カテゴリー「心と体」の30件の記事

2024年9月 3日 (火)

NHK特集ドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」(再放送)+伊藤沙莉フォトエッセイ『【さり】ではなく【さいり】です。』より

2024年8月23日

「そうやってフェードアウトできたら楽かもしれない、怖いけど」(伊藤沙莉『【さり】ではなく【さいり】です。』より)

NHK総合で、深夜0時45分から、特集ドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」の再放送がある。2022年放映の作品。伊藤沙莉は、主人公のももに扮しており、この作品で令和4年文化庁芸術祭で放送個人賞を受賞している。パパゲーノというのは、モーツァルトの歌劇(ジングシュピール)「魔笛」に登場するユーモラスな鳥刺し男だが、絶望して首つり自殺を図ろうとする場面があることから、「死にたい気持ちを抱えながら死ぬ以外の選択をして生きている人」という意味の言葉になっている。自殺願望を抱えている人を周りが救った例をメディアが取り上げて自殺を抑止することを「パパゲーノ効果」といい、NHKは「わたしはパパゲーノ」というサイトを開設して、寄せられたメッセージを読むことが出来る他、自身で投稿することも出来るようになっている。
冒頭に掲げた言葉は、伊藤沙莉に自殺願望があったという意味ではないが、芸能生活が上手くいかなくなった時期の気持ちを表したもので、彼女の失意がストレートに出ている。

出演は、伊藤沙莉のほかに、染谷将太、山崎紘菜、中島セナ、橋本淳、野間口徹、平原テツ、池谷のぶえ、堀内敬子、浅野和之ほか。語り:古舘寛治。
作:加藤拓也、演出:後藤怜亜。精神科医療考証:松本俊彦(国立精神・神経医療研究センター 精神科医)、自殺対策考証:清水康之(NPO法人 自殺対策支援センターライフリンク代表)

ももが路上で寝転がり、「死にてー」というつぶやくシーンからドラマは始まる。
埼玉県川口市出身で都内で一人暮らししているOLのもも(伊藤沙莉)は、一緒にカラオケなどを楽しむ友人がおり、仕事も余り良い仕事ではないかも知れないがそこそこ順調。セクハラを交わす術も覚えて、陶芸など打ち込む趣味(伊藤沙莉の趣味が陶芸らしい)もあり、一般的と言われる人生を送っていた。
しかし、ある日、ももはオーバードーズ(薬物大量摂取)をしてしまい、救急車で病院に運ばれる(薬が病院で貰ったものなのか、また一人暮らしで意識のないももがどうやって救急車を呼んだのかは不明。だが事件を起こした後で、精神科に通い始めたことが分かるセリフがある)。自分に自殺願望があったことに気づくもも。死にたい気持ちを抑えるために、カッターナイフで足の甲を傷つけるレッグカットを行うようになってしまう。

特に好きではないが断る理由もない男から交際を申し込まれ、OKするももだったが、彼のSNSを見て余りの寒さに地雷臭を感じる。それでも一緒に部屋で暮らす時間を作るほどには親しくなるが、足の甲の傷を見つけられてしまい、説教される。一方的なメッセージにももは別れを決意する。
翌朝、出社するために電車に乗ったももだが、途中下車して休んでいるうちに気分がどんどん悪くなってしまい、会社に休むとの電話を入れる。その後もももは駅のベンチから動くことが出来ない。結局、ももは会社を辞めることを決意。SNSで「辛いけど楽しいことをしている人」を募集し、メッセージをくれた人に会いに行く。
ももはパパゲーノと出会う旅に出掛けることになる。

ももは自殺願望はあるものの、端から見るとそれほど強い動機には見えないため、そのため却って葛藤する。「たいしたことないよ」という風に言われるため、助けを求めることが出来ないのだ(「私が苦しいって思ってるんだから苦しいんだよ。貴様に何が分かる。くらいまでいく時はいく」『【さり】ではなく【さいり】です。』より。実はこの後、オチがあるのがお笑い芸人の妹らしい)。

セクハラを拒否したことで村八分にされ、IT会社を辞めて農業をする女性(玲。演じるのは山崎紘菜。たまたまももの同級生だった)と出会ったももは、宿を確保していなかっため、近所の家に泊めて貰おうとするという「ロケみつ」的展開となるが、早希ちゃんより可愛くないためか…、あ、こんなこと書いちゃ駄目ですね。ともかく断られ、テントがあると教えられてそこで野宿生活を送ることになる。

喫茶店で待ち合わせた雄太(染谷将太)と出会うもも。雄太は保育士のようなのだが、ももの影響を受けて仕事を辞めてしまう。ももは一人で旅したかったのだが、結果として雄太はももと二人で過ごす時間が増え、二人でアルバイトなどをしてお金を稼ぎながら旅を続ける。
その後も、トランペットに挫折した女子高生、もともとろくに働いていなかったが年を取って仕事に就けなくなった男性、仕事は苦手だが妻子を養うために辞められない男性、何をするでもなく生きている男、山口(浅野和之)らと出会い、様々な人生観に触れながらももは生きていく決意をする。

伊藤沙莉は、NHK連続テレビ小説「虎に翼」で、現在40代になった主人公の佐田寅子を演じており、40代の演技をしているため、20代前半を演じている「パパゲーノ」とはギャップが凄い。丸顔で童顔なため、今回は実年齢より若い役だが違和感はない(最近痩せてきているのが気になるところだが)。
比較的淡々と進む作品だが、そのなかで微妙に変化していくももの心理を伊藤沙莉が丁寧かつ自然体の演技で表している。

先進国の中でも自殺率が特に高い国として知られる日本。基本的に奴隷に近い就業体制ということもあるが、生きるモデルが限定されているということもあり、しかもそこから外れるとなかなか這い上がれない蟻地獄構造でもある。実際のところ、ももも何の展望もなく会社を辞めてしまったことを後悔するシーンがあり、「一人になりたい」と雄太に告げ、それでもその場を動かない雄太に、「一人になりたいの! なんで分からないの!」と声を荒らげてもおり、どこにも所属していない自分の不甲斐なさに不安を覚えてもいるようだ。
それでも自分だけがそんなんじゃないということに気づき、歩み始める。まっすぐに伸びた道を向こうへと歩き続けるももの後ろ姿を捉えたロングショットが効果的である。


引用があることからも分かるとおり、遅ればせながら伊藤沙莉のフォトエッセイ『【さり】ではなく【さいり】です。』(KADOKAWA)を買って読む。伊藤沙莉自身があとがきに「文才なんて全く持ち合わせておりません」と記しており、口語調で、Webに書き込むときのような文章になっているのが特徴。読点がかなり少なめなのも印象的である。文字数も余り多くなく、読みやすい。くだけた表現も多いので、ライターさんは使っていないだろう。お芝居以外は「ポンコツ」との自覚があるため、この人が演技にかけている演技オタクであり、結構な苦労人であることも分かる。出てくる芸能人がみんな優しいのも印象的(態度の悪いスタッフに切れるシーンはあるが、無意識にやってしまい、後で落ち込んでいる)。基本的に伊藤沙莉は愛されキャラではあると思われるが、この手の人にありがちなように悪いことは書かないタイプなのかも知れない。

ちょっと気になった記述がある。子役時代に連続ドラマ「女王の教室」に出演して、主演の天海祐希に金言を貰ったという、比較的有名なエピソードを語る場面だ。これに伊藤沙莉は、天海祐希の言葉を長文で載せ、「『A-studio+』でも言わせて頂いたが完全版はこれだ」と記しているのである。さらっと記しているが、長文で記された天海祐希の言葉は天海が実際に話した言葉を一言一句そのまま書き記したものだと思われる。ということで、伊藤沙莉は人が言った言葉をそのまま一発で覚えて長い間忘れないでいられるという異能者であることがここから分かる。他にも様々な人のセリフが出て来て、長いものもあるが、「だいたいこんな感じ」ではなく、言われた言葉そのままなのだろう。やはり彼女は並みの人間ではないということである。あとがきで伊藤は、「昔から記憶力だけはまあまあ良くて だったらそれをフル活用してやんべ(語尾が「べ」で終わるのは「方言がない」と言われる千葉県北西部地方の数少ない方言で、彼女が千葉県人であることが分かる)」と記しているが、「まあまあ」どころではないのだろう。彼女が挙げた膨大な「何度も観るドラマや映画」のセリフもかなり入っている可能性が高い。

「なぜこの人はこんな演技を軽々と出来てしまうのだろう」と不思議に思うことがあったが、本人の頑張りもさることながら(観て覚えて引き出しは沢山ある)、やはり持って生まれたものが大きいようである。実兄のオズワルド伊藤が妹の伊藤沙莉のことを「天才女優」と呼んでいるが、身贔屓ではないのだろう。

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2022年4月27日 (水)

観劇感想精選(433) 広田ゆうみ+二口大学 「受付」@UrBANGUILD 2022.4.19

2022年4月19日 木屋町のUrBANGUILDにて観劇

木屋町のUrBANGUILD(アバンギルド)で、広田ゆうみ+二口大学の「受付」という作品を観る。別役実が書いた二人芝居で、1980年に初演されている。今回の演出は、広田ゆうみが単独でクレジットされている。

別役実は、早大中退後、一時期労働組合の仕事に就いていたことがあるのだが、このことはこの作品を観る上では念頭に置いておいた方が良いように思う。

とある雑居ビルの一角にあるヨシダ神経科クリニック(神経科とあるが、精神科のことである。「精神科」という言葉に抵抗感を覚える人も多いため、「神経科」と少し柔らかめの表現にしている病院もかなり多い)の受付が舞台である。ここに45歳の男(二口大学)が訪ねてくる。メンタルの不調で、「重い」という程ではなさそうだが、苦しい思いをしているのは確かなようである。


余りにも自殺者が多いということもあり、20世紀から21世紀に移り変わる時期に始まった「うつ病キャンペーン」がメディアを中心に広まり、精神科にも普通に通える時代になった。少なくとも精神科に通っているというだけで不審者扱いされることは少なくなったが、「受付」が初演された1980年前後は精神科に通っただけで後ろ指をさされたり、今では放送禁止用語となっている言葉で呼ばれたりということは普通にあった。今でもその傾向は残っているが、「心を病むのは弱い人」「甘えている」「危険人物」というイメージがあり、症状が重くてもそれを嫌って精神科の受診をためらう人が多かった。この劇に登場する男も、会社の同僚には「神経科クリニックに行く」とは言えず、「歯の痛み止めを買ってくる」という理由で会社を出て、長引いたら「歯医者に回されることになった」と嘘をつくつもりでいた。メンタルで病院を受診したとばれたら、誰も口をきいてくれなくなるかも知れない。そんな時代にメンタルクリニックに通おうと決意するにはかなりの度胸が必要であり、また精神科にかかろうと思った時点で本人が自覚しているよりも症状が重い可能性もある。余り知られていないかも知れないが、精神障害が重篤化した場合、解雇の正当な理由となる。これは今でも変わっておらず、SEなどをデスマーチに追い込み、精神に傷を負わせて解雇し、新しい人材を入れて回すという使い捨て前提の悪徳IT企業の存在が問題視されていたりする。というわけで、男にもこれ以上症状を悪化させるわけにはいかないという理由があったのだと思われるが、受付の女(広田ゆうみ)は、受付の仕事らしい仕事はほとんど行わず、ベトナム(ベトナム戦争終結後ほどない時期である)やパレスチナの難民や餓死する孤児達が可哀そうなので寄付を行えだの、角膜移植が必要な子どもがいるからドナーになれだの、死後に献体をして欲しいだのと要求ばかり。受け付けているのは目の前の患者ではなく、雑居ビルにいる他の団体の希望で、患者に対しての振る舞いは押し売りとなんら変わらない(この時代には押し売りを生業とする人はまだいたはずである)。

受付の女は、突然なんの脈略もなく、「あなた独身ですか?」と聞いて、男に妻と4人の子どもがいることを聞き出す。男女雇用機会均等法が施行されるのは1986年のこと。ということでこの芝居が初演された時点では、全く同じ仕事をしていても女性は男性よりも時給が大幅に低いというのは当たり前であり、「寿退職」などという言葉もあったが、「結婚したら退職」が雇用契約書に堂々と書かれていたりもした。「女は仕事をする存在ではない」という前提があり、そんな時代に女の子ばかり4人ということで、将来的に十分な稼ぎ手になれない可能性も高い。男の子が生まれるか女の子が生まれるかは運でしかないが、男の子が欲しいために4人生んで全員女では、受付の女からでなくても叱られる可能性もゼロではない(フィクションなので笑っていられるが)。そういう時代である。

男は見た目以上に追い詰められているのではないかという推測も、決して的外れにはならないだろう。

そうやって追い詰めた男に、受付の女は雑居ビル内の他の受付からの要求を全て吞ませることに成功するのである。オレオレ詐欺などでも話題になったが、騙されてしまうのは、パニックになりやすい人、精神状態に余裕ない人である。この時代にメンタルクリニックを受診しようとしている男の精神状態は見た目よりも混乱している可能性が高く、受付の女はそれに付け込んだという見方も可能である。少なくとも受付の女は全てを得ることに成功する。

一方で、ヨシダ神経科クリニックの受付の女を始め、この雑居ビルの受付はある程度の年齢に達しているが全員独身。この時代は社会設計上、女性が一人で生きていくのは極めて困難であるため、早めに結婚する必要があるのだが、それに失敗していることが分かる。どうやらこの場にいる女達は全員不幸を背負っているようでもあり、絶対的な弱者であると見ることも出来る。一つ不幸が別の形の不幸を呼ぶことは歴史が証明しているのだが、外見上は華やかな時代にあって、この時代の人々はそうしたことにどれだけ自覚的であっただろう。

受付の女がなぜ受付の仕事に就いたのかは不明であるが、複数の受付の「不幸な」女達が訪れた人の身ぐるみを剥いでいくような過程は不気味である。そして受付の女たちが要求するのは、「反論のしようもない正義」であり、「反論のしようもない」ことの恐ろしさも浮かび上がる。誰かのための善意が目の前の人を追い詰めていく。目の前に苦しんでいる人がいるのにそれを無視して会ったこともない誰かの幸せを望むのは欺瞞でしかないが、こうした欺瞞は今もあちこちで見られる現象である。ウクライナの勝利を願っても、今朝、電車に飛び込んだ人のことは気にも留めないといったように。

1980年代。高度成長期が終わり、バブルの始まる前夜の時代である。華やかではあったが、今から見ればブラックな労働環境が当たり前で、1987年にはリゲインという栄養ドリンクの「24時間働けますか」というキャッチコピーが流行語となった。企業に全権を委任して就職し、自らを奴隷化して働くのが美徳とされた時代である。働いた分だけ給料が上がる時代でもあってそれが疑問視されることも少なかったのだが、この「受付」という芝居でも、男は死後に角膜やら遺体やらを全権委任する羽目に陥る。まるでメフィストフェレスや荼枳尼天との契約のようであるが、世相を反映していると見るべきか。一般的にはどうかわからないが、別役実はこの過酷なシステムに意識的であったように思われる。

ラストで、どうやら受付の女が医師への取次ぎを妨害していることがわかる。受付を通さないと医師には会えないらしい。受付は訪れた男のために設けられたもので、カフカの「門」のようでもあるが、治療を受ければ復帰できる可能性もある患者を医師に会わせないよう仕向けている。これはあるいは当時の「精神科のイメージ」をめぐるメタファーなのだろうか。受付の女は単なる受付の女ではなく、「社会の空気」そのものの象徴であるようにも見える。

目の前にいる人間を救えないどころか追い詰めるという「風潮」は、実際のところ今も余り変わっていない。

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2022年1月15日 (土)

観劇感想精選(422) MTC project プロデュース 一人芝居コラボレーション「私」と「わたし」

2021年11月6日 大阪・新町のイサオビル Regalo Gallery&Theaterにて観劇

午後5時から、大阪・新町にあるイサオビル Regalo Gallery&Theaterで、MTC project プロデュース 一人芝居コラボレーション「私」と「わたし」を観る。

イサオビルが建つのはオリックス劇場(大阪厚生年金会館大ホールを改修したもの)のすぐそばである。オリックス劇場では今日も誰かのライブがあるようで、劇場の前にある新町公園でも人が大勢待っている。


Theaterは2階にあるのだが、受付は3階にあるカフェで、午後5時にキャストが迎えにくるまでカフェ内で待つことになる。
午後5時に、「私」の作・演出・出演である増田雄氏(MTC Project代表)が現れて、1つ下の階にあるTheaterに整理番号順で入る。私は大体、会場に早く着きすぎるので(遅れるのが絶対に嫌なので早めに出て早めに着くようにしている)整理番号は1番であった。

増田雄の一人芝居である「私」は、2016年1月の初演。精神保健福祉士の卵達にも発達障害のことが良く分かるような芝居を作ってくれないかとの依頼を受けて制作されたものだった。増田雄自身、発達障害の一つであるADHDの傾向があると診断されていたが、医学に関しては素人であるため、「僕なんかより、学生でも精神保健福祉士になるための勉強をされている方の方が詳しいんじゃないですか?」と聞いたところ、「教科書で学ぶ内容と現実との余りの開きに皆戸惑っている」という返事が返ってきたため、ならばその差をより突き詰めるような内容にした方がいいだろうということで、就職に悩む大学4年生(関西風に言うと4回生)を主人公とした一人芝居とし、発達障害の当事者が周囲の見せかけの「理解」に戸惑う内容としている。主人公の男性に関しては、ADHDではなくASD(自閉症スペクトラム)としていることが分かる。ちなみに、発達障害者は、「世界で最も就職の難しい種族」などと言われることもあるのだが、「自閉症スペクトラム(スペクトラムは「連続体」という意味)」という言葉からも分かる通り、一人ひとり症状が異なるというややこしい特性があるため、断言が難しい症状でもある。
日本は先進国の中でも特に発達障害と診断される人が多い国であるが、社会制度そのものが発達障害と診断された人を弾き出すシステムになっていることも影響していると思われる。

増田雄の演じる「私」を観て、リライトを思い立ったASD当事者である関根淳子が書き上げたのが、タイトルをひらがなにした「わたし」である。単純に性別を変えただけではなく、就職の問題を恋愛問題に置き換え、身分も学生ではなく専門学校卒のフリーターに変更。「私」では寓話で語られた部分を学生時代の人間関係の思い出話とし、クライマックスで語られる童話調の物語も、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「人魚姫」を基にしたものに変更している。一人芝居であるが登場人物も大幅に増え(「私」では、面接官ぐらいしか具体的な他人は出て来ないが、「わたし」では学校の同級生、彼氏と彼氏の母親などが登場。「人魚姫」の部分では主人公の他に人魚姫の二人の姉や魔女なども声音を変えて演じ分ける)、ダンスや振りのある演技も入れたため、上演時間も約50分と、「私」の約30分から倍近くに延びている。「私」は会議室での上演を想定したものということもあって音楽なしだが、「わたし」は音楽入りと、ここも異なる。

女性の場合、男性よりもより高度なコミュニケーション能力を要求されるケースが多い。男の場合は、私もそうだが一人が好きという性格であったとしても「そういう人っているよね」で済むのだが、女の場合はいつも一人でいると異端視されやすい。発達障害者には孤独を好む傾向を持つ人も多いのだが、女性の場合は孤独が許されず、人間関係が苦手だと男性以上に地獄を見ることになる。

一方で、男性の場合は就職出来ないと負け犬扱いされることが多いが、女性の場合は「家事手伝い」という抜け道もあり、フリーターであっても「そのうち結婚すればいいから」と許される確率も高い。ただ、生涯未婚率自体が上昇の一途であり、将来的に追い込まれる人も出てきそうである。


関根淳子の「わたし」は、2年前にここイサオビル Regalo Gallery&Theaterで初演される予定だったのだが、コロナ禍によって中止となり、THEATRE E9 KYOTOが企画したオンライン上演企画に応募して、関根淳子が所属しているSPAC(Shizuoka Performing Arts Center)の本拠地である静岡市内で収録した映像によって初演が行われた。その後、静岡県内で静岡県在住者に限って観覧出来る上演が行われ、関根の母校である東京大学での上演などを経て、ようやく初演が予定されていた大阪での上演となった。

関根淳子の「わたし」は、私も有料配信のものを観ており、増田雄の「私」はYouTubeで観ている(収録の出来は満足のいかないものなので、増田さんはこの映像を観ることをお勧めしていないようである)のだが、両作品とも「演劇」として接するのは初めてとなる。

内容に関しては映像初演の時と重複する部分も多いので繰り返さないでおくが、印象自体は映像で観るのとその場で観るのとではやはり大きく異なり、演劇はやはり会場まで出向いて観る必要を強く感じる。受け取るエネルギーの量が段違いなのである。

増田雄の後で聞く関根淳子のセリフ回しに、関東人ならではの心地良さを感じる。増田雄も大学は多摩美術大学(世田谷区上野毛にあった造形表現学部映像演劇学科。現在の美術学部演劇舞踊デザイン学科の前身である)を出ているので、東京にいた期間はあるのだが基本的に西日本の人であり(出身は、西日本にも東日本にも含まれる三重県である)、セリフは標準語が用いられていたが、やはり関東で生まれ育った関東人のセリフ回しとは異なる印象を受ける。セリフだけでなく、数人いる関東出身の友人とそれ以外の地方の友人とでは日本語そのものに関する意識自体に違いを感じたりもしている。
関東人の話し方は、緩急、強弱ともに自在なのが特徴であり、「線」が波打つような感覚がある。一方、その他の地方の話し方はそれがいかに音楽的であろうと迅速な「点描」という印象を受ける。関東人の話し方は擦弦楽器あるいはオーケストラ的、それ以外の地方の人々の話し方はピアノなどの鍵盤楽器やギター的であると書くと分かりやすいだろうか。
人によって感じ方は異なるだろうが、関東で生まれ、27歳まで関東で過ごした人間としては、間近で聴く関東・標準語ネイティブである関根淳子のセリフは本能的に受け入れやすいものであるように感じられる。


「私」と「わたし」の上演の後にアフタートークがある。毎回ゲストを呼んで行われるが、今日のゲストは精神保健福祉士の山崎明子(一般社団法人みーる代表理事)。
山崎明子が代表理事を務める一般社団法人みーるは就労継続支援B型(障害のある方に就労のための訓練を施す場所。A型というのもあって、こちらは労働契約を結ぶため最低賃金が保障されるが、B型は労働の場というよりも「居場所」の色彩が濃く、工賃というものが出るが、月収が1万円いけば良い方というところも普通にある)を運営しているのだが、みーる主催による「私」が週末限定でロングラン公演が行われたそうである。

アフタートークは写真撮影可、というより増田さんによると「積極的に撮って広めて欲しい」とのことだったが、余り良い写真は撮れそうになかったので遠慮した。

山崎さんによると、支援者として障害者に接する難しさがあるそうで、相手のためを思った言動が、結果的には相手を見下す結果になることもあるそうだ。「わたし」では、「理解者」を自認する第三者からの善意が生む悪意に曝される場面があるのだが、そうした光景は支援施設でもよく見られるそうである。
施設の利用者には、上手く表現出来ない恐怖感を日常的に抱いている人も多いそうだが、これはある意味、日常というものがホラー化していることを表しているのかも知れない。


終演後に、関根淳子さんに挨拶。Zoomで話したりFacebookでやり取りをしたことはあるのだが、実際に対面するのは初めてとなった。なんだか妙な感じである。

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2021年4月22日 (木)

これまでに観た映画より(256) ルキノ・ヴィスコンティ監督作品「異邦人」

2021年4月19日 京都シネマにて

京都シネマで、「異邦人」を観る。ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のデジタル復元版。アルベール・カミュの同名小説の映画化(公式サイトではなぜか原作が「ペスト」になっている)である。主演はマルチェロ・マストロヤンニで、恋人役でアンナ・カリーナが出演している。
日本初公開時は、英語による国際版での上映だったようだが、今回はイタリア語版での初上映となる。

「太陽が眩しかったから」人を殺したというくだりが有名な不条理文学を代表する作品が原作である。ただこの「不条理」をどう捉えるかで解釈も変わってくる。「自分でもよく分からない」「とにかく謎」という意味であるとするならば、今現在の現実社会ではそうした状態であることの方がむしろ自然であり、もしそうだとするなら不条理というよりも先駆的であるという意味で優れた文学作品であると評価出来る。

ただ、当然ながらそうした「よく分からない」状態は文学作品であるからこそ有効であり、映画にするとどうしても説得力を欠く作品となってしまう。20世紀を代表するヴィスコンティ監督の力量を持ってしてもそれは覆せなかったようで、映像美やカットの面白さが取り柄の作品となってしまっている。原作の文章をモノローグとして用いることが多いが、そうした手法自体が映像的ではない。映画「異邦人」は、映像ソフト化されることがこれまで一切なかったそうだが、あらすじをなぞっているだけであるため、映画として楽しむのは苦しいというのが第一の理由であると思われる。そして今現在から観ると映画化された「異邦人」はごくありきたりの物語に見えてしまう。原作小説自体が映像化に向いていないのだが、筋だけ見ると、カミュが示した世界に現実が追いつきつつあるような、一種の不気味さも感じられる。

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2021年1月23日 (土)

これまでに観た映画より(241) 「カッコーの巣の上で」

2007年3月14日

DVDでアメリカ映画「カッコーの巣の上で」を観る。1975年度のアカデミー作品賞受賞作品。ミロス・フォアマン監督、マイケル・ダグラス製作、ジャック・ニコルソン主演。

精神病院を舞台にした名作との誉れ高い作品である。タイトルは「カッコーの巣の上で」というものだが、ご存じの通りカッコーは巣を作らない鳥である。意味深長なタイトルだ。

前科者で何度も刑務所に入っているマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)は今度は刑務所行きを逃れるために精神異常を訴えて精神病院の閉鎖病棟に送り込まれる。しかし、そこは徹底して管理された非人間的社会であった……

決して心楽しくなる映画ではない。マクマーフィによって精神病院から一時的に抜け出した患者達が魚釣りに出かけたりする場面に痛快さを覚えることはあるが、後半、特に結末近くは陰惨であり、生きるということの難しさと痛々しさが胸に迫る。

本当に人間らしくあるといはどういう事なのかという問いがある。精神病患者を精神病患者として扱っても人間として扱ってもそこには矛盾が生じてしまう。そもそも人間らしさという概念そのものが曖昧なのに人間らしさというイメージをなんとなく共有していることは世界としてまっとうなのだろうか。

全米から1200人以上も集まったオーディションを勝ち抜いた精神病院入院患者役の俳優達の演技は実に上手い。日本にも精神病患者を演じるのが上手な俳優もいるが質量共にアメリカには勝てないだろう。まあ、映画層も俳優層もアメリカは日本とは比べものならないほど厚いのでそれは当然なのだが。

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2020年12月 4日 (金)

これまでに観た映画より(231) 「滑走路」

2020年11月30日 新京極のMOVIX京都にて

MOVIX京都で、日本映画「滑走路」を観る。若手歌人として期待されながら、32歳で自ら命を絶った萩原慎一郎の処女作にして遺作となった同名歌集から着想を得たオリジナルストーリーである。

萩原慎一郎は、1984年、東京生まれ。中学受験をして入った私立の中高一貫有名進学校でいじめに遭い、高校はなんとか卒業するが、いじめの後遺症である精神障害に苦しみ、自宅療養と通院を続ける。17歳から短歌の創作を始め、のめり込むようになっていた。早稲田大学人間科学部の通信教育課程(eスクール)に入学し、精神の不調と闘いながら6年掛けて卒業。正社員として就職が出来るような体調ではなかったが、アルバイトから始め、契約社員(雑用が主であったという)として働くようになる。短歌会「りとむ」に参加し、雑誌などにも短歌の投稿を積極的に行うなど、創作欲は旺盛であり、いくつもの賞を受賞。短歌界の新星としてその名が知られるようになっていく。非正規労働者の哀しみを歌う第一歌集『滑走路』の出版が決まり、表紙の装丁なども自身で案を出したが、精神障害に打ち勝つことは出来ず、2017年6月17日に自死を選んだ。

今回の映画は、萩原慎一郎本人の悲劇的生涯や、歌集『滑走路』に歌われた内容とは違ったものになっている。近いものになることを避けたい人もいたのだろう。いじめ、精神障害、非正規労働、創作といった要素は別々の人物に割り振られることになった。

監督はこれが初監督作となる大庭功睦(おおば・のりちか)。脚本:桑村さや香。出演、水川あさみ、浅香航大、寄川歌太(よりかわ・うた)、木下渓、池田優斗、吉村界人、染谷将太(役名は「明智」である)、池内万作、水橋研二、坂井真紀ほか。影絵:河野里美、絵画制作:すぎやまたくや。

登場人物の今現在(2つの今現在が描かれており、両者は10年ほど離れている)と中学時代とが交互に描かれるのだが、登場人物の名前はなかなか明かされず(今現在では苗字のみが知らされるのに対し、中学時代は下の名前だけだったり、「学級委員長」という肩書きで呼ばれたりする)、中学時代の彼らの誰が今の誰に相当するのか伏せられたまま話は進んでいく。そのうちの一人は中学時代に受けたいじめのストレスが原因で高校受験も大学受験も失敗し、就職も単純作業の非正規社員で、25歳の時に橋から飛び降りて自殺している。彼の名は、厚生労働省の「非正規雇用が原因で自殺したとされる人々のリスト」の中に載っている。働き方改革で、非正規雇用の劣悪な労働環境が問題視される中、厚生労働省の若手官僚も上司からは詰められ、労働ユニオンからは早急な決定を求められるなどストレス満載の過酷な労働が続き、不眠症やPTSDに苦しめられていた。

もう一人の主人公を演じているのが水川あさみである。パート勤務をしながら切り絵作家として活動を続ける翠が彼女の今回の役である。切り絵作家としての実力が次第に認められつつある翠。夫の拓己(水橋研二)との関係も良好だが、今後の生活に不安を抱いてもいた。拓己は高校の美術教師であるが、プロの芸術家として活動を始めた妻に複雑な思いを抱いていたことが後に判明する。

中学時代と現在とがどう絡むのかを予想する面白さもあるのだが、残念ながら着地点は想像を下回ってしまったように思う。それぞれを丁寧に描いた結果、全体が浅くなってしまったということだ。

ただ俳優陣はとても魅力的である。このところ重要な役での映画出演が続く水川あさみが良いのは勿論だが、寄川歌太や木下渓といった十代の俳優達のフレッシュな演技が良く、いじめが絡んだ辛い青春ではあるのだが、砂糖をたっぷり入れたコーヒーのような甘苦さ(千葉県人なので「マックスコーヒーの味わい」と書きたくなるが、おそらく千葉県人と茨城県人にしか伝わらないので止めておく)を観る者に届けてくれる。実は、歌集『滑走路』にも恋する人の存在は歌われており、好きな人がいるという喜びが生きる力となることが歌集でも映画でも描かれている。

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2020年11月 8日 (日)

これまでに観た映画より(225) メル・ギブソン&ショーン・ペン 「博士と狂人」

2020年11月5日 京都シネマにて

京都シネマで、イギリス=アイルランド=フランス=アイスランド合作映画「博士と狂人」を観る。久しぶりとなるスクリーン1(京都シネマは、スクリーン1、スクリーン2、スクリーン3という3つの上映空間からなっており、番号が若いほど大きい)での鑑賞となる。

言語を網羅化したものとしては世界最高峰の辞典『オックスフォード英語大辞典』編纂に纏わる実話を基にした物語の映画化。原作:サイモン・ウィンチェスター。脚本・監督:P.B.シェムラン。出演:メル・ギブソン、ショーン・ペン、ナタリー・ドーマン、エディ・マーサン、スティーヴ・クーガンほか。2018年の制作である。

英語に関する単語や表現、由来や歴史などを集成した『オックスフォード英語大辞典』。19世紀に編纂が始まり、完成までに70年を要した大著であるが、その編纂初期に取材したサイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを映画化したのが、この「博士と狂人」である。サイモン・ウィンチェスターの著書は1998年に発売されたが、映画化の権利獲得に真っ先に名乗りを挙げたのがメル・ギブソンであり、当初はメル・ギブソン自身が監督する案もあったそうだが、最終的にはメル・ギブソンは主演俳優に専念することになった。構想から完成まで20年を費やした力作である。

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教師として働くジェームズ・マレー(メル・ギブゾン)は、スコットランドの仕立屋の子として生まれたが、生家が貧しかったため、14歳で学業を終えて働き始めた(先日亡くなったショーン・コネリーに生い立ちが似ている)。その後、独学で語学を学び、ヨーロッパ圏の言語ほとんどに通じる言語学の第一人者と認められるまでになるが、大学を出ていないため当然学士号は持っておらず、話し方もスコットランド訛りが強いということで白眼視する関係者もいる。『オックスフォード英語大辞典』はその名の通り、オックスフォード大学街で編纂が行われるが、マレーの案で、イギリスとアメリカ、そして当時のイギリスの植民地などに在住する英語話者からボランティアを募り、単語や言い回し、その歴史や出典などを手紙で送って貰って、それらをマレー達が中心になって取捨選択し編纂するという形を取る。その中に、一際英語に詳しい人物がいた。アメリカ出身の元軍医で、今はイギリスのバークシャー州に住むウィリアム・G・マイナー博士(ショーン・ペン)である。マレーはその住所からマイナーのことを精神病院の院長だと思い込むのだが、実際はマイナーは殺人事件を起こし、幻覚症状が酷いことから死刑を免れて刑事精神病院に措置入院させられている人物であった。マイナーは、南北戦争に軍医として従軍。敵兵の拷問に関与したのだが、その時の記憶がトラウマとなり、今では拷問を受けた人物が殺意を持って自分を追いかけてくると思い込む強迫神経症に陥っていた。敵が自分を監視していると思い込んだマイナーは、その場を通りかかったジョージ・メレットを誤認識し、射殺してしまっていたのだ。精神病院でもマイナーは幻覚に苛まれる(後に統合失調症との診断が下る)。

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マイナーが実は精神病患者で殺人犯だと気付いたマレーだが、学識豊かなマイナーと英語に関する知識を交換し、すぐに友情で結ばれるようになる。二人のやり取りは、これまで互いに理想としてきた人物との邂逅の喜びに溢れていた。
『オックスフォード大辞典』の第1巻が完成し、その功績によりマレーは言語学の博士号を送られ、正式な博士となる。
だが、アメリカ人の殺人犯が権威ある英語辞典の編纂に関与していることが知られてスキャンダルとなり、マイナーの病状も徐々に悪化して、異様な行動も目立つようになる。

『オックスフォード英語大辞典』編纂の物語ということで、派手な展開ではないが、しっかりとした構造を持つヒューマンドラマに仕上がっている。マレーとマイナーの友情の物語、またメレット夫人(イライザ・メレット。演じるのはナタリー・ドーマン)とマイナーとの男女の物語が平行して進むのだが、文盲であったメレット夫人がマイナーの指導によって読み書きの能力を身につけていく過程は、メレット夫人の成長とマイナーとの歩み寄りの物語でもある。「許すとは何か」がここで問い掛けられている。メレット夫人を単なる悲劇のヒロインや復讐に燃える女性としないところも良い(マイナーとメレット夫人のシーンはフィクションの部分が多いようだが)。

単にヒューマンドラマとして観てもいいのだが、マレーがスコットランド出身であることや学歴がないことで見下されたり、追い落とされそうになるところ、またマイナーがアメリカ人で(今でこそイギリスとアメリカではアメリカの方が優位だが、19世紀当時のアメリカは「ヨーロッパの落ちこぼれが作った未開の国」でイギリスへの裏切り者というイメージだった)しかも精神病に冒されているということで異端視されるなど、差別と偏見がしっかりと描かれている。こうした傾向は、19世紀よりはましになったが、今に到るまで続く問題であり、単なる「知られざる偉人の物語」としていないところに奥行きが感じられる。

ちなみに、若き日のウィンストン・チャーチルが登場する場面がある。世界史好きの方はご存じだと思われるが、チャーチルも生涯に渡って精神病に悩まされた人物であった。実際に映画で描かれているようなことがあったのかどうかは分からないが、ある意味、象徴的な役割を果たしている。

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2020年5月18日 (月)

これまでに観た映画より(175) 坪田義史監督作品「だってしょうがないじゃない」

2020年5月17日 「仮設の映画館」@京都シネマにて

「仮設の映画館」@京都シネマでドキュメンタリー映画「だってしょうがないじゃない」を観る。坪田義史監督作品。字幕付きでの上映である。

40歳を過ぎてから発達障害に含まれるADHDの診断を受けた坪田義史監督が、やはり発達障害の診断を受けた親戚(再従兄弟とのことだったが後に違うことが判明する)のまことさんとの3年間をカメラに収めた映画である。
まことさんは中学卒業後、溶接工などの職を転々とした後で、二十歳の時に自衛官となるが、ほどなく父親が死去したため、神奈川県藤沢市辻堂にある実家に戻り、以後、40年に渡って母親と二人で暮らしていたのだが、母親も死去。今は障害基礎年金を受け取り、様々な福祉サービスを受けながら一人暮らしをしている。

まことさんは、母親が亡くなってから軽度の知的障害を伴う広汎性発達障害と診断を受けた。叔母さんがまことさんの面倒を主に見ているのだが、診断を受けるには様々な資料が必要だそうで、小学校の通知表などもなんとか探し出したそうである。ちなみにオール1が並んでいるようなものだったらしい。今なら特別学級に通うことになるのだと思われるが、当時は知的障害の認定は可能だったかも知れないが、発達障害は存在すらほとんど知られていなかった時代。知的障害があることは分かっていたのかも知れないが、軽度であるため、「学習に支障なし」とされたのであろう(成績から察するに実際は支障があったと思われる)。

まことさんは、吃音はあるが、言語は明瞭であり、漢字の読み書きなども割合普通に出来る。ということで何の情報もなければ障害者には見えないが、だからこその辛さも経験しているであろう。

 

精神医学は近年、急速に発達しているが、枠組みも変化しており、自閉症、アスペルガー症候群、広汎性発達障害障害などはより大きな枠組みである自閉症スペクトラムに組み込まれるようになっている。スペクトラム(連続体)という言葉が表している通り、同じ障害であっても症状は人それぞれ違うというのがやっかいなところである。知的障害があるものとないものがあり(知的障害がないものを以前はアスペルガー症候群といっていたが、今ではこの区分は少なくとも積極的には用いられていない)、その他の能力もバラバラである。ただ強いこだわりなど、共通するいくつかの特徴がある。強いこだわりはコレクターという形で現れることが多く、まことさんもフィギュアのコレクションを行っている。また風呂には土曜日にしか入らず、洗濯は水曜にしかしないと決めており、変更を嫌がる。

生まれ育った神奈川県への愛着があるようで、まことさんは毎年、藤沢市を通る箱根駅伝を見に出掛け、地元の神奈川大学(私立で、略称は「じんだい」。優勝経験もある)を応援する。またベイスターズのファンであり、坪田監督と横浜スタジアムに試合を見に出掛ける前にベイスターズのレプリカキャップを購入。その後、ずっと愛用し続けている。これもこだわりであるが、障害故なのかは判然としないところである。

 

「レインマン」という有名な映画があるが、ダスティン・ホフマンが演じているレイモンドも今診断を受けると自閉症スペクトラムになると思われる。レイモンドもこだわりが強く何曜日の何時からどのテレビを見るかを決めており、メジャーリーガーの成績を細部まで記憶しているというマニアであった。ただ、レイモンドは計算能力に秀でたり、驚異的な記憶力や認知能力を誇るサヴァン症候群でもあったが、サヴァン症候群は極めてまれな存在であり、まことさんには人よりも特に優れている部分はないように見受けられる。ということで、計算がうまく出来なかったり、小さな事で悩んだりと余り格好は良くない。自制心に欠けるところがあるため、ビニール袋が風に飛ばされる様をずっと眺めていて(いけないとわかっていてもやってしまうそうである)隣家から苦情を言われたり、エロ本を隠し持っていたことで叔母さんに心配され、怒られたりしている。

 

坪田監督とは良好な関係を築いていたが、ずっと住んでいた実家を手放さざるを得ない状況となる。これまでまことさんを支えてきた親族もみな高齢化し、今後もずっとまことさんの面倒を見るというわけにもいかない。

ということでグループホームに入るという話が出るのだが、変化を嫌がるという性質を持つまことさんは、いい顔をしない。

 

坪田監督は、まことさんの居場所を探し、平塚市にある就労継続支援B型(B型事業所)のstudio COOCAという芸術特化型の施設を見つける。平塚までの送り迎えは自分がやってもいいという。
studio COOCAに見学に出掛けたまことさんと監督であるが、まことさんは入所する気は全くないようだ。

 

その後、日本三大七夕祭りの一つである平塚の七夕祭りに出掛けたまことさんは、その夜、初めてカラオケに挑戦する。予想を遙かに上回る歌唱を披露したまことさん。歌をみんなに聴いて貰いたいという希望が生まれた。

 

といったように概要を述べてきたわけであるが、ドキュメンタリーであるため、「レインマン」のようなフィクションとは異なり、ドラマティックなことは起こらない。ダスティン・ホフマンやトム・クルーズのような男前も登場しないし、レインマンの正体が解き明かされたりもしない。軽い知的障害を伴う発達障害者の姿そのものを映し出すに留まる。そこにメッセージ性があるわけでもない。

だが、この世界に、まことさんは生きている。確実に存在している。上手くいかないことの方が多いが、これまで生きてきて今もいる。何かのためにというわけでもなく。
本来人間というのはそれだけでいいものなのかも知れない。時代と環境とによって規定が変わっていくだけなのだ。

 

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2020年5月17日 (日)

これまでに観た映画より(174) 想田和弘監督作品「精神0」

2020年5月15日 「仮設の映画館」@京都シネマにて

「仮設の映画館」@京都シネマで、ドキュメンタリー映画「精神0」を観る。想田和弘監督作品。プロデューサー:柏木規与子(想田和弘夫人)。

現在、日本中の映画館が臨時休館を余儀なくされているが、その中でも営業的に苦しい運営形式であるミニシアターが共同でWeb上での映画配信を行うのが「仮設の映画館」である。映画の一般料金と同じ1800円をクレジットカードなどで支払い、自分が料金を支払いたい映画館を選択してストリーミングでの映像配信を観るというシステムとなっている。私はそもそもこの映画をここで観る予定であった京都シネマを選択する。京都シネマはこれまでも民事再生法の適用を受けながら営業、つまり倒産はしているわけで、今も資金面ではかなり苦しいはずである。更に近くにある新風館の地下にミニシアターのシネマコンプレックスが誕生する予定であり、先行きはかなり不安である。ただコロナ禍は去ったがお気に入りの映画館が潰れていたということは避けたい。今後も「仮設の映画館」の京都シネマでいくつか作品を観る予定である。

描かれるのは前作「精神」の10年後であるが、今回の主役は精神障害者の方達ではなく、山本昌知医師である。精神障害者に真摯に向き合い、親しく接する山本医師の人物像を掘り下げるということも含めて「精神2」ではなく「精神0」というタイトルになっている。

岡山市。精神科医院「こらーる岡山」の医師である山本昌知も82歳ということで、第一線から退くことになる。現役最後となる講演には山本の評判を聞いて東京から駆けつけた女性からサインを求められるなど、名医としての地位を築いた山本であるが、もう精神科の医師として働ける年齢は過ぎたと悟った(のかも知れない)。

ただ心残りなのは残される患者達である。山本医師の特徴は患者の言葉をよく聞いて、的確なアドバイスを送るというところである。説得力があり、ぬくもりに満ちている。だが少なくとも岡山市内にはそうした医師は他にいない。向精神薬は次々と優れたものが登場しているが、その結果として精神科医は最適な薬を選ぶことを主な仕事とするようになり、患者の話を聞かない医師が増えた。患者の一人は他の病院を受診した時のことを、「散々待たせて1分半で受診が終わり」と不満げに語る。

最初の、「CDを買いたいだとかそういった欲求が抑えられない」という患者に山本医師は、自然に欲求が沸いてくるのはいいことだがゼロになる日をたまに作るといいというアドバイスをする。アドバイスをするだけではなく、精神病者は誰よりも頑張っているというリスペクトも送る。

前作の「精神」で流れたものや、撮られたがカットされて使われなかった映像はモノクロームで映し出される。

想田和弘監督が東京大学文学部宗教学科卒業ということで、山本医師の姿に「膝をつき合わせるようにして弟子や信徒と語った」というブッダや、「共生(ともいき)」を掲げる浄土宗の祖で現在の岡山県出身の法然、その弟子で一人一人と共に悩み共に生きる宗教家である親鸞などを重ねて見ることも出来る。そしてそれは比較的たやすいことなのであるが、「精神0」で観るべきは、おそらくそこではないだろう。

山本昌知医師の奥さんである芳子さん。こらーる岡山で夫を手伝ったりもしていたが、山本昌知が医師ではない一個の人間となる「ゼロの場」である家庭でも共に時を過ごしてきた。山本医師とは中学高校と一緒であったという。10年前にはテキパキ動き、ハキハキと喋る奥さんだった芳子さんだが、高齢ということで無口になり、カメラの前でも所在なげである。撮影を行う想田監督に見当違いな発言をするなど勘違いが増えて、普通の生活を送ることももうままならないようだ。山本医師の引退も芳子さんの現状が絡んでいるように思われる。
芳子さんが学生時代の思い出を語る場面がある。山本医師は学生時代は「勉強がよく出来ない」生徒だったと芳子さんは語り、一方の山本医師は芳子さんのことを成績は一番が指定席のような人と話す。

芳子さんの親友が芳子さんについて話す場面がある。「凄い頭のいい方」だそうで、歌舞伎やクラシック音楽が大好きで、海老蔵(おそらく今の海老蔵ではなく、「海老さま」と呼ばれた先々代だと思われる)の大ファン。更にバブルの頃は夫に内緒で株で儲けたりもしていたそうで、政治面にも明るく、単に聡明なだけでなく多芸多才の女性であることがわかる。家には芳子さんの作った俳句が飾られており、おそらく生まれ持った能力は山本医師よりも上であると思われる。

 

ここから先は、映画には描かれていないが、確実であると思われることを書く。山本医師を作ったのは実は芳子さんなのではないかということだ。山本医師は芳子さんの成績が常に一番であることを知っていた。興味を持っていたのである。クラスのマドンナ的存在だったのかどうかはわからないが、山本医師が芳子さんに憧れを抱いていたのは間違いない。同じ人生を歩む女性の候補と考えてもいただろう。だが、成績優秀な女性を振り向かせるには、こちらも勉強を頑張って認めて貰うしかない。同じ男なのでよくわかる。「勉強が出来ない」と言われていた山本昌知が医師になるだけの学力を付けたのだから、相当努力したことは間違いない。そして結ばれることが出来た。岩井俊二監督の「四月物語」的ロマンティックな話である。映像ではそうしたことは一切語られていないが、それ以外のストーリーはあり得ない。芳子さんがいなかったら、おそらく名医・山本昌知は誕生していなかったであろう。芳子さんいう尊敬出来る女性と出会ったこと、それが山本昌知の医師としてのゼロ地点(起点)であったのだと思う。

ラストシーンで二人はお墓参りに向かう。この日は芳子さんも山本医師と一緒に歌を唄い、よく喋る。高齢と病状のため芳子さんが立ち止まってしまうと山本医師が戻ってきて手を握り、一緒に墓地へと向かう。ずっと手を握り合っている。私の想像は間違っていないと確信する。

 

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2020年5月16日 (土)

これまでに観た映画より(173) 想田和弘監督作品「精神」

YouTubeの有料配信で、想田和弘監督のドキュメンタリー映画「精神」を観る。現在、ミニシアター支援のためにWeb上に設けられた「仮設の映画館」で続編に当たる「精神0」が公開中であるが、それを観る前に前編を観ておこうというわけである。「精神0」が上映される「仮設の映画館」はミニシアター支援が目的であるため、通常料金の1800円が必要だが、YouTubeで配信されている「精神」は300円でレンタルとして観ることが出来る。ストリーミングのみの配信で期限は3日間。ダウンロードする「購入」という手段もあるが、そちらは結構値が張る。

2005年から2007年に掛けての岡山市が舞台。この時点での岡山市はまだ政令指定都市になっていない。

精神科病院「こらーる岡山」。精神科の他に、精神障害者のための事業所や相談所、居場所などが併設されているが、民家を改築したものであり、外観も内装も医療施設っぽさが全くない。院長の山本昌知医師は、精神病者の診察や交流を生き甲斐としており、開業医となってからしばらくは給料も取らずに診察を行っていて、「現代の赤ひげ」とも呼ばれていたそうである。今は給料は10万円ほど受け取っているが、他に年金の収入があるだけで、全く金銭に執着がないようである。

日本は精神病大国なのであるが、精神病者が隔離される場合も多く、多くの人は精神病者の実態について、本当のことは知らないでいる。だから、精神病棟を舞台にして精神病者が襲ってくるという内容のホラーゲームが出来てしまったりするわけだが、外見からではわからない普通に近い人も当然ながら大勢いる。精神病は頭脳のエラーなのであるが、緻密な脳ほどダメージを受けやすく、夏目漱石や芥川龍之介らも精神病には苦しんだ。この映画にも、高校生時代1日18時間勉強する生活を半年続けておかしくなってしまった人や、岡山県随一の進学校である岡山朝日高校で3年間トップの成績を続け、岡山大学医学部に入学するがやはり無理をしすぎて精神的に参ってしまった人が出てくる。彼らは今も投薬の治療を続けてはいるが、エキセントリックではあるが一般的な日本人よりもむしろ知的な印象を受ける。

統合失調症で40年間治療を受けている男性も登場するが、健常者と障害者の間にカーテンがあるだけでなく、障害者同士の間にもカーテンがあると語る。なんとなく避けたり目にしなかったりということであるが、結局のところ互いのことをよく知らずに来てしまっている。男性は健常者であっても完璧な人などいないとわかったということで、健常者とされる人も障害者とされる人もどこかが欠けているわけであり、障害者が健常者の欠けているところを補うという生き方を提案したりもする。

背景として障害者自立支援法の存在がある。自立支援というと聞こえはいいが、「もう国が障害者を保護する金はないから自分で稼いでくれ」ということである。悪いことばかりではなく、これまでは門前払いだった一般就労への可能性が開かれたということでもあるのだが、実はこの映画公開から10年後、この岡山県を舞台に一大スキャンダルが起こることになる。

舞台となったのは就労継続支援A型(A型事業所)という組織である。障害者に最低賃金を保障した上で就労訓練を行う施設で、賃金は売上金から出し、スタッフへの収入は給付金という形で国が保証するというシステムであったが、民間企業の参入を許可したことからコンサルタントを介した障害者ビジネスが発生。スタッフの人数や賃金、施設費や障害者の労働時間を抑えることで、稼げる事業がなくても黒字が出せてしまうという、仕組みの盲点を突いたもので、「悪しきA型」と呼ばれた。当然ながら国も給付金から賃金を支払うことを禁じ、結果としていい加減な経営を行っていた事業所は苦しくなり、奇しくも岡山県では大規模A型事業所が閉鎖、経営者は姿をくらまし、雇用されていた障害者は一斉解雇となり、その悪質な手口故に全国紙などでも報じられた。一部の障害者は別のA型事業所に移ったが、そのA型事業所も同様の手口を用いる悪しきA型事業所であったためにすぐに経営破綻、二度続けて解雇になる障害者も現れてしまい、「障害者を食い物にした」ということでテレビのドキュメンタリーで取り上げられたりもした。

この映画はそうした不祥事の起こる10年ほど前の障害者の姿を描いている。映像に映っている数名は映画公開前に他界されたようである。
健常者と障害者が共存するという青写真にはまだまだ遠い。

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