても特にダーツが上手いわけではない。当たった人はステージ上がって貰い、3人でチェキも撮れるという。折角当たったのに、その席に誰もいないということもあったが、当たった人(若い女性が多い)は皆、嬉しそうだった。二人ともアラサーでアイドルでもないので、若い男性が圧倒的に多いということではないようである。

撮影タイムが設けられ、配信で見ている人のために、スクリーンショットを撮るポーズも取られる。

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アンコールを待つ間、二人には内緒で、「茉優ちゃん、沙莉ちゃん、お疲れさまっすー!」を会場の人全員で言うというサプライズが用意され、実際に二人も驚いていた。

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2024年10月13日 (日)

CIRCUS(サーカス) 「風のメルヘン」(テレハーモニーVersion)

コロナ時の収録。メンバーチェンジ前になりますが、サーカスは一度だけ、ライブを聴いたことがあります。1992年、千葉市の幕張メッセ幕張イベントホールでの合同コンサート。本人達は、「今日は音楽とサーカスが来るという話になってる」と半自虐発言をなさっていました。

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2021年5月23日 (日)

配信公演 鈴木優人指揮 京都市交響楽第656回定期演奏会(文字のみ)

2021年5月15日 京都コンサートホールより配信

京都市交響楽団の第656回定期演奏会は、予定通り午後2時30分の開演となったが、無観客に切り替わり、ニコニコ生放送での配信公演となった。
指揮台に立つのは、「古楽の貴公子」鈴木優人。鈴木優人が京都市交響楽団を指揮するのはこれが初めてとなる。鈴木優人指揮の実演には、日本人作曲家の作品を並べた関西フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会と、よこすか芸術劇場で聴いたベンジャミン・ブリテンの歌劇「カーリュー・リヴァー」に接しており、いずれも優れた出来であったが、鈴木優人の十八番である古楽ではなかった。今回の京響定期は、前半に古楽のレパートリーが並んでいたのだが、配信のみの公演となったため、「実演に接した」とはいえない状況になってしまったのだが残念である。

曲目は、ヘンデルの歌劇「忠実な羊飼い」序曲、ラモー作曲・鈴木優人編曲の歌劇「みやびなインドの国々」組曲、ヴィヴァルディのチェロ協奏曲ト長調 RV414(チェロ独奏:上村文乃)、ベートーヴェンの交響曲第7番。

ニコニコ生放送ということで、視聴者からのコメントが流れるのだが、プレトークで鈴木はそれらを拾いながら進めていく。ニコニコ生放送ならではの面白さである。休憩時間にも鈴木はソリストの上村文乃と共に視聴者コメントを読みつつトークを行っていた。

今日のコンサートマスターは、京都市交響楽団特別客演コンサートマスターの「組長」こと石田尚泰。フォアシュピーラーに泉原隆志。前半はドイツ式の現代配置をベースにしつつコントラバスが下手側に回るという独自の配置、後半はヴァイオリン両翼の古典配置での演奏である。
今日はクラリネット首席の小谷口直子が全編に出演(ヘンデルの時代にクラリネットという楽器は存在しないが、原典版ではなく編曲したバージョンでの演奏)。それ以外の管楽器首席奏者はベートーヴェンのみの出演である。

前半に並ぶ3つの古楽の曲目は、全て鈴木優人がチェンバの弾き振りを行う。典雅なハイドン、個性的でエスニックなラモーは、古楽を得意とする鈴木が存分に腕を振るい、上質の響きと旨味を提供する。今年の3月で放送が終わってしまったが、Eテレの「らららクラシック」でラモーの特集があり、歌劇「みやびなインドの国々」の上演風景などが流された。今回の歌劇「みやびなインドの国々」組曲の演奏も、歌劇の上演ではないが、その光景が目に浮かぶような描写力に長けたものである。

ヴィヴァルディのチェロ協奏曲ト長調 RV414。ヴィヴァルディの作品といえば「四季」、その他に「調和の霊感」ぐらいしか聴けないという時代は終わり、まずNAXOSレーベルがヴィヴァルディの作品の多くを録音、配信でも聴けるようになり、その他のレーベルからもヴィヴァルディの全集が出るようになった。
ソリストの上村文乃(かみむら・あやの)は、6歳からチェロを始め、第7回日本演奏家コンクール弦楽器中学生部門1位及び芸術賞受賞を皮切りに、第15回日本クラシック音楽コンクール全国大会中学生部門最高位、第5回東京音楽コンクール弦楽部門第2位、第4回ルーマニア国際音楽コンクール弦楽器部門第1位及びルーマニア大使館賞受賞、第80回日本国際コンクール第2位、第65回全日本学生音楽コンクール大学の部1位などのコンクール歴を誇る。桐朋学園大学ソリストディプロマコース卒業後にスイスに渡り、バーゼル音楽演劇大学とバーゼル音楽院に学ぶ。現在は鈴木優人が首席指揮者を務めるバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)のメンバーとしても活躍している。

上村は、エンドピンのないバロックチェロを使用しての演奏。独特のコクのある音色が特徴で、技術も高い。

ニコニコ生放送ということでコメントを読むのも面白く、コンサートマスターの石田尚泰が石田組長と呼ばれているのを見て、「下の名前が組長なのかと思った」というコメントがあったり、「イケメンおるやん」「向井理おる」「向井理やで」と、「京響の王子」こと泉原隆志に関するコメントが並んだりする。九州在住と思われる視聴者が、クラリネット首席奏者の小谷口直子に、「小谷口さん、九響(九州交響楽団)に客演してくれてありがとう」というコメントを書いていたりもする。謎のキャラクター、Juviちゃんに関するコメントも多かった。Juviちゃんに合わせてコーデリア中山という謎のキャラになることもあるティンパニ(打楽器首席)の中山航介に対する絶賛のコメントも続く。

アンコール演奏は上村単独ではなく、チェンバロの鈴木も加わったボッケリーニのチェロ・ソナタ第6番よりアレグロ。超高音を美しく奏でる、上村の卓越した技巧が鮮やかであった。


ベートーヴェンの交響曲第7番。かなり優れた演奏となる。史上初めてリズムを最重要視して書かれ、ワーグナーによって「舞踏の聖化」と激賞された作品。人類史上初のロックンロールと見なしても良いと思われるほどのノリの良さを持つ曲である。
鈴木と京響(ぱっと見、「鈴木京香」に見えるな)は、確かな造形美を確立しつつ熱狂を盛り込むという理想的な演奏を展開。弦楽はビブラートを抑えたピリオドの響きを築き、管楽器がそれらを華やかに彩る。ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏に若々しさを注ぎ込んだような演奏で、後世まで伝説として語り継がれそうなほどの快演であった。これが生で聴けないというのが残念極まりないが、このコロナ禍をくぐり抜けることが出来たのなら、また鈴木優人指揮のベートーヴェンの交響曲第7番を聴く機会もあるだろう。

演奏終了後に、今回のコンサートの出来を聞くアンケートがあり、「とても良かった」に投票した人が97%を超えた。

放送は、楽団員がステージ上から奏者達が去った後も続き、京響を影で支えるスタッフ達の仕事ぶりが全国に流された。

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2020年8月26日 (水)

配信公演 ニコニコ生放送 大谷康子弾き振り 東京交響楽団「モーツァルト・マチネー第42回」@ミューザ川崎(文字のみ)

2020年8月22日 ミューザ川崎シンフォニーホールからの配信

午前11時から、ミューザ川崎シンフォニーホールで行われる東京交響楽団の「モーツァルト・マチネー第42回」のニコニコ生放送での配信を視聴。

今日は大谷康子の弾き振りによる2曲である。上演時間約1時間、休憩なし、ソーシャルディスタンスを保った上での有観客公演である。

曲目は、2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ(ヴァイオリン:大谷康子&水谷晃)とヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」(ヴァイオリン独奏:大谷康子)。

大谷康子は、東京交響楽団のコンサートマスターを経てソロ・コンサートマスターに就任。退任後は同楽団の名誉コンサートマスターの称号を受けている。東京交響楽団の前は、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団のコンサートマスターを務めていたが、その頃の東京シティ・フィルは、黛敏郎司会の「題名のない音楽会」で演奏を担当することが多く、コンサートマスターである大谷の姿は目立っていた。


ニコニコ生放送なのでコメントを送ることが出来る。私も参加する。大谷が弾き振りをするのを見て、「ヴァイオリン出身の指揮者、余りいない気がする」とコメントした人がいたが、そこから有名指揮者が指揮者になる前に弾いていた楽器は何かというやり取りが続く。ヴァイオリン出身で有名なのは、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督であるヤープ・ヴァン・ズヴェーデンで、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターからの転身である。ニューヨーク・フィルの先の音楽監督であるアラン・ギルバートも自分の楽器としていたのはヴァイオリンである。
古くはシャルル・ミュンシュがライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスター出身で、その時代にゲヴァントハウスの指揮者だったヴィルヘルム・フルトヴェングラーの影響を受けて指揮者に転向している。
近年では、サカリ・オラモがフィンランド放送交響楽団のコンサートマスター出身である。
朝比奈隆もアマチュアとしてであったが、ヴァイオリニストとして活躍していた時期がある。
関西フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であるオーギュスタン・デュメイの場合は本業はヴァイオリニストであるが、指揮者としての仕事を増やしている最中である。

ピアノ出身者は多く、引退したがウラディーミル・アシュケナージ、ダニエル・バレンボイム、更にサー・ゲオルグ・ショルティやチョン・ミョンフンもピアニストとして活躍してから、指揮者に転身。アシュケナージは指揮は我流であり、振り方も不器用であった。20世紀後半の二大巨頭であるヘルベルト・フォン・カラヤンとレナード・バーンスタインも得意としていたのはピアノである。バーンスタインはピアノ協奏曲をいくつか弾き振り振りで録音。カラヤンも晩年にヴィヴァルディの「四季」をチェンバロの弾き振りで録音している。
日本では、広上淳一(今ではピアニカ奏者のようになっているが)、大植英次、沼尻竜典、上岡敏之などがピアノの名手であり、沼尻と上岡はピアニストとしてもCDをリリースしている。
ミハイル・プレトニョフは、一時期はピアニストを廃業して指揮者専業となったが、最近はピアノも弾き始めている。クリストフ・エッシェンバッハも同傾向だ。

ヴィオラ出身は、シャルル・デュトワやユーリ・バシュメット(バシュメットの場合も本業はヴィオリストである)、古くはヴァーツラフ・ノイマンがいる。チェロは齋藤秀雄やムフティスラフ・ロストロポーヴィチ(前者は教育者で、後者は指揮者としての名声は上がらず)、更に20世紀前半を代表する指揮者であるアルトゥーロ・トスカニーニはチェロ奏者から無理矢理指揮者に転向させられている。

コントラバスは井上道義や本名徹次、トランペットは下野竜也や山本直純、ホルンにはエサ=ペッカ・サロネンがいる。サー・サイモン・ラトルやパーヴォ・ヤルヴィは打楽器出身である。佐渡裕は京都市立芸術大学のフルート科出身であり、リコーダーも得意とする。リコーダー出身の指揮者としてはフランス・ブリュッヘンが有名である。

冗談で「小澤はスクーター」と書かれていたが、小澤征爾の著書『ボクの音楽武者修行』などにフランスに留学した際、マルセイユからパリまでスクーターで移動したことが書かれている。実際の小澤征爾の楽器はピアノであり、幼い頃はピアニストを目指していたものの、成城学園時代にラグビー部に所属していて、練習中に両手の人差し指を骨折したため、ピアニストを諦めて指揮者になるための勉強を始めている。

意外なのは山田一雄で、専攻したのはピアノだが、ハープの演奏も得意としていた。


演奏と関係ない話が続いたが、2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネはモーツァルトが十代だった頃の作品である。

大谷康子の明るく張りのある音と、現在の東京交響楽団のコンサートマスターである水谷晃の渋めの音色との対照の妙が印象的な演奏である。二人のアイコンタクトが実に微笑ましい。短調の部分の影は十代にして十分に濃い。


ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」。大谷のヴァイオリンは気品に溢れ、丁寧である。ソリストとしてではなく、オーケストラのコンサートマスターとして活躍してきたこともあって、スケールの大きさよりも親密さを表に出した仕上がりとなっていた。

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2020年6月21日 (日)

配信公演 浅草九劇オンライン 大鶴佐助×大鶴美仁音 別役実「いかけしごむ」(劇評。文字のみ。音楽紹介のリンクはあり)

2020年6月18日 東京の浅草九劇より配信

午後7時30分から、浅草九劇オンラインで、別役実作の二人芝居「いかけしごむ」を観る。出演は、大鶴美仁音(みにょん)と大鶴佐助の姉弟。構成・演出も二人で手掛ける。無観客での上演。

開演前は、前回の柄本明ひとり芝居「煙草の害について」よりも準備が行き届いており、女優の福地桃子(哀川翔のお嬢さん)によるアナウンス映像も流れた。

「いかけしごむ」は、京都で別役実作品上演をライフワークとしている広田ゆうみと二口大学によって何度も上演されており、当然ながら私もこの二人によるバージョンを観ている。

大鶴佐助と大鶴美仁音は、唐十郎(本名・大靏義英)の実子である。大鶴義丹とは異母兄妹となる。

 

暗い夜、街の外れの行き止まりのような場所が舞台である。ベンチがあるが、「ココニスワラナイデクダサイ」と片仮名による拒絶の注意書きがある(女の推理によると、話し掛けるきっかけをつくるためにわざと書かれている)。舞台中央には受話器が降りている。いのちの電話に繋がっているようだ。その上手には手相見の机。

 

時代はかなり意識されており、大鶴美仁音はサザエさんのような髪型(今でこそ奇異に見えるが、「サザエさん」の連載が始まった当初は典型的な女性の髪型の一つであった)、大鶴佐助も戦後すぐのサラリーマンのような格好をしている。顔の表情などはかなり大仰で、映像で見るには辛いものがあるが、これも昭和を意識した演技なのかも知れない。

女(大鶴美仁音)による一人語りで始まる。「信頼できない語り手」として捉えた方がいいだろう。そこかしこから人生に行き詰まったような風情が伝わってくる。そこにサラリーマン風の男(大鶴佐助)が黒いビニール袋を抱えて現れる。男は追われているということを女に告げる。いかを使って作る「いかけしごむ」を発明したのだが、そのためブルガリア暗殺団に追われているのだという。男は誰か目撃者となる人間がいればブルガリア暗殺団も手出し出来ないだろうと、この場に留まる。

女は、男が1歳になったばかりの娘を殺し、バラバラにして黒いビニール袋に入れて逃げている最中なのだろうという推理を語る。女は男の住んでいる部屋を知っているというのだが……。

 

不条理劇と呼ばれる別役実の芝居であるが、ベケットの作品もそうであるように、そこでは人生の不可解さというよりも人生の本質が言い当てられているように思う。少なくとも私にとってはこれらは視点をずらしてはいるが人生そのものに見える。

女は女自身が語るように、女のリアリズムを生きている。自身の視点しか持たず、思考しかなし得ず、何が本当なのか知るよしもない。そしてそこに他者のリアリズムは相容れない。怖ろしく孤独であるが、多くの人間はこのようにしか生きられない。二人でいても一人であり、二人で演じられても一人芝居である。
誰かと出会い、話し、あるいは勘違いし、本当にはわかり合えず、別れていく。そしてその意味もすぐに判然としない。いや永遠の謎となることも多いだろうし、おそらくは意味すらない可能性も高いのだろう。
「本当のことなど果たしてあるのだろうか」

ラストでは屋台崩しではないが、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番第2楽章が流れる中、背後の幕が落とされると、台所を模したスペースで二人の父親である唐十郎が酒を飲んでいる姿が目に入る。そう大した意味があるわけではないだろうが、唐十郎が二人の実の父親であり、父親であるからこそこの場にいるということは揺るぎようもなくリアルであるともいえる。不確かな物語であるが、それだけは確かだ。

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2020年6月16日 (火)

ステージナタリーZoom対談 白井晃×谷賢一 2020年4月(文字のみ)

ステージナタリーにアップされた白井晃と谷賢一のZoom対談を見る。4月18日に行われたもので、24日に公開されている。

まず、演劇に関わるようになったきっかけを述べた後で(白井さんは高校までは演劇に関心がないというより嫌いだったようだ。この点は私と一緒である。松田正隆も高校時代は演劇部をうさんくさい存在だと思っていたという話をしていた)。映画に関しては二人とも撮りたいと思ったことがないという話をする。実は私も映画を撮りたいだとか映画監督になりたいと思ったことはただの一度もない。谷賢一も語っていたが、演劇と映画はストーリーがあるということだけが共通点としてあるだけの全く別の表現形態である。勿論、映画を舞台化したり、場転や暗転を多くして映像作品のように見せる演劇も少なくないが、本来は三一致の法則を遵守するとまではいかないが、三一致の法則に従ってリアルタイムで行われるものが最高の演劇作品なのではないかと思っている。大学でも映画・演劇科などといったように(私も映像・舞台芸術学科出身だ)一緒くたにされることが多いが、映画は小説などに近く、舞台はむしろボードゲームなどと親和性があるように思われる。舞台は空間の芸術なのだ。ストーリーは空間に対しては従でしかあり得ない。映画は全く逆である。鑑賞する立場ならその差は余り気にならないだろうし、批評も同じスタイルでこなせる。ただやる側としては全くの別物と考えて行った方が少なくとも利口ではあるだろう。

劇場はその場に演者がいて、観客がそれを固唾をのんで見守っているという特殊な表現スタイルである。演者が一人欠けていても成り立たない。音楽もそうだが、音楽は今は録音物がライブ以上の価値を持つこともある。トスカニーニ、フルトヴェングラー、カラヤン、レナード・バーンスタイン、ピアノならラフマニノフやホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタインの録音を聴くことにライブ同等以上の価値を見いだす人もいる。グレン・グールドのように録音しか行わないピアニストすら存在したほどだ。だが、演劇の場合は映像に収められたものが劇場での体験と同一視されることは今後もないだろう。私自身は映画でない映像のための演劇があってもいいとは思っている。矢口史靖と鈴木卓爾のショートフィルム作品集である「ONE PEACE」のような作品が生まれたなら、今のような窮地もしばらくはしのげるだろうとも思う。だがやはり演劇は劇場に通って観るものだと思う。チケットが手に入らなかっただとか、その日体調が悪かったり別用があったりで行けなかった場合は映像が手に入ればありがたいが、それはあくまで補足であって、本来の演劇を観たことにはならないだろうと感じている。映画館通いもそうだが、そこに至るまでの過程にも良さがある。例えば梅田芸術劇場(メインホールとシアター・ドラマシティ)ならば、阪急電鉄大阪梅田駅で降りてから茶屋町に向かうまでの道のり、たまに参拝する綱敷天神御旅社、これまた時折立ち寄るMBS本社やロフト、NU茶屋町や終演後に乗ったエスカレーターから見える宝塚大学看護学部の高層校舎(安藤忠雄設計)、カッパ横丁や阪急三番街、京都までの帰路、全てが観劇という行為に含まれている。以前にそこで観た別の芝居との差違を帰りの阪急電車の中で味わったりもする。初めて行く劇場なら、例えば青山のスパイラルホールなら、開場前に寄った岡本太郎記念館の内装や表参道の街並みによって、その日その時でしかあり得ない自分だけの空間とその場の空気を、劇を観る前も観ている間も観た後も纏うことになる。それは人生の中で今でしかあり得ない瞬間の連続でもある。

その時間と空間の共有を白井さんは「共犯」という言葉で語っていたが、人生の中でこの一度しか巡って来ない時間の流れを共に味わうということは、生きているということのまさに本質である。そこにいたことが重要且つ幸福なことなのだ。少なくともその限られた時間においては。

白井さんが、スポーツはテレビ観戦が当たり前になっているという話もする。白井さんも谷さんもスポーツ観戦はテレビで済ませていて、最後に競技場や野球場に通ったのは小学生時代が最後ではないかという話もする。これは私とは大違いで、私は出来るなら毎日でも神宮球場に通いたいが、現実的に無理。かといって神宮球場に通うためだけに東京に住みたいとは思わない。京都という、それほどスポーツ文化が発達していない場所にあっても、2月にサンガスタジアム by KYOCERAのオープニングに行ったばかりだし、わかさスタジアム京都(西京極球場)には女子プロ野球やNPBを観に出掛ける。京セラドーム大阪には阪神対ヤクルトの開幕戦を観に行ったことがあるし、バファローズとスワローズの交流戦もよく観に行く。今年も交流戦のチケットを2日分取ったが、コロナ禍によって試合自体が流れてしまった。

私事が長くなったが、白井さんも谷さんも余りスポーツ好きには見えないので実感はないのだと思われるが、NPBなどは毎年観客動員数は増加している。地上波で試合が流れなくなったということもあるが、野球場に行って、お気に入りの食べ物や飲み物を買って、早めに着いたなら練習を眺めて、周りの面白い観客などをそれとなく見て、歓声に包まれて、たまに他のお客さんと話したりすることもあって、というボールパーク的喜びは多分、二人ともご存じないと思われる。だから演劇がスポーツのテレビ中継のようになることはないと個人的には思っている。テレビでのスポーツ中継はスタジアムに行けないので仕方なく見るものなのだ本来は。

谷さんは、4月は小説を書く予定が入っていたのだが、公演が出来ないということでそれどころではなく、白井さんは基本的に演出メインなので、「本でも読むか」と思って小説を読むと、「あれ、これ、舞台にしたらどうなるだろう」と考える職業病のようなものが出てしまい、ではあるが今は上演自体が出来ないというので胸が苦しくなってしまうそうだ。

もしコロナ禍が早めに収束したらという仮定の話を白井さんは行う。通常はリハーサルに最低1ヶ月は掛かるのだが、2週間しかなかったら2週間の稽古期間で出来るものを探してやればいいという考えを示す。今の段階では最も実現性の高い路線であると思われる。

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2020年6月15日 (月)

チャット型インプロ演劇の発案

 演劇を上演する上でネックとなっているのが、舞台上でセリフを話すと飛沫感染の怖れがあるということである。ソーシャル・ディスタンスを保っての演劇も試みとして始まっているが、2メートル以上離れたまま会話をするという状況を設定することは難しい。離れたまま会話を交わすということは日常的な場面ではほとんどないため、嘘くさくなってしまうのである。電話での会話ならあり得る。ジャン・コクトーの「声(人間の声)」の二人バージョンである。電話なら二人芝居以上は難しいが、スカイプやZoomを使っているという設定にすれば複数人での会話が可能になる。ただその場合はわざわざ舞台でやらなくてもZoom劇でいいだろうということに落ち着きそうであるが。

 セリフを発することが問題ならば無言劇もいいし、ギリシャ悲劇のようにパフォーマーと話者を切り離すのもいいかも知れないが、これまで散々演じられてきたスタイルであり、新しさはない。せっかくなのだから新しい表現方法を取り入れてみたいものである。ならば、巨大スクリーンに各々のパソコンから打ち込んだ文字を投影出来るようにして、チャット形式で進める劇はどうだろう。舞台上に複数のパソコンを用意して、役者がセリフを打ち込んでいくのである。折角なので台本はなくして配役のみの完全インプロ(インプロヴィゼーション=即興)で続けていく。難しいかも知れないが、役者の腕の見せどころともなる。
 人数制限は必要だが、客を入れれば反応もあるし、劇の展開も随時変わっていく。良いセリフが書ければ拍手も貰えるだろう。上手くいけばかなり面白いものになるはずである。

 これは劇ではないのだが、以前、某SNSで私と「トリック」(仲間由紀恵&阿部寛主演)ファンのネット上の知り合いの二人で、「トリック」を題材にした二次創作的セリフ劇を延々と続けたことがある。残念ながら公表は出来ないが、かなり笑える面白い仕上がりになっていた。文字の力、文章の力を劇場において発揮するというのも良い試みであると思う。

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2020年6月11日 (木)

配信公演 広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル 「日本フィル&サントリーホール とっておきアフタヌーン オンラインスペシャル」(文字のみ)

2020年6月10日 東京・溜池山王のサントリーホールからの配信

今日は、広上淳一指揮日本フィルハーモニー交響楽団ソーシャル・ディスタンス・アンサンブル(弦楽合奏)によるサントリーホールからの配信公演「日本フィル&サントリーホール とっておきアフタヌーン オンラインスペシャル」が午後2時からある。休憩なし、上演時間約1時間のコンサート。

e+でのストリーミング配信。事前にチケットを購入し、メールで送られてきたURLで配信画面に飛んで視聴するというシステムである。

今日はテレワークなので、画面を見ながらはまずいが、音を聴きながら仕事は出来るため、午後2時からまず音だけを聴き、その後、アーカイブの映像を確認することにする。配信画像視聴には2種類の券があり、安い方は11日の午後2時まで映像を観ることが出来る。高い券だと比較的長い期間観られるのだが、私は安い券を買う。ちなみにアーカイブ映像視聴のためだけの券もある。


配信公演ということで、事前のアナウンスもホールに流れるが、いつもとは違ったものになっている。


今日の日本フィルハーモニー交響楽団は、ソーシャル・ディスタンス・アンサンブルという名で弦楽のみの編成、それも奏者間を広く空けての演奏である。コンサートマスターは田野倉雅秋。握手などが難しいというので、広上と田野倉は、何度もエアーハイタッチを行う。
管楽器は飛沫感染の危険性の高さを現時点では否定出来ないため、全ての楽器が揃っての演奏はまだ先になるかも知れない。


曲目は、グリーグの「ホルベアの時代から(ホルベルク組曲)」より第1曲“前奏曲”、エルガーの「愛の挨拶」(ヴァイオリン独奏:田野倉雅秋)、ドヴォルザークの「ユーモレスク」(弦楽合奏版)、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」

広上淳一はマスクをしての指揮。司会進行役である音楽ライターの高坂はる香もマスクを付けて登場し、コンサートマスターの田野倉雅秋もトークの際はマスクを装着していた。


距離感を空けての演奏であり、通常のプルトでの合奏ではない。フォアシュピーラーは存在せず、その他の楽器も首席が一人だけ前に出て弾き、すぐ横に人がいないよう配慮しての演奏となる。

ということでアンサンブルとして万全とはいかないかも知れないが、久しぶりに日本のオーケストラの演奏を配信で聴けるということで嬉しくなる。


グリーグの「ホルベアの時代から(ホルベルク組曲)」より第1曲“前奏曲”はスプリングの効いた演奏で、躍動感と推進力に富む。日フィルは昔から音の洗練度に関しては東京の他のオーケストラに比べると不足しがちであり、今後も課題となってくるだろう。

演奏終了後に広上と高坂とのトーク。高坂が日本フィルハーモニー交響楽団が演奏を行うのは3ヶ月半ぶり、サントリーホールで演奏会が行われることも約2ヶ月ぶりだと説明。広上は、「ホールがもし言葉を喋ることが出来たら、『久しぶり、よく来たね!』と喜んでくれるだろう」と語る。
「ホルベアの時代から」に関して広上は、ホルベアというのはノルウェー文学の父とも呼ばれる人物で、グリーグにとってはベルゲンの街の先輩でもあった。この曲は元々はピアノ曲で、ヴァイオリンとピアノのための編曲が行われたり、歌詞が付けられて歌曲になったこともあったが、現在では弦楽合奏曲として知られていると語る。


「愛の挨拶」は、エルガーが奥さんとなるキャロラインに求婚した時に送った曲で、広上はキャロライン夫人の内助の功を、「今の大河(広上がメインテーマを指揮している「麒麟がくる」)でいうと、帰蝶のような、お濃さんのような」と例える(エルガーは遅咲きの作曲家である)。

「愛の挨拶」は、田野倉雅秋のヴァイオリンソロと弦楽アンサンブルの伴奏による演奏。少し速めのテンポを取り、愛らしさよりも流麗さを重視する。日本人なのでチャーミングな演奏は照れくさいということもあるのだろう。


ドヴォルザークの「ユーモレスク」は、クライスラー編曲によるヴァイオリンとピアノのデュオ版でも有名だが、今回はソリストを置かずに弦楽合奏版での演奏を行う。ユーモラスな曲想が広上の音楽性にも合っている。
トークで広上は、「ドヴォルザーク先生はヴィオラが得意、ヴィオラ奏者だった。ピアノはあんまり好きじゃなかった」と語るが、ロベルト・シューマンの影響でピアノ組曲を書こうと思い立ち、その7曲目が「ユーモレスク」で、様々な編曲による演奏で親しまれていると語る。


チャイコフスキーの「弦楽セレナード」。西欧ではロマン派全盛の時代となっており、装飾の多い雄弁な音楽が流行っていたが、遙か東方のロシアにいたチャイコフスキーはそれに疑問を感じ、モーツァルトを範とした「虚飾を排し、本質を突く」という意気込みで書いたのがこの「弦楽セレナード」だと語る。実際にパトロンであったフォン・メック夫人にそうした内容の手紙を送っているそうだ。

通常の「弦楽セレナード」よりも小さめの編成での演奏ということもあって、「虚飾を排し、本質を突く」というチャイコフスキーの意図がより鮮明になっているように感じられる。アレクサンドル・ラザレフやピエタリ・インキネンに鍛えられて性能が向上した日フィルであるが、更なる典雅さと優美さも欲しくなる。ただ広上の巧みな棒捌きに導かれて、フル編成でないにも関わらずスケールの豊かさとシャープさを兼ね備えた演奏で聴かせた。


アンコール演奏の前に広上は、「文化はAIやITのような科学文明の進歩とは違った、心を解き明かすもの」と語り、学校教育においては文化が大上段から語られるため誤解されやすいが、人間を人間たらしめている「心」を大切にし、描くものとしてその重要性を説いた。


アンコール演奏は、シベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ(祝祭アンダンテ)」(弦楽合奏版)。広上は、日本フィルハーモニー交響楽団の初代常任指揮者で、現在も創立指揮者として頌えられている渡邉暁雄(わたなべ・あけお)が得意としたのがシベリウスだと語り、日フィルの創立記念日が渡邉暁雄の命日(6月22日)であるという因縁も述べる。

音楽が出来るという喜びと、ここから新しい演奏史が始まるのだという高揚感溢れる熱い演奏であった。

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2020年5月26日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part9」(文字のみ。アーカイブへのリンクはあり)

2020年5月24日

午後2時から、茂山千五郎家による「YouTubeで逢いましょう! part9」を視聴。今回は今や梨園を代表する女形となった中村壱太郎(かずたろう)。以前、京都芸術センターで行われた壱太郎のトークイベントを見に出掛けたことがあるが、壱太郎自身は女形よりも女方表記を好んでいるようである。

若手人気歌舞伎俳優が出演するということで、視聴者はいつもの倍となる。そのためかどうかはわからないが今日は回線が不安定であり、茂山千五郎家の科学技術庁長官こと茂山茂は大忙しとなる。茂山茂は京都コンピュータ学院出身で、IT関係のスペシャリストであるが、茂山千五郎家には茂以外にその手の分野に詳しい人は皆無であるため、茂におんぶに抱っことならざるを得ない。


動きがカクカクして見えるが、狂言「茶壺」が上演される。出演:茂山茂(すっぱ)、茂山宗彦(もとひこ。中国方の者)、鈴木実(目代)。
中国方の者(中国地方出身の者という意味だと思われる)が栂尾まで買い物に出掛けた帰り、酒にしたたか酔って、茶壺を背負ったまま道の真ん中で眠ってしまう。そこに現れたすっぱは、茶壺をものにすべく、肩紐を掛けて眠る。中国方の者が目覚めたところですっぱは、茶壺は自分のものだと主張、中国方の者を盗人だと決めつける。そこで目代に茶壺が誰のものか判定して貰うことにするのだが……。

歌舞伎でも「茶壺」は演目に入っているのだが、結末が異なるようである。
すっぱは、とにかく記憶力が良く、舞なども巧みで、すっぱなどやらずともあらゆる分野で活躍出来そうではある。

映像は最初からコマ送りのようであり、古い時代の映画を観ているようで、これはこれで趣があるものだったのだが、すっぱと中国方の者と目代とでやり合っている間に映像が完全に止まってしまう。直すことが唯一出来る茂は舞台の上、ということで、いったん演目を中断し、茂が色々と工夫して直す。その間、茂山千五郎家の人々がトークで繋ぐ。ちなみに京都府は緊急事態が解除になったため、今日は至近距離で会話を交わすことが出来る。

その後、再開し、無事やり遂げる。ちなみに茂は映像が止まったということには気づいていて、演じている間もどうやったら再開出来るか考え続けていたそうだ。

ということで予定時間より15分ほど押すことになる。

 

続く狂言の演目は、有名作「棒縛」。出演、茂山千五郎(太郎冠者)、島田洋海(ひろみ。次郎冠者)、井口竜也(主人)。

島田洋海が「是非、次郎冠者をやってみたい」というので行われる演目である。チャットでは茂山千之丞(童司)が「棒縛」の裏話などを教えてくれる。

 

中村壱太郎へは、狂言にまつわるクイズが千之丞から出題される。同じ演目を行うこともある狂言と歌舞伎だが、中村壱太郎はかなりの苦戦。能舞台の背後にある松の絵が描かれたものをなんというか(正解は「鏡板」)、今ある狂言の流派は大蔵流と何流?(正解は「和泉流」)という比較的簡単な問題にも正解出来ず、「やっちまった」状態。和泉流でなく「井上流」と答えたときにはコメントが総ツッコミ状態となる。「関係者が見てるんで、もう狂言(が元)の奴(歌舞伎の演目)させて貰えないと思います」と語っていた。

洒落にならないかも。

慶應ボーイなのでクイズ番組から出演のオファーがあってもおかしくないが、絶対に断った方がいいレベルである。

 

アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=zPRYN5WUleg&t=7264s

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2020年5月19日 (火)

配信公演 茂山千五郎家「YouTubeで逢いましょう! part8 リモート狂言Ⅲ」(文字のみ。アーカイブへのリンクあり)

2020年5月17日

午後2時から茂山千五郎家によるWebLive配信「YouTubeで逢いましょう! part8 リモート狂言Ⅲ」を観る。
今日は冒頭から進行役を務める茂山逸平のパソコンに配信動画が映らないため視聴者からのコメントも読めないというハプニングがあり、茂山千五郎家のIT担当である茂山茂が直すという場面が見られた。ちなみに茂山茂は「長官」と呼ばれている様である。

今回は、清水寺の大西英玄執事補がゲストとして参加。ちなみに清水寺は前年に比べると参拝者が95%減となっているそうである。この大西英玄氏の法話というほど本格的ではないが、清水寺の歴史や、自身の得度の体験、北観音と呼ばれた清水寺に対する南観音(観世音)こと長谷寺が、能の観世流の由来となっているといったお話が面白くてためになるというので、茂山千五郎家からもチャットのコメントからも大好評であった。ちなみに大西氏は清水寺のIT関係も受け持っているようで、検索すると、「清水寺のホームページのアクセス解析を行ったところ、アクセスや拝観時間などのページしか見られていないことがわかった」ため、これではいけないということでインスタグラムを開設して画像や映像の配信を行い、好評であるという。

 

演目は、清水寺ゆかりの「吹取(ふきとり)」が演じられる。清水寺参詣の場が加わった特別編での上演である。

いい年だが独身の男性が、清水寺の観音に妻乞いを行う。通夜(夜通し念じること)をしていると、五条の橋で月に向かって笛を吹けば妻を与えようと観音からの託宣(でいいのかな?)を受けることになる。しかし、男は笛が吹けず……。
出演:茂山千五郎、島田洋海(ひろみ)、山下守之。

笛が吹けない男(茂山千五郎)は、笛の上手(島田洋海)が知り合いにいるので代わりに笛を吹いて貰うことにする。五条の橋(今の五条大橋ではなく、松原大橋である)で笛を吹いて貰うと、果たして妻(山下守之)が現れるのだが、妻は笛の上手を夫と見做してしまう。妻乞いをした男はなんとか妻に振り向いて貰うのだが……。
なんで今まで妻がいなかったのか、なんとなく察せられる内容となっている。

 

太郎冠者と次郎冠者が顔を合わせない演目が一つだけあるという。「樋の酒」という演目であるが、今では廃曲になっているという。だが、茂山逸平が、これはリモート狂言にピッタリだと思いついたということで演じられることになる。

太郎冠者の茂山宗彦(もとひこ)が茂山家の稽古場の能舞台で演じ、次郎冠者の茂山千之丞(茂山童司)と主人役の井口竜也がぞれぞれZoomを使って自室から演目に加わるというリモート上演。

「棒縛」と同じ趣向であるが、「樋の酒」では太郎冠者と次郎冠者がそれぞれ別の蔵に監禁される。次郎冠者は酒蔵に閉じ込められるのだが、これは主人から下戸だと思い込まれているためで、太郎冠者が留守の間に酒を飲んでしまわないようにとの措置である。だが、次郎冠者は実際は「酒豪」と呼んでいいほどの酒好き。ということでガブガブ飲み始め、樋を使って太郎冠者にも酒を与える。上機嫌の二人は舞い始め、という内容である。「Zoom飲み会に見えてきた」というコメントもあった。
実際に隔離されての上演であるため、舞台で演じられるよりもリアリティがある。片方を酒蔵に閉じ込めてしまう必要性が感じられないなど、論理的に破綻しているため廃曲になったのだと思われるが、リモート上演という、ついこの間まで存在すらしなかった上演形態にピタリと填まる。ちなみに宗彦にちなみに宗彦が持つ杯に見立てられた扇に酒を注ぐ樋は茂山逸平が持ち続け、上演後の配役紹介で自ら、「壁:茂山逸平」と読み上げた。

 

狂言と人類愛を結びつけた大西英玄氏のお話の面白さもあり、「今回は神回だった」という言葉がコメント欄に浮かぶが、逸平は清水寺なので「仏さんですよ!」と突っ込み、コメント欄にも「仏回」という言葉が並んだ。


アーカイブ https://www.youtube.com/watch?v=S20nfDl9Nm0&t=329s

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